秦野夜話  「秦野のおはなし」  
(2007〜2009年 掲載分 バックナンバーのページ)
〜神奈川県秦野市にまつわる歴史、民俗の話〜


 秦野のおはなし 最新版 2014年 以降 はこちらへ
 秦野のおはなし 2010〜2013年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2007〜2009年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2004〜2006年 掲載分はこちらへ

 

2009年11月1日更新

    第97話
 
 街ミシュラン
  秦野市の存在感は★二つ
              







2009年10月1日更新

    第96話
 
   丹沢の文学往還記
       山田 吉郎著       


山田吉郎さんは秦野・東中時代の教え子です。

2009年9月1日更新

    第95話
 
寺山物語                   
  地名「サーシゲート」
         
大塚 秀雄



 武先生のサイト、大変興味深く拝見させていただきました。有難うございます。(私は秦野で育ち、現在埼玉県に住んでいる者です。)
 さて、「サーシゲート」という地名の件ですが、外国語のような、随分面白い地名ですね。私の推定では、「指(さしorさす)」「ヶ谷戸」ではないかと思います。柳田國男先生は「地名の研究」の中で、『サス』は「焼畑」のこと、『ヶ谷戸』は「狭い道」かもしれない、と記しておられます。現在、『サス』=「焼畑」説はほとんどの地名由来説明で使われていることはご存知の通りです。
 しかし私は、『サス』=砂州、『サシ』=砂嘴で(この語はともに現在も使われています)、「地方巧者」のような灌漑土木技術者によって使われた専門用語だろうと考えています。全国の「指」の付く地名44箇所の地形図を調べたところ、3例が山や山麓でしたが、他は川の合流地あるいは扇状地、すなわち砂州(であったと考えられる所)でした。
 次に、「ヶ谷戸」ですが、全国の地名分布を調べ、深谷市近辺の同地名を踏査して、次のような結論を得ました。『戸』=堰、『ヶ谷』=灌漑される稲作耕地、『ヶ谷戸』=取水堰があり周辺の田に灌漑されている場所。その調査において、「明戸」は(柳田先生説では)「悪土」(土の悪い所)とされていますが、「普段は開いている堰」ではなかろうか、という気がしました。
 また、「猿ヶ谷戸」という地名がありましたが、地元の人は、「ザリゲート」「サーリゲート」などと言っていることを知りました。「砂利」に関係あるのかもしれません。「西ノ階戸」という地名もありました。「旧村の出入り口であった」そうで、柳田先生の「垣内・垣外とヶ谷戸とは違う」との説に納得した次第です。住んでいる近くの「ヶ谷戸」地名を調べた愚見を、ご参考までに報告させていただきます。   大塚 秀雄





2009年8月1日更新

    第94話
 
寺山物語                   
   ご先祖様はマチに買い物

お盆のお話 ツジでお迎え

 寺山は七月がお盆月である。七月十三日に家の中に盆棚を飾り、門口に『辻』と呼ぶ砂盛りの壇を作る。私の子どものころは富士山の火山灰の黒い土を掘り出して使っていた。 辻にはサトイモの葉にナスをさいの目に切ったものを乗せて供える。これは無縁仏様のものだ。
 十三日の午後四時ごろ、その辻の前でキビガラの迎え火を焚く。里帰りするご先祖様(オショロサンと呼ぶ・お精霊様のこと)のための目印である。ちょうちんにも灯りが入る。
 辻で一休みしたご先祖様は、ナスの牛とキュウリの馬に乗って家の中の盆棚に着く。この辻は、お盆の三日間近所の人が「お参りさせてください」と、夕方線香を手向けにくるところでもある。数年前から私が近所の六軒を回っている。辻はそれぞれの家で昔から伝わってきた独特のものを作っている。
 十四日はあんころ餅を供えるが、これは農作業に疲れたからだに甘い物が必要という生活の知恵からのものだと思う。十五日の朝は茶飯のおにぎりが盆棚に二個上げられる。この日はご先祖様が『マチ』に買い物に行かれるので、お弁当におにぎりを持たせるのだ。年に一度、大勢の友達や知り合いに会えるマチでの買い物は楽しいだろう。だが、何をお買いになるのかは知らない、だれだれも一緒に行けないのだから。
 マチとは、江戸時代に〜十日市場≠ニ呼ばれていた秦野町(今の本町61地区)を指しているようだ。このご先祖様が里帰りの時にマチに買い物に行くという話は、あちこちにある。寒川町(神奈川)のあたりでは、伊勢に買い物に行くといわれている。豪華な買い物ツアーだ。
 巻き寿司を持ってカンダノマチに出かけるのが御殿場地方の話、カンダノマチとは東京の神田のことだという人もいる。御殿場の人が東京・神田というのはう享ける。御殿場線はかつては東海道道本線だつたから。今なら小田急の特急も乗り入れているし。「戸塚(横浜)ではアズキ飯のおにぎりを持って町田(東京)に行く」と教えてくれたのは江戸川の鈴木さん。
 さて、十六日はもうお帰りの日。私たちは送り火でお送りする。ご先祖様はナスの牛に乗ってお帰りになる。お土産をたくさん買ったから、牛に背負わせて? そうではない。「”モウ°Aるのか」と、名残り惜しげに、たぶん、ふり返りふり返りなのだろう。ゆつくり、ゆつくり帰っていくナスの牛の後を、キュウリの馬が付いて行く。来年のお盆には、ご先祖様はこの馬に乗ってまっしぐらに帰ってこられるのだ。

秦野地方のお盆のツジ(砂盛り)  竹と富士砂あるいは川砂で作る (左端・ウマとウシがいるのがわが家のもの)
木製の箱で作る砂盛りもある   (いずれも寺山・清水庭で今年のお盆に作られたツジ)



東地区 お盆のツジ・砂盛りのいろいろ
写真提供  小泉 俊さん(まほら秦野みちしるべの会)

 
砂盛りの原型 三段作り 二段作り かつてはこの形が多かった
木箱 木箱 コンクリート製 ブリキ箱
発泡スチロールを使って 市販されている木製 プラスティク製 これも市販されている 「暑い中、大変でしたね」と傘を
さしかけてお迎え



2009年7月1日更新

    第93話
 
寺山物語                   
    海抜176bの7月1日


 ホトトギスの声が聞こえ始めたのは五月の後半。書物によれば、毎年渡ってくる時期は同じだそうだ。だから、東北地方ではホトトギスが鳴いたら田植えをしろ、と言われている。昼間もちろん夜もよく鳴く。その鳴き声は、私には「トッキョキョカキョク(特許許可局)」と聞こえる。「テッペンカケタカ」と鳴くというが、どうしてもそうは聞こえない。まして、「ホッ‥ト‥ト‥キ‥ス」となどとは絶対聞こえない。だが、この鳥の名の由来はその鳴き声からきている、というのが定説のようだ。
 午前三時を過ぎると、もうカラスが動き出す。『瀧の沢』一帯が彼らのネグラ。その中の一家族五羽が、私の目を盗んでわが家の桜の木を根城にしたいと来る。今年も相変わらず、“風雲カラス城の戦い”」を続けている。近所では、そんな私をどう見ているのか。
 きょうのような雨模様のときは、『向林』から届くウグイスのさえずりが際立っている。ヒヨドリが桜の木に集り「ヒーヨ ヒーヨ」とにぎやか。そのヒヨドリが姿を消すとムクドリが十羽ほど飛来。前の家のテレビのアンテナではキジバトが「デデッポーポー」と、一日中、相手が現れるのを待っている。
 オオルリは、今年も裏の梅林に巣を構えたのだろう。擬声語にするにはまったく無理なくら、いくつもの声と歌をもっている。そのルリ色の姿はまだ目にしたことはない。わが家と『挟間』、そして『宝作』の山を結ぶ三角形がテリトリーらしい。今朝は『挟間』の方角から囀りが聞こえてくる。オオルリも夏鳥、ウグイス、コマドリと共に「日本の三鳴鳥」といわれている。
 ツバメの一番子が二羽電線に止まって「ジジジジ」とぐすねている。その雛を狙うカラスが電柱に止まり、様子をうかがう。すると、たちまち親鳥が駆けつけ、カラスを目がけ突っ込んで行く。カラスの頭上数センチのところで急旋回、すばやく体勢を整えてからまた攻撃。
 古い梅の木にシジュウカラが現れる。十羽ほどの群れが枝から枝に餌を求めて移る。シジュウカラの《服装》は、冬の季節の景色に似合う。
 数日前から、夜になるとアオバズクの「ホッホッ ホッホッ ホッホッ」が聞こえてくる。T邸のカシの大樹に毎年渡って来ている。その鳴き声は、なぜか「五月闇」という言葉を思いおこさせる。
 寺山はすっかり深緑である。その寺山の海抜176bにわが家はある。


2009年6月1日更新

    第92話
 
尊仏山の水が育んだ扇状地
                   
浦田江里子

  
 まほら秦野みちしるべの会 5月の実地踏査 


 国道の車の流れを眼下に急な石段を上ると、沼代の御嶽神社はざわめく強い風の中だった。前日の大雨に洗われた青空が木々の間にゆれていた。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、立ち寄ったとされる場所で、昨年、記念碑も建立された。蔵王権現、日本武尊、宇迦之御魂尊(ウカノミタマノカミ=穀物の神・お稲荷様)の三人の神様が合祀され、境内には天神社、聖徳神社、山神社、天社神も並ぶありがたい神社である。
「まほら秦野道しるべの会」の西地区踏査の二回目は、地に足つけて愛情深く郷土を見守る米山正先生(元中学校校長・西地区在住)の丁寧な案内で、御嶽神社を出発点に新緑を楽しみながらのふるさと探訪となった。
 西地区は丹沢山系を源とする水無川と四十八瀬川に挟まれた扇状地である。水に恵まれた山麓地区は裕福であったが、砂地の平地は、水田が少なく、農作物も限られ、生活苦から出稼ぎに出る人も多かった。水道が整い、クヌギ林が住宅となり、水はなくても学校や駅に近いという地の利から、平地で商・工業が発展し急激な変化を遂げたのは、戦後復興の時期からである。
 人々の暮らしだけでなく、地名にも地形の特徴が表れている。西地区の堀郷という地域の大字は、東の水無川、西の四十八瀬川の中央に自然発生した堀(放水溝)が由来といわれる。
大字名は近世の村との考えから、堀郷は堀山下村、堀川村、堀西村の三村で成ると思いきや、堀西村については、その地名が実在したのは市町村制施行(明治20年)前の二年あまりという。近世後期を通して堀西村の前身は堀斉藤村と堀沼城村という名であり、この二村は旗本領を基準に分けられたことから、個人の土地ごとに属する村が違う、というややこしい状況だったようだ。道すがら米山先生の案内は「この家は堀沼城村、その隣の家は堀斉藤村、あの家は…」といった感じで、それは合理を無視した勢力争いの時代を垣間見るようだった。現在、その区切りや名残はない。同じ地域が「堀四ケ村」「堀三ケ村」と呼び分けられた理由である。
 国道246号線を渡り、沼代交差点を南へ向かう。小田急線を見下ろす線路脇で米山先生から「新宿小田原間の最高地点と最高の景色は?」との質問があった。答えは、駅名候補に「丹沢高原」があがったという標高169mの渋沢駅、青い山並みと山すそに広がるのどかな秦野盆地の風景とのこと。私の住む東地区は山ふところの趣だが、渋沢丘陵を臨む西地区には、ぐっと引いて車窓から眺めたい景色が広がっている。なるほど、と思う。
 かつて「富士道」だったテニスコート沿いの細道を抜け、山の斜面をそのまま坂にしたような急坂「堂坂」に出る。2基の道祖神と五輪塔が並んでいる。ここには観音堂があったが、関東大震災で倒壊し、観音様は現在沼代自治会館に安置されている。
 昭和12年の大洪水で流失した「二級国道東京沼津線跡地」(現在も当時のまま手付かずの草地)を見た後、山側の名所旧跡を巡るコースに入る。
 堀酉の地蔵堂(波多川公民館)には、延命地蔵が安置されている。木造地蔵菩薩の中に石造地蔵が納まる胎内地蔵で、1720年のもの。小田原板橋地蔵、山北竹ノ下地蔵とはお札の図案やお念仏の唱が似ており、何か深い縁があるようだ。鴨居の上部に飾られた古い絵や立派な須弥壇が歴史の重みを感じさせる。寄進者名や名簿に岩田姓がズラリと並ぶのは、岩田某が一族の守り神としたことから、岩田姓だけの居住を認めた時期があったことによる。
 波多川地区の鎮守、天津(アマツ)神社は竹林に囲まれた別世界である。時代を遡ったような錯覚さえ覚える。朴葉のお皿に鬼胡桃をのせたお供えは子どもたちが遊んだ跡だろうか。参道は山道、正面は四十八瀬川。部落に背を向ける神社の謂われも諸説あり、謎めいている。コンクリート製の龍図の立体絵馬は市の文化財となっている。
 上流の部落、黒木・欠畑地区の鎮守、須賀神社から西へ500ほどのところに大日堂跡がある。杉林の中に細く道ともいえない踏み跡があり、石仏や供養塔、阿弥陀仏石塔が散在している。かつて人々の信仰を集めたところに風化した石たちの佇まい。「…夢の跡」ではないが、時の流れにまかせ、自然のまま、ここにある。それもまたいい。
 森戸地区の自治会館には阿弥陀仏立像がある。この地には以前阿弥陀堂があり、安産の神様として多くの祈願を受けてきた。火災に遭うも地元民に背負われて町に出向き、立派にお化粧直しをしてきたという。
 元々は四十八瀬川上流にあった蔵林寺は文明年間(1469〜1487)に堀山下の現地に移転した。江戸時代、堀山下に領地を持つ米倉丹後の守の保護を受け、米倉家の菩提寺となった。丹後守・米倉昌尹(マサタダ)は後に若年寄りに昇進し、相模・上野・武蔵に15000石の領土を持つまでになり、1678年に先祖供養のために蔵林寺本堂庫裏を建立した。本堂左手に立ち並ぶ一族の墓石群の中、ひときわ丁重に扱われているのが昌尹の墓である。折しも前日は丹沢まつり。墓前は清められ、花が供えられていた。秦野ゆかりの武将をしのぶ勇壮な大名行列が今年も見られたことだろう。
 この日、出会った大山道の道標はひとつ。民家の並ぶ細い道筋、整地され手入れの行き届いた一角に、こぢんまりと立っていた。大山とともに「そんぶつみちへ」の道しるべも見かけるこの地区。扇状地の村に生きる人々にとって、命の水の湧き出る尊仏山もまた、心の拠り所であり、生活を支える大切な山だったのだろう。
 

2009年5月1日更新

    第91話
 
    
里人の暮らしと大山道





2009年4月1日更新

    第90話
 
 
    秦野煙草音頭の歌碑



『秦野煙草音頭』の歌碑がJAはだの本所の敷地内に建てられ、3月12日に除幕式が行なわれた。秦野タバコは日本三大銘葉一つに数えられ、「国分タバコは天候で作り、水府タバコは肥料で作り、秦野タバコは技術でつくる」と言われた。秦野盆地の暮らしは葉タバコと共にあった。その先人たちの煙草耕作の努力を後世に伝えようとの願いを込めた歌碑の建立である。歌碑は五線譜に書かれた曲譜、それに歌詞の全て十番までが刻まれている。
 
 八 煙草おさめのうれしい晩は まゝよほろ酔い エーなんとしよ肘(ひじ)まくら(秦野煙草音頭 曲・中山晋平、詞・小島喜一)

 葉タバコ作りが最盛期の時代、今から60年以上も前、我が家も葉タバコ耕作農家だった。農家の子供たちは12月になると、葉タバコの「納付」の日を楽しみに待った。納付とは、煙草専売局に買ってもらうこと。納付の日は、近隣(伊勢原、中井、松田など)のタバコ農家が、牛車や荷車で葉タバコを秦野町にある秦野煙草収納所に運び込むので、朝から周辺道路もにぎわった。今のスーパージャスコの敷地すべてが秦野収納所だった。
 持ち込まれた葉タバコは、検査官によって優等から2等までに品定めをされ、現金が支払われた。祖父は、そのお金を懐に三角屋に入り、中華そばを注文し、昼間からお酒を飲んだ。この酒がたまらなくうまい、と祖父は言っていた。昼食が終わると、祖父は家族に土産の買い物をする。最初に榎本履物屋でお正月用の家族の下駄(げた)を買う。次の買い物は、法華寺の坂の上にある佐野の饅頭(まんじゅう)屋の饅頭。私はここの鹿の子が好きだ。そして最後に川口肉屋でブタ肉を買い、荷車を引いて帰ってくる。
 私はもちろんだが、その日は祖父が帰ってくるのを家族全員が首を長くして待っていた。その夜は、下駄をもらい、すき焼きもどきの肉を味わい、食後に鰻頭を食べた。わが家の居間は、明るい顔と華やいだ声で満ちていた。現代に置き換えれば『クリスマス・イブ』。

 七 のしてたばねて いつしか更けて雁のなく夜の エーなんとしょお月さま(秦野煙草音頭)

 11月初めの噴から、タバコ農家では「タバコのし」が始まる。夏に天日干しされた葉タバコを1枚ずつ選り分け、出荷(「納付」) 用に束ねる作業が「タバコのし」で、子供にはとても辛(つら)い、嫌な手伝いだった。
 夕食が済むと土間にムシロが広げられ、2人1組でタバコの葉を1枚1枚伸ばし、30枚くらいで束ねる作業。乾燥しきった葉に霧吹き″がされ、その湿った葉を、向き合った2人で広げ、ていねいに伸ばす。2人いなければできないが、子供にもできる仕事。だから毎晩家族総出でする「タバコのし」。
 11月の土間は冷えていて、寒気が足から昇ってくる。湿された葉は強烈な、あま苦い匂(にお)いを発している (絶えられなかった匂い、だから私はタバコは吸えない)。菓から出るヤニは、指先から掌(て) にかけて黒く着き簡単には落ちない。
 一人ではできない作業、「タバコのし」が好きな人たちもいた。年ごろの娘を持ったタバコ農家の家族だ。夜になると、その娘さんの家に 未婚の農家の青年が訪ねてくる。娘さんの評判を聞いて、隣村からも来る。そしてその家の 「タバコのし」の手助けをする。運のよい青年は、娘さんと差し向かいになれる。手に触れることもできるかもしれない。
 貫一とお宮はカルタ会で、タバコ作りの青年と娘は「タバコのし」で手が触れ合う―いい娘がいると『タバコのし』は早く終わる」という格言(?)が秦野盆地にあった。「婚ふ(よばふ)」という古語の借字に「夜這(よば)い」がある。「婚ふ」とは「求婚する、妻問いをする」という意味。青年たちはタバコの葉を伸ばしながら娘さんを「婚ふ」のだった。伊勢原の善波地区には、峠を越えて嫁にきた娘が大勢いると言われていた。善波の青年たちが、秦野の娘さんに猛烈にアタックした成果だ。
 秦野で葉タバコ栽培が始まったのは江戸初期。1904(明治37)年には、耕作面積が最高の1856ヘクタールに達した。翌年、煙草製造所が開設され、後にJT秦野工場になり1988年まで続いた。



2009年3月1日更新

    第89話
 
 
「矢倉沢往還」の秦野の入り口
    屈掛不動尊を訪ねる

  まほら秦野みちしるべの会 2月の実地踏査 


まほら秦野みちしるべの会2月例会                  2009/02/22

 
富士道(西地区の矢倉沢往還)を歩く その2

(渋沢駅集合)  9:00

@ 渋沢777(渋沢会館近く) 
       地神塔 (正) 天社神
           (右) 右 ふじみち
           (左) 十日市場道              1821(文政4)

A渋沢2247(観音堂横)
      庚申搭  (右)大山道 
           (左)ふじ さいしょう寺 みち       1808(文化5)
B(観音堂内) 聖観音  右ちむらみち  左ふじみち        1781(安永10)
↓   若竹の泉
    国学者・歌人 谷 鼎 生誕地
C泉蔵寺  庚申搭(自然石)  右ハ十日市場 大山道     1798(寛政10)
D泉蔵寺  庚申搭(青面金剛) ふじ道             1800(寛政12)

E渋沢488  庚申搭(笠付き 三猿 二鶏) (左)ふじ道   1783(天明3)

F千村1477  不動尊(台正) 川上 そぶつみち
              大山道 天下泰平 國土安全
              川下 ふじみち さい志やうじミち
          (台下) 村中繁昌 五穀成就 家内安全 子孫繁栄
          (台裏) 発願主 千村沼代 半谷作五衛門 同妻 1774(安永3)
             ※この地の小字名「屈掛」から、屈掛不動尊と呼ばれている。 
             ※矢倉沢往還が川音川(四十八瀬川)を渡り秦野に入るところ
             ※道祖神、馬頭観音が薮の中に埋れている

G渋沢157-2 地神塔 (正)堅牢大地神 (右)右 大山道 十日市場 
            (左)ふし さ以志やうしみち        1817(文化14)
H渋沢157-2 富士浅間大神            1880 (明治13)
I渋沢157-2 富士講塔 報蒼天 富士山線刻 三十三度        1877(明治10)
              ※個人宅より最近移転された

J曲松1-6-7 道標  (正)右 ふじ山 さい志やうじ道   
              左 十日市場 かなひかんをん 道 
           (右) 右 大山みち 願主當村 江戸屋喜平次   
           (左) 左 小田原 いいすミ みち 1796(寛政8)
             ※稲荷神社境内に移転
  この道標が立つ四つ角は、富士・最乗寺道、大山道、十日市場・金目観音道、小田原・飯泉観音道の分岐点
J浅間社石祠                 1884(明治17)
            ※曲松1-2-16(公園)から稲荷神社境内に移転  
            ※境内には大山道・矢倉沢往還の古道解説板もある

(渋沢駅解散)



 
かそけき道 矢倉沢往還

                                   井口けんじ

 秦野市内を東西に通過するのが国道246号線。市民なら誰でもが利用する大切な生活道路だが、その大元は江戸時代に整備された矢倉沢往還。東海道の脇街道として人と物資の往来が賑やかだったようだ。この往還は伊勢原から善波峠を越え、大山を右手に見ながら、やがて西の出口である千村に通じる。ところがその古道は、千村を抜けると忽然と姿を消してしまう。
「秦野に住んできた人たちには《心のふるさと》とも言える古道が、秦野の西の出口付近で消えようとしている」と、武先生から幾たびも聞いていた。このことは、極言するなら、秦野の住民の一人である私としては《不名誉》なことと思っていた。
 この季節には珍しいほどの暖かな好天の日曜日の2月22日、「みちしるべの会」は、地元・千村の小野さんの案内で「矢倉沢往還」を歩いた。総勢18名はバス停「堂坂」で小野さんと落ち合い、矢倉沢往還に向かった。
 白山神社、泉蔵寺を見て廻り、紅梅がひときわ美しく咲く集落を離れると、道はなだらかな上り坂になり、やがて視界が一挙に広がった。そこは食用として全国に知られている千村の八重桜の丘。丹沢の遠望と重なって華やかな桜に埋め尽くされる景色が、冬の今でも容易に想像できた。道はこの丘の頂上付近で矢倉沢往還に接ながっていた。その地点で小野さんは、「昔は、この坂を昇りきって一休みする行商人や旅人のために、大きな石の碑が立っていた」。それが誰も通らなくなってしまったので「石碑も寂しいだろう」と、人通りの多い道端に移した、と話してくれた。それかか今、萩が丘・二ツ塚の桜の古木と共に立つ「富士浅間大神」碑である。
 軽トラが入れるほどの道幅は、やがて、笹竹や雑木で覆われる暗く細い道になる。ごつごつと角張った石が枯れ草や落ち葉にうずまり、降った雨水が地表をいたる所で掘り下げていて、まるでガレ場。だが、いたるところに刈られた笹が敷き詰められたようになっていた。私たちが「来てくれる」というので、小野さんが草刈をして下さったのだ。そのご苦労、そしてなによりその心根に熱い思いをいだきながら、ゆっくり矢倉沢往還を下るった。
 曲がりくねった切り通しの急な坂を下ると、あたりが急に開けたその瞬間、強い日差しの中を電車が走りさって行くのが見えた。なぜか鉄輪の音は聞こえなかった。私には目の前の現実を認めるのに少々時間がかかったようだ。
一本の鉄路が、道のもたらしてきた文明や文化を遮断しているように思えた。江戸時代は人馬の継ぎ立て地でもあった千村、ときには大名の行列も通った千村のこの道は、記憶の中からさえ消え去ろうとしている。
千村に生活した先人先達は、安寧な生活をねがい、車の往来が激しくなることを嫌って、矢倉沢往還を国道246号線にするのではなく、四十八瀬川の西側に新しい道をつくらせたのだという。だが、小田急線の開通により今度は道の遮断ということになり、人々の往来は途絶えた。
 忘れ去られそうな千村地区の古道・矢倉沢往還を案内をしてくださった小野さんとお別れするとき、「これからもお元気で、村の生活を楽しんでください」との思いでいっぱいになった。

 かつて訪ねたときには見つからなかった庚申搭「右ハ十日市場 大山道」とある(泉蔵寺   
 この庚申搭(青面金剛)も、この日初めてお目にかかれた「ふじ道」の道標を兼ねている(泉蔵寺

  
 冨士講の記念碑(2基)  別の地にあったが、開発でここに祀られてている  後に丹沢の山並みが(左端の峯は『塔ノ岳』 別名尊仏山)  
 矢倉沢往還の秦野の入口の「屈掛不動明王像」 像の前を矢倉沢往還が通る  裏に道祖神、馬頭観音像も祀られている 昔の旅がしのばれる   矢倉沢往還はこの先で鉄路に遮られいる 四十八瀬川を渡り松田町に続く道だが今は歩く人はいない  不動明王がいま見守るのは電車の安全 記念写真を撮っていたらロマンスカーが通った
 


2009年2月1日更新


    第88話
 
    目一つ小僧とダンゴ焼き

       
道祖神祭りは子供のお祭り 


  2009年2月1日更新


相談室に飾っただんごの木

三々五々、子供たちは清水の道祖神の前に集ってくる 12月8日の夜、山から下りてきた一つ目小僧が、みんなの家の玄関をそっーとのぞいて……

 1月14日 清水・東の原子供会で話したこと

 道祖神祭りは子供の祭り
  
 二月八日の夜は、山から《目一つ小僧》(一つ目小僧とも言う)が降りてくるのです。目一つ小僧は、《ゲゲゲの鬼太郎》のように目が一つの妖怪なのです。その目一つ小僧は、みんなの家の玄関をそっと開けてのぞきます。そして、玄関の靴がそろえてあるかどうかを調べるのです。目一つ小僧には、靴がきちんとそろえられない子供は言うことを聞かない子だと分るのです。それで、その言うことを聞かない子供の名前を持っているノートに書くのです。
目一つ小僧は、一晩中清水・東の原のみんなの家を全部調べて歩くのです。そして調べ終えたノートを北極星にいる天の神様に持って行きます。
 ノートに名前を書かれた子供はどうなるのでしょう。その子は、「悪い子だ。少し懲らしめてやろう」と天の神様によって、病気にさせられたり、怪我をさせられてしまうのです。
 一軒ずつ調べているうちに夜が明けそうになってしまいました。目一つ小僧は、妖怪だから夜が明けないうちに山に帰らなければいけません。でもまだ調べ終えていません。それで、村のはずれに立っている道祖神さんに「来年、一月十五日にまた来るから」とノートを預けて帰っていきました。
 今日は一月十四日、道祖神さんは、きょう目一つ小僧がノートを取りに来ることを思い出し、預かったノートを取り出して開いてみた。すると、そこには子供の名前とその子が悪いことをいたことがいっぱい書いてあるのです。道祖神さんは驚きました。そしてとても困りました。「どうしよう、これが天の神様に読まれてしまったらたいへんだ」。そのとき、道祖神さん前で村の人たちが火を燃やし始めました。門松や書初めなどを燃やして、お正月の神様を送り出す送り火です。道祖神さんは、その火の中に目一つ小僧のノートを投げ入れてしまいました。十五日の夕方、目一つ小僧が道祖神さんにノートをもらいに来ました。道祖神さんは「昨日火事があってノートは燃えてしまった」と目一つ小僧に言いました。
 道祖神さんのお陰で、みんなは病気にはならないし、ケガもしないで今年一年元気に暮らせるのです。道祖神さんがみんなを守ってくれたのです。だから、道祖神祭りは子供のお祭りなのです。みんなが門松を集めたり、お札を配りに回るのは道祖神さんへのお礼です。
 ところで、さっき玄関で靴を脱いできたけど、きちんとそろえてきましたか。家に帰って玄関を見て、もし履物が散らかっていたらそろえましょう。もちろん自分の靴がいちばん初めです。

目一つ小僧が来るから  靴はきちんとそろえて 道祖神小屋の子供たち  
               写真提供 相原明美さん



 語り継ぎたい思い出がありますか
                              まほら秦野みちしるべの会   浦田江里子

「〇〇ちのたっちやんはガキ大将でヨー、みんながくっついて歩いてヨー」
「麦畑をぐちゃぐちゃにして戦争ごっこをしたもんだ‥・毎年4月のお花見は旗取りで盛り上がってな。宿敵は名古木だったか」
「どんど焼きの日は学校が半ドンでね、子どもたちにとっては何よりも楽しみなお祭りだった」

「まほらの会」の勉強会で、東地区の昔の暮らしや子どもの生活についてお話を伺う機会を得た。講師は小泉信二さんと山口巽さん。八十台半ばのかくしやくたるお二人が、少年時代を思い浮かべ穏やかに語る日々は、なんと生き生きと輝いて伝わってきたことか。
 永永と地域の信仰を集め、大切に守り続けられてきた道祖神。どんど焼きの道祖神まつりが廃れないのは、それが子どもにまつわる伝説を持つから、という。一つ目小僧が子どもの悪口を帳面に書く。履き物をそろえていないとハンコを押される。そんな言い伝えが人々の間でまことしやかにささやかれてきた。さまざまないわれを持つ神様には、幼心にたくさんの思い出や戒めがあり、それは別の言い方をすれば、子どもへの教育にもつながっていた。
 道祖神はまた、はやり病を遮る神様でもあった。桟俵(さんだわら)を作り、上に子どもを乗せ、頭に供物を置き、笹で湯をはらう。つい数年前にも、知人に頼まれて小泉さんは記憶を頼りに桟俵を作ったのだという。なお受け継がれる実直で律儀な信仰心と、ただ子を思う親心に、深く感じ入る思いがあった。
 道祖神に対して、信仰集団「講」は衰退の途を辿るが、西田原では、今も地神誇、山の講、古峯講が行われる地区がある。人寄せの場所がない、次世代には引き継げない、などの事情から簡略化されてはいるが、それでも年一回20軒ほどが集まり、代々伝わる掛け軸を飾り、お線香をあげ、食事を摂り、懇親の場となる。
 翻って考えてみた。今、私や子どもたちの生活に、語り継ぐべきものがあるだろうか。地域の行事を知ることはできた。それらの行事のお手伝いにも関わった。が、その意味を学ぶことや大切に思うこと、を考えることがあったろうか。
 東小学校では、どんど焼きの日に下校時刻を早めたと聞く。東中学校では、地区の歴史や伝承文化を調べた学年がある。自治会や地域も少しずつ動き出した。あとは、おかあさん(家庭)の力が加われば、と思う。
「ふるさと」というあたたかい灯を心に灯し続けられるように、大人になっても語り継ぎたい思い出を一つでも多く残せるように、日々たいせつに暮らしながら、失くしてはいけないものを守っていけたら、と思うのである。
1月14日、東田原神社のどんど焼きに行った。神社前のお宅でいつもどおり竹を調達しようと、針金にさしただんごをぶらさげて出かけた。ところが、例年ならたくさんおいてあるはずの竹がなかった。聞くと、そのお宅のおじさんは亡くなられたのだという。
 いっ頃からなのだろう、毎年毎年、どんど焼きの日にあわせて、長い竹を何十本も切り出して黙々と立てかける、お顔を知らずともそんな姿が目に浮かんだ。この地に息づいてきた重石がひとつ消えたようで、私は寂しかった。語り継ぎたい、今年のどんど焼きの静かな思い出である。



皆様の健康をお祈り申し上げます



  金剛力士像  山梨・放光寺

2009年1月1日更新


    第87話

 
わが家の年越し そして元旦
 
 
     


 わが家の年越し そして元旦


 三十日の夕食どき、「これで終わり、あとは年越し蕎麦だけだ」と満足気(?)にビールを口に運ぶわたしに、「暮とお正月がいちばん嫌い」と妻は笑う。
「一夜(いちや)飾りはいけない」「九日(くんち)餅はだめだよ」。お正月の準備をする中で、毎年そう言い聞かされてきた。わが家で、臼と杵を使わなくなってもう20R数年年になる。
 三十日のわたしの一日は松飾り″と掃除で暮れる。父の時代、注連飾りはすべて自家製だった。タコーチ山の尾根に生える松の枝を使っていた松飾も、二十数年前で終わった。わが家のお正月行事にこの二つの変化が生じたのは父が亡くなってからである。
父の時代は「ゴボウ〆」を飾っていたが、今は「一文飾り」と呼ばれる輪飾りを使っている。神棚、仏壇、ガステーブル、水道、風呂、トイレ、物置、車庫など20数カ所に飾る。墓所にもお正月が来るようにお飾りをする。お墓からの帰り、鹿島神社の裏の延沢川に厄払いの「ヒトガタ(人形)」を流す。
 年越しの夜は、家の中の六カ所の神仏に燈明を灯し、お神酒と年越し蕎麦を供える。午前零時を過ぎると氏神である鹿島神社と菩提寺の円通寺に初詣でに出かける。
元日の午前六時「開きの方(今年は甲の方・東北東)である勝手口を開ける。そして燈明と雑煮を前夜と同じ神仏に供えるのが年男(私)の勤めである。大歳神に供える雑煮に今年は十膳(干支の「卯」が今年は十日なので−「初卯は歳神さんが帰る日」と、そう母が言っていたので)の箸が添えられる。
わが家の雑煮は大根とサトイモの醤油だて。妻は「鶏肉とネギ」の雑煮を食べて育ったそうだ。嫁いできて、わが家の雑煮に驚いたらしい。雑煮朝食の後、神棚、仏壇、床の間の三カ所に鏡餅を供える。三が日の神様の夕食は炊きたてのご飯になる。毎日お冷≠ェできるがそれは仕方のないこと。三が日の朝食には必ずお神酒が出る。だからほろ酔い機嫌で年賀状を待つ。
 寺山生産組合長のわたしは、鹿島神社の元旦祭で農家の代表として玉串を捧げ豊作をお願いする。そして直会―神様と酒食を共にし、今年の豊作をお願いするのが直会なのだが…、寺山の人事往来・世事万端の情報交換でにぎやかである。




まほら秦野みちしるべの会活動の記録

2007年
 8月 発足会(会員17名 講師・武勝美氏)
 10月 勉強会 講話「御師の里 蓑毛のくらし」  講師・相原豊久氏
 12月 実地踏査「大山道・蓑毛道を歩く(蓑毛越えから阿夫利神社下社)」
          講話「大山信仰と御師の宿」 講師・佐藤大住氏

2008年
 2月 実地踏査「大山道・富士道を歩く(東田原・西田原)」  講師・武勝美氏
 4月 実地踏査「羽根尾道と矢倉沢往還を歩く(落合・名古木)  講師・武勝美氏
 6月 「アド・大山」(伊勢原市民団体)と交流学習会  
     イラストマップ制作(東公民館)
 7月 大山道・下部灯籠立て見学(鶴巻・落幡下部地区)
 8月 イラストマップ制作(東公民館)
 10月 実地踏査「大山道・小田原道を歩く(渋沢地区)」 講師・諸星正夫氏
 11月 イラストマップ『まほら秦野みちしるべ(三部作)』発行(協力(株)湘南)
    イラストマップ『まほら秦野みちしるべ』を公開(東公民館祭り)
    イラストマップ『まほら秦野みちしるべ』を市立東中学校で展示
    東公民館事業「古道・大山道(蓑毛〜大山寺)を歩く」に協力・参加
           講話「社寺の建築様式について」 講師・山口成富氏
       (神奈川新聞でイラストマップが紹介される・11月5日)
      (『タウンニュース』でイラストマップの紹介・11月20日)

 12月 勉強会 講話「名古木の生活」 講師・小泉信治氏



2008年12月2日更新


    第86話

 「まほら秦野みちしるべ
 イラストマップ
東地区編・三部作)完成


「大山道道標の地図」完成 まほら秦野みちしるべの会

 「まほらの会」は、昨年の8月に発足した「大山道の道標を調べ、それを地図にする」会。その一年間の活動で、三枚(三地区)の地図が完成した。会員の二人がイラストと説明文を手書きしてくれた。実際はA3判だが、今回展示したのはÅ0判の大きさ。これは(株)湘南の協力で作ることができた。この拡大版に会員の撮った写真も付けられた。自画自賛だが立派である。
 5日に神奈川新聞が紹介してくれたこともあり、大山の本家本元である伊勢原市の教育委員会の方や市民の方が8名も来て下さった。遠くは海老名からも。地図を指でなぞりながら自分の知識を披瀝している地元・東地区の長老姿もあった。地図を公開した二日間、希望者に地図を差し上げた。その折いただいた『お気持ち』が予想を超える額になった。今、地図は東中学校で展示されている。
 11月30日の東公民館事業『古道・大山道を歩く NO3』では資料として使われた。数人の会員に、「地図が欲しい」との申し出があった。全て活動する私たちにとって力になっている。











タウンニュース』No2465・平成20年11月15日号

大山道の歩みを形に  まほら秦野みちしるべの会が地図をお披露目

 市内の歴史や史跡を後世に伝える活動をしている「まほら秦野みちしるべの会(横山信子会長)」が今月8日と9日に行われた「東公民館まつり」で、作成した東地区の地図を公開した。同会では活動の1つとして、大山道に残された道標や道祖神を歩いて確認し、独自の地図作りを昨年12月から始めていた。会員16人と講師の武勝美氏が得意分野を活かして写真や文字、イラストを記し、手描きで温かみある3枚の地図ができあがった。横山会長は「会員が地道に歩いて作り上げた結果」と感想を話した。
 伊勢原市から大山道を調べている団体「アド・おおやまみち」の会員、川上紘光氏も会場を訪れ「みちしるべの会の皆様と意見交換し、交流が密になれば」と横山会長らに声をかけていた。今後は東中学校2年生の授業で使うため、地図を貸し出す。また鶴巻、本町、南、北地区の地図も随時作成する予定だという。



2008年11月5日更新


    第85話

  大山道・蓑毛通り
   小田原道を歩く
(西地区 その1)

 
 
     


 まほら秦野みちしるべの会 10月例会   2008・10・5

 行者道 栃窪街道を歩く
         講師 諸星 正夫さん

 集合 渋沢駅南口 神奈中バス 9:18発「峠」行に乗車

 真静院 大地裁 文安元年(1444)市指定文化財

 神明神社 大日留女尊

 行者道(小田原道)小田原飯泉…酉大友…篠窪…峠…桜土手…田原…蓑毛…大山

 弘法の硯水、一本松

 かりがねの松(頭高山)雁音比売命

 念仏供養塔(文化3年1806)(渋沢3215)
  (正)念仏供養塔 文化三寅年七月一五日
  (右)右 小田原 さい志やうじ道
 (かんざしの松)(栃窪301)

 十日市場の道標(嘉永2年1849)
  (正)十日市場道
  (右)ふじ小田原道
  (左)御嶽大権現道

 栃窪神社   《昼食》

 出戸用水

 真栖寺

 栃窪街道

 寒念仏供養塔(道標)不動明王(文化元年1804) (渋沢1803)
  (正)東 かない観音 十日市場道
  (左)左 さいじやうし ふし道 
  (右)右 みろくし道 文化元甲子天四月吉祥日 
 (台正)寒念俳供養

 双体道祖神

 地神塔(道標)(文政4年1821)(渋沢777)
  (正)天社神
  (右)文政四巳年 右 ふじみち
  (左)十日市場道

 双体道祖神

 稲荷神社境内の道標(寛政8年1796)(曲松1−6−7)
  (正)右 ふじ山 さい志やうじ 道
     左 十日市場 かなひかんをん 道
  (右)右 大山みち
  (左)左 小田原 いいすミ みち 

 浅間社石嗣(曲松1−2−16)

渋沢駅 解散



 古くて新しい 峠の道
                    浦田江里子

 すすきの穂がさわさわとゆれる。やわらかな光に段々畑がつつまれている。くっきりと景色も浮き立つような澄んだ空気の中、山あいの集落に秋の訪れは優しく穏やかだ。  
かつてたくさんの修験者を迎えた信仰の山、大山への道しるべをたずねて、山里の風情ある峠のバス停に降り立った。ここは小田原から篠窪を通り、大山へ向かう秦野の南玄関。江戸時代、この小田原道は行者道とも呼ばれ、大山参詣の道として、また海からの物資輸送路として栄えたという。峠の村は、荷役を背にした牛馬、わらじや編傘姿の旅人、白装束に信仰心を携えた講中の行き交う地だった。峠を越えれば、連なる山並みにそびえる三角錐の大山を臨む。歴史や人情を物語る言い伝えや民話が多く残るのも、こもごもの思い交わる峠の道ゆえんであろうか。
 弘法大師が写経に使ったという湧き水(硯水と言われるが今はない)、京の姫の悲しい旅の果て(かりがねの松)、娘に化けたきつねの薀蓄深い話(かんざしの松)など。一度怒れば大山鳴動という、その名も迫力満点の地震の神さま、黒龍石に宿る「宇主山の幡龍王(うすさんのばんりゅうおう)」に至っては(お怒りを買わぬ程度に)好奇心もうずく。
 整備された林の道を辿り、峠トンネルの上あたりに開けた三叉路がある。左方向の草むらを見ると荒れ果てた古道が見つかり、実は四つ辻であることがわかる。つるに覆われた草むらの中には、背丈50センチほどの道標と山の神の石祠が二基、忘れ去られたように埋もれている。賑やかな辻を、歳月の流れは静かな木漏れ日の道に変え、往年の盛期を偲ぶばかりである。
 峠を越え栃窪に抜けると、十日市場への道標がある。秦野の中心地、四つ角付近に立つ十日市場から伊勢原に至る生活の道をさしている。渋沢丘陵から大きくカーブした栃窪道を下り、住宅街に入る。寒念仏供養塔に刻まれた道標は、民家のブロック塀をくり貫く形でまれていた。見落としそうな、小さな道標には野の花が一輪供えてあった。
 渋沢駅を目指して住宅街を歩く。途中、「道祖神正遷座の碑」と銘打った石碑のもとに鎮座する道祖神に出会った。道路整備に伴って移転した道祖神を自治会がおまつりしているとのこと。あまりに立派な建屋に収まってしまった道祖神に少し驚くが、石をこすって目を凝らして文字を読んでみる。昔の人の心を感じたいと思いながら。
 曲松の稲荷神社にある道標は市内最大である。矢倉沢往遼に合流するとあって、この大きさは群を抜く。当時ならば、大通りに見劣りしない堂々たるものだったろう。

 路傍の道祖神は欠けたり、磨り減ったり、ぽっきり割れたものもある。薮に埋もれていたり、居心地の悪そうな石柱もある。豊かではない暮らしの中で、旅することを至上の喜びとし、旅の安全を道祖神に託し、道標を建て信心の証とした人々の思いがこもる。今、生活の場から追いやられ、居場所に困ったような神様や、示すべき道のない道しるべを前に、これらにこめられた古人の思いを、いったいどうしたものか、と途方にくれる。たとえ形が変わろうとも、数百年の時を経て現在に続く大山道が、自然消滅することなく、郷土の歴史に刻まれていくことを願いたい。
 道案内をしてくださった諸星さんの朴訥な昔語りを聞きながら、「道が消える」ということは、景色だけでなく、暮らしや慣わしも変わっていくということなのだなあ、と物寂しく感じた。大山道の衰退とともに、苦難にも満ちた心の旅から人々が遠ざかっていったように。

道者道(ドウシャミチ)とも呼ばれた小田原道 曲松の稲荷神社境内に
移された大山道の道標




2008年10月1日更新


    第84話

  8月26日は蓑毛・小林庭の『ロクヤさん』
    
 
     

       
                                  
 大山道・蓑毛道の「馬返し」の所には、33段の石段があったと言われている。そこは今、その石段があったことをうかがわせるに十分な急な坂道となっている。
 坂の脇に、今も「つたや」で通じる家がある。母は「つたやは大山参詣の人たちの宿」と言っていた。そして、「その裏に才戸のお堂があった」とも。
その「つたや」の綾子さんから、「8月26日には、お堂の中の物が見られるから来てみたら」と誘われていた。
 その日の11時、今は道路拡張とのかかわりで蓑毛下会館に名前を替えている「お堂」を訪ねた。会館には20名ほどの人が集り、赤と白の幟を立てる準備をしていた。男性の湯山さん、井上さん、江原さん、石垣さん、中村さんの5人は顔見知り。彼らに話を聞かせてもらった。「お堂」とは宝蓮寺持ちの観音堂のことだった。
 最年長の男性・高橋さん―たぶん80歳代だろう―の指示を受けながら、私も竹竿に幟を付けるのを手伝った。かつて在ったと言われている石段に替わり、会館に登るコンクリート製の階段が設えてある。その階段に沿って33本の幟が立てられた。
 1 杉本観音 2 岩殿観音 3 田代観音 4 長谷観音 5 飯泉観音 6 飯山観音 7 金目観音 9 慈光寺 10 巌殿観音 11 吉見観音 12 慈恩寺観音 13 浅草観音 14 弘明寺 15 白岩観音 16 水澤観音 17 出流山観音 18 立木観音 19 大谷観音 20 西明寺 21 八溝山観音 22 北向観音 23 佐白観音 24 雨引観音 25 大御堂観音 26 清瀧観音 27 飯沼観音 28 滑河観音 29 千葉寺 30 高倉観音 31 笠森観音 32 清水観音 33 那古観音。そして階段を登りきったところに、館内の厨子に祀られていた十一面観音菩薩像を安置し、脇にひと回り大きい「観音堂霊場」と記された白の幟が立つ。
 午後2時を目安に、三々五々お参りの善男善女が集ってくる。この日に才戸の観音さんにお参りすると、坂東三十三番の札所を全て回ったのと同じご利益があるのだそうだ。皆さん、会館(観音堂)を一回りするように歩き、最後に幟の立つ階段を上がり観音さんに線香を手向ける。
 お参りが済むと『ロクヤさん』の念仏講が始まる。『ロクヤさん』とは「六夜祭」を親しく呼ぶ言葉で「二十六夜講」のこと。江戸時代から続いていたと思われるこの『ロクヤさん』、2年前に講中が二人になってしまったので「終りにしよう」とした。だがその消滅を惜しむ人たちの後押しで存続させることになり、昨年から本格的に動き始めた。この日、念仏講に参加したのは39人(男性6人)だった。
 先達は松下菊枝(88)さんと 湯山富江(84)さん。昨年出直したばかりのこの念仏講には50代の女性も加わっている。皆さんが神妙な顔つきで唱えるお念仏は、聞き馴れているお経のリズムとは少し違って聞こえた。だが、声はめっぽう大きく明るかった。ほほえましくさえ感じた。私も自然に唱和していた。
「南無、不動、釈迦、文殊/普賢、地蔵、弥勒、薬師/観世、勢至、阿弥陀、阿閃(あしゅく)、大日、虚空蔵」と、十三仏の尊称を13回唱えるのがこの念仏講である。
 終わってからの和やかな懇親会は、昔と変わらない『ロクヤさん』となった。


8月26日 坂東三十三番の札所の幟が立つ 石段を登ってお参りに 十一面観音菩薩 頭部の十面は無くなっている
 家族の健康を願って参拝 昭和二十年代までは芝居がかかり、露店も出たという『ロクヤさん』のお祭り   かつてここには宝蓮寺の観音堂があった 会館の裏手に秦野市最古の、不動明王を戴く大山道の道標が立っている
昨年、再発足した念仏講 だからまだ経本は手から離せない 観音さんにお参りした人と念仏講の皆さんとで懇親会

 

 厨子に安置されている弘法大師像

 

後藤慶明作 安政4年(1857)   

 お念仏を唱えている皆さんの前に鎮座ましますのは弘法大師さま。前垂れを掛けているので「おびんずるさま」かと思った。
「鎌倉扇ケ谷住 大仏所後藤斎宮慶明 安政四巳年(1857)十二月 日」が頭部内に、「向原某、江原某、鈴野某、湯山某、高橋某」などと像底に書かれている。

蓑毛下会館内の厨子に納められている掛け軸
その日、厨子に納められている掛け軸も見せてもらった。私が理解できたものは次のものだった。
1 石尊大権現(大山講)
2 徳一菩薩(大山寺)
徳一上人の生まれは常陸。奈良の興福寺で修行した法相(ほっそう)宗の高僧。後に関東の山岳宗教の発展に貢献した。弘法大師・空海と同時代だったので気脈は通じていた。空海が東国順錫で大山に登ったとき、徳一上人の勧めで大山寺三世に名を連ねたという。
3 天社神(地神講) 
4 白笹稲荷(稲荷講)  
5 弁天(巳待講) 
6 山の神(山の講)
 これ等の多くは小林庭の講中のものようだった。

木喰普性の六字名号塔
 会館の前に「南無阿弥陀仏 如意 木喰普性」と記されている六字名号塔がある。六字名号塔とは、「南無阿弥陀仏」の六文字が正面に記されている塔。  大日堂の裏に地蔵堂があり、その横に木食光西上人が生きたまま埋葬された(1735年)地がある。この光西上人と木喰普性とは何か関係があるのだろうか。
 「木喰」とは木喰上人のこと。甲斐の身延出身(1718)で、22歳のとき大山不動尊で出家している。遊行僧で円空と同じように各地で仏像を彫っている。木喰普性とは木喰上人のことなのか。ここに祀られている十一面観音像は木喰上人の作風とはまったく違うようだ。
 秦野市曽屋の念仏塚にも「木食晋性」の名号塔が立っている。ただし、才戸のは「木喰」。念仏塚のものは「木食」。「喰」と「食」の違いがある。

※二十六夜講 月待ち講といわれ、特定の月齢(二十六)の夜、月の出を待ちながら勤行や飲食、歓談をする。月が昇ると《心願》し解散する。二十六夜の月は、明け方前に昇る三日月。その月光の中に阿弥陀三尊が姿を現すといわれている。







2008年9月1日更新


    第83話

  東田原の難しい地名
   轟 紀伊守 道切 象ケ谷戸
 
 
     


 東婦人会の皆さんと地域巡りをした折、会員の大津邦子さんが「東田原の地名を織り込んだ詞を作りました」と私に見せてくださいました。今回は、その東田原の地名について考えてみます。

  東田原讃歌
                     大津 邦子

 轟坂を越えくれば 御嶽の山も変わりゆく 甍の波の井の城に
 紀伊守 小原 開けゆく 葛葉の流れ清らかに 人みな集い下宿に
 朝の光を背に受けて 田原の社美しく 富士の高嶺と真向かいに
 実朝公の御首を 守る中庭金剛寺 五輪の塔の気高さよ
 朝日の社仰ぎ見る 前原 八幡広々と 田畑に明るい声響く
 阿夫利の山に続く道 筒粥神事おごそかに 人みな和して象ケ谷戸
 故郷興す人人が集うふるさと伝承館 そば打つ人のさわやかに


 束田原の小字名
 @1842年刊の『風土記』にある小字名
  蔵ケ谷戸、道切、井ノ代、金山、水上、下岩、上原、馬場、天保五年の戸数105。

 A「秦野の地名探訪」石塚利雄 昭和55年刊
  上小原、紀伊守、中小原、下小原、九沢、轟、船久保、中河内、御嶽、丸山、下原、中丸、馬場、水口、清水、台林 大窪、八幡、前原、大口、象ケ谷戸、桐ケ窪、中里、篠ノ脇、花開戸、東開戸、籠口入

 B「秦野市土地宝典」昭和44年刊
  上小原、紀伊守、中小原、下小原、九沢、轟、船久保、中河内、御嶽、丸山、下原、中丸、中田、馬場、水口、清水、台林 大窪、八幡、前原、大口、象ケ谷戸、桐窪、篠ノ脇、花開戸

 C現在「秦野市土地宝典」平成10年刊
 くずは台、上小原、紀伊守、中小原、下小原、九沢、轟、船久保、中河内、御嶽、丸山、下原、中丸、中田、馬場、水口、清水、台林 大窪、八幡、前原、大口、象ケ谷戸、桐窪、中里、篠ノ脇、花開戸

 東田原の地名考
象ケ谷戸 象ケ谷戸(ゾウゲート)と呼ばれる地区がある。地名に「象」という文字を用いている地は全国でも数カ所に過ぎない。奈良・吉野町に「象谷」という地名があるが、読み方は「キサタニ」。「象」をキサと読むのは万葉時代から。象牙にギザギザの模様があるから、ギザギザのようすを「象」という文字で表した。階段を「キザハシ」とも言うが、地形用語の「キザ・キサ」は、段丘・侵食地・削り取られたところを示す言葉。地形を見ると、象ケ谷戸は「キサ(キザ)ガヤト」。やがて識字率が上がり「象」が「ゾウ」と読まれるようになったのではないか。
 落合(小字・瀧ノ前)に「三の白滝」があり、東田原(小字・井ノ代)には「天ケ瀧」(東田原)がある、と『風土記』に記されている。その滝の響きが「轟く」ので。 
井ノ代(イノシロ) 井は水の出る地・水路・湿地帯で、代は田んぼ。現在の《井の城》と呼ばれる地名はない(バス停《井の城》はある)。
井ノ尻(イノシリ) 水帳(慶長3年)に記録されている  
紀伊守(キノカミ) 井ノ尻に対して井ノ上(イノカミ)・井の頭と同じで水源地をす言葉。井ノ上(イノカミ)が瑞祥地名の「紀伊守(キイノカミ)」となり、音は「キノカミ」に変化した。
九 沢(クザワ) 崩れ沢の転訛
道 切(ドウギリ) 「道切」を「ドウギリ」と発音するなら、胴切り=「タフ(倒れ)切り」で崩壊地形を表す。ただし、八幡庭では明治末年まで「道切講(ミチキリ講)」が行なわれていた。道切講とは疫病・厄病神が入ってこないように祈る講。 







2008年8月1日更新


     第82話
 
  
大山道の道標  鶴巻の下部灯籠
 
 
     
  下部灯籠と大山道の道標(左の石) 芦川英雄さんによる由来文
下部灯籠は秦野市鶴巻3-10-25  鶴巻第一自治会館の庭に立つ
毎年7月25日午後4時から灯籠立て 8月18日に解体される
7月25日から8月17日まで毎夜ろうそくが点される 地酒「鶴巻」と「大山」で神仏と献酬する


相州・大山(1252m)の夏山は727日から817日まで。大山の夏山は、江戸時代は「一夏10万人」とも言われたように参拝者でにぎわった。その夏山詣でをする信者のために、秦野市鶴巻の落幡地区の人たちが夜道の道しるべとして、今から300年ほど前から灯籠を立てあかりを点してきた。
 毎年725日に、坪ほどのお堂を組み立て、中に灯籠を立てる。この日は落幡・下部(かつての下落幡村)の鶴巻第1太鼓保存会(会長・宮川輝雄)の会員が20人ほど参加。年配者が指揮を執りながら若い人、と言っても40代? 屋根に上がり汗を流した。
 猛暑の中1時間半ほどかかっての組み立ても注連縄を張って終り、ろうそくに火が点された。そしてお神酒が捧げられた。お神酒は地元の銘酒『鶴巻』と『大山』だった。
 鶴巻第1自治会館の庭に立つこの灯籠の脇に、「左かない道 右大山道 延享4(1747)」とやっと読むことがてきる道標が立っている。30年くらい前までは、814日〜16日の月遅れのお盆の間、大山山麓では夜中に大山にお参りする『盆山』という行事が盛んだった。平塚から金目、そして落幡を通り伊勢原を抜け大山に続くこの道を歩いた参拝者は、下部灯籠の灯をたよりに大山に向った。だが、この大山道は今は車の迂回道となり、この灯籠に気づく人は少ない。
 今年も地元の人たちは交通安全と五穀豊穣を願い灯篭に24夜、ろうそくを点す。

下部灯籠について(調べたこと)

・灯籠の高さ95a 幅65センチ
・灯籠を支える六角柱に記されている文字
 (正面)奉献燈 石尊大権現(石尊大権現=大山そのものを神としている尊称)
 (裏)明和6年建立
 (裏右)文政5年再造
 (右前)大天狗 下落幡邑中(邑中=村人を表す)
 (左前)小天狗 若者中
  ※大山と天狗について 天狗は山の神の化身。鳥取の大山(ダイセン)にいた伯耆坊という天狗が後に大山(オオヤマ)に移ってきたといわれている。 夏山の参拝者は「奉納大山石尊大権現 大天狗 小天狗 諸願成就」と書かれた木太刀を厄除けとして納めた。
・灯籠を覆う堂宇 東西・南北共に一辺245a 高さ300aの切り妻型








2008年7月1日更新


     第81話
 
  
郷土料理 秦野のへらへら団子
 
 
     

 
 秦野の郷土料理 へらへら団子 東婦人会の手で復活

 東地域の歴史や文化に触れる「さわやかウオーク(案内人は私)」を行なっている東婦人会が、秦野地方の郷土料理「へらへら団子」を復活させ、東の里文化芸能大会(08/6/29)に集ってきた市民に食べてもらった。
 この「へらへら団子」の復活は、婦人会から「東地区の文化・歴史を紹介したいが」との相談があり、その話し合いの中から実現した。

 昨年の12月18日、農水省が全国の郷土料理の中から選んだ「農山漁村の郷土料理百選」を発表した。神奈川からは「へらへら団子」と「かんこ焼き」が登場。「へらへら団子」は「横須賀市の佐島地区の熊野神社のお祭りの料理・豊漁と健康を願って奉納される」と紹介されている。
 「へらへら団子」という料理は、料理と呼べるかどうかは「?」 たしかに私の記憶の中もあった。子供のころ母が食べさせてくれた。団子と言っても「へらへら団子」は丸い団子ではない。こねた小麦粉を手の指先で押し広げた平たい団子だった。湯通したそれをアズキのアンを絡めて食べる。我が家のものは砂糖をまぶしたもの、そんな記憶がある。「モノ日のもの」という記憶はない。“おちゅうはん・おこじゅう=今風に言えば「おやつ」”の物でもなかったと思う。たぶん、主食の代わりだったのではないか。
 「へらへら団子」は“平べったい”団子。鍋の熱湯にこの平たい団子を入れると、すぐに“ひらひら”と漂いながら浮かび上がってくるから「ひらひら団子」。「へら」は「ひら(平)」の変化した言葉だと思う。和裁の道具のひとつにヘラというものがある。そのヘラに形が似ているから、「へらへら団子」なのかもしれない。


 市内南地区で生まれ育った明美さん(39)さんの「へらへら団子」の思い出

 先生の日記で「へらへら団子」のことを読みました。私のおばあちゃんはお盆の送り火の日に「へらへら団子」を作っていました。お盆に飾ったものと一緒に割り箸に刺した「へらへら団子」を川へ持って行きました。おばあちゃんが作ってくれた「へらへら団子」は、小麦粉を練って“へらへら”につぶし、湯通しし、それに砂糖としょうゆの甘辛のタレをつけたものでした。とってもおいしかったことを覚えてます。お盆でもないのに、よくリクエストして作ってもらった記憶もあります。久々に作って、子供に食べさせてあげようかなぁ〜! たぶん、おばあちゃんの味とはほど遠いものになると思うけど…。

「へらへら団子」のレシピ  (6月29日、会場で振舞われたもの)
小麦粉をよく練りペラペラに伸ばす  熱湯に入れると数分でヒラヒラと茹であがってくる
少し冷まして餡をまぶす 「ペラペラ」・「ヒラヒラ」から「ヘラヘラ」に







008年6月1日更新


     第80話
 
 大山道・羽根尾通り
   (落合・名古木)を歩く
 
     



 大山道を歩く楽しみ

                                   浦田江里子

「大山道」(おおやまみち)をご存知だろうか。単なる登山道ではない。かつて人々が心の拠り所とした大山信仰、大山へつながる参詣道だったのである。
 
 毎朝、眺めるあの大山は、豊作・豊漁・商売繁盛・安全・雨乞いなど実にさまざまな祈願にこたえてきた山である。二度の山津波に見舞われながら人気は衰えず、江戸時代全盛期には関東一円に4000組もの大山講(信仰集団)が形成された。数々の伝説をもち、落語にも登場する、富士山に並ぶほど庶民には馴染みの山だった。
 
 秦野に暮らして十余年、その歴史を学んだのは武先生との出会いがきっかけである。私にとって大山は足慣らしの山だったが、視点を変えると、教科書にはない大山に、意外な史実があることを知った。身近な地域だけに興味も湧く。傾いた道標、たくさんの馬頭観音、当時の賑わいの跡、参道の苔むした石段、川原の石さえ、心を向ければ語りだす。喜んだり、じっと耐えたり、何かを支えとしたり、その時代の人々が生きて生活してきた証を見るようだ。
 
 四月のある日、まはらの会で大山道を歩いた。善波峠の切り通し道にたたずむと、数百年の時も軽々超えられそうだ。きっと、ここは、ずっと昔から風の通り道なのだ。新緑の揺れる木漏れ日に、旅ゆく人々も風を感じ、心を癒したに違いない。
 
 首のない道端のお地蔵さんには、石の頭がのっている。いつ、だれが、のせたのか。何度も石は落ちたのだろう。そして何度も石はのせられたのだろう。人々は、目的地に続く道をとても大切にし、道を辿る人々の安全を道祖神やお地蔵さんに託したのである。すぐ下には国道を途切れなく走る車の流れ。はやくはやく、とせかされながら、私たちはいろいろなものを削ぎ落としながら、ここまできてしまったのだろうな、とも思う。
 
 歩いていると、いろいろな発見や驚きに出会う。もしかしたら人は、歩く速さでしか物が見えないのではないか。いにしえに想いを馳せ辿る大山道は、わが街秦野の絶好のウオーキングコースであり、ふるさとを知り大切に思う心に通じる道のような気がする。


大山道・羽根尾通り(落合・名古木)を歩く  2008/4/27
道永塚は道標かもしれない 御嶽神社下の庚申搭(右ミ[ 」  左十日市場みち)
秦野には珍しい献酬双体道祖神(中央)
矢倉沢往還の秦野への入口 善波峠の切り通し 峠にある頭部の無い地蔵さん 飛び入り参加の中学生も一緒に楽しいお弁当







2008年5月1日更新


     第79話
 
  大山道・羽根尾通り
    (落合・名古木)を歩く
 
     



まほら秦野みちしるべの会 4月例会
 2008/4/27

 
大山道・羽根尾通り(落合・名古木)を歩く     
 
 夜明けごろまで雨模様だったが予定通り実施。参加者は16名。東中2年生の本間、井上、飯田さんが飛び入りで参加してくれた。「みちしるべの会」は、大山道を歩きながら、地域の歴史や文化・民俗などを調べ、それらを次代に引き継ぐことを目指している。だから、会にとってこの三人の参加は限りなく嬉しいことだった。歩数1万歩超。

集合9:30 大山道道標前(バス停・藤棚)

道永塚(明和8年・1771年)

石橋供養搭(大山道道標)  右 伊勢[  ] 左[  ](万延元年・1860年)
東落合用水池 右のことを榎本淳一さんに話してもらう

地蔵堂(明治5年・1872年) 通称「出口地蔵」  ※開進学校跡碑
↓ (宮永岳彦アトリエ・遠望)
庚申搭(貞享5年・1688年) 碑文に并椚村(ナクヌギムラ)とある
※道祖神、地蔵など。地蔵は寛文10(1670)年で東地区最古(名古木247)

天社神(地神)(大山道道標) 左みの毛道 西沢中 (文政2年・1819年)(名古木476)

御嶽神社

庚申塔(大山道道標) 右ミ[  ] 左十日市場みち  (名古木458・御嶽神社東側)

大山道道標(灯籠) 道祖神(献酌双体像は秦野では珍しい)(名古木1154)

善波峠(石仏群) 矢倉沢往還の秦野への入口

地蔵(大山道道標) (右)かない道 (左)十日市場道 (明和2年・1765年)
 (名古木1018・ 乗馬クラブ角)

「牧の木」で昼食・解散

※百番観世音塔 (左)伊勢原道 (右)享和元稔 弘法山 (享和元年・1801年)           
(曽屋4080 こうぼうふじみ公園角)は発見できなかった。

参考 名古木村(ナガヌキムラ)・風土記稿(1841)では「奈古乃幾牟良・ナコノキムラ」と仮名が振られている。「古くは并椚村(ナクヌギムラ)と書く」とも同書にある。 




2008年4月1日更新


     第78話
 
  寺山物語 第56回
 
     インキョの嫁


 生産組合の配り物を“インキョ”に持っていった。朝の10時過ぎだった。70代の一夫さんキヌ子さん夫妻と40代の長男夫婦が、縁側に腰掛けて10時の「お茶」をしていた。
 庭に入った私の姿を見て“インキョの嫁さん”がさっと立ち上がった。配り物を受け取るため、と思った。ところがヨメさんの姿は私の視界から消えた。
 三人から「珍しいね、お茶を飲んでいきなよ」と勧められた。「いや、まだ他所を回るので」と断る私に、ヨメさんが私のための茶碗を持って現れ、「どうぞ飲んでいってください」とにこやかに勧める。彼女は、私の姿を見てすぐに茶碗を取りに立ったのだ。そのことが分かった私は、もう断れなかった。
“インキョの嫁めさん”こと由美子さんは、以前私を訪ねて来たとき「中学校のPTAの役員をしている武です。インキョの嫁です」と名乗ってくれた。以来彼女は私には“インキョの嫁”なのである。
 大山名物の良弁まんじゅうと自家製のハクサイの漬物で温かいお茶をいただく。長男の雅博さんに「何を手伝ったの。今ごろだとジャガイモの種まき?」と聞く。一夫さんが「ジャガイモはもう芽がでるころだよ」。「家族の交流ですよ」とキヌ子さんが笑う。
 庭に別棟を建てて住んでいる長男一家だから、休みの日にはこうしてお茶を飲んで顔をあわせているとのこと。そこに別棟から出てきた中学生の女の子も加わった。バスケに燃えているこの子のはきはきした受け答えに、お茶は一層にぎやかになった。
 他家の縁側でお茶に呼ばれたのは何年ぶりだろう。寺山では、この日の“インキョ”のように、昔の縁側がまだ存在している。(『インキョ』=名主の第一の分家のこと。あるいは、その分家の持っている田のこと。)






2008年3月1日更新


     第77話 
 まほら秦野みちしるべの会2月例会
 
富士道(東田原・西田原)を歩く
                
2008/2/17
                  
  

東公民館(9:30)

道祖神(大山道道標)

朝日神社 祭神・建速須佐之男命 誉田別命(ホムタワケノミコト) 
 八幡神社・祭神・誉田別命 明治初年の神仏判然(分離)令により朝日神社になる。1713年以前の造宮。 
 八幡地区の「道切り講」

庚申搭(大山道道標)

地神塔(大山道道標)

谷戸の湧水 地名清水と田端 

田原城 小字・堀ノ内にあったと思われる。 後北条氏(北条氏直)が秀吉の襲来に備えた。大藤長門守が50騎で相州田原の城を守備した、という記録(北条家人数覚書)。

香雲寺 山号は大珠山春窓院(520年以前に開山)羽根村より大藤式部少輔政信が移築。大藤氏の墓所。 

八幡神社 両部鳥居(厳島神社) 
 神明鳥居(島木鳥居・伊勢神宮) 明神鳥居(笠木鳥居)

上宿・下宿と十日市場  宿を営んでいたという野田家、和田家より話を聞く

東田原神社 祭神・倭建命 誉田別命  地元の人たちは観音さんと呼ぶ道明寺。米倉丹後守昌伊の冥福を祈って元禄年間(約300年前)に創開。 神仏分離により神社に 
 ※東田原神社で解散12:00)

(資料)
田原村 観応元年(1350年)の古文書には「田原村」と記録があるので、まだ東・西には別れていなかった。風土記稿(1841)には「東西分村の年代許ならず」とあるが、「永禄の頃(1550年代)既に東西の唱ありしなり」とも記している。同書には「村の中程に富士大山への通路幅二間、あり」とある。金目川の川幅六間 井ノ代に高さ一丈五尺、幅六尺の「天ケ瀧」があることも記録されている。

 


2008年2月1日更新

「続寺山ものがたり」がきっかけで陽の目を見た庚申さま
日月・青面金剛・二童子・邪鬼・三猿・四夜叉・合掌女人・鶏が描かれている珍しい図である


庚申図(掛け軸・武完氏蔵)


合掌女人・ショケラ(上図部分)






2008年1月1日更新

東公民館の事業「大山道を歩く」その3

 
蓑毛道いほり越え 12月2日
講師 先導師・佐藤大住氏 武勝美氏

 大日堂境内で道標「従是不動石尊道」
 の説明
大山寺の紅葉の下で 大山豆腐をいただきながら先導師佐藤
大住氏から「大山信仰」の話を聞く

 講師を務める東公民館の『大山道を歩く』のシリーズの最終回は、大山道・蓑毛道を歩き、大山詣でをし、御師の宿で豆腐料理を食べるという内容。9時半に蓑毛大日堂の境内を出発した20名の参加者を見送り、車で大山町に先回りの私。 
 大山寺の紅葉に染まりながら、全員12時50分に、宿坊『おおすみ山荘』に無事到着。「途中の紅葉はどこも最高」だったとのこと。この日を選んだのは正解だった。私と同じように山越えをせずに直接会場入りの6人を含め総勢26名で、豆腐ハンバークや豆腐の蒲焼などは並ばない、純粋な豆腐料理をいただく。
 食事の後、「大山信仰と御師の宿」という演題で第37代御師佐藤大住さんのを聞く。民俗学者樋口清之先生によって「大山について“開眼”した」と語る佐藤氏は現役高校の社会科教師。「なぜ豆腐は大山の名物なのか」「江戸っ子と大山詣で」など興味深く楽しい話が聴けた。宿坊内の神殿を参拝。大きな木太刀が奉納されていたが、これは大山信仰の特長とのこと。
 山歩き、紅葉狩り、名物の豆腐料理、宿坊での講話、しかも天候にも恵まれたことで、「まとめにふさわしい充実した内容だった」が向原館長の言葉。





2007年12月1日更新


  第75話 
 
  寺山物語 第55回
 
    三大湧水新聞

 秦野東中の一年生は「総合の時間』でふるさと調べに取り組んでいる。そして、そのまとめを新聞形式で行なう。下の『TERAYAMA三大湧水新聞』は、寺山に住む本間愛佳さんが第1号として夏休み中につくったもの。12月13日に学習新聞づくりの指導をに出かける。







2007年10月1日更新


  第74話 
 
  寺山物語 第54回

 
平和の使者・青い目の人形
 
 岩手・千厩小学校のベティちゃん

 『エコー』の読者・菅原澄子さんの紹介で、『続寺山ものがたり』を岩手の菊池徳夫先生(新聞教育の先輩)に読んでいただきました。その菊池先生から「青い目の人形は近くの千厩小学校にもあります」と、次のような文が送られてきました。

 

青い目の人形ベティちゃんとの再会
                                   千葉 栄子

 朝食後、いつもの通りゆっくりと新聞を見ていましたら、千厩の青い日の人形展の記事があり「千厩小が所有するベティ」として写真が掲載されていました。
 60年も前に別れた時のそのままの可愛い顔、懐かしくすぐにでも飛んでいって思い出深いベティちやんに会いたくなりました。しかし、最近、体に変調を来し2週間の入院生活を送ってきたばかりで体力もなく、息子や娘には車の運転は今後止めるようにと強く言われていました。それで、近所の普段から親しくしていただいている元千厩小学校校長先生の和賀成夫先生に、私が今まで秘密にしていた『人形を守るために隠していた』こと、その人形に是非再会したいという気持ちを話しましたところ、ご理解くださり連れて行っていただけることになりました。もちろん誰にも秘密は話さないで下さいとお顔いしました。                
 会場に入ると、そのベティさんは私の隠した人形と分かりました。それで、係の方に「チヨットさわらせてください」とお願いいたしましたら、子供みたいな年寄りと思ったのでしよう。「じゃ特別にね」と戸を開けてくださいましたので、人形にさわりましたら思わず抱いてほほずりをしてしまいました。「60年もがまんして、あの時の笑顔のまま元気でいてくれた」と涙が流れてきました。それを見ていた皆さんが不思議に思われたのでしょう「どうされたのですか。何かこのお人形と関係があるのですか」と尋ねられました。それで、和賀先生のお顔を見ましたら、笑いながらうなずいていらっしゃいましたので、ベティちゃんのことを話すことにしました。

 私は昭和18年、19年と千厩国民学校に勤務し、4年生の担任でした。当時の千厩小の校舎は真ん中に正面玄関があり、入ると左に校長室がありました。朝出勤すると一人ずつ校長室に入り挨拶をするのでした。私も同じように校長先生にご挨拶をしに行くのですが、いつしか青い目の人形と目を合わせ、校長室を出てくるのが習慣になっておりました。
 昭和19年の何日かは覚えておりませんが、いつものとおり挨拶をして出ようとしたら、校長先生が「この人形を焼いてきなさい」と青い目の人形を目の前に出されたのです。驚いて恐る恐る受け取り抱きしめましたが、全身の震えが止まらなくなりましたら、「上からの司令、文部省からの命令だから」と説明されました。校長先生は、敵国の人形だからとは一言もおっしやいませんでした。「上の畑で男の先生たちがアメリカに関する本や書類等を焼いているから、そこへ持って行き、一緒に焼きなさい」と言われました。
 裏の湯沸かし場の出口で、震えながら立っておりましたら、村上昌子先生がいらして「何してたの」と声を掛けてくださいました。校長先生からこの人形を焼くように指示され困っていることを話しました。私は、母からよく「人形を粗末にすると祟りが来るよ」と言われていたこともあり、焼くなんて人殺しをするような気持ちであることを話しました。昌子先生は「私も同じ時代ですからね」と言ってくれ、二人で話し合いました。正面玄関の真上に奉安殿のことを思い出し、そこに隠すことにしました。奉安殿は玄関から入り正面の職員専用の階段を登り、廊下を隔てて真向かいにあります。その両側に4年生の教室があり、私は4年生の担任でしたので、一日に何回もその前を礼をして通って教室に出入りしておりました。
 奉安殿は祝祭日など年に何回か校長先生と教頭先生だけが入ることができるところです。切羽詰まった気持ちでいっぱいの私は無我夢中で入り、昌子先生は見張りをしていました。板戸を開けて恐る恐る中に入りました。一段と高い所に開き戸があり、その中の棚には御真影と教育勅語の箱が置いてありました。左側の隅にあった布をかけて「ごめんね、頑張って居てね」と言って奉安殿を出たのでした。そしてホッとしてこのことは誰にも話さないことを昌子先生と約束しました。それ以来、人形が見つからないようにと思う一方で、校長先生の指示に従わず隠した罪が心の隅にいつも残っていました。

 こんど千厩ユネスコ協会の方々と千厩小学校の菊池校長先生を始め先生方が、一生懸命になられて八十周年記念の行事「青い目の人形展」を開いてくださったお陰で、私はベティ人形と再会できました。「ベティちやん」と呼びかけることができました。
 昭和2年に、「日米親善大使」という大役を背負って来日したベティちゃんのことを、この人形展で初めて知ることができました。べティちゃんたち人形が日本に来ることになったのは、日本からアメリカヘの移民が多くなり、そのことが原因で日米の関係が悪くなるのを心配して、日本の小学校、幼稚園に「日米親善の大使」として人形が送られたのだそうです。
 私が勤務した4校は、どこの学校でも人形を校長室において大事にしておりましたが、子供たちにはアメリカの人形を見せることはありませんでした。私は昭和6年に小学校に入学したのですが、どの先生からも「青い目の人形」の話は聞かされませんでした。ですから、この人形展で初めて知ったのです。先輩の先生方も人形のことは知っておらず、教えることも無かったでしょう。
 昭和6年の頃は「青い目の人形」の歌は、あちこちでが歌われていたようです。ところが、満州事変、支那事変と戦争が続き、出征兵士の見送りの帰り等にも歌ったりしておりました。
 小学校5年6年と担任だった小原絢治先生は、国史の時間に教科書から離れて、郷土の歴史まで教えてくれました。「小さい日本の国の人たちは、働く場の広いアメリカ大陸に憧れて移民する人がたくさんいること、この摺沢からもアメリカに行っている人がいる」と教えてくれ、小原先生の叔父さんも学校の先生をやめて行っていることなどを話してくれました。
 
 「青い目の人形展」を見に来られ、校長先生よりいろいろお聞きになった方や、新聞を読まれた方などからお電話やお手紙をいただき、さらにいろいろなことを知ることができました。
 「昭和17年の小学校6年生のとき、学校のごみ焼き場で人形を焼いているのを見ました」という話や、人形を新聞にくるんで柱に縛ったことや、子供たちが見ているところで焼いたりしたということも聞かされました。
 昭和17年、母校の摺沢小学校に勤務しておりましたときは、校長室に入り出勤簿に印鑑を押して、向い側の机に置いてあるガラスケースに入っている青い目の人形を見てから出てきていたものでした。ところが20年4月に千厩小から摺沢小に再び転勤してきましたら、あのガラスケースの中には日本人形が入っておりました。今にして思いますと、昭和17年までに多くの学校で人形を処分してしまったのだと思います。隠されたベティちゃんは、千厩小の八十周年記念行事の「青い目人形展」に出て来て、少なくなったけど、一緒に来日したお仲間にお会いでき、嬉しくもあり悲しくもありの複雑な思いを抱いたことでしょう。
 ベティさんをはじめとする親善大使のお人形さん、これからは皆さんがあなたたちを大事に守ってくださるでしょうから、いつまでも可愛い笑顔で「平和な世界を願う親善大使」の大切な務めを続けてください。そう思いながら、一つひとつの人形の目に私の視線をあわせてきました。
 他の学校では、17年に処分したことを分かっていても、昭和19年まで我慢を持ちこらえていた菊池正人校長先生の指示に従わなかった罪の深さに60年も恐怖に怯えておりました。しかし「青い目の人形展」を見て、同じ思いをなされたいろいろな方たちとお話し合いをすることができたりして、気持ちも楽になりました。今にして思えば、菊池校長先生が、私に「焼いてきたか」と念を押されなかったことは、私なら何とかするだろうと思っていらしたのかなと想像されます。
 校長先生に対しての罪とベティちやんの安否は、60年間いつも心の片隅にありました。でも千厩小学校が八十周年記念の「青い目の人形展」をなされたお陰で、心が晴れました。なにより、ベティちゃんが大切な役割を果たすことができるようになったことが嬉しいです。
(『木鐸』第49号 平成19年5月28日発行  岩手県・大東町退職教職員会)


千厩小学校のベティちゃん







2007年9月1日更新


  第73話 

『まほら秦野みちしるべの会』
      
 

 
8月26日 「まほら秦野みちしるべの会」発足


 1997(平成9)年から始めた東中学校での「郷土めぐり」の授業を、今年も持たせてもらった。市民を対象にした「路傍の神仏を訪ねるウオーク」は、2002(平成14)年から18回行なった。そして『寺山ものがたり』、『続寺山ものがたり』の刊行。
「ふるさとを知り、ふるさとを愛し、ふるさとを育てる」ことが、人を、まちを育てることだと思っている。できることなら、この思いを受け止めてくれる人が欲しい、次代に引継ぎたい、と願っていた。バトンタッチができたことが嬉しい。
 8月25日「まほら秦野みちしるべの会」が発足した。「みちしるべの会」に参加してくれた人は40〜60代の16名(6名が女性)。会をまとめ、動かしてくれるのは、秦野を第二のふるさととする二人の女性。これから「秦野を知り、秦野を育てたい」と思い、わが子に秦野の良さを知らせたいと願うお母さん二人なのだ。
 「限られた時間」が口癖だから、なんでも結果・成果を早急に求めている私なのだが、「みちしるべの会」には、大きな歩幅や早足・駆け足は求めない。


まほら秦野 みちしるべの会(略称「みちしるべの会」) 

 神奈川県のほぼ中央にそびえる端正な大山(おおやま)は、落語『大山詣で』で知られている、庶民の信仰、そして観光の山です。とりわけ、江戸時代は「一夏十万」とも言われたように、大山への道筋の宿場や休憩所は、大山詣での人でたいへんにぎわいました。
 この大山へ向う道は『大山道』と呼ばれ、大山を中心に網の目のように広がっています。柏尾通り、田村通り、八王子通り、府中通り、羽根尾通り、六本松通り、そして矢倉沢往還などが「大山道」と呼ばれていました。当時の県内の道はすべて大山に通じていた、ともいえます。秦野市内を通る「大山詣で」のための「大山道」は、羽根尾通り、矢倉沢往還、蓑毛通り(富士道)、坂本通りがあります。
「みちしるべの会」は、それらの「大山道」を歩き、秦野の歴史や文化に触れることを目的にします。

◇当面の活動の目標
1 秦野市内を通る大山道の道標の所在地を確認、記録する。
2 市内のある大山道道標を訪ねるウオーキングマップの作成。
3 「まほら秦野・大山道」の案内人を目指す。

◇組 織 
  会 長  横山 信子    
  事務局  浦田江里子  井口 健二  
  講 師  武  勝美
  会員数  16名

◇活 動                       
2007/06/10 準備会
2007/08/26 例会(1) 発足会
予定
2007/10/21  例会(2) 「蓑毛の御師の宿について」       講師 相原豊久氏
2007/12/02  例会(3) 「大山道の話と宿坊・おおすみ山荘見学」 講師 佐藤大住氏
2008/02   例会(4) 「東田原・西田原の大山道を歩く」
2008/04   例会(5) 「名古木・落合の大山道を歩く」
2008/06   例会(6) 「鶴巻・大根地区の大山道を歩く」
2008/08   例会(7) 「本町地区の大山道を歩く」
2008/10   例会(8) 「南地区の大山道を歩く」
2008/12   例会(9) 「北地区の大山道を歩く」
2009/02   例会(10) 「西地区の大山道を歩く」





2007年8月1日更新


  第72話 

 『続寺山ものがたり』
      上梓のエピソード
   



『続寺山ものがたり』上梓のエピソード

・栗畑の草刈に行った帰り、金目原の馬頭観音さんに寄った。94体の石仏が祀られている境内、そしてその周囲はきれいになっていた。昨年までは、栗畑の草刈の後、私が少し手入れをさせてもらっていたことが多かった。だが、今年は境内を中心にその周りがていねいに整美してあった。周囲に生えているイタドリが刈り払われ、一本あるモミジも手入れされ、左右から覆い繁っていたミズキの枝打ちもしてあった。本を読んでくれたAさんがやってくれたに違いない、と思った。
・南地区のRさんが、2時間ほど掛け、歩いてわが家を訪ねてみえた。書中の「屋敷神」を拝観したいのでT家を教えてほしいとのこと。不在だった私に代わって妻が、清水湧水池記念碑まで同道し、T家への道を案内した。
・東中学校1年の「総合の時間」の授業で「東地区の歴史と文化」と「東地区の伝承」について話をした。「本町地区と東地区にある『上宿・下宿』」「波多野城の所在地の確定」は、生徒たちに興味がある内容だったようだ。
・大道長寿会に招かれ「秦野の地名の由来」の話をする。
・「大山道を歩く」講座の参加者に呼びかけ、『まほら秦野道しるべの会』を発足させた。秦野市内の大山道の道標の所在地を確認し、それを訪ねる活動を8月から始める。



『続寺山ものがたり』の読後感 その3

 前著に引き続いての労作ですね。確かな観点、行き届いた調査に感心しました。
 東小学校の水道水源地や東雲小学校の校歌は、小生が東小学校にお世話になっているときの100周年記念誌で承知しており懐かしい思いがしました。ただ『青い目の人形』については全く知りませんでした。礼状のコピーをお持ちとのことですが、入手されたご苦労も話題になると思います。
 世の中が急激に変貌しつつある今、私たちがしなければならないことの一つに、先人から伝えられたこと、残していってくれたこと、自分が経験したことを次代に伝えていくことがあると思います。
 人間関係が希薄になり、自己中心主義が横行する現在、『ニワと講』は再考する必要があると感じました。また四季の移り変わりのあるこの国に住んでいる私たちには、どの家でも『歳時記』を作り、大切にしていきたいものです。年中行事が“ハレ”と“ケ”の生活を作り,リズムのある豊かさを感じさせるのです。
『ブリキサブロウ事件』や『玉川村の佐藤巡査』のお話のように、先祖の誇らしい出来事は語り継いでいかなければならないのです。家を、郷土を愛する心は、それを深く知ることから始まります。ほんとうに良いお仕事をしてくださいました。   藤美






2007年7月1日更新


  第71話 

『続寺山ものがたり』の読後感

                            
  その2
 



 積み重ねられた歴史があって風景がある

 『続寺山ものがたり』の発刊 おめでとうございます。
 8月の暑い陽ざしの中、先生の案内で大山道を歩いて以来、子供との会話の中で、友人とのウオーキングの合間に、勤め先でお客さんへの道案内の際など、折にふれ、先生から学んだ少々の知識(という程度なのです。申し訳ありません!)を披瀝してきました。
 何はなくとも、季節を知らせる自然や風物がこの地の魅力と思っていました。しかし、今は「積み重ねられた歴史があって風景がある」と思うようになっています。
 秦野に住んで間もない頃の冬のある日、色とりどりの丸い飾りをつけた小枝を手に、大人子供が歩く姿を「何だろう」と不思議に思ったのでした。無人販売機の落花生を買い、サヤを割って食べましたが、味のない、硬い歯ざわりに「これは何?」と驚きました。独身時代なんども登った大山は、足慣らしの山に過ぎませんでした。
 今は、地元の人とお付き合いから、秦野弁もこなし、同年代のお母さんに、背負子で落ち葉を運んだ子供時代があったことを知り、大山が由緒ある信仰の山であったことも知っています。派手さはなくても、確実に時代の流れを受け継いできた人々や地域の姿がここにある、という思いを、誇らしとも畏敬の念ともいえそうな感覚と共にに持つようになりました。
 秦野に住んで15年。秦野についていろいろなことを感じ、分かるにつれ、私が育った地との違いがたくさんあることが見えてきています。昔から当たり前に営んできた生活の中では、気づかずに過ぎていくことか多いのは当然かもしれません。でも、それらの中にはとても貴重で、守り続けなければいけない大切なものがあるはずです。そんな話を集めた『寺山ものがたり』『続寺山ものがたり』には、先生のそうした一途な思いが詰まっているように思えました。
 子どもが成長し、季節の行事に頓着しなくなったこのごろです。振り返ると、子どもごころに思い出すのは、お祭りのハッカの味、お月見のために切りにいったススキ、お節句に囲んだ食卓、お正月準備をする母の後姿など。親として、古くから脈々と続いてきた慣わしは子供達に引き継がなければいけないという思いが強くなっています。それは、私の親の姿から、自然に植え付けられた感覚のようです。でも、合理的過ぎる今の社会生活の中で、思いはあっても、私を含めどれほどの親がそれを実践できるのでしょうか。悲しいことですが、“未来の親”に思いは引き継がれそうもありません。
 お隣の奥さんとこんな話をしたら、「私もそう思う。とりあえず七夕には笹をとってきた子どもと一緒に飾りを作ってみようかな」と彼女。「それはいいわね」と、私は答えたのでした。  里江子

 
   
 郷愁  共感

 武さんと地域が違いますが、ほんとうに懐かしく読ませていただきました。ケイドウ、ドウノメイ、堀の内、竹の内などという屋号(通称)などは私の地区にもあります。寺山と変わらない年中行事、昔の人は自然を神とし、それを生活の中にじょうずに取り入れていたような気がします。自然と共に生きることを当然としていた私たちの子どもの頃と比べるとき、今の生活が地球温暖化の危機をもたらすことは必然かもしれません。この本は、私と同時代の人たちにも共感を与えると思います。  直吉


 幼ない頃、寺山の母の生家に泊まり、近くを遊びまわったので、とても親近感と郷愁を抱いて読ませていただきました。退職後の生き方がいろいろと話題になっている今ですが、地域の文化を掘り起こし、地域の人たちを結びつけ、さらに伝承していこうとする武さんの姿勢は素敵です。  清







2007年6月1日更新


  第70話 

『続寺山ものがたり』の読後感

 



 巻頭の内容は、まさにわが意を得た思い

 過日は『続寺山ものがたり』を有難うございました。前刊の引き続きで是非拝読したいと願っていたところで本当に有難うございました。超多忙の中で丹念に精査し、追究された成果は貴重な証言として永く尊重されるものと確信しました。同じ村の出身ですから、伝承はほとんど一致しますが、東地区の中心としての寺山といわゆるはずれの落合では色合いの違いもあるようです。先生の感性に比べ私の印象、伝承能力の弱さは否めませんが、寺山の故事来歴の濃密さは確かに違うようです。
 話は飛びますが、巻頭の内容にはすっかり魅了されました。かねがね”家庭教育より家庭生活(家庭文化)が大切”といい続けてきましたが、まさにわが意を得た思いです。国の教育再生会議のお偉方が懇切な提言をまとめられた―実際には没―ということですが、社会の構造、教育をとりまく問題など大きな視点を持って欲しいと感じます。妄言多謝。   恒雄



 エコーと「続寺山ものがたり」を送っていただき大感激しています。エコーは隔月になっても、出し続けていただけると嬉しいですが。つながっているっていいです。」「寺山ものがたり」、進行形で読んでます。ヒトガタは私の郷里でも夏に向かってやっていました。民話でもなく、でも語りつたえていきたい行事。私達、大人がやらなければならない仕事はまさに「寺山ものがたり」です。私も今少しずつマツダのこと、郷里のことを聞ける人が元気なうちに聞いておこうと行動開始したところです。よろしくお願いします。  まり子



 「続・寺山ものがたり」は武さんにとって、秦野市制50周年の記念としても、お母様へのご供養としても、これ以上のものはありませんね。表紙の写真が、また素晴らしい。あの情景を胸に描きながら、読ませていただいております。「エコー」が隔月刊になるとのこと、毎月楽しみにしている一読者として、残念ですが、武さんのお言葉に、納得。ゆっくり、じっくり「動き、語って」いただければと願っています。    勝好



 故郷を捨てた人間には絶対書けない本。日本のどこかにひっそり生きている神様、仏様の物語。武さんは幸せです。   健次郎



 武さんをとおして知った秦野(寺山)がふるさとのうに思われてきました。   令子

『続寺山ものがたり』 秦野市内 ・カネマス書店 ・本のフアーストでお求めになれます



内容の紹介(目次から)
平和の使者・青い目の人形
尋常高等東雲小学校の校歌
波多野城ってあったの?
もう一つの円通寺
頑固なリキさん
愛甲郡玉川村物語 など





2007年4月1日更新


  第69話 

  難解な地名
  
     「象ケ谷戸」 「いより
 


東田原・象ケ谷戸

 金目川を挟んで、寺山の対岸に東田原・象ケ谷戸(ゾウゲート)と呼ばれる地区がある。地名に「象」という文字を用いている地は全国でも数カ所に過ぎない。奈良・吉野町に「象谷」という地名があるが、読み方は「キサタニ」。
 「象」をキサと読むのは万葉時代から。象牙にギザギザの模様があるから、ギザギザのようすを「象」という文字で表した。階段を「キザハシ」とも言うが、地形用語の「キザ・キサ」は、段丘・侵食地・削り取られたところを示す言葉」。象ケ谷戸の地形を見ると、「キサ(キザ)ガヤト」だが、やがて識字率が上がり「象」が「ゾウ」と読まれるようになったのではないか。



イヨリ越え

 大山道の坂本道は、寺山・横畑ケの集落を抜け「イヨリ越え」をして坂本宿に入る。イヨリ越えとは「イヨリというところを越える」こと。「イヨリ」に当たる漢字、意味は不明。
古語に「イホリ」がある。イホリ=雲、かすみなどがもやもやとたち込めるところ。祝詞・大祓詞に「高山のいほり、短山のいほり 發(か)き別けて」とある。イヨリはイホリの転訛と考えたいが。







2007年3月1日更新


  第68話 

  「大山道《富士道》を歩く」
  
     水のものがたり
 


参加者募集 問い合わせ東公民館0463-82-3232


  ふるさと秦野の景観「大山道《富士道》を歩く」4月1日(半日日程)
 第2回 水のものがたり・東田原地区の水神さま巡り
                 
 オリエンテーション9:00〜
 研修コース
 1 庚申搭              上原 金山 関口 大口
 2 道祖神・道標(左側に)大山道 (正面に)道祖神 いせ原
 3 水神石祠と横掘り井戸 大津家 
 4 朝日神社と八幡宮
 5 浅間大神石祠(朝日神社境内)   中道講社中
 6 地神塔(朝日神社境内)      堂切 関口 金山 上原
 7 水神碑と横掘り井戸        大津4軒組
 8 水神碑3基 中庭取水場
 9 庚申搭・道標(右大山 左ふし道)  田中 道切
 10 大聖山金剛寺
 11 地神塔 東大山道
 12 実朝公御首塚
 13 ふるさと公園





2007年2月1日更新


  第67話 

  寺山物語 第53回

  
     寺山の路傍の神仏 (下)
 


7 水 神
 この調査の時点では寺山には2基あった。一つは西の久保の水田の脇に立つ「水波之賣神」碑。大正8年(1919)その年の水飢饉のために、田んぼの所有者が横堀り井戸を掘り、祀った。他の1基は寺山477にあった水神石祠。この水神は清水湧水池のために祀られていたが、その後の開発により“行き方知らず”になってしまった。どこかの地で新たな水の神になっていることを願うばかりである。


8 金精神(こんせいじん)
子宝や安産の神で男根の形に工作したものと自然石の石棒とがある。寺山では武敏明家の屋敷神として男根のものが祀られている。壊され石棒状となったものも寺山地区内でいくつか見られる。市内では今泉のマラセの神が有名。


9 浅間講碑
 浅間講は冨士山信仰の講のこと。「浅間大神」の塔碑が鹿島神社の境内にある。明治15年(1882)に建てられた。「当所丸滝・浅社中」とあり、この地に浅間講があったことを表している。


10 徳本念仏塔
 宝作入り口(寺山419)に立つ。正面に「南無阿弥陀仏」と徳本の花押がある。徳本上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者。徳本上人の書かれた「南無阿弥陀仏」の文字は丸みをおび、終筆がはねあがり、縁起が良いといわれ、徳本文字と呼ばれている。


11 清水湧水池跡記念碑
 平成16年(2004)7月に清水自治会によって建立された寺山でもっとも新しい碑。
碑の裏に建立の理由が次のように記されている。
「先人たちの命の泉であった湧水『清水』は、この地に埋もれたが、東小学校・東中学校の校歌として『清水ヶ丘』の『希望の泉』と、子どもたちに歌い継がれる」 バス停「東中学校前」脇にある。


12 波多野城址碑
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて成長した領主、波多野氏の居館として古くから言い伝えられてきた波多野城の址。それを記す碑が大正8年(1919)、東中学校の校庭の西側の台地に建立された。


13 地 蔵
 寺山にも都市化の波は容赦なく押し寄せ、記録にはあるが現実に姿を消した石碑もいくつかある。たとえば宝ケ谷戸入り口(寺山485)には、路傍に置かれるには珍しい丸彫りの座った地蔵さん(身の丈40センチ)が居られたが、今はその姿は見られない。






    ※第2回 「富士道を歩く・東田原の民俗」 4月1日
               第3回 「蓑毛道を歩く・坂本宿の御師の家を訪ねて」 11月下旬








2007年1月1日更新


  第66話 

  寺山物語 第52回

  
     寺山の路傍の神仏 (上)
 


石くれにちかき仏にいちょう散り誰も払わぬほほえみ二つ  三枝昴之

今もひっそりと道路脇に立つ道祖神や庚申塔などと彫られた石碑は、遠い昔からその地に住む人たちにとって大切な神様であり仏様であった。秦野市にはそうした神仏が2548基あると報告されている。(『秦野の石仏』・秦野市教育委員会刊・平成8年)
 地区別にみると、東地区560基 南388 西387 本町370 北318 大根315 上210、となっており東地区が突出している。東地区では、寺山171基 西田原113 名古木85 蓑毛72 東田原58 落合37 小蓑毛24と報告されている。これらは碑文だけの文字塔、神や仏の浮き彫り、丸彫りの3種類に大別できる。ここでは、寺山の路傍の神仏を訪ねてみたい。


1 馬頭観音
 馬頭観音は牛馬の供養塔。寺山では95基が金目川橋脇に祀られている。明治以降に祀られたものが多く、最古は櫛板型で弘化2年(1845)、寺山1029番地に祀られている。牛頭馬頭観音は2基あり、その1基は昭和20年(1945)秋に寺山念仏講によって建立されている(金目川橋脇)。 
(1)馬頭観音から往時の地名を探ることができる
  金目川橋脇の馬頭観音群の中に、安政5年(1858)に建立された舟型馬頭観音像がある。建立者は「寺山村 角ケ谷戸西 清水 二ツ澤 竹之内 久保」となっている。同じ地に櫛板型のものもあり、そこには「宝作 坊ケ谷 庭中」とある。こちらは建立年不明。円通寺境内に舟型の馬頭観音像が一基祀られていて、それには「法作 棒垣外」とある。「坊ケ谷」「棒垣外」は現在の宝ケ谷戸、「法作」は宝作である。
(2)馬頭観音から分かる寺山の住人
馬頭観音には施主(祀った人)の名前が記されている。次は寺山地内の馬頭観音に記されている人名である。(姓のみは省いた)
寺山の人
遠藤愛治郎・光枝 遠藤庄吉 遠藤徳次郎 遠藤俊夫 桐生松太郎 桐生弥太郎 久保田利助 小泉三郎 小泉忠司 小泉春吉 小泉洋司 鈴木夏造 関廣蔵 武鎌太郎      武憲冶 武熊太郎 武善右ヱ門 武周造 武鉄蔵 武彦次郎 武政士 武蓑之助      武茂市 古谷嘉左ヱ門 古谷和夫 古谷俊 古谷清兵ヱ 古谷徳太郎 古谷弥栄 前兼吉 松木貞夫 水野富雄 山口伊勢吉
他地区の人
青木仙司 青木峯雄 大津猛 大津芳雄 小澤幾蔵 小澤春吉 小澤山吉 小澤義雄  片倉卯三郎 小泉国三郎 佐藤初司 関野一雄 関野カツ 関喜三郎 関野松次 高橋信太郎 須山平吉 泉谷鉄之助 吉川市造 横溝貞忠 横溝忠次 横溝米吉


2 道祖神(「 」は碑文)
・宝 作   櫛型「道祖神・昭和37年再建」(寺山419)
・宝ケ谷戸  自然石「道祖」(寺山485)
・清 水  自然石「久奈斗大神」・明治16年(1883) (寺山495)
・二つ沢 竹の内  舟型「奉造立道祖神」・宝暦11年(1761)(寺山711)中丸橋脇
・角ケ谷戸  自然石「道祖神」(寺山1029)
・久 保   自然石「道祖神」(寺山667)
・横 畑  舟型双体像(小蓑毛233)
清水の道祖神「久奈斗大神(久那斗大神が一般的である)」は塞の神(せえのかみ)で、奈良・平安初期に京都でおこなわれた道饗祭りの祭神である。2月と12月に京都四隅の入口の道に食べ物を置き妖怪に食べさせ、市内に入るのを防ぐのがこの祭り。


3 庚申搭
 寺山には青面金剛像・三猿のものが5、文字塔が3ある。現存する寺山最古の石碑は、宝作の入り口(寺山419)に立つ「三界萬霊庚申塔」で、庚申塔の特徴である三猿の顔が地上ぎりぎりのところに見える。延宝元年(1673)に建立された。


4 巳待塔
 「おひまち」という言葉もずっと昔のものになってしまった。「己巳の日」に集り福富を願って弁財天の精進するのが巳待講。これもの「おひまち」の一種。寺山では、鹿島講、稲荷講、天神講、山の講、地神講、古峯講などがおこなわれていた。
上記の調査報告書によれば秦野市内に巳待塔はない。財弁天さんの像が巳待塔の特徴。武敏明家に祀られているのは舟型弁天像。武さん宅に巳待塔があることが分かったのは、清水湧水池跡の記念碑を建立した平成16年(2004)である。


5 地神塔
・地 神 久保(寺山667) 安永10年(1781)
・天社神 宝ケ谷戸入り口(寺山485)  寛政11年(1799)
・天社神 鹿島神社境内 享和2年(1802)この3基が市内最古の1〜3。


6 大山道道標
大山道の坂本道と蓑毛道が通る寺山だが、その道標は1基だけ。藤棚バス停の脇にある。(『寺山ものがたり』の表紙参照)
正確には寺山地内ではないが、横畑(小蓑毛235東)にある「大山道標不動尊」は寺山村と蓑毛村が文政3年(1820)年に建てたもの。この道標についてのエピソードは『寺山ものがたり』の「はじめ」に書いた。


 秦野のおはなし 最新版 2014年 以降 はこちらへ
 秦野のおはなし 2010〜2013年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2007〜2009年 掲載分はこちらへ
 秦野のおはなし 2004〜2006年 掲載分はこちらへ





〜 武勝美の教育個人紙 ECHO 〜