秦野夜話  「秦野のおはなし」
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〜神奈川県秦野市にまつわる歴史、民俗の話〜

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2006年11月1日更新


  第65話 

  寺山物語 第51回

  
     平和の使者・青い目の人形
 


このような人形が贈られてきたようです


1923(大正12)年 関東大震災
1924(大正13)年 アメリカ移民法で日本からの移民を禁止。
1927(昭和2)年 ジュネーブ軍縮会議決裂
1929(昭和4)年 世界大恐慌
1937(昭和12)年 盧溝橋事件から日中戦争
1939(昭和14)年 第二次世界大戦
1941(昭和16)年 太平洋戦争

 昭和2(1927)年。日本の国債発行高は予算の2.5倍。「大学は出たけれど」という言葉が流行った。日本は、日中戦争から太平洋戦争に突入した。

 1927(昭和2)年、日本をたびたび訪問していた親日家で宣教師のギューイック博士は、日本とアメリカの間は嫌悪な雰囲気を心配した。それで「世界の平和は子供から」を提唱し、『平和の使者』として青い目の人形を全米各地の協力を得て約12700体を集めた。集められた人形は、三月のひな祭りにあわせ、日本の幼稚園、小学校にプレゼントされた。人形には、パスポート、ビザ、片道の汽車の切符、そして手紙が添えられていたという。
 訪れてきた平和の使者・青い目の人形の答礼として、日本から58体の市松人形がクリスマスに間に合うようにアメリカに旅立っていった。オレゴン州に送られた神奈川からの人形「ミス神奈川」は“神奈子”という愛称だった。この神奈子には県下の学校からの63通のお礼の手紙が添えられた。その手紙の一通が神奈川県中郡東秦野尋常高等小学校(現・秦野市立東小学校)生徒一同からである。ちなみに、近隣では中郡大磯尋常高等小学校(現・大磯町立大磯小学校)が返礼の手紙を書いている。

 アメリカのお子供様方へ

 親愛なる米国の兄弟姉妹達よ。
 此の間私達は一同校庭に整列して、あなた方から贈って下すったお人形を迎へました。其の時校長先生は壇の上に立って、次のようなお話をなさいました。
「想ひ起すは今から七十年ばかり前―高等科の生徒は知って居るだらう―アメリカからペルリといふ人が初めて我国へ来て『お互に仲よく交際しやうではないか。』と言ひましたので、それからはお互に親密に交際して、我国も大に進歩発達して世界の一等国と数へられるやうになりました。我々は決して此の事は忘れる事は出来ません。今度其のアメリカから小さいペルリが本校に参りましたから、皆様はお互に愛して仲よくしなければなりません。」
斯ふおっしゃって其のお人形を抱き上げられると、全校生徒八百五十人によく聞えるやうな大きな声で『ハロー』と言ひました。
其の時私達は「マア何と可愛いい子ではありませんか。」と叫びました。さうして一人一人彼の子を抱き上げた時は思はず紅い頬と頬とをすり合わせずには居られませんでした。
 今度私達はあなた方が一年中で一ばん楽しく思はるるクリスマスのお祝に小さな妹に立派な着物を着せ、美しい帯をしめさせてあなたのお国へ贈ります。毎年サンタクローズのお爺さんがあなた方に贈るものよりモットモット皆様を喜ばせる事と思ひます。彼の女は着物や履物だけが立派なのではありません。私達と同じように愛のこもれるこころを持って居るのでありますから、何時までも妹と思って可愛がって下さいませ。
 尚あなた方と私たちはお互に愛と愛との心もて堅く堅く手を握り何時までも清き交際をいたしませう。
私達が愛するペルリの国の兄弟姉妹よ。左様なら。

 神奈川県中郡東秦野尋常高等小学校生徒一同
 昭和二年十月二十一日

アメリカのお子供様方へ

 
 巻紙に毛筆で書かれたこの礼状の文面から、アメリカという外国との交流に高揚する教師や子供たちの心を強く感じる。
 
 贈られてきた人形について情報を求めた。残念ながら人形そのものは存在しない。1927(昭和2)年に高等科2年の生徒は現在94歳、数人に手紙にある歓迎式のことを尋ねたが記憶にはなかった。当時の習字の先生は久保田喜之助先生ということは分かった。 大津勝義さん(1929年生まれ)から「そういえば校長室でそんな人形を見た気がする」が唯一の情報だった。


 ※この項は「答礼の手紙の差出人」について横浜人形の家より調査を依頼されたまとめである。




2006年11月1日更新


  第64話 

  寺山物語 第50回

  
  続東秦野国民学校の水道水源地跡
 






 ボランティアの力で陽の目を見た「東秦野国民学校の水道水源地跡」

 環境省の「里地里山再生」の事業のモデル市になった秦野。その秦野での活動の一つとして寺山・大仙寺地区の竹林の整備が10月21日(土)行なわれた。
 この竹林の中に「東秦野国民学校の水道水源地跡」として横堀井戸が残っている。この水源地跡は秦野の貴重な文化財と思っているので、このホームページ(『秦野のおはなし』第49話参照)や「大山道・寺山の里ウオーク」、「市民が作る広報はだの」などで意識的に紹介してきた。その地が、昨日の作業でまさに陽の目を浴びることができた。
 作業に参加したのは秦野市森林づくり課が募集したボランテイア41名、熟年の男性が中心で女性は4名。地主のNさん、Kさん、も東中学校からは生徒と先生が35名など、総数80数名。作業に入る前に、この横堀り井戸の由緒について少し説明をさせてもらった。
 9時半から午後2時半まで、作業の内容は倒れている枯れ竹や密生しすぎている竹を伐採し、外に運び出すこと。中学生が運び出した青竹は数百本におよんだ。地元・寺山の人たちの参加はわずかだったは残念だった。名古木の里山保存会の人たちの作業ぶりは「熟練の技」で、ただ見入るばかりだった。東京から参加の「里地ネットワーク」の二人の女性もまた元気。ヤブにもぐり込み休むことなく竹を切り出す。誰もが黙々と作業を続けた。
 
 竹林の本来の状態は「傘を差して歩けるくらい」でなければいけないのだそうだが、その竹薮は人一人が横にならなければ入れないほどの「ヤブ」だった。作業が終わり、すっかり竹林に変わった景色を眺めながら、「これじゃあ番傘でも歩ける」とKさんが言った。全く見えなかったこの井戸の記念碑が、竹林の入口から見えるほどになった。
 この地をモデル地区にと話を進めてくれたのは同級生の加藤さんで、今日の作業の責任者。同級生の室田さんも来てくれた。来年の春、第2回の整備作業が行なわれる予定で、そのときはこの竹林から採れる竹の子を食べる会もこで開かれる。それを楽しみに待つことにして解散。
 野良で握り飯を食べたのは何十年ぶりだろう。炊き出しのトン汁もうまかった。疲れたが充実した一日が過ごせた。


 整理された水源地の周辺(左)    記念碑と水神祠も陽の目を見た

2006年10月1日更新



  第63話 

  
わがまち秦野 四季つれづれ


                     
浦田江里子
 

  第49回全国新聞教育研究大会・神奈川秦野大会 大会速報『湧水』より転載


 秦野の風景画

 「山笑う」という春の季語は、誰がつくったのだろうか。緑の濃淡が描く丹沢、その山並みに抱かれる丘陵、斜面に広がる畑地の色、盆地にはそこに馴染む人々の暮らし。
 弘法山、頭高山など気軽なハイキングコースから望む春の丹沢は、霞んだ空の中、やわらかな表情を見せている。都心からも日帰り圏内、山岳の味わいも楽しめるとあって、四季を通じて年間四十万人の登山者が丹沢山系を訪れる。その象徴、美しい三角錐の山容を誇る大山は、江戸時代、信仰の山として、多くの修験者が目指す聖地であった。各地から大山へ向かう参道は「大山道(おおやまみち)」と呼ばれたが、数ある大山道の中、道案内、布教、宿屋も兼ねた御師(おし)の家や古い道標が当時のまま残る秦野古道の趣は、今も人々を惹きつけるのだ。
 麓には菜の花、桜漬けの伝統を継ぐ八重桜。散歩道を歩けば、つくし、のびる、こごみ、たらの芽、草イチゴ。風も、鳥も、空気も、息づく暮らしも、四角いフレームに一緒におさめれば、伸びやかでたおやかな秦野の風景画となる。

 秦野といえば落花生。秦野市民ならおなじみの「ゆで落花生」は産地ならではの味。全国で7割のシェアを誇る桜漬け、花類(カーネーション、バラ)、茶、くだもの(いちご)、地場産の粉で作ったそば・うどん・ラーメン、酒、牛乳(酪農)、アイスクリームなど、規模は大小あれど特産物は彩り豊かである。




 「天然の水がめ」と名水のはなし

 山からの地下水は、幾すじにも分かれ、家々の脇を通り、田んぼに注ぐ。用水路の水は冷たく透きとおり、ごぼごぼと勢いよく流れる。子どもたちが足を浸し、歓声をあげる。水しぶきが光る。採りたての野菜が浸してあったりする。涼しげな夏の光景である。
 全国名水百選に指定されている秦野は、豊富な湧水量の恩恵を受け、水道水の七十ニパーセントを地下水でまかなっている。市内には六十四の取水場があり、深い所では地下百メートル以上の地点から水を汲み上げる。長い間かけて地面にしみこんだ雨水は、秦野盆地の下に積もった砂礫層などでろ過され、おいしい、きれいな水となる。地下に蓄えられた水の量は芦ノ湖の一・五倍(約三億トン)といわれ、いわば「天然の水がめ」構造となっている。
 そばやうどんを茄でても、お茶やコーヒーをいれても、一味違う秦野の水。おいしい水を求めて、都心から訪れる人も少なくない。この地を離れて初めて水の違いを実感した、とはよく耳にする話である。

 秦野盆地湧水群の中、一日平均二千五百トンの湧水量を誇る今泉湧水池を活用して整備されたのが「今泉名水桜公園」。市制五十周年記念事業の一つとして、名水の里にふさわしい秦野の新名所となった。その他、弘法の清水、護摩屋敷の水、竜神の泉、葛菓の泉、若竹の泉など、丹沢山麓には多くの湧水スポットがある。




 たばこと共に生きた証し

 九月の第四日曜日、今年も権現山から華やかな打ち上げ花火があがる。職場の窓から、自宅の二階から、高台の公園から、多くの秦野市民が同じ空を見上げる。秦野市の一大イベント、たばこ祭りのフィナーレである。
 江戸時代からたばこ栽培で栄えた秦野。始まりは富士山噴火による降灰で不毛の地と化した耕地であった。この土壌がたばこ栽培に適し、その地に日本のたばこ栽培の革新を目指す熱心な研究者と、それに応えて黙々と努力を続ける多くの農家があった。「秦野たばこは技術で作る」と後に言われ、日本三大銘葉と評されるまでになった理由であろう。だか昭和五十九年、三百三十年続いた秦野のたばこ栽培は長い歴史に幕を引く。任された大きな役割を果たした、というように。
 「たばこ」を冠した祭りの名は、この地に縁のなかった私には、あまりに直接的で違和感を覚えたものだが、たばこと共に生き、発展してきた秦野にとっては、その歴史を後世に伝え、市民の心に愛着を持って残していくものとして、これほど見合った名前はなかったのだ、と思えるのである。

 秦野には祭が多い。桜まつり(水無川沿いに浮かび上がる桜のライトアップは幻想的)、鶴巻温泉まつり(日本有数のカルシウム含有量を誇る温泉、弘法の里湯は市営の日帰り温泉)、丹沢まつり(メインは山開き式と集中登山)、まほろば盆まつり、瓜生野百八松明、実朝まつり(次号参照)、異色は丹沢ポッカ駅伝競走大会(規定の重量の小石を背負って山をかけ上る)など市民参加も盛ん。




 ふるさとへの思いは深く
                          

 秦野のルーツをたどる時、忘れてならないのが源家三代将軍実朝である。歌人としても知られた実朝は、一二一九年、鎌倉で非業の死をとげ、その首は源氏の武将・武常晴によって密かに秦野に運ばれ葬られたという。「源実朝公御首塚(みしるしづか)」は、山々を見渡すのどかな里に、文武に秀でた将軍らしく質実なたたずまいで、七百年を経た今も、無念の実朝を偲ぶ人々を静かに迎え続ける。
毎年十一月に行われる実朝まつりは、地域に根ざした祭りながら市内外へ評半りも広がり、市制五十周年の昨年には勇壮な流鏑馬が披露され、一万五千人の観客をその迫力で魅了した。
 秦野の人を語れば、短歌界に自然主義の風を吹き込んだ前田夕暮、国文学者で歌人の谷鼎、光と影の華麗な画風を確立した宮永岳彦など、その背景には土地柄のあたたかさが垣間見られるように思う。ふるさとを離れて、なお断ち難いふるさとへの郷愁と愛惜の念。著名な文化人と並ぶのはおこがましいが、私もまた、山と水と歴史ある秦野への思いが、年を重ねるにつれ、深く強く心に絡み込んでいく気がしてならない。

 秦野の天然記念物は、鶴巻の大ケヤキ、南小学校の桜、白山神社の杉など人々の暮らしを見守り続けた大樹。重要文化財には大日如来坐像(蓑毛・宝蓮寺)、十一面観音菩薩像(鶴巻・極楽寺・寺山・円通寺)、阿弥陀如来坐像(西田原・金蔵院)など。桜土手古墳公園の古墳群は七世紀頃のもので県下でも貴重な遺跡のひとつである。


ご案内
 文化講演会
          主催 秦野歴史おこしの会
  演題「寺山ものがたり」
             講師  武 勝美
  日時  10月7日(土)13時30分より
  会場  秦野市本町公民館

        ※パワーポイントを使います
   


2006年7月1日更新


  第62話 

  
   秦野の歴史の落穂拾い
 


 
 波多野二郎義通の心

 237号の4ページに「読んでくださったからこそ」という見出しで『市民が作る広報はだの』の内容・記事について、「『波多野義通は平治の乱に加わらなかった』と記述しているが『秦野市史』には『参戦した』とある」、と市民から指摘があったことを紹介しました。このことについては、私にも「参戦しなかった」とした論拠を知りたいという電話がありました。ここで編集委員会が拠りどころにした一文を紹介します。

湯山 学著『波多野氏と波多野庄』・夢工房
 23ページ
  『保元物語』では源為朝に劣らぬ記述の量をもっていた波多野義通であったが、『平治物語』では単に軍勢の一人として名が記されているのみで、同物語からその人物像をうかがうことはできない。そればかりでない。『平治物語』の諸本のうちで、義通の名をあげいるのは金刀比羅本のみである。古態本に属する『平治物語』には義通の名はない。
  義通は平治の乱に参加しなかったのではないかとの説がある。それは保元の乱後に義通は義朝と不和になり、京都から相模国波多野へ帰ってしまった。その義通が義朝にしたがって平治の乱に加わるわけがないとする。一方、金刀比羅本によって義通がこの乱に参加したとみると、それは義朝の次男朝長にしたがったからで、直接に義朝のもとに義通は加わったのではないとの解釈がなされている。(なお、同書20pには平治の乱に参加した東国の武士として「波多野二郎義通」の名が挙げられている)
 
 私たちが「参戦しなかった」説に依って『歴史ろまん波多野氏物語』を書いたのは、主君の弟四人の命を奪えと、主君から命じられた義通の心の中「いかに乱世、戦とはいへ」に、強く思いを馳せたからでした。「歴史とは本来わからないもの」といわれています。それゆえ「歴史はロマン」ともいわれます。一人ひとりが、それぞれに読み解き、「拾った歴史の落穂」から思いをめぐらせ、自分なりの歴史を編み上げるのは楽しい作業と言えます。






2006年6月5日更新


  第61話 

  寺山物語 第49回

 
  秦野の景観100選
―寺山編―
 










2006年5月1日更新


  第60話 

  寺山物語 第48回

 
  秦野の景観100選
―寺山編―
 


 市制施行50周年の記念事業の一つに『ふるさと秦野景観100選』があった。 『寺山ものがたり』を上梓したことで、『寺山ものがたりを歩く』が東公民館の事業や自治会の行事になり、案内役を数回した。それが縁で、景観選定実行委員、そして選考委員まで務めさせてもらった。昨年の11月3日「市民の日」に、その100選は発表されたが、16万市民にそれが知れ渡ったとは思えなかった。
 この事業は、主管のまちづくり推進課が冊子を発行することで終わることになっていた。その冊子がこのほど私のところも届いた。 
 《冊子》と思っていたが、なんとA4判で140ページほどの豪華な写真集になっている。ページを繰っていきながら、秦野の自然、歴史、文化、風土の豊かさをあらためて確認した。秦野に生まれ住んでよかった、と心から思う。ほんのタイトルは『ふるさと秦野景観100選』となっているが、実際には「99選」で終わって、最後の1ページには「あなたの心に残る景観を加えて100選を完成させてください」とある。こんな仕事をさせてもらえた幸運に感謝したい。私は、どの景観で100選を完成させるのだろうか。先ずは99景に足を運ぼう、元気なうちに。









 細い道でも復活すれば
                                       相原 昭枝

 例年だと、孫たちと小千谷の別宅で雪遊びを楽しんでいるはずなのに、この冬は記録的な積雪です。かやぶき屋根の頂上付近まで雪に埋もれ、素人の私たちには手のつけようがありません。それで専門業者に見回りを頼んでいる始末です。三月末でも駐車場が確保できていません。そのため、先日十年ぶりくらいでしょうか、運動公園で桜を楽しみました。花冷えの日でしたが、孫たちは思い思いの遊びができ、喜んでいました。
 1月15日の『市民が作る広報はだの』の「沓掛」方面の記事、懐かしく、うれしく読ませていただきました。私の実家は、元は千村の『下庭』だったそうですが、矢倉沢往還が人の行き来でにぎやかということで、現在の『茶屋庭』に出たと聞いています。兄や近所の子たちと大久保道を通り、沓掛から四十八瀬川を渡り、神山の滝にある洞窟探検や、その下流の川音川での水遊びなどしたことをおぼえています。50年ほど前は川音地区や沓掛に集落がありました。大久保道や沓掛道は古い地図には国道として記されているそうですね。私の子どもの頃は、地区の人たちが、年に一度《道造り》をしていました。その道が「道と判らないほど荒れてしまっている」と書いてありますね。これも世の移り変わり、仕方ないことなのでしょうか。『広報』で書いてくださったことで、市民が関心を持って、歩いてくれれば、細くても道が復活するかもしれません。先生、良い記事を書いてくださいました。ありがとうございました。




 「天声人語」(3/13) 平成の大合併 誕生した話題の市名を綴ってみたら

 春めく風に誘われて、ふらりと旅に出たくなった▼南アルプス(山梨)の、みどり(群馬)が芽吹くころ、つがる(青森)平野に、さくら(栃木)は咲くだろうか。ハイキングなら、妙高(新潟)、安曇野(長野)、八幡平(岩手)あたりが楽しそう▼川くだりもいい。千曲(長野)、阿賀野(新潟)、四万十(高知)や紀の川(和歌山)、吉野川(徳島)の清流を堪能したい。島めぐりは淡路(兵庫)、佐渡(新潟)から江田島(広島)、長崎県の壱岐、対馬、五島を回り、天草(熊本)、奄美(鹿児島)、宮古島(沖縄)にも足を延ばそうか▼くつろぐには、やっぱり温泉でしょう。下呂(岐阜)、あわら(福井)、那須塩原(栃木)に行こうか、九州の雲仙(長崎)、嬉野(佐賀)にしようか。お湯につかって夜空を見あげれば、北斗(北海道)の星々が輝いているかもしれない▼瀬戸内(岡山)で水遊びをして、阿波(徳島)で踊りあかすのも愉快だな。伊賀(三重)と甲賀(滋賀)の忍者の里ツアーは、子どもが大喜びしそう。▼おいしいものが食べたくなったら、さぬき(香川)うどんも、魚沼(新潟)産のコシヒカリもある▼いわゆる平成の大合併が、今春で一段落する。3月末までの5年で、市は100ほど増える。この間に誕生した新しい市の名前を並べただけでも、ちょっとした行楽気分に浸れる。でも、本当に出かける時には地図を持ち歩こう。伊達は北海道と福島にあり、山県は山形でなく岐阜にある。匝瑳(そうさ・千葉)や宍粟(しそう・兵庫)なんて読みにくい名前も多いのだから。         









  第59話 

  寺山物語 第47回

 
  秦野の景観100選
―寺山編―
 



「秦野の景観100選」の刊行を伝える神奈川新聞




「秦野の景観100選」の表紙



秦野市寺山清水の湧水池跡も選ばれる▼










  第58話 

  寺山物語 第46回

 
  家庭や地域は
   子どもたちに心のありようを

   
   
―お正月の行事に思う―

 


 「一夜(いちや)飾りはいけない」「九日(くんち)餅はだめだよ」。お正月の準備をする中で、毎年そう言い聞かされてきた。だから、のし餅と鏡餅は三十日に配達してもらった。餅屋さんも心得ていて、その日の配達を条件に注文を受けている。わが家で、臼と杵を使わなくなってもう18年である。
 三十日の私の一日は“松飾り”と掃除で暮れる。父の時代、注連飾りは全て自家製だった。タコーチ山の尾根に生える松の枝を使っていた松飾も18年前にやめた。わが家のお正月行事にこの二つの変化が生じたのは父が亡くなつてからである。
 「一文飾り」と呼ばれる輪飾りを、神棚、仏壇、ガステーブル、水道、風呂、トイレ、物置、車庫など二十カ所に飾る。墓所にもお正月が来るようにお飾りをする。お墓からの帰り、鹿嶋神社の裏の延沢川に厄払いの「ひとがた」を流す。まさにアニミズムの世界である。
 年越しの夜は、家の中の六カ所の神仏に燈明を灯し、お神酒と年越し蕎麦を供える。午前零時を過ぎると氏神である鹿嶋神社と菩提寺の円通寺に初詣でにでかける。
 元日の午前6時、「開きの方(今年は丙の方向・南南東)」である玄関を開ける。そして燈明と雑煮とを前夜と同じ神仏えるのが年男(私)の勤めである。大歳神に供える雑煮に今年は二膳(干支の「卯」が今年は二日なので−理由は不明・母がそう言うので)の箸が添えられる。朝食の後、神棚、仏壇、床の間の三カ所に鏡餅を供える。三が日の神様の夕食は炊きたてのご飯になる。毎日“お冷”ができるがそれは仕方のないこと。
 午前中に、厚木にある飯山観音に初詣でに行く。ここには妻の両親が眠っている。

  私や家族がとりたてて神道や仏教の信仰に熱心であるとは思っていない。イギリスにクリスマスカードを送ったりもしている。いわれるような“多神教”の信者かもしれない。イダヤベンダソンが「日本人の宗教は“日本教”というべきもの」と書いている。年末から年始にかけての私は“日本教”、とりわけ“民俗宗教”の熱心な信者といえるだろう。   
 私たち日本人は、その感覚や心情を、家族や地域社会の年中行事や通過儀礼を通して、次の世代に引き継ぎ伝えたいてきた。例えば、歳の市で昨年より一回り大きい福だるまを求めるのは、新しい一年への期待や決意の表れと同時に、家運の継続・発展を願っているのだ。
 正月二日、わが家では親戚・兄弟姉妹が集まり“お年始”の祝宴を開く。その日は女性が全員台所に入り、にぎやかに太巻き寿司を巻く。やがて家長(封建的と言われそうだが)での「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」の言葉で乾杯、祝宴になる。この種のわが家の“顔合わせ”は、年に五回、お年始、お祭り、お盆、春・秋の彼岸とおこなわれる。母は言う「私が丈夫の間だけは続けてよ。近所の手前もあるし」。
 ところが、日本が経済的に豊かになるにしたがつて、家庭、隣り近所、地域社会などでの人間関係は希薄になり、個人主義が強くなってさた。そのことは、私たちの生活のある種の精神的な基盤となつていた『日本教』の力が薄れていくことを意味している。
 確かに、初詣では年中行事として私たちの生活の中に定着した。昨年の三が日、初詣でに出掛けた日本人は八千七百万人と報じられた。神仏に自分や家族の幸せを祈る、世の中の平穏無事を願うことはよいことではある。ところが、私が詣でる寺山の鹿嶋神社の境内は年毎に寂しくなっている。円通寺に初参りをする人に出会うのはまれである。ここにも家庭や地域が、集団としての機能を失いつつあることが表れているように思う。
 人の心は、先行する世代―親たち、近所の大人たち、教師などによって植え付け、育てられるものである。正月行事などの民俗行事を通じ、子どもたちに心のありようを教えたい。


秦野の一月

元 旦  午前零時を過ぎたら氏神さまに初詣に行く。三が日の雑煮は年男が支度をし、年神さまをはじめ、神棚・仏壇にお供えする。
仕事始め  二日は農作業の「うない始め」。暦の「あきの方」の方角にある田畑で榊を立て鍬入れをする。昔は「ない始め」といって縄を一房(三〇尋)なって神棚に上げる神事もあった。書き初めの日。
寺年始  四日、この日は各寺院が檀家へあいさつ回りをする。
七 草  六日の夕方、神棚の下に置いたまな板の七草を「七草なずな唐土の鳥が」と唱えながら、すりこぎや杓子、包丁でたたく。七日の朝、餅の入った七草粥を神棚や仏壇に供る。
卯の日  蔵神さまが帰る日とされている。一月最初の「卯の日」にはお汁粉を神仏に供える。
蔵開き  十一日土蔵のある家では土蔵の戸を半分開き、お供え餅とおしるこを土蔵に供える。この日、はじめて鏡餅を割っておしるこで食べることからは「鏡開き」ともいう
だんご焼き  十三日、コナラ(クヌギ・カシ・ツゲの家もある)の枝を座敷に立て、自分の家で栽培・飼育している農産物をだんごで形づくって小枝に刺す。(タバコの葉、繭、サトイモなど) コナラの枝と一緒に二本の女竹を沿え、それには、大きめの白だんごをつけた。武家ではこの大きなダンゴをオテントサンとオツキサンと呼んでいた。神棚・仏壇にも、だんご三個をつけた枝を供える。十四日、だんご焼きがセエノカミさん(道祖神)のところでおこなわれる。子どもたちが各家を回り集めた松飾りなどの正月飾りを燃やし、だんごを焼く。この火で書き初めを焚き上げが、空高く舞い上がると習字の腕があがると喜んだ。
小正月  十五日を「女正月」ともいい、女性の休みの日。この日は小豆粥を食べる。一年の無事を祈願し豊年を願う行事である「筒粥」神事が東田原で今も行われている。
薮入り  十六日、使用人や奉公人たちの休みの日で、実家に帰ったり、遊んだりと楽しい一日を過ごした。
山の講  十七日は山の神さまの祭日。山仕事の安全を願って講をおこなう。
初恵比寿  二十日、家業繁盛を願う農家の恵比寿講で、神棚の恵比寿・大黒の像を下ろして床の間に飾り、ソバを供ぇてまつる。二十日正月とも呼ばれる。
初地蔵  二十三日、新仏のある家では、身内がそろって小田原板橋のお地蔵さまにお参りに行く。この日は大勢の参拝客のなかに、亡くなった人によく似た人の姿を見られるといわれにぎあう。
初天神  二十五日、学問の神さまだからと、昔は学校も半日で終わり、みんなお参りした。とくに上大槻の菅原神社には参詣人が多かった。寺山・清水の「辻の天神さん」(現・東中学校の校庭の公孫樹の下に祠があった。)もかなりの参詣者があった。


1月の異称  睦月[むつき] 初春[しょしゅん・はつはる] 正月[しょうがつ] 祝月[いわいづき] 嘉月[かげつ] 初月[しょげつ] 初見月[はつみづき] 年初月[ねんしょげつ] 正陽月[しょうようげつ] 新玉月[あらたまづき] 霞染月[かすみそめづき] 上春[じょうしゅん] 孟春[もうしゅん] 初陽[しょよう] 青陽[せいよう]

季節の花  福寿草[ふくじゅそう] 蝋梅[ろうばい] 蘭[らん]

今が旬   八朔[はっさく]  蜜柑[みかん]  杓子菜[しゃくしな]  芽キャベツ(小持玉菜[こもちたまな])  ブロッコリー  蓮根[れんこん]  慈姑[くわい]  榎茸[えのきだけ]  京菜[きょうな]  牛蒡[ごぼう]  白菜[はくさい]  三葉[みつば]  小松菜[こまつな] 菠薐草[ほうれんそう]  蕪[かぶ] 公魚[わかさぎ]  鯉[こい]  鰤[ぶり]  鱈[たら]  牡蠣[かき]  鰯[いわし]  河豚[ふぐ]  白魚[しらうお]  青柳[あおやぎ]  むつ  平目[ひらめ]

季節の言葉  厳寒[げんかん] 厳冬[げんとう]  酷寒[こくかん]  寒気[かんき]  寒風[かんぷう]  寒冷[かんれい]  真冬[まふゆ]  降雪[こうせつ]  霜柱[しもばしら]  木枯らし[こがらし]  初春[はつはる]  新春[しんしゅん]  寒の入り[かんのいり]  寒土用[かんどよう]












  第57話 

  寺山物語 番外編

   
東京・練馬の大山道

   
      吉成 勝好さん提供

 


 「ECHO」誌上でよく見かける「大山道」について、当地よりささやかな情報提供をさせていただきます。
 練馬区と保谷市(現西東京市)の境の辺にあります小生の自宅のすぐ近くを通っている道、住民から「富士街道」あるいは「大山道(どう)」「富士大山街道」と呼ばれています。以前は、「行者街道」「道者街道」という呼び方もされていましたが、今ではこの言い方は廃れています。今でこそ拡張され舗装された道路で、ケヤキの巨木の並木が僅かに往時を偲ばせているばかりですが、30年ほど前までは、狭い砂利道で、道沿いに玉川上水の分水が流れていて、雨が降ると冠水したりグジャグジャにぬかるんだりしていました。この7,8本ほどのケヤキの木は、道路拡張の際、全て切り倒される事になっていましたが、街道に面した本橋家(旧名主?)の当主が頑強に抵抗し、守り抜いた曰わくある並木です。「変人」「頑固者」扱いされたその時の苦労話を、直接お聞きしたことがありますが、今では区の「保存樹木」として大切に扱われ、行政にも感謝されています。 東京−多摩−神奈川へと続くこの「大山道」の中で今も残っている唯一の欅並木ではないでしょうか。
 練馬の農家は、富士山と共に、雨乞いの神様として大山・「雨降(阿夫利)様」を大変に崇敬し、「大山講」「富士講」を作って、資金を積み立て、毎年くじ引きをして代表を決め、「代参」を欠かしませんでした。(いまだにその講が残っている地域もあります。練馬は23区最大の農業区ですから) 代参者は、白装束に身を固め、杖をつき「六根清浄」と唱えながら、この街道を旅したそうです。そこから「道者街道」「行者街道」の名が付いたのでしょう。
 残念ながら、この「大山道」、練馬から保谷(現西東京市)に入った後、都市化・区画整理等の影響で、寸断され、どう大山まで続いているのか、よく分からなくなっています。都内にやはり何本か通っていた旧「鎌倉道」と同じ運命をたどっているわけです。
 練馬区の教育委員会の作成した表示板と、平成17年11月12日撮影の現街道のデジカメ画像を添付しました。
     
 2005.11.12                    吉成 勝好







秦野の十二月

師 走  昔は盆と同じように祖先の霊を慰める月だった。そのためお坊(師)さんは読経に家から家へ忙しく回るので「師走」という言葉が生まれた。暮は忙しく、ふだんゆったりと生活している先生(師)も走り回るから師走という説、「四時極つ(はつ・1年が終わる)」から「シハス」という説も。
事始め ここでいう《事》は祭りの意味。この日、八日から正月の準備に入る。この日は一つ目小僧がやって来る日でもあるので、長い竿の先に目籠をさして屋根に立て掛ける。疫病を除けるためである。。また、春に天から借りた作物の種子を返す日だともいう。
餅つき 二十五日から三十日までのあいだにおこなう。昭和二十年前後まで、わが家は近所の数軒と組んで、手伝い合って餅つきをしていた。。二十九日は「苦餅」といって餅つきはしなかった。
歳の市 正月飾りや食品・雑貨などを商う市で、黒木の市は二十六日頃からみそか晦日まで、十日市場は二十八日と大晦日であった。大根の宿矢名にも市が立ったといわれている。
正月飾り 正月飾りをつくるのは男の仕事。また、一夜飾りになってはいけないので、三十日までに飾り終える。秦野ではどこの家でも門松を立て、しかも家によってつくり方の流儀が違い、それぞれに目立ったものである。先祖の墓に松飾りをする家もある。
大晦日 正月三が日のご馳走づくりで忙しい。夜は晦日ソバをいただいたら、《ひとがた(紙でつくつた人形)》で家族全員を拭い清め、それを辻に立てに行く。わが家ではでは《ひとがた》は川に流す。これは一家の主人の役目で「晦日っぱらい」という。辻に立てたら、後ろを振り向かないで急いで戻って来る。やがて除夜の鐘…。

十二月の異称   師走[しわす] 春待月[はるまちづき] 梅初月[ばいしょづき・うめのはつづき] 極月[ごくげつ] 窮月[きゅうげつ] 除月[じょげつ]
限月[かぎりのつき] 果月[はてのつき] 尽月[じんげつ] 年満月[としみつづき] 
雪待月[ゆきまちづき] 霜見月[しもみづき] 霜降月[しもふりづき]

季節の花  寒椿[かんつばき] 枇杷[びわ] 冬桜[ふゆざくら] 寒牡丹[かんぼたん] 日本水仙[にほんずいせん] シクラメン ゼラニューム 君子蘭[くんしらん]]

今が旬  蜜柑[みかん] ブロッコリー 蓮根[れんこん]  榎茸[えのきだけ]  牛蒡[ごぼう]  白菜[はくさい]  三葉[みつば]  カリフラワー  小松菜[こまつな]  菠薐草[ほうれんそう]  蕪[かぶ]  人参[にんじん]  大根[だいこん]  山芋[やまいも]  里芋[さといも]  滑子[なめこ]  公魚[わかさぎ]  鰤[ぶり]  鱈[たら]  牡蠣[かき]  鰯[いわし]  河豚[ふぐ]  青柳[あおやぎ]  むつ  平目[ひらめ]  鯣烏賊[するめいか]  鰈[かれい/かれひ]  真鯛[まだい]  金目鯛[きんめだい]

季節の言葉  初冬[しょとう] 歳末[さいまつ] 年末[ねんまつ] 年の暮[としのくれ] 歳の瀬[としのせ] 歳暮[せいぼ] 歳の市 木枯らし[こがらし] 新雪[しんせつ] 炬燵[こたつ] クリスマス 大晦日[おおみそか] 除夜の鐘[じょやのかね] 冬将軍[ふゆしょうぐん]








  第56話 

  寺山物語 第45回

   
『ふるさと秦野景観 見て歩き』

   
   ―寺山・蓑毛を歩く―

 


                                              2005年10月8日実施
 紙上「秦野景観見て歩き大山道・坂本道と寺山の里 
   
 明け方近くまで雨。だが出発のころは曇り。「蒸し暑い日」という予報なので半そでで出かける。握り飯、魔法瓶の紅茶、カメラ、それに資料の本、こんなバッグを背負ったのは何年ぶりだろうか。重たい。大勢の神仏にお会いするのでお神酒を小瓶で持参。碑文を読むために片栗粉も準備した。
 きょうは、秦野市市制50周年記念事業として企画された『ふるさと秦野景観見て歩き・東地区』が開かれる。私はその案内人。参加者は30人ほどか(数えなかった)。東自治会連合会長の小泉さん、清水庭から洋造さん、俊さんが来てくれた。心強かった。現役のころ、一緒に仕事をした相原昭枝さんと娘さんの顔も。これには感激。地区外からも数名。まちづくり推進課から古谷課長さん以下5人も付き添い・同行。
 全行程で7キロほど、そのうち7割くらいが登り。3時間半で歩いた。横畑の松下さん宅で山葵田を見せてもらった。奥さんの自家製のこんにゃくの煮付けを、濃いお茶といただく。甘辛の味がしみこんで、歯ごたえもあり、おいしかった。そばの花が見ごろだったので、民話
「そばを作らぬ里」を話した。
 もうすっかり忘れられている『東秦野国民学校の水道水源地』を、「東の子どもたちに知らせたい」と同級生の加藤さんが言った。こんな言葉を聞くと、これからも『東地区見て歩き』をやらなければ、と思う。
               
                               
マタドの渡し
 金目川橋の下流30メートルの川中に、大山道・坂本通りと蓑毛通りを結ぶ川中の道(踏み石)が残っている。「マタド」に「馬渡戸」「馬渡」と漢字を与える地史研究家もいるが、地形用語では「又と」で「二つの川か合流するところ」。この地は、かつて金目川と中丸川が合流していたところ。「馬渡戸」「馬渡」になったのは、金目川橋の東のたもとに95体の馬頭観音が祀られているからだろう。
この馬頭観音群の中で最古のものは安政5年(1858年)に寺山村の角ケ谷戸西、二ツ澤、清水、竹之内、久保の各庭が合同で奉じた観音菩薩像。建立年代は次のようになる。明治が12、大正が26、昭和が30基。もっとも新しいものは昭和53年(1978年)の建立。

柄鏡形敷石住居址
寺山には寺山遺跡と金目原遺跡が存在する。JA東支所と東公民館を結ぶ県道の北側の遺跡を寺山遺跡、南側で見られたものを金目原遺跡と呼んでいる。東小学校の二階ロビーに寺山遺跡より出土した柄鏡形敷石住居址(縄文中期のもの)が復元・展示されている。金目原にいくつかあった古墳も今は1基(寺山28)が現存しているだけ。この古墳上に慰霊碑が建てられているが根拠は不明。(建立者は関野氏)。

大山道道標 
バス停「藤棚」の傍らに高さ150センチほどの、どっしりした道標がある。「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。

西の久保湧水
「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)だった。大正8年(1919年)、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。その記念碑もある。

三界萬霊・庚申搭(宝作)
宝作庭に入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に庚申搭の印である三猿の上半身がわずかに見える。

武 邸 
旧寺山村の名主武善右衛門邸。武善右衛門は、実朝公の御首を波多野庄に持ってきたといわれている武常晴氏の子孫。昔の寺山村の様子がわかるのは、この家に保持されてきた古文書の依ること大。

天社神(宝ケ谷戸)
寺山485・県道脇に立つ。市内で二番目に古い建立で寛政11年(1799年)。寺山667に立つ地神塔が市内最古で安永10年(1781年)。市内三番目に古いのは鹿嶋神社境内に立つ天社神で享和2年(1802年)。
寺山に市内最古の三体あるのは何か理由があるのだろう。

東小・中学校校地内の道と大銀杏
大山道・坂本道と同蓑毛道をつなぐ道。バス停「東中学校入口」の地点から、中学校のプール脇り、小学校の南校舎の裏を通りぬける道。現在も村の道として通行している。中学校の校庭に「道」を記す白いレンガが埋められている。中学校の校庭に聳える公孫樹は、かつては武完家の庭木。銀杏が1石も採れたという話も聞いた。

水湧水池跡記念碑
東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会によって建立された。4カ所から湧いていた清水は、開発により平成16年(2004年)にすべて消滅。

東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
昭和60年(1985年)、新校舎が完成した記念に、東地区にゆかりのある宮永画伯にレリーフの壁画を依頼。1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。
   
武邸の屋敷神 
庚申塔、巳待塔、稲荷社、金精神、4体が祀られている。一軒の家に4体が、しっかりと祀られているのは珍しい。市の文化財調査報告書には記録されていない。清水自治会の「湧水池跡記念碑」建立の事業で公になった。

波多野城域
波多野城のあった処を示す地名、「サーシゲート」「竹の内」「殿前」「玄蕃屋敷」「門畑」

鹿嶋神社
祭神は「国譲り」の話の建御雷之男神・武甕雷男神・武甕槌命(タケミカヅチノカミ)。「鳥居・黒木鳥居と島木鳥居、神社建築・神明造りと大社造り」の解説もした。(市重要文化財・十一面観音菩薩像の円通寺は次の機会に)

東秦野国民学校水道の水源地跡 
小泉賢司さんの好意により学校は上水を確保できた。水源の改修、水道の敷設などは当時の村民総出の労力奉仕。そのお陰で私たちは学校生活ができた。水源地の上に昭和17年(1942年)建立された記念碑がある。

そばの里 
「丹沢そば・石庄」の自家用そば畑。民話「そばを作らない村(厚木・市島地区)」の紹介。「そば」の語源。古語「そば」は「角」という意味。そばの実は三角、葉も三角、角ばっている植物だから「そば」。

「横畑」「イットクボ」の湧水  松下家のわさび田

大山道道標  
祠に入っている道標。不動明王像で「右大山道」とあるように道標である。野ざらしはかわいそうと、近所の人たちが祠を作った。坂本道はここからタコーチ山を登り「いより越え」をする。

地名「地獄げーり」
「地獄ケ入」と「ちょうづか(長塚・丁塚)・京塚(経塚)」のお婆の話。「ちょうづか」は「葬頭河」のこと。

大山道道標 
曲松から東・西田原を経て蓑毛に通じる大山道・蓑毛通りと、小田原、中村、西大竹、曽屋、落合、寺山を通る大山道・羽根尾通りが合流する地点。蓑毛141の路傍に立つ。不動明王像を戴く市内最古の道標で享保20年(1735年)「右ハふし 左ハおた原」と記されてい
るが、今は判読は困難。

双体道祖神(男女像) 
蓑毛141の路傍に立つ双体道祖神は、市内初出の男女像の道祖神。元文6年(1741年)。市内最古の道祖神は戸川701立つ。相体で寛文9年(1669年)のもの。

馬返し
 蓑毛通りと羽根尾通りの合流地点は「馬返し」と呼ばれる処でもある。松田から馬で来た旅人はここで馬を下りる。今ここが急坂になっているのは、石段を崩して道にしたから。坂の登り口に「つた屋」という旅籠があった。「つた屋」の前を二本の大山道が通っている。

金目川という川の名の由来
 地名「大口、金目原、笹川、轟、落合、大槻、金目、飯島」

道祖神  
東田原1533に立つ。大山道道標を兼ねている。 正面は「いせ原□」、左は「大山道」と読める。建てられたのは文化3年(1806年)正月。
 
◆この日受けた質問。地名「才戸」「菩提」の由来、神社の千木のこと、道祖神の男女像について




秦野の十一月

七五三の祝  昔から伝わる子どもの年齢通過儀礼の一つ。女の子は三歳・七歳、男の子は五歳が普通。十五日を目安にして、その前後の“よい日”を選んでお宮参りをする。
恵比寿講  正月は農家の恵比寿講。今月は二十日商人の恵比寿講といわれる。しかし、農家でも神棚から恵比寿さまを下ろして床の間に飾り、正月よりも豪華に本膳をつくったり、お供えをしたりしている。以前は店を営んでいる家に、朝早くミカンなどをもらいに行くのが習慣になっていた。「マンチャンチ」「エーチャンチ」「藤棚」(いずれも寺山の商店の呼称)に霜柱を踏んでもらいに行った思い出がある。秦野言葉では『エベスコ』。
かりあげボタ餅  稲刈りが終わり、取り入れの仕事が一区切りついたところで、農具の鎌とボタ餅を供えて祝った。また麦のまきあげといって、麦まきが終わった家ではお昼に赤飯を炊いて祝い、神棚用の食器(オズツキ)にその赤飯を盛つてハエに食べさせる。夜は米の飯を炊き、煮物を添えて近所に配ったりした。

十一月の異称   霜月[しもつき] 神楽月[かぐらづき] 神帰月[かみかえりづき] 雪見月[ゆきみづき] 雪待月[ゆきまちづき] 霜見月[しもみづき] 霜降月[しもふりづき]

季節の花  竜胆[りんどう] 竜脳菊[りゅうのうぎく] 背高泡立草[せいたかあわだちそう] 磯菊[いそぎく] 石蕗[つわぶき] 菊[きく] 柊[ひいらぎ] 山茶花[さざんか]

今が旬  蜜柑[みかん] 林檎[りんご]  銀杏[ぎんなん]  柿[かき]  胡桃[くるみ]  ブロッコリー  牛蒡[ごぼう]  白菜[はくさい]  三葉[みつば]  カリフラワー(花椰菜[はなやさい])  菠薐草[ほうれんそう]  紫蘇[しそ]  しめじ 椎茸[しいたけ]  榎茸[えのきだけ]  滑子[なめこ] 人参[にんじん]  大根[だいこん]  山芋[やまいも]  里芋[さといも]  公魚[わかさぎ]  鰯[いわし]  河豚[ふぐ]  青柳[あおやぎ]  鮭[さけ]  秋刀魚[さんま]  浅蜊[あさり]  鯣烏賊[するめいか]  鰈[かれい]  真鯛[まだい]  金目鯛[きんめだい]

季節の言葉  晩秋[ばんしゅう] 深秋[しんしゅう]  暮秋[ぼしゅう]  向寒[こうかん]  落葉[らくよう]  小春日[こはるび] 初雪[はつゆき] 夜寒[よさむ] 冷雨[れいう] 菊薫る[きくかおる]








第55話 

  寺山物語 第44回

 
波多野城の城域は「竹の内」「外清水」「内清水」そして「宝ケ谷戸

 

 波多野城址

 秦野盆地の東北部丹沢山麓の東麓にあたる寺山の字「小附」の台地は、『風土記稿』に「波多野次郎の城跡と云傳ふ」と記されており、古来、波多野氏の居館ないし居城の所在地として知られている。
 1987年にこの台地上を発掘調査したところ、明らかに中世のものとし得る遺構・遭物は検出されなかった。中世において、この台地上は大規模な建築、ないし広範囲にわたって配置された建築群はなかったと判断された。したがってこの台地を波多野城の主体部とするのは困難であり、仮に城郭として使われたとしても、「付城」のような臨時の施設、または「出城」ないし「砦」のような小規模な施設がおかれたにすぎなかったといえる。
 波多野城の主体部が市内寺山字「竹ノ内」を中心とする地にあり、それが畠作を年貢収取の基本とする領主波多野氏の居館であったとすると、その淵源は、波多野氏がこの地に土着したとされる平安時代中頃まで遡りうる。そして、その城域(居館敷地および領主直轄地)は現在の字「竹の内」「外清水」「内清水」「宝ケ谷戸」の範囲であったと考えて差し支えない。波多野城とは、現在の字「竹の内」に設けられた波多野氏の居館から出発し、後世に至り「小附」の台地をも居城に取り込んだと考える。  
(「秦野の城郭」平成11年(1999)刊 秦野市教育委員会)


 上の「波多野城址考」に関係する寺山の地名

 ボーゲート
 私が住んでいる小字「清水」が南で接するのが小字「宝ケ谷戸」である。「宝ケ谷戸」を私たちは「ボーゲート」と呼んでいる。この「宝ケ谷戸・ボーゲート」は、寺山・円通寺の境内に納められている馬頭観音(建立年不詳)では「棒垣外」と記している。「ボー」が「坊」なら条里制の「坪」のこと。「垣外」とは、文字通り「今まであった居住地の外に新しく作られた集落」の呼び名である。

 サーシゲート(小字「竹の内」と「清水」地内)
 東中学校の敷地の北西から、裏の相原稔家のあたりの地を「サーシゲート」という。現に遠藤正春家は「サーシゲート」という通称で通っている。「サーシ」に当てはまる漢字は文献上では見られない。この「サシ」は古語では《城》を表す。すると「サーシゲート」は、「ボーゲート」の解釈を当てはめれば「城垣外」となる。

 トーノメー(小字「外清水」地内)
 東幼稚園のあるあたりを、清水庭の人たちは「トーノメー」と呼んでいた。この「トーノメー」は「殿前」という地名用語と思われる。武光誠著『地名から歴史を読む方法』によれば「『殿前』は武家屋敷の前方を表す」地名とある。

 玄蕃屋敷(小字「内清水」地内)
 現在の小泉俊宅のあたりが「玄蕃屋敷」と呼ばれていたところ。天保年代、名主・武兵右衛門が居宅を構えていた地である。私の小学生の頃の記憶には、この地の入口には大きな石段があり、門の両袖に住まいがついている大きな長屋門があった。同級生のY君がここに住んでいた。「玄蕃」とは、社寺、僧侶の僧籍の管理をする仕事をする、律令制の治部省の役職の一つ。

 門 畑(小字「外清水」地内)
 東中学校と東小学校の校地の西側の道路沿いの地名を「門畑」という。地名用語語源辞典に依れば「門畑」は「中世豪族屋敷の周囲にある畑」のこと。

 竹の内
 「清水」の北隣の字は「竹の内」。「竹の内」は「豪族屋敷跡を示すと見られる小字名もある(地名用語語源辞典)」。したがって、「竹の内」は「館の内」か。

 ボーゲートは、新編相模国風土記稿では「棒ケ谷」と記されている。「ボウ」は「ぼぼける」の語幹で、「崩れる」から生じた言葉とすると、崩壊地形をあらわす語。
「宝ケ谷戸」の地形は、南西の「西ノ久保」に向かって大きく下っているので、この解釈のほうが説得力はある。だが「ものがたり」を書きたい私としては、「垣外」説でいきたい。
 以上、まさに「寺山ものがたり」を書きました。



秦野の十月

十三夜   『十五夜』を祝っただけでは片見月となるので『十三夜』の月見も行う。まんじゅうは13個、ススキは3本。今年は15日が『十三夜』。

十月の異称   神無月[かんなづき・かみなしづき・かみなづき] 良月[りょうげつ] 神去月[かみさりづき] 初霜月[はつしもづき] 時雨月[しぐれづき] 雷無月[かむないづき] 小春月[こはるづき]

季節の花  コスモス(秋桜)[コスモス・あきざくら] いぬだて セイタカアワダチソウ 鶏頭[けいとう] 金木犀[きんもくせい] 野紺菊[のこんぎく] 野原薊[のはらあざみ] 富士薊[ふじあざみ] 杜鵑草[ほととぎす] 龍胆[りんどう]

今が旬  葡萄[ぶどう] 梨[なし] 林檎[りんご] 銀杏[ぎんなん]  栗 [くり]  柿[かき]  胡桃[くるみ]  ブロッコリー 牛蒡[ごぼう] 白菜[はくさい] 三葉[みつば] 菠薐草[ほうれんそう] 松茸[まつたけ] 椎茸[しいたけ] しめじ 滑子[なめこ]  マッシュルーム(シャンピニョン)  茄子[なす] 薩摩芋[さつまいも] 人参[にんじん] 山芋[やまいも] 里芋[さといも] 新米 公魚[わかさぎ] 鰯[いわし] かます 鯔[ぼら] 鯊[はぜ] 鯖[さば] 鮭[さけ] するめいか 鰈[かれい]

季節の言葉  寒露[かんろ]  霜降[そうこう] 秋冷[しゅうれい] 紅葉[こうよう] 黄葉[こうよう] 夜長[よなが] 秋雨[しゅうう] 初霜[はつしも] 渡り鳥[わたりどり] 豊年[ほうねん] 稲刈り[いねかり] 秋晴れ[あきばれ] 鰯雲[いわしぐも] 初冬[しょとう] 初冠雪[はつかんせつ] 







  第54話 

  寺山物語 第43回

   
T家の屋敷神4体
(下)
        
第42回の寺山物語の写真参照
 



 巳待搭
 庚申搭に並んで舟後光の弁財天像が祀られている。これは巳待搭で、己巳( つちのとみ)の日に集まり福富を願って精進・供養をする巳待講の記念碑。「弁財天」ははじめ「弁才天」と書き水神様だったが、富や財宝にあやかるということで「才」が「財」に変わった。巳待搭は庚申搭にくらべ、圧倒的に少ない。秦野市が行った調査(1998年終了)では、市内に巳待搭はがあるとは報じられていない。したがってT家のこの巳待塔は、昨年8月『清水遊水池跡碑』と共に初めて世に出たことになる。
 
 金精神(男根)
 子孫繁栄・子宝を願い祈られる男根に似たかわいらしい石棒がある。俗にコンセ様、マラ様などとも呼ばれる。T家の当主は「マラセの神」と呼んでいる。かつては子宝に恵まれない嫁は離縁の憂き目にもあった。そういう時代には他にすがるすべもなく、切実な思いを込めてこの金精神に祈ったことだろう。他方、遊廓などではこれを神棚に飾り、商売繁盛を願った。明治6年、政府は「風俗に害ある」として金精排除令を出している。秦野市今泉の男根型道祖神は、つとに有名で150センチの丈を持っている。

 稲荷祠 
 この稲荷祠の棟札は「正一嶽神社 明治26年 武福」まで読むことができた。「正一」は「正一位稲荷大明神」のことで、伏見稲荷を勧請して祀ったことを表すが、たぶん今泉の白笹稲荷から勧請したのだろう。稲荷は「稲生り」「稲成り」で肩に背負った稲を穀物の神に捧げたとされる因習から豊作の神様。この「お稲荷さん」、全国の神社の30%強が稲荷神社の名称を用いているそうだ。ともかく五穀豊穣、家内安全、商売繁盛など、ご利益の面からも「お稲荷さん」は民衆にとって人気抜群の神。「稲荷」と狐との関係は“狐が大切な稲の天敵である鼠を退治する”ことから、狐を神使とシンボル化されていったようだ。正一秦氏の氏神は「稲を背負った老人」。それが稲荷に結びつき伏見稲荷を氏神とした。秦氏が興した秦野に白笹稲荷があるのは偶然ではないだろう。


 屋敷神石に還りて久しきにはれの日は湯気立つ飯を供へり


秦野の九月
 
二百十日 立春から二百十日目の一日のこと。今年は9月1日がその日になる。この時期は稲の開花期にあた台風の来る季節でもあるので、農家はたえず天候に気を配り、災害のないことを祈る。
八 朔 九月一日 とりたてのサツマイモやサトイモをゆで、小麦粉でつくつた煮だんごといっしょにあんこをまぶして食べる。「ハッサクだんご」といって収穫感謝の行事の一つ。
敬老の日 9月の第3月曜日。平成14年度までは9月15日だった。 
秋の彼岸  
20日が入り、中日(秋分の日)は23日、明けは26日。寺山の野道に彼岸花が咲き揃うころ。
秦野たばこ祭り 今年は第58回で24日・25日。今の秦野の生み出したのは江戸時代からの葉たばこ作り。それを記念しての祭り。今は弘法の火祭り、仕掛け花火など、「炎と光り」の祭りと言われている。今年は徳島・池田町の「たばこおどり」が特別参加。
十五夜 中秋の名月をたたえる行事。ススキの穂五本を瓶にさし、野菜・果物や豆腐をお供えする。だが、お供え物のメインは十五個のまんじゅう。小麦粉と小豆あんで自家製。上穆粉で白いだんごをつくつて供える家もある。この夜、子どもたちが十五夜・十三夜のお供ええものをこっそり持ち去っても、見て見ぬふりをする。神に捧げた品物を多くの人たちと分け合うことによって、神のご加護があると思われていた。今年は9月18日が望月。わが家は新暦の15日に「十五夜」をする。

 
 ◇ 十五夜の思い出 ◇
 消えた十五夜のまんじゅう

                                 武勝美
 「きょうはお月見をしますので、おまんじゅうを作りました」と、勤務先の中学と地続きの幼稚園から、十五個の可愛らしいまんじゅうが届けられた。出来たての柔らかさ、白さ、温かさが指先に感じられた。同僚と半分分けにしたまんじゅうの中は、こしあんが形よく納まっていた。そのあんを見つめながら、私は子どものころのある年の「十五夜のまんじゅう」のことを思い出した。
 母が十五夜に作るまんじゅうは、家族にとって、一年中で最も期待されている食べ物だった。自家製の小豆をわずかばかりの砂糖で練り上げたあん。
そのあんを包む皮は、重曹を使ってふくらませるのだが、母にはうまく出来なかった。だから、ふかし上がったまんじゅうは、あんが皮からこぼれ出てしまうような、豪快な形のものになっていた。
 ススキと一緒に縁側に供えられる十五個のまんじゅうは、一個だけ失敬しても、すぐに分かってしまうような、端正な盛り方で白磁の皿の上にあった。子どもの私は、皮からはみ出ているあんを、家族に気付かれないようにつまみ、口に運ぶことくらいしかできなかった。だが、その夜のまんじゆうは、私たちの目をかすめ、一瞬のうちに皿ごと縁側から消えてしまった。「十五夜のまんじゅうは盗んでもいい」という言い伝えが子どもの間にあった。飢え、食生活の貧しさ、甘い物の不足、それらをいやす悲しい風習なのだろう。
 消えてしまったまんじゅうをさがしに行った母は、門口に置かれていた皿を抱え、亡霊のようにす―っと土間に入ってきた。「子どもが取ったとは思えない」と、一言だけ母は言った。
 庭先のカボチャが盗まれ、祖父が「あと一日待って食べよう」と敷きわらで隠したスイカや、懸け干しの水稲までが持ち去られた。十五夜のまんじゅうもまた…そんな時代だった。(朝日新聞「テーマ談話室」『食べる』掲載・1991/10/3)




九月の異称  長月[ながつき] 菊月[きくづき] 紅葉月[もみじづき] 色取月[いろどりづき] 玄月[げんげつ] 濃染月・木染月[こそめづき] 寝覚月[ねざめづき] 夜長月[よながづき] 小田刈月[おだかりづき] 高秋[こうしゅう] 梢秋[こずえのあき] 花吹秋[はなふくあき]  

季節の花  女郎花[おみなえし] 男郎花[おとこえし]  秋海棠[しゅうかいどう] 松虫草[まつむしそう] 吾亦紅[われもこう] 釣船草[つりふねそう] 南蛮煙管[なんばんぎせる] 彼岸花[ひがんばな] 藤袴[ふじばかま] 桔梗[ききょう] ダリア 萩[はぎ] 芙蓉[ふよう] 芒[すすき] 薄雪草[うすゆきそう]

季節の言葉   新秋[しんしゅう] 初秋[しょしゅう] 秋冷[しゅうれい] 新涼[しんりょう] 秋意[しゅうい] 秋色[しゅうしょく] 涼風[りょうふう] 清涼[しんりょう] 白露[はくろ] 二百十日[にひゃくとおか] 良夜[りょうや] 颱風(台風)[たいふう] 野分[のわき] 秋霖[しゅうりん] 中秋の名月[ちゅうしゅうのめいげつ]

今が旬  葡萄[ぶどう]  梨[なし] 牛蒡[ごぼう] 玉蜀黍[とうもろこし]  枝豆 南瓜[かぼちゃ]  茄子[なす]  いさき  鰹[かつお]  穴子[あなご]  鰻[うなぎ]  鮑[あわび]  鱸[すずき]  鮎[あゆ]  鯊[はぜ]  鯣烏賊[するめいか]  鰈[かれい]








  第53話 

  寺山物語 第42回

   
T家の屋敷神4体(上)
 



T家の屋敷神 右から 庚申搭 巳待塔 金精神 稲荷社



青面金剛像(右)と弁財天


 清水の湧水池跡の記念碑を自治会で建てたことから、清水庭の人たちはいろいろな会合で昔の話をするようになった。その中から日の目を見たT家の屋敷神の話。
「勝美さん、ウチの裏に石の弁天さんがあるけど、ちょっと見てよ」とTさんが言った。
「エッ! Tさんの家にそんなものがあるなんて知らなかった。市の調査資料にも載ってないよ。石の弁天さんって珍しいよ。帰りに見せてもらう」と私。
「マラセの神もあるよ」とTさん。

 T家は大山道の坂本道を挟んで母屋と物置を構えている。その物置の裏に1メートルほど盛り土された坪庭がある。石組みがされ、ナンテン、イヌツゲ、万年青、つつじが作る一坪ほどの整った南向きの小さな庭、そこに4体の屋敷神が祀られていた。
 その4体は、庚申搭、巳待ち塔、金精神、そして稲荷社だった。
 
 庚申搭は「健康長寿」の主尊
 今回は庚申搭について話す。
 庚申搭は、本来は厄除けや治病の主尊として「健康長寿」を祈ったのだが、道路わきによく見られるように道の神(道祖神)になったり、火伏せ神、作物の神となったりする。庚申搭には「庚申」や「猿田彦」の文字塔、「青面金剛」や「三猿」の像がある。仏教系が青面金剛像を祀るのに対して、神道系では猿田彦神を主尊としている。
 
 中国の伝統宗教である道教では、人体には三匹の虫(三尸虫)が宿っているという。この虫は60日ごとにくる《庚申(かのえさる)》の日の夜に、寝入った宿主の体を抜けだし、天帝に宿主の罪業を報告しに行く。北極星の神格化といわれる天帝は、その報告に基づいてその宿主の寿命を差し引く。三尸虫はなぜそのようなことをするのか。宿主が死ねば三尸は鬼になることができる。だから宿主の早死にを望み、庚申の夜天帝のところに出かけるのだ。
 《庚申》の夜、宿主が寝なければ三尸虫は人体を抜け出せない。そこで人々は、庚申の晩は当番の家に集まり、勤行で朝を迎えるという行事をするようになった。この行事を「庚申待ち」と呼んだ。この庚申の日は肉食や男女の交わりは禁止。この日身ごもると大悪人を生むといわれていた。
 江戸川柳
  庚申をあくる日聞いて嫁こまり
  五右衛門の親庚申の夜を忘れ
 そして、夜業、洗潅、髪洗い、お歯黒といったことまで禁止されていく。このように禁己事項が多いにもかかわらず「庚申待ち」が広まっていったのは、勤行よりも仲間との会合やだんらんの楽しみがあったからだろう。
  

 青面金剛(六臂)像で合掌女人 三猿
 T家が祀っているのは青面金剛(六臂)像で合掌女人、三猿である。この「三猿」は、三匹の虫(三戸)が人間の罪業について「見ざる、言わざる、聞ざる」でいるように、という意味があるようだ。そして猿田彦神に由縁している。
 「合掌女人」 T家の青面金剛像が女性の髪の毛をつかみ合掌女人をぶら下げている。この日は「男女の交わりは禁止」ということで女性を懲らしめることを表しているといわれている。だがこれは「差別」ではないか。


 寺山の路傍の庚申搭
 寺山419番地(宝作の入口)に立つ三界萬霊・庚申塔は、寺山の石仏の中で年号が読み取れる(今は判読できない)もっとも古いもので延宝元年(1673年)とある。板脾型で地上すれすれに三猿が見える。他に、二つ沢の中丸橋脇に舟型青面金剛の庚申搭がある。鹿島神社境内に、角柱型・青面金剛、三猿、(宝暦3年・1753)と笠付型青面金剛、日月(宝暦7年・1757)もある。宝ケ谷戸の道祖神の脇に笠付き型青面金剛(三猿、日月)もあったが、残念ながら今は不明。




秦野の八月

孟蘭盆 十五日。「月遅れの盆」ともいい、お盆の行事は七月と変わらない。秦野盆地は葉たばこを作っていたため、山寄りの農村地帯は七月、本町・大根地区は八月に「お盆」をおこなう。
地蔵尊 正月と同じ二十三日に小田原板橋の地蔵さんにお参りをする。春からの新仏のある家では必ずお参りに行くが、日中は暑いので朝か夕方のお参りが多い。またこの時期「観音ダイコンに地蔵ソバ」といって、秋野菜やソバの種まきの目安にもなっていた。
土用干 稲の生育をしっかりさせるため八月に入ると田んぼの水を落とす。川から田んぼに続く水路の水を抜くため、うなぎなど捕まえることができる。川遊びとして大人も子どもも楽しむ。
川遊び 私の子どもの頃は、金目川を堰き止めて小さなプールを作り水遊びをした。どこかの畑から手に入れてきた青いトマトをプールに浮かべ、冷やして食べた。大きな田堰に入り込み、田回りに来たおじさんにひどくしかられた思い出もある。

八月の異称  葉月[はづき] 月見月[つきみづき] 観月[かんげつ] 弦月[げんげつ] 秋風月[あきかぜづき] 雁来月[かりくづき] 燕去月[つばめさりづき] 竹春[たけのはる] 中秋・仲秋[ちゅうしゅう]

季節の花  向日葵[ひまわり] カンナ 白粉花[おしろいばな] 百日草[ひゃくにちそう] 百日紅[さるすべり]  駒草[こまくさ] 柳蘭[やなぎらん] 小鬼百合[こおにゆり] 下野草[しもつけそう] 夕菅[ゆうすげ] 大待宵草[おおまつよいぐさ] 露草[つゆくさ] 野甘草[のかんぞう] 鷺草[さぎそう] 山百合[やまゆり]

季節の言葉   晩夏[ばんか] 暮夏[ぼか] 残暑[ざんしょ] 初秋[しょしゅう] 秋暑[しゅうしょ] 立秋[りっしゅう] 夏草[なつくさ] 朝顔[あさがお] 蝉時雨[せみしぐれ] 虫の音[むしのね] 雲の峰[くものみね] 線香花火[せんこうはなび] 真夏日[まなつび] 熱帯夜[ねったいや] 夕立ち[ゆうだち] 台風[たいふう] 入道雲[にゅうどうぐも] 土用波[どようなみ] 夏休み 帰省[きせい] 暑中見舞い 盆踊り 花火大会

今が旬  桃[もも]  西瓜[すいか]  メロン 葡萄[ぶどう]  梨[なし]  牛蒡[ごぼう]  胡瓜[きゅうり]  オクラ  玉蜀黍[とうもろこし]  トマト  ピーマン 枝豆 南瓜[かぼちゃ]  茄子[なす]  いさき  鰹[かつお]  穴子[あなご]  鰻[うなぎ]  鮑[あわび]  鱸[すずき]  鮎[あゆ]  鯊[はぜ]  鯣烏賊[するめいか]  鰈[かれい]






  第53話 

 鶴巻 梵天池

     田安雄さんのお話 

 
 鶴巻を通る伊勢原、十日市場街道

 旧矢倉沢往還(県道)を笠窪の(箕輪の駅)跡を経て神明神社下から(佐野製菓前)坂道を下ると、雨沼の幡松院西光寺の門前に出る。ここを右に折れて僅かに進むと、右側に旅館梵天荘がある。その西奥に小さな石碑が建っている。これが土地の人達がいう「梵天はん」である。
 由来碑によれば、約二百年前、一人の修験者が行き倒れになり苦しんでいるのを土地の人々が助けたという。この修験者は、出羽三山から各地巡釈のみぎり、当地で発病、土地の人々の手厚い看病の甲斐もなく、この世を去って逝った。土地の人々はこれを哀れみ、手厚く葬り、後に供養塔を建てて供養をした。ちなみに雨沼、芦谷、谷戸では、清水、原、磯部の三家が中心となり講を作り、梵天はんの祥月命日の供養を伝承しているといわれるが今は定かではない。
 私の幼い頃には、そばに梵天池と呼ばれている小さな池があった。池には冷たい綺麗な水が満々と湛えられて、雨沼、芦谷前の水田を潤していたが今はその面影もない。
 そこから僅かに進むと日産住宅が見えてくる。それを左に見て陣屋の入り口へ進み、さらに和田さんの角、矢倉沢往還(旧県道)との分岐点三差路を右に進むと大和旅館の前に出る。百米くらい進み、みゆき旅館前で左側に折れる。ここは昔、「馬洗い戸(馬あれえど)」と呼ばれた所で、農耕馬の水浴場であった跡地である(みゆき旅館の辺)。「大椿(でえちん)谷戸」を経て「大上(おおがみ)谷戸」へ進む。このあたりが昔、落幡の中心であろう。なぜか北村、岩田、相原の姓が多い。
 大きく曲がりくねった路を通り抜けると、道祖神が見えてくる。この道祖神は、大上谷戸の大半が講中となり、守り保存してきたものであるが、先年、陣屋の宮崎様の協力により、現在のように整備されたという。そして地域の皆様により、毎日きらすことなく、綺麗な花が飾られている。
 左に上部自治会館を見て登り坂を進むと、右奥に北村バラ園の温室が見えてくる。更に進み伊藤水道屋の角を曲がると、石座神社の赤い鳥居が見えてくる。急な石段を登り台上に上がりあたりを眺めると、境内は小高い丘になっている。日本武尊命(やまとたけるのみこと)をお祀りしてある大六天はん(でえ六てん)である。御祭神は神話の中でも戦の神様として知られ、ひと際伝説の多い神様といわれている。
 神社の前を左に大きく北村さんのバラ温室を回り、山街道へ出る袖社裏を、北矢名の蛇窪へぬけ、菅原神社の裏、天袖山を過ぎると矢名谷戸、南矢名の八幡はん。ここに右の道標があり「右伊勢原(いせばら)左十日市場町」と、記されている。瓜生野、才ケ分、本町と、弘法山の山裾を大きく迂回して、伊勢原市から秦野市本町へ進んだ街道が、徳川時代から大正時代まで(小田急開通)伊勢原、十日市場街道と呼ばれていたという。
 
     武注:「大椿(でえちん)」という昔からの地名は、今「大椿・オオツバキ(台)」となって残っている


秦野の七月


半夏生
 夏至から数えて十一日目、この日から後に植えた稲は実らないといわれ、なにがあっても田植えはこの日までに終わらせた。変わり物(ご馳走)をつくって神棚に供える家もある。
七 夕
 七日の朝、サトイモの葉に玉になっている朝露を取って来て、この露で墨をすり、短冊に願いごとなど書いて若竹の枝に吊るす。翌八日の朝、これを田の畦に立てて来る。これを「七夕流し」と言うが「稲の害虫を流す」虫送りの意味をもっている。
お 盆
 十三日から十六日まで多彩なお盆行事が繰り広げられる。たばこづくりの仕事の関係で、秦野では七月のお盆が多い。十三日は朝から辻つくり。家には盆棚を飾り、ナス・キュウリで馬と牛をつくり、仏壇の本尊さまと位牌を棚に出しておまつりする。夕方、門口に作った《辻・砂もり》のそばで迎え火を焚く。また、この火を線香に移し、近所にも供えて回る。十四日にはアンコロ餅をつくって盆棚に供え、十五日は仏さまのお買物日だからと、牛・馬の背にソーメンを載せ、お金も供える。十六日には米のだんごを供えて盆棚を片付け、飾っておいた牛・馬・だんごを川に流しに行く。(この項『寺山物語』その8を読んでください)
中 元
 七月十五日のこと。この日までに親や目上の人に贈り物をして感謝の意をあらわす。嫁が実家の墓参りをしたり、お中元の品を届おけに行くことを「イキミタマに行く」といった。
マンガレイ
 マンガレイとは「馬鍬(マグワ)あるいは万能鍬(マンノウグワ)を洗う(アレーは秦野弁で「洗う」ということ)」ことで、「農上がり(田や畑から上がること)」の行事。田植えが一段落したところで農具を洗い、一カ所に飾って農具に感謝する。地区によって日が違い、日が決まると「言い継ぎ」で各家々に伝達された。お盆を過ぎたこの時期、農休みとして一日ゆっくり休む。
土用入り
 土用は春夏秋冬四回あるが、とくに立秋のまえ十八日間が土用として重視されている。この日は「土の気が働く」ともいう。四季の変わり目であるが、とくに夏の土用は暑気当たりにならないよう《丑の日》に頭に灸をすえたり、ウナギを食べて夏負けしないようにする。土用期間中の天候の良し悪しで豊凶を占うお年寄りも多い。
虫送り
 「虫まじない」「虫祭り」ともいい、稲の害虫を追い払うための行事。大根地区では、斎藤実盛さまが害虫を背負って遠くへ飛んでくれる、という伝承が残っている。

七月の異称  文月[ふみづき・ふづき]  七夕月[たなばたづき] 七夜月[ななよづき] 愛逢月[あいぞめづき] 女郎花月[おみなえしづき] 親月[しんげつ]

季節の言葉  盛夏[せいか] 真夏[まなつ] 猛暑[もうしょ] 灼熱[しゃくねつ] 驟雨[しゅうう] 夕立[ゆうだち] 稲妻[いなづま] 涼風[りょうふう]
 打ち水[うちみず] 蝉時雨[せみしぐれ] 集中豪雨[しゅうちゅうごうう] 鉄砲水[てっぽうみず] 真夏日[まなつび] 油照り[あぶらでり] 虹[にじ]

季節の花  山百合 黒百合[くろゆり] 御前橘[ごぜんたちばな] 乳母百合[うばゆり] ねじ花 山苧環[おだまき] 蓮[はす] 鹿子百合[かのこゆり] 透百合[すかしゆり] 日光黄菅[にっこうきすげ] 紅花[べにばな] 合歓木[ねむのき] 木槿[むくげ] 睡蓮[すいれん] 野花菖蒲[のはなしょうぶ]

今が旬  枇杷[びわ] 桜桃[さくらんぼ] 桃[もも] 西瓜[すいか]  メロン  マッシュルーム(シャンピニョン)  きゅうり/きうり] 玉蜀黍[とうもろこし] トマト オクラ ピーマン 枝豆[えだまめ] 南瓜[かぼちゃ] 鰺[あじ] 太刀魚[たちうお] 鱧 [はも]  いさき 鰹[かつお]  穴子[あなご]  鮑[あわび] 鱸[すずき] 鮎[あゆ] 鯣烏賊[するめいか] 鱚[きす]  鰻[うなぎ]


秦野の六月

 入 梅
 暦の上では11日、いよいよ雨の季節で田植えが始まる。秦野の田植えは横二さく植えや、六さく後ろさがり植えというのが普通だった。昔は、初めて田植えをする日のことを「田植え正月」といい、朝、餅をついて近所や親戚に配ったり、手伝いの人たちにもご馳走してお祝いをした。植え終わったら苗三束をかまどの前に立て、ここにも餅を供えて祝った。
大 祓 
 30日におこなう。夏越祭。病気や災難から逃れ夏を丈夫に過ごすお祓いをする。氏神様から祓札と人形が配られたり、茅の輪くぐりをし、半年の間に取り付いた罪と穢れを祓い落とす。

六月の異称  水無月[みなづき] 水月[みなづき] 風待月[かぜまちづき] 青水無月[あおみなづき] 蝉羽月[せみのはづき] 鳴神月[なるかみづき] 田草月[たくさづき] 夏越月[なごしのつき]

季節の言葉 芒種[ぼうしゅ] 麦を収めて稲を植える 夏至[げし] 21日 夏の最中 東京の昼の時間 14時間35分
初夏[しょか] 麦秋[ばくしゅう] 梅雨[つゆ・ばいう] 入梅[にゅうばい] 梅雨空[つゆぞら] 梅雨晴れ[つゆばれ] 五月晴れ[さつきばれ] 長雨[ながあめ] 田植え[たうえ] 短夜[みじかよ] 霖雨[りんう] 五月闇[さつきやみ] 五月雨[さみだれ] 海霧[かいむ] 白南風[しろはえ]

季節の花  花菖蒲[はなしょうぶ] 紫陽花[あじさい] 額紫陽花[がくあじさい] 銭葵[ぜにあおい] 立葵[たちあおい] 大山蓮華[おおやまれんげ] 泰山木[たいざんぼく] 夏椿[なつつばき] 卯木[うつぎ] カラー 敦盛草[あつもりそう] 岩鏡[いわかがみ] 九輪草[くりんそう] どくだみ 雪の下[ゆきのした] 皐月[さつき]

今が旬  苺[いちご]  夏蜜柑[なつみかん]  枇杷[びわ]  桜桃[さくらんぼ]  玉葱[たまねぎ]  ジャガ芋(馬鈴薯[ばれいしょ])  キャベツ(甘藍[かんらん])  グリンピース(青豌豆[あおえんどう/あおゑんどう])  蚕豆[そらまめ]  アスパラガス  莢豌豆[さやえんどう/さやゑんどう]  胡瓜[きゅうり]  オクラ  莢隠元[さやいんげん]  トマト  ピーマン  茄子[なす]  新茶  鰺[あじ]  太刀魚[たちうお]  鱚[きす]  鱧[はも]  いさき  鰹[かつお]  穴子[あなご]







  第52話 

 4月29日 市制50周年記念事業
ふるさと自慢シンポジュウム

 


                        
パネラーの発表内容


鈴木 和久(本町)
 上宿観音を利用した賑わいのある商店街づくりのため、月一回(第1金曜・土曜)上宿観音市を開催。7年程前、とげぬさ地蔵の縁日をイメージして開始した活動について。

三杉 克篤(南)
 平沢同明の湧水、苧泉の荒井湧水、太岳院湧水池などを取り上げ、湧水を取り巻<環境、水と人間との関わりがテーマ。

武  勝美(東)
 旱魃対策の横穴井戸、小・中学校の校歌に歌われている清水の記念碑建立、国民学校の学校水道の水源地など、江戸時代からの寺山の生活に密書した湧水が現在どのようになっているか。それらにまつわる民俗伝承的なことがらも紹介。

持斎 信一(北)
 他地区と比較し石仏などか多い北地区の特徴を踏まえ、山王塚、仙元大神(センゲンダイシン)の由来などを紹介するとともに、まちづくりとして取り組んでいる枝垂れ桜の里つくりについて。

井上 一夫(大根)
 景観の立場からみたまちづくりとして、大根地区のよいところを紹介するとともに、地域の景観まちづくりとして10年前から取り組む「鶴巻あじさい散歩道」づくりり活動について。

椎野 恭治(西)
 環境省が行う里山・里山保全再生モデル事業のモデル地区として選ばれた場所を紹介するとともに、渋沢丘陵の大切さ(資源・歴史としての重要性)を、自らの保全活動や将来に引さ継いでいく必要性などを含めて発表。

秋山 健夫(上)
 秦野市指定第1号である「生き物の里」を中心とした上地区の「いいとこ紹介」を行うとともに、生き物の里を維持・管理していくうえでの苦労話や、地域か主体となり行政の協力を得なから進めていくまちづくりについて。






秦野の五月

 八十八夜
 毎年二日ごろ、立春から数えて八十八日目。このころを「八十八夜の別れ霜」といい、霜や寒さの心配がなくなるというので、野菜の種をまき、早いところでは新茶摘みをするなど、農作業が本格的に始まる季節である。
 
こどもの日
 本来は男の子の節句。端午の節句ともいい、昔は五月の最初の午の日だったが、今は五日。桃の節句に対して、菖蒲の節句、尚武の節句などともいわれて、男の子の成長を祝った。嫁の実家から長男のために鯉のぼりが贈られると、組内の人が総出でのぼり立てをし、祝宴に招かれた。また“うなり”のついた大きな出世凧を上げた。秦野地方の「《達磨凧》は有名で、今は民芸品として売られている。どこの家も柏餅をつくり、魔除けの菖蒲湯に入った。

五月の異称
皐月[さつき] 中夏・仲夏[ちゅうか] 橘月[たちばなづき]  早苗月[さなえづき]  多草月[たそうげつ]  鶉月[うずらづき] 梅色月[うめのいろづき] 雨月[うげつ]  五月雨月[さみだれづき]  早稲月[わせづき]  

季節の言葉 晩春[ばんしゅん] 惜春[せきしゅん] 向暑[こうしょ] 薫風[くんぷう] 若葉[わかば] 新緑[しんりょく] 藤の花[ふじのはな] 初夏[しょか] 五月雨[さみだれ] 八十八夜[はちじゅうはちや] 葉桜[はざくら] 鯉幟[こいのぼり] 五月晴れ[さつきばれ] 卯の花腐し[うのはなくだし] 麦秋[ばくしゅう] 青嵐[あおあらし/せいらん]

季節の花
水芭蕉[みずばしょう] 菖蒲[しょうぶ] あやめ 杜若[かきつばた] 鈴蘭[すずらん] 錨草[いかりそう] 赤詰草[あかつめくさ] 白詰草[しろつめくさ] 浜昼顔[はまひるがお] 躑躅[つつじ] 芍薬[しゃくやく] 藤[ふじ] ライラック

今が旬
甘夏[あまなつ]  苺[いちご]  夏蜜柑[なつみかん]  蕗[ふき]  筍[たけのこ]  蕨[わらび]  玉葱[たまねぎ]  ジャガ芋(馬鈴薯[ばれいしょ])  キャベツ(甘藍[かんらん]))  グリンピース(青豌豆[あおえんどう])  蚕豆[そらまめ]  アスパラガス 莢豌豆[さやえんどう]  トマト 飛魚[とびうお]  真鯛[まだい]  鱒[ます]  鰺[あじ]  太刀魚[たちうお]  鱚[きす]  鰹[かつお]  いさき






  第51話 
   
 
地名・秦野(はだの)」の由来


 「秦野・はだの」という地名の由来

 秦野の郷土史家梅沢英三先生は次のようなことを地名「秦野」の起源とされています。
(1)ハタケ(畑)が多いから。
(2)丹沢の山並みがハタ(幡)のはためく形に見えるから。
(3)帰化人の秦氏によって拓かれた地だから。
 その他にも次のような由来があげられているようです。
(4)山の端(ハタ)に広がる地だから。
(5)仁徳天皇は帰化人秦氏を全国に派遣し機織をひろめた。その人たちは波多氏と称し、居住した地は幡多郷(ハタゴウ)と呼ばれていたので。
(6)蓑毛宝蓮寺に秦河勝が不動明王を祀った(650年ころ)。そのことから秦氏にちなんだ地名が生まれた。
(7)ハダける(地形をあらわす古語「ハダける・崩れる」地だから。
(8)ハタく「叩き落とす」から生まれた地形用語。秦野は大山・丹沢の崩壊地。
 こんな諸説の中、私が気に入っている説は「丹沢の山並みがハタ(幡)のはためく形に見えるから」です。ジャスコかラオックスの屋上駐車場から塔ケ岳に連なる丹沢山塊を眺めると、その山並みは「幡のはためく姿」に見えます。四季を問わずその雄大な山並みは、塔が岳山頂に向かって右上がりに翻る幡です。その景色を飽かず眺めている私です。そしてこの景色を愛でた先人達が「はだの」とこの地を命名したことに感心し、よろこんでいるのです。 
 秦野市のホームページは地名「秦野」の由来について次のように紹介しています。
(1)秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もその1つです。平安時代に書かれた「倭名鈔」には秦野の古名は「幡多」だったと記載されています。いずれにしろ、秦野には古くから多くの人々が住みついて、困難を克服し新天地を形成していったと考えられます。
(2)波多野氏の発祥と発展
 承平の乱(935)をおこした平将門は、藤原秀郷によって倒されました。秀郷はその功により、東国(武蔵・下野)の国司に任ぜられ、その子孫・藤原経範が秦野盆地の原野を開墾土着し、勢力を広めていったと考えられています。この経範は波多野氏を名のりました。
 

 秦野は「ハダノ」? それとも「ハタノ」なの?
 今は秦野は「ハダノ」と発音・音読されていますが、戦後の一時期「ハタノではないか」と混乱したことがありました。上に書いた秦野というの地名の由来や、波多野という姓を作った藤原経範にすれば「秦=波多・ハタ」ではないかと思うのです。
 ところで、新編相模国風土記稿・巻之四十二・村里部 大住郡巻之一で紹介されている「波多野庄」の「波多野」に「葉駄迺」と読み仮名が付けられています。「迺」という字は「ダイ」「ナイ」と発音する文字ですが、「迺」=「乃」という意味から、仮名ふりの「ノ」として「迺」が用いられたようです。このことは1840年ころ、波多野に住んでいた人たちは「波多野」を「ハダノ」と発音していたことが分かります。この仮名ふりをよりどころにして「秦野」は「ハタノ」ではなく「ハダノ」と音読・発音するようになったのです。



秦野の四月

雛祭り  
 秦野の「桃の節句」「女の子の節句」は四月三日。そして二日、三日は「お花見」でもある。
花まつり
 八日、お釈迦さまの誕生日を祝う。寺山の円通寺でも甘茶をたて、檀家はそれをいただくために、瓶などを持ってお参りする。
春祭り
 秦野地方では、ほとんどの神社が四月中にお祭りをおこなう。昔は、四月になると、盆地のどこかで毎日のように祭の太鼓の音が聞こえた。今はほとんど日曜日に行われる。寺山の鹿島神社は、かつては四月十日がお祭りだった。今年は四月十日がちょうど日曜日に当たるので、この日がお祭り。
一粒万倍日 
 農家はそろそろ田んぼの準備。種籾を水に浸す。

四月の異称
卯月[うづき] 卯花月[うのはなづき] 木葉取月[このはとりづき] 夏初月[なつはづき] 花名残月[はななごりづき] 花残月[はなのこりづき] 餘月[よげつ] 初夏[しょか] 孟夏[もうか]

季節の花
桜[さくら] チューリップ 花水木[はなみずき] 木瓜[ぼけ] 山吹[やまぶき] 春蘭[しゅんらん] 一人静[ひとりしずか] 菫[すみれ] 片栗[かたくり] 蓮華[れんげ] 桜草[さくらそう] 座禅草[ざぜんそう] 浦島草[うらしまそう] 熊谷草[くまがいそう]

今が旬
苺[いちご]  夏蜜柑[なつみかん]  芥子菜[からしな]  独活[うど]  蕗[ふき]  筍[たけのこ]  蕨[わらび]  蛤[はまぐり]  さより  飛魚[とびうお]  真鯛[まだい] 鰺[あじ]  太刀魚[たちうお]




2005年3月1日更新

  第50話 
   
    寺山ものがたりを歩く


 「東地区の歴史と文化」の授業を受けて   秦野市立東小学校6年・総合的な学習(1月26日)   

 東地区がもっと好きになりました

▼今日はお話をありがとうございました。私も清水をこの目で見たかったです。少しがっかりしました。それと秦野という地名の理由がとてもおもしろかったです。秦野、東地区がもっと好きになりました。   阿南 知子
▼今日は秦野のことを教えてくださってありがとうございました。僕は清水についてと名古木についてが、印象が深いです。きかいがあればもう一度秦野のことを話してください。   古谷 竜二
▼1月26日はありがとうございました。ぼくが一番興味をもったのは「秦野」という地名にはいろいろな説があるということでした。武先生は高いところから山の景色を見るのが好きだと言っていましたが、僕も好きです。マンションの最上階なのでそこから山の景色を眺めて「イイナー」と思います。   青山 哲也
▼あの歌詞が120年前の東小の校歌と聞いてビックリしました。ありがとうございました。   関原めぐみ
▼武先生、私たちの地区のいろいろなことを教えていただきありがとうございました。「秦野」という地名の意味を家に帰って父母に教えました。   木津谷沙輝
▼初めて知ったことがたくさんありました。秦野誕生の理由と由来。しかも由来が7つもあるなんて、ビックリしました。今日はとても楽しく勉強できました。   安田 彩音
▼秦野のことをいろいろ教えてくれてどうもありがとうございました。私は秦野に住んでいるのに知らないことばかりでした。私も遠くから見る山々が大好きです。とても楽しかったです。   尾尻 杏奈
▼秦野は湧き水がいろいろなところに湧いていることは知っていましたが、校歌の一部になっていることを今回の話でよくわかりました。またきかいがあったら話をお聞かせください。   松本恵理子
▼今日このあたりの話を聞いてすごく勉強になりました。私は落合に住んでいるので、落合の地名の由来を聞いて、二つの川が落ち合っているからなのだと初めて知りよかったです。   野川みさき
▼楽しくてためになるお話を聞かせてくれてありがとうございました。この話を聞いて僕は少し大人になったような気がします。これから勉強をがんばりたいと思います。音楽会にはぜひきてください。   宮崎 晃太
▼東雲小学校の校歌のメロディーをがんばって考えてみます。武先生の話をもとにもっとすてきな秦野市を築いていきたいです。   峯尾てをり
▼武先生の話が聞けてとてもうれしかったです。私は物知りになれました。他の地区の事も知りたい時は先生のウチに行きます。家が近いので。   石垣 彩香
▼今日は本当にすてきなお話をありがとうございました。ずっと秦野に住んでいたのに、まだまた知らないことがたくさんあるんだと思いました。これからもずっとここに住んでいこうと思います。   伊野友里子
▼秦野の由来や「清水ケ丘」のことを教えてくださりありがとうございました。宿題 きちんとやりたいと思っています。   上原 葵
▼東地区についていっぱい知りました。これから東地区に住んでいることをほこりに思っていきたいです。   原 ゆきみ
▼東地区の歴史を楽しく学習することができました。と同時にもっといろんなことを知りたいと思いました。   草柳 貴恵
▼秦野は昔、波多野ということを教えてくれてありがとうございました。帰りに田原学校の碑を見ました。   久木 敏幸
▼ビックリするような話ばかりでとてもためになりました。そして楽しかったです。校歌の「清水ヶ丘」を歌うときには武先生が言った所を思い浮かべながら歌います。   高橋 祥弘





               「寺山ものがたり」を歩こうのスナップ

          1月25日(東公民館主催・市制50周年事業)/2月20日(寺山自治会主催)


金目川のほとりの馬頭観音群

大山道の道標(藤棚)

清水湧水池跡の記念碑

鹿島神社

学校水道の水源地

波多野城址を真向かいに

写真提供・桜田茂氏(東公民館)





 秦野の三月

社日(3月15日か25日)
 春分の日に近い戌(イヌ)の日。家の近くの天社神(地神)に赤飯をあげ、田の神に今年の穀物の生育を祈る。
春分の日(3月20日)
 今年は17日が彼岸入り、明けは23日。この1週間の間に墓参りをする。「入りボタ餅に明けダンゴ 中の中日小豆飯」をつくりご先祖に供える。

三月の異称
弥生[やよい・いやおひ] 花月[はなづき・かげつ] 桃月[ももづき] 桜月[さくらづき・おうげつ] 禊月[みそぎづき] 夢見月[ゆめみづき] 花見月[はなみづき] 花惜月[はなおしみづき] 春惜月[はるおしみづき] 竹秋[ちくしゅん・たけのあき] 晩春[ばんしゅん] 暮春[ぼしゅん] 残春[ざんしゅん]

季節の言葉
早春[そうしゅん] 浅春[せんしゅん] 春暖[しゅんだん] 春色[しゅんしょく] 春雪[しゅんせつ] 解氷[かいひょう] 春雨[はるさめ] 麗日[れいじつ]
桃の節句[もものせっく] 春分[しゅんぶん] 卒業[そつぎょう] 三寒四温[さんかんしおん] 菜種梅雨[なたねづゆ] 花曇り[はなぐもり] 桜前線[さくらぜんせん]
 

季節の花
蕗の薹[ふきのとう] 菜の花[なのはな] 蒲公英[たんぽぽ] 馬酔木[あせび] 辛夷[こぶし] 山茱萸[さんしゅゆ] 沈丁花[じんちょうげ] 猫柳[ねこやなぎ] 白木蓮[はくもくれん] 三椏[みつまた] 連翹[れんぎょう] 雪柳[ゆきやなぎ] 木五倍子[きぶし]

今が旬
伊予柑[いよかん]  甘夏[あまなつ]  京菜[きょうな]  浅葱[あさつき]  子菜[からしな]  菠薐草[ほうれんそう]  蕗[ふき]  春菊[しゅんぎく]
白魚[しらうお]  鰆[さわら]  鰊[にしん]  






2005年2月1日更新

  第49話 
  寺山物語 第41回

 
東秦野国民学校の水道の水源跡



小泉さんが学校に提供した水道水の水源


 
水神の祠(左)と記念碑



 寺山の奥、角ケ谷戸の集落の東側に大仙寺という小字名の地がある。大仙寺地区は北方の竹やぶから湧く水を使っての田んぼが広がっているが、今はほとんど休耕田で寂しい風景になっている。大仙寺という地名は、かつてこのあたりに大仙寺という寺があったと『新編相模国風土記稿』にも記されている。今も進められている県道秦野大山線の道路工事で、人骨がたくさん出土し、円通寺の住持が供養を行ったと聞いている。その大仙寺と角ケ谷戸が接する竹林の中に、東秦野国民学校の水道の水源地跡がある。

 秦野市が先ごろ発行した「秦野市教育史・第1巻」によると、現在の秦野市立東小学校に次のような記録が残されている。
 
学校水道改修ニ就イテ(18・4・1日 記)

本校水道敷設以来約二十年ヲ経過シ鉄管ノ腐朽甚ダシク為ニ舎内ノ雑用水ハ勿論飲料水ニスラ事欠ク状態ニテ之レガ改修ノ急務ナルヲ痛感シ村当局及学務委員ノ熱烈ナル支持共感ノモトニ之レガ着手ニアタル遇々小泉賢司氏積極的ニ且ツ献身的ニ協力シ自家山林中ニ水源地ノ実地踏査ヲ試ミ或ハ八戸ノ分水家屋二時間制断水ヲ実施シ又ハ現水源地ノ浚渫ヲナス等常ニ卒先好意的調査計画ヲ進ム学務委員亦井戸ノ水量測定或ヒハ清水ヨリモーターニヨル給水等百方調査研究ノ結果専門家ヲ聘シテ実測ノ上現水源地ノ改修最モ時宜ニ適シ且ツ可能性充分ナリト決定ス 大磯町学校平塚市第四校秦野中学校等ノ実地見学ヲナシ次イデ東京市猪崎商店訪問資材工事等ノ研究ヲナス
一、水道改修委員任命サル
  村ヨリ学務委員 松本仲次郎(中途退任) 武建三 小沢利助 小泉賢司 校長 続イテ高橋光穏 山口喜源次
一、着工(昭和十七年七月二十二日) 全長一○二五メートル          
  工費予算 金七千円也  村内三千円 村外四千円寄附募金
  資材 エタニットパイプ 三吋エルボジョイント カラン 猪崎商店 島半商店納入
  水源地改修 水門
  水呑場 足洗場 二ケ所  大本氏請負
  工費 学校職員児童役場吏員各字村民総役ノ奉仕作業ニヨル 猪崎技師 鈴木技師  請負主任
一 竣工(十七年十一月三日)
 1 小泉家 学校 全線通水 成績良好
 2 消火栓三個付設バルブニケ所(小泉家付近、学校内)
 3 水神祭祀 境内ハ小泉氏 板倉氏ノ寄付ニヨル
   尚水道水源地前ノ田約三畝、根倉氏ヨリ村ニテ買受ケ学校ニテ管理ス 登記済
 4 落成式 水神祭記念日 十一月三日
 5 感謝状贈呈 寄付者並功労者二対シ
 6 水道記念碑設立
   村長      大津為一郎
   助役 委員長  武 健三 
   水道委員 小泉賢司 小澤利助 山口喜源次 高橋光穏 校長岡田稲雄


 現在の水源跡を訪ねてみた。横穴式井戸の上部の竹林の中に記念碑と水神の祠が祀られている。その碑には次の文が記されている。

記念碑
本水道ハ曩ニ小泉勝五郎氏ノ好意ニヨリ本村学校ニ於テ分水給与ヲ受ケ至ル所今般村費六千五百余円ヲ投シ村民各位ノ奉仕作業ニ依リ水源ヲ拡張並ニ給水管等ノ改修工事ヲ施シ完成ヲ見ルニ至レリ仍ニ小泉賢司根倉富七氏ノ寄附ニカカル水源神地ニ神ヲ創祀シ茲ニ鎮座祭並竣工式執行ニ當リ関係諸氏ノ行為ヲ多トシ沿革ノ概要ヲ誌シテ碑文トス 昭和十七年十一月三日 東秦野村 
 
文中の難しい漢字 《曩》 「サキ」と読む、意味は「以前に、先に」
         《仍》 「サラ」 意味は「加えて、その上」
         《茲》 「ココ」 意味は「ここに、ここにおいて」    

 この水道水で学校生活を送ることが出来た私である。既に取水されなくなっているが、今もその水源のコンクリートの門扉から水がしみ出ていた。




 秦野の二月

 御棚納め(2月1日)
 我が家では1月31日の夜、お正月飾りがしてある神棚仏壇など全てのところにお灯明とお神酒を上げる。そして2月1日の朝、米のご飯を供え、その後お飾りを下ろす。これが「御棚納め」という行事で、これでお正月行事はおしまい。外したお飾りは初午の日に畑(我が家は今は田んぼをもっていないので)でお焚き上げをする。この日、山から降りてくる田の神を火を焚いてお迎えするのだ。初午は稲荷さんのお祭りの日。稲荷は「稲生り・稲成り」で五穀豊穣の神さま。

二月の異称

如月・衣更着・気更来[きさらぎ] 萌揺[きさゆるぎ] 木更月[きさらづき] 梅見月[うめみづき]  木芽月[このめづき]  早緑月[さみどりづき]  雪消月[ゆききえづき]  令月[れいげつ]  
今が旬


八朔[はっさく]  蜜柑[みかん]  伊予柑[いよかん]  甘夏[あまなつ]
榎茸[えのきだけ]  京菜[きょうな]  浅葱[あさつき]  牛蒡[ごぼう]  蕪[かぶ]   白菜[はくさい ]  三葉[みつば]  小松菜[こまつな]  ほうれんそう  春菊[しゅんぎく]  カリフラワー
鰯[いわし]  河豚[ふぐ]  白魚[しらうお]  青柳[あおやぎ]  鰆[さわら]  平目[ひらめ]  むつ  

季節の言葉

節分[せつぶん] 立春[りっしゅん] 晩冬[ばんとう] 春寒[しゅんかん] 餘寒(余寒)[よかん] 残寒[ざんかん] 寒明け[かんあけ] 雪解け道[ゆきどけみち] 春一番[はるいちばん]






2005年1月1日更新

 

 
 第48話
 

 
山下清さんが描いた大山


 

196515日付 朝日新聞神奈川版より

 

麦ふみ

                                                                                              山下 清

 兵隊には兵隊の苦労があり、将校には将校の苦労があって、苦労の種類はちがっても、苦労なことにはかわりがないといわれるので、ぼくもいろいろなところに奉公していろいろな苦労をしました。みんな落第したので、弁当屋の下働きだの、魚屋の小僧だの、別宅の子守だのしたなかで、一番うまくいかなかったのは農家の手つだいでした。
 信州の田舎で麦ふみをさせられたとき、北風がぴゆうびゆう吹いてとてもっめたく、雪のまっ白なアルプスをながめながら、南の方の国へ行ってみたいなと思っていると、主人にそんな上の空で麦をふんではだめだ、麦に「寒さに負けるなよ、いい気になってのびすぎるなよ」と心をこめてふめといわれました。

 神奈川の麦ふみは信州よりあたたかくて気持ちよさそうだけれども、ほかののら仕事がみんな機械になった近ごろでも、麦ふみだけは人間の足でふむのは、機械には麦にいって聞かせる心がないからだと思いました。

 奉公…他人の家に住み込んで家事や家業を手伝うこと。
  麦ふみ…秋まき麦の冬の哲理作業。苗を踏みつけると、一時的に生育が抑えられるが、葉や根、茎が丈夫になる。関東地方では
12月〜翌年2月ごろ行われる。



 寺山物語 第40回

 2005年1月1日の私

 「一夜飾りはダメ」と教えられてきた。それで12月30日は朝からお正月を迎える準備をする。我が家でも、父の時代には門松を立て、注連飾りにも松を添えた。昔はタコーチ山にも松の木がたくさんあった。だがゴルフ場の開発と松くい虫によって今はほとんど松の木の姿は目に入らない。三階の松の枝を取ることは困難になった。私の代になったころは〆飾りは買うものになっていた。
 今年の我が家の正月の飾りは次のようになる。
1大根〆飾り
 ・神棚(大年神 伊勢神宮 氏神・鹿島神社 鹿島神宮 出雲大社 阿夫利神社などを迎える)    
 ・神棚(およべっさん=恵比寿・大黒さんの神棚)
  
2牛蒡〆と一文飾り
 ・荒神さん(火産の神) ・仏壇 ・床の間 ・居間 ・風呂 ・トイレ ・応接間 ・はた織り機 ・パソコン ・耕運機 ・物置 ・車庫 ・外水道 ・ボイラー ・お墓、 
 それに今年から「清水湧水池跡記念碑」にも正月飾りをすることにした。ボタン雪が碑に舞い降りていた。

3玄関飾り
 ・母屋 ・別棟(エコー教育広報相談室)

 大晦日の夜は、大年神、アマテラス大神、鹿島神社、恵比寿・大黒様、荒神様、ご先祖様(仏壇)に灯明を点け、お神酒と年越しそばを供える。
 元旦からの三が日にお供えするするもの
・お神酒、朝食は雑煮(我が家の雑煮は餅、里芋、大根)、
・夕食は温かいご飯(三が日毎夕お米のご飯を炊く)。
 元日の朝食をお下げた後、二つ重ねのお供え(餅)を上げる。
 この正月の神事は年男である一家の主・私が行う。元日の今朝、5時に起床。誰よりも早く起きる私が「あきの方」を開ける。今年は「庚」の方角の勝手口のドアを開けた。大山の頂に雪が残っていた。快晴だった。我が家の三が日の朝・夕食には必ずおお神酒が出る。けっこうほろ酔い機嫌である。




初春の寺山を一緒に歩きませんか。申し込みは東公民館へ
1月4日から受付開始です。








2004年12月1日更新

 
 第47話
 

  寺山物語 第39回

   
江戸時代の寺山の農業



 享保18年(1733年)の寺山村の農業

 田んぼの広さを表す単位に「反(たん)」が使われたのは、大化の改新のころからだといわれています。1反は米1石を生産する広さです。米1石(約150キロc)は、昔の大人一人が1年間で食べる量です。1反の300分の1が一坪です。1坪はおよそ米3合を生産する広さになります。米3合(約150c)は大人一人1日分の消費量といわれていました。  

 寺山のことを書いた古文書によると、享保18年(1733年)の寺山の戸数は38軒とあります。当然のことですが当時の寺山の産業は農業です。

 寺山村の農業の生産高・総石数は621石7斗1升3合でした。総耕地は43町9反4畝7歩(約434,610u)。その内訳は、田7町6反7畝21歩(約75,240u)、畑36町2反6畝16歩(約358,380u)。
 そして、お米は大切ですから田んぼの面積は細かく次のように記録されています。
 1、金目川(現在の金目川橋南側の田んぼ)    5反5畝 9歩(約5,455u)
 2、八講田(波多野城址と中学校の間の田んぼ)  4反9畝24歩(約4,852u)
 3、くぼた(久保の田んぼ)         1町4反2畝17歩(約14,083u)
 4、横畑ケ(角ケ谷戸の田んぼ)         6反5畝13歩(約7,936u)
 5、棒ケ谷戸(宝ケ谷戸の田んぼ)        4反9畝 1歩(約4,850u)
 6、西ノ久保(西の久保の田んぼ)        4反9畝22歩(約4,851u)
 7、志もた(延沢橋付近の田んぼ)
   とうの上(矢名曽裏の田んぼ)
   いりの田(大入り・中入りの田んぼ)   2町4反1畝 7歩(約23,904u
 8、さわしかいと(中学校裏の田んぼ)
   志の田(鹿嶋神社裏の田んぼ)
   みをさ田(内清水の田んぼ)       1町1反4畝18歩(約11,305u)
 7,8がそれぞれ3ヵ所まとめて記録されているのは領主の関係によるものと思われます。

 豊臣秀吉が行った検地(天正10年・1582年)では、田んぼの広さを測ると同時に、田んぼを「上田、中田、下田、下下田」に分けて、収穫量も決めています。江戸時代の長野・牟礼村の記録には「上田は1反当たり1石5斗、中田・1石3斗、下田・1石3斗 下下田・9斗」とあります。他の文献によると、江戸時代、良い田では2石以上の米が取れたようです。

 収穫高による寺山の田畑の格付け(享保18年・1733年)
 田 上々14 上24 中20 下16 下々6
 畑 上々9 上14 中14 下6  下々2
 「上々14」などと記録されている数字は田畑の広さではなく、その枚数のようです。

 1反当たりの種おろし量
 この古文書には、当時の「種おろしの基準」も書いてあります。
 1反(991,73u)当たりの種おろし量(穀物別)
 稲・4升5合〜6升  大麦・6升〜7升5合  小麦・4升〜5升  大豆・2升5合  粟・8合〜1升  稗・3合  菜種・2合  芋・7斗5升〜8斗  煙草(苗)・2500本〜2600本

 天保6年(1885年)の寺山村の農業
 享保18年から150年経った寺山村の農業はどのようになったのでしょうか。
 天保6年(1885年)の寺山村の戸数は93になりました。
 生産高・総石数621石7斗2升6合と記録されています。 
総耕地 104町9反6畝16歩(1037,520u)  田19町9反9畝10歩( 197,010u)  畑84町9反7畝 6歩 ( 840,510u)。総耕地は、開墾が進み、享保18年(1733年)の総耕地43町9反4畝7歩(約 434,610u)の2.4倍に広がっています。ところが総石数は150年前と比べ、わずか1升3合しか増えていません。ほかに、御朱印地(鹿嶋明神社地)2石、御除地(円通寺領)2石5斗も記録されていますが、総石数の微増は不思議です。 
 この年の寺山の総石数621石7斗2升6合を93軒で割ると、6石7斗ほどになります。江戸時代は大人一人が一日に食べる米は一年で1石といわれています。となると寺山の人たちはかなり裕福な暮らしができていたことになります。

 高札場が四か所あった寺山村
 当時寺山村は四つの領地に分かれていました。天保6年(1835年)の地誌御調書上書に、高札場のあった場所が次のように記録されていることからわかります。
 江川邦次郎御分 清水 (名主・庄右衛門)、 米倉丹後守御分 棒ケ谷戸(名主・善右衛門)、 布施孫之丞御分 竹の内(名主・兵右衛門)、 朝比奈市平次御分 宝作(名主・作右衛門)
 現在の清水、宝ケ谷戸、竹の内、宝作というような庭(自治会単位)で領主が支配していたのです。その領主はどのくらいの領民を抱えていたのでしょう。古文書には次のように書かれています。
 江川邦次郎当分御預所  12軒 90石3斗8升3合1勺(領地内1軒の収穫高平均・7石5斗あまり )
   田2町6反8畝6歩(u)  畑12町6反7畝7歩(u)
 米倉丹後守領分 33軒 258石7斗1合(領地内1軒の収穫高平均・7石8斗あまり )
   田7町6反7畝21歩(u)  畑36町2反6畝1歩(u)
 布施孫之丞知行所 19軒 165石6斗9升7合(領地内1軒の収穫高平均・8石7斗あまり)
   田4町9反1畝24歩(u)  畑23町2反2畝25歩(u)
 朝比奈市平次知行所 29軒  106石9斗4升5合(領地内1軒の収穫高平均・3石7斗あまり)
   田4町7反1畝15歩(u)  畑12町8反2畝3歩(u)
 朝比奈氏だけが他の三氏の半分ほどの生産高であるのはなぜなのか興味が湧きます。

 平成16年(2003年)の寺山の農地
 さて、平成16年(2004年)10月現在の寺山の田畑は、地籍では 田158,091.50u、 畑484,484.55uとなっています。天保6年は 田197,010u 畑 840,510u でした。畑が半分に減っていますが、これは寺山が住宅地になったことを表しています。






  

2004年11月1日更新

 
 第46話
 

  寺山物語 第38回

   
頑固なリキさんの話



 台風22号が吹き荒れた日。雨漏りを調べるためにのぞいた床の間の袋戸棚の奥に、スチール製の丸いビスゲットの缶を見つけた。“父のお宝”?と、少しばかり興奮。開けてみると勲章らしきものや記章、バッジ類が入っている。綴じが崩れてしまったこげ茶色の布表紙の手帳も一緒だった。かろうじて「軍隊手牒」と読めるこの表紙の手帳は、日露戦争に行った祖父・武力三郎のものと判った。
 つなぎあわせて読んでみた「軍隊手牒」とは、こんな内容のものだった。

 1明治十五年勅諭(いわゆる「軍人勅諭」) 
 2大正元年勅諭(即位勅諭)
 3読法
 4誓文
 5大正三年勅語(在郷軍人への勅語)
  が書かれている。(2大正元年勅諭と5大正三年勅語は、除隊後挿入されたようで、活字の形や文字の色が違っている。)
 そして、そのあとは、武力三郎の@戸籍 A出身前履歴 B履歴 C褒賞 D褒賞休暇 E出戦務 F欠勤 G罰科 H給与通報 I簡閲点呼など、持ち主の軍隊履歴が記入されている。この部分は、所属部隊の事務係が預かり記入したのだろう。端正な筆致だ。ただ、赤インクの文字もあって完全には読みきれない。
 そこに記されているいくつかのことを書いてみる。 

1「軍歴」
 明治35年12月15日 召集
 明治35年 3月24日 第1師団歩兵第1連隊第12中隊に入隊(満20歳)
 明治35年12月 1日 一等兵  同日 上等兵
 明治37年 3月19日 海外出兵
 明治37年 9月18日 伍長
 明治38年 2月25日 軍曹
 明治38年11月30日 除隊

2「出戦務」(日露戦争は「日本兵士110万が参戦、英霊88429柱」といわれている)
 明治37年5月9日(1904年)清国楊家屯に上陸。以降5月16日、25日、30日、7月26日、27日、28日、30日、8月13日、20日、22日、9月19日、20日と転戦。(書かれている月日はすべて戦争をしている。)9月19日、20日の記録は「寺児溝西の高地千百米の砲台夜襲これを略取」とある。そして「9月27日脚気で入院」している。病院は広島予備病院と記録されている。日付と転戦地が書いてあるだけだが、最後に「脚気による入院」という項で戦争を想像することができる。

3「罰科」
 幼いころ、父・久雄から祖父・武力三郎の軍隊でのエピソードを開かされた。
 戦地での点呼の際、祖父は名前を「ブリキサブロウ(武力三郎)」と呼ばれた。祖父は「タケリキサブロウ(武力三郎)」だから返事をしなかった。自分が「ブリキサブロウ」で呼ばれていることも分からなかった。返事をしない祖父を、上官は「貴様、上官をなめているのか」と殴った。祖父は何回も殴られながら答えたのだそうだ。「自分はタケリキサブロウであります」。それで「営倉に入れられた」と。

 手牒の「罰科」の項に「明治36年8月26日 法則を遵法せざる科 軽営倉5日 禁足4日」とある。これが「ブリキサブロウ」事件かもしれない。 家族にとっても「頑固なリキさん」だった。荷車で平塚まで薪を売りに行った。家の裏で山羊をツブして、家族に食わせてくれた。軍歴を見ると、当時の軍隊の昇進はこれが普通なのかどうかわからないが、昇進がペースは速いのではないか。「頑固なリキさん」だからなのかもしれない。

4「褒賞」の記録
 明治39年2月5日 善行証書附与
 明治39年4月1日 明治37,38年戦役の功に依り勲7等青色桐葉章及金三百円を授け賜わす
 明治39年4月1日 戦役従軍記章を授與す

 手牒の武力三郎の住所は神奈川県中郡東秦野村寺山527番地である。寺山527番地は、現在は金目川橋の北側の竹やぶ。そこは当時「上っ車」と呼ばれ、武家が水車小屋を営んでいたところだ。戦争から帰った力三郎さんは、今私が住んでいる寺山519番地に家を建てている。勲7等青色桐葉章でもらった三百円がここに使われたのは間違いない。
 ところで、明治39年の300円の貨幣価値はどのくらいだったのだろうか。明治37年の陸軍軍曹の基本月俸は9円90銭だった。明治39年に函館で代用教員をしていた石川啄木の月給が12円だったそうだ。物価上昇率や生活水準の向上も考えなければいけないので、当時の貨幣価値を現在と比較することは私にはできそうもない。今からおおよそ100年前の話である。      






2004年10月1日更新

  第45話 余話

  愛甲郡玉川村物語 
 「
昭和16年7月12日の洪水」



 はじめて教壇に立ったのは厚木市立玉川中学校だった。そのときの教え子のKさんから『玉川の歴史と民話を21世紀に』という小冊子がとどいた。この冊子の冒頭に次のような記述がある。
 ・史跡・文化財などを改めてたどり郷土の歴史を学ぶ
 ・先人たちの人間性や心温まる物語を知り、自らが豊かさを育む
 ・郷土を愛する心、人間を愛する心を養い、子や孫たちに継承する
 ・他から訪れた人たちに、郷土「玉川」を広報して、良さを知ってもらう
 ふるさとを思う心がここでも一つの形になったと思った。この厚木市の玉川地区(旧愛甲郡玉川村)は妻にとっても大切な地である。そのわけを当時の新聞の記事を元に紹介・説明してみる。


 読売新聞・神奈川読売版(昭和16年7月14日)には次のような見出しの記事が出ている。

 玉川の堤防決壊 八名濁流に呑まれる 中には可憐な四兄弟
 この見出しに続く記事を要約すると
 「四石四斗一升という三十年ぶりの豪雨のため玉川は十二日の夜から刻々増水し、夜八時ころ玉川村小野地内の堤防六ヶ所が決壊。そのため同部落百五十余戸は浸水、まもなく六ヶ所の決壊口が一つにつながり、延長一町余りの堤が押し流された。各家庭で避難を始めたが4兄弟や自宅で療養中の家族を助けようとした兄妹など8名が濁流に呑みこまれた」。
 この豪雨による玉川村・小野地区の被害は「家屋の流失3戸 半壊7戸 非住家倒壊15戸 床上二尺浸水107戸 床下浸水50戸 水田埋没50町歩 同畑15町歩 橋梁の流失18 堤防流出930メートル 道路流出900メートル 山崩れ9反 家畜の被害・馬1頭・豚30頭・鶏300羽・山羊5頭・兎50羽」と同記事で報告されている。

 そして翌日・昭和16年7月15日の『読売新聞・神奈川読売版』は、この豪雨による被害の続報を次のようにした。
 
 決死の濁流突破行 玉川部落民救った佐藤巡査
 水禍に咲いた警察官の決死美談が罹災者から伝えられ災害後日譚として人々を感激させている。―去る十二日夜折柄の豪雨で刻々に増水する玉川のほとり愛甲郡玉川村駐在所勤務の佐藤武男(四四)巡査はただならぬ濁流の気配に危険を感じ同村小野部落民にリレー式に避難勧告を発しまた警防団の出動を手配を整えて刻々の状況を本署厚木警察に報告したが、去る十三年の水害後二万五千円を投じて完成したばかりの堤防へ部落民は絶対信頼をかけて避難する者は少ない有様、かくするうち堤防は次第に侵食されて遂に六ヶ所決壊、獨流は部落内に怒涛のごとく流れ込んだため電燈、電話線は倒壊断線して闇一色の中に父母を求め吾が子を呼ぶ悲壮な叫喚が続けられたが何分にも凄じい濁流と闇夜のため各々が身をもって逃れるのが勢いっぱいの努力で僅かに残る家屋に乗ったまま死の恐怖と闘いながら不安の一夜を明かした、唯一の通信機関だった電話線も不通になっていまは救援を頼む方法もなくなったので十三日未明佐藤巡査は警防団員の制止をふり払って敢然濁流に飛び込み百米余の対岸まで決死の抜き手をきって泳ぎつき隣村南毛利村の駐在所へ駆けつけてから厚木署へ救援の手配した後再び濁流を渡って部落に戻り途中受けた足の負傷もかまわず応余の処置に奔走したもので急を聞いた厚木署でも田畑署長の指揮下全署員集合厚木町警防団の応援を得て医師看護婦から炊き出し、渡河船の用意まで整えてトラックで出動ここに救援布陣が成った訳で罹災民の激賞からことの次第を知った田畑署長も警察官精神の発露として真に勇敢なその行動に感激近く実情調査のうへ上申手続きを取ることになったが、佐藤巡査は危険を冒して渡河中家屋と者流れる一家六名を綱で救助したことも目撃者から伝えられ重なる賞賛を浴びている。(原文のまま)


 当時4歳だった佐藤武男の次女厚子の、このできごとについての後日談。
 「洪水の川を泳いだことで父は足に大怪我をしたようだった。村の人が順番で毎日父をリヤカーに乗せて病院に通ってくれた。毎日違う人が駐在所に来てくれるのが珍しかった。だからそのことをよく覚えている」

 佐藤武男(武厚子の父)
 明治32年 宮城県白石市に生まれる
 昭和38年 逝去 大雲院武徳道翁居士  厚木市飯山・長谷寺境内に眠る
 警察功労記章受章






2004年9月1日更新
  

 
 第44話
 

  寺山物語 第37回

   尋常高等東雲小学校の校歌

  母の実家は寺山の久保。小さいころ、何度も遊びに行った。砂利道の県道に面していたので、高いマキの木の垣根があった。県道から庭に入る入り口に井戸があった。今、その井戸のあったところに「東雲小学校跡(寺山684−5)」という碑が立っている。その井戸は小学校と共用のものだった、と母は言う。
 東雲小学校は、明治25年(1892年)6月に蓑毛、小蓑毛、寺山を学区として開校し、大正11年(1922年)12月に尋常高等東秦野小学校になるまでその地にあった。明治42年生まれの母に小学生のころの学校生活を聞いてみた。勉強のことはほとんど記憶に残っていなかった。懐かしそうに話したことはイタズラのこと。
 学校の前を大山道が通っていた。それで大山詣での白装束の人が通ると校庭から子どもたちは声を合わせてハヤシ立てた。「“行者、行者、ゼネけえろ(銭をくれ) ゼネをけえねと(銭をくれないと)通さねぞ”ってみんなで言うと、怒って庭まで入ってくる行者もいて、怖かったよう」
 この尋常高等東雲小学校に校歌があった。


   東雲小学校 校歌   作詞 不明 作曲 不明

  一 後に高き 阿夫利山  前には清き 金目川
    この山川に はさまれて 立つ一棟の 建物は
    音にも開けや 我々が もの学びする 東雲校
 
  二 東の空に たなびける あや雲匂う 春の朝
    庭の面に 爛漫と  咲き乱れたる 桜花
    うち眺めつゝ もの学び  数をかぞうる 楽しさよ

  三 桐の一葉の落つる秋  テニスコートに うち立ちて
    仰げば空は 高く澄み 伏せば秦野の 原広し
    ふるうラケット 声ありて 球は飛ぶなり 魔の如く

  四 優しげに はた雄々しげに 草木は緑の 衣つけ
    南の風を 想うとき  遥か彼方の 海原に
    白帆かもめか 知らねども 群がる様の いとしげし
              
 亀崎源蔵氏の記憶されていたものを武俊次氏が採録された。この詞に始めて出会ったとき、私はぺキー葉山が歌った「学生時代」を思った。「あや雲匂う」とか「桐の一葉の落つる秋」というような漢文調の中に「テニスコート」や「ラケット」が登場しているのもおもしろい。
 今、尋常高等東雲小学校の跡地に立ってみると「南の風を想うとき 遥か彼方の海原に 白帆かもめか知らねども 群がる様のいとしげし」という情景が当時の校庭から見えたと思う。メロデイを聞きたいと思い、母に読んで聞かせたが「知らない。歌ったことはない」が答えだった。

 母が昔歌って聞かせてくれた歌がある。多分唱歌だろう。私はその歌が歌える。

  ♪すずめがチュンチュン鳴いてきた からすがカアカア鳴いている
   障子が明るくなってきた 早く起きないと遅くなる

   着物を着替えて 帯を締め 楊枝手洗い忘れずに 
   きれいになったらお早うと 朝の挨拶いたします♪

 数年前、機嫌がいいときに母が子どものころに歌った「まりつき歌」を聞かせてもらったことがあった。

 ♪一番はじめは一の宮 二は日光の東照宮 三は佐倉の宗五郎 
  四はまた信濃の善光寺 五つは出雲の大社(おおやしろ) 
  六つ村々鎮守様 七つは成田の不動さん 八つ八幡(やわた)の八幡宮
  九つ高野の弘法さん 十で東京心願寺 
  これほど心願かけたのに 浪子の病気はなおらんか 武夫がボートに移るとき 
  白い白いハンカチを うち振り回し ネエあなた 早く帰ってちょうだいね 
  死んでもあなたの妻ですわ 泣いて血を吐く不如帰♪
 
 ところで、いつ覚えたのか分からないが「東秦野小学校かぞえ歌」が私の記憶の中にある。この歌を口にするとき、鮮明に当時の諸先生たちを、そして先生にまつわる私の出来事を思い出すことができる。

   東秦野小学校かぞえ歌

   一つ 東のボロ学校 
   二つ F(当時在職の先生のイニシャル・以下同じ)の禿げ頭
   三つ M(学校訪問した進駐軍の将校が「キレイ」と言ったという評判)イイ女
   四つ Y(切れ長の目の先生)横目の大将
   五つ Iのかな靴(蹄鉄)屋
   六つ M(頬の肉の揺れる精悍なコワイ先生)のブルドッグ
   七つ 並んだ禿げ頭
   八つ Yちゃん黒マント
   九つ 校長のオコリッペ(私も叱られた!)
   十でトッチャン M(年配の小柄な図工の先生・人気があった)

 徳富蘆花の名作「不如帰」をまりつき歌にしていた母の時代の子どもたちと、私の子どもの時代の数え歌の内容の違い。だが、「ひとつ」から「とう」まで、先生たちの特色を見事に歌いこんだ「東秦野小学校かぞえ歌」もまた傑作だと思う。





2004年8月5日更新

 

 
 第43話
 

  寺山物語 第36回

       「
清水湧水池跡」記念碑


清水自治会が次代に語り継ぐ碑を建てました


所在地はバス・蓑毛線「東中学校前」  除幕式は8月22日午前9時より

ふるさとを愛する心

 『寺山ものがたり』の中で「清水」の消えることを書いた。県道の改修工事で埋もれてしまった湧水池は、地名「清水」の発祥地であり、東小・中の校歌にうたわれているものだった。歌を歌うとき、私たちはその歌詞の情景を思い浮かべる。「清水ケ丘は夢湧くところ(東小学校)」そして「いつも湧き立つ希望の泉(東中学校)」と校歌を歌う子どもたちに、その情景をどうしても与えたいと思った。だから、せめて文として「清水」があったことを残したいと思った。その思いが『寺山ものがたり』の上梓につながっている。私のその感慨が、清水庭の人たちに伝わったのだ。自治会はこの大事業に取り組むことを決めた。碑文は私が作ることになった。私の生涯で最高の仕事を与えてもらった。私はこの地・清水を愛する心と、高い志向を抱く清水自治会の一員であることを心から幸せに思う。
                   

総合学習「東地区の歴史と文化」の授業

 東中学校1年生の感想文

  武さんは とてもとても秦野を愛しているのですね

 秦野にもやっぱり歴史があるのだなって思いました。地区名の由来を聞いて、昔の地形のようすがすごく表されていることが分かりました。武さんの講演を聞いて何より感じたのは武さんの秦野に対する心です。武さんは、とてもとても秦野を愛していることが私に伝わってきました。秦野のことをもっと教えていただけたらうれしいです。   須山 紗希



 どうして『秦野』という名なのか。私も武先生と同じで「幡がなびくように山が見えるから秦野」というのが好きです。東地区の7つの村の名前もその場所の特徴がよく表されているなと思いました。校歌の「清水ケ丘」(小学校)と「泉」(中学校)のこともよくわかりました。でもその湧き水が消えてしまったのは残念です。でも、その碑を建てることで、次の人たちに校歌の意味が伝わるのでよかったと思いました。早く『清水湧水池跡』の碑を見たいです。   鈴木 可椰



 私は小さいときからずっと秦野に住んでいますが、秦野のことはほとんど知りませんでした。「はたの」でも「はだの」でもどちらでもいい、とほとんど気にしていませんでした。でも武先生の話を聞いてとても気になってしまって、もっといろいろと知りたいと思うようになりました。大山道のこと。校庭に白いタイルが埋めてある意味をしってビックリしました。ほかにもいろいろ気になる話がありました。武先生たちが碑をつくるなんて、すごいなあと思いました。できあがったら見たいです。   高倉 早紀



 先生の話を聞いて一番印象に残ったのは東中学校と東小学校の校歌のことです。四つあった湧き水が全部なくなったのは残念です。僕はその水を見たかったです。でも、誰も忘れないように記念碑をたてるなんて、いいことだと思いました。早く見たいと思いました。次に印象に残ったのは校庭のタイルのことでした。前から校庭をおじいさんやおばあさんが通っているのを見て疑問に思っていました。話が終わった放課後行ってみると本当にタイルがありました。先生の話を納得しました。秦野には僕たちの知らないことがいっぱいあると思いました。またお話を聞かせてください。    山崎 敦 



 秦野の地名の由来が5つもあるなんて知らなかったです。「幡」とか「畑」とかの話がおもしろかったです。蓑毛とか田原の意味も聞かせてもらってよかったです。私は名古木の「和やかなところ」いう話がいちばん気に入りました。校庭に道があるなんて知りませんでした。ただのタイルだと思っていました。それに、家を動かして学校をつくらせてくれた武さんはやさしい人だと思いました。会って見たいです。「清水」の湧き水の話はトテモすてきでした。私は寺山に住んでいるけど、校歌の由来みたいなものがこんな近くにあるとはしりませんでした。夏に碑を見に行きます。   鈴木 春菜





        

2004年7月5日更新

 

 
 第42話
 

  
キビショ   秦野の方言
     


 わが家の食堂の入り口に、遠野地方の方言を染め抜いた暖簾が掛かっている。そこに書かれている方言の一つは「きびちょ」で「急須のこと」と説明がついている。秦野地方でも「きびちょ」は何を指すの言葉なのか判るだろう。子どものころ急須のことを「きびしょ」と言っていたことが記憶にある。潮来生まれの40代の人にも「きびしょ」は通じた。辞典の「明解」には「きびしょ・急須のこと。老人語」とある。「きびしょ」は“全国区”の言葉だった。
秦野言葉は荒いといわれている。甲州で使われる言葉と似ている。方言も似通っているものが多いだろう。私が理解できる秦野地方の方言を、甲州から足柄上郡の方言と比較できたら面白いと思う。

私が判る「秦野地方で使われている・使われていた方言」  (注・カタカナは方言)

・アカサル 教えてもらう  ・アカス 教える  ・アカリー 明るい ・アサヅクリ 朝食前にする仕事  ・アツベッコ 集金  ・アナ あぜ道 畑の周囲のこと  ・アーヌク 上を向く  ・アラク 開墾地  ・アンブク 泡  ・アンマシ あまりに  ・イキレル 湿度が高く蒸し暑いこと

・イケル 埋める  ・イゴク 動く  ・イジクル いじる  ・イタビッコ 板  ・イナブラ 稲むら  ・イノカス 動かす  ・インガー  唐鍬

・ウラッカー 裏側  ・ウラッポ 梢 先端  ・ウント たくさん  ・ウンメー おいしい

・エム ひび割れる

・オオマクレー 大食い  ・オケー お粥  ・オサール 教えてももらう  ・オゾクル 薪を細かく切る  ・オチューハン オコジュー 午後の間食  ・オッコロブ 転ぶ  ・オッサン 坊さん  ・オッペガス 引きはがす  ・オテショ 小皿  ・オトテエ 一昨日 ・オブサル 背負ってもらう

・カッチン玉 ビー玉  ・カッタリー 疲れた  ・カテメシ 混ぜご飯  ・ガンゲン  石段  ・キソッパ 紫蘇の葉  ・キビショ 急須  ・キンノウ 昨日

・クズカキ 温床用の枯葉を集めること  ・クネ 垣根  ・ゲス 下肥  ・ケケル (棚などに)ものを載せる

・コナス 細かくする  ・コネーダ この間  ・コビッツク 焦げ付く  ・コマンガー 鉄製の熊手

・ザァール 笊 ・サクイ さっぱりとした(性格)  ・サクル (鍬などで)掘って溝をつくる  ・サッカケ 鍬の刃先を研ぐ  ・ザッカケ 粗雑な性格  ・サビイ 寒い

・シタジ 醤油  ・ジビタ 地面  ・ショッペー 塩辛い  ・シントー 芯

・スイホロ 風呂  ・ズシ 物置の天井裏  ・ススデー 抜け目が無い  ・スダラモネー くだらない  ・ズネエー 強い

・セッツク せがむ  ・セナゴ 息子  

・ソダ 薪(小枝)  ・ゾンゼー 粗末な 横柄な

・タァーント たくさん  ・タカアシ 竹馬  ・タネアブラ 菜種油

・ヂクドウ 怠け者  ・チッター 少しは
 
・ツクテ 堆肥  ・ツッペル もぐり込む  ・ツットル 突っ込む  ・ツラッパシネー 図々しい  ・ツンダス 突き出す

・デケー 大きい  ・デージン お大尽  ・テッキリ 予期したとおり  ・テネゲー 手ぬぐい  ・テングルマ 肩車

・トアオリ とうみ  ・トオシ 篩(穀物などをふるう)  ・トッケール 取り替える  ・トバクチ 入り口  ・ドンドン 川の瀬の荒いところ 小さな滝

・ナグリ 薪(中枝)  ・ナレエ 東(北東)から吹く風

・ヌカス 言う  ・ヌクテー 暖かい

・ネエショ 内緒  ・ネブク 傾く  ・ネブッタ 合歓の木  ・ネンジン 人参

・ノス 相手を腕力でやつけること

・バカヌカ 大麦を精麦して最初に出る粗糠  ・ハシッケー 速い 小賢しい  ・ ハシャグ 乾燥する  ・ハダッテ ことさらに  ・バラッカケ 引っかき傷  ・ バンゲー 夕方

・ヒッチャバク 引き裂く  ・ヒッペガス 引きはがす  ・ヒトッキリ ちょっとの間  ・ビャクがくむ 土手が崩れること  ・ヒャッコイ 冷たい ・ヒョッコ いびつな  ・ヒョロクリ まとまってない仕事  ・ヒンネジクル 無理にねじる

・フケー 深い  ・ブックラス 終わらせる  ・ブッツサル 座る  ・フンダラダー 踏み潰す

・ボサッカ 草むら  ・ボッコ 無理難題 短気な人  ・ホッツキ歩く 目的も無く歩きまわる

・マッコ 囲炉裏の枠  ・マドロッケー 手ぬるい 面倒くさい  ・ママ 傾畔  ・マミヤ 眉毛

・ミケーゴ 目籠  ・ミシロ むしろ  ・ミンナよ 見るなよ

・モシキ 薪

・ヨカンベー よかろう  ・ヨッピデ 夜通し  ・ヨナゲル 米を水に浸し石や砂などと選り分ける





歴史探求講座    
講演会「まほら東・寺山ものがたり」    

                                                                   2004年7月2日 東公民館

               この講座については「マンスリーエッセイ」のページをお読みください。







2004年6月1日更新

 

 
 第41話
 

  寺山物語 第35回

     寺山の地名の紹介
     
  

 寺山の小字名を略図で紹介します。 現在、自治会名になっている寺山地区内の地名は宝作、宝ケ谷戸、清水、東の原、竹の内、二つ沢、角ケ谷戸、久保の8つです。今も田畑や山林として姿が残っているところの地名は、年配者の間では生きていますが、ゴルフコースになった場所の地名をはっきり特定できる人は少なくなりました。それで、こんな地図を作ってみました。
 寺山の地名も、他地区と同じように地形を表しているものが多いのですが(二ツ沢、角ケ谷戸)、その表現に漢字を使うことで(瑞祥文字「宝作」のように)、地名を解釈するのが難しくなっているものもあります。「大畑」「後ロ畑」などという地名の地は山中で、耕作などできる地形ではありません。「ハタく」は古語で(「叩き落とす」)『崩落地形』を示す言葉です。その「ハタく」」という古語に、「畑」という漢字を当てた人がいたのです。










    
ご参加ください。




2004年5月1日更新

 
 第40話
 

  寺山物語 第34回

  馬頭観音ともう一つの円通寺
     
  


  「秦野のおはなし」第34話で「馬頭観音さん」のお話をした。今回もその『馬頭観音さん』のお話。

 寺山46番地には92の馬頭観音、牛頭観音1、そして牛馬頭観音像が1の計94基が祀られている。東電の送電塔がこの観音群の近くに建てられることになり、今のように整備・祀り直された折、自宅に祀られていたり、道路改修などで行き場に困っていた馬頭観音さんがここに収められたため、94基という数になった。わが家の馬頭観音もここに祀られている。
 寺山地区にはこの94基の馬頭観音さん以外に、まだ次の8基が昔のままに門口などに祀られている。現在秦野市内には馬頭観音が420基あるが、そのうちの104基が寺山地区内で見られる。

寺山397 櫛型馬頭観世音    桐生弥太郎
  444 櫛板馬頭観世音    久保田利助      1889年
  485 櫛板馬頭観世音    武善右ヱ門      1885年
  780(円通寺境内)舟型馬頭観音像   法作・棒垣外   
 1027 櫛板馬頭観世音    鈴木夏造       1886年
 1029 舟型馬頭観音像               1845年
 1201 舟型馬頭観音像(鹿嶋神社境内)       天保 ?年
 1213 櫛板牛馬観世音    武秋一        1956年 

 この8基のうち円通寺境内の馬頭観音像はゴルフ場の工事が始まった時に「お寺に置いてよ」と持ち込まれた。別項で触れたが、この観音像は、現在の小字名「宝作・宝ケ谷戸」の読み方、呼び方を教えてくれる「法作・棒垣外」が記されている貴重な資料となる馬頭観音さんである。
 久保田家では現在も門口に馬頭観音(1889年・明治22年建立)が祀ってあるが、その馬頭観音さんについて当主の久保田宏さんから興味深い話を聞くことができた。
                  

 「子どもの頃、アラシバの坊さんがウチを宿にして、寺山中の馬頭観音にお経を上げていたのを憶えている。大きな桑折を紺の風呂敷で包んで背負って来るお付の坊さんと、二人で来ていた。そのお付の坊さんは前歯がぞろっと無くて、おれたち子どもをカマウのだが、その顔が怖くって。昭和10年ころまで来ていられたかな」

 和泉山円通寺
 面白い話なので「アラシバの坊さん」を調べてみた。すると静岡県駿東郡小山町新芝に和泉山円通寺というお寺があった。偶然なのか寺山のお寺と同じ名前・円通寺である。
 和泉山円通寺の開基は小栗判官助重。小栗判官助重の愛馬「鬼鹿毛(オニカゲ)」がこの地で亡くなったので、その菩提を弔うために寺を建てた。本尊は鬼鹿毛馬頭観世音菩薩で、「アラシバの観音さん」として、牛や馬が大切な労働力だった農家に信仰されていたようだ。相模・甲州・東海・豆州あたりからも参詣があったらしい。
 和泉山円通寺の関隆博師の話では「祖父の帰法隆一僧が二十歳のころから馬に乗り、御殿場・伊豆・足柄上郡あたりをお札を配っていたようだ。戦後はスーパーカブに乗って回ったと聞いている。4月17、18日が大祭なので、その後あたりに出かけたようだ」とのこと。
 この寺山でも、戦前から戦後と、軒並み牛を飼っていた。牛は貴重な労働力だった。だから牛小屋にアラシバの観音さんのお札を貼って牛の健康を願った。そして馬頭観音さんにお経を上げ家畜の菩提を弔った。わが家でも赤い役牛がいた。そういえば、牛車を作る車屋が今川町にあった。牛に鼻環をつけるのを見たことがあったがかわいそうだった。水田の代掻きに鼻面をとった思い出もある。そして昭和20年代後半になって、牛の姿は庭先から消えたように思う。記憶では近所で馬を飼っている家は一軒だけだった。ウチの横の通りを「倉はん(武倉吉)さん」が馬にまたがって颯爽と通るのを見上げる私がいた。
 和泉山円通寺は御厨観音横道第20番札所で詠歌は「とうとやあらしば山を踏みわけて詣りおがみてぼたい祈らん」。この御詠歌が書かれたお札が配られたようだ。 

【由緒】円通寺のパンフレットより
 判官助重公が、長年愛育してきた愛馬「鬼鹿毛」を伴い西へ向う途中、富士山麓の新芝横山という地先で、鬼鹿毛が命つきて亡くなってしまった。助重公は、鬼鹿毛が横山という武将の元で飼育され、また命を終わった処も同じ横山という地であることに、因縁浅からぬものがあると、この地に手厚く葬り堂宇を建てて、助重の母の持念仏を本尊とし、鬼鹿毛頭観世音菩薩と称し、寺号を「鬼鹿毛寺」とした。それから当寺は、牛馬の守護仏としての信仰を得るようになり、近年競馬、乗馬界の隆盛と共にその名を知られ、参拝者も多い。又、酪農家の信仰も厚く、近隣地域に寺の名がますます広められている。更に、開基小栗公と照天姫の物語により、縁結びの参詣者も多く訪れている。

【小栗判官】
 足利将軍義教公の時代、父満重は常陸の国の大将であったが、一色氏の「ざん言」より失脚、一家の再興を願って十人の家臣と共に、鎌倉に住んでいた。その頃、相模の国の豪族で横山前生という者が居り、そこに天下に名高い荒馬がいて、名を「鬼鹿毛」と呼ばれていた。前生はこの馬を御し得た者には、この馬と共に、養女で絶世の美女と誉れの高い照天姫を娶らせると公言して、乗り手を募集した。
 時に助重公は、馬術に掛けては天下に名だたる腕前で、前生の面前に鬼鹿毛を引き出し、天晴れな馬術を見せた。前生はこれを見て、傍らにあった碁盤を指さし「この碁盤に乗ってみよ」と助重に命じた。
 助重公は日頃信仰する観世音菩薩を心に念じながら、見事な手綱さばきで人馬一体の曲乗りを披露したのである。
 その後、助重は照天姫と夫婦になり、名馬鬼鹿毛と共に数々の戦でめざましい戦果を収め、その功績によって小栗家は再興を許されたのである。

 話は横道にそれるが、和泉山円通寺の本寺は駿東郡小山町の宝鏡寺。この宝鏡寺の住職は「実ちゃん」こと、芦月実成師、西中学校に勤務していた頃いろいろ指導を受けた先輩の先生てある。





2004年4月1日更新

  第39話 

  寺山物語 第33回

       円通寺と安養寺
     
  

                                      

 
円通寺山門

寺山のお寺は「福聚山円通寺」

 福聚山円通寺は秦野市西田原ある香雲寺の末寺で、香雲寺の六世真翁宗達大和尚が1571(元亀2)年に開いた曹洞宗のお寺。本尊は釈迦牟尼仏。他に秦野市の文化財に指定されている「十一面観音菩薩」(下の写真)が安置されている。この菩薩さんは像高120.7pの寄木造・玉眼(平成3年解体修理)で製作年代は南北朝期と推定されている。


十一面観音菩薩

 円通寺は二度の火災に見舞われたといわれている。その火災について高橋スエ(旧姓鈴木)さんは次のように話している。「第二回目の火災は明治40年ころ、私は幼かったときのことではっきり記憶にある。夏の施餓鬼の日に紅梅焼きをしていて失火し、あの大きな建物のお寺がものすごい勢いで燃えているのがご神木のすぐ向こうに見えた」(『寺山村の社寺について』武藤一枝・『大墨』昭和55年発行)

 もう一つのお寺「安養寺」 今は廃寺
 本堂の裏の旧墓地に登る石段の右側の一坪ほどの敷地に「安養寺歴住塔」が建っている。裏面には「中丸橋拡張工事の為安養寺歴住墓地を円通寺墓地に移転す 昭和五十九年春彼岸 廿一世流白代」と記されている。鳥の卵の形をした卵塔も3基と船形観音像が一基、その敷地内に祀られている。卵塔とは無縫塔(むほうとう)とも呼ばれる墓石で歴代住職の墓として建てられるもの。
 『寺山村の社寺について』によれば、その一基の表には「権律師善海」裏には「享和一壬戌年(1801年)十一月二十日 施主法吾」と記されているらしい。だが摩滅が激しく、また私の力では読み取ることができない。
 八講山安養寺跡は寺山二つ沢745−1で草柳次男宅の所有地の中にある。上記の書に「安養寺の大藤」の口伝として
 「安養寺の境内に太い藤があって、四方に長く蔓を広げ、拙宅まで伸びていたようだ。その藤にちなんで「藤本」と呼ばれていた、と言う話を聞いたことがある。(遠藤辰次さん)」と記録してある。
 『風土記稿』では安養寺のことを「天台宗秦野市曽屋の龍門寺門徒 本尊三尊弥陀」と紹介している。角ケ谷戸の鈴木恵治さんの宅地内に「子之大権現」が祀られている。その棟札の一枚は「奉造立子之神一宇御武運長久祈候 安永二巳(1773年)七月吉日 寺山村総氏子中 世話人武孫左衛門 祈主安養寺」とある。安養寺は明治の初めころまであった祈祷寺らしい。








2004年3月1日更新

  第38話

 
   
   
地名「秦野」の由来      

         



波多野氏を名のった藤原経範の波多野城址 


 地名 秦野について

 「秦野(はだの)」という地名の由来はいろいろあります。
 秦野の郷土史家梅沢英三先生は次のようなことを地名「秦野」の起源とされています。
(1)ハタケ(畑)が多いから。
(2)丹沢の山並みがハタ(幡)のはためく形に見えるから。
(3)帰化人の秦氏によって拓かれた地だから。
 
その他にも次のような由来があげられているようです。
(4)山の端(ハタ)に広がる地だから。
(5)仁徳天皇は帰化人秦氏を全国に派遣し機織をひろめた。その人たちは波多氏と称し、居住した地は幡多郷(ハタゴウ)と呼ばれていたので。
(6)蓑毛宝蓮寺に秦河勝が不動明王を祀った(650年ころ)。そのことから秦氏にちなんだ地名が生まれた。
(7)ハダける(地形をあらわす古語「ハダける・崩れる」地だから。
(8)ハタく「叩き落とす」から生まれた地形用語。秦野は大山・丹沢の崩壊地。
 
 こんな諸説の中、私が気に入っている説は「丹沢の山並みがハタ(幡)のはためく形に見えるから」です。
ジャスコかラオックスの屋上駐車場から塔ケ岳に連なる丹沢山塊を眺めると、その山並みは「幡のはためく姿」に見えます。四季を問わずその雄大な山並みは、塔が岳山頂に向かって右上がりに翻る幡です。その景色を飽かず眺めている私です。そしてこの景色を愛でた先人達が「はだの」とこの地を命名したことに感心し、感謝しているのです。 もう一つ、「ハダける」から「はだの」が生まれた、という説も気に入っています。

 秦野市のホームページは地名「秦野」の由来について次のように紹介しています。
 (1)秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もその1つです。平安時代に書かれた「倭名鈔」には秦野の古名は「幡多」だったと記載されています。いずれにしろ、秦野には古くから多くの人々が住みついて、困難を克服し新天地を形成していったと考えられます。
(2) 波多野氏の発祥と発展
 承平の乱(935)をおこした平将門は、藤原秀郷によって倒されました。秀郷はその功により、東国(武蔵・下野)の国司に任ぜられ、その子孫・藤原経範が秦野盆地の原野を開墾土着し、勢力を広めていったと考えられています。この経範は波多野氏を名のりました。


 秦野は「ハダノ」? それとも「ハタノ」なの?

 今は秦野は「ハダノ」と発音・音読されていますが、戦後の一時期「ハタノではないか」と混乱したことがありました。上に書いた秦野というの地名の由来や、波多野という姓を作った藤原経範にすれば「秦=波多・ハタ」ではないかと思うのです。
 ところで、新編相模風土記稿・巻之四十二・村里部 大住郡巻之一で紹介されている「波多野庄」の「波多野」に「葉駄迺」と読み仮名が付けられています。「迺」という字は「ダイ」「ナイ」と発音する文字ですが、「迺」=「乃」という意味から、仮名ふりの「ノ」として「迺」が用いられたようです。
このことは1840年ころ、波多野に住んでいた人たちは「波多野」を「ハダノ」と発音していたことが分かります。この仮名ふりをよりどころにして「秦野」は「ハタノ」ではなく「ハダノ」と音読・発音するようになったのです。






2004年2月1日更新


「寺山ものがたり発刊のごあいさつ

 これから大寒というのに、タコーチヤマの雑木林がもう赤みを帯び始めています。ことしの春は早そうです。ご健勝のこととお喜び申し上げます。
 このたび下の表紙のような小冊子を上梓いたしました。

 母校の秦野市立東中学校で十数年間教師をしていたとき、『東中新聞』を子どもたちとつくっていました。その間に取り上げたテーマは多様でしたが、その中には次のようなものもありました。「ふるさとの自然を愛そう―川はゴミ捨て場か」(1971年・昭和46年)、「変貌する東地区―西に東にゴルフ場」、「ツバメのお宿は減りました」、「ふるさとの文化財を訪ねる」。そして1992年(平成4年)には「東学―東地区の水はおいしい・冷たい・ゆたか」という特集を見開き2ページでつくりました。この「水」の特集は、東中学校の生徒達に「ふるさと・東」をとても好きにさせました。私もまた東地区の良さを再発見できました。そんなこともあって『寺山』のことを「いつの日にか書きたい」と思っていました。
 昨夕も清水庭(清水自治会)では、道祖神祭りがおこなわれました。子どもたちは楽しそうにダンゴを焼き、食べていました。そんな子どもたちに「道祖神と一つ目小僧」のことを伝えたいと思ったのです。
 もう20年くらいお世話になっている植木職のEさんとKさんは、寺山育ちの寺山住人です。Eさんは大山道・坂本道が通るイットクボの『みせ』とよばれる家の現当主。Kさんは「ケエッツァン」の何代目かに当たる人です。毎年仕事に来てもらっています。そのお茶の時間に、お二人から、戦前・戦中・戦後と、寺山が変ってきた話を聞くことができました。
 校正を4回おこないましたが、毎回たくさんのページに赤を入れてしまいました。読み返すごとに不安になり、調べなおし、書き直しをしたからです。この上梓は「急ぐべきではなかった。早まった」という後悔の念も少しあります。でも「ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」ことを、次代の人たちに頼みたかったのです。これからも『寺山ものがたり』を書き続けたいと思っています。ご一読くださりご指導をいただければ幸甚です。

   2004年1月15日                          武 勝美




◇自費出版です。ご購読ご希望の方は下記へご連絡ください。
 武 勝美
 〒257-0023 秦野市寺山519
 TEL・FAX 0463-81-4276
 Email echo-take@ab.wakwak.com(このHPの表紙のmailも使えます)
定価2000円 送料210円



行事の意味を伝えることの大切さ

 1月10日にふるさと伝承館で行われた「どんど焼き」で道祖神祭りの話をした。この行事を取材した『タウンニュース』の記者が、NO1967号(平成16年1月17日発行)のコラム『取材メモから』に書いた記事。

 どんど焼きの取材で武氏が子どもたちに話したどんど焼きのいわれ。「写真だけ撮って」と思っていた取材が、話に引き込まれて、最後まで聞き入ってしまった。
 年を経るごとに廃れゆく「年中行事」世代を超えて伝わっていかないのは、行事自体がが時代にそぐわないことがある。生活様式が変われば、意味が通じないものは伝わりづらいのも当然だ。また核家族化・少子化、希薄な近所付き合いなども理由であろう。一方で「恵方巻き」のように「商売になる」とそれまで地方のみの行事が一躍全国区になるというのも面白い現象だ。
 仕事柄、市内で行われる年中行事は時期にあわせ取材し、その都度取り上げているつもりだが、それでも以前に比べれば多少減っただろうか。ただ、その行事の意味を伝えていくことも忘れてはいけない仕事であると武氏の話を聞き終え、再確認した。 
 後日行われた成人式では参加者の一部がステージ前で騒ぎ、指導員にたしなめられるシーンもあったという。式には律儀に出席して、そこでわぎわぎ騒ぐというのも碓解しがたい行動だが、それでも成人の意味も伝えながらこれからも記事にしていこうと思う。    (達)






2004年1月1日更新

   第37話

   寺山物語 第32回

  西ノ久保湧水地と横掘りの井戸
     
  


 新編相模風土記稿(1841年)を発行するため、時の幕府が各村に提出させた「寺山村地誌御調書上帳(1835年)」の中に「旱害場」の項目がある。「旱害場」とは水不足による不作が起こりやすい場所のことで、「北の方に釜土田、胴ケ入、東に下モ田、西に西之窪がある」と四カ所が報告されている。「下モ田」は栃の木沢と猿山沢から流れ出る延沢川の水を使っている宝作の田んぼ。「釜土田」「胴ケ入」は不明だが横畑の沢あたりか。「西之窪」は今は「西ノ久保・ニシノクボ」と表されている。

 西久保湧水地
 寺山に入って最初の大山道の分岐地の道標はコンビニAM・PMの前にある。そのコンビニの横を降りたところにある水田の畔に「水波之賣神(ミズハノメガミ=水神様のこと)」碑がある。1919(大正8)年に建てられたもので、碑には次の7名の連記されている。武新次郎 桐生孝四郎 相原八百吉 古谷萬吉 田代市五郎 関野平太郎 亀崎重吉。碑文は欠けている部分もあって正確には読み取れないが、「ここには昔から天水場があったが水不足の年も多く、特にこの年は近年まれな旱魃になりそうなので以下のものが相談して井戸を掘り水道を引き灌漑用水とすることにした」という内容のようである。
 横掘りの井戸は、県道の下を横切って東に掘り進み、熊野神社(通称・オクマハン)の下を通り、桐生征紀家の宅地の近くあたりまで伸びているという。「子どものころ立って歩いて入った。そのトンネル内の両側に溝があってそこを水が流れていた。桐生さんの庭でクルリを使って脱穀をすると、その響きが穴の中で聞こえた。県道の改修工事でトンネルの入り口は塞いでしまった」(古谷栄一さん・1917年生まれ・談)。井戸を掘った相原八百吉さんの孫にあたる相原稔さんも、同じような思い出を話してくれた。
 一時期、田畑の灌漑に使われるのはわずかだったため、用水の周囲は荒涼とした風景だった。数年前に導管の手直しがされている。災害時の緊急の「水場」とも考えられているらしい。現在ここで米作りをしているのは一軒だけだそうだ。だが、このごろでは野菜の洗い場として水辺の光景を作り始めている。碑の南側の葦の茂っているあたりが「天水場」だったようだ。





冬も豊かな水量の西ノ久保の湧水



西ノ久保の湧水地の遠景 後ろは大山


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