秦野夜話  「秦野のおはなし」
~神奈川県秦野市にまつわる歴史、民俗の話~


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(大山道の道標を訪ねて歩きイラストマップを作っている会)




 武勝美の道祖神めぐり NO6
                   山梨県 北杜市小淵沢・須玉・高根地区    2013年12月8・9日

 道祖神の分布図(道祖神信仰)を見ると、長野、群馬、静岡、山梨、神奈川など本州中央の山岳地帯周辺に集中している。これらの県
の中で、山梨の道祖神は原始的信仰を思わせる丸石、石棒・陽石を道祖神としているところに特徴がある。そして石祠道祖神も山梨特
有の道祖神である。今回の「道祖神めぐり」は山梨県の北部、長野に隣接する北杜市を選んだ。北杜市には長野の道祖神の影響を受け
たと思われる男女双体道祖神が比較的多く見られるからである。
  
1諏訪神社境内 (北杜市小淵沢町岩窪)
 石祠道祖神 二基いずれも祠内に男女双体像が祀られている。一つは二神で甕を抱えている。もう一方は握手像。
  

     


2大宮神社境内 (北杜市小淵沢町本町)
 石祠道祖神 神社裏にある二基は入母屋風。側面は唐様破風造りで彫刻がすばらしい。祠内には双体らしき像が見えた。この日は地域
の清掃作業の日だった。境内を掃いている地元の年配の方と言葉を交わしたが道祖神についての反応ははかばかしくなかった。

     
 下津金の石祠(この稿の6参照)と並び賞
せられる
 側面には三方、瓶子、御幣の彫り物 ほとんど同じ形 彫刻の完成度などを含め甲乙付けがたい 


3皇大神宮 (北杜市小淵沢町宮久保)  
 石祠道祖神 台石正面に珍しい「魚の口づけ」の彫り物がある。私には初見である。石祠の中に祀られているのは瓶子と盃の丸彫りの祝言像。
         


4八幡神社 (北杜市小淵沢町高野)  
 文字碑道祖神 神社右裏手に縦80㌢ 横67㌢ の道祖神の文字碑がある。篆書体で刻まれているが「道祖神」の文字は男女の性器を表している。
「神」の文字の下に穴があるので覗いてみると下部は空洞。女性の体内を意味しているらしい。傍に双体と単体の道祖神もある。                               

 
 

5北野天神社 (北杜市小淵沢町久保) 
 双体道祖神 神社裏手に露座の双体道祖神や石祠など十数基が祭られている。たぶん町内から集められたのだろう。その中の6塔の双体道祖
神はその形がそれぞれ異なっていて、双体道祖神像の変遷・進展を見ることができる。特に興味深いのは、①膝下を見せている男女双体像で今ま
でに 対面したことがない。②の像は摩滅が激しいので読解は難しかったが元禄三年(1690年)と読めるようだ。少し幼稚だがその作風は年代的に当
てはまる像である。駒形の衣冠束帯の神官像が2塔。その1塔はレリーフのようで鮮明に見ることができる。羽織を羽織った商家の夫婦のような双体
に道祖神信仰の身近さを感じた。瓶子を手にする像と笏(しゃく)を持つ像がすべてで、長野や群馬の道祖神のような姿態は見られない。足が見える
のも特徴。 

 
 ①裾をはしょったような姿  ②男神は笏 女神は宝珠か 駒形神官像
   
  駒形神官像     女神は合掌だろうか   祝言(酒器)像


 石祠道祖神 祠の両の扉に、三方に御幣を三本挿した瓶子を乗せた彫り物の石祠があった。石祠の正面上部に日本の大根が交叉している「違い大
根」が彫られている、「違い大根」は男女交合のシンボル。その歓喜の姿を表しているのが歓喜自在天。日本では聖天さんがこれにあたる。祈れば病気
は退散し、夫婦は和合し、子宝に恵まれる、という。道祖神が子宝の神であることを示している。祠の中の男女双体像は線刻のように見える。歓喜像で
はないが笑である。   

 


6石祠道祖神 (北杜市須玉町下津金の路傍)
 石祠道祖神「これほど立派な石祠道祖神は他にはない」(山梨の道祖神全体を調査された中沢厚さんの言葉)。高さ1,5㍍ 台石から測れば2㍍を越える。
正面は二重の破風の流れ造りで双鶴が舞う。懸魚、妻飾りなどすべて見事な彫り物。祠内には丸石と石棒。祠の前に丸石道祖神も祀られている。正面に
『道祖神』が掲額。
 近所の年配の方に話しかけたが、この石祠が道祖神の研究者や好事家にとって「価値のあるもの」であることに興味を示されなかった。「正月に注連縄を
張り神主さんが祝詞をあげる」、「ドンド焼きは行わなくなった」とのこと。手前には丸石道祖神も 。 祠の中には丸石や石棒が。

     


 海岸寺(北杜市須玉町上津金)
 西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音の合計100体の石造観音を見ることができる。100体観音は信州高遠の石工・守屋貞治の作。
  高遠の石工が道祖神を彫ることになったことに守屋は影響を与えていると説く人もいる。大宮神社の石祠道祖神は守屋の作と言われている。

7丸石・文字碑道祖神 (北杜市高根町箕輪・海道集会所横)
 丸石道祖神の台石に「衜祖神」と刻まれている。嘉永2(1849)年造立。「衜」は音読みで「ドウ」「トウ」で訓読みは「みち」。農蚕大神の碑が背後に立つ。
 北杜市でも行く先々で「動かなければ出会えない」と、出会った人や道祖神の近所の家人に道祖神祭りのことを聞いた。海道では道祖神の道向かい
にお住まいの小林敬民さんに道祖神祭りの話を聞くことができた。以下は小林さんのお話。

◇高根町海道の道祖神祭りについて
 この海道地区は40軒ほどの集落。1月14日の午後6時、セーネン(青年)4人がオオカリヤ(御仮屋)を担ぎ結婚・新築・出産・入学など祝い事あった家と厄
年の人のいる家庭を回る。オオカリヤが訪ねてきた家では酒を振舞い祝儀を出す。接待を受けだセーネンたちは、庭でオオカリヤをひねりながら三回
廻し最後に「オイワイモース」と高く差し上げる。午後8時に御田でオオカリヤを焼く。これを「ドンドン焼き」と言っている。今は若者がいないので消防団が
担いで地区を回る。
 藁で作るオオカリヤは円錐形、高さは2㍍を超える。オオカリヤは以前はセーネンが作ったのだが今は自治会で作る。オオカリヤに付けられる角(ツノ)
も藁製だが、伝統的なものなので長老が作っている。一年に二組作るので来年のものは今年のものは作ってある。
 昔は若い衆が13日に当家(その年の当番の家)に集まり夜明かし。酒を飲み、花札で遊んだりした。新人が若い衆の仲間入りをするための行事。当家
で朝6時に食事。この食事に地区内の小学生は全部招かれ、若い衆と一緒に食べる。食事か終わると若い衆は藁でオオカリヤを作る。

◇「道祖神の火事見舞い」という行事について
 オオカリヤを燃やすドンドン焼きは「道祖神さんの家が火事になる」ということ。道祖神さんが自分の家を燃やし、海道地区にはこの一年火事が出ないよ
うにしてくれる。だから、そのお礼に2月8日(この日は「事終い」の日)に、海道の家々は藁馬に餅や米を背負わせ道祖神さんに持っていく、これが「道祖神
の火事見舞い」という行事。でも今はやっていない。30 年くらい前からやらなくなった。
 地区の「お日待ち(今は月に一度の自治会の集会日)」は毎月18日だが、2月だけは「道祖神の火事見舞い」にあわせ8日に行う。地区の人が集まってお
神酒を飲むだけになってしまったけど。海道のオオカリヤは山梨県立博物館に展示されているはず。私が責任者で作ったオオカリヤ。ぜひ見てほしい。

 偶然だが、私は今年1月山梨県立博物館で小林さんたちが作った海道地区のオオカリヤを見ている。今回の道祖神めぐりも「動かなければ出会えない」
であった。

 

                                    



2013年12月1日更新

 小千谷・大崩地区の道祖神祭り
 道祖神めぐりで越後川口SAに立ち寄られたとのこと。我が家の別宅はそのSAから車で10分ほどのところにあります。先生が近くに来られるのがわかっていたら、主人とそちらに前もって出かけ、お迎えいたしましたのに。残念です。
 岩沢町の大崩地区の道祖神祭りに十数年前、一度だけ参加させていただきました。普段は静かなこの地区でも、当日は雪上運動会が行われ、大人も子供も一緒に競技を楽しみ、その後は雪中餅つき大会。それが終わるといよいよドンド焼き。松竹梅や正月飾りを高く積み上げ燃やします。そして燃え尽きると参加者全員に紅白のお餅が配られます。この雪国ならではの行事は、秦野の私たちには、とても新鮮で、本当に楽しいものでした。
 ところが、9年前大震災にあってから地区に空き家が出始め、年寄りばかりの集落になってしまいました。それにここ数年は降雪量も多くなり雪下ろしも出来なくて、つぶれてしまった家もあります。私たちがそちらに家を持ってから15年経った今、そこに生活をしている家は数軒になってしまいました。市役所の人に「大崩地区はどうなるのでしょうか」と聞いたら、消滅していく運命だろうとのことでした。    昭枝



2013年11月1日更新


KAZESAYAGE  NO132 (2013/9/19)




2013年10月2日更新

    第128話

    秦野の富士道

 世界文化遺産の富士山と秦野の富士道
 
 1 世界文化遺産としての富士山 信仰の対象・芸術の源泉。 
  登録の正式名称は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」。「構成資産」は山頂の信仰遺跡群や富士五湖などを含む25件。

 2 大山道と富士道
  富士山と大山は信仰の対象として深く結びついている。富士山の祭神はコノハナノサクヤビメ。大山はオオヤマズミノミコト。オオヤマズミノミコトはコノハナノサクヤビメ之父親である。「富士山に登った人は大山に登らなければいけない」と秦野地方では言われてきた。この二霊山を結んでいるのが富士道である。

  富士下向と富士江掛越
  一般的な「富士下向」コース
  江戸(東京)甲州街道→ 大月→ 谷村→ 上吉田(富士吉田)→ 富士山登拝→ 須走→ 御殿場→ 竹ノ下→ 矢倉沢→ 関本→ 千村→ 曲松→ 田原→ 蓑毛→ 大山
  ・「村山坊の宿帳」による1831年の夏山(6/27~7/17) 宿泊者は857人。宿泊した講中で「富士下向」7組、「富士江掛越」2組

 3 秦野市内の富士道の道標
  屈掛(不動)→ 曲松(道標)→ 堀山下・日立東門(道標・不動)→ 吹上げ念仏塚(扶桑山大神碑)→ 東田原八幡(庚申塔)→ 蓑毛才戸(道標・不動)→ 西参道鳥居 )→ 大日堂境の道標(是従不動石尊道)

 4 富士山信仰
  富士講 「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」 (御師 白装束 金剛杖 六根―眼・耳・鼻・舌・身・意根―清浄)
  
 5 富士山と芸術作品
  文学
   万葉集 竹取物語
   太宰治『富嶽百景』「富士には月見草がよく似合ふ」 武田泰淳『富士』『富士日記』 津島佑子『火の山―山猿記』 新田次郎『強力伝』『富士山頂』
  絵画と浮世絵
   葛飾北斎『冨嶽三十六景』 夏の赤富士の『凱風快晴』、荒れ狂う大波と富士の『神奈川沖浪裏』
   歌川広重(安藤広重)『冨士三十六景』
   富士を描いた画家 富岡鉄斎 和田英作
   50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル
  富士山と西洋美術
   葛飾北斎や歌川広重の浮世絵を通じ、ヨーロッパではいわゆるジャポニスムの風潮がおこり、ゴッホの作品『タンギー爺さん』には、浮世絵(歌川広重『冨士三十六景』)の模写という形で背景に富士山が描かれている

  まほら秦野案内人 武勝美のこれからの予定
         2013年10月16日  「ぶらり大山なつかし道・富士道を歩く NO1」   セブン旅・秦野市観光協会
         10月19日    「秦野歴史散歩・富士道を歩く」   丹沢ドン会・秦野市森林課

                    「ぶらり大山なつかし道・富士道を歩く NO2」   セブン旅・秦野市観光協会





2013年8月1日更新

 お隣の東小学校で「職員地域研修会」が開かれ「まほら秦野みちしるべの会」がその講師を務めた。「少雨決行」8時30分に先生方20数名を会員13人で案内開始。学校周辺の歴史的・文化的な価値のある碑や建造物を見て回った。そして10時から視聴覚教室で座学。「東地区の地名の由来と意味」を私が話した。相模、神奈川、秦野、そして東地区の大字名、更にはバス停の名称となっている小字の意味を知ってもらった。
 この研修会は、若い先生方や本校での在勤年数が少ない先生が多いこと。地域出身の先生もいない。それで地域を踏まえた授業を行うのに苦労している現実があるので開かれたのだ。 

 秦野市立東小学校校内研修会    2013年7月24日
                     
 地名が語る東地区の歴史・文化 「古道・大山道を歩く」寺山地区(東小学校周辺)
                                                      
 歩いたコース          案内人 まほら秦野みちしるべの会 
 大山道道標
 「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。
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 西の久保湧水
 「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)。大正8年(1919年)、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。記念碑がある。
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 道永塚と首切り畑
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 三界萬霊・庚申搭(宝作) ・寺山191
 宝作庭の入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に
 庚申塔の印である三猿の上半身がわずかに見える。 道祖神の表記に注目
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 天社神(宝ケ谷戸) ・寺山485
 県道脇に立つ。市内で二番目に古い建立で寛政11年(1799年)。台石に「右十日市場」「左坂本」と記されている。寺山667に立つ地神塔が市内最古で安永10年(1781年)。市内三 番目に古いのは鹿島神社境内の天社神で享和2年(1802年)
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 清水湧水池跡記念碑  ・寺山495
 東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会が建立。湧水は開発により平成16年(2004年)に消滅。
   ・久奈斗大神(道祖神)碑 ・三界萬霊塔
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 東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
 昭和60年(1985年)、新校舎が完成した記念に、東地区にゆかりのある宮永岳彦画伯にレリーフの壁画を依頼。1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。
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 円通寺 市重要文化財・十一面観音菩薩像
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 波多野城址
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 寺山遺跡と金目原遺跡
 柄鏡形敷石住居址 寺山には寺山遺跡と金目原遺跡が存在する。JA東支所と東公民館を結ぶ県道の北側の遺跡を寺山遺跡、南側で見られたものを金目原遺跡。
 東小学校の二階ロビーに寺山遺跡より出土した柄鏡形敷石住居址(縄文中期のもの)が復元・展示されている。金目原にいくつかあった古墳も今は1基(寺山28)が現存しているだけ。この古墳上に慰霊碑が建てられているが建立の根拠は不明。(建立者は関野氏)。



 講座 東地区の地名の由来、あるいは意味

 波多野氏の居住地(波多野城)
 地名から推測 竹之内(タテノウチ・舘の内)  宝ヶ谷戸(ボーゲート・棒垣外・棒垣内) サーシゲート トーノメエ(殿前) カドバタケ(角畠) トメバ(留場) ケードー(垣内・開戸) トカイト(外垣内) ゲンバヤシキ(玄蕃屋敷) 
 
 東地区の地名
 相 模
 神奈川  京浜急行仲木戸駅 神奈川小学校
 秦 野   蓑毛大日堂境内 不動堂横 仏名塔
 (大字名) 田原 蓑毛 寺山 名古木 落合
 (バス停名など) 藤棚 中丸橋 久保 才戸 九沢 井の城(紀伊守・猪之頭) 東田原下宿・上宿 谷戸入り口 中庭 清水(浸み水)
 金目川 新編相模國風土記稿 巻1 図説  加奈為可波 巻42村里部 加奈比可波 

 「秦野(はだの)」という地名の由来
 (1)ハタケ(畑)が多いから。
 (2)丹沢の山並みがハタ(幡)のはためく形に見えるから。
 (3)帰化人の秦氏によって拓かれた地だから。(秦野の郷土史家梅沢英三先生)
  その他にも次のような由来があげられている。
 (4)山の端(ハタ)に広がる地だから。
 (5)仁徳天皇は帰化人秦氏を全国に派遣し機織をひろめた。
 その人たちは波多氏と称し、居住した地は幡多郷(ハタゴウ)と呼ばれていたので。
 (6)蓑毛宝蓮寺に秦河勝が不動明王を祀った(650年ころ)。そのことから秦氏にちなんだ地名が生まれた。
 (7)ハダける(地形をあらわす古語「ハダける・崩れる」地だから。
 (8)ハタく「叩き落とす」から生まれた地形用語。秦野は大山・丹沢の崩壊地。
 
 地名「秦野」はいつから 
 秦野という地名が登場したのは明治22(1889)年の市制・町村制施行のとき秦野町が生まれ、続いて盆地内の村々が合併して、東、西、南、北、上秦野村が誕生しました。
それまでは、大きくは「波多野庄」とよばれ、曽屋村、寺山村、戸川村、落幡村、平澤村、千村など今の大字単位の大きさで村を名乗っていた。
 秦野市のホームページは地名「秦野」の由来について次のように紹介している。
 (1)秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もその1つです。平安時代に書かれた「倭名鈔」には秦野の古名は「幡多」だったと記載されています。いずれにしろ、秦野には古くから多くの人々が住みついて、困難を克服し新天地を形成していったと考えられます。
 (2) 波多野氏の発祥と発展
 承平の乱(935)をおこした平将門は、藤原秀郷によって倒されました。秀郷はその功により、東国(武蔵・下野)の国司に任ぜられ、その子孫・藤原経範が秦野盆地の原野を開墾土着し、勢力を広めていったと考えられています。この経範は波多野氏を名のりました。

 秦野は「ハダノ」、それとも「ハタノ」 ?
 今は秦野は「ハダノ」と発音・音読されているが、戦後の一時期「ハタノ」とも発音され混乱した。上の秦野市の説明にもあるように、秦野というの地名の由来や、波多野という姓を作った藤原経範にすれば「秦=波多・ハタ」ではないか。本居宣長は「秦」を「ハダ」と読むと説いている。
 新編相模国風土記稿・巻之四十二・村里部 大住郡巻之一で紹介されている「波多野庄」の「波多野」に「葉駄迺」と読み仮名が付けられている。「迺」という字は「ダイ」「ナイ」と発音する文字だが、「迺」=「乃」という意味から、仮名ふりの「ノ」として「迺」が用いられたのだ。このことは、1840年ころ波多野に住んでいた人たちは「波多野」を「ハダノ」と発音していたことの論拠となるだろう。この仮名ふりをよりどころにして、「秦野」は「ハタノ」ではなく「ハダノ」と統一された。 
 秦野という地名が登場したのは明治22(1889)年の市制・町村制施行のとき秦野町が生まれ、続いて盆地内の村々が合併して、東、西、南、北、上秦野村が誕生した。


2013年6月1日更新

 古道・大山道を歩く「路傍の神仏を訪ねて」 東地区 寺山                  2013/5/23 実施

 東公民館
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 庚申塔 (東公民館前) 上原 金山 関口 1831(天保2)年 ・東田原1525 
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 マタドの渡しと馬頭観音群
  金目川橋下流100mの川中に、大山道・坂本通りと蓑毛通りを結ぶ川中の道(踏み石)が残っていた。「マタド」に「馬渡戸」「馬渡」の字を与える研究家もいる。地形用語では「又と」で「二つの川か合流するところ」。この地はかつて金目川と中丸川が合流していたところ。「馬渡戸」「馬渡」になったのは、金目川橋の東のたもとに95体の馬頭観音が祀られているからだろう。 この馬頭観音群の中で最古のものは安政5年(1858年)に寺山村の角ケ谷戸西、二ツ澤、清水、竹之内、久保の各庭が合同で奉じた観音菩薩像。建立年代は、明治12、大正が26、昭和が30基。もっとも新しいものは昭和53年(1978年)の建立。
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 大山道道標
 「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。
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 西の久保湧水
 「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)。大正8年(1919年)、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。記念碑がある。
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 道永塚と首切り畑
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 三界萬霊・庚申搭(宝作) ・寺山191
  宝作庭に入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に庚申搭の印である三猿の上半身がわずかに見える。 道祖神の表記に注目
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 天社神(宝ケ谷戸)                      ・寺山485
 県道脇に立つ。市内で二番目に古い建立で寛政11年(1799年)。台石に「右十日市場」「左坂本」と記されている。寺山667に立つ地神塔が市内最古で安永10年(1781年)。市内三番目に古いのは鹿島神社境内の天社神で享和2年(1802年)
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 清水湧水池跡記念碑                       ・寺山495
 東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会が建立。湧水は開発により平成16年(2004年)に消滅。久奈斗大神(道祖神)碑
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 武邸の屋敷神 
 庚申塔、巳待塔、稲荷社、金精神、4体が祀られている。
 東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
 昭和60年(1985年)、新校舎が完成した記念に、東地区にゆかりのある宮永画伯にレリーフの壁画を依頼。1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。
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 円通寺(昼食)市重要文化財・十一面観音菩薩像。
  講座「波多野氏の居住地(波多野城)を示す古語」
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 鹿島神社
 祭神は「国譲り」の話の建御雷之男神・武甕雷男神・武甕槌命(タケミカヅチノカミ)。
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 (坂本道を歩く)
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 道祖神(僧形双体像)                      ・小蓑毛233
 小川直之氏は「この双体像は、像容(僧形の合掌像)からすれば寛文(1661年)から元禄(1703年)時代のもの」と推察。横畑地区では安産の神でもある。
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 大山道道標 不動明王(祠)(正)大山道 1820(文政3)年   ・小蓑毛235
 1990(平成2)年に建てられた祠。2011(平成22)年3月4日に建て替え。
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 才戸(馬返し つたや)                    ・蓑毛141
  ・大山道道標 動明王像を戴く市内最古の道標で享保20年(1735年)
  「右ハふし 左ハおた原」と記されているが、今は判読は困難。
  ・道祖神(男女双体像・市内初出) 1741(元文6)年 
  ・地神塔(五角柱型 市内唯一)               
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 地神塔 市内最古で1781(安永10)年             ・寺山667
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 東雲小学校跡碑
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 波多野城址
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 寺山遺跡と金目原遺跡
 柄鏡形敷石住居址
 寺山には寺山遺跡と金目原遺跡が存在する。JA東支所と東公民館を結ぶ県道の北側の遺跡を寺山遺跡、南側で見られたものを金目原遺跡。東小学校の二階ロビーに寺山遺跡より出土した柄鏡形敷石住居址(縄文中期のもの)が復元・展示されている。金目原にいくつかあった古墳も今は1基(寺山28)が現存しているだけ。この古墳上に慰霊碑が建てられているが根拠は不明。(建立者は関野氏)。
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 東公民館




2013年5月1日更新

まほら秦野イラストマップも特別参加
丹沢アートフェスティバル 2013

2013年4月2日更新


                         “おおやまみち” まちづくりサミット in 伊勢原       2013年3月24日 産業能率大学湘南校舎

3月24日  産業能率大学湘南校舎を会場に開かれた「第1回“おおやまみち”まちづくりサミットin伊勢原」に参加した。サミットと称するこの催しの主催は伊勢原市。会の前半は3団体による活動報告で、「みちしるべの会」は私が『富士から大山へ・富士道を歩く』の踏査の結果をパワーポイントを使って発表。
 後半は伊勢原市長と周辺の秦野・厚木・海老名・平塚市、大井町、松田町の首長さん7名によるシンポジュウムがもたれた。参加者はおおよそ400名とか。「まほらの会」からも9名。
 夕方、こんなメールが届いた。「本日、伊勢原で武先生のおおやまみちの話は大変勉強になり興味深く拝聴いたしました。私は県の第四の観光地を考えるアドバイザーをしており、認定に作業に関わりましたので出席しました。秦野市にきて30年ですが、恥ずかしながら地元のことは詳しく知りません。今後、武先生のセミナーや講演会に機会があればお伺いしたいです」。  ( 下は発表の資料)









2013年3月1日更新

 ご参加 お待ちいたしております

  「古道・犬山道を歩く」・まほら秦野みちしるべの会
   
 特別講座「道祖神・ワンダーワールド」 
                
講 師  武 勝美(まほら秦野みちしるべの会)                 
                会 場  秦野市立北公民館
                日 時  平成25年3月17日(日) 午前10:00~12:00
                   
      お問い合わせは 北公民館 0463-75-1678


読売新聞 2013年2月16日

2013年2月1日更新


 「まほら秦野みちしるべ」完成報告会に参加して

 「まほら秦野みちしるべ」に刺激を受けました                  
 
 先日はすばらしい調査報告会に参加させていただきましてありがとうございました。「まほら秦野みちしるべ」の11枚のマップは絶賛に値する、内容の濃い絵地図です。家に帰ってからじっくり見させていただきました。見れば見るほど武先生や横山会長さんをはじめとする「みちしるべの会」の皆様方の汗の潜む努力の結晶が読み取れ「すばらしい!」の一言です。~古道・大山道を歩く~というテーマで道標だけでなく野仏や神社仏閣、さらに盆地の地形であるが故の豊かな湧水の存在や明治の学舎の跡なども丁寧に拾い集め一枚の地図に集大成されていてものすごい情報量です。 
 先生の御講演の中で、大山詣りと富士講がセットで庶民の中に広まっていたことを初めて知りました。厚木市内にもいくつかの富士塚があり富士講も行われていたようですが大山詣でとの関連については調べてみたいと思います。
 その他に、以前から「軽便鉄道」に興味があり、廃線跡を訪ねてみたいと思います。地理屋さんの血が沸いてきました。
実は、私は大学では「地理学科」で自然地理学、人文地理学を学びました。その時のフィールドワークの場所の一つとして「秦野盆地」があり、盆地の地形や渋沢丘陵、そして湧水ポイントの調査、人々の生業などなど調査したことを地図を見ながら鮮明に思い出されました。
 報告会といい「まほら秦野みちしるべ」のマップといいとてもよい刺激を受けました。自分たちの取り組みを反省するとともによい勉強の場となりました。先生からも横山会長さんをはじめ会員の皆様方によろしくお伝えください。
 最後に、先生の今後のご活躍と会のご発展を祈念しつつお礼のご挨拶といたします。ありがとうございました。        厚木・森の里公民館長  三橋 敬司

  マップ 大変な労作です
 厳寒の候となりました。昨日は「まほら秦野みちしるべ」展示会と活動報告会に参加させていただきましてありがとうございました。先生のお話、たいへん興味深く拝聴いたしました。秦野市にある道祖神は日本一古い? から始まりまして思わず引き込まれました。 
 当日、ご恵贈いただきましたイラストマップは大変な労作ですね。今後、利用させていただきます。貴会のますますのご発展と先生のご健勝をお祈りしております。改めましてありがとうございました。             加藤 慎一


2013年1月1日更新


神奈川新聞 2012年12月27日


2012年12月1日更新

     イラストマップ『まほら秦野みちしるべ』展示会と活動報告会のご案内
                                                              まほら秦野みちしるべの会会長  横山 信子
                                                                 

 阿夫利嶺に一礼をして籾を焼く     勝 美 
 秦野盆地を囲む山々は、初冬の澄みきった空にくっきりとその山容を浮き立たせています。何かと気ぜわしい師走ですが、ご健勝のこととお喜び申し上げます。

 さて、私たちは2007(平成19)年の夏、次の三つを目標にした「まほら秦野みちしるべの会」を発足させました。
   1 秦野市内を通る大山道の道標の所在地を確認、記録する。
   2 市内に立つ大山道の道標マップの作成。
   3 「まほら秦野・大山道」の案内人を目指す。
 
 庶民信仰、観光の山として大山詣が盛んに行われた江戸時代、関東一円のすべての道は大山へ向かっていたとも言われています。私たちも往時の人たちと同じように市内を通る大山道を歩き、道標や道祖神を確認してまいりました。そしてこの11月、内容的には不十分ではありますが、市内7地区(旧7町村)11図のイラストマップ『まほら秦野みちしるべ』を描きあげました。あなた様をはじめ多くの方々にご高覧いただき、ご指導を賜りたく、このたび下記のように展示会を開催いたします。年明けご多用とは存じますが、ご来場くださいますようご案内申し上げます。
       
       記

  展示会     期 間  2013年1月13日(日)~ 1月31日(木)  公民館の会館は午前8時30分
           会 場  秦野市立本町公民館 ロビー   
           内 容  イラストマップ『まほら秦野みちしるべ』の展示
                 ミニ講座 1月13日(日) ・27(日)  いずれも午後1時30分から・展示会場で

                                                                     お問合せは  武 0463 (81) 4276
   

秦野市内どこからでもその端正な姿を望める大山は、このまちに暮らす私たちにとつて「ふるさとの風景そのもの」と私たちは気づいたのでした。

下のようなマップ 全11図を拡大して展示いたします






2012年11月1日更新

    第127話

 路傍の神仏 地神塔(天社神)


路傍の神仏を訪ねて NO2  大山道・羽根尾通りから矢倉沢往還(落合・名古木)を歩く       2012・9・26

路傍の神仏 地神塔(天社神)      
    
1秦野市内の路傍の神仏の造立数 (平成年代初期の調査)
 ・地神塔 93  ・道祖神碑310 ・庚申塔128  

2秦野市内の地神塔の種類
 天社神塔 59  地神塔 16 后土神塔12  その他の神(堅牢地神や埴安姫命など)6 いずれも地の神、国津神である

3天社神とは
 暦の雑節の一つに天赦日(てんしゃにち)がある。この日は天がすべての罪を許す日で最大の吉日といわれている。天赦日は一年に四日ある。その四日は次の日である。
春 つちのえとら 夏 きのえうま 秋 つちのえさる 冬 きのえね
 同じ雑節に社日(しゃにち)がある。社日は 春分・秋分に近い「つちのえ」の日で、「春は地神に豊作を願う日」。秋は「豊作に感謝する日」となっている。
 社日の「社」は土の神の意 この天赦日の天赦と社日の社が一緒になった神として天社神が存在するようになった。

 造立年代を調べてみると市内で最も早く造立されたもの 
 ①寺山久保1781年  ②寺山宝ケ谷戸1799年  ③寺山鹿島神社境内1801年  いずれも寺山地区内である。
 后土神塔12基の内水無川の右岸地区に造立されているものが11という特徴を持つ。
 地神は国津神で具体的には、天照大神 大己貴神(大国主命・大黒様) 倉稲魂命 埴安姫命 少彦名命を表している。蓑毛141の五角柱地神塔には次の神が祀られている 1天照大神 2大己貴神 3倉稲魂命 4埴安姫命 5少彦名命

 天社神碑のいくつかには「天」は異体字がみられるのも興味深い。


蓑毛才戸の五角柱の天社神( 天照大神と記されているもの)

2012年10月1日更新

    第126話

 道祖神の里・倉渕からのお誘い






012年9月1日更新

    第125話

  秦野市上地区を訪ねる

  ~上地区探訪記
                                          浦田江里子

 例年なら梅も満開の頃だろう。山々はしっとりと冷気に覆われ、里の景色は白っぽく霞んで見えた。遅い春を待つある日、小宮茂平治さんの案内で上地区を歩いた。

 秦野市の西端に位置する上地区は、江戸時代は小田原藩、明治時代は足柄上郡に属し、秦野市でありながら、文化や地域性はその独自のルーツに由来している。
国道246号から山側、四十八瀬川より西側に区切られた地区は、ちょうど中間地点あたりに、かつての役場や診療所の建物が残る。村の中心から三廻部、柳川、八沢、菖蒲各地区へ伸びる道があり、これらはほぼ昔の道を踏襲した道(舗装されているが)という点で、とても稀少である。70歳を超えた小宮さんが、子どもの頃、お使いに走り、神輿を担ぎ、月明かりに夜道を帰った同じ道筋だという。道は、松田への生活道~弥勒寺道(寄往還)へ、塔ノ岳への信仰の道~尊仏道へも続いている。

 辻には昔の姿のまま、道祖神が村を見守っている。竹の柱、杉の葉葺きの屋根の小さな小屋に住む道祖神である。その竹は青く、杉の葉は深緑。ずっと昔から、一年一度,祭りの時期に小屋は作りかえられる。

 焼失した寺跡の不動院には、小さなお堂に50センチほどの白体不動尊がある。風雨に耐えたお堂の縁台は朽ちて傾き、建物はたいそう古びてはいるが、それでも荒れ果てず、明るい参道と静かな境内に心安らぐのは、由緒あるこのお堂を大切に守り続ける人たちがいるためだ。この日も、数人の人が草むしりに精を出していた。「誰かに言われたわけでもない。村の神さまを守るのは今も昔もここに暮らす人にとって当たり前のことなのです」。朴訥で、まじめで、地道な、人々の心持ち。

 「住吉さん」(住吉神社)への急な坂道を登り、振り返ると、山に囲まれた秦野盆地がちょうどいい高さから見渡せる。標高350メートル。峠の道から突然拓けたこの場所で、通りがかる人は何を思ったろうか。道の先に人々の営みを遠望し、眼下に辿る道を見る。感慨と安心感を生むのは今も昔も特別なことではないだろう。

  一軒の家の脇に私道かと思える道がある。「この道は三廻部への本通り。今も公道です」と小宮さん。逆コースを歩いてみると様子がわかる。確かに三廻部から村の中心部へ向かう最短の道筋である。多くの家は立派な家に建て替えられているが、生活に根ざした道は残り、そのまま使われている。

 上地区を横切るように、数年後に第二東名が走る。土台だけ残された家の残骸が新たな道筋を作っている。この坂道も、あの雑木林も、今、ここにあるもの全てが作り出す空気もなくなってしまうのだろうか。変わりゆくこの地に、かろうじてお不動さんは住み慣れた場所にとどまるという。


012年4月1日更新

    第124話

  東地区の道祖神を訪ねる

  大山道を歩く 路傍の神仏・東地区の道祖神・を訪ねて NO12012/4/6に実施予定・参加者30名)
                                                                        講師    勝美

 秦野市内の道祖神碑は320を超える。市内の道祖神碑は、古くは寛文9(1669)年に造立された双体道祖神(戸川701)から2010年4月17日に名古木・道場自治会で建てられた文字碑まで、今も変わらず庶民の信仰の対象となっている。碑のほとんどが小字(昔でいう「庭」)で造立され、1月14日には道祖神祭り(ダンゴ焼き)が行なわれている。東地区では45基が確認されているが、ここではその中で注視したい道祖神(今回の講座で訪ねる)を挙げてみる。

 1 道祖神(自然石・文字碑) 文化3(1806)年 東田原1533

  ※「(右)いせ原□ (左)大山道」と記されている。道祖神が道標を兼ねる。

     




 2 道祖神(自然石・文字碑) 天保15(1844)年 東田原1413

 ※造立者は「道切氏子中」。道切講が八幡庭に存在していた。

     





 3 道祖神 (自然石・文字碑)   弘化4( 1847)年  西田原897
  堂々とした文字。碑は125×79×60㎝    

     




 4 猿田彦塔(自然石・文字碑) 文政10(1827)年 西田原902

※「猿田彦大神」と記されているので、庚申塔とみる研究家もいる。

     

猿田彦神(さるだひこのかみ)は、天孫降臨のとき天の八衢(やちまた)に出迎えて先導した。

 


 5 衢陸神 (自然石・文字碑)  文政2(1819)年  東田原162

 ※「クリクジン」と読むらしい。衢の文字は略字。

 同じ略字体のものが 西田原1220に衢祖神(兜巾型)文化7(1810)年と落合30に衢祖神(兜巾型)嘉永3(1850)年がある。 

   

   ◇衢祖神(チマタガミ)

     道の分岐点を守り邪霊の侵入を阻止する神。また、旅人の安全を守護する神。道祖神。さえのかみ。というところから》の異称。

     《天孫降臨のとき、天の八衢(やちまた)に出迎えて先導したというところから》猿田彦神(さるだひこのかみ)の異称。




 6 道祖神(舟後光型・男女双体像) 元文6(1741)年 蓑毛141

  ※男女双体像としては市内で初出。

     

  この地には浅間大神塔 道祖神(上記) 庚申塔 五角柱地神塔 地神塔が立つ。さらに近くに市内最古の大山道道標(不動明王像・享保201735年)もある。 

  まとめ 東地区では45基が確認されている。市内の道祖神の神名の多くは「道祖神」。東地区も同じ傾向。・4の「猿田彦大神」は市内唯一である。

  ・「衢陸神」は市内で東地区の東田原、西田原、落合の3基のみ。

  ・「道陸神」は市内に6基、その中の3基が東地区に立つ。

  このように東地区は道祖神の宝庫とも言える。「舟後光型」「兜巾型」「櫛型」や自然石の道祖神などいろいろな型を見るのもおもしろい。

  
  どうぞ時間を見つけ、またこれらの道祖神さんに会いにお出かけください。そして、ここに挙げた以外の道祖神さんにもたくさんお会いしてください。


  第2回は11月を予定しています。

                                     http://mahora-hadano.sblo.jp/





2012年3月1日更新

    第123話
  人穴浅間神社 富士宮市

 富士講の聖地 人穴浅間神社を訪ねる  (2012年2月8日) 




鳥居は富士に面している この日は雲がかかってしまって

 名高速道の富士インター → 西富士道路 → 国道139号 → 県道71号をおよそ25km、40分ほど走ったところに人穴浅間神社(富士宮市人穴208)がある。祭神は木花開耶媛命(コノハナノサクヤビメノミコト)、そして藤原角行と社頭の案内板に記されていた。木花開耶媛命は富士山の祭神、それと伍して祀られているのが藤原角行。
 藤原角行とは、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行藤仏(天文10・1541年~正保3・1646年 長谷川角行・藤原武邦とも称した)という行者。江戸時代「江戸八百八町、八百八講」といわれたほど隆盛を極めた富士講は角行によって創唱された。
 角行は人穴で千日間立ち行の末に悟りを開いたといわれ、さらに数々の難行苦行を行い、庶民の信仰を一身に集めた。富士山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき人穴で入寂したと伝えられている。




人穴浅間神社の社殿

 人穴神社に着いたのは午後4時ころ。まだ成木とはいえない杉林の中に神社はあった。参道で行き会ったの地元のテレビのクルー5人だけ。後で書くが、遺跡復旧のレポートのためか、それとも心霊スポットの取材なのか。人穴浅間神社は昭和17年、時の軍部により人穴地区民とともに強制移転をさせられた。そして昭和29年、ようやくこの地に戻ることができた。神社の森が若いのはそのためのようだ。富士講の碑塔が忘れ去られたような姿も強制移転によると思った。


角行が修行した洞窟

 人穴浅間神社の境内右手に溶岩洞穴「人穴」がある。記録によれば「主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。洞内には江戸時代に作られたとされる石仏が安置されている」とある。最奥からさらに細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もある。江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講信者は富士登拝をすませると人穴に参詣にやって来て、宿泊したとされる。


墓石とおもわれるものもかなりある


富士山が彫られているのも富士講碑の特徴

 境内の左手には富士講の記念碑・供養碑などの碑塔が林立している。その数約230基。造立者には江戸、安房、上総、下総などの住人もいて往時の富士講の隆盛のしのぶことができる。


 富士を拝み、富士山霊に帰依する

 その碑塔が立つ場所は縄が張り巡らしてあり「立ち入り禁止」となっていた。2011年3月15日、静岡県東部を震源とする震度6強の地震が、碑や塔を崩したり傾けたりしたからだ。人穴も覗くことはできなかった。富士宮市はこの人穴富士講遺跡の復元に入っているらしく、参道の入り口近くに教育委員会の事務所が設けられていたが人影はなかった。
  秦野市内に現存する富士講碑、浅間大神塔などは20基を超えている。秦野を通る富士道がたどり着くところがここ人穴。「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という分かり易い教えの富士講。白装束に金剛杖で六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)清浄を唱えながらひたすら富士を目指した人々。それは一種の新興宗教のブームのようなものだったのかもしれない。しかし、ひたすら修行を重ねた人々の心は清らかだった。
 人穴地区の氏神だった人穴浅間神社は、昭和17年、国の命令で地区民とともに強制移転させられ、昭和29年ようやくこの地に戻ってくることができた。
時の流れ、生活や文化の進歩、変転がもたらしたものとはいえ、ここに心のよりどころを求めた人たちの今の姿・塔碑は哀しいものにしか見えない。だが、それはまた百数十年を超えた今も、信仰に生きる人たちの確かな心・姿を私に伝えてくれた。夕陽に染まり始めた富士を帰り際に見ることが出来た。

資料にみる「人穴」
『吾妻鏡』   源頼朝が富士の巻狩りの際、仁田四郎に人穴探索の探索を命じられた。だが人穴で従者4人が突然死し、やっとの思いででてきたという記述がある。
『御伽草子』  『富士人穴草子』では「人穴は地獄である」と綴られた。人穴が恐怖の対象として見られていたことが分かる。
         これらが今「心霊スポット」として知られていることにつながっているのではないか。もちろん、現在の人穴神社の風景が生み出す雰囲気も心霊スポット的であるが。



2012年2月1日更新

    第122話
  戸川原の双体道祖神                         





上の記事にある国内最古の双体道祖神


2012年1月1日更新

    第121話
  1月14日はダンゴ焼き(道祖神祭り)  
  
紙芝居 目一つ小僧                       

 秦野地方の道祖神祭り(通称・ダンゴ焼き)には「目一つ小僧」がかかわっています。私の住む秦野市寺山の清水・東の原子供会は、14日の夕方の「ダンゴ焼き」が終えた後、あずま荘に集り紙芝居で民話「目一つ小僧」(下)の話を聴きます。紙芝居のあとは楽しい夕食会です。


構成・武 勝美   絵・関 智子

2011年12月2日更新

    第120話
    大山道のイラストマップ展                           

 「大山道を歩く」 イラストマップ展


神奈川新聞 11月9日
    

 おはようございます。今朝の神奈川新聞で「マップ展」の記事読みました。私も昨日、マップを見せていただきました。
 すごい出来ですね。昭和10年の頃の今川町通りの詳細な家並みの図、子どものころの映像を思い描きながら見ていました。すると私の子どもの頃にもあったお店を見つけました。「あった、あった、この家、このお店」と、思わず声が出てしまい、周囲を見まわしてしまいました。「大工」と書いてあったので、「旧道のここにも大工さんがあった(私のおじいちゃんの家)。ここが材木屋でここが駄菓子屋」とつぶやいたりもしました。ご年配のご夫婦も見学されていて感激されていました。置かれていたノートに「マップが欲しい」書かれていました。私も欲しいです。会の皆さんといろいろな場所を見て回りたいです。   明美


まほら秦野みちしるべの会よりご案内

 「大山道を歩く」 イラストマップ展   期日 11月5日(土)
 会場 秦野市立東公民館(公民館祭り参加)  
    ミニ講座 5日(土)13時30分~14時
    「東地区の道祖神めぐり」
 
2 「大山道を歩く」 イラストマップ展   期日 11月6日(日)~13日(日)
 会場 秦野市立本町公民館  
    ミニ講座 6日(日)「大山道のイラストマップについて」
              7日(月) &13日(日)「大山道を歩く 路傍の神仏」
    (いずれも13時30分~14時)


2011年11月1日更新

    第119話
      大山道の道標                           




2011年10月1日更新

    第118話
  秦野の民俗 お盆の「つじ」の語源                           


わが家のつじ

 お盆の初日・7月13日、祖先の精霊を迎えるため、門口で迎え火を焚きます。秦野地区では、その側に砂盛(辻)を作り、近隣の方々が線香を立て巡回しています。かつて、この砂盛は子どもたちが作りました。
 今年の5月、「まほら秦野みちしるべの会」の武勝美先生をお招きし歴史講演会を開催しました。講演後の懇談なかで、会員が寺山地区の砂盛(辻)を調査したところ、形が変わってきている。堀山下も調査をしたらと勧められ、調査をすることにしました。地域の皆様にご協力をいただき進めました。
調査をしてみると、竹を使わず木枠のものが多くなりましたが、丸棒で組み合せるなど、創意と工夫のあとが感じられました。今回の調査結果が次回製作の参考になって、地域の伝統行事がいつまでも長く続くことを願っています。  一味ちがう郷づくりの会会長  仲戸川 賛治


語源考「つじ(辻、津慈、築地)」                    武 勝美

 地名用語語源辞典によれば、「つじ」という言葉は次のような場所を指している。             
1 峰 (島根県、熊本県阿蘇郡)
2 頂上(島根県、香川県ほか)
3 山の頂上(和歌山県、長崎県大村ほか)
4 低い山の頂上(大分県由布院)
⑤ こずえ(対馬)
⑥ 先端 サキ(島根県石見)
7 山道の合した所(奈良県吉野郡)
8 道の追分(長崎県)
9 四つ角 四つ辻(名古屋、京都、大阪、和歌山市ほか各地)
10 相撲場 土俵(山梨県)
11 市場(石川県金沢)
12 石を積み重ねた所(富山県五箇山)
 
地名用語『つじ』の語
 1~6は「人の頭にある旋毛」をいう『ツムジ』から生まれ出た、分かれてできた言葉・語。7~9は「十字」の字音・発音(シュウジ)が転訛・変化したものとされてきた。だが「1~4と7~9は相通ずるものがある」と言っているのが『地名用語語源辞典』。以下はその論である。
 日本では、神武東征伝説中の熊野・錦浦上陸記事に示されるように、上古からごく近年に至るまで徒歩による最良の交通路は尾根筋であった。その尾根筋を行く道は「ツキ(「高所」)・ミチ(道)」と呼ばれていた。尾根筋が合う頂上は「ツキ(「高所」)・チ(接尾語)」である。市街地で発生した9の意義が転じて8、7となったと考えるよりも、1~4→7→8→9と転じたとみるほうが自然であろう。「十字路」のことをわざわざ「四つ辻」ということについての納得もいく。『辻』が「十字路」を意味するようになったのは「辻」という国字(文字)が生まれ、シンニョウの中の「十」にとらわれたからであろう。10も「高くなった所」の意。12はツキ(築)・チ(地)が語源。 10、12はいずれも高い所を表す言葉・語。
 
 人は初め山に住み、そして平野に下りムラを作った。それから考えれば「四つ角・四辻」から、1~4のような言葉・語が生まれたとは考えにくい。
 私の住む秦野市寺山清水に「つじ」と呼ばれている家があった。(故武完宅・現東中学校校庭の一部) その屋敷があった地は「四つ辻」の一角ではなく、「丁字路」の「―」の後ろだった。丁字路は大山道坂本通と大山道蓑毛通を結んでいて、「つじ」と呼ばれる家は、東側は高さ5mほどの崖があり、西は2㍍ほどの高さの平地が蓑毛通に接していた。「つじ・辻」とは「高いところ」をあらわす語と考えたい。お盆の帰ってくるご先祖様に、わが家がよく見えるように目印としてつじを作る、高く、高く。。



2011年9月1日更新

    第117話
     道祖神めぐり 
       
群馬・倉渕地区と長野・穂高地区    

 路傍の神様・道祖神は西日本に比べ東日本に多く祀られている。そして中部地方と関東地方にその分布が目立つ。そして長野・群馬・神奈川には双体道祖神が多く造立されている。
 今回訪ねた群馬・倉渕地区(旧倉渕村)と長野・穂高地区(旧穂高町)は双体道祖神のメッカと言われている。 『ギャラリー』に道祖神の写真を掲載している。そして『マンスリーエッセイ』のページにその旅日記を記した。


 
011年8月1日更新

    第116話
     お盆のつじ    


   




 秦野本町地区のお盆は旧暦で行なわれている。上に掲げた3枚の写真はいずれも本町地区のツジ(昨年)である。



2011年7月2日更新

    第115話
  今泉神社境内の富士登拝記念塔   
  
大井町郷土史研究会の公開講座(2011/6/21)  



大井町郷土史研究会の公開講座 「大山道と里人の暮らし」


富士登拝記念塔 今泉神社 (秦野市今泉314)境内

富士講とは
 2008年まで秦野市東田原では、富士講(扶桑教・講中5人)による筒粥神事が行なわれていた。筒粥神事が民間信仰である富士講によって行なわれているのは全国的に見てもきわめて珍しい。
 富士講は富士信仰の一派で、江戸時代初期に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏いう行者によって創唱された。富士講は地域社会や村落共同体の代参講という性格を持っており、江戸時代後期には、「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどの流行となった。
 富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、御師は関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国の富士吉田は北口本宮冨士浅間神社とその登山口があり、江戸や関東各地からの参拝者でにぎわい、最盛期には百軒近く御師の屋敷が軒を連ねていた、と言われている。 明治以後、富士信仰の諸勢力を集め国家神道にしようとした扶桑教などが出現した。

富士塚がよりどころ
 信仰のよりどころとして富士塚という、石や土を盛って富士山の神を祀った塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田(東京都練馬区)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。
 秦野近辺では、開成町の円通寺観音堂境内に富士塚を模した石積み(高さ130㌢ 幅640㌢)が見られる。その頂上に浅間大神碑、右に朝日仙元嶽、小御嶽岩長姫神 左に宝永山浅間ケ嶽、前に垢離の石が配置されている。

今泉神社境内の富士登拝記念塔 
 秦野市今泉314の今泉神社の境内に立つ富士登拝記念塔(丸岩講の富士講碑)には、富士講が行なう富士登拝のようすが具体的の記されている。富士を模した自然石の富士登拝記念塔の碑文は
 (正面)中道十四 三十三度 八湖成就  富士山の刻影 丸岩講の文字
 「中道十四」富士五合目あたりを一周する道を「お中道・おちゅうどう」といい「お中道めぐり」を14回修行
 「三十三度」富士登拝(登頂)を33回 33という数字は、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて33の姿に変身する 
 「八湖」富士登拝を行うときには富士周辺の霊地を巡ることになっている。特に『八海』(下参照)と呼ばれる湖や池沼をめぐり、水行(水垢離)をおこなう。ここに記されている「八湖」は 「八海」のことと推測できる。
 「成就」「富士登拝 中道 八湖めぐり」を成就
 (裏面)明治十九季十一月 小社長 小泉治平 世話人
      「季」は年の異体字

富士講の「八海めぐり」
 富士講では「八海」と呼ばれる湖や池沼をめぐり水行(水垢離)を行うことは重要な修行とされた。八海には富士山周辺の「内八海」(「富士八湖」ともいう)、「元(小)八海」(現忍野八海)と、関東から近畿地方に広がる「外八海」とがある。
内八海
 泉水湖(せんづのうみ)泉端・富士吉田市、山中湖・山中湖村、明見湖(あすみのうみ)・富士吉田市、河口湖・富士河口湖町、西湖・富士河口湖町、精進湖・富士河口湖町、本栖湖・富士河口湖町、志比礼湖(しびれのうみ・今は四尾連湖と表記)・市川三郷町
外八海
二見海(二見浦)・三重県、竹生島(琵琶湖)・滋賀県、諏訪湖・長野県、榛名湖・群馬県、 日光湖(中禅寺湖)・栃木県、佐倉湖(桜ヶ池)・静岡県、鹿島湖(霞ヶ浦)・茨城県 、箱根湖(芦ノ湖)・神奈川県

東田原富士講中の七浅間参り
 東田原の富士講は、富士山に登拝する代わりに近辺の富士山講の神である浅間参りを行なっていた。それを「七浅間参り」と呼ぶ。
  七浅間=東田原・朝日神社浅間社石祠、羽根・須賀神社浅間大神塔、曽屋念仏塚・扶桑山大神塔、宮上・金毘羅宮浅間社石祠、落合・浅間社石祠、寺山・鹿島神社浅間大神塔、蓑毛才戸・浅間大神塔

秦野市内の富士講に関する建立物
 上大槻 小島宅(浅間大神塔)、上大槻・菅原神社(浅間大神塔 2 浅間社石祠)、蓑毛御坂(浅間社石祠)、南矢名・八幡神社(富士講碑)、下大槻・健速神社(浅間社石祠)、今泉・今泉神社(浅間大神塔 浅間社石祠)、平沢・向山配水場(浅間社石祠)、平沢・小原(浅間大神塔、栃窪・栃窪神社(浅間大神塔)、渋沢・二つ塚(富士浅間大神塔 富士講碑)、曲松・稲荷神社(浅間社石祠)、曽屋・念仏塚(扶桑山大神塔)、柳川・御霊社(浅間塔)、戸川990-4(仙元大神塔)、羽根・須賀神社(浅間神)、蓑毛・才戸(浅間大神塔)、寺山・鹿島神社(浅間大神塔)、東田原・朝日神社(浅間大神石祠)、西田原・金堀(浅間社石祠2)、落合184(浅間社石祠)
 これらの建立碑は、その地に富士講が存在し、隆盛を極めたことを表しているとも言える。


左から 浅間大神碑 富士をイメージする石 登拝記念塔(いずれも自然石

2011年6月1日更新

    第114話
  地名・名古木は「ナガヌキ」と読むのだが  

 地名・名古木のルーツを示す庚申塔(名古木247番地)
                             武 勝美

 千昌夫の知られている歌の一つに「味噌汁の詩」がある。「へぇーそおか おまえさんも東北の生まれか」というセリフが入る歌である。
 2009129日、JAはだの主催の「千昌夫ショー」でのこと。その日も千さんは「味噌汁の詩」を歌った。そしてセリフの「東北」という部分を『ナガヌキ』と入れ替えた。会場がドッと沸いた。入れ替えられた『ナガヌキ』は秦野市の東地区の一地名で、難解な地名の一つとしてネット上でも取り上げられている。『ナガヌキ』を文字にすると「名古木」。「名古木」を『ナガヌキ』とは読めない!
 『新編相模國風土記稿』は「名古木村」を「奈古乃幾牟良」と振り仮名を付けている。風土記稿が編まれたのは天保121841)年だから、その時代「名古木」は「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ばれていたことになる。同書に「古は并椚村とも書す・玉傳寺、慶安2(1649)年の御朱印及鐘銘等に見ゆ、其唱は同じ」とある。
 今からおおよそ320年前の貞享51688)年、名古木247番地の路傍に庚申塔が造立された。その塔の左面に造立者名と地名が刻まれている。地名は相州大住郡并椚村とある。
 并椚村の『并』は『幵(パソコンではこの文字が対応)・正字は 』の異体字で『並ぶ』に近い意味を持つ。漢和辞典(新明解・第一刷)では『并』は『並』と同じ部首にある。だから『并』=『並・ナ』と読んだ。『椚・クヌギ』は古くは「クノキ」とも読まれ(呼ばれ)ていた。碑文の「并椚村」は「ナクノキムラ」と読むことができる。
 『大山不動霊験記・寛政4年』は寛永時代(1624年)から寛政4年(1792年)までの大山不動の霊験あらたかな話が131話収められている。その中の第93話は『相州長軒村』市五郎の話である。この書の研究者は長軒村を名古木村としている。この書の成立年からすれば、寛政4年(1792年)には名古木は「長軒(ナガノキ)」と呼ばれていたと推測できる。
 
 今、読み方が難しいと言われている「名古木」は「并椚・ナクノキ」→「長軒・ナガノキ」→「奈古乃幾・ナコノキ」と変化し「名古木・ナガヌキ」に至った。

地名『并椚』はどういう意味を持つのか
 古の人たちもまた、われわれと同じように家と外を区別するために門を作った。そして門のことを「区の木」と呼んだ。門に使われたのは里山に自生している木だった。その「区の木」として使われた木がクヌギと呼ばれるようになった。「椚」は「区の木」当て字・国字である。
 『并』は『竝=並』に近い意味を持つ。(『并』は縦並びを意味する文字)。地名『并椚』は、「区の木」が並んでいる、奥の方に家が並んで建っている様を表している。
 「名古木」を「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ぶとき、「ナコ」は「和やか・穏やか」。「キ」は場所を表す語。あわせると「ナコノキ」はなだらかな地形の場所と説明できる。

「并椚村」と刻み込んでいた庚申塔が、311日の東北地方太平洋沖地震で倒壊。二つに折れ、地名の部分は剥落し粉々になってしまった。410日、地元の人たちによって塔は修復された。

    

                    名古木247番地の庚申塔(平成8年ころ)   修復された庚申塔(平成234月)





2011年5月1日更新

     第113話
 大山道を歩く
 
 路傍の神仏を訪ねて
 
 

秦野市立東公民館事業  大山道を歩く  路傍の神仏を訪ねて(第1回)2011/4/4

 オリエンテーション「先人たちの深い思いを秘め路傍に佇む神仏」 講師 武 勝美
  路傍の神仏は庶民の心のよりどころ 全国でもっとも多いのが庚申塔
  秦野市内の石仏・石神(平成13年調査)
 ・地区別所在数
  東地区560  西380 南380  本町370  北310 大根 210  上210   鶴巻100
 ・石仏石神の種類
 (1) 道祖神碑・凡そ320(双体180)  (2) 庚申塔・凡そ130  ( 3) 地神塔・凡そ100 
  
(その他)富士講碑・凡そ30 馬頭観音碑・凡そ420(牛頭観音2)



タウンニュース紙(2011/4/23



2011年4月1日更新

     第112話
  新しい祠に入った大山道の道標
           秦野市小蓑毛235
 

 次は平成16年に上梓した『寺山ものがたり』の序文の一節である。

寺山には大山道が二本通っている。江戸時代には、夏ともなれば大山詣での人々でにぎわっただろうこの寺山。今から22年前、長男の夏休みの宿題に大山道の道標を一緒に調べて歩いた。その道標の一本が横畑の先に立っている。不動明王を戴いた高さ125㌢ほどの道標兼僕養塔である。本稿のために昨秋再訪してみたら、この道標は立派な小屋の中に納まっていた。傍らの松下家に聞いたら、「ハイキングの人たちがこの不動さんに上げるお寮銭を、ウチのおばあちゃん(松下カヨさん)と武さんのおばあちゃん(武ミエさん)で預かっていた。『お不動さんも雨風に打たれて大変だろうから』と二人は相談してそのお金で小屋を建てることにしたが、お金はほんのわずか。ほとんど武大工さんの持ち出しでできた小屋」で、1990年(平成2年)の春にできた。寺山とはこんな人が住んでいる地だ。

 その小屋の話の続編


武義雄さんは、私が祠のことを「寺山ものがたり」で紹介したので、「知らん顔もできない」と思ったのだ。あらためて私は書く「寺山はこういう人が住んでいる地だ」。

2011年3月1日更新

     第111話
 あしがり学校特別コース
 
 「歴史を刻むふるさとの道」 

 ご案内 
       あしがり学校特別コース「歴史を刻むふるさとの道」
        ・日  時    3月18日(金) 第1回 矢倉沢往還   講師  柏木 実
                3月23日(水) 第2回 足柄古道    講師  足柄歴史発見クラブ
                3月25日(金) 第3回 大山道      講師  武 勝美
                        (いずれも13:30~15:00)
                ※3月15日(水)~27日(日) まほら秦野みちしるべの会作成の「大山道イラストマップ」を展示します。
       ・会  場    あしがり郷「瀬戸屋敷」  開館時間 10:00~17:00  所在地・足柄上郡開成町金井島1336
       ・問合せ先  ℡ 0465-84-0050
 

2011年2月1日更新

     第110話
 
大山道羽根尾通り 
 大正・昭和時代の台町の話
 


 「台町の今昔」に学んだこと
                                                 まほら秦野みちしるべの会  浦田江里子

 台町自治会・長寿会共催で行われた「皆で語ろう台町の今昔」に参加した。10年前に行われた語り部の会に続く第二弾とのことである。「昔から住み続けている人も少なくなり、年を重ね、台町の良さを知るにつれ、心寂しくなっていく。10年前、長寿会の方に語っていただいたビデオ映像は今になってとても貴重と感じる。知らなかったことを知って、後世に受け継いでいこう」と、主催の自治会長さんのあいさつがあった。最高齢94歳の清水さんの自伝的語りも味わい深く、地域の歴史を刻んできた人々の思い出語りに耳を傾ける穏やかなひとときだった。

 帰宅後、自治会長さんが丹精こめて作ったと思われる資料をじっくりと見た。現在の地図上にかつての賑わいの跡が記されている。様々な場面を切り取った写真には、私の知る秦野とは違う街が見える。三角屋根の駅舎、大山遠望の鉄道、入船橋の夕涼み、なかなか風情ある景色ではないか。
「軽便鉄道台町駅」 交通の歴史を垣間見る馬車小屋や人力車営業所跡も地図には記載されている。大正2年、馬車に替わり誕生した軽便鉄道は、葉たばこ、落花生、秦野木綿などを運ぶ秦野の産業の担い手であった。ひっくり返れば大人が寄り集まって車両を起こし、坂にかかれば乗客が降りて後押しする。ガキ大将の指揮のもと、置石して汽車をとめては車掌に追いかけられるやんちゃもいたし、沿線で夏は氷、冬は蕎麦を売る人もいた。「遊んだ記憶はあるが乗った記憶がない」と参加された方々。それなのに、軽便鉄道にまつわる話は尽きず、一様に笑顔がこぼれる。町をぬって走る小さな汽車が、暮らしの中で生き生きと活躍しているようすが目に浮かぶ。
「秦野座」 今で言うなら文化会館! 歌舞伎役者が往来し幟はためく地域の拠点。芝居がある日は商店街も遅い店じまいで一層活気づいたという。この堂々たる外観で、秦野座は人々のエネルギーを生み、発散させてきたに違いない。しかし、戦後はアパートに、昭和60年には解体された。時代の流れに抗うことはできなかった。
「青物市場・魚市場跡」 市場は生活の基盤。馬車・牛車が行き交う街道では、馬糞、牛糞を踏まずに歩くことにずいぶんと神経を使ったというのは実話である。
金目川から分かれる今はない「井守川」。川を利用して作られた50mプールがあったという。底はコンクリートで固めてあるものの、川であることには変わりない。魚と一緒に泳ぎ、水の冷たさは半端でない。10年間のプールの歴史には、ロサンゼルス五輪出場選手も泳いだという華やかなエピソードがある。
 私が思わず見入ったのは、昭和初期の曽屋神社祭礼の写真。台町の山車をバックに90人ほどの法被姿の子どもたちが写っている。紅白に飾られた柱、幕、しめ飾り、ちょうちん、晴れ着の女の子、うちわ片手の男衆。一年一度の大祭に、緊張感と気合が見える。全盛期には近隣の町村から50万人が参集したとは本当だろうか。この日ばかりは軽便鉄道も大増発して満員御礼であったらしい。南地区出身の友人の話が頭をよぎる。曽屋神社のお祭の日は一族そろって神輿の宮入りに立ち会うのが子どもの頃から恒例で、結婚した今も、これは何よりも優先するのだと。熱い思いを引き継ぐ人も僅かながらいるようだ。
 年齢とともに強まる思い。それは、郷愁、寂寥、焦りさえ覚えるほどの、自分のルーツ、環境への愛着かもしれない。住み続けている場所ならなおさらだろう。会の最後に紹介された梶山家(立花屋茶舗)系図(30年前、小学生だった息子さんが調べたという)は、一つの家族の歴史を辿るものだが、家族の歴史は同時に地域の歴史を伝え支えるもの、と気付かされた。
 私を育ててくれた風景を懐かしく感じ、受け継いできたものを大切に思い、これからもずっと、これまでと同じように我が子に語り、示していくことを大事にしなければならないな、と会の趣旨に賛同しながら、学び、再認識したのである。 (記・2011年1月23日)



2011年1月1日更新

     第109話
 
大山道と里人の暮らし 
「男女相体道祖神はサルタヒコとアメノウズメノミコト」 こんな話もしました   JAはだの組合員講座(2010/12/20)


「大山道と里人の暮らし」のプロローグ

 会津若松市の宮泉銘醸・会津酒造歴史館の神棚に大山阿夫利神社の鎮火のお札があった。大山信仰は関東一円はもとより、福島、新潟、長野、山梨、静岡、そして八丈島まで広がっていた。

 大山阿夫利神社の「阿夫利」の語源
 ・雨降り(煙草音頭五番は「干した煙草は濡らしちゃならぬ 阿夫利山から えーなんとしょ 雲が出る」) ・はふる(葬る・祖霊を祀る)から阿夫利 ・荒ぶる神から阿夫利 ・アヌプリ(アイヌ語で偉大なる山)
「大山」は主神である大山祇命から起こった名称である。

 大山信仰の性格
 蓑毛大日堂境内に道標がある。それには「従是不動石尊道」と記されている。「不動」は雨降山大山寺。大山山頂には巨大な自然石があり「石尊様」として信仰されたこと。大山阿夫利神社奥の院を指している。
 (1)農耕の神・雨乞い(雨降山)
 ・二重滝(鈴川の源流)の水で雨乞い神事をおこなう。二重神社は、水をつかさどる(降雨止雨)タカオカミノカミが祀られている。
 (2)漁業・航海の神 阿夫利山に雨が降ると、相模湾に驟雨が来る。すると魚が集る。大漁になるとマイワイ(万祝い・漁師の晴れ着)を着て登拝する。不漁の時はマンナオシ(間直し・験直し)をするために登拝する。
 (3)初山参り 秦野では15歳になると大山に登った。成人お礼参り。 
 (4)死霊鎮魂 大山寺の茶湯寺に百日参りをする 
 (5)招福除災 頼朝が太刀納めをして戦勝を祈ったことを真似、庶民も木刀を納め招福除災を願った。江戸川柳「納太刀九紋龍がひきかつぎ」
 
 富士下向と富士江掛越 大山の主神は大山祇命、富士山は木花之佐久夜毘賣命が主神。父と娘の間柄である。この両方の山(陰陽)に登拝することが大山信仰の基本である。宝暦年間には年間20万人が大山詣でをしたといわれている。 大山の位置は江戸から18里(1里は約3.9km) 。江戸時代の成人は9,10里を歩く。老人・女性でも8里。大山往復なら3泊4日。富士・大山登拝のコースは二つ。
 1 富士下向 
 一般的な「富士下向」コース 江戸(東京)甲州街道→ 大月→ 谷村→ 上吉田(富士吉田)→ 富士山登拝→ 須走→ 御殿場→ 竹ノ下→ 矢倉沢→ 関本→ 千村→ 曲松→ 田原→ 蓑毛→ 大山
 2 富士江掛越 大山から蓑毛越え・イヨリ越えで富士山に向う。
 「村山坊の宿帳」による1831年の夏山(6/27~7/17) 宿泊者は857人。宿泊した講中で「富士下向」7組、「富士江掛越」2組。
 寺山にあった東雲小学校は蓑毛道沿いにあった。それで子供たちは校庭から道者に声をかけた。「道者 道者 銭けえろ 銭をけえねと通さねぞ」。怒って校庭に入ってくる道者もいた。「おっかなかったよう!」。大正7.8年・1920年ころの武八重子(母)の思い出である。蓑毛道、坂本道、富士道は道者で賑わい「一夏10万人」といわれた時代もあった。蓑毛の茶店では、帳場に吊るしたお金ねるを入れる籠の底が抜けたという話も伝わっている。


2010年12月1日更新

     第108話
    路傍の石仏 庚申塔

 東公民館祭り  
  まほら秦野みちしるべの会のミニ講座 「路傍の石仏 庚申塔」  武 勝美

 東公民館の正門の向こう側に高さ1㍍ほどの自然石の石碑が立っている。その碑文は庚申塔(コウシントウ)で建立は天保3年・1831年。建立者は上原、金山、関口と刻まれている。いずれもこの碑の近くの庭(集落)の名である。
 日本各地の路傍に石仏や石神がたくさん見られるが、もっとも多いのは庚申塔といわれている。秦野市内でも131基の庚申塔が数えられ、東地区には22基が存在している。ちなみに市内でもっとも多く見られる路傍神は道祖神で300を超えている。これは秦野地方は道祖神祭りが盛んであるということを表している。
 庚申塔の「庚申・コウシン」の意味は、エトと十二支を組み合わせて使われた昔の暦の中の一日を示している。暦では「庚申」は「カノエサル」と読み、60日ごとに巡ってくる日である。なぜこの「庚申の日」についての石碑が路傍に建てられたのか。
 江戸時代、「庚申の日」について次のようなことが言われていた。人間の体の中に三尸の虫がいる。この虫は庚申の夜、宿主が寝ている間に抜け出し、天帝(万物の創生主、閻魔大王という説も)のところに行き、宿主の罪業を報告する。報告を受けた天帝は宿主の寿命を縮める。江戸の庶民は考えた「庚申の夜は寝なければよい」と。それで《庭(生きていく上で必要な最小の生活集団)》に庚申講を作った。(講とは民俗の神仏を信仰する集団のこと)庚申講は長寿・厄除けの信仰である。
 庚申の夜、宿(当番の家)の床の間に庚申講の掛け軸(青面金剛像を中心にした絵)が掛けられる。その絵の前で勤行や飲食をしながら夜明けを待つ。江戸川柳に「五右衛門の親 庚申の夜を忘れ」というのがある。庚申の夜に身ごもった子は大泥棒になる、ということだ。「庚申を翌朝聞いて嫁困り」という一句もある。
 その“現実”をクリアしようと、当時の人たちは思いを巡らし「生まれた子に《金》という文字の名前をつければ、その難を逃れることができる」とした。《金》は青面金剛の「金」である。やがて、庚申の日に誕生した子にも《金》をつけるようになった。夏目漱石の本名は金之助、誕生日は庚申の日だそうだ。金太郎、金次郎、金蔵、キン、金子(カネコ)などという名の持ち主は、この《庚申』に関係あるのかもしれない。いずれにしても、庚申が川柳に詠まれるということは、それだけ庚申講が江戸庶民の中に広く受け入れられたことを表している。
 路傍に立つ石仏に、青面金剛像、三猿、鶏などが見られたらそれは庚申塔である。文字で「庚申」とあるのもある。西田原・池端に立つ「猿田彦大神」と刻まれている石碑も庚申塔である。
 一年に6回巡ってくる庚申の夜を3年18回パーフェクトに勤めると三尸の虫の動きは弱まるともいわれる。そのパーフェクトを記念してその講中は集落(庭)の入口近くの路傍の石碑を建立する。長寿・健康を願うだけでなく、厄難が集落に入り込むことを封じるのだ。だから庚申塔はわが国でもっとも数が多い石仏なのだ。


東・西・鶴巻・大根地区の7図を公開


2010年11月1日更新

     第107話
    鶴巻温泉駅前の道標

 情報提供のお願い
 10月27日 吾妻山へのハイキングの帰り、鶴巻温泉駅前の通りの「美ゆき旅館」の玄関の脇に道標らしき碑のを見つけました。大山が最終地点になってる略図で、距離が「リ(里)で表されています。この碑についての情報をお持ちの方にお願いいたします。情報をご提供ください。





2010年10月1日更新

     第106話
    大山道と里人の暮らし
 
 
   講師 まほら秦野みちしるべの会   武 勝美        


 JAはだの組合員基礎講座「地域の伝承文化について」                2010/10/19

大山道と里人の暮らし              講師 まほら秦野みちしるべの会   武 勝美

  なぜ大山なのか(大山信仰の性格)

大日堂境内の道標(従是不動石尊道)
  (1)雨乞い(雨降り・阿夫利山、農耕の神)
  (2)漁業・航海の神 
  (3)初山参り(成人お礼) 
  (4)死霊鎮魂(茶湯寺) 
  (5)招福除災(太刀納め) 
  

2010年9月1日更新

     第105話
    今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
        

今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
                                      前秦野市教育長  内藤 美彦氏の講話

  昭和30年代後半まで国道東京・沼津線(千村―曲松―平沢―曽屋―善波峠を通る矢倉沢往還)は今川町を縦断していた。この道は、東京オリンピックの年大きく改修され、国道246号と名前を変え、現在のルートになり昭和39年8月に開通した。
 “かかあ天下” 今川町がなぜ“かかあ天下”なのかと言えば、大正から昭和10年代、今川町には料亭が10数軒あった。料亭の経営(繁昌)は女将の腕次第だから、“かかあ天下”。
 “馬糞っ風” 12月になると、秦野名産の葉タバコの納付が行なわれる。今泉、平沢などの南地区は言うまでもなく西地区や松田方面からも、馬車や牛車に葉タバコを積み今川町通りを専売局に向う。帰りも当然この道である。
 この通りには農家を相手にする肥料店、金靴屋(馬蹄)、鞍屋(牛馬の鞍)、車大工、さらには馬の種付け屋などもあった。“馬糞っ風”は当然だろう。
 今川町の町並み(昭和10年頃)
 ・店舗…肥料店、金靴屋、鞍屋、車大工、のこぎり屋、ふるい屋、鍛冶屋、銭湯、映画館など
 ・料亭…宝仙楼、大木家、清水家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家、みくに、安楽、三階家、清鈴


 大正年代の花街・今川町

 大正年代の今川町には宝仙楼、清水家、本木家、三階家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家等々の料亭があり、芸者、半玉、仲居の女の脂粉ただよう花街で、近在の若者の胸をときめかしたあこがれの街であり、又、大山講中の無事下山に一息いれる憩いの場でもあったようだ。
 料亭には、東北地方から小学校を中途退学して売られてきた女の子も少なくなかったようで、当局は義務教育遂行のため再就学を強行じ、年令を問わず退学当時の学年に編入させた。南秦野小学校の児童たちは、桃割れ髪のませた年上の女の子と机を並べて学習をするそんな学校風景もあった。
 商売屋もいろいろあって、金靴屋(馬蹄)、くら屋(馬の鞍)、肥料店、鍛冶屋、鋸の目立て屋、桶屋、ブリキ屋、足袋屋、一膳飯屋、豆腐屋、医院、紺屋(染物)、床屋、雑貨屋、菓子屋、ふるい屋、竹屋、銭湯などがあったが今は全部その姿を消している。思えばこれら商家が農家と関係深い業種の多かったこともうなずける。




2010年8月1日更新

     第104話
    ブログ「まほら秦野みちしるべの会」
        

 「まほら秦野みちしるべの会」で検索 
 「まほら秦野みちしるべの会」が、活動を記録に留めておきたいと公式ホームページを立ち上げました。今まで学習したことや実地踏査の結果などを載せています。『秦野のおはなし』(このページ)にリンクもされています。   http://mahora-hadano.sblo.jp/

2010年7月1日更新

     第103話
  
五角柱(蓑毛141)、六角柱(鶴巻4-24
   の地神塔
  
ルーツは徳島        

 鶴巻(4-24)にある県天然記念物の「大ケヤキ・欅」(通称「大榎・オオエノキ」)の下に、六角柱の地神塔が立っている。その六角柱には、天照皇大神(アマテラススメオオカミ)、大己貴神(オオナムチノカミ)、少彦名命(スクナビコナノミコト)、埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)、蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)の五神が祀られ、建立日「昭和31年7月吉日」も刻まれている。
 ※この大ケヤキは、古来地域の人々の巨木信仰(神の宿る木)の対象の木“称えの木・タタエノ木”だったので、いつからかオオエノキと呼ばれるようになった。

 蓑毛(141)には五角柱地神塔が立っている。天照大神(アマテラスオオカミ)、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)、少彦名命(スクナビコナノミコト)、と判読できない一柱の五神が祀られている。『秦野の地神塔』では、その一柱を[ ]具命と記録している。鶴巻の五神と並べてみると、大己貴神(オオナムチノカミ)が入っていない。大国主命と読むのかもしれない。

 天照大神は天津神の代表。大己貴神は、またの名を大国主命といい国津神の代表で、他の三神とともに田畑の守り神、豊穣を願う神である。四国地方には五角心柱の地神塔が多く見られる。そして次のように記されているもがある。「農業神天照大神」「五穀護神大己貴命」「五穀祖神少彦名命」「土御祖神埴安姫命」「五穀祖神倉稲魂命」。
 この五角柱の地神塔は、旧徳島藩領(徳島県内及び淡路島)が発祥の地で、ここと香川県東部にしか見られない独特のもの、と言われている。鶴巻の六角柱、蓑毛の五角柱の地神塔はその流れをくむ市内では珍しい地神塔である。


2010年6月1日更新

     第102話
 
まほら秦野みちしるべの会制作
  マップ「古道・大山道を歩く」

   
第5編 西(堀四ケ村)地区 

   
 
このページの101号で紹介した「KAZESAYAGE」(発行・風人社)の5月号は下のマップを元に西地区を歩き、そのレポートを載せています




2010年5月5日更新


     第101話
 
まほら秦野みちしるべの会制作
  マップ「古道・大山道を歩く」

     
第1編 寺山・蓑毛地区
 

 「KAZESAYAGU」(発行・風人社)は、『ホントに歩く大山街道』というガイドブックを編集中の資料収集のための通信誌です。私も加わっている『まほら秦野みちしるべの会』の制作した地図(下)を手に、編集委員が矢倉沢往還を歩き、そのレポートを4月号に掲載しています。私たちの活動がこのように活かされることは嬉しいことです。


2010年4月1日更新

    第100話
 
寺山物語  
 
波多野城はどこにあったか
 

 3月30日実施
「古道・大山道を歩く 里人の暮らし・寺山編」  案内人 武 勝美と「まほら秦野みちしるべの会」
 
 次の地名で囲まれた所が波多野城(波多野氏の居館)と想定できる。
 (1)トカイト サーシゲート トメバ トーノメエ カドバタケ ボーゲート 延沢川 マイガクボ
 (2)現在の小字名で言えば 竹ノ内 外清水 内清水 宝ケ谷戸。波多野城址の碑が建っている地は後に開かれた場所と考えられる。







2010年2月1日更新

    第99話
    大山信仰と大山道
              その1              


まほら秦野みちしるべ(西地区)講座   平成22年1月29日 より
 
  富士下向と富士江掛越
  
1 なぜ大山なのか
 1雨乞い(農耕の神) 2漁業・航海の神 3初山参り(成人お礼) 4死霊鎮魂(茶湯寺) 5招福除災(太刀納め)  宝暦年間には年間20万人。

2 大 山(石尊大権現)
 天平勝宝七年(七五五)、奈良東大寺の別当良弁僧正が開山した。山腹に聖武天皇の勅願寺を建て大山寺と名づけた。山頂には巨大な自然石があり「石尊様」と信仰されていたので、それをご神体にして阿夫利神社を創建した。大山は、主神である大山祇命から起こった名称である。脇神は風雨雷電をつかさどる大雷神(おおいかづちのかみ)で大天狗社と水をつかさどる(降雨止雨)高?神(たかおかみのかみ)の小天狗社。

3大山の位置
 江戸から18里(1里は約3.9km) 二、三泊の距離。

4富士山と大山 
「村山坊の宿帳」による1831年の夏山(6/27~7/17) 宿泊者は857人。宿泊した講中で「富士下向」7組、「富士江掛越」2組。
〇一般的な「富士下向」コース
 江戸(甲州街道) → 大月→ 谷村→ 富士吉田→ 登頂→ 須走→ 御殿場→ 竹ノ下→ 矢倉沢→ 関本→ 大山
〇大山詣での一例
 自宅→ 甲斐一ノ宮→ 富士山→ 須走→ 足柄峠→ 道了尊→ 松田→ 蓑毛→ 大山→ 子易→ 田村→ 藤沢→ 江ノ島→ 鎌倉→ 鶴間→ 八王子→ 小仏→ 上野原→ 大月→ 勝沼→ 木之宮→ 帰宅 (全行程おおよそ308kmを10日間。一日の歩行距離約30.8km)
※一行六人のうち、松田宿から駕龍二人、馬二人。田原で一人だけ馬で蓑毛に向かう。永楽屋で昼食をとり一行は空身で大山に向かった。荷物は押し切り印の切手と引き換えに人足によって子易に送られている。この人足は、道者が雇った者か茶屋の雇った者かはっきりしないが、蓑毛と子易の旅館が連携して道者への便宜を図っていたようだ。大山では大津屋に泊まる。(『富士道中雑記 附江ノ島・鎌倉』・神奈川県立金沢文庫所蔵から) 
・内容などから推定すると天保九年(1838)ごろ。 注: 甲斐一ノ宮 浅間神社 (笛吹市)  木之宮 不詳(地名なら沼津市にある) 米之宮なら富士市の浅間神社


明治10年の絵地図を見ながら(左)                参加者は40名超、市外からも数名が

2010年1月1日更新

    第98話
 
「全国名水百選」の地 秦野市              





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