-ECHO-  最新号(創刊1985年5月20日)
動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない

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        NO400  2024年2月1日

 道祖神さんと駅伝観戦
 
四年ぶりに二宮町山西の寛政二年の道祖神さんと一緒に箱根駅伝の応援。
今年で17回になる。

  押切坂駆け上り来る韋駄天を待つ寛政の道祖神と
 
帰りに小田原のゲームセンターでクレーンゲームに《再挑戦》、というのは2018年の春、
ここで「寝そべりスヌーピー」をゲットしているから。今回もかなりのコインを費やしたが
弟君を釣り上げることができた。今、その兄弟は応接室のソファに寄り添い寝そべっている。 


      
      

            今年も寛政2(1790)年造立の拱手合掌男女双体と応援
              
2024年1月3日 第100回箱根駅伝 7区 二宮町山西の信号三叉路)

          
      駅伝の帰りにクレーンゲームで「寝そべりスヌーピー」 → ソファに寝そべる兄弟 


         
       厚木・荻野の蕎麦店で道神面に出逢う(1月10日)
        




        NO399  2024年1月1日
  
             
                       
 開運 虫送り龍  青森・五所川原近郊
           
 
村はずれの高い木に掛けられ五穀豊穣悪疫退散を祈願する


 
老えば増す承認欲求去年今年

 ◇去年の暮し
 2023年元旦  神奈川歌壇「新春詠草」で一席
 2月  『ECHO』400号に到達 (3月12日の「天声人語」が紹介)
 4月  道祖神の里めぐり再開(富士山南麗)
 6月  本町小3年生の「総合の時間」で「秦野の道祖神祭り」の紙芝居をチーム竹の子で上演
 7月8日  『ECHO』のHPへのアクセス50万回に到達
      23年目の 「夏休みの親子新聞作り講座」を東公民館で
 8月  運転免許返納
 9月  横浜市P連協の広報づくり講座の講師
 11月 『道祖神の里めぐり 』の第三集『道祖神の里 落穂拾い』を上梓
 12月13日 神奈川新聞が『道祖神の里 落穂拾い』を紹介
     『道祖神ワンダーワールド』の講座を東公民館と鶴巻公民館で。
     『日本の道祖神』写真展 (12月1日~23日・東公民館)
 12月 神奈川歌壇 今野寿美先生選で一席。
     ※元旦の「新春詠草」の歌壇一席 (佐々木定綱先生選)で始まり12月も一席で今年を締めくくることができた





        NO398  2023年11月5日 発行


  秋暑し昼餉にたのむ塩むすび   勝 美

 〈地球沸騰!〉などという恐ろしい言葉が生まれた今年の夏。そしてその暑さがまだ続いています。
我が家の二人は“息絶え絶え”ですが、何とか息はできています。その暮らしぶりの一部を報告します。
勝美は「道祖神の里めぐり」の第三集の11月刊行を目指し校正に励んでいます。
 20年ほど続けてきた「道祖神の里めぐり」で気が付いたことがあります。村人の道祖神との暮らしが
その地の文化・歴史を育んできたのです。そのことを「道祖神の里めぐり第三集」としてまとめました。
 厚子さんの部屋からは機織りの「パタン パタン」が聞こえてきます。同じく11月に開く「さをり織り展」
に向けての《がんばり》です。二人にとってこれがファイナルステージとなるでしょう。



                    


    

      11月22日 刊行予定
                               道祖神の里 落ち穂拾い

                      


 




        NO397  2023年9月5日 発行
  道祖神ワンダーワールドへの誘い

   Katsumi in 道祖神ワンダーワールド」第3巻 『道祖神の里の落ち穂拾い』
 を11月中旬に上梓いたします。(8月末に入稿済み) 

 「道祖神の里の落穂拾い」の内容
 Ⅰ 続々道祖神の里めぐり(20か所)
 Ⅱ 道祖神考 その3
   1 道祖神の像容の時代変遷
   2 全国の道祖神塔碑の概観
 Ⅲ 双体道祖神は千姿万態
   双体道祖神の形態
 Ⅳ 異形の神 道祖神の系譜
 Ⅴ ワラと木の神
 Ⅵ 僧形合掌双体像発祥の地 秦野     
 Ⅶ 落穂拾い ―出合ったこと 物―
   1 道祖神と藁馬
   2 道神面
   3 銅板レリーフ「安曇野の道祖神」
   4 彩色双体道祖神の源流は押絵雛
   5 紙芝居「秦野の道祖神祭り トッケダンゴ」
   6 道祖神祭りは「火祭り」
   7 道祖神を詠う
 Ⅷ 落穂拾い ―道祖神のご縁で出会った人々―   
 Ⅸ 道祖神日記 旅人はいつもわがままで遠慮知らず  


 4年ぶり「みちしるべの会」の懇親会 
 8月27日 「みちしるべの会」の懇親会を横山会長さん宅で開く。コロナの影響で4年ぶりの会に10名
が集まった。横山さんのご主人徹さんは野外彫刻家なので、そのアトリエの広場で流しソーメンとお弁
当、それにアルコールも少しの懇親会。
 この会らしく懇親に入る前に研修会が持たれ、その講師を務める。幹事から懇親会なのでそれにふさ
わしい話を、と指示されていたので「日本の苗字と地名」で30分ほど話した。

 
難み難い苗字・稀少な姓
 「日本の苗字はおおよそ30万。多い理由は漢字が使われているから。その約85%が地名に由来。日
本の苗字の約80%は訓読み、20%が音読み。」から入り、「勝間田」「空」「薬袋」「十八女」「鯨」などの
苗字の読み方や由来を紹介。講話にとり上げた苗字の一例「カツマタ」姓。静岡県駿東郡に多い「カツ
マタ」姓は勝間田、勝俣、勝又、勝俣、勝亦、勝田などがある。その姓の文字が他家と違うことを表すた
めに、地元では次のようにカツマタさんを呼ぶ。
・勝間田(カツカンデン)のカツマタさん ・勝俣(ヒトマタ)のカツマタさん ・勝又(フンバリマタ)のカツマタさん
・勝股(ニクヅキマタ)のカツマタさん ・勝亦(アカマタ)のカツマタさん ・勝田(マヌキ)のカツマタさん。

 
 教員という職業柄、読み難い姓の生徒に出会ってきたが、その最初の姓は一寸木(チョッキ)さん。小田
原の白山中学で出合った。読めなかった。それ以来、読み難い苗字・稀少な姓に魅かれるようになり、調
べ始めた。ちなみに武姓も全国的には珍しい姓で、教師になりたての頃「タケさんでいいんですか。タケ
シさんじゃないんですか」と保護者に確かめられたこともあった。
▽教室で出合った姓  聳城(タカギ)  面城(オモダチ)  安居院(アグイ)  戸来(ヘライ) 雲所(ウンジョ) 
安食(アジキ) 朝妻(アサヅマ) 小綿(コワタ) 白附(シラツキ) 設楽(シタラ) 小太刀(コダチ) 隺(ツル)。
管浪(カンナミ)姓は全国でおおよそ10戸ほどとか。
 鶴巻中勤務時代のこと。三年生の鯨(クジラ)さんから、明日の高校の面接できっと苗字について聞か
れると思うので鯨姓の由来を教えて欲しい、との電話をもらった。校長室での昼食面接の折、鯨姓の由
来を少し話した。そのことを彼女は思い出してくれたのだ。
▽各地で出合った苗字  国内各地で開いた広報・新聞づくりの講座でも興味深い姓に出合っている。
その中で姓の読み方がかけ離れ過ぎている姓は薬袋(ミナイ)さん。十八女(サカリ)さんと空(ソラ・クウ)
さんの由来も「エー?!」というような秘話を持つ苗字である。
 他にも次のような姓に出逢っている。賜(ヒノデ) 一(ハジメ) 日置(ヘキ) 明(アカシ) 神二(フタガミ) 
秀(ヒデ) 呑海(ドンカイ) 百々(ドド) 水流(ツル) 木久(キキュウ) 月東(ガットウ) 八月朔日(ホヅミ)
四月朔日(ワタヌキ) 味酒(ミサケ) 知識(チシキ) 小鳥遊(タカナシ) 纐纈(コウケツ) 猪鼻(イノハナ)な
どなど゜。日本の苗字への興味は尽きない。



     NO396  2023年7月5日 発行


                      道祖神ワンダーワールドへの誘い


        

         
 6月20日    「チーム竹の子」で道祖神の授業
 本町小学校第三学年の「総合の時間」の学習テーマは《ふるさとはだ野プロジェクト》でフィールドワークを四月から行っ
ている。その市内の探訪から浮かび上がったのが「道祖神とは何んだろう」という疑問。それで私に「道祖神の話を」と依
頼が来た。
 8時45分から10時20分。第一限は秦野の道祖神祭りの特長を表す紙芝居を「チーム竹の子」の伊東祐子さんが『目ひと
つ小僧』、関智子さんは『秦野の道祖神祭りトッケダンゴ』を上演。二限は私の担当で「道祖神ってなあに」。児童は120人
ほどなので体育館でパワーポイントを使っての授業。
 生活年齢8・9歳、どんど焼きをした児童は三割くらいという条件下で、どれほど聞いてもらえるかとかなり気になったが、
「質問タイム」で10数人の挙手がありホッとした三人だった。その質問は、「なぜ赤や緑のダンゴを作るのか」「ダンゴを炭
で焼かないで燃える火で焼くのはなぜ」「どうして太鼓をたたくのか」「目一つ小僧ってだれ」「天の神様ってだれ」「なぜ天
の神様に悪いことを言いつけるのか」「どうして秦野に道祖神がたくさんあるのか」「武さんは何歳から道祖神を見て歩くよ
うになったのか」など。 素直な疑問や道祖神信仰の本質に迫るような質問にとまどった。



     NO395  2023年4月5日 発行

                 


                    
                           

  『ECHO』 「天声人語」に
2023年3月12日  
◇今朝新聞「天声人語」を読みました。『ECHO』の読者のわたしたちからすれば、すでに知っている物語で
はありますが、あらためて商業紙の1面コラムで読み、なんだかうれしくなりました。「この人、知ってるよ」と
いう感じでしょうか。ちなみに我が家では須藤は毎日新聞を取っていますが、妻が朝日、息子は毎小です。
                                                      須藤 晃
          ※須藤晃さんは元毎日新聞記者。新聞コンクールの審査会でお世話になった。
◇今朝の「天声人語」読みました! 時宜にあった紹介、改めて感動しました。      吉成 勝好
◇「三陸新報」の渡邉眞紀さんからメール「数人の友が、今朝の朝日新聞で、三陸新報のことがコラムにあ
ると連絡をくれました。」
3月13日
◇昨日は、思いがけず朝日新聞「天声人語」欄にお名前を見つけ、驚くとともに、武先生の面目躍如に連れ
合いともども喝采いたしました。さりげない日常のあれやこれやを言葉に刻み、その言霊が響き合う「エコー」
の紙面は、類い稀な人びとの交流の広場です。先生の「動かなければ出会えない」は、地域にこだわりなが
ら歩みをつづけたいと願う小生にとって欠かせないテーマです。神奈川新聞「紙面批評」欄では、先生の執
筆の後を受けて小生が担当させていただいたことが思い出されます。「継続は力」の域を凌駕し、「継続は惰
性なり」の境地に足を踏み入れられ、ますますのご健筆をお祈りいたします。        片桐 務
◇朝日新聞の販売店の菊池さんが感想を述べに来てくれた。
3月15日
◇神奈川新聞の元記者・八木明さんから「本日『天声人語』を拝読し、快哉を叫びました。エコー創刊号を神
奈川新聞に掲載させていただいたのが38年前。地道なご努力、継続は今や大いなる力となって全国に広が
っています。ご健勝を祈念いたします」との手紙。
3月16日
◇1200字を超えるメールが教え子・佐野弘子さんから届いた。入学した西中学には一年間しか在籍してい
なかったという弘子さん。授業だけという間柄。佐野さんは書いている。「二年になれば広報副委員長になる
はずだったのに……」。広報委員として私と一緒に学校新聞を作っていた子だった。「天声人語」を読み、その
ころを思い出してメールをくれたのだ。
◇毎日新聞の記者・上鵜瀬浄さんのお母さんから「息子が『天声人語』をメールで送ってくれた」との電話をも
らった。浄さんは秦野生まれ。お母さんのみち子さんは「市P連だより」の発行にがんばった人。
3月17日
◇さいたま市の齋藤紀子さんから手紙。齋藤さんのお父さんは酒井大岳師、お母様は酒井せつ子さん。ご
夫妻は朝日俳壇・歌壇で活躍された。お二人の感化でしょう、紀子さんの骨太の句歌を朝日俳壇・歌壇で読
むことができ感じ入っている。(3月19日俳句・26日短歌入選) 齋藤さんとのご縁は、道祖神めぐりで群馬県
東吾妻町を訪れた折り、長徳寺の大岳師にお会いし俳句の話を伺ったことがきっかけ。ご夫妻の亡きあと、
句歌で紀子さんと交流させてもらっている。
3月22日
◇先生、「天声人語」読ませていただきました。人とをつなぐ先生の生き方 すてきだなと思いました。 春は
うれしいしいですね。私は秦野の春が大好きです。健康を保たれ、これからも暖かなメッセージを私たちに送
りつづけてください。                                          大津みどり    
◎『ECHO』の読者、かつての同僚、高校や中学の同級生、教え子、近所の方、親族から「『天声人語』読ん
だよ」「すごいね」「おめでとうございます」などの言葉をいただいた。 ありがとうございました。


     NO394  2023年3月1日 発行

  『ECHO』 400号に到達
                              

  『ECHO』と共にもうしばらく

 『ECHO』創刊は1985(S60)年5月20日。それから38年間、大勢の人のご支援をいただき400号を数えること
ができました。このごろ「他から支えられ、見守られて、生かされている」ことを深く思うようになっています。
そういえば、昨日庭の吹き溜まりを片付けていたら、尉録がいつの間にか2mほどのところに近づいてきて、
私の動きをずっと見守ってくれていました。嬉しかったです。
 井上ひさしさんは戯曲『ムサシ』の中で、亡者に“生きていることのまばゆさ”を語らせています。ここ8年間で
3回入院をしましたが、今は「年齢相応の体調」と思っています。家族をはじめとする皆さんに見守られ、今しば
らく『ECHO』と共に“まばゆい”暮しをしたいと思っています。―これが今の私の心境です。
  
 “まばゆい”の意は「まぶしい」「恥ずかしい」「見ていられない」
     春疾風吾の歩幅で八十路ゆく   勝美

  ☆タウンニュース紙の掲載記事はこちら(クリックで開きます)

   
 400号発行 おめでとうございます
  『エコー』400号発行おめでとうございます。地域に密着して仕事をさせていただいている郵便局にとって、『エ
コー』の記事は地元の情報や歴史を学ぶことが出来て、社員一同毎号楽しみく拝読させていただいております。
又、毎月『エコー』の発送のために窓口で記念切手を購入していただき、とてもありがたく思っております。いつも
笑顔で元気な先生のお顔を拝見する事で、我々もたくさんの元気とやる気をいただいております。
 以前、『エコー』350号の発行のことを秦野市の「タウンニュース」が報じられた事がありました。その際、『エコー』
の発送を毎回東秦野局をご利用いただいていることや「『エコー』創刊時のころは関野さんのお父さんが局長だった
なあ」との先生のコメントたし、とても感激いたしました。
 東秦野郵便局は昭和一九年開局で、今年で七八年を迎えます。私も生まれ育ったこの地域で仕事をする事が出
来る幸せを改めて感じさせていただきました。 これからも『エコー』の発行され、いつも元気な笑顔の先生と窓口で
お会い出来ることを楽しみにしております。                        東秦野郵便局長  関野宏一

  『ECHO』400号がまもなく発行されるとのこと、おめでとうございます。350号を取材させていただいたのは2018
年でした。東秦野郵便局さんとのつながりについてのお話が聞けて、興味深かったことを覚えています。 tomoko




    NO394  2023年1月5日 発行

                     
                       
                    (庭続きの秦野市立東小学校校庭に立つ金次郎像 2022/1)
    
      
      2023年1月1日号 神奈川新聞「新年詠草」歌壇  
   
    ・佐々木定綱先生選「一席」 ・谷岡亜紀先生選「二席」(共選)  
           冠雪の富士に真向かい立つ像の背負う薪に初日射しそむ 

  

                                     新年のご挨拶

                        
                          




        NO393  2022年9月12日 発行

                         寺山の四季

            
                     月見棚                          





       NO392  2022年6月5日 発行

                        寺山の四季

            
                 ウチの今年のさくら                          5月30日に整枝


        
                    庭のサツキツツジ                       もうコスモスが


                            
                           伊勢原市PTA連絡協議会から感謝状
                               (大山こま型のトロフィー)


                               
                              油彩 「きずな」   内田恵市         受難! 名古木の道祖神
                               双体道祖神がモチーフ
                                 
   





        NO391  2022年5月5日 発行


  「生き甲斐は」と問われ「村居」と答へし我に八十路の坂の険しく    勝 美

 〈村居の私〉 ・じっくり読むことができない ・漢字が書けない(思い出せない) ・書くと文字列が曲がる(縦書きは右、
横書きは上に) ・テレビを観なくなった(集中できない) ・物忘れが激しい(品物がすぐに行方不明になる) ・視力が落ちた
・立ち上がるときふらつく ・食が細くなった ・晩酌一合で毎夜酩酊 ・バス、電車にここ数年乗っていない ・ユーチュー
ブで「ど演歌」 ・草むしりたいへんだが苦にならない。

  『ECHO』 400に向かって《カウントダウン》開始。


                                           四季再彩

                               
  
                              「高遠の桜と中央アルプス」  返ってきたエコー・賀川操子さん


                                       
                 
                                   今が旬 「葉しょうが」 林家たい平さんの絵葉書


                                    
                           
                                    「倉渕の道祖神(油彩)」 内田恵市さん
                               


        NO390  2022年1月1日 発行

                                    迎  春

                  
  
                  干支・信楽焼きの虎 張り子の虎(富山 静岡 高松) 蘇民将来 津軽凧絵


                   


     煙草煎餅の話  はだの歴史博物館館長大倉潤さんから次のような貴重な助言を頂いた
 
 煙草煎餅の種類ですが、井上卓三さんは『TOBACCO』17号「関野作次郎翁の生涯とタバコ栽培技術」で10種類として
いるのに対し、『神奈川県の銘菓を訪ねて』では12種類と書かれていました。実際に亀本さんに煙草煎餅を買いに行っ
てみると、一番多いものが22枚セットだったので、ことによると11種類ではないかと疑っていた折、武勝美さんが亀本さ
んに調査に行かれたようで、HP『秦野夜話』「秦野のおはなし」第190回で煙草煎餅のことが報告されていました。
 それによるとやはり11種類が正しく、10種類の歌については武さんの報告通りです。絵柄が一部見えなかったようで
すが「螟蛉の…」の歌の絵柄は『秦野市史別巻 たばこ篇』の75ページにある「蛾捕殺の状況」の絵です。
 「奸商は…」の歌の絵柄は「関野作次郎翁の生涯とタバコ栽培技術」116ページにある「肥料の俵」の絵です。
 武さんが判読できなかった一首は「土寄せ」の歌で、『神奈川県の銘菓を訪ねて』に 「土寄は二人揃ふてなく深く培ら
ひあけて根ぐりよくせよ」と紹介されたものです。ただ、これでは一部意味が通じません。私が手にしたものも文字はは
っきりとせず、「なく深く」ではなく「なか深く」のような気もしますし、下の句もあっているか確認できませんでした。絵柄は
「土寄せをする人」ですが、二人描かれているかどうかははっきりとしませんでした。
 


         NO389  2021年11月3日 発行


              

     ◇武勝美の「道祖神ワンダーワールド」
    12月 1日(水)  秦野市立東公民館の歴史講座  「双体道祖神は千姿万態」
    12月16日(木) 秦野市立鶴巻公民館の歴史講座  「道祖神の落穂拾い」


 秋澄む  11月1日の日記
 朝七時半の空は西に向かう飛行機雲をすっきりと浮かび上がらせていた。ハロウィンのリースを外す。庭では山茶花とコ
スモスが同じようなピンク色の花を咲かせている。寒椿の蕾ももう開き始めた。ニシキギ、花水木の紅葉は今が盛り。ドウ
ダンツツジも少し赤味を帯びてきている。畠の境でひっそりと咲いているのはオチャ、ふっくらとして清楚な白。笊菊、とスプ
レー菊も可憐な花を咲かせてくれた。
 今日に合わせてくれたのだろう、北上からさわし柿がどっさり届いた。ウチの柿の木には実が全く見えない。黄が日毎に
深まっゆく隣家の柚は今年も鈴なり。芋煮の里芋を掘っていたらジョウビタキが近づいてきた。
 ・秋仕舞いしている吾に紋付鳥「帰って来たよ」とピョコンとお辞儀
 妻が買ってきた宇和島の蜜柑の袋に「《じょうのう》はやわらかい」と書いてあった。「ジョウノウ」ってどんな意味、漢字でど
う書くのか。気になったので調べたら《瓤嚢》柑橘の果肉を包む皮・房のこと。嚢の訓読みはふくろを指す漢字。
 

 ◇まほら秦野みちしるべの会の活動予定
     11月13日(土) 秦野市立鶴巻公民館主催 「鶴巻地区史跡巡り」
     11月20日(土) 秦野市立南公民館主催  「弘法山、矢倉沢往還を歩く」
     11月26日(金) 秦野市立東公民館主催  「大山道を歩く」
 

   11月27日(土) 秦野市立西公民館主催  女性交流会の「本町地区の史跡を訪ねて」 講師・武勝美



        NO388  2021年9月25日 発行

 気仙沼とのふれあいは続く

 4月14日 差出人に心当たりは全くない手紙が気仙沼から届いた。
  芽吹きの美しい季節になりました。その春の訪れと一緒に思いがけない不思議なご縁が繋がり、私の心も春の喜びで
いっぱいです。
 四月九日付けの『三陸新報』に「東日本大震災から10年 気仙沼と私」を書かれた人のお名前を拝見したとき、28年前
に『新聞づくりは仲間づくり』という本に出合ったのですが、その著者が震災後の気仙沼をずっと支援してくださっておら
れたことに感動と驚きで胸いっぱいになりました。
 私は気仙沼に生まれ、大島に嫁いで38年になります。平成四年、長男が大島小三年生、二男が入学したその年、PTA 広
報部長を受けました。私にとって初めての新聞づくり、悩みながらも顧問の先生、部員さんと取り組みました。その折り、武
様の『新聞づくりは仲間づくり』に出合いました。部長であっても新聞づくりは全く経験のない私にはその御本の中に書か
れていた「PTA広報ができるまで」というドキュメントを何度も読み返しながら新聞づくりに取り組みました。御本に収めら
れているたくさんの広報紙もとても参考になり、有り難たかったです。
 大島小の広報紙の伝統を守りながら新しい試みをいたしました。その一つは「題字」を大きくしたことです。会員の声を求
める投書箱も設置しました。企画や取材で職員室に顔を出すことが多くなり、先生方と親しく言葉を交わすことができま
した。家では子供たちが「おかあさん、今度はどんな写真を載せるの。頑張ってね」と応援してくれました。
 こうして広報紙『くぐなり』を年四回発行することができました。三年間の広報部の活動で様々な人と出会い、PTA広報
紙は「学校・家庭地域を結ぶパイプ役」ということを仲間と共に学びました。武様の御本『新聞づくりは仲間づくり』が私の
活動を支え、頑張らせてくれました。その思いがずっと心に残っていて、御本は当時の『くぐなり』と一緒に私の宝物として保
存しています。息子たちと一緒の広報活動の三年間は私の人生の輝いた一ページです。
 投稿された文を拝読し、武様が気仙沼でPTA広報講座を開催されたこと、『新報』を購読され復興の進捗を各所で紹介
されていること、PTA広報紙に「忘れてはいけない あの時の記憶」を取り上げるよう提案されるなど、今も被災地に目を
向けていらっしゃることなどをしりました。マザーテレサさんの「【愛】の反対は【無関心】」という言葉が心に染みます。 一
冊の本との出合いが、今このようにステキなご縁につながった喜びで思わずお手紙してしまいました。
 間もなく朝ドラ「おかえりモネ」が始まります。美しい自然、おいしいお魚の港町・気仙沼の姿を武様が懐かしんでくださ
ることを願っております。
 コロナ感染者が急増して不安定な生活が強いられています。くれぐれもご自愛くださいますようお祈り申し上げます。
   令和三年四月十一日     村上 典子 


5月24日   気仙沼は港町 見送った船が無事に帰ってくるのを待つ街です
 5月に「エコー」創刊37周年を迎えられおめでとうございます。私の次男も同じ年の十二月生まれ、これまで継続された年
月を思い感動しました。
 震災から10年の三月十一日には気仙沼からもお便りが届けられたのですね。「気仙沼は港町 見送った船がまた無事に帰
ってくるのを待つ街です」と書かれていたとありましたが、「行ってらっしゃい」そして「おかえりなさい」の、その当たり前の言葉
が言えることがどれほど幸せなことかとこのごろ身に沁みるようになりました。たくさんの思いがあるのです。
  海はいのちの みなもと  波はいのちの かがやき  大島よ 永遠に緑の 真珠であれ     水上 不二 (気仙沼・大島出
身の詩人) 武様の出会われた気仙沼・大島出身の看護師さんのご実家が我が家から歩いて数分のご近所と判りびっくりし
ました。早速お訪ねし、おじいちゃん、おばあちゃんとお孫さんのことを楽しくお話いたしました。
 武様の「三陸新報」へのご投稿で28年間温めておりました思いが繋がりました。お手紙に「他の人とのつながりがどれほど
生きる力になっているかと、強く感じています」のお言葉は心に深く染み入りました。ご縁に心より感謝いたしております。 
                                                                                    村上 典子 

6月23日    「気仙沼は港町」 で思い出したこと
 「気仙沼」という三文字の並びは、それを目にするたびに微かに不思議な感じを覚える文字列でした。でもそれは一瞬で、目
はすぐに次の文字を追っていってしまい、毎回そのままになっていました。ですが今号で「気仙沼は港町 見送った船がまた無
事に帰って来るのを待つ街です」の文を読んだとき「あっ!」と思いました。私の父は遠洋漁業の漁師で、一年の大半は不在だ
ったように思います。奥能登の港を出港した後、北海道などの漁業基地を拠点に何ヵ月も漁に出ていました。その漁業基地が
気仙沼だった時期もあることを思い出したのでした。
 北海道の時期のことばかり記憶に残っていて、気仙沼に行っていた頃のことは忘れていましたが、今回の「気仙沼は港町…」
で思い出したようです(以前の号にも載っていたはずなのに、思い出したのは今回でした)。「気仙沼」の文字は、当時父から届
いた手紙の差出人住所で見たものか、または気仙沼から送ってくれた小包の荷札に書かれてあるのを見たものか。自分が何
歳の頃のことだったかも確かではありませんが、当時の家の中の風景などが記憶の中に戻ってきて、しばらく不思議な気持ち
に浸りました。全く忘れていたことなのに、記憶の中にはちゃんと保存されているんですね。懐かしい記憶を思い出すことがで
きました。     竹下恵美子


8月15日    気仙沼のシラス
 『 しらす丼』 とても丁寧に書かれていて素敵な絵本ですね。二学期が始まりましたら早速「読み聞かせ」のとき使わせてもらう
つもりです。私はシラス大好き。特に六月に気仙沼でもとれるシラスは美味しかったです。大きくて食べ応えがありますが内陸に
は出回りません。「足が早い」からです。一年中スーパーなどで売られている釜揚げシラスは別物です。でも我が家では「シラス丼」
にして食べたことはありませんでした。母は、ほうれん草のおひたしの上に載せて食卓に並べました。たっぷりのシラスのおかげで、
お醤油をかけなくてもほうれん草はパクパクいけました。それを私も自分の子たちに実行しました。私のおもわくどおり子どもた
ちは食べてくれましたが、こんなことを言ったことがあります。「シラスと目が合っちゃうから急いで食べなくちゃ」と。たくさんのシ
ラスの目が自分に向けられていることを意識したのか、誰も一度も食べ残しをしたことはありませんでした。    渡辺 知子


8月22日    今 気仙沼にいます
 八か月振りに気仙沼に帰省しています。じりじりとした暑さでも、関東と違い涼しい風が吹いて、とても過ごしやすいです。ゆっく
り風呂に浸かり、湯上りにアイスと、《至福の時》を過ごしてます。(笑)     小野寺詩緒


9月12日   気仙沼の銘酒「蒼天伝」の男山本店から届いた便り
  いつもご愛顧いただきありがとうございます。震災から十年、今なお気仙沼に寄り添っていただき感謝の気持ちで一杯です。南
三陸地方の現在の状況を三陸新報などで知っていらっしゃる武様にはたいへん恐縮とは思いますが、自社再建に関するリーフレッ
トと気仙沼に関する資料・冊子等をお届けいたします。コロナが落ち着きましたら、またご家族でゆっくりと気仙沼の街並みなど見
ていただければと思います。 このような状況下でありますのでどうぞご自愛くださいませ。     男山本店   村上修子 
 ※同封されていた資料は 「男山本店再建の歩み」 「気仙沼ガイド・海と生きる気仙沼」 「気仙沼ガイド・気仙沼旅まっぷ」  「浜
   らいん五月号」
                 


        NO387  2021年4月3日 発行
   

              夜桜に父還り来て清浄忌
        
    
    百年桜に灯りをともし 清浄忌の父の御霊迎ふる

           
       蝉取らせて」と来し隣の子「桜見せてください」と孫連れて 

 「コロナ禍なのに、そんなに浮かれていいの」と言われそうだが、十年ぶりに桜のライトアップをした。
初めて点灯したのは2003年。父の供養のためのライトアップだった。
 父は「われ入院おら家桜は三分咲き」「満開の桜病床の夢に見る」と詠み病院で逝った。平成元年
の桜の季節だった。
 二度目は2011年。ベッド生活の母に夜桜を見せたかったからだ。今年は父の三十三回忌。


 三陸新報社様   『東日本大震災 記憶伝承』は【紙碑】 
 専門職の皆様にこのようなことを言ってしまう無礼をなにとぞお許しください。学校新聞やPTA広報作り講座で、
私は「新聞・広報の果たす役割は ①記録する↓ ②知らせる↓ ③高める↓ ④行動させること」だと話しています。
 お届けいただきました『東日本大震災 記憶伝承』は「三陸新報」が地域の人たちのために3.11を記録し来る
べき災害に備え、意識を高め行動させる使命を果たした書、「三陸新報」でなければ、新報だけが制作できる書だ
とページをめくるごとに感じ入ったのでした。(写真で災害時の様子と復興が進む今との例比の多さなど)
 朝倉眞理社長様の高い志向の「序」に深い感銘を覚えました。そして渡邊眞紀専務様の「あとがき」は自らの体
験から、災害を日常的に意識し準備を怠らないように呼びかけていることに私は共感いたしました。今回の津波に
襲われた遺構のいくつかは整備されたようです。祈念の「碑(いしぶみ)」も再建・新たに建立もされているようです。
それらに加わり本書『東日本大震災 記憶伝承』は【紙碑】としてとこしえに受け繋がれるでしょう。
  「新報」から漁業のこともたくさん学びました。「三陸文芸」欄では“顔なじみ”(一方通行ですが)が出来うれしい
です。
 朝倉・渡邊様を始め社員の皆様のご健勝をお祈り申しあげます。ありがとうございました。    


        NO386 
2021年1月1日 発行



              




            
            会津・ 赤べこ            信楽の干支              宇和島ブーヤレ(牛鬼)i
           
                                                   (今年の我が家の玄関)



     
                              新美南吉
  
   牛は重いものを曳くので/首を垂れて歩く
   牛は重いものを曳くので/地びたを睨んで歩く
   牛は重いものを曳くので/短い足で歩く
   牛は重いものを曳くので/のろりのろり歩く
   牛は重いものを曳くので/静かな瞳で歩く
   牛は重いものを曳くので/輪の音にきゝ入りながら歩く
   牛は重いものを曳くので/首を少しづつ左右にふる
   牛は重いものを曳くので/ゆっくり沢山食べる
   牛は重いものを曳くので/黙って反芻してゐる
   牛は重いものを曳くので/休みにはうっとりしてゐる

   

        NO385  2020年10月10日 発行


 気仙沼との出会い  「武さん、なぜ気仙沼なの」に答える

2010年
8月4・5日 53回全国新聞教育研究大会が岩手県北上市で開かれ、私のPTA広報講座で北上市の渡辺知子さんに出会った。以降広報作
り・紙面クリニックなどで交流を深めた。(渡辺さんは宮城・気仙沼生まれ)
2011年3月11日 東日本大震災発生
11月 渡辺知子さんからの手紙。「今、ラジオから『気仙沼港が今年もカツオの水揚げ日本一』とのニュースが流れました。『今シーズンの漁
が終り、水揚げ量は昨年の四分の一にとどまったが、15年連続の日本一』とニュースは続きました。思わず『やった!』と私。サンマもカツオ
も水揚げ日本一!フカヒレの生産も日本一! イカの塩辛の味も最高! わが故郷気仙沼はそうでなくちゃあ。大震災に遭っても気仙沼はそ
うでなくちゃあ」
2012年
2月 渡辺さんから地震の写真と証言集『巨震激流』(三陸新報社刊)が送られてきた。手紙には、故郷・気仙沼の「3月11日」を知りたい、先生
にも知ってもらいたいので求めた、とあった。
3月 三陸新報社は『巨震激流』の続編『気仙沼と南三陸町 震災から一年の記録 故郷永遠(ふるさととわ)』を発行した。その序に「たとえが
れきと化しても、波が洗っても、心の中の故郷まで消すことはできない。麗しの我が故郷、愛しき人々は、私たちと共にこの地に生き続ける」と
記されている。
 4月19日 気仙沼を訪ねる
4月19日 故郷・気仙沼を思う渡辺さんの心に揺さぶられ、被災地を訪ねることの意義を自問し続けながら気仙沼に向かった。南三陸町の防
災庁舎の前に立った。赤錆た鉄骨の向こうに白い志津川病院が見える。気仙沼線は《寸断》というより、完全に「洗い流された」といってよい。
南気仙沼駅はその姿をコンクリートの残骸に残しているだけだった。大船渡線の鹿折唐桑駅の駅前には第十八共徳丸(330t)が、海岸から500m
離れたこの地に打ち上げられたままで居た。
  『巨震激流』を発行した三陸新報社を訪ねた。おおよそ1時間、朝倉眞理社長、渡邊眞紀専務が応対してくださった。『三陸新報』は発行部
数二万の日刊地域紙である。大震災を受けた地域の日刊紙として果たしてきたこと、これから果たすべき役割・決意を二人から聞くことができ
た。三陸新報社はPTA広報の印刷も行っている。この三月に発行された気仙沼市内の小・中・高等学校のPTA広報紙9紙を読ませてもらい、
紙面はどうしても多くの人たちに読んでほしいと思った。
『いとひば』 (鹿折小学校父母教師会H24/3/15)
卒業する55人の児童が「将来の夢」を書いている。そのうちの30数名が「支援を忘れない、恩返し」をすることを「将来の夢」と記した。「3月11
日の震災でたくさん支援してくれた人たちのようになりたい」「支援してくれた人に恩返しのできる大人になりたい」「家族を大切にできる大人に
なりたい」。被災を深く心に留めながら、しっかりと見つめる12歳の《未来》へのメッセージに心を打たれる。「ケーキ屋さんになって支援していた
だいた人にケーキを作りたい」「自分の船をもって海に行きたい」「応援メッセージを忘れず、心優しい看護師になりたいです」
『松風』 (気仙沼市立松岩小学校父母教師会H24/3/19)の卒業特集「僕の私の夢」で、二人の男の子が「大工さんになって家をいっぱい建て
る」と誓った。女の子の一人は、一級建築士になって「住んでいる人が笑顔になってくれる町を」つくることを目指している。次はこの子どもたち
と生活を共にした担任のはなむけの言葉である。
小学校生活最後の年、今年ほど《感謝》という気持ちを強く感じた年はないのではないでしょうか。全国、いや世界の各地から応援のメッセージ
をいただき、わたしたちは元気を取り戻すことができました。このたくさんの見知らぬかたがたの思いを胸に、君たちはこれから生きていくことに
なります。それから、家族が君たちのいちばんの支援者であったことも忘れてはいけないことです。そして友達も。私は《共に生きている》のです。
『PTAだより波安』 (気仙沼市立気仙沼中学校PTA・H24/3/5) 題字『波安』を目にしたとき息が詰まった。「三陸の海の豊かさ(穏やかさ)を
願う人々の願い」が題字と思った。
「三月十一日、あの日から数々の恐怖とともに人の強さを知りました。私は震災後、すぐに避難所での生活を始めました。帰りたくても家に帰れ
ないからです。人前では明るくふるまってはいました。けれど、家族がいるのに、自分は生きているのに、とても不安でした。しかしその反面生
きたいと思っている人の心の強さを知りました。避難所でも皆が協力して、助け合っている光景を私は何度も見て、人の心の強さと助け合ってい
くことの大切さ、そしてつらい事があっても心は自由なのだという事がわかりました。」
『気高PTA広報』 (宮城県立気仙沼高等学校PTA・2012/3/1)
「東日本大震災 あれから一年 気高生の体験と想い」◇見えるはずのない場所から海が見える現実、あったはずのお店がなくなり、通れるはず
の道がなくなり、毎日使っていた線路もなくなってしまいました。あるはずのない瓦礫や船があって、見えるはずのない場所から海が見えます。
当たり前の日常の風景がこんなにも変わり、もう元に戻すことはできません。この津波のことは決して忘れられませんし、忘れてはいけません。
 ◇津波の記録を見るたび、なぜ私たちなのかと思った。大切な人を亡くし、家も思い出もすべて奪われ、誰のせいに出来る訳でもなく、やはり
なぜ私たちなのかと堂々巡りばかりだった。でも、今は違う。津波は私たちに考え直すチャンスをくれた。本当の幸せは、家族や友達と普通の生
活が出来ることなのだと考えるようになった。 ◇親戚や近所の人もたくさんいなくなり、精神的な意味でも帰る場所がなくなりました。正直まだ
立ち直れていませんが、今は這ってでも前に進んでいきたいと思います。
 
  《夢》を語った子どもたちの中には、身近な人を亡くし、すべての物を失った子どももいるに違いない。その現実の中での子どもたちの純真さ、
そしてたくましさを4紙の紙面を通して知った。彼らが卒業という区切りのとき抱いた《夢》は、《復興》である。その夢の実現に向けて歩み続ける
ことができるよう支えることが大人に課せられている。子どもゆえに解決できないさまざまな事象を、大人は取り除くことを何より先にしなくては
いけない。「ふるさとがあれば人はがんばれる」は福島から秦野に避難している人の言葉である。気仙沼の子どもたちがこの言葉を実証してく
れる。気仙沼は新たな航路を拓き始めたのだ。
 ※私のできる気仙沼支援はこれくらいしかないと5月から「三陸新報」の郵送購読を始める。
9月 上記の4PTA広報委員会に手紙を届けた。
 突然お手紙を差し上げることお許しください。私はPTA広報作りのお手伝いをしてる『エコー教育広報相談室』の武勝美と申します。今年度も
東京、千葉、神奈川などの23会場でPTA広報講座の講師を務めました。直近での第55回全国新聞教育研究大会 十勝・帯広大会(8月4日)で
もそうでしたが、講座のまとめに貴広報紙をつかわせていただいております。そのお礼を申し上げたくお手紙を差し上げました。そんな中、《脱
原発依存》をPTA広報で取り上げたいが、という相談がありました。母親が持つ子どもを守る意識、本能ともいうべき危機感に対し、今の政治の
鈍感さ。だからこそ、子どもをたくましく育てなければなりません。広報紙から聞こえてきた気仙沼の子どもたちの声を、私は確かに聞きました。
日本の未来はこの子たちに任せられる、そう思います。信じます。PTA広報紙は子育てにとってなくてはならないもの。「PTA広報紙で子育てご
一緒に」が私の講座のコンセプトです。これからも皆様のご活躍を心から願っております。ありがとうございました。
2014年
5月 『三陸新報』の渡邉さんのご好意で、13年度の気仙沼地方のPTA広報誌を読ませていただくことができた。添えられた手紙に「震災から三
年が過ぎましたが、まだ復興途上。気仙沼市は遅れています」とあった。この3月に発行されたある広報誌に「三年前の春」のことが書かれてい
る。
  「間に合わせの制服、日にちもずれた音楽室での入学式。あの東日本大震災から生活環境は激変。「夢」「希望」プラス「不安」で始まった中
学校生活でした。震災はつらく哀しい経験でした。しかしその苦しい状況を、学友、先生方、地域の方、そして家族が団結し、絆を深め、乗り越え
たのです。三年生の皆さん ご卒業本当におめでとうございます。」 (父)
2015年
4月25~28日 秦野市22の小・中学校PTA広報委員会が広報紙と応援メッセージを気仙沼市と南三陸町の小・中PTA広報委員会に届ける。そ
のメッセージは『三陸新報』の4月25~28日の紙面に大きく掲載。
4月29日 三陸新報社の会議室で「こうすればできるPTA広報紙」(主催)を開く。三陸新報社の大きな力添えがあったから開催できた。講座には
「新報」から朝倉社長、渡邉専務、編集局長など10名ほど新聞人が参加。小学校の校長先生、PTA役員、自治会報の編集者、復旧事業に関わ
る責任者などさまざまな分野の皆さんに聞いてもらった。北上市から渡辺知子さんが駆けつけてくれ、講座の助手を務めてくれた。
2016年
7月15日~17日 神奈川県立秦野高等学校の創立90周年記念事業「東日本大震災 被災地交流ツアー」が行われることになった。卒業生の一
人としてこの記念事業を成功させたいと思い、三陸新報社に応援をお願いした。三陸新報は7月15日のコラム『萬有流転』で共鳴してくれ、当日
取材に入ってくれた。気仙沼の「笹かまぼこ」の差し入れもあった。
『萬有流転』 今月11日、東日本大震災から5年4カ月が過ぎた。「物はいくらあっても不足する。しかし、分かち合えばいきわたり、譲り合えば余
りがある」は、6月9日、防災避難訓練の講評として、名取高校の土生善弘教頭先生が生徒に話した言葉である▼神奈川県立秦野高校は今年
創立90年を迎えた。その記念事業として「被災地交流ツアー」を企画した。内容を見るとかなりの強行軍であり、弁当食もあるが、コンビニで夜と
朝の分を購入して食べ、名取高校の体育館での「宿泊体験」は、寝具の用意をせずに泊まるという▼生徒や家族、卒業生など40人ほどが、陸前
高田市から気仙沼市(気仙沼高校・旧気仙沼向洋高校など)、南三陸町を経て名取高校に向かう。きょう15日夜に秦野高校を出発し、1泊2日の
行程である。震災後、気仙沼高校の教諭をはじめ、多くの人の講演会を開き事実を受け止め、いかにして未来へ向かうかを考える▼秦野高校の
姿勢に共感し、どのように震災を伝えていくか、一つの方法を示唆された気がする。参加者は震災を自分のこととしてとらえ、自己の記録としてま
とめる。短時間の被災地滞在だが、多くのことを吸収してほしいと思う。
7月23日 私は秦野高校から礼状を頂いた。
  先日は、秦野高校創立90周年記念事業・東日本大震災被災地ツアーの実施に際しましては、三陸新報社へのきめ細かいご配慮を賜りまして
ありがとうございました。お陰様で大変有意義な、次に繋がるツアーとなりました。参加された皆様も、大変大きなインパクトがあったようで、実感
された様々な事柄を感想として書かれています。秦野高校としましても、今回の成果が次につながるよう、広報も含めて周知できればと考えてい
ます。武先生には資料のご提供等、現地との繋がりを作っていただき、感謝申し上げます。今回のツアーの成功も先生のご配慮の賜物でござい
ます。
12月 7月に行われた秦野高校の事業に市P連情報委員の小林・鮎沢さんが参加した。情報委員会は冬休みに二人の見聞(左記のような内容)を
秦野の子供たちに伝えた。
 年月が経ち、『支援はもうよいのでは』という声をちらほら聞き、私自身そう思っておりましたが、改めて支援の必要性を感じました。いろいろな事
業も、もっと地元や被災された方の声を聞いて行う必要性かあるのでは、と思いました。気仙沼向洋高校での校舎の中の車、衝撃的でした。皆さ
ん被災され、つらい思いがある中で、私たちに伝えようとする気持ち、手厚く歓迎してくださる心、に感謝の気持ちでいっぱいです。武道館に一泊
したとき、他の人の動き、声、床に直接寝る、そんなことの大変さが身にしみました。このツアーで学んだことを家族や友達に伝えたいと思います。
閖上地区の話、忘れられません。
2017年
3月1日 『はだのP連だより』107号の二面で東日本大震災の被災地を訪れた情報委員2名がその見聞を報告。一面は「防災意識を高めよう」の
特集記事。
2019年
7・8月 前原希柚さん(小5)の夏休みの課題のテーマは「東日本大震災の被災地訪問」。そのことについて相談されたので三陸新報社を紹介した。
前原母子は気仙沼・南三陸町を新報さんの力を得て、精力的に取材し、壁新聞「3・11命てんでんこ」を制作。模造紙12枚を張り合わせた巨大な紙
面に、足で書いた記事や写真が満載。秦野市夏休み学習展、東公民館の壁新聞展などで圧倒的な評価を得た。
2020年
3月 2012年から「PTA広報講座」で「防災」の特集を年に一度は組んでほしいと訴えている。それを受け止めてくれた広報紙の一つが2020年3
月4日発行の秦野西中PTA広報『陽光』248号の「防災特集・忘れてはいけないあの時の記憶・東日本大震災から9年」である。
3月14日 三陸新報のコラムが『陽光』の防災特集記事と前原希柚さんの壁新聞『3・11命てんでんこ』のことを書いた。
『萬有流転』 手元に神奈川県秦野市立西中学校のPTA新聞「陽光」がある▼第69回全国小・中学校・PTA新聞コンクールで、第2位の「優秀賞」
を受賞した優れもの。6ページと7ページに2011年3月11日東日本大震災から9年」と題して、関係する内容のアンケートが並ぷ▼毎年、炊き出し
や集団下校など防災に取り組む。避難訓棟前の質問には「あなたは大震災を覚えていますか」「家庭での防災、減災に関する取り組み」など。訓
練後には「真剣に取り組めたか」「訓練実施によりこれから気をつけること」などを聞いている▼「万が一、下校途中に大震災が起きた場合、そのま
ま帰宅すべきか それとも学校に戻るべきか」の質問では、市の防災課からもアドバイスをもらっていた▼この時のPTA広報委員長を務めた前原
景子さんは、昨年の夏休みを利用して娘さんとともに、気仙沼市と南三陸町の被災地を歩いた。娘さんが夏休みの課題として被災地を取材して新
聞づくりをするためだった▼母娘で震災を忘れず、また教訓として何度もさまざまな形で取り上げる。被災地の一人として改めて「あの日」を振り返
らなければと、心新たにしてくれた広報紙となった。
6月8日 入院した国立神奈川病院で気仙沼出身の看護師・小野寺さんに出会う。
7月23日 小野寺さんとの出会いを「秦野で出会えた奇遇」の見出しで三陸新報が掲載。




  銘柄は『疫病退散』  ラベルに「アマヒコ」「アマビエ」

  「お酒はいけないのでしょうが」と、お見舞いに日本酒を持ってきてくれたYさん。無病息災、縁結び、子孫守護などのご利益で知られ
ている宮城県の二柱神社は、この四月から新型ウイルスの終息を願う御朱印を貰うためにぎわっているとか。その御朱印をラベルにし
た『疫病退散』という日本酒をK酒造が販売している。お盆に帰省した折、このお酒を私のために求めてくれた。「コロナ」と「腰痛」の終
息を願っての御神酒。  感激! 多謝!!
  二柱神社(「二柱」とはノミコト・イザナミノミコト)の御朱印には「アマヒコ」「アマビエ(ヱ)」という半人半魚の妖怪が描かれている。「アマ
ヒコ」「アマビ エ」は、江戸時代に疫病退散の妖怪として信じられていた。それで二柱神社は御朱印に取り入れたのだ。
 南三陸地方で読まれている「三陸新報」で、この地方でも「コロナ退散」を願って「アマヒコ」「アマビエ」が御朱印、凧絵、キイホールダー
Tシャツの柄などに取り入れられているとの記事を読んだ。 
 
                             


 短歌日記
 入院中の「短歌日記」。いずれの歌も心に沁みますが、僭越ながらあえて私なりの五首を選んでみました。
  ・深更のトイレ介助を詫びし吾に「大丈夫!」と涼やかな声
  ・陰陽の激しき患者に応接の《チーム看護師》清し尊し
  ・「帰りたい」とすすり泣く母を諭す漢の頬に光る一筋
  ・梅雨晴れの星空が見える夜はベッドを少し低くしてみる
  ・病む人にこそ「逢うことが大切」と思ふ 明日は七夕
 入院中に出会われた「気仙沼出身の看護師小野寺さん」「S中一期生の看護師穂積さん」「山本宗宏先生と山本三希雄先生」「25年ぶり
の再会 看護師高橋さん」。不思議な縁の連鎖にただただ驚きました。「動き」「語り」「聴く」積み重ねの結果(echo)ですね。心温まる話
題の数々、有り難うございました。    Yoshinari 

 「入院中に出会った人」は心に響きました
 感動的な371号ですね。ことばの宝箱、心の宝箱です。短歌日記の28首から、入院生活を通して、こんなにもたくさんのことが見えて来る
のかと敬服します。
 「大丈夫!」「ヨイショ」「・・・寂しいじゃない」「どうですか」「私も頑張るから」など、看護師さんのやさしさが温かくほのぼのと伝わって来ま
す。病院内の人々の様子も鮮やかに見えてきて、どの短歌からも、先生の人生の積み上げとお人柄が伺え感動させられました。短歌の世
界の奥深さに出会えたことに感謝です。「入院中に出会った人 その1~4」映画にでも出来そうですね。心に響きました。   Sumi

 初心に立ち返ることが出来ました
 読書熱が再燃、市内の公民館の図書室を巡っています。鶴巻公民館の図書室の特設コーナーに、先生から頂いた『道祖神の里めぐり』
が置かれているのを見て嬉しくなりました。堀川公民館を訪ねた折り、公民館の近くで双体道祖神と男根型道祖神に逢えました。市内の
たくさんの石仏様が私を待っていらっしゃると思いました。秋に予定されているウオークを母と楽しみに待っています。
  「エコー」を拝読し、入院中の患者さんの気持ちを知りました。夜間に聞こえる声や物音は患者さんに不安や恐怖心を生じさせてしまう。
私たち看護師は患者さんが安心して入院生活ができるようサポートしなければ、と初心に立ち返ることが出来ました。   Enomoto





        NO384  2020年8月5日 発行

2020年6月8日~7月6日(国立神奈川病院)   
入院中に出会った人 その1   気仙沼出身の看護師 小野寺さん 
 四月から五月、私の住む秦野は絶好の{《野良仕事》日和。それに乗っかって頑張り過ぎ「腰椎圧迫骨折」に見舞われた。一か月余りの
入院と言っても、手術はできず、ただ安静だけの闘病。その病院で気仙沼育ちの看護師小野寺さんに出逢った。「動かなければ出会えな
い」ではなく「動き過ぎて病気になったので出逢えた」のだ。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」 三陸新報(しんぽう)を読む新任ナース  勝美
 6月10日 妻が届ける「三陸新報」を見つけた小野寺さんは「新報だ。懐かしい」と話しかけてきて「気仙沼出身」と自己紹介。私の知る
範囲(気仙沼には大震災以降家族で二度訪れている)での気仙沼のこと(フカひれ寿司、第十八共徳丸、大島大橋、「 おかえりモネ」、小
野寺五典さんのことなど)で話は弾んだ。五月の大型連休のとき、運よく三連休が取れたので気仙沼に帰るつもりだったが、「お父さんが
他府県への移動は自粛。『帰って来るな』と言ってきた。寂しかった」とも。
 「ジイちゃんのホヤ食べたいなー」と望郷の気仙沼大島育ち  勝美
 6月22日 救急棟からリハビリ棟に移る。小野寺さんはその日は休日だったが、勤務を振り替え私の移室の担当になってくれた。ベッド
に付き添いながら「武さんがいなくなると寂しいな」と言う。そして、新しい部屋に落ち着いた私に「私たちは再会をしないように頑張ってい
るのだから、武さんも病院に来ないように頑張ってね」と別れの言葉。医療従事者は、患者に再会しないために力を盡しているのだと深く
うなづいた。
 コロナ禍の病院はその対応が厳格で看護師でも他病棟に許可なしには入れない。小野寺さんは救急棟、私はリハビリ棟だから“一期一
会”。
 看護師としての体幹がまだ十分でない彼女にとって病棟での仕事は大変なようで、何かするたびに小声で「ヨイショ」と自らに声をかけて
いた。
 入浴を介助せる若き掌に看護の労苦の硬さがありぬ   勝美
 異郷の地・神奈川の秦野で、看護師という職業に使命感と誇りを持ち頑張っている気仙沼育ちの若者がいることを地元の人に知っても
らえたらと「三陸新報」に知らせた。

入院中に出会った人 その2   S中一期生の看護師・穂積さん
 「武先生ですよね。私 S中一期生の〇〇です。今夜先生の担当です。お願いします」。消灯の九時少し前部屋に来た看護師さんの挨拶
だった。「S中一期生」が強い印象だったので姓の〇〇は聞き落としてしまった。
 N中から分離したS中の一期生(三年生)は296名・七学級で、私はその三学年の学年主任だった。分離前のN中では一学年の主任だった
ので、この296名とは全く初めての出会いである。妻に卒業アルバムを持ってきてもらい、彼女が誰であるかを確かめたかったが、マスクを
かけた今の顔と35年前の童顔を重ね合わすことは所詮無理なこと。二度目の担当の日、彼女は所属するクラスは教えてくれたが旧姓は名
乗らない。
 そして退院の前夜、「S中一期生のT。旧姓穂積、名前は薫です。お邪魔します」と明るい声で彼女が入ってきた。「今夜は先生の担当では
ないのですが、明日退院と聞いて、山本先生にお願いして、先生と少し話してもよいと許可をもらいましたので」という。
アルバムを見せたら「先生、アルバムを持ってきたんですか」と驚きながら「これが私」と笑う。そして、別のページの写真を指差しながら「私 
新聞部だったの」という。その写真には手作りの新聞を手にした穂積さんを真ん中に五人の生徒と私が写っている。彼女は新聞部の部長だ
ったのだ。
 退院の前夜来室した穂積さんは、「明日は〈明け〉なので先生を見送れませんが、朝まではいます」と言い「先生、お身体お大事に。いつま
でもお元気で居てください。私も体が続く限りここで頑張ります。先生にお会いでき嬉しかったです。」と退院祝いのメッセージカードを私に手
渡してくれた。

入院中に出会った人 その3   山本宗宏先生と山本三希雄先生 
 六月八日、腰椎圧迫骨折で国立神奈川病院に緊急入院。担当医は整形外科医の山本宗宏先生。
 今から25年前の1995年10月にも右変形性股関節症でここに入院している。その折の担当医は整形外科医長の山本三希雄先生。二人の
山本姓の先生との出会いは〈偶然〉と思ったが、宗宏先生との話の中で山本三希雄先生と宗宏先生は親子であることを知った。 
 入院中、三希雄先生とは親しくさせていただき、患者という身分でありながら、先生のお招きで看護研修会で「私が出会った人たち」というタ
イトルの講演をさせてもらった。また当時、神奈川病院では院内広報紙『桜桃』の創刊を進められていた。学校で「新聞づくり」に携わっている
ということでこの創刊にも関わり、その第4号に寄稿もしている。加えて書けば、三希雄先生から「兄・宏一はE中学の校長を務めている」と聞
かされた時、私は山本家と私とのかかわりの深さを驚くばかりだった。
 その年(1995年)の修学旅行で、私が引率したT中学と宏一先生のE中の生徒との間にトラブルが生じ、その夜、私はE中学の宿舎に学校
長を訪ねた。その学校長が山本宏一先生だったのだ。

入院中に出会った人 その4   25年ぶりの再会 看護師・高橋さん
 退院の前夜、二人の看護師さんが来室。一人は穂積さん、もう一人は高橋めぐみさん。二人ともS中一期生である。
「出会った人その3」に書いたが、25年前に股関節の痛みで神奈川病院に入院したとき、ここで看護師として働いていためぐみさんに出会った
。私が退院するときの彼女の「先生、患者としてまた病院に来てはダメですよ。来ても面倒なんて見てあげません。時どき私に逢いに来るのは
いいですけど」との言葉は、今も忘れられない。
 三人でS中での一年間を懐かしんだ。私には「高橋さんと修学旅行」のことが強い思い出として刻みこまれている。奈良の宿に着いた夜、高
橋さんは虫垂炎を発症。即手術となったが、手術への家族の立ち合いは間に合わず、私が付き添い、手術に立ち合った。当然、彼女の修学
旅行の行程は入院生活に変更。私も二日間、彼女の病院に詰めた。彼女は十日ほど奈良で暮らしたのだが、この間病院のスタッフや同室の
患者さんたちの励ましや温かい言葉をたくさんもらい、元気で帰郷できた。このことが元になり高橋さんは看護師への道を歩み始めた。
 帰り際、高橋さんは笑いながら私に言った。「病院に来てはダメです!」。25年前と同じ言葉だった。


        NO383  2020年5月17日 発行
                
  日本の緑色は81種 
   それぞれの彩際立たせ木の芽雨
   楠大樹空展かんと芽吹きたり
 日本の伝統色としての「緑」は「若葉・若緑・若芽・黄浅黄」色など81種あるという。周囲の樹々の若葉を見比べ楽しんでいる。 
外出自粛令が出てからは庭や畑の草むしりに注力している。だが一雨来ればたちまち雑草は見事に芽吹く。頑張っても所詮
《負け》だが、陽光を浴びながら草と格闘するのも悪くはない。妻も同じような暮らし。
 「声」の欄で「コロナと私 どちらが先に終息するか」という文を読んだ。「そうだな」としみじみ納得。与えられた時間は精一杯
使わなければいけない。     
 
 。皆さんのご指導・ご支援で 「エコー」は五月で創刊36周年を迎えることができました。心からお礼を申し上げます。

                        

                    新コロナウイルス禍の春の庭

                     

            

                      

       
                           おらがの桜 (画面中央) 東京C.Cから


 3月26日は秦野で「林家たい平落語会」が開かれる日だった。 

 林家たい平さんと山田和樹さん と私
 3月26日の夜BS日テレで「笑点特大号」を観ていたら嬉しいシーンに出逢えた。林家たい平さんがお線香のコマーシャルソング
をレコーデイングしている光景で、音楽は日本フィル。指揮は山田和樹さん。山田さんとたい平さんというコラボの「せいうーん それは」は見事な出来だった。
山田和樹さんと林家たい平さんのこのコラボにヤケに反応した私、それには訳がある。


 山田和樹さんと私
 私が講座などで「秦野を語る」とき、結びはいつも山田さんの次のような言葉を紹介することにしている。
  ー 音楽とはどのように出会ったのですか。
 幼稚園で木下式音感教育法というのをやっていて、そこで歌うことの楽しさを知りました。少年時代は緑豊かな神奈川の秦野で過ごしましたが、この地に育
っていなければ指挿者になっていなかった気がします。
 ー どういうところだったんですか。
 丹沢山のふもとで、田舎です。小学校のとき、授業でジャガイモとかを育てるんですが、その肥料が馬糞とか牛糞なんですよ。手づかみでこう、まぜたりする。
都会の子供には絶対させないですよね。
 ー 汚い、という先入観ができる前に触らせる。
 近所の神社に大きなイチョウの木があって、秋が来るたびあの特有のにおいに何かの終わりを感じ、切ない気持ちになりました。それでも冬が来ると、丹沢
山に堂々たる雪がかぶって。終わるもの、始まるもの、すべての世界が美しかった。あの自然の手触りが、今の自分の音楽の奥底に間違いなくあるはずです。
                                                      (朝日新聞 be版「フロントランナー」のインタビューより 2015年10月3日) 
 
 山田和樹さん(40歳)指揮者
  1879年神奈川県秦野市生まれ。東京芸術大学指揮科卒。2009年仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮
  者、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者。16年9月モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽・芸術監督に就任。ベルリン在住。2児の父。

 林家たい平さんと私 林家たい平さんに書いたお礼の手紙
 7月9日、秦野での「みなせ寄席」で、たい平さんの『七段目』を聴きました。『笑点』でのイメージと全く違う話芸に聴き入りました。そして、降壇される前に、秦野
たばこ祭りを祝って《花火》を打ち揚げてくださいました。客席は驚き、どよめきました。秦野という郷土を作るのに一役買った葉タバコを秦野市民は忘れてはいけ
ないのです。私は秦野が好きです。「たばこ祭り」が、「花火大会」が好きです。たい平さんは、「秦野たばこ祭りの成功を祈って」と『花火』を揚げてくださいました。
嬉しかったです、感激しました。少しジーンときました。実は《花火》をお願いしたのは私です。たい平さんに私のお願いを中継ぎしてくれた職員・笠井麗子さん・が
お願いしたときの状況を話してくれました。「話の流れがあるから」とおっしゃったそうですね。《一発芸》など入れたら話は壊れます。それなのに勝手な願いを聞き
入れてくださいました。ありがとうございました。たい平さんは、羽織姿(オレンジ色ではない)の粋な噺家さんでした。あなたに本物の江戸噺家を見ました。そして
芸人の心意気を感じました。すばらしいエンタテイナーであることを再確認しました。
 終演後お礼を申し上げようとしましたら既に埼玉に向われたとのこと。それでこのようなぶしつけなお手紙を差し上げることをしてしまいました。どうしてもお礼を
申し上げたかったのです。お許しください。たい平さんの人柄に触れ、とても豊かな心で一日をおわることができました。ありがとうございました。秦野をご再訪くだ
さることをお待ちいたしております。
 末尾になりましたが、健康に十分ご留意なされ、ますますのご活躍をお祈りいたしております。 
  2011年7月
 林家たい平様
                                           武 勝美

 ※三月二十六日の「林家たい平落語会」は新型ウイルス禍のため中止。
 ※2011年3月11日「東日本大震災発生」秦野たばこ祭りの花火の打ち上げは中止。
 
                                          


        NO382  2020年3月25日 発行

 3・11を忘れない
 2011年3月11日の東日本大震災を詠み続けている美原凍子さん(福島)の短歌を朝日歌壇か
ら書き抜きました。個性的な五感とリズム感が満ちている美原さんの歌は心をゆさぶります。
 (2011年4月から2019年6月まで発表順)

生きてゆかねばならぬから原発の爆発の日も米を研ぎおり           美原 凍子
原発の空のしかかるふるさとのここにいるしかなくて水飲む
搾乳するナカレ耕すナカレ種蒔くナカレふくしまの春かなし
それでも春は巡り来てけぶるがに咲くふくしまのうめももさくら
さよならへさよならとふる細雪去るも残るもつらきふるさと
そこかしこまっさらな土敷かれいて他人顔なる除染後の街
満月は海より上がり原子炉と人無き街と村とを照らす
東京ゆ二百五十キロにて汚染水タンクは増えてゆくばかりです
全村避難の村の桜はさみしからしいんと咲いてしいんと散って
ほろほろと木通の花のこぼれいて空き家ずっと空き家のまんま
汚染水八十九万トンのタンク群上空には八年目の秋雲
廃炉までなお遠からむおぼろなる令和の月が建屋を照らす
  
 返歌
  秦野西中学校PTA広報『陽光』に寄せて
 「祝卒業」号に「3・11を忘れない」も組み入れしPTA新聞               勝美





        NO381  2020年1月1日 発行

                   

                         八回目の干支です
  信楽焼とぬいぐるみ

    初山河老いにも未知(道)の月日あり  勝美

  
     皆様のご健勝をお祈り申し上げます
  
 ◇「道祖神の里めぐり」は松田町、小田原市、沼津市、富士宮市、浜松市、湖西市、新城市へ。
 旅先で起きたことはすべてに感謝◇8月に上梓の『PTA広報と歩んだ50年』で新聞教育のまと
 め◇11月、妻との「21&35展」で『ECHO』創刊号から363号まで展示。これを機に再読。 “時は
 流れない 堆積する”◇「何が幸せって? 人が周りにいてくれることかな」。これは元プロ野球
 の選手の言葉。退職して20数年経った今、この言葉に深くうなずく。        勝美

  20回で終わったはずの「さをり織り展」でしたが21回目を昨年11月に丹沢美術館で開いてしま
 いました。思いがけない教え子・お母さんたちにも出会え、涙・涙。教師の道を歩んで良かったと
 改めて思ったのです。                                   厚子

 令和元年 最後の三講座

12月13日 道祖神 そして新聞
 鶴巻公民館主催の講座「道祖神ワンダーワールド」に出かける。定員20名に13名の応募。「秦野の道祖神」がこの日のテーマ。紙芝居「目一つ小僧」を
「チーム竹の子」の伊東さんに公演してもらった。館長Kさんと講座の担当者Oさんは東中での教え子。聴講者の一人Yさんも同じく東中での教え子。「み
ちしるべの会」から四名の応援も。
 講座終了後「小さな集まりを持っていますが、きょうのお話をみんなに聞かせたいので来て頂けますか」と申し出があった。講座で紹介した丸髷の双体
道祖神を見たいので、その場所を教えて欲しいとの相談も。この講座が今年最後の講座。
 四時半ごろ、東中広報委員会の三名が新聞コンクールの応募紙を持って来てくれた。東中の新聞作りの伝統はしっかりと受け継がれているのが嬉しか
った。
 この日、西中学校のPTA広報「陽光」も届いた。A4判12ページという大作、内容はまさに力作・秀作。六時過ぎ、『エコー』の読者Uさんの来訪。「鶴の舞
橋に行ってきました」とニコニコ。そして「その証拠に?」と真っ赤なリンゴが差し出されたのだった。嬉しい一日に献杯、そして乾杯!
  ビールを口にしながら講座の中身などを振り返ってみる。話の途中で言葉が続かず《立ち往生》のような状況にニ、三度陥った。老化現象が著しいこと
を再確認させられた。

12月7日  「道祖神ワンダーワールド」の講座の最終回 
 
 秦野市市民活動サポートセンターの事業「はだの雑学大学」の講座「Katsumi in 道祖神ワンダーワールド」のpartⅤを秦野保健福祉センダーで行う。
この講座は4年間・五回にわたった。五回の内容は、Ⅰ秦野の道祖神 Ⅱ道祖神の里めぐり「神奈川の道祖神」 Ⅲ道祖神の里めぐり「群馬・長野編」 
Ⅳ道祖神の里めぐり「静岡・山梨・新潟・鳥取編」 Ⅴ千姿万態「日本の道祖神」。
 きょうが最終回なので①秦野の「マラセの神」の「マラセ」の語源 ②「道祖神盗み」 ③「道祖神とワラ馬」など道祖神信仰について少し深入りした。
この日の受講者は29名で、『エコー』の読者、「みちしるべの会」会員、かつての同僚、教え子、それに妹夫婦など多彩な顔ぶれ。センターのまとめでは五
回で250名ほどの参加とか。その中には皆出席の方も数名。受講してくださった皆さん「ありがとうございました」。講座を持たせてもらったことで、私自身も
それぞれの道祖神を再訪できたように思う。 サポートセンターのスタッフが、パワーポイントの全ページをプリントした資料を作成してくださった。ありがと
うございました。
 講座の最後に大きな拍手をいただき感激。「今日が一番おもしろかった」との常連のMさんの言葉が嬉しかった。

12月5日 「まほら 盆地の暮らし」
 「JAはだの」の組合員基礎講座の中の「秦野の歴史や民俗を学ぶ」を担当している。この日の講座のタイトルは「まほら 盆地の暮らし」でパワーポイント
を使う。受講者は30名。ほかにO大学のR先生など四名の特別参加もあり、R先生から講座の全てを録画したいとの申し出も。
 講座の内容は「秦野の地名」「秦野と葉煙草」「お盆の砂盛り・ツジ」「秦野の道祖神祭り・トッケダンゴ」「大山信仰」。いずれも実例や実話などを多く提供。
とくに「秦野と葉煙草」については、わが家も葉煙草耕作農家の端くれだったので「タバコノシ」や「納付」の私の体験や見聞などを聞いてもらった(別項「郷愁
の『秦野煙草音頭』」参照)「トッケダンゴ」は紙芝居仕立て。持ち時間が90分なので〈駆け足〉になってしまったが、私としては一応納得できる講座。






        NO380  2019年11月30日 発行

    「21&35展」に約300名のご来場
 「21&35展」終わる。期間中におおよそ300名のご来場は予想をはるかに超える数で、感謝、感激の6日間だった。「ECHO」の読者、
かつての同僚、教え子の親子、PTAでお付き合いいただいた方などと大勢と話の花が咲いた。賛助出展で着物リメークを四点出展された
海老名市の梅子さん(98歳)は、お嫁さんと小田急で来場され、私たちに大きな勇気を与えてくださった。またお手伝いしてくださった五名
の方に心からお礼を申し上げます。
  
  再会を願ふ心は同じなり握り合ふ手に力がこもる   勝美

                                                                                   

            

      

         


   久しぶりの秦野 (^^♪  
 
「21&35展」に300名強のご来場、本当におめでとうございます。
 14日は突然お邪魔してお騒がせしました。12時過ぎに家を出たので秦野駅に着いたのは15時近く。明るく爽やかで相変わらず空気
の清らかさと水の美味しさが感じられます。 武先生の「ECHO創刊35周年展」の1~363号までの展示に感激いたしました。厚子さ
まの「第21回さをり織り展」の作品は綺麗で心和みました。
 「さをり織展」には、厚子さまの70歳になる教え子さん三人も賛助出展。会場が明るい声で包まれていました。本当にすばらしい教
え子さんたちです。
 私は2001年3月から『ECHO』をいただいています。それ以前の号を今回初めて拝見。1号から見せていただき、内容の広さ・深さ、
工夫されたレイアウトなど《流石》と感嘆いたしました。
 先生ご夫妻の生き方に感動を覚えた「秦野訪問」でした。ありがとうございました。   澄子

  

 武勝美の講座
    12月 5日    JAはだの組合員講座 「まほら秦野 盆地の暮らし」 (組合員対象)
    12月 7日   はだの雑学大学  第13回講座「道祖神ワンダーワールド 道祖神の落穂拾い」  主催 秦野市市民活動サポートセンター (公募制)
    12月13日   文化講座「道祖神ワンダーワールド 秦野の道祖神」  主催 秦野市立鶴巻公民館 (公募制)
                                          
 




        NO379  2019年10月20日 発行

                         
                 

                               ▲ 神奈川新聞 2019年9月11日

        







        NO378  2019年9月1日 発行

                                      
                                       朝顔の青と競ふや今朝の空     勝美 




                   
    

                      2019年8月上梓                                        「タウンニュース」紙  2019年8月23日号  


         





NO377  2019年7月1日 発行

         
 15年でピリオド   足柄下郡のPTA広報づくり講座

 6月4日 湯河原町・箱根町のPTAの広報紙づくり講座が湯河原町の文化福祉会館で開かれた。8校から30名の参加。
 湯河原での講座はこれが最後。15年間・29回の講座を持たせてもらった。講座が終わったところで湯河原町PTA連絡協議会の会長石井優子さん
から「お礼の言葉」を頂いた。
   武先生 本日は貴重な時間をありがとうございました。広報活動は委員の時間的負担や個人情報に関わることなどのマイナス面がとりざたされ
   ることもありますが、他の委員会活動では得られない喜びや達成感、そしてきょうのような学びの機会があります。
   先生がおっしゃられたように、教育環境は多様化・複雑化してきています。私たち広報委員は子育てサポーターであるという誇りを持って、これ
   からも広報の発行に携わっていきます。武先生のお話しを聴くのは今回が最後ということですが、きょうのお話を聴き、改めてとても残念と思い
   ま   した。長い間私たちをご指導頂きありがとうございました。
 
 そして胡蝶蘭も一鉢。湯河原・箱根・真鶴町教委とP連のお力で15年も講座を持たせてもらった。きょうも広報づくりだけでなくPTA論も交わせた明
るい講座になった。  

 この日の受講者からのメール 広報紙作りは奥が深い 
 小学校PTAの広報委員になって今年で5年目です。4年目には広報委員長も務めました。1、2年目は、ベテラン委員の近くで見習い活動。3年目
からは単独でも取材に行き、記事も書くようになりました。
 広報委員長として紙面全体の作成に携わった時に、『広報紙は奥が深い』と思いました。会員のためにより良いものを作ろうと、細部にまで注意を
向けるようにしていましたが、一つ見落としていた事がありました。それは、PTA広報紙を楽しみにしているのは会員だけではなく、児童たちもそうだ
という事です。特に高学年ともなると、内容を直感で判断するので、紙面の完成度に合った反応を示してくれます。
 広報紙は、作り手の心がそのまま受け取る側に伝わる芸術作品のようなものなので、『会員にも、最終的には児童にも喜んでもらえないと良い広報
紙とは言えないのだな』と思いました。5年目の今年は「より良いPTA活動」を目指し、男性保護者の声も拾い、伝える広報紙を作ります。  keiko


 令和元年度 PTA広報紙づくり講座について(お礼)
 エコー教育広報相談室代表  武 勝美 様
 清々しい初夏を迎え、先生におかれましては、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。この度は、お忙しい中を「PTA広報紙づくり講座」におきまし
てご指導いただき、誠にありがとうございました。
 さて、講座では先生の具体的で的確なご指導をいただき、参加された皆様も満足感を得ることができたように思います。先生の講話に引き込まれて、
初参加の広報委員さんも広報活動への意識を深めることができたように思います。経験者の方も、さらに活動への意欲を高められたことが会場の様
子やアンケートなどから伺うことができます。ご参考になればと思い、アンケートを添付いたします。
 また担当者として、広報紙づくりの奥深さを改めて感じたところです。今年も大変よい研修会が実施できましたことに感謝いたしております。映像と紙
面でのお話で、受講したPTAの方々も「広報紙は、技術ではなく人への愛だ!」「子どものためにがんばりたい。」などの声があり、広報紙づくりへの意
欲喚起や意識の向上を図ることができました。
 末尾となりましたが、平成16年度から15年間の長きにわたって講師をしていただき感謝に堪えません。湯河原町・真鶴町・箱根町の広報紙活動の質
の向上に大きく繋がりました。誠にありがとうございました。 先生のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
   令和元年6月17日
 湯河原町教育委員会教育長 高橋  正
          

 湯河原の最後の講座の後 記念に? 海釣りを。
                                    鯖をダブルで ・熱海市



NO376  2019年5月1日 発行


  ウエブ版に移行の『はだの市P連だより』に思う

 5月1日から元号が「平成」から「令和」に代わった。この元号の代替わりに合わせたかのように『はだの市P連だより』
が印字版からウエブ版に移行することになった。(印字版は終刊)

 創刊から45年間関わった私
 昭和・平成の『はだの市P連だより』と私との関わりはかなり強いものがある。そのいくつかに触れてみたい。
・私は昭和44(1969)年に、勤務校である秦野市立東中学校で『PTA会報』の創刊に立ち会った。秦野でのPTA広報活
動の始まりで、ちょうど50年前になる。
・昭和48(1973)年に秦野市内の小学校7・中学校6の13単P(会員数9312)で秦野市PTA連絡協議会が設立され、そ
の年の10月に『はだの市P連だより』が創刊された。当時は西中学校に在籍していたが、『P連だより』の編集顧問を委
嘱された。
編集委員会は編集委員長が市P連副会長、委員は婦人特別委員13名と市教委の社会教育主事、そして顧問の私。
創刊号は手書きでB4判2ページ。社教主事榎本圭治さんが筆耕。  
・昭和48年から市P連はP広報委員を対象にした「広報技術講習会」が開いているが、第一回から平成30年度までの45
年間、その講師を務めてきた。この講座で一万を超える人が広報づくりを学んでいる。
・昭和50(1975)年9月発行の『はだの市P連だより』第5号は市内の書店・文具店六社の協賛(広告)を得て活版印刷と
なった。
・平成2(1990)年度から市P連よる「PTA広報紙コンクール」が開催される。
・平成5(1993)年から「広報紙クリニック」が始まる。その講師を平成30年度まで務めた。
・「市内小・中学校PTA広報紙展示会」の開催を提案。平成11(2001)年度からスタート。
・創刊号から2019年2月発行の116号までの全号に何らかの形で関わってきた。
 下の二人の思いを私なりに受け止め、印字版「はだの市P連だより」を記録に残す作業を進めている。その中で新聞
・広報の持つ「言葉の力」の強さ、大きさを、大切さを訴えたい。

 さようなら 昭和・平成の『はだの市P連だより』
 『ECHO』358号が届きました。。題字の横のトップ見出し「再見『私の昭和・平成時代』」に目が行き、「新しい元号にちなん
だ話かな?」と思いながら読みだしたのです。ところが、『はだの市P連だより』がウエブ版に移行するとの話に、驚きとさみし
さ、そして携わった頃の思い出で私の心はいっぱいになってしまったのです。
 いろいろと討議された結果だと思いますが、携わってきた者の1人としてはさみしい限りです。何度も編集会議を重ね、取
材し記事を書き、印刷業者の方と打ち合わせし、校正に集中し、そして発行。その『P連だより』は子供たちによって会員の
手元に届く…。それら一つ一つのことに、それなりの意義があると思っています。
 PTA活動の現状を見れば、「スリム化」という縮小や「できるときに、できることを」と言って“ラク”になることは「仕方がない
のかな」とも思うのですが、それではPTA活動が目指す大切なものが一つ、また一つと失われてしまうような気がするのです。 
                                                             安田 奈々
 
情報を、確実に公平に提供できるのは「紙」ィア
 誰のための広報か。『なかはら』は「PTA会報」なので、PTA会員が対象で、子供達向けの特集も大人目線で作成していま
す。子供だけ納得するようでは目的を果たせません。親から子に伝え、話し合い、共有するツールにして欲しいと思っていま
す。学校の全世帯に、確実に、公平に提供するのが目的ならば、PCではなく「紙」を媒体とするのが適切です。
 私達のPTAは、クラスから出す役員のノルマ人数は他校よりも少なく、PTAの仕事を「ボランティア形式」で募集され活動す
る「ボランティア制度」だからで、広報誌もボランティアで「役員」や「委員会」ではありません。この制度は「やる気のある人が
やりたい仕事」をするのが目的で、理想的と思われますが、それを成り立たせるのは簡単ではありません。
 そもそも日本中のほとんどの保護者は、PTAの仕事には及び腰でしょ? どんなに形式が変わろうと、やりたくないものは
やりたくない。実際、中原小PTAも存続や活動の難しいボランティアばかりで、原因は人手不足です。この状況では、負担を
減らせばボランティア人数が増えると錯覚されがち。 まして、PTAのこの状況を会員の皆が何も気づかないまま消滅するよ
うでは、PTA会報『なかはら』の存在意義もなくなります。PTA会報は、PTAの経緯や現況をPTA会員に伝え、共有でき、共
に議論できてこそ本分と信じています。
 最後に、PTA会費で発行費用が賄われているので、準備や調査もないような、単なる報告だけの《やっつけ》記事だけの
紙面にしないのが会員への責務ですね。
                    中原小学校PTA広報ボランテア (2015年度全国コンクール「最優秀賞」受賞校)






NO375  2019年3月10日 発行

 続々「道祖神のさとめぐり」  落穂ひろい編

 「道祖神のさとめぐり」を続けます。題して「落穂拾い」編。

 2019年2月28日 愛知県新城市小畑

      
         塔高40cm 像の身の丈27㎝ 天保15年の銘

  「峠」の語源は「手向け」と言う説がある。集落からの杣道を上ると峠近くにこの双体酒器像が祀られている。
背後に根回り3メートルほどの椎の巨木。像の前に佇んだとき思い浮かんだのは有馬皇子の読んだ歌。
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る   


    

  海釣りも時々しています   2019/2/28  磐田市・福田漁港で 真イワシ ヒイラギ





NO375  2019年 1月 1日 発行

 
          
                     

   


拝啓 初冬の候、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。
 この度の「続Katsumi In道祖神ワンダーワールド 道祖神神の里めぐり」のご出版、誠におめでとうございます。当館へお送りいただき
ました御著、拝読させていただき、前書にも増して内容が拡充され、武様の道祖神への熱い思いがひしひしと感じられますとともに、広
範囲に及びます実地踏査による資料収集とその編集へのご努カにただただ敬服いたしております。
 このように立派な書物として、沢山の道祖神が広く愛好者の皆様に紹介され、さらには記録保存により貴重な資料として後世へと語り
継がれることはとても意義深いものと存じます。いただきました御本は、当館図書室蔵書として貸し出しのうえ地域の皆様に親しんでい
ただき、郷土の道祖神研究資料として広く活用されることを願っております。
 結びに、武様には今後も一層ご精励くださいまして、さらに至高の目標を目指されますとともに、ご健康にご留意のうえご活躍されます
ことをお祈りいたします。
 略儀ながら、書中をもってご出版のお祝いを申し上げます。
                                                                            敬具
  平成30年11月吉日
                                                  高崎市立倉渕公民館長  田中 治夫


武 勝美様
 秋も深まってまいりました。その後、お身体の具合はいかがでしょうか。
この度は、『続Katsumi In 道祖神ワンダーランド 道祖神の里めぐり』の上梓、お目出度うございます。前作を「武勝美 道祖神ワールド」
の集大成と思っておりましたのに、続編の何という充実、豊穣ぶり。スゴイ労作に、ただただ感嘆。
 そして今更ながら、道祖神の多様性、個性、創造性に眼を開かされ、日本の民俗文化の豊かさに思いを深めることができました。中
でも、「稲の香をまとひてちよんぼ道祖神」・・・栃尾の奇祭には驚嘆しました。こういう性に対する大らかさは、かつては各地にあったの
でしょうが、変わらず受け継がれているのは骨董ですね。
 私は厚木で生まれ育ちましたので、津久井、清川、相模原、伊勢原、平塚などなど、懐かしい地名と道祖神の姿を見ることが出求た
のも嬉しいことでした。 今回の著作は、特に「道祖神とは何か」についての考察にもカが注がれており教えられること大でした。連綿と
続いてきた我が国の道祖神研究の列に連なり、新たな一章をかえる育とも評価できるのではないでしょうか。また、いろいろな方のエッ
セイ、思い出、論考など、いずれも読み応え充分、古くさい言い方ですが「錦上花を添える」の感を深くしました。中でも井越基生きんの
淡彩画「秦野の道祖神たち」と、添えられた武きんの句・歌、見事ですね。
  連れ立ちて野仏めぐり養うらら  木の実降る谷戸に小さき道祖神
  道の神在りて家あり山眠る    冬日向頬を緩めて夫婦神
など、愛唱できる句がいっぱい、心が温まります。
 「まえがき」「おわりに」はじめ、全編随所に武さんらしい温かくユーモアに満ちた文章を味わえるのも本書の魅カ。巻末の「参考資料」
も貴重です。
 思いつくまま、雑薄な感想を述べさせていただきました。これからも健康に留意しながら、ますますお元気に、後に続く着たちを生身
の勇姿で励ましてくださいますよう、お祈り申し上げます。
  2018年10月21日 
                                                 新聞教育支援センター  吉成 勝好

                     
 

 



NO374  2018年11月10日 発行



神奈川新聞  2018年10月20日






 NO373
 
2018年10月10日 発行


「てげてげ」「よーり、より」
                                            岩渕真由美

 ほんの20数年前は「奄美大島」と言っても、知っている人はほとんどいなかった。奄美大島は、
鹿児島と沖縄の間にある人口約6万という小さな島である。島だから海へ行くのも徒歩圏内で
ある。
 奄美大島と言えば、「大島紬」くらいで観光産業も沖縄のように大々的にアピールしている印
象がないのは、出身者だからこそ、そう感じるのかもしれない。私が高校生だったころは、進学
するにも就職するにも島外へ出るしかなかった。私も例外ではなく、進学するために島外へ出る
ことになった。島で暮らしているときは、内地(本土)と違って、あれもない、これもない、不便だと
いう想いでしかなかったが、島を出てみると、何もなくはなかったことに気付かされた。特に、海
に関しては、砂が黒いこと、人が多いこと、シャワーを浴びるにもお金がかなりかかることには驚
いた。海は徒歩圏内であったため、水着を着て、Tシャツ・ズボンで海で遊び、そのまま家に帰っ
てシャワーを浴びていた。人口が少ないことと周りが海なので混むことももちろんない。ただし、
地元の人は、太陽が燦燦と照り輝いている日中は泳がない。なぜなら、日差しが強烈なためだ。
専門学校時代、友人を何度か奄美に連れていったが、みな私の忠告を聞かず、日中、しかも水
着で泳いでいたため日焼けに泣かされていた。もちろん、私はTシャツ・ズボンて泳いだ。
 カルチャーショックなことは、時間についてもある。奄美の私の地元では、寄り合いなどが18時
からとお知らせがあっても18時頃から集まり始め、1時間遅れの19時頃から始まるような風習が
あった。また、交通手段も電車はなく、バスか車だが、バスも時間通りには来ないし、1~2時間
に1本くらい。バス停に時間より早くバスが来ることもあったが、運転手さんはバス停だけでなく、
途中でも停まってくれたりしていた。島全体が知り合いのような田舎独特のゆったりとした雰囲気
があった。
 初めて我が子が小学校に入学した時は、新入生が100名ちょっとだった。自分が入学した小学
校は5人で全校生徒は60人くらいだった。全校生徒が兄弟みたいで学年をこえて遊んだ。遊びの
中で、いろいろ教えてもらっていた。先生や校長先生とも仲が良く、低学年の頃は校長室に入り
浸っていた。遊ぶことは大好きで勉強も嫌いではなかったが、苦手だったのは、郷土のことを調
べるという授業だった。校外学習に行けることは良かったが、資料を読んだり、まとめたりするこ
とが面倒くさかった。こんなのが役に立つのかという思いがあった。
 しかし、今思えば、自分の郷土を知るということは、自分のルーツを知ることでもあるのだ。奄
美は、琉球と薩摩に挟まれ重複税を搾り取られ、裕福な島ではなかった。『島唄』は、そんな島
民の悔しさ・悲しさ、辛い中でも前を向いて生きていこうという逞しさが込められている。悲しいよ
うな、切ないような懐かしいような曲調は、そんな想いが込められているからなのかもしれない。
 私のふるさと「奄美大島」を一言で表すと「のんびり」。台風が来て作物に被害があっても、不便
でも何もなくても、なるようにしかならないという感じが私は好きだ。奄美の方言で「てげてげ」「よ
ーり、より」という言葉がある。「てげてげ」は適当に「よーり、より」は、のんびりとかゆっくりという
意味で二つを合わせると「ゆっくり適当に」となる。無責任な言葉にも聞こえるが、私には「自然も
人生もなるようにしかならん。その時に考えてゆっくり行けばいい。急がなくてもいいよ」というエ
ールに聞こえる。
 ふるさとに戻るのか戻らないのかもわからない。今は目の前の仕事や生活を過ごすことで精
一杯だ。ただ、奄美に帰ればいつまでも変わらない海と山と風とそこに流れるゆっくりとした時間
がある。それを思うだけで私は逞しく、しなやかに生きられる。「ふるさとは遠くにありて想うもの」
と言った人もあるが、私は「ふるさとは、心にあるもの」と思う。
 近年、奄美も何かと話題になることが多く奄美に行ってみたいと聞かれることも多くなった。私
は、相変わらず、奄美は何もないところだから何もしないことを勧めている。



                 
                    10月22日刊行 
      
   

              

          本書を飾る井越さんの淡彩画「秦野の道祖神」

           「秦野夜話」のページもご覧ください。
             



 NO372
     2018年8月10日 発行

    
                           神奈川新聞 2018年7月31日 ↑


NO371
     2018年7月10日 発行

                     七夕人形  長野県松本市 

               
                 江戸時代に松本城下で生まれた七夕人形。厄払いとして七夕の日、軒
               に飾られた。 彩色の男女双体道祖神に影響を与えたといわれている。
                         50年くらい前に入手。


              

 この秋に上梓 『道祖神の里めぐり』 
              『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』

 「道祖神の里めぐり」を再開したのは2016年8月29日、長野県の諏訪盆地と松本盆地からでした。
そして気がつけば安房、上総、駿豆、上州路、信州の佐久平や伊那谷、越後長岡、上州の安中、下
野は鹿沼にと足を運び、めぐった里は44。その足跡をこのたび『道祖神の里めぐり』としてまとめるこ
とにいたしました。
 『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』を上梓したのは二年前の6月、皆さんから励ましやご指導の
言葉をたくさんいただきました。そして〈続編〉を期待されるありがたい声も届きました。
 本書『道祖神の里めぐり』では「目一つ小僧」が預けた帳面を手にする単体坐像(伊豆市)、丸彫りの
杖持ち双体像(酒々井町)、裃を着けた双体像(長岡市)、片手拝み双体像(佐久市)、烏天狗道祖神
(町田市)など珍しい形態の道祖神も紹介いたします。
 刊行は今秋(10月)の予定です。ご期待ください。



NO370
     2018年6月20日 発行

 
『エコー』 五月二十日で創刊34周年


 65歳の教え子たちの同窓会に招かれた。その会で次のような挨拶をした。
「きょう五月二十日は私の教育個人紙『エコー』の創刊34周年の日。くしくも、その日が皆さんの同窓会
と重なったので350号を発行しようとずっと頑張ったのですが、持ってこられませんでした。瀬戸内寂聴
さんが今朝の新聞に『書くことは命を削ること』と書いていました。
 ありふれた言葉を書き連ねているだけの『エコー』が恥ずかしいです。仏教の世界では、観音菩薩は
三十三の異なった姿に変身し、衆生を救ってくれると言われています。33年を経過した『エコー』(私の
言動)が観音様のご慈悲で救済されることをただただ願つている私です」。

 《四カク》に生きる
 十年くらい前に読んだ《リタイアした者の生活心得》という投稿の内容を今も記憶している。表題は「こ
れからは三カクで生きる」。その〈三カクな生き方〉とは次のようだった。
 「三カク」の一つ目の「カク」は「汗をかく」の〈カク〉。健康維持のためにスポーツや野菜作りで汗を流す。
次の「カク」は「恥をかく」の〈カク〉。「年寄りの冷や水」と笑われようとも、なにか新しいことに挑戦しよう。
興味・関心が持てたら動こう。若い人に教えを乞おう。失敗は恥ずかしいことではない。堂々と恥をかこ
う。最後の「カク」は「義理を欠く」の〈カク〉。年金生活に入ったのだから、不祝儀などでの不義理はとき
には許してもらおう。
 この〈三カク〉に私はもう一つの「カク」を加え、「四カク」な生き方をすることを心がけている。私の四つ
目の「カク」は「字を書く」「文を書く」の〈カク〉。老齢から来る〈文字忘れ〉は日常生活のなかで如実に現
れている。文字を書くことは認知症予防になる。人は「言葉で考えて書く」。現実には文を綴るのは苦行。
だが『エコー』の発行に執着する。日記も書き続けている。「漢字ナンクロ」は好きだなあ。
 何はともあれ「△より□のほうが○に近い」から。


2018年4月25日
「道祖神の里めぐり」 
栃木県鹿沼市 ヤマビルの “熱烈歓迎

 栃木県での石造道祖神の造立はあまり多くないが、鹿沼市粕尾地区に立つ素朴で稚拙な技法で刻ま
れた双体像には独特な温かみが漂う。それはこの地の人たちおおらかな愛の讃歌とも言えるだろう。
 粕尾地区の双体道祖神は、足尾に向かう県道15号線(粕尾川沿い)沿いに8基が祀られている。
だが今回の「道祖神の里めぐり・粕尾」は3基で終わった。その理由は道祖神が道路脇ではなく山中や
崖の上など容易に近づけない所にあるということ。そして「ヤマビル」の“熱烈歓迎”に遭遇。特に半縄
の抱擁像に会いに行ったときは、カメラを持つ手、靴の中、雨合羽に10数匹取りつかれた。それで、私
らしくはないが《撤収》を決断。だが、粕尾の双体道祖神の代表的な握手像、祝儀像、抱擁像に接する
ことができたことは大きな収穫。
 過去の「里めぐり」でも道路脇の草叢の中に塔碑を見ることはあった。だが粕尾の場合は、全基が道
路からは見えない山中に祀られている。半縄の抱擁道祖神を「歓喜天」と呼ぶこの地区の人たちにとっ
て道祖神は《秘仏》なのだろう。
 「鹿沼市まちの駅」から届いた資料に添えられた手紙に「地図の道祖神すべてを巡るのは難しいそう
です。(人が踏み込めない状況のため)」とあった。

            
                半縄の抱擁道祖神


NO369
   2018年4月1日 発行

 三月十一日で東日本大震災から七年が経った

 朝日俳壇年金賞
 福島へもどれぬひとと雁供養   根岸 浩一
 【雁風呂・雁供養】俳句歳時記(春)
 青森県外ガ浜付近では、暮春のころ、海岸に落ち散らばった木片を拾って風呂を立て、人々に入浴させ
る風習がある。これは秋に渡って来る雁が、海上で翼を休めるためにくわえて来て、ここに来て捨てておき、
翌春、北方へ帰るときに再びその木片をくわえて行くのだが、人に捕らわれ、または冬の間に死ぬ雁が多
いために、木片が沢山残るので、里人が哀れんで、雁を供養する心で風呂を立てるのだという。伝説にも
とづいたもの。

カタカナの「フクシマ
                                             早川 幸雄
「フクシマ」とカタカナでその存在を知らしめたのは七年前のマグニチュード9.0  「東北地方太平洋沖地震」
です。大きな揺れと間もなく来るであろう津波に「どうしよう」とおろおろするだけの住民に、23キロ先の原発
にあろうことか次々と不具合が生じたのでした。何の手立てもなく20キロ圏内の住民は避難。次いで私の生
家(22キロ)付近も「立ち去るように」と市当局から呼びかけられました。
 地震で家は傷み、津波を怖れているのに、漏れた放射能の追い討ち。福島第一原発があるので南下は
できない、避難するのは西か北です。移動するのにはガソリン、我慢して留まるなら水と食料、いずれにせ
よ容易には手に入らず、運よく脱出できた人以外は市が仕立てたバスで、新潟、群馬、栃木、山形などへ
避難したのです。小さい子のいる家庭は、さらに悩み全国各地に散りました。
 災害住宅が完成し、いざ入居となって行政を悩ませているのは高齢化。単身もしくは老夫婦での入居が
多いので、その暮らしのありようは想像を超えています。エレベーター、集会所なども備え暮らしの安全に
は努めているようですが、満室にはならないのです。子供の教育を考える若い世代は、先を見据え大都市、
県外に居を移しています。ましてや6年も過ぎたのですから、当の子供たちは学校、友達、習い事、そして
親の仕事でもう帰るという選択はありません。除染を終了させ「どうぞ帰ってください」とアピールしても、市
の人口は《毎月減》です。行政そのものが方向転換するしかないと言えます。
 地震後、生家で仏事があり帰郷したのですが、その変りように愕然としました。私の《ふるさと》とあまりに
も似てもにつかわぬ光景なのでした。いくつかの集落は家も屋敷林も洗い浚われ、ただの《クサハラ》。そ
の先は、水平線がくっきり見える蒼い海、そして優しく砕ける波。家族を亡くされた方が、畑地に茶の花を
植え鎮魂の時をさっていることも知りました。
 今年は全国植樹祭がおこなわれます。そして何もなくなってしまった浜辺に植樹がされます。でも海が見
えなくなるくらいの防風林になるのは次の世代、いやその次かも…。


 私は「福島」を忘れない
                                              早川 正子
福島県は浜通り、中通り、会津地方の三つの地域に分かれている。福島第一原子力発電所はその浜通り
の双葉町と大熊町にある。
「東日本大震災で原発事故」と世界に知られた「フクシマ」の双葉町が私の故郷だ。私の故郷にはこれとい
った産業もなく、代わり映えのしない農村だった。何もない代わりに山、海、田んぼなど豊かな自然の中で
18歳まで過ごした。
 住まいを関東に移した私が双葉町に帰省すると、町の入口で「原子力 明るい未来のエネルギー」と書か
れた看板が私を迎えてくれた。貧しい町であったため原子力発電所が建てられてしまった。発電所のお陰
で雇用は生まれ、田舎の町には不似合いな建物、道路が次々に造られ、いっとき町は繁栄しているかのよ
うに思えた。そしてあの事故が起きた。
 私の青春時代を創ってくれた故郷の自然が放射能で汚染されたのだ。90年あまりの歴史と伝統を持つ母
校・双葉高等学校は昨年三月で休校に入った。隣町・富岡町にJR常磐線「夜ノ森駅」方面に向かう道路(今
は不通)がある。この道路脇に樹齢百年を超えるといわれている桜が1キロ以上の桜並木を作っている。小
学生のころ遠足でお花見にいった。五月になると空を覆いつくす桜に見呆けたのだった。
 原発事故から三年経った夏、「ふくしま復興支援バスツアー」に参加し、「夜の森」地区を訪れた。桜並木
の手前でバスを降りると「毎時2~3シーベルト」と告げられた。あの懐かしい桜並木はバリケードで遮られ
ていた。そこより先は放射能が高く警戒区域。並木道の手前の信号機が赤だけの点滅を続けているのが
不気味だった。そんな中、青々と茂る桜樹は来春花を咲かせようとがんばっていた。涙が出た。桜を観に
来た人たちだけが笑顔で桜の花の下を行き交う、そんな日が早く戻ってくることを願わずにはいられない。
 2016年9月、姉弟4人で墓参りに行った。原発2キロ圏内の警戒区域内に入るための許可証を検問所
で示し実家に向かった。築100年を経た家屋は朽ち果て、庭は胸まで伸びた野草に覆われていた。父母
兄弟で過ごした懐かしい生活がそこには全く残っていなかった。ただ小鳥のさえずりだけが聞える。人の住
まない我が家は大自然に還って行くのだと思った。
 私のふるさとは「福島」。「フクシマ」は私のふるさとではない。離れていても「福島」が私の愛するふるさと
なのだ。だから私は忘れない、私と同じように、ふるさと・福島に住むことを願いながら、ふるさとを追われた
福島の人たちのいることを。





NO368    2018年2月7日 発行


       群馬・長野は道祖神のメッカ


申込み締め切り 2月17日



国指定重要無形民俗文化財 大磯の左義長      2018/1/13

    セエトバレエとヤンナゴッコ 

  

 大磯北浜海岸からみえる夕焼けの水平線の空は西は赤く、南はオレンジ色。その海岸に9基のサイト
(斎燈=神に捧げる火)が立っている。この9基は北浜海岸に沿った坂下、浜之町、大泊、子の神、中宿、
浅間町、大北、山王町、長者町の9つの町内が立てる。 サイトは正月飾りで組み立てられるが、最近は
紙製の正月飾りを家庭でするようになり、特に門松が少なくなったのでサイトを作るのに苦労をしている
とのこと。それでも小さいけれどダルマはたくさんサイトに飾られていた。

       
 
 セエトバレエ  砂浜に赤々と燃え立つ斎燈9基

 南の空のオリオンも待つ中、18時30分に9基のサイトは宮元や宮世話人によって「火入れ」がされた。
その年の恵方から点火されるので今年は南東からだった。やがて紅蓮の炎が立ち上り、竹がはじける
音がする。セエトバレエが始まった。気が早い観客はもうダンゴを焼いている。しばらくするとセエトはそ
の年の恵方の方向に倒される。
 観光客用に「ダンゴ焼きセット(紅白のダンゴ10個)」が売られているが、たちまち完売とか。


  地元の方が焼きにきた見事な“ダンゴの花”(↑)。こんなコナラの木を探すのは大変だったでしょうと話
しかけたら、「ウチの山から取った。このごろは薪を使わなくなったので、コナラは大きくなるばかり。役に
立つのはダンゴ焼きのときだけ」と笑う。
 秦野地方でも今は「ドンド焼き」と言う言葉が通用する「道祖神の火祭り」。だが、私と同年代の同郷の
者は「道祖神祭り」とか「ドンド焼き」という言葉は使わない。「セートバレー」である。セートバレーとは「塞
戸払い・サイトハライ」の秦野地方の方言。
 この一年、村の入口で入り込もうとする厄病神を身を挺して守ってくれた塞の神(塞ぎの神)がセーノカ
ミさん。その神を火で清めるのが「セートバレー」“塞戸払い・サイトハライ”なのである。

 ヤンナゴッコ 
 この神事は子の神・大北・長者町の3地区だけで行われている。
 町内からサイトの傍に道祖神が運びこまれる。この道祖神は、町に入る厄災を一年間守ったのでセエト
バレエの火で清められる。子の神・大北・長者町の3地区は疫病神を道祖神から木の宮に移し閉じ込め
る。仮宮は藁縄でがんじがらめに縛られるので、疫病神は外に出られない。
 サイトの火が燃え盛るころ、褌姿の6人がソリ型の台に仮宮を乗せて海に入り、海方と陸方に分かれて
綱引きを始めた。浜から町内の老若男女が「よいしょ よいしょ」と声援を送っている。
 私の隣に立っていた長老が「上がれ、上がれ。いつまでやってんだ」と叫ぶ。寒風の中、海の中での綱
引きは三回行われる。体調を気づかっての言葉だ。
 三回目目が終わり、沖から帰る仮宮のソリの曳き綱は、浜で待つ町内の女性や子供の手で曳かれる。
私もその中に加わらせてもらった。左義長音頭の歌詞にあるように、陸に引き上げるのは大漁を表す。
陸に上がった6人はセエトバレエの火の近くで豪快に回し飲みし、左義長音頭(伊勢音頭)を歌う。

 ♪♪ 金の柱に銀の網、大黒様が舵を取り、お恵比寿様が舞い遊ぶ
    舳先に船神大明神、綾と錦の帆を上げて、宝を俵に積み重ね、大磯港にはしり込む ♪♪

 そして6人はソリにのる。そのソリを曳くのは町内の人たちだったが、今は観光客も加わってよい。かつ
ては、宮帰りとして町内まで曳いたのだそうだ。今はサイトの周りで曳かれるだけ。これにも参加させても
らった。“宝の入船”だから重たい。
 その後、褌衆は新しい足袋に履き替え、仮宮を踏み潰す。「これでもか」というくらい徹底的に踏み潰さ
れた仮宮は、サイトの火の中に放りこまれた。こうして去年一年の厄払いは終わった。

            



NO367    2018年1月7日 発行


 信楽焼きの干支が届いた。贈り主の倉田幸子さんの便りに「お届けした干支が年々小さくなりつつあります。
窯元の方の話では、田舎でも床の間や玄関が狭くつくられようになり、それに対応せざるを得ないのだそうで
す。お許しください」とありました。丸い目玉のかわいらしい犬くんです。

           


 今年も「動きます 話します そして聴きます」  

 年初めの講座の予定
 1月12日 本町小学校3年生(児童130人)の「地域学習」の授業。
       ①本町地区の道祖神と道…田中嘉津明 
       ②「目一つ小僧」紙芝居の上演…関智子 
       ③秦野のドンド焼き「トッケダンゴ」…武、

 1月16日 神奈川県足柄下郡PTA連絡協議会
       ・PTA広報づくり講座「一年間の活動の評価」 湯河原町文化福祉センター

 1月20日 秦野高校の「地域公開講座」 『神奈川の道祖神を訪ねて』

 1月21日 東地区寺山自治会の文化講演会「寺山の道祖神」 

 1月25日 JAはだの「組合員講座」の閉講式
  
 1月28日 寺山自治会の健康ウオーク「寺山の野仏を訪ねて」 協力・まほら秦野みちしるべの会 

 
 二月の講座
      


NO366    2017年12月15日 発行



 2017年12月13・14日 「まほら秦野みちしるべの会」の県外研修  参加者8名

 山梨の民俗に触れる旅   

         
 第一日 研修テーマ「山梨の野仏」
 秦野駅前発8:00
 ↓ 
 北杜市小淵沢町の道祖神   ①大宮神社・石祠型道祖神  ②北野天神社・双体道祖神 ゜

                       

 ↓
 昼食 小淵沢町
 ↓
 海岸寺          
 ↓
 モンデ酒造 工場見学 
 ↓
 宿泊 石和温泉「甲斐路」(研修と懇親会)

 第二日 研修テーマ「山梨の民俗と富士山信仰」
 旅館発 8:45

 丸石道祖神(笛吹権三郎碑)
 ↓
 県立山梨博物館
 ↓
 桔梗信玄餅工場テーマパーク
 ↓
 昼飯 河口湖畔
 ↓
 富士山世界遺産センター(富士河口湖町)   ①富士山信仰  ②富士講
 ↓
 文字碑道祖神(静岡県小山町生土) 在住の長田広さんの話
 ↓
 秦野帰着 16:30
 


NO366    2017年11月5日 発行



先生方に新聞づくりの話を聞いてもらいます






NO365    2017年10月15日 発行


「退職公務員新聞」 日本退職公務員連盟機関紙 2017年9月25日号

NO364    2017年9月7日 発行

  
   


NO363    2017年8月7日 発行

 故郷の道祖神に会ってきました
 先日、故郷・根府川の寺山神社のお祭りに行ってきました。先生から聞いた「ねじり鉢巻をした道祖神」さんに会えました。その姿
を見て、とても楽しく嬉しくなりました。子どもたちもとても喜びました。先生に出会えなければ、生まれ故郷に、こんなステキな道祖
神さんがいらっしゃることを知らないままだったのです。ありがとうございました。お盆に帰ったとき、また会いに行きます。   
                                                                    大森 聖子


NO362    2017年7月10日 発行


タウンニュース  2017年6月23日号

 6月14日  講座・講演会1000回の日、茅ヶ崎市教育委員会主催の「PTA指導者(広報部)研修会」に出かける。きょうのこの講座で私の講
師歴は1000回に到達。
 開会の挨拶で教委の高橋さんが「一千回という記念すべき講座を茅ヶ崎が持たせていただいたことは光栄」と披露してくださった。期せずして
会場から拍手。それだけに、この講座は充実させなければと改めて思った。
 第一回は昭和47年で、地元の東婦人会の会報作りの指導だった。それから45年間、帯広市でPTA広報紙づくり講座、大分市で学級新聞づ
くりの話をさせてもらった。尾花沢市宮沢中学校での講座も忘れられない想い出の講座。花笠踊りパレードに加わっていた宮沢中学校の生徒
が「あっ武先生だ」と声をかけてくれたこと、それと校長室で名物のスイカ二分の一個でもてなされたこと、などなど。こうした数々の思い出を持
っている私は《幸せ者》。
 1001回は「道祖神ワンダーワールド・日本の道祖神見て歩き」と題して6月18日に講演。7月の後半には三カ所で「夏休の思い出を壁新聞
に」の親子壁新聞作りの講座を持つ。



NO361    2017年6月10日 発行

              998回目の講座  湯河原・真鶴・箱根町PTA広報紙づくり講座

                                        湯河原町教育委員会からの報告





NO360    2017年5月10日 発行
 
                   
           2017年4月19日~21日
                          道祖神の里めぐり そして
                                  群馬・南牧村 長野・佐久市望月 長野・伊那市高遠 長野・諏訪市


丸顔で童女のような目鼻立ち。穏やかな表情に惹かれた。


         
             高遠の里           桜の向こうは残雪が光る中央アルプス     高遠城址公園 (樹下は私)
                                  花万朶なほ残雪の光る峰                     

        
        高島城の桜          小諸・懐古園の夜桜       諏訪の地酒の利き酒会に
                                      
信濃路の旅 花に酔ひ酒に酔ひ 
  
 
千昌夫が歌う「北国の春」の一節に「白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ北国の春」がある。この
詞は長野県・南牧村出身のいではくが書いた。信濃路はコブシを街路樹として植えられている街まちもある。そのコブ
シが可憐な白い花を咲かせていた。
 今回の「道祖神の里めぐり」は群馬・南牧村から始まり、諏訪市で終わる。三日間で32の道祖神にお会いしてきた。
(群馬県にも南牧村がある。長野は「ミナミマキムラ」群馬は「ナンモクムラ」)と読む。
 高遠の「花文字道祖神」(下)は今回の訪問で期待していたもの一つ。桜花の下で私を待っていてくれた。懐古園、高
島城、そして高遠城址公園とどの地も桜は満開だった。


                       

NO359    2017年4月7日 発行

続私のふるさと NO31
  
 津軽平野はどこまでも白一色
                                                              山口 静子

 私の故郷は青森県つがる市。合併する前の西津軽郡柏村です。その柏村での子供の頃の思い出。
 夏は地区ごとでの「ねぶた」作り。作ったねぶたをリヤカーに乗せ、みんなで引っ張り各家を回るのです。「ヤーレヤレヤーレヨ 
ろうそく一本ちょうだいな」と。今はこの地域ごとの「ねぶた」は姿を消しました。 
たくさんの観光客が集まる青森のねぶた、弘前のねぷた、五所川原の立佞武多をテレビなどで見ます。それぞれ囃子や掛け声
は違うのですが、胸にジーンと来るものがあります。
 冬は竹スキー(私たちはタケベンジャと言っていました) やソリで遊びました。屋根から降ろした雪は軒先まで届いてしまうので、
屋根の上からすべり下りられます。我が家の前には大きな川があり、氷が張るのでそこにも雪が積もります。屋根から庭、そして
川の上まで一気に滑り下りるのです。
 冬が長いので雪と遊んだ記憶が多くあります。庭に続く畑が雪に覆われると、踏み固めて家の間取りのような形を作りました。大
きなカマクラを掘ったりしました。(津軽では「カマクラ」は掘って作るのです) 秦野から連れて行った息子が雪の原を見て言いまし
た。「図画の時間、白い画用紙の裏に名前だけ書いて出せそう」と。津軽平野はどこまでも白一色の世界。そして寒い!岩木川を
はさんで向こうは鶴田町、そして憧れの五所川原市。太宰の生家・斜陽館がある金木町も合併して五所川原市になりました。高校
はその五所川原に通い、学生時代は弘前で過ごしました。津軽弁といわれる方言で屈託ない生活をしていました。津軽の人は話
好きなのです。
 雪どけと共に一斉に芽吹く春。りんご畑の白い花、短い夏、津軽富士と呼ばれる優美な岩木山、八甲田の紅葉、「リゾートしらか
み」が走る五能線など。私にとって「ふるさとは遠くにありて思うもの そして悲しく」ではなく、「そしてなつかしくうたうもの」です。毎
年帰ってはいますが年々遠くなっていきます。もう四十年も住んでいる秦野は私のふるさとです。ふるさとが二つもあるのは〈ちょっ
と得〉という気分はしますが…。



NO358    2017年3月7日 発行

                   

  弥生3月 春の到来

 梅の里・越生町からフキノトウが送られてきた。2015年2月、越生の道祖神に会いに行った折、知己を得た仲紀子さんからである。
その時も仲さんから採ったばかりのフキノトウを両の手のひらからこぼれるほどいただいた。
 小包の包み紙には「岩激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」と「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出立つ少女」
の版画があった。

 仲さんへのお礼状に自作四句を添えた。
  小包は越生の女のふきのたう
  陽光を香に変へてふきのたう
  蕗味噌の一椀があり夜の膳
  口中にさみどりの広がりふきのとう


NO357    2017年2月1日 発行


  「新聞づくりは仲間づくり」も再開  湯河原・真鶴・箱根町合同のPTA広報講座




NO356    2017年1月1日 発行

                             安田虚心
                                

 大動脈弁と僧帽弁の置換手術を受けることが決まったのは去年の2月中旬だった。「いつか往く、だがそのいつかは明日
じゃない」と思っていた〈モラトリアムな私〉はふっ飛んだ。私なりの「人生のまとめ」をしたいと強く思い、10数年間続けてきた
「道祖神の里めぐり」を本にすることにした。「なんとしても手術の前に」と思い、手術を4月から6月に変えてもらい編集を急い
だ。
 そして6月1日、手にした『道祖神ワンダーワールド』は期待・想像を遥かに超えていた。私は「ああこれでいい」という心境
になった。だから6月8日、平常心で手術台に上ることができた。
 手術を受けるまでの4カ月間の心の動きを今振り返ってみると、不思議なことだが恐怖感はなかったと思う。それは、上梓と
いう目標・「明日」があったからだと思う。 「わが人生に悔い無し」は最期の言葉として知られている。上梓から手術の日まで
の数日間の私は、これからなすべきこと、やりたいことがない、新たに何かを求める気力が失われていた。「人生に悔い無し」
に近い心理状態で自分を納得させていたのかもしれない。「明日」という言葉は生きていく上で大切なキーワードと知った。
 医師団、家族、周りの多くの人の力・支えによって今、私は存在している。そうした皆さんへの感謝の念を抱きながら「道祖
神の里めり」を3月から再開する。      武 勝美                       

                            

NO355    2016年12月1日 発行


 全国新聞教育研究大会・秦野大会のレガシー
  速報部同窓会が10周年記念紙を発行

 「新聞で学ぶ 新聞を学ぶ」― これを基本理念とする全国新聞教育研究協議会は、その研究や実践を深めるために毎年
「全国新聞教育研究大会」を開いている。
 2006年8月3・4日に、第49回大会は秦野市文化会館で開催された。参加者は550名ほど。南は福岡、徳島、北は北海道、
秋田など文字通りの全国大会となった。
  この秦野大会でとりわけ注目されたのが大会速報「湧水」。二日間で4回の発行。速報部員20名の内17名はPTAのお母さん。 
《身びいき》かもしれないが、過去59回の「大会速報」の中でも「出色の作」と思っている。
 このときの速報部は、07年から毎年「速報部同窓会」を開き旧交を温めている。今年は11月26日に12名で会が持てた。幹事
が「今回が10回目なので記念の新聞を作りました」とA3判の2ページ・オールカラー版を会場で配った。
 「武先生に見せるといろいろ注文が出るので」と笑う。「久しぶりの新聞づくりで燃えた。楽しかった」とも。
 
 このところ、マスコミなどで「東京オリンピックのレガシー(遺産)」の本質について論議されている。この日に発行された『湧水』
は秦野大会のレガシーになった。一面のトップ記事は「あれから10年 秦野大会が与えたものは」で、「秦野の新聞・最新情報」を
特集している。
この企画は正に秦野大会のレガシーである。(下の表)速報部員の多くは、大会後単Pの広報づくりにまい進した。その活動ぶり
を「全国小・中学校・PTA新聞コンクール」の結果で検証(06年以降のPTA新聞の部・優秀賞以上)してみる。

 ◇最優秀賞 本町中2 西中2(数字は受賞回数)
 ◇毎日新聞社賞 西小3  渋沢小1  堀川小1  渋沢中1 西中1 
 ◇優秀賞 本町小3  西小2  西中1 
  参考・「佳作」入賞のPTA  3回  西小  本町小  渋沢中  本町中
                   2回  渋沢小  西中
                   1回  南小  北小  末広小  大根小  広畑小  東中  南中




NO354    2016年11月1日 発行

「Katsumi In 道祖神ワンダーワールド」の姉妹版ともいえる「まほら秦野みちしるべ」を11月1日に上梓できた。
両書の出版を祝う会を11月6日に開く。これも大きな喜び。



記念誌なので書店には並びません。ご購読を希望される方は武まで。




NO353    2016年9月30日 発行

朝日新聞が紹介 「Katsumi In 道祖神ワンダーワールド」








 大井町のIさんが「『道祖神ワンダーワールド』を読みたい」と来訪された。私と同世代のIさんが話す子供のころのドンド焼きの思い出は、私のものと完全に重なるも
のだった。今、iさんは自分の生まれ育った地から消えてしまったもの、きえる恐れがあるものを再生させる活動をしている。消えてしまった文字碑道祖神を自らの手で
刻み造立した。矢倉沢往還の道標も設置。更に「神の椎ノ木守」と称して氏神様の森の保護に力も注いでいる人だ。
 そのIさんが「石造道祖神」についての蔵書を私に預けると言う。いずれも本格的な道祖神研究の書で、昭和38年に刊行された「信州の道神面と戯謡」宮田嵐村著か
ら平成1亜3年に上梓された「双体道祖神めぐり」三橋光子・佐藤藤正までの7冊(下)。53年前から発刊された貴重な書である。たくさんのことを学び、楽しむことができ
る時間ができた。同時に、また私を「道祖神の里めぐり」に駆り立てる強烈な刺激になっている。

 「信州の道神面と戯謡」宮田嵐村 昭和38(1963)年
 「路傍の神様」川口謙二 昭和43(1968)年
 「道の神」山田宗睦・井上青龍 昭和47(1972)年
 「道祖神は招く」山崎省三 平成7(1995)年
 「道祖神散歩」野中昭夫 平成8(1996)年
 「道祖神」森田拾史郎 平成10(1998)年
 「双体道祖神めぐり」三橋光子・佐藤藤正 平成13(2001)年


NO352    2016年8月1日 発行

「本のファースト」さんのご好意でブック フェアを開催




NO351    2016年6月1日 発行


6月1日発売   定価2160円(本体2000円)+郵送料

お申し込みは電話・メールなどで  武まで






「足柄下郡PTA広報紙づくり講座」のあらましを湯河原町教育委員会がまとめてくれた。 2016年5月9日

子育てご一緒に
                                      武 勝美 




NO350    2016年5月7日 発行
 ご挨拶 

 “道祖神・ワンダーワールド“へのお誘い 
   石造道祖神の造立数は都道府県別で次のようになります。
  ①長野3900 ②群馬3500 ③神奈川2800 ④山梨2200 ⑤静岡1800 ⑥鳥取600 ⑦新潟500 ⑧埼玉300 (数値は百の位まで)。
   私はこれら8県の《道祖神の里》に焦点を合わせ訪れました。その訪問先を数えてみたら秦野市を除き、60余市町村になりました。
  「なぜ道祖神なの」「道祖神の魅力は」「好きな道祖神を教えて」などとよく尋ねられます。でも、どの問いにもしっかりとした答えは返せ
  ないのです。ただ、出会った道祖神がその地の風土によってさまざまな信仰対象になっていること、その双体像の姿態や刻まれてい
  る文字もまた“千変万化”・多種多様であることが、次の里への訪問の強い誘引となっていることだけは確かです。
   石造道祖神とは言え、時の流れは塔碑にかなりの変化(摩滅や剥落)をもたらしています。このことを含め、かつて里人の「心のより
  どころ」だった道祖神は、今その存在さえ忘れられようとしています。そうした現実の中、『里めぐり』で地域の人から道祖神にまつわる
  話を聞かせてもらい「道祖神はその地域の文化財。できれば記録を」という思いに至りました。それがこの上梓のきっかけの一つにな
  っています。
   出会った道祖神を通して、道祖神は私の“ワンダーワールド“になりました。ここに収めた道祖神さんは、北は北海道から西は鳥取県
  までの550余点。収録できなかった塔碑を含め、出会ったすべての道祖神さんとこの本を編むことで再会できたこと喜び、懐かしんだの
  でした。
   粗雑な小書ですが、皆様の「道祖神に出会う旅」のきっかけになれば幸いです。

  2016年5月 
                                                                    武 勝美




五月の武者幟をりをりメイクした法被。読者のSさんからのプレゼント。喜んで着ているが、このポーズではまるで〇〇〇。
描かれているのは「宇治川の先陣争い」の梶原源太景季。


NO349    2016年4月7日 発行

今年の桜


昨年の12月 7年ぶりに枝を整えてもらった。


2015年の桜

   「こんにちは。今日は一気に桜が咲き始めたました。先生のお庭の桜も楽しみですね」。こんなメールが入ったのは3月29日。

 4月6日 朝から青空が広がった。
  桜万朶今朝は真青な天なりき       勝美
  朝桜見上げパソコン立ち上げり   
 
 天気予報では、どうやら今日が今年の「最後の桜」らしい。それで妻を乗せ観桜に。
 
 回ったコース
 国内どこでもそうなのだが、この季節になると桜の薄ピンク色が風景の中にに浮かび上がってくる。
 
 ①東小学校の校門脇の二本の桜は、私が小学生だった頃から咲いていた。
  老桜の黒糸縅の如き幹     中村芳文
 ②東田原の金剛寺の左手から登る東電の変電所の取り付け道路は桜並木。これは遠景として眺めるしかない。
 ③西田原から北地区に向かう農面道路から見えるのは秦野カントリークラブのコースの周りのソメイヨシノ。
 ④日立の正門前の通りはトンネル状の桜並木。通りの寿司店、割烹料理の店はこのシーズンにぎわう。そこを
  左折するとコベルコの敷地、ここの桜並木は背の高い。
 ⑤文化会館前の水無川岸を東に下れば1kmのソメイヨシノの並木。上流に歩を進めればこれからの枝垂桜の土手が続く。秦
 野市民が自慢する桜並木。近くの駐車場はどこも満車。
 ⑥昨年、市制60周年記念として命名された「はだの桜みち」。命名者は知人。県道62号・西大竹交差点から県道706号・新橋
  交差点(堀山下)までの区間・約6.2kmに750本の桜並木。この道は工業団地に繋がる産業道路なので、日常的に混む。桜
 のシーズンはり込みかなりの渋滞。駐車する場所は無いに等しい。
 ⑦南が丘中・小学校、公民館の周辺もソメイヨシノの満開。
 ⑧そして最後に神奈川病院の構内の桜の下を通って帰宅。
 カメラを持っていったが一度もシャッターを押さなかった。

 昼食後「やっぱり見たいです。ちょっと行ってきます」と妻。リュックを背負い、帽子を被り、完全装備。毎年、 家から見える東京
カントリークラブの取り付け道路が《桜道》になると登る。海抜でいえば我が家から200mは高くなる急坂を歩く。「送ろうか。それと
も迎えに行こうか」と言う私に「桜を見るんだから」と“お断り”なさる。 3時間掛けてもどってきた。




NO348    2016年3月7日 発行



ご褒美をいただきました。




NO347    2016年2月3日 発行


河津桜 伊豆高原駅  Sugawara


 鬼の宿 「福は内 鬼も内」 豆まきの話

 二月三日は節分、『豆まき』の日。この日、私たちは「福は内、鬼は外!」と鬼を追い出します。その追い出された鬼は、
いったいどこに行くのでしょうか。ところが、その追い出された鬼に、宿を貸している家があることを知りました。なんだか
嬉しくなりました。

 東京・小平市の青梅街道沿いにある小川町の小山家では、昔から節分の日に《鬼の宿》という行事がおこなわれていま
す。 《鬼の宿》とは、節分の日に他家から追い出された鬼を泊めてやるしきたりのある家のこと。今から一三〇年ほど前の、
安政年間から始められたようです。

 この家では、お正月のお飾りにオスイゼンサマ(竹を細かく割いてスダレのように編んだもの)を作り、かまどの横に飾りま
す。これが節分の日の《鬼の宿》です。その日、他家で豆まきが始まる前の夕方五時ごろ、小豆ご飯を炊きサンダワラ(俵の
上下に付ける蓋のようなもの)に半紙を十文字に敷き、その小豆ご飯を盛り、オスイゼンサマに供えます。そして、お神酒と
お明かりも上げ、鬼を迎える準備は終わります。お明かりは夜中まで絶やすことなく灯してあるのです。やがて方々で追い出
された鬼たちがこの宿に逃げ込んできます。そしてオスイゼンサマで休息します。この家では豆まきはしません。

 その夜の丑三つどき(午前二時過ぎ)この宿の年男は、絶対だれにも見られないように用心しながら、鬼を四つ辻まで送っ
て行きます。この時、サンダワラの小豆ご飯にお神酒をかけて持っていき、四つ辻に置いてくるのです。鬼たちのお土産です。
帰りは決して振り返ってはいけないのだそうです。

  「寒い夜の真夜中、たった一人で真っ暗な夜道を帰ってくるのは不気味だ。もっとも、近ごろは真夜中でも車が通るので、
鬼を送り出すのにはたいへん気を使う。警官に尋問されたり、犬にほえられたりするので、昔とは違う四つ辻に送り出すよう
に変えた」と、小山家のご主人は話しています。「親からの言い伝えで『宿』をやっています。私で四代目です。他家で嫌われ
追い出された鬼でも、助けてやらなければと思い、宿を続けている。お陰で、代々幸せに暮らさせてもらっています」とも話さ
れるのです。

 「今晩は豆で打たれて、なんぼかひどかったべす」と、鬼を家に招き入れ暖かくもてなす家が山形市にもあるそうです。
 奈良・吉野山の釈迦堂では「福は内、鬼も内」と豆をまきます。日本人のやさしい心に、私の心は安らぎます。

 




1月14日 清水・東ノ原子供会の道祖神祭り


△ 「タウンニュース」紙

NO346    2016年1月1日 発行





今年の応援(猿)10人衆
昇り猿(宮崎・延岡)  木の葉猿(長崎・古賀人形)  瓢猿(群馬・猿ヶ京)  弾き猿・御幣猿・三猿(柴又・帝釈天)  木でこ二体(大分・別府)  土ひねり(青森・弘前)  猿のり馬(京都・伏見)
 
 


NO345    2015年12月7日 発行


                           
                                          冬の朝・大山遠望
 この一年
             
 皺がよる ほくろができる 腰まがる 頭がぼける 髪白くなる 手はふるふ 足はよろめき 歯はぬける 耳は聞えず 目はうすくなる  口よだれる 
 聞きたがる 死にともながる 淋しがる 出しやばりたがる 世話やきたがる くどくなる 気短くなる 愚痴になる 心がひがむ 欲ぶかくなる 
 又しても同じ話に子をほむる 達者自慢に人は嫌がる    臨済宗妙心寺派の仙崖和尚(寛政年代)の言葉(「老人六歌仙」)。 


 と、言われても        日野 修 

  ささやかながら 
   地域活性化の為
   地元産の純米酒
   富士山の絵のあるグラス
   妻の分も二つ準備
   小さい氷入れ、それでも
   毎日お酒飲むの休んだら
   と、言われても
   冥土まで、もう少しと

 この一年のご厚情・ご指導に深謝。よいお年を。      武 勝美

NO344    2015年11月7日 発行





菊日和

10月20日 湯河原町でPTA広報づくり講座。湯河原・真鶴・箱根の三町の小・中学校のP広報委員会12校と町の外郭団体が参加。箱根の
       二校から三人のお父さん委員か来てくれた。
10月22日  「市P連だより」の編集会議で助言。このグループは《乗りがイイ》。読まれる広報が作られるだろう。
10月27日  秦野市南が丘さつき東自治会・長寿会共催の「ふるさと歴史講座」を担当。演題は『大山と盆地の暮らし』。新しく作られた街な
       ので新鮮な内容だったようで好評。「続きを」と担当の人から申し出が。  
10月28日 かわじ荘デイサービスの講座。「まほら秦野・秦野の道祖神」を映像で見てもらう。紙芝居「目一つ小僧」は喜んでもらえた。今日も
       帰りに道祖神の写真を撮りに回った。
10月31日 東公民館祭りの前日準備。午前8時から午後1時まで。
11月 1日  東公民館祭り 今年も三分野に参加。 ①「まほら秦野みちしるべの会」はイラストマップ展  ②「夏休みの思い出を壁新聞に」の
       新聞を展示。作品は25紙  ③秦野ゆとりの会の「菊花展」に今年は3鉢並べる。。自分としては過去最高、重厚な花が咲いた。
       「まほらの会」の展示会場でミニ講座「道祖神ワンダーワールド」を開く。
       祭りへの参加団体、そしてその団体の人数が毎年減っていくように思える。


NO343    2015年10月7日 発行

  
「戦後70年 戦争を学ぶ新聞」 田中 咲希(小6)         「8・15新聞」 前原 優貴(小6)

  完成は夏休み最終週になったけど「壁新聞をつくってよかった!」

 一昨年参加させていただいたので2回目の参加です。今年は、子どもたちから「壁新聞を作りたい!」と私に参加を頼んできました。前回の壁新聞で何か感じたのでしょうか? ただ、夏休みに入っても、本人たちは「何を書きたい」ということがきちんと決まっておらず、一回目の壁新聞づくり講座の後、娘たちと話し合い、テーマを決めました。
 3年生の次女については、小田原の国立印刷局に見学する予定もありましたので、1回目の講座までにはそのことを書くと決めることができました。が問題は6年生の長女でした。
2回目の壁新聞作り講座の直前になって、テレビなどで戦争のことを取り上げているのをみて、「戦後70年なので戦争のことでも書いてみようあかな」といった感じでした。それで、祖父が戦争の体験を本にしていることを長女に話しました。
 元々、本好きの長女でしたので、そのことにとても興味を持ってくれ、「原爆や戦争」のことを新聞にすることにしました。ただ、祖父も十数年前に他界しており直接話を聞くこともできない、知り合いに戦争体験者もいない、ということで、どのようにまとめようかと話し合いました。 さいわい、この夏秦野市では原爆のパネルや戦時中のものの展示がされたので、会場に足を運び、「原爆と太平洋戦争」について取材しました。
 今まで「戦争」などにはほとんど興味のなかった長女です。新聞としてまとめることに苦労していました。でも、今回の壁新聞づくりを通して、長女が「戦争」について学び、この時代に生まれてきたことの幸せを感じたようで、「戦争」についての新聞を作ったことはよかったと実感しました。完成は夏休み最終週でしたが、娘たち二人は、「壁新聞をつくってよかった!」と感想を述べています。ありがとうございました。        田中小百合(母)

NO342    2015年9月7日 発行

行 脚 再 開


         神奈川県伊勢原市 9月4 日              神奈川県大井町  9月3日

NO341    2015年8月7日 発行

 『新聞教育』第78号 (全国新聞教育研究協議会・2015年8月3日発行)
 
 ブロックニュース 北から南から

 [神奈川・秦野]  幼稚園の年長組から新聞づくり

 市立東公民館が夏休みに「親子で壁新聞を作ろう!」と呼びかける新聞づくりの講座は今年で14回目を数えます。この
講座は好評で、毎年多くの参加があります。今年も小学生35名・24家族が壁聞づくりに挑戦しています。講師は全新研参
与でエコー教育広報相談室の武勝美さん。市PTA連情報委員会も指導助手として協力します。第1日は7月30日、「毎日
小学生新聞」を親子で読むことからスタートします。第二日の8月20日にはカラフルな力作がそろいます。
 市立本町幼稚園は、「夏休みの思い出を親子で壁新聞に」と、この夏休み中に壁新聞づくりをしています。中学生の頃、
学級新聞づくりに〈燃えた〉加藤しのぶ園長先生の指導です。
 市内9中学校では、年度当初に生徒を対象に新聞講習会が開催されています。講師は学校新聞の指導に携わったOB
の先生にお願いしています。1950年の創刊で発行号数が千号を超える東中学校の『東中新聞』は、今年は月三回のペ
ースで手書き新聞を発行しています。
 PTA広報紙づくりも盛んなのが秦野市。全新研の「全国コンクール」では最近五年間で「最優秀」二校、「優秀」三校とい
う好成績です。
 秦野は、園児から中学生、そしてPTAへと、新聞づくりのつながりの環境は整っています。

 前述の武さんの発行する教育個人紙『ECHO』がこの5月で31年目(321号)に入りました。その武さんは、4月末にPTA
広報紙づくり講座(主催・三陸新報社)を宮城県気仙沼市で開きました。講座では、秦野市22校のPTA広報紙が「広報紙
づくりの参考になれば」と配られました。その各校の広報紙には、「気仙沼の皆さんへ」という応援メッセージも添えられて
いました。『新聞づくりは仲間づくり』の実践です。
                                          全國新聞教育研究協議会理事  谷津 裕
                                                           (秦野市立大根中学校)
 

NO340    2015年7月7日 発行

   平成26年度 神奈川県PTA広報紙コンクールの結果
   
   最優秀賞 (会長賞)       茅ヶ崎市立緑が浜小学校P.G.T.「緑の風」

   優秀賞 (県教育長賞)      綾瀬市立綾西小学校PTA「ふれあい」
   優秀賞 (神奈川新聞社賞)  秦野市立渋沢中学校PTA「ふれあいの丘」

   優良賞  茅ヶ崎市立浜須賀小学校PTA「はまゆう」
          綾瀬市立寺尾小学校PTA「てんま」
          伊勢原市立中沢中学校PTA「ききょう」

   奨励賞  横須賀市立衣笠中学校PTA「あすなろ」
           横須賀市立鷹取中学校PTA「たかとり」
          三浦市立名向小学校PTA「道芝」
           鎌倉市立御成小学校御成会「御成」
           藤沢市立高浜中学校PTA「浜風」
          寒川町立寒川小学校PTA「百年ざくら」
          相模原市立藤野南小学校PTA「みなみ風」
           相模原市立富士見小学校PTA「「Smile」
           相模原市立陽光台小学校PTA「PTA陽光台」
           秦野市立西小学校PTA「西のいぶき」
           伊勢原市立竹園小学校PTA「わかたけ」
           大磯町立大磯小学校PTA「いそかぜ」
           大井町立上大井小学校PTA「上大井」
           松田町立松田小学校PTA「いわつばめ」
           厚木市立清水小学校PTA「清水」
           厚木市立睦合東中学校PTA「清流」
           小田原市立新玉小学校保護者と教師の会「広報あらたま」
           小田原市立富士見小学校PTA「富士見小学校PTA会報」




    NO339    2015年6月1日 発行
 

                                 三陸新報 2015年4月30日 ↑ 



 気仙沼への旅  (同行2名)   
               2015年4月28日~5月1日  (最高気温は29℃)

 4月28日
 秦野→ 秋田空港→ 北上展勝地→ 農家レストラン「さん食亭」で北上市在住の『エコー』の読者・渡辺知子さんと会食(コシアブラのてんぷら)→ 一
関・金烏神社(道祖神を発見出来ず)→ 気仙沼・三陸新報社へ(朝倉眞理社長、渡邉眞紀専務の出迎え)→ 市内が一望できる安波山展望台(渡邉専
務さんの案内)→ フカヒレの加工場→ 朝倉社長・渡邉専務さんによる「ウエルカムパーティー」(『大政寿司』 フカヒレ三昧、地酒『蒼天伝』)

 4月29日
 道祖神社、羽黒神社で道祖神に会う→ 「みちびき地蔵」参拝→ リアス・アーク美術館(東日本大震災の記録と津波の
災害史展)→ 三陸新報社で講座(午後1時30分~4時) →
焼き魚の『福よし』で「打ち上げ」と「フェアウェルパーティー」(朝倉社長、渡邉専務、渡辺知子さん、武家3名・キンキの焼物、ホヤ、地酒『水鳥記』。こ
れまでの人生を披瀝し合うような酒席)

 4月30日
 魚市場(血まみれの大型魚が大量に並んでいた。フカヒレの原材料になるネズミザメ)→ 寶鏡寺→ 大仙市の「人形道祖神めぐり(4基)」→ 角館・武家
屋敷と檜木内川堤の桜を求め散策→ 角館町広久内の道祖神(2基)→ たざわこ芸術村泊(「ばっきゃ」で夕食。「武市様ご一行」が隣席。「武で繋がる縁」
で、こちらからアプローチ。地元の方なので秋田の言葉をたくさん聞かせてもらう。キャンピングカーで東北を旅行中の秦野市東田原の夫妻と交歓)。こ
れぞ旅の醍醐味。
 
 5月1日
 田沢湖→「続・大仙市の道祖神めぐり(6基)」→ 錦秋湖→ 秋田空港→ 秦野
    ※北上展勝地、角館の桜は〈葉桜〉。でも市街を抜けると、まだ十分に桜花は見られました。


 気仙沼再訪の記  あれから四年「復興未だし」 

 岩手県北上市の『エコー』の読者・渡辺知子さんは宮城・気仙沼生まれ。その渡辺さんから2011年12月初旬、エコーが届いた。
 今、ラジオから「気仙沼港が今年もカツオの水揚げ日本一」とのニュースが流れました。「今シーズンの漁が終り、水揚げ量は昨年の四分の一にとどま
ったが、15年連続の日本一」。思わず「やった!」と私。サンマもカツオも水揚げ日本一! フカヒレの生産も日本一! イカの塩辛の味も最高! わが
故郷気仙沼はそうでなくちゃあ。大震災に遭っても気仙沼はそうでなくちゃあ。 

 そして翌年2月11日、渡邉さんから一冊の本が送られてきた。この本『巨震激流』は、気仙沼市と南三陸町をエリアにする地方新聞社「三陸新報社」が
まとめた、あの地震の写真と証言集です。わが故郷気仙沼の《3月11日》を知りたい、先生にも知ってもらいたいと買い求めました。

 2012年4月19日、南三陸町から気仙沼市に向かっているとき、曇っていた空が急に晴れ渡った。建物も人影もない大地の向こうに三陸の海がコバル
トブルーに輝いた。
だが、左手に連なる里山は、一年前の災禍の跡をまだはっきりと残していた。
 木の芽山残し津波の去りにけり   渡辺 徹
 南三陸町の防災庁舎の前に立った。赤錆びた鉄骨の向こうに白い志津川病院が見える。気仙沼線は完全に〈洗い流されて〉いた。南気仙沼駅はその
姿をコンクリートの残骸に残しているだけだった。鹿折唐桑駅の駅前には第十八共徳丸(330t)が、海岸から500m離れたこの地に打ち上げられたままで
いた。同行した妻は、被災地の現状を目の当たりにし、車外に出られなかった。長男は一言「まだ重油の臭いがする」。
 魚市場のあった辺りを走る。海岸線の道路をまたいたところに教室一つ分くらいの水溜りができ、かもめが20羽ほど羽を休めていた。カラスは飛んでい
なかった。
『巨震激流』を発行した三陸新報社を訪ねた。おおよそ1時間、朝倉社長、渡邉専務が応対してくださった。発行部数2万の『三陸新報』が、大震災を受け
た地域で果たしたこと、そしてこれから果たすべき役割・決意を聞くことができた。

 それから3年が経ち、「三陸新報」のご配慮で気仙沼を再訪することになった。
 鹿折に打ち上げられた第十八共徳丸の姿は無かった。そのあたりに「嵩あげ」の様子が一望できる展望台が作られていた。再開した魚市場も見学した。
ネズミザメとマグロがかなりの量、水揚げされていた。カラスが場内を乱舞している。
 街中の道路は「嵩あげ」工事の車両が連なり走っている。
 渡邉専務の案内で「街が一望できる」安波山の展望台に登った。そこで目に入った「嵩あげ」が進められている面積の広さ。「この工事が終わるのは何
年先になるのだろうか」と思わざるを得なかった。只越地区も訪れた。海に近いところは被災当時と変わらないように思えた。
12年の来訪と同じホテルから内湾を見下ろした。湖よりも静かな水面だった。3年前に眺めたこの内湾の風景の印象は「何もない風景」。朝7時過ぎ湾内
に気仙沼大島空のフェリーが入ってくる。乗船者の多くはビジネススーツ。大島の人口は2700人ほど。交通手段はフェリーで所要時間は25分。島内の事
業所は壊滅的な被害を被った。そのため多くの人は対岸で働く。だから両岸の発着所に車を置かないと通勤が出来ない。通勤用の車が二台必要なのだ。



    NO338    2015年4月1日 発行 


「子育てご一緒に」 気仙沼でPTA広報づくり講座



三陸新報社さんのご協力でこの講座を開くことになりました。


    NO337    2015年3月1日 発行 

「新聞の秦野」は健在

  手書きの紙面を9名全員で    『西のいぶき』 秦野市立西小学校PTA 

 今年度の西小PTA広報委員は全員で9名、誰も広報の経験がなく、不安のある中でスタートしました。年間で5回の発行を予定し、活動の目標を決
めました。①楽しんで作ること②PTA新聞であること③子どもにも読んでもらえることを大切に、取材に取り組みました。
 初めての取材の時は「邪魔になるのでは」と隅で写真を撮っていましたが、日を追うごとに、人の話を聞く・書く・自信をもって撮影することが、自然と
出来るようになっていきました。また、多くのイベントに参加し、たくさんの方から話しを聞くことができ、今まで知らなかった様々なことを学びました。
 たくさんの紙面を作った中でも、挑戦したと思う記事は「夏こそ文字にふれよう」です。文字にふれることをすすめるのに、パソコンで作っても伝わらな
いと思い、手書きで紙面を作りました。保護者の方からは「一番目を引いた」「味があって読みやすい」「温かみがあるね」といった声を頂き、思い切って
手書きにして良かったなと思いました。 
 一つの紙面に全員が関わることは稀で、この手書きの紙面を9名全員で作ったことは、仲間としてかけがえのない絆となりました。  高橋由香利

 

 
              「談笑」 川越・喜多院の五百羅漢




    NO336    2015年1月1日 発行 



   2014年の「道祖神の里めぐり」
   4月 山梨県中央市
   8月 長野県・山形村
   8月 山梨県甲府市、身延町
  10月 鳥取県・大山町、米子市淀江町
  11月 長野県安曇野市
  12月 神奈川県小田原市・真鶴町・湯河原町、静岡県熱海市・富士宮市

  2015年1月10日より25日まで
      秦野市制施行60周年事業の一つとして「まほら秦野みちしるべ・イラストマップ展」を秦野市立本町公民館で開く。会員によるミニ講座も開催。







    NO335    2014年12月1日 発行 
 

 北上だより
  平成29年5月の完成 気仙沼駅前の災害公営住宅
                                                        渡辺 知子
 
 柿の実の橙色が、今年はずい分早く濃くなっていくような気がします。紅葉も始まりました。今年の春はなかなか暖かくならず5月に入って急に暑くな
りましたが、そのせいか稲や果実の収穫時期が例年より早まっています。いつもはこの時期田んぼにはコンバインを使わず天日干しにしてある木杭
に掛けた稲(この辺りでは「穂仁王」と呼んでいます)が見られるのに、今年はすでに脱穀も終わっていて田んぼはひっそりとしています。柿もぎも始ま
りました。もうすぐ出来ましたらお送り致します。
 10月3日に東京の姉夫婦が気仙沼のお墓参りにやってきました。JRの気仙沼方面への乗り換え駅である一関駅を通り越して北上駅まで来てもらい、
そこから車で気仙沼に向かいました。1時間程走っ大東町の「産直ふるさと大東」で小休止。そこからまた1時間余り走って鹿折のお墓に着きました。
 鹿折の道路の周囲にはあちらこちらに台形の形に盛土がしてありその先の視界をさえぎっています。弟が話していた3mのかさ上げ工事なのでしょう。
この盛土が全面に行き渡り区画整理され、新しい道路が出来、それからようやく家が建てられるのは一体いつになるのだろうかと改めて思いました。
 さらに南気仙沼の方に向かうと大きな災害公営住宅の建設現場に出ました。本当に大きな建物でした。まだ一番上に建設機械が乗っている状態でし
た。6階建てが2棟、10階建てが1棟。来年1月末完成予定との事でした。
 この南郷地区の災害公営住宅が今一番工事が進んでいる所で、市内の現場は28ヶ所あるそうです。その中でまだ用地も確保できないでいるのが最
大規模の気仙沼駅前災害公営住宅。平成29年5月の完成予定と聞いて本当に驚きました。妹が「気仙沼から北上市に移り住んだ人たちも少なくない。」
と話していましたが、そんなに長いこと待っていられないという気持ちも分かるような気がします。
 そのあと、震災後3年ぶりに再開したという「海の市」に行ってみました。気仙沼に住む弟夫婦が「都会風におしゃれに生まれ変わったよ。ただね、あま
り地元っぽくなくて何となく落ち着かないんだよね。」と話していた所です。新鮮な魚介類を販売したり、鮫の博物館シャークミュージアムも併設する「海の
市」は魚市場のすぐ近くにあります。行ってみて私も妹も弟と同じような印象を持ちました。「ここはどこ?」うれしいような残念なような気がしました。もちろ
ん全部が全部変わった訳ではありませんが…
 その日鳴子温泉のジャズフェスティバルを楽しんだ妹たちは翌10月4日土曜日には平泉を見てから帰ると言うので、朝、平泉駅で待ち合わせをし、私
も夫と4人でまず毛越寺を訪ねました。そこでとてもうれいし事がありました。
 平泉町立平泉中学校の生徒さんたちが各所で史跡説明をしてくれたのです。何でも3年生が総合学習の一環として町内の史跡を勉強し、その発表を兼
ねてこの日の午前中親子レクとして案内や説明を行っているとの事。まずは観光客の承諾を受けてから説明を始め、質問も受け付けてくれます。自分で
案内板を読むよりずっと分かりやすく、何より一生懸命に取り組む3年生の姿がほほえましく、この日この時間にここに来て本当に良かったと思いました。
 数年前から3年生の親子行事として続けているとの事で、先生や親御さんたちが遠巻きに子供たちを見守り、質問に答えられない時には助け船を出し
ていました。さすが世界遺産の平泉です。
 先日、都会でもハクビシンの被害が増えているというニュースを見ましたが、うちの辺りはなおさらひどい状態です。立花の正蔵寺では屋根裏に住みつ
いたハクビシンを業者に退治してもらったという話です。いくら鳥獣保護区になっているとはいえ、"仏の顔も三度"?まで待つ訳にはいかない迷惑な話で
す。近所のブドウやブルーベリーも皆食べられてしまいました。わが家の半甘柿も同様です。カラスとハクビシンにあっという間にすっかり食べられてしま
いました。渋柿にまでいたずらの手や口ばしが伸びてきています。  



    NO334    2014年11月2日 発行 

10月27日~30日
 「道祖神の里めぐり」鳥取県大山町と米子市淀江町を中心に。
  石造道祖神は長野・神奈川・静岡・山梨・新潟などが多い。 西日本では、なぜか鳥取県に集中する。それで鳥取を歩いた。
4日間で巡った道祖神は31場でおおよそ100塔。
 道祖神像と直接結びつくものではないが、大山町鈑戸 (タタラド)の両墓制の河原は心に染み入る光景。


10月31日
 東公民館祭りの前日準備 

11月1日
 東公民館祭りに三つの分野で参加 
 ①「夏休みの思い出をかべ新聞に」の作品展示
 ②「まほら秦野みちしるべの会」のイラストマップ展
   『道祖神の嫁入り』の講演
 ③「秦野ゆとりの会」の菊花展


かべ新聞展


まほら秦野みちしるべの会 イラストマップ展 


秦野ゆとりの会 菊花展 
 


    NO333    2014年10月3日 発行 


 本町幼稚園  夏休みに親子新聞づくり

 秋風に祭り提灯が揺れています。河川敷では松明の組み立ても進んでいます。「煙草まつり」を身近に感じます。この4月から本町幼稚園に勤務しています。
『エコー』を送っていただきありがとうございます。 お届けした写真は年長組(5歳児)が夏休みの課題として親子新聞づくりをしたものです。74名、どの家庭も
楽しい新聞が出来ました。先日の祖父母参観でも見ていただき好評でした。    加藤しのぶ  
  



 
 「新聞のまち秦野」を支えてくれる確かな、若い力がここにあるのです。
                              


NO332  2014年9月6発行 

 2014年の夏  

   
 お母さん ガンバって! 茅ヶ崎会場  お父さんも真剣   秦野会場
   
  にいだて ゆめ (小1)  藤井 美帆 (6年)
   
  柏井 優太 (小5)  八木橋華弥子 (小6)
   
 加藤 志歩 (小3)  譜久村瑚子 (小3)
   
大瀧ミチル (小 6) 大瀧 睦 (小2) 
   
      これがまあ終の栖か雪五尺  一茶 (8/26)  Myoko happiness illmination (8/26)





NO331  2014年8月19発行 

                                                 2014年の夏  

   
 秦野のお盆は七月  「ツジ」でご先祖様を迎える  盆  棚  
   
 庭の山百合 今年はよく咲く   八月に入りアサガオも元気
   
 8月1・2日 第57回全国新聞教育研究大会 千葉・市川大会
 秦野西小PTA広報委員会から5名が参加
ビデオデッキまで持ち込み自作の映像で発表
P広報委員に見てもらいたい内容
   
「西小の発表は圧巻」は参加者のYさんの言葉 今回の市川大会への参加で私の大会出席回数(年)は34






NO330  2014年7月1日発行 


 袖ヶ浦市でPTA広報紙づくり講座を開きます

  日 時  平成26年7月25日 午後2時より4時
  会 場  袖ヶ浦市市民会館 



 30周年おめでとうございます。1985年 私が10歳の年、それを今私が読ませていただいていることをとても嬉しく思います。駅伝の「たすき」を私も渡されているような、そんな重みを感じながらこれからも読みたいと思います。  岩田 香 


 タウンニュース 2014・6・14

 
 私は『エコー』とほぼ同い年

 お久しぶりです。「タウンニュース」で武先生のこと読みました。私は『エコー』とほぼ同い年です。312号で中学1年生の作った新聞を読んで、あぁ、中学を卒業してから何年も経ったのだなぁと感じました。
 私は武先生が校長先生だった時の最後の中学1年生でした。覚えていらっしゃるかわかりませんが、先生から、私には考える力があると言っていただきました。それまでは、そういうこと(色々なことについて考える事)を他人から肯定された事は殆どなかったので嬉しかったです。
 武先生は本当にアクティブですね。人生、いつ終わるか分からない。出来る環境と状態だったら行きたい場所に行きたいし、会いたい人には会いたい…そう思います。なかなか難しいですが…。 ヤマビル、気をつけてください!!!  気温の差が激しいので体調を崩したりしないように気をつけてください。  SHANE



NO329  2014年6月1日発行 


 元気に乗り越えました 4、5月の新聞・広報づくりの指導  

 4、5月に受け持った新聞・広報講座

 4月17日・神奈川県大井町P  4月23日・秦野市P連情報委員会  4月25日・秦野東中学校   
 5月2日・神奈川県中井町P  5月7日・伊勢原市P  5月13日・神奈川県松田町P  5月14日・秦野市P  5月15日・茅ヶ崎市P   
 5月20日・神奈川県湯河原 箱根町 真鶴町P  5月22日・神奈川県寒川町P  5月24日・東京都中野区P
 





NO328  2014年5月1日発行 
  「エコー」印刷版は5月20日で創刊30年になります。


  4月17日に開かれた大井町の広報づくり研修会を担当された教育委員会から「講座のまとめ」が送られてきた。


 エコー教育広報相談室代表  武 勝美様

 木々もすっかり芽吹き、新緑の葉が茂る季節、先生におかれましてはますます御健勝のこととお喜び申し上げます。
 さて、過日開催いたしました「広報づくり研修会(第1回)」には、公私とも御多用の折、御指導いただきありがとうございました。
 「三陸新報Jのお話を拝聴したときに、改めて新聞や広報の存在意義を実感するとともに、読み手の心に響くような広報紙をめざすことの大切さを再確認いたしました。PTA広報においても「子育てを一緒に考えるため」という大きな目的をもち、今伝えたいこと、一緒に考えていきたいことが盛り込まれた広報紙がきっと作成きれていくことと思います。同封きせていただきました参加者の感想にも、この研修会をとおして、委員としての広報づくりへの取り組みの姿勢や考え方、次の活動への意欲が向上したという感想が多く寄せられ、私自身も嬉しく思います。これを機に広報づくりはもちろん、多くの人とのふれあいにまで広がることを切に願っています。ありがとうございました。

<参加者の感想>
○ 初めてのことで、広報とは何ぞや? と思いながら参加させていただきました…が、先生の話のとりこになったとでも言いましょうか、自分の知らなかった自分の特性を発見したような気になりました。文章を書くことが好きなのかなと…下手の横好きでしょうか。これからの活動が楽しみになりました。が、他のメンバーとの温度差がないといいな、と願うばかりです。もしできましたら、今後、ご相談等お話しできるチャンスがあればと思いました。
○ とても感動いたしました。参加する前は、義務感でいっぱいでしたが、武先生の話がとても魅力的で引き込まれました。気仙沼の話もあわせてキャッチコピーの話などとても興味深く、職場のみんなに話してあげたいと思いました。ありがとうございました。
○ PTA広報3回目の挑戦です。武先生の話に毎回、やる気をいただいています。ありがとうございます。
○ 初めて広報委員になりました。広報は主に報告を載せるものだと思っていたので、そうではないことを知り、とても参考になりました。
○ 広報づくりは初めてなので、参考になりました。広報の役割を考えながら、1年間がんばりたいと思います。
○ 大変なイメージしかない広報を初めてやるのですが、少しやってみたいと思えるようになりました。
○広報のわかりやすい記事の書き方などが学べて楽しかった。
○ 色々例をあげて説明され、わかりやすかった。今後、非常に役立ちます。広く情報を集め、できる限り良い会報を発行したい。
○ 広報の役割がわかりやすく鋭明されてよかった。未来のことがわかる広報誌をめざしたいと思います。
○ とてもわかりやすく今後に生かせそうです。どうゆう広報を作ったらいいのか、というイメージがわきました。ありがとうございました。
○ 終わったことだけでなく、これからのことを書くと良い記事になるということが分かりました。ありがとうございました。



NO327  2014年4月5日発行 

道祖神めぐり 次号に詳報の予定


猿田彦の面が彫ってある道祖神に献杯  山梨県中央市関原 2014年4月4日






NO326  2014年3月1日発行 


第63回全国小・中学校・PTA新聞コンクール表彰式     2014年2月24日



 審査委員会の言葉                                    全国新聞教育研究協議会参事  武 勝美

 祝「東中新聞」一千号到達  六十四年発行続け千号に達せし新聞の高し麗し       

 『東中新聞』の「文部科学大臣賞」受賞おめでとうございます。そして一千号の到達はすごいことです。快挙です。
 『東中新聞』の創刊は1950年、それから64 年という歳月をかけ昨年(2013年)10月25日に一千号を発行しました。このコンクールは今年で63回を数えますが、発行1000号という特別賞を出したのは今回が初めてです。このことは『東中新聞』は全国の小・中学校の学校新聞の中で、最速で1000号に到達したということを意味しています。全国で最も発行号数の多い学校新聞が『東中新聞』です。 
 学校新聞の役割は、①その時々の学校生活を書き残すこと、②学校生活に欠かせない大事なこと(時にはいやなことでも)を知らせることです。64年間『東中新聞』は読まれ、学校生活をもっと楽しいものに、より充実した中学校生活を送れるようにしよう、という話し合いのきっかけになってきました。
 東中で学んだ私は、『東中新聞』の創刊に関わりました。でも正直に言えば、私には『東中新聞』づくりについての記憶はほとんどありません。ただ印刷する前の原紙にヨードチンキ色の修正液をこぼしてしまい、真っ赤になった原紙に呆然としたことだけは覚えています。そのときから私の新聞作りは始まり、今もこうして皆さんに新聞の話をしています。今の私があるのは『東中新聞』との出会いがあったからです。そして新聞作りを指導してくださった先生方、支えてくれた東中生のみなさんによって今の私があると思っています。
 千号を作った広報委員の頑張りは言うまでもありません。でも『東中新聞』は全校の皆さんの協力、先生方の指導や支えによって発行が続けられてきたのです。生徒会の活動がなければ記事は書けません。アンケート調査に協力してくれるから紙面にグラフが載るのです。ですから、今日の『東中新聞』の表彰は、東中学校の生徒・先生の全員に対して行われたものです。
 千号を超えた『東中新聞』が新らたな心で確実に歩を進めてくれることを同窓生の一人として願っています。受賞 おめでとうございました。 



NO325  2014年2月1日発行 

  VERAさん こちらこそ素敵な時を持たせていただきました ありがとうございました

2014年1月17日
 イギリスのCoventry 市に住むVera and Eric夫妻とのお付き合いは今年で28年になる。そのVeraさんが亡くなったとご主人から訃報が届いた。
 1987年、その夫妻の家に長男は下宿させてもらった。それがご縁で1990年春、夫妻を秦野に招いた。東京、秦野、箱根、ディズニーランドを一緒に楽しんだ。翌1991年の夏、私たちはCoventryを訪ねた。そして夫妻の案内でエディンバラまで足を伸ばした。それ以降、会うことはできなかったがクリスマスカードの交換は続いて27年になる。プレゼンはお互いの街(市)のカレンダー。
 ご主人Ericさんが書いてきた手紙に「私たちはFantastic timeをあなたたちともてたことに感謝します」とあった。共に旅した思い出がいっぱいの私たちだから、「こちらこそ」という思いを込めてお悔やみの言葉を20日に届けた。



NO324  2014年1月1日発行





郷土玩具「馬」




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