-ECHO-  最新号(創刊1985年5月20日)
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動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない

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246号 2006年12月1日発行

 武先生 今日は先生の大切なお話をありがとうございました。「ことば」は人に思いを伝えるだけでなく、人と人とのあたたかいつながりを育てるもの、心の通い合う関係を培うためにとても重要なもの、と改めて感じました。
 先生は長い教員生活の中で、心を尽くしてことばをつむぎ、子供たちとの関係を築いてこられたのですね。「ことばの力」もさることながら、先生に信頼を寄せ、おそらく心の師)と仰いだ生徒たちとのふれあいについて感動しました。そんな出会いがどの子にもあったなら、昨今の悲しい出来事も起こらなかったのではないか、とも思いました。
 人が思いを伝えることばを持ち、ことばの力を発揮するためにはどうすればいいのでしょう。ことばの暴力より、やさしいことばでつながっている方がどれほど心地良いか、子供たちに教えるにはどうすればいいのでしょう。文科省の新しい指針が建前だけで終わらないよう、家庭も、学校も、行政も、みんなで変わっていかなければ、と思います。そして子供たちには、自分を伝えることばと他人の痛みを慮る想像力を身につけてほしいと強く思います。
 ことばに救われた、傷つけられた、という武先生の体験談を、もっと多くの先生や親、子供たちに伝えていただきたく思います。     Eri


 武勝美先生
 心に染みる講演をありがとうございました。今帰ってきました。「おばあちゃんのお弁当」の話、なぜだか分からないけどすごく感動しました。「共感」ともちょっと違う、何か温かいものが胸の中に広がるのがわかりました。言葉の力を実感しました。今日は先生の話が聞けて本当に良かったです。ありがとうございました。

 追伸 私は子どもの心を忘れずに大人になりたいです。
     小さなことでも、伝えたいと思ったら全部伝えられる言葉を持った大人になりたいです。      Yuri



 EriさんYuriさんへの返事

 子どもに教えられ、きょうまで生きてきた私

 聴いていだいた話の終り《尻切れトンボ》だったでしょう。
 私「おはよう、生きてたよ」
 妻「おはようございます。私も生きてたわ。バアちゃんも生きてる」
 《生きる》ということ、「生きる」という言葉をもてあそんでいるみたいに思うでしょう。70歳を超えた私には、新しい一日を迎えられる、迎えられた喜びが「生きていたよ!」という言葉になるのです。

 97歳の母は、しばらく前から昼夜を問わず眠り、目覚めると食事時以外は独り言、という生活になりました。だから、妻は起きるとすぐに母のベッドに行くのです。

 きょう、訪ねていただいたのに留守をしました。申し訳ありません。母がデイケアで看てもらっているのが毎土曜日。私たちは9〜3時の時間帯に1週間分の《買出し》に行くのです。

 お二人で話を聴いていただきありがとうございました。Uさんが来てくれるなんて思ってもいませんでした。その上、感想まで述べてくれた―うれしかったです。うぬぼれ、自慢話、そんな気がしてならない内容だったと思っています。「言葉の力」が語れたとは到底思えません。ただ、何となく《持ち時間》が見えてきた今、自分を語るときがきたと思っています。『足』の話、教え子からの手紙は昨夜初めて公開しました。

 教師になったのは偶然です。『モノローグ50』の「六十年安保の年 教師になりました」を読んでください。子どもたちに申し訳ないと思っています。私は、ずっと子どもたちに教えられたから、教師を務めてこられたのです。だがら、ほんの少しでもお返しがしたい、と思っています。(とても、難しいことで、できるはずはないのですが)

 お二人からいただいた言葉に浮かれた私でした。(昨夜紹介した卒業生の手紙にもありました「浮かれてないでください」は、私を見抜いた言葉です!)
 小著を読んでください。それこそカッコつけた私がいますが…。『モノローグ』は東中での生活が中心になっています。

 Yuriさん 体調に気をつけて冬を迎えてください。
 お母さん、よいエッセイを書いてください。
 ありがとうございました。
                             武 勝美




 カッちゃんの結婚式

 あの日の出来事がなかったら,今の自分はなかったかもしれない。神奈川県秦野市にある中学校の武勝美先生(49歳)はそう思う。
13年前の、5月の連休明けのことだった。英文で日記を書く連休中の宿題を,あるクラスは5,6人しか提出しなかった。
「これだけしかやってこないのか。カツミでさえやってきたんだぞ」。なんの抵抗もなく飛びだしたことばだった。先生と同じ名前のカツミ君は、受け持ちのクラスにいた。いわゆるツッパリだった。
 だれかに聞いたのだろう。放課後,職員室にカツミ君がどなり込んでき。「カツミでさえとは何だよう。おめえは初めから、そんな風にしか見ねえんだ」。
 泣きながらの抗議だった。悪かったと思った。だが謝れなかった。教師としてのメンツだったかもしれない。
 その夜、女生徒から電話があった。「カッちゃん」が家出したというのだ。すぐ奥さんと車に飛び乗った。どのくらい走り回ったか、市内の工場地帯で、ほかの学校の生徒ふたりと自転車に乗っているカッちゃんを見つけた。カッちゃんは先生に気づくと逃げた。
それから1時間。また、カッちゃんたちに出会った。「もう帰ろう」と呼びかけると・カッちゃんの仲間が、信用できそうな先生じゃないか、と言ってくれた。
 国道沿いの食堂で一緒に定食を食べ、家に送り届けたときは午前3時を回っていた。

 カッちゃんは高校に入り、卒業後、消防士になった。そのカッちゃんから今年、結婚式の招待状が突然届いた。乾杯の前にスピーチをしろという。うれしかった。
 5月・披露宴のカッちゃんほ格好つけて、堂々としていた。式の終わりに、職場の同僚が「彼に頼まれた」とメモを読みあげた。
 「おふくろへ。今日まで本当に面倒かけっばなしだった。これからは、体に気をつけて、おやじの分まで長生きしてくれ。時には、ちっちゃな家にも遊びにきて、今までどおりオレを叱ってくれ。今日まで長い間ありがとう」
 カッちゃん、泣いてた。          (朝日新聞『街』昭和61年6月13日)
   






245号 2006年11月1日発行

 ある学級新聞から

 過去にいじめにあった 3割   子どもには難しい いじめへの対処

 A小学校の6年5組は4月から週刊で学級新聞を発行している。その第18号は10月20日に発行(下参照)されたが、「緊急いじめアンケート」の特集で全面が組まれている。
 記事は「つい最近のテレビのニュースで、北海道の小学校に通う女の子が『いじめ』をうけ、学校で自殺したというニュースがありました。そこで私たちは『いじめ』について緊急アンケートを行ないました」で始まっている。
 そのアンケート調査の結果
 ・31名のクラスで12名が過去にいじめを受けている。
 ・その内容は「バカ」「ブタ」という言葉によるもの、「避けられている」あるいは「にらまれる」といった態度によるもの、「悪口を言われる」「殴られる」といった行動によるもの。そして「全体的に、その人は『死んでくれる?』と言われていた」という例も挙げられている。
 ・この実態に対して「こうするといいよ 対処法」といじめへの対処の仕方もそれぞれが考えている。その方法は、「止めてと言う」が6人 「相談する」6人 「仲良くする」6人 「止めに入る」3人 「とくになし」が10人となっている。自由筆記らしいので、その回答の真意を十分把握するのは難しいが(いじめを受けた場合なのか、そうでない立場にいるのかなど)、「とくになし」と書いた10人という人数は、いじめへの対処が子どもたちには、非常に難しいことを表している数値だ。
 ・この調査は「いじめをどう思う?」と尋ね、その結果から「6年5組の仲間は『いじめをしてはいけない』という意志がはっきり伝わってきました」とまとめている。
 
 6年5組はこの新聞を題材にして翌週学級で話し合いを持った。







244号 2006年10月1日発行




「秦野の新聞教育」の紹介     北海道新聞    2006年9月25日 







243号 2006年9月1日発行


  全国新聞教育研究大会秦野大会
  
 お母さん記者の皆さんの新聞作りのレベルの高さと頑張りに脱帽

                                                     西馬音内幸子

 第49回全国新聞教育研究大会が盛会が成功裏に終わったこと、あらためてお祝い申し上げます。今大会で発行された速報版「湧水」4号までを読ませていただきました。本格的な新聞スタイルで、秦野らしさが溢れています。新聞にかかわる人々の思いが込められた素晴らしいものができていますね。
 2日間で4回、それもA3版両面ということで、時間との勝負だったということが伝わってきます。事前取材や準備もあったのでしょうが、どのような時間配分でここまでできたのかにも興味がわきました。武先生はじめ、石田先生、瀬戸先生、渋中生徒の皆さん、市P連情報委員、広報委員さん、本当にお疲れ様でした。
 お母さん記者の皆さんに敬意を表します。準備期間から、お子様方の夏休みまで、いろいろと大変な思いもされたと思います。しかし、一生に一度かもしれないチャンスに挑戦し、出会った仲間と乗り越えた皆さんは、素晴らしく輝きながら、この夏を終えることでしょう。
 新聞教育研究会が今後、子どもたちの教育に生かされること、人と人とをつなぐ大切な言葉の礎になってくれることを心から願っています。

 コーナー別
・ 新聞名「湧水」…秦野のPRにピッタリ。勇壮できれいな題字。1号に題字の説明があったのでなるほどと思った。
・ 東西南北…朝日新聞の「天声人語」、神奈川新聞「照明灯」を思わせるコーナー。▼印では展開が欲しいので、第1号の(Q)さんの書き方を参考にしていただけたらと思う。
・ この人…今大会、要中の要の人にお聞きしたのは良かった。1号のインタビューには途中に小見出しがあったら、なお読みやすいと思う。
・ 四季つれづれ…担当の浦田さんは、秦野を自分の足でよく歩き、学び、五感と知性を働かせて記事を書く優れたジャーナリスト。1号が春で始まったので、夏秋冬と続くのかと思ったが、みごとな秦野市の紹介だ。秦野を外に紹介するならこのように紹介したいものだ。「谷鼎」など、県外の方には読めないかもしれないので、ルビが欲しかった。
・ 編集後記…速報版のリーダーたちの熱意を感じる。4号編集後記に編集委員のお名前が書かれてある。生徒は渋中という所属が書かれてあるので、できれば、花組・星組(宝塚?)のあとに、秦野市PTA広報委員・情報委員を入れて欲しかった。1号にPTA18名と書かれてあるので分かるが、4号だけを手にした人は、宝塚かと思う…というのは冗談ですが、学校の先生たちが書いていると思っている人もいるようだ。

 号別
1号 たくさんの人物と学校が登場し、興味を引く。写真が少ないが気にならない。
1面トップの縦見出し、正しくは「全国新聞教育研究大会」か。
2面の見出しの付け方が上手。
2号 1面 参加者の生の声を、満遍なく、即座に取材したのは素晴らしい。懇親会の地図掲載、心配りに感謝。写真の方向も意識しているのが分かる。
 2面 レイアウトが楽しい。見出しは同じ言葉を使わず、みごと。
3号 1面 「講座・実習」という文字は共通なのでカットして、講座名のところに、できれば別の見出しも添えて欲しい。例えば「小学校新聞作り」のところは、「次の発行につなげるには」とか、「誉めて意欲を高める」など。「パソコン新聞作り」のところは、「すぐ使えるテクニック」など。
4号 4号発行で、起承転結の「結」という印象を受けた号。
   1面 参加者の声は、具体的で分かりやすい。短いのに的を得た記事。聞き方が上手だったのか、記事まとめが上手かったのか。
   2面 助言者のアドバイスの中に、今後の課題が発見できた。新聞記者講座の記事、限られたスペースに、うまく内容をまとめてあり、参加していない人にも伝わって
いると思う。この人:谷津先生、事務局お疲れ様でした。

 以上、読後の感想を思いつくまま、忌憚無く書かせていただきました。ゆっくり読めばこそ気づいたのであって、速報としては、言うことが無いくらいすごいものができていると思います。皆さんの新聞作りのレベルの高さと頑張りに脱帽です。
 最後になりましたが、秦野市P連をご指導された武勝美先生に感謝いたします。ありがとうございました。






242号 2006年8月1日発行






東公民館主催「誰にでもできる新聞づくり講座」
2007/6・3/6・24






241号 2006年7月1日発行


わたしのふるさと  NO30


 そうだっぺ
                     
 「ねえねえ 実家はどこ?」と聞かれるたびに、なんともいえないコンプレックスを感じてきました。そう、少なくとも三十代半ばくらいまでは。
 高校を卒業して 上京、お嬢様大学… わたしは生まれも育ちも茨城。茨城といっても、利根川の対岸は千葉県で「ちばらき県」などとからかわれる
こともありましたが。
 何よりも気にしていたのが話し言葉です。自分自身は標準語に近いイントネーションで話していましたが(たぶん)、東京の友人に、自分の両親や友人を紹介するときは思わず「恥ずかしい。あんまり話さなくていいからね」と願ってしまったものです。愛嬌のある大阪弁や、みやびな京ことば、素朴な津軽弁ならどんなによかったと思ったことか。
 私のふるさとの言葉は、語尾がぴょーんと上がり、イはエに。エはイに。濁点がたくさんつきます。「イイゴノデギワエガガ?」(=英語の出来は如何?) とどめは「だっぺ」。都会に憧れ、おしゃれに目覚めた乙女にとって、この「だっぺ」は致命的です。
 しかし無駄に年は重ねないもので、いつのころからか、ふと気付けば、このコンプレックスはあまり感じなくなっていました。少し前に「老人力」という本が出ましたが、私の場合は「おばさん力」と申しましょうか。開き直って「おもしろい言葉」と感じられるようになりました。
 事につまづいた時は「いがっぺー」(まあまあ そんなところで良しとしよう)と、自分を励まし、調子にのって浮き足立つと「のぼせんなよ。しみじみやんだよ」(きちんと仕事をしよう)と、自分を戒める、実に役にたつ言葉なのです。この愉快な茨城弁を使いこなせるバイリンガル。コンプレックスをプラスに変えていく力と勇気が湧いてきます。
 秦野に住んで二十年あまり。すっかり神奈川県民だと思っています。でも 山々の美しさには 今でも震えるほど感動します。ふるさとには山がなかったからです。故郷はどこまでも広がる美しい水田でした。その美しいふるさとには両親が健在です。景色、風土、両親と幼なじみ そして「茨城なまり」が私のふるさとです。   H・O






240号 2006年6月5日発行



 広報技術講習会の魔法
                   
 広報技術講習会の冒頭「広報委員に自ら立候補した人」という武先生の問いかけに数人が手を挙げました。周囲は驚きの目を向けました。続いて「できるなら今すぐにでも役を降りたい人?」。この問いにも即座に手を挙げる正直な人がいて、笑いの輪が広がりました。広報委員は大変というイメージが定着して、進んで受ける人が少ないという現状を物語る一コマでした。しかし、講習会が進むにつれて会場は熱気に包まれていきました。武先生の示されたさまざまな新聞の力の実例にぐいぐい引き込まれていったのです。 
 東京都のA中のPTA広報委員会が、学校選択制導入に伴い、区内の全六年生にA中の良さをPRしようと奮起した広報紙作りは実に大きな成果をあげました。三年越しの活動でなんと新入生が三倍に増えたのです。A中を愛し、子どもたちを想う気持ちで作成したP広報紙が読者の心を動かしたのです。
また、洋菓子で有名な北海道の「R亭」は、十二ページもの社内報を毎日発行しているそうです。千三百人の社員は、毎日同じ新聞を読み、考え、時に寄稿することで、社員の間に仕事に対する共通理解や、向上心や熱意が育まれていくのではないでしょうか。数年前に訪れた「R亭」には、温かいお客様第一主義の精神が隅々まで行き届いていました。今思えば、全てはこの新聞パワーの賜物だったにちがいありません。
 これらの事例を通して、広報紙には、読み手を動かし、団体や組織を活性化し、発展させる力があり、とても重要な役割を担っていることに気づかされました。ただルーティンワークのように受け身で発行するのでなく、伝えたいこと、訴えたいことを明確に記事にすることが何より大切なのだと学ぶことができました。
 その後、読ませるための技術として、記事の内容、発行タイミング、レイアウト、写真の選び方、文章の書き方などいずれも事例をあげて実践的な指導を受けました。これら実務のノウハウを学ぶうちに、「自分にもできるかもしれない。このアイデアを参考にしよう」と私の内からどんどんやる気がみなぎってきました。参加する前の不安やマイナスイメージが吹き飛び、「大変かもしれないが、新聞の持つ力、言葉の持つ力を信じ、最大限活かせるよう頑張ろう」と思えたことが一番の収穫です。そして、これこそが毎年語り継がれている広報技術講習会の魔法なのだと、かかってみてその威力を改めて実感しました。くだんの、今すぐにでも広報委員を辞めたいと挙手した彼女も、もちろん笑顔で会場を後にしました。後日談
ですが、彼女が向かった先はカフェでの熱い企画会議だったそうです。
 全国大会の夏を待たずして、すでに秦野の初夏も「新聞で熱かった」のでした。   Tamami




 
 言葉の力を新聞づくりで

 私は広報誌作りに興味をもてなかった。広報誌にどんな意味合いがあるのかを知らず(学ばす))40数年を過ごしてきてしまった。今は、もう少し早く広報の大切さに気づいていたら、と悔やまれる。
 今年度、情報委員のお役をいただき、4月半ば、市P連総会に出席した。その折、全国新聞教育研究大会神奈川・秦野大会の案内を目にすることができた。秦野の新聞教育は、昭和20年代半ばにその産声を上げ、今に受け継がれている長い歴史がある。戦後まもなく生まれた新聞教育を育んできて下さった秦野の先人たちに敬意と感謝を表したい。
 大会の研究主題「言葉の力」の文字が心に焼きついた。「新聞作りは『言葉の力』『コミュニケーション能力』を高め『生きる力』を育む教育活動である」とあった。殺伐とした今の時代だからこそ、「言葉の力」を育む新聞作りは大切と、素直に思えた。
 情報委員会が主催する広報技術講習会への出席も「立場上参加する」というような心構えの私だったが、大会案内を読み、自分なりに何かをつかまなくてはいけないと思うようになっていた。その講習会で、伝える広報にとどまらず、問題提起してこそ広報。人の心に響き、ゆるがすのが広報誌。そんな話に強い共感を覚えた。新聞作りと教育が私の頭の中
で確かにつながった。広報作りのさまざまなノウハウも初めて目にし、耳にし、まさに《目からウロコ》。私もPTA本部として伝えたい、理解・協力を得たいことがたくさんある。さっそく講習会終了後、広報正・副委員長に駆け寄り、東小学校初の子供CAPワークショップの取材をしてほしいとお願いした。
 6月中旬発行目指し動き始めているとのこと。取材許可の確認も必要ということで先方に連絡をとった。すると「直接取材より、先生方に感想や子供たちの様子を聞いてみるほうがよい。子供たちの感想文を紹介してみてはどうか」などのアドバイスを頂いた。思い込み、決め付け、こだわり、偏見では真実は伝えられない。着眼点の角度を変えて観ることにより、バラエティに富んだ記事ができあがることを学んだ。さらに、公平な判断ができるよう努力をすべきとも感じた。
 母、主婦として、そしてPTA役員として、私が生活していく上で、言葉は本当に大切なものだと思う。年輪を増やしていくにつれ、純粋さを失い欲心に染まっていく私の心の浄化を「言葉の力」でできたら良いと思う。   Yukiko















239号 2006年5月1日発行


 
  「優しさ」は「易しさ」ではない

 238号の『にっきの木NO82』の「たった一行でも『楽しかった』と書いた子、原稿用紙2枚書いた子、私はどちらも同じようにほめてあげる」という教師。それに心を打たれる母親。
 武さんの「…術・力を身に着けさせるのが学校の役目」という意見は正論です。いかにも子供を大切にしているかのような耳ざわりの良い、安易な、甘いこの教師の言動。こういった姿勢が今、教育の主流になっているような気がします。「優しさ」は「易しさ」ではありません。ただ、子供の可能性を信じて、自ら育つ力を期待することが真の教育なのか。「教える」「指導すること」があたかも悪であるような風潮。「支援」という言葉で教育を考えることが善であるかのような考え方。「教育とは何か」その原点を考えることが必要だと思います。   Yoshihiko




 「いただきます」はいらない?

 小学生のころ、悪さをして先生に叱られたことを、帰って親に話すと「お前、そんなことをしたのか」と、又親に叱られたものだった。どこの家でも、それが当たり前のことだった。それだけ、親は先生を信頼していた。勉強が出来ようが出来まいが、学校は絶対であり、先生は、大げさに言えば神様みたいな存在であったように思う。それがいつの間にか、先生との距離がつまり、今は、その間がなくなってしまった。それにはいろいろな理由もあるのだろうが、このことは決して良い風潮とは言えない。
 『エコー』の236号の「学校教育」を読んで、心の狭い世の中になったと思った。確かに今の世の中、いつ何か起こるか分からない。学校も大変だろうとは思うが、良いことはしっかりやってほしい。人はそれぞれ個性がある。その個性を伸ばすのが教育だから、良いことをしたらほめてあげ、悪いことをしたら叱る、これは教育や、子育ての基本だろう。
 ある新聞で読んだ記事。小学生を持つ母親が「給食の始めに『いただきます』と子どもに言わせているが、給食費を払っているから、そんなことは言う必要はないではないか」と、学校に抗議をしたという。開いた口がふさがらない。生き物である魚や動物の命を、野菜だって生きている、その動物や生物の命を《いただいて》人間は生きているのだ。そんなことが分からないない親に、子育てなんて出来っこない。  イチローの《ボケの独り言》







238号 2006年4月1日発行



 3月31日 そして4月1日

 3月31日 午後5時半から秦野駅前の居酒屋で全国大会の準備会が開かれた。集ったのは全国新聞教育研究協議会本部から鈴木会長、田村事務局長、地元秦野から大会実行委員長の地崎校長、事務局長の谷津先生、事務局次長の石田先生、それに私。私以外は現職、しかも今日は年度の最後の日なので、勤務が終わってということになった。議案は秦野が準備した大会の講師や実践報告者の候補を本部と検討すること。当初の案より分科会を増やすことになった。秦野としては、大会がそれだけ充実することになるので嬉しいこと。明日から新年度、8月に向けてカウントダウンが始まる。
 1時間ほどの検討会が終わりビールで歓談した。明日の人事異動で田村事務局長は移動するとのこと。「事務局の資料を動かすだけで大変」などと言っていたが、「久しぶりに1年の担任を持つので」と心は明るいようだ。環境が変わることは良いこと。
 金曜日の夜、3月31日ということで、あちこちの席で送別の宴らしきものが開かれていた。東京に帰る鈴木・田村さんを見送りに立ったら、同僚だった4人の先生に出会った。顔見知りの市役所の課長さんとも言葉を交わした。

 4月1日、今日の人事異動で、私の教え子の4人が校長先生、教頭先生に栄進した。



あるPTA広報から受けたインタビューの記事

先生と保護者は車の両輪

 「PTAって本当に必要なの?」「重荷!」「めんどうくさい」「誰かがやってくれるわ」では…。自分の子どもの子育ても他人まかせにできますか? PTA活動は、子どもを持つことができた親として「やらなくてはいけない」のではなく、「今しかできない」と、とらえたらどうでしょうか。PTAに関われるのも子どもが学校にいる数年間だけです。
 皆さんは、どのようなPTA活動をされましたか? 学校に対して疑問や意見、要望を持ったりしたことはありませんか? 学校と親が連携していかなくては、子どものより良い成長は見込めないでしょう。先生と保護者が車の両輪になり、子どもたちを乗せて走ります。その両輪が回ることがPTA活動です。懇談会や資源回収、広報紙作りなど行なう委員になること、そして会員の一人としていろいろな行事に参加し、学校へ足を運ぶこともPTA活動です。
 ここでは、PTA活動の中でもっとも敬遠されがちな広報紙作り(広報委員)について、長年PTA活動や広報紙作りの指導に携わってこられたエコー教育広報相談室の武勝美先生の考えを聞いてみましょう。

 欠かせない学級懇談会と広報紙
―PTA活動の中で、それほど広報は必要なのだろうか、という声も耳にします―
 PTA活動を精選すれば、最後に残るものは学級懇談会と広報発行の二つだと思っています。PTAとは「先生と保護者が子どもの幸せについて考える会」です。だから学級懇談会が開かれるのです。その懇談会に出席できない人たちのために、懇談会の内容を伝えることがPTA広報の第一の役割だと考えています。
―広報委員になると大変、自分の時間がなくなってしまうのでは、と心配される方が多いのですが―
「時間が取られる」ことへの対応として、定例会の日を決め、その日以外の活動はメールや電話で済ますという例もかなり見受けられます。自分たちの活動方法を作り、それに従って活動すれば負担も軽くなると思います。できる範囲内で活動するということです。大人が「時間がない」「大変だから」と逃げ、楽をすることばかり考えていると、子どもたちも同じように育っていってしまうような気がします。

 活字による情報伝達の特性
―武先生にとってPTA広報とはどのようなものなのでしょうか―
 インターネットなどでのPTAの情報交換も可能な時代です。でも活字による情報伝達の方法(新聞・広報)は消えることはないと思います。
 サッカーの専門紙の主筆・山田泰さんは、初めはネット上でサッカーの記事を書いていましたが「ネットは言論文化の苗床。その苗を紙媒体(新聞)に田植えをする」と考え、週3回の『EL GOLAZO』という新聞を創刊しました。スタートは10万部だったのに、今は16万部と増えているそうです。
 活字メディアはインターネットメディアと比べ次のような点に特長があります。@紙面を見渡せる、関連記事まで読めるという『一覧性』 A何度でも読み直しが簡単にできる『記録性』 B持ち運びできるからどこででも読むことができる『可搬性』です。
 
 広報は耕報
 広報活動をしていると、たくさんの素敵な人に会うことができます。取材の最中に思いがけない言葉に出会うこともあります。その人に、言葉に、感動・感激します。磨かれる思いがします。たくさんの広報委員さんを見てきて、「PTA広報づくりに一生懸命な人は、子育てにも自分の生き方にも一生懸命な人だ」ということを知りました。ご一緒に広報をつくりませんか。自分の心を耕しませんか。





     この夏 秦野は《新聞》で熱くなる 全新研・秦野大会の案内 NO1

       第49回全国新聞教育研究大会
       全国学校新聞指導者講習会 神奈川・秦野大会

       主催  全国新聞教育研究協議会 
            秦野市小学校教育研究会・秦野市中学校教育研究会
       期日  平成18年8月3日(木)・4日(金) 
       会場  秦野市文化会館
       内容 ・8月3日 開会式(13:00より)
            新聞講習会(15:20〜17:00)
            @小学校新聞づくり A中学校新聞づくり 
            Bパソコンによる新聞づくり CNIE DPTA広報づくり
          ・8月4日 研究分科会(9:10〜11:50)
            @小学校 A中学校・高等学校 BNIE CPTA広報
       問い合わせ先 事務局・秦野市立本町中学校(0463-81-0342) 谷津裕教諭
   






237号 2006年3月1日発行



全国新聞コンクール

 秦野市から9校・11紙が入賞

 毎日新聞社と全国新聞教育研究協議会が主催する第55回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果が2月24日に発表された。応募総数が2万を超える中で秦野市から9校・11紙の入賞をみた。「新聞づくりの秦野」として面目躍如たるものがある。

☆学校新聞の部
   佳 作         東 中学校   本町中学校
   奨励賞          大根中学校   鶴巻中学校

☆学級新聞の部    
   入選・審査委員会賞    北小学校5年4組
   佳 作          東中学校3年1組
               東中学校3年2組
   奨励賞         渋沢中学校3年1組

☆PTA新聞の部
   入選・毎日新聞社賞   堀川小学校PTA
   入選・審査委員会賞   西小学校PTA
     佳 作          西中学校PTA




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 広報部員を終えて
 今、晴れわたった空のようにさわやか

 役員同士のきずなが強くて、あったかい場所でした。先輩ママや小さい子のママ、同じ広報部貞という形で入り混じって、同じ目的(広報紙を発行する)を達成するために時にはぶつかり合い、時には横っ腹が痛くなるほど笑いころげ、一緒に感動したり、ホロリとしたり…。こんな『人間くさい』付き合いを、最近してますか?同じクラスのお母さんたちや、近所の人たち、地域の寄り合いなどなど…。ここまで、屈託も装いもなく本当の自分のままでいられる場所はありますか?
 私たちの心を解いてくれたのは「広報紙さかいねを発行する」というみんなに平等にかけられた使命があったからだと思います。仲間がいるから、先の見えない校正の日々も、寒い屋外の取材も、何度も学校に足を運ぶ事も苦に感じなかった。
 完成してみんなの手に広報紙が届く頃、広報部員の心の中は、晴れわたった空のようにさわやかで、おだやかな気持ちで満ち溢れています。
 役員決めのあの時迷って、頼られて、困り果てて、就いたはずの広報部。ぜひ、あなたのクラスの広報部員を捕まえて聞いてみて!「広報紙さかいね」の魅力を…。広報部の魅力を…。(広報『さかいね』108号・2008/2/18・柏市立酒井根小学校PTA)






  

236号 2006年2月4日発行



学校教育を考える


 その1PTA広報と子どもの写真

 個人情報保護法に、学校が過敏になっているように思えてならない。A中学校のPTA広報が、修学旅行の写真を借りたいと学校にお願いした。先生が「これを」と貸してくれた1枚は『怪獣のマスクを着けた車内のスナップ』。これは、まさに「子どもの個人情報を出さない」という強い意思表示にちがいない。
 B小学校のP広報は、入学式の写真を載せようとしたら、「顔の判別がつかないもの」という指示が学校からされた。この条件で発行した広報委員会は「会員のみなさまへ」という、次のようなお知らせを紙面に載せた。
 「今回の一年生集合写真に付きまして、個人が特定できないくらいの不鮮明な写真となっておりますが、学校側からの『新入学児童への防犯上の配慮』ということで、このような写真になったことをご承知おききください」
 子どもの個人写真をPTA広報に載せるについて、次のような条件を付けている小学校があった。@本人の了解を得る。A保護者の承諾を得る。B学級担任が了解する。C全職員が認める。広報委員会はこの条件を提示されたとき「これらの条件を全て満たすことは物理的にも無理。子どもの写真は載せてはいけないということなのだろう」と理解したと言う。
 昨年の私のPTA広報講座で、子どもたちの顔写真を広報に載せることについての心配、あるいはそれから起こる混乱についての答えをたくさん求められた。保護者は学校の姿勢に混乱している。



 その2子どもを褒めるということ

 先ごろこんな電話相談もあった。いろいろな競技やコンクールで入賞した子どもたちを広報で紹介しようとしたら、委員の中から「特定の子どもをPTA広報で褒めるのは不公平だ」という意見が出という。それで先生に相談したら『その大会で、その会場で表彰されたのだから、校内では再度伝達表彰はしない』との答え。それで委員をどう説得したらいいのか、ということ。聞いてみると、学校だよりなどでも児童の個人名はほとんど登場しないようだ。
小さな学校なので「表彰を受ける子が偏る」というのも、表彰を受けた児童を広報に載せる必要はない理由の一つになっているようだ。
 小さな学校だからこそ、全ての子に光りを当てることができると私は思う。がんばった子を、たくさんの視線の中で、「がんばったね」とほめることで、その子はさらに努力をするだろう。表彰される仲間のがんばりに、心から拍手ができる子どもを育てることができるのが学校、そして大人のすることではないか。次は自分もみんなから「オメデトー」と言ってもらおうと、がぜんヤル気にを見せるのが子どもなのだ。
 秦野市では毎年「青少年のよい行いをほめたたえる」表彰を行っているが、今年度の表彰について、次のような趣旨を各学校に伝えた。
 「被ほう賞者本人が、より喜びを感じ、自信を深め、周りの生徒の自覚を高めるため、各学校でほう賞を発表していただくよう、学校に依頼いたします」。 
 


 その3道を聞かれたらすぐ逃げなさい

 昨年の暮・12月13日朝日新聞・夕刊の記事を読んで思ったこと。
 「道を聞かれたらすぐ逃げなさい」、「人を信じたら身を守れない」と、警察官が小学校の防犯講話の中で話したという。哀しいかな、日本の現実では、子どもたちはこの言葉のどおり動くことが正しいのかもしれない。教室で、子どもたちは、「周りの人に親切にしましょう」、「困っている人は助けてあげましょう」と教えられる。その行為を通して、子どもたちは「人間は信じるに値する」ということを学ぶ。先生にお願いしたい。「人を信じたら身を守れない」こともあるが、人間社会は人を信じることが大前提で成り立っているということを、子どもたちにたくさん体験の中で学ばせて欲しい。







236号 2006年1月1日発行



山を負ふ軒にふくれて干布団       
      
 この夏 秦野は《新聞》で熱くなる

◆秦野市制施行50周年記念の『秦野の景観』の選定委員として、100の『秦野の景観』を選び、11月3日に発表しました。
◆11月に行われた第6回湯河原文学賞の俳句の部で二度目の入選(↑が作品)
◇昨年1月15日に発行した市制50周年記念の『市民が作る広報はだの』は好評でした。同メンバーで今月・1月15日にその第2弾を発行します。テーマは「歩いて秦野再発見」。読後感などお聞かせください
◇今年8月3・4日、第49回全国新聞教育研究大会が秦野市文化会館で開かれます。お力添えを。     
                     

2005年 他に記憶に残ったこと
1月・市制50周年記念『市民が作る広報はだの』が発行できました。
  ・東公民館が「『寺山ものがたり』を歩く会」を開催してくれました。 
  ・車を入れ替えました。多分これで最後。
3月・お手伝いした『秦野の教育と新聞』が秦野市教育研究所から出版されました。大きな喜び。
4月・JAの生産組合長になり、世界が広がりました。「ヤマヒルは鹿の蹄で運ばれる。鹿が山で生きられなくなったからヤマヒルが里山に生息するようになった」ことを知りました。
5月・初めて柏市でPTA広報講座。今年は新たに相模原市、伊勢原市、湯河原町、中井町からも招かれました。
6月・木原、笹原、西澤さんと浦佐に大竹さんを訪ね旧交を温めました。
9月・妻、入院手術。
10月・国勢調査員を頼まれました。その説明会で今の社会の一面を学びました。
  ・「秦野の景観選定」のため東地区の「ふるさと見て歩き」の案内をして歩きました。
  ・皮膚炎に罹る。
12月・秦野園芸愛好会17名で奥久慈の紅葉を見に行きました。宿に『読者』のOさんが和服で面会に来てくれました。感激!
  ・母、元気で越年。






235号 2005年12月1日発行



 わたしのふるさと NO21

 岩出山町の年末・年始
                                初野クニ子

 東京駅より東北新幹線で2時間20分、古川駅で乗り換えて陸羽東線で約30分、のどかな田園風景が広がる伊達政宗ゆかりの城下町、岩出山町が私のふるさとです。町村合併して50年、今年は市になる予定でしたが、名称が定まらず施行は一年後に延びたとのこと。町へ出るのに一里余りある村で高校生まで過ごしました。
 当時のお正月は旧正月で、銀世界の大晦日は朝から家族全員で雑巾がけやスス払いをして、新しい年をむかえる準備に追われます。いつもと違う新鮮でひきしまった空気が家の中たちこもるころは陽は西に傾いていました。大晦日の夕膳は、ごちそうがいっぱいで、本当に待ち遠しかったものです。

 お正月はいいもんだ
 雪のようなマンマ(ご飯)食って
 水のような酒飲んで
 油のようなドド(魚)食って
 と、わらべ歌にあるように白いごはん(農家なのにいつもは麦ごはんです)と寒ブリ、なめた鰈はこの日しかお目にかかれないごちそうでした。父が上座に座り、家族全員にお年玉を配るのも大晦日でした。家計管理は家長である父がしていたので、祖母が「今年は少ない」とかブツブツ言っていたのを思い出します。
 元旦は、お餅のオンパレード。つきたてのお餅は、お雑煮、おしるこ、納豆、黄な粉やごまの餅と変身し、太るのも気にせず皆でよく食べました。
 二日は、一里離れた商店街の初売りの日です。早く行くほどご祝儀がよかったので、父は雪道でもリヤカーを引いて酒屋さんに一番乗りをしようと、夜明けとともにでかけていきました。帰宅は必ず夜で、酔っ払っていい気持で戻ってきました。荷物いっぱいに積まれたリヤカーは誰かが届けてくれていたようです。
この初売りの朝食前に、子どもたちはさらし飴を近所に売り歩きます。兄弟、姉妹の各人が売り歩くので、同じ家に一緒に並ぶこともあります。勝手に値段を決めているので、同じものでも人によって売り値が違ってきますが、全員から買ってくれるので売れ残ることはありません。時には「この雪道にえらいなー、残っているもの全部買うよ!」と、言ってくれるおばさんもいました。商売(?)を終えて帰宅し、兄たちと自分の売り上げを披露し、小遣いの潤いを喜びあったものです。ご近所の方々とのふれあい、働いてお金を手にいれる経験をする日でもありました。このような風習は、40数年前になくなったそうですが、年末、年始がくると思い出す『わたしのふるさと』のひとコマです。




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市民が作る『広報はだの』 第2弾は自信作


 11月28日に『広報はだの』の最終編集会議を持った。Nさんの手描きの題字も出てきた。市の花をテーマにした題字だったが、「山茶花」と「コブシ」が十分表現されていないので、もう一度描いてもらうことにした。S先生に頼んだ編集委員の似顔絵はけっこう楽しい作品。話題になるかもしれない。
 この日の2時間で、全てが整理できるはずはなかった。「29、30日は自宅に詰めているから」と言い、各面の責任者に記事、写真、レイアウトなどを持ち帰ってもらった。この二日間で10回、原稿が私とHさんとの間を行き来した。メールというもののお陰。今日の5時に出稿することになっている。  
 委員の皆さんには大変ご苦労をかけた。この号は『歩いて秦野再発見』を主題にしたので、ほとんどの委員が今まで足を踏み入れたことのない地や、歩いていても気が付かなかったことに目をやることができたようだ。苦しいこともあったが、《役得》ともいえる幸せなことと思っている。私も市内の大山道・矢倉沢往還を3度検分して歩き、新たな発見もできたた。旧善波峠を訪れたのは何十年ぶりだったろう。本町地区の歴史的建物も2度見て歩いた。建物が持つ歴史を学んだ。所有者の悩みも聞かされた。
 5日に初校が上がってくる。14日は二宮市長を交えて記事の最終確認。二宮市長さんが『広報はだの』の編集会議に加わるのは、私たちのこの広報が最後になるのだろう。そして、平成18年1月15日が発行日。







234号 2005年11月1日発行


 
 ダーマンさんからのお願い

 『エコー』にリンクを貼ってください

 昨年まで平塚市の山下小学校にいました原田です。「ダー先生はおちこぼれ?」です。潟永さんからお話が行ったかと思いますが、ここでホームページを開局しました。大勢の人の応援がいただきたいので、先生のページにリンクをお願いできるでしょうか?
 今、私は小さなビーチリゾートをやりながら、島の子供達のために何ができるか模索しています。島には63の小学校がありますが、それを順に訪ねて、不自由な点、助けが必要なことを訪ねて回っています。ついでに、折り紙で遊んだり、歌を教えたりして遊んでもいますが、その中で、ほとんどの学校が水がない。トイレがない。トイレはあっても水がないため使えない。教科書が人数分ない。ノート、鉛筆など基本的な文具もまともにない。理科室、家庭科室、図書室、保健室がない。テレビ、パソコンがない。電気がない。ライトはあっても電気代が払えないため、暗い中で勉強しています。スポーツ用具はボールがわずかにあるだけ。
 学校の周りは子供達の世話できれいな花が咲いているけど、中に入るとない、ないづくしの学校です。その中で子供達は無邪気で素朴でのびのびと育っています。ここは、小学校を終えるとハイスクールに進みますが、靴が買えない。スクールバッグがない。山の方の子は学校まで通う手段がない。優秀な子どもでも貧しいから、学校まで遠いからなどの理由で小学校で終える子もたくさんいます。
 教師だった私には辛い子供達の姿です。ここでロータリーの仲間に入れてもらって、この子達を救う活動をスタートしました。日本のロータリーにも協力を呼びかけて行こうと思っています。また、うちのリゾートに泊まっていただいたらその10%を奨学金に当てる『仮称・ダーマン基金(ここでの私のニックネームはダーマンです)』も開設しました。
 たくさんの方が泊まって下されば、それだけ、島の子どもが助かります。また、島には映画館がないし、電気もテレビもないうちがたくさんあるので、島中を順に回って、ディズニーや日本の素晴らしいアニメを見せて回る巡回移動映画館も計画しています。やることはいっぱいあります。日本の特に教育関係者にこのことを知ってもらえたら、応援してもらえたらと切に思っています。ぜひ、これからいろいろご協力、ご助言をお願いします。


 ※『エコー』のリンクのページからアクセスできます。








233号 2005年10月1日発行



わたしのふるさと NO20

  秋 祭 り
                             初野クニ子

  村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日
  どんどんひゃらら どんひゃらら…

 黄金の波が消え、見渡す限りの田園の一角にポッンと森が浮かぶ。旧暦の九月二十九日、この森に二千年に及んで鎮座するアラハバキ(荒脛巾)神社のお祭りである。風にゆれている大きなのぼりの旗を横目に登校し、下校が楽しみな日であった。
 アラハバキ神社は、陸羽東線で古川から新庄方面に向かって進むと、岩出山、有備館の駅を過ぎ、鉄橋を渡り、上野目駅に近づくと左側に見えてくる。自然信仰であるこの神は「みずいぼの神」と呼ばれ、いつしか「目、耳 鼻」の病気を治す神にもなっていた。
 口伝えで全国から願をかけにくる人や、お礼まいりにくる人で賑っていた。願をかけたり、お礼の品を置いていく時、必ず住所、氏名を書いてあるので、遠くからも来ていることが分かる。実際、私がものもらいをした時、母が半紙に「め」の字を年の数だけ書いてお願いしたところ、いつしか直っていたのを覚えている。沢山の人々にご利益をもたらしているこの神社の祭りは、地域の人達で守られていた。娯楽の少なかった頃、あぜ道に並ぶ店で好きなものを買えるのが楽しみだった。おはじき、ぬりえ、あめ、等…。祭りの前夜には「夜ごもり」といって、どういうわけか村のおばさん達だけがごちそうを持ち寄って神社に集まり、お供えをしたものと同じもので食事をしたものである。小さかった私は、祖母に連れられて何回か体験している。
 祭りの当日、日が暮れかかる頃、祭りの舞台は場所を換え、開放された農家でお神楽が奉納される。大人、子供達で縁側、土間まであふれていた。秋の農繁期が一段落し、収穫を喜び、自然への感謝でみんなの顔はなごやかであった。独特の着物を身に着け、面をつけて踊るお神楽は、子供心に楽しさよりも恐ろしさが先にたった。御神楽師は遠くから来るらしく、泊まっていく。それをもてなす酒宴が秋の夜長にふさわしくいつまでも続いた。
 近頃の祭りの日には、関係者がおまいりをするのにとどまっているとのこと、そして、アラハバキ神社には今も願をかけに来る人がいるということを聞くと、旧暦九月二十九日の祭りが再現されることへの想いが強く感じられるこの頃である。





232号 2005年9月1日発行



 九月の歌       詞 広木明美   曲 中原健二

 楽しい楽しい 夏休み 芙蓉の花が もう咲いて
 いつか 九月になりました 海でくらした 子どもらは
 海のかもめに もうします 仲良しかもめよ さようなら

 楽しい楽しい 夏休み かなかなぜみが もう鳴いて
 いつか 九月になりました 山でくらした 子どもらは
 山のこだまに もうします 仲良しこだまよ さようなら





 私にとっての『知覧』
                  
 更新されたHPを見ておりましたら、『学校講話集』の8月の「知覧」を発見しました。
 主人は鹿児島の出身なのです。そして私の祖父(母方)の弟が特攻で亡くなっているのです。このことは、大学生くらいの時期に知りましたが、それほどの哀感もありませんでした。他の話のついでにサラっと言われたことが残っていた程度のものです。
その後主人と結婚して何年か経った頃、県内観光で知覧に行きました。あの多くの写真の前で「そういえば…」と思い出し、名前を探しましたが見つかりませんでした。思い違いだったのかと、祖母に確認したら、「そうだよ」とのこと。しかし、そのことはそのままになっていました。
 ところが、昨年主人の会社の上司が特攻兵の話の絵本を出しました。『ピアノは知っている 月光の夏』です。子どもたちは、その本の絵のすばらしさに感動し、特攻のことに興味を持ったようでした。そして、身内に特攻兵がいたことにも…。そこで今年5月、ゴールデンウィークに鹿児島に行った折、再度知覧を訪ねたのです。やはり写真はありませんでしたが、パソコンで検索できるようになっていました。それで調べたところ、母の旧姓と同じ大叔父の名を見つけたのです。そして海軍の所属で、出発基地が知覧ではなく、鹿屋だったということも分かりました。このデータを土産にしようと、プリントしてもらいました。
 主人の実家に帰ると、義母が「そうそう、鹿屋にも記念館があって、以前行ったことがある」というので、さっそく行ってみることになりました。義父の運転する車で2時間かけ、着いた記念館は自衛隊鹿屋基地の敷地内にありました。「慰霊」「可哀そう」を前面に出した知覧のそれとは少し趣が違いましたが、作戦の様子がよく分かる展示になっていました。
 特攻作戦が決められた様子。最初の特攻が延期になったこと。《今行ったら犬死になってしまう》司令官の気落ち。戦闘機の隊列の様子や交わされた通信。各機には役割があったが、予定どおりにはいかなかった様子。大叔父とは違う隊のようでしたが、彼が「作戦」に参加していたという思いを強くしました。乗っていた飛行機の名前も一覧でありました。そして、ついに遺影を見つけました。祖父に似ているような気もする目元、少し眩しそうに顔をしかめた写真でした。第一昭和隊、彼の属した隊です。23歳、4月14日に発ったことは知覧のデータで判っていました。矢田部の訓練所○期。周囲の写真から同期の人を探し、きっとこの人たちと、いつも行動を共にしていたのだろうと思いを馳せたりもしました。出身県の違う人たちとどんな話をしたのか、先に発つ友をどんな気持ちで見送ったのか。展示してあった他の隊員への寄せ書きの中に彼の名前を見つけました。サラッとしたきれいな字を書く人だということを知りました。
 それまで存在しか知らなかった人が、急に生きた人となって私の中に入ってきたのです。十数人もいる祖父の兄弟の中で最も親しい人になってしまったのです。母に電話した際、叔父の写真を見つけてきたことを伝えました。海軍の所属だったため知覧では見つけられずに鹿屋まで行ったこと。義父と義母が連れて行ってくれたこと。私が彼の存在を知っていたことを驚きながら、「泳ぎの得意な人だったから海軍だったんでしょうね。中学の時に出した県の記録がかなり長い間残っていたんだよ」とも教えてくれました。とても優秀な人だったとも。享年23歳ですから、昭和10年生まれの母は何度か会っていたのでしょうか。この夏、私は寒河江に帰られなかったので、遊びに行った長女に彼の写真を託しました。
 知覧は前回行った時とずいぶん変わっていました。展示室も増え、室内の飛行機の前ではボランティアの方が写真パネルを手に出陣の様子を話し、多くの人が聞き入っていました。
 遺書の中で長くて立派なものは何日も前に書かれたもので、いよいよ明日という時には何も書けないこと。威勢のいいことを言っていた人ほど、いざという時になって取り乱していたと。中には、飛び立ったものの整備不良と言って6度戻ってきた人もいた。それに対して整備士たちは「命をかけて乗る機を我々も命をかけて整備しているのだから、不良などということは絶対にない」と言って送り出したこと。当時の物資状況や他の話からすると、真偽は分かりませんが、その人は7度目に帰らぬ人となったそうです。
 知覧の遺書の中で私がいつも涙するのは、コリント遊びをする約束を果たせなかったことを妹に詫びる一通です。私たちは、あの太平洋戦争をそれぞれの思いで受け入れ、封じ込めているのです。

  8月の暑い日に                     麗子
 





231号 2005年8月1日発行


わたしのふるさと NO19


 蛍狩り
                                   水野 明美

 ことしもまた暑い季節になった。「エコー」の読者の皆さんは夏がお好きでしょうか。実は、私、夏が苦手!
 朝早くから元気いっぱい鳴きだすアブラゼミ。にぎやかにさえずる鳥の声も私を憂鬱にさせる《音》でしかない。実家は少しばかりの田畑があったので、食卓には毎食、旬の野菜料理が並んだ。だが、なぜか私は野菜が大の苦手。毎朝のナスの味噌汁は、ただニラメッコ。でも、夏野菜を畑に取りに行くのは好きだった。それは、私が唯一好きなトマトがたべられるからだ。果肉が厚く、種がたっぷり詰まったもぎたての青臭いトマトにかぶりつき、ホッとしたのだった。
 まだエアコンはなかった。それで扇風機を独占していると、必ず風邪をひきダウン。そして、最悪の夏休みを過ごすことに。あの頃はよく夕立が来た。地面に跳ねるような雨音、さっと一雨が通り過ぎた後に生まれる涼しい風に私は生き返えったのだった。やがて、ヒグラシの「カナカナ」という寂しい鳴き声を聞き、「どうにか今日は終わった」と思ったのだった。
 こんな《夏嫌い》の私にも楽しみはあった。家の傍の畑から線路に降りることができた。(今はその畑は住宅地や公園になり、線路になど入ることはできない。)その線路沿いにホタルがいた。毎晩、父と私たち三人の子どもはホタルを捕りに行った。宵闇に光りが飛び交う光景は今も鮮明に記憶の中にある。そっと近づき、その光りを手中に収めようとするがうまくいかなかった。父は光りにゆっくり近寄り、大きな手を徐々に光源に近づけ、パッと手をあわせ光りを手の中に閉じ込める。父の指の間から、ぼわっと光りが漏れる。「やったあ」と声を出してもいいはずなのに、私たちは、息を潜め、顔を見合すだけ。やがて、ホタルの僅かな光りに私たちのニッコリが浮かぶ。
 私のふるさとは新宿から小田急線で一時間ほどの伊勢原市。霊山・大山のほかにあまり知られているものはない。だが、私はこのまちで体いっぱい自然を感じながら育った。だから懐かしい思い出がいっぱいある。その思い出と常に重なるのは《子煩悩》だった父のこと。
 父と遊んだ記憶がよみがえるたびに、子育ての真っ最中の私は、父のようにわが子たちと遊んでいるだろうかと振り返り、あらためて父の愛情に感謝している。




 

 230号 2005年7月1日発行




わたしのふるさと NO18


 古里・椎田は海と山の町

  今も 生きとし生けるものの営みを見続けて
                                    久保 志保

 椎田町は福岡県の東部、周防灘に面し、後ろに山が迫る海と山の町です。『ふるさと』という唱歌を耳にして思い出すのは、子どものころの日曜日の農作業の手伝いです。脱穀する両親のもとへ姉たちと稲束を運びへとへとになったこと。楽しかったのは、埃まみれの姿で家族が丸くなり食べたおにぎりのお弁当。「みんなが手伝ってくれるから助かるよ」と父はよく言ってくれました。休憩のときは近くの山に入りアケビや柿をちぎり取ったり、川に下りてカエルやメダカを捕まえたり、藁で囲って自分の家を作ったり、と遊びました。
 専業農家だったので、子どもの力も当てにされていて、サラリーマンの家庭の友達と比べていつも忙しかったのでした。それに家畜もいて、汚いし、なにより母にかまってもらえないので、農家はイヤでした。
 父母と祖母、姉三人と私の七人家族。19アールの水田で二毛作。裏作は麦だけでなく、レタスの出荷もしばらくはしていました。海岸近くの40アールの湿田は台風で海水が入り込んだりの田んぼだったので、稲作から蓮根田に変えました。一面に咲く蓮の花はきれいですが、ドボンドボンと足を取られる蓮根掘りほど苦しかった仕事は他になかった、と母はしみじみ言ったのでした。20アールほどぶどうも作っていました。忘れられないのは完熟ベリーAの自家製のぶどう酒のおいしさです。
 生活の場に家畜がいるということは本当に忙しいことす。両親は毎朝5時起床で搾乳、そして集乳所に運ぶこと。父が留守のときは、姉が男乗りの自転車に一斗缶の牛乳を着け、3キロ先の集乳所に運んだそうです。「姉ちゃん、恥ずかしかっただろうね」と、後日母が言ったことを覚えています。冬場の餌のために、春のレンゲソウをカッターで刻む両親。私たち子どもはサイロの中にいて、上から降ってくる刻まれたレンゲソウを足で踏み込みます。今もあの草の匂いは忘れていません。祖母もよく家事をしてくれました。味噌や甘酒をつくったり、お餅やサツマイモなどで時期時期に私たちを楽しませてくれました。家の周りには柿、ミカン、ビワ、栗などの果実。野菜、シイタケなど自給自足でした。海が近かったので、アサリ、ハマグリ、キヌガイ、マテガイなどよく採れました。その海も三十五年前に農業用として干拓されてしまい、遠くに行ってしまいました。
 食べるだけなら自家用で十分だったのですが、子ども四人を育てるには農業の収入だけでは苦しかったようでした。父は名古屋で飛行機の整備士をしていたのですが、母の兄が戦死したので、椎田にもどり農業を継ぎました。町内にある航空自衛隊の基地から誘われたのですが、「両立しないから」と断ったそうです。晩年の父は、母が「お百姓になって、父さんの能力が活かせなくて悪かったね」と言ったら、「わしはこれでよかった。百姓でよかった」としみじみ言ったのです。
 貧しかったけど、家族が力を合わせて生きてきたあの大地との生活がしたいと、私だけでなく姉たちも、シイタケの原木を切り出したり、自家製の漬物作りをしたりしています。父母たちと共に、生きとし生けるものの営みを見続けてきたあの頃の生活を忘れてはいけないと思うのです。そして今、わが子に言っています。「土から離れない生活をしてね」と。






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家族新聞づくり講座  6月18日 東公民館で

229号   2005年6月1日発行





大井町での講座(5月11日)のスナップ―提供・大井町教育委員会



講座の感想を新聞にして届けてくれた府川さん

228号   2005年5月1日発行



 
秦野でPTA広報紙講習会
 親の思い伝えて


 「読まれるPTA広報は、積極的な活動の中から生まれる」―。秦野市立小中学校PTAの広報委員を集めた編集講習会が二十七日、同市入船町の本町公民館で開かれた。四月から新しく委員になった母親たち約百三十人が参加し、広報紙の役割や具体的な編集の仕方を熱心に学んだ。
 秦野市の学校新聞やPTA広報紙は県や全国のコンクールでたびたび入賞するなど、高い水準と伝統を誇っている。新しい委員が編集の狙いを正しく理解する手助けをし、質の高い広報紙を作ってもらおうと、市PTA連絡協議会が毎年この時期に開いている。
 市内で教育広報相談室を主宰しながら児童生徒に学校新聞の編集方法を指導している元中学校校長の武勝美さんが講師を務めた。PTA広報が担う役割について、武さんは@活動の記録をタイミングよく正確に知らせるA取材して集めたさまざまな意見を土台にPTAの在り方を考え、活動自体を活性化させる−と強調し、教育環境を整えるための共通理解を得る場にしようと呼び掛けた。
 実際に発行された広報紙を示しながら、武さんは特集記事の効果や企画力の大切さを訴え「学校の安全が社会問題になっているが、危機管理マニュアルの点検だけに終わることなく、子供たちの心の問題にまで踏み込んだ視点かち親の思いや考え方を伝えてはしい」とアドバイスした。
 新しい広報委員の中には、自分から進んで引き受けた意欲十分の人たちが二十人近くもいる。この日学んだことをベースにそれぞれの学校で早速編集会議を開き、第一号の発行に取り組む。(谷津孝一) 神奈川新聞(4/28)





わたしのふるさと NO17
 
北国の春
        
                                初野クニ子

 春の小川は サラサラいくよ えびやメダカや
 小鮒の群に 今日も一日 ひなたに出でて 
 遊べ遊べと ささやきながら

 小川に沿って広がる田んぼには、田植えのすんだ早苗が心もとなく春風になびいています。桜の花が咲きはじめ、満開の梅、あんず、桃など、あらゆる花々が同時に楽しめる北国の春の風景です。時々「カッコー、カッコー」と鳴く声は、早苗を元気づけるかのように聞こえま
す。自然も人間も動き始める瞬間の、待ちに待った春の到来です。
 ネコの手も借りたい農繁期は、学校も農繁休業(一週間程度)になり、子どもたちもいろいろな手伝いに日々過ごします。『ゆい(結い)』(農作業などで互いに労力を提供して助け合うこと)という習慣で、村の人たちは田植えの手伝いに大勢集まります。祖母、母は台所で『たばこ』(一休みすることの意味で、十時と三時の中食に用いていた)や、昼食の準備に追われ、女の子は台所の手伝い、男の子は田んぼで苗運びの手伝いをします。あの頃体験した家事の流れは、今でも役に立っています。
 土手にゴザが敷かれ、運ばれてきた食べ物が広げられると、父の声で苗を植えていた人たちは手を止め、腰を伸ばし、中食を楽しみ、疲れをとります。食事の内容は主に、おにぎり、山菜の煮物、漬物でした。餅がでると「今日はごちそうだなー」と、喜んでいました。近くで
子守をしている子どもたちも、「待ってました」とばかり集まってきて『たばこ』の仲間入りをします。誰も拒むことなく、自然に受け入れていたやさしさは、心を温かくしてくれたものでした。
 昼食には、周りにある丸太などがイスに、縁側がテーブルにと変身した食卓に、手伝いの人たちが田植え姿のまま集まってきて、にぎやかに食事を楽しんだのでした。このような日が、三日、四日と続く実家の春の始まりでした。
 二十人ほどの人たちが一列に並び、一本ずつきれいに植えていく田植えは、人手不足と機械化の今では、見られなくなってしまいました。田んぼでの大人と子どもとの交流も希薄になってきています。手元に当時の我が家の田植えの記念写真がありますが、半分以上の人とたち
は、もうこの世にいません。しかし、満々と水をたたえた水田に、整然と植えられた早苗が春風になびく里山の風景は、今も変わらぬ北国・宮城県岩出山町の春です。





            

227号   2005年4月1日発行



 町の小さな本屋さん
                               木口まり子 

 私の住む町は人口1万3千弱。町の角に小さな本屋さんがある。本屋の若奥さんは、私たちのサークル「ゆうゆう」の仲間。「ゆうゆう」は手作り紙芝居や、人形劇パネルシアターなどの表現活動動をしている。
 決して品数は多くないが、絵本や児童書が充実していた。ビデオ、テレビゲームのソフト、成人向けの本は置かなかった。だから子ども一人でも、安心して本屋に行かせることができた。引き戸をガラガラと手で開けて入ると本のにおいがする。私はその瞬間が好きだった。引き戸に2月28日で店を閉じると張り紙がしてあった。小さな町の文化を支えてきた町のオアシスが22年の歴史を閉じる。
 車社会はこんな所にも影響している。ふと気がついて運転できない年齢になり、徒歩が唯一の移動手段になったとき、町からいくつもの店が消えているのだ。それは、便利さにかまけて車で移動した私たちのツケ。
 「ゆうゆう」の活動拠点でもあった本屋さん。せめて28日は人でいっぱいにしたい。お店で「出前ゆうゆう劇場」をやろう。お店の絵本や児童書を使ってブックトークをしよう。子どもたちの声が響けばいいなあ。だって子どもは未来からの留学生だし、大人は留学生を乗せている船だからね。
 ありがとう 小さな町の小さな本屋さん。


226号   2005年3月1日発行



 小千谷の春はまだまだ先きです
                                相原 昭枝

 我が家の別宅は昨年の9月末から災難続きです。風水害で道路や電柱が流され、その復旧最中に中越地震に見舞われました。別宅の一部も損壊しました。それで市役所に税金は納めているので相談に行ったのですが、別荘なので何も望めませんでした。
 道路は陥没寸断され、5日後に仮設の道路が開通したとの知らせを地元から受けました。それで地元の皆さんに何か必要なものはないかと聞いたら、電気が止まっているとのこと。地震発生から10日後、家にあった大型の発電機を持って別宅に行きました。井戸水は汲めるので、発電機を使ってお風呂を焚き、皆さんにサッパリしてもらいました。予想もしていなかった大地震に、ただ誰もが呆然としているようでした。食料はヘリで輸送されて来ていましたが、停電が続いているため避難先から帰ってこられても片付けも出来ないと困っておられました。普段何気なく使っている電気がこなくなると、パニックになることもわかりました。
 個性豊かな人たちが避難所で同じ生活をすることの難しさ、集まった人たちの中で役割分担を決めることの大変さなど、学んだことがたくさんありました。本震の体験はなかったのですが、地盤が落ち着かないようで、地面から突き上げる音がするたびにぐらぐらを感じるのは心地良いものではありません。
 地元の人たちの計らいで、別宅に行ってからの食料は救援物資のお世話になりました。地元の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。
 1月に入り降雪が続き、一階は屋根からの自然落下の雪で埋まりました。2月15日現在 おおよそ5メートルの積雪です。家の周りは表面が溶けた雪水で、まるで小川が流れているようです。その水が、気温が下がると凍りその上に又雪が降り積むのです。小千谷はまだ冬の真っ最中です。別宅が落ち着いたら「寺山ものがたり」を訪ねてみたいです。




わたしのふるさと NO16

 新潟県東頚城郡牧村
                                金子加代子

 私のふるさと新潟県東頚城郡牧村は、長野県との県境近くにあります。家は専業農家で、お米作りで生計をたてていました。牛や鶏も飼っていました。野菜もほとんど自家製でした。
 冬は雪が3メートル以上も積もります。この地方の家には雨戸というものがないため、屋根から落ちる雪よけに「したみ」という長い板を窓ガラスに打ちつけ、ガラス割れを防いでいました。大雪が降った朝は、玄関から大通りまでカンジキで雪を踏み固め、道を作り出入りしました。こんな厳しい季節でも楽しい思い出はたくさんあります。いつでもスキーができ、また雪合戦をしたり、カマクラを作ったりと、この季節、この地だから楽しめる遊びがたくさんありました。その極めつけは地区で行われた雪上運動会でしょう。カンジキを履いてのリレー、クロスカントリーのような種目もありました。村総出で、子どもも大人も一日を目いっぱい楽しみました。お盆には牧村のお墓を訪ねます。車を走らせ、村が近づくと心が小躍りし、わくわくするのです。
 牧村は2800人ほどの村でしたが、平成17年1月1日に上越市に合併しました。「平成の大合併」では最も多い14市町村が一つになったのです。そしてふるさと牧村は上越市牧区となりました。牧村の「牧」という文字は残ったのですが、「牧区」という呼び方には少し複雑な気持ちです。今秦野に住んでいますが、冬を迎えると、銀世界の牧村で過ごした18年間のさまざまなことが脳裏に浮かんできます。これからも、牧村での生活のことを大切にしていきたいと思います。




わたしのふるさと NO17

  古里は寒河江「よくある普通の田舎」
 
  
勝手だけどけど いつまでも変わらないで欲しい
                                笠井 麗子

  「出身は山形です」「山形のどちらですか?」と聞かれて「寒河江(さがえ)です」と答えても、すぐに分かる人は少ない。「山形の北に天童があって、その天童の最上川をはさんだ西隣なんです。山形からは車で30分位ですね」と説明するのが定番。将棋の駒と温泉で有名な天童なら知っている人も多く、聞いたことのある地名にちょっと安心してもらえる。「新幹線で帰るんですか?」と聞かれれば「ええ。でも山形から左沢(あてらざわ)線っていう盲腸線に乗り換えて40〜50分かかるんです」。私が列車よりも車での所要時間を先に言うのは、少しでも街に近いことを印象付けたい田舎者根性。
 左沢線(通称ザワ線)は、高校時代通学に利用した。寒河江に向かって右側の席がお勧め。広い田んぼの遥か遠くに青い奥羽山脈が連なるのが見える。私の大好きな風景。山の青さがいい。目線の低さもいい。(当時は)ボックス席に進行方向に向かって座り窓枠にもたれてボーっと、或いはデッキの窓から。いつも、いつの間にかこの風景は私の目に広がっているのだ。そして気が付くたびに「いいなぁ」と思う。ある日、秦野育ちの娘が「山形の山って『山』って感じでいいよね。秦野の山は色が緑だし、近すぎ。ちょっと(イメージが)違うんだよね」と言ったのには驚いた。私はこれまで、そんなことを言った憶えはないし、彼女にとっては秦野の山が「山」なのだろうと思っていたのだが。
 列車が最上川を越えたら寒河江。「寒・河・江」字を見れば「寒くて川のあるところ」とすぐに分かる。東北地方の内陸部にあっては、雪は「普通に多い」。2、3年前「20年ぶりの大雪」とのニュースを見たが、「普通じゃん」。山形を離れて20年が過ぎていた。当時はあのくらい普通だった。やはり温暖化か。
 中学のある年、「明日は歩道の除雪作業」と言われ、みんな家からスコップをガラガラさせて登校。道路を除雪車が通ると雪を歩道に押し除けていくので、歩道に雪の山ができて歩けなくなってしまう。そこで、雪の山に階段を作ったり、わきの田んぼに雪を捨てたりしてどうにか歩けるように道を作る。雪と一緒に人が田んぼに落ちたり(落とされたり)。帰りはどのクラスの担当したところがうまくできているかを批評しながら歩くのだが、うまく雪を固めていないと天然の落とし穴になってしまう。総合学習だのボランティア学習だのと銘打っていなくても、必要に応じてやっていたようだ。
 蛇行する最上川に南と東を囲まれ、最上川の支流としては最大級の寒河江川が市内を流れる。この寒河江川には、何かに付けて親しんできた。父に泳ぎを教えられたのも寒河江川だった。だが月山の雪解け水は何キロも流れて来ても冷たく、川岸近くのぬるまったところで遊ぶのがちょうどよかった。部活のランニングでは川まで走り火照った足を水に浸してまた帰った。途中のさくらんぼ畑では「食べていいよ」と、出荷できない割れた実をもらう。
 今では全国的に有名になった川原での芋煮会は秋の行事の一つ。みんなで鍋や薪、長葱、調味料と分担を決めて持ち寄り(さすがに肉とコンニャクは購入、里芋は一人○個と全員が持ってくる)、小学校から2.5`の道を歩いていく。川原の石で竃を作り、火を熾す。鍋の底が煤で真っ黒になるから、服に付けたら大変なことになる。
 昨年の夏帰省したときに、父の水泳仲間の若手が「川原で鮎を食べながら川遊びをするから、どうぞ」と誘ってくれた。川原といっても藪になったところで、小動物が水飲みに来た足跡も。対岸の木とロープを張りそのロープに、輪にしたロープでゴムボートをつなぎ渡し舟の完成。川流れも楽しめる。淵には小魚も見える。子どもたちはジャンプして飛び込む。これらは、泳ぎの達者な大人たちが付いているからできること。子どもたちの楽しそうな様子に、父と一緒にいた長老組の市会議員は「やっぱり川はいいなぁ。こうやって水辺で遊べる場所をもっと作らないと」と。このことを後で兄に話したら、「川遊びができるのは、せいぜい2ヶ月間。そのために何千万円もかけるのは、どんなもんかね。」市民でない私に発言権はない。だが別の角度から見た意見として、設備のないところで勝手に遊ぶのが楽しいんだよね。整えられたところで「さぁ、こうやって遊びなさい」と言われたら、興ざめ。飽きちゃう。整えるべきは設備ではなく、人だと思う。管理する人の教育と、川遊びのマナーと安全についての市民への啓発。
 こんな風に古里のことを胸を張って語れるようになったのは、東京に来て3年くらい経ってから。実家で暮らしていた頃は都会に憧れ(正に田舎者の証明)早く山形を出たかった。だから、勉強の内容よりも東京で暮らすことを目的に大学を受験した。入学してしばらくは訛を隠しながら、山形のことはあまり話さなかった。というよりは、誇るべき事が見つけられなかった。「あたりまえ」として育ってきた所の何を紹介すればよいのか分からなかったのだ。今でも「よくある普通の田舎」だと思う。だが離れてみるとそれが懐かしく、いつまでもそうあって欲しいと思う。山形に帰って暮らそうとは思わないくせに、いつでも帰れる田舎であって欲しいと願う。実に勝手だ。
 今、実家では中学生と高校生になる甥たちが大らかに育っている。当時の私よりもずっと地に足の着いた考えをして暮らしていることが頼もしく、羨ましい。私にとって古里は、やはり「遠きにありて思うもの」そして「たまに帰る場所」。






225号   2005年2月1日発行







224号   2005年1月1日発行



 ある日
                                            栃木ヤス工

 「やっぱりこの時期にならないと色づかないのよ。」という友人に誘われて、師走に入って間もない鎌倉へもみじ狩りに出かけた。穏やかな日和との予報とはうらはらに気温は低く、厚い雲が空を覆っている。
 鎌倉湖畔行きのバスが大船駅を出ると間もなく車窓に雨筋が走りはじめた。直進するバスを降り、右手のゆるい坂道を林の中へ進むとほどなく鎌倉湖(散在ケ池)が目の前に現われた。農業用水にと作られた小さな池は訪れる人も少なく、止むことなく散る落葉の中にひつそりと静まり返っている。心配するほどの雨もなく、やがて半僧坊下の住宅地を抜けるといよいよ天園ハイキングコースにさしかかる。
 時雨模様の坂道は滑り易く、足元から目が離せない。雨の気配を真近に感じながら足早に登りつめると急に視界が開け、六国見峠に到着した。眼下に望む山の木々はそれぞれの色に装い、美しい調和を見せている。「晴れていればあそこに富士山」と指差す下にはゆったりと初冬の海が広がっている。ポツリポツリと降り出した雨に追われるように尾根を下るともみじ谷だ。すでに葉を落した銀杏の黄が辺り一面に散り敷かれ、見上げればまっ赤なもみじが息をのむほどに美しい。「やはりこの時期…」という言葉に深く納得してしまう。多分、この美しさは一瞬の事なのだろうと思いながら、後髪を引かれる思いで本降りになった雨の中を鎌倉宮へと歩きはじめた。



 そろそろお店でみかんを買ってもいいかな
                                             田中くみ子

 生まれ育った清水市は合併し静岡市になりました。秦野に嫁いで来たのですが、まさか清水市がなくなるとは思いませんでした。ふるさとへ手紙を書くとき「静岡市清水」と抵抗なく宛名が書けるようになるのは、まだ少し先のようです。
 私の実家は電気器具販売店・電気屋で、清水駅の近くにありました。母も店を手伝っていたので、学校から帰ってもかまってもらえませんでした。定休日は水曜日なので、サラリーマン家族のように日曜日にお出かけなどできず、店屋の子はつまらないと強く思っていました。
 我が家の夏休みは年に一度、ある水曜日に清水の山奥の興津川に川遊びに行くことでした。その日母はたくさんのおにぎりを作ります。店の車が乗用車代わりになります。犬のベルも連れて行きました。
 興津川の水は真夏なのにとても冷たく、流れも思っている以上に速かったこと。水の色で浅い深いがわかったこと。ベルが思いがけずに泳ぎが上手で、犬は教えなくても泳げるんだと感心したこと。せみの鳴き声。川面がまぶしかったこと。母のおにぎりがとてもおいしかったこと。など、その日がよほど楽しがったのでしょう、今もはっきり覚えています。
 私は四人兄妹でした。小6の兄、小4の姉、小1の妹、そして小3の私、その4人が小学校に通った年がありました。家と店を切り盛りしていた母はとても大変だったろうと、今になって思うのです。
 母の実家は横砂という所にあり、4人で泊まりに行ったことがありした。当時、清水は路面電車が走っていました。清水駅前から横砂まで子どもたちだけで乗っていきました。大冒険をしているような、興奮していた4人でした。
 今では埋め立てられてしまった横砂の海は、昔は遠浅の海水浴場でした。古タイヤのチューブを浮きにして、伯父さんに引っ張ってもらい、波に揺られて遊んだことが懐かしく思い出されます。
 清水の子どもたちは、冬になるとみかんをおやつにします。食べ過ぎて手が黄色くなっている子がクラスに何人もいました。「みかんは買うものでなく、もらうもの」というのが私の生活感覚です。母の実家やお店のお得意さんからみかんをもらうので、家で買うことはありませんでした。
 清水にいたころは、店先に並んでいるみかんを買うことはできませんでした。秦野での生活が清水で育った歳月に近づいてきています。そろそろお店でみかんを買ってもいいかなと、このごろ思い始めました。




  武勝美の 新年のご挨拶

 去年今年貫く棒の如きもの   高浜 虚子 

2004年
1月12日  全国学校新聞コンクールの手伝い(1/24 、2/24)
1月15日  『寺山ものがたり』を上梓
1月23日  秦野市人権懇話会で講演
2月 1日  文化講演会「寺山ものがたり」
2月4、5日   つるし飾り雛を見に稲取へ
3月 1日  母退院
3月 6日  全国学校新聞コンクール表彰式(PTA新聞の部講評を担当)
3月17日  教育研究所研究員会議『秦野の新聞教育』の講師
3月20日  市PTA広報コンクールの審査
4月20日  今年度の新聞・広報講座始まる(12月末で21回)
5月 1日  『ECHO』創刊20周年を迎える
6月19/24日  親子新聞づくり講座
7月 6日  市制50周年記念「市民が作る『広報はだの』」の第1回編集委員会
       (編集委員長になりました)
7月15日  『寺山ものがたり』第2刷へ
8月2、3日  全国新聞教育研究大会・水戸大会に参加
8月 4日  川崎市小学校社会科研究会「臨地研修会」の講師
8月22日  清水自治会で「清水湧水地跡」の記念碑を建立
9月14日  「エコー」のHPへのアクセスが30,000に
10月3、4日  「関東パピルス」埼玉大会に出席
12月 3日  秦野園芸愛好会の研修旅行(茨城・千葉)
12月22日  「市民が作る『広報はだの』」 出張校正
12月27日  教育研究所研究員会議『秦野の新聞教育』の講師

2005年

1月 1日  A Happy New Year  皆様のご健勝をお祈り申し上げます
1月15日 「市民が作る『広報はだの』」発行予定(乞うご期待)
1月25日  東公民館の歴史探求講座を担当
        「寺山ものがたり」を歩く(一緒に歩きませんか)







  223号   2004年12月1日発行


「ウスゴ」と「イルカのタレ」
                                             木口まり子

 私の故郷静岡県清水市は、2004年4月1日からその名前が地図帳に載ることはありません。市町村合併により静岡市清水となったのです。これも時の流れ。そのような時、清水では「しょんないねえ」と言います。この国の経済成長に陰りが見え始め、工場の移転や閉鎖の波は清水にも押し寄せました。私のように故郷を離れていく者が増加し、人口も減少。これも「しょんないこと」なのでしょうか。
 清水の名物と言えばお茶とみかんと清水の次郎長。でも「ちょっくら待っておくんない。忘れちゃいけないものがある。『ウスゴ』と『イルカのタレ』がある!」。ウスゴは近頃では、「マグロのへそ」という珍味、土産物として売られています。三センチほど三角錐で先っぽはベージュのとんがり帽子をかぶっています。マグロ一匹にへそ一つ。へそは一つ200円ほどで売られているのですから、すごい出世。私の子どもの頃は、バケツ一杯を魚屋や缶詰工場がただでくれたものです。色はレバーそっくり。へそと言っていますがマグロの心臓です。
ウスゴは塩水でよく洗って塩を振って焼いて食べます。あの頃は七輪でしたから、なおのことおいしかったです。
 イルカのタレはイルカの血合いの部分の干物。これも色はレバー系。焼いたり、ゴマメのように甘辛く煮て食べます。魚屋の店先に、レバー色のかまぼこ板のようなものが干してあったら、それがイルカのタレです。当時は庶民のおかずでしたが、今ではかまぼこ板くらいのものが、500円くらいですから高級牛肉並みです。ウスゴもイルカのタレも他の地域では捨てる部分です。清水港はマグロの水揚げ港ですから、解体作業の中で捨てられていた「しょんない」物だったのです。それを食べ物に転化させたのは庶民のたくましい知恵。
 ウスゴもタレも温かいご飯にぴったり。大人になってからは酒の友。でも清水育ちではない人にはどちらも生臭いようです(ちなみに焼津ではウスゴもタレも食べません。)。その知恵も、時の流れ、清水の衰退と共に、品薄になり高級化したのも「しょんないこと」。でも「やっきり(やりきれない)」してしまいます。しょんないから、これからの季節、まだ手に入る生のイルカの味噌煮で一杯やりますか。




第37回 秦野市中学校学級新聞コンクール

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 222号   2004年11月1日発行


 日本全国日刊新聞盛衰順序番附

 10月3日、さいたま市で開かれる「関東パピルス」の総会に出かけた。集合は午後3時なので、うらわ美術館でおこなわれている『創刊号のパノラマ』という展覧会をのぞいた。雑誌類の創刊号が2900点あまりが岩波書店で保管されているのだそうで、その中から「表紙の美しいもの、目をひくレイアウト、時代を映すカットや挿入写真に着目」して1500冊がここで展示されたようだ。
 昭和34年、私は『新しい青年』(文化堂出版)という雑誌の創刊にかかわった。もしかしたら『新しい青年』に会えるかもしれないと思ったのだったが…。慶応3年から昭和31年までのものしか展示されなかった。
 会場の人影はまばら。ゆっくり眺めることができた。閲覧用の雑誌もあったので何冊が広げてみた。その中の一冊に宮武外骨が昭和6年に創刊した『面白半分』があった。奇人とも言われているこの人の雑誌である。パラパラとめくっているうちに、「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」という、おもしろい特集を見つけた。それで、ノートを取り出し、その番付を写し始めた。すると監視の女性がおずおずと近づいて来て「ペンをお使いになるのはご遠慮ください」「すみません、それじゃあコピー…、もちろんだめですね」「はい、受付にいらっしゃれば鉛筆と紙はご用意いたしますが」というわけで、その番附表を彼女の視線を浴びながら書き写したのだった。展覧会や展示会で座り込んでメモを取ったのはこれが初めて。
 「パピルス」の会は新聞教育の会。その会に出かける途中でよい取材ができた。ここでも「動かなければ出会えない」を体感。けっこうハイになって、さいたの市の会場に到着。

 宮武外骨が昭和4年6月1日に創刊した雑誌『面白半分』第1号(定価30銭)に特集した「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」は次のとおり。

日本全国日刊新聞盛衰順序番附  現在発行の諸新聞(283紙)を其勢力信用印刷高等に依っての番附
 1番  大阪朝日 
 2   大阪毎日   
 3   東京朝日 
 4   東京日々 
 5   報知新聞  
 6   時事新報 
 7   国民新聞 
 8   新愛知 
 9   福岡日々 
10   北海タイムス 
11   中外商業新報 
12   都新聞 
13   読売新聞 
14   東京毎夕新聞 
15   名古屋新聞 
16   小樽新聞 
17   河北新報
18   九州日日新聞 
19   九州日報 
20   大阪時事新報

 ついでに、当時神奈川県下で発行されていた新聞のランクを書き抜いてみたら、「36横浜貿易新報 58横浜毎朝新聞 73横浜日日新聞  210相模中央新聞 212豆相新聞 214武相新聞」となっていた。
 昭和4年、この番附に名を連ねた新聞が、2004年の今どれだけ存在しているのだろうか。「合従連衡」、あるいは「所期の目的」を達成しての終刊もあっただろう。宮武外骨の『面白半分』誌は5号で廃刊になっている。






221号   2004年10月1日発行




「タウンニュース」 平成16年9月11日号
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 220号   2004年9月1日発行

 わたしのふるさと   
  
故郷「渋谷区北谷町三十番」には帰られず
                               坂田 美代子

 私は三女として渋谷で生まれました。いつも三人姉妹お揃いの洋服を着て、東横デパートの屋上で遊んだりしていました。太平洋戦争が激しくなり、わが家の玄関の硝子戸の向こうが真っ赤になったり、防空壕に入ったりもし、怖い思いをしました。
 渋谷消防署の隣?だったため、家を壊され強制疎開をさせられました。行くとこがなく母の妹の嫁いだ実家のある千葉県三里塚赤池に身を寄せたのでした。小さな小屋を立て、農業などやったことがない母達が、開墾までしてお芋を作ったり、鶏を飼ったりして生活しました。小学校は4キロも歩いて通いました。途中で下駄の鼻緒が切れ、裸足で帰ったこともありました。
 小学校二年生の時、渋谷に戻ろうとしましたがもう遅かったのです。私たちの土地に知らない人が、掘っ立て小屋を立てて住んでいました。貸家もあったということですが、戦争のごたごたで無くなっていました。それで、港区白金の聖心女子学院に住んでいた母の姉を頼って帰京しました。そこは、今では「シロカネーゼ」と有名ですが、当時は何もなく荒地でした。聖心の敷地は広く、竹やぶや草むらでかくれんぼなどして遊びました。日曜日には教会の日曜学校で、外人のマザーに、英語の歌やダンスなどを教わったり、おいしいクッキーを食べたことを憶えています。
 そのころの学校は二部制で、午前・午後に分かれての授業でした。帰ってからは弟や妹三人の面倒を見ながらの遊びでした。一人を負ぶい、二人の手を引いて、と今では考えられない光景だったと思います。私は走ったり、飛び跳ねるのが大好きでした。体操着などがなく、ブルマー・裸足でかけた運動会。断然トップを走る私を「青パン頑張れ」と近所の人たちが声援してくれました。中学では区の連合運動会の選手に選ばれました。卒業時、体育の先生が「おとなしいが、走るとカモシカのようだ」とサイン帳に書いてくださいました。今はもう面影がありませんが、細くてガリガリだったあのころが懐かしく思い出されます。
 東京・世田谷育ちの母は、ふるさとを聞かれると「何処をふるさとと言えばいいのかねえ」と、しばしば思いい悩んだものです。その母も今九十五歳、アルツハイマーになってしまい、会いに行った私を思い出してくれません。「ふるさとは遠きにありて思うもの」。ふるさとも母も遠くになってしまったようです。



 今年も白神山地に踏み入ることができました
                              石井美知枝 

 昨年に引き続き、今年も白神山地に足を踏み入れることができました。もう少し長くブナ林を歩きたいという思いが叶いました。ツアーにしては珍しく四時間も歩くことができたのです。
 十二湖とマザーツリーは短時間で観光もできますが、青池を上から眺めたり、日本キャニオンの真下に出るためにケモノ道を通ったりと、地元の案内人だからこそ歩ける道を楽しみました。モリアオガエルの卵がありました。長池ではアカショウビンも見られるといいます。世界遺産のブナ林の湧き水の味は格別でした。
 二日目は朝から強い雨でした。山道はぬかるんでいましたが、ブナ林は雨降りでもそれほど濡れずにすみました。ただ、所々道が見えないほど木が茂り、濡れたササで顔をなでられたりと、たいへんでした。水分を多く含むブナは腐りやすく、木材としては役にたたなかったことが幸いし、この広大なブナ林が残ったのだそうです。今では、その価値も変わり、ただ立っているだけでいいといわれるようになったブナです。私もブナのような存在になりたいと思いました。白神山地の深さを感じながら、自然遺産と緩衝地域を分ける赤い杭に沿って歩き、最後は案内人がマザーツリーよりも好きだというブナの大木に会えました。ブナからたくさん元気を分けてもらいました。  






219号   2004年8月5日発行





 218号  2004年7月1日発行


京都市左京区一乗寺 ここが私の育ったところ
                                    横山 信子

 私には姉がおり、南画(水墨画)の跡継ぎを切望する父は、母の大きく前に突き出すお腹や表情から、次に生まれてくる子どもは「きっと男の子」と思い込んだようです。そのため、私に用意された産着や寝具などはすべて水色でした。生まれた私は、父親似のキリリと釣り上がった眉の凛々しい(?)女の子でした。(と、私のアルバムに母が書いています。)私は幼稚園でも一番大きく、生まれたときから「金太郎さん」だったようです。
 京都市左京区一乗寺、ここが私の育ったところです。私の通った菊の花幼稚園や修学院小学校は比叡山のふもとにありました。近くには、雲母(きらら)坂、赤山(せきざん)、修学院離宮、詩仙堂、狸谷の不動尊等々、環境にはとても恵まれたところです。共働きで忙しい両親でしたが、休みの日などは、家族で山菜取りや山歩き、古刹の散策には事欠きませんでした。
 一乗寺下り松は、かの宮本武蔵の決闘場でもあり、近所の子どもたちとの遊びはチャンバラの決闘ごっこが流行っていました。当時テレビで放映されていた『琴姫七変化』や『りぼんの騎士』などの女剣士に憧れ、強くなって正義の味方になりたいと願う私につけられたあだ名は『女番長』でした。同時に、小学校になるべく早く登校し、給食も早く済ませ、休み時間や放課後には勇んで校庭に飛び出す私の仕事は、ドッジボールの場所取りでした。      そんな私への小、中学校卒業時の寄せ書きは「末は吉本(興業)か女子プロ(プロレス)か…」。おてんばな私は外科が近くにあったことも手伝ってか、よく通ったものでした。
 夏休みや冬休みの十日聞くらいは、母が徹夜して縫い上げてくれた姉とお揃いの服を着て、父母の郷里へ行きました。いとこたちと近くの川で泳いだり、手掴みの魚捕り、木苺摘みをして遊んだり、ヤギの乳絞りなどをしました。祖母には編み物や和裁を教わったり、五右衛門風呂を沸かすのを手伝ったりと『となりのトトロ』そのもののような田舎生活を満喫していました。
 鴨波(曽祖父)、栗郷〈祖父〉、虚心(父〉と三代続く南画の家系に生まれ、物心つかないうちから、様々な展覧会に父や母、祖父たちと出向いていたようです。美術コースのある高校、そして美術大学へと当然のように進学した私でしたが、専攻は彫刻でした。周囲の期待に沿うことができなかったものの、美術の世界と関わっているということで、父や祖父は納得してくれたようです。もっとも、父の期待は孫たちへと移行しているようですが…。
 久々に行った祖父の家は、五右衛門風呂はジェットバスとなり、バリアフリーの近代的な家へとすっかり様変わりしていました。祖母のお手製の山菜のせりの味噌漬けが懐かしく、思い出しながら作ってみましたが、到底およびもつかない代物でした。私の子どもたちは3人とも小さいころから「もの」を
作るのが大好きです。決して、言葉で教えたのではなく、親の生き方を見て育ってきているのだと実感しています。私も子どもとともに色々なことを学び、成長してきたと思います。豊かな自然とたっぷりの愛情に包んで私を育ててくれた両親のように、私も家族にとって温かい存在であり続けたいと願っています。






  217号  2004年6月1日発行


 

朝日新聞・神奈川版(5月27日)





神奈川新聞(5月7日)




216号  2004年5月1日発行



 ECHOは創刊20年目にはいりました
 
 『エコー』の創刊は1985年5月20日でした。ですから今年2004年の5月で20年目に入りました。今月号のナンバーは215です。体調不良や入院、退職時の8カ月、そして200号発行(2002年10月)の後の3カ月の休刊もあり、本来なら229号を数えなければならないのですが、215号です。この19年間の発行の総ページ数は、B4判で864ページでした。「『エコー』は主義・主張がないから、だから発行が続けられるのだ」と指摘されたことがありました。下の「天・人」にあるような、意気込みが確かに今の『エコー」にはありません。環境と年齢から、発行することが主義・主張になっているかもしれません。次は250号を目指します。


「天声人語」で紹介された「エコー」 (1987年6月13日)

 神奈川県秦野市の中学教論、武(たけ)勝美さんが個人新聞「エコー」を発行して二年になる。毎月一回、教育環境でのできごとをタプロイド判の表裏につづり、同僚や知人に無料で送っている.なかなか辛口の新聞だ▼なぜ教師が職員室で本音を語らないのかがいつも気になっていた。教師がひとりよがりにならないために、父母にも教育を語ってもらいたい。新聞が討論の場になれば、と思った。「とにかく声を発します」と創刊の弁にある▼無欠席を挽けた小学生の話が載っている。六年になった時、担任から「六年間欠席がなかったら表杉してやる」と励まされる。熱を出した日もあったが、とうとう通い切った。だが、卒業式の日、担任からはひと言もない.「ぽくとの約束なんて覚えていなかったんだ」と、しょんぽり帰宅する▼こうした実話を毎号紹介し、ある時ははっきりと本音を書く。たとえば、教師がいじめのきっかけをつくっている、進路指導が「進学先振り分け指導」になって生き方を教えていない、と▼自分の失敗談もある。校舎の陰でパンを食べている生徒を見つけた。遠くからハンドマイクでどなりつけたが、生徒は靴のひもを取替えていただけだった。「生徒への先入観がありすぎる。体を動かさずに教育しようとしている」と自身を戒める。体罰には「私の場合は全く感情的で、非教育的だ」と認める▼反響はすごかった。先生たちからは共感や反論が、父母からは親の反省や先生への注文が寄せられた。それを紙面で紹介する。エコーは討論の場になった。読者は全国に広がり、いまは二百七十人に送られている。本音を書きすぎる、と心配する先輩もいるが、反響はおおむね好意的だ▼それは武さんの指摘に、生徒を慈しむ思いが見えるからではないか。「生徒にはいっも教えられ、負かされる」と武さんはいう。三年目はそうした子どもたちのすばらしさを書こう、と決めている。  


『ECHO』創刊号からのファイル






 から『引っ越し』

                                       木村 庸彦 

 「じゃ、気をつけていってこいや」。勤めに出かける子供に声をかける。去年の三月に定年になってからのわしの朝一番の口上だ。
 駅まで三十分ほど歩く子供を戸口から口兄送りながら、ともかくも士具面目に成長した、とホッと安堵の吐息をつく。と、ふと十数年前の出来事がわしの脳裏をよぎつた。

 「秋の日はつるべ落しど」。いつまでもうちから出てこない妻に戸口から怒鳴った。『引っ越しのトラック』 にエンジンをかけたのに、ちっとも出てこないのだ。わしは裏に廻ってうちの中を覗いた。案の定、妻は伽藍堂になった台所に佇んでいた。ふと見ると、彼女の薄い胸が震えている。わしはもう怒鳴れなかった。〈遣り繰り算段した古台所への愛惜が断ち切れないでいるんだ。それにこの借家は、若い日、アイツをかっ攫うようにして手をとり、はるばる九州から逃げてきた最初の城でもあったんだ。二人のチビもここで生まれた〉
わしは予て職場の同僚に、「借家を替えたいが、どこかにいいのはないものか」と声をかけていた。そんなこともあって、『引っ越し』は急遽決まったのだった。
 『引っ越しのトラック』 はやがて黄ばんだ西日が残る市営グラウンドの横に出た。そこでは少年野球チームが埃まみれになって練習をやっていた。
 助手席のチビたちが、「アッ!」と感嘆符数個分の声を吐いて、窓側に寄った。運転するわしも、アッと思った。つい先日、妻が言った言葉がわしの脳裏に蘇る。「この秋の新人戦からね、お父さん。うちのお兄ちゃんスタメン入りだって。四年でスタメンに入れたの珍しいんだって。それでね、下のチビまでがみんなに褒められたの。お宅の二年のおチビちゃん、荷物運びで頑張っているよって。それで、あたし約束しちゃったの。今度、試合見に行くからねって」 わしは過去のそんないきさつをすっかり忘れて、今日の引っ越しを迎えていた。〈今さら仕方がない。これで少年野球ともお別れだ〉。でも、わしは内心うろたえていた。あまりにも唐突な引っ越しだったから、二人のチビは少年野球に退部の挨拶もしないままだろう。
 いよいよトラックは相模川の長い橋を渡って隣町に入った。秋の日暮れは早い。わしはトラックの前照燈にスイッチを入れた。次々とライトに照射される見知らぬ町並みに、妻と二人のチビは体をかたくして不安の目を凝らしている。間もなくトラックは新しい借家に着いた。一通り荷物を運び込むともう深夜だった。わしたち親子四人は狭い玄関の三和土に古新聞を敷きつめ、車座になって座った。真ん中には妻が握ってきたムスビがある。妻が、「さあ、さあ」と進めた。が、チビたちはムスビに手を出さない。黙ったまま項が垂れている。わしは横のチビたちを見下ろした。彼らの項は野球焼けで真っ黒だった。〈あたし、チビたちと約束しちゃったの。今度、試合見に行くからねって〉。妻がチビたちと交わした約束がわしの脳裏を突っ走った。
 「帰ろう!前のうちに帰ろう!」わしの口から思わず感情が噴出した。
 深夜、大恐縮しながら前の大家さんのうちの電話番号を回す。「まだ次の借り手が決まってないんですよ。よかったらいつまでも居てやってくださいな」 大家さんの情けが返ってきた。
 未明、『引っ越しのトラック』 は再び相模川の橋を渡った。・助手席では、いつの間にか妻と二人のチビはムスビを頬張っている。〈すんでの所でチビたちとの約束を反故にせずに済んだ〉。わしはホッと胸をなでた。


 5月の予定

 5月6日   PTA広報技術講習会       秦野市PTA連絡協議会
   7日  広報づくり講習会         大井町教育委員会
  11日  PTA広報研修会         荒川区教育委員会
  12日  新聞づくり講習会         秦野市立本町中学校
  17日  総合的な学習「新聞の読み方」   秦野市立南が丘中学校
  19日  新聞づくり講習会         秦野市立大根中学校
  21日  新聞講習会            秦野市立東中学校
  25日  PTA広報研修会(夜間講座)   荒川区教育委員会
  27日  PTA合同広報研修会       文京区教育委員会
  28日   PTA指導者研修会        寒川町教育委員会







215号  2004年4月1日発行


 「スイミー」は大きな魚になった

  K高校教員の日刊職員室だよりの発行は続く

 1995年に開校したK高校には『スイミー』という名の“おたより”(「学校だより」という性格のものとは一味違うので、とりあえずこう表現しておく)が発行されている。昨年の10月26日、『スイミー』は1000号を迎えた。テスト期間などを除いて、原則は日刊である。A4判の1ページを一人で編集・発行するということ。全教員が順番に記事を書くという、リレー方式を続けている。
 K高校は県で始めての単位制高校として誕生した。単位制ということで週に一時限の「ロングホームルーム」はあるが朝と帰りの学級活動がない。そのことが『スイミー』を生み出した。『スイミー』の誕生のいきさつについて、創刊号の筆者である田中恵子先生(現・有馬高校長)は999号で次のように振り返っている。
 「開校して1年、2期生を迎えるにあたり、だんだん増えていく生徒とのコミュニケーションをどうとっていったらよいか、話していた時に出てきたアイディアがこの『スイミー』でした。実は、開校以来、1期生E組の担任の先生は毎日クラス通信『しめさば』を出し、夜遅く、あるいは朝早くクラス生徒のロッカーへ投げ入れをしていました。単位制のシステムの中で生徒のみんなとのコミュニケーションはぜひ大事にしたい。でも担任が皆『しめさば』を出せるわけではない。それでは2期生には、2期の担任団が交代で文章を音いて、読んでもらおうというわけで、2年目から『スイミー』が発行されました。『しめさば』は一人の先生が出している“大きな魚”、『スイミー』は、この大きな魚にまけないよう小さな魚がたくさん集まって作る魚、というわけで『スイミー』と名付けられました。忙しくて書けないときは、手形でもいい。朝忘れていて、夕刊になった号もありました。2期担任団から学校全体へ広がり、生徒はもちろん先生、職員同士、保護者とのコミュニケーションに大いに役に立ってくれたと思います。順番が来ると、憂鬱になるけれど、書いていると読み手を忘れて夢中になって書いてしまうというのは、今も変わりません。999号の執筆を頼まれて、名実共に『スイミー』になったと嬉しく思います。小さな魚が集まって大きな魚になるという『スイミー』。これからさらに2000匹、3000匹のがつくる大きな魚に成長し、みなさんの話題の一つになりますよう祈っております。」

 紙上で生き方の開示をする教師たち 朝・夕の学活がないので生徒に手渡すことはできない『スイミー』は、印刷が終わると各階のコーナーやエレベーターの近くに置かれる。子ども達への忠告、教育行政の批判、学校行事の感想、時にスペイン料理の話など、教師一人ひとりの生き方が紙上で示される。生徒達は関連科目を選択するときの目安の一つにも『スイミー』はなっている。興味のある記事や面白い内容の号は見事に消えてなくなる。『スイミー』が山なしているときの内容は…。『スイミー』は生徒によるある種の教師の評価でもある。
 1996年4月18日の『スイミー』創刊号は手書きで、こう書き始めている。「本日 日刊“スイミー”創刊!」「何年か皆さんより長い生きしているK高校の先生達の本音に近い部分を皆さんに知ってもらうために始めた」
 組織人は、いつも革新の思いを持っていないと組織が目指す志は変わってしまう。それで組織では、その構成員の入れ替えがいつも行っている。新しい血が注ぎ込まれることは良いことだが、後に続く人が組織の持つ目標や特長を正しく受け止めないとその目指すべき道を誤ってしまう。
 999号に書かれているとおり『スイミー』は、そこで学ぶ生徒のために必要、と創刊された。そして『スイミー』は、今K高校の教師集団にも欠かせないものだと私は思う。『スイミー』の発行をいぶかしがる教師もいるかもしれない。そのとき、職員集団はどのような姿勢を打ち出せるのか、それがこれからのK高校の行く末を決めるとも思える。
 創立以来、K高校の教師集団が『スイミー』の発行を続けているのは「教師から発言しょう。教師が自らについて語るとき、子どもや親も口を開く」ということの実践である。K高校で『スイミー』を育てた教師たちは、移動先の学校で今もう一匹の『スイミー』を育てていることだろう。






 214号  2004年3月1日発行



 子どもの人権と新聞教育

 秦野市の人権施策懇話会に招かれ、話をさせてもらいました。今回は「子どもの人権」がテーマの懇談会。それで次のようなことを話しました。
 ・子どもの声、保護者の声、教師の声が学校に響き合うとき、学校での子どもの人権は保障される。
 ・太平洋戦争の反省にたった戦後の教育の特長の一つは、学校に自治活動(生徒会活動)を根付かせることだった。
 ・その自治活動は、生徒会・弁論・新聞活動が基盤となっていた。
 ・学校が受験戦争に巻き込まれると、これら三つの活動は教師にも親にも“鬼っ子”的存在と見られるようになった。
 ・このごろ子どもの人権侵害が数多く報じられている。エコー教育広報相談室への相談や訴えは、教師よる人権侵害がいくつかある。
 ・子どもたちの自治活動の再興は今の学校に必要・欠かせないもの。
 ・秦野の教育の特長である新聞づくりによって人権への意識を高めたい。
 ・第一回の新聞週間(1948年)の標語「あなたは自由を守れ 新聞はあなたを守る」。この理念・言葉こそ今の学校に活かされなければならない。

 「『いまどき新聞?』という声もあるが、あえて新聞について話してもらった。人権と新聞は切り離すことはできない。秦野は自由民権運動の先駆的な地だから」は、座長の小林先生の言葉でした。
 子どもの人権の話し合いに、新聞教育(新聞づくり)について話すことができる秦野の教育風土を大切にしたいと思います。



 養って教えないのは過(あやまり)だ

 「子を養ひて教えざるは父の過(あやまち〉、訓(おし)へ導きて厳ならざるは師の憎(おこたり)なり」という言葉をあるコラムで読みました。中国の司馬温公という学者が『勧学歌』という本に書いた一文だそうです。父親であり教師であった私に、突き刺さる言葉でした。
 どのような逆境にも立ち向かえる、たくましい人間を育てることが子育て・教育の目標なのですから、子育ても教育も厳しくなるのは当然なのです。  ところが現実を眺めたとき、物分かりのいい父親・母親が多すぎるようです。そして、それが教師の姿勢にも大きく影響を与えています。子どもたちのわがままや怠惰に目をつぶっているのは、温公の言う『過』であり『憎』なのです。善悪の判断を明確にして、ノーと言うべき時にはノーと言える、その態度こそが、子育て・教育の出発点になると思うのです。








『寺山ものがたり』を紹介している神奈川新聞 2004年2月8日


関連記事 「秦野のおはなし」のページに
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 213号    2004年2月1日発行



 自ら発する行為
                           高橋元治

 祖母を思い出したり母のことを考えたりするとき、決まって頭に出てくるものは食べさせてくれた食物のことだ。祖母の場合には蕎麦がき、鰯のたたき(魚のハンバーグ)で母で牡丹餅、お萩である。毎日食事の支度をしてくれた人のことだから、日ごろの食事の事も思い出すべきだろうが、それらについてはすぐには出てこない。その違いは何故なのだろう。それは、すぐに思い出す食べ物を出してくれた時、祖母や母のこの子に食べさせてあげようという心に触れたからではないだろうか。その食物が美味しかったからではなく、祖母や母が自らの意思の元に他を喜ばせてあげようという優しい好意を示したから、その優しさが私の記憶器官への案内人になって思い出によみがえる食物の名前を収めさせたのだと思う。
 幼い私の心の根底にまで達しさせたその力は、優しさにしか持ち得ない力だと思う。祖母や母にとっては日常の食事のしたくと異なり自分の好物を作るという喜びもあったと思う。その姿の中には立場上やらねばならないという受身の態度はみえない。自らの意思で行っている祖母や母の姿には、子供ごころにも快さを感じた。
 職業人として私が考えなければならないことは、自らの意思の下で、尚且つ他を喜ばせてあげようという親切心、優しさを持って仕事に携わっているか否か、を振り返ることだと思う。ただただ義務であるから、立場上しなければならないからという仕事をしている人の仕事は、誰にも良い思い出としては残らないのではないか。むしろ他に不愉快の気持ちを植え付けてしまう恐れがある。もっと寂しいことは、仕事を通してのみ与えられる本当の喜びをかんじられないことだ。自らの意思で喜び勇んで仕事する態度と、他を喜ばせようという自らの心に発した優しさは、受け取った人の心にいつまでも残ると思いたい。自分に与えられた本当の喜びは、人としての心の高さを更に高めてくれる。



ふるさと 5

 筑豊で生まれ育ちました

 ♪夏が過ぎ 風あざみ♪ 私はこの曲を聴くと故郷の風景を思い出します。ボタ山を背に、身の丈より高く伸びたキリン草の間をかいくぐって、鬼ごっこをする子供たち。春は、一面菜の花。夏は夜中まで盆踊り。秋は山でアケビを採り、冬は新雪の上に冬鳥の足跡をポツリポツリと見ることも出来ました。
 私は、九州の筑豊で生まれ育ちました。炭鉱で栄えていた町も、閉山と共に多くの友人たちが、北海道、長崎へと転校して行き、卒業のとき ♪仰げば尊し♪と歌いながら去っていった親友たちのことを考えていたのを覚えています。
 小学校に入学の前は、長い間、祖母と過ごしました。お手玉やおはじきなど、祖母はとても上手でした。病弱だった私をおぶって病院へ走つてくれたのも祖母です。祖母はとても信心深い人で、私を連れてお寺に行くのが楽しみでした。私もまたそこで頂くお菓子の甘さに心引かれていました。にも関わらず、私が別の宗教系の学校に進学した時には、祖母の悔やまれることしきりでした。(その祖母は95歳で天寿を全うしました)
 両親は休みになると、兄と私を小さな車に乗せ、家族旅行に出かけました。臼杵の石仏、秋芳洞、五島列島など。車の中では、言葉遊びをしたりクイズをしたり、想い出は尽きません。時がたち、今では私が3人の子の母です。
 私はいっぱいの愛情を貰って育ちました。私も子供たちにいっぱいの愛情をあげたい。   Fumie






   212号    2004年1月1日発行


 武という漢字

「武」という漢字は「戈(ホコ・矛)」+「止」からできている。「止」は「歩」の「少」の部分をとったもの。だから「武」は「戈を持って歩く」で『攻める』につながる。これが正しいらしい。だが「戈(ホコ・矛)」+「止」は、文字どおり「戈を止める」で、武は『守る』という意味だ、という説もある。武を名乗る私としては後者でありたい。今年が「戈を止める」一年であって欲しいと心から願う。
 皆様のご健勝をお祈りいたします。

     2004年1月1日
                                武 勝美



 

2004年1月中旬に刊行

ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる

  横畑(土地宝典には『横畑ケ』と書いてある)でソバを作っている石井貞男さんから、「みんなでソハ゛の花見をする。その前座で寺山の話をしてくれないか」と頼まれました。一昨年が一回目で、二回目は昨年は10月でした。私は首に『まほら東案内人』というタグを掛けて、寺山を案内して歩きました。
 「タコーオチヤマ」から「道永塚」、「波多野城址」、そして「チョー塚のお婆」で3時間ほどでした。京浜地区の人が多かったのですが、「こんな小さな村にも、いろいろと歴史があるのですね」と興味を示してくれました。東中学校の総合学習で、地域を案内して歩くときもこのタグを着ける私です。「まほら寺山 まほら東」と心から思うからです。この『寺山ものがたり』は、このホームページに書いたものをまとめました。これからも寺山を書き続けるつもりです。この本を読んでいただき、『寺山ものがたり』私と一緒に書いていただけるとうれしいです。(本書「終わりに」より) 

 ふるさと「寺山」をほんの少し調べただけで、私にはたくさんの発見があった。ちょっと昔の寺山の話をたくさん聞くことができた。ふるさとを知ることは、ふるさとを愛すること。そして、それはふるさとを育てる心につながる。寺山は魅力ある地だ。もう一歩寺山に踏み込んでみる。  




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