-ECHO-  最新号(創刊 1985年5月20日)  
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動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない

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NO276 2009年12月5日発行

 霜月の終り

11月20日
 相模原市橋本でPTA広報クリニック。家を出る寸前、財布が無いのに気づく。だが遅刻はできない。とにかく、会場に向う。乗り換えの合間に携帯で家に連絡。3回目のJR厚木駅からの電話で、コタツの中から出てきたと知らされた。もし見つからなかったら、講座の中味はどうなったのだろうか。財布騒動はこれで2度目。講座の話。持って行った参考紙を「全部貸して欲しい」とお願いされた。“ヤル気十分”、嬉しかった。
11月21日 
 教員団体のOB会。乾杯の挨拶をさせられたので、60年安保、77年の主任制闘争の思い出を話した。30年ぶりにN先生の十八番の“当て振り”の「愛染かつら」を鑑賞。歌はもちろん担当させてもらった私である。昔の学校にはこんな芸達者な先生もいたのだ。そんなことを含め、いつか私も舞ってみたい。(でもアカペラで「愛染かつら」を歌ってくれる人がいるだろうか)
11月24日 
 さをり織り展示会の搬入。会場をレイアウトし、展示。この日、私の関係者が10数名来場してくれた。深謝。
11月25・26日 
「秦野ゆとりの会」の研修旅行。19名で『戸田温泉から御殿場・時之栖へ』。
 密かに「グルメの旅」と銘打っていた今回の旅は、ヤクルト裾野工場でのジョアの試飲からスタートした。伊豆・長岡で牛シャブの昼食、中伊豆ワイナリーでワインの試飲。修善寺公園で紅葉明かりの樹下を歩いた。夕食は戸田温泉ときわやでタカアシガニ。2日目の昼食は由比、サクラエビのかき揚げ。そこから身延山久遠寺へ。寺院内を見学させてもらい、樋之沢坊でお茶の接待を受ける。樋之沢坊は、会長・望月治男さんの生家。予定ぴったりの午後5時半に御殿場・時之栖に到着。生ハム、スペアリブ、ソーセージ、ピザという若者向きの夕食なので、地ビールのジョッキが予想以上に早く空になった。さらにバージョンアップされたイルミネーションも十分に堪能。
 今回で10回を数えた研修旅行、その全10回の旅行を企画してきた。今回でその任を解いてもらうため、持てる力を最大限発揮し、『有終の美』とも言える企画だと自負しているのだが、会員の皆さんに満足してもらえたかどうか。
11月27日 
 東公民館の事業「古道・大山道を歩く」の講師。蓑毛越えで阿夫利神社、大山寺を参拝。秋天の紅葉を楽しむ。「おおすみ山荘」で豆腐料理の昼食。その後1時間30分、「大山を知ってください」という演題で、第36代先導師・佐藤大住さんの講義を受ける。
11月28日
 さをり織り展示会の最終日、終日会場に詰め来客に対応。かたわら柏市から届いたPTA広報紙を読む。 
12月 1日
 柏市P連の『広報クリニック』。参加校は32。9時40分から小学校、午後の中学校の部が終わったのが15時50分。正味5時間だが、1校に割れば10分に満たない。それで居残り質問も盛況。柏市P連に招かれるようになって今年で5年目。「うぬぼれるな」と言われるかもしれないが、広報づくりへの意欲は高まってきた、感じている。





NO275 2009年11月1日発行



 11月1日発表  平成21年度秦野市教育委員会表彰 (8人と6団体が表彰)
 【団体】
 ▽本町中学校PTA 第58回全国小・中学校・PTA新聞コンクールPTA広報の部で最優秀賞
 ▽西中学校PTA 第31回全国小・小学校PTA広報紙コンクール中学校の部で日本教育新聞社社長賞
 ▽東中学校一学年 第58回全国小・中学校・PTA新聞コンクール中学校・学習新聞の部で全国新聞教育研究協議会賞
 ▽東中学校広報委員会 第58回神奈川県中学校・高等学校新聞コンクール中学校・学校新聞の部で最優秀賞

  



菊咲かせ草屋の障子明るかり   勝 美


 

NO274 2009年10月1日発行



読売新聞 2009年9月14日

谷津清美さんは『エコー』の読者です





NO273 2009年9月1日発行

月は更けゆく 踊りは冴える 西馬音内盆踊り



ギャラリーのページに西馬音内盆踊りの写真をアップしました。ご覧ください

 8月17日、秋田・羽後町の『西馬音内(にしもない)盆踊り』を見に行った。「西馬音内・にしもない」は、古くは「にしまおんない」と読んでいて「雲の湧き出る谷」という意味のアイヌ語らしい。
 国の重要無形民俗文化財に指定されている「西馬音内盆踊り」は、「おわら風の盆」「阿波踊り」とともに日本三大盆踊りなのだそうだ。この「西馬音内盆踊り」は毎年8月16・17・18日に決まっている。16・17日は午後7時半から11時まで、18日は午後11時半まで踊られる。
 羽後町から秦野に嫁いてきたAさんが、彼女のふるさとの『西馬音内盆踊り』のことを話してくれた。「盆踊りの会場は狭いですよ。宿屋は町に二軒しかない。テレビの『ニュースステーション』で紹介されてからメジャーになって、観光客が押し寄せてくる。踊りはゆったりしている。昔は私も踊った」。そんなAさんの言葉にひかれた。
 この盆踊りの時期の宿の予約は4月1日が解禁日。西馬音内にある唯一のK旅館は定員40人の宿、そこに宿が取れた。8時が過ぎたので見物に出かけようと宿の玄関に出たら、そこに二人の踊り手がいた。東京からの中年のご夫婦で、もう5年ほどこの盆踊りに参加しているとのこと。「病み付きです!」と奥さんはにっこり。ご主人は無言だったが、浴衣の裾をはしょり、もうすっかり踊りモードに入っていた。「会場で踊りを見せてください」と私。
 踊りの会場は本町通りの東西に300m、2車線の道路だから踊り手と観客席の距離は1bもない。その夜の踊り手は600人とのこと。かがり火を囲んだ細長い輪をつくり、ひこさ頭巾とあでやかな端縫い(ハヌイ)衣装をまとった踊り手がにぎやかで勇ましく鳴り響くお囃子の音色を聞きながら、夜更けまで舞う。豊年祈願や盆供養のために始められたというこの盆踊り。心もちからだを後に倒し、その指先きに表れるゆったりとした舞いは幻想的。軽やかなリズム感、それに踊りこの「ヤットセヤットセ」の掛け声、そして表情豊かに踊る編み笠の『阿波踊り』とは対照的だ。
七百年間踊り継がれてきたこの盆踊りは、農民の素朴さと土の匂いを感じさせる多くの盆踊りともまた異なり、都への憧れを思わせる優美で優雅な踊りである。
 幼稚園児や小学生の男の子も踊っていた。男の子は、観客の多さに目を奪われ、左右に視線を走らせているのだが、舞う手振りはたしかだった。その姿を後頭去りしながら眺めている母の姿。母から子へまたその子へと受け継がれている歴史と文化があった。
 休憩時間、間近に見た踊り衣裳の端縫いは、幾枚もの絹布(けんぷ)をはぎ合わせたもので、それぞれの踊り子がその端縫いに個性を表し、美しさを競っている。だから、黒い覆面のひこさ頭巾姿に光る眼と端縫い衣装の編み笠姿はこの上なく美しい対照である。踊り手はけっして顔を見せない。だから、観客はその襟足にいっそう惹きつけられる。
 
 櫓の左右には「五穀豊穣」と「豊年満作」と書かれている角の長灯籠がかけられている。野性的な囃子、そして歌われる歌詞もまた西馬音内盆踊りを魅力的にしている。
 
 西馬音内女ごは どこさたたて 目立つはずだんす 
 手つき見てたんせ 足つき見てたんせ 腰つき見てたんせ(音頭)
 踊りの上手も 見目のよいのも 土地柄血筋
 なんでもかんでも 嫁コ欲しがら ここから貰たんせ(音頭)

 お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し(がんけ)
 月は更けゆく 踊りは冴える 雲井はるかに 雁の声(がんけ)



 

2009年8月3日発行



暑中お見舞い申しあげます
      2009年 盛夏   武 勝美・厚子

 速報 第52回全国新聞教育研究大会・横浜大会  2009/8/1  横浜市開港記念会館
 
 私が講師を務めたPTA広報講座の内容の一部を報告する。  


 今年度発行された広報の注目すべき記事の紹介
                                
 今年度になってきょう8月1日までに2回発行された広報紙4紙の紙面を紹介したい。

『しぶしょう』の106号は5月20日に発行された。A4判12ページで特集は「一年生の保護者に聞く・学校生活の不安」。入学前、学校生活に不安を感じている保護者が50%。そして入学一ヵ月後に「まだ不安」を感じている保護者が20%いるというアンケート調査を元に、一年生の担任・4先生にその不安のへの対応策を聞いている。50%→20%という数値の変化にホッとするのでなく、「なお2割の保護者に不安感がある」ことに視点をあわせた委員会の編姿勢いはすばらしい。
 そして7月15日に107号の発行。この号もA4判12ページ。出色は「親子で過す夏休み」の特集。夏休みということで、子どもがあまり勉強しないときに「一緒に家学(カガク)してみよう」と、親子で楽しく勉強できるいくつかの「やってよう」を提案している。「親子での散策」や「親子で食事の用意」をするなどの他に、「新聞を読む」を提案している。そこには次のように書かれている。「大人みたいに新聞を広げてみよう。8月6日、9日、15日は何の日なのか気にしてみよう」。そして、最後が「壁新聞を作る」。私にとってとても頼もしく、嬉しい提案だった。「しぶしょう」は新聞ソフトで制作、印刷は自校。


『ほんちょうの森』は5月15日に第161号(A4判10P)、7月15日に第162号(A4判8P)を発行した。いずれも新聞ソフトを使っての編集、そして自校印刷、しかもフルカラーである。
 その第162号にバザーの記事がある。「本町小の力が結集!」とバザーの成功を喜ぶ記事が書かれている。その記事の最後に「悲しい忘れ物」と言う小見出しで校舎の回りを回ったらゴミがいっぱい捨てられていたことを書いている。
 PTA行事の報告を載せるのは広報の大切な役目。だが、「大成功! よかった!」ばかりを書いている広報は『赤のし広報』、『バンザーイ広報』。次のために、反省すべき点も書きたい。マンネリに陥らないためにも、評価をみんなでしたい。もちろん、成功の喜びに“水を差す”ような書き方でなく、この見出しのように、柔らかく、しかし、しっかりとした表現をしたい。


『丹沢の風』 194号(A4判8P))が4月30日、195号(A4判12P)。この『丹沢の風』も新聞ソフト編集、自校印刷、フルカラー仕様である。
 195号は力作。「応援せずにはいられない・進路」は、生徒、保護者、さらには高校生にもアンケートをお願いしている4ページの特集。頑張って「記事が詰まりすぎ」の感がするのは少し残念。
 教育実習生の取材も行なわれているが、その中で実習生から保護者(広報委員)に対して逆質問がされたことが記事になっている「お母さんたちにとって望ましい教師とは」と実習生が尋ねたのに対し、「悪いことは悪いと言ってくれる先生」「場所に応じた言葉遣いや態度を取れるように指導して欲しい」「毅然とした態度が取れる先生」が保護者からの要望。保護者の願いを直接聞くことができた実習生たちは、ますます教師になる思いを強くしただろう。編集会議の充実ぶりが分る『丹沢の風』だ。


『陽 光』の202号は6月23日に発行された。A4判8Pで、編集は新聞ソフト、印刷は業者。この号は先生紹介と部活動紹介に4ページを割いている。発行日も含め年度当初のよくあるPTA広報と言える。
 ところが、7月14日にA4・4ページで第203号を発行した。PTA活動や子供たちの学校生活の記事もあるが、メインは「検証 耐震基準はクリアしていますが…」という体育館の現状を、写真を添えて報告している。
 202号の「部活紹介」の取材で、体育館で活動している子供たちにいろいろなインタビューをした。その中で体育館の現状を知り、子供たちから建て替えを望む声をたくさん聞いた。それで、急きょ203号を発行することにしたようだ。一つの企画から次の企画が生まれた。そこにある課題を見逃さなかった新聞記者のような感性を持って委員会である。実際、この種の記事を書くことについては、かなり苦しまなければならないはず。だがPTA広報の果すべき役割をしっかり意識している広報委員会だから頑張れた。

 以上の4紙は、見出し、写真、キャッチ・コピーなどレイアウトの面からも、読ませる紙面づくりがなされている。他紙の見本になる。

 

 PTA広報講座に茨城から参加された藤原さんからのたよりです。

 昨日は、講座に参加させていただき、大変有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
 先生のお話はこれで3回目になりましたが、いつも温かい気持ちでいっぱいになります。広報委員になってよかったなぁ、広報紙にエネルギー費やしてきてよかったなぁって、充実感に浸ることができます。どこの広報委員さんも、きっとたくさん大変なことがあって活動されているはず。それでも、あの達成感は、それまでの苦労を全部吹き飛ばしてくれます。良い経験をさせてもらいました。毎回それを思い返すことになり、胸がいっぱいになります。
 今回も私たちの広報『たが』の「携帯電話の特集」を、お話の中に取り上げていただき、照れくさいですが嬉しいです。いつも、先生の携帯電話への思いも一緒にお話しして下さるので、同じ思いの私たちは、自分たちは間違っていなかった・・・と、なぜか涙が出そうになっちゃいます。あの頃は、フィルタリングが叫ばれ始めた時だったのですが、へそ曲がりの私は、「フィルタリングでは何も解決するわけない」と、全く信用していなかったのです。大人が作った物に子どもが振り回され、お金儲けのターゲットにされてるって、いつも感じていました。だから、自分自身でそこに免疫を付けて目を鍛えていかないと、親でさえ守りきれないって思ってます。携帯は、正にその象徴で、携帯そのものが悪いのではなく、それを使う人の問題なんだと。相手を思いやることができれば、携帯が悪いことに使われることはないんだ、って、ただただ単純に思っていた次第です。そんな簡単なことではないのかもしれませんが、でも簡単なことで。携帯だけではなく、全てのことが、昔はよく言われた『自分が嫌なことは人にもしない』って事なんだと思います。
 そんな思いを汲んで下さってお話いただけることは、とっても嬉しいです。ありがとうございます。
 今回は、本町中の実践発表も楽しみに向かいました。立派なプレゼンでした! レベルの高いところで活動されている様子がよくわかりました。わが子が、居心地のよい充実した学校生活を送るために、自分にできるお手伝いというのがPTA活動なのでしょうが、最大限の協力をされてきたのがよく分かりまた。明るく前向きなNさんの堂々とした姿は、広報紙作りに携わっている人たちの目標です。支えているメンバーのお力も大きいことでしょう。花火大会を楽しんで帰られたかな? 京都以来三回、お二人にお会いできてよかったです。
 深川第八中の広報さんも、とっても頑張ったのですね。何度も何度も『大変でした』と言っていました。本を片手に一から始まっていた様子は、私たちが2年目、できる委員長が卒業してしまい頭を抱えていた当時と重なり、苦しい心中が伝わってきました。作り終えて結果が出て、体中軽くなったでしょうね。お疲れさまです。
 横浜散策もでき、良い一日を過ごさせていただきました。導きに感謝です!   藤原


 この横浜大会に秦野から16名の参加。PTA広報の実践発表に秦野市立本町中PTA広報委員会(古屋茂校長をはじめとする7人)。パソコン新聞づくり講座の司会者に石田崇男大根中教頭、谷津裕本町中教諭。200号表彰に西中PTA広報『陽光』(2人)、100号表彰は渋沢小PTA広報『しぶしよう』(3人)。そして相原市P連情報委員長。



岡野実大会会長から100号表彰を受ける『しぶしょう』



歩から始めるPTA広報紙づくり講座

2009年7月1日発行

ホームページアドレス http://echo-take.sakura.ne.jp/ に変わりました


新聞・広報づくりに燃えている皆さん 今年は開港150周年の横浜でお会いしましょう

PTA広報講座を担当します





2009年6月1日発行


タウンニュース 2009/5/23







        2009年4月1日発行


 ことしで「新聞づくり50年」  読者の心に応える《新聞づくり》のために

 教職の道の第一歩を踏み出したのは厚木市立玉川中学校。そこで学校新聞『玉中新聞』を創刊したのが1960年だった。それからことし2009年までの50年間、学校での新聞づくりに関わってきた。
 1970年代、秦野市立東中学校で「全校による週刊学級新聞の発行」を実践。その中で、「学級に学級新聞が無いより、在るほうがいい」と、思うようになった。そして今は、「新聞で、学校に三つの声を響かせよう。―子供の声を学校・学級新聞で、保護者の願いをPTA新聞で、教師の思いを学校・学級だよりで―」と説いている。
 わたしの「新聞づくり50年」は、その変わらぬ姿勢で評価されることもある。他方「まだ新聞に関わっているの」と、いぶかられてもいる。「継続は力なり」という言葉はあまり好きではない。この言葉、透かして見ると《惰性》という文字が浮かぶからだ。新聞は、常に《新》でなければならない。
 ともあれ、きょうまで新聞づくりに関わることができたのは、子供たち、保護者のみなさん、そして教師仲間など、それこそ大勢の人たちに支えられたからに他ならない。心からお礼を申し上げる。
 ことし50年目のスタートは、4月16日の東京・文京区でのPTA広報研修会。広報の《報》という文字の持つ意味は、「報じる・伝える」だけではない。「報いる・お返しをする」という意味もある。読者の心に応えるための《新聞・広報づくり》の手助けをことしも続けたい。




2009年2月1日発行



 親でも 子どもの人生を代わることはできませ

 子どもの幸せを願っているはずが、いつの間にか「成果主義」になってしまい、「なぜできないの? よその子はできるのに」と知らないうちに、子どもを追い詰めていたようです。
 サッカーをやっている息子は、クリティアーノ・ロナウドという選手が大好きです。
「今日、ぼくね、ロナウドみたいなプレーができたんだよ!」と報告する息子。もちろん、彼のようなプレーができるはずもありません。
「なに言っているの できるはずないでしょう!」と以前は言っていたように思います。
 でも、今は、「すごいねぇ、ロナウドみたいなプレーをしたの かっこいいね!」と褒めてあげるようになりました。というのは、先日、見つけたノートに「さっかーで なかなかったよ 6がつ4にち」と書いてあったのです。
 息子は4歳の時にサッカーを始めたのですが、送迎をするときに、「上手く出来ないから、ヤダ」と泣いていました。私は「あきらめたら、そこで終わりになってしまうよ。それでもいいの?」と、毎週同じやり取りをしたのを覚えています。
 そして、初めて、泣かなかった日のこと。「ぼく、きょう、サッカー、泣かなかったよ!」とうれしそうに言うのです。壁を乗り越えたのか、とても誇らしげでした。私もあんまりにもうれしくて、「ノートに書いておこうね」と、平仮名を覚えたての息子に書かせたのでした。
 私は気づきました。サッカーを続けるのは、「上手い下手ではなく、好きか、嫌いか」なんだなと。サッカーが好きなら それで良いのだと。レギュラーでなくても、好きな気持ちは誰にも負けない! レギュラーになるために、サッカーをしているんじゃない、と気づかされたのです。
 半年前、サッカーのことで、友達との意見の食い違いがあり、つらい経験をしてしまいました。今にして思うと、「ぼくは大丈夫だから」と子どもがいうのに、親である私がつらく、耐えられなかったのだと思います。
 息子は、年長から4年生の夏までがんばっていたそのチームをやめてしまいました。でも、チームは変えましたが、サッカーをやめませんでした。彼は一生懸命がんばり続けました。 
 「がんばるしかない。がんばるしか」と子どもに言いながら、私も自分に言い聞かせていました。でも私は「なぜ、あんなにがんばれるんだろう。私なら心が折れているな」と思いました。「本人が続けたいなら、続けさせてあげよう」くらいにしか考えていませんでした。ところが、のびのびとプレーしているではありませんか。以前よりずっと、サッカーも上達しています。「かあさん、サッカー楽しいよ。ありがとう」その言葉に救われました。
 がんばるのは子ども自身なのですね。たとえ親でも、息子の人生を代わることはできませんから。親は、明るく笑って応援することしかできません。今では息子は元気いっぱい、「行ってきます!」と出かけて行きます。彼は私の手を離したのです。  箕輪佐和子


2009年1月1日発行
          


干支(信楽焼)  倉田幸子さんより





中学教育・1984年

大野哲郎さんは小著『新聞教育の研究と実践』を出版してくれた駿台書房社長

 

2008年12月2日発行


 
2008/11/24・25   PTA広報紙クリニック 千葉・柏市P連主催
 
5月の講座で学んだことを元に作った広報紙の紙面診断 33校のPTA広報紙全紙を午前9時半から午後4時まで。終了後の相談が7校も。 
 
 2008/11/27・28  
菊作りの仲間(秦野ゆとりの会)の研修旅行 
                       
9回目の今年は渋温泉でレトロな湯を楽しみ、温泉街を歩く猿に出会う。北国街道の海野宿で「ウダツ」を眺める
 『秦野煙草音頭』の作曲者の中山晋平記念館は中野市にある。文部唱歌「故郷」を作詞した高野辰之もここで生まれた。  晋平が使ったオルガンで「ゴンドラの唄」など3曲を合唱。「ゴンドラの唄」が歌える昭和生まれの会員19名が 伴奏者と記念撮影。 前山寺で「くるみおはぎ」をいただく。おいしかった。
 
 2008/11/30  古道・大山道を歩く「蓑毛越え」 東公民館事業
             もみじ祭りの最終日。たいへんな賑わいのなかでこの講座は、先導師の宿で豆腐料理をいただくことも入っているので参加者は36名。 
 この日もまた善男善女が大山詣でをしていた。私の講座は「大山詣での道と宿」   「おおすみ山荘」の広間で。  今回は山口成富さんを講師に迎え、大山寺の建築様式についての話を聞いた。  大山寺を手がけた棟梁「手中明王太郎」の銘。向拝の右の柱の上部の獅子の木鼻の下に見える。
 「たはらへ二里 十日市場へ二里」と記された大山町にある六角道標を紹介する。
写真・井口けんじ(右2枚も)
  昼食は大山名物の豆腐料理。    大山豆腐の材料の大豆。おおすみ山荘の庭先に干してあった。                                       


2008年11月5日発行

教え子に励まされ頑張った講演

同窓会会場から届いた電報


           お祝い お届け台紙名『めでたい電報』  お届け日  1101日午前
           東京都 新宿区 歌舞伎町 
135
           相模ビル
2階 喫茶室ルノアール

                 武 勝美 様
            武勝美先生
544回目の講演おめでとうございます。心よりお祝い申しあげます。
           今日は東中学校
49年度卒のクラス会です。勝美先生が参加できなくてさみしいけど、講演頑張れ。
                                     東中
49年度卒75名の子供たちより


 新宿・歌舞伎町喫茶室『ルノアール』で、新聞教育支援センター主催の特別講演会。歌舞伎町に足を踏み入れたのは40年ぶりかもしれない。そのときも新聞の先生たちと一緒だった。地図を持っているのにかなり迷った。やっと会場にたどり着くと、私宛に電報が届いていた。今日のわたしを激励するのものだった。じつは、きょうは50歳になった秦野東中の教え子たちの同窓会が秦野で開かれていた。だが、わたしは講演会が先きに決まったので、講演会のチラシを添え欠席を伝えた。それで、電報を打ってくれたのだ。 
 98文字の電文(電文は上)を最後まで読み終える前に文字が滲んでしまった。東中学時代のこの子たちは週刊で学級新聞を発行、わたしが書く学級通信は日刊だった。「75名の子たちの力をもらった。きょうは大丈夫!」、落ち着いて開会を待った。
 集ってくれたのは新聞教育に燃えているベテランの先生、現役の校長先生、新採用の先生、企業人、フリージャーナリスト、今も新聞教育に関わっている元教員、卒論のテーマの勉強にと大学生も。
 秦野から現役のPTAのお母さんたち6名も駆けつけてくれた。昨年度の全国学校新聞コンクール・PTA広報部門で最優秀を贈られた『丹沢の風』の笠井さん。同コンクールで佳作に入った『くず葉』の野上さん、名波さん。一昨年このコンクールで毎日新聞社賞を得た『西のいぶき』の相原さん、それに今年度市P連の情報委員会の正・副委員長である、石田さん、石井さん。“そうそうたる顔ぶれ”なのだが、決して強面・硬派ではない。Y先生から「武さんの親衛隊ですね」と聞かれ、「いいえ、介助・支援隊です」と答えるような、明るくしなやかな若いお母さんたちなのだ。
 2時から3時間、「新聞教育」について思いのたけを話させてもらった。上映したビデオに30年前の私が登場すると、会場から「若いねー」と嘆声と笑いのうちに会は終わった。 
 会場を新宿駅西口に移し懇親会。16名の参加。楽しい会だった。6人の支援・親衛隊に守られ8時の特急で帰秦。車中で思った。「今日は生前葬だった」と。
 吉成勝好先生をはじめとする支援センターの理事の皆さん、三連休の中日の午後という貴重な時間にわたしの話を聞いてくださった皆さんに、ただただ「有難うございました」を重ねるだけす。

 吉成先生の教え子の大学
生も聴きに来てくれました
 “今日 生きている喜び” 
   75 人からの応援ももらって
秦野からの6名(相原明美・石井美穂・石田真美・
笠井麗子・名波奈々・野上真由美さん)も加わ
って懇親会





2008年9月1日発行


「誰にでもできる新聞づくり」の講座から生まれた家族新聞

 編集後記に「夏休み 親の出番がやってきた」と書いてあります。子供の夏休みの体験活動や宿題をサポートしているうちに、それらが親自身の興味の対象になってしまい、このような家族新聞づくりにまで発展したA家のお母さん。子育てに一生懸命、そして自分自身のことにも一生懸命になれるお母さんはすてきです。



2008年8月1日発行


 きょうから夏の甲子園大会  

 きょうから夏の甲子園大会が始まる。90回記念大会で参加校は55。
 次は1934年の大会を報じた朝日新聞の記事である。
「……コバルトの空に白雲の面紗(めんしゃ)かゝり、スタンドに通ふ爽涼(そうりょう)の微風も天の贈ものか、望みのこすことなき甲子園日和、ときに日曜……」
「……火ぶたきるその瞬間、碧い空に風死んで、檣頭(しょうとう)の大会旗もかすかに息づき、ライト・レッドのダイヤモンドに大鉄傘の影がむらさきに濃い。……」
「エメラルドの青芝にひかる夜露がまだかはかぬうち、朝顔の花といっしょに咲きひらく人の輪」 「幾千万倍の拡大鏡のレンズに映しだされた『人間細胞』の密集リングである……」
 書いた人は記者3年生の守山義雄。期間中、同じ形容詞は二度と使わなかったという伝説の記者。文明批評家である森本哲郎さんが読み直した。「すごいね。いやあ、いま読んで、読むに堪えるというところがすごい。」(朝日新聞夕刊・2008年4月10日「記者風伝」)

 数々の熱闘、好試合が今年も活字で心に刻み込まれるだろう。 
 




誰でもできる新聞づくり講座


次回は8月9日 この日に新聞は完成




2008年7月1日発行

秦野のへらへら団子 復活 

東地区の文化や民俗行事を次代に引き継ぎたいと願っている私。その引き継ぎたいものの一
つである『へらへら団子』を東婦人会が復活してくれた。東中学校の生徒もイラストで協力・参加
してくれた。この婦人会の活動に企画からかかわってきた私にとって限りなく嬉しいことだった。


神奈川新聞 2008/6/29



「試食に準備したへらへら団子は瞬く間になくなった やってよかった!」  Nさん

トチリは計算づく?  超満員の会場からは大うけ! 東中学校の美術部員も期末試験の最中だが協力

関連記事は「秦野のお話」のページ





2008年6月1日発行


 あっと言う間の1ヵ月半


 『エコー』 ありがとうござます。もう5月も半ばを過ぎてしまいました。本当にあっと言う間の1ヵ月半でした!

 4年生の担任になりました。本当に元気で元気で… とってもかわいいです。男の子が元気すぎるのがたくさんいて、毎日けんかばかり… 授業もうるさいし、立ち歩く子もいるし…
正直、大変です。4月末は疲れもピーク。子どもたちもだんだんと本性を表し始め… 何度泣きそうになったことか…
 保護者対応でもうまくいかないことがあり、悔しいし、悲しいし、へこみにへこんだ週末を過ごしたともありました。でも、5月初めの家庭訪問では温かいお母さんたちの言葉に励まされました。新任だからこそ一生懸命やってくれるから嬉しいと聞いてほっとしました。

 周りの先生たちも本当にいい人たちばかりでよかったです。ゴールデンウィークは地区で採用された仲間、高校の同級生たちで集まって報告会やりました。仲間は大事ですね。みんな大変なんだね、って悩みを共有しあうことができました。
 毎日5時半に起き、朝ごはんをつくって、7時には出て、帰りは8時過ぎです。ハンドボールのクラブチームを結成し、土曜日は練習してます。日曜はちょこっと学校へ行って花に水あげたり、授業の準備をしたりしています。今のところ、こんな生活リズムで頑張っています。
 
 先生も500回目の講習お疲れ様です。東中のみんな元気かな。今度の広報委員長はSさんですね。去年も広報委員でがんばっていました。今年も楽しみです。

 子どもたちにもいつか新聞づくりを教えたいです。もっと余裕ができたらかな? でも学級だよりは毎週出しています。本当はもうちょっと出したいですが… 名前は「MOT光」(もっとひかり)です。子どもの人数は30人。30を横にしてMO。TはTeacher担任のTです。子どもたち30人と私自身も、もっと光輝けるクラスにしたいという願いをこめてつけました。
 まだまだ課題ばかりのクラスですが、3月には子どもたちに囲まれて、笑顔で1年を終われるようがんばります。お会いできる日をたのしみにしています!   Mayu






 NO260 2008年5月1日発行


関連記事「マンスリーエッセイ」のページに

毎日新聞  2008/4/30






2008年4月1日発行


 秦野・本町中のPTA広報『丹沢の風』は、平成19年度はA4判8ページの月刊紙だった。この広報紙は、毎号表紙に中学校の生活の写真とそれに合わせた詩を載せてきた。写真と詩のコラボレーションによる表紙は、読者に好評(詳しくは『秦野の新聞教育』のページで)だったようだ。届いた『丹沢の風』の年度最終号である3月号の表紙に私の詩「春の朝」が採用された。






 私もお手伝いをさせてもらっている東中学校1学年の「総合の時間」。そののまとめが学習新聞で発表という形でされました。内容の充実はもちろん、新聞としても立派です。見学した地域の人から「コピーが欲しい」と言われるくらいのカラフルの新聞です。







2008年3月1日発行


『古道・大山道を歩く』の第1回は「坂本道」を5時間かけて散策

2月26日
 東公民館の「団塊世代支援セミナー『古道・大山道を歩く』NO1」の講師を務めた。雨が予報より遅れていたので、予定通り実施。私を含め総勢24名の参加。 9時から1時間「大山信仰と大山道」について話を聴いてもらう。そして10時から歩き始める。 今まで10回ほど今回のような講座をもったが、今日の参加者がもっとも反応が良く、歩きながらの質問や話しかけがたくさんあり、案内し甲斐があった。
 「才戸」と呼ばれる場所で「イザナギ・イザナミの国生み」の話をした。「成り成りて 成り合わざる」の一節をちょっとトチッタたら、さっとフォローしてくれた女性がいた。
 2時30分に公民館に戻り、それから終りの座学「金目川の金目とは」を30分もつ。万歩計によれば9600歩ほど歩いたらしい。「元気ですね」と褒められたが、それは一緒に歩いてくれた23人のおかげ。 




「タウンニュース」紙・2008年3月1日号




 2008年1月1日発行

2007年掉尾を飾る返ってきた「エコー」


神奈川新聞コラム『照明灯』 2007年12月31日



 2007年11月1日発行


 ラオススタディーツアーに参加して
  
 本当の支援は 相手の心に寄り添うこと
                                    高橋由紀子

 「ラオスの子供達に会いに行きませんか。村のハウスで宿泊してみませんか」の呼びかけに、またまた家族(夫、小5女、私)で乗ってしまいました。2度目のチャレンジです。
 世界には、およそ8千万人にも及ぶ小学校に通えない子供達がいます。子供達は、将来への夢や、あの人みたいになりたいというあこがれを抱いています。しかし、その夢に向ってのスタートラインに立つことができない、夢を描くことすらできない子供達もいます。
 急激な経済成長を続けるASEAN諸国にも満足に教育を受けられない子供達がいます。ラオスもその国の1つです。世界最貧国とも言われ、国民の80%が農業従事者。田畑の生産性は低く自給自足に近い貧しい暮らしです。また、ベトナム戦争時、ベトナム国境沿いの山岳地帯に落とされた無数の不発弾が残存しているのに、意外に周知されていません。この国では、子供達は農作業や家事にと、貴重な労働力です。水汲みは子供達の日課。一日に何度も村はずれにある井戸から運ばねばなりません。小学校を卒業できるのは全国で40%程度です。学校の老朽化、教員不足など教育環境の整備は進んでいません。
 「貧しさのために学校に通えない子供達の里親になりませんか」というNGO団体日本民際センターの呼びかけに、夫の会社の労働組合が協力してから5年になります。(組合としては学校建設や病院支援等、個人支援は一人の奨学生が1年間学校に通うための1万円の寄付。) 最初にラオスの村に民泊した時の印象は、暑いけど時間がゆったり流れ、濃密な人間関係があり、食べ物は想像以上においしく、水道トイレお風呂などありませんが、(電気の通電はよく夜の灯りはOK)ここならお金がなくても生きていかれそうと思いました。
 新校舎は村のシンボルであり、集会所としても大活躍です。子供達は学校が大好き、勉強が楽しそうでした。両親は文字が読めなくても、代わりに子供達がスラスラと読み上げ、ラオ語を私に教えてくれました。純朴な子供達とのふれあいは楽しいです。日本の引きこもり、登校拒否の子にこの環境に触れてほしいと思いました。
 さて今回は、できるだけ沢山のおみやげをスーツケースに詰め込みました。文房具、おもちゃ、タオル、石鹸、お菓子、うちわ、夏服などです。何でも喜んでもらえます。中古服でも着用してもらえるので、助かります。ですが、今回の私は、物資を提供し、言葉は通じ合わずともふれあって、心と心で会話できる喜びや感動を味わいながらも、なぜか心は満たされませんでした。私に何ができるのだろうか、本当の支援とは何だろう、と模索する旅であったように思います。
 帰国後、新聞であるNGO団体代表の声を読みました。「住民の声に寄り添うのが本当の援助。援助する人とされる人、という上下関係ではなく、同じ目線で話を聞くことによって、その人の喜びも悲しみも見えてきます。そこに寄り添うのが本当の支援なのではないでしょうか」。あっ、これだと思いました。
 ラオスの宣伝マンになり、ラオスの奨学生のホームステイ先とて我が家を提供したいという夢が膨らんできています。我が子には、将来日本人として国際社会の中で貢献できる仕事に就いてもらえたら、とちょっぴり期待しています。



 ラオス・ピアマイ村の生活を体験してみて
                                 小5   高橋千春

 両親から「ラオスに行こう」と言われました。ても、「ラオス」って、あまりピンときませでした。そのラオスに行ってきました。友達も、タイやベトナムなどは知っていますが、ラオスについては、行く前の私と同じで「どこにあるの? どんなところ?」などと質問をしてきます。その質問に答えるとき、最初に出る言葉は「とっても貧しいところだよ。でもとってもいいところだよ」です。
 子どもたちは、朝早く起きて、家のお手伝いをします。えらいと思いませんか? わたし自身も含めて、日本の子どもは時間ギリギリに起きて、あわただしく学校に行く。この違いは何!?って感じました。しかも、思う存分勉強ができないのです。勉強が好きでも学校に行けない子どもだっていっぱいいます。なのに、日本の子どもは学校がいやだ、行きたくない! 勉強がきらい、なんて言う。ぜいたくだと思いませんか? そんな人に「あなたもラオスに行ってみなさい。そしてそこでの厳しい生活を体験してみてください。ラオスという国を見てきてください」と言いたいです。そんなの自分には関係ないからいいや、って言っている人、ラオスのような貧しい国に興味を持ち、支援していけば何千人もの子どもが学校に通えるのです。支援しなくとも、学校にも通えないかわいそうな子どもたちがいることを知っているだけで、世界が変わるような気がします。これからも、世界には貧しい国があるというこ
とみんなに伝えていきたいです。






255号 2007年10月1日発行


 現職のM先生は、毎号“エコー”してくださいます。その分量はA4判2ページほどです。


 『エコー』 次は11月 楽しみに待っています
 

 拝啓 『エコー』252号、拝読いたしました。日本最高記録の出るほどの暑い夏でした。まだその名残もあります。いかがお過ごしでしょうか。私はもう烏龍茶のペットボトル(2リットル)を1日1本あけるぐらいのペースで水分補給をして、熱中症にならないように気をつけ、夜は寝冷えしない程度にクーラーをきかせてからだを冷やし、涼しげな中で睡眠をとるようにしました。疲れを残さないこと。暑さパテが何よりも要注意ですから。

「ニュースソース」
 この記事は読んだ記憶があります。一般紙の文章としてはやはりひっかかるものがありました。日本シリーズの「近鉄一巨人」戦を思い出されたのでしょうか。3連勝した近鉄のピッチャーの一言でジャイアンツナインが奮起して4連勝をしてシリーズを勝ち取ったということがありました。記者さんはそんなイメージでこの文章を書き上げたのかもしれません。選手同士の言葉のやりとりはいろいろなものがあるかと思いますが、それを元に記事にしてしまうと、シコリを残すことになり、試合の結果いかんにかかわらず、その試合じたいがケガされてしまう気がします。報道の怖さです。
 
「ダブルピース」
 武先生と北桜閑との記念撮影の光景をテレビで見た、とおっしゃられた方がいて、そういえばそんなシーンがあったと、私にもかすかに記憶があります。北桜開とはやや前髪の薄い、元気を前面に出すようなはちきれんばかりの体格をされている関取ですね。朝青龍の問題で、大相撲はどうなるのかと心配されている中で、地方巡業にはたくさんの人達が見にきてくれていて、相撲取りの人達もファンサービスを欠かさず、サインを求められれば花道でもこたえてあげていた琴光喜開でしたか、そんな場面もありました。突然の相撲観戦をプレゼントされてよかったですね。

「今、学校で 広報に取り組む母親」
 広報担当の役員の方々は本当に自分の時間をさいて取材と執筆に追われます。その苦労がこの仕事を敬遠させる理由でしょうが、ここで紹介されているお母さん方のように広報を元にして、自分の生活を変えてみたり、自分の生活に取り入れてみたりすることで、単なる取材に終わらずに、わが子のあり方や中学生を理解することにつなげられたというのは大変な工夫だと思います。先生の名前が載せられないと言われたことを逆手にとって、クイズ形式にしたことでPTA総会への参加を促すなんていうのはすごい機転のきかせようです。
 今、中学校には各高校の案内パンフが次々と送られてきます。今では公立高校も生徒募集にやっきになって、今までにないほどの立派なものが送られてきます。この予算はどう捻出されているのだろうかとも思います。それをPTA広報で学校案内(紹介)をしてしまおうという、積極的な発想はすばらしい、というよりも、学校はどうしているのかなと裏読みしてしまいたくなります。PTAにまかせっきりというわけではないと思うのですが…。

「新聞を読む楽しさを発見」「私とNIE」
 社会科の授業の最初に、神奈川新聞を広げて、その日の記事を紹介しています。少しでも新聞を読む習慣を身につけてほしいことと時事問題に関心をもってもらって、今学習している内容と現実の関連を見いだしてもらえればという狙いで行っています。3年生の勉強で内閣の勉強があるので、新しい大臣が決まったところでその一覧表を印刷して生徒に配ろうとしたら、すでに辞任された大臣がいますので書き直しておいてください、ということになりました。さて、それは誰でしょう? と聞くと、一人二人正解を答えてくれる。拳銃型のライターを電車の中で振り回して遊んでいた高校生を、電車から降りたところで呼び止め、ライターをとりあげ注意したところ、口論になって、数回平手で殴ってしまった警察官。その場に居合わせた人が警察に通報して、この警察官は逮捕。ちょっと、かわいそうだね、といった翌日、警察官に同情の声という囲み記事が出ました。やっぱり同じようなことを思う人いるんだねという話になり、ところが家に帰ってから夕刊を見たら、その警察官、注意する前に、髪の毛をひっぱって外に連れ出し、注意する前に平手をくわえていたという記事が出ていました(これは生徒には話していません)。新聞を読んでいると、時にこうして続き物のような記事が出たりして、それを追いかけるのもおもしろいです。

「『続寺山ものがたり』を上梓」
 “語り部”としての役割を担われたなと思いました。消え去っていく昔の姿を、次の世代にしっかりと語り伝えていくこと。『日本のしきたり』という本が出ています。今までは代々語り伝えられてきた伝統が、伝える人と伝えられる人の接点がなくなってきていて、今までは常識として通ってきたことが常識ではなくなってきた。こういう時にはどうしたらいいのか、わからなくなっています。語り部活動を、東公民館の新聞づくりの講座と同じように、年間通した講座として開かれたらどうかなと思います。そこには武先生だけではなく、地元の知識人を呼んで講師として話をしてもらうとか。

 今回も勝手な物言いをさせてもらいました。 それでは、次は11月。『エコー』を楽しみにお待ちしています。
 
  平成19年9月9日(重陽の節句)
 
               




254号 2007年9月1日発行

 全国新聞教育研究大会・秦野大会を思う

 大会開催で地元が受ける恩恵

8月31日の夜、昨年8月に秦野市で開かれた第49回全国新聞教育研究大会で大会速報『湧水』を担当したお母さんたちの集まりがあった。
速報編集長・石田崇男先生、相原、青柳、石田、笠井、栗山、後藤、佐々木、関野、丸山、水越、山口編集委員、そして秦野大会実行委員長・地崎利和先生、事務局長・谷津裕先生。東京から全国新聞教育研究協議会(全新研)事務局長の田村俊雄先生も駆けつけてくれ、私を含め総勢16名の会。
 全新研から地崎先生に『新聞功労賞』を贈る式から会は始まった。続いて今年8月に開催された第50回東京大会大会の様子を、田村先生、笠井麗子さん、そして私が報告。谷津先生から「秦野大会記録集」が配られた。そして、谷津先生の音頭で乾杯。

 秦野大会について、地崎・石田両先生から次ような話があった。

 地崎「開催を受託したからには、秦野のためになる大会にしたいと思った。だから、金・土という日程を平日に変えた。秦野の先生方が一人でも多く研修して欲しかったから」
 石田「渋沢中の全先生が、昨年の夏休みに教科新聞をパソコンで作り、授業に使った。この夏も同じように新聞を作っている」と、自作の『Laos report』を、15人に配った。
 谷津先生が編集した記録集はA448ページで、新聞教育の実践指導書ともいえるものになっている。「秦野市の先生方を中心に配布したい。余ったら全国の関係者に」
 東京大会の速報を手にして、「私たち凄いことをやったんだ、この仲間だから出来た、と今さらながら思う」といったお母さんたち。たしかに秦野の速報は質、量ともに東京のそれを凌駕している。
 今年の東京大会に参加し、考えた。東京大会でのPTA広報講座の会場のその、あまりの“閑散”さ。本町中・笠井さんが提案したPTA分科会には、古屋校長先生と広報委員の松本さんの顔が見えた。そして、古屋校長先生は、自校のPTA広報の存在の重要性、必要性を説いた。だが、この会場もPTAの一般参加者は10名に満たなかった。新聞大会を開催するということは、地崎先生や石田先生の話にあるように、開催地の先生方やPTAがその恩恵を受けることができるということ。このことが忘れられている、と思った。
 お母さんたちが異口同音に発した、「もったいない!」。

 全国新聞教育研究大会・秦野大会から受けた恩恵の一つの例

 PTA広報紙クリニックから

  「愛」の反対語は「無関心」―評価することの大切さ
 

 8月28日、本町公民館で行なわれた秦野市P連主催の『広報紙クリニック』の講師を務めた。この講座は1995(H7)年に市P連の『広報作り講座』の一環として始まった。
 クリニックは1グループ3〜4校が、私と面接する形で紙面のクリニックを受ける。グループ校はその席上でそれぞれ広報紙を交換し合っているので、自校の広報紙のほか他校2紙の講評も聞くことができるようになっている。
 この日は22のPTA広報紙と「市P連だより」が参加。1グループの持ち時間を45分とした。9時15分スタート、終了は午後4時15分というロングランである。
 クリニックの内容は、基本的には「次号発行へのアドバイス」をすることなので、特集の組み方、記事の書き方、紙面構成、写真の撮り方・扱い方などを、紙面を眺めながら話す。
 参加した広報委員は、クリニックの後、別室でグループごとの交流会を45分間持つ。進行を務める情報委員によれば「クリニックか余韻となっているので、話し合いが盛り上がり、会を打ち切るのに苦労する」とのこと。

 クリニックのまとめ「今年の秦野市のPTA広報活動」
 (1) 7月末までに発行された回数
 ・5回 鶴巻小  ・4回 本町中  ・3回 西小  ・2回 大根中、広畑小、末広小、本町小、堀川小、渋沢小、南が丘小、市P連  ・1回 12校
 (2)注目すべき広報
 ・本町中 全号(月刊)A4判8ページ(自校印刷)。広報委員が修学旅行に同行取材。
 ・末広小 年度第1号の1面に特集「なぜ必要 PTA」を組む(自校印刷)。
 ・広畑小 新聞編集ソフトを使い、第2号はB4判・6ページ・フルカラー版を発行(自校印刷)
 ・西小 年度第3号(夏休み直前号)の付録に、学区内巡りのイラストマップを作成。(自校印刷)。
 (3)その他
 ・「予算」や「発行までの時間」などから、新聞編集ソフトを使っての編集、自校印刷が増えている。パソコンを使える年代がPTA会員になったということも実感。
 
 この日の参加者は140名超、子供づれの参加も10名ほどあった。昼休み以外は休憩が取れないハードスケジュールだが、参加者の声はおおむね好評。褒められればもちろん、厳しい言葉を聞かされたとしても、《評価》されることは次への意欲につながると思っている。「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく、「無関心」という言葉なのだから。現実に、クリニックの後コンクール応募への意志表示をした委員会があったし、発行回数を増やすと宣言した委員会もあった。
 少しうぬぼれているかもしれないが、このクリニックは全国でも稀なPTA広報講座だと思う。今年度は秦野市のほか柏市など7市町でこのクリニックを行なう。



253号 2007年8月1日発行


神奈川新聞7月23日付け『照明灯』

 秦野市の元中学校長・武勝美さんが編集発行しているミニ新聞が先月、二百五十号を数えた。教師としての自分の思いを、より多くの人に知ってもらい、語り合いたいと二十二年前に始め、月一回の発行を続けてきた。
▼教育現場で起きるさまざまな問題を直視し、子どもや教師、父母に語り掛け、互いの意見が響き合うようにしたいとの願いを込め題字は「ECHO」。二つ折りB5判八ページの紙面には、読者から返ってくるエコー(反響)があふれている。
▼「かけた情けは水に流せ。受けた情けは石に刻め。(この言葉は)今では私の座右の銘です。広報は耕報・自分を耕すのに欠かせない『エコー』です」。最新号に寄せられた読者の便りからは紙面に対する全幅の信頼ぶりが読み取れる。
▼新聞づくりを通した教育にこだわってきた武さんは、各地で開かれる学校新聞やPTA広報紙講座の講師としても引っ張りだこ。その講座をのぞいたことがある。ユーモアたっぷり、巧みな話しぶりに引き込まれる。
▼約二時間、理論から実務編まで及ぶが、「PTA広報はなぜ必要か」という点に力を入れて説く。「伝える技術を身につける前に、伝えたい気持ちを持ち、高めることが大切」だからだという。会場にも、参加者同士の心の響き合いが満ちていた。




252号 2007年7月1日発行

「新聞っておもしろい!」 講座  6/16・30  東公民館





251号 2007年6月1日発行

      

6/2 アクセス 100,000  ありがとうございます






250号 2007年5月1日発行


励まされ 支えられ  250号  ありがとうございました  武 勝美


エコーよ 響きわたれ
                                 内藤 美彦

 『エコー』250号、おめでとうございます。これまでの長い年月、心に潤いを与えてくださったことに、深い敬意を表すると共に感謝の気持ちでいっぱいです。その間、朝日新聞の「天声人語」をはじめ多くの新聞に何度も取りあげられました。こうした高い評価は名誉であり、誇るべき勲章でもあります。
 『エコー』ははね返ってくるものです。いつも、紙面には快い反響が聞かれ、多くの人が武さんと結ばれていることを感じます。これはひとえに、武さんの人を愛してやまない人柄からくるものであります。愛は人の悲しみ、苦しみ、願いを温かく包んでくれるのです。その人間愛で紙面が飾られていますから、心が打たれるのです。心に響くたくさんの記事がありました。
 忘れられない一つに、「塩ジャケの弁当」の話があります。薪山で食べた父の弁当箱に、一口の米の飯と鮭が残されていて、それが子供の楽しみであった、という話でした。父親のさりげない心遣い、それを喜ぶ子供に、家族の原点を感じるのです。私にも、60数年前に、祖父との間に同じことがあり、たまらなく懐かしい思いがするのです。今の人にはきっと理解できないと思います。それを、記事としてまとめられた武さんに、限りない優しさを見いだすのです。
 そして、その優しい眼は、真贋を見極める確かなものでもあります。あたりのよい、いかにももっともらしいものに眼が潤むことなく、しっかりと見破るのです。それは238号の「言葉は力 言葉を増やそう」が証明しています。
 作文で、一行の文でも800字に負けないくらいの楽しさを読みとるという教師に感激した親御さんに(こうした言葉に人は酔いやすいのです)、学習の意味について説いておられました。ひと言が人の心を揺り動かすことはあります。しかし、ここでの教師はことの本質を掴んでおりません。それを指摘され、真実を述べられたのでした。
 こういった武さんと、「エコー」の読者は強い糸でつながっています。それが、さらに読者同士も結ばれ、意見交換ができると楽しみが増します。こだま(エコー)は大きいほど魅カがあります。生きている喜びがこだまとなって響き合う世の中でありたいです。そのためにも、『エコー』のさらなる発展を期待してやみません。
  



やっぱり四月がいい!
                                 木口まり子

 4月20日、武先生にお会いしました。今年も松田町の広報委員研修会に講師としてきていただきました。平成11、12年度の松中PTAの広報委員時代をなつかしく思い出しました。
 私にとって武先生は灯台みたいでした。灯台の灯りが、照らしてくれたもの、それは「仲間づくり」でした。委員は任期がくればおしまい。でも委員と、広報を読んでくれた人達との絆は残ります。今は灯台を訪ねることもないのですが、月一度の『エコー』が灯台の灯りです。
 さて、季節は春、月は4月。春は張る。心も張る。小田急線の乗った時のこと。わーっとはじけるような笑い声。声の方に目をやれば、真新しい制服の高校生たちが、ドア近くでおしゃべり。中学の同級生なのでしょう。異なった制服を着ています。いいねぇ、いいねぇ。春はいいねぇ。あの笑い声、おしゃべり。「傍若無人」と言うなかれ。青春だね。青春の「青」っていうのは、大空狭しと伸びやかに広がっている青葉を連想させます。  
制服って着用している時は、廃止論者だったけど、人生の秋を歩いている今、真新しい制服をみていると、不思議と嬉しくなってしまうんですね。新入社員のぎこちないスーツ姿も新鮮です。慣れていないって、新鮮なのですよ、きっと。
4月は萌え出ずる季節。窓の外の目をやれば、丹沢の山並みも緑のパッチワークのよう。木々のこれからグングン勢いを増し、見事な青葉になって空一杯に広がる。そうですよ。だからやっぱり入学式は四月に限る。萌え出ずる勢いがありますからね。庭だってちょっと目を離せば雑草だらけになってしまいます。命の勢いは止められないのです。入学式を九月になんていう方もいらっしゃるようですが、秋は落葉の季節。ちょっとさみしかないですか? がむしゃらに伸びていく。だから、春は出発点ですよね! そして言い訳みたいですが、武先生にお会いするのも四月がいい! 何故って、広報委員になってしまったどうしようもない追い詰められた気持ち。あの緊張感を思い出させてくれるからです。切羽つまった気持ちで、灯台を訪ねた日を思い出すと勇気がでます。道は必ず開けることを教えていただいたからです。
 農道にチガヤのエンジ色の穂波がゆれています。穂波が銀色に変わる頃、青葉は、樹間をぐーと広げていきます。軋轢もあるでしょう。青葉のみなさん、現実に押しつぶされそうになっても、心が自由に羽ばたけますように、と祈ります。このおばさんも、《灯台》に照らされて歩いてきましたから大丈夫!



 はちどりのひとしずく                    鈴木 伸男

 武さんの『エコー』を毎号読ませていただく中で、ふと思ったことは、『はちどりのひとしずく いま、私にできること』という、アンデス地方に住む先住民に伝わるとても短い物語のことです。
「森が燃えていました/森のいきものたちは/われ先にと/逃げていきました/でもクリキンディという名の/はちどりだけは/いったりきたり/くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは/火の上に落としていきます/動物たちがそれを見て/「そんなことしていったい何になるんだ」/といって笑います/クリキンディは/こう答えました/「私は、私にできることをしているだけ」
 例えがよくないかも知れませんが、武さんの活動はこの話にぴったりします。武さんは、気負わず、驕らず、天狗にならず、淡々と新聞をつくり続けています。もし「この『エコー』の発行の目的・ねらいはなんですか」と尋ねたならば、武さんは「私にしかできないこと、私だからできることをしているだけ」と答えるかも知れません。
お会いした時も、『エコー』について熱い思いを語ることはまったくありません。二百五十号というと『エコー』は月刊ですので、20年以上も続けられたことになります。それだけでもたいへんな偉業といえるものすが、心の中では五百号を思い浮かべているのでしょうか。なによりも、立派なことはこの『エコー』を待っている読者がたくさんいることです。私にはとうていできることではありません。武きんは何百人という読者に支えられていますが、よき読者を育てているとも言えるでしょう。このことが大きな支えになっているのではないでしょうか。初期の頃に比べると内容も自分を控え目にして、読者の声を前面に出しており、ともよいと思います。新聞教育に携わる一人として、教育個人紙『エコー』が発行され続けていることは大きな誇りです。
全国新聞教育研究協議会会長)



 私と新聞
                                  H O2

 『エコー』250号 おめでとうございます。この機会に あらためて 私にとっての新聞は何かを思いめぐらせてみました。 幼い頃 新聞は 「父の象徴」でした。卓袱台の前で 温かい お味噌汁が出てくるまでの間 お茶をのみ 新聞を読む父の姿は朝の風景でした。
 小・中学校の時は 「お弁当を包む紙」でした。のり弁当にかけたお醤油が アルミのふたの間からしみ出し ランドセルの中に不思議なにおいが残りました。
 高校生になると「受験用のトレーニング教材」でした。国語の先生は「天声人語と社説は 必ず毎日読むんだぞ。いいな。」と教えてくださいました。
 大学生になると 一人暮らしの身で 新聞の購読料を払う余裕も興味もなく 「縁遠い存在」でした。テレビも持たなかったので 世の中のニュースにも疎かったのんきな時代でした。
 さすがに 社会人になってからは 必要にもせまられ 関心ももち 忙しい中でも 必ず目を通す「習慣」になりました。
 受け手一方だった時代から 突然送り手になったのが 小学校のPTA役員から。お定まりのように ジャンケンで負けて広報委員になりました。これが やってみると なかなかおもしろいのです。身の回りのことすべてが まるでカメラのファインダー を覗くように見えてきます。実際に記事を書かない今でも そのときのものの見方は 役にたっていると感じています。
 市P連の広報や家族新聞を作り 楽しむことができました。できあがりを楽しみにしてくれる読者がいることは 大いに励みになりました。 作る過程では たくさんのすばらしい友人を作ることができました。 そして 何より 書くこと 読むことの 大切さを教えてくださった 武先生のお力があったことは申し上げるまでもありません。 今では 新聞は「なくてはならないもの」です。 それから「新聞」ときくだけで「武先生」を連想するのもおもしろいです。
 単なるお弁当包み紙から ずいぶん存在が変わりました。 これからも変わると思います。 300号のとき また 振り返りたいと思います。 心より 継続を願っています。



   249号 2007年4月1日発行


弥生尽

3/28 愛”の反対語は“無関心
 今年度の市P連の情報委員二人が来訪。年度の反省の中で、次のような話が出た。
 広報紙コンクールの結果報告を兼ねて展示会を開いたとき、来場者に感想を書いてもらった(実際に声も聞いたが)。その中に「講評を付けて展示して欲しい」という要望があった。その理由は「時間を工夫しながら懸命に作った広報。審査員の感想を聞きたい。たとえそれが厳しいものであっても、反応があるということは活動が認められたことになるのだから」。学校での、家庭での、地域での、広く社会での、人間の営み、すべてに、このことは言えることだと思った。「“愛”の反対語は“憎しみ”ではない “無関心”だ」 


3/29 新聞づくりが伝統
 東中学校の今年度の広報委員長のSさんが『東中新聞』をもってくる。来年度の委員長Aさんも一緒。その『東中新聞』の今年度最終号は830号で、3月23日に発行されている。通巻830を数える中学校の学校新聞は、たぶん日本で『東中新聞』だけだろう。829号に「後輩に託す伝統」という特集があり、その第1位が「新聞づくり」となっている。そしてコメントに「学級新聞の停滞も気になるのでぜひ!!」とある。今年度の全国コンクールでは3つの学級が入賞しているのに、こう書いている。「新聞づくりが伝統」という学校は日本でもそうたくさんはないだろう。来年の委員長のAさんに「プレッシャーかな」と聞いたら「だいじょうぶです」と、既に日焼けの顔がにっこり。
 午後、市広報広聴室へ。市制50周年記念の『市民が作る広報はだの』でお世話になったM室長とIさんが異動。Mさんは財務課、Iさんは商工課、まったく違う世界ということで、「しばらくはアイドリング。叱られながらやります」と笑う。「先生、次の60周年でも一緒にやりましようよ」とMさん。「Iさん、すぐ戻ってくるんでしょう」と私。


3/30 この村で生きてきた証し
 用事があって市役所に行った。手続きをして、書類が出るのを待っていたらT校長先生に出会った。「いま、辞令をもらってきました。長い間ありがとうございました」とT先生。ていねいな作りの「学校だより」を読ませてもらっていた。4月2日から、もう次の職場に就くのだそうだ。それで「いろいろな書類をそろえなければ」ということ。菊作りの会に加わってもらうことになった。
 午後、東田原のOさんを訪ねる。そして「大山道《富士道》を歩く」の見学ポイントについて2時間ほど話をきかせてもらう。82歳のOさんが挙げる人名が私にもけっこう分かる。これは、自分がこの村で生活してきた証しと思い、うれしかった。富士講を続けていくのがむずかしくなってきた、と悲しそうな表情。農業後継者がいないということもあるが、それ以上に厳しい条件は、地域が生活集団のとしての機能しなくなっていることだ。今も使われている横掘り井戸に案内してもらった。昔と変わらないきれいな水が豊かに流れ出ていた。


3/31 弥生尽
 庭の桜はどうやら三分咲き。きょう届いたPTA広報にこんなたよりが添えてあった。

 こんにちは、今年度最後の号ができあかりました!!  たくさんの素晴らしい広報をご覧になっている先生にとって、私たちの作品はまだまだ“赤ちゃんが寝返り”を打ったくらい?でしょうが、今年度の私たちにとってはこれで精いっぱいかな?  でも、今は自己満足だけど「よくやった! 」と自分を褒めてあげたい気持ちです。どんなことにでも言えますが、「やってみなければわからない」ということ。広報という活動は、PTAではとても敬遠されています。4月に広報委員会に所属が決まったとき、私を含めメンバー全員「ハズレた〜」と思いました。でも、途中から一部の人たちはこの活動を面白いと感じるように変化してきました。「大変な委員会だった!!」で、全員が終わらなくて良かったです。広報委員になったお陰で、作り手としての苦労も楽しみも味わえましたし、学校のこと、先生やPTAのことも全体から部分にまで目が行くようになりました。少しだけどPCも使えるようになり、出会った大勢の人から、それこそたくさんのものをいただきました。まるで《学びの場》を提供していただいたような広報作りでした。これもすべて協力し合えるメンバー(大半は仕事わ持っていました)に恵まれたからなのです。今年度はこれでおしまいですが、コメントをお願いします。辛口がたくさんでも覚悟はできています。大丈夫ですから。

 教員の人事異動の新聞発表。昨夏の新聞の秦野大会の実行委員長の地崎校長先生、開会式の進行を担当した田中校長先生が退職。大会運営ではほんとうにご苦労かけた。願わくば、それが良い思いでとなるように。とにかく、今は「お疲れ様、ありがとうございました」とお礼を申し上げたい。この異動で、教え子が高等学校の副校長と教頭に昇進。
 
 朝日新聞朝刊の連載・大岡信『折々のうた』が今朝で終わった。足掛け29年、6762回の連載の“とどめ”ということなので、今朝はどんな詞が登場するのか楽しみだった。
 薦着ても好な旅なり花の雨  田上 菊舎    「ウーン」とうなるしかない。
 



母の思い出(日記から)
 
百人一首
 「村雨の」と読み上げると、それに続いてこの一首がよどみなくバアちゃんの口から流れ出る。言葉はたどたどしく、弱弱しいのだが正解だ。そして「それはやさしいよ。ムスメフサホセだもの」とにやり。百人一首の暗誦で知力の減退を防げるかどうかわからないが、バアちゃんの自信にはなるだろう。それに、百人一首の勉強はこの時期にふさわしい思っている。ただ、耳が遠いので、こっちも大な声出なければいけない。それで、昼ごはん前の時間を使っている。同室の三人は食堂に行っているで、少し気がらくだ。だがナースステーションが隣りなので、初めての“勉強会”のときには看護士さんがのぞきにきた。正解率は7割強。若いころ、闇雲に記憶したものは忘れないようだ。昨日は小学校時代のようすを聞いてみたが、建物などをふくめほとんど記憶にのこっていない。先生の名前は思い出せた。
 憶えようと努力したものは記憶に残ると思った。それともう一つ、バアちゃんが今も記憶にとどめている70首ほどの歌はリズム感のあるものが中心であるということ。私が口ずさむ百人一首もほとんどバアちゃんと重なっている。中学のとき暗誦させられた漢詩、高校のときの藤村や犀星の詩は今もよどみなく口から出る。カラオケなどない頃の宴会では詩の朗詠も余興だった。「声に出して読みたい日本語」という本が売れている。CDも出たようだ。いいことだと思う。

2004年1月5日 
 暮から三が日にかけて外泊をして、いよいよ帰るときになったとき「帰るのはイヤ。家で治すから。帰らない」と泣くバアちゃん。バアちゅんの心境は、まさにの通りだと思う。94歳だが、91歳まで入院生活は一度も経験していなかった。それからの二年間に三度の病院生活。それでも「外泊だから」と車に乗せた。だが最後は『おりん』さんになってくれた。私は『辰平』にはなりきれなかった。だが、病室に入ったら、「リハビリ がんばる」と強いバアちゃんに戻った。帰りの車の中で「春になったら、家で面倒をみよう」と妻と決めた。



248号 2007年3月1日発行


 歌集『千の家族』  古谷 円

 市内にお住みの歌人・古谷円さんから歌集『千の家族』をいただいた。添えられた手紙に「ホームページのフアンです」とあった。
 『千の家族』は「角川『短歌』創刊50周年記念企画」の1冊となっている。帯文に「古谷さんは視線に入るものすべてに、軽くタッチしてゆく。ほうれんそう・レンゲ・たんぽぽ・スイカ・落花生・かぶと虫・枝垂桜・海胆・金魚その他沢山。感触はやさしく柔らかい。対象がこたえるからである。そこに稀にみる初で素直な叙情が形成される。」とある。
 とても失礼なことではあったが、歌集から私を捉えた以下の歌を書き抜き、お礼の言葉にした。

 全校が口閉ざすなり光りつつ機体が轟音を降らす一瞬
 あと少しこの一日に浮かびたる灰汁をすくいて捨てる夜となる
 返された帽子のへりに住むごとし秦野盆地の祭りをのぞく
 澄みきりて盆地の青き空の円あとからあとから夏雲の行く
 紅玉のような母たち子らよりもつやつや悦楽の心光らす
 やわらかし枝垂桜の花越しに集められたるうみやまの色
 子の草笛ふいに鳴り初む身に秘めし感情のような高音が鳴る
 みずみずしい言葉と日々に切り結ぶ初夏の風はらむ教室
 叩きつけるパン種の音どの小さき命もまあるくふくらみていよ
 豆まきをするんだするんだ子らが跳ね夕映えは春となりにけるかも
 丘を巻く道下る時ひりひりと遠き演習の砲弾の音
 マンション群に霞たちこめ蕾めく千の家族が一部屋ずつ浮く
 諸手にて十の花摘み落とすとき一つエプロンのポケットに入る
 子規が見し根岸の青のあさがおと朝商いの豆富の白さ


247号 2007年2月1日発行


 
    清水自治会が立てた案内板







246号 2007年1月1日発行


 
 第49回全国新聞教育研究大会・秦野大会に550名を超える参加者
 ありがとうございました

◆私の新聞づくりの集大成。
@ 市制50周年記念『市民が作る広報はだの』第2号を1月15日に発行。特集「歩いてはだの再発見」、そして編集委員の似顔絵が評判でした。
A 昨夏、全国新聞教育研究大会が33年の歳月を経て秦野で開催できました。市P連が担当した大会速報は4号まで発行するなど“新聞のまち秦野”を実証しました。
◆今年で全国新聞教育研究協議会は創立50年になります。その記念誌の編集に携わります。
◆昨年は、PTA・学校新聞づくりの講座を全国で31回もたせていただきました。
◆『続寺山ものがたり』、今夏の刊行に向け準備に入りました。  勝美

★昨年も数多くの野球部OBの結婚式に招待していただきました。ありがたいことです。
★はた織りも10年目に入りました。座間のお店『かのう』に加え、愛甲石田駅前の『子方星』にも置かせていただいております。
★今年の『遊の丘』での個展は1月9日(火)から13日(土)です。お会いできることを楽しみにしております。  厚子

 皆様のご健勝をお祈り申し上げます





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