秦野夜話  「秦野のおはなし」
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〜神奈川県秦野市にまつわる歴史、民俗の話〜

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2003年12月1日更新

  第36話

   寺山物語 第31回

     
鹿島神社のヒトガタ  

 

鹿島流しとヒトガタ(人形)

 半紙を切り抜いて作った身の丈10センチほどのヒトガタが、暮れになるとお宮さんから届く。鹿島神社の氏子は大晦日にヒトガタ(人形)で一年を清める。その方法は家によって違いそうだ。ヒトガタで体をさすりお炊き上げをする家もある。わが家ではヒトガタに家族名を書いて川に流す。
 大晦日にヒトガタを使って大祓いをする神社は笠間稲荷神社は、そのいわれを「罪やけがれをヒトガタに移してはらい清め,心身ともに清らかになって新年を迎える」としている。ヒトガタを使っての大祓いは夏に行われるほうが多い。その一つが「鹿島流し」というお祓いの民俗行事で、武者人形を船に乗せて流す大曲市の行事はけっこう有名。青森の「ねぶた」が最後に海に出るのと同じで災厄払いを人形を使って行っている。
 もし寺山に大きな川や海があったら『鹿島流し』がおこなわれたかもしれない。わが家はこの「鹿島流し」にのっとって? 父がそうしてきたから川に流す。紙を川に流すのは環境汚染と言われてしまうかもしれないが、今年も同じようにするつもりだ。

祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)
 鹿島神社に祀ってある神さまは武甕槌神(たけみかづちのかみ)である。この神様は『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおかみ)と書いてある。武甕槌神は『日本書紀』で書かれている名前で、この『書紀』には建甕槌神(たけみかづちのかみ)とも記されている。
 建御雷之男神(武甕槌神)とはどんな神様なのか。古事記には、この建御雷之男神(武甕槌神)は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が自分の子・火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)の首を切ったとき、剣の鍔(つば)についた血が近くの岩に飛び散り、そこから生まれたとされている。
 この神様には武勇伝がたくさんある。国譲り神話では、大国主命(オオクニヌシノミコト)の子の建御名方神(タケミナカタノカミ)と争った。力競べをしようという建御名方神に建御雷神は手を取らせた。すると御雷神の手は剣に変わる。恐れた建御名方神は降参するという話。神武天皇の東征の神話では建御雷神が自分の代理として霊剣フツノミタマを天皇に授けている。刀剣神、武神、軍神といわれている。それで日露、日清戦争の頃は、村人だけでなく遠方からも、出征する前に「武運長久」を祈って寺山の鹿島神社にお参りに来る人が多かった。そのため鹿島神社には多くの絵馬が奉納されている。父・武久雄は「跳ね馬図」を1983昭和58)年に奉納している。

絵馬を見たい方へ
 現存の37枚が「秦野の絵馬と奉納額」(秦野市教育委員会発行)に写真と共に記録されている。

横須賀市武から遷宮?
 中臣氏(藤原氏)は、その氏神である春日大社の祭神を建御雷神としており、また鹿島神社もこの神を主祭神としているので、中臣氏の勢力分布も理解される。建御雷之男神を祀る主な神社は、春日大社(奈良県奈良市)、鹿島神社(茨城県鹿島郡)、石上神宮(奈良県天理市)など。武甕槌神の名前から武氏は鹿島神社を氏神にしたようだ。叔父が「武家は神様の系統だ」と言っていたのは、これに由っているのかもしれない。
 寺山の鹿島神社は、1518(永禄15)年に三浦氏が北条早雲と戦って敗れたとき、三浦家が信仰していた鹿島神社を、家臣の武信業が横須賀武から寺山に移したといわれている。
 




11月19 東中学校一年生の講師
 テーマ「水」で地域めぐり

 11月19日の午後、東中の1年生を連れて「地域めぐり」をした。この授業は地域の歴史や文化を表している所を見てまわり、最後にふるさと公園で「手打ちそば」の実習をするという内容。私の持ち時間は1時間しかないので、今回はテーマを「水」にしぼった。
★訪れた地
 1東中学校校庭の大きなイチョウの木と武邸の井戸 縄文後期の遺跡(住居跡・祭祀場跡)
 2消えた湧水池・寺山清水(小・中学校の校歌に歌われている清水)
 3西の久保の湧水と井戸掘り
 4金目川という名の由来
 5東秦野村役場跡
 6八幡清水の水源
 7そばについての民話
 
 この子たちは昨年・6年の時「新聞づくり」で2度会っている。そして卒業期に音楽会にも招待された。中学に入って「新聞づくり」で1度。だが今回で5回目の顔合わせ。そんなこともあってよく話を聞いてくれた。授業のメインはなんといっても「そばウチ」の実習。6人1グループでコネから切るまで自分達で行う。そして食べる。私もお相伴にあずかった。子どもたちが苦闘をしたようすがそばの太さや長さに表れていた。3クラスを2班に分けて「行き組」と「返り組」の案内だったので、その日歩いた歩数は往復で8千歩ほど。


☆中学生の感想
 大切にしたい地域の歴史・自然

 金目川のほんとうの名は「金日川」だということを知りました。校庭のテニスコートのところを、おじいさんやおばあさん達が通っているのを見て「なんでここを通るのかな」と思ってたので、話を聞いて「なるほど」と思った。ビックリした。   
石田紗央莉

 東地区にこんなに水が出るところがあるとは知りませんでした。しかもこんなに近くに。金目川の名前がほんとは違っているんだということを知りました。これからも東地区の歴史や自然を大切にしていきたいと思います。   
上原かや乃

 校庭のイチョウの木が樹齢200年くらいと知り、すごいと思いました。東地区は湧き水がたくさんあって豊かな土地だと思いました。   
井上 拓也

 一番印象にのこったのはそばの茎がなぜ赤いかという話。そしてそばの花が海に見えて切腹したという話。そばにそんな話があるなんて知りませんでした。   
千葉 麻依

 金目川は「加奈比可波」「加奈為比可波」という字で、難しい字だと思った。私の家は西田原なので、見たことがないものばかりで楽しさ2倍でした。    
瀬下美沙紀
 身近なところでも知らないことが多く、初めて知ったことがほとんどでした。調べ学習で「秦野の水」を私たちの班は調べます。武先生に話していただいたことを参考に調べたいと思います。   
草柳 友貴

 校庭に昔の道しるべがあるなんて知らなかった。金目川が金日川だったなんて知らなかった。いろいろな昔の話を聞けてよかった。   
鈴木 徳繁

自分の住んでいる東地区のことがわかってよかったです。「希望の泉」という校歌の歌詞のところはどんなところだろうって楽しみにして行ったらマンホールでした。少しショックでした。20年前の泉を見たかったです。   
高田 沙季
 
私の通学路に石に文字が書いてある石像みたいなものがあります。AMMのところ。小学生のときから気になっていました。今回、あの石の意味をしって「へー」って思いました。   
宮永明依子

「金日川」が単なる写し違いで「金目川」になったというのがおもしろかった。   
西村 香織
 ソバはどうしてソバというのかがわかった。校庭に家があったことや井戸があったなんてしらなかった。校庭に民家があったなんて信じられない。   
高橋さやか
 
そばを作らない里の話は参考になりました。他の話もおもしろかったです。  
加藤 周平

 「希望の泉」「清水ヶ丘」ってどこにあるのだろう、と思っていました。今ではどこにでもあるマンホールになってしまっていたけど、昔のことを知って感動しました。   
井上 知美

 AMPMの下に水が出ていることはしっていましたが、昔は池があったとなんてビックリしました。今、池があればつりをしていたかもしれません。東地区のことをいろいろ教えてくれてありがとうございました。  
三嶽 直記
 
イチョウの木が校庭に残っている理由がわかった。ぎんなんのにおいはきらいだけど、武先生の話を聞いてしょうがないなと思った。 
肥土 幸代

 金目川の名前には何の意味もない(だれかが勝手に変えた)なんて知らなかった。校庭に遺跡があったなんて、わかんないじゃん。イチョウの木はすごく大切にされているんだと思った。   
岡本  駿

東中、東小の校歌にある「清水」が、あんなところにあるとは知りませんでした。3000年も前の縄文時代からそこに住んでいた人たちの生活に欠かせない存在の湧き水が、私たちが道路を広げるために、あの泉を完全にわからなくしてしまっていいのだろうか、と考えしまいました。   
八木 隼







2003年10月22日更新


  第35話

   寺山物語 第30回

     
寺山を歩いて見ませんか  


 10月11日に、寺山の「そばの里」でソバ作り(栽培)をしている人たち90数名の人たちと「大山道・寺山の里ウオーク」をしました。ちょうど2時間のコースになりました。案内した場所は下の11か所です(イラストマップ参照)。ソバの花は満開でした。交通整理と道案内を兼ねて、角谷戸の根倉市郎さんご夫妻にも一緒に歩いていただきました。歩いた距離は2.5キロくらいてしょう。それぞれの場所で、地名の由来、言い伝えや歴史的な事実、そしてそばにまつわる民話を話しました。
 聞いてもらうには、なおいっそう勉強しなければいけないし、話し方も工夫しなければと強く感じました。ウオークの最後のポイントで「大山道・市内最古の道標」の話をしたら、数名がその道標を確かめにその地点に行ってくれました。少しだけ肩の荷が降りたように思いました。
 ゼロックスという会社から60名あまりの参加があったことに驚きました。『エコー』の読者の皆さんにも、興味のあるコースだと思います。どうぞお出かけください。

◇案内のポイント地点◇
@高取山はタコーチ山だ  
A「てふ塚にはお婆が出る」という言い伝え…奪衣婆と三途の川の話
B鹿島神社の祭神の建御雷神…古事記から
C東小・中学校の校歌に詠われている湧水・清水…新編相模風土記稿より
D大山道の分かれ道・大きな道標
E大山寺の火事と鍋屋勘兵衛
F道永塚は大山道の安全を祈る塚
G波多野忠綱と武常晴と実朝公の御首塚
H地名「才戸」イザナギ・イザナミの離婚…古事記から
I市内最古の小田原道道標…判読はほとんどできないが「左ハふし 右ハおた原」
J「ソバの茎はなぜ赤い」「ソバをつくらぬ里」…ソバについての民話

 上の中から「ソバをつくらぬ里」をお話しします。

 そばの花をつくらないわけ
                                   
 いまから四百年余りむかしのこと、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康が三増峠で一戦をまじえたことがある。
 戦いは信玄の勝ちとなったが、最後にひきあげた三島一族は、北条方の追い討ちにあい、味方から遠くひきはなされてしまった。
 三島勢は追いせまる北条方を、打ち払い打ち払い、鳶尾山のあたりまで落ちのびてきた。
 「もうひといきで甲斐の国ざかいぞ、元気を出せよ。もうひといきぞ」
 落ち武者たちは、互いにはげましながら、ひと足ひと足、鉛のように重い足をひきずって、ひたすら夜の山道を歩きつづけたが、突然ひとりが、ぎょっとして低いさけび声をあげた。
 「う、海じゃ。道をまちがえ、小田原の海に出たのでは…」
 落ち武者たちはその声に、よろめきながらかけよって、指さすあたりをながめた。そして、ああとうめき声をあげた。青い月のひかりに、白い波をきらめかせながら、そこには、ひろびろとした海がひろがっていた。耳をすませば、どうどうと海なりの青も響いてくる。
 「お、小田原の海か…」
 「逃げるにもことかいて、われら敵の本陣へ逃げこんだというわけか」 
 落ち武者たちは、ぼうぜんと顔をみあわせた。ふるさとの山が近いと、心がほっとゆるんだあとだけに、もはやひと足も、ふみ出すカはなかった。
 「もはやこれまでじゃ、敵の手にかかるよりは…」
と、ひとりが腹に刀を突きたてると、もう止めるものもなく、つぎつぎとそのあとを追って死んでいった。しかし、落ち武者たちがみたのは、海ではなかったのである。月の光をうけて、いちめんにしろじろとゆれているそば畑のそばの花を、海とまちがえたのだった。
 わずかに生きのこった武者からこのことをきいた村人たちは、あまりのいたましさに、ことばもなかった。そして、それからはそばづくりをやめたという。
 いまも、厚木の市島の部落では、そばはつくらない。
                                              「日本の民話」8 松谷みよ子編






2003年10月1日更新

  第34話

   寺山物語 第29回

       
金目原の馬頭観音さん  


 金目川橋の東のたもと(南側・寺山46)に馬頭観音像が95体祀られている。種別にすると、馬頭観音92、牛頭観音1、牛頭馬頭観音1、正観音1である。最古のものは安政5(1858)年建立の舟形観音像で、施主として「寺山村 角ケ谷戸西 清水 二ツ澤 竹之内 久保」の寺山村の五つの庭の名が記されている。もっとも新しいものは昭和61(1986)年の寺山自治会連合会建立のもので、角柱型の馬頭観世音供養塔である。この銘文は「馬頭観世音改修実行委員会」となっている。

 私の子どものころの金目原の馬頭観音さんは、現在のものと少し違っていた。場所は今の位置より少し東寄りで、観音さんはすべて東向きだった(現在は南西向き)。また、記憶ではこれほどの数の像はなかった。今、施主の姓から推測すれば、他からここに集められたものもかなりありそうだ。場所と向きが変わったのは、観音群のすぐ近くに東電の鉄塔が建つことになり、寺山の自治会が今の地に改修し納めたからだ。

 なぜこの地に馬頭観音が
 古道・大山道蓑毛道(みのげみち)は、藤棚(寺山420・今も大山道の大きな道標がある)で大山道坂本道(さかもとみち)と分かれて左に進む。この蓑毛道は、現在のJA東支所の前で右に折れ、波多野城址を左に見ながら蓑毛に向かう。一方、JAの東支所で蓑毛道と分かれた道(田原道といわれた)は馬頭観音群の前を通り、マタト(馬渡戸)で金目川を渡り、西から来る大山道富士道(ふじみち)につながる。
 寺山村と田原村の境という地もさることながら、交通の要所であるこの地に馬頭観音が祀られた意味は十分理解できる。「大山道富士道」という道があるように、大山参りをする人は富士山にも登らなければいけないとされていた。大山詣でブームの第二期は御殿場線の開通(1889年・明治22年)があってからだった。小田急が開通(1923年・大正12年)するまでは、富士山の帰りに大山参りをするには、御殿場線の松田駅から蓑毛に向かう方法がベストだった。それで蓑毛の御師の宿では、大山講の人たちを松田まで迎えに行き、馬に乗せて蓑毛まで連れてきた。小蓑毛の才戸には「馬返し」と呼ばれる場所がある。
 
 
馬頭観音は祈願碑
 外山晴彦先生によれば、馬頭観音は「牛馬の供養塔または安産・健康長寿などの祈願碑で、牛や馬の墓ではない。馬頭観世音菩薩は、畜生道担当という解釈もあって、牛馬の守り神として信仰された。講による大型の供養塔や小型の個人建立碑がある。多くは文字塔だが、菩薩の浮き彫りもある。怒りの形相で三面八手が標準。冠に馬の顔がかかれるが、風化して不明瞭なものが多い」(「本の窓」2003年6月号)とのこと。金目原の馬頭観音群には浮き彫りの馬頭観音像が5体ある。
 95の馬頭観音像の施主の名を追っていったら、武政士という名にぶつかった。私の叔父も納めていたのだ。1937(昭和12)年に建てている。叔父は1913(大正2)年生まれだから、24歳の年である。叔父はすでに他界しているので、この観音像の奉納について母に聞いてみた。「政士さんは、そのころロクマクを患っていて。どうしても治りたいと自分のお金で建てた」がその答えだった。わが家の愛犬ゴロが死んだとき「ウチにいた牛と一緒に埋めてやろう」と父は言い、7歳の長男と三人でこの馬頭観音さんの土地に亡骸を埋めに行った。
        
2003年9月1日更新








  第33話

   寺山物語 第28回

 
 
   寺山物語を書いて
  


 寺山には
次代に伝えたいものがある

 ふるさととは、悲しい思いでにもつながる地であるが、やさしく温かいところである。秦野市寺山に生まれ、寺山に育ち、今も寺山に住んでいる私にとって、寺山はまさしく『まほら』である。波多野城址の槙の実を食べ、金目川でハヤを釣り、清水の湧き水を飲んで大きくなった。子どものころ「メエッテケエロ メエッテケエロ(参ってけえろ)」と通行人を止めてお札を押し売りしたダンゴ焼き(道祖神まつり)も忘れられない。
 『新編相模風土記稿・1841年(天保12年)』によれば、当時の寺山の戸数は93戸だった。そして、今年2003年(平成15年)8月現在の寺山の世帯数は417である。
 私たちの祖先の寺山の縄文人は、今はバス停「中学校前」のポールが立っている地(寺山495番地)の下に埋まってしまった「湧き水」を頼りにこの寺山に住み着いた。その湧水から『清水』という地名も生まれた。今、かろうじて防火用水池がその地の目印になっているのだが、まもなく始まる道路拡張工事でこの湧水跡は完全に消える。そして東小学校の校歌の一節「清水が丘は」に、その記憶を留めることになる。
 寺山には大山道が二本通っている。江戸時代は、夏ともなれば大山詣での人々でにぎわっただろうこの寺山。
 今から22年前、長男の夏休みの宿題に大山道の道標を一緒に調べて歩いた。その道標の一本が横畑の先に立っている。不動明王を戴いた高さ125cmほどの道標兼供養塔である。昨秋再訪してみたら、この道標は立派な小屋の中に納まっていた。傍らの松下家に聞いたら、「ハイキングの人たちがこの不動さんに上げるお賽銭を、ウチのおばあちゃん(松下カヨさん)と武さんのおばあちゃん(武ミエさん)で預かっていた。『お不動さんも雨風に打たれて大変だろうから』と二人は相談して、そのお金で小屋を建てることにしたがお金はほんのわずか。ほとんど武大工さんの持ち出しでできた小屋」で1990年(平成2年)の春にできたのだそうな。寺山とはこんな人が住んでいる地だ。私はこの地が好きだ。だから寺山のことを探ることは楽しいことだった。
 今も清水庭ではダンゴ焼きは続いているが、子どもたちはすっかりお客になってしまっている。ダンゴ焼きは子どもの祭りであるのに。60年ほど前の太平洋戦争を境に、寺山の生活も大きく変わった。消えるべき地域文化や生活習慣もあって当然である。だが、一方では次代に引き継ぎ、育てたいものもある。私には、それらのいくつかを次代に手渡したいという思いがある。「ふるさとを知ること」は「ふるさとを愛すること」であり、それが「ふるさとを育てること」になると思っている。これからも寺山物語を書いていきたい。






2003年8月1日更新

  第32話

   寺山物語 第27回

 
 
     波多野城址  


  6月のある日曜日の夕方、庭に出でいた私に、通り過ぎていった青年が戻ってきて声をかけてきた。「波多野城址の道はこっちでいいんですね。」
 「いや、違いますよ。ここから戻って、中学のあの階段を登って、校庭を横切ると道があるから、そこに行けば見えますから。」
  五月の連休のころは、こうした訪問者が特に多い。にはインターネット上でも、波多野城址についてかなり紹介されている。


秦野と波多野氏 


 秦野は渡来した秦氏が開いたといわれている。だが、その秦氏と波多野氏は直接的には結びつきがないという。大伴氏の子孫・佐伯経範が1030年ごろ、秦野を開いて波多野氏を名乗ったという。この波多野氏は、相模の国の山の武士団で、その勢力範囲を現在の行政区域で表すと、秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部くらいまで広がっていたようだ。その波多野氏の本拠・波多野城(と言っても館らしいが)が作られたのは平治元年(1159年)より前らしい。当主波多野義通がこの年「源義朝よりいとまを与えられ相模の国に下る」という記録がある。


波多野城址永井路子著「相模のもののふたち」に記された『波多野城址の印象』




 そしてその城址は、まさにそれにふさわしい風格を持つ。秦野から蓑毛行きのバスで中丸橋で降りると、道の左側に城址の台地がある。その橋の手前を直左に折れる道があり、左側に中学校が建っている。その中学校と台地の間は天然の地形を利用した空濠となっているが、残念なことに、私の訪れた昭和五十二年現在、その濠は一部埋立てが始まっていた。これはじつに残念なことだ。なぜなら、このくらいはっきりと中世武士の館のおもかげを残すところはまずないからだ。わずかに残っている濠に降りて城址側に登ると、あたり一帯は落花生の畑になっている。斜面に刻まれた細い道を伝って台地の上に出る。舌状の台地の、いわば舌先にあたる部分に、波多野城址の碑がある。それによると義通は一一五八(保元三)年には、源義朝と不和になってこの地へ戻って来たとあるが(『吾妻鏡』に同様の記述がある)、私は『平治物語』の中に、合戦に参加した、とある方を信じたい。「保元三年云々」は、平治の乱に参加しなかったことにして罪を免れようとした、保身のための不在証明工作の臭いが強い。
 それはともかく、台地の西側に廻ってみると、金目川が、せせらぎとなってさわやかな音をたててその裾を洗っている。まさに命の水を握った農場主としての波多野氏の居城の面目躍如たるものがある。台地の南側にはなだらかな平地が拡がっていて、そのあたり一帯を家の子、郎党に耕作させて、倣然と胸を反らせる領主然とした義常の姿が眼にうかぶようだ。もう一ヶ所の波多野城址説

 「波多野城があった」といわれている寺山・小附付近一帯に対して「城址として碑が立っている地帯は波多野城の出丸であって、本丸は金目川の西岸の東田原『下原』というところあたりにあった、古老から聞いた」と高橋文次郎氏(故人・東田原の住人)が唱えた。この説は神奈川県中地方事務所が発行した『中郡勢史』(1953年・昭和28年)が取り上げている。




 この高橋説について、武常晴氏につながるといわれている武俊次氏(故人・寺山の住人)が、寺山・小附説を周囲の地名の考察などから補っている。
 波多野城が歴史的に存在したのかどうかは、発掘調査の結果では裏づけが得られなかったようだ。「波多野城はあったのか、無かったのか」ということについて「歴史とは本来分からないもの。自分がこうだ、と思って見れば、それがその人の歴史なのです」と貫達人先生が話された。
 波多野城があったということが、今の寺山という地域を作り上げてきたことは確かだと思っている。
ちょう塚のお婆(奪衣婆)の話




(26話)
 ちょう塚のお婆(奪衣婆)の像は寺山の円通寺にもありました。





2003年7月1日更新
 
 

  第31話

   寺山物語 第26回

 
 
     まわり地蔵さん  


寺山の「まわり地蔵」は子育て地蔵

 今、円通寺の本堂に安置されているお地蔵さんは、20年ほど前まで寺山の各家庭を回っていた「まわり地蔵」と呼ばれるものである。
 この「まわり地蔵」は子育て地蔵という名もあるように、左手に赤ちゃんを抱いた柔和なお顔のお地蔵さんである。右手あるものは未敷蓮華か、それとも錫杖か。(私としては未敷蓮華のほうがふさわしいと思う)。坐像で身の丈は30センチ。どなたが被らせたのか、毛糸で編まれた帽子を二枚着けていらっしゃる。
 厨子の扉は一枚のはめ込み式で昭和50年に山口材木店がこの扉を寄進している。私の記憶の中では、黒光りした地蔵格子だった。厨子を覆っている赤い前垂れは、平成4年4月8日に奉納された。奉納者は水野恒子とあった。台座の下の箱には鐘、撞木、巾着などが収めてあった。その中の一品の茶碗には「昭和57年8月22日谷内きわ」と記されている。麻縄の背負いひもも当時のままだった。特徴である三角座布団は、残念ながらすべてお炊き上げされてもう無い。このお地蔵さんが回ることを止めて、円通寺に預けられたのは昭和60年ころらしい。(円通寺の話)
 まわり地蔵は「子育て地蔵」、あるいは「一夜地蔵」とも呼ばれている。一夜地蔵の呼び名があるのは、隣家から地蔵を迎えた家では一晩だけ泊めて翌朝、次の家に回すからだ。お泊めするお地蔵さんには、お茶・線香・御飯(かわりものと称して赤飯をあげることもある)を供え、審銭(20年ほど前は百円くらい)をあげる。次の家に回すのだが、安産を願って妊婦が背負って行くことが多かった。
 子どもが生まれた後に地蔵が回ってきた時には、その子の名前と生年月日を三角座布団に書いて奉納した。このごろ、伊豆・稲取のつるし雛が脚光を浴びている。寺山のまわり地蔵の三角の座布団は、このつるし雛に似ている。
 三角の布団は「三角ブクロ」「三角ブトン」「キョウブクロ」などとも呼ばれていた。昔は、香り袋、屠蘇袋、薬袋などみな三角だった。特に屠蘇袋は紅絹の三角形だったので、三角座布団を奉めるのは、屠蘇袋をまねて病気にならないように、齢を伸ばすようにとの願いをこめたからであろう。だから、お地蔵さんが泊まった時に偶然遊びにきていた親戚の子の三角座布団をつけることもあった。また、赤ちゃんが這い回るのは座布団のまわり。「這えば立て」の親ごごろの表れ、子どもの無事・成長を祈る願かけとなっている。四角形の座布団では「死」につながるということで、三角形をとっている。古くなった三角座布団は順次はずし、地元の円通寺に納めてお炊き上げしてもらった。昔は、腹帯に入れて安産を祈願した女性もあったらしい。
 地蔵さんには賽銭を上げる。台座の下の箱に入っているノートに日付と金額、名前を記入して賽銭袋に納める。
当時は、四月八日に老人会が、和讃の人々や小さい子を呼び、このお賽銭で御馳走をしたらしい。(1985年ころまで)。
 まわり地蔵には「まわり地蔵さんの宿をすると、子どもが丈夫に育つ」とか「いい子が授かる」といったような伝承があった。そのために、身体の弱い子のいる家や、子の欲しい家では積極的にお地蔵様を宿に迎え入れる。この「まわり地蔵」の風習が寺山から消えてしまったのは、この地であらたに生活を始めた家庭の中から、「因縁、由来のわからない地蔵がいきなり回ってくる」「子どもが恐ろしがる」などの声が上がってのこと。また子育ての終った家などが関心を示さなくなったかららしい。

まわり地蔵の起源や由来
 この地蔵は寺山清水の名主・T家から回り始めたという。現在のT家から四代前にさかのぼる頃、この家の当主は子どもに恵まれなかった。それで伊勢原・三の宮の比々多神社から、子が授かるようにと地蔵を賜わった。まもなく子どもに恵まれたT家は、子の地蔵の御利益を信じ、村中に回すようにようにした。これが「まわり地蔵」の起源であるという。
この他にも、寺山には回り地蔵の伝承がいくつか伝えられている。例えば、地蔵を保管していた家が災難にあい、そのために廻すようになったというもの。
 江戸時代、寺山清水には地蔵堂があったが、火災にあったため中の地蔵の保管に困り、村中をまわすようになったという伝承もある。

まわり地蔵が安置されている寺山・円通寺で聞いた話
 「今から240年ほど前(宝暦13年・1763年)伊勢原の保国寺(比々多神社が近くにある)の住職が、百体の小身地蔵を彫り、近隣の村に納めた。子どもの無事成長を願うこと、そして幼くして逝った者の霊の供養を、それぞれの家庭でするための地蔵である」とのことだった。

 T家4代目の当主・Sさんが「まわり地蔵」をめぐる興味深い体験を「秦野市史研究」の6号で披露している。
 「大正十二年の関東大震災のとき、地蔵は自分を守護してくれた。当時九歳であった私は、その日、偶然親に頼まれて地蔵を背負って隣家に届けに行った。その日は、どうしたことか通常とは違って畑道を通って行った。そのため崩れた石垣から助かった」
 








2003年6月1日更新
 
 

  第30話
               
 
 東田原八幡・清水
     水神様の祭り  


 祭神は97、92、86歳の大女性

東地区の湧水のことを少し調べていた私に、東田原の八幡に住む大津俊彦さんから「うちらが使っている湧水について取材に来てよ。年寄りがいなくなる前に記録しておきたいから」と電話があった。毎年4月1日に、今も裏山の湧き水を飲料水に使っている4軒が、そのお礼のお祭りを水神さんの前でするというのだ。
 その日はうす曇りだった。祭といっても特別な神事を行うわけではない。湧水を引き出している横穴の前に水神さんの碑がある。その碑にお線香を上げて(神様に線香というのがイイ) 、持ち寄ったご馳走を食べる。
 明治32年2月1日に建てられた碑。碑文は「水神」とあり、下に「六分大津啓次郎 四分 同大次郎  同元吉  同喜平  同庄平次」とある。「六分、四分」は水の使用権利を表しているのだろうか、それとも経費を記録したものなのか。最初は五軒でこの水源を使用し、維持・管理していたようだ。戦後、そのうちの一軒がこの地を離れた。その折、水利権の消滅をはっきりさせるため使用していた導水管がはずされた、との説明があった。
 祭りを行う現在の四軒のうち、大津秀雄家、大津俊彦家、大津隆之家の三軒は飲食にこの水を使っている。とくに大津健一家は、市営の水道水は引き込んでいない。酪農を営んでいる俊彦さんが笑いながら言った。「牛に飲ませるのは市営水道の水、人間は山の神さんの水を飲んでいる」。
 案内されて、祭りの場所に行くと、すでに一人のお年寄りが水神様の横に座っている。大津アサさん・97歳で「花を飾っておくと鴉が来て悪さをするので、番をしていたのよう」と話してくれた。10 時過ぎ、このアサさん、大津チヨさん・92歳、そして大津イネさん・86歳を中心に4軒から8人が集まってきた。最年少はイネさんの孫で学生の有希さん。それぞれが線香を手向け、祝宴に入った。主賓はもちろん三人の大女性、いや祭神かもしれない。大きく敷かれたシートの上に、太巻き寿司、押し寿司、いなり寿司、お赤飯のおにぎり、煮しめ、漬物、テンヨセ、ぜんまい、ウドなど、それぞれの家庭がを持ち寄った自慢のものを並べる。ビール、日本酒があることはいうまでもないこと。三人の大女性の嫁さんが三人(千代子さん、美津江さん、早苗さん)―60代後半の方もいた―もその席にいた。自治会長でもある秀雄さんが、アルコールが入ったこともあり、巧みな話術で女性陣の笑いを誘う。

 アサさんから水源を掘り当てた時の話を聞いた。「おじいさん(アサさんにとって祖父なのか、父なのか、夫なのか、そのあたりを確認しなかったのは失敗)から聞いた話だけど…」「ここで水を探して横穴を掘っていたら、下の道を通った行者が西に向かって掘るといい、と言った。それで、そのとおりに掘ったら大きな石に突き当って、その石の裏から水の音が聞こえた。それがこの湧き水だと」。居合わせた人たちにとって、この話は初めて聞く話だった。(私が取材に来たとことで陽の目を浴びた話。)
 「父ちゃんが戦争に行っている間、役場の人が何度も道を広げるから畑を出せと言いに来てよう、それでここに、こんなにまっすぐな道ができたのよう。ホントの道は田中から来てここで曲がって、金剛寺に行く道だったんだよう」。イネさんの話で昔の村の道、大山道・富士道のルートを知ることもできた。言われてみれば、村の真ん中に大山道の道標があるわけも納得できる。
 今年で104年、毎年この4軒が楽しく集まるから、おいしい水が湧き続いたのだろう。湧水で結びついた四軒の絆、そしてこの場の雰囲気は、私たちがもう遠に忘れてしまっていた≪隣り近所≫というものを思い起こさせてくれた。2時間あまり、私はほんとうに心地よい場所に居させてもらった。水神の碑の横に純白で端正な花弁の韮の花が、そして上に真っ赤なやぶ椿が咲いていた。

 「山の神」と呼ばれる地の裾で、山からの恵まれる湧水を今も利用しているのは、この大津四軒組のほかに、同じ八幡地区で三軒組、二軒組。更に東に回って金山と呼ばれる地区で五軒と古谷家、合わせて十五軒あるという。大津四軒組の小字名は八幡・清水という。

   
真ん中がアサさん・水神さんを背にイネさん・後ろが水源の横穴          右奥・チヨさん このご馳走を肴に朝からビールをいただいた私     





2003年5月1日更新

  第29話
               
            
 寺山物語 第25回

  清水庭のお花見  その2  

 旗とり
  三日の朝が来る。あちこちからラッパの音がひびいてくる。軍隊の突撃ラッパである。どの庭にもラッパがあったような気がする。復員の時に持ち帰ったものなのだろうか。それとも銃後の守りとして…。 10人程の男の子たちは、手に重箱、白酒、木刀、むしろなどを持ち花見小屋に向う。むろん、あの旗は忘れることはない。
 小屋に到着すると、まず大きな日の丸や海軍旗を、長い青竹にかかげ、万国旗を四方にはりめぐらす。山の上、しかも四月の風である。青空にはためくひびき心地よかった。不思議なことに、あの強い風にひきちぎられた旗の印象は全くない。

 自分の陣地の旗の下に立って周りを見回すむ。すると、一つ谷をへだてた丘の上、その尾根の続きの更に高い処<大山のふもとの麦畑の中、神社の裏山というように、ちょっと数えただけでも、10カ所に近い城の旗が目に飛び込んでくる。

 “お花見″は、旗とりというケンカゴトが付きものになっていた。見事に飾られた旗を取りに行くケンカである。清水庭は、宝作庭とケンカをするのが慣わしのようだった。小屋と小屋との間は、直線距離で五百メートルぐらい。その間に麦畑があり、雑木株があり、ちよつと下れば小川まである戦場だ。“戦争ごっこ”にふさわしい地形であった。手づくりの木刀を持ち畑の中をはいまわり、麦畑の中を走り拘り、相手の小屋の裏にまわり、突然とび出していって相手の旗の綱を切って逃げてくるのだが、おく病な私などは、相手の小屋の姿が目に入ると、もう、そこから逃げて帰ってしまうのだった。そして、自分の陣地にもどってみると、大騒ぎである。ふだん、あまり付き合いのない庭が突然攻めてきて、旗を持っていってしまったという。
 「これから、ケンカだ」と上級生はいきり立つ。直径三センチくらいのバラの木や、木刀などを持ち、復しゆう戦に出かける。もちろん、チビは留守番である。まもなく、旗をとりもどしゆうゆうと帰ってくる上級生。

 それから上級生の武勇談ガ始まる。
「がけの上から、こんなでけえ岩をころがしゃがってよ。あぶねえったらねえのよ」「あいつら、一人も向かって来れねえのよ−。一人も城にいやあしねえ」私をはじめ年少の者は、ただただ上級生への畏敬の念がが大きくなるばかりだった。だが今、考えると、やはりこのケンカにはルールがあったようだ。このお花見の旗でとりで負傷者が出たとは聞いたことがなかった。もちろん、私の庭の上級生は誰ひとりケガをしたことはなかった。 こうして山野を走りまわると、おなかがすく。このお花見の弁当は、ほんとうにたのしみだった。三日と四日は、それぞれ弁当の内容がちがう。
 三日はお寿司。外を卵やきで巻き、中にはのり巻きが入っている太巻き寿司である。それが、朱ぬりの大きな重箱にぎつしりとつまっている。
 第二日日の四日は、あずき飯のオムスビである。コンニャクや里芋などのにしめがつめてある。牛乳のテン寄せは、甘く、冷たくおいしかった。そして、好物のたにしがほんのわずかだが入っている。
 お花見が近づくと、近くの田んぼにたにしを堀りに行く。表面が少ししめった田んぼに行き、その地面にひび割れが入っているところを探す。ひび割れが走っていて、それが交差しているところがたにしのいるところだ。人さし指で堀り出すのはかんたんだ。

 このごろ、“ふるさとの味”と称して養殖のたにしが売られているが、私がお花見にたべたものとは全然ちがうように思える。甘く煮こんだ小粒の、やわらかいあのたにしはもう味わえない。お花見には白酒も持っていった。白酒は、まさに白酒、密造のドプロクである。このドブロクを甘くうすめて、子どもたちは飲んだ。水以外に飲みものは無い時代だった。もしかしたらアルコール度は子どもには強すぎたかもしれない。しかし“酔っぱらった”光景や思い出はない。旗とりに疲れ、かわいたのどを甘く冷たく通り過ぎる白酒のおいしさ。うすい水色の四合びんと共に、今も忘れられない。
 バタバタと鳴る旗の音を頭上にしながら、レツゲ田がひろがっている谷あいを眺めると、女の子たちが、そのレンゲの花の中にゴザを敷き重箱をひろげているようだ。女の子たちのお花見は、レンゲの花で作った首飾りをかけ、つばなをつむお花見だった。

 



2003年4月1日更新

  第28話
               
            
 寺山物語 第24回

  清水庭のお花見  その1  

 四月三日、四日は女の子の節供である。寺山では、この二日間は“お花見”という子どもたちにとって楽しい行事があった。女の子だけでなく、男の子も女の節供を祝うのである。
 私の子どもの頃は、秦野では桜の満開は、だいたい寺山のお祭(四月十日)の頓で、ちか頃のように四月初めにはもう満開というような気候ではなかったような気がする。だから、桜の咲かない時期になぜ花見をするのかわからないし、実際、花見をする場所も桜の花など全然ない山の中で行うのだから、いっそう“お花見”というこの行事はわからない。民俗学的に見ると、この”お花見”は神奈川では三浦半島、湯河原、横浜の戸塚などでみられるようだ。とくに、男の子の旗とりというケンカごとをするのは、藤沢、伊勢原、秦野などにかぎられているようだ。
 私の“お花見”の体験は、太平洋戦争の終りのころから戦後の混乱期だったため、より印象的なものになっている。

 学校が春休みに入るとすぐに、清水庭(私は小字名で清水庭と呼ばれているところに住んでいる)の男の子が集ってことしの花見の場所を決める。しかし、慣例で通称『まつ山』というところになる。年長の者が場所を変えようと言いだすと、よその庭の領域に入ることになるので、ケンカなどが心配になる。だが、子どもたちの遊びは、すべて庭が基本になっているため、年長者には絶対服従である。年長者は、それだけ責任が重いわけである。
 高等科の生徒から国民学校一年生まで、ナタ、カマ、ノコギリを持ち、ことしの花見の場所に登って行く。「登る」と書いたが、お花見をする場所は必ず山のテッペン・岡の上になるからだ。
 目的地につくと、花見小屋をつくるにふさわしい木立ちを選ぶ。小屋をつくるのに必要な柱となる四本の立ち木をのある場所を見つけ、その四本の立ち木以外は切りたおし、小屋づくりの仕事に入る。年令の低い子のする仕事は運搬係。小屋がけに一番必要な材料は竹だが、残念ながら竹は山頂には生えていない。そこで、上級生に連れられて谷まで竹をとりに行くことになる。片道十五分ぐらいの道のりを、直径七、八センチ、長さ十メートルもの青竹をかつがされて、ひと山登るわけで、大変な労働である。時には、年長の者から「水を持ってこい」と命じられる。すると、節を抜いた青竹に水をつめ、草の葉などでセンをし、こぼさないように山頂まで運ばなければならなかった。運び上げた竹を、藤づるや縄を使い、小屋の屋根や四方の璧のはりや支柱にする。あとは、むしろを使い天井やまわりをふさぐ。
 小屋づくりが終ると次は旗づくりである。半紙や布を持ち寄り、年長者の家に集まる。そして物置小屋で旗づくりをする。日の丸や海軍旗、星条旗、ユニオン・ジャックなどを作った記憶がある。(この記憶だと戦後だったのだろうか。) 大きなものは二畳敷ぐらいから、小さいのは半紙の大きさまで、およそ五十枚ぐらい描いた。食紅などを使ったことをおぼえている。 (
続く)



清水庭のお花見は『まつ山』だった。その『まつ山』に住宅が建つ時代になった。(後ろは『タコーチ山』)
(2003.3.28)





2003年3月1日更新
 

  第27話
               
            
 寺山物語 第23回

  ちょう塚のお婆 その2  


  
          
   
宝蓮寺の奪衣婆像                                  宝蓮寺の閻魔大王像

宝蓮寺の所在地  神奈川県秦野市蓑毛674 TEL 0463−81−3528
宝蓮寺には十王堂があり、十王像が安置されています。

 前回のちょう塚のお婆(奪衣婆)の話で不明だったことのいくつかがわかりました。
1、奪衣婆がいるのは三途の川のこちら側です。三途の川は初七日と二、七日の間を流れます。
2、衣領樹に衣を掛けて罪の重さを決めるとき、着ていた衣が重くて枝がしなるのは罪が重いという証拠です。重い着物は金襴緞子に代表されるように贅沢な着物。「清貧こそ善」という考え方・判断に立っています。
3、六界・六道のどこに行っても、そこで修行をすれば一挙に極楽に行くことができます。33年間修行をすると、六界のどこにいても極楽浄土に行くことができます。
  
 


2003年1月1日更新

  第26話
               
            
 寺山物語 第22回

  ちょう塚のお婆  

 第25話の「大山道・寺山の里」のイラストマップを参考にしてお読みください。

 
大山道・坂本道と蓑毛道の合流地点付近に『ちょう塚・てふづか』と呼ばれる場所があります。いつの頃だったでしょう、母が「ちょう塚(てふづか)にはお婆が出る」と話したことがありました。そのときはそのまま聞き流していたのでしたが、こうして寺山のことを調べだしてみると、どうしても『ちょう塚のお婆』のことを書かなければいけないと思いました。それで、改めて93歳の母にお婆の正体を尋ねてみたのですが「とにかくそういうふうに聞いていた」としか答えは返ってきません。ちょう塚の近くに住んでいる人も、ちょう塚という地名は知っていても『お婆』の存在については「聞いていない」とのこと。それで「ちょう塚のお婆」という言葉をたよりに少し調べてみました。するとちょう塚に似た言葉『ショウヅカ』と『ソウヅカ』に出会いました。そのことを今回の寺山物語にしました。


「葬頭河」の奪衣婆
 「ショウヅカの婆(ばばあ) あるいはソウヅカの婆」のことは、山形・藤島町、、新潟・柏崎市、群馬・片品村など、全国各地でその像とともにいろいろ語られています。このソウヅカは「葬頭河」と書き、「葬頭」という音はあの「三途の川」の「三途」ことです。(これから後の話は中国の十王経・偽経と書いてある・というお経の中に出ているそうです。)
 私たちはこの世から去って七日目に三途の川にたどり着きます。そこで秦広王による最初の裁きを受けます。それによってこの川の渡り方が決まるのです。三途の川とは渡る方法が三通りある川という意味で、もっとも罪深い者が渡らなければいけないところは「強深瀬」という深い急流です。罪の軽い人は「山水瀬」、善人は橋で渡れる「橋渡」です。その川を渡ると川原に衣領樹という木が一本立っています。その木の下に「奪衣婆」という婆がいて、ようやく川を渡れた亡者から衣服を剥ぎとります。これの婆が「葬頭河(ショウヅカ・ソウヅカ・寺山ではチョウヅカ)の婆」です。(葬頭河の婆がいるのは三途の川のこちら側だという説もあります。)その奪った衣服を仲間の「懸衣翁」に渡しますと、翁は衣を衣領樹に懸けるのです。そして、懸けられた枝のしなり具合によってこれからのその亡者の行き先が決まるのです。ちなみに善人ほど枝はよく垂れるのだそうです。(「罪が重い人ほど重く垂れる」と書いている人もいます。)
 さて、これから閻魔王など十王による裁判が私たちを待っています。初七日から始まって三回忌まで、十回の裁判を受けて(これは再審制度です)行き先が確定します。例えば5順目の三十五日の裁判は閻魔王の受け持ちです。閻魔様は亡者の生前の全ての行いを見ることができる「浄玻璃(じようはり)の鏡」を持っています。ビデオテープによる再生と同じですから嘘を言えばすぐにバレます。そして舌を抜かれるのです。この閻魔王の側にいるのが奪衣婆・葬頭河の婆です。でも七回忌、十三回忌、三十三回忌と33年間にわたって再審を受けられます。私たちが四十九日や一周忌、三周忌などの法要を行うのは、十王様に供物を捧げるなどして亡くなった人の裁きが良くなるようにという願いがあります。こうした裁判を受けて、私たちの最終の行き先は次の六界・地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人道界、天上界のいずれかに決まります。いきなり成仏できる人もいます。

「ちょう塚」と「地獄ケ入」
 寺山物語の地名編のところで「地獄ケ入」という地名を紹介しました。ちょう塚から沢を隔てたタコーチ山の中腹がその「地獄ケ入」と呼ばれるところです。葬頭河の婆が出て、沢を隔てて地獄ケ入という場所がある−これはまさに十王経の説く世界だと思いました。母が言う「ちょう塚にはお婆が出る」は、各地に伝わる「葬頭河の婆=奪衣婆」と同じ思想です。それではなぜこの寺山に「脱衣婆」が登場したのでしょう。それは蓑毛の大日堂の隣りに十王堂(茶湯殿)があり、そこに十王像と奪衣婆像がいるからです。
 この「ちょう塚」を「京塚だ」という人もいます。この「京塚」は「経塚」のことでしょう。大山道の合流地点なら経塚があったのかもしれません。
 
 とても勉強不足の話をしてしまいました。でも私には興味ある内容なのです。




2002年12月1日更新

  第25話
               
            
 寺山物語 第21回
 
  寺山地内を通る大山道  


 寺山には古道・大山道が二本通っている。その一本が大山道坂本道(さかもとみち)。この道は東中学校の裏でバス通り(主要地方道秦野清川線)を離れ右に入っていく。今は県道大山秦野線となっているが、竹の内、二つ沢 角ケ谷戸という集落を過ぎると急な山道になっていて往時を偲ぶことが出来る道だ。
 バス停「藤棚」の三叉路に大きな道標(縦150センチ・横140センチほど)がある。その碑には「右さか本道」「左ミの毛道」とある。ここまでの道は大山道羽根尾道とよばれているが、ここで坂本道と蓑毛道に分かれる。左の道は東小学校の正門の前を通り、JAの支所の前で右折すると、道は秦野城址を左に見ながら東中学校の脇を通る。この道が大山道・蓑毛道(みのげみち)で、これが寺山を通る二本目の道。
 坂本道とは、今の大山町は江戸時代は坂本村と呼ばれていた、その坂本村に通じる道だったからである。蓑毛道は大山山頂に向かうとき、通過する地から付けられた名である。かつて蓑毛は大山参拝の信者の宿となる御師の宿が数軒あった。御師は神職であり、阿夫利神社参拝の案内をした。
 いっぽう、千村から曲松を経て田原を通り、寺山との境となっている金目川に沿って登る道が大山道・富士道(ふじみち)である。富士道の由来は、富士山と大山は両方登らないとご利益がないと言われていたから、大山から富士山へ、あるいはその逆コースをとる人もいて、この名がつけられた。富士山の祭神は木花開耶姫、大山は大山祇神が祀られている。大山祇神が父で木花開耶姫がその娘、親娘にお参りをしなければご利益がないというのはどういう意味なのだろうか。
 さて、この蓑毛道と富士道が合流するところを「才戸」と呼ぶ。「才戸」とは「塞戸」のことで「悪霊や災いの侵入を戸で塞いで防ぐ」という意味の地名である。「道祖土」と書いて「さいど」と読ませる地名、姓が埼玉にあるとおり「才戸」は道祖神の意味もある。大山信仰のご神体は「石尊」と呼ばれるように石であって、大山そのものをも表している。この合流地点に立っている大山道の道標は市内でもっとも古いもので、享保20年(1735年)年と記されて,碑文は「右ハふし□ 左はオタ原」と読める(読めたのだそうです。今では判読できません。)大山参詣のピークは18世紀半ばと18世紀末から19世紀初頭の二つの時期だと言われている。一夏10万人もの人が大山に登ったという。寺山地内もまた、その登山者の往来でにぎわったのだろう。
 冨士道と蓑毛道が合流した道はいよいよ大山山頂を目指すのだが、才戸の合流地点から右に分かれていく道がある。この道は500メートルほど上ったところで坂本道につながり、「いより越え」をして御師の宿・坂本村に入る。こちらの合流地点あたりを「てふづか(ちょう塚)」と呼んでいて、「てふづかにはお婆が出る」という話が伝わっている。 
 
次回は『てふつかのお婆』の話を聞いてもらう。






2002年10月26日更新

  第24話
 地名の話

  秦野市
鶴巻について余話


 鶴巻中で選択社会の授業をしました
 
ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる

 10月11日、鶴巻中学校の2年生の選択社会科の授業で「地名鶴巻」の話をしました。「ふるさと知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」 こんなことを願っての授業でした。その授業の感想文を26人が書いてくれました。

 地名の由来やその地名の作り話みたいな話に興味深いものが多かった。自分は「鶴巻」の由来は「鶴舞」だと思う。思うというか「鶴舞」だったらいいなあと思う。   碇

 武勝美さんの話を聞いて一番印象に残ったのは善波太郎重氏の地名付会説です。まんだらという幡を射ち落とそうとしたが、弓が引けなかったので「弓不引」という地名が生まれたこと。幡が落ちたから「落幡村」などと、楽しく興味深いお話が多かったのでよかったです。   大川

 今までは地名の由来とか気にしなかったけど、今回の話を聞いて、地名の由来を知るのはおもしろいなあと思った。他の地名の由来もいろいろと知りたい。鶴巻なんてあまり気にしなかったけど「水流間」とか「鶴舞」とか考えたりするのは楽しいなあと思った。  安藤

 自分が住んでいる地域のことなのに知らない事がたくさんありました。私は去年総合の時間に秦野の地名や秦野市の成り立ちについて調べたので、少しは知っていたのですが、今日はくわしく知ることができてよかったです。一番印象に残ったのは善波太郎重氏の話です。いくら作り話とはいえとても興味深い話で、よくできているなと感心してしまいました。  岡見
 
 鶴巻や落幡は地名佳名説であるなど、聞いていて楽しかった。善波太郎が本当にいたのなら、地名を三つも残してすごいなと思った。鶴のつく名前の学校に手紙を書いて、鶴中新聞まで出して、武さんの鶴巻に対しての熱の入れようが伝わってきた。スバラシイなんて思いました。鶴巻の昔から今にかけてのいろいろなことが聞けてよかった。ありがとうございました。    門脇

 私は武勝美さんの話を聞いて鶴巻のいろいろなことがわかりました。例えば、鶴巻は落幡村鶴巻田だったこと、矢名という地名の三つの由来、「寉」これだけでツルと読むこととかも教えていただきました。武さんの自分自身の話もすごくためになりました。   安斎

 選択最後の授業にふさわしい授業だった。自分も鶴のことを調べたいと思った。   原田






2002年10月1日更新

 第23話
           

 地名の話 秦野市鶴巻について

 慶長年間の古文書に「つるまき田」
 地名『鶴巻』が古文書で確認できるのは慶長年間(1600年頃)で「つるまき田」として出ています。そして元禄年間に「鶴巻田」となり、享保のころから「鶴巻」と記さています。地名の『鶴巻』は落幡村の小字名でした。この小字名の鶴巻は、明治22年、落幡、南矢名 、北矢名、下大槻、真田村が合併して大根村になり、『大根村鶴巻』となりました。そして昭和30年大根村が秦野市として生まれ変わったとき『秦野市鶴巻』となリ、今に至っています。落幡村と大根村の名前は消えて、小字名の鶴巻が残ったのです。(地名の「落幡」と「大根」については別の機会に書きます)

 地名(大字名)の『鶴巻』
  『鶴巻』という大字名が現存するところは、@仙台市 A秋田・大雄村(鶴巻田) B尾花沢市(鶴巻田) C喜多方市 D白河市 E伊達町 F福島・三春町(鶴蒔田) G東京・新宿早稲田鶴巻町 H東京(弦巻) I多摩市(鶴牧) J小諸市 K佐賀・肥前町(鶴牧) L秦野市の13か所ですが、秦野市の南地区尾尻に『鶴巻』、上地区八沢に『鶴巻田』という小字名が見られるように、全国各地に『鶴巻』は数多く点在するものと思われます。

 『鶴巻』は水流間
 秦野市鶴巻のように「鶴」という文字をを地名にしている地は @鶴の飛来地 A水流 B瑞祥地名 C鶴伝説佳名 などに由来しているようです。「水流」書いて「ツル」と読む地名が九州地方にいくつかあります。宮崎県−えびの市水流、西都市水流崎町、小林市水流迫などです。その他、同じ音で、熊本県−山鹿市津留、矢部町津留、三重県には多気町津留が、高知県の吾川村にも潰留(ツル)という地名があります。山梨には都留市があるのはご存知のとおりです。このツルとは古代人は「水路のある平地」をさしてツルと呼んでいたようです。柳田国男先生はツルを「盆地のような地形の上下をくくるような場所で、水流のある地」と説明しています。秦野市鶴巻の地形からすれば「水流」がその語源と思われます。『鶴巻』は「水流間・ツルマ」から生まれた地名と考えるのが妥当でしょう。日本古来の大和ことば・ツルという《音》に、縁起の良い『鶴』という文字を当てたのです。鶴間という地名が神奈川に存在しています。なお『鶴』そのものを地名としている地が佐賀・神崎町、大阪市・大正区、石川・能登町にあります。

 『鶴巻』は鶴の飛来地
 一方『鶴巻』に似た「鶴舞」という地名が、@坂戸市 A埼玉・大井町 B市原市 C清水市 D岐阜市 E名古屋市 F西尾市 G奈良市にあります。駅名として@上総鶴舞(小湊鉄道)やA鶴舞(中央本線)もあります。
 「鶴舞」は鶴見と同じように鶴の飛来地を表す地名とも考えられます。『鶴巻』は「鶴舞」から派生した言葉で、鶴の飛来地を表しているかもしれません。秦野でも昔は鶴が見られたでしょう。江戸時代の浮世絵画家・葛飾北斎の『富嶽三十六景』の中の一点に、「相州梅澤左」という作品があります。秦野のお隣り二宮町梅澤からの富士の絵ですが、飛んでいる七羽の鶴も描かれています。鶴巻の南に広がる田んぼを見ると、鶴が乱舞する光景を十分想像できます。
 鶴の飛来地を表す地名は北海道・鶴居村、石川・鶴来町、田鶴浜町、兵庫・市川町鶴居、宮城・鶴田町鶴泊、高岡市鶴寄、大分・佐伯市鶴望などがあります。さらに「鶴野」(北海道・七飯町、大阪市 摂津市)、「鶴野辺」は福島・新鶴村、「鶴原」が泉佐野市、新宮市に「田鶴原」があります。土岐市「鶴里町」、宝塚市「鶴の荘」』などは瑞祥地名としてつけられたのかもしれません。
 熊本・坂本村、静岡・三島市、青森・六戸町に「鶴喰」という地名があります。宮城・小野田村−この村には「鶴喰」の他に「鶴羽美・ツルハミ=鶴食み」という地名もあります。北陸、中国、四国には『鶴巻』や「鶴舞」という地名は見当たりません。 『鶴』を含んだ地名ランキングの上位3は、鶴田、 鶴巻、鶴見です。(いずれも大字単位)

 鶴と人類
 『鶴巻』が「水流間・ツルマ」という地形から生まれたものか、水田地帯に舞う鶴の姿から付けられた地名なのかは、各人の思いや判断でよいと思います。鶴はいくつもの国をまたがって渡っていきます。鶴に国境はありません。鶴は湿地生態系の象徴であり、同時に、人類世界の幸福や平和の象徴でもあります。今、地球上から猛スピードで湿原が消えています。湿原はさまざまな生き物の生活の、生きていく場なのです。鶴が私たちの周りに姿を見せなくなったのは湿原が消えたからです。そのことは、人類の生存の危機を暗示しているとも言えます。 

 


2002年9月1日更新

 第22話
           寺山物語 第20回

  金目川は金江川だった

 金目の語源は『カネエ』という言葉が訛ったもの
 
 金目川の《金目》について、先月このページで『カナイヒ』がその元の言葉だと書きました。ところが「金目川水系・せせらぎ通信」の第3号(発行・神奈川県湘南地区行政センター 2002年6月24日)が、金目川の由来に次のような説もあると紹介しています。

 古くは金目川を「金江川」と書いた本(注参照)もあるようです。この金江川とは、金気を多く含んだ水が流れる川という意味を表しています。それを裏付けるように、金目川の流域の第三紀層やローム層からは水酸化鉄がにじみ出た赤さびた水(金気のある水)がよく見受けられるそうです。「金気のある川・金江(カナエ)」→カネエ→カナメと転訛して『カナメ』になり、「金目」という文字を当てたのです。
 
私の感想
 この説明では、よく理解できないのが「カネエ→カナメ」への転訛てす。私の子どものころの秦野の方言・言葉使いの特徴として「境・サカイ」を『サケエ』、「参る・マイル」を『メエル』 というように《イ》を《エ》に変えて発音していました。地酒『白笹鼓』を醸造している金井酒造を「カネエの酒屋」と呼んでいたのです。だから、私はカナイ川が「カネエ川」になり、金江という文字が当てられたと推量するのですが…。いずれにしても地名の由来を調べてみる、考えてみると、人と自然とのかかわりなども見えてきて楽しいものです。

 注・「源平盛衰記」(1333年)の中に《金江川》が出ていますが、『新編相模風土記稿』は「按ずるに、金江は金目の誤りなり」と書いています。


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2002年8月1日更新

 第21話

          
 寺山物語 第19回

金目川は「加奈比可波」
 しっかりとした水門のある川・水門のある川





2002年7月1日更新第 20 回  秦野のおはなし        寺山物語 その18
金目川 ホントは金日川

 寺山と東田原を分けている川・金目川。春嶽山から湧き出た水はおよそ20qを流れ下って相模湾に注ぐ。その流域面積は180平方q。

 金目川は大山に連なる春嶽山(秦野市蓑毛)の瀧の沢から流れ出ています。この「春嶽山の山中に清水があり、これを閼伽水といい、大山石尊・大山阿夫利神社に供えるものとしている」と新編相模風土記稿(天保十二年・1841年編)に記されています。金目川の源流の紹介です。この新編相模風土記稿は巻之三で金目川に「加奈為可波」、巻四十二では「加奈比可波」と読み仮名をつけています。

 江戸時代、秦野盆地は大山詣でをする人がたくさん行き交ったようで、その旅人たちのための道標が今も市内に29基見られます。それらの道標の中に次のような碑文のものがあります。

1 秦野市鶴巻南3の13の21の《道標》(1747年建立)に『左 かない道』

2 秦野市名古木1018番地の《地蔵》(1765年)の右面に『かない道』

3 秦野市曲松1の6の7の《道標》(1796年)の正面に『左 かなひかんをん道』

4 秦野市渋沢1802番地の《念仏供養塔》(1804年)には正面に『かない観音』

 「かない」「かなひかんをん」のいずれも、金目観音(金目山光明寺)への道案内です。

 今、私たちが金目川(カナメガワ)と呼んでいるこの川は、少なくても1840年代までは「カナヒカワ」あるいは「カナイカワ」と呼ばれていたのです。なぜ金目が「カナヒ」「カナイ」と読めるのかは次のように説明されているのです。

 この川はカナヒカワと呼ばれるとおり「金日川」という文字が与えられていたのです。ところが、ある日 ある時 誰かが書類を作成した折り、『日』を『目』と誤記してしまった…。「カナイ」は「カナヒ」の発音上の変化からうまれたものでしょう。(カナヒは発音しにくいですから。)

 地名にはそれぞれ由来があります。川の名もまたそう呼ばれる根拠を持っているはずです。県名の神奈川は横浜の神奈川区を流れていた小さな川〈上無川〉をその由来にしています。(横浜市立神奈川小学校の脇に巾4メートル。長さ300メートルほどの道があります。その道が上無川・神奈川の跡)。〈上無川〉とは「ふだんはあまり水が流れず上流が定かでない=上流の無い川」という意味です。それでは金目川の元である金日川「カナヒ」あるいは「カナイ」にはどういう意味があるのでしょうか。そのお話は次の機会に。

   







2002年6月1日更新第 19 回  秦野のおはなし        寺山物語 その17
秦野市 寺山 清水

地名の話







上の写真はもう見られない『清水』を掃除している武勇さんと東中生(東中新聞第435号・1992年10月28日発行)       



今この場所はバス停「東中学校入口」


 私が生まれ育ち、今も住んでいる所は秦野市寺山清水。1842年に編纂された新編相模風土記稿では、寺山村の小名(小字のこと)清水庭について次のように記されている。「此所清水湧出す、田間の用水とし、又民家の用水ともなす。」この清水が湧き出ているからここの地名は「清水」なのだ。その頃の寺山村は民戸93とも書かれている。その寺山村の中で湧水についてふれてあるのはこの清水だけである。そして、今の東地区はかつて東秦野村と呼ばれ、東田原村、西田原村、蓑毛村、小蓑毛村、名古木村、落合村、そして寺山村から成っているが、寺山以外の村で湧水についてこの風土記稿で記されている村もない。それほど清水の湧水は貴重なものだったのだろう。さてその清水はどこにあるのか、どうなっているのだろうか。

 蓑毛行きのバス停「東中学校入口」であなたがバスのステップから足を地面に着けた所、そこが清水が湧き出ていた所だ。そしてバス停のポールが立つ脇にコンクリートで覆われた防火用水池がある。ここは湧水池だった。この防火用水池と道越しに向かい合っている民家がある。そこに10年ほど前までは水神様が祀ってあった。この清水を守る神様である。

 寺山には小学校、中学校、そして幼稚園が建てられているが、その一帯は縄文人が生活していたところだ。彼らがここで生活できたのは、この清水と金目川があったからだ。われわれの寺山の住人の祖先は、この清水とともに生活してきた。しかし、この清水は、今はもう文字や言葉としてしか残っていない、秦野市寺山清水という地名として、東小学校校歌の中での『清水が丘は夢涌くところ』、そして東中学校校歌に歌われる「いつも涌き立つ希望の泉」しかない。と思ったらこの清水は地下水となって寺山西の久保で清らかに湧き出ていた。今も「首切り畑」のすぐ下の田んぼを潤している。

 1985年1月13日の朝日新聞の「ひとこと」欄に私の投書が掲載された。

枯れた湧水 人間への警告  秦野市  武 勝美(教員 48歳)

 私が住んでいる所は秦野市寺山の「清水」といいます。自宅から50メートルほどのところに・県道とバスの折り返し場に挟まれた場所に・小さな湧水池があったため、この地名となりました。子どもの頃、夏の暑い昼下がりに、この池に冷たい飲み水を汲みに行くのが私の大切な仕事でした。父か子どものころは、生活に必要な飲み水、炊事用の水など全てこの池に頼リ、桶を手に何回も往復するのが父の日課だったそうです。この湧き水が流れ出す先には十数枚の田んぼも広がっています。このたび秦野の湧水群が『名水百選』に選ばれたことを知り、あらためて近くの『清水』の現在の姿を考えたのでした。二つあった湧水池の一つは埋められコンクリートの防火水槽に姿を変えています。県道の拡張で狭められたもう一つの泉は、一年に数十日だけわずかに清水を湧き出させるだけです。この池を水源にしていた水田は、学校のプールの排水を取り入れて耕作を続けています。私たちが生活用水としてこの『清水』を使うのを止めたとき、泉は自らの命を枯らしたのです。



2002年5月1日更新


第 18 回  秦野のおはなし        寺山物語 その16

続 木の実 草の実


 寺山・滝の沢の竹やぶの陰に、我が家の小さな畑があった。そこで畑仕事をしている祖父にお茶を運ぶため、どうしても通らなければならない小径(近道)。その小径は楽しい小道でもあり、またちょっぴり怖い小道でもあった。

 六月の終り、麦刈りの頃、竹やぶの中のあちこちに小指の頭ほどの真っ赤な『ヤブイチゴ(草苺)』が顔を見せ始める。このヤブイチゴが、その年、村の子が口にする《木の実・草の実》の最初のものだ。口に含むとこのイチゴ特有の甘さが口いっぱいに広がる。ザラっとした舌への感触が、夏の到来を告げているようで嬉しかった。しかし、誰かが先にこの竹やぶを荒らしてしまい、遠くにイチゴの木の葉裏が青白く見えたりすると、この藪に住み着く蛇がイチゴを食い荒らしたように思え、竹やぶを一気に駆け抜けるのだった。

 竹やぶを抜けると、小さな茂みの中に『バライチゴ(木苺)』が実っていた。文字通り、刺のある木に実るイチゴ。その実は、熟れると蜜柑の液果のようにダイダイ色に透き通って輝き、鹿の子饅頭のようにふっくらと盛り上がっている。指を触れると、ポロっと手の中に転げ込む。トパーズ色のその幾粒かを手ごろな木の葉で包み、母の土産に持ち帰るのも楽しみだった。

 『グミ(夏ぐみ)』の実もこの竹やぶで見つけることができた。大きくても小豆くらいだが、その実の大きさに不つり合いな長い柄でぶら下がっている。その姿から「ちょうちんグミ」と呼んでいた。下枝をそっと持ち上げてみると、ぶらぶらと揺れている赤い実。それは「闇夜に遠くちょうちんの灯り」を見つけたような喜び−だから「ちょうちんグミ」なのかもしれない。

 その頃、小川の土手や田んぼの畔で『桑の実』も食べることができた。黄、赤、黒と熟し具合によって変っていく色。一粒ずつ口に運ぶこともあったが、村の子はもっと豪快な食べ方を知っていた。直径3、4センチの竹を一節切り、筒を作る。別に桑の枝の樹皮をきれいに剥ぎ取り、30センチほどの突き棒を作る。この竹筒に摘み取った桑の実を2、30粒ほど入れ、桑の棒で実を突きつぶす。つぶされた桑の実は黒味がかったジャムのようになる。それを棒ですくい出し口に運ぶ。指を横にしゃぶり、引き抜くやり方で食べるのだ。液状のものを棒ですくうのだからその量は知れている。その姿は“いじ汚く”見えただろうが、当人は“得意満面”。そう、いつまでも筒から口に棒を運ぶことができる子は、みんなの羨望の的だったし、尊敬されていたのだ。



2002年4月1日更新



    第 17 回  秦野のおはなし        寺山物語 その15

首切り畑と道永塚



道路わきにひっそりとたたずむ供養塔 鎮魂塔か 水神様か

 バス停「藤棚(田原線)」の脇のあたりを通称『首切り畑』と呼ぶ。その一帯は、今は埋め立てられ駐車場になっている。記憶では桜の大木が3、4本立っている荒地だった。作物を栽培すると必ず悪いことがおこる、と地元の人は言っていた。この『首切り畑』のいわれは、大山神社(阿夫利神社と大山寺)の火災の事件から発生したようだ。

 享保4年(1719年)4月4日、放火によって本宮5社が炎上した。この火事の火付けは武州川口村の鍋屋勘兵衛という行者であった。彼は山を越え寺山まで逃げてきたが捕らえられ、寺山芝野にて打首・処刑された。(相模大山縁起及文書第26章・石尊炎上記の中から)この芝野が『首切り畑』と思われる。この事実が道永塚の伝説「悪僧生き埋め説」を生んだのかもしれない。

さてこの首切り畑の東隅、道路わきに高さ50センチほどの供養塔が一基立っている。碑文は「念彼観音力 衆怨悉退散 供養塔 昭和十四年四月吉祥日 徳主古谷幾太郎」とある。道永塚の「古戦場の戦士の鎮魂説」を受け、また勘兵衛の鎮魂を兼ねて、この供養塔を建てた古谷さんの心を寺山に生まれた私は嬉しくおもう。

ところで、この供養塔に卒塔婆が捧げられているが、そこに記されている文字が興味深い。「井戸神様供養」とあるからだ。施主の高橋さんは「この塔は井戸神様だ」と言う。「神様をお寺さんが供養する」神仏混交がここにもある。この首切り畑の下は西の久保と呼ばれ、水田が落合まで続く。これらの水田をうるおす水は湧水である。その湧水地を真下に見る供養塔は、水の神・井戸神様を兼ねているのだろう。





  第 16 回  秦野のおはなし        寺山物語 その14

2002年3月1日更新

道永塚


道永は善僧 それとも悪僧

2月14日、東中学校の1年生11名と寺山地区を一緒に歩いた。地域体験学習の中の1コマとして「湧水」を捜して歩く道案内役である。スタート地点は『道永塚』にした。

秦野・蓑毛線のバス停「藤棚」から南に向かって200メートルほどバス通りを戻ったところに三叉路があり、そこに小さな塚がある。それが『道永塚・ドウエイヅカ』(写真上)である。塚には碑がある。碑文は摩滅していて読むのが困難、明和8年は読み取れるから、1771年に建立されたことは分かる。さて、この『道永』という文字は人名・坊さんということになっていて、悪僧説と善僧説が寺山に伝わっている。

悪僧・道永は大山寺の良弁僧正を妬んで寺に放火し逃げたが、ここで捕まり生き埋めにされた。それが道永塚。 良い坊さん説は、道永はこのあたりに戦国時代の武士の亡霊が出るのを知り、読経して霊を静め村人に感謝された。塚はその道永のお墓である。

「薦福記」と正面にあるこの碑の裏面には、おおよそ次のようなことが書かれている。「ここ寺山境の三叉路に古より道永墓があって、夜に怪しい日が燃え、朝まで続く。それで大蟲老師・宝蓮寺十三世住職が古戦場で戦死した武士たちの魂の迷っていることを知り、お経を上げ村人と盂蘭盆会で供養する」

碑の横に『道永墓』(写真下)とあるが、この碑文では『道永』が僧であることは分からない。この碑が建てられたところは、羽根尾通り大山道の道路脇である。大山は、江戸時代の庶民の信仰の対象の山として、参詣者でにぎわった。『大山詣り』の落語があるのはご存知のとおり。一夏で20万の人が大山に登ったとも.言われている。その人たちが通るのが大山道。『道永』という文字からすれば、交通安全のための塚と考えるのがふさわしいと私は思っている。

塚にある桜の木は大正3年・1914年、寺山の青年団が植えたものだそうだ。出征する青年を、村人がここまで送って別れたという、それを見てきた桜である。この塚の向かいにある葡萄園の中にも古墳がある。正確に言えば、道永塚は落合地区、葡萄園の古墳は寺山地区にある。

『道永』の伝説は、この塚の近くに『首切り畑』と呼ばれている場所があることが大いに関係している。次回は『首切り畑』にご案内しましょう。

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落語『大山詣り』 (おおやままいり)

そこに山があるから登ったなんてことを言いますが、昔は、山に登ると言えば、信心からと相場が決まっていました。もっとも、江戸も後期になると、物見遊山の口実にしていたという人もおり、行く先々で、どんちゃん騒ぎなんてこともザラでございました。

さて、長屋の男連中が、大山に登ることになりました。行きはどうと言うこともなかったのですが、帰りにホッとしたのか、酒が入ってしまいます。こうなると、いけません。先に酔いつぶれた酒癖の悪い熊さんの髪を、悪ふざけで剃ってしまいます。

朝起きて、自分が坊主になっていることに驚いた熊さんは、してやられたと悔しがります。しかも、冷たいことに連中は熊さんを置いてきぼりにしたのです。一計を案じた熊さんは、一足先に江戸に戻り、おかみさん連中を集めます。そして言うには、道中、川を渡ろうとしたところ、天候が急に崩れて、船が転覆し、岸にたどり着けたのは自分だけ。ついては、友人の供養にと、頭をまるめた。これを聞いて、おかみさん達は、自分たちも夫の供養にと、髪を剃って尼になります。 帰ってきた長屋の連中は、自分たちの妻が全員、尼になっていることにびっくりします。

熊さんは、「みんな毛が(怪我)なくて良かった」と大笑いする。

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一緒に歩いた東中・竜馬君のレポートの一部

道永塚には、道永という人が生き埋めにされたという伝説と、その道が昔は本道だったので、この道がいつも安全であるようにという塚だていう説があるのだそうです。ampmの裏にある広場みたいなところは「首切り畑」といい、昔大山のお寺を焼いた人の首を切ったところだそうです。このようなことを教えてもらいました。驚きと感動でした。 竜馬

次回は「首切り畑」の話




2002年2月1日更新

第 15 回  秦野のおはなし   寺山物語 その13

秦野 水府 国分は葉タバコの三大名産地

続・葉タバコの話

無花果さん 珍しい梅ジャムをありがとうございました。“手作り梅”というラベルからくるイメージと違った味で、けっこう食欲をそそります。おいしかったです。産地をたしかめましたら水府村とありました。水府は秦野、国分とともに日本の葉タバコ三大名葉の産地です。それで、お礼のつもりで秦野の葉タバコのことをお話します。

葉タバコの納付日は“クリスマス・イヴ”

葉タバコ作りが最盛期の時代、今から50年以上も前、私の家も葉タバコ耕作農家でした。12月になると、子どもたちが楽しみな葉タバコの『納付』があります。納付とは、専売局(タバコは国の専売品でした)に納めて買ってもらうことです。

納付の日は、朝から近隣(伊勢原、中井、松田など)のタバコ農家が、牛車や荷車で葉タバコを秦野町にある専売局に運びこみます。今のジャスコへの車の賑わいとは違う、車の賑わいが周辺道路にありました。今のジャスコの敷地が全て秦野専売局でした。持ち込まれた葉タバコは検査官によって品質が検定され、優等から二等まで品定めをされます。そして、すぐに現金が支払われました。祖父もそうですが、納付が終えた男たちのほとんどが、そのお金を懐に、大竹家に入りシナそばを注文し酒を飲みます。

このときがたまらなく待ち遠しく、たまらなくうまい酒なのでした。こうして昼食が終わると、家族に土産の買い物をします。最初にお正月用の下駄を榎本屋で買います。(今あるパチンコ『マルハン』の二軒隣の榎本靴店がそこです)。あのあたりに魚屋や自転車屋などあるのは専売局があったからです。(専売局の正門に続く道は、今のラーメン屋と米屋の間にある道です)。

次の買い物は饅頭です。法華寺の坂の上にある橋本屋の饅頭です。私はこの店の鹿の子が好きでした。そして最後に川口肉屋でブタ肉を買い、荷車を引いて帰ってくるのです。私はもちろんですが、その日は祖父が帰ってくるのを家族全員が首を長くして待っていました。その夜は、下駄をもらい、すき焼きもどきの肉を味わい、食後に饅頭を食べたのでした。そう、その夜はいまどきの“クリスマス・イブ”のようでした。

タバコ伸しで“婚ふ(よばふ)”

稲の取入れが終わる11月初めの頃から、秦野のタバコ農家では『タバコ伸し』という作業が始まります。 夏に天日干しされた葉タバコを一枚ずつ選り別け出荷(『納付』)用に束ねる作業が『タバコ伸し』です。子どもにはとてもつらい、嫌な手伝いでした。

夕食が済むと土間に筵が広げれ、二人一組でタバコの葉を一枚一枚伸ばし、30枚くらいで束ねる作業です。乾燥しきった葉は、そのままでは伸ばすことはできません。ですから葉に“霧吹き”がされます。その湿った葉を、向き合った二人で広げ、ていねいに伸します。二人いなければできない、でも子どもにもできる仕事です。だから毎晩家族総出です。

11月の土間はもう冷えています。寒気が下から伝わってきます。湿された葉は強烈な甘、苦い匂いを発します。(私には絶えられなかった匂い、だからタバコは吸えない。) もう一つイヤだったのは葉から出るヤニ。指先から掌にかけて着く黒い色は簡単には落ちないのです。この作業を一秋何千回とくり返して『納付』の日を迎えるのです。

かあさんは麻糸つむぐ 一日つむぐ

おとうは土間で藁打ち仕事 お前もがんばれよ

ふるさとの冬は寒い せめてラジオ聴かせたい

今もノスタルジックに歌われる「おかあさんの歌」 この歌を聞くたびに、私は、寒く暗い土間での『タバコ伸し』を思い出します。

一人ではできない作業、『タバコ伸し』が好きだった人もいたようです。その一人は年ごろの娘を持ったタバコ農家です。夜になると、その娘さんの家に未婚の農家の青年が通ってきます。隣村からも、娘さんの評判を聞いて来るのです。そして、その家の『タバコ伸し』の手伝いをしてくれるからです。彼らもタバコ伸しが好きです。運がいい夜は、娘さんと差し向かいになれる、手に触れることもできるかもしれないからです。−『金色夜叉』の貫一とお宮はカルタ会で手が触れ合ったのがきっかけ。タバコ作りの青年と娘は『タバコ伸しし』で手が触れ合う−だから、毎夜入れ替わり立ち代わり青年が訪れるのです。

「いい娘がいるとタバコ伸しは早く終わる」という格言がありました。伊勢原の善波地区には、善波峠を越えて嫁にきた娘が大勢いたと言われていました。善波の青年たちが秦野の娘さんに猛烈にアタックしたことが判ります。

「夜這い」という時代ではなかったのですが、これは夜這いに似ています。「夜這い」という言葉は「婚ふ・よばふ」という古語に当てられた俗字です。

「婚ふ」とは「求婚する、妻問いをする」という意味です。「婚ふ」は「呼ぶ」で 「相手の名前を呼ぶ」ことです。上代では、女性が自分の名前を男性に教えることは、相手の愛を受けとめるということでした。「呼ぶ」、「婚ふ」、そして「夜這い」という文字が当てられたのです。

水府には竜神の橋という、木製では日本一長い吊り橋があるそうですね。いつか訪ねてみたいと思います。


2002年1月1日更新

第 14 回 秦野のおはなし    寺山物語 その12

お正月の遊び  独楽回し  天下したの下の下

元日の朝の楽しみはお年玉もあるが、それ以上に待ち遠しいのは独楽回しだった。朝の祝い膳もそこそに清水ニワ(今の単位自治会)の男の子は、カジヤの庭に集まる。手には、それぞれ自分の大事な“かねっ独楽”を持って。

午前9時頃の農家の庭は霜でカチカチだが,元日の朝日は差しこんでいる。高等科のイチローはん(‘はん’は‘さん’の方言)が「それじゃあ始めんべえか」と一言。集まった10数人は独楽に紐を巻く。準備が終わるとイチローはんの「いち にいのさん」の掛け声で一斉に独楽を回す。これは『寿命』といって、独楽が回るままにしておく。誰の独楽が一番長く回っているか、寿命があるかをみんなで見極める。こうして1番長く寿命があった独楽から、最初に転げ倒れてしまった独楽まで、きちんと順番が決まる。最長不倒者(周恩来みたいだ)を「天下取り」、第二位は「天下した」、三番目は「天下したの下」。四番目の独楽は「天下したの下の下」。このときしっかり紐が巻けないと、独楽を投げたとたんもう転げてしまう。そんな独楽のことを「ヒモッタギレ・紐った切れ」とか「紐ッ子」などと囃したてた。

これからが独楽回しの本番。一番早く寿命が尽きた独楽が最初に独楽を出す(回)す。次が「ビリ上」、そして「ビリ上の上」、そして次…という具合に。天下取りが独楽を出す頃はもう最初の独楽は息絶え絶えだ。しかもこのゲームは先に回っている独楽を、自分の独楽で轢くのがルール。“轢く”とは、文字通り相手の独楽を狙い自分の独楽を叩きつけるように投げて回す。小さい子が回す独楽は、その腕力から直径7センチくらいのもの(下の写真左参照)。高等科の回す独楽は10センチを超える独楽。

“かねっ独楽”は、木の台(キドと呼んでいた)に鉄の輪をはめ込み、心棒も鉄の『喧嘩ッ独楽』である。狙らわれて、轢かれてしまった独楽は、哀れ庭の隅にころころと転がり葬られてしまう。色鮮やかな大山独楽などで参戦などすれば“格好の餌食”。一日で満身創痍、場合によっては真っ二つに割られた“亡骸”を胸に抱えて観戦にまわらなければならなくなる。カジヤの庭には外便所がある。ウン悪く便壷に送り込まれてしまう独楽もあった。すると『便所めえり(参り)!』と歓声が上がる。轢かれずに済んだ独楽は、これからぶっつけ合いを始める。自分の独楽を独楽紐でこすりながら―これは独楽の回転をあげる技術で、四本の指で独楽を叩く“手叩き”という方法もあった―相手の独楽の所に持っていきぶつけ合う。サウスポーの私の独楽は、みんなの独楽と逆回転である。こちらの独楽に勢いがあるときはいいが、大きな独楽や元気のいい右回りの独楽に当てられれば、ひとたまりもなく“ころころ”である。

バトルロイヤルが続き、最後に勝ち残ったトシオさんは、まだ勢いのある我が独楽を人指し指と中指でヒョイと拾い上げ、“得意満面”掌にその独楽を回すのだった。(私にはそんなチャンスがあったろうかれができただろうか、昼食に家に帰ると家族から今日の戦果を聞かれる。私の答えは「今日は『天下したの下の下の下の…』を二回」。暮に町のカサヤ(今もある店)で買って挿げた:新品のキドも、三が日を過ぎる頃には無残な顔面に変わってしまう。その傷だらけの独楽をそっと撫で、縁の下に隠し「来年こそ天下を取るぞ」とリベンジを密かに誓うのだった。

そんな独楽回しも、いつの間にかお正月の遊びから消えていた。30年程前、家を建て直したとき縁の下の独楽を 探した。だが昔のかねっ独楽は見つからなかった。
       

かねっ独楽と大山の独楽 日本各地の独楽
(私の郷土玩具コレクション)

      



2001年12月1日更新

第 13 回 秦野のおはなし     寺山物語 その11


    彼岸御和讃

上は我が家の二階の北の窓から眺めた大山の姿である。前の建物は東中学校、私の母校であり、教師として仕事をしたところでもある。校庭にそびえる公孫樹の木は、樹齢百数十年と言われている。この公孫樹の東北300メートルほどのところに、もう一本の公孫樹か立っているも見える。二本とも寺山のシンボルである。

秦野市寺山の『寺山』という地名は「照る山・日の当たる山」から生まれた。大山・阿夫利山(雨降山)を背負い、なだらかに南西に広がる台地は陽光がいっぱいに当たる、“照る山”である。この寺山にあるのが福聚山円通寺。この寺から一日4回、メロディーチャイムが流れる。メロディーは『彼岸御和讃』というのだそうだ。「島倉千代子がレコードに吹き込んでいる」と、お寺さんから聞いた。

山川険しき世なれども  仏の教えひとすじに 彼岸に至るしあわせよ 

ああ あめつちに陽はうらら  久遠の救いここにあり

「ああ あめつち(天地)に陽はうらら」という一節は、まさに“照る山”である寺山に流れるにふさわしい。このチャイムに慣れて20余年、五月晴れの日、そして一層その青が濃くなった秋空の下でこのメロディーを聴くとき、この寺山に住んでいることに満ち足りている私だった。

 さて、ホームページ開設一周年を記念してお願いした『あなたのまちのメロディーチャイムを教えてください』は、次のようなまちから情報をいただきました。                                                 

 『夕焼け小焼け』 千葉県成田市  神奈川県平塚市・伊勢原市・寒川町・大井町  新潟県出雲崎町  東京都大田区                                          

茨城城県潮来市 

『浜辺の歌』 神奈川県横須賀市・藤沢市   

 『新世界より』 千葉県市川市  

 『四季の歌』 茨城県大宮町  

 『野ばら』 茨城県水戸市

『月の沙漠』 千葉県御宿町

『恋は水色』『野ばら』 福岡県椎田町

『愛の鐘』 東京町田市

『かあさんの歌』『朧月夜』『新世界より』『もみじ』  神奈川県秦野市

「私の町はお寺の鐘がメロディーチャイムです」というたより茨城県大子町の小野瀬さんからいただきました。

11月16日の夕刊に「毎夕のドボルザーク 行政のおせっかいだ」という見出しの付いた記事があった。「静かな生活を求める権利を侵害された」という訴訟が、愛知県のある町でおこされたのだ。『ドボルザーク』とは、秦野市でも流している『新世界より』のメロデイーチャイムのこと。「そうか、そういうふうにチャイムを聞く人もいるのだ」とあらためて思った。“人さまざま”なのた。




 2001年11月1日更新

   第 12 回 秦野のおはなし」     寺山物語 その10


今から50数年も前の「木の実」の思い出は、そのころの私の生活の全てにつながる思い出でもある。豊かに木の実をみのらせる自然があった。子どもたちを遊ばせた山や川があった。

 エベヅル(カタカナ書きは寺山での呼称。正式名は「えびづる」。以下カッコ内は同じ)は、野ぶどうの一種で10月ごろ黒紫の小さな実みをみのらせる。(野ぶどうはハコボレと呼び、食べられないこと教えている。)一房の長さは5センチくらいだから、房ごと口に押し込み、身の実の部分を前歯で軽く押さえ、茎を引き抜く。わが家の裏の生垣には、毎年このエベヅルがからむ。その蔓の先は生垣を通り抜けている送電線にまで伸び、そこに実がぶら下がったりする。そのころの電線はかなり裸の部分もあった。感電の恐ろしさと食べたい欲望との葛藤。そして苦闘の末ミニチュア・サイズのぶどうの甘さを味うのだったが、その夜突然停電になったりすると、昼間の“幸せ”が原因なのではないかと、一人気をもむのだった。余談だが、当時はこの裸電線から電気を盗り、脱穀のためのモーターを回したりしていた小ざかしい農家もあった。

 エベヅルの葉が赤から褐色に変わるころ、酸っぱいヨトヅメ(がまずみ)を食べることになる。霜が降りないと甘くならないと言われていたが、濃い赤の実がびっしり着いている枝先が目に入ると、どうしても口にしたくなる。秋の七草のおみなえしの花のような実のつけ方をしている小枝をへし折る。まさに《へし折る》という感じて、力を入れないと折れない木だった。晩秋、夕陽に染まっていっそう赤く輝く実、そしてへし折られた木肌の荒々しい裂け口の白さ。その対照的な色合いに、子どもながら何か知れぬ寂しさを感じた。

山の木の実の圧巻はアキビ(あけび)である。深くえぐられた赤土の山道に覆い被さるように雑木が伸びている。ヒヨドリがけたたましい声と共に飛び立つので、驚いて見上げるとそこにパックリ口をあけているアキビ。だがすでに“先客”があったのだ。だから、やっと手の届くあたりに一つでも手つかずの“開け実”(あけびとは開け実を意味する)を発見すると、嬉しかった。薄紫の厚い皮に包まれた白い果肉には、点々と黒い種が透けて見える。ほうばって甘さを味わい、種は一気に吐き出す。種ばかりという感じだ。アキビは、その色合いと形から「猫ぐそ」と呼ばれていた。だがその呼び方は、もしかするとこの甘い果実に近づかせない誰かの策略用語なのかもしれない。教え子の結婚式で、新郎の幼馴染が学校帰りにあけびの取り合いで喧嘩をした思い出を話した。山の子にとって、アキビは今も変わらぬ獲物なのだろうか。

              (裏の武さんの庭になった槙の実 この輝く色)

槙の実も食べた。実のつくのは古い木だ。その実の色は美しい。黄緑から黄、橙色、赤、赤紫、黒紫と熟していく。形は白樫のどんぐりに似ている。味は甘くサッパリとしている。この槙の実、実と思って食べていた部分は『花托』というのだそうだ。実はその花托の先に着いている薄緑の硬い玉の部分。

このごろ槙の実を余り見ない。昔は槙の木は風除け・火除けの生垣として植えられていた。成長が早い木ではないので、生垣になっているものはすっかり古木になっていた。枝の切り落としや刈り込みは、防災の目的から外れない程度にしかしない。だからたくさん実はなった。今、すっかり庭木になってしまった槙はその実をつけられない。先日、久しぶりに波多野城址に行ってみた。いしぶみの傍らに、槙が昔のままの形でどっしりと根を下ろしている。その木に登り、ビロードの艶やかな色とりどりの実を一粒一粒と口に運んだ遠い日。その槙の木に実はなっていなかった。 (この項終り)




2001年10月1日更新

 第 11 回  秦野のおはなし     寺山物語 その9

寺山に住んでいた人たち 寺山に住んでいた人たち
今も先祖の名で呼ばれる家

 集落は一人の実力者、たとえば武士とか名主とかを中心に出来上がるのが普通です。その実力者は自分を守るために血縁・地縁者を近くに住まわせます。その人たちは実力者と同じ姓を名乗ることで助かることもあります。だから一つの集落に同じ姓の家がたくさんあるのです。寺山でいえば、武、鈴木、古谷などの姓がそうです。さて、実際に生活をすることになると、同姓が多いことで混乱することがあります。それで、職業名や屋号、地理上の特徴や住んでいる場所などの条件で、同姓の人を識別・区別します。こちらのことはすでに書きました。

明治8年の「苗字必称令」がでるまで、庶民は苗字など持つことはできませんでした。だから、名のほうで呼び合うのが普通でした。そこで、今回は寺山に残っている昔の名での呼び名を持っている家をさがしてみました。以下の( )の中の表記は、私が今もどの家か判る呼び方です。  

善右衛門(ゼーエはん)呼ばれているのは武善右衛門家、名主で寺山に多い武姓はこの家に依っています。天保六年(1835年)のてらやまのことを書いた古文書には次のような名前が登場しています。当時の寺山の「名主」として 善右衛門 庄右衛門 兵右衛門(ヒョーエはん)作右衛門の四名でした。庄右衛門と善右衛門は、実朝公の首を秦野に持ってきたといわれる武常晴の子孫にあたります。ですから武を姓にしています。兵右衛門は現在の山岸さん、作右衛門は古谷を名乗っています。この古文書には他に「組頭」として八右衛門 政右衛門(マセーはん)八郎兵衛 清兵衛(セーゼーはん)が書かれています。勘四郎(カンシロはん) 市郎右衛門(イチロエはん)半兵衛 権右衛門という人が「百姓代」という肩書きで載せてあります。なお、名主、組頭、百姓代は江戸時代の村方三役と呼ばれて、幕府の領地の運営をしていました。

これ以外で、私がその家を判別できる呼び名には次のような永あります。二左衛門(ニゼーはん) 六兵衛(ロクベーはん) 九左衛門(ゼーはん) 十左衛門(ジュウゼーはん) 彦左衛門(ヒコゼーはん) 兵衛(ヒョーエはん) 「〇〇はん」という言い方は「〇〇さん」の秦野弁でしょう。「ヨコゼーはん」と呼ばれる家がありますが、これは善右衛門(ゼエーはん)の横にあるので、横善右衛門(ヨコゼーはん)だと思います。もう一軒「ケエッツぁん」と呼ばれるいえがあります。どのような文字がもとなのか判りませんので、現在の当主に尋ねてみました。その答えは「初代がカイジロウという名前だったそうで、カイジロウがケエジローになって、ケエッツぁんになった」でした。秦野の乱暴な言葉遣いがよくわかるような、変わりようです。

あと20年もすれば、ここに書いたような祖先の名で現在の家を識別できる者はいなくなってしまうでしょう。また一つ大事なものが消えてしまうような気がして少し寂しいです。



寺山物語余話

あなたはどのカツマタさんですか?

静岡の御殿場や駿東郡には「カツマタ」を姓にする家がたくさんあるということです。それで、他家と区別するために「カツマタ」という姓の音は同じで、文字にすると違う「カツマタ」を姓にすることがおこなわれたようです。@勝間田 A勝俣 B勝亦 C勝又 D勝股 E勝田 これらは全てカツマタと読みます。文字にすれば一目瞭然です。でも呼ぶときはどうするのでしょうか。そこで、地元の人は次のように読んで、呼ぶのだそうです

@勝間田さん=「カツカンデンの勝間田さん」(漢字の読み方を変える)  A勝俣さん=「ヒトマタの勝俣さん」(人偏の俣だから)  B勝亦さん=「アカマタの勝亦さん」(亦が赤に似ているから)  C勝又さん=「ふんばりマタの勝又さん」(又という文字の形から)  D勝股さん=「ニクヅキマタの勝股さん」(股はニクヅキ偏だから)  E勝田さん=「間抜きの勝間田さん」

 かなり“危険な”読み方もありますねえ。この話は、近所の法事の席で静岡・小山町の方から聞きました。この区別の仕方は本当でしょうか。どこかのカツマタさん、教えてください。





2001年9月1日更新

 秦野のおはなし 今回の寺山物語は武勝美の新聞物語

学校新聞の全国大会と私       北は八戸南は別府  25回目は箱根でした

現役のころ、私の夏休みの恒例行事は全国新聞教育研究大会に出席することだった。1968年の熱海大会への参加から数えて、今年の箱根大会は25回目の出席になる。「よく続きますね」という言葉は賞賛より呆れ顔から出る言葉に近い。

一時期、大会参加者は自分たちのことを “学校新聞の鬼”と言っていた.私はこの言葉は好きではない。学校新聞は学校に欠かせないものだし、だれにでもつくれるものだから―学校教育の“鬼っ子”になっては困るのだ。

箱根の夜の懇親会で田村俊雄さん言った「先生、この大会では三番目の長老ですよ。伊藤先生でしょ、園部先生 来ていますよね。そして武先生ですよ。」 この田村さんは新採用が秦野西中で、私の学年に所属。そこで新聞づくりに興味を持ち、東京に転出後も新聞活動を進め、今は全国新聞教育研究協議会の事務局次長として活躍している。秦野西中の採用でなかったら、新聞と出会わなかったら、今とは別の田村さんであるはずだ。そしてこんなところで会うことなどない―だから生きてこと、出会えることを喜びたい。

 25回の出席は“は〜るばる来たぜ函館へ―”ではない。“はるかな道のり”を来た館もする。出席率も7割5分と、イチローより“断然イイ“のは当然。それは観光を兼ねていたからだ。

私の全国新聞教育研究大会参加のメモ 

1 熱海大会(1968年) 県新聞研究会の理事だったので記録係を受け持たされた それがキッカケで…今の私がある 

2 八戸大会(1969年) 八戸に単身赴任中の教え子のお父さんと夜の町を飲み歩いた思い出、井沢尭司先生参加

3 盛岡大会(1971年) 帰りの夜行でお土産を盗られたっけ 

4 別府大会(1972年) 全体会で提案「全学級による週刊学級新聞活動」帰りに九州横断、中村保夫・.永山孔昭先生もご一緒 

5 鳥羽大会(1973年) 部屋のクーラーが切られ眠られなかった夜 小室明彦先生と参加 

6 鶴岡大会(1974年) 中学校分科会のパネルの司会者 母、妻、長男も同行、花笠祭りを楽しむ 

7 神戸大会(1975年) 初めて神戸の町に入った ステーキと六甲からの夜景と… 

8 豊川大会(1976年) 豊川稲荷の参集伝殿での大会 PTA広報の提案者 

9 上野大会(1977年) 20回記念大会 会場・国立文化会館 パネルディスカッション『新聞教育の未来と原点を探る』 パネラー・高須正郎 藤田恭平 大石勝男 藤田昌成 武勝美 

10 熱海大会(1978年) 中学校分科会司会者 

11 箱根大会(1980年) 箱根・強羅が会場 提案・相原雅徳先生(秦野西中)

12 神戸大会(1981年) 中学校分科会助言者 教え子が和歌山から参加 

13 東京大会(1982年) 青山会館  この年 酒井寅吉賞受賞 

14 酒田大会(1983年) 中学校分科会助言者  提案・小島仁子さん(秦野西中P) 増田充男・関野直子・山口勝・相原雅徳先生参加 弘前のねぷた祭り見学 

15 神奈川大会(1984年) 中学校分科会助言者  会場は箱根・明星中学校 公開授業・関野直子さん(秦野本町中) 提案・小島仁子さん(秦野西中P) 

16 市川大会(1985年) 柿本、三浦、坂本さんと夜明かしで新聞を語り、飲む 

17 盛岡大会(1986年) 鳴子温泉から松島、石巻に回る 

18 東京大会(1987年) 30回記念大会 

19 柏 大会(1992年) 5年ぶりの参加 本厚木から千代田線で行けた会場、日帰りで二日通う 

20 豊橋大会(1993年) 久しぶりに大内文一さんの講座に出る 

21 東京大会(1994年) 新聞講座講師 斎藤義一賞受賞 提案・脇本京子さん(秦野東中P)会場・日本教育会館 秦野から14名の参加 

22 世田谷大会(1997年) PTA分科会助言者 提案・大津美恵子さん(秦野東中P) 東中P9名が応援に 

23 台東大会(1998年) PTA分科会助言者 

24 横須賀大会(2000年) 中学校分科会助言者 提案・木口まり子さん(松田中P) 

25 箱根大会 (2001年) 新聞講座講師 研究分科会Uを秦野で担当 提案・原幸恵先生 司会・谷津裕先生 記録・橋本ゆかり先生 秦野から13名が参加



 2001年 8月 5日 更新

学校新聞の秦野

今月は夏休みということで「寺山物語」はお休み。代わりに新聞の話を…(逆ですよね、夏休みだから、もっと軽い話がいいのですが…。) 箱根大会もあったことですので『秦野と学校新聞』のことを書いてみます。

毎日新聞と全国新聞教育研究協議会が主催して『全国小・中学校・PTA新聞.コンクール』が行われています。昨年でちょうど50回になりました。応募した新聞は9998という数でした。

学校・学級・学習・PTA新聞の部門に分かれて審査されますが、秦野からは8紙が入賞しました。内訳は学校新聞が3校(東中、大根中、南が丘中)、学級新聞が4(東中、鶴巻中、渋沢中、本町中)、PTA新聞が1(鶴巻中)でした。この秦野の入賞数は、山形・鶴岡市の9に匹敵するものでした。秦野は鶴岡と並び、日本の学校新聞の二大勢力の一つです。

鶴岡市は酒井14万石の城下町として栄えた、文化香りのただよう町です。高山樗牛、丸谷才一、藤沢周平などが出ています。昭和初期の流行歌「国境の町」や「裏町人生」の作曲家・阿部武雄が生まれた地です。そう、あの名歌「雪の降る町を」の街といわれています。そして『学校給食発祥の地』です。

対する秦野ですが、秦野をふるさととする著名人は前田夕暮、宮永岳彦…。タレント系では坂井和泉(ZARDのボーカル)、吉田栄作、そしてLUNASEAも秦野出身です。歴史的には、源実朝公の御首塚があります。あまり知られていませんが、秦野は『上水道』が全国で3番目に敷かれた町です。

さて、学校新聞の話に戻ります。秦野市の中学校で新聞づくりが今も盛んなわけは、戦後いち早く学校に新聞づくりを取り入れた東中学校の存在が大きいようです。東中学校の『東中新聞』は、1949年に生徒会に広報部ができ、1955年にはもう活版新聞になっています。そして2001年7月17日発行号は692号になっています。生徒も教師もそれぞれが入れ替わっていく中で、実に半世紀にわたり途切れることなく営々と新聞づくりが続けられていることに、驚きと同時にある種の感動さえ覚えるのです。そしてこの営みの中に私も居ることができたことの幸せをかみ締めています。私は東中の新聞委員でした。そして東中に教師として戻ってきて通産18年間、子どもたちと新聞づくりをすることができたのです。

8月2、3日に箱根で開かれた第44回全国新聞教育研究大会で、原幸恵先生が「新聞で成長する生徒たち」という発表をしました。参加者に大きな感銘を与えた内容でした。(のちほどその提案を紹介します)その応援に市内9中学校から12名の先生と保護者がでかけました。“新聞の秦野”として面目躍如たるものがありました。




2001年 7月15日 更新

第 9 回 秦野のおはなし     寺山物語 その8

お盆のお話  ナスの牛 キュウリの馬 

寺山は7月がお盆月である。7月13日に家の中に盆棚を飾り、門口に『辻』と呼ぶ砂盛りの壇を作る。私の子どものころは富士山の火山灰の黒い土を掘り出して使っていた。13日の午後3時ごろ、その辻の前でキビカラの迎え火を焚く。里帰りするご先祖様(寺山ではオショロサンと呼ぶ・お精霊様のこと)のための目印である。ちょうちんにも灯りが入る。

辻で一休みしたご先祖様は、ナスの牛とキュウリの馬に乗って家の中に盆棚に着く。この辻は、お盆の4日間近所の人が「お参りさせてください」と、夕方線香を手向けにくるところでもある。数年前から私が近所の6軒を回っている。辻はそれぞれの家で昔から伝わってきた独特のものを作っている。(下の写真で見てください。)

14日はあんころ餅を供えるが、これは農作業に疲れたからだに甘い物が必要という生活の知恵からのものだと思う。15日の朝は茶飯のおにぎりが盆棚に2個上げられる。この日はご先祖様が『マチ』に買い物に行かれるので、お弁当におにぎりを持たせるのだ。1年に1度、大勢の友達や知り合いに会えるマチでの買い物は楽しいだろう。だが、何をお買いになるのかは知らない。誰も一緒に行けないのだから。マチとは、江戸時代に“十日市場”と呼ばれていた秦野町(今の本町地区)を指しているようだ。

このご先祖様が里帰りの時にマチに買い物に行くという話は、あちこちにある。寒川町(神奈川)のあたりでは、伊勢に買い物に行くといわれている。豪勢な買い物ツアーだ。巻き寿司を持ってカンダノマチに出かけるのが御殿場地方の話。カンダノマチとは東京の神田のことだという人もいる。御殿場の人が東京・神田というのはうなずける。御殿場線はかつては東海道本線だったから。今なら小田急の特急も乗り入れているし。「戸塚(横浜)ではアズキ飯のおにぎりを持って町田(東京)に行く」と教えてくれたのは江戸川の鈴木さん。

さて、16日はもうお帰りの日。私たちは送り火でお送りする。ご先祖様はナスの牛に乗ってお帰りになる。お土産をたくさん買ったから、牛に背負わせて?そうではない。「“モウ”帰るのか」と、名残惜しげに、たぶん、ふり返りふり返りなのだろう。ゆっくり、ゆっくり帰っていくナスの牛の後をキュウリの馬が付いて行く。来年のお盆には、ご先祖様はこの馬に乗ってまっしぐらに帰ってこられるのだ。

あなたの家のご先祖様はどちらに買い物にいらっしゃるのでしょうか。あなたのふるさとのお盆のお話を聞かせてください。私がマチに買い物に行くようになったら、どこに何を買いに行ったのかお教えしましょう。





 2001年 7月4日 更新

第 8 回 秦野のおはなし   寺山物語その7

住んでいる場所による通称・呼称

「俺の子どものころは…」と言えば、今から60年くらい前を指す。おおよそ太平洋戦争の前後というころ。そのころは、東秦野村に住む人たちの姓はかなり限られていて、武、古谷、遠藤、小泉、鈴木、相原姓なら、寺山地区の住人と想像できた。ちなみに東田原は大津、高橋、桐生。西田原にいけば牧島、石渡、桐山。蓑毛になると鈴木、根岸、向原が多かった。名古木は須山、小泉、関野で、落合は横溝、井上,小沢…というように。同姓が多いということは困ること、で呼び名はほとんど呼称・通称になる。

今回の寺山物語は、住んでいる場所などによる呼び名・通称のお話。地域性や時代を考えてみれば同姓が姻戚・親戚関係にあるということは当然であろう。そこで「ワカレ」とか「ニイヤ(新家)」などと呼ばれる家も出てくる。

寺山で今も通用する家の通称(戦中・戦前派には…)

ハズレ   寺山の出入り口近くの家

オオシモ(大下)   寺山の一番下にある家

オオイリ(大入・奥入りのことか)   タコーチ山に一番近い家・中入、前入と呼ばれる家もある

オオマガリ(大曲)   大山道が大きく曲がっているところの家

ケードー(開戸か街道か)   開戸も街道も、新しく家を興した場所の呼び名

ミヤミチ(宮道)   鹿島神社の鳥居の脇にある家

ツジ(辻)    家の前が三つつじ辻になっている

トオノメー(塔の前)   道祖神の前の家

ヨコチョー(横丁?)   高札場あった横の家か?

オオシタ(大下)   新道がその家の上を通ったので

ムケー(向い)   道の向かいに新家を作ったので

インキョ(隠居)   名主の隠居処

ナケー(仲居)   名主の仲居さんが住んでいた家

クラヤシキ(蔵屋敷)   土蔵持ちの家

カワラ(川原)   以前延沢川の近くに居を構えていた家が街道沿いに出できた

ヤブネ(藪根?)   藪かげに在った家のことか?





 2001年 6月3日 更新

第 7 回  秦野のおはなし       寺山物語その6

呼称、通称の話

寺山には大山道が二本通っている。その印である大きな石の道標がコンビ‘AMPM’の脇にある。曽屋村(今の本町地区から落合を抜けてくる『羽根尾通り大山道』が、ここ藤棚で分岐するのだ。道標には右に「さか本」道、左に「ミの毛」道と書かれている。左の蓑毛道は、東小学校のプールのあたりから中学校の西側を通っている今の道である。坂本道(現在の大山町は、昔は坂本と呼ばれていた)は、今蓑毛行きのバスが走る県道の途中、東中学校の裏の遠藤産業の脇から右に折れて入る道である。この坂本道と蓑毛道を、バス停・東中学校入口から東中学校の校庭を横切っている道がつないでいた。蓑毛道はバス停・才戸入口でまた分かれて横畑に向かい、『長塚』と呼ばれる所で角谷戸を抜けてくる坂本道と一本になる。長塚には、「長塚のお婆が出る」という話が伝わっている。

このような街道に面した部落である寺山だから、住んでいる者も多かったようだ。1830年代の寺山村の戸数は93戸と記録されている(『新編相模国風土記稿』)。そこに人々の生活があれば、さまざまな職業も存在しなければならない。往時の寺山の人々の暮らしを、今に知らせてくれるものを探してみるのがこの『寺山物語』である。そこで、今回は寺山に存在していた(今も,昔の家業で呼ばれている家も少なくない)通称や呼称(職業に関するもの)を,私の記憶の中から呼び起こして書いてみる。

みせ(店) しんだな(新店) かみすけや(紙漉屋) とーふや(豆腐屋) あぶらや(油屋) しょーゆや(醤油屋) やねや(屋根屋) いたや(板屋) たたみや(畳屋) かじや(鍛冶屋) ばりきや(馬力屋) しゃくや(柄杓屋) つけぎや(点け木屋) とこば(床屋)  しもっくるま(下流の水車屋)。でんきや(電気屋)、かしや(菓子屋)、せんせい(先生)などはずっとあとになっての登場である。

ところで我が家はといえば“かみっくるま(上流の水車屋)”で「擦り擦りもうけている」と言われたのだそうだ。金目川橋のたもとに,今もそのなごりの土地がある。

言うまでもなく,当時の生活の主体は農業である。個人名の呼称や通称もあった。それは次回で紹介する。





2001年5月3日 更新

第 6 回 秦野のおはなし       寺山物語その5

 続・寺山の地名考
舞ケ久保 (まいがくぼ)

寺山には「久保」「久保開戸」「西ノ久保」「舞ケ久保」「熊久保」「杉名久保」というように、「久保」が付いた小字がある。それぞれが窪んだ地形となっているが、その中で「舞ケ久保」だけは、他と違う雰囲気の名前、そして場所である。

「舞ケ久保」と呼ばれるところは、円通寺の墓地から鹿島神社の裏手に続く村はずれである。そのような場所に「舞」という文字がついた地名である。私たちは、古い時代から魂送りや虫送りなどという習俗を持っていた。その祭りをするところ、踊りをして魂送りをする場所がそれぞれの村にあった。「舞ケ久保」が円通寺の墓地ということは、死者を送り出す踊りをおどった場所とも考えられる。

秦野市内には、寺山の「舞ケ久保」に似た地名が何か所かある。鶴巻地区にあるのは「舞台」。ここは、集落からまったく離れた水田地帯の地名である。「踊場」と名づけられた地が北地区の戸川と西地区の堀西にある。北地区に「菩提・ボダイ」という地名があるが、これは「舞台・ブタイ」が秦野弁で「ブテー」になり、やがて「ボデー」に変わり、「菩提」という文字が当てはめられたという人がいる。



一徳坊 (いっとくぼ)

寺山の集落が背負っている“タコーチ山”(前回の寺山地名考参照)の山中の地名の一つに「イットクボ」がある。私は、子どものころから「一等(一番)奥にある久保」だと思っていた。横畑という集落を指して「イットクボ」と呼んでいた。現在の土地宝典にも「一徳坊」という地名がある。どうやら「いっとくぼう」が正しい発音らしい。秦野弁の特徴から生まれた私の誤解なのか。

寺山は古典落語でおなじみの「大山詣で」の道が一本とおっている。その道を坂本道といい、終点は坂本宿(今の大山町)だ。そこには、今も宿坊がたくさんある。寺山の地名「一徳坊」も、宿坊と関係あるのかも知れない。だが私は、「イットクボ」・寺山の一番奥の集落・久保が地名の元になっていると思いたい。「イットクボ」という音に、誰かがもっともらしい漢字「一徳坊」を当てはめてしまったのではないか。



2001年4月1日 更新

 第 5 回 秦野のおはなし   寺山物語その4

 鹿島神社のお祭り

 三月の中ごろから、毎夜太鼓の音が聞こえてくる。秦野盆地の祭りの太鼓は“馬鹿ッ囃子”と呼ばれている。笛が入らないで,カンカン叩く一本調子の囃子て゜ある。寺山の鹿島神社の大祭は,今年は4月8日の日曜日だ。鹿島神社の大祭はかつては4月10日だった。それが三十数年前から10日に近い日曜日になった。平日では神輿を担ぐ人が集まらないからである。子ども神輿も学校があれば出ない。寺山以外の東地区の各神社の祭礼も同じように日曜日におこなわれている。ちなみに東地区の7神社の大祭日を書いてみる。



東田原神社・3月18日  八幡神社・3月28日  鹿島神社・4月10日  八幡神社(落合)・4月14日  御嶽神社(蓑毛)・4月19日  御嶽神社(名古木)・4月20日  朝日神社・7月14日。今ではこの大祭日も忘れがちである。

路線バス止める法被や春祭り    勝美


祭りが春に集中するのは豊作祈願ということに結びついている。私の昔の子どものころは、4月10日の寺山の祭りのころは、ちょうど桜吹雪だった。桜の舞い散る中を行く神輿は、道行く車を止めたりした。やがて神輿は一枚の田んぼに入り“練った”。これは鹿島神社の祭礼の神事。「田練り神輿を指定の田で執行し豊作を祈る」と新編相模風土記稿に記されている。

その神輿を担ぐ掛け声も昔は独特だった。「やーとーさっせ、やーとーさっせ」。そして合の手に「明日はねーぞ」という言葉が入る。「やーとーさっせ」とは、「弥(イヤ)遠(トウ)に栄えませ(サカエマッセ)」、「いつまでもこの寺山村か栄えますように。今年も豊作でありますように」という神への祈りの言葉である。「明日はねえぞ」は、「お祭りは今日だけ(明日はない)、明日から田んぼに出て働くぞ」と祭りを楽しむ声だ。この掛け声はもう聞かれない。田練り神事も消えた。だが、大人の神輿を担ぐ人が多くなった。子どもの神輿のほかに、女の子用の樽神輿も作られ、今年も三基の神輿の渡御のある寺山・鹿島神社のお祭りである。



2001年3月1日更新

第 4 回 秦野のおはなし       寺山物語その3

寺山の地名考

私が生まれ住んでいるところを秦野市寺山清水という。我が家の隣の東小学校から、卒業式の練習であろう校歌が流れてくる。その一節は「清水が丘は夢湧くところ。」そして、東中学校校歌は「いつも湧き立つ希望の泉」と歌う。寺山には現在、宝作 宝ケ谷戸 清水 竹の内 二つ沢 角谷戸 久保の七つの小字があり、そのそれぞれが自治会をつくっている。今回はそれらの地名について書いてみる。

寺山  “照る山”のことで、“照る”は美称。この寺山は東北が高地で西南の低地に向かって開けている。日当たりがよい山地、照る山から寺山とよばれるようになった。寺山には、今はお寺は園通寺だけだが、かつては安養寺、大仙寺、阿弥陀堂、地蔵堂があった。だから“寺町”=寺山という説もある。

清水   二つの校歌に登場するように、縄文時代から湧水の地だった。私の子どものころでも、夏になるとその池の冷たい水を持ち帰り家族でのどを潤した。今その池は県道の拡張工事で消えてしまった。

宝作   地名の多くはその地形から生まれている。その地名に縁起の良い漢字をあてはめるのは、そこに住む人たちの祈りかもしれない。宝作(ホウサクと読む)宝は“方”で、方とは“ところ”や“地”という意味がある。“作”は“サクル”削るという意味で、お百姓言葉で聞いたことがある。小さな谷、狭く窪んだ地がサクで、そのサクに作を当てた。宝作の地形は狭く窪んだ地になっている。

宝ケ谷戸 ボウゲートと呼んでいるが、昔は棒ケ谷戸だった。谷戸は谷でしかも人の住んでいることをあらわす言葉。宝ケ谷戸の地形は、延沢川にそって棒のように奥深く集落が続いている。棒だったのを宝にした。お隣の宝作とどちらが先に“宝”を使ったのか。

竹の内  “内”は居住地を表す言葉で、堀の内や中垣内などその例である。竹の内には村社鹿島神社が置かれている。祭神は武甕槌命である。その武を地名にできないので“竹”にした。

二つ沢  沢が二つ、文字どおりの地名である。

角谷戸  寺山のいちばん奥(角)にある谷戸(集落)。

久保   窪地にある集落、窪を久保で表す。

タコーチ山 寺山が東北に背負っている大きな山がある。正式な名は高取山と言うらしい。だが私たち寺山の住人は“タコーチ”と言ってきた。そして今もそう呼んでいる人が多い。だがタコーチという意味がわからない。文字も不明。秦野市土地宝典にも“タコーチ”とカナで書かれている。鷹落ち山か、鷹内山か、それとも高内山?。秦野の凧揚げは五月のお節句だった。中学校の校庭で揚げた私のセンミ(蝉)凧が、強風に糸を切られて飛んでいく先はタコーチだった。あの山は凧落ち(タコーチ)山なのである。高取山は伊勢原市の人たちの呼び名である。



2001年2月1日更新

第 3 回 秦野のおはなし

今年は二月三日が節分、豆まきの日である。その日私たちは「福は内 鬼は外」と鬼を追い出す。追い出された鬼はどこに行くのだろうか。その追い出された鬼たちに宿を貸す家があるのだそうな。              

東京の小平市の青梅街道沿いにある小川町の小山家では,昔から節分の日に《鬼の宿》という行事が行われている。《鬼の宿》とは,節分の日に他家から追い出された鬼を泊めてやるという行事なのだ。今から百三十年ほど前の安政年間から始められたようだ。

この家では、お正月のお飾りに“オスイゼンサマ(竹を細かく割いてすだれのように編んだもの)”を作り、かまどの横に飾る。このオスイゼンサマが節分の日の《鬼の宿》になる。

節分の日、他家で豆まきが始まる前の夕方五時ごろ,小豆ご飯を桟俵(サンダワラ)に盛りオスイゼンサマに供える。お神酒とお灯明も上げる。灯りは夜中まで絶やすことなく灯されている。やがて、方々から追い出された鬼たちがこの宿に逃げ込んで来る。そしてオスイゼンサマで休む。

当然のことだが小川家では豆まきはしない。その夜の丑三つ時、この宿の年男は,絶対に誰にも見られないように用心しながら鬼を四辻まで送っていく。そのとき、桟俵の小豆のご飯にお神酒をかけて持っていき四つ辻においてくる。鬼たちに持たせるお土産だ。帰るときは決して振り返ってはいけない。

小川家の当主は言う「近頃は真夜中でも車が走っているので、お送りするのに大変気を使います。昔は職務質問されたこともありました」「親からの言い伝えで宿をやっています。私で四代目です。追い出された鬼でも助けてやらなければ…。お蔭で代々幸せに暮らさせてもらっています」

《鬼の宿》のことを知ったのはもう二十年も前のことだろうか。以来、私の豆まきは「福は内 福は内 鬼は外」から「福は内 福は内 福は内」に変わった。いささか欲張りすぎの掛け声だが…。



2001年1月1日更新

第 2 回 秦野のおはなし   寺山物語 その2

私が子どものころは、1月14日は“トッケダンゴ”の日だった。この日は全国的にだんご焼きという民俗行事が行われる。左義長、さいとばらい(秦野弁では「せーとばれー」)などとも呼ばれているが、関東から信越地方にかけては、道祖神祭りと結びついている。                

1 道祖神と一つ目小僧                                                             

七草が過ぎると、子どもたちが正月に飾った松飾、注連縄、そして昨年一年間、家を守ってくれた道祖神や氏神様のお札、達磨、さらに暮れの“すす払い”に使った煤竹などを集めて回る。これを「松引き」と呼んでいる。集められたものは1月14日の夕方、道祖神の前で燃やされる.その火で焼いたダンゴ゜を食べると無病息災の一年になるのだ。道祖神の前で火を燃す、ということをこの地方では次のように説明している。 

 12月8日は「一つ目小僧」が来る日である。一つ目小僧は疫病神で、この日家々に入り込もうとする。ところが、どの家の庭にも‘メケーゴ’‐秦野弁で目籠(めかご)のこと‐が竹竿の先に高く掲げられているので入り込めない。目籠には目がたくさんあるから、一つ目では敵わない。あきらめた一つ目小僧は、部落の入口にいる道祖神のところに立ち寄り、一冊の書付‐ノートのこと‐を「来年来るから…」と預ける。道祖神がそのノートを見ると、厄病を持ち込みたい家の名前や、性行不住んで良の子どもの名が書いてある。それで、道祖神はそのノートを燃やして村人を助けた。道祖神の前で火を燃やすのは、疫病神がどの家にも入らないようにするということのようだ。道祖神そのものを燃える火の中に置いた時代もあった。ところで、道祖神に集まる品物が年々少なくなっているようだ。ダイオキシンやゴミの問題からた゜けとは言い切れない。お正月の生活が大きく変化してきているからだろう。

2 道祖神のお札の朱印

子どもたちは「松引き」をしながら、道祖神の今年のお札を配る.このお札は子どもたちか木版で刷り上げたもの。我が家がいただくのは百年に近い歴史がある版木で刷られたお札で、『一月十四日 道祖神 清水』と記されている。私のいる小字名は「清水」である。そして札の中央に朱印が押されている。朱印のある道祖神のお札はこの辺では清水のものだけだ。朱印は「秦野運送株式会社之印」である.誰が、何時から使い始めたのか、威厳、権威、ありがたさを感じさせるために、それともデザイン的に使ったのか。それにしても、運送会社の印とは洒落ていると思う。

3 トッケダンゴ

ダンゴを道祖神の前で焼くというのは別の意味もある。ダンゴは農作物の形につくる。これは、今年の農作物の豊作を祈って神にささげるダンゴなのだ。我が家では13日の夜ダンゴを作る。かつては太陽、月、米俵、タバコの葉、繭玉、里芋、小判、宝船などを私の背の高さほどのダンゴの木に飾った。ダンゴの木はコナラ、樫、ツゲ、椿など、それぞれの家で伝統的に使っている。椿やツゲに紅や白のダンゴは色彩的に美しい。このごろは市内の八百屋でダンゴの木が売られているが、これはコナラ。我が家もコナラで、紅と白のダンゴとミカンを刺す。

14日、つくったダンゴを道祖神に最初に供えた人は、道祖神の小屋にいる子ども(神主という役目の子)からお赤飯をもらう。次に供えに来た人は、前の人が供えたダンゴを持ち帰る。そして、次々に前の人の供えたダンゴと取り替えて持ち帰る。、このようにダンゴを取り替える「取り替えダンゴ」、これが“トッケダンゴ(これも秦野弁!)”の語源である。後の人のことを思って大きなものを供える、という思いやりが見られるダンゴの大きさが嬉しい。

今年も14日の夕方、秦野盆地のあちこちから“トッケダンゴ”の白い煙が立ち昇る。私の子どものころは、道祖神の小屋で太鼓をたたいた。その音は「トッケダン トッケダン トッケダンゴ ダンゴ ダン」。あなたの指でリズムをとってみてください。幼い日を、ふるさとを、思い出すリズムです。





 2001年1月1日更新

第 1 回 秦野のおはなし   寺山物語  その1

 武 姓 と 源 実 朝

旅先で暇があると三文判の売り場に立ち寄る。武という姓がどの程度全国区なのか知りたいからだ。だが秦野市以外ではあまり武の印にはお目にかからない。ところが武勝美をある検索エンジンで探したら94万という数字が出た。その膨大な「武」にかかわるものの多くは、あの名ジョッキー・武豊さんに拠っている。現実には武を姓としている人にはそれほど遭遇てきない。

さて私の住んでいる秦野市寺山には武を名乗る家が38軒ある。武性がこの地に集中しているのはなぜか。        1219年1月27日、鎌倉・鶴岡八幡宮の境内で三代将軍源実朝公は暗殺された。その実朝公の御首をもって秦野に落ちのびたのが、三浦の武士・武常晴だった。その御首は寺山の隣、田原の小さな森の中に葬られた。そして武常晴は寺山に住み着き墓を守った。武姓が寺山に多いのはそのためといわれている。さらに時は流れ1518年、今度は武信業という武士が三浦から寺山に移ってきた。こちらの武氏は三浦からお宮を持ってきた。それが現在の寺山の氏神・鹿島神社である。どちらの武氏も“りっぱなモノ”を持ってこの秦野の寺山にやってきた。

「それで武さん、あなたはどちらの武さんですか」ということになる。我が家はお宮の武らしい。叔父がよく言っていた。「うちの祖先は神様だぞ」と。実朝公ゆかりの武姓の家紋は『笹竜胆』、鹿島神社系は『左三つ巴』、わが家の紋は後者である。もう一つ,この寺山で『竹に雀』の家紋を持つ武を名乗るグループもある。この人たちは「この流れが寺山では一番古くてえらいのだ」と言う。

姓は主に地名から生まれている。神奈川・横須賀市に『武』という地名がある。そこには鹿島神宮(神社ではない)跡があるらしい。(今度探しに行く。) 『武』という地名は、この横須賀市武以外に鹿児島市、鹿児島県桜島町,福岡県二丈町にある。武豊さんの祖父は秦野出身だという人がいる。有名な人が出ると、みな親戚にしてしまうのが日本人の“イイトコロ”である。私もそれに近い。オグリキャップの武豊が好きで,エコーの紙上にそのことを書いたことがある。                                              

下の絵は地元・田原出身の南画家・大津雲山(S44没)が描いた「実朝塚夕照」である。四行目に武常晴という文字が見え、実朝公との関係が読み取れる。田原には大津姓が多い。武常晴とともに実朝公の首を田原に持ってきたのは大津兵部だった。(終り)


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