-ECHO-  最新号(創刊1985年5月20日)
動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない

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NO323  2013年12月1日発行


                                       行くぜ。東北。

                                          メールじゃ会えない。レールで会おう。      JR東日本のキャッチコピー 


8月22日から除染が始まりました
 磐梯山や吾妻山は雪の山になり、「猪苗代湖には白鳥の飛来」が伝えられています。実りの秋が終わり、いよいよ厳冬。その実りですが、今年も稲は全袋検査です。震災前にはたくさんいた蝗や蜻蛉をまったく見かけなくなりました。
 8月22日から一般住宅の除染が始まりました。我が家は立地上から一番はじめでした。最初に木の枝の剪定、そして庭の表土削りを5cm。その土は枯葉などと一緒に黒い袋に詰められました。80坪ちょっとある敷地なのでたくさんの袋ができました。それを庭の空いている所に縦横2m、深さ2メートルの穴を掘り、青いシートを敷き黒い袋を埋めました。そして別の地から運んできた土が庭全体に敷かれました。玉石などを敷いていたところには新しい砕石を入れてくれました。でも庭の草花は全部引き抜いてしまったので何もない殺風景な庭です。建物除染は雨樋だけです。足場をしっかり組んだのだから屋根もやってほしかったのですが。テラスは高圧洗浄機で洗ってくれました。でも、それで線量はどれだけ下がったのかまだ連絡は来ません。今度の検査結果もそうなのですが、連絡がとても遅いのです。
 最近、何だが気分が重いです。除染したものが玄関先に埋まっている、それをいつ掘り出して処分してもらえるのか見通しが付かないのです。汚染水漏れとか設備に不具合が生じたなどという、福島原発の記事が報じられない日はありません。小百合



NO322  2013年11月1日発行

錦秋の浅間山(高崎市)





神奈川新聞 2013年10月14日

 『東中新聞』のに生まれたのは昭和25年。その創刊に関わった生徒の一人に私がいたようだ(東中学校の公式記録に氏名が記載されている)。たた、残念ながら新聞づくりの記憶はほとんどない。ガリ版用のロウ原紙にヨードチンキのような色をした修正液をこぼした記憶は鮮明に残っている。それが『東中新聞』づくりであったら、と今は願うだけだなのだが。そしてこの1000号には、少しだが、確かに関わることができた。幸せである。 関連記事「秦野の新聞教育」のページに


NO321  2013年10月2日発行


自生のユウガオ 梅の木にからみつき元気

9月25日 秦野はPTA広報のメッカ
 秦野市P連の広報づくり研修会。この研修会では、4月以降に発行された広報紙の紙面クリニックを行う。今年から22校を3グループに分け、3回(三日間)で行うことになった。時間は午前9時30分~11時30分。1校に当てる時間はおおよそ15分。クリニックを受けるお母さんたちの心中は穏やかではない。しかし私だって“タイヘン”である。「秦野はPTA広報のメッカ」とあるブログに書いてあった。その具体例を発行回数で見てもらおう。1学期中に2回発行した校が22校中6校(小5・中1)。その中の1校は8ページ建てを2回発行している。 

9月26日 
 「古道大山道を歩く・富士道を歩く 蓑毛から堀山下まで」東公民館の事業。「みちしるべの会」の横山会長、浦田さん、小山田さん、高橋さん、田中さんがガイド。蓑毛宝蓮寺の大日如来像・聖観音)・十王像・仁王像の拝観がスタート。私は大山信仰の拠点でもある「御師の村」を案内。 
 昼食は西田原の金蔵院。ここの住職日置さんは東中の教え子。7月に行われた同窓会の席で拝観のお願いをしておいた。    

9月27日

  『東中新聞』1000号の指導。午後4時に学校へ。とりあえず3ページから6ページまで出稿する。

9月30日
 東中学校の総合の時間(公開授業)の講師「東地区の地名の意味と由来」。この日も地域の方20名ほどが聴いてくださった。PPTを使ったのだが、体育館なので文字をもう少し大きなものにしなければ後方の席では読み取れなかったのではないか。12月に第3回が計画されている。この反省を活かしたい。
 「まほらの会」の大津さんがアケビを三個を手にこの講座に来てくれた。




 NO320  2013年9月2日発行

道祖神をたずねて 新潟から群馬へ

 8月26日(月
 寺山 5時出発   
 新潟・湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」を見学  学芸員から湯沢駅近くの道祖神の在り処を教えてもらう
 南魚沼市五日町 妻の大学の同期生である桜井さんを訪ねる
 南魚沼市浦佐 大竹邸を訪問(大竹啓冶さんは友人・平成22年に他界)  ご家族と墓参
 清酒八海山の 製造元八海醸造株式会社の雪室見学
 八海山にロープウェイで登る
 小出まつり花火大会を楽しむ

 8月27日(火)
 6:30 宿出発
 柏崎市の道祖神めぐり 
 谷根地区3基→  山口地区1基→  柏崎市立博物館(学芸員の渡辺さんと2時間ほど道祖神の話。資料保管室で藁製や木製の道祖神を見せてもらう)→  旧広田・大広田地区4基
 JR越後湯沢駅構内の日本酒ショップ「ぽんしゅ館」で利き酒を楽しむ

 8月28日(水)
 7:50 宿発
 谷川岳にロープウェイで天神平 天神峠へはリフト  眼下に虹を見る
 群馬県吾妻郡中之条町の伊勢宮参道で3基の道祖神に出会う
 中之条町歴史と民俗の博物館 「ミュゼ」見学 伊勢宮参道の道祖神一基について質問 後ほど資料がいただけることになった
 道の駅「八ッ場(やんば)ふるさと館」で休憩
 草津温泉泊 温泉落語を楽しむ

 8月29日(木)
 8:10 宿を出る 
 群馬県高崎市倉渕町を再訪
 ・熊久保の道祖神(日本最古) →  権田 川西 道祖神 (百庚申)→  倉渕公民館訪問((道祖神担当の館員がていねいに対応してくれた)→  下諏訪神社の道祖神 (最も気品のある男女双体像i初めてkご対面 猪除けの金網の外・人間界の外に立っているのはかわいそう!)→  道祖神公園   
 榛名湖でモーターボートに乗る→ 榛名山にロープウェイでのぼる
 伊香保温泉「洋風旅館 ぴのん」で昼食 石段街を下る
 高尾山登山  上り リフト 下り ケーブルカー
 19:30 帰宅


 八海山・谷川岳天神峠・高尾山 登頂 ! ?





NO319  2013年8月1日発行


「夏休みの自由研究」は壁新聞づくり

 2013年7月31日   夏休み 親子でつくる壁新聞 講座            茅ヶ崎市立香川公民館


 エェッ 秦野・本厚木間 全線不通?
 7時50分のバスで茅ヶ崎に向かう。茅ヶ崎市立香川公民館で午前10時からの「親子で夏休みの思い出を壁新聞にしよう」の講座の第一日目。9時半までに会場入りをするつもりだった。
 バスを降り秦野駅の構内に入ったらかなりの人混み。特急券の窓口には20数名の列。「夏休みに入ったんだ。出かける人が多いな」。そんなことを思いながら改札口に近づいたらちょっと様子が違う。駅員がハンドマイクで「伊勢原駅で事故が発生。本厚木と秦野間は全線不通。振り替え乗車券をお配りしています」。「えぇ、ソンナ! どうしょう?」。
 全線開通は9時30分ころとのこと。「帰って車にしようか。厚木までバスで。いや今日は中止にしてもらおうか」などと思いをめぐらせたが結論は出ない。ただあせるだけ。
 そのとき「停車中の小田原行き列車が動く」と放送が入る。「何はともあれ動こう」とその列車に飛び乗った。途中、香川公民館に電話で事情を報告。「あわてずに来てください」と言ってもらった。
 きょうは相模線で茅ヶ崎に入る予定だったが、こうして東海道本線を使い、さらにタクシー。そして会場に7分遅刻で到着。親子4組・9人が待っていてくれた。
 
きょうの「新聞っておもしろい」の話
 1 一般紙の発行部数   2 新聞の値段はどこに書いてある?   3 新聞のニュースの新鮮度を知る   4 広告のページの値段   5 新聞の記事の比較・記事の取り上げ方・視点の違い   6 誤報
 そして壁新聞づくりの実践。子供たちは4年生以下だけ。子供よりお母さんが新聞づくりの楽しさを感じてくれたようで、「私個人で作りたい」と用紙を持ち帰った元気なお母さんも出た。出だしは混乱の今日の講座だったが、参加してくれた4家族の明るさでよい講座になった。



   新聞をつくる少年たちへ
                                          サトー ハチロー

   君たちは 君たちの新聞をつくりたまえ
   中学生らしい ピチピチした新聞をつくりたまえ

   形やていさいも 君たちであみだしたまえ
   誰がみても 君たちの新聞だというものにしたまえ

   おとなの新聞をまねたり 気どったり とりすましたり
   かみついたり 肩をいからせたり そういうことはやめたまえ

   新鮮なクダモノ 若葉のかがやき それがあふれている新聞
   ボクのねがいはこれだ

   君たちは 新聞をつくるようになって
   たしかに字はうんとおぼえた 文章をかけるようになった

   人ともらくに話せるし 人からものを聞きだすことも どんどん上達した

   君たちは それを大事にしなければいけない
   君たちは それをフルに活用しなければいけない

   正しい報道! 君たちの仕事は
   すばらしい仕事なんだ ほこりをもってその仕事に取り組みたまえ

   つくりあげた新聞 新聞から立ちのぼるインクの匂い
   君たちはその中に よろこびの顔をうずめたまえ

   その新聞が君たちの新聞だったらバンザイだ
   君たちはそこで 声をはりあげて合唱と行きたまえ
                                      (1967年作)




NO318  2013年7月1日発行

 今夏は3会場で「夏休み・親子壁新聞づくり講座」を

 今年は次の3会場で「夏休み・親子壁新聞づくり講座」を開きます。対象は小学生親子です。夏休みの宿題(自由課題)てして好評です。よろしかったらご参加を。

 茅ヶ崎市立香川公民館   7月31日(水)  8月21日(水) 
 秦野市立東公民館      7月26日(金)  8月22日(木)
 松田町子どもの館       8月8日(木)

  いずれも2回シリーズ(午前中)です。詳しくはそれぞれの施設にお問合せください。



 ご覧ください 横須賀市PTA協議会のホームページ
 「今日の日記(6月18日)」に書いた横須賀市PTA協議会の「広報委員指導者研修会」の様子が「横須賀市PTA協議会」のホームページにアップされています。




NO318  2013年6月1日発行

 東日本大震災から二年  二本松市の今
                                                   福島 小百合 

 私の住んでいる地区は二本松市の中でも放射線量が少し高いところです。3歳になった孫は、1年の内の3カ月間ガラスバッジを首から下げ、毎日の行動を記録し、体の線量を量り、甲状腺の検査を受けました。ホールボディカウンターでの検査も受けました。ガラスバッジは妊婦、乳幼児、小中学生は全員、18歳以下と40歳未満の女性は希望者が着けています。乳幼児や小学生以下が遊べる屋内遊び場が県内に50カ所以上設けられ、二本松にも今年できました。ウチの近くでは子どもたちが外遊びをする姿はあまり見られません。登校は集団ですが、帰りは車での迎えが多いようです。
 以下は私が聞いた学校などの様子です。

A小学校 
 運動会。昨年は午前中で終わり。お弁当なし。今年は震災前と同じようにできたそうです。お弁当は屋外や室内で食べたそうですが、半数くらいが室内で食べたそうです。
プール。一昨年、昨年はなし。今年はプールの周りは除染されましたが、入るかどうかはまだわからないそうです。

B小学校とC小学校
 運動会。昨年は体育館で。今年は外で行われたようです。

D小学校
 今年の運動会は午前中で終わり。お弁当なし。プール。昨年は一回だけ。今年も使えるかどうか分からないそうです。体育の授業や外遊びで校庭に出られるのは1時間だけと決められているそうです。教室の窓を開ける時間もきまっていて、真夏だけエアコンを使うのだそうです。給食。メニューの書かれた用紙の下の部分に生産地が書かれていて、調理前と調理後に線量を量っているそうです。

E幼稚園
 風が吹いているときはマスクを必ず着けます。昇降口を閉め、外履の靴は園舎の中に置くことになっています。基本的には園舎内で遊ぶ。無風で天気が良いときだけ、少しの時間外遊びができます。ブランコの座る部分は取り外されていて乗れないとのことです。

F地区
 集団登・下校しないで自家用車による送迎が多いそうです。通学路は除染されたのですが、道路幅全てではなく子どもたちが歩く幅1メートルくらいが除染されたそうです。でも、その道に出るまでには畑や草地の道を通らなければなりません。

そして我が家
 除染がこれから一般家庭を対象に行われることになっています。雨樋、犬走り、コンクリートのたたき、庭の表土を5cmくらい削る、庭木の枝を切るなどがその内容です。申し込み制で6月5日が締め切りでした。ウチは申し込みませんでした。削った土など除染したものはその家の庭に埋めるのが条件だからです。ウチは庭が狭いのでそんな処理はできません。それに近くには山があり枯葉が積もっています。草地も近くにあります。住宅地だけ除染しても効果はあるのか分かりません。除染をする家とウチのように除染できない家とがあり、まるでパッチワークのようになる、これで効果はあるのでしょうか。  (小百合さんは教え子で『エコー』の読者です)



被災地の現実を知ろう
 小百合さんはこの手紙と一緒に地元紙「福島民報」を送ってくれた。その5月13日と14日付けの紙面で、「運動会校庭で復活」(13日) 「元気いっぱい運動会」(14日)の見出しで二本松市内9小学校の運動会が全て写真付きで紹介されている。記事でのこの扱いをみたとき、二本松市の原発事故による影響の大きさが如実に語られている、と思った。

 5月の東公民館の『大山道を歩く・路傍の神仏を訪ねて』に参加された福島・いわき市出身のGさんが私に話したこと。
 「放射性物質が心配なお袋は、いわきを離れ、埼玉、東京と子どもたちのところで生活。そして昨年夏、秦野に来たが、この二月なくなった。92歳だから、と思うが…」。で言葉が途切れた。

 気仙沼で発行されている「三陸新報」の5月14日の一面トップの見出しは、「1割が重症精神障害相当」「応急仮設住宅入居者(武注:気仙沼市対象)健康調査で判明」。記事は「1378世帯3184人の調査対象者のうち922人が何らかの精神的傷を負っていることが分かった」と書かれている。
 小百合さんと電話ではなしたとき「自作の野菜のセシュウムは市に持っていき測って食べている。だけど近所のお年寄りは『もういいよ』と、それをしない。あきらめている。今度の汚染水の漏れでも、発表は遅れている。何かしてくれても『後手後手』の感じ。気のせいがも知れないが、風邪をひくと長引く」と言った。

 復興を誓い懸命に努力している被災地の人々の姿、それを支える市民の行動や言葉が報じられる。それは大切で必要な情報だと思う。だが、ここに記したような現実があることも私たちは知らなければならない。



NO317  2013年5月1日発行
 

 五 月

  
紫の風を育てて藤の花     かつみ  

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5月3日  武勝美の講演会「富士道を歩く 千村・屈掛から蓑毛・大日堂」




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2013年4月6日 毎日新聞・夕刊「人・模・様」



NO316  2013年4月2日発行


                               と道祖神をたずねて  伊豆から駿河へ 3/27~3/29
                                                                   (道祖神の紹介は次号で)


富士山本宮浅間大社


双体道祖神  寛政5年(1793年) 大岩・出水 





『ECHO』300号 全国新聞教育研究協議会から表彰


「ECHO」300号到達 全国新聞教育研究協議会から表彰していただきました
(2013年3月2日・毎日ホール)

  3月2日午後1時から毎日新聞東京本社の毎日ホールで、第62回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの表彰式が行われた。招かれた入賞29校は「全国コンクール」の文字通り、北海道から九州という広がりだった。
 その表彰式にはハプニングがあった。山形県鶴岡市立田川小学校の児童が折からの強風で列車が動かず、開式には間に合わないとの連絡。式後の祝賀パーティーの開始を遅らせ待つこと1時間半、児童を先頭に保護者、先生の三人が緊張の面持ちで会場に姿を現した。会場は万雷の拍手。そして、1校だけの表彰式が行われた。
 後で主催者が教えてくれたエピソード。受賞した女の子の身に着けていた服は、この日のためにお母さんが仕立てたものだった。濃いブルーの生地に白い縁取りがしてあるワンピース。胸元の白い蝶が印象的だった。
 祝賀パーティーが始まった。P広報の受賞者の皆さんと歓談していると司会者が「これから特別表彰式を行うので注目を」と会場に声をかけた。そして、突然私の名が呼ばれた。「エェ! なに? なに?」 少しビールを飲んでいることもあり《大混乱》。全国新聞教育研究協議会の木野村雅子会長さんがにこやかに私を壇上に招く。そして読み上げられた表彰状は、『エコー』発刊300号に到達したことの評価だった。「消え入りたい」そんな思いで立っている私。ただ、新聞の仲間がこうして祝福してくれたことにあふれ出る感謝の念。花束
と記念品もいただいた。
 「ひと言ご挨拶を」と言われ、「みんなで新聞をつくり、みんなでその新聞を読んで話し合い、学級・学校・PTAを良いほうに変えましょう。それが『新聞づくりは仲間づくり』という言葉の意味です。これからも新聞づくりを続けてください」。お礼の言葉にはなっていなかった。

 こんなにしてもらっていいのかな
 祝賀パーティーが終わると、「パピルスの会」会長横山健次郎さんから「別席で武さんの300号を祝う会をするから」と居酒屋に案内された。その席についてくださったのは、毎日新聞「教育と新聞」の本部長中村さん、毎日小学生新聞の編集長森さん 教育事業部長須藤さん。理想教育財団の酒井さん。全新研木野村会長、関口理事長、田村事務局長、香山、武藤さんなど8名。そして全新研OBの井上、吉成、鈴木、清水、菅原さん。
 18名の方から私へのひとことを頂いた。「汗顔の至り」いつもならかなりいただくアルコール。だがこの日ばかりは、なかなかコップを口に持っていくことができなかった。「こんなにしてもらっていいのかな」と、じっと顔を伏せているだけ。そうしている間に、心の中からふつふつと湧き上がってきた喜び。新聞教育を通じての人とのつながりの持つ重さ、その仲間の皆さんに支えられていることに思いが深く行き、こみ上げてくるものがあった。皆さん、ほんとうにありがとうございました。




NO315  2013年3月1日発行

神奈川新聞  2013年2月20日



おおやまみち” まちづくりサミットのご案内




NO314  2013年2月1日発行


1月  日本最古と言われる道祖神さんに会いに行ってきました。 長野県・辰野町
2月
  1985年5月創刊の『ECHO』は、2月20日で300号になります。

 『ECHO』300号発行のご挨拶

 冬瀧のきけば相つぐこだまかな         

 「寒波が次々と到来する厳しい冬です。お変わりなくお過ごしのことと思います。さて、私はこの正月から《身辺整理》を始めることにしました。たくさんのことを学んだ『エコー』、また旅行記など楽しませていただいた『エコー』。それをほとんど全号を保存しています。それだけに、簡単に処分できません。それで、先生にお戻しいたすことにいたしました。(以下略)」
新聞(広報)は文字通り「新しい」ということに存在の意味があります。そして当然のことながら、記事に主張がなければなりません。
 このごろの『ECHO』は「継続は惰性」の産物のようです。そんな『ECHO』を創刊号から保存してくださったKさんでした。数字を追う、という意識は全くありませんでした。300号が発行できたのは皆さんのおかげです。
 過日、山梨文学館に出かけたおり飯田蛇笏の作品に触れました。
  冬瀧のきけば相つぐこだまかな       飯田 蛇笏
 「枯れ細った冬の瀧からでも、確かにこだまは生まれている、後から後から。」と鑑賞した私です。
 《こだま》してくださったみなさんによって今日までで生きてこられました。ありがとうございました。        武  勝 美



NO313  2013年1月1日発行

平成25年干支 相州大山の郷土玩具・竹蛇   (今はもう見られない)







NO312  2012年12月1日発行


今年の菊づくり

NO311 2012年11月1日発行

同窓会で出会った還暦間近の教え子

 58歳の女子大生 アマチュア天文家 愛車はドカティ1200cc セシュウムが気になるお茶生産者 


 10月27日 東中学校昭和45年卒の子どもたちの同窓会に招かれた。32名の出席。《還暦間近か》とあって、生活に変化を求めようとしている子も何人かいた。
 この4月から大学生(3年編入)になったという富久美さんが「皆さんに大学生になったことを知ってもらい、退路(挫折)を絶ちたい」と近況報告。日本文学を学んでいるらしい。今は学ぶことの楽しさを満喫しているようだった。
 10人兄妹の末っ子、その末っ子が婿取りで家を継いでいる。その家庭で、秦野地方の民俗行事を頑なまでに守っている。子どもはたちは家を離れてしてしまっているのに『七夕飾り』をしている。「七夕は虫送りの行事だから」と彼女は言う。お盆のキュウリの馬は「生ごみとして出すのは忍びないから」と畑に埋めているが、今年はそのキュウリから新芽が出で10本ほどのキュウリを食べることができたと話してくれた。ご主人は「とんでもない家に入ってしまった」と言っているそうだが、元旦の年男の務めは「けっこうその気でやってくれている」と富久美さんは笑う。
 会社員だったころの彼女は、お彼岸の入りボタ餅、明けダンゴ、中日の小豆飯、1月14日のダンゴ焼きのダンゴ、そして十五夜の饅頭など、すべてお手製のものを職場に持ち込み、その年中行事を紹介・説明していた。我が家ではとうの昔に止めてしまった11月20日の『恵比寿講』も行っている。
この『恵比寿講』からの一年間のM家の民俗行事をすべて写真で届けてもらうことにした。「まほらの会」の資料としても貴重なものになる。
 
 有名ホテルシェフだった隆さんは、この春退職。前回会ったときと違い顔は精悍だった。今はドカティの1200ccのバイクを買い(240万とか)、乗り回しているとか。「来年4月に会社を興す。そのときは協力を」とこちらも決意表明。
 小惑星を6個発見した敦夫さんはアマチュア天文家。秦野市の自宅観測所(IAU天文台コード355)でハレーすい星でおなじみのすい星や火星と木星の間を回っている普通の小惑星の観測をしている。ひと月の半分は岡山にある美星スペースガードセンターで地球近傍小惑星を観測をしている。「ぜひ来てください」と誘われた。 
 この春から家業の足柄茶の生産農家に転じた勉さんはセシュウムが気になるのだった。その勉さんが作った学級新聞『エコー』を「蔵を整理していたら見つけた。全部そろっている。茶色になったけど読める。自分が書いた記事を読んだ。役に立つなら使ってください」と申し出てくれた。
 「ママさんバレーのエースアタッカーです」、「民生児童委員として若いママさんたちの子育てを応援しています」「毎朝5時に家を出て横浜経由で品川まで通っています」「念願だったバンドを組んで楽しんでいます」。これらはすべて女性の自己紹介。男性は次のステージにどのように立ったらいいのか戸惑っているようだ。
 私とともにこの会に招かれた小室先生は、午前中、茅ヶ崎で自然観察ガイドをしてきたと、こちらも元気だった。隣に座った洋美さんが「あなた 誰だっけ?」と同級生と間違えてくれた。うれしかった。カラオケの二次会に30名が残った。もちろん私も。



NO310 2012年10月1日発行




▲ 神奈川新聞「自由の声」 9月23日








NO310 2012年9月1日発行

 第49回全国新聞教育研究大会・秦野大会の速報部同窓会 今年は東京で

8月23日  7年前、秦野市で第49回全国新聞教育研究大会が開かれた。そのとき大会速報を担当した秦野のお母さんたちが毎年8月の終わりのころに集まって旧交を温めている。過去6回は秦野で開いたが、7回の今年は東京で開催。 参加者は10名。ツアーコンダクター兼ガイドは全・新・研・事務局長の田村俊雄先生。
 アラフォーのお母さんたちは元気。フロウズンビールで乾杯し昼食。その勢いでスカイツリーにのぼる。待ち時間は45分くらいだった。その後浅草から隅田川下り。最後は新宿の居酒屋。楽しかった一日。

   
 烈日の中に立つ  隣のビルが鏡に
   
   東京ドーム かすんで見えるのは丹沢山系か
 
  スカイツリーとアサヒビール本社・ビールの泡のオブジェ・吾妻橋から


NO309 2012年8月1日発行

第55回 全国新聞教育研究大会 十勝・帯広大会
平成24年8月3・4日 帯広市



第2日はPTA広報研究分科会に参加します

 日 記
 7月28日  千葉県袖ヶ浦市PTA連絡協議会広報委員研修交流会に参加・袖ヶ浦市市民会館
 7月29日  「夏休みの思い出を壁新聞に」講座・秦野市立東公民館
 7月30日   「夏休みの思い出を壁新聞に」講座(29日に出席できなかった3家族8人を対象に)  会場・エコー教育広報相談室
 7月31日  菊の苗の移植  今年初めてアブラゼミの鳴き声を聞く 
 8月 1日  HP更新  学校新聞づくりの指導  


 

NO309 2012年7月1日発行


 平成24年度神奈川県立高等学校PTA連合会 研修大会
 

 ・主 催   神奈川県立高等学校PTA連合会
 ・日 時   平成24年 7月 1日(日)  10:00 ~ 15:30
 ・会 場   パシフィコ横浜  会議センター 3F~5F
 ・分科会   第九分科会(広報委員研修 13:15~ 15:00)   講師  武 勝美   


NO308 2012年6月1日発行


 3・11から一年 気仙沼市のPTA広報紙を読む

 この子たちに復興を託す
 南三陸町から気仙沼市に向かっているとき、曇っていた空が急に晴れ渡った。建物も人影もない大地の向こうに三陸の海がコバルトブルーに輝いた。

 気仙沼はそうでなくちゃあ
 『エコー』の読者・渡辺知子さんは宮城・気仙沼生まれ。今は北上市で生活している。その渡辺さんから12 月の初めにこんなたよりが届いた。
 今、ラジオから「気仙沼港が今年もカツオの水揚げ日本一」とのニュースが流れました。「今シーズンの漁が終り、水揚げ量は昨年の四分の一にとどまったが、15年連続の日本一」とニュースは続きました。思わず「やった!」と私。サンマもカツオも水揚げ日本一! フカヒレの生産も日本一! イカの塩辛の味も最高! わが故郷気仙沼はそうでなくちゃあ。大震災に遭っても気仙沼はそうでなくちゃあ。

 そして2月11日には次の手紙と一冊の本が送られてきた。
 この本『巨震激流』は、気仙沼市と南三陸町をエリアにする地方新聞社「三陸新報社」がまとめた、あの地震の写真と証言集です。わが故郷気仙沼の《3月11日》を知りたい、そして先生にも知ってもらいたいと買い求めました。

  第十八共徳丸を見る
 4月19日、被災地を訪ねることの意義を自問しながら気仙沼に向かった。南三陸町の防災庁舎の前に立った。赤錆た鉄骨の向こうに白い志津川病院が見える。
気仙沼線は《寸断》というより、完全に「洗い流された」といってよい。南気仙沼駅はその姿をコンクリートの残骸に残しているだけだった。大船渡線の鹿折唐桑駅の駅前には第十八共徳丸(330t)が、海岸から500m離れたこの地に打ち上げられたままでいた。
  『巨震激流』を発行した三陸新報社を訪ねた。おおよそ1時間、朝倉社長さん、渡辺専務さんが応対してくださった。発行部数2万の『三陸新報』が、大震災を受けた地域で果たしたこと、そしてこれから果たすべき役割・決意を聞くことができた。
 三陸新報社はPTA広報の印刷も行っていた。読ませていただいた気仙沼市内の小・中・高等学校のPTA広報紙4紙を「いただけないか」と頼んだ。この3月に発行された4紙の紙面はどうしても多くの人たちに読んでほしいと思ったからだ。その4紙の紙面の一部を紹介する。

 『いとひば』 (鹿折小学校父母教師会H24/3/15)
 卒業する55人の児童が「将来の夢」を書いている。その55人のうち20人が「支援を忘れない、恩返しをしたい」と言っている。次がその言葉のいくつかである。

 支援を忘れない
 「3月11日の震災でたくさん支援してくれた人たちのようになりたい」「支援してくれた人に恩返しのできる大人になりたい」「支援してもらったことを忘れずにまじめに仕事をすること」「困っている人がいたらすぐに助けられる大人になりたい」「どこかで災害が起きたら助けたりすることができる大人になる」「自分を育ててくれた家族が大変なとき助けてあげられる人になりたい」「家族を大切にできる大人になりたい」 

 ケーキ屋さんになって恩返しを
被災を深く心に留めながら、しっかりと見つめる12歳の《未来》へのメッセージに心を打たれる。
「ケーキ屋さんになって支援していただいた人にケーキを作りたい」「料理ができる大人になって支援してくれた人に笑顔で食べてもらいたい」「プロ野球の選手になっていっぱい勝って気仙沼に寄付する」「公務員になって支援してくれた人たちに恩返しをしたいです」「食べた人みんなに『おいしい』と言ってもらえるお弁当屋さん」「みんなに食べてもらえるコンビニの店員になりたい」「自分の船をもって海に行きたい」「応援メッセージを忘れず、心優しい看護師になりたいです」


 『松 風』 (気仙沼市立松岩小学校父母教師会H24/3/19)の卒業特集「僕の私の夢」で、二人の男の子が「大工さんになって家をいっぱい建てる」と誓った。女の子の一人は、一級建築士になって「住んでいる人が笑顔になってくれる町を」目指している。

 
 『PTAだより波安』 (気仙沼市立気仙沼中学校PTA・H24/3/5) 広報の題字『波安』は、三陸の海の豊の豊かさ(穏やかさ)を願う人々の願いだと思った。
 希望と光に満ちて
 三月十一日、あの日から数々の恐怖とともに人の強さを知りました。私は震災後、すぐに避難所での生活を始めました。帰りたくても家に帰れないからです。
人前では明るくふるまってはいました。けれど、家族がいるのに、自分は生きているのに、とても不安でした。震災は人の心を恐怖におとしいれる力があるということを知りました。
 しかしその反面、生きたいと思っている人の心の強さを知りました。避難所でも皆が協力して、助け合っている光景を私は何度も見て、私は人の心の強さと、助け合っていくことの大切さ、そしてつらい事があっても心は自由なのだという事がわかりました。
 私は今、祖父の家でいつもと変わらない日常を送っています。町も復興しつつあり、光と希望に満ちています。私も早く復興に向けてできることを始めたいと思います。


 『気高PTA広報』 (宮城県立気仙沼高等学校PTA・2012/3/1)
 大震災 あれから一年
 今は、這ってでも前に進んでいきたいと思う親戚や近所の人もたくさんいなくなり、精神的な意味でも帰る場所がなくなりました。正直まだ立ち直れていませんが、今は這ってでも前に進んでいきたいと思います。

 母は3日間帰って来なかった。もうだめかと思っていた4日目の朝、母が帰ってきた。みんな涙でぐちゃぐちゃになりながら抱き合った。あの頃を思い出すと今も胸が詰まる。

 見えるはずのない場所から海が見える現実あったはずのお店がなくなり、通れるはずの道がなくなり、毎日使っていた線路もなくなってしまいました。あるはずのない瓦礫や船があって、見えるはずのない場所から海が見えます。当たり前の日常の風景がこんなにも変わり、もう元に戻すことはできません。この津波のことは決して忘れられませんし、忘れてはいけません。

 震災後、鹿折にたくさんの観光客が来るようになった。震災に多くの人が関心を持ってくれることはうれしく思う。でも、駅前のあの大型船の前で、ポーズを決めて笑顔で写真を撮る人を見かけるたび、何ともいえない怒りを覚える。時間が経っても、みんなに震災の恐ろしさを忘れてほしくない。

 津波の記録を見るたび、なぜ私たちなのかと思った。大切な人を亡くし、家も思い出もすべて奪われ、誰のせいに出来る訳でもなく、やはりなぜ私たちなのかと堂々巡りばかりだった。でも、今は違う。津波は私たちに考え直すチャンスをくれた。本当の幸せは、家族や友達と普通の生活が出来ることなのだと考えるようになった。

 震災で家を失いました。家の中や家の周りの景色はまだはっきりと思い出すことが出来ます。16年以上住んでいた場所なので簡単に忘れるはずはないのですが、もし、いつか忘れてしまったなら、それはそれで未練がなくなるというか、ある意味震災を乗り越えたことになると思います。

 現実と向き合わなければ
 修学旅行で瓦礫の一切ない関西へ行って、被災したことを忘れるような楽しい時間を過ごしました。関西の方はとても温かく私たちを迎えて下さり、復興を応援していただきました。瓦礫を見たくない、宮城に帰りたくないと思っていましたが、本当に多くの方が私たちを支えてくださっていることを感じ、現実と向き合わなければいけないと強く思いました。

小学校2校の担任の餞の言葉 
 家族がいちばんの支援者であったことも忘れないでね
 小学校生活最後の年、今年ほど《感謝》という気持ちを強く感じた年はないのではないでしょうか。全国、いや世界の各地から応援のメッセージをいただき、わたしたちは元気を取り戻すことができました。このたくさんの見知らぬかたがたの思いを胸に、君たちはこれから生きていくことになります。やがて君たちに恩返しができるようになる日が必ずやってきます。それから、家族が君たちのいちばんの支援者であったことも忘れてはいけないことです。そして友達も。自分ひとりで生きていけるなんて思わないでください。私たちは《共に生きている》のです。

 みんなと過ごした一年間は一生忘れません。みんなには、生きていく上で大切なことは何かを話してきました。人とのつながりを大切にして、目標に向かってがんばってください。自分の弱い心に負けないでね。

 子どもたちの心に寄り添い 力づけよう
  《夢》を語った子どもたちの中には、身近な人を亡くし、すべての物を失った子どももいるに違いない。その現実の中での子どもたちの純真さ、そしてたくましさを、4紙の紙面を通して知った。この子たちの心に寄り添いたい。彼らが卒業という区切りのとき抱いた《夢》は、《復興》である。その夢の実現に向けて歩み続けることができるよう支えることが大人に課せられている。子どもゆえに解決できないさまざまな事象を、大人は取り除くことを何より先にしなくてはいけない。

 3月31日、三陸新報社は『巨震激流』の続編『気仙沼と南三陸町 震災から一年の記録 故郷永遠(ふるさと とわ)』を発行した。 
その序に「たとえがれきと化しても、波が洗っても、心の中の故郷まで消すことはできない。麗しの我が故郷、愛しき人々は、私たちと共にこの地に生き続ける」と記されている。
 「ふるさとを知り、ふるさとを愛し、ふるさとを育てる」 2011年3月11日という日を共に、今わたしはこの言葉をあらためて噛みしめる。

  
南三陸町志津川・防災庁舎と志津川病院                       気仙沼市鹿折唐桑・第十八共徳丸




NO307 2012年5月1日発行



△上條有紀さんの制作

参加をお待ちいたしております




NO306 2012年4月1日発行




神奈川新聞 2012/3/19


 みんなで作る広報紙を目指した一年
 私が思うPTA広報の理想は「委員全員で話し合い、取材し、形にする」。しかし中学校の広報委員は忙しい人が多く、全員での活動が難しい。
だから、今年度も正・副が企画案を出し、割り振りをして個々に活動した。委員会も1号につき企画、校正、仕分けの三回程度。経験や意欲のある一部の委員だけが作れば良いものができるかもしれない。でも、それが良い活動なの? 
 PTA活動は「子供のため」が第一だが、同時に私たちのための活動だと思う。活動を通して人としての幅を広げる。幅が広がれば子供を取り巻く力も豊かになると思っている。だから広報作成以上に、メンバー全員の参加を望んだ。面倒くさがりの私が、ことあるごと委員にメールを送り、返信にも又メールを返す。委員会を開けば、欠席者に決まったことを伝えた。声かけならぬメールかけを心がけた。「委員のみんながつながってくれれば」これが委員長としての役目ではないかと思っている。
 最後の号で全員が書いた編集後記を読んだ時、みんながよい経験をしたと思い安心した。実際、活動もみんなで行うことができた。ただ、そこから一歩前進した広報を作るために、委員たちを導けなかったのは私の力不足だと反省している。    水越いち乃


 三日間はいじけた そして、なぜかやる気に
《くじ》で運命が分かれた正副委員長互選会。仕方なく引き受けて三日間はいじけた。そして、なぜかやる気になった。鏡に映る 自分の表情はバリバリ仕事をしていた頃の戦闘モードそのものでした。
 しかし最初はやはり不安で「出せればいい、間に合えばいい」そんな思いで発行しました。でも第1号が発行ができると小さな満足感が少しずつ変わり、「次はこのテーマでやりたい。読者目線の広報を目指す!」と、急に目の前が開けたのです。それでメンバーにそのことを話したら「上から目線でやらないでよ」と怒られ、反省し、泣いたのでした。
 そんな時、武先生のお顔が浮かび、アポなし飛込み訪問。悩みを訴えたのです。いきなり涙をポロポロ流す私に、さぞかし戸惑われたことでしょう。でも細かなアドバイス、そして励ましの言葉をいただき、強い味方ができた、と嬉しかったです。
 親子が広報を読んでいる、楽しんでいる姿をイメージしながら広報づくりに突っ走った一年。最終号の編集後記を書いている時、涙がにじんできました。今振り返れば、かなり強引私たったのに、一緒に頑張ってくれた委員のみんな、ほんとうにありがとうございました。   椎野 有美


 渾身の力でつくった夏休み直前号
 今年度は、広報技術講習会に委員の半数以上が参加したことがきっかけとなり、委員の意識が変わりました。講習会終了後、116号担当の委員からレイアウト変更の申し出があり、ほぼ完成していたレイアウトを作りなおしました。
 講習会での武先生のお話や、震災後の保護者の不安の声が聞こえてくるようになり、保護者の不安を取り除きたい、そして、子どもたちに自分の身は自分で守ってほしいという思いから安全マップを作成し夏休み前に発行したのが特別臨時号。これには広報委員会の渾身の力が注がれています。会員から「次も楽しみにしています」と声をかけられ、PTA広報紙の役割を少し果たせたと思っております。
 今回、数々の賞をいただけたのも、学校や保護者の協力があり、そして、何より33名の広報委員一人ひとりの努力のたまものだと思います。1年間、先生には大変お世話になりました。先生の講習会で委員の気持ちが変わったのです。(私もその一人です)そのおかげで、私たちとしては満足できる『さくら木』ができました。
まもなく新しい『さくら木』作りが始まります。先生にクリニックをお願いしたことを、来年度の委員長に引き継ぎをします。1年間ご指導ありがとうございました。   小林 美紀



NO305 2012年3月1日発行


NO304 2012年2月1日発行

「一月は行く」と言うが


タスキを待つ柏原竜二選手・ほほが緩んでいるのはトップで来るから

 
歳月の流れの速さを表す言葉としてよくいわれる言葉。「一月は行く 二月は逃げる 三月は去る」。
 私の一月
 箱根駅伝の応援。
 全国小・中学校・PTA新聞コンクールの審査(毎日新聞東京本社)。
 「紙芝居チーム竹の子」で道祖神の紙芝居の制作と上演。
 県立高等学校PTA連合会の広報づくりの講座を横浜で。
 市P連情報委員会で「秦野の道祖神祭り(だんご焼き)」の講演。
 「富士道と富士講」の話を南公民館で。
 佐倉市の国立歴史民俗博物館の見学。
 七草粥も祝った。14日の道祖神祭りのだんご飾りもした。 そして昨日1月31日は「お棚納め」。朝6時、神棚と仏壇5か所に灯明を上げ、炊き立ての米飯を供える。そして正月飾りを下ろす。床の間の「双鶴」の掛け軸も替える。
 こうして私の一月は「行った」。一日一日を踏みしめた一月だった。




NO303 2012年1月1日発行







NO302 2011年12月5日発行

   
     


NO302 2011年12月2日発行







NO301 2011年11月1日発行

 北上だより NO1  「まだ、まだ です」

 北上の季節はガラリと変わり、朝夕は冬の気配を感じます。
 先日、気仙沼の姪が通う中学校で運動会が行なわれたと義妹からメールが届きました。校庭には仮設住宅が立ち並んでいて、徒競走は50メートル走、駅伝のコースは仮設住宅の周りとのことでした。義妹の住む地は地盤沈下が激しく、いまだに冠水していて復旧できないでいるようです。
 小学校に勤めている彼女が電話でいろいろ話してくれました。
 夏休み中、いろいろな人たち(芸能人を含め)が、さまざまなイベントをしてくださったのですが、それらを受け入れるためにほとんど毎日出勤しなければならなかったこと。「ありがたいことなのだが、少し休日がほしかった。自分の家の片付けもしたい、そんな気持ちになったときもあった」と言いました。教育関係の会社から支援のドリルが届いそうですが、あまりにも多量で一学期は四苦八苦したこと。それで二学期以降は丁重にお断りしているとのこと。間借りしている学校との合同運動会のため、準備に大変な労力と気苦労があること。夜、帰宅するとき町に灯りがないこと。最後にポツリと言いました。「近くに外食できるところがあるといいんだけど…」。
 今では月に一度くらいしか手伝いにいけない私です。でもがんばらなければと思っています。「まだ、まだ」です。
 
 先生の『道祖神の里めぐり』の話、とても興味深く読ませていただきました。私は気仙沼から北上に嫁いできたのですが、ここはなんと仏様の行事の多いこと。お念仏を唱える集まりが多いことに驚きました。気仙沼は漁師の町ですから、大漁祈願をする神社を身近に感じていました。巨木に囲まれた古いお寺もありましたが、一般の家庭が行なうような仏様の行事についてはあまり記憶にありません。以前、北上の仏行事のことを父に話しましたら、「北上は農業で生活しているから、凶作もある。それでいろいろな仏教を受け入れたのだろう」と言っていました。渡辺家は曹洞宗ですが、仏壇には時宗の一遍上人の坐像が安置されています。旧暦の10月21日には聖徳太子さんの掛け軸を拝みます。   渡辺 知子



まほら秦野みちしるべの会大山道を歩く」 イラストマップ展
 期日 11月6日(日)~13日(日)     会場 秦野市立本町公民館
 
               武勝美のミニ講座 「大山道 路傍の神仏」 7日(月) ・13日(日) (13時30分~14時)


 
8日(日)・7日(月) ・13日(日)にミニ講座(13時30分~14時)を開催します
問い合わせ  横山会長℡0463(81)0634


NO300 2011年10月1日発行

神奈川新聞 「紙面拝見」 2011年10月2

 新聞は言葉で生きる

 9月26日からようやく国会で本格的な論戦が始まった。今の政治が迅速に、確実に進むように監視し、支えるのが新聞の果たす大きな役割と思っている。そのことを踏まえ、少し古いが前内閣に対する本紙の記事について考えてみたい。
 「東電に『イラ菅』爆発」、これは3月16日付け2面の横主見出し。5月9日の2面「政界の断面」欄の見出しは3段組みで『「イラ菅」への説明、新人議員の注意』。そして7月9日2面の「政局最前線」の一文は「『イラ菅』を久しぶりに爆発させ(以下略)」。
「イラ菅」は“言いえて妙”。しかし、東日本大震災、それから派生した原発事故への政府の対応を論じているとき、「『イラ菅』を久しぶりに」などと書いてしまうと、記事は≪揶揄≫のレベルに落ちてしまう。それに「イラ菅」は、新聞が極力避けようとする常套語の類。常套語句を用いた記事は平板なものになってしまう。
 菅内閣の経済財政相が「総理の地位を皆で尊重することが、一国がうまく統一される原点」と言った((他紙・6/7))。“身内”の言葉だが私はこの言葉を受け入れたい。「総理その人を尊重(尊敬)できないのだ」と言う人もいるだろうが、総理を選んだのは私たち。政治家を育てるのも私たちがなすべきことである。まして新聞はそう在るべきだ。
 就任9日で辞任した大臣が出た。報じられた言葉は≪心無い言葉≫である。「政治家は言葉で滅びる」。だが「死のまち」と語った大臣の真意も知りたい。このことを意識してか、野田首相は、記者の“ぶら下がり”を避けているとのこと。地名用語「野田」の語源は「ヌタ」で「泥深い田」のこと。マスコミに先手を打ち、自らを「どじょう」と称した首相は、その深田の底に潜りこんでしまった感がする。『正心誠意』国民に話しかけてほしい。一方、ワンフレーズ的に政治を報じているメディア側も自省が必要だろう。
 三年前、学校新聞を作っている中三の生徒が私に言った。「私 新聞はキライ。なぜ総理大臣の悪口ばかり書くの。もっと他に書くことがあるはず。ネットの記事のほうが好き」。≪未曾有≫が話題になったときである。私は「新聞は正しい政治の見張り役」という第7回の新聞週間の標語を彼女に示し、話した。
 10月15日から第64回新聞週間が始まる。ことしの代表標語は「上を向く力をくれた記事がある」。新聞は言葉で生きる。「死のまち」の起死回生をはかる気概を新聞は見せたい。



NO299 2011年9月1日発行

4月から神奈川新聞の「紙面拝見」欄を担当しています。月1回の登場です。






NO298 2011年8月1日発行


神奈川新聞 2011年7月18日

NO297 2011年7月2日発行


 言葉は力 今朝の私のひとこと

 動物がおしゃべりをするとか、動物だって言葉を持っているという人がいます。植物にだって言葉があると信じている人もいます。動物がもし言葉を持っているなら、話しているなら、何を、どんなことを話しているのでしょう。
 チンバンジー、猿、猫や犬などの動物には記憶する力があるようです。確かにそれが動物にはあります。何かを記憶する能力、たとえば犬に「お座り」言ったら座る。それはたぶん記憶する力だと思います。だからもし動物が言葉を持っているならば、記憶したものを伝えあうというような会話は犬同士、猫同士しているのかもしれません。
 動物に記憶力があるなら、判断することも出来るでしょう。例えば、叱られたらやってはいけないんだ、と判断する、そういう判断する力が動物にはあると思います。動物には、“記憶する力”と“判断する力”がある、記憶したことを伝え合う、判断したこと確認し合っている。「敵が来たぞ」とか、でもそれは言葉を持っているということではないと思います。
 人間の言葉は、正しい使い方で正しく表現をすれば、その言葉を通して、次のものを作り出す力があるのです。人間の言葉は、言葉を通じて、媒体にして次のものを創造することが出来るのです。動物は、彼らの持つ言葉で記憶し、判断し生きています。人間は、言葉で記憶し、判断し、その上に新しいものを創り出してせいかつしているのです。だから私たちは犬や猫とは違う生活をしているわけです。新しいものを生み出す、より豊かなものを生み出す、そういう会話を私たちは創り出さなくてはいけないのです。
 『言葉』を語源辞典で調べました。言葉の《言》についてこう書いてありました。「話したり、語り合ったりすること」。さらにもう一つは「口でしゃべったり、文字で表す内容のこと」。その「話したり語ったり、文字で表したりする」《言》に、《葉》という文字が付いています。音の「ことば」に漢字で当てはめてこうなったのです。さて、コト(言)にハ(葉)を付けたということはどういうことなのでしょうか、どういう意味で“葉”という字を当てはめたのでしょう。
 木の葉や草の葉は何のためにあるのでしょう? それは幹を太らせるため、枝を茂らせるため、根を太くするため。私たちが使う言葉もそれを使うことによって、もっと大きな意味を持つことが生まれ、次のステップに進むような、そういう力あるのが言葉であると信じたいのです。葉が木を茂らせるように、私たちが発する言葉から次の世界が生まれる、私たちが使う言葉は、新しいものを生み出す力があるのです。
 もう一つ、葉っぱというのは、木でも草でも全て違う、イチョウの葉と桜の葉は違う。私たち一人ひとりが話すことは全て違う、違わないといけない。「あなたの言うこととまったく同じです」ではなく、私はこう思うから、あなたと同じなのです。と自分の思いを表すのが言葉です。口に出し、文字で書き表し、伝える。その伝えることによってさらに大きなものが出来る。もっと豊かな世界が広がるために言葉がある。言葉は、他の人と私は違うのだということを表すためにある。それが言葉という漢字の日本語の持っている意味ではないかと思っています。そういう「言葉の力」を高めるとか、強めるにはどうしたらよいのでしょうか。家庭で、職場で、或いは地域で、どのようにしたら言葉の力が高められるのでしょう。
 「先ず、挨拶をしましょう。でも、おはよう、さよなら、こんにちは、だけじゃなく、その挨拶の後に、もうひとこと自分の思いを付け加えよましょう」とある会で話しました。数日後、私の話を聞いてくださった方から手紙を頂きました。「挨拶の後にひとこと、私も早速実行してみることにしました。でも簡単なようで、構えて考えるとなかなか出来ないことです。私がすることにしたのは、まず笑顔で挨拶して季節の話をしようかなって、そこから始めよう」と書いてありました。
 挨拶の後にもうひとこと。「おはよう」の後にもうひとこと、そこから会話が始まる、広がる、その会話によって豊かな感情・世界が出来る、広がるのではないかと思っています。「じゃあ武さん、あなたは今朝どんなひとことを付け加えたのですか」と尋ねられれば、今朝の私のひとことは「生きていたよ」でした。           




 NO296 2011年6月1日発行


神奈川新聞 2011年5月30日




神奈川新聞 2011年4月18日







NO296 2011年5月1日発行

風吹けば来るや隣のこいのぼり  

 学校の対応に不安が残りました   2011年3月11日午後2時46分

 3月11日、鶴巻地区であの地震に遭った。揺れは大きく、机の下にもぐっても体勢を整えられないほど。家屋・家具の倒壊はあるだろうな。・ここもだめかも…」などと考える。
 「子どもは大丈夫?!」と思いながら、介護職なのでまずは施設の利用者の安全確保に走る。市役所からは直後に「利用者さんは無事ですか?」と連絡がはいる。しかし直後から電話は不通に。「きっと子どもは学校に居るから大丈夫。そのうちメールが来るはず。」と思いSOSを出せない独居老人のお宅に車で安否確認へ。「大丈夫ですか?」と顔を見ながら回ると「うれしいね。私は大丈夫。こんな時にありがとう」と言ってくださる。
 数軒回って自宅へ戻るとお兄ちゃんが友達と遊んでいた?!「弟は?」「キミはお母さんと連絡取れているの?!」「どうやって学校から帰ってきたの?!」。たたみかけるように
聞くと「電話 通じないもん。お母さんいないし」「弟は帰ってきてないよ」「普通にバラバラに帰ってきたよ」と話す。
 聞き終わらないうちに学校に弟を探しに行くが、誰もいない。心当たりを数軒回り、友人宅で遊んでいたい子どもに「なんで家に真っすぐ帰ってこないの!」と怒ると「だって、停電が怖かったんだもん」と言う。
 それは仕方ないか…と思いながらも「学校あんしんメールもなく、自宅に帰すなんて、どういうことだろう?」思った。うちの子供は大丈夫だったが、近所の子供は共働きや片親でどうしているだろう?と近所へ走る。「お母さんまだ連絡ないよ」「怖かった―。学校で泣いちゃった」などと言う子どの達のお母さんにメール。 「子どもたちは家に居るよ。何かあったら家で面倒見るから大丈夫だからね!」と。
 夜8時過ぎ、お母さんたちから返信が。「横浜で動けない。帰れないからうちの子をお願いします」「もう半狂乱。子どもの事を考えたら冷静で居られなかった。ありがとう。たまたま茨城に出張だったの。今日は帰宅難民だよ」など。でも学校からはメールは来ない。そんな顛末の中で、「もしかしてH小学校の揺れは震度3程度だったのかも?」と自分を納得させたりしていた。
 後日、学校も停電時の対策をしていなかったこと、停電のためメールも送れず、全校放送もできなかったことを聴いた。しかし、その後の状況説明の連絡や、今後の対応のお知らせもないのは危機感が薄くないだろうか? おりしも「全世帯、学校あんしんメールへ登録を!」と言って登録状況確認のアンケートまでとった後だった。一番大事な時に機能しないのでは、何のための「あんしんメール」なのだろうか。色々な学校の対応を聴くと「担任が夜遅くまで保護者に子どもと会えたか連絡してくれた」「翌日には、今後の対応は震度5以上の時は保護者の責任で学校に引き取りに来るような内容のお知らせがあった」など対応もバラバラだ。
 津波被害のあった所では学校の対応次第で全員助かったケースと、多くの犠牲者が出てしまったケースがあった。みんな同じ被災者ではあるが、保護者の無念はどこに向けたらいいのだろうか。
 「生きるか死ぬか、ほんの紙一重の準備の差、意識の差」と言う話を聞いたりすると、子どもの命を最優先に守ってほしい学校の対応としてはあまりにも不安が残る。早急に保護者、地域に対して、震度5以上の地震があった時、ライフラインが使えなくなった時の学校の対応を周知して欲しい。「何かあったら学校の校庭に集合ね!」という家族間の約束は生かされるだろうか。    I.M



 なんと、市コンクールで「優秀賞」 賞状を持ってお目にかかれたらと思っています

 ごぶさたしております。大変大変お世話になったM小広報副委員長の川島です。(眼鏡かけて、いつもうるさかった者です!) 今まで先生にメール差し上げたいなぁ、という衝動にかられつつも、最後までは・・・と、歯を食いしばってきました。なんと本日、市のコンクールで「優秀賞」のお知らせが届きました。私たちのやってきたことは間違いなかったという証明のような気がして、皆で喜んでいます。武先生のお勉強会や旭ブロックの横のつながりがなかったら、とっくに私たちはつぶれていたと思います。決して大げさではなく、一生忘れられない出来事の中のひとつになりました。本当に本当にありがとうございました!

 川島 様
 『M』 市コンクールで優秀賞 おめでとうございます。1学期の終りの頃の悩み、苦しんだことがこれですべて報われました。良かったです。たぶん学校側やP本部の人たちは「私達が指導したから」と思うのかもしれませんが、広報委員の皆さんが話し合いを重ねたから、広報紙が出来たのです。あの時「ヤ~メタ」と言ってしまえば、コンクールへの参加さえなかったのですから。皆さんで盛大にお祝いをしてください。世の中、少し沈んでいます。優秀賞のお祝いです。意味があります。楽しいひと時を過ごし、次に向って頑張る気持ちを持ってください。皆さんによろしくお伝えください。  武 勝美

 メールとても嬉しいです。どうもありがとうございます。早速、皆に伝えました。皆、とても喜んでいました。こじんまりのお疲れさま会ではなく、盛大なお祝いをしようと決めました。
先生のおっしゃる通り、本部に報告しても、手放しで喜んでくれるというよりは、「私たちの指導のおかげ...」みたいな空気ですが、私たちが辞めないで続けてきたからこの結果、と胸を張っていこうと思います。(先生のメールのこの部分を読んだメンバーからは、さすが武先生よくわかっていらっしゃる! との声があがりました)
 講習会のOG参加、認めていただいて嬉しいです。5月21日に表彰があるようなので、賞状を持ってお目にかかれたらと思っています。今はクタクタで、まだ余裕がありませんが、武先生の教えを何らかの形で、「広」く「報」せていきたいと思っています。ご指導いただき、本当にありがとうございました!  広報委員一同







NO295 2011年4月1日発行

「2011年3月11日午後2時46分」 心に刻み込めと瓦礫の中の時計は時を止めた。

軽々しい言葉は口に出来ない。でも、人のつながりをもっとも確かにするのは言葉、そう思い今月も更新した。

Aprilは「開く」

岩手の桜

  3月22 日の『ニュース7』、で気仙沼市立階上中学校の卒業式のようすが放映された。まだ見つからぬわが子の写真を抱いたお父さんが、子供の代わりに証書を受けた。卒業生の代表の別れの言葉を聞いた。言葉を詰らせ、涙を流しながら懸命に語った言葉。
「“階上中学校といえば防災教育”と言われ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私達でした。しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練と言うには悲惨すぎるものでした。辛くて、悔しくて、たまりません。しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です。」

 きょうから4月、被災地のこどもたち、そして誰にも新しい年度が訪れた。「苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です」、そこにながれる彼の決意を信じたい。
 4月を表す英語「April」はラテン語の「開く」から派生した語である。まもなく桜いつものように開花するが、そこには服喪の心が重ならなければならない。更に加えて東北の復興の開始が始まる桜の開花となることを願うばかりである。

 私のできることは被災地の知人に声をかけるこだけ。

◇Fさんが日立市の現状をメールしてきた。「海岸付近は津波にやられ,家が崩れていたり,津波に飲まれた車から脱出した話を聞いたり,道路は50箇所ほど通行止めになっているし,塀が崩れたり瓦が落ちたりと大きな被害を受けました。地震直後は30箇所近い避難所にそれぞれ100人から200人が避難していたようでした」。

◇昨夏、北上市での講座を通じて交流をしているWさんにお見舞いの電話をした。3月8日に届いた手紙では「彼岸には早いけど気仙沼に両親の墓参りに行ってきた」とあった。実家は火災が発生した地区で、2日前ようやく弟さんから無事の連絡が入ったとのこと。「家は焼けちゃったけど、無事な声が聞かれて一安心」とWさん。

◇海岸の町に住む新聞教育の仲間・Iさん。津波の避難命令が出たそうで、避難所に入ったけど今は自宅に戻っている」と元気な声が響いた。

◇Oさんも新聞教育の仲間。そのお宅は通称「水屋敷」。電話の呼び出し音は鳴るのだが応答はない。

◇Kさん。昨年の北上市での新聞大会で一緒に講師を務めた人。Kさんは陸前高田市に隣り合った処に住んでいる。「隣りだから何か手伝いをしたい。でもガソリンがない。もどかしい」。29日、そのKさんからがんばる人たちのようすを伝える地元紙「岩手日報」と「岩手日日」が数日分送られてきた。添えられた手紙には、「山田町の大沢小学校の子供たちが避難所で個人新聞を発行している。大地震のようすや支援の方への感謝の気持ちが書かれている。どんな場面でも、児童が新聞を作ることができる大沢小学校の教育の素晴らしさを感じました」とあった。大沢小は3月5日に行なわれた第60回全国学校新聞コンクールの表彰式で名誉大賞を受賞している。大沢小の新聞づくりは“本物”。

◇Sさん。「停電はあったけど心配なことはなかった。ただ山田町にいる友人と全く連絡がとれない」。

◇Miewさんからのメール。「近くの神栖、旭は津波でだいぶやられました。実家は津波の被害はなかったのですが、埋立地に作られた新興住宅地だったので、液状化で住めない状況になりました。幸い怪我もなく両親はとても元気です。妹家族の家屋も沈み、両親と共にしばらく避難所生活をしていましたが、知り合いが借家をみつけてくれて(みな考えることは同じなので、ヨウヤクでした)、やっと暖かいところで眠り、お風呂にも入れるようになりました。でも下水はまだ整わず、トイレの度に車で道の駅に行ったり、ガソリンスタンドへ行ったりと不便は続いているようです。現実にこのような惨状を目にしてしまうと弱音も吐けないようで、実はとてもきついのだと思います。今週末息子と手伝いに出かけてきます。本当にまだ悪い夢をみているようです。お気遣いくださってありがとうございました。先生のゆかりの方々はみなご無事でしたか? うれしかったです。」 

◇こんにちは。お見舞いありがとうございました。昨日の夕方やっと水が来ました。大雨の中、水道やさんは頑張ってくださったようです。ありがたい。日立のライフラインは、被害を受けてしまった個々を除いて大部分が元に戻った所です。今日から、小中学校も給食なしの登校が始まりました。明日は小学校の卒業式。市内5箇所が,自分の学校ではない場所での卒業式になるようです。テレビで被災地の卒業式の映像が写されていますと、心の底から『力強く生きていってほしい』と願わずにはいられません。日立っ子たちも明るい未来を見つめて,今年しか出来ない卒業式を迎えてもらいたいと思います。常磐線が土浦以北不通になっているので,電車で通勤していた方々は大変困っています。ガソリン不足で,マイカー通勤なんて出来ません。線路が酷いことになっているので,復旧の見通しがたたないとのこと。東北が落ち着かない限り,関東は後回しでしょうね…今日からは水戸までの直通バスの運行が始まりました。徐々にですが,街の活性化・生活の回復に向けて,動き出しているのを感じます。原発には日立製作所が大きく関わっているので、東電職員さんと同じように大変な思いで闘っている方、ご家族が市内で生活されているのだと思われます。本当にこれ以上暴れず、終息に向かってほしい…。さくらの花が咲く頃までには、被災地みんなが希望を持てるようになっていてもらいたいものです。我が家も、娘が高校を卒業し大学進学のため一人暮らしをします。この騒ぎで準備も出来ず、慌しく送り出すことになりそうです。同級生達の中には後期試験の中止や私立試験の中止など、進路に影響を受けた子も多くいます。準備が出来ないくらいなんてことはありません。長い人生、子ども達みんなこの経験が必ず無駄になることはないはず。今いる環境で自分に出来ることを考えられる人間になってくれると信じます。地震から11日。ほんとに長い11日間でした。被災地の方々はもっともっと長く感じられているのだと思います。一週間後、皆さんの生活環境がよくなっているのを願います。余震も続いていますね。どうぞお気をつけてお過ごしください。 F


   どうぞカゼなどひかれませんように 今夜こそゆっくりお休みになれるとよいのですが 



 NO294 2011年3月1日発行

二月の津軽 そして函館 札幌

 二月に弘前に出かける用件が確定したのは昨年の九月だった。『津軽』ということで心は躍った。だが『二月の津軽』に不安も。長男に相談した。すると「二月なら都合をつけて付いて行ってあげる」と言う。

旅 程 2月7日~10日
・第1日 青森空港~五所川原市~金木町~鶴田町~板柳町~弘前市泊
・第2日 弘前市~黒石市~八甲田山~三沢市泊
・第3日 三沢市~七戸十和田駅~新青森駅~函館駅~大沼公園~函館市泊
・第4日 函館駅~札幌駅~札幌市内見学~新千歳空港


 旅の点描

吉幾三コレクションミュージアム
 吉さんの友人・半田秀美さんが作った、ガイドブックには載っていない施設。訪れたときは私たちだけ。彼が書が得意だったことを知る。
帰り際、館の入口に雪かき用のスコップがあったので雪かきをやってみた。だれもいない、見ていないと思ったらだ。ところが事務服の若い女性が飛び出してきて「すみません!」。
驚いたのは私。「一度やってみたかったので。こちらこそすみません」。
 改めて建物の内部に目をやった。1階はガラス店の事務所で、4人が立ち上がって私の《作業》を見ていたようだ。うろたえる私にニコニコしながら頭を下げてくれた。


吉幾三のステージ衣装で「津軽平野に雪降る頃はヨ」 

◇五所川原の立佞武多 
 立佞武多の館(たちねぷたのやかた)で公開されている高さ22mの「ねぷた・立佞武多」は圧巻。


◇ストーブ列車 
 津軽五所川原駅11時40分発に乗るため、吹雪のホームに並ぶ。前から6人目。ストーブの周りの席が取れるかどうかギリギリのライン。だがストーブの真ん前に座れた。
後で分ったことだが、ストーブに近い席は熱い。金木駅までは20分なので最後まで頑張った。
 発車前からスルメを焼く観光客。やがて若い女性乗務員が、「スルメ焼き特製グッズ」と笑いながら軍手を取り出し、ストーブの上でそっくり返っているスルメを押しつける。この列車でしか売っていないという日本酒『ストーブ列車』を、スルメの匂いを肴に飲む。(歯が悪いのでスルメは無理。無風流な私である)
 彼女は車窓からの風景の観光ガイドもする。列車が金木駅に近づくと、町の甍の向うに大きな赤い屋根が二つ見た。彼女は、太宰治の小説「故郷」の一節をもとに、「あれが斜陽館。もう一つは太宰家の菩提寺」と紹介してくれた。
 稲田の向うに赤い屋根がチラと見えた。「あれが、」僕の家、と言いかけて、こだわって、『兄さんの家だ。』と言った。けれどもそれはお寺の屋根だった。私の生家の屋根は、その右方に在った。「いや、ちがった。右の方の、ちょっと大きいやつだ。」滅茶々々である。 (小説「故郷」)


◇「マディニー」の太宰らうめん
 斜陽館の向かいの物産館の中のマディニー(「丁寧にもてなす、心をこめてもてなす」という意味の津軽弁だそうだ)で昼食をとった。年配者の団体ツアー客が多いが、いかにも「太宰を好んでいる」と見える学生が数名いた。いずれもラーメンのどんぶりだった。
食券販売機は、もっとも左側の一番上にその店の一番売れ筋のメニューがセッティングされるのだそうだ。この店のその位置にあるのが「太宰らうめん」。でも、目下売り出し中の「青森シャモロック親子丼」を頼んだ。


加藤元昭商店
 地吹雪の中、鶴の舞橋を見て、車は弘前に向っていた。「ちょっと寄っていくから」と長男は、除雪車だけが作業しているような森閑とした商店街の一角に車を止め、降りていった。そして向かい側の商店入って行った。数分後、姿を見せた彼が店の中から手招きをする。
 間口二間ほどのその店は、大相撲高見盛関の実家・加藤元昭商店。加藤家はりんご園を経営し「カトちゃんりんごジュース」というブランド名のりんごジュースを生産・販売している。関取のお母さん(寿子さん)が一人で出荷作業をしていたが、わずかばかりの買い物しかしない私たちに明るく対応してくれた。
 「正月場所の後、突然帰ってきて10分ほどしか居なかったけど、仏壇にお線香を上げていった。そのとき、私に『痩せたな』と言った。そんなこと初めてだった」
花道を引きあげるときの姿の話をしたら「セイケン(精彦・彼の名)は不器用だから…、でも少しやり過ぎとも思うよ」とニコニコ。
 「なかなかサインが貰えなくて」と言ったら、「サインをするなら全員にしてあげないと不公平になるからと言うの。生真面目だからねえ。サイン ほしいですか。家に二枚置いてあるのがあるから、あげましょう」、そう言って奥から二枚の色紙を持って来て、「どっちでもいいから」と言う。
 その日、寿子さんが身につけていたジャンパーは「セイケンが4年生のとき着ていたもの」とのことだった。高見盛関は小学4年生のころはいじめられっ子だった。それで、相撲を始めたのだそうだ。


「カトちゃんりんごジュース」のラベル


◇中野啓三郎 (津軽凧絵師)
 《弘前行》の旅程は長男にすべて任せた。「見たいもの、寄りたいところは」と聞かれた。それで、津軽凧絵、地吹雪、斜陽館、鶴の舞橋、津軽三味線を挙げた。
 正月を迎えるわが家は、玄関に「津軽凧絵」を掲げる。50年くらい前に求めたもので、絵柄は「金太郎と山姥」。
 その絵を眺めていつも思う。素人目でもその筆致の柔らかさ、優しさが分る。この絵の絵師について知りたいと思っていた。それでこの機会にそれを調べたいと思い、A4判にプリントアウトして持って行った。津軽ねぷた村で絵師に見てもらった。絵には中野啓三郎と署名、落款がある。絵師が、「こんな絵をお持ちなんですか。啓三郎さんの息子さんの敬造さんは昨年亡くなりました。今は三代目です。啓三郎さんの作品は、今は本でしか見られません。大事になさってください」。
 作品の価値が分ったこと、所蔵を褒められたことで嬉しくなり、その写真を「あげます」と言ったら「ええ、いいんですか。ありがとうございます」と心から喜んでくれた。溝江さんという絵師だった。


津軽凧絵「金太郎と山姥」

◇津軽三味線
 居酒屋「ふる里の響 あいや」で津軽三味線を聴く。30席くらいの店なので予約していたが、私たち3人だけ。店のオーナーである渋谷和生さんは、津軽三味線全国大会3連覇という偉業の達成者。
 膝を突き合わせるような距離での渋谷さんの演奏に、三人の耳目が注がれた。修行3年目というギャレス・バーンズさんの演奏もあった。渋谷さんの伴奏で「りんご節」を赤い頬かぶりで、手拍子を交えて歌った。
 あぶりシメサバ、けの汁、貝焼き味噌 鮪の中落ちを注文。



◇八甲田ロープウェー 樹氷見学。山頂駅は標高1320m 積雪3m70cmだった。

 
雪の回廊

◇道の駅とわだの中の南部裂織保存会「南部裂織の里」に寄る。「これを織りきるまで死ねないわ」と言いながら大量の糸を買い込んだ妻。


◇寺山修司と学級新聞
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」で知られている寺山修司の記念館は、三沢市の三沢字淋代平にある。地名がその場所を端的に表している。加えてこの季節、見学者は私たちだけ。時間をかけてゆっくり見たい、楽しみたい、そんな館。彼にこんな言葉がある。「百年たったら帰っておいで百年たてばその意味わかる」
 展示物から、寺山修司は野脇中学校3年6組(1951年)で学級新聞を作っていたこと知る。「学級新聞」とあるが、文芸が中心の新聞。このガリ版刷りの新聞で、彼は小説、短歌、詩、俳句を発表している。あの頃、私もまた中学校で新聞を作っていた。新聞・弁論・生徒会は戦後の新しい教育の目玉のようなものだった。
 母を詠う句歌が多い人だ。
 ・蜩の道のなかばに母と逢ふ
 ・母恋し田舎の薔薇と飛行機音
 ・母来るべし鉄路に菫咲くまでは 
 ・大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ


古牧温泉 青森屋 「みちのく祭りや」で夕食。青森ねぶた・弘前ねぷた・五所川原ねぷたの囃子の競演や津軽三味線、津軽民謡を楽しみながら食事をした。従業員で日本酒のソムリエと称する青年が「八仙」という日本酒を飲ませてくれた。甘くて清涼感がありワインのようだった。


◇青森新幹線「はやて11号」に乗る(七戸十和田駅9:46発 ~ 新青森駅10:01着)  津軽海峡線・特急・スーパー白鳥11号(新青森駅10:16発)


◇氷上スノーモービルツアー 
 スーパー白鳥11号は函館駅に12時22分着。レンタカーに乗り換え大沼湖までおおよそ50分。
 遊覧船の船着場に車を寄せる。係員が3人も出てきて、ていねいな出迎え。寒いからこの部屋で、と事務室に招き入れられた。そこで、持って行ったオーバーズボンを履くように言われ、「コート(ベンチコート)はこれがいい」と着せられ、「後は外で」と導かれ、そこで備つけのブーツに履き換えさせられ、ヘルメットの被せられ、最後にグローブ。すべて《させられ》で、考える暇も、何をするのかと聞く間もなかった。
 「それでは、こちらへ」と桟橋へ。そこにスノーモービルが待ち構えていた。「コートの下の方のボタンは二つぐらい外したほうがいいすよ。跨ってください」。
 「えーッ、これに乗るの」と私。それでもまだ、誰かの後ろに乗るものと思っていた。
 「右手はアクセル。危ないと思ったら離せば止まります。左はブレーキ」「私が運転するの? 一人で?」「そうです」。後を見たら妻にも一台与えられている。「彼女は免許はないよ」と言ったら、免許は不要、自転車に乗れれば大丈夫というのだ。
 インストラクターのおじさんの言葉。「それでは行きましょう。私を追い抜いて前に出るのだけはやめてくださ~い」。
 「なに言ってんの!」と思った。
 湖の向こうに雪を被った駒ケ岳が全景を見せていた。午後2時過ぎの氷の湖にはもう観光客の姿はほとんどなかった。慣らし運転ということで、サーキットをそろそろと走る。氷上だが、何本もの轍がカチカチに凍っていて、カーブはかなりの腕力が必要だった。
 おじさんが戻ってきて「おかあさん かなり苦労しているみたいですよ」と笑う。振り返ってみたら、白いヘルメットははるか彼方だった。20分ほどの練習でどうやら、ゆっくりだが集団で走れるようになった。
 おじさんは、「そじゃあこれから1時間ほどかけて対岸まで行ってきましょう」と言うと、今度は私たちを置き去りにするように走り始めた。
 湖岸から少し離れるとシュプールはほとんど見られない雪原。そこに乗り入れ自分の轍を着ける。スピードは自然に上がる。横を見たら、コースからかなり離れたところを白いヘルメットが走っている。妻だった。そして今度は私の前方を横切る。それも一度だけでない、ジグザグに。暴走バアチャン!。
 休憩時間にわかさぎを釣った。2匹釣れたところで妻が「わかさぎは食べなくていい。走りたい。おじさん、少しスピード上げてくださいませんか」。
 おじさん「ダメです!」。
 帰り際、おじさんが言った。「おかあさん、ギネスものです。明日からおかあさんのことを話して営業します。ありがとうございました」



◇函館の夜
 このごろスーパー銭湯に凝っている。函館市営の谷地頭温泉に入る。42度から45度の湯船が三つ。それに露天風呂。粉雪が吹き付ける露天風呂の先客はたった一人。その人が「この町の人はどうしてこんな熱い湯に入るんですか」と問いかけた。彼もまた異郷人だった。帰りは市電にした。函館元町イルミネーション(二十間坂・八幡坂・基坂・ハリストス正教会・旧函館区公会堂・元町公園等)を見て回る。そして函館山から夜景。夕食は函館ビヤホールで。この季節は空いている。翌朝午前6時に朝市に行く。


◇札 幌
 吹雪いていた羊が丘展望台。さっぽろ雪まつり(大通公園会場とすすきの会場の「氷の祭典」)はお隣の国の人たちも大勢。 



今回の旅にまつわる思い出
 
『津軽』と竜飛岬
 スーパーの中の大きな本屋さんに行った。活字離れと言われているが、レジには列ができている。そんな光景に刺激され、久しぶりに文庫本の棚の前に立った。背表紙の文字を追っていたら太宰治の『津軽』が目に入った。 
 手に取り開く。紙の色が目に柔らかいせいか読みやすい。それに活字が大きい。ルビがたくさん振られている。買おうかと心が動く。でも「たしかウチの本棚にもあるはず」と思いながら、奥付を見た。初版昭和26年。そしてこの版は平成22年3月で117刷。

  道がいよいよ狭くなったと思っているうちに、ふいに、鶏小屋に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何がなにやら、わけがわからなかった。「竜飛だ」とN君が、変
わった調子で言った。(『津軽』)

 私が竜飛・三厩を訪ねたのは49年前の11月の終りのころだった。三厩からのバスの乗客は数人だった。最後尾の中央に一人で坐っていた。たぶん竜飛の集落に入ってからだと
思う。ハンドル操作のミスだったのだろう、私の左側の窓ガラスがバリバリと割れた。家を囲っている防風雪柵に接触したのだ。『津軽』の一節を思い出した。

三鷹 禅林寺
 太宰治の墓は東京・三鷹の禅林寺にある。禅林寺の住職木村得玄師は大学の同級生、一般教養の英語を一緒に学んだ。新宿で三本立て50円の映画を観たり、西口の思い出横丁で鯨のカツ定食を食べたりした。ある日、太宰の墓がある寺の子息と知り、仲間数名で彼の寺を訪ねた。そして森林太郎の墓の向かい側に太宰治の墓のあることを知った。


鶴の舞橋
 19年前の8月25日、私は青森県・鶴田町の「鶴の舞橋」を渡った。「鶴の舞橋」はその年の4月に竣工した、青森ヒバで作られた日本最長の木造の橋である。当時、私が勤めていた学校は鶴巻中学校、学校祭の名称は「舞鶴祭」、だから「鶴の舞橋」を渡りに行った。素朴で単純な私である。そんな私を、鶴田町広報国際係長の八木橋さんが橋の案内をし、半日付き合ってくださった。いただいた名刺に書かれた氏名は「八木橋連長」、『連長』はペンネームなどではない、実名である。「日本最長の橋」と「八木橋連長」という組み合わせの偶然性、いや必然性に感じ入った出会いの旅であった。




94年のスケッチ Katsumi


宮の森ジャンプ競技場
 厳冬の津軽に出かけるということで、防寒対策を十分にすることにした。下は保温タイツ、股引き、そしてオーバーズボン。上も保温シャツを着た。さて上着に何を着ようかと迷っていたら、長男が「昔着た防寒コートがあったはず。それでいい」と言う。40年前のコートだ。オシャレな私としては「どーもあれは…」と気乗りしない。
「この先、着る機会はないだろうから新調するのはもったいない」という説得力ある? 言葉に押し切られた私。
 長男の作った計画では、十和田湖休屋で行なわれている「十和田湖冬物語」という雪祭り行くことになっていた。
 三日目、三沢市から七戸十和田駅に出て東北新幹線で新青森駅に着いた。出口に向うと思ったら在来線乗り換え改札口を通りホームへ。そこには1番線に特急津軽3号・秋田行きが、2番線には特急スーパー白鳥11号・函館行きが待っていた。
「えっ!どこに行くの」と私。「函館!」と一言だけの長男。妻はまだ何が起こっているのか分からないようだった。そして津軽海峡線の人となった私たち。
 四日目、タクシーを頼んで大倉山ジャンプ競技場へ。この日は明日11日に行なわれるNHK杯ジャンプ大会の公式練習日だった。競技場内のレストランでジンギスカン料理の昼食。
 タクシーは轍がほとんど無い道を登って行く。「はい、到着! あの時そのコートでここに居たんでしょ」と長男はニヤリ。車外に出て見た景色に見覚えがあった。宮の森ジャンプ競技場だった。ここにいたって着古しのコートにこだわった彼の理由が判明した。
 再訪の旅こそ《旅》
 昭和47年の札幌オリンピック大会のジャンプ競技を、ここで、このコートで見物していたのだった。
 指導した『東中新聞』が毎日新聞創刊百年を記念した全国小中学校新聞コンクールで特選に選ばれ、副賞として「札幌オリンピック開会式」に生徒の和田さんとともに招待された。そのとき着て来たのがこのコートだった。
 この年齢になると、過去に訪れた地を再訪したいという思いが強くなっている。彼は、今度の津軽行を使って再訪の旅に作り上げてくれたのだった。


宮の森ジャンプ競技場に人影はなかった。それが、あの日の熱狂をいっそう鮮明に思い出させてくれた。

1972年の札幌オリンピックの開会式は真駒内会場で ガリバーの雪像の前の私(左端)

終りに 雪国の人々の暮らし
 
大荒れの八甲田山頂 

 太宰は『津軽』の冒頭で「津軽の雪」を「こな雪 つぶ雪 わた雪 みず雪 かた雪 ざらめ雪 こおり雪」と紹介している。「地吹雪と角巻き」は津軽の冬の風物詩。金木から弘前に向う間、地吹雪に出会えた。昼間でもライトを点け、ワイパーを最速で動かす。だが、これは気休めに過ぎない。対向車は直前まで見えない。
 弘前の街の朝の光景。商店も民家もオフィスも、どの建物の前にも雪かきの人影があった。特に駐車場の前の歩道の除雪はていねいに行なわれていた。車に踏み固められた雪はアイスバーン状態だからである。主要道路は除雪は完全にされている。車道の脇に高く積み上げられた雪。その裏側に人の手で歩く道が作られる。各家が自宅前に雪の歩道を整え、両隣と繋ぐ。郊外を走ったとき、隣家が数十メートル離れていても歩道は確保されているのを見た。集落からバス停に出るまでの人道もまた、バスを利用する地区民の手で除雪がされる。
 「地吹雪と角巻き」が津軽の人々の人がらを形成している。それが太宰治・寺山修司の生き方や作品に結晶していると理解していた私。だが、この旅で出会った人たちは、明るいオシャベリが好きな人が多かった。元気だった。私の会に出てくれた若いお父さんお母さんたち、加藤寿子さん、ストーブ列車のガイドさん、出掛けに夫婦喧嘩をしてきた話をいきなり聞かせてくれたタクシーの運転士さん、猛烈な夫吹雪の八甲田山頂で出会った地元のスノーボーダーたち、日本酒のソムリエの青年、黒石伝承工芸館の皆さんなど、厳冬を味方にした生き方をしている人ばかりだった。
 八木橋さんが私に言った言葉がある。「津軽というと、他郷の人は《地吹雪と角巻き》を思い浮かべ、暗いイメージを持つ。でも、私たちには、《地吹雪と角巻き》は生活そのもの。冬の津軽に生活する私たちの明るさ、たくましさを知ってほしい」
 吉幾三さん、高見盛関、そして同郷・板柳町出身の女子長距離の福士加代子選手の笑顔や言葉こそ、津軽の人たちのたしかな暮らしぶりの表れかもしれないと思った。






NO293 2011年2月1日発行

 
『タウンニュース』 NO2678  2011年1月22日発行 

子供たちに配った「道祖神めぐり」の地




NO292 2011年1月1日発行




                         伊豆沼で  森下 政司



NO291 2010年12月1日発行

第60回神奈川県中学校・高等学校新聞コンクール 
                           主催 神奈川新聞社・神奈川県学校新聞コンクールの会 (2010年11月12日実施)

 東中新聞(秦野・東中)が3年連続「最優秀」
【中学校・学校新聞の部】
最優秀賞   秦野市立東中学校
優 秀賞   相模原市立田名中学校
佳  作   川崎市立稲田中学校
努力賞   川崎市立橘中学校   横須賀市立大津中学校

講 評
 最優秀の秦野市立東中学校の「東中新聞」は、服装やマナーの乱れをテーマに自らの姿を冷静に振り返りました。「東中改造計画」で改善の方向も提案し学校をよくしたい思いが伝わります。小学校や公民館にも紙面が配られ、地域とのつながりも感じられます。  神奈川新聞社整理部長  小野 明男

 服装やマナーについて、保革者や地域の人たちにアンケートをとり分析。嘉的に問題を取り上げ、全校に向けた改善策を生徒独自の視点で打ち出している。全体的に軟らかい文章で毒された読みやすい紙面となっている。また、新聞発行の伝統が引き継がれている点についても評価された。  審査委員会


【中学校・学級新聞の部】
▽優秀賞 川崎市立宮前平中学校3年5組
▽優良賞 川崎市立今井中学校1年3組
▽佳 作 川崎市立西生田中学校3年3組  同今井中学校2年4組  同南加瀬中学校2年1組  同西生田中学校1年1組  同柿生中学校2年1組
▽努力賞 川崎市立西高津中学校3年7組  同東高津中学校3年3組 同臨港中学校3年1組 同生田中学校3年5組 同宮崎中学校1年1組
▽奨励賞 秦野市立中学校東3年2組  横浜市立上飯田中学校2年1組  横須賀市立大津中学校3年5組  三浦市立南下浦中学校1年4組  相模原市立大野南中学校1年4組

今年の菊



ゆとりの会の菊花展に出品


NO290 2010年11月1日発行



当地は雪が舞いはじめるころです ― 札幌・Rei
 


NO289 2010年10月1日発行

 
  広報クリニックに183名が参加
 市P連情報委員会が主催する「広報クリニック」が9月16・17日、東公民館を会場に行なわれた。私と向き合い今年度に発行された広報紙の紙面診断を聞くのがこの講座。1校だけでなく3校で同席するのも子の講座の“ミソ”で、他校の広報紙を手にしながら、診断を見聞きすることができる。3校で40分としい時間。私との面談の後は別室に移り、情報委員のリードで3校の交流会が開かれる。そこで私とは違った視点での意見交換がされる。進行係りから「すごい熱気があった」と聞かされた。
 今年の参加は2日間(第一日126名 第2日57名)で183名。1校で10名を超える参加校もいくつかあった。クリニックの後、企画の相談が持ち込まれたが、子供たちの抱えている問題を取り上げようとするような意欲的な委員会が数校あった。


 広報クリニックに参加し、大変よい刺激を受けました。テストを採点されている子どものような精神状態でした。
ご指導いただき、見出しがいかに大切かを改めて感じました。実際の広報紙を見ながらの具体的説明なのでありがたかったです。なぜこうなったか、私たち側のこともわかっていてくださるので、とても心強く、また参考になりました。他校の記事にも感心し、内容の充実・読みごたえのあることが大事と痛感しました。 南が丘小  齋藤 好美


 クリニックで武先生にお会いするのは2度目になります。二年前にも参加させていただきました。なるほどと思う事を教えていただきました。しかし、全員が広報誌を作るのは初めてで、先生の評価は今回よりも悪かったです。今回の広報クリニックでは、現在の広報誌の傾向や他校誌の評価など、経験の少ない私たちにとって参考にするところが多く、学校の活動、PTA活動への関心が薄れる分、学校での子どもたちの様子、PTA活動を出来る限り伝えたいと思いながら、先生のお話にメモをとりました。  北中  相原みゆき


 私たちのつくった広報の感想が聞ける、怖くもあり楽しみでもある、そんなちょっと複雑な気持ちで参加した広報クリニック。褒めてもらえた! それだけでヤル気になった! 不思議です。初心者の私にも、文(記事)を書くときの約束事や注意事項を分りやすく教えてくださいました。広報づくりへの興味が少し増したような気がします。指導してくださった事を次号に行かせるようがんばります。ありがとうございました。 東中  今井 まり


 はじめは、既に発行したものを診断されても意味がない、と思っていましたが、新たにレイアウトを考えるうえで、武先生の着眼点がとても参考になりました。また、何度も考え直した構成や記事を褒めていただき、メンバーの励みになりました。しかし、広報紙は、良い評価のために作るのではなく、読者である保護者や先生、地域の方々にまずは読んでもらい、思いを伝えるために作るものと肝に銘じ、努力したいと思います。 広畑小  柿内 幸希             


今回はどんなことを教えていただけるのだろう、と期待しながら参加いたしました。広報紙を作っていると、身近なことは当たり前のことになってしまい、記事にしようとも思わなくなっていたことに気づかせてもらいました。いろいろな声に耳を傾けて作った広報紙が「皆に待たれる広報紙」なのだということを学びました。先生に紙面診断をしていただける私たちは幸せです。 上小  府川 千絵



NO284 2010年9月1日発行

 2010年 8月のハイイライト

有馬涼風川座敷 8/18
全国新聞教育研究大会・北上大会 8/4・5 四国お遍路 1番札所 霊山寺(鳴門市) 8/19 88番札所 大窪寺は結願寺(さぬき市) 8/19
まほら秦野みちしるべの会・学習会 8/22
「矢倉沢往還と今川町のくらし」 
講師・内藤 美彦氏 
夏休みの思い出を壁新聞に 7/27・8/24 小2から小6までの15人ががんばった
 けっこう楽しそうだった
 
   神戸港 新港第一突堤から 夕顔のひらく光陰徐かなり   石田 波郷

 8月18日  「スカイマーク」で神戸に
 羽田7時20分発のスカイマーク101便で神戸へ。到着は8時30分。日本列島の背骨の上を飛んだ。中部山岳地帯のダム、そしてゴルフ場の多さに驚く。 先ず「十日えびす大祭」で福男を決める行事がある西宮神社に参拝。何しろここは日本酒のお宮だから。神戸シーバス・ファンタジー号で神戸港めぐり。乗船者は7人しか。明石の「魚の棚」(通称・うおんたな)で明石焼き。明石天文台のプラネタリウムで「流れ星を見つけよう」。夕食後「有馬涼風川座敷」で芸者衆の手踊りを見る。

 8月19日  第八十八番札所・大窪寺は結願寺
 明石大橋、大鳴門橋を渡り、四国八十八カ所霊場第一番札所・霊山寺と二番札所・極楽寺へ。そして《横着》して第八十八番札所大窪寺・結願寺に参拝。白装束のお遍路さんには一人も会わなかった。美馬市脇町の「うだつの町並み」へ。炎暑の町を歩いていたのは私たちだけ。阿波おどり会館で阿波おどりに興じ、神戸に戻る。六甲ガーデンテラスから神戸の夜景。山を下り神戸プラージュ(サマーイルミネーション)へ。閉場を知らせる「蛍の光」が流れる中、駆け込み写真を撮る。

 8月20日 「ディズニー・オン・アイス」を楽しむ 
 スカイマーク104便は神戸を9時5分に離陸、羽田に10時20分着。日産スタジアム見学ツアーに参加。ラーメン博物館を経て横浜アリーナの「ディズニー・オン・アイス」へ。ショウを楽しむ親子で一杯。 





NO283    2010年8月1日発行

 これが秦野のPTA広報です

 秦野市立本町小学校のPTAが7月10日に発行した広報『ほんちょうの森』第166号の「夏休み特集」のページです。すべての記事が実地踏査の上で書かれています。しかも、この号はパソコンを使っての編集、印刷の自分たちの手でおこないました。「見事!」の一言です。


 8月4日(水)・5日(木)に岩手・北上市で開かれる第53回全国新聞教育研究大会 全国学校新聞指導者講習会で、秦野・本町小PTA広報委員会と渋沢小PTA広報委員会が実践報告をします。
 ◇8月5日(木)12:50~14:00 「PTA広報分科会」  会場  北上市立黒沢尻東小学校
   


NO282  2010年7月1日発行


わが家のアジサイ

 7月1日は「童謡の日」

 きょう7月1日は「童謡の日」。多くの童話・童謡を生み出した日本初の児童文芸誌『赤い鳥』が創刊されたのが1918(大正7)年7月1日。それで1984(昭和59)年に日本童謡協会により制定された。
 2010(平成22)3月20日の 朝日新聞b2版に「歌い継ぎたい童謡・唱歌」(読者アンケート結果)が掲載された。その順位は次のよだった。
 1、赤とんぼ 2、小さい秋みつけた 3、仰げは尊し 4、荒城の月 5、夕焼小焼 6、早春賦 7、大きな古時計 8、里の秋 9、かあさんの歌 10、故郷 11、夏の思い出 12、朧月夜 13、月の砂漠。「春の小川」や「もみじ」は下位だった。
 私の所属する「秦野ゆとりの会」は一昨年の秋、信州中野の中山晋平記念館を訪ね、全員で「故郷」を歌った。それ以来、宴会の最後に「故郷」を大合唱する。
 
 私の好きな童謡は

  雨降りお月      野口雨情 詞  中山晋平 曲
  【雨降りお月さん】
 1.雨降りお月さん 雲の陰  
   お嫁に行くときゃ 誰と行く
   一人で唐傘差してゆく
   唐傘ないときゃ誰と行く
   シャラ シャラ シャン シャン
   鈴つけた お馬に揺られて  
   濡れて行く
 【雲の蔭】
 2.急がにゃお馬よ 夜が明けよ
   手綱の下からちょと見たりゃ  
   お袖でお顔を隠してる
   お袖は濡れても ほしゃ乾く  
   雨降りお月さん 雲の陰   
   お馬に揺られて濡れてゆく

 1番の歌詞は「雨降りお月さん」として、2番の歌詞は「雲の蔭」と題して発表され、後に「雨降りお月」とまとめ、曲が付けられた。曲の1番と2番と微妙は違っている。この2番の出だしの1小節の部分が私は好きだ。
 わがまち秦野市はメロディーチャイムを鳴らすが、6月の曲は「七つの子」。そのせいか私の住む寺山はカラスの鳴き声に悩まされている…。





 第53回全国新聞教育研究大会 全国学校新聞指導者講習会
            
岩手・北上大会のご案内
                                           主 催  全国新聞教育研究協議会・岩手県新聞教育研究協議会
                                           共 催  北上市教育委員会 西和賀町教育委員会

 ご挨拶
 新聞づくり活動・新聞利用学習は、生きる力の元となる情報活用能力を培い、基礎学力を向上させ、よりよい集団をつくります。いじめや不登校、学力低下など様々な課題を抱える学校現場に大きな力をもたらします。この半世紀、本研究会は確固たる実践と大きな成果をあげ、学校教育に寄与してきました。目前に控えた新学習指導要領との連携についても皆様とともに学び合いたいと思います。お誘い合わせて是非ご参加ください。たくさんの皆様のご参会をお待ちしております。

 【大会主題】  心を育て心をつなぐ新聞教育 -コミュニケーション力の深化-
           期 日    平成22年(2010年) 8月4日(水)・5日(木)
           会 場   ・北上市文化交流センター さくらホール
                      北上市さくら通り2-1-1 TELO197-61-3300 
                       JR北上駅より車で10分  JR柳原駅より徒歩10分
                  ・北上市立黒沢尻東小学校
                      北上市中野町卜8-1 TELO197-63-2194 
                      JR北上駅より徒歩15分、車で5分(2Km)

                 ◇8月4日(水)16:00~17:10  【新聞講座】
                  PTA 広報づくり講座   講師  エコー教育広報相談室代表(元公立中学校長) 武 勝美
                 ◇8月5日(木)12:50~14:00  【実践発表】 
                  PTA広報分科会    助言者 エコー教育広報相談室代表(元公立中学校長) 武 勝美


NO281  2010年6月1日発行

『ECHO』は創刊26年を迎えました   “生きていることのまばゆさ”

  『ECHO』はこの号で273号になりました。1985年5月20日が創刊ですから、ほんとうなら301号のはずです。250号発行のとき(2007年5月)「残された時間をゆっくり過したいので隔月刊」と言いました。以降3年間で23回の発行でした。
 1985年5月の創刊号で「声が大きければ返るこだまも大きい」と大言壮語し、それらしきことを書きました。それから25年、『ECHO』の発行は惰性になっていることを感じています。
「継続は力なり」という格言はかなりの人に好まれています。教師になりたてのころの好きな言葉の一つでした。でも、生きていることへの感謝―他から支えられていることを知ること―がなければ「継続は力」ではなく、「継続は惰性、成り行き任せ」です。
「生きていたころは、生きているということを、ずいぶん粗末に、乱暴に扱っておりました。しかしながら、いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも、まばゆく見える」。過日他界された井上ひさしさんの戯曲『ムサシ』の中での、亡霊たちによるやりの一部です。
 “生きていることのまばゆさ”を、私なりに『ECHO』に書こうと思っています。250号で、私の生存証明書として『ECHO』を受け取ってもらえますか、とお願いしました。ここでも、「もう少しの間、受け取っていただけますか」とお願いいたします。
    2010年5月20日                                            武 勝美




柏市P連に招かれて「広報紙の作り方」講座  5月14日


毎日新聞・千葉版 2010/5/15







NO280   2010年5月5日発行

ご 案 内






NO279   2010年4月1日発行

『東中新聞』創刊60周年・900号記念公開座談会   平成22年2月28日(日)午後1時30分~4時 東公民館2階ホール 

 地域の文化を掘り起こし発展させよう、とさまざまな事業を行なっている秦野市立東公民館が、創刊60周年・そして発行号が900を超えた『東中新聞』の回顧展を企画し、記念の公開座談会を平成22年2月28日(日)に開いた。
 金子信夫秦野市教育長の挨拶の後、私が「東中新聞の60年を振り返る」基調提案をし、座談会に入った。
 座談会のテーマは「私と東中新聞」、そして「東中新聞に望むこと」。出席の森山政子さん(S46年度新聞部長)、鎮西真裕美さん(H12年度広報委員長)、本間友佳子さん(H16年度広報委員長)、本間愛佳さん(現広報委員長)、高橋登さん(S29年度からの指導教諭)、瀬戸享子さん(H4年度からの指導教諭)、綱嶋宏子さん(現指導教諭)から、意義ある、そして興味深い話を聞いた。
 会場に東中学校の先生・生徒・保護者・卒業生・元職員、東小学校の児童、自治連会長、東婦人会員、民生児童委員、市P連情報委員など50数名が集った。その中の8名から『東中新聞』を励ます言葉があった。届いた2通のメッセージも読み上げられた。


東中新聞に望むこと

 
小さな変化を伝える東中新聞に                     東中学校広報委員長 本間 愛佳

 今年度は、「学校がより良くなるきっかけになるような新聞作り」を目標に掲げ、これまで見過ごされがちだった校内の小さな変化の取材に力を入れました。作った新聞を読んだ生徒からの「こんなことがあったんだ」「じゃあ次からはもっとこうしようよ」などの反響の声があるからこそ、私たちはそれを原動力にがんばることができるのだと思います。
今日の座談会で、東中新聞の題字のデザインのモチーフが校章であったこと、そして、その題字が900号まで引き継がれてきたこともわかり、驚きました。歴代の広報委員長の話を聞き新聞作りが現在よりもっと活発であったこと、なにより足を使った取材が多かったことに感嘆しました。東中新聞に携わったことがその後の人生に大きく影響している方もいて、東中新聞が読み手だけでなく、作り手の心にも大きく作用することも感じました。私のこれからに東中新聞作りがどう影響するかはわかりませんが、新聞作りを通して得た仲間や充実感は支えになっていくものと思っています。これからも、学校生活に根ざした良い意見や声を多く取り入れ、提案力のある『東中新聞』であり続けてほしいです。


《伝統》を《義務》と捉えないで
                               本間友佳子

 東中新聞に望むことは、「《伝統》を発行しなくてはいけないという《義務》と捉えない」ということです。義務と捉えてしまうと、内容が浅い、号数だけの新聞となってしまうような気がします。また、新聞に重要な“新しさ”もあまり感じられなくなってしまうのではないでしょうか。伝統を引き継いでいくことも重要ですが、各年度の広報委員にはその年度ごとの色を出し、常に変化していってほしいと思います。
 学校新聞がより身近なものとなるためには、たくさんの人を登場させることだと思います。確かに報告記事にも興味が湧きますが、たくさんの人の声が載っている記事からは自分の仲間のことを知ることができ、より興味深いものとなるのではないでしょうか。それにより、より身近で、発行が待たれる東中新聞になると思います。期待しています。(元広報委員長)
                                    

 

楽しい学校生活を支えてくれた『東中新聞』                        梅川 純代

 私たちの代から、東中の生徒会本部役員は全て選挙で選出される方法になりました。正副会長選挙だけでも7~8人が立候補しました。選挙というよりお祭りでした。これは選挙管理委員会と新聞委員会がタッグを組んで選挙を盛り上げてくれたためです。それで生徒会活動へはかなり高い関心が集まりました。
 新しい生徒会は、新しい事業やイベントを次々に行いました。花壇を作ったり、校庭の銀杏を拾って資金にしたり、昼休みに宝探しゲームをしたり、といった具合です。言うなら「お祭り大好き」の生徒会本部でした。
 こうした活動の殆どが全校規模で行われました。これを可能にしたのが東中新聞でした。発行頻度が高いため、情報が速やかに全校生徒に伝わるだけではなく、それが「いかに面白そうか」、そして「なぜそんなことをするのか」が書かれていたからです。
東中時代の仲間に会うと、東中学時代が「とても面白かった」と言う人が多いのですが、いろいろなことをみんなで行った思い出があるからだろうと思っています。その「みんなで行った楽しかったこと」を縁の下で支え続けたのが東中新聞です。東中新聞は、私たちの「楽しい中学時代」の土台であり、屋台骨だったのです。 (昭和63年度生徒会長)  


参会者の声

 
新聞づくりは人間づくりなのだと改めて実感                         後藤 珠実

「東中新聞」創刊60周年・900号発行記念公開座談会にお手伝いを兼ねて参加させていただきました。中学校生活の委員会活動の中で、これまでの活動を振り返りかえる機会が持てる委員会は他にはなかなか思い当たりません。「東中新聞」の発行に関わった方が、そのバトンを地道にかつ情熱的に繋いできたからこそ、たどり着いた900号という偉業であることが、パネラーの方のお話でよくわかりました。
 高橋先生からは、今も使われている題字「東中新聞」のデザインをご自身が担当されたという秘話を、瀬戸先生は、生徒と一体となり取材に奔走された話を熱く語られました。現在指導されている綱島先生は、音楽の授業にも新聞教育を取り入れるなどして、東中の生徒全員が新聞作りに親しめるよう尽力されています。森山さんは、新聞コンクールで《札幌オリンピック》の取材という夢のようなごほうびを受けられました。大学の卒論テーマで「秦野の新聞教育」を研究された鎮西さんは、教職に就かれてクラスだよりを鋭意発行中とのこと。武先生のDNAを受け継がれた彼女が、秦野市の学校で新聞教育の実践に携わられるのもそれほど遠い先のことではないでしょう。頼もしい限りです。
 現委員長の本間愛佳さんはお姉さんも元委員長。代々の伝統に加えてお姉さんの足跡も引き継ぎました。凛とした姉妹を拝見し、新聞づくりは人間づくりなのだと改めて実感させられました。
 東中生の保護者の一人として「東中新聞」の歴史を誇らしく思うと同時に、温かい幸せな気持ちで会場を後にしました。1000号もきょうの皆さんと盛大にお祝いしたいと思いました。(保護者)

 

東中新聞創刊60年・ 900号発行を心から祝福いたします                久武 祐子

 900号…いったい何年かかったらこんなに発行できるのだろう、という思いで参加しました。
 創刊時に東中新聞の題字をデザインされた先生が、「現在もその題字が使われていて、恥ずかしい」と言われながらも、嬉しそうな顔でした。60年間の伝統を守り新聞を発行し続けたこと、また題字を代々受け継いできたこと、共に素晴らしいと思います。
 現広報委員長の生徒さんが、「私たちはたまたま900号の作成に携わっただけ。これまでの先輩方に感謝したい」と話していました。記念すべき900号発行に際してはプレッシャーとの戦いだったと思います。にもかかわらず、このような感謝の言葉。感謝の気持ちが支えになって60年間発行が続いたのです。この日、一番印象に残り、心に刻まれた言葉です。
「仕方なく始めた広報担当の仕事。でも、生徒の楽しんで作りたいという気持ちに後押しされ、良いものを作りたいという気持ちが強くなった」と話された先生がいました。その顔が和やかで、当時の生徒さんの様子が伝わってきました。作り手の「良いものを作りたい」という気持ち、そして楽しんで作ることが継続の原動力だと感じました。
 基調講演で武先生が「新聞とは記録すること、知らせること、考えること、行動すること」と話されました。東中新聞の60歳を祝うために、地域や学校から大勢の方が参加されたこと。これは武先生の言葉の証だと思います。
 貴重な楽しいお話を聞かせていただきました。展示されていた東中新聞を眺め、私にも当時の思い出が蘇ってきたのでした。ありがとうございました。(市P連情報委員)



タウンニュース(2010/3/13)








NO278   2010年3月1日発行

残波ビーチの入日


 はじみてぃやーさい 沖縄 
 
  47都道府県の中で宿泊していないのは沖縄県だけ その憧れの地・沖縄の三泊四日の旅日記 レンタカーの総走行距離は310km
  
 22() 第1日
 
 4:50
寺山発  東名高速 首都高速湾岸線 羽田空港。前夜の雪で横浜-横須賀道路・通行止め。東名高速・一部チェーン規制。保土ヶ谷バイパスには雪が残っていた。空港で朝食。   
 JAL 903便は8:15に離陸。沖縄へは初めての飛行だった。それで富士山を右下に眺める位置に機があるとき、客室乗務員にどのあたりを飛んでいるのかを尋ねた。それがきっかけで、いくつかの会話をした。着陸態勢に入る前に「乗務員一同からです」とメッセージカードと黒糖やキャンディなどの詰め合わせを一袋プレゼントされた。カードには「3泊4日、お天気でありますように。楽しい旅になりますようお祈りしております。ドライブ、お気をつけて行ってらっしゃいませ」と書かれていた。「JALガンバレ!」と、心から応援したくなるような、嬉しいもてなしだった那覇空港着は11:15
 空港から送迎バスでレンタカー店へ。車はマツダ・デミオでボディーカラーはゴールデンイエローという華やかなもの。中日ドラゴンズ1軍 キャンプ(北谷町・北谷公園野球場)の脇のちゅらーゆ2階 「北谷ダイニング」で昼食。沖縄ソバを食べる。
 1時半からのブランコの打撃練習を見る。岩瀬と吉見がバッティングピッチャーを務めていた。サブグランドでの森野の三塁守備の特訓も間近で見た。
 道の駅・かでな(嘉手納町)には、嘉手納飛行場を一望できる屋上展望デッキがある。空飛ぶレーダーと呼ばれているE-Sエイワックス(空中早期警戒管制機)がタッチアンドゴーを繰り返していた。軍事用ヘリコプターも絶え間なく離発着。デッキには大きな望遠レンズのカメラでそれらを追うマニアとおぼしき人たちが数名。
 湘南シーレックス キャンプのキャンプは嘉手納町野球場。筒香が、鈴木尚典コーチから送りバントの指導を受けていた。向上高校出身の安斉には出会えなかった。残念! その後中日ドラゴンズ2軍のキャンプ地読谷平和の森球場に行く。シーレックスと比べ活気があった。
 琉球村(恩納村)で琉球絵巻行列・沖縄風パレード「道ジュネー」ショー。
 宿(残波岬ロイヤルホテル、「日本夕陽の宿百選」の一つ)の前の残波ビーチで夕日を待つが日没の瞬間は雲で見えず。ホテル内で琉球舞踊ショーを観る。(この日の歩行数
7444

バッティングケージの後にはバットを手にした落合監督 道の駅「かでな」の屋上から嘉手納飛行場が一望できる E-Sエイワックスがタッチアンドゴウの訓練



23() 第2日

8時に出発 万座毛(恩納村)は風か強かった。一番乗り? 誰もいない。団体旅行を相手にする写真屋さんが一人、断崖の淵で客を待っていた。話しかけたが不機嫌。この強風の中では当然なのかもしれない。
 ブセナ海中公園(ホテル ザ・ブセナテラス内・名護市 喜瀬)に行く。グラス底ボートに乗る予定だった。かなり風が吹いていた。荒れ具合を切符売り場の女性に聞いたら「止めたほうがいいですよ」と言う。商売っ気全くなし、良心的でイイ。海中展望塔に向う歩道橋にもかなりの波が打ち寄せていた。見学者は私たちだけ。水深4メートルの窓からスズメダイやブダイが見られた。
 阪神タイガースのキャンプ(宜野座村営野球場)は縞のユニホームを着たファンでにぎわっていた。雨のため室内練習場でのトレーニングだった。背番号で金本と城島を確認しただけだった。
 ビオスの丘(うるま市)で湖水鑑賞舟にのる。琉球ガラス村(糸満市)を見学。「ぎやまん館」で昼食。お土産売り場の福引きに挑戦。対のシーサーが当たる。買いたいと思っていたのでよかった。
 ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)。第三展示室で、米軍の沖縄戦のフイルムとひめゆり隊の生存者の証言で構成された「解散命令と死の彷徨」の映像を見る。途中でその場を離れることができなかった。館内で女子高生の一人が懸命にメモする姿が印象に残った。妻が言った。「この記念館を出た後、連れて来た生徒たちの行動に変化を感じた」。 
 沖縄県平和祈念公園(糸満市)は、南の海に向ってなだらかに広がる広大な敷地を持つ。公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地だったという。1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里にあった日本軍司令部は、ここ・沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻する米軍から避難する一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在した。アメリカ軍は7月初めまで掃討戦を続けた。園内に建つ「平和の礎」の碑は、屏風型の花崗岩での沖縄戦で命を落とした24万人余の名前が刻まれている。そして、今もその碑に刻まれる人が続いているという。

沖縄平和祈念堂
高さ45m 七角形の堂塔 恒久平和を祈念して建造された

 おきなわワールド文化王国(南城市)で「スーパーエイサーショー」を鑑賞。ショウの終りの「カチャーシー」という踊りに加わった。カチャーシーとは沖縄方言で「かき回す」という意味だそうだ。沖縄の人たちが興に乗ると踊るおどりで、ザ・ブセナテラスホテルで開かれた沖縄サミットで小泉首相が踊る姿を新聞で見たことがある。頭上で手を左右に振るさまが、かき回すように見えるため呼び名がついた。
 踊り方は、腕を伸ばして両手を真上にあげて、手のひらを開いて前に向け、窓を開けるように、両手のひらを右に向けて腕を右に振り、今度は閉めるように、両手のひらを左に向けて腕を左に振る。
これを繰り返す踊り。足は麦踏みの要領。
 玉泉洞は鍾乳洞。(歩行数 9356


 カチャーシーでご機嫌な武さん


 24(
) 第3日             

8時前に出発。ホテル 沖縄自動車道・石川IC 宜野座IC 国道329号で辺野古へ。① 辺野古港から町の中に。基地の町であることを示す建物が一角に点在していた。キャンプシュワブ基地横の道路を走る。
 古宇利島(今帰仁村)の海に架かる1690㍍の古宇利大橋を渡って入る。曇り空だが、それでもエメラルドグリーンの海の色は目に染み入るようだ。古宇利島を一周。サトウキビの刈り取りをしている姿が見えた。嵐山展望台(名護市)は羽地内海と屋我地島・古宇利島を見渡せる丘にあった。周囲はパイナップル畑。
 美ら海 水族館(本部町・沖縄 海洋博記念公園 内)は修学旅行生が喜ぶ場所だろう。昼食を水族館内のレストランでとりながらイルカショーを見る。
 名護21世紀の森公園内の名護市営球場は日本ハムファイターズ のキャンプ地。ダルビッシュ投手を捜し歩いていたら、正面から稲葉篤紀選手が出てきた。10人ほどのファン・ほとんどが若い女性・がワッと取り囲みサインを求め始めた。球団の広報担当が「並んでください」と声をかけた。これはサイン会をすると、そう思い列に加わる。順番からすれば20数人目。途中で、「きょうはこのあたりで」と打ち切られるのではないかとソワソワ・ドキドキ。サインをもらい、写真に入ってもらった。サインしながら、「濡れるから軒下に入りなさいよ」と雨中の列に声をかける彼に“一流のプロ”を感じた。
 ナゴパイナップルパーク(名護市)ではカートに乗ってパイン畑を一周。名護中央公園(名護城跡)では桜(寒緋桜)祭りが開かれていた。
 オリオンビール名護工場(名護市)を見学。オリオンビールは沖縄ではそのシェアは80%とか。この工場の見学時間は20分、以前訪ねたアサヒビール福島工場は40分が見学時間だった。他の見学者はともかく、私の場合は試飲が目的なのだから、ビールの製造過程を知るより、喉でビールを知るほうが勉強になる。オリオンとアサヒのことを書いたが、オリオンはアサヒと資本提携している会社。ORIONとASAHIのロゴのデザイン(アルファベットの文字が左下から右上に斜めに切れ上がっている)がよく似ている。味は、オリオンのほうが柔らかくて飲みやすい。沖縄にいる間飲んだビールはすべてオリオン。
 今度の旅の中での“メインディッシュ”は、今夜の琉球武家屋敷 謝名亭(じゃなてい・読谷村)での琉球料理。スクガラス、イマイユ刺身、唐芙庸、グルクンの唐揚げ、伊勢海老素味噌焼、天婦羅三種(ゴーヤ、島らっきょ、紅芋)、でんがく、ラフテー、ジューシー、中味汁。おいしいかったのは島らっきょのてんぷら、ジューシー・これは炊き込みご飯。唐芙庸は酒の肴にいい。どうしてもダメだったのスクガラス。中味汁もちょっと…。この夜もカチャーシーを踊る。(歩行数 6283

サトウキビ畑の奥の白い建物は墓所 古宇利大橋が見える 
古宇利島から
稲葉篤紀選手 サインはウチワにしてもらった 

オリオンビールのロゴのデザインはアサヒのそれに似ている



 25() 第4

7時半にチェックアウト。三日間お世話になったのでホテルそのものにさえ何となく親しみを感じる。ホテル 沖縄自動車道・石川IC 那覇ICまで一気に南下。車窓から沖縄のいろいろな町を眺めた中で気づいたことの一つに「生ゴミ」の収集がある。こちらではゴミステーションらしき場所が見当たらない。すべての家が門口にゴミ袋を出しているということ。
 この日最初に訪れたのは首里城(那覇市 首里金城町)。守礼門はともかく首里城そのものが私の抱いていたイメージとかなり異なっていた。映像や写真で見ている首里城とスケールが違っていた。そして季節・天候のせいかもしれないが色彩もまた……。
 水中観光船「オルカ号」で那覇港湾内クルーズ。待合室に「波あり 少し揺れる」「海中 前日までの雨と風で見えず」とある。それでも乗ることにした。オルカ号の定員は204名。この船に乗船したのは三家族、9人。それほど揺れはしなかったが寒かった。今は二月であることを思い出した。海底は見えなかった。お詫びの印なのだろうか「ホエールウオッチング」のストラップが配られた。
 嘉数高台公園(かかず たかだいこうえん・宜野湾市 嘉数)には、普天間飛行場を見下ろす展望台がある。「普天間飛行場」に関わる映像の多くはここから撮られているようだ。望遠レンズで引っ張るまでもない、肉眼で住宅地とヘリポートとが、まさに隣り合わせであることが確認できる。普天間飛行場を正面に見据えた位置に、宜野湾市が作ったパネルが設置されていた。そのパネルには次のような文が記されていた。「宜野湾市は普天間飛行場を一日も早く返還させ 夢のあるまちづくりに取り組みます」。
 この旅の最後の訪問地、波上宮(なみのうえぐう)神社に向っていた車の後輪がボルトを拾ってしまいパンク、というアクシデント。レンタカーの返車場所を最寄の営業所に変更し、タクシーで那覇空港へ。
沖縄の最後の食事なのだから「沖縄ソバを」と注文するのが旅なのだが、皿うどんを頼んだ。
JAL 910便は14:30離陸、羽田に16:35着。(歩行数 5791

基地の町 辺野古 読谷村の不戦宣言の碑 
後はドラゴンズの二軍のキャンプの球場・読谷平和の森球場
普天間飛行場 ヘリポートが白く光って見える 宜野湾市のメッセージが記されているパネル

・沖縄の人たちにとって車は生活のベースとなっている。観光客にもレンタカーが欠かせない。那覇市内に下りるインターは一般とETC専用のゲートが一つずつ。一般のゲートに「わ」ナンバーが数珠つなぎ。政策ミスではないかと思った。
沖縄の県の花は「デイゴ」。街路樹や公園内に植栽されている。その枝ぶりから、葉を落とした姿は枯れ木のように見える。
滞在したホテルでは知名度のある(私の範囲で)関東地方の公立高校2校の修学旅行生と同宿だった。知名度どおり好感がもてる立ち振る舞いだった。
沖縄の墓所を見る。年月を経たものは亀甲墓や破風型のものが多い。山を背に集落を見下ろす地や海を望む丘に点在していた。住宅地に続く道路わきにも墓所が見られる。本部町の交差点で停車したとき、左手に家型の墓の集落が見えた。まるでミニチュアの町。次の世界でも寂しくないだろうな、と思った。


 宜野座村の破風型の墓所




NO277   2010年1月1日発行

新しい年に新しい地で 新たな芽吹きを

  

 
 2009年の日本の世相を表す漢字は「新」。民主党を中心とした新政権誕生、裁判員制度や高速道路料金割引制度などの新制度もスタート。イチロー選手の9年連続200安打の新記録、新型インフルエンザの猛威などがその根拠になっている。私にとっても「新」という字は昨年の一字にふさわしい。
 暮の12月9日、東中学校の校庭のイチョウの大樹が西門の南横に移された。そこは幼稚園の校門の脇でもある。《新》しい地に根付き、春三月に《新》たな芽吹きが見られることを信じて疑わない。
 新体育館建設とそれに伴う校庭整備のため、校庭の隅に立つ大イチョウが伐採されるかもしれない、という噂が聞こえてきたのは3年前の春だった。個人的な感情移入とも言われたが、『イチョウの移植』についての思いを、関係の諸機関に、地域に、東中時代の同僚や教え子たちに、仲間に、そして『エコー』の読者に訴えた。

 
 皆さんの声をお聞かせください  教育は百年の大計

  柔らかな雨が淡い若緑の芽を濡らす4月。6月、緑が濃くなり始めた梢から聞こえるアオバズクの鳴き声。晩秋、晴れ渡った空にそびえる大山を背に輝く金色の尖塔。やがて与謝野晶子の歌うように、その金色は「ちひさき鳥の形して」散る初冬。そして、巨躯がそのたくましい素肌を見せる厳冬。
 寺山に生まれ育ち、幸せにも東中学校で仕事をさせてもらつた私には、東中学校の校庭に立つイチョウの木は、今もいつも視界の中にあります。
 東中学が開校して62年、ここに学んだ7000を超える生徒が朝夕眺めてきた樹齢300有余年のイチョウは東地区民の心のよりどころとなっています。そして、市制50周年記念事業の『ふるさと秦野 景観一〇〇選』に登録された「東中学校の大イチョウ」は、今や秦野市民が大切にしている景観、護っていかなければならない文化的資源です。
 そのイチョウが、新体育館の建設により、子供たちの教育活動に支障をきたすということで伐採されるかもしれないようです。漏れ聞くところによれば「邪魔な木、駄木」との声が一部関係者の中にあり、「伐採ありき」で論議されているとのことです。「大きいから、樹齢300年だから価値があるのか」と聞かれれば、「300年を生きた命だから価値がある」と私は言います。「文化的・歴史的な意味をもった木ではない」という声には、「開校以来子供たちを見守り、またいつも子供たちの視界の中に在ったというだけで価値がある」と応えます。
 イチョウの現況維持が困難であることは理解できます。しかし「移植にかかる経費、加えて移植が成功するかどうかも分からない、だから伐採」いう論にはどうしても組みせません。
 平成22年に秦野市を会場として全国植樹条が行なわれます。秦野市民のエコロジー、地球温暖化への具体的行動としても、東中学校の大イチョウの生存を考えたい私です。
 「教育は百年の大計」と言われます。イチョウを伐採するのも、校庭整備という中での「百年の大計」でしょう。でも、可能な限りイチョウを生きさせる努力をするのも「教育の百年の大計」と思っています。学校は命の大切さを学ぶところ、そして命を育むところです。樹齢300年のイチョウの命を永らえさせることは、その大いなる実践です。   
  2008年3月                           武 勝美


 この呼びかけに、『東中新開』(845号・2007/10/29)も次のような記事で応えてくれた。


 私たちを支えてくれるいちょうの木

 校庭の隅にあるいちょうの木。その木にはこんなエピソードがあります。昔、いちょうの木がある場所は民家でした。そこに校庭が広がることになり、家は他の場所へ移ることになったのです。しかし、いちょうの木だけは切らずにその場所に残しておいて欲しいという願いから残されることになりました。それが現在のいちょうの木です。
 教室の窓からのぞいてみてください。新しい発見があるかもしれません。このいちょうの木は、学校が建つ前からその場所にあり続け、東中学校の卒業生を見送ってきました。みんなの泣いた顔や笑った顔などいろいろな顔を見てきたことでしょう。 しかし、体育館建設に伴う校庭の整備では、トラックの内側に位置される状況なので、現在検討されています。私たちを支えてくれるいちょうの木の今後を静かに見守っていきましょう。





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