秦野夜話  「秦野のおはなし」
~神奈川県秦野市にまつわる歴史、民俗の話~


 秦野のおはなし 2010~2013年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2007~2009年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2004~2006年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2000~2003年 掲載分はこちらへ


「まほら秦野みちしるべの会」 公式ブログはこちら
(大山道の道標を訪ねて歩きイラストマップを作っている会)

 


 2024年4月16日更新

  第202話
 
難解地名「名古木・ナガヌキ」

 

  
 





2024年2月1日更新

  第201話
 
道祖神のスタンプ集めを

 

   
 道祖神のメッカ・倉渕で道祖神のスタンプ集め 
   群馬県高崎市の倉渕町には77ケ所に114基の道祖神が祀られている。まさに《道祖神のメッカ》。その77ケ所
  のうち67ケ所に双体神のスタンプが置かれている。 
   倉渕公民館館長の池田功秀さんが『道祖神の里落ち穂拾い』の刊行を祝って67のスタンプを押印し、プレゼント
  してくださった。私か初めて県外の道祖神を訪れたのは倉渕だった。そして最初に出逢ったのは落合下(下1)の和
  合型道祖神だった。


   


2024年1月1日更新

  第200話 東地区の地名 
         
蓑毛は「ミズノケ」 


 蓑毛(ミノゲ) ミは「水・川」、ノゲは「除ける」で、水によって除けられた所。水による崩壊地がミノゲ。横浜の野
毛(ノケ)も崩壊地形なので地名に共通点がある。ミノゲは「ミノグエ」で、グエは地形用語で「崖・崩れる」。蓑毛
は水による崩れやすい地という説も。
 実際、蓑毛の集落は有史上、数回山津波に遭っている。蓑毛の小字名「元宿」は、かつては集落だったが山
崩れでその地を離れたことをうかがわせる地名。
 伊豆の「いのしし村」で蓑毛(ミノゲ)は「猪のたてがみ」との表示を読んだ記憶がある。宮城県の気仙沼・本吉
地方では「繁殖期のコサギの背中に現れる飾り羽」のことを「蓑毛(ミノゲ)」と言っている。        
     




2023年11月5日更新

  第199話  
    
二百年続く堀山下・上関地区の地神講

 九月二十七日は『社日』でしたので地神講の掛軸を飾りお札を供えてお参りしました。当番(宿)となり、掛け
軸二本と講連名簿二冊を引き継ぎました。軸は地神が描かれたものと、百観音の図の上部に和歌が書かれ
たものです。講中名簿の平成三年ものには十七名が載されており、五名が退会により抹消されています。平
成二十年の名簿には十名が記載されており四名が退会されています。
 今の時代、地神講が続いるところは少ないのではないのでしょうが。上関の先人は当番(宿)の負担を減らし
た結果、続けられてきたように感じました。宿での会食はいつ頃止めたのかは不明ですが、昭和三十六年(一
九六一)には《宿》に集まり、お参りをしてお札を持ち帰ったそうです。その集まりお茶を飲みながら雑談を楽し
んだそうです。平成十年(一九九八)まではこの方式が続きました。数年後、現在の方式・当番が講中の人に
お札の希望を確認して配布するようになりました。
 掘山下六七〇番地に岩舟堂という地蔵堂がありました。その敷地に関話中の人々により地神塔「天社神」
が建てられました。文政十年(一八二七)のことです。以降今日まで営々と講は続いています。  大木 伸男
 ※社日(しゃにち) 産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春分、秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が
  社日で、産土神に春は五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋はその年の収穫に感謝する。



2023年9月5日更新

  第198話 東地区の地名 
   
金目川は「カナヒカワ」


金目川 ほんとは「カナヒカワ・カナイカワ」
 春嶽沢を源流とする金目川。新編相模國風土記稿(1842年頃成立)は、「金日川(現・金目川)」に「加奈比可
波(カナヒカワ)」「加奈為可波(カナイカワ)」と読仮名をふっている。「中郡勢誌(1953)」には、 「金目川」を『金
楲川(カナイ川)』とし、「金楲→(難解なので)金日→金目(誤記されて)」と転化した。読み方・発音も「カナイ」から
「カナメ」になったと書かれている。 
 古語辞典に〈楲〉は「池の堤の中に埋め戸を開閉して水量を調節する仕掛け=樋」とある。『金楲川(カナヒ川)
=金目川』は「しっかりとした水門がある」川。蓑毛から金目川の河口に向かってたどれば、カナヒカワから水を
取り入れた水田地帯がずっとつながり広がっている。


 2023年7月5日更新

  第197話
 東公民館報に
  
「東地区の地名」を連載  

 東公民館報『はるたけ』第233号から紙面がリニューアルされ「東地区の地名」の連載が始まった。そのコラ
ムを担当することになった。どこまで、何回書けるのか心もとないが、受けた以上は誠心誠意努力したい。
 第1回は館報名『はるたけ』にちなんで「春嶽(はるたけ)」をとり上げた。地名はその地の自然・歴史・風土など
を表している。地名は誰が付けたというのではなく、他と区別することの必要性から自然に発生し、そこに暮ら
す人たちによって使われた言葉。だからさまざまな由来や語源があり、先学の書でも「〜を言うか」「〜を表す語
か」「〜のことか」「〜とも」など定説は述べていない。私の話がきっかけで、東地区のさまざまなことを探ってくれ
る人が現れれば、と願う。
    《ふるさとを知り  ふるさとを愛し  ふるさとを育てる》

     



 この夏は庭にタバコの花を咲かせる
  『エコー』を読んでもらっているお店に届けに行った。すると「葉タバコの苗を持って行かない?」と店主のKさん
が言う。毎年その季節になると葉煙草の花の咲く鉢が十鉢ほど店の入り口に並ぶ。かつて秦野は葉タバコの名
産地だった。タバコ農家であったKさんの両親がそれを懐かしみ、しのんで毎年花を咲かせてきた。それをKさん
が引き継いだのだ。
 葉タバコの花は白い漏斗状で先端は淡い紅色で染まる。六月下旬から七月にかけて開花し、花もちがいいの
で秋まで見られる。ところが葉タバコづくりでは「花は生育を妨げる」と早々と摘み取られてしまう。
 「いじらしいぞえ 煙草の花は 咲かで摘まれる エーなんとしょ恋の色」(秦野煙草音頭の三番の歌詞)



2023年4月5日更新

  第196話
 「秦野の双体道祖神」 井越基生著に寄せて  

             道祖神の里めぐり人   武 勝美

 
                         

                                     
 2021年11月14日から12月1日まで畏友・井越基生さんと「道祖神ワンダーワールド・千姿万態 淡彩画&写真(武)展」
を秦野市立東公民館で開いた。その折、来場者から井越さんにいくつかのメッセージが届いた。「とても微笑ましく思え
る。基生さんは大変お酒好きとのこと、一杯やりながらお話を聞きたい」「素描、すてきです。写真で表現できない雰囲
気に包まれています」「表情や仕草にやさしさを感じます」「それぞれおもむきがあってほっこりします」

 秦野は道祖神の宝庫で300を超える石造双体道祖神や文字碑道祖神を数えることができる。それらの道祖神は、集
落の境に立ち、悪霊や疫病などの侵入を防ぎ、村人の健康と平穏な生活を護ってきた。また、さまざまな民俗信仰と習
合し、道中安全の「岐の神」や「子孫繁栄・縁結び」の神としても信仰されている。『道祖神のふるさと』伊藤堅吉・遠藤
秀男(大和書房・1987)には、双体合掌像について次のようなことが記されている。「神奈川県での寛文像が名実ともに
双体道祖神の最古であろうと考えられる」。本書170Pの「戸川原の道祖神」は県下最古(寛文9年・1669年造立)の双体
合掌像で、市内の双体像の多くは「戸川原の道祖神」の流れを引く合掌像である。伊藤・遠藤両氏はそのことを「あくこ
となく石工の伝統として同形を彫像しつづけたのである」と言っている。そしてその流れは今も続いている。
 今年8月26日、市内名古木の西沢地区に新しい男女双体道祖神が祀られた。五月の大型連休の最中、車に飛び込ま
れるとい《難》に遭った文字碑道祖神が地区住民の力で双体像に再建されたのだ。

 「ふるさとを知り、ふるさとを愛し、ふるさとを育てる」ことを願い、私は「まほら秦野みちしるべの会」を立ち上げた。秦野
に住んでまだ二年の井越さんと出逢ったのは2017年10月6日、「秦野雑学大学」での私の講座「神奈川の道祖神」だった。
講座の後、秦野の道祖神を訪ねスケッチしている井越さんの作品を見せてもらった。「道祖神が永い歳月を経て砕け欠落
し、石榑に近くなればなるほどその姿に魅せられる」と井越さんは言った。井越さんの秦野の道祖神への思い入れは、私
の願いにつながっている。毎週木曜日を《道祖神の日》と決め、市内の双体道祖神181基すべてを描き収めたこの画文集
の、一つ一つの像の背景に描かれている風景や草花などの秦野の自然、さらに添えられている一句から、井越さんが秦
野の双体像に何を見てきたか、何を思うかを感じとることができる。

 10月のある日、我が家を訪ねた井越さんは40分の道のりを歩いて帰っていった。「寺山、落合は何度も歩いている。道
中、道祖神さんとの再会も楽しみだから」と元気な足どりで。

   冬日向よう来なさったと夫婦神     勝美

   2022年11月                                      道祖神の里めぐり人  武 勝美


2023年3月1日更新

  第195話  まほら秦野みちしるぺ゛の会
 小田原史談会 第3回研修会の報告書 令和4年8月25日
  

  
 蓑毛大日堂は秦野市東地区にある大山の山岳宗教の一大拠点であった。平安後期の遺風を残す仁王像の立つ
仁王門を潜り、大日堂の重い扉を開けると古色蒼然とした堂内は大日如来を中心に五智如来が仄暗い照明の中か
ら静かに浮かび上がってきた。
 この堂宇の中は中古の時間がそのままに止まっているようである。背後の不動堂に通ずる石段を登り、茶湯殿に入
ると閻魔大王以下の十王像が厳めしい姿で待ち構えていた。三途の川に待つ奪衣婆、鬼、俱生神が所狭しと立ち並
び、唯一の救いが中心に立つ2㍍を超える地蔵菩薩で、冥界の恐怖と慈悲の世界がよく伝わってくるお堂である。ここ
までは諸堂を管理する寶蓮寺の東島住職(尼さん)に丁寧な解説をして頂いた。
 次に東田原にある金剛寺で源実朝の木像を拝観。道を隔てたふるさと公園にある源実朝御首塚(みしるしづか)に詣
でて、実朝暗殺から当地に埋葬されるまでの経緯を聞く。波多野城址に移動して、城址の碑のある所より東側の小高
い台地あたりが、城館の名残りを示す地名から実際は波多野氏の館があったと推測される。同行し説明して頂いた武
勝美さんとまほらの会の皆様には大変お世話になりました。


2023年1月5日更新
  第194話  まほら秦野みちしるぺ゛の会
 マップ
 富士道を歩く   


             
         
  

   まほら秦野みちしるべの会のウオーキングマップ「富士江掛越」

 2022年10月16日「みちしるべの会」はウオーキングマップ第6編を発行した。このマップは「富士江掛
越(富士へ掛け越し)」というコースのガイド。

 相州・大山から富士山に向かう江戸時代の信仰の道・冨士道は、秦野市内を通る。その道中の史跡、
社寺、石造の神仏、さらには景観などを紹介しているマップで、制作者としては自信作である。それは取
材、編集、作図など印刷以外はすべて会員の手で成したものだから。

 「富士道」とは 富士講の道者が歩いた道 
 江戸時代、「富士講」の人々は江戸を出発し、甲州街道を大月宿(大月市)で分かれ、上吉田(富士吉田
市)に入り、そこから富士山頂を目指した。その「富士講」の人々が富士山頂を目指して歩いた道を「富士
道、富士山道」と呼ぶ。 
 その道は、「江戸→ 甲州街道→ 大月→ 谷村→ 上吉田(富士吉田)→ 富士山登拝→ 須走→ 御
殿場→ 竹ノ下→ 矢倉沢→ 関本→ 松田→ 千村→ 曲松→ 田原→ 蓑毛→ 大山→ 江戸に帰る」
で《富士下向》と呼ばれ、このルートの逆回りが《富士江掛越》で、今回作成したマップはその逆回りルート
である。
富士を拝み 富士山霊に帰依する富士講
江戸時代は「江戸八百八町、八百八講」といわれたほど隆盛を極めた富士講は、藤原角行という行者によっ
て創唱された「富士を拝み、富士山霊に帰依し、心願を唱え、報恩感謝する」という分かり易い教えの宗教。
白装束に金剛杖で「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)清浄」と唱えながら人々は富士道を歩いた。
秦野市内各地区に富士講碑(浅間大神塔・扶桑山大神塔・仙元大神塔・浅間石祠)は建立されていて、その
数は20基を超える。それはその地に富士講が存在し、隆盛を極めたことを表しているとも言える。
富士山と大山の「両詣で」
 コノハナノサクヤビメとオオヤマツミノカミ
 コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)は、富士山の祭神で妻の守護神、安産の神、子育ての神、火難消
除の神。相州大山の祭神であるオオヤマツミノカミ(大山津見神)は「大いなる山の神」で、いわば「山の総元締
め」の神。コノハナノサクヤビメはオオヤマズミの娘。富士山と大山の祭神は父娘の関係にあるので、「大山に
登らば富士山に登れ、富士山に登らば大山に登れ」と人々は《両詣で》をした。

蓑毛から屈掛までの道
◇歴史・民俗的文化財
・大日堂(国登録有形文化財)と大日如来像(県重要文化財)
・御師の里(蓑毛)
御師とは、大山参詣の人々を大山へ案内する先導師で、大山信仰を布教し、家は宿も兼ねていた。大正十二年
頃の蓑毛の御師は、五院(修験)、三坊(神家)、三太夫(神職)の11家が存在していた。往時の面影を残す二軒
を見ることができる。
・緑水庵(古民家) ・波多野城址(波多野義景等の居館跡 寺山) ・横掘り井戸(東田原八幡の清水) ・源実朝公
御首塚(東田原) ・金剛寺(実朝公供養寺 東田原) ・旧宿場通り(富士山遠望 東・西田原) ・田原城(大藤氏の居
城 西田原) 
◇道標など
・大山道の道標(市内最古 蓑毛・才戸) ・富士講碑(蓑毛) ・男女双体道祖神(市内初出 蓑毛・才戸) ・地神塔(五
角柱の地神塔は珍しい 蓑毛・才戸) ・大山阿夫利神社の大鳥居(蓑毛) ・大山道道標(市内最大 渋沢・國榮稲
荷神社境内) ・屈掛の不動尊(矢倉沢往還の波多野庄の入り口・千村)
◇ビューポイント
・蓑毛からの秦野市一望と相模湾遠望 ・東田原から絶景の富士(特に冬) ・水無川沿いの五百メートルの桜花ト
ンネル ・八重桜の里(千村) ・大山遠望(千村) ・丹沢山系一望スポット(千村配水場辺り)
◇ その他
・自然観察の森(蓑毛) ・田原ふるさと公園 ・カルチャーパーク(バラ園)

マップを手に  「まほら秦野」を体感してください
 私たちの会「まほら秦野みちしるべの会の「まほら」とは《真=ほんとうに》《秀=秀でた・優れた》《ら=あちら・こちら・
野良(のら)=場所・所を表す語》です。マップを手に冨士道を歩き「まほら秦野」を体感してください。  
                                                    ※マップについては武まで


 2022年5月5日更新

  第193話  道祖神の落穂ひろい
   願掛け道祖神  
 

 
 安曇野市堀金岩原の「願掛け道祖神」
  「退職公務員新聞」を通じて安曇野の道祖神を撮っている米倉さんと交流している。米倉さんの住んでいる安曇野市
堀金岩原には「願掛け道祖神」がある。
 この道祖神は江戸時代末に御利益がないとして顔が削られた「顔欠け道祖神」で、縁起が良くないからと各地を転々
としていたが、新型コロナの蔓延もあるので、昨年9月に造立地と同じ場所に約160年ぶりに再安置された。そしてこの際
「顔欠け」を「願掛け」と読み替え、地域で大切に護持している。
                                       




 2022年1月1日更新

 第192話  秦野のお話
     まほら秦野 盆地の暮らし   


 JAはだの組合員基礎講座  講師 武勝美        2021年12月3日

  まほら秦野 盆地の暮らし (講演のあらまし)

1 秦野市の地名 地名は無形文化財(言語学・地理学・民俗学・歴史学)
 地名は人が住んでいる・生活しているところに生まれる。先人の暮らし、風土、自然の地形などを知ることが
出来る遺産。
(1)日本の地名
  ①日本  中国語での発音  日は ニチ、 ジッ  本は ホン
 ②神奈川 京浜急行仲木戸駅 神奈川小学校の脇 上無川
(2)秦野の地名の由来
・東地区   寺山  蓑毛   
・西地区   渋沢  千村  堀四ケ村(堀川 堀山下 堀沼城 堀斉藤村)   
・南地区   平沢  今泉  尾尻
・北地区   菩提  戸川 羽根
・本町地区   曾屋(本町) 大槻  十日市場
・大根地区   南矢名  鶴巻   
・上地区  菖蒲  三廻部
・金目川

2秦野と葉煙草
 秦野は江戸時代から葉たばこの産地として知られ、秦野盆地発展の礎を築いた。「秦野たばこは技術で作
る」と言われているように「秦野葉」は、国分(鹿児島)・水府(茨城)と並んで日本三大銘葉に数えられた。この
たばこ耕作は昭和59(1984)年に幕を閉じた。
・)秦野煙草音頭
 ♪ 干した煙草は濡らしちゃならぬ 阿夫利山からえーなんとしょ雲が出る(五番)
   のしてたばねて いしか更けて 雁の鳴く夜のえーなんとしょお月さま(七番)
   煙草おさめのうれしい晩は ままよほろ酔いえーなんとしょ肘まくら(八番) ♪
・「今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
・本町小学校 上小学校 北中学校の校章に 「葉煙草」

3お盆のツジ(砂盛り)
・ツジは築地(辻)  ・線香上げ

4西相模(秦野)は双体道祖神の発祥の地 
(1)道祖神は万能の神  ①厄払い(悪霊払い)  ②健康(疫病払い)  ③縁結び  ④子孫繁栄・子宝  ⑤安産  
⑥道案内(道中の安全(交通安全) 
(2)双体道祖神の源流は秦野
・裾めくり道祖神 永正2(1505)年 長野県辰野町沢底 わが国最古の道祖神と言われている 
江戸初期(寛文から元文)は神奈川県西部で道祖神造立が盛んだった。
(3)全国市町村別 石造道祖神の分布 (  )は双体像とその割合
1群馬・高崎市  746(411・55.1%)  2長野・松本市 637(284・44.6%)  3長野・安曇野市 583 (303・51.9%)
4静岡・富士宮市 398 (217・54.5%) 5神奈川・秦野市 310 (174・56.1%)  6神奈川・小田原市307(197・64.2%) 
7鳥取・大山町 212 (180・84.9%) 
(4)秦野の道祖神 (石造の双体像、文字塔) おおよそ310基   東地区45  西53 南54 北44  本町39 大根53  
上 22
(5)秦野の道祖神祭り 「トッケダンゴ」の紙芝居上演

5庶民信仰の山・大山(阿夫利山)
(1)阿夫利の語源   ①雨降り  ②はふる(葬る・祖霊を祀る)  ③荒ぶる(神)  ➃アヌプリ(アイヌ語)
(2)阿夫利(石尊)信仰   ①雨乞い(雨降り山、農耕の神)  ②漁業・航海の神  ③初山参り(成人お礼) 
④死霊鎮魂(茶湯寺)  ⑤招福除災(太刀納め)
東中・西中・南中・東小・本町小・秦野高校の校歌に  「煙草音頭」五番にも
 ・市内には大山道羽根尾通  大山道蓑毛通  大山道坂本通  富士道が通る

6秦野の郷土料理「へらへらダンゴ」

まとめ  
まほら秦野  山田和樹さんの言葉を紹介
山田 和樹さん  指揮者  1979年神奈川県秦野市生まれ。モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽・
芸術監督に就任。ベルリン在住。2児の父。(朝日新聞2015年10月3日be版「フロントランナー」の記事から)
― 音楽とはどのように出会ったのですか
 少年時代は緑豊かな神奈川の秦野で過ごしましたが、この地に育っていなければ指挿者になってなかった気が
します。
― どういうところだったんですか
 丹沢山のふもとで、田舎です。小学校のとき、授業でジャガイモとかを育てるんですが、その肥料が馬糞とか牛
糞なんですよ。手づかみでこう、まぜたりする。都会の子供には絶対させないですよね。
― 汚い、という先入観ができる前に触らせる
 近所の神社に大きなイチョウの木があって、秋が来るたびあの特有のにおいに何かの終わりを感じ、切ない気
持ちになりました。それでも冬が来ると、丹沢山に堂々たる雪がかぶって。終わるもの、始まるもの、すべての世
界が美しかった。あの自然の手触りが、今の自分の音楽の奥底に間違いなくあるはずです。


 2021年11月3日更新

 第191話  秦野のお話
     秦野をゆけば道祖神  


 10月1日発行の「タウンニュース」に社告が出た。15年ほど続いたシリーズ「秦野をゆけば道祖神」という写真レポ
ートがこの号のNO252で終了とあった。秦野には310ほどの道祖神塔があるが、開発で移転されるなどで取材は
難しいとのこと。このレポートには隠れたファンも多い。私もその一人。 担当された記者の皆さん、タウンニュース
社にお礼の気持ちを拙句で表す。

 石神の微笑み二つ初写真
 野仏に早春の陽の届きけり
 春昼や瞼重たき道祖神
 山からの処暑の風待つ道の神
 今日酷暑耐へて道祖神捜しかな
 小春日やよう来なさったと夫婦神
 里小春肩組握手道祖神
 山陰に笑む道祖神冬温し


  


2021年9月15日更新

 第190話  秦野のお話
     煙草煎餅ものがたり  

                         
                                    葉タバコ(秦野葉)  
                           日本料理「志津加」(秦野市)で撮影 2021/9/17



 「JAはだの」の組合員基礎講座の講師を務めて10年になる。講座は秦野の歴史や文化・民俗を学ぶ「まほら秦野 盆地の暮らし」。
その講座の中で、秦野は葉タバコと共に育った町であることを話してきた。そして『亀本』の「煙草煎餅」を資料(?)として受講者に
プレゼントした。
 今年(令和3年)の五月その受講者の一人から「煙草煎餅」の図柄についての問い合わせがあった。「煎餅に絵と和歌らしきものが焼
きこまれている。その歌を教えてほしい」とのこと。「煙草煎餅」とは長い付き合いであるが、その絵柄については全く意識していな
かった。興味をそそられたので調べてみることにした。「煙草煎餅」を製造・販売しているのは創業慶応元年の『亀本』菓子舗。その
図柄について『亀本』さんに尋ねたが「金型が古いので文字は読めない」とのこと。それならと、機械を作った大阪の会社にも問い合
わせたが、それに関わるデータや資料は無かった。 「JAはだの」に助けを求めた。すると「秦野たばこ史」「たばこ史研究」がコピ
ーで届いた。「KEMULier」という愛煙家のための季刊誌があることも紹介された。その「KEMULier」をネットで検索したら、メルカリ
に一冊だけ出ていたので急いで落札。届いた誌は「ケムリエ」第14号(2021年2月発行)。その目次を見て驚き歓喜した私。なんと
「秦野葉・煙草煎餅」の記事あり、「煙草煎餅」には関野作次郎翁の「煙草耕作指導歌」が焼き込まれていることを知った。その歌を
読みたいと『亀本』さんに頼みこんだ。『亀本』さんは私の要望に応え、焦げ色を抑えて焼いてくれた。

 
煎餅に焼きこまれた歌
「秦野たばこ史」(井上卓三著)で関野作次郎の「煙草耕作指導歌」として紹介されている九首。『亀本』さんの煙草煎餅の金型は11種
あり今回全11枚を焼いてもらった。その中で次の十首(10枚)は解読できたが、一首(1枚)は難しかった。

 凡例 〇印は煙草煎餅に焼きこまれている歌 ・印は「秦野たばこ史」と異なる表記の歌 【 】は歌に添えられた図絵  
〇籠に乗る旅も汽車路と進みけり煙草蒔くにも器械用いよ
・篭に乗るたびもきしや路とすすみけり煙草播くにも点播器にてせよ 【葉煙草種点播器】
〇苗床の管理は主人の足跡の絶えざるように常に見廻れ 【苗床とそれ見守る男】
〇植付の苗に白根の多ければ畑の出来栄えよしとこそ知れ
・植つけ時苗に白根の多ければ畑の出来栄えよしとこそ知れ 【根の付いた煙草苗】
〇喰い過ぎは人もからだの仇となる煙草肥料を心してもて 【成長した葉タバコの図(葉は根元から上に、
土葉、中葉、本葉、天下葉、天葉と呼ぶ)】
〇奸商は兎やかういえど煙草には菜種の粕に如くものはなし 【 】図柄は見えない
〇螟蛉の日に産む母蛾をたをすには枯葉捕殺に如くものはなし 【 】図柄は見えない
〇乾燥の秘訣は乾すな腐らすな時の天気と色をみてせよ 【ウシ竹で連干し(天日干し)される葉タバコ】
〇怠らず励み作りし烟草納めて帰る今日のうれしさ【納付するため荷造りされた葉タバコ】
〇丹精のしるしは今日ぞあらわれて賠償金は富士の山ほど
・丹精の志しるしハ今日ぞあらわれて倍賞金は不二の山ほど 【札束と富士山】
〇心して国のためとて載る煙草己がたつきもながくつながる 【刻みタバコを作っている図】

 名刺代わりに煙草煎餅
 葉たばこの産地は全国で190カ所ほど在ったようだが、いずれも小さな町村だった。その村や町が自分たちにふさわしい名物が欲
しいということで「煙草」の名を付けた菓子類を生み出した。
各地の道祖神を見て歩いている私は、名刺代わりに『亀本』の煙草煎餅を持参して行く。そしてお世話になった方に「煙草が嫌いにな
る煎餅です」などと言って差し出すと、驚かれたり、怪訝な顔をされたり、そして喜ばれる。秦野の「煙草煎餅」は、たばこの葉を模
した香ばしい卵煎餅である。
 「明治32年、東秦野村名古木に開設された農商務省農事試験場秦野煙草試験地の人たちが、秦野土産に『亀本』と『かめや』に煙草
煎餅を作らせた」と言われている。秦野以外の地の煙草煎餅は『煙草煎餅』と称することはできなかった。明治35年前後に秦野の二店
舗が「煙草煎餅」で意匠登録しているかららしい。

全国のたばこせんべい
 「たばこ煎餅」徳島・池田町(三好市)
 「たばこ煎餅」鹿児島・国府(霧島市)
 「水府煎餅」茨城・水府(常陸太田市)
 「相阿せんべい」栃木・那珂川町)
 「銘葉せんべい」福島・三春町
 「たばこ煎餅」福島・船引(田村市)
 「多運葉子(たうんばこ)煎餅」福島・郡山市
葉タバコにちなんだ菓子
 「たばこ最中」茨城・茂木(潮来市)
 「銘菓松川(最中)」福島・小野町(福島市)
 「葉たばこパイ」岩手・千厩(一関市)

 葉煙草の産地が消えるとともにたばこを冠とする菓子類の多くは消えていった。『かめや』の煙草煎餅もその一つ。そんな中、京都
のホテルに『MURAI´S CAMERIA』というクッキーが登場したとのこと。「カメリア」は戦前の口付きたばこの銘柄。

 関野作次郎翁 安政6(1859)年 神奈川県中郡東秦野村生まれ 雅名を莨斉あるいは莨耕と号し、和歌、絵画にも堪能であり、
たばこ耕作法を歌詞に歌いこみ農民の勤労精神を昂揚するとともにたばこの作り方を教えた。

文献 「たばこ史研究」NO173たばこ総合研究センター 「秦野たばこ史」井上卓三 「KEMULier」14号センカコミュニケーションズ


 「神奈川の味覚紀行」 エンピツの会著 (平成3年刊) 
 秦野葉は消えても煙草煎餅は残っている小田急線・秦野駅前の『ショッピングセンター』に、創業慶應元年という老舗『亀本』があ
る。そのお店は、秦野のおみやげ品として有名な『煙草煎餅』。昭和二十八年に神奈川県指定銘菓に選ばれている。
 この煎餅は、明治三十二年農商務省農事試験場付属秦野煙草試験地(秦野たばこ試験場の前身)の開設と共に製造されたという〝昔
の味″を今に伝えている。コゲ茶色で、厚く、カリッとした歯ごたえは独特である。葉たばこを原型にして、秦野葉独特の下ぶくれの
葉っぱの特徴をとらえている。煎餅の表面は、農夫が葉たばこの苗床づくり、乾燥作業、収穫作業など十一種類の図柄が焼き込まれて
いる。そして、たばこづくりの「訓歌」がこれも十一種類刻まれている。
 材料の蜂蜜は秦野産
 この煎餅焼き一筋四十年という女主人・田淵陽子さん(五代目)は、「コクのある焼き上げは、今でも難しいですね。その日の天候
(気温)に左右されますしね。材料は小麦粉が主体です。あとは卵、ミルク、蜂蜜を入れています。水は一滴も入れていません」この
煎餅に、乾燥し上がった秦野葉のようなコゲ茶色を出す秘密は、聞くところによると、厳選した蜂蜜にあるそうだ。そのため、地元の
蜂蜜しか使わない。よその製品とは違い、秦野のものは蜂がミツを採る花が最も適しているからである。秦野の名産・落花生の粉を混
入してあるかと思ったのだが「それを入れると虫が湧きますので使っていません。宣伝はしていないんですけど、これだけ(煙草煎餅)
を買いに、みなさん遠くから秦野にお出でになるんですよ」「湿けませんが、もし湿けたとしたら、コタツの中に入れて、柔らかくし
て召し上がる方もいらっしゃるんです。これは、お客さまから教わった話ですが」と苦笑していた。         

2021年4月3日更新
                         

 第189話  秦野のお話
    矢倉沢往還と今川町のくらし  

 大正・昭和の今川町
 1 今川町の名称 
 地形用語「今」は「あたらしい」という意。今川町は「水無川の傍らに新しくできた(
 開かれた)町」
 2 今川町の道路
 ・旧道(矢倉沢往還)
 ・新道(明治34年)
 ・学校道(昭和8年)
 3 今川町の橋
 ・秦野橋(明治34年 大川橋とも呼ばれていた)
 ・昭和橋(昭和6年)・…‥まほろば大橋
 ・桜橋(昭和8年)
 4 今川町の町並み(昭和10年頃)
 ・店舗…肥料店、金沓(かなぐつ)屋(馬蹄)、鞍屋(馬の鞍)、車大工、鋸の目立て屋、鍛冶屋、ブリキ屋、桶屋、竹屋、
 ふるい屋、足袋屋、紺屋(染物)、雑貨屋、銭湯、床屋、豆腐屋、菓子屋、映画館、一膳飯屋、医院もあったが、今は
 ほとんどがその姿を消している。いずれも農家と関係の深い業種である。
 ・料亭…宝仙楼、大木家、清水家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家、みくに、安楽、三階家、清鈴
 今川町は街道(矢倉沢往還)筋の町、そして葉煙草の産地の町を表している、と言える。
 5 飲用水…荒井用水を利用

 ◇今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
 昭和30年代後半まで国道東京・沼津線(千村―曲松―平沢―曽屋―善波峠を通る矢倉沢往還)は今川町を縦断して
いた。この道は、東京オリンピックの年に大きく改修され、国道246号と名前を変え、現在のルートになり昭和39年8月に
開通した。
“かかあ天下” 今川町がなぜ“かかあ天下”なのかと言えば、大正から昭和10年代、今川町には料亭が10数軒あった。
料亭の経営(繁昌)は女将の腕次第だから“かかあ天下”。
“馬糞っ風” 12月になると、秦野名産の葉タバコの納付が行なわれる。今泉、平沢などの南地区は言うまでもなく西地
区や松田方面からも、馬車や牛車に葉タバコを積み今川町通りを専売局に向う。帰りも当然この道である。 この通り
には農家を相手にする肥料店、金沓屋(馬蹄)、鞍屋(牛馬の鞍)、車大工、さらには馬の種付け屋などもあった。“馬糞
っ風”は当然だろう。
 大正年代の今川町には宝仙楼、清水家、本木家、三階家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家等々の料亭があり、芸
者、半玉、仲居の脂粉ただよう花街で、近在の若者の胸をときめかしたあこがれの街だった。またこの花街は大山講中
が一息いれる憩いの場でもあったようだ。
 料亭には、東北地方の小学校中途退学の女の子も少なくなかったようで、当局は義務教育遂行のため再就学をさせ、
年令を問わず退学当時の学年に編入させた。南秦野小学校の児童たちは、桃割れ髪のませた年上の女の子と机を並
べて学習をするそんな風景もあった。  (内藤寛・美彦さん親子から聞く)
 
 ◇水無川の川幅
 水無川の川幅は現在の今川町あたりは広かった。承応3(1654)年の絵図によると秦野橋の辺りで約133間(240㍍)
ほど。  ※1間は約1.8㍍
「風土記稿」に記録された水無川の川幅(1840年代・各村の調べ上書による)
 平澤村  北方を流る 河原共幅百間餘
 今泉村  北界にあり 村内にては天谷川と唱
 尾尻村  天谷川共唱ふ 村の北界にあり 河原共幅七十間餘
 曽屋村  南境を流れ幅河原共百三十間餘  
 
 現在の水無川の川幅はどのくらいなのか。水無川に掛かっている橋の長さを参考にしてみる。 常盤橋40.0㍍  
 平成橋36.0㍍  まほろば大橋35.1㍍  秦野橋30.1㍍  市庁舎前  人道橋38.0㍍  桜橋36.2㍍ 
 富士見大橋43.2㍍   「秦野の近代交通(秦野市教育研究所・2001年刊)」から


2021年1月1日更新                          

 第188話  秦野のお話
    富士と金次郎像             寺山の富士

                              

                          冠雪の富士に真向い立つ像の背に柔らかき春の陽光

                      
                 
                         

 第187話  秦野のお話
      師 走       


 12月17日 午後1時30分から「道祖神ワンダーワールド・千姿万態」の講演会を鶴巻公民館で。コロナ禍の中、しかも師走。12名の参加はあ
りがたかった。その顔ぶれは、私の道祖神講座によく顔を出してくれるM.M、T、I、Yさんはこの日も来てくれた。Mさんは東中学校の教え子、
以前ご夫婦で来てくれたが今日は一人なのがちょっと気になる。鶴巻中での教え子の保護者Kさんの顔は懐かしかった。六月に入院した折お
世話になった看護師Eさんのお母さんSさんは初参加。Sさんは市内の野仏を訪ねるのが趣味とか。最後列の席に妹夫婦の顔も。
 この日の資料として、長野市上大岡の「道祖神もなか」と仙台の二柱神社の「アマビエの御朱印」を準備した。どちらも喜んでもらえた。

 ☆参加してくれたMさんとM.Mさんの感想
 今日は思った通り楽しんで講座を聴くことができました。ありがとうございました。2回目の受講になりますが、先生の引出しの多さに、またま
た感激です。でも換気が良すぎて、先生が風邪引かないか、気がかりでした💓 お話ができたらとも思っていましたが、先生を囲んでいる人が
大勢いたので、ご挨拶だけで失礼しました。寒いので気をつけてお帰り下さい。   M

 「道祖神の落ち穂拾い・千姿万態」という講座を受ける。講師は「まほら秦野みちしるべの会」の武勝美先生。道祖神の誕生経過など付いての
説明を行い、道祖神の種類や性格、地区別分布や特徴の他、取材時のエピソード等を含め道祖神の魅力をアピールされた。   M.M



 常盤木の在りて色増す庭紅葉
 初冬の庭の景色は心を暖かくしてくれる。槐色のドウダンツツジの垣根は通園する園児を喜ばせている。明るい茶褐色の数葉が残るヤマモ
ミジ。二本の公孫樹の黄葉はかなり散り落ちたがまだ豊かだ。
 寒椿は終わりを迎え深い赤の花びらを散り敷く。伊豆大島の旅で貰った白ツバキも花を咲かせ始めた。マンリョウの実は鮮明な赤。上向きで
マンリョウと競うセンリョウの実は小粒だが赤。黄緑の実のマンリョウは少し元気がない。
 白菊は最後の変化の紫色、ハマギクは黄色をさらに濃くしている。小さい球状の白い花と薄緑の蕾のヤツデは冬の花の代表。日当たりが良
い場所の水仙はもう花をつけた。その傍らのニシキギの葉の赤が日に透けて一段と赤く輝く。隣家との境の蜜柑もようやくその黄色を濃くし始
めた。
 斜めの陽が射す遠山の雑木林の暖色は、愁思の深まりを慰める風景を描いている。黄・赤・茶色の葉はすっかり散り落ちた桜の大樹の上に
大きく青空が広がる。


2020年10月10日更新

 第186話  秦野のお話
         豆ぶち  

 
  一株ずつていねいに扱ぎながら「今年は上出来!」と喜び合ひぬ  

 9月22日 秋の彼岸の中日 落花生の収穫をした。今年はハクビシンに荒らされることなく今日を迎えることができた。30株ほどだがしっかりと
した実が付いていた。過去最高の品質と量。この出来は山口さんの大きな力による。感謝したい。  

 【豆ぶち】
 子供の頃は落花生を収穫することを「豆ぶち(打つ)」と言っていた。畑の落花生を扱いて(扱ぐ=コグ・根のついたままそっくり引き抜くこと)数日
畑で天日干しする。ある程度乾燥したら畑に空の四斗樽を持ち込み、その樽の縁を落花生の根の部分、実の生っている部分で「ぶつ(打つ)」。
と、実が樽の中に落ちる。だから「豆ぶち」。この「豆ぶち」はお百姓の知恵。手で捥ぐよりはるかに効率がイイ。

 曾屋神社が「秦野落花生みくじ」を
 秦野は我が国の落花生発祥の地と言われ、今も生産地で、落花生菓子を作る店も多い。その「秦野名産落花生」にちなみ、曾屋神社(守山文
夫宮司)がご当地みくじ『秦野落花生みくじ』の頒布を始めた。「鞘の落花生を模した形の入れ物におみくじが入っているもので、初穂料は300
円」と「タウンニュース」が報じている(10月9日付け)。
  『ご当地みくじ』は、その土地の名産や名物、神社の由来などをモチーフにしたお御籤のことで、この頃御朱印集めと同じように収集家が増え
ているらしい。長谷寺(鎌倉市) 、貴船神社(京都市)、大宰府天満宮(福岡)、椿大社(鈴鹿市 猿田彦大神の本宮「道祖神の里巡り」で参拝している)
などのものが人気があるようだ。
                          



2020年8月5日更新

 第185話  秦野のお話
     お盆の「ツジ」  

   
 秦野の民俗  お盆の「ツジ」                                        武 勝美 

 ご先祖様を迎えるツジ(砂盛り)                                  
 秦野で八月にお盆の行事をするのは本町地区と大根地区。東・西・南・北地区は七月がお盆月。私の住む寺山のお盆は七月。七月十三日に家の中に
盆棚を作り、門口に「ツジ」と呼ぶ川砂の壇を作る。私の子どものころは富士山の火山灰の黒い土を掘り出して使っていた。
 それぞれの家で作る「ツジ」はその家が昔から作ってきた独自のもの。砂盛りというようにどのツジも地面より高く方形に盛り上げで作られている。本町
地区のK家とU家は1㍍を超える高い櫓状の「ツジ」を作る。

 地名用語『ツジ・つじ(築地、辻)』の語源                    
 地名用語語源辞典によれば、「ツジ・つじ(築地、辻)」という地名は次のような場所を指している。1 峰(島根県、熊本県阿蘇郡)、2 頂上(島根県、香川県
ほか)、3 山の頂上(和歌山県、長崎県大村ほか)、4低い山の頂上(大分県由布院)、5こずえ(対馬)、6先端・サキ(島根県石見)、7山道の合した所(奈良
県吉野郡)、8 道の追分(長崎県)、9 四つ角・四つ辻(名古屋、京都、大阪、和歌山市ほか各地)、10相撲場・土俵(山梨県)、11市場(石川県金沢)、12石
を積み重ねた所(富山県五箇山)。この中の1~6は「人の頭にある旋毛」をいう『ツムジ』から生まれ・分かれてできた言葉・語である。
 先人は初め山に住み、やがて平野に下りムラを作った。だから上古からごく近年に至るまで、徒歩による最良の交通路は尾根筋であった。その尾根筋
を行く道は「ツキ(「高所」)・ミチ(道)」と呼ばれていた。尾根筋が合う頂上は「ツキ(「高所」)・チ(接尾語)」である。10も「高くなった所」の意。12はツキ(築)・
チ(地)が語源。10、12はいずれも高い所を表す言葉。1~4と7~9は相通ずるものがある。
 お盆と「ツジ」
 お盆の「ツジ」には、里芋の葉に賽の目に切ったナスを盛ったものを供える。ナスの馬、キュウリの牛の食べ物だ。そうめんを供える家もあるが、これは
無縁仏様(帰って来たのに家が無い)のためのものと言われている。
 十三日の夕方、そのツジの前でキビガラの迎え火を焚く。ツジと迎え火は里帰りするご先祖様(オショロサン・お精霊様のこと)のための目印である。ツジ
で一休みしたご先祖様は、ナスの牛とキュウリの馬に乗って家の中の盆棚に着く。お盆の三日間、近所の人が「お参りさせてください」と夕方になると線香
を手向けに来てくれる。我が家が回るのは7軒。ツジという風習になじみのない地方からこの地に定住された家はツジは作らない。
 十六日の夕方、ツジの前で送り火が焚かれる。ご先祖様はナスの牛の背に乗り、その送り火の煙と共に帰って行かれる。「“モウ”帰るのか」と名残り惜し
げに、ふり返りふり返りなのだろう。ゆつくり、ゆっくり帰っていくナスの牛の後をたくさん買ったお土産を背負ったキュウリの馬が付いて行く。 

 長野県下のお盆の「ツジ・砂盛り」の風習  
 秦野地方でお盆に作る「ツジ」と同じような風習が長野県下でも見られる。 
1長野県上伊那郡飯島町 「新盆見舞い」について『飯島町誌』には次のような記述がある。「門口に長方形に砂を盛り上げたものを作り、訪ねて来た人々に
線香を立ててもらう。翌朝この砂の上に足跡があるが、これは仏様の足跡。この足跡を見て、ご先祖様が今年も無事お戻りになったと一安心するのだ。特に
新盆の家は、十三日の夕方、新盆見舞いとして親戚・縁者が集まり「仏迎え」として砂山に線香を立てる風習がある。                                              
2長野県上伊那郡中川村 「新盆の家では百八束の松明をこしらえ、十三日の晩に縁者が集まり、墓地に行き火のついた松明をふる。庭に新砂を盛り、線香
を立てこれに代える家もある」。(『上伊那誌民俗篇上』)
3長野県下伊那郡松川町 『松川町の年中行事』に次のような記述がある。「庭先に砂を盛ったり、縦30cm横50cm位の木の箱に砂を山に盛って線香立てを
作る。線香を立てるかわりにローソクを百本(または百八本)立てるようにする家もある」。
4長野県佐久市
 『長野県史民俗編総説Ⅰ』には、「東信の南佐久の中部では門口でわら束を燃し、土盛りをして線香をたくさん立てる地域がある。このことを佐久市大地堂で
は「盆棚へ迎えられない子供の霊に供えるためにする」のだと説明している。「門口と同じように便所の入り口にも土盛りをして線香をたくさん立てる」とも記さ
れている。お盆に土盛りを作る事例が佐久地域にはある、と報告されている。
5長野県下伊那郡根羽村のお盆
会員・関裕子さんのお父さんの実家は長野県下伊那郡根羽村。その裕子さんも「小さいころ父の実家にお盆で行ったとき、庭に砂の山が造られていたのを見
た記憶がある」と話す。以下は裕子さんの思い出と裕子さんの叔母さん(94歳)の話(2010年ころ)
 十三日の夕方、家の者がお墓に行き、松明をつけ、その灯りでお精霊(ご先祖)様を連れてくる。縄松明なので、子供がその火のついた縄を振り廻しながら家
に向かう。お盆に帰ってきたお精霊様は十六日に帰られる。その日の夕方、お墓に行き松明を灯し、お精霊様が無事に帰り着かれたかを確かめる。十七日の
午前0時、家族そろって近所を流れる川に行き、灯明を点け、お線香を焚き、お盆に飾ったものを《川に流す・放り投げる》。これは今も行われている。どの家も
お精霊様送りをするので川べりはにぎやか。お盆に実家に帰ってきた人たちが、元気に顔を合わせることかできたことを喜び合う光景も見られる。関裕子さん
には、眠い目をこすりながら連れて行かれたこのお精霊様送りは印象深いものだった。
6秦野市寺山・清水の「ツジ」と呼ばれる家
 私の住む秦野市寺山清水に「ツジ」と呼ばれている家屋敷があった(現東中学校校庭の一部)。その地は「四つ辻」の一角ではなく、「T字路・三つ辻」―道に|
道が突き当たる処だった。T字路は大山道坂本通と大山道蓑毛通を結んでいて、「ツジ」と呼ばれる家の東側には高さ5mほどの崖があり、西は2㍍ほどの高さ
の平地が蓑毛通に接していた。 (2020/8記)

 秦野の「瓜生野百八松明」
 秦野の大根・瓜生野地区にも瓜生野百八松明(うりゅうのひゃくはったい)というお盆の民俗がある。 五穀豊穣・悪疫退散を祈願して、
毎年8月14日、弘法山の麓の瓜生野地区で数百年も行われていると伝えられている行事。長さ2m~3mの松明約50本が、権現山山頂
から龍法寺門前まで地元の人々に担いで運ばれ、門前で松明を振り回す。

 ご先祖さんはマチに買い物に 秦野のお盆 
 十四日はあんころ餅を供えるが、これは農作業に疲れたからだに甘い物が必要という生活の知恵からのものだと思う。十五日の朝は
茶飯のおにぎりが盆棚に二個上げられる。この日はご先祖様が『マチ』に買い物に行かれるので、お弁当におにぎりを持たせるのだ。
年に一度、大勢の友達や知り合いに会えるマチでの買い物は楽しいだろう。だが、何をお買いになるのかは知らない、だれだれも一緒
に行けないのだから。
 マチとは、江戸時代に「十日市場」と呼ばれていた秦野町(今の本町地区)を指しているようだ。このご先祖様が里帰りの時にマチに買
い物に行くという話は、あちこちにある。寒川町(神奈川)のあたりでは、伊勢に買い物に行くといわれている。豪華な買い物ツアーだ。
巻き寿司を持ってカンダノマチに出かけるのが御殿場地方の話、カンダノマチとは東京の神田のことだという人もいる。御殿場の人が東
京・神田というのは頷ける。JR御殿場線はかつては東海道道本線だったから。「戸塚(横浜)ではアズキ飯のおにぎりを持って町田(東京)
に行く」と話してくれた人もいる。    (まほら秦野みちしるべの会会報  第16号・2020年8月10日)

2020年5月17日更新

 第184話  秦野のお話
  南矢名の道祖神の遷宮  

                          
 
 南矢名の杉山妙子先生から「庭の道祖神が遷宮されたので紀年銘を読み取りたいと思うが三文字が読め
ないが」と相談の電話。手持ちの資料を郵送することにした。

 道祖神さんも喜んでいらっしゃるでしょう
 過日はお忙しい中、私たち地区の道祖神のためにご協力いただきありがとうございました。自治会長さん
たちが道祖神の保存についてがんばってくださいました。それに私も何か協力できないかと考え、先生を頼
ったのです。草の中に埋もれていた道祖神さんも、っと喜んでいらっしゃるだろうと思っています。
                   杉山 妙子
  

               「チーム竹の子」にご声援 ありがとうございました
                                  4月12日の神奈川新聞「自由の声」欄
                   
  
 
 長野・池田町の道祖神
 3月25日  気仙沼の渡邊さんが先ごろ長野に旅した折、喫茶店で偶然手にされた季刊『「Skima2020」を届
けてくださった。
 「信州のスキマを好きで埋める」と地域活性を願うこの号は「双体道祖神の魅力」の特集が組まれている。
それで私に、ということ。特集は「長野・池田町の道祖神巡り」。池田町は4年前の夏に訪れている。八幡神社
の三基、相道寺のオヤスで葺かれた道祖神などを懐かしみながら、ページをめくり、この夏の「里巡り」に思い
を馳せた。

 刺激を受けています
 毎月の「エコー」のご送付ありがとうございます。先生の弛みないご努力に大いに刺激を受けています。再
度老躯に鞭打ってがんばっていこうと思っています。    秦野歴史おこしの会  小泉 孝

 女神は《娘さん》
 市内平沢の街角で一体の道祖神に逢いました。スケッチしているうちに、その女神の顔が《年頃の娘さん》
に見えてきました。帰ってからその写真をもとに《娘さん》パステルで描いて楽しみました。ご笑覧ください。  
                                                         井越 基生

2020年3月25日更新

 第183話 
  寺山の四季 
 
四月三日、四日は「お花見」


 秦野では四月三日、四日は女の子の節句である。この二日間は“お花見”という子供にとって楽しみな行事の日でもある。女の子だけ
でなく、男の子も節句を祝う。 このお花見の弁当はほんとうに楽しみだった。
三日と四日は、それぞれ弁当の内容がちがう。三日はお寿司。外を卵やきで巻き、中にはのり巻きが入っている太巻き寿司である。そ
れが、朱ぬりの大きな重箱にぎっしりとつまっている。私が寺山の鹿島神社のお祭りに太巻き寿司を巻き、親族に振る舞ったルーツはこ
こにある。
 二日日の四日は、あずき飯のオムスビになる。牛乳のテン寄せは、甘く、冷たくおいしかった。そして、好物のタニシがほんのわずかだ
が入っている。お花見が近づくと、近くの田んぼにタニシを掘りに行く。表面が少ししめった田んぼに行き、その地面にひび割れが入って
いるところを探す。ひび割れが走っていて、それが交差しているところがタニシのいるところだ。棒や人さし指で掘り出すのはかんたんだ。
 お花見には白酒も持っていった。清涼飲料水などほとんど手に入らない時代だった。白酒は、密造のドブロクからとる。ドブロクが十分
発酵する前に上澄みをすくいとり、子どもたちは飲んだ。里山を走り回る男たちのかわいたのどを、甘く冷たく通り過ぎる白酒のおいしさ。
その味は、うすい水色の四合びんと共に今も忘れられない。
 レンゲ田がひろがっている谷あいで、女の子たちがレンゲの花の中にゴザを敷き重箱をひろげている。女の子たちのお花見は、レンゲ
の花で作った首飾りをかけ、スミレの花を松ぼっくりに挿した飾り物を作り、つばなを噛んだお花見だった。
 
 四月の特定の日に行うこの「お花見」という風習は農民文化の一つ。弥生時代から、農民が山に入り桜花の下で田の神をもてなす(飲
み食いする・「直会」のこと) 「春山行き」という農耕儀礼があった。この秋のお米の豊作を予言する満開の桜花を連れてきた田の神に感
謝するお花見は農民の神事であり、祝い事なのである。



2020年1月1日更新

 第182話   
    郷愁の『秦野煙草音頭』


 『タバコのし』で“婚ふ(よばふ)”

  ♪ のしてたばねて いつしか更けて 雁のなく夜の エーなんとしょ お月さま ♪(秦野煙草音頭)

 10月になるとタバコ農家では『タバコのし』が始まる。夏に天日干しされた葉タバコを一枚ずつ選り別け、出荷(『納付』)用に束ねる
作業が『タバコのし』で、子供にはとてもつらい、嫌な手伝いだった。夕食が済むと土間にムシロが広げられ、二人一組でタバコの葉
を一枚一枚伸ばし、30枚くらいで束ねる作業。乾燥しきった葉に“霧吹き”がされ、その湿った葉を、向き合った二人で広げ、ていね
いに伸ばす。二人いなければできないが、子供にもできる仕事。だから毎晩家族総出でする『タバコのし』。 11月に入ると土間は冷
えていて、寒気が足から昇ってくる。湿された葉は強烈な匂いを発している。(絶えられなかった匂い、だから私はタバコは吸えない。)
葉から出るヤニは、指先から掌にかけて黒く着き、簡単には落ちない。
  一人ではできない『タバコのし』が好きな人たちもいた。年ごろの娘を持ったタバコ農家の家族だ。夜になると、その娘さんの家に
未婚の農家の青年が訪ねてくる。娘さんの評判を聞いて、隣村からも来る。そしてその家の『タバコのし』の手助けをする。運のよい
青年は、娘さんと差し向かいになれる、手に触れることもできるかもしれない。―『金色夜叉』の貫一とお宮はカルタ会で、タバコ作り
の青年と娘は『タバコのし』で手が触れ合う―。「いい娘がいると『タバコのし』は早く終わる」という格言?が秦野盆地にあった。
 隣の洋ちゃんは125ccのバイクで『タバコのし』ゃんに出かけ、テルちゃんを娶った。隣のもう一軒もタバコ農家だが、当主は戦死さ
れ、爺ちゃん・婆ちゃん・母ちゃんの「三ちゃん農家」。そこには一人娘のキヨ子ちゃんがいた。そのキヨ子ちゃんの元へ一山越えた村
から『タバコのし』に通ってきてくれたのは利ちゃんだった。そして利ちゃんはキヨ子ちゃんの婿さんになった。
 「婚ふ(よばふ)」という古語の借字に「夜這い」がある。「婚ふ」とは「求婚する、妻問いをする」という意味。青年たちはタバコの葉を
伸しながら娘さんを「婚ふ」のだった。
 
 今風“クリスマス・イブ”だった納付日の夜
  ♪ 煙草おさめのうれしい晩は まゝよほろ酔い エーなんとしょ 肘まくら ♪( 秦野煙草音頭)

 葉タバコ作りが最盛期の時代、今から60年以上も前、我が家も葉タバコ耕作農家だった。農家の子供達は12月になると葉タバコ
の『納付』の日を楽しみに待つ。納付とは、煙草専売所に買ってもらうこと。納付の日は、近隣(伊勢原、中井、松田など)のタバコ農
家が、馬や牛車、荷車で葉タバコを秦野町にある秦野煙草専売所に運びこむので、朝から周辺道路もにぎわった。今のイオンの敷
地全てが秦野専売所だった。
 持ち込まれた葉タバコは検査官によって優等から二等までに品定めをされ、現金が支払われた。祖父は、そのお金を懐に三角屋
に入り、中華そばを注文し、昼間からお酒を飲んだ。この酒がたまらなくうまい、と祖父は言っていた。昼食が終わると、祖父は家族
に土産の買い物する。最初に榎本履物屋でお正月用の家族の下駄を買う。次の買い物は、法華寺の坂の上にある佐野の饅頭屋
の饅頭。私はここの鹿の子が好きだ。そして最後に川口肉屋でブタ肉を買い、荷車を引いて帰ってくる。私はもちろんだが、その日
は祖父が帰ってくるのを家族全員が首を長くして待っていた。
 その夜は、下駄をもらい、すき焼きもどきの肉を味わい、食後に饅頭を食べた。わが家の居間は、明るい顔と華やいだ声で満ちて
いた。今に置き換えれば、“クリスマス・イブ”。
 
 秦野で葉タバコ栽培が始まったのは江戸初期。1904(明治37)年には、耕作面積が最高の1、856㌶に達した。翌年、煙草製造
所が開設され、後にJT秦野工場になり1988年まで続いた。秦野タバコは日本3銘葉の一つに挙げられ「国分タバコは天候で作り、
水府タバコは肥料で作り、秦野タバコは技術でつくる」と言われた。秦野盆地の暮らしは葉タバコと共にあった。
 今年も第72回秦野たばこ祭りは行なわれ、郷愁の秦野煙草音頭が秦野盆地に流れた。

2019年11月30日更新

 第181話 
 
「金目川 ホントは金日川?」 

秦野を流れる川・「金目川
 新編相模國風土記稿(1842年頃成立)は、「金日川」の読み仮名を「加奈為可波」、「加奈比可波」としています。それを受けて
「中郡勢誌・昭和48(1953)年」は、「金目川」を『金楲川(かない川)』として「金楲(難しい文字だから)→金日→金目(誤記されて)」
と文字は転化したと説いています。それに従って読み方・発音も「カナイ」から「カナメ」になったのです。 この《楲(い)》という文
字は、古語辞典によると「池の堤の中などに埋めて戸を開閉して水量を調節する仕掛け=樋」とあります。
 ところで《金》という文字ですが、この文字は「しっかりとした、頑丈な」という意味で使われることが多いようです。例えば、金目
川沿いにある「金田」という地名は、金が産出する田んぼの地名ではなく、しっかりとした田んぼ・良い田がある地域を表していま
す。寺山の隣の東田原に「金山」と呼ばれる集落があります。裏に山を背負っていますが、「金が出た山」とは聞いていません。
金の代わりに良い湧水が出る山です。今も十軒ほどで生活用水にしています。たぶん「豊かな水を蓄えた山 良い山、しっかりと
した山」だから〈金山〉と古人は名づけたのでしょう。
 『金楲川(かない川)=金目川』とは、「しっかりとした水門がある」川という意味なのです。今も金目川沿いに、河口である平塚
に向かえば、金目川から水を取り入れた水田地帯が大根地区の〈大槻〉あたりからずっとつながり広がっています。この大槻と
いう地名は「大きな槻(けやき)」ではなく〈大築〉が正しいようです。『金楲川(かない川)=金目川』に大きな堤防を築いたからで
す。それは洪水対策でもありましたが、水門《楲(い)》のための工事でもあったのでしょう。東公民館の裏を流れる金目川沿いに
《大口》という地名があります。そこは金目川から今年も水田に水を引き入れているところです。
 新編相模國風土記稿の「金目川の項に「水路六里三十町許 幅上流にては三、四間 下流は三十五、六間におよべり この水
を用水として、耕植する村許多、水除堤を設く、高二間」とあります。そこに記されている数字を㍍法で換算してみました。水路六
里三十町は約27㎞ 川幅三間は5.4㍍ 三十五間はおおよそ63㍍ 高さ二間が3.6㍍です。さらに風土記稿には、金目川の水を
使って水田を耕作している村名が25カ村挙げられています。『金楲川(かない川)=金目川』はしっかりとした水門・取水口《楲》を
もち、人々の豊かな暮らしを支える川なのでした。
◇同書による金目川の川幅 
 蓑毛村 春嶽川(金目川の源流)  川巾7~8尺(2,1~2.4㍍)
 寺山村 川巾3~4間(5.4~7.2㍍) ・堤あり   ※寺山村と東田原村を繋ぐ橋 長さ4間半(8.1㍍)巾3尺(90㌢)の板橋
 東田原村 川巾6間(14.4㍍) 堤7尺(2.1㍍)    ※寺山村と名古木村、落合村を繋ぐ橋 長さ1間半(2.7㍍)巾4尺(1.2㍍)の板橋
 落合村 川巾9~12間(16.2から21.6㍍)  ・橋1長さ5間(9㍍)
 曾屋村 川巾12間(21.6㍍) ・板橋4 長さ4~5間(9㍍)

 《楲》という文字 この文字が書かれている文献に出合いました。 『古事記を読む会』でです。古事記下巻の仁徳天皇の「民の
竈はにぎわいにけり」というあのお話の中です。「国民のことを思い、税金を集めなくなったので宮殿は雨漏り。その雨漏りを受け
る器が《楲・い》」でした。


2019年10月30日更新

 第180話 
 
お題目道祖神   富士宮市淀師大谷戸

 淀師・大谷戸の道祖神  2基(文字碑と双体)    富士宮市淀師1333-1付近 
 (左)題目道祖神 正面に「南無妙法蓮華経」のお題目。その下に「道祖神」と刻まれている。。
 「明和九壬辰(1772)年正月吉日大谷戸」と刻まれている。塔高102㎝ 幅52㎝
 (右)男女双体握手像 起舟形 紀年銘「文化五辰(1808)年九月日立之」 塔高58㎝ 幅42 ㎝ 身の丈48㎝
 男神は抱肩、女神は抱腰。女神の表情がやさしい。

                     

2019年9月1日更新

 第179話 
 
まほら秦野みちしるべの会 定例研修会  2019/9/8
     地名と氏名(苗字) 地名編

地名と氏名(苗字) 
地名は人が住んでいるところに生まれる。先人の暮らし、風土、自然の地形を知ることが出来る遺産。
1地名から分かる自然と地形 落合 栃窪 蓑毛 戸川 鶴巻 塩貝 
2地名から見える日本文化史
  
【暮らし】 清水 根小屋(堀ノ内、箕輪も同じ) 〇〇開戸 谷戸( 〇〇ゲ谷戸も同じ) 今泉 雑敷 「十日町、馬喰町、大工町など」 
【交通・道】 峠 大竹(大駄家)            [追分、四街道なと] 
【宗教】 宮田 宮前 花鳥 大仙寺 天神脇 京塚 踊宮(舞ケ久保 舞台 踊場) 
【渡来人】 秦野 落幡
※[企業城下町 豊田市 日立市など]

「好字二字令」 和銅六(713)年 
1 好字、良字(瑞祥名)を地名にせよ 好字・井ノ上→紀伊守 ・井ノ尻→井ノ城 (秦野市東田原) 
 二文字にせよ →木ノ国が紀伊の国に 
2 山、川、原野の名の由来を記せ
3 古老から伝説や不思議な話を聞き記せ
4 特産品の報告
5 土地の肥沃度の報告

地名の変遷
1 その地名にふさわしい文字が与えられる (瑞祥も多い)
2 漢字が使われるようになると、最初の意味と違うものに変わってしまうものもある。

 ・代馬岳(代掻き馬が現れる)→白馬(しろうま)→白馬(はくば)

合併による地名の変遷、
・豊科町(村)  鳥羽村、吉野村、新田村、成相村の頭文字をとって「とよしな」
・山梨県忍野村 忍草村と内野村
・特異な合成地名 清哲村=水上村 青木村 折居村 樋口村の一字ずつを取り作った文字(この「清哲」今は山梨県韮崎市の地区
名として残っている)
・「熊が付く地名」「隈」が「熊」 蔵谷(秦野市東田原象ケ谷戸)  蔵波(袖ヶ浦市) 熊本 熊谷 熊久保(高崎市)  

 難読・難解地名   薬袋(山梨県早川町)   十八女町(徳島県阿南市)

秦野の地名の由来・意味 あるいは伝承 
西地区 ・渋沢・千村・栃窪=「閉ず」で山などに囲まれた地。窪も同じ地形
大根地区 ・鶴巻・落幡・大椿  東地区 ・蓑毛・寺山・名古木   
南地区 ・今泉・尾尻  本町地区 ・曾屋・大槻・十日市場  
北地区 ・菩提・戸川  上地区 ・菖蒲・三廻部
・金目川  加奈比(為)可波  金樋(楲)川・カナヒカワ →金日川


「秦野(はだの)」という地名の由来
 秦野市のホームページは地名「秦野」の由来について次のように紹介している。
秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機
織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もその1つです。平安時代に書かれた「倭名鈔」には秦野
の古名は「幡多」だったと記載されています。いずれにしろ、秦野には古くから多くの人々が住みついて、困難を克服し新天地を形成
していったと考えられます。
◇波多野氏の発祥と発展
 承平の乱(935)をおこした平将門は、藤原秀郷によって倒されました。秀郷はその功により、東国(武蔵・下野)の国司に任ぜられ、
その子孫・藤原経範が秦野盆地の原野を開墾土着し、勢力を広めていったと考えられています。この経範は波多野氏を名のりまし
た。
地名「秦野」はいつから 
 秦野という地名が登場したのは明治22(1889)年の市制・町村制施行のとき秦野町が生まれ、続いて盆地内の村々が合併して、東、
西、南、北、上秦野村が誕生した。それまでは、大きくは「波多野庄」とよばれ、曽屋村、寺山村、戸川村、落幡村、尾尻村、渋沢村な
ど今の大字単位で村を成していた。
秦野は「ハダノ」? それとも「ハタノ」
 今は秦野は「ハダノ」と発音・音読されているが、戦後一時期「ハタノ」とも発音され混乱しました。上の秦野市の説明にもあるように、
秦野というの地名の由来や、波多野という姓を作った藤原経範にすれば「秦=波多・ハタ」と発音していたと思います。  
 新編相模國風土記稿の巻之42・村里部 大住郡巻之1で紹介されている「波多野庄」の「波多野」に「葉駄迺」と読み仮名が付けられ
ている。「迺」という字は「ダイ」「ナイ」と発音する文字だが、「迺」=「乃」という意味から、仮名ふりの「ノ」として「迺」が使われたようだ。
このことは、1840年ころ波多野に住んでいた人たちは「波多野」を「ハダノ」と発音していたということあらわしている。この仮名ふりを根
拠に「秦野」は「ハタノ」ではなく「ハダノ」(音読・発音)と統一された。 
 ※本居宣長は「秦」を「ハダ」と読むと説いています。

 
地名の雑学
 平成の大合併(2003-2005年)で誕生した ひらがな・カタカナの自治体
(沖縄)うるま市  (鹿児島 南さつま市 いちき串木野市 さつま町  (宮崎)えびの市  (熊本)あさぎり町  (佐賀)みやき町  
(福岡)うきは市 みやこ町(徳島)いの町  (高知)東みよし町 つるぎ町  (香川)まんのう町 さぬき市 東かがわ市  
(島根)隠岐の島町  (兵庫)東あわじ市  たつの市  (和歌山)かつらぎ町 みなべ市  (福井)おおい町 おわら市 
(石川)かほく市  (三重)いなべ市  (静岡)伊豆の国市  (山梨)南アルプス市  (埼玉)さいたま市 ふじみ野市 ときがわ町 
(千葉)いすみ市  (茨城)つくばみらい市 つくば市 かすみがうら市  (群馬)みなかみ市 みどり市  (栃木)さくら市 
(秋田)にかほ市  (青森)おいらせ町 むつ市 つがる市  (北海道)せたな町 むかわ町 新ひだか町

幻の地名 
・南セントレア市(愛知)centrair(セントレア) centralと airportからの造語)   ・天草シオマネキ市(熊本)   ・黒潮市(高知)  
 ・湘南市(神奈川)   ・太平洋市(千葉)  ・良寛町(新潟)   ・はながさ市(山形)   ・白神市(秋田)

2019年7月1日更新

 第178話 
 
静岡県沼津市

  
旧東海道の穿穴(コンボータ)道祖神

 旧東海道の穿穴(コンボータ)道祖神 静岡県沼津市桃里・一本松・大塚地区           2019年6月5日
 吉川静雄氏はその著「富士山麓の道祖神」に沼津市での72基の調査を報告している。今回訪ねたのは旧東海道に沿って立つ四基
の単体坐像道祖神。

 桃里中町の道祖神 
バス停「桃里中町」の脇   丸彫り単体合掌坐像  塔高50㎝ 幅32㎝ 奥行20㎝  合掌の部分がわずかに見える。
 穿穴(コンボータ)の数 正面17 背面9 頭部から肩10 顔や頭部の穴が大きい
 道祖神の穿穴(コンボータ)については、長野でも「子どもが石で穴を彫って遊んだ跡」という説明を聞いている。だが、子どもの遊び
とは言え、サイノカミを倒してトリモチづくりをする、しかもとは少し信じがたい。豊作の神・道祖神だから許されたのだろうか。
                                         

2019年5月1日更新

 第177話 
 
東北の村々に祀られている 
  
ワラ製の境神
 

 『エコー』」の読者・岩手県北上市の渡邉知子さんから「東北地方のワラ製の道祖神」の資料が届いた。宮城県多賀城市
にある東北民俗博物館を見学した折、私の『道祖神ワンダーワールド』の中の秋田の「木と藁の道祖神」と同じ趣旨の『境
の神』が東北各地で祀られていることを学び、そのことを手紙と資料で以下のように報告してくださった。

 ワラ製の境神
 集落の各家がワラを持ちより一日かがりで境を護る神様を作り、村境に立てる。普通は一カ所だが集落によっては集落
の出入り口二カ所に祀る。この神様は集落に厄病災難の侵入を防ぐ。村境の神は次の三種類に大別される。
①厄災の侵入を防ぐ道祖神。石に男女二神を彫ったものが知られているが、ワラ製のものが道祖神本来の姿 
②虫送り・稲の病害虫退治 
③村に入った流行病を送りだす 

資料
村境の神々 人形神に託した祈り    東北歴史博物館  
 東北各地には、村境にワラ製の神様を祀る行事が多くあります。
かつて人々は、災いは街道を通り、村の外からやってくると考えていました。人々が、村を災いから守ってほしいという願い
を込めて、今もワラ製の神様を村境に祀り立たせたり、川に流したり、焼いたりするのです。
①人形まつり  岩手県二戸市福田 8月16日
 人々が体をさすったせんべいを持ち寄り、人形に託す厄払いのまつり。村を巡った人形は村境の橋から川へ流される。
②厄払い人形まつり 岩手県西和賀町(旧添田町白木野) 1月19日
 村に災いが侵入するのを防そため、集落の人々が集まって人形を作り、村境の立木にくくりつけて境の神とする行事。
③虫送り  青森県五所川原市高瀬 5月24日
 稲につく病虫を村の外に追いやるためのもの。へビの形をしたワラ製のムシを作り、村境まで運び立ち木にくくりつける。
④虫追いまつり  岩手県二戸市中沢 7月26日
 作物につく虫や病気を追い払うためのまつり。 男女一体ずつの人形を村境まで運び、火をつけて燃やす。
⑤鹿島送り 秋田県横手市(旧雄物川町深井) 7月16日
 五穀豊穣・無病息災をねがう行事。 それぞれの家で鹿島人形と呼ばれるワラ人形を作り、鹿島舟にのせる。また、集
 落全体の大きな鹿島様も作られる。小さな鹿島様は鹿島舟に乗せられて川に流され、大きな鹿島様は村境に安置され
 る。
⑥カシマサマ   秋田県横手市(旧山内村鳥沢)  4月26日
 丸太の骨観みのカシマサマに、ワラ製の衣を着せ、悪疫の侵入を防ぐようにと、村境の小高い丘に立たせる。
⑦オニオウサマ  秋田県大仙市(旧太田町鼻内) 毎年4月・11月
 集落にワラ製の人形やお面を祀り、その前で集まった人々が大きな数珠を回して、悪疫退散の念仏をとなえる。
⑧斉の道祖神  宮城県仙台市粟生
 村境にはワラで作られる人形゛道祖神のほか、まれに木で作られた道祖神も見られる。

2019年3月10日更新

 第176話  2019年3月7日 
  
富士道を歩く

 古道富士道を歩く 
  
講話 「富士道の落穂拾い・才戸の石碑群」  
                                     まほら秦野みちしるべの会  武 勝美    

才戸の石碑群
①五角柱の地神塔
 天照大神(アマテラスオオカミ)、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)、少彦名
命(スクナビコナノミコト)、と判読できない一柱(『秦野の地神塔』は、その一柱を「□□具命」)の五神が祀ら
れている。四国地方には五角柱の地神塔が多く見られる。そして次のように記されているもがある。「農業神
天照大神」「五穀護神大己貴命」「五穀祖神少彦名命」「土御祖神埴安姫命」「五穀祖神倉稲魂命」。天照大
神は天津神の代表。だから「□□具命」は大己貴神(オオナムチノカミ)は国津神の代表と推定したい。他の
三神・倉稲魂命・埴安姫命・少彦名命は田畑の守り神、豊穣を願う神である。
②男女双体道祖神
 市内初出の男女双体像。男神が女神の左に立つ。イザナキノミコトとイザナミノミトの契り。
③浅間大神塔(富士講碑)
浅間の語源  軽井沢高校 昭和57年の教材資料
・マライ語のアサツは「煙」の意味。南方諸民族の間では煙を意味する言葉として、アス、アサウ、アターウ、
アツッなどが使われている。「マ」はマライ語の母の意味であるからアサマは煙の母、あるいは「煙の女神」と
も考えられる。
・アイヌ語では噴火のことを「アソー」、場所の意味を「オマイ」で、阿蘇は噴火口の意味で、浅間は「アソーオ
マイ」で噴火口のある場所と言われる。
 ※富士山の語源  不死 不二 不尽 藤

天社神 
 暦の「天赦・天しゃ」と「社日」を合わせた「地神」の別称。彼岸直近の「つちのえ」の日を「社日」とし、地神に
豊作を祈る。今年の春の「社日」は3月22日。「天赦」は全てが許される日。「大吉日」。

地名「象ヶ谷戸」 
 東田原1672路傍の道祖神の紀年銘は「文化三□寅年九(1806年) □田原蔵谷戸」。風土記稿には「蔵ケ谷
戸」とある。
 村の隅・はずれにある集落だからが「隈ヶ谷戸」。「隈」が「蔵」に転化。「隈(クマ)ケ谷戸」→「蔵(クラ)ケ谷戸」。
そして「蔵・クラ」を「蔵・ゾウ」と読み、「蔵・ゾウ」が「象」に変えられた。
 蔵波(千葉・袖ヶ浦市)←隈波  熊久保(群馬・高崎市)← 隈窪  ※「蔵屋敷」。
 ちなみに「象」の文字を持つ地名は、奈良・吉野町の「象谷」・今は「喜佐谷」、秋田の「象潟や雨に西施がね
ぶの花」。いずれも「象」を「キサ」と発音する。

2019年1月1日更新

 第175話 
 
2019年のまほら秦野みちしるべの会の活動
 
   秦野市内のウオーキングマップ作り 


   


2018年11月10日更新

 第174話 
   
かながわ人
 
        神奈川新聞  2018、11、3

 

2018年10月10日更新

 第173話 
 
 道祖神の里めぐり

 『続Katsumi In 道祖神ワンダーワールド
 「道祖神の里」めぐり」  武勝美著の主な内容
(目次から)
Ⅰ道祖神の里めぐり
① 2016.8 塩尻市 茅野市 朝日村
② 2016.11 清川村
③ 2016.11 伊勢原市 平塚市
④ 2016.12 大月市 都留市 山梨市
⑤ 2016.12 相模原市緑区
⑥ 2017.1 茅ヶ崎市
⑦ 2017..2 富士市 静岡市 御殿場市 小山町
⑧ 2017.4 佐久市 伊那市 諏訪市 立科町 
⑨ 2017.6 酒々井町 南房総市 いすみ市 八街市
⑩ 2017.8 南魚沼市 長岡市 池田町 長野市 松本市 
⑪ 2017.8 長岡市ちょんぼ地蔵道祖神
⑫ 2017.11 伊豆市 三島市 函南町
⑬ 2018.1 小田原市
⑭ 2018.1 大磯町の左義長                      
⑮ 2018.4 鹿沼市 安中市                      
⑯ 2018.6 町田市
⑰ 2018.6 伊豆市 東伊豆町
⑱ 2018.8 茅野市 松田町寄               
Ⅱ道祖神考
1 道祖神の源流と分布     
2 双体道祖神発祥の地・秦野              
Ⅲ秦野の道祖神
1淡彩画と写真で案内「秦野の道祖神」     
2 エッセイと写真「上地区の道祖神祭り」「 どんど焼き ふるさとは秦野」                  
「寺山清水の道祖神祭り・トッケダンゴ」  
Ⅳ道祖神ワンダーワールド
1個性的・魅力的な道祖神
2道祖神日記

 10月22日に発刊の予定  定価2000円+税

2018年8月10日更新

 第172話 
 
 寺山ものがたり  お盆

 なくしたくないお盆の風習
 秦野の寺山は今日からお盆。午前8時にお墓の掃除に出かけた。ご先祖様は生家に戻ってこられるのだから墓
は留守。でもお帰りになったとき綺麗になっていたら喜ばれるだろうと掃除をする。
 墓石を洗い、花を供え、線香を手向ける。2時間ほどで終わる。8時という早い時間帯なのに、幾組かの家族の姿
が見える。皆さん、明るく挨拶を交わしている。
 帰ってから居間に盆棚をしつらえる。 昼前、妹夫婦が墓参りに来た。 午後は「ツジ」つくり。午後五時前に「ツジ」
の前で「迎え火」を焚き、キュウリの馬とナスの牛に乗ったご先祖さんを、灯明が灯った盆棚に迎え入れる。この頃
になると近所の人が「ツジ」に線香を上げに来る。我が家には6軒が詣でてくださる。
 私も線香を上げて回るが、普段ほとんど顔を合わせることが無い近所の皆さんと言葉を交わすことが出来る。き
ょうはヒサコさん、テルさん、ナオミさん、ケンちゃん、サダオ・ヤスオさん兄弟、ヨシノリさんの奥さんと話が出来た。
マサキさんは「体調いかがですか」が第一声だった。

。                      

  『道祖神の里めぐり』  10月に上梓
 「道祖神の里めぐり」を再開したのは2016年8月29日、長野県の諏訪盆地と松本盆地からでした。そして気が
つけば安房、上総、駿豆、上州路、信州の佐久平や伊那谷、越後長岡、上州の安中、下野は鹿沼にと足を運び、
めぐった里は44。その足跡を『道祖神の里めぐり』としてまとめました。 初校は7月31日に終わりました。刊行は
10月の予定です。

2018年7月10日更新

 第171話 
 
道祖神「ワンダーワールド」
   東京・町田市 烏天狗道祖神 

町田市の天狗童子(烏天狗)の道祖神
 東京都にも多くはないが道祖神は造立されている地がある。その一つ町田市の成瀬地区を6月2日に訪ねた。
ここには全国的にも類例を見ない天狗童子道祖神が三基(東光寺、西ノ久保、山村)祀られている。天狗童子は
烏天狗とも言われている。

東光寺の道祖神    町田市南成瀬  クリーンセンター前 
 単体立像・天狗童子道祖神   
 山伏装束で髪を高く結い、半眼のつりあがった眼。右手に天狗団扇(七裂のヤツデの葉)、左手に錫杖。完全に
近い姿を保っている。像の左側に「奉建立」「道祖神」、右側に「武刕成瀬」「東光寺村惣氏子」の銘。享保(1723)
8年の造立。塔高49㎝ 幅31㎝ 身の丈45㎝ 

 道の神・猿田彦大神は天狗として認識されている。それで道祖神として天狗童子が祀られている。煎り豆の落花
生とカリントウが供えられていた。高尾山薬王院の土産は「天狗の鼻かりんとう」と「天狗黒豆」。その二品かもしれ
ない。
 傍らに「本尊石」が置かれている。この石は1月14日の「だんご焼き」の火の中に置かれる。この火で焼いた団子
を食べると、この本尊石のご利益で風邪をひかない、と言われている。だんご焼きが終わると石は道祖神と地神の
前に安置され、来年までご利益を蓄える。
                               


2018年6月7日更新

 第170話 
 
道祖神「ワンダーワールド」
      個性的・魅力的な道祖神 


個性的・魅力的な道祖神 
 道祖神のメッカ・安曇野で見られる双体酒器(祝言像とも)像は、道祖神の典型と言ってよい。だが石造の道祖
神にきまった姿(形態)があるわけではない。形は造立するときの講や集落の人々がその形を決め石工に依頼し
ている。頼まれた石工にも自分の得意する像形(彫り方を含め)や好みがある。それでいろいろな像が生まれる。
特に双体像にはそれが顕著である。
 「道祖神の里めぐり」をしている私は、個性的で魅力的な道祖神にたくさん出会うことがでた。だが「個性的」とは
「珍しい」という意味ではない。「魅力溢れる」という意味である。その地の人たちにとって、だれもが心の拠り所に
することが出来る魅力的な道祖神を造立したのだ。

個性的で魅力的な道祖神の紹介( )は所在地
〇双体道祖神 ・片手拝み(佐久市) ・踊る猿田彦命と天鈿女命(南房総市) ・杖持ち丸彫り男女(千葉県酒々井町)
 ・防寒頭巾を被る男女(塩尻市) ・剣持ち(東御市 鳥取県大山町 米子市) ・幣束相合傘(南魚沼市 諏訪市)
 ・裃と袴(長岡市) ・繭玉の餅花を持つ(松本市) ・杼と糸を持つ(御殿場市 中央市) ・抱擁接吻(茅野市 高崎市) 
 ・抱擁交合(松本市 都留市 高崎市 中之条町) ・餅つき(安曇野市 安中市) ・光背が陽石(茅ヶ崎市)
 ・道行(米子市 鹿沼市) ・子育て(山梨県身延町 長岡市) ・こんぼったを持つ(諏訪市 佐久市 山梨市 小田原市)
 ・二猿合掌(小田原) ・モーニングとウエディングドレス(米子市) 
〇単体坐像道祖神 ・ちょんぼ地蔵(長岡市) ・目一つ小僧の帳面持ち(伊豆市) ・僧形(伊豆地方や神奈川県西部地方)
 ・神祇形(富士市 伊豆地方) 
〇単体立像道祖神 ・天狗童子(烏天狗とも)(町田市) ・地蔵(富士宮市) 
〇文字碑道祖神 ・辻立神(佐久市) ・道分大神(平塚市) ・塞座大神(伊勢原市) ・「祖」が陽形と女陰(静岡県小山町)
 ・花文字(伊那市) ・しめ飾り(長野市) ・二柱(米子市)
〇石棒道祖神 ・男根状の石棒(相模原市) ・2㍍40㌢の石棒(山梨市※石棒は各地で見られる) 
〇石祠道祖神 ・四方に御柱(諏訪市) ・祠の正面に男女双体立像(山梨市) ・妻の神(長岡市) ・こんぼった(山梨市)
〇丸石道祖神 ・丸石道祖神と繋がる「海会塔」(静岡市) ・こんぼった(山梨市) ・ゴロ石(神奈川県山北町)
〇木・藁の道祖神 ・ほだれ大神(長岡市) ・「オヤス」の覆い屋(長野県池田町) ・門入道(神奈川県山北町) ・オニョサ
 マとショウキサマ(大仙市 仙北市 秋田県美郷町) ・コンセサマ(気仙沼市) 

2018年4月1日更新

 第169話 
 
今日もまた道祖神は「ワンダーワールド」
   
 


 2018年2月24日 秦野市市民活動サポートセンター主催の【はだの雑学大学】第9回講座「道祖神ワンダーワ
ールド」を市保健福祉センターで持つ。
 この講座は「秦野の道祖神」、「神奈川の道祖神」に続き三回目。今回は「日本の道祖神」がテーマ。受講者は
50余名、顔なじみの道祖神ファンがほとんど。私の講座のほとんどに出てくれるKMさん、入室すると直ぐに「大
磯の左義長に行ってきました。ヤンナゴッコも見ました。お神酒までいただいちゃいました」と笑顔いっぱいで報告。
この日の私の話は「大磯の左義長」から始まったので、KMさんにとって今日の講座は楽しいものになっただろう。
 「午前は菩提の遺跡発掘の見学会、午後はこの道祖神の講座。今日は充実しています!」とこちらもニコニコ顔
で話かけてきた男性。名前は存知あげないが秦野高校での講座で最前列に席を取った人だ。愛川町から二人の
参加もあった。そのうちの一人Fさんから「甲州街道の沿道筋(山梨県に入って)の集落は丸石道祖神がほとんど。
ドンド焼きにはお仮屋を作って燃やしている。庚申講やお日待ちなど消えてしまっているのに、どんど焼きは子供
たちによって引き継がれている」という話が聞けた。
 「エコー」の読者のTさんが「子供が高崎にいます。今度行ったら道祖神の話をしてみます」と言って帰っていった。
その報告が楽しみ。道祖神の授業を企画した本町小のK先生とも話が出来た。
前回も参加の、秦野の道祖神を訪ねスケッチしている井越さんからその作品集を見せてもらった。「道祖神が永い
歳月を経て砕け欠落し、石くれに近くなればなるほどほどその姿に魅せらる」と井越さんの秦野の道祖神めぐりは
これからも続く。井越さんは秦野に住んでまだ二年とのこと。
 講座の後で一人の女性が「この近くに道祖神はありませんか。きょうの話でどうしても道祖神を見たくなったので」
と相談にきた。突然のことで戸惑った私に、傍らにいたMさんが「マラセの神がある」と行き先を教えてあげていた。
「みちしるべの会」から八人、「エコー」の読者三人、婦人会の二人など大勢の知人に出会えた。
 私にとって、今日もまた道祖神は「ワンダーワールド」だった。主催者、受講者の皆さんに心からお礼を申し上げ
なければ。受講者の一人松本さんは毎日ツイートしている。この講座のことをその日のうちに次のようにツイート。
「武勝美先生による『道祖神ワンダーワールドその3』を拝聴。左義長などの説明後、高崎市倉渕町、長野県安曇
野市穂高町、諏訪市など多くを取材され、道祖神についての時代背景やその想いを語られた。道祖神の魅力が増
した」。


2018年2月7日更新

 第168話 道祖神ワンダーワールド
 
南町の道祖神まつり

   
            
           秦野市 南地区


 私が自治会の役員をやっていた平成26年までは「どんどん焼き」という呼び方でした。他の地区では「どんど焼
き」で違いがあります。その呼称も平成27年から「どんど焼き」に替わりました。私の故郷・茨城では「どんど焼き」
はありません。ここに住み初めて知りました。
 南町では、畑中地区1箇所、峯地区2箇所で行われています。ただ場所がなかなか確保できず、現在は個人
の畑や庭で行っています。1月14日の数日前から燃えるもの(枯れ木、木材等)を集めることが始まります。当日
は、道祖神の結界を作ってきた斎竹としめ縄を取り外し、納められている正月飾りなどと一緒に燃やします。
 点火は午後二時過ぎです。炎が盛んになるころ地区の人たちが集まってきます。赤、白、緑色の団子を刺した
輪状の針金を竹竿の先に縛り付け、その火で焼きます。「書き初め」を燃やす子もいます。焼けた団子を他の人
と交換して食べることを「とっけ団子」と言い、「これを食べると風邪をひかない」と信じられ「とっけ団子」をする人
もいます。
 近隣の方30~40人が団子焼きに来ています。でも最近は子どもの参加が減っています。以前は大人がお洒を
手に談笑する姿も見られましたが、今はそんな光景もなくなりました。仕事の関係で参加者が少なくなりつつある
ように感じます。
 昔は6時ごろまで火を残していたようですが、今では5時ごろから片付けに入ります。片付けは自治会役員など
わずかな人で行っています。14日にこだわらす土、日に実施してはと持ちかけたことがありました。休日なら参加
が増えるだろうと思うからです。ですが、この地区の皆さんは「14日がその日だから」と、今も14日を守っています。 
                                                          田中 淑生 

2018年1月7日更新

 第167話 道祖神ワンダーワールド
 
初 道祖神の里めぐり
          小田原 曽我の里
  
           

 正月三日に二宮・山西で道祖神さんと一緒に箱根駅伝のランナーを応援するのは我が家の年中行事の一つ。
妻の教え子・文化放送の槙島アナウンサーは今年も実況放送を担当。こっちにも声援。昼食は根府川のホテル
でランチバイキング。このホテルの自慢は相模湾を見下ろすロケーション、そして立ち寄り湯。陽光を浴びながら
露天風呂に浸かる。
 午後は 義兄の墓参りで小田原d市上曽我の瑞雲寺に。義兄の眠る墓の正面は西湘の海、そして西には雪の
富士が大きく眺められる。
 墓参の後は初「道祖神の里めぐり」。

①小田原市千代の三島神社境内に双体2基。なぜか使い古しの財布が三つ納められている。賽の神とも呼ばれ
ているのでこれもありか。
②瑞雲寺前の公園に双体1基。並んで立つのは庚申塔。「日・月」も付いているし猿もいるが二匹。しかも合掌し
ている。庚申信仰と道祖神との習合と思った。珍しい塔に出会えた。
③曽我原・東光院の横に双体2基。④曽我別所は2基の双体。その1基は塔碑の上に半球の穴を三つ持ってい
た。長野の諏訪で見た、学んだ「コンボータ」と同じ。大発見!  この日回った道祖神はすべて僧形双体合掌立
像。文字碑には一つも会わなかった。徳本上人の六字名号塔(「南無阿弥陀仏」と書かれている)三基にも出合え
た。
                                                     
 曽我別所の道祖神は「六本松通・大山道」に面してい。それで帰途は六本松通・大山道をたどる。小田原と中
井町の境に「六本松の碑」が立っている。芭蕉の句碑も。
 峠を下り「大山道」の道標の立つ中井町久所に寄り、北田で一本松峠の道標を見る。ほどなくして六本松通は
矢倉沢往還に合流し秦野・本町を抜け寺山を通り坂本宿に向う。この道をたどり帰宅。

 今年最初の「里めぐり」での収穫は二つ。「コンボータ」を持つ道祖神、そして二匹の猿の庚申塔。


2017年12月15日更新

 第166話   道祖神ワンダーワールド
 
大山と秦野盆地の暮らし

   講師 まほら秦野みちしるべの会主宰  武 勝美
  JAはだの組合員基礎講座   2017年12月7日
            


 ふるさと(秦野)を知り ふるさと(秦野)を愛し ふるさと(秦野)を育てる

大山と秦野盆地の暮らし
1 秦野とたばこ
 「国分たばこは天気で作り 水府たばこは肥料で作り、秦野たばこは技術で作る」 秦野は江戸時代から葉たば
この産地として知られ、秦野発展の礎を築いた。優れた栽培技術で「秦野葉」は、国分(鹿児島)・水府(茨城)と並
んで日本三大銘葉に数えられた。たばこ耕作は昭和59(1984)年に幕を閉じた。
 昭和22(1947)年、たばこ耕作者の慰労会から出発した「秦野たばこ祭」は今年で70回。
・軽便鉄道
 明治39年(1906) 湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)間の
道路に、幅2尺5寸(76.2cm)の軌道を敷設し、馬車鉄道の運行が始まる。馬車鉄道は1頭の馬が小さな貨車を引く
もので、 秦野~二宮間を片道65分~75分かけ1日11往復した。乗車賃は片道16銭、往復30銭。大正2年(1913)に、
動力が馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に。客車には秦野地方専売局の職員や大山への参拝者が。貨車に
は葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸など、この地域の産品が積まれ、秦野の発展に大きな役割を果たした。昭和
12年(1937)まで営業。
 ・「今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
 ・「秦野煙草音頭」に見る秦野の暮らし 「煙草音頭」五番
  ♪ 干した煙草は濡らしチャならぬ 阿夫利山からえーなんとしょ雲が出る ♪

2大山と盆地の暮らし
(校歌は東中・西中・南中・東小・本町小・秦野高校 「煙草音頭」五番)
・庶民信仰の山・大山(阿夫利山)
 阿夫利の語源  (1)雨降り  (2) はふる(葬る・祖霊を祀る) (3)荒ぶる(神) (4)アヌプリ(アイヌ語)
 阿夫利(石尊)信仰  (1) 雨乞い(雨降り山、農耕の神) (2) 漁業・航海の神 (3) 初山参り(成人お礼) (4) 死霊鎮
 魂 (茶湯寺) (5) 招福除災(太刀納め)

3僧形双体道祖神発祥の地 秦野
 ・秦野の道祖神 (石造の双体像、文字塔) 310基  東地区45  西53 南54 北44 本町39 大根53  上 22
 全国市町村別 石造道祖神の分布 (  )は双体像とその割合
 長野・安曇野市  583 (303・51.9%)
 群馬・高崎市   407(※双体像のみ)   
 静岡・富士宮市  398 (217・54.5%)
 神奈川・秦野市  310 (174・56.1%) 
  鳥取・大山町  212 (180・84.9%) 
・道祖神の源流は石
 大山(1252㍍)の山頂には巨大な岩石があるため、1300年ほど前から「石尊」さんと呼ばれ、村人は畏敬と信頼の念
を強く抱いてきた。道祖神信仰の源流は「石」で、①石・岩崇拝 ②子孫繁栄を願う石棒・陽石 ③石地蔵(六地蔵菩薩)
信仰などが挙げられている。この①~③に「古事記」「日本書紀」の説話が取り込まれ、双体道祖神や文字碑道祖神が
出現した。
・西相模は双体道祖神の発祥地
 (1)裾めくり道祖神 永正2(1505)年 長野県辰野町沢底 わが国最古の道祖神と言われている。 
 (2)初期の道祖神は僧形・合掌立像 寛永2(1625)年 群馬県高崎市倉渕町熊久保
 (3)僧形・合掌像 「寛文九(1669)年酉八月廿六日」 秦野市戸川原開戸
 (4)江戸初期(寛文から元文)の神奈川県西部の道祖神像
 参考 ◇相模の古い道祖神ベスト10◇   小川 直之 (国学院大学) 平成25年                            
 1秦野市戸川原701    双体像 寛文9(1669)年8月26日  
 2 足柄上郡中井町雑色  双体像 寛文9年(1669)年12月  
 3小田原市下中村明沢   双体像 寛文10(1670)年正月吉日  
 4小田原市上府中村高田 双体像 寛文10(1670)年  
 5足柄上郡中井町中村   双体像  寛文11(1671)年5月吉日  
 6足柄上郡大井町篠窪 双体像  寛文11(1671)年6月吉日
 7足柄上郡中井町中村 双体像 寛文11(1671)年  
 8足柄上郡中井町中村鳴沢 双体像 寛文12(1672)年7月6日  
 9藤沢市 鵠沼     双体像 延宝6(1678)年
 10秦野市平沢157    双体像 天和亥天(1683)年
・万能の神 道祖神のご利益
①厄払い(悪霊払い)  ②健康(疫病払い)  ③縁結び  ④子孫繁栄・子宝 
⑤安産  ⑥道案内(道中の安全 交通安全) 
 秦野は道祖神の宝庫で、300を超える石造双体道祖神や文字碑道祖神を数えることができる。それらの道祖神は、
集落の境に立ち、悪霊や疫病などの侵入を防ぎ、村人の健康と平穏な生活を護ってきた。また、さまざまな民俗信仰と
習合し、道中安全の「岐の神」や「子孫繁栄(男根などが強調される)・縁結び」の神としても信仰されてきた。
 道祖神は「神」と言っても神社のように特定の祭神を持つわけではない。往時も医者や薬は存在したが、無医村や寒
村では病気やケガの治癒は信仰にすがるしかなかった。村人は、村で、ニワ(庭))で「講」を作り「石神石仏」を祀り、す
がった。村人は、病や災難の無い平安な生活、豊作への願い、縁結びや子孫繁栄などさまざまな願いなどを聞き届け
てくれる万能の神として、辻々や集落の入り口に道祖神を祀った。
 ・道祖神祭り(トッケダンゴ)
 ◎左義長 → ドンド焼き、ドンドン焼き、どんと祭(焼き)、トンド焼き
 ・ダンゴ焼き(トッケダンゴ)
 ・セートバレー(塞戸払い)


 まとめ 山田和樹さんの言葉
 山田和樹さん(36歳) 指揮者 1979年、神奈川県秦野市生まれ。★東京芸術大学指揮科に進み松尾葉子と小林研
一郎に師事。★2009年、仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者、日
本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、東京混声合唱団音楽監督などの要職に招かれる。16年9月、名匠ジェルメッ
ティにも率いられたモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽・芸術監督に就任。★現在はベルリン在住。2児の
父。

 朝日新聞2015年10月3日be版「フロントランナー」の記事の中のインタビューから
 ― 音楽とはどのように出会ったのですか。
 幼稚園で木下式音感教育法というのをやっていて、そこで歌うことの楽しさを知りました。少年時代は緑豊かな神奈川
の秦
野で過ごしましたが、この地に育ってい なければ指挿者になってなかった気がします。
 ― どういうところだったんですか。
 丹沢山のふもとで、田舎です。小学校のとき、授業でジャガイモとかを育てるんですが、その肥料が馬糞とか牛糞なん
ですよ。手づかみでこう、まぜたりする。都会の子供には絶対させないですよね。
 ― 汚い、という先入観ができる前に触らせる。
 近所の神社に大きなイチョウの木があって、秋が来るたびあの特有のにおいに何かの終わりを感じ、切ない気持ちに
なりました。それでも冬が来ると、丹沢山に堂々たる雪がかぶって。終わるもの、始まるもの、すべての世界が美しかっ
た。あの自然の手触りが、今の自分の音楽の奥底に間違いなくあるはずです。

               


2017年11月5日更新

 第165話   道祖神ワンダーワールド
 道祖神にある丸い窪み「こんぼーた」
 
        長野・山梨で見られる「こんぼーた」            

 長野県佐久市協和(天神地区)の菅公社の鳥居前に、元禄6(1693)年造立・市内最古)の男女双体像など
四基が祀られている。その一基の上部に野球のボールが載っていた。
 子供のいたずらと思ったが、そのボールが乗っている穴を「こんぼーた」と呼ぶのだそうだ。そういえば過
去に訪れた道祖神にも同様な穴が掘られているものがあった。山梨市水口の丸石道祖神、山梨市牧丘町
杣口・福法寺の丸石道祖神。茅野市豊平南大地の双体道祖神。そして長野県諏訪市でも同じような窪み
(ここでは「こんぼった」と呼ばれている)を持った双体道祖神に出合っている。(諏訪市中洲「わでの辻の道
祖神」)  
               山梨市水口の丸石道祖神 →  
 
こんぼーた (こんぼうた こんぼった)  とはどういう意味なのか諏訪市教育委員会に「こんぼった」につ
いて尋ねたら語源は不明とのこと。『こんぼった』ではないが、と前置きしながら「こんぼーた」という言葉に
ついて次のような資料をもらった。

こんぼーた
①乾いた土に水を与えて泥の椀をつくる子供の遊び、窪み、くぼたみから転ず、くぼはめぐり高く、中央低
きところ、土を山形に盛り上げ、ひじにて中央を押してくぼみをつくり、水を入れれば泥の椀が出来る。
                                      (※原文ママ) 岩波泰明著『諏訪の方言』
②砂土を寄せ集めて山を作り、くぼませて水を入れ、泥ダンゴを作る。(諏訪四賀村誌編纂委員会『諏訪
四賀村誌』) 
               ※私も小学校の砂場でこの遊びのように泥の茶碗を作って遊んだことがある。

道祖神とこんぼーた
 について興味が湧いたので資料を探した。
① 中沢厚著の『山梨の道祖神』には、山梨市堀之内・石祠道祖神(下の写真)について「この祠は屋根と
いわず台石といわず、長年、子供らが石ころを握ってコツンコツンとつつきくぼめて、原型を止めないほど
である」とある。
② 諏訪郡原村の『原村誌下巻』には「日影室内道祖神のコンボーメ(タ)跡(子供たちが小石でたたいて
掘った穴で、台石に丸い穴がいくつもある)も見事である」と記されている。
                                             
「こんぼった石」の由来
③ 諏訪四賀村誌編纂委員会の『諏訪四賀村誌』には、
「この石は我々の先祖が漁に出て帰りを待つ子供達が淋しい思いをしながら青草を石でつきつき遊び乍ら
父母の無事な帰りを待ったと云う。この石は通称『こんぼった』と村人達はよぶ」とある。
➃ 米澤村村史編纂委員会編の『米澤村村誌』は、「小原の辻道祖神 双体の道祖神で頂上部に小さな窪
みがある。通称は『コンボウメの穴』と呼ばれる。子宝を願ってたたいた跡が穴になったものである。『コン
ボウメ』は女児を、『コンボウタ』は男児を願い唱えながらたたいたもので、古い時代の社会と嫁の悲哀を
物語っている」と説明している。
※秦野で「コンボウ」という言葉を筆者も聞いたことがある。近所の農家では「仔牛」を「コンボウ」と呼んで
いた。
   上の説に共通しているのは「窪み」。一般的には「盃状穴(はいじょうけつ)」と呼ばれ、神社や路傍の
石造物にこのような円錐状の穴がよく見られる。松本市で出合ったシメ縄飾りの道祖神(  松本市大岡
丙)に用いられている「オヤス」と同類とも思える。

 縄文人は木の実などをすりつぶして粉にするために、中央が窪んだ石皿とすり石(丸石)を考案した。それ
が同時に祭器として扱われるようにもなった。石皿が女性器、すり石(丸石)が男性器の象徴と考えれば凹
み穴の存在は納得できる。
                  

2017年10月15日更新

 第164話   道祖神ワンダーワールド
 
ちょんぼ道祖神で子孫繁栄・豊年満作 

    道祖神の里めぐり  新潟県長岡市上樫出             


 8月27日午前9時からと午後1時30分から音子(おんご)神社の「ちょんぼ地蔵尊」作りを見学した。午前は8人が
午後の仕上げに向けて下ごしらえをした。
 今年の神社係りの西片道夫さんと地蔵尊作りのリーダー格・中村幸さん(74)からいろいろな話を聞かせてもらった。

身の丈3㍍50㌢の土の地蔵尊・道祖神像
 一年を経た土の像はヒビが入り崩れかけている。これを修復し新しい土で化粧し直す。以前は御足洗池の池浚い
で出た黄色い泥土を使ったが、今は隣の諏訪神社の裏山から取った赤土を使う。修復に使われる土は一週間前か
らこねている。茅葺の屋根の作業も一週間前に行ったとのこと。 中村さんは言う。「今は50代から70代の20人ほど
が地蔵作りに関わる。何とか後の人に引き継げそうだ」。今年作った会のティーシャツ(ちょっとドキッとするようなイ
ラストのもの)を着て土をこねたり、塗ったり。和気藹々の雰囲気。                        
 完成すると全員で品定め「口がうまく出来た」「今年は鼻がでかい」と言うと「鼻のでかい奴は下もでかい」と相槌を
打つ。「右左の大きさが違うな」の声に、「自分のものを触ってみろ、同じじゃねえだろ」と中村さん。「昨年よりよい出
来」と今年の制作者たちは満足げ。身長が3㍍50㌢ほどの土の地蔵尊・道祖神像である。

履き下ろしの作業ズボンで地蔵作り
 中村さんは午後の作業に履き下ろしの作業ズボンで現れた。「新しい作業着ですね」と言ったら、「そんなところも見
てくれたんだ」と少し照れていた。毎年、ちょんぼ地蔵作りにはズボンの履き下ろしをするとのこと。ちょんぼ作りに懸
ける思い―それは信仰心でもあるのだが―の強さを感じた。
 ちょんぼ尊が出来上がったころ十代とも見える男女がお参りに来た。そして女の子は巨大な像をタブレットで撮って
いった。二、三日経つと、もうヒビ割れが始まるらしい。だから今日、地区の人たちはきれいに出来上がったちょんぼ
様にお参りをする。ピカピカの像に私も参拝させてもらった。

ちょんぼ地蔵作りは盂蘭盆行事
 毎年八月の最終週の日曜日が「ちょんぼ地蔵尊祭り」。この日は地区民総出(氏子は108戸)で音子神社境内に地
蔵尊を作る。地蔵作りの他に、境内の草むしり、池の掃除など手分けをして作業をする。その地蔵尊が完成すると像
の横に「道祖神」の立て札が立つ。そして会館で直会。西片さんは「ちょんぼ地蔵作りは盂蘭盆行事」と言う。神仏習
合の一つの形をここでも見ることが出来た。

子授けと安産を願う地蔵尊・道祖神
今年の旧暦の「七夕」は8月28日。七夕はお盆と同じで「祖先の霊を祭る」日ともいわれている。この時期に井戸さら
いをする地方もあるという。上樫出のちょんぼ地蔵祭り(ちょんぼ作りは)、かつては8月26日に行われていた。祭りと
言っても、露店が出るわけではない。ちょんぼ地蔵尊に三々五々、お参りをするのがこのお祭り。当地のある家が所
持する掛軸は「ちょんぼ道祖神に礼拝する婦女子」が描かれている。この地蔵尊は子授けと安産を願う道祖神でもあ
る。
 土俗の信仰は、その地の人たちが必要だからなされるもの、神が仏に、あるいは仏が神に転化することもありえる。
安産・子育て・子孫繁栄と豊穣、そうした願いを叶えてくれるのが地蔵尊であり道祖神なのである。
 音子神社の前面に広がる稲田は早くも色づいていた。境内の御足洗池の池さらいは、田んぼの用水路の浚渫もす
ることにもなる。土と水があってこその米作り。今年も上樫出地区の米は「豊年満作」だろう。
 
  稲の香をまとひてちょんぼ地蔵尊     勝 美

                           


2017年9月7日更新

 第163話   道祖神ワンダーワールド
 
  土、木、藁の道祖神 

    道祖神の里めぐり  新潟県 長野県             

  8月26日から29日まで「道祖神の里めぐり」をした。訪問地は新潟・南魚沼市 新潟・長岡市 長野・松本市 長野・安曇郡池田町  

 1 土の道祖神 
  新潟県長岡市上樫出地区の「ちょんぼ道祖神」  8月 27日はその道祖神を作りなおす日。
     
  
 2 木の道祖神
 新潟県長岡市の「ほだれ道祖神」  三月に行われる「ほだれ祭」は奇祭として知られている。
    

 3 藁の道祖神
 長野県松本市大岡の「しめ飾り道祖神」   長野オリンピックの開会式に飾られた。
   
     保存会の広田さんから話を聞くことができた。

 4 藁屋根の道祖神
 長野県安曇郡池田町の「相道寺の双体道祖神」  「オヤス」と呼ばれているしめ飾りで屋根が葺かれている。
  
 
 

2017年8月7日更新

 第162話   道祖神ワンダーワールド
 
   平塚市岡崎の文字碑道祖神              

銘は「道之神」「道分大神」  
大橋の文字碑道祖神  平塚市岡崎

紀年銘は「道之神」「文化丁卯(4)正月建立」とある。文化4年は1807年。碑高77cm 幅32 cm
後には道標も兼ねている庚申塔が立つ。
碑の立つ横の民家の主に話を聞く。道路の付け替えと改修
があってこの地に写されたらしい。ドンド焼きは近くの鈴川の河原で行われる。





2 横内の文字碑道祖神
 平塚市横内2306 静岡中央銀行横
                  「道分大神」「明治5(1872)年」の銘。 碑高48 cm 幅31cm五輪塔の崩れたもの6基も。
長野県佐久市小平に「辻立神」と刻まれた文字碑がある。「辻立神」とはニニギノミコトの降
臨の折、八衢の辻で待っていた「猿田彦大神」のこと。「道分大神」もサルタヒコ大神を指す。 

「道之神」「道分大神」の文字碑道祖神は初見。筆者が訪ねた「里」では見られなかった。 

 






2017年7月7日更新

 第161話   道祖神ワンダーワールド
 南房総市の双体道祖神

         

 民間信仰で、もっとも庶民の間に親しまれていたのは道祖神信仰である。その道祖神と言えば信州安曇野をイメージするが、
文字碑や丸石、石祠、ワラや木などの道祖神の分布は広くほぼ全国に及んでいる。その中で双体道祖神像に限って見ると、前
述の長野、静岡、神奈川。群馬、新潟、山梨など関東甲信越地方、鳥取・島根(伯耆地方)・岡山など中国地方のその造立数の
多さが認められる。千葉県は双体像の造立は少ない。それだけに他とは異なる双体像もある。その一基を6月29日に訪ねた。

男女双体道祖神  南房総市指定有形文化財  南房総市宮谷 個人宅内
                                      凝灰質砂岩に厚肉彫り 塔高85cm 幅29㎝
 像容から猿田彦命(天狗)と天鈿女命(おかめ)の双体道祖神と受け止めた。男神は振り上げた両手には幣帛。腰蓑を着け高
下駄を履く。高下駄は天狗さんの履物でもある。女神は右手に神楽鈴<左手に御幣を持ち、腰をひねらせている。天岩戸の前
に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った天鈿女命がこの像のモチーフであるこ
とは確か。二神の上部に「瑞雲の上の日月」。基壇に「道祖神」の文字が刻まれている。塔には「施主号誉貞準 六十四歳 嘉永
四亥(1851年)八月吉日」の銘。
 その家の当主ご夫妻に話に寄れば、昭和15(1940)年ころ山崩れで埋まってしまったこの塔を掘り出し現在地に遷座いた。かつ
ては集落の30数戸で10月28日に祭りが行われた。今は池貝家で護持している。「ドンド焼き」は行われているが、道祖神との結び
つきについては特に意識はないようだった。               

                           




2017年6月7日更新

 
武勝美の講演会のお知らせ  
 
演 題  「道祖神ワンダーワールドNO3  日本の道祖神編」 
         
道祖神のメッカ 長野県・群馬県・鳥取県の「道祖神見て歩き」の報告
 日 時  6月18日(日) 13:00~14:30
 会 場  秦野市立東公民館 
 その他  申込み制   資料代250円  東公民館・電話0463-82-3232 




 第160話 
   道祖神ワンダーワールド 上州・信州編
         

 4月19日~21日  信濃路の旅 花に酔ひ 酒に酔ひ
         
群馬・南牧村 長野・佐久市望月 長野・立科町 長野・伊那市高遠 長野・諏訪市  

 
千昌夫が歌う「北国の春」の一節に「白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ北国の春」がある。
この詞は長野県・南牧村出身のいではくが書いた。信濃路はコブシを街路樹として植えられている街もある。
そのコブシが可憐な白い花を咲かせていた。
 今回の「道祖神の里めぐり」は群馬・南牧村から始まり、諏訪市で終わる。三日間で32の道祖神にお会い
してきた。(長野県にも南牧村がある。長野は「ミナミマキムラ」群馬は「ナンモクムラ」と読む)。
 高遠の「花文字道祖神」は今回の訪問で期待していたものの一つ。桜花の下で私を待っていてくれた。懐古
園、高島城、そして高遠城址公園と、どの地も桜花満開。
 この三日間の「里めぐり」を4月24日の『朝日俳壇』に掲載された佳句に託して表してみる。
◇高遠城址公園は春の空が見えないほどの桜花
  咲き満つる花の静かな息づかひ   桑島 正樹
  大風に耐へて落花をせぬ花ぞ    斉木 直哉
◇人の波、花疲れ
  しばらくは花見の客に酔ひにけり  鈴木 良二
  下向きてメール上向き花疲     宮下 龍巳
  話みなうなづくばかり花疲れ    清水 重陽 
◇桜花に思う
  西行も大岡信も花の下       鈴木 清三
 ・西行の歌
  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさ
らきの もちつきのころ(山家集)
 ・大岡信が6762回にわたって連載した『折々のうた』の最後回に選んだうた
  薦着ても好きな旅なり花の雨    田上 菊舎
◇桜の苗木を求めたら家人が訝しがった。私の思い・願いは次の一句
  一村が一樹につどひ花の宴     久野 茂樹
◇咲き競う桜花の彼方に残雪の中央アルプスが望めた。
  花万朶なほ残雪の光る峰      勝美                       
◇諏訪の宿で地酒の利き酒会(呑み放題1500円)に加わる。
 信濃路の旅 花に酔ひ酒に酔ひ    勝美 
 道祖神について書けば、南牧村の双体像は丸顔で童女のような目鼻立ち。穏やかな表情に惹かれた。諏訪市に
は「こんぼった」と呼ばれる円形の穴を持った道祖神が在ることを知った。      




2017年5月10日更新

 第159話 
  ふるさとは千葉・市原と秦野
         

 千葉県市原市 源頼朝の逆さイチョウ
                         
 鎌倉幕府を開いた武将・源頼朝。その伝説が残るイチョウの木が私と夫のふるさと千葉にあります。千葉県
市原市八幡の飯香岡八幡宮に、源頼朝が植えたと言われるイチョウの木がそれです。

 1180年、石橋山の戦いに敗れた頼朝は、安房(千葉・南部)に逃げました。そこから、下総(千葉・北部)
の千葉常胤をたずねる途中、市原に立ち寄りイチョウの木を植えたのです。イチョウの苗木の根を天に向け逆
さに植え「この木活着せば大願成就せん」と源家再興を祈ったとされ、地元の人は「逆さイチョウ」と呼んで
います。

 飯香岡八幡宮の祭りは、仲秋の名月の日に行われます。(最近は、仲秋の名月の後の日曜になっていて今年
108日) 私が子どものころは、この日は学校もホームルームが1時間あるだけ。祭でお役についている子
は学校をお休みしていました。五基の大人神輿と子ども神輿。担ぎ手は、宮ごとに色の違うハッピを着ます。
私の実家の蕎麦屋がある若宮の色は水色。夫の実家、三の宮は桃色です。夕方の神輿納めのときには、名残を
惜しむ神輿がなかなか本殿に入らず暴れます。祖父の時代は、神輿が何日も本殿に入らず、逃げ回ったことも
あったそうです。

 実家が蕎麦屋なので、年越し・お盆・祭などに家業の手伝いに市原に帰りました。
2人の子どもは秦野と市
原のおいしいものを食べて大きくなりました。毎年の市原での餅つきも、子どもたちが楽しみにしている行事
の一つです。
 おいしい物が好きな子どもたちは、私がPTAの広報委員をしているとき、武先生のご指導での「日本のお
雑煮」の特集記事を喜んで読んでいました。
その記事の後日談です。長女の高校受験のとき、社会科の問題で
「Bは、正月の食べ物と思われがちですが、本来、さまざまな祭や年中行事などに欠かせない食材です。地域
により形が異なり、西日本では丸B、東日本では角Bを食べるところが多いです」が出題され、正答は「もち」。
長女は、無事第一志望に合格。武先生、そしてPTA広報とのご縁を感じました。秦野と市原、この二つのふ
るさとに、私たち家族は育てられてきました。  
渡辺佳代子


2017年4月7日更新

 第158話 神奈川・愛川町の道祖神
   
         文字碑が多種・興味は尽きない




2017年3月7日更新

 第157話 小山町生土でのこと
   
         道祖神が取り持つご縁

2017年2月19日 
 「道祖神をお調べですか」と声をかけてきた夫妻。静岡県駿東郡小山町生土でのこと。
 雨が降りだした午後4時ころ。神奈川の秦野から来た、と話したら「秦野に知り合いがいる」と、その偶然性を喜んだ
男の人。
「《寺》なんとか、という所の人」 「寺山でしょう」 「そうそう」 「私はその寺山に住んでいます」 「」エー、その人、武と
いう人ですが」 「エー、わたし武だけど。武、なにさんですか」 「武カツ…とかいったけど」。瞬間私は 「武克之さんじ
ゃないですか」 「そう、そう、武克之さん。もう20年以上も前だけどね。入院したとき同じ部屋で。それからずっと年賀
状だけだけど付き合いが続いてます」 「克之さんは隣組の人です。小さいころからよく知っています」 「入院していると
き、神戸で大地震があって、その救援にいけないことをすごく悔やんでいました。武さんは消防士だから」
 こんな会話を交わした方は長田広さん。道祖神祭りはなくなったが、ここ生土の道祖神の守護には心を配っている長
田さん。「少し待っていてください」と早足で自宅に戻られ、この碑のことが記されている書(「富士山麓の道祖神」)のコ
ピーを下さった。
 別れ際、100㍍ほど戻ったところに道祖神があるから見ていったら、と勧められた。
 車を廻し教えられた場所に行った。そこには文字碑が三基立っていた。写真を撮っていたら、長田さんが走ってきて「よ
かった、居られて。これ、武克之さんに渡してください。入院していたときの想い出のものです」と一枚のコピーを託され
た。そこには持病に関わる克之さんの詩が書かれていた。

2017年2月1日更新

 第156話 異体字の文字碑道祖神 
                   伊勢原市池端の道祖神

 文字碑道祖神  伊勢原市池端741付近
       
 「道祖神」の三文字は異体字、
「祖」の旁の「且」は「一 口 一」。
「神」の字の旁「申」は木の葉か亀の甲に見える。
女陰の抽象化ともとれる。銘は右側面「嘉永3(1850)
庚戌年仲春供養」とある。
左側面に「池端惣邑氏子中」。65×18 

 五輪の塔の一部も。


文字碑道祖神
 「道祖神」の文字が図案化されている。「祖」の旁の「且」は「旦」。右側面「文化十五
(1818)戊寅年四月吉日他端邑氏子」 
左側面には「補助賀川安右衛門、城所治右衛門 願主大沢貴重良」の銘。70×24 。
五輪の塔の一部も。蔵福寺の右脇、駐車場の入口近く



 文字碑道祖神  池端久保公園入口
 この碑も道祖神の祖の旁「且」は「一 日 一」と報告されている
(『路傍の神様』川口謙二著・1968年)が、剥落が激しく「神」の字
体だけがかすかに見えるだけだった。右側面に「旹 文政6(1823)
年」の銘。「旹」は異体字で「時」のこと。
 新たに造立された男女双体道祖神には「施主 平成十二年四月
吉日青木武成」と刻まれている。70×65 五輪の塔10基ほど。

 ここ池端地区の三基の文字碑道祖神は「祖」の旁の「且」を「一 口 一」、「旦」、「一 日 一」とした。の造立はいずれ
も1800年代の前半である。異体字の「祖」、図案化された文字に、「オラホーのセイノカミさんは他所のより立派だべ」
という造立者(講中)のプライドを感じた。
  「一 口 一」は秦野市寺山、そして二宮町山西でも見ている。その意味を知りたいのだが…。

 男根型道祖神  伊勢原市池端  県道44号線のドラッグストアの向かい側  街中の民
家の一角に石塀で囲まれるようにして立つ。「道祖神」の銘がある。男根を思わせる堂々た
るもの。台石から測れば90cmほど。
 造立年は不明だが、上部の丸石の部分だけ載せたように思えるので昭和年代に再建され
たのではないか。奥にその先代と思われる文字碑が祀られている。






2017年1月1日更新

 第155話  JAはだの 組合員基礎講座
 
 大山と盆地の暮らし 

JAはだの組合員基礎講座   2016年12月20日


 ふるさと(秦野)を知り ふるさと(秦野)を愛し ふるさと(秦野)を育てる 

1 秦野とたばこ
 「国分タバコは天気で作り 水府タバコは肥料で作り、秦野タバコは技術で作る」
 秦野は江戸時代から葉たばこの産地として知られ、秦野発展の礎を築いた。優れた栽培技術で「秦野葉」は、
国分(鹿児島)・水府(茨城)と並んで日本三大銘葉に数えられた。たばこ耕作は昭和59(1984)年に幕を閉じた。

 昭和22(1947)年、耕作の慰労会から出発した「秦野たばこ祭」は今年で69回。

・軽便鉄道
 明治39年(1906) 湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)間
の道路に、幅2尺5寸(76.2cm)の軌道を敷設し、馬車鉄道の運行が始まる。
馬車鉄道は1頭の馬が小さな貨車を引
くもので、
秦野~二宮間を片道65分~75分かけ111往復した。乗車賃は片道16銭、往復30銭。大正2(1913)に、
動力が馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に。客車には秦野地方専売局の職員や大山への参拝者が。貨車には葉
たばこ、たばこ製品、木材、綿糸など、この地域の産品が積まれ、秦野の発展に大きな役割を果たした。昭和
12
(1937)まで営業。
 ・「今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
 ・「秦野煙草音頭」に見る秦野の暮らし 「煙草音頭」五番
  ♪ 干した煙草は濡らしチャならぬ 阿夫利山からえ なんとしょ雲が出る ♪

2大山と盆地の暮らし
 (校歌は東中・西中・南中・東小・本町小・秦野高校 「煙草音頭」五番) 
 ・庶民信仰の山・大山(阿夫利山)
  阿夫利の語源  (1)雨降り  (2) はふる(葬る・祖霊を祀る)  (3)荒ぶる(神) (4)アヌプリ(アイヌ語)
  阿夫利(石尊)信仰  (1) 雨乞い(雨降り山、農耕の神) (2) 漁業・航海の神 (3) 初山参り(成人お礼) 
 (4) 死霊鎮魂(茶湯寺) (5) 招福除災(太刀納め)

3秦野は僧形双体道祖神発祥の地
 ・秦野の道祖神 (石造の双体像、文字塔) 310基 
  東地区45  西53  南54  北44 本町39 大根53  上 22
  全国市町村別 石造道祖神の分布 (  )は双体像とその割合
  長野・安曇野市   583 (303・51.9%)
  群馬・高崎市    407(双体像のみ)  
  静岡・富士宮市   398 (217・54.5%)
  神奈川・秦野市   310 (174・56.1%) 
  鳥取・大山町     212 (180・84.9%) 

・道祖神の源流は石
 大山(1252㍍)の山頂には巨大な岩石があるため、1300年ほど前から「石尊」さんと呼ばれ、村人は畏敬と信頼の
念を強く抱いてきた。道祖神信仰の源流は「石」で、①石・岩崇拝 
子孫繁栄を願う石棒・陽石  ③石地蔵(六地
蔵菩薩)信仰などが挙げられている。
この①~③に「古事記」「日本書紀」の説話が取り込まれ、双体道祖神や文字
碑道祖神が出現した。

・西相模は双体道祖神の発祥地
 (1)裾めくり道祖神 永正2(1505)年 長野県辰野町沢底 わが国最古の道祖神と言われている。
 (2)初期の道祖神は僧形・合掌立像 寛永2(1625)年  群馬県高崎市倉渕町熊久保
 (3)僧形・合掌像 「寛文九(1669)年酉八月廿六日」 秦野市戸川原開戸
 (4)江戸初期(寛文から元文)の神奈川県西部の道祖神像

万能の神 道祖神のご利益
 ①厄払い(悪霊払い)  ②健康(疫病払い)  ③縁結び  ④子孫繁栄・子宝 ⑤安産  ⑥道案内(道中の安全 
交通安全) 

 秦野は道祖神の宝庫で、300を超える石造双体道祖神や文字碑道祖神を数えることができる。それらの道祖神は、集
落の境に立ち、悪霊や疫病などの侵入を防ぎ、村人の健康と平穏な生活を護ってきた。また、さまざまな民俗信仰と
習合し、道中安全の「岐の神」や「子孫繁栄(男根などが強調される)・縁結び」の神としても信仰されてきた。

 道祖神は「神」と言っても神社のように特定の祭神を持つわけではない。往時も医者や薬は存在したが、無医村や
寒村では病気やケガの治癒は信仰にすがるしかなかった。村人は、村で、ニワ(庭))で「講」を作り「石神石仏」
を祀り、すがった。村人は、病や災難の無い平安な生活、豊作への願い、縁結びや子孫繁栄などさまざまな願いなど
を聞き届けてくれる万能の神として、辻々や集落の入り口に道祖神を祀った。

・道祖神の形体 
 ①自然石  ②陰陽石  ③単体道祖神  ④丸石道祖神  ⑤双体道祖神  ⑥文字碑道祖神  ⑦石祠道祖神  
 ⑧木、ワラ、紙の道祖神

・道祖神祭り(トッケダンゴ)
   左義長 → ドンド焼き、ドンドン焼き、どんと祭(焼き)、トンド焼き 
 
ダンゴ焼き(トッケダンゴ)・セートバレー(塞戸払い)

紙芝居『目ひとつ小僧』 制作・上演  チーム「竹の子」

まとめ 山田和樹さんの言葉

 秦野で育っていなければ 指挿者になっていなかった

山田 和樹さん(36歳) 指揮者 1979年、神奈川県秦野市生まれ。★東京芸術大学指揮科に進み松尾葉子と小林研一
郎に師事。★
2009年、仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者、日本
フィルハーモニー交響楽団正指揮者、東京混声合唱団音楽監督などの要職に招かれる。
169月、名匠ジェルメッティに
も率いられたモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽・芸術監督に就任。★現在はベルリン在住。
2児の父。

朝日新聞2015年10月3日be版「フロントランナー」の記事の中のインタビューから
音楽とはどのように出会ったのですか。
 幼稚園で木下式音感教育法というのをやっていて、そこで歌うことの楽しさを知りました。少年時代は緑豊かな神奈川
の秦野で過ごしましたが、この地に育っていなければ指挿者になってなかった気がします。

どういうところだったんですか。
 丹沢山のふもとで、田舎です。小学校のとき、授業でジャガイモとかを育てるんですが、その肥料が馬糞とか牛糞なん
ですよ。手づかみでこう、まぜたりする。都会の子供には絶対させないですよね。

汚い、という先入観ができる前に触らせる。
 近所の神社に大きなイチョウの木があって、秋が来るたびあの特有のにおいに何かの終わりを感じ、切ない気持ちにな
りました。それでも冬が来ると、丹沢山に堂々たる雪がかぶって。終わるもの、始まるもの、すべての世界が美しかった。
あの自然の手触りが、今の自分の音楽の奥底に間違いなくあるはずです。


 2016年12月1日更新

 第154話  
 
「秦野の道祖神」講座で活動再開 

2016年11月23日

 13時30分から「はだの雑学大学『道祖神ワンダーワールド・秦野の道祖神』」(主催 秦野市市民活動サポートセンター・会場秦野
市保健福祉センター)の講座を持たせてもらった。受講生は57名とか。主催者は「キャンセルは一人も無し。申込者全員出席は珍
しい」と喜んでいた。
 道祖神をテーマに、本格的の話をするのは初めて。〈行き先不明?〉になるかも知れないという不安感があり、講話のシミュレーシ
ョンを何度も重ねてきた。
 会場に入るとあちこちに知り合いの顔が見え、笑顔を送ってくれる。「みちしるべの会員」「エコーの読者」などで、後で確認したら19
名の知人が聴講に来てくれた。そして妹夫婦が入室してきたときは「エー!」と私。
 演台には豪華な花籠。付いているメッセージカードには「元気になられて良かったです。次回は聴きに行きます。R」とあった。私自
身、今日の講座を「活動再開宣言」と密かに決めていたので、こうした皆さんの支援・声援に応えなければ、という思いが一層強くな
った。それなのに、最後の「目一つ小僧」の紙芝居は時間切れで上演できなかった。ああ…。
 この日の主な質問「道祖神は誰が、なぜ祀ったのか」「道祖神という神は誰なのか」「道祖神は子供を守る神だというがその理由は」。
参加されたMさんがツイッターで私の講座のことを書いてくれた(左)。Mさんにはこの日の会場で初めてお会いした。Mさんは日本石
仏協会幹事のNさんを同道されていた。
 11/23  道祖神に導かれこの世界に入られた武勝美先生は、全国の里巡りを始め、先般「道祖神ワンダーワールド」という書を出
版された。その後、体調を崩されたが、現在は元気を取り戻し、再び里巡りを再開されたとの事。今日は道祖神に纏わる講座を拝聴
し、元気なお姿ご尊顔を拝す。



 2016年11月1日更新

 第153話  
 
《道祖神の里めぐり》
  
復活第一回は長野県茅野市      

 《里めぐり》も復活   8月31日 長野県茅野市へ
 抱擁(接吻)道祖神  茅野市米沢 北大塩 

 男女双体道祖神  銘は無い。おそらく江戸時代の造立だろう。《子宝》をイメージした男女双体(抱擁)道祖神は
群馬、長野で多く造立されている。(秦野では  見られない)絡み合っている足、片肌脱ぎの女神、男神の表情や女
神の肩にまわした両手などおおらかな造形。供えられていたのは子がいっぱい付いた根ショウ  ガだった。
90×55 
像高45


 

                                         

   

私が訪ねた抱擁道祖神  左から
 ・「落合の道祖神」浮世絵風?。群馬県高崎市倉渕町  ・通称「キッス道祖神」盗難を恐れ鉄格子に護られている。
群馬県高崎市中室田町  ・「荷付場の道祖神人気があるらしい。訪問者のための記念スタンプが置かれている。群馬
県中之条町入山  ・キワドイ「宮原の道祖神」長野県松本市入山辺  ・「エッチな道祖神で有名」と地元の人は自慢
げ。長野県富士見町
                                                         











 道祖神はセイ(性)ノカミ(神)さん
 今回の「里めぐり」で「ご縁想=道祖神盗み」に関わる五つの塔碑に出会った。その中で南大塩の子宝道祖神、北大塩の

吻道祖神は子孫繁栄を願う「性ノ神・夫婦和合の神」だった。
道祖神は「サエノカミ」または「サイノカミ」とも呼ばれる。
(秦野では「セエノカミさん」と言う) その「サエ・サイ」を文字で表すと「塞」「歳」「才」「賽」「財」「幸」「妻」
「障」、そして「性」。これらの「サイ」を刻んだ文字碑道祖神が実在する。


 Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』を手に道祖神に導かれ次の世界へ
 前回の「道祖神の里めぐり」は今年3月 31日の静岡県菊川市。それから3カ月ほど経ち今回の「めぐり」に出かけた。
の3カ月の間にいろいろなことがあった。その一つは『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』を上梓(6月1日)。そして6
月8日に心臓血管外科の手術(大動脈弁と僧帽弁を人工弁に換える)を受けた。

 この世を去った者を村はずれで待っていて、次の世界へ道案内してくれるのが村のはずれのお地蔵さん。その地蔵菩薩と
連れられていく者が僧形双体道祖神に遷化した。
手術を決めたとき、『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』の上梓を“人
生の締めくくり”としたいと思った。それで「なんとしても手術前に」と編集を急いだ。『Katsumi In 道祖神ワンダーワー
ルド』に手に次の世界に行くのは私らしいと思ったからだ。


2016年9月30日更新

 第152話  
 
まほら秦野みちしるべの会の10周年記念誌
 10月15日に発刊      




2016年8月1日更新

 第151話  
 
「Katsumi In 道祖神ワンダーワールド」の紹介            その2      




神奈川新聞 2016年6月23日

2016年6月1日更新 

 第150話  
 「Katsumi In 道祖神ワンダーワールド」の紹介      




2016年4月7日更新

 第149話  静岡県菊川市・應聲教院
 
 23基の道祖神
       三界萬霊塔を兼ねた道祖神  

                                                             3月31日

 道祖神に招かれる春の日々となり     勝美

 静岡県は石造道祖神の造立数の多さではわが国で二番目。だが同じ静岡でありながら、富士川の西岸の地域
は道祖神の姿はあまり見られなくなる。富士川が「石造道祖神造立」の境になっている。
 富士川を越え大井川を渡ると菊川市。菊川市のお寺・應聲教院の参道・境内に23基の男女双体握手道祖神が
祀られている。自然石に半浮き彫りの信州系。そのほとんどが作風からすれば昭和年代半ば以降に造立された
もののように見える。男神の「三つ輪髷(ミツワマゲ)」と女神の髪型から双体像は『子ども』と推測したもの20基。
銘は「三界萬霊」、造立者名は個人名。三界萬霊塔を兼ねる道祖神は《初見》。塔の上部に刻まれている「水」の
文字は、境内にある「水子地蔵菩提所」に関係するのかもしれない。これらについて住持に尋ねたが、先代が「集
め祀った」としか分からなかった。

              
                   

2016年3月7日更新

6月上梓の予定
 
『道祖神ワンダーワールド』   
                 武 勝美 著

   『道祖神ワンダーワールド』  六月発刊を目指して初校に入りました。500ほどの写真を添えています。とりあえず目次をご覧ください



2016年2月7日更新

    第148話
   秦野地の道祖神祭り
 
 ダンゴ焼き

 市内22小・中学校PTA情報委員会の研修会で、「秦野の民俗・ダンゴ焼き」の話をする。この会も今回で年目。一時間
の話のあと質疑。秦野市外出身の数人から、それぞれの『道祖神祭り・ドンド焼き』話を聞かせてもらった。

市内八沢に住むAさんの今年のダンゴ焼きの話
  「ちょっとしたオムスビくらいの大きさのダンゴを“取替えダンゴ”で食べた。一個でも食べきれないのに、二人と取り替
えたので、それは大変。でも、がんばって食べた。楽しかった」
◇ご主人の実家が山北町のBさん
  「道祖神祭りの日はにぎやか。花車が出る。ドンドン焼きと言っているみたい。主人はその日は必ず実家に帰る。そし
て花車の引き子をする」。
Cさん
  「私は高崎の出身。倉渕町の近く。ウチの方でも『ドンドン焼き』と言っている。大きな斉灯を立てて燃やした」。
実家が栃木県益子町のDさん
 「サヤドというところで生まれた。『道祖土』と書いて『サヤド』と読んでいる。どうしてそんなふうに読めるのでしょうか。き
ょう、話を聞いて思い出しました。実家の前に道祖神がある。たしか双体・お坊さんのだと思う。ドンド焼きもやっていると
思う。母にメールして写真を撮ってもらい送ってもらう。先生に上げます」
  私の答 「『道祖土』を「サイド」と読んでいるところがある。さいたま市緑区道祖土(サイド)。道祖神のことをサイノカミ
       と呼ぶところもある。そこから『道祖土=(サイド)』が生まれたのだろう。〈サイ〉が転訛(なまって)して〈サヤ〉
       になった」

昨夏転居した峠地区のダンゴ焼きに参加したYさんの報告
 「お団子を刺した木を三本もって、三カ所の道祖神さんに供えに行った。子供たちが神主を務めているので、お賽銭を
上げる。『〇〇円が相場』だってご近所の方が言われたのでポチ袋で用意して行った。年配の方から昔のダンゴ焼きの
話をきかせてもらった。ダンゴを刺す木は、庭にある梅・樫・柳などいろいろだった。ダンゴ焼きを知らせる太鼓のリズム
は《テコテコ松っあん テコ松っあん》。言われればそう聞えたけど、意味が分からない」。

情報委員のKさんの話
  「主人も道祖神に興味を持っています。安曇野が好きで、家族で何度か行っています。先生の道祖神の話を聞かせた
ら『俺も聞きたかったなあ』と言ってました」。

〇今年の年賀状の中に「昨年、先生から聞いた“目一つ小僧”のお話を、今年は園児にしてあげようと思います」があった。
差出人は前年度情報委員Eさん。

 やっぱり、私にとって道祖神は「ワンダーワールド」です。

2015年12月7日更新

    第147話
   秦野地方の民話
 
12月8日は「目一つ小僧」の日


   目一つ小僧     武八重子さん(M42・秦野市寺山生まれ)から取材
                                                                                                          
 大寒 小寒(おおさむ こさむ) 山から小僧が飛んできた
 寒きゃ あたれ  熱きゃ 引っぁれ  引っぁり虫が 喰いつくぞ (秦野地方の古謡)


 12月8日(事始の日)の夜  山から目一つ小僧が里に下りてくる

 子供のいる家の玄関をのぞいて回る

 玄関の中の履物の乱れを見て回る (親のしつけができていない)

 その履物の子供の名前を帳面に記す

 この帳面は天帝(北極星に居る神)に届けられ、書かれた子供は病気や交通事故に遭わされてしまう

 小僧は村中の家を回るので夜が明けそうになる

 村外れの道祖神に「1月15日(小正月)に取りに来るから」と帳面を預ける

 1月14日の夕方、道祖神が預かった帳面の中を見て驚く

 その帳面を道祖神の前で燃えている火()村人が焚く  大年神(お正月の神)を山にお送りする(送り火)に投げ込む

 1月15日の夜 帳面を取りに来た小僧に、昨夜の火事で帳面は燃えてしまったと言う

 こうして、道祖神のお陰で子供たちは病気や交通事故などから逃れられる。だから、道祖神祭りは子供が執り行うお祭り   



 ※12月8日  目一つ小僧が我が家に来ないようにメケーゴ(目籠)を長い竹さおの天辺に付け庭先に立てる。「目一つ」よ
 りメケーゴは目が多いから。履物をそろえないと「目一つ小僧が来るよ」と子供たちに注意する家もある。


2015年10月7日更新

    第146話
   たばこと秦野


第68回 秦野たばこ祭り
 「タウンニュース」紙の企画記事



2015年9月7日更新

    第145話

 道祖神の里めぐり  2015年8月 群馬・長野 
 Katsumi In 道祖神ワンダーランド


 2015年8月24日~27日 道祖神の里めぐり
                    群馬県 高崎市中室田町 高崎市倉渕町 東吾妻町 中之条町 
                           長野県 松本市 上田市 東御市 富士見町 朝日村

 
 道祖神ワンダーワールド
 今回の「里めぐり」は、今まで私が訪ね歩いてきた道祖神を再確認することが出来る―サンプルが網羅された―里めぐり
になった。「道祖神ワンダーワールド」を堪能したその概要を紹介してみる。

 双体道祖神
 1彩色型 2抱擁型 3肩組み握手型 4握手型 5合掌型 6拱手合掌型 7「帯代」を明記した像 8彫りかけ(未完成)像 
 《男神女神の持ち物》
  ①宝珠と合掌型  ②女神が横向き・男神が瓶子 ③扇を二人で持つ坐像 ④男神・由布 ⑤男神・未開蓮 ⑥男神・矛
  女神・御幣 ⑦男神・剣持ち ⑧女神・瓶子と盃 男神・御幣 ⑨祝言像 三つ重ねの杯   
 《その他の掘り込まれている物》
  ①桃の実形内に彫り込み ②菊花紋と五三の桐紋 ③鳥居に道祖神の文字の幟 ④「道祖神」の掲額
  
 単体道祖神
  1坐像(伊豆型) 2丸彫り(地蔵型) 3丸彫り(子育て地蔵型) 

 文字碑 
  1「道祖神」 2「道録神」 3「祖道神」 4「道祖神」に線刻の男女双体像 5「道祖神」と男女双体像

 石 祠
  1三方・水瓶・御幣 男神拱手女神合掌像(線刻)
  2三方・水瓶・御幣 梁に卐(右マンジ)の文字 双体合掌像 

 男根女陰


 
           
         足踏み道祖神              道録神 (「禄」ではない)          端正な握手像
      女神が男神の足を踏んでいる


2015年8月7日更新

    第144話

 秦野の地名考  その1  
      
東田原象ケ谷戸


 象ケ谷戸 

 秦野市東田原に象ケ谷戸(地元では「ゾウゲート」)と呼ばれる地区があります。地名に「象」という文字をとりれいれている地名
は全国でもあまり無いようです。松尾芭蕉の「奥の細道」に登場する名句「象潟や雨に西施がねぶの花」の象潟(キサガタ)は秋
田県にかほ市の地名です。奈良・吉野町に「象谷」という地名がありますが、読み方は「キサタニ」。いずれも「象」を「キサ」と読ん
でいます。
 「象」を「キサ」と読むのは、象牙にギザギザの模様があるから、ギザギザのようすを「象」という文字で表したようです。階段を「キ
ザハシ」とも言いますが、地形用語の「キザ・キサ」は、段丘・侵食地・削り取られたところを示す言葉です。象ケ谷戸地区の地形は
「段丘・侵食地」と言えます。ずっと昔、象ケ谷戸は「キサ(キザ)ガヤト」と呼ばれていたのではないでしょうか。やがて識字率が上
がり「象」が「ゾウ」と読まれるようになったと推測できそうです。

 ところで、新編相模國風土記稿では現象ケ谷戸は「蔵ケ谷戸」と記されています。地名用語の「蔵」は「クマ」の好字・瑞祥語で、地
名用語としての「クマ」は「隅」を表す場合が多いようです。「隈」は「山の側稜と側稜の間の沢(方言・神奈川県津久井郡若柳)」「奥
まったところ・隅」と地名用語語源辞典にあります。象ケ谷戸地区はこの説明に符号すると思います。
 「象ケ谷戸」は初めは「隈ケ谷戸」と呼ばれていたのですが、その「隈・クマ」が「蔵・クラ」に転訛して「蔵ケ谷戸」。その「蔵」は音で
「ゾウ」と読むので「ゾウゲート」。そしてその音「ゾウ」に「象」が当てられたと考えることができます。

 地名に現れる「ゾウ=象、蔵、雑、造」は「ソウ」の濁音化。「ソウ」は「荘」で中世の荘園に関係するか。「惣」で中世の農民の自治
組織「惣」に関わる地名か。「沢・サワ」の転訛か。「象」のような意味不明とされてきはた地名の多くは「沢・サワ」の転訛と思われる。
                                                                (地名用語語源辞典)



2015年7月7日更新

    第143話

 東中学校1学年の公開授業
  まほら秦野 
その1「古道・大山道と東地区」


 6月25日
  東中学校1学年(3学級)の「地域学習」の授業。年間3回シリーズの第1回。一般公開の授業ということで地域からの十数名の
 出席も。

 授業の主題 「古道・大山道(坂本通り・蓑毛通り)を歩く・東中学校周辺」 (以下の事について紹介)

 1 大山道道標 3基
  ①寺山・藤棚バス停 大山道道標「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。
  ②蓑毛・才戸バス停 大山道道標 動明王像を戴く市内最古の道標で享保20年(1735年)「右ハふし 左ハおた原」と記され
   ている。
  ③東田原・東公民館前バス停 道祖神(自然石・文字碑)1806(文化8)年で「(正)道祖神 文化三年 いせ原口(左)丙寅正月
   大山道」の銘。
 2 清水湧水池跡記念碑 東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。

 3 東中学校の校庭の大イチョウ。

 4 東秦野国民学校の水道水源地 昭和17(1942)年11月3日竣工。

 5 波多野城址。

 6 寺山遺跡と金目原遺跡。

 7 西の久保湧水。




2015年6月1日更新

    第142話

    秋田の人形道祖神


道祖神の里めぐりNO22  秋田の道祖神    2015年4月30日/5月1日

 藁や木の人形道祖神
  道祖神・塞の神といえば石造の双体像や文字碑を思い浮かべるが、秋田県では藁や木などで作られた人形道祖神が今も人々の
信仰の対象になっている。いずれも、全国各地のものと同様、に集落の境に立ち悪霊や疫病などの侵入を防いだり清めたりすると
考えられてきた。またさまざまな民俗信仰と混合し、道中安全の「岐の神」や「子孫繁栄(男根などが強調される)・縁結び」の神とし
ても信仰されてきている。

                
             ①                        ②                      ③
 
 ①仙北郡美郷町  鍾馗様(しょうきさま)   顔は木のお面、体は藁で作られていた。身の丈は3㍍ほどの巨大な人形道祖神。
                            欅の古木の根元に鎮座し、集落を見守っている。

 ②大仙市横堀日吉  鍾馗様(しょうきさま)  この「しょうきさま」は全身藁・顔も藁で作られている珍しいもの。身の丈2㍍50㌢
                            ほど。髪と髭は杉の葉。この像の裏に住む佐藤隆昭さんの話。「毎年4月と10月にお
                            祭りをする。10月は衣変えで、昨年は10月24日に行った。人形は新藁で作る。髪とヒ
                            ゲは杉の葉を使う。葉が変色し始めると取り替える」その役は佐藤さん。

 ③大仙市太田町斉内長者森  仁王様(おにょさま)  
  5月1日、大仙市太田町斉内長者森の「おにょさま」を訪ねた。木の面、体はワラのこの道祖神は市文化財で身の丈3㍍。目の前
に田んぼが開けた処に立っていらっしゃった。その田んぼで作業をしていた小松新一さん(77)、小松洋さん(61)に「おにょさま」に会い
に来たのだがと声をかけた。二人は畦の軽トラのところに戻ってきて「今日じゃ早すぎたな。5日に来ればよかったのに。5日に《着替
え》をするよ」と私の話に乗ってくれた。  
 回り番(以前は宿と言った)の家が新藁でコモを編み、衣装を準備する。そして5月5 日に地区総出(9戸)で《着替え》をする。着替えた
「おにょさま」の前でお祭りをするとのこと。「写真を撮って送ってやるよ」と洋さん。新一さんは「今年十数年ぶりに地区に小学生が出
た」と喜びの話。米作りの現状は厳しいことや山菜採りに山に入り熊に噛まれたことなど話は尽きなかった。
 そして5月8日、洋さんから写真が届いた(右上)。お礼の電話をした。今年の《着替え》は、「武さんが見に来たので」がんばって骨組
みもやり直したので時間がかかったとのこと。「酒盛りは盛大でしたか」と聞くと「ほんのチョットだよ」と含み笑いの洋さん。「9戸のうち
女性の参加が2戸。これが地域の現実」とも話してくれた。
 「もう早いところは田植えが始まった」という言葉に、「おにょさん」の前で開かれた祝宴の光景を想像した。



2015年4月1日更新

    第141話

 古道・大山道を歩く
  東地区寺山の「路傍の神仏を訪ねて
  

 古道・大山道を歩く  「路傍の神仏を訪ねて」  第1回 東地区寺山の大山道蓑毛通り・坂本通りを歩く   2015/4/3
 
 東公民館 
 ↓ (マタド道)
 波多野城址
 (蓑毛通り)
 ↓
 双体道祖神    (二ツ沢庭・竹ノ内庭)            ・寺山711
  「奉造立道祖神」 宝暦11(1761)年
 ↓
 道祖神(文字碑)  双体道祖神    (久保庭)          ・寺山667
 地神塔 市内最古で安永10(1781)年               
 ↓
 才戸石碑群(馬返し つたや)                  ・蓑毛141
 ・大山道道標 不動明王像を戴く市内最古の道標で享保20(1735)年
  「右ハふし 左ハおた原」と記されているが判読は困難。
 ・ 道祖神(男女双体像・市内初出) 元文6(1741)年 
 ・ 地神塔(五角柱型 市内唯一) 
 ・ 浅間大神塔              
 ↓
 (蓑毛通りから坂本通りへ)  途中に双体道祖神・馬頭観音
 ↓
 双体道祖神    (横畑地区)                ・小蓑毛233
  小川直之氏は「この双体像は、像容(僧形の合掌像)からすれば寛文(1661年)から元禄(1703年)時代のもの」と推察。横畑地区では安産
  の神でもある。
 ↓
 (坂本通り)
 ↓
 大山道道標 不動明王(祠)(正)大山道 文政3(1820)年   ・小蓑毛235
  平成2(1990)年に建てられた祠は平成22(2011)年3月4日に建て替え。
 ↓
 昼食とミニ講座 松下家(古民家)
 ・講座「寺山の地名」
  波多野氏の居住地(波多野城)を示す古語。その他「地獄ゲーリ」「テフ塚・ちょうづか」「タカフチ・タコウチ・高取山」。
 ↓
  (坂本通り)
 ↓
 道祖神(文字碑)(角ケ谷戸庭)                ・寺山1029
 ↓
 武邸の屋敷神 
  庚申塔、巳待塔、稲荷祠、陽石の4体が祀られている。
 東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
  昭和60年(1985年)、新校舎の完成記念に、東地区にゆかりのある宮永画伯にレリーフの壁画制作を依頼。
 1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「 人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。
 ↓
 道祖神(文字碑「久奈斗大神」)(清水庭)           ・寺山495
 清水湧水池跡記念碑                      
  東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会が建立。湧水は開発により平成16(2004)に消滅。
 ↓
 道祖神(文字碑)(宝ケ谷戸庭)               ・寺山485
 天社神                      
  県道脇に立つ。市内で二番目に古い造立で寛政11(1799)年。台石に「右十日市場」「左坂本」と記されている。
  市内三番目に古いのは寺山の鹿島神社境内の天社神で享和2(   1802)年。市内最古、二番目、三番目のいずれもが寺山(村)地区に
  立つのは興味深い。
 ↓
 道祖神(文字碑) (宝作庭) 道祖神の表記に注目   ・寺山419
 三界萬霊・庚申搭
 宝作庭に入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に庚申搭の印である三猿の上半身がわずかに見える。
 ↓
 大山道道標
 「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。
 ↓
 西の久保湧水
  「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)。大正8(1919)年、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。その記念碑がある。
 ↓
 馬頭観音群とマタドの渡し
  金目川橋下流50mほどの川中に、大山道・坂本通りと蓑毛通りを結ぶ川中の道(踏み石)が残っていた。「マタド」に「馬渡戸」「馬渡」の字を
  与える研究家もいる。地形用語では「又と」で「二つの川か合流するところ」。この地はかつて金目川と中丸川が合流していたところ。
  金目川橋の東のたもとに95体の馬頭観音が祀られている。この馬頭観音群の中で最古のものは安政5(1858)年に寺山村の角ケ谷戸西、 
  二ツ澤、清水、竹之内、久保の各庭が合同で奉じた観音菩薩像。建立年代は、明治12、大正が26、昭和が30基。もっとも新しいものは昭和 
  53(1978)年の建立。
 ↓
 庚申塔 (東公民館前) 上原 金山 関口 天保2( 1831)年 ・東田原1525 

 東公民館 ・まとめの講座「金目川は加奈比可波」


 

2015年3月1日更新

    第140話

    埼玉の双体道祖神


だんご飾り 2015 武家

埼玉の双体道祖神めぐり 2015/2/25

熊谷市             深谷市                 寄居町            滑川町




2015年4月3日 桜を見ながら「寺山地区の道祖神めぐり」  案内は「まほらの会」  ・問い合わせは東公民館 0463-82-3232




2015年2月1日更新

    第139話

   ダンゴ焼きの「トッケダンゴ

 ダンゴ焼きに持っていくダンゴは三個。三つ叉のコナラの枝に刺してある。

 村はずれの空き地・道祖神の前・そこは「道祖神場」と呼ばれている。この日、村人は道祖神場に集まりダンゴを焼く。
 焼いたダンゴの行く先は、一個は道祖神に供える。一個はその場で食べる。残った一個は持ち帰り、馬や牛にたべさせる。家畜は大切な家族の一員だから。
ところで、どの家も焼いたダンゴを一個供えるのだから道祖神さんは食べきれない。神前はダンゴの山になってしまう。だが、供えられているダンゴは一個だけ。
その訳は、 この日の道祖神の前には道祖神小屋が建つ。その小屋の中にはダンゴを供える人を迎えるために、男の子が控えている。その子どもたちの中心
になる子を「神主」とか「大将」と呼ぶ。「神主」「大将」になった子は自分の家から、お赤飯(蕎麦の場合もある)かお神酒を持ってきて、真っ先に道祖神に供える。
 焼いたダンゴを最初に供えた人は神主が供えたものを貰う。次の人は最初の人が供えたダンゴを貰う。三番目の人は二番目に供えられたダンゴを頂く。供え
られたダンゴは、こうして順繰りに後の人に下げられていく。これが「トッケダンゴ」。
 秦野言葉では「取り替える」は「トッケエル」。「トッケダンゴ」とは「取替えダンゴ」のこと。このように焼いたダンゴを取り替えるのは、我が家の幸せ・良いことが他
の家にも訪れるようにという願いからである。だから供えるダンゴは大きい。
 この日、子どもたちは太鼓を叩く。そのリズムは「トッケダン トッケダン トッケダンゴ ダンゴ ダン」。


今年も子どもたちに「トッケダンゴ」の話をした

2015年1月1日更新

    第138話
  まほら秦野みちしるべの会の富士宮の道祖神めぐり余話
  案内は〈道女・ドウジョ〉の志村和恵さん

 平成25年3月29日、富士宮の道祖神めぐりをしたとき、人里離れた深い山中(坂林地区)に祀られている双体道祖神に出会った。その道祖神の傍らに題目塔も。
二塔が立つ場所が気になったので、帰ってから富士宮市教育委員会に尋ねた。だがその時点では「不明」という回答だった。
 ところが、5月28日に富士宮市教育委員会から「坂林集落石造物調査報告」が届いた。この報告によれば調査日は平成25年4月16日とある。私の問合せを受け
調査をしたようだ。報告書はA4判2ページで写真も組み込まれた正式なもの。かつてその地に住んでいた人の話も採ってある。「50年くらい前までは二十三、四軒
の家がありにぎやかだったが、今は居住者はいない。道祖神や題目塔、馬頭観音、水神などがある。水神を祀ったところはスイジンボリと呼ばれていて水が湧いて
いる。」
 通りすがりの人(私)の個人的興味に、このような形で応えてくれたのは、教育委員会富士山文化課・学術文化財係の志村和恵さん。
 その志村さんが今回の研修で案内をしてくれた。初めての〈ご対面〉なので心が躍っていた私。この日の説明は昨年の私への対応と同じように力強く、しかも丁寧
だった。
 富士宮で生まれ育った志村さんは、小さいころからどんど焼きを楽しみ、道祖神さんの可愛さに引かれ、大学で民俗学を学んだ。そして地元で道祖神を守る仕事
に就いた。「一月に大磯の左義長の斉灯を見にいきました。帰りに秦野の道祖神も少し訪ねました」と話す志村さんに、道祖神への思い入れの強さを知った。
 二十代半ばの志村さん、今風に言えば〈道女・ドウジョ〉、そして〈童女〉。「ミチジョ」と読めば、我が会「みちしるべ」につながる。
 志村さんが働いているところは「富士宮市教育委員会富士山文化課」。そのネーミングも含め富士宮市のファンになった。


    第137話
 市制施行60周年記念市民企画事業      
  
まほら秦野みちしるべイラストマップ展示会
            平成27年1月10日~18日
 



会員によるミニ講座は地区毎ののマップの解説
ご来場をお待ちいたしております。




2014年12月1日更新

    第136話
  道祖神の里めぐり       2014年10月27~30日
 
サイノカミさんの宝庫 鳥取県大山町・米子市淀江町 

 西日本での道祖神はなぜか鳥取県に集中する。それで今回は鳥取県大山町と米子市淀江町を中心に歩いた。4日間で巡った道
祖神場38・道祖神は128塔。
 1 伯耆の道祖神の特徴 ( )内は甲信越・相模の道祖神の特徴)
 ①呼び方 サイノカミさん (道祖神 塞の神 道陸神 岐神)  
 ②ご利益 「縁結びの神」「幸福の神」。実際に「幸神」の文字碑が12塔、「妻神」が2塔。 
 (厄払い 健康 子孫繁栄 安産 豊作 縁結び道案内 旅の安全)
 ③形体 線刻が多い。男女双体像はとサルタヒコノミコトとアメノウズメミコトの両神。天狗鼻とお多福を彫りこんでいるものもある。
 イザ ナギノミコトとイザナミノミコトの二神。※僧形は見当たらなかった。
 (舟形半浮き彫り。僧形、神官、衣冠束帯・十二単の宮廷人などで肩組み握手像、酒器像、拱手像、合掌像など。坐像は少ない)
 ④文字碑は少ない。「道祖神」と書かれた文字碑は3塔。「二柱神」は1塔。(道祖神と刻まれた文字碑が多い)
 ⑤ 造立の時代 伯耆地方最古の道祖神は安永五年・1776年 (寛永から元禄時代がピーク・最古は安永2年・1505年・長野県辰
 野町)
 ⑥祭りの日 12月15日だが衰退気味。 (1月14日、ドンド焼きに結びついている)

 ・大山町 集落ごとに墓地をもっているらしく、少し車を進めると集落のはずれに墓地を見ることができる。寺院は少ないようだ。
 鈑戸 (タタラド)の「両墓制」の河原の風景は心に染みた。風力発電の風車がよく目に入る。
 ・淀江町 町の裏に入ると昔からの生活の道が今もその役目を果たしている(軽自動車が必要)。サイノカミさんが公民館の敷地や
  神社
 などに集められている。地域の人にとってサイノカミさんは遠い存在になっているかも知れない。

 今年の「道祖神の里めぐり」は山梨県中央市(4月)、長野県山形村(8月)、山梨県甲府市と身延町(8月)。そして鳥取県大山町と米子
 市(10月)、そして、そして11月には長野県安曇野市を4回目の訪問。12月3・4日は富士宮市の道祖神を「まほらの会」で見て歩く。


だいせん高原 豪円山のろし台から





『JAはだの』 856号(2014年11月26日)




2014年11月1日更新

    第135話
  道祖神の里めぐり       2014年8月28日
  山梨県身延町(旧下部町) 


 地名「久那土」と子育て双体道祖神
 道祖神の別称に「久那斗神(くなどのかみ)」「岐神(ふなとのかみ)」がある。「久那斗神・岐神」とは、伊弉諾尊(いざなきのみこと)が
黄泉(よみ)の国から逃れて禊(みそぎ)をした時,投げ捨てた杖から生じたという神。集落の入り口や道路の分岐点などにまつられ,
種々の邪霊・禍災の侵入を防ぐ神で、道祖神、岐・衢(ちまたのかみ)と同じ。この「久那斗」と同じ読み方をする地名「久那土」が身延
町(旧下部町)に存在する。JR身延線の駅名にもなっている。

 この日の順路:車使用
 「なかとみ和紙の里」前に 道祖神① ⇒富士川を渡る(峡南橋) → 「つむぎの湯」→ 久那土駅→ 身延線の鉄橋をくぐり左折→ 道祖
神②  ⇒県道9号に戻る→ 久那土中学校前の河原駐車場 → 道路を横断 大草ふれあいプラザ前に 道祖神③ ⇒久那土小学校前
右折→ 久那土郵便局前を通過→ 県道404号 川側に 道祖神④ ⇒橋を渡って民家前に 道祖神⑤ ⇒県道404号に戻る→ 龍泉寺
参道入り口に 道祖神⑥  ⇒道路山側に馬頭観音・石仏群→ 切房木 岩船地蔵尊前を通過→ 道地区の始まり→ 道路山側に馬頭観
音→ 道路山側に 道祖神⑦ ⇒慈観寺前を通過→ 自動車工場横の小道に入る→ 道祖神⑧ ⇒県道404号に戻り蛇行した坂を登る→
坂の途中・道路谷側の下に 道祖神⑨がある石仏置き場 ⇒大磯小磯方面or古関方面(照坂トンネル方面)の分かれ道→ 三叉路を大
磯小磯方面に進みすぐ 道路下に 道祖神⑩ ⇒大磯小磯方面に進み 分かれ道を上小磯方面へ→ 山道を登り集落入口に 道祖神⑪
 ⇒元の道に戻り大磯小磯方面へ→ 道路山側に八王子諏訪神社・斜面に道祖神⑫  ⇒大磯小磯公民館の北側へ伸びる山道 小橋
を渡る 道祖神⑬(破損) ⇒大磯小磯公民館前の三叉路に 道祖神⑭(石祠2基) ⇒来た道を戻り芝草の三叉路を古関方面へ →照坂
トンネル→ 寺(方外院)前を通過→ 山側 農道の入り口に 道祖神⑮ ⇒本栖みちに合流→ 古関集落公民館の横に 道祖神⑯


 道祖神寸見 


         
② (身延町三澤)
 双体道祖神一つの石に二神を浮き彫りにしたものが多い。しかしこの双体は丸彫り。地蔵でなく道祖神として認められるのは握手をし
ているから。道祖大神の文字碑も並立している。傍らに地元三澤第二組が立てた解説板によれば「この双体道祖神は室町時代のもの
ともいわれている」とある。「明治40年の水害で頭部が流失し丸石が乗せられた」とも。
 集落に今も伝わる道祖神祭りは毎年1月14日に行われ「25才と42歳の厄年の男性と新婚者がお神酒を上げる。かつては夜明かしで
踊った」らしい。そして結びは「男女双神は夫婦和合、子孫繁栄。道を教える神が人の道を教えるとして民間信仰として定着した思われる」。
流失した頭部は優しい眼差しで人々の祈りにこたえていたのだろう。 

③(大草ふれあいプラザ前)
 丸石の道祖神(寛政2年)。傍の石灯篭に「石尊大権現」の文字が。この地でも石尊(大山)信仰はあったことを知る。この灯篭には金比羅
大権現、秋葉大権現の文字も刻まれていた。子育て地蔵、庚申塔、二十三夜塔も祀られている。

④(下部第二分団詰所の横)
 駒形の双体で男神は笏、女神は宝珠。文字碑は明治23年造立。

⑤(身延町切房木)
 磨耗が著しく像の特徴(両神の上に御幣?)が見られない。お稲荷さんの狐(陶製)がたくさん納められていた。

⑥(龍泉寺の参道入り口)
 赤っぽい色の男女双体像で明和元年の造立。由布と大きな手が特徴。道祖神場もある。地域がしっかり護持している様子が分かる。

⑦(身延町切房木)
 岩船地蔵尊の先。赤い屋根の祠に二体祀られている。一体は男女双体像。宝剣を手にしているのは女神か。祠の軒が低いので十分に
拝観できない。ここに御幣が添えられた双体神がいらっしゃるはずだが。


         
⑧ (身延町道)
 慈観寺の近く。「子育て道祖神」で女神が子どもを抱えている。男神は笏。石祠は大正4年。 

⑨(身延町水船)
 集落から離れた夏草の繁る中に立つ男女双体神。だが世俗から離れているためだろうか表情は穏やか。惹かれる像。
⑩(身延町芝草)
 かなり埃に覆われていた。女神は体の前で子どもを抱えている。⑧の子どもと比べこちらの子は女神のあごくらいの背の高さ。大きな子で
ある。男神は笏を手にしている。

⑪(身延町大磯小磯)
 八王子諏訪神社の法面に男女双体が二体。一体は由布、他の一体は太い紐のような由布を手にしている。庚申塔や地蔵も並列。

⑫(上小磯)
 小屋の棟札には「小磯・中小磯 平成24年1月28日」とあった。カメラの角度にこだわっていたら、木祠の天井に足長蜂の大きな巣、蜂がい
っぱい。被害には遭わなくてよかった。
 
⑬(大磯小磯公民館北側)
 長さ3㍍ほどの橋を渡ると道は山中へ。雑木林を透かしてみると人家が一つ望めた。この橋のたもとに4坪ほどのモルタル塗りの小屋があっ
た。取水小屋らしいが全く使われていないようだ。その脇に上部が欠けた双体道祖神が祀られていた。菊紋の石祠道祖神も。陶製の恵比寿、
大黒、布袋像が納められている。注連縄が張り巡らされているので道祖神祭りは行われたのだろう。
 この日回った集落で家財の整理をしている(運び出している)光景に二度出遭った。過疎化は進んでいることを知った。だがどの集落でも、今
年も道祖神祭りか行われたことを示す竹と注連縄が見られた。そこに道祖神信仰の原風景を見たような気がする。

⑭(大磯小磯公民館北側)
 林道大磯小磯線の入り口に菊紋の石祠2基。

⑮(身延町古関) 
 男神は笏、女神は扇。顔の形などに男女の違いが表れている。敗戦後の混乱期の昭和25年1月14日に松葉組と馬場組による造立。村人は
何をこの双神に祈ったのだろうか。


          
⑯(身延町古関公民館横) 
 男神は笏、女神は合掌の像。家紋が付いているが判別は難しい。丸石道祖神も。
柵の外に長い歳月を経た双体道祖神が立つ。この塔は柵内の塔の祖先かもしれない。小さな賽銭箱が設けられている。道祖神場があり、そこ
にヤナギが置かれていた。ここで下部の道祖神めぐりは終りなので秦野の地酒をすべて飲んでもらった。


私たち「まほら秦野みちしるべの会」がガイドを務めます。
問い合わせは東公民館へ 82(3232)


     武勝美の「まほら秦野」を紹介する活動予定

     11月1日 
       〇東公民館祭り「まほら秦野みちしるべの会」のイラストマップ展示会
         ・ミニ講座『道祖神の嫁入り』
     11月15日
       〇南公民館事業「南地区の道祖神めぐり」
         ・ミニ講座『道祖神の婿入り』
     11月15日
       〇寺山自治会文化講演会
         ・講演『道祖神ワンダーワールド』
     12月1日
        〇東小学校PTA成人教育講座
         ・講演『地名は語る 東地区の歴史と文化』
     12月12日
       〇JAはだの組合員基礎講座
          ・講演『大山道と里人の暮らし』
     12月16日
        〇東中学校「総合の時間」の公開授業
         ・講演『秦野の民俗 ダンゴ焼きと目一つ小僧』








2014年10月3日更新

    第134話
  道祖神の里めぐり    2014年8月27日
  
長野県山形村の「山口の丸髷」の御縁想

     
     長野県・山形村の道祖神
    「山口の丸髷」
正徳
5(1715)

 道祖神の嫁入り 
   「山口の丸髷」の御縁想

 朝日村(山形村の隣り)は石材の産地で、村内に立派な道祖神がたくさんあったためだとか、豊かな良い村だったので、それにあやかるた
めに朝日村の道祖神はよく盗られたらしい。
 現在、朝日村古見芦之久保に立つ道祖神の裏面の銘文は次のように書かれている。
 ①正徳五乙未年十月卯日建立 ②寛政七卯八月六日夜 小坂村山口御縁想 ③同歳十一月十三日再建立 ④天保十三壬寅年二月七
日夜 本洗馬村上町御縁想 ⑤天保十四葵卯年四月十五日 ⑥古見村蘆野窪講中

 この碑文を読んでみると次のようになる。
 ①正徳5年10月卯の日 
 ②建立寛政7年8月6日夜 小坂村山口(現山形村)に盗られた
 ③その年11月13日に再建
 ④天保13年2月7日夜 本洗馬村上町(現塩尻市洗馬)に盗られる
 ⑤天保14年4月15日建立 古見村蘆野窪講中

 上で紹介した「山口の丸髷」の銘は「正徳5年」とあるから、「丸髷」が古見村蘆野窪のものであることが分かる。さらにその「丸髷」が盗まれ
たことが記録されている。

 古見村蘆野窪(芦之久保)の旧庄屋上條家に伝わる「永代日記書留帳」には、寛政7年の小坂村山口へ盗まれたときの様子が次のように書
かれている。祝儀の為、「卯八月六日夜、芦野久保道祖神、小坂村山口と申す処へ盗み取られ申し候。祝儀の為、酒三升ばかり石之跡に置
き申し候。」 

 十分な接待を受け 帯代が2朱
 「結納品として酒が三升道祖神跡に置かれていた」ということ。それで 「七月十九日酒を調え道祖神を祭り神明山に隠し置き候へ共、道祖
神御縁付きなど申し、山口村へ八日に三ツ目として行器一、酒二樽、肴、扇子箱、袴持参にて悦びに参り申し候。都合二十二人参り、吸物、
酒、めん類など出て、馳走これ有りその上祝儀金帯代として二朱取り申し候。」(後略)
 芦之久保の村人たちが大勢で山口村へ押しかけて行き、盛大に飲み食いし、帯代2朱を取ったのである。

 「三ツ目」とは、嫁入りの3日後に嫁の実家へ新夫婦そろって里帰りすることで、秦野地方でもかつてはあった習俗。道祖神盗みの習俗は、婚
姻と深い関係があることを示し、婚礼と全く同じことを行っていることはおもしろい。
                                       (資料:「長野県民俗の会会報」第24号「松本平の道祖神盗み」吉江真美)

 松本市 栗田製菓 モナカ『道祖神の郷(さと)』も訪ねる
 2013年1月、長野・辰野町に「日本最古」の道祖神を訪ねた折、塩尻の宿で『道祖神のさと』というモナカに出会った。
モナカの皮は男女双体道祖神の姿(肩組み握手像)。
 そして店主のご挨拶は「信濃路の古い遺の辻々にある道祖神は、昔から人々の平安な生活、豊作の願い、旅の道中安全、また縁結びや、子
孫繁栄の願いなど、さまざまな思いがこめられています。仲むつまじく寄り添う男女の神様の姿からは、人々の素朴な信仰がほのぼのと伝わっ
てきます。ふっくらとしたつぶあんの中に白いお餅を配し、祈願の実りをこめました。」とある。 
 その出会い以来、道祖神の話を聞いてもらうときにはこのモナカを紹介(賞味してもらった)してきた。
 今回の『道祖神の里めぐり』は松本市の隣りの山形村。それで松本市内の栗田製菓所にモナカ『道祖神のさと』を訪ねた。社員の皆さんとても
驚き、喜んでくださった。ちなみに、手土産は『秦野煙草せんべい』。

                            
                             モナカ『道祖神のさと』



2014年9月6日更新

    第133話
 道祖神の里めぐり    2014年8月26日
 
  甲府市古関町→ 甲府市右左口町→ 甲府市上向山町長野・信濃町


 1 文字碑・双体・石祠・丸石道祖神  (甲府市古関町)
 国道358号線の道路脇に立つ文字碑道祖神。堂々とした新しい台座に乗る文字碑。なぜがその足下にネギが一畝。隣に立つ電柱に
は甲府市役所上九一色出張所の案内板が。そう、ここは旧上九一色村だ。
 この碑の横の坂道を20メートルほど登ったら双体、石祠、丸石の三基の道祖神に出会えた。双体は僧形合掌像。ふくよかな造りでや
さしい表情がうかがえた。大乗妙典一字一石供養塔、不動明王、庚申塔、地蔵菩薩と共に祀られている。それらの神仏のすべてに「福
まんじゅう」が供えられている。通りかかった青年に話を聞くと、24日に道祖神祭りが行われ、祭りに参加した人にこの福まんじゅうが配
られたとか。秦野と違い、山梨や長野では6月から8月にかけて道祖神祭りを行うところもある。豊作祈願や暑気払いの祭りらしい。

                           


 2 丸石道祖神  (甲府市右左口町・旧中道町)
難読地名でも知られている「右左口」。「うばぐち」と読むのは難しい。山梨県甲府市と静岡県吉原宿を結んだのが中道(なかみち)往還。訪
ねた集落は右左口宿と呼ばれ、古い宿場の風情を残す間口4間の家が今も点在する。歌人山崎方代の故郷である。
 ① 下宿の道祖神 自然石の丸石一個の道祖神。左下の甲子塔に「左 市川」の文字があるが、道祖神と灯籠との間にある四角い石が元
の道標で「右 甲府 左 市川」と刻まれている。
 ② 中宿の道祖神 7個の丸石(自然石)円形に積み重ねられている。
 ③ 上宿の道祖神 円楽寺の山門の左。自然石の丸石10個。
 
      
 

 3 右左口は山崎方代の故郷
 大正3年、右左口村(現右左口町→)で8人兄弟の末っ子として生まれた。「方代」という名前は五人の子どもを亡くした両親が「生き放題、死
に放題」にちなんで名付けたといわれている。
太平洋戦争で右眼を失明、左眼の視力もわずかに。街頭で靴の修理などをしながら各地を旅したことから、「漂泊の歌人」と呼ばれるようにな
る。亡くなって20年以上経ってから高校の国語の教科書や映画で取り上げられるなどして注目を集め、今も多くのファン(私もその一人)を持っ
ている。菩提寺は円楽寺(右左口町)。寺の隣が生誕の地。
      
                       生誕の地に立つ「方代」自筆の歌碑

                    
         ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村   方代


4 丸石道祖神  (甲府市上向山町)
 常光寺への道の入り口は中道公民館向山分館の横。その公民館の横にまだ新しい丸石(加工)道祖神があった。傍らに青面金剛の庚申塔、秋
葉大権現の石と灯篭。  
 道祖神の注連縄が比較的新しいし、カップ酒が供えられている。それで「道祖神祭りが行われたのか」と道祖神の真横の家の人(若いお母さんだ
った)に聞いた。すると「夏祭りは行っていない。お酒は近所の人が供えているらしい。絶えることはない」と笑顔。
 ドンド焼きはそこの道祖神場で行われ、お坊さんがお経を上げ、主役は大人で、子供たちにお菓子が配られるとのこと。
注連縄が新しくなっていることは、かつては夏に道祖神祭りが行われたことを表しているのではないか。「いつも誰かがお神酒を供えている」と聞き、
この地に住む人たちの暮らしの中に道祖神信仰は息づいていると思った。

                     


5 男女双体道祖神 (長野県・信濃町) 

                               
             着物、ぞうり履きからすれば農家の若い夫婦か。女性は胸に赤ちゃんを抱いている。


6 小林一茶旧宅 
 (長野県・信濃町柏原)
 一茶記念館に着いたのは3時を過ぎてから。俳諧寺、一茶の墓、そして小林一茶旧宅(国史跡・終焉の地)を回る。
時おり小雨にみまわれたこの日だったが、記念館を出ると黒姫山と妙高山が姿を見せてくれた。「あの左に飯縄山があるのですが残念ですね」と地
元の人が言った。
 一茶はこの地柏原に1763(宝暦13)年に生まれた。5歳で江戸に出て50歳で帰郷し、52歳で結婚。4人の子供に恵まれたが次々に亡くなり妻にも先
立たれた。宿場の大火により家は類焼し、焼け残った土蔵(下)で65歳の生涯を閉じた。
                           


2014年8月9日更新

    第132話

  秦野のお盆の「ツジ」は
 下伊那地方では「砂山」呼ばれている


  「まほら秦野みちしるべの会」会員・関裕子さんのお父さんの実家は長野県下伊那郡。その裕子さんが「小さいころ父の実家にお盆
で行ったとき、庭に砂の山が造られていたのを見た記憶がある」と話してくれた。「秦野のお盆の風習『ツジ』とつながりがあるのでしょう
か」と、関心を示したので調べてみた。 ブログに次のような事例が報告されている(ブログ名:Cosmos Factory)

 長野県上伊那郡中川村(武注:中川村は「日本で最も美しい村連合」に加盟)
 「新盆の家では百八束のたいまつをこしらえ、十三日の晩に縁者が集まり、墓地の所で火をつけてふる。近頃は庭に新砂を盛り、
線香を立てこれに代える」。(『上伊那誌民俗篇上』) (ブログ:Cosmos Factory)

 「近頃は庭に新砂を盛り、線香を立てこれに代える」。上伊那地方では、たいまつでお精霊さんを迎えるのだが、その代わ
りに砂山を作り線香を手向けご先祖様を迎えるように変わったようだ。(武
)


 長野県上伊那郡飯島町(武注:飯島町は「二つのアルプスが見えるまち」と町を誇っている)
 上伊那南部あたりの新盆見舞いについて『飯島町誌』には次のような記述がある。
  「門口へは、長方形に砂を盛り上げて、来た人々に線香を立ててもらう。朝起きてみると、この砂の上に仏様の足跡があると言われ
た」。 新盆に限らず仏迎えの作法として砂山に線香を立てて迎えるということをした。新盆も同様であり、見舞いに来られた方たちにも
仏迎えをしてもらうという考えなのだろう。

 

 長野県下伊那郡松川町
 下伊那郡境にあたる松川町の『松川町の年中行事』に次のような記述がある。
 「庭先に砂を盛ったり、浅い、たて30cm横50cm位の木の箱に砂を山に盛って線香を立てを作る。線香を立てるかわりにローソクを百本
(または百八本)立てるようにする家もある」。砂山に線香を立てて迎える家もあれば百八の蝋燭を立てる家もあるということで、このあたり
には両者が混在しているようだ。


 長野県佐久市
 『長野県史民俗編総説Ⅰ』には、「東信の南佐久の中部では門口でわら束を燃し土盛りをして線香をたくさん立てる所がある。佐久市
大地堂では、盆棚へ迎えられない子供の霊に供えるためにするのだと説明している。このとき、門口と同じように便所の入り口にも土盛
りをして線香をたくさん立てる」とある。砂山ではないが、土盛りをする事例が佐久地域にはある。

 上に挙げた地方での「砂山」の姿は残念ながらネットでは確認できない。「砂山」の趣旨と同じと考えられる秦野の『ツジ』
や神奈川で広く行われている「砂盛り」は、ネット上にかなりアップされているが。(武)



 長野県下伊那郡根羽村のお盆  (関裕子さんの思い出と裕子さんが聞き出した94歳のおばさんの話)
 お盆にふるさとに帰ってきたご先祖(お精霊様)は16日に帰られる。根羽村では16日午前0時に家族全員がそろって近所を流れる川に
行き、灯明を点け、お線香を焚き、お盆に飾ったものをすべて「川に流す」。橋の上から「投げ込む」。これは今も行われている。  
 近所の人もそこに集まってお精霊さんを送るのでにぎやか。お盆に実家に帰ってきた村の人たちが一年間無事であったことを互いに喜
び合う、そんな光景が見られて、眠い中を起こされ連れて行かれたこのこのお精霊送りには強い印象がある。
「松明」についてはこんなことも行われている。
13日の夕方、家族がお墓に行き、松明をつけ、その灯りで家までご先祖様を連れてくる。縄松明なので、子供がその火のついた縄を振り
廻しながら家に向かう。16日の夕方、お墓に行き松明を灯し、ご先祖様が無事に帰り着かれたかを確かめる。


 秦野の「瓜生野百八松明」も松明を振り回す
  秦野の大根・瓜生野地区にも瓜生野百八松明(うりゅうのひゃくはったい)というお盆の民俗がある。
 五穀豊穣・悪疫退散を祈願して、毎年8月14日、弘法山の麓の瓜生野地区で数百年も行われていると伝えられている行事。長
さ2m~3mの松明約50本が、権現山山頂から龍法寺門前まで地元の人々に担いで運ばれ、門前で松明を振り回す。
(武)





2014年7月1日更新

    第131話

  近世の主要道・平塚道を歩く



 近世の主要道・平塚道を歩く                                                 2014/6/8
    秦野市曽屋「誂」から「中野」 そして「斉ケ分」へ

 6月8日は「まほらの会」の月例の学習会。懇意にしている地元「誂」の関口康彦さんに案内を頼み古道の実地踏査。参加した会員は10
名。 この日は、波多野庄の主要道路であった「平塚道(波多野道とも)」が集落内を通っている中野地区を歩いた。
 平塚道のコースは、波多野庄(十日市場・曽屋)― 宝来橋(今は「蓬莱橋」) ― 中野 ―斉ケ分の尾根 ― どう坂(うとう坂)― 鳥居松 ―
宿矢名 ― 五味坂 ― 北金目 ― 南金目 ― 平塚である。

 金目観音詣での道
 蓬莱橋を渡り、左を流れる金目川に沿って50㍍ほど歩くと中野自治会館。そこで大きく右に曲がる坂道を200㍍ほど進むと左手に大谷
石の塀に囲まれた背の高い石碑が目に入る。碑の立つ敷地は2坪くらいか。その敷地を回り込むようにして左に進む道は日蓮宗・法光山
長源寺につながる。
 碑は長源寺への案内板のようで、「南無妙法蓮華経」七字の題目塔。ひげ文字で書かれていて宝暦12(1762)年造立。ちなみに、日蓮宗
は日蓮が佐渡で書いた「ひげ文字」の「南無妙法蓮華経」を本尊としている、とされる。
 並んで立つのは三界萬霊塔。正面には「○三界萬霊等 宝永7年寅十一月」とある。平塚道の道標も兼ねていて「やなむらかんおんミち」
の文字も読み取ることができる。「萬霊等」の「等」は誤字ではないかと思ったが、「萬霊等」も「萬霊塔」も存在しているようだ。造立は1710
年。
 「○」も気になるので調べてみた。日蓮宗には「日の丸曼荼羅」といわれるものがあり、その曼荼羅を簡略化したものとして「○」が用いら
れているようだ。
 この辻には「関東ふれあいの道」の道標(木製)も立っていて「弘法山1,7km」とある。名古木で矢倉沢往還から分かれた道は、弘法山と
権現山の中腹を通り金目観音(金目山光明寺)に続く通称「かない道(金目道)」で、この先の斉ケ分の丘陵部で平塚道に合流する。

 道祖神さんのご利益
 二つの塔を背にし、身の丈30㌢ほどの小さな文字道祖神が祀られていた。正面中央に「道祖神」と記され、右は「十四日」、左は「中町」
と読めた。「ここは中野だから中町の『町』は『野』ではないか」と文字の解読でかまびすしい私たちに、近くで庭木を手入れしていた瀧川さ
んが「中町でいいんだよ」と断。そしてこの道祖神にまつわる興味深い話をしてくれた。
 それに拠れば、昭和37,8年のころ、この地区では大掛かりな道路拡張の工事が行われた。その時この地に在った道祖神が基礎の石と
して埋められてしまった。身の丈は現在の塔の3倍ほどのものだったらしい。ところが、消えた道祖神の近くの家々に病気や怪我が絶え間
なく起こるようになった。それで「ある家のおばあさんが、20年くらい前にこの道祖神を元の所に建てられたんだ。それ以降この地区では災
難や病気は減った」と瀧川さん。
 瀧川さんにお礼を言い、さらに300メールほど東に進むと馬頭観音が祀られていた。五輪の塔の「空」と「風」も置かれていた。そこから斉
ケ分の熊野神社に降りてこの日のウオークは終わる。


中野ウオーク余話  地名「誂」の語源

 今回歩いた中野地区の東隣りは小字名「斉ケ分」、そして南側で接しているのは「誂・アツラエ」。この「誂」地区は、室川橋から斉ケ分ま
で金目川沿いの左岸にうなぎの寝床のように細長く広がっている。「誂」は珍しい地名なのでその由来を少し探ってみた。

1 「誂・アツラエ」は地名用語「アテラ」の転訛か
 山形市と大江町左沢をつなぐJR東日本の『フルーツライン左沢線』。この「左沢」は「アテラザワ」と読まれている。「こちら」が右で、「あち
ら」が左。「あちら」が地元の人の発音で「アテラ」。秦野のこの地区も、初めは「あてら」と呼ばれていたが、発音が秦野人には馴染まない。
また「あてら」の意味も不明だったのだろう。それで瑞祥名として「あつらえ」に転訛し、漢字「誂」を与えた。
 なぜ「こちら=右側」で、「あちら=左側」なのか
 江戸時代の「出羽国風土略記(でわのくにふうどりゃっき)」には最上川を基準にして「あちらの沢」「こちらの沢」と言ったことから「あちら
の沢」=「あてらざわ」になったという説があります。それではなぜ「こちら=右側」で、「あちら=左側」で定着したのでしょうか。寒河江荘
の領主大江氏が長岡山に登って西の方を見たときに平野山の左方に見える山谷を指して「あちの沢」と呼んだことが起こりだとする説や、
大江町富沢の西にある山岳信仰の山である日光山で、東から昇る太陽を礼拝した時に左に見える沢を「あてらざわ」呼んだとする説があ
ります。(大江町観光物産協会のHPより)
 秦野の「誂」と大江町の「左沢」
 なぜ私が秦野の地名「誂」を山形・大江町の「左沢」に結びつけたのかを問われれば―
 同僚にTさんがいた。彼は左沢線が通る寒河江市の出身だった。その彼が金目川を挟んで広がる中野・斉ケ分・「誂」地区の景色が「左
沢に似ている」と言ったことを思い出したからである。Tさんが現役の教員でこの世を去ってから20数年が経つ。彼がくれた「肘折こけし」を
見るたび、彼との教員生活の苦楽を思い出す。

2 地名用語辞典に拠ると「あてら」は
 ① 山の北または西に当たるところ。日の当たらないところ。
 秦野の「誂」地区は、十日市場(現在の本町地区)から見れば金目川の左に広がる地。今は開けて日は当たるが、昔は弘法山、権現山
 など 北側に山並みを背負った地。
 ② 「あてら」の語源は「あちら」
 十日市場から見れば「誂」地区は離れているから「あちら」。

3 民俗学の柳田國男先生の説
 先生は、「地名用語『誂』は開墾予定地だが比較的遅く開かれた地」と説く。

4 地名付会説
 地元に伝わる地名「誂」の起源は。北条氏直は、親族で内輪もめしたときの張本人二人を斉ケ分の熊野神社の奥の院に幽閉した。その
見張り役の家臣たちが食料など生活用品を誂え(アツラエ)たところ(注文したところ)が才かケ分にあり、そこが「誂」という地名になった。





2014年6月1日更新

    第130話

   上大槻村今昔

        2014年4月21日・上大槻会館で監物さん、上村さん、上村さん、佐藤さん、安田さんから採録

上大槻地区(村)の屋号
 職業 飛脚屋(飛脚人夫を雇っていた) 車屋(水車) 油屋 畳屋 下駄屋 お師匠はん(裁縫の先生) 酢屋(醸造酒屋) 豆腐屋 鍛冶屋 
鳥屋(卵屋・闘鶏も) 中居(名主の家) カジヤ(村の舵取り・旧家) 松葉(お茶の先生・お茶会のお礼の包みには「松葉」と書く) 
建物 新家 町家(都会風の家・二階家で瓦葺きの屋根) 長屋 
 地形・位置 ケードー(街道・海道・開戸) 新道(シンミチ) 新道(シンドウ)  辻 北 東 下 入り 川端 薮 カンダ(乾いた田・麦畑)  

戦前の菅原神社の天神祭り
 1月24日は裸参り。1月25日は曽屋小学校と高等科、大秦野女学校の生徒が先ず参拝し、それから一般の人たちの参拝になった。

上大槻自治会の再スタート
 50年ほど前、ある選挙で上大槻地区は真っ二つ割れてしまった。地区に二つの自治会が生まれ、昨日までの隣組は解散になり、回覧
板を廻すのに車を使わなければいけないような変則な事態も発生。
 2011年の東日本大震災から得た教訓により、2012年に二つの自治会はそれぞれ話し合いを深め、統合を決めた。
2013年、統合された上大槻自治会は、新しい隣組を編成するなど一年間の“慣らし運転”に入った。そして2014年4月から新しい組織で自
治会の活動が始まった。
50年という長い歳月の中で自治会の役員はもとより、会員の努力が新しいまちづくりを始めたことは喜ばしいことだ。


武勝美の地名考

地名「上大槻」
 「古村内天神社地に槻の大樹二株あり、これより郷村の名起これり」と『風土記稿』にある。
その『風土記稿』に収められている地図(正保年代1688年~1648年)には、オオツキは「上大月」「下大月」と記されている。
そして元禄年間(1688~1704)の地図は「上大月村」「下大月村」と表記している。さらに下って『風土記稿』が編まれた時代(1830年代)の
「今考定図」で、「上大槻村」「下大槻村」が出現する。
 
上大槻の読み方
 地元の人を含め、秦野に住む年配者は「上大槻」を「カミオオヅキ」と発音している。
苗字の「山田」は「ヤマタ」より「ヤマダ」、「小川」姓が「オカワ」よりも「オガワ」と名乗る人が圧倒的に多い。これは発音しやすさに起因し
ている。「カミオオツキ」よりも「カミオオヅキ」のほうが柔らかで滑らかな音声になる。
 弘法山の洪鐘は享和元年(1801年)に鋳造されたが、その鐘に「上大ツキ村」「下大ツキムラ」からの寄進者名がある。上下槻村、上大
月村の文字も見える。(『はだの弘法洪鐘』石井俊雄著)

「大月」は「大築」
 地元の人がオオヅキと称しているオオツキは「大築」で、水防工事・堤防を築いた記念の地名と『中郡勢誌』は書いている。山梨県の地
名「大月」は笛吹川の築堤を表していると言われている。
 上大槻は室川、水無川、金目川の三川が合流するところで水害に見舞われたようだ。その対策に上大槻の人たちは「百間堤」と呼ば
れる高さ五尺の長い堤を築いた。このことは『風土記稿』にも書かれている。地名「大槻」は「大築」に依るのではないか。




2014年4月3日更新

    第129話

 大山道道標の不動明王像の復元


 90年を経て復元 大山道道標の不動明王像  堀山下地区の有志の手で

 市内堀山下(文化会館の向かい・バス停「日立南」)に立つ大山道の道標は、かつては堀山下15番地付近の三叉路に在った。この道標の造立者は堀山下村で寛延4(1751)年で塔上には不動明王像が祀られていた。だが大正12(1923)年の関東大震災で倒壊。その後明王像は行方不明になった。
その不動明王像を復元しようという活動が堀山下自治会と「一味ちがう郷づくりの会」で進められてきた。そして、3月29日午後1時半から現地でその不動明王像復元落慶式が行われた。この像復元には、私も少しだが関わってきた。
 2011年堀山下自治会の文化講演会に招かれ「大山道と里人の暮らし」を話した。それがきっかけとなり、この度の復元になった。式の後、記念講演として「富士道を歩く」と題し富士道の道標の紹介をした。

 大山道道標碑文
 (正面)大山道  施主 堀山下村
 (左)ふしみち (右)そんふつみち 
 (裏)相之秦堀山下邑者大孫富之三路分於斯之地矣嗟行人錯歩而受農夫欺多也里人憂是而建碑以便旅客為是南針北斗者呼
 所在地(交通案内)  バス 渋沢駅発 桜土手経由秦野行(秦野発 桜土手経由渋沢行もある) 「日立南」下車

                      




 

2014年2月1日更新


 道祖神の嫁入り
                               
 安曇野市の穂高神社の北参道脇に「塩の道道祖神」が十塔祀られている。「塩の道」と呼ばれている千国街道沿いの村里は過疎化が進み、
道祖神祭りも出来なくなった。それで、村の各地の道祖神は集められ、由緒あるこの地に再度祀られたのだった。その十塔の中でもっとも神社
寄りに立つ男女双体道祖神。造立年は不明だが背面に「帯代三十圓」と刻まれている。                                
 安曇野の本郷地区に立つ彩色の道祖神は、冠雪した常念岳を背にしていた。その道祖神の隣に祀られている恵比寿天は慶応四年(1868年)
の造立で、背面に「帯代拾五両」の大きな文字を読み取ることができた。長野・辰野町沢底の男女双体像にも「帯代拾両」と記されているものが
ある。 
 江戸時代には「道祖神盗み」が、村の若者によって行われたそうである。「帯代」とは「この道祖神を盗っていく者はご祝儀として記してある金額
を置いていけ」という意味で「帯代」とは結納金である。そして「帯代」は盗難防止的な意味で、高額を記載したらしい。
道祖神を盗るわけは、繁栄している村の道祖神を自分の村に招く(勧請)ことで、その繁栄にあやかるために行われた。また、「オラホーより立派な
物だから」という美意識のなせる業であったかもしれない。
 本郷地区の郷倉跡地に祀られている彩色の道祖神(天保4・1833年)も、一度は盗られたとのこと。高さ150㌢はあろうかという自然石のこの道
祖神を運ぶことは大変なこと。ガイドの川崎さんの説明では「運ぶのは雪の季節。そりを使って盗っていった」らしい。倉渕を案内してもらった市川
先生は「倉渕では、盗った道祖神の跡に結納品一式を置いていった、という話もある」と話された。
 盗った道祖神を自分の集落に立ててしまうと、公認される。それで「道祖神の嫁入り」になる。裏で両村の長老たちが話し合い、うまく収めたよう
だ。「帯代」を積まない村が天罰を食らうのは必然だからである。いずれにしても、道祖神の持つ力が必要、という願いがなせる「いたずら」(?)であ
る。
 ところで、倉渕では平成三年に盗難に遭った男女双体像は未だ発見されていない。帯代も届かないらしい。富士宮市の精進川で出会った道祖神
には傍らに記念碑があり「昭和36年(1961)年に盗難に遭い 昭和47(1972)年、清水市某所で発見。買い戻した」と書かれていた。安曇野の道
祖神は「嫁入り」を嫌って木の祠と柵で護られている。 

 

2014年1月1日更新

「道祖神と湧水めぐり」のご案内
 秦野市南地区 道祖神と湧水めぐり (ウオークとミニ講座)
            主催・秦野市立南公民館  協力・まほら秦野みちしるべの会

      日 時  平成26年1月8日(水)9時30分~15時
          ミニ講座「道祖神ワンダーワールド」 講 師  武 勝美
            内容 ・道祖神像の形体  双体道祖神だけでなくさまざまな形体の道祖神を紹介します。
               ・紙芝居上演「目ひとつ小僧」  秦野地方に伝わる道祖神と目ひとつ小僧の話。

          問合せは南公民館へ(0463-81-3001)


 武勝美の道祖神めぐり NO6
                   山梨県 北杜市小淵沢・須玉・高根地区    2013年12月8・9日

 道祖神の分布図(道祖神信仰)を見ると、長野、群馬、静岡、山梨、神奈川など本州中央の山岳地帯周辺に集中している。これらの県
の中で、山梨の道祖神は原始的信仰を思わせる丸石、石棒・陽石を道祖神としているところに特徴がある。そして石祠道祖神も山梨特
有の道祖神である。今回の「道祖神めぐり」は山梨県の北部、長野に隣接する北杜市を選んだ。北杜市には長野の道祖神の影響を受け
たと思われる男女双体道祖神が比較的多く見られるからである。
  
1諏訪神社境内 (北杜市小淵沢町岩窪)
 石祠道祖神 二基いずれも祠内に男女双体像が祀られている。一つは二神で甕を抱えている。もう一方は握手像。
  

     


2大宮神社境内 (北杜市小淵沢町本町)
 石祠道祖神 神社裏にある二基は入母屋風。側面は唐様破風造りで彫刻がすばらしい。祠内には双体らしき像が見えた。この日は地域
の清掃作業の日だった。境内を掃いている地元の年配の方と言葉を交わしたが道祖神についての反応ははかばかしくなかった。

     
 下津金の石祠(この稿の6参照)と並び賞
せられる
 側面には三方、瓶子、御幣の彫り物 ほとんど同じ形 彫刻の完成度などを含め甲乙付けがたい 


3皇大神宮 (北杜市小淵沢町宮久保)  
 石祠道祖神 台石正面に珍しい「魚の口づけ」の彫り物がある。私には初見である。石祠の中に祀られているのは瓶子と盃の丸彫りの祝言像。
         


4八幡神社 (北杜市小淵沢町高野)  
 文字碑道祖神 神社右裏手に縦80㌢ 横67㌢ の道祖神の文字碑がある。篆書体で刻まれているが「道祖神」の文字は男女の性器を表している。
「神」の文字の下に穴があるので覗いてみると下部は空洞。女性の体内を意味しているらしい。傍に双体と単体の道祖神もある。                               

 
 

5北野天神社 (北杜市小淵沢町久保) 
 双体道祖神 神社裏手に露座の双体道祖神や石祠など十数基が祭られている。たぶん町内から集められたのだろう。その中の6塔の双体道祖
神はその形がそれぞれ異なっていて、双体道祖神像の変遷・進展を見ることができる。特に興味深いのは、①膝下を見せている男女双体像で今ま
でに 対面したことがない。②の像は摩滅が激しいので読解は難しかったが元禄三年(1690年)と読めるようだ。少し幼稚だがその作風は年代的に当
てはまる像である。駒形の衣冠束帯の神官像が2塔。その1塔はレリーフのようで鮮明に見ることができる。羽織を羽織った商家の夫婦のような双体
に道祖神信仰の身近さを感じた。瓶子を手にする像と笏(しゃく)を持つ像がすべてで、長野や群馬の道祖神のような姿態は見られない。足が見える
のも特徴。 

 
 ①裾をはしょったような姿  ②男神は笏 女神は宝珠か 駒形神官像
   
  駒形神官像     女神は合掌だろうか   祝言(酒器)像


 石祠道祖神 祠の両の扉に、三方に御幣を三本挿した瓶子を乗せた彫り物の石祠があった。石祠の正面上部に日本の大根が交叉している「違い大
根」が彫られている、「違い大根」は男女交合のシンボル。その歓喜の姿を表しているのが歓喜自在天。日本では聖天さんがこれにあたる。祈れば病気
は退散し、夫婦は和合し、子宝に恵まれる、という。道祖神が子宝の神であることを示している。祠の中の男女双体像は線刻のように見える。歓喜像で
はないが笑である。   

 


6石祠道祖神 (北杜市須玉町下津金の路傍)
 石祠道祖神「これほど立派な石祠道祖神は他にはない」(山梨の道祖神全体を調査された中沢厚さんの言葉)。高さ1,5㍍ 台石から測れば2㍍を越える。
正面は二重の破風の流れ造りで双鶴が舞う。懸魚、妻飾りなどすべて見事な彫り物。祠内には丸石と石棒。祠の前に丸石道祖神も祀られている。正面に
『道祖神』が掲額。
 近所の年配の方に話しかけたが、この石祠が道祖神の研究者や好事家にとって「価値のあるもの」であることに興味を示されなかった。「正月に注連縄を
張り神主さんが祝詞をあげる」、「ドンド焼きは行わなくなった」とのこと。手前には丸石道祖神も 。 祠の中には丸石や石棒が。

     


 海岸寺(北杜市須玉町上津金)
 西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音の合計100体の石造観音を見ることができる。100体観音は信州高遠の石工・守屋貞治の作。
  高遠の石工が道祖神を彫ることになったことに守屋は影響を与えていると説く人もいる。大宮神社の石祠道祖神は守屋の作と言われている。

7丸石・文字碑道祖神 (北杜市高根町箕輪・海道集会所横)
 丸石道祖神の台石に「衜祖神」と刻まれている。嘉永2(1849)年造立。「衜」は音読みで「ドウ」「トウ」で訓読みは「みち」。農蚕大神の碑が背後に立つ。
 北杜市でも行く先々で「動かなければ出会えない」と、出会った人や道祖神の近所の家人に道祖神祭りのことを聞いた。海道では道祖神の道向かい
にお住まいの小林敬民さんに道祖神祭りの話を聞くことができた。以下は小林さんのお話。

◇高根町海道の道祖神祭りについて
 この海道地区は40軒ほどの集落。1月14日の午後6時、セーネン(青年)4人がオオカリヤ(御仮屋)を担ぎ結婚・新築・出産・入学など祝い事あった家と厄
年の人のいる家庭を回る。オオカリヤが訪ねてきた家では酒を振舞い祝儀を出す。接待を受けだセーネンたちは、庭でオオカリヤをひねりながら三回
廻し最後に「オイワイモース」と高く差し上げる。午後8時に御田でオオカリヤを焼く。これを「ドンドン焼き」と言っている。今は若者がいないので消防団が
担いで地区を回る。
 藁で作るオオカリヤは円錐形、高さは2㍍を超える。オオカリヤは以前はセーネンが作ったのだが今は自治会で作る。オオカリヤに付けられる角(ツノ)
も藁製だが、伝統的なものなので長老が作っている。一年に二組作るので来年のものは今年のものは作ってある。
 昔は若い衆が13日に当家(その年の当番の家)に集まり夜明かし。酒を飲み、花札で遊んだりした。新人が若い衆の仲間入りをするための行事。当家
で朝6時に食事。この食事に地区内の小学生は全部招かれ、若い衆と一緒に食べる。食事か終わると若い衆は藁でオオカリヤを作る。

◇「道祖神の火事見舞い」という行事について
 オオカリヤを燃やすドンドン焼きは「道祖神さんの家が火事になる」ということ。道祖神さんが自分の家を燃やし、海道地区にはこの一年火事が出ないよ
うにしてくれる。だから、そのお礼に2月8日(この日は「事終い」の日)に、海道の家々は藁馬に餅や米を背負わせ道祖神さんに持っていく、これが「道祖神
の火事見舞い」という行事。でも今はやっていない。30 年くらい前からやらなくなった。
 地区の「お日待ち(今は月に一度の自治会の集会日)」は毎月18日だが、2月だけは「道祖神の火事見舞い」にあわせ8日に行う。地区の人が集まってお
神酒を飲むだけになってしまったけど。海道のオオカリヤは山梨県立博物館に展示されているはず。私が責任者で作ったオオカリヤ。ぜひ見てほしい。

 偶然だが、私は今年1月山梨県立博物館で小林さんたちが作った海道地区のオオカリヤを見ている。今回の道祖神めぐりも「動かなければ出会えない」
であった。

 

                                    



 秦野のおはなし 2010~2013年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2007~2009年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2004~2006年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2000~2003年 掲載分はこちらへ








~ 武勝美の教育個人紙 ECHO ~