-ECHO-  最新号(創刊1985年5月20日)
(2000年〜2003年掲載分 バックナンバーのページ)
動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない

 エコー最新号 最新版 2014年 以降 はこちらへ
 エコー最新号 2010〜2013年 掲載分はこちらへ
 エコー最新号 2007〜2009年 掲載分はこちらへ
 エコー最新号 2004〜2006年 掲載分はこちらへ

     211号    2003年12月1日発行

「香エッセイコンクール」 佳作  松栄堂主催

「飯が炊ける香り」
                                             木村 庸彦 

 「おっー、香ってきたぞー。うーん、いい香りだー」
 釜の蓋を突き上げて、妻が炊く飯の香りが都会の安普請のわが家に充満した。この香りを嗅ぐ時、もう五十年も前の田舎での夏の日のにがい思いが、ふとわしの脳裏をよぎる。
 幼いわしが乗ったリヤカーは椎林の森陰まで突っ走って止まった。強烈な黄ばんだ西日が椎の梢を黄金に染めていた記憶がある。三つ上の兄はわしを乗せたリヤカーの柄に腰掛けたまま、もう動こうとしなかった。夏の夕暮れのツクツクボウシがいよいよせつなく鳴いていた。
 「兄ちゃん、もう、帰ろう」 わしは心細くって言った。
 兄は、「ふん、帰ろうか」と気がのらない返事をした。帰る時間を少しでも先延ばしにしようとしているのが、わしにも分かった。―いま、弟をうちにつれて帰るのは早い。まだ、父と母は互いに相手を罵りあっている最中だろう。みにくい父母の姿を弟に見せるわけにはいかない―そんな思いが、兄にあったにちがいない。兄もわしも黙ったまま長いことそこに留まった。
 これから父と母はどうなるんだろう。不安がわしの心に渦まいていた。まだ小学校二年だったわしは、リヤカーの中で枠にしがみつき、わんわん泣いた。そして涙が乾くと、森の反対側に広がっている稲田をじっと見詰めた。
 遠くの山からザワザワ音を立てながら風が吹いてきた。すると、出たての稲穂が大袈裟にしなってお辞儀をした。そして風が去った後は、飯が炊き上がる時の仄かにいい香りがわしの鼻孔をつついた。温かい香りに誘われて、祈る思いで家に帰り着くと、もう母はいなかった。
 わし達はその日から三人だけの父子家庭になったのだ。



ふるさと 

  ああ「バービー人形」の時代よ

 私は下町の足立区で、再親と兄、祖母の五人家族の長女として生まれました。家は工務店を営んでいたため、職人さんや隣り近所の人が毎日顔を出して、にぎやかな中で育ちました。 五軒並びで、子供が十三人いましたので、夏にはカレー、お祭りにはちらし寿司、冬にはお汁粉等、路地にテーブルを出してみんなで食べました。ゴム段、馬乗り、缶蹴り、ゴザを出してお人形遊びも路地でしました。(まだ路地が子供達の遊び場だった頃のことです。)
夏休みは近所の家族と旅行に行ったり、近くの荒川から船で海に行ったり、いつも大勢で楽しんでいました。 私に輪をかけてイベント好きな母は、今でも夏は家族旅行、冬はアメ横で駄菓子を仕入れ、おもちゃのお金を作り「いらっしやいませ」と、駄菓子屋さんゴツコで子供達を喜ばせています。私はその血を色濃く受け継いでいます。職人気質の父の血はどこに流れているのかは未だに不明です。
 子供の頃に遊んでバービー人形は、おしゃれなドレスにおそろいの帽子、ハイヒールに手袋。そしてボーイフレンドのケンは今でも私の宝物なのですが・・・懐かしくて箱から出してみると、なんとケンのワイシャツは黄ばみ、タキシードは虫食いで穴があき、見るも無残! あー憧れのケン ごめんね。
 過ぎ去った歳月をあらためて感じました。ケンに似ても似つかないタイプ(本人はそっくりといっています)タイブが、今の払のパートナーです。       Kumi



次代を背負う人をしっかり育てよう

テレビで、泥棒の被害を受けない方法や対策がいろいろと放映されます。その割りに泥棒をする事は善くない事であるということを教える放送が少ないと思います。幼い頃、泥棒したり嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ、と教えられた事を思い出します。しかし、幼い心に教えられた事がいつまでも残っているのは、閻魔様が恐いからでも、舌を切られる恐ろしさからではありません。それは自分に優しくしてくれる、自分を愛してくれる人の教えだから、と思うのです。教える立場にある私も、教えを垂れる以前に人に、人を愛する優しい人間でなければならないと思います。一つ一つの教えが心の奥底に染み込んでくる幼い心を持っている時代に、善くないこと善いことをしっかり教える努力がなされているでしょうか。
 最近の事件を考えてみますと、事件を起こした人の幼い時代が寂しい悲しい時代であったのであろうと思われてなりません。善いこととは、善くないこととは、を教えてもらう以前の、子供として当然貰うべき愛さえ貰えなかったのではと気の毒に思います。確かに教えを率直に聞く子供は親の愛に満たされているといいます。

 となりますと、先ず幼い心に善い事善くない事を教える前に愛を注いであげることが1番目に大切なことなのですね。事件の起きるたび、その犯罪者を見るたび、自分たち大人はその人たちの幼い時代に愛を注いで上げたかしらと反省しなければならないと思います。人の行いの現れが全て幼い頃の心の写しのように思われてなりません。今、大人は次の時代から「善い子に育てておいてください。次の時代を担う人をしっかり育ててください」と要請されていると思います。    
高橋 元治






     210号    2003年11月1日発行


 オレ 校長先生と友達なんだ

「オレ、校長先生と友達なんだ。おじさんのこと、校長先生にいろいろ聞いちゃった」と、少し照れながら話しかけてきたのは、姪の奈々ちゃんの子・瑞樹君。小学校6年生である。
 「ヘー、校長先生と友達なんだ。良かったね。いい校長先生だろ?」 「うん、とっても感じのいい先生だよ。おじさんのことを聞いたついでに、杉野清美って知ってる? って聞いたら『清美って名前の子はいっぱいいるからな』って校長先生は困っていた。それで、おじさんの妹だよ、と教えたら『それなら同級生の清美だ』って。ちゃんと覚えていたよ」
 瑞樹君の、その日の“友達”との会話はここで終わったらしい。
 翌日、瑞樹君が校長先生に出会ったら、校長室に来るように言われた。行ってみると、校長先生の机の上に古いアルバムが一冊置いてあった。そのアルバムを開いて、校長先生は杉野清美さんを探したのだった。そして瑞樹君に「杉野清美さんはこの人だよね」と見つけてくれた。 
 「校長先生はオレのために、わざわざ家からアルバムを持ってきてくれたんだって。親切だよね」こう話した瑞樹君はうれしそうだった。
 
昭和20年5月25日
 瑞樹君とこんな話したのは、義弟・松島家の法事の食事会の席でだった。
 秦野に新しく墓地を求めた松島敏夫さんは、群馬に預けてあった4人の遺骨をこの日墓に納めた。納骨式の読経の中で4人の「発ち日」が読み上げられた。全員が昭和20年5月25日に亡くなっていた。その4人とは、敏夫さんの母35歳、二人の姉は14歳と13歳、そして弟・8歳である。一人先きに群馬に疎開していた敏夫さんと、焼夷弾で燃える町の消火をしていた消防署勤務の父は助かった。犠牲になった4人は、間もなく群馬に行くはずだった。昭和20年5月25日は、太平洋戦争では、最後の「東京大空襲」が行われた日である。
 孫の瑞樹君の、屈託のない表情を細い目で見つめる敏夫さん。その視線の奥には4つの顔があったに違いない。



ふるさと 3

 私の心に蒔かれた種
                          
 私は東京下町生まれ。小学校の校庭はコンクリートで覆われ、とても狭かった。でも今考えると、とても変わった小学校に通っていたのかもしれない。
 それはある日、新しい校長先生が来てから突然始まった。今でも憶えていることがたくさんある。ある日の朝礼のとき、校長先生は「マイクにも命がある」と言って、命について話し始めた。当時、たぶん私は4年生くらい。難しい話だったけど、先生がいっしょうけんめい話したことと「ものにも命がある」という、この二つのことは、私の心に刻み込まれた。
 夏は毎日プールを開放し、先生達が順番に出てきて級別に分かれて教えてくれた。泳ぎが得意でない先生は私たちと一緒に習った。白髪の校長先生が、だれもいなくなったプールを、波もたてずに数かきで泳ぎきる姿を金網越しにじーっと見ている私がいた。私は夏休み中休むことなくプールに通った。
 当時は臨海学校があり、上級の子たちは遠泳ができた。遠泳が終わると浜辺であたたかいお汁こが待っていた。「少し流されていたよ」と校長先生が担当の先生に話していた。砂浜でワイワイ言い合いながら、砂の『岩の上にいる人魚』像を作った。ところが、他のチームが作った人魚像にがく然。そこには女性らしい人魚がいた。
 学校の近くに公園があり、そこで季節ごとの遊びをした。その一つが歩く会。ひたすら公園の外周を歩き、印をもらう。はじめは友達と話ながら歩いたが、しばらくすると真剣になり、二時間を必死に歩いた。学校に帰り、東京からどこまで歩いた距離になるのかを計算した。みんなの顔は充実感に満ちていた。卒業式は全校参加。「喜びの歌」の合奏。これも忘れないこと。
 今考えると、すべてのことに意味があると気づく。たくさんの体験を通じて心に種が蒔かれたようだ。子育てをしているとき、そのことに気づくことがたびたびある。
 山並みや星が降りそそぐ自然の中にいることにあこがれている今の私。これも、こうした先生達との出会いがあったからだと思う。    (樹)


 



   209号      2003年10月1日発行


私の夏休み
 夢のような35日間のイギリス体験

 お久しぶりです。
 8月2日から始まったイギリス留学も終わり、今月の4日の朝に無事に帰ってきました。
 私がイギリスに行っている間、日本はたいへん寒かったそうですが、イギリスは大変暑く、連日35度を越す(38、5度を記録したこともあるそうです)猛暑でした。イギリスでは90年ぶりの暑さだったそうで、100人を超す高齢者の方々が亡くなられた、というニュースも耳にしました。例年はこれほどまで暑くはならないので、クーラーなどの空調設備はほとんどの場所にないため、窓を全開にして授業を受けていましたが、あいにく外は工事中で騒音と暑さとの闘いでした。挙句の果てに、午後からの授業のほとんどは外に出て、木陰で授業を受けました。
 赤レンガの家々や石造りの小道、規則性なく植えられているのに美しく庭を飾っている花や、長い歴史を感じさせる教会などのある街並みとそこに住む人たち…様々なものを見、体験し、とても充実した5週間を過ごすことができました。
 今回も大学主催の短期留学だったので、一緒に行った仲間とも良い友達になれました。さらに他の日本の大学生やスペイン、イタリヤ、スイス、フランス、ロシア、台湾、中国など様々な国から来ていた人たちとも友達になれました。残念ながら、授業中や行く先々で、日本人・アジア人として他の国の人に見られたこともあり、時には辛い思いもしましたが、そのことが私にとっては新しい分野として勉強にもなったことは事実です。
 野生のリスやウサギにも出会えて、とても驚きました。大学の敷地内を我が物顔でヒョコヒョコ歩いていたり、木に登っていく姿はとても愛らしかったです。また、帰りの飛行機の中から緑色のオーロラも見ることができ、ヨーロッパでも、自然のスケールの大きさを実感してきました。
 行動を共にしていた友人の1人がミュージカル好きで、4日間のロンドン観光中に2回もミュージカルを観に行ってしまいました。今ロンドンで話題のミュージカルが、「レ・ミゼラブル」「オペラ座の怪人」。そして日本でも劇団四季が公演中の「マンマ・ミーア!」の3作品だそうで、私たちはそのうちの2つ「オペラ座の怪人」と「マンマ・ミーア!」を観ることができました。どちらもすごく人気で(特にマンマ・ミーア!は大変人気のあるミュージカルだそうです。アバという歌手グループの歌っていた曲を使っているミュージカル、ということもあり、日本でも話題になっているそうです。割と世代が上の観客の方が多かったです。)チケットがなかなか手に入らないそうですが、運良くどちらも手に入れることができました。心配していた食事や水も、何の心配もなく美味しく頂けましたが、ただ、安くて手軽だ、とされているファストフード店に行っても、日本の2倍近くの出費になってしまったこともあり、物価の高さには泣かされました。夢のような35日間のイギリス体験の後、今は宿題に追われています。       NUMAJY



 ふるさと 2

今でこそトレンディな街だけど
                  
 昭和ニ十年代前半、団塊のねずみの一員(いや、一匹か)として生れました。場所は東京都港区です。今でこそ白金台はトレンディな街として紹介されていますが、当時は空き地や野原があったりして、まだまだのどかな街でした。近くには各国の大使館や公使館がたくさんあってよく遊んだことをおぼえています。
 そののどかな街ではあったのですが、やたらと子どもがうじゃうじゃいました。学校はさらに子どもだらけ。(当たり前だ) 屋上から撮った写真を見ると、校庭が真っ黒です。2300人もの子どもたちがどうやってあの狭い校庭で過ごしていたのか。(謎である)
 学級は65人、それで1学年8クラスもあったのです。クラス替えもなく6年間、有馬君、石坂君、植松君、亀山君、ずっと同じ顔ぶれでした。なので、いまだに全員の名前を出席番号順に言えます。(そんなもん、言えてどーなる?)
 小学校時代の私は体も小さくゴボウのようにやせていて、成績も中くらい、今と同様目立たない性格でした。(本当か?) 越境組が半数以上もいて、その子たちは学校前でバスを降りるのですが、首にかけられた定期券が地元組にはうらやましく、あこがれていまいた。
 はなわ君がいたり、野口さんがいたり、達三がいたり(友蔵である)、みぎわさんやハマジがいたり、ちびまるこちゃんの世界がいっぱいつまった時代でしたが、四十数年たったクラス会では、仲良く鍋をつついて昔話に花をさかています。(めでたし、めでたし)
 ( )の中はキートン山田の声でお読みください。    Masayo






   208号      2003年9月1日発行


 『月刊プリンシパル』10月号(9月中旬発売)に書いた、私の「新オアシス運動」の提言です。


家庭をオアシスに

 教え子の結婚式に招かれ、あいさつをする機会を与えられることがあります。そのときの祝辞のテーマは「家庭をオアシスに」と決めています。これから二人で作り、育てていく新しい家庭を、オアシスにして欲しいと願うからです。
 ある時期、『オアシス運動』が小学校を中心に流行しました。「おはようございます」「ありがとうございます」「(職員室に入るときには)失礼します」「すみません」の言葉で、『学校をオアシスにしよう』というあいさつ運動でした。私の「家庭をオアシスに」は、それとは少し違う『オアシス運動』です。
 「家庭をオアシスに」するために必要なことは、家族間での言葉かけだと思います。
 オアシスの「」は、思いやりのオです。「お帰り」「遅かったね」「お疲れさま」、そして「おやすみなさい」などの言葉を聞くと、「この家に帰ってきて良かった」と、家族はみんな心から思います。
 オアシスの「」は、愛情のアです。照れずに、恥ずかしがらずに「ありがとう」「あなたは私の宝物よ」“I love you”と、愛の言葉を口にしましょう。
 オアシスの「」は、信頼のシ。どこの家庭だって、誰だって、生涯『順風満帆』ということはありえません。家庭内に危機が訪れたとき「辛抱しようよ」「しっかりして」と、励まし合いましょう。とくに、わが子のピンチには「信じてるから」という、親の大きな抱え込みの言葉が必要です。
 オアシスの「」は、素直な心のスです。「すまない」「すみません。ごめんなさい」と素直に謝る心を持ちたいものです。そして「スゴイじゃない」「すてき!」と相手を誉める言葉も素直に使いたいと思います。誉める言葉は、相手に喜びと勇気を与えます。

 私がもらった「ステキ!」という言葉
 入院してから一ヵ月も経ち、検査の連続で少しゆううつになっていたある日。なぜか私は、パジャマを脱ぎワイシャツに着替えたのだった。そのワイシャツ姿の私を発見した看護師のAさん。「武さんのワイシャツ姿 ステキ。似合う!学校に行きたくなったのね」と、明るく声をかけてくれた。彼女のその言葉に元気付けられ、私はまもなく職場に戻ることができた。 《言葉かけは大切です》



 ふるさと 1

 この町で一生懸命生きよう            高橋 祥子

 郷里は広島の片田舎なので、今年も長時間かけてやっと墓参りを済ませてきました。実家は、いつもは無人となっております。病気の母を連れ帰り、久しぶりで家族で一泊しました。
 母が一人で住んでいた頃、里帰りして泊まると、夜の天井裏はねずみの運動会で、ねずみにしては大きすぎるようなものまでが駆け回っていたのに、今回は静まりかえって何も聞こえません。無人の家からはねずみも去って行くと姉から聞きました。川向かいのおばさんが亡くなり空き家になったとき、一番近いこの家のねずみはぐっと増えました。わが家が無人になってから、田んぼ四枚上のお宅でねずみが増え騒動だったとのことでした。
 実家に帰ると、いつも古いアルバムを取り出して見ます。もう亡くなったのですが、父は教師だったので学校の写真が多いです。その学校は、私の母校でもでもあります。今はもう廃校になり、校舎も大部分取り壊されてしまいました。小学校と中学校がそこにあったようです。セーラー服や結め襟の教え子達に囲まれた、若い父の姿が写っています。私が生まれる前、戦後間もなくのころでしょう。小・中学生が合わせて数百人いたようです。疎開で来ていた人もあったかもしれません。村の奥には鉱山もありました。今はすっかり雑木林になっていますが、そこは鉱山で働く人の住宅もあったそうです。
 私がそこで生活していた時期は、若者になった人が村からどんどんいなくなり、そして小さい子どもも減っていった時期でした。ものごころのついた頃、中学は町に統合され、村には小学校だけ残りました。百人程度で、今思えばちょうど良い大きさでした。運動会等は「村をあげて」という青葉がぴつたりのものでした。学校の行き帰りに出会うおばさん達も知っている人ばかりなので、挨拶しないわけにはいきません。みんなお互い知り合いなので名札もいりません。でも子どもの減少傾向は止まらず、私が卒業して十年も経たないうちに複式学級となり、間もなく町の小学校に統合され、子ども達はバス通学になったと聞いています。
 今、私が住んでいる秦野は私の郷里の側から見れば、正反対です。この四十年ほどの間に、どんどん人を集め、大きくふくらんでいます。それに吸い寄せられるように、私たちもここに移り住み、子ども達を学校に通わせています。昔、近所にいて、やがて姿を消していった大きなお兄さん・お姉さん達のうちの何人かは、関東の大きくなったこの町のどこかで暮らしているのかもしれません。そう思うと、不思議な気持ちになります。
 学校も町も家も「生き物Jであると思います。大きくなつたり、小さくなったり、活発になつたり、おとなしくなつたり。ふるさとに人影が少なくなっていくことは寂しいけれど、その分きっとどこかで大きく育っている町があるのだと思い、自分はこの町で、自分の場所で一生懸命生きていこうと思いました。



子どもに伝えるわが家の味         山中 尚美  


 「山は緑に紫に 信濃は日ごと 清らかに」 ふるさと長野県小県郡田中小学校の校歌の一節です。歌詞のとおり、北に浅間山、南に藤村で有名な千曲川、西に遠く日本アルプスの峰峰を望む、「となりのトトロ」の田園風景に似た、自然にあふれたのどかな農村で育ちました。 
 子どもの足で30分はかかる小学校の6年間の行き帰り。私の足腰はそれで鍛えられました。学校の帰りは、友達と道路を横断しての電信柱鬼やカバン持ちなどで遊びながらでした。長い道のりも楽しい時間でした。帰宅に時間がかかる子どもが多かったせいか、土曜日も給食がありました。
 父は手作りの味を大事にした人で「味はその家の文化だ」というのが持論でした。五月は草餅、六月は柏餅、八月の七夕とお盆はオヤキ。春秋のお彼岸はおはぎ。年の瀬の餅つきは家族総出。ドンド焼きの稲穂のお汁粉。味噌の仕込みであまった麹での甘酒づくりなどなど。父の意を汲んでつくる母の手伝いをしているうちに、いつしか私も同じようなものをつくるようになりました。そして、今では胡桃のおはぎが大好きな子どもたちが、私の手伝いをしてくれます。父の好物だったくるみ入りおはぎをつくるたびに、父の言葉を思い出し、母の味を子どもたちに伝えなければいけないと思うことしきりです。         






    207号      2003年8月1日発行


これでは学校は変わらないのでは

 七月に入って今年度第1号のPTA新聞が送られてくるようになった。新委員会の意気込みが伝わってくる紙面が多い。すでに二回発行のところもある。ご苦労もあっただろう。というのも、今年の一学期は、例年になく広報の企画についての相談が多かったからだ。それらの相談の中の三つのことについて考えてみたい。

「悩んでいること 心配なこと」の調査はNO
 特集で『親の心 子どもの心』を組むことにしたA校のPTA広報。「今悩んでいること。心配なこと」を親子にアンケート調査をしたいと学校側に相談した。ところが、校長先生からこのアンケート調査は「ノー」と却下された。理由は「いろいろな心配事が記事になると、子どもも親も不安が大きくなるから」とのこと。教務の先生からは、「ウチのPTA広報は明るい紙面が特長。学校の良いところだけ取り上げてください。」というひと言もあった。もちろん、広報としても学校を誉めることに異論はない。だが、一方ではお母さんたちには心配事がたくさんあるのも事実である。たとえば五日制になって子どもが疲れていることや登校班のことなど。
 「他校のPTA広報が取り上げているのに、なぜウチはダメなのか。学校は何かを怖れている」―こんな不信感に陥ってしまった広報委員会だった。

「どんな学校にしたいか」は私が答えること
 『先生紹介』号の中で、全教職員に「どんなB小にしたいですか」と聞こうと思ったPTA広報委員会。この質問項目に、校長先生から直接指導があった。「学校経営は私がしている。『どんな学校にするのか』は校長が考えること。先生方に勝手に『こんな学校にしたい』などと書かれたら困る。この項目は外して欲しい」。
 一般的に言えることだが、先生たちの保護者に対する説明は粗い。この校長先生の場合もそうだ。「どんな学校にしたいか」「こんな子どもに育てたい」は全職員で考えたはず。その責任者として「校長の私が考えること」という発言になったのだろう。それに、お母さんたちに向かって「学校経営」などという言葉を使って話せば「叱られた」という印象しか残らない。どの教師も、四月に決めた「こんな学校にしたい」という、強い思いでその実現に向かって努力しようとする。そのがんばりの方法・手段はさまざまだろう。それを認めることができない管理職なら、学校経営などできない。
 「守りの姿勢が強すぎます。これでは学校は変わらないのでは」という、電話の向こうの言葉が気になった。
 
子どもたちが輝く写真が掲載できない
 子どもたちの輝く顔、躍動する姿をPTA広報に載せることが難しくなった。子どもの写真の掲載のことで、昨年から今年にかけて私が受けた相談が6校あった。ある校長先生は「子どもの個人の写真は広報に掲載しないで欲しい。顔が分かることでキケンなことが起こる恐れがある。それと、個人の写真を載せることは、特定の子を認めすぎることになる。子どもの平等性を欠く」と話したという。「子ども写真を載せるのなら、本人と保護者、それに先生方全員の了解を得てください」という条件がついている学校もある。広報委員会は、写真の掲載が子どもへの危険性をはらんでいることは十分意識している。学校も一方的に「ダメ」と言うのではなく、広報委員との話し合いを持って欲しい。





  206号      2003年7月1日発行



語らなければ広がらない

 朝日新聞の記者が、ある新聞講座で「新聞に載っちゃいなさい」と受講者を鼓舞? しました。会場は少しドヨメキました。自分のやっていることを新聞社に持ち込んだり、投書などすることを、宣伝みたいに考えキラう人もいます。自分の思いや感じたことを外に向かって伝えることは、人とのつながりをもつことです。その人とのつながりで私たちの社会はできているのです。だから、自分の考えていることを人前で発表することは大切な、必要なことなのです。『エコー』のホームページにときどき立ち寄ってくださる方たちの中に先輩の矢野恒雄先生がいらっしゃいます。下の投書を読んでください。矢野先生の思いが新聞を通して社会の共有のものになったのです。投書欄を「オピニオン」と記している新聞もあります。

 
2003年4月24日 神奈川新聞 投稿欄『自由の声』

 気になる車のアイドリング
                                        矢野 恒雄(秦野市)

 私の散歩コースの一つに広大な敷地の会社が集まった地区がある。道路は整備され、朝夕の通勤時を除いては閑散としている。丹沢の山並みを間近に眺め、ひとり取り留めなくものを考えながら街路樹の下を歩くのは、現役世代には申し訳ないが、貴重な時間だ。
 気になるのは、長時間エンジンをふかして駐車している大型のトラックが多いことだ。狭い通りでは片側を完全にふさぐ。運転席にはダッシュボードに足を投げ出してぐっすり眠る人が見える。車によっては仮眠室もあるようで、無人に見える車もある。後部にアイドリングストップ宣言車と表示している車もあって、笑い出したくなる。
 恐らく駐車時間は、数時間を下るまい。昨年十一月十三日の本紙社説「アイドリング停止」によると、大型車が五分間のアイドリングで消費するガソリンは百五十_mにも及ぷという。燃料の無駄遣いに加え、排ガスの影響ももちろんある。
 時間待ち、疲労回復…。無理もないともいえるが、目に見えない蓄積が人類の破滅につながりかねない事態を認識してほしい。条例の周知、指導の徽底を望むと同時に、走行時のエネルギーを利用して冷曖房の改良はできないかと思う。


2003年5月14日 神奈川新聞 投稿欄『自由の声』

県・市でアイドリング対策

 先月二十四日の「気になる車のアイドリング」(秦野市、矢野恒推さん)にお答えもます。
 県は平成九(一九九七)年に生活環境保全条例を制定し、アイドリング・ストップを運転者に義務付けるとともに、七都県市共同の普及啓発を行ってきました。また、昨年九月には条例を改正し、自動車の運転者や事業者に対し、知事や市長がアイドリング・ストップを勧告できることとしています。
一方、秦野市では十月の違法駐車追放強化月間に合わせ、市役所、警察署などでキャンペーンを行っています。また、アイドリングの実態調査も行うなど、問題の改善に刀を入れているところです。こ指摘の問題については、秦野市が原因者を特定し、改善を指導した
結果、早速対応が図られました。
 これからも、県による普及啓発に加え、秦野市ではアイドリングを行っている運転者に対し、チラシの直接配布による啓発をはじめとして、アイドリング・ストップの徹底、違法駐車の排除などを事業者らに対し、文書でお願いしていく予定です。安心して暮らせる県内の大気環境を早期に実現するために、今後も県・市が協力してまいります。
      (秦野市環境保全課長 金丸 実彦   県大気水質課長 武 繁春)


2003年6月13日  神奈川新聞の記事 県西版

安全と環境守ろう 違法駐車トラック 半数エンジン切らず 秦野市と署キャンペーン

 秦野市と秦野署は十二日、駁車中の不要なエンジンを止めさせるアイドリングストップと違法駐車の追放キャンペーンを市内の工場地帯で実施した。聞き取り調査の結果から、違法駐車していた大型トラックの半数以上がエンジンをかけっ放しにしている実態が分かった。またほとんどの車は、工場の開門得ちで違法駐車していた。
 キャンペーンには地域交通安全活動推進委員二十人を中心に市環境保全課、道路安全課それに秦野署員合わせて三十六人が参加。三グループに分かれて午前七時半から、市内の平沢、堀川、堀山下、曽屋地区にかけての工場地帯の市道四路線で行った。
 警察官が運転手に声を掛けてドアを開けさせ、市職員が聞き取り調査をして不必要なエンジンの停止を注意指導した。
一時間半の間に二十台の違法駐車トラックが見つかり、うち十二台がエンジンをかけたままだった。ほとんどの車が工場や事業所の開門待ちで、時間調整のため遵法駐車していた。
工場温帯では早朝から、こうした輸送トラックの違法駐車が恒常化している。追突事故など交通トラブルの原因になるうえ、アイドリングによる大気汚染や悪臭、騒音の元凶にもなっている。同署では安全運転管理者会を通して、工場や事業所に対し駐車場や開門時間の繰り上げを要請していく。
 今年四月から、県生活環境条例のアイドリングストップ条項が市に委譲され取り締まり勧告ができるようになったため、六月の環境月間に合わせてキャンペーンを実施した。    





  205号      2003年6月1日発行


傷つきやすい老人たち   〜もし私が痴呆性老人になった時〜

                                            By Jessy Hjort Hansen  DENMARK

                                            訳者 千葉 忠夫(日欧文化交流学院)

 
私が痴呆性老人になった時、私の人生は簡単で、分かりやすく、予測できるものとしたいです。私は毎日同じようなことを同じ時刻にするでしょう。それを理解し受け入れるのは私にとって時間のかかることなのです。

私が痴呆性老人になった時、あなたは私に静かに話しかけてください。さもないと、あなたが私を叱りつけているように感じ、恐くなってしまいます。あなたは何のために何をしようとしているのか私に話してください.そして私に簡単な選択をさせてください。私が何を選択しても受け入れてください.

私が痴呆性老人になった時、私が楽しい日々を過ごせるようあなたが思っていてくれることは、素晴らしいことです。特にそのことについて事前に話してもらえるともっと嬉しいです。

私が痴呆性老人になった時、私が受け入れられる以上に寝る時間と休む時間を必要とします。私が寝ようとするとき、二度と目が醒めないのではないかと恐くなります。

私が痴呆性老人になった時、私は多分ナイフとフォークを使って食事ができなくなるでしょう。でも指で上手に食べられるからそのままにさせてください。もし私が帽子をかぶったまま寝たいというときも、そのままにさてください。

私が痴呆性老人になった時、私が何を取ろうとしているのか憶えていないので、それを指差して教えてください。

私が痴呆性老人になった時、私は気難しくなり、気分の上下で意地悪をすることがあります。それは私が嫌悪する無気力と救いようの無い状態を、私が感じている時です。

私が痴呆性老人になった時、私がパニック状態こ陥ることがあります。それは同時に二つ以上の事を考えなければならない時なのです。その時は私の手をしっかりと握って、私が一つのことに集中できるよう仕向けてください。

私が痴呆性老人になった時、私は忘れっぽくなります。だからいつまでも恨みをもっていないので、あなたが怒ったことはあなたが思っている以上に早く忘れてしまうのです。

私が痴呆性老人になった時、私を落ちつかせるのは簡単です。言葉ではなく私の手をとって少し揺り動かすか、あるいは私のそばに静かに座っていてください。

私が痴呆性老人になった時、私は不明瞭な抽象的なことは分かりません。あなたが言っていることを自分の日で見、手で触り、感じたいのです。

私が痴呆性老人になった時、私はいろんな事が分からなくなり、他人を理解することが難しくなります.声を和らげて私を見つめて言ってくれると、私は耳を傾けやすくなります。言葉は長くしないで短く簡単にしてください。私が理解しているかどうか確かめるため、ときどき止めてください。私にたずねる時は一つずつにしてください。長い解鋭をされても私はそれを憶えることができません。あなたが私に話しかけるまえに、私を見つめて、私に触れて、私に徹笑みかけてください。

私がよく物忘れするということを憶えていてください。だら水道の栓を止めること、ロウソクを灯さないで楽しむ方法、たばこを私と一緒に吸うことを教えてください。

私が痴呆牲老人になった時、私は散歩に行きたくないし、新鮮な空気もいらないし、運動もしたくないのです。でも、これらをした後は気持ちが良いことを知っています。だからあなたが私と一緒にしてくれると嬉しいのです。

私が痴呆性老人になった時、私は昔のよい歌を開きたくなります。何ていう曲だったか憶えてはいませんが、あなたと一緒に聞きたいのです。そして誰かと一緒に歌いたいのです。

私が痴呆症になって知識が退化していっても私の感覚は衰えていません。多分あなたが想像するよりも私の感覚は鋭いかもしれません。私は美しい物、絵、夕焼け、そして美味しい食べ物が大好きです。私はあなたよりも強い刺激を求めます。私はビロードの布、動物の毛、絹衣、滑らかな木に触ることや、水の音を聞くのが大好きです。私はこういった感覚が味わえることを沢山したいのです。

私が痴呆性老人になった時、私はあなたを悪い人だと言うことがありますが、あなたに反対されるとスツキリします。私にとって今日は悪い日だということを、あなたは知っていてくれるからです。

私が痴呆性老人になった時、私が家に帰りたいと言うことがありますが、あなたに反対されるとスツキリします。私がいま不安に感じていることをあなたがよく知っているからです。

私が痴呆性老人になった時、私があなたを怒りつけることがありますが、その時私から一歩退いてください。そうされると私はまだ人に印象を与えることができるんだと感じます。


  ※精神保健ミニコミ誌『クレリエール』の許可をいただき転載いたしました。

                                           


204号      2003年5月1日発行



手に手つないで 輪に輪つないで

                                        川名 良子

 あなたが国境という地図に引かれた線を意識・認識するようになったのはいつ頃からですか? 私ははっきり覚えています。
 小学校4年生の時でした。ホームルームの時間に「この中でお父さんかお母さんが、日本以外の国で生まれた人はいますか?」と、担任が聞いたのです。 私は手を挙げました。当時私の担任は遠い親戚筋にあたる人で、私の母親の生い立ちをよく知っている人でした。その担任は「あァ、君のうちはそうだったね。でも、手を挙げなくてもいいんだよ。その頃は日本だったんだから。」と、言ったのです。
 手を挙げたことで、当然私は好奇の目にさらされました。小学校4年生では、まだ、歴史も地理も勉強していませんでしたので、クラスメイトは「へェ、おまえ外国人だったんだ。」と、さっきまで仲良く遊んでいたにもかかわらず、まるで別人を見るような目を私に向けてきました。普通だったらこれはイジメになるのでしょうが、実は私、母が現在の韓国で生まれ、北朝鮮に移り住み、北朝鮮の女学校に通っていたことを幼い頃より聞かされており、そのことが自慢だったのです。「みんなの家のお母さんとはちょっと違うのよ」って。ですから、向けられた好奇の目を逆に楽しんで得意になって「そうなの。うちのおかあさんね・・」という具合に話していたと記憶しています。
 しかし、その時、私は2つの疑問を持ちました。一つは、なぜ外国生まれと聞いただけで、クラスの友人はまるでそれまでとは別人のように私を扱ったのか。二つ目は、先生の言った「その頃は日本だったんだから」という言葉の意味でした。
 その夜、早速にその疑問を母に投げかけました。母は、戦争という不幸な歴史があって、国と国との間には国境という地図上の線が引かれたこと、それまで日本と言われていた所が急に日本でなくなってしまったこと、同時に飛行機に乗ろうが船に乗ろうが行きたくても行くことの出来ない所があることも、小学校4年生に理解できる程度で説明してくれました。それに対して、私はというと「偉い大人って、なんで変な線を引いちゃうんだろう。だからクラスのお友達が変なことを言うんじゃないの」 まあ4年生ですから、この程度の考え方、とらえ方をしていたように思います。
 さて、その後成長とともに、国境というものに対する私の考え方がどう変化したかと言いますと、韓国は韓国の、北朝鮮は北朝鮮の、日本は日本の、それぞれの国民が秩序をもって生活するためには、国境を持った独立した一つずつの国であった方がよいのではないかと。つまり、独自の国家体制は大切にすべきだと思うし、そうしていた方がその国の文化を含めたカラーを生かせるでしょうから、と思うようになりました。しかし、その国境は、鉄の壁でも、鉄のカーテンでもないし、そうあってはいけないと思うのです。
 実際、あの朝鮮半島を二分する38度線、板門店には鉄の壁はありませんでした。私は今までに数えきれないほど韓国に行っています。その内何回かは板門店を訪れました。もちろん南から。そして、北からも板門店を訪れたことが、たった一度ですがありました。北朝鮮にも行った、という意味です。南北から38度線を跨いだ私が証言します。38度線、そこにあったものは、鉄の壁でも、石灰で書かれた白線でもありません。あったものを強いて挙げれば、南北会談、つまり話し合いをする際に使われるマイクのコードでした。国と国とが隣り合わせて接触する時、そこに国境が存在するのは当たり前です。政治的な秩序を保つためには、国境のライン引きは不可欠だと思います。しかし、人々の心にライン引きは不必要だと思うのです。
 同じ地球という星の上に生きる人間同士、たとえ国籍が違おうとも、手に手つないで、輪に輪つないでいけたら良いな。一人の人間として、その掛け橋になれたら良いな。毎日、新聞やテレビで世界中の緊迫した情勢が伝えられる中、そんなふうに考えているこの頃です。




203号      2003年4月1日発行



 教室の四季   第2回

ケナフの卒業証書
                                          小澤みつ江
 
 3月20日、今日、やっと肩の荷を下ろすことができました。卒業式でした。
子どもたちと取り組んできた学習の中に、平成十四年度から始まった『総合学習』という教科があります。この学習は、子どもたちが自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決しようとする力を育てることなどをねらいとして始まりました。そこで、子どもたちと話し合って「ふるさとを大切にしよう」というテーマを掲げ、草花栽培や、リサイクル、ゴミ拾いなど、九つのグループ活動を計画しました。その中の一つ、ケナフ紙作りについて紹介します。ケナフという草木をご存知ですか。ケナフというのは麻の一種だそうです。オクラという野菜を思い描いてください。花も葉や茎もそっくりそのままで、背丈が二〜三メートルほどになります。その茎を、紙にするのです。
6月19日
 蒸し暑い太陽の下で、ポットに蒔いて十五〜十六センチに伸びた苗を農園に植え付けました。学習参観のその日は、保護者の方にも手伝っていただき、楽しく、和やかな中で作業が終わりました。それからというもの、ちょうどうまい具合に雨が適度に降り、夏休みまでほとんど手を加えることなく、すくすくと育つケナフでした。大きい物で、五十センチぐらいになっていました。これなら夏休みの水遣りは、ケナフグループの子どもたちだけで大丈夫だねと打ち合わせておきました。ところが、夏休みにはいって、雨らしい雨はまったく降りません。グループの子どもたち四人は一人が四、五本のペットボトルを持って校庭の水道から約四百メートル離れた農園まで運ぶのです。朝、7時頃、みんなで待ち合わせをして学校までやってきて、農園に水をまき終わるころにはもう、お日様はかんかん照り。汗だくの作業です。それなのに水は、あっという間に地面に吸い取られ、土はすぐに乾いていくのです。自主的にやらせるはずだった学習ですが、たまりかねて、とうとう軽トラックに350リットルほど入るポリタンクを積んで、ポンプで水を撒きました。内緒でやるつもりだったのですが水不足を心配する子どもたちに、「先生も水を撒きに行くからだいじょうぶだよ。」と、伝えました。そんなことが何日あったことでしょうか。心配をよそにケナフはすくすくと育っていました。(紙作りは2クラスの全員で取り組みました。)ケナフの背が二メートルを越えたころ、探していた紙作りの講師の先生が見つかりました。相模原のほうから来て頂ける事になりました。実行委員の子どもたちが電話をしたり、ファックスを送ったり、講師来校当日のプログラムを作ったりして実現した講習会です。そして、この頃、子どもたちはケナフで卒業証書を作ろうと夢をふくらませていきました。
11月1日
 この日は講師の先生に紙作りの工程を説明していただき、出来上がった紙を見せて頂きました。子どもたちの目が輝きだしました。
11月22日
 刈り取ってむいた皮を使って、いよいよ紙作りです。まず、皮を木づちや金づちで叩きました。叩いて叩いて約二時間、寒さと疲れで子どもたちはバテ気味でした。それでも、叩いて、次に、鋏で五ミリほどの長さに切り、細かくしました。まだ、紙には程遠い品物でした。
12月10日
 三回目の講師来校。とうとう紙になる日です。前日までにミキサーでこなし圧力鍋で一時間煮ておいたケナフに、糊を混ぜ、水槽に流し込み、すき枠を使って紙をすきます。できた紙に紅葉の葉をあしらいアイロンがけして出来上がりです。どの子からも、歓声や満足の笑顔がこぼれていました。しかし、これで終わりとはいきません。卒業証書を作るという課題が残っていました。講師の先生にお聞きしたり、他の学校に当たったりしてみましたが、手作りの証書には出来そうにありませんでした。仕方なく、ケナフを工場に送って卒業証書にしてもらうことにしました。この六年生の取り組みを聞かれた校長先生が、費用を学校で負担しようと言ってくださったのです。大感激です。
卒業式
 卒業証書は、うす淡い肌色の柔らかな風合いのケナフ紙。呼名され、証書が手渡されるたびにかすかに揺れるケナフは子どもたちの門出をそっと祝ってくれているようでした。





202号     2003年3月1日発行



離れたところから見る                          市川市   菅原 澄子

 2月1日23時頃、NBAのタイマー録画をしようとテレビのスイッチを入れると、な、なんと!スペースシャトル「コロンビア」の空中分解事故の画像が強烈に目に飛び込んだ。とたんに、宇宙飛行士・毛利衛さんのことで私の心はいっぱいになった。というのは1月11日(土)、市川市文化会館で講演会「宇宙からの贈りもの」に参加したばかりで、夢あふれ颯爽としたお姿の余韻が残っていたからである。
 当日、子供から大人まで幅広い年齢層の市民(2000人以上)で埋め尽くされていた。毛利さんは、大型スクリーンの映像とともに、日常生活が宇宙船で出来ることを楽しく解説し「地球は宇宙のまほろば、生命の存在する地球を守っていくことが大切です」と熱く語られた。
 その後は会場の子供たちからの質問コーナー。二中や下貝塚中の生徒さん「宇宙から地球に帰って来てどういうことを考え、人生観はどう変わりましたか?」との質問に、毛利さんは「不可能だと思ったことが可能になった。すごく大きく地球全体を見ることができ、気持ちが大きくなった。大気の層が薄い(約30km)ということからも地球環境の大事さがわかった。それを見せてくれた科学を大切に思う」と答えられ会場には熱気が漲った。高谷中の生徒さん「未知のところへ行く心配、不安はないのですか」の質問に「過去の情報から全て知識を得て訓練をたくさんするので、ほとんど未知のことはないようにしていくので心配はありません」ときっぱり言われた。会場にまた夢が広がった。
 それから21日後の大惨事である。危険と隣り合わせのハイテクを改めて認識させられ、迫られたISSの問題も大きく、衝撃を広げている。しかし、毛利さんはじめ関係者は一日も早い飛行再開を願って前向きなのが救われる。この講演会で毛利さんの「大気の層が薄い」「それを見せてくれた科学を大切に思う」のお言葉が深く心に刻まれた。「大気の層が薄い」ということから貴重な命の存在を思う。命というのは、ただ生きているだけではなく、そこから生まれてくる文化をも含めて、限りなく奥深いものである。
 その存在を知り価値を生かすには離れたところから見てみることも大切である。折しも春!秦野市に蒔かれた新聞の種が芽を出してすくすく伸びている。市川から見る私にとって、それは眩しく心弾むのである。"離れた所から自分たちの存在を見つめ明日へ進もう"と強く思う。


企業派遣体験研修で得たもの

 4月から始まった教員企業派遣体験研修は、残り1ヶ月ほどになりました。駅弁製造販売会社東華軒での研修は小田原駅での販売・配送、本社工場での調理・詰め合わせを行い、現在は営業を担当しています。
 この研修で最も学んだことはお客様を大切にし、常に感謝の心を持つことと、会社の信頼を保つことの重要性です。会社は一般のお客様や取引相手に商品を買っていただいて利益を得ます。「お客様は神様です」という言葉を実感します。一方でお客様の意見でも「できないことはできない。できることはここまでです。」というビジネス上の交渉が、特に営業では、必要なことを学びました。お客様に買っていただくには会社と商品の信頼が必要です。食品会社なので衛生と安全に特に気をつけています。信頼を失えば大きな会社でも存続ができないことは多くの例があるとおりです。この二つは学校・教育でも重要なことと考えます。
 民間企業と学校で最も違う点は活動(仕事)の結果がいつ、どういう形で現れるかという点です。企業では1日1円でも利益を得ることが重要で、その結果がすぐ数字として現れます。学校では生徒の人格・学力・健康などの向上のようすはひとりひとり違います。教育の結果が目に見える形ですぐに出れば一番良いのですが、ひとりひとりの成長を時間をかけて見守ることが大切だと考えます。
 営業活動でお弁当の注文をいただきに各地の小・中・高校をおじゃましています。多くの学校でこころよく迎えてくださったり、注文をいただいたりしてとてもありがたく思っています。今までの多くの方との出会いやつながりが、このような形で自分を助けてくれることに感謝します。出会いは人生の財産と感じています。       上田 弘


新聞教育の本の紹介

「こうすれはできるNIE 新聞でいきいき授業」  鈴木 伸男著

 『こうすれはできるNIE 新聞でいきいき授業』は久しく待たれていた新聞教育論の本です。私は新聞教育とは「情報処理の力をつける」NIEの勉強を通して、「情報編集能力を身に付ける」新聞づくりをすることだと思っています。新聞づくり・新聞利用暦30年のゆたかな経験を持つ著者は、この本の中で「新聞教育でおこなう総合的な学習」を次のように組み立てています。1、新聞を読むことを段階的・計画的におこない、その中で新聞の機能(役割)や特性を学ぶ。2、新聞の記事を切抜くことで整理の仕方を学ぶ。それを経て 3、新聞づくりをする。
 今年度から始まった学校5日制は「時間がない」という物理的な条件だけで、簡単に学校から新聞を消してしまいそうです。学校での新聞づくりは、その教育的な効果を認められているからこそ50有余年という歴史をもってきました。たしかに、学校教育の中でも新聞が情報を得る主な手段ではなくなりました。しかし、新聞を使って、新聞をつくって育つ力は、今求められている『生きる力』そのものです。本書は、たくさんの記事が例示され「タマちゃん」まで登場します。読み物としてもおもしろいと思います。著者は全国新聞教育研究協議会事務局長・東京都大田区立矢口中学校長(白順社2800円+税)





 201号   2003年2月1日発行
 
 教室の四季 第1回
   
 いのちにふれて
                   
 それは、突然やってきた出来事でした。
 十一月下旬のある中休みの終わりごろ、飼育委員会の子どもたちが小さな箱を抱えて教室に帰ってきました。「なに、それ・・。」と、言って中を覗いてみると、なんと、生まれたてで赤裸のウサギの赤ちゃんが脱脂綿にくるまれて丸くなっていました。その日、クラスではウサギを飼いたい、いや無理だの話し合いで収拾がつかず、とりあえず生き物好きなTさんに預けることにしました。ウサギを一日預かるのもたいへんなことだったようです。綿棒に牛乳を染み込ませ、一時間おきに与えなければならなかったそうです。Tさんが寝たあとも、おばあちゃんが寝る時間を割いて牛乳を与えてくれたそうです。
 次の日、学級会は一時間では終わらず二時間を費やし、そして、なかなかまとまっていきません。飼うからには誰がおしっこやうんちの世話をするのか、えさはどうするのか、病気になったら治療費は誰が出すのか、一日二時間くらいの散歩が必要だ等々、飼育するマニアル本を見ながらの子もいました。飼いたい。でも、飼うのは無理かもしれないなあと、みんなの気持が揺れている時「でも、ウサギ小屋に戻したら親ウサギにかみ殺されるだけだ。そんなのやだよう。」きのうウサギを預けたTさんが涙を浮かべて抗議しました。話し合いは終わりませんでしたが、土曜日のこの日は、もう下校時刻が迫っていました。とりあえず白い毛が生えて、ウサギがラビットフードや草を食べられるようになる二週間位まで育つかどうか飼ってみることにしました。順番に家で育ててくれる人がいるかを尋ねたところ、4〜五人の子が手を挙げてくれました。
 最初に持っていくことになったのはS君です。職員室の電話でお母さんに了解をとったとき、満面の笑顔で喜びを表していたS君でした。日曜日の夜、九時ごろ、S君のお母さんから電話がかかってきました。ウサギが死んでしまったという知らせでした。その電話の向こうでS君が「いやだようー いやだようー」と泣いている声が聞こえました。はじめはなかなか電話に出ようとしませんでしたが、やっと出てくれたS君に呼びかけました。
 「S君、このことはみんなにどんなだったか伝えて。みんなに話せばきっと分かってくれるよ。S君も、うさちゃんにちゃんとさよならが言えるよ。」と。
 次の日、少し遅れてS君は教室にやってきました。ウサギの入った箱とS君が書いた作文と、そして、S君のお母さんが書かれた手紙もたずさえて。 S君の作文にはびっしり文字が詰まっていました。ウサギを学校から持ち帰る時の緊張した思いや、家族みんなで世話をした様子、先にウサギを持ち帰ったTさんの家に電話をして育て方を聞いたこと、そして日曜日の夜になってウサギの動きがおかしくなりピクリともしなくなっていく様子。最後に彼の作文は『・・・・「なんで?生き返ってよ。しんじゃあだめだよ。」と言った。しかし、しんでしまった。せめて、目や耳があいたところをみせてもらいたかった。』と、結んでありました。 お母さんの手紙には便箋六枚にもわたって、ウサギとS君を見守る家族の様子や、死なせてしまって申し訳ないという気持が切々と書かれていました。
 教室の子どもたちは涙をにじませて聞いていました。そして、感想を綴りました。『「元気だせS君、ウサギが死んだのは君のせいじゃあないよ。ありがとう」「いのちって何てもろいんだろう」「何もしてあげられなくてごめんね」』みんな精一杯の気持を書きました。クラスに突然やってきたウサギの赤ちゃんは、子どもたちに愛しむ心≠竍命の愛らしさ∞命のはかなさ≠伝えて去っていきました。たった二日の間にうっすらと生えた白い羽毛に包まれて。      (小澤みつ江)






    2003年1月1日号
 


学級通信と学級・学校新聞 両方必要です


 昨年夏、大阪で開かれた全国新聞教育研究大会で発表された『大阪の中学校における学校新聞の実態調査』の結果は興味あるものでした。
大阪府下・大阪市の公立中学校は153校あります。その中で現在学校新聞が発行されているのは55校でした。そして、今学校新聞を発行していない65校の中で「新聞発行の見直しが行われているか」という質問に50校が「ない」と回答しています。
 学校新聞が発行されていない理由は「学校・学年だより、PTA広報があるから」、あるいは「HPがあるから」それで十分ということです。その他の理由は「予算がない」「作成するゆとりがない」「取り組む余裕がない」「必要性を認めない」「指導時間がない」「指導者がいない」など“ない、ない"づくしです。
 学校新聞は出ているのですが「発行の意義は」聞かれると「記録として必要」や「学校の教育活動を知らせるために役立つ」というような、学校通信的な役割として認識されるくらいです。しかし、わずかですが「問題点を提示する場」として学校新聞を必要とし、そこから「多くの生徒の支持を得る」学校世論の形成を求める手立てとして、認めている声が聞けたことに少し安心しました。 
 学級通信についての調査も同時におこなわれました。
 大阪では学級通信を書いている先生の数はかなり多いようです。 @だいたい全クラスが発行=8校 A半数から8割のクラスが発行=33校 B半数くらいのクラスが発行=89校 という結果でした。
 通信を書く理由は、@「生徒・保護者・担任の共通理解を得るため」A「クラスの問題点を親や生徒に知らせ、問題を投げかけ、考えさせたり意見を返したりする」場として通信を使っています。通信を書く先生の願いは、学級活動・生徒会活動、新聞活動など子どもの自主・自治活動が高まることを願うのと同じです。子どもの手による学校・学級新聞づくりも、先生の学級通信書きも、じつは「言いたいことが言える教室・学校」を目指しています。そして新聞づくりはその原点です。
 多忙な、しかも緊張感のある学校生活の中で書く学級通信、子どもたちの声が響く学校新聞や学級新聞、この二つは学校になくてはならないものです。
   
  

「エコー」の復刊 今から楽しみ

 17年間という長い間、「エコー」をご恵送をいただき誠にありがとうございます。「エコー」が届くたびにその場で一気に読んでしまうほど、生きた豊富な内容に感動を覚えています。先生の心温かい、しかも教育に対する識見が数ページに見事に凝縮されています。とりわけ子どもに対する限りない愛情に、私も教師として心打たれます。二月から復刊とのこと。そのエネルギーはどこにあるのか驚異でさえあります。新しい「エコー」に今まで以上に期待しています。200号達成というお仕事にお祝いを申し上げるとともに、健康に留意され教育界への更なるご貢献をご期待申し上げます。 ありがとうございました。          望月 国男
  

 ★ECHOは2月復刊です





200号・その3 (2002年12月1日発行)200号へのメッセージをたくさんいただきました。それで200号の増刊号という形にしました。これが最終回です。


新聞の記事で再会
 
 武先生は東中学の先輩でもあるので、一度ぐらい何かお世話になる機会があると思いましたが、その期待もむなしく終わった三年間。そして三十年がたちました。その武先生との再会は四年くらい前の暮れのことでした。毎週楽しみに読んでいた朝日新聞の教育のページに「秦野市・武勝美さん」の文字が目に飛び込んできたのでした。遠い岩手の地なので、うれしくてなぜか涙ぽろぽろ。さっそく実家で電話番号を調べてもらい、先生の声を聞いた。正月、帰省の折にお宅にお邪魔。そのときの話で秋田駒ケ岳を案内することになった。私の三年間の担任であった小室先生もご一緒され、わが家の家族を合わせ総勢五名。玉川温泉に泊まり、秋田駒から八幡平とすばらしい夏の思い出を作ることができた。新聞の記事がきっかけで旅にまで発展した思いがけない出会い。それから『エコー』の読者になりました。    畠山 京子



賢治を訪ねて

 この夏もいつものように東北旅行に行ってきました。宮沢賢治のふるさと・岩手県の花巻を毎年一人で訪ねてもう十年以上になります。そこに行って何かを見たいとか、体験したいという旅ではありまのせん。母のふるさとである岩手の山や川や空気が、毎年私を待っていてくれるような気がするのです。花巻の賢治記念館には、毎夏たくさんの人が訪れていますが、そこから少しだけ離れた林の中に、山を巡る何本かの小道があることはあまり知られてないようです。賢治か好んで歩いたという、その山道をたどるのが私の旅の目的の一つです。聞こえてくる鳥の声、名前も知らない小さな草花。林を渡る風のさわやかさ。時々飛び出してくる虫、そしてくもの巣に驚かされます。今年は大きな蛇にも出会いました。そこにしばし身をおいていると、私は賢治の言う「透きとおった本当の食べ物」をもらって元気になるのです。旅先で思い切りのんびりと過ごし、帰りの列車の中で賢治の童話を読み返すのが好きです。私にとっては一年に一度のちょっとぜいたくな“いやし”と“リフレッシュ”の時間かもしれません。    横山 真理



心と体が動く『エコー』

『エコー』200号発行おめでとうございます。そしてありがとうございます。エコーとの出会いは小学校のPTA広報に携わった6年ほど前で、購読は2年程前の174号からです。初めは自分たちが作る新聞のご指導をいただいていましたが、読み続けているうちに、自分を見つめ直すきっかけとなりました。何度も読み直した号もあります。PTAの在りかた、地域や学校とのかかわり、広報誌の存在、子育て、そして人間とは…自分とは…。『エコー』のコンセプトがとても気に入っています。「動かなければ出会えない、語らなければ広がらない、聴かなければ深まらない」何をするにも当てはまることです。武先生のコメントは、教師や学校、地域、親どれに偏ることなく中立の立場で書いてくださっているのがとても嬉しいのです。耳の痛い話もありますが、優しい励ましを受けるとホッとしてしまいます。書き記すことによってたくさんの方の心と体を動かし、教育してくださる先生の熱意に敬意を表すると共に、これからもご健康に留意され、ますますのご活躍をお祈りしております。    相原 幸子



老いも自分次第

 介護の現場に就いて五年になります。両親を比較的早く亡くしたので、今の仕事をするまでは人が老いることを間近に見ることがありませんでした。たくさんのお年寄りにお会いしてみると、長い人生の積み重ね、生き方がその方の今になっていることがよく解ります。よかったことも、そうでないことも、しっかりと今に映し出されています。身体がご不自由でも、積極的に生きてきた方は、残った機能を前向きに活かそうとされているし、自分で行動範囲を狭めながら、それに気づかない方もいます。失礼な表現になるかもしれませんが、家族、嫁姑、人生のサンプルをたくさん見せていただいているような気がします。それらは、私の行き方に大きく影響をすることはありませんが、老いることや、不自由になることが恐いことではなくなったことは確かです。それぞれの人が生きている環境はさまざまですが、最終的には自分次第なのです。状況が人をつくり、その人が状況に反映しています。いつでも「自分がどうありたいか」を持っている方はとても素敵です。歳をとっても大丈夫。目指すものを持って、自分を育てていくことが、今からの私に一番大切なことだ、と思っています。  谷口貴美子




9月21日、広畑プラザでの私の講演会に参加された読者からいたいた手紙です。 

200号おめでとうございます

☆ECHO 200号おめでとうございます。
 ちょっと前、Tさん(4番目の子どもの幼稚園時代の知人)から「武先生がいらっしゃるけど」と思いがけない連絡。どきどきしながら今日は参加させていただきました。

☆ECHO 200号おめでとうございます。
 毎月読ませていただいてたくさん元気を分けていただいていますが、動いて、声をだして下さる武先生に直に接することができれば、もっと元気になれると思って、今日来ました。鶴巻中学校の校長先生だった武先生のお話を聴きに、よく学校に足を運んだ頃のような気分になりました。

☆ECHO 200号おめでとうございます。
 エコーのフアイルは4冊目。昨夜何気なく開いたところが156号でした。1999年2月号『元気印のネクタイを着けて』の中で「もう少しがんばるか」との先生の言葉。いつも先生は読み手を元気づけて下さっています。それは先生自身が元気だからです。だから、いつまでもいつまでも元気でいて下さい。

☆ECHO 200号おめでとうございます。
 エコーにいろんな人が登場しますが、私は武先生が書かれたことでその人を膨らませる癖があります。だからエコーの中で出会った人と、直接、実物・ご本人にお会いするのにはとても勇気がいるのです。

☆ECHO 200号おめでとうございます。『動かなければ出会えない』はずなのに、この引っ込み思案の私でも、エコーを読んでいることで、動かないのにたく さんの人に出会えているのです。感謝しています。今日は先生にお会いするので、心の準備をたくさんして来ました。動きました。    畠 和子




子供たちのために、という思いこそ

二年前から初等教育を学び始めた。そして今年五月から四週間、鶴巻小学校で教育実習をさせていただいた。鶴巻小学校は、娘が今春卒業し、私自身3年前にPTA役員でお世話になった学校である。元塾教師でもなく、元本部役員でもなく、四十七歳の教育実習生として、元気に素直に学ぶことができた。学校が週五日制になり新カリキュラムでの学習、総合的な学習の時間、学校行事なと、教師の仕事は想像以上に煩雑でハードである。一年生から六年生まで、発達段階の異なる自動が相手である。校内は成長のエネルギーが充満し、渦を巻いている。教師は児童とがっぷり四つに組み奮闘される。この教師のエネルギー源は『子供たちのために』という思いである。ある教育者は「学校の教育力を高めていくには、学校全体が一丸となって挑戦する環境こそが求められる」と述べている。学校と保護者、地域関係者が『子供たちのために』との熱き思い立っての対話こそが、学校の教育力の向上への一歩になると、私は考える。   野田 尚子





200号・その2 (2002年11月1日発行)
                  200号へのメッセージをたくさんいただきました。それで200号の増刊号という形にしました。


メディアの影響力に思う
 社会的弱者へのイジメが跡を絶たない。今年一月末の寒い夜、都下東村山市でホームレスが中学生の一団に寝込みを襲われ、一時間半にわたり角材で殴られた末に殺された事件を覚えておられるだろうか。その現場が我が家から歩いて数分の、公園脇にあるゲートボール場だったからショックだった。動機は単純、やり方が常軌を逸していた。それにしても、最近の若者の犯罪には、信じられないくらい残忍で執拗なものがあまりにも多い。
 彼らの人格形成には、個人的、社会的要因が複合的にかかわってきたのだろうが、意外にメディアの影響力が過小に見られているように思えてならない。テレビ、マンガ、ゲーム等はどれも、自ら思考する先を越して頭の奥をつっつく。大胆に言えば、スピード、パンチ、カッコイイ。慎重で思索的、ダサイ。これが大方のトレンド。発達途上の子供達の価値観が混乱して当然だ。こういう風潮に学校教育はどう対処したらいいのか。 
 今日もゲートボール場はムンムンする緑と蝉時雨。生きとし生けるもの、すべて縁あってこの世で共存している。いわんや人間同士…。こだまは「木霊」が語源で、発した音声が入り組んだ山壁に響き合った末に山神の声に収斂されて戻ってくるのだという。エコーが飛び交っている限り、人間社会が異様にひずむことはない。

   Nishizawa



夏のオリオン座

 今年の夏は酷暑。もうまいりました。それでもお盆のあたりから夜はどうにかしのげるようになった。ちなみに我が家にエアコンはない。そんな中、八月十三日未明、ペルセウス座流星群を見に川原へ。風はさらさらと心地よい。川原の芝生にシーを敷いて、寝転ぶ。愛犬ガリも一緒の一家総動員で。川原の風には長袖長ズボンも心地よく、ビールの酔いも手伝って星の世界ならぬ夢の世界へ。「ぶ〜ん」という虫の羽音で眼をさますとあっつという間の流れ星。眠気は吹っ飛び星空に眼をこらすと、東にひときわ輝く星あり。木の天辺で光っている。犬が騒ぎだしたので歩いて行くと、ひときわ輝く星の全容が現れた。木の陰で見えなかったのだ。あんなに低い所で輝く星。そうそれは冬の王者オリオン座だったのである。天はもう秋から冬なのだ。昔の人々はきっと驚きと畏敬を持って星空をみつめただろう。未明の星空は次の次の「時」を、未来を見せてくれるのだから。
 星空が未来を見せてくれるなら、文字は「時」を記録する。しかし文字を持たない人々もいる。しかし彼らは「口承文化」を持っている。「文字」はその場所にそれを書いた人がいなくても意思を伝えることができるが、「口承文化」の場合「人」の存在が最優先されなければ伝わらない。文字を持たないということは、徹底した「人」の文化なのである。だから、文字持たないイコール文化が低いは成り立たないと私は思う。
 夏の終わり私はネパールへ行く。「紙芝居」という日本の伝統文化を紹介するためなのだが、「口承文化」の国へ文字文化を持ち込むわけだから、逡巡している。    木口まり子



三十八年の空白
          
 『エコー』の創刊された年に生まれた子は、今年は高校三年生になっているのでしょうか。あらためて歳月の重さを感じます。私と先生との出会いは四十年前、先生が教師になられて一年目のことでした。血気盛んな《熱血教師》という印象でした。そして、思いがけない再会は三十八年後でした。教職を退かれ、おだやかな先生に驚かされました。『エコー』を知ったのはそれからのことですが、中学校時代、武先生が一人で作ったような学校新聞創刊号の片隅に新聞委員として名前を載せていた者として<
『エコー』がその延長線上にあるとしたら、とても光栄なことだと思っています。
 先生が新聞教育で活躍された三十八年間を私は知りません。「教師は天職でしたか」との問いに「天職でした」と即座に谺のように返ってきた先生の言葉の響きに、先生との三十八年間の空白を容易に埋めることができたように思えたのです。200号、とりあえず「おめでとうございます。」
 立ち止まる背に秋声の谺かな   栃木ヤスエ



200号ですね
             
 『エコー』が届くたびに知っているお名前がないかと探します。栃木ヤスエさんの「母娘の花遍路」を読みました。中学の同級生ですから、私と同じ年齢。現在の私には、とうていそのその体力はないのですけど、その遍路を半分くらい一緒に歩いたような豊かな心になりました。
 200号ですね。武先生、そして奥様、続けて下さってありがとうございます。どんなことでも続けるということは大変なことです。私はネクタイのことばかり三十年。そして会社を興して十四年が過ぎました。その間のいろいろな出来事が今では私の宝です。そう、病気がもっとも大きな宝物です。あの病気がなかったら、今の私のこの気持ちはないのですから。      和田 淑子 



五能線の夕日

 武先生との出会いは、娘が中学一年の時の『鶴中PTAだより』でした。その広報の中での校長先生のインタビュー記事に「五能線」の三文字を発見したのです。― 旅の中で印象に残っている景色はー 「五能線から見た夕焼けが美しかった」と答えている校長先生。五能線は私の郷里です。大変なローカル線です。でも本当に美しい夕日が見られるのです。そんな私のふるさとを取り上げてくださったことがうれしく、その感激をもてあまし気味の私に娘が言ったのです。「お母さん、校長先生にお手紙書いたら。私が持っていってあげる。」
 つい調子に乗って私は、その夜のうちに手紙を書いてしまったのです。相手が校長先生であるということも顧みずに。その日、校長先生から電話を頂きました。電話でお話をしているうちに、私の母校である峰浜中学の学校新聞が「日本一」になったことも知りました。受話器を置いてから、ずいぶん大それたことをしてしまった、と思いました。でも、まもなく届いた『エコー』に書かれているではありませんか、「動かなければ出会えない」と。あのときの行動が、私と『エコー』を、そして今の私につながっている、と思っています。
 今年も中学で広報委員をやらせていただき、絵や文をかいています。そしていろいろな人に出会っています。これからも『エコー』に心からエールを送ります。   岩井 厚子



かなり スゴイ!

 お元気ですか。久しぶりにフッと手紙を書こうかなと思ったので。今回のエコーの中に創刊のころのことが書いてあったじゃないですか。で、読んだら、創刊が1985年5月20日で、びっくりしました。私は1984年生まれなんですよ。だから歳が近いなあーって。ちゃんと続けてるのがすごいなと思った。飽き性で面倒くさがりの私から見たら、かなりスゴイ!   悠



『らんどせる』は家族の成長記録

 家族新聞『らんどせる』を書き始めて一年が過ぎた。昨年PTAの母親委員になり、武先生のPTA広報講習会を企画したのがきっかけである。昨年は、末っ子が入学し、三人そろって小学生になった年でもある。いまどきには珍しく、三人ともランドセルで学校に通う姿がかわいらしく、新聞の名前を『らんどせる』にした。
 ところで、実は新聞とは名ばかりで、私の育児日記のようなもの。このごろは、子どもたちに記事を《お願い》し、何とか月一回の発行ペースは保っている。仕事に忙しい父親にも『お父さんにインタビュー』コーナーで新聞づくりに参加してもらっている。三十余年も前の父親は、自然を思いっきり遊び相手にした野生児そのものだったようだ。子どもたちには興味深い話ばかり。私も驚くような話が多い。お陰で父と子の会話が、インタビューを通して増えてきている。愛読者は子どもたちの祖父母。記事を読むと、あらためてそれぞれの成長を感じるそうだ。少々オーバーかもしれないが「これは宝物だよ」と喜んでくれている。子どもたちに、いつまで続くのやらと冷やかされているが、子どもたち、そして親の成長記録として書き続けるつもりだ。    水野 明美



『エコー』がもたらしたいくつかの出会い

 『エコー』200号 おめでとうございます。今日八月十五日は終戦記念日、先ほどラジオで秋山ちえ子朗読の「かわいそうなぞう」を聴きました。
 昨年、武先生とご一緒に秦野市P連の母親委員会で研修視察に行ったときの「法廷の傍聴」というパンフレットを見せると、息子は大変興味を示しました。それで、八月十二日(月)、東京裁判所の傍聴・見学に中学二年の息子と行きました。建物に入ると、持ち物検査とボディチェックがありました。大学生や制服姿の高校生、保護者と中学生のペアーも多く、驚きました。父親の六法全書を開いた息子が「刑法〇〇条―。あっ、本当だ」と声をあげました。複数の法廷を傍聴したので、威圧的な裁判官や優しく諭すように話す裁判官、思いのほか早口な検事などいろいろ発見したようでした。
 二日後の十四日(水)、息子は友人と朝八時半から夕七時過ぎまで、自転車で釣りに出かけました。息子を連れて行ってくれたのは『エコー』の読者のお子さんです。エネルギッシュなすてきな若者です。末っ子の息子の時には、回ってきたPTAの役を断る大きな理由もなく、困ったら武先生にアドバイスしていただけるという安心感もあって、広報委員や本部役員をさせていただきました。『エコー』と出会わなければなかったいくつかの"出会い"に感謝しています。
 今、森山良子の「さとうきび畑」が流れています。"ザワワ ザワワ ザワワ 風が通り抜けるだけ"   多田 和子



200号発行 おめでとうございます

貴紙「ECHO」の創刊200号発行、おめでとうございます。当コラムで紹介したのが1987年ですから、もう15年近くになるわけですね。これからも長く続くことを陰ながらお祈り申し上げます。菊花の盛りの折、どうぞご自愛ください。  朝日新聞 「天声人語」担当



 


200号 (2002年10月1日発行)

 201号からはこのホームページでの発行です。

 きょうまで読んでいただき感謝しています。創刊したとき「3号で終わらないぞ」と決意。50号の時は「もうすぐ5年だ。がんばろう」と思った。5年が過ぎたら「100号は出すぞ」。100号に届いたら「10周年は迎えたい」。その頃から「なんとか定年まで」。そして150号を経て15周年。そして そして200号。

 『ECHO』200号までを数字でふり返ると…
 ▽ 発行総ページ数・B4判で786ページ 
 ▽ 創刊号1ページ 第2号が2ページ 3号から4ページ 63・64号は合併号で6ページでした。年賀状を兼ねたのが3回 
 ▽ 休刊は1996年11月・入院(右足股関節感染症)のため 1997年5月〜97年12月まで・定年退職を期に  そして今回
 ▽ 定期購読者数 延べ857名(インドネシア、イギリス、ドイツ、サウジアラビア、中国にも読者) 
 ▽ 返ってきたエコー 403(190〜199号で)
 ▽ 手書き文字入力の機種から始めて4回ワープロを買い替え今はパソコン

 「そろそろエコーも卒業したい」と思っていらっしゃる方や、しがらみから断れずにお困りの方もありそうです。『ECHO』は200号で休刊に入ります。長い間お付き合いいただきありがとうございました。基本的には「エコーはホームページにシフト換え」ということです。
 従来どおりの印刷によるものは2003年2月から復刊する予定です。これからもお読みくださる方はご連絡(手紙、電話、ファックス、メールなどで)ください。 ・締め切り日 2003年1月10日

 お別れするあなた(読者)に
 
 会えてよかった    
                          武 勝美

 君に会えてよかった 君の声が聞けてよかった その言葉の一つひとつが 今も私の中でこだましている
 時は流れつづけるから 私もまた永遠だと思っていた エモーショナルならエターナルだと
 だが あらゆるものが ある日終りを迎える  
 その終りの今 私の中に積もった時間の中に 私は君を見る 君の存在の大切さをしる
 君に会えてよかった 大好きな響きの言葉「ありがとう」を 今 君に言おう


 --------------------------------
200号へのメッセージ NO1

 17年ぶりにまたご縁があって新聞づくり
            
 エコー200号おめでとうございます。
 次女が東中に入学して広報委員を受けました。まさか委員長になるとは思ってもみなかったのですが、前年小学校で広報委員長をやっていたために、受けざるをえなくなったのです。ちょうどその年、武先生が西中から転勤して来られ、広報担当と聞き委員一同震えました。すごく厳しい先生と聞いていたので。 実際、それからが大変。編集会議を開きやっと1号目の原稿を書き始めても、先生のOKが出ず何回も何回も書き直しをし「もう書けない」「広報は無理」という委員も出てきて…。この時はまだ手書きでしたので一字一字書くのも大変でした。でもどうにか完成したときは皆の喜びはひとしおでした。そんなとき、先生も個人紙を作るとがんばられ『エコー』第一号が誕生したのでした。
 翌年、母親委員で今度は『市P連だより』を先生の指導でつくりました。そして三女の時は2年間広報委員長を引き受け、仕事の休みは東中にお弁当持参で通い、年間10号を発行しました。お蔭様で毎日新聞の全国コンクールでは最優秀賞。読売新聞の首都圏コンクールでも優秀賞、二年目には最優秀賞をいただき、委員一同大いに喜びました。広報をつくるという苦労だけでなく、人間関係の難しさなどでも悩みましたが「広報はやってよかった」と思っています。
 昨年から公民館の仕事をお手伝いしていますが、そこでなんと武先生の『家族新聞づくり講座』のお手伝いができるなど思ってもいませんでした。十七年振りに、またご縁があって『公民館報』づくりで助言を頂いたりしています。まだ私には家族新聞という宿題は残っていますが…。先生も300号をめざしてください。        坂田美代子
 
             
 エコーすることは相互研鑚にほかならない

 「動かなければ出会えない、語らなければ広がらない、聴かなければ深まらない。」 エコー誌創刊以来の武勝美先生のご指導に、深甚の敬意と心からなる御礼を申し上げます。先生にお近づきを得たのは、先生が朝日新聞に投稿なさった記事(武注・宇和島の郷土玩具の鬼牛のこと)がご縁でした。私の「動かなければ…」の始まりでした。
中学生の教育こそが、日本の将来を担っています。その教育現場から、『エコー』の紙面で具体的に提案されてきた数々の問題は、教師、生徒、PTA、そして地域社会へ適時・適切な広報を施すことになり、あまねく意見を求めその解決への総意を求めてきたその編集理念はすばらしいと存じます。学級新聞にはじまるさまざまな広報は、語りかけるとき必ずエコーが戻ります。そして、その返ってきたエコーをまた広報する―この繰り返しが、常に明日ヘの力強い糧となるのです。声を発する人、応える人の絶え間ない相互研鑚につながります。        志岐 寿夫
    

 学級通信 ただいま2910号
               
 学級通信を書きつづけて13年5か月、通巻で2910号(2002年8月現在)を数えることができました。私とこの学級通信との出会いはまったく偶然でした。新採用二年目、初めてクラスを持つことになりました。「なにか担任らしいことをしなければ」と考えていたとき、職員室の本立てにあった武先生の書かれた学級通信の冊子が目にとまりました。たしか『息吹』というタイトルでした。それを読み、「やってみるか」と思ったのがきっかけです。こうしてそれ以降13年が過ぎました。毎日書くということは苦しいことでもあります。また、放課後教室に散乱している学級通信を目の当たりにしたときの辛さはそれ以上のものでした。しかし武先生から「努力は人を裏切らない」という言葉で励まされ、書き続けてきました。もちろん、書いていてよかったことはたくさんあります。通信は、今では私の教師生活になくてはならないものになっています。通信を発行していなかったら、もしかしたら教師を辞めていたかもしれないと思ったりもします。私にとって、学級通信は子どもと親への強いつながりを感じさせる《架け橋》です。そして『エコー』は、私のもう一本の大切な架け橋です。       谷津 裕


 続けるだけでは力にならない
 
 200号おめでとうございます。 以前、矢野恒雄先生が「『継続は力なり』だが、続けるだけでは力にならない」と言われました。「続けられるセンスが必要」とも。東中時代から書き始めた週刊の学級通信が今年度中に600号になりそうです。ただの連絡通信ではない、何か私のメッセージを伝えたい、文字を通して心を伝えたい。そんな思い出これからも書き続けます。書くことで自分を出す・見せることの怖さも知りました。『エコー』の影響をとても受けています。これからも刺激をお願いします。       中野敏治

----------------------------------------------------------------------------------------------------


199号 (2002年9月1日発行)

  第45回全国新聞教育研究大会のレポート

「1ミリメートルの努力」
 私の新聞の全国大会の参加は、今年の大阪大会で26回になりました。どの大会でも一日目の記念講演に期待をしてきました。その地の生活や文化がにじみ出る話が聴けるからです。今年は大阪、講師はシンクロの井村雅代さん。期待を裏切らない話でした。
 「子どもたちに目的意識を持たせるのが指導者の仕事。子どもたちが達成できる目標の設定を工夫するのが指導者。」「子どもの前に立つのがキライな人は教師になるべきではない。若い私が教師を務められたのは、職員室の先生方の支えがあったから。だから今、私は若い人たちを支える役をしたいと心から思う」―井村さんは元中学校の教師、そしてそののちの28年間のコーチの体験から出た言葉です。この講演の中で印象に残った部分をまとめてみました。

 愛があるなら叱りなさい    日本水泳連盟シンクロ・ナショナルチームヘッドコーチ  井村 雅代

  目的意識のある子を指導するのは楽です。例えばオリンピックに出たいというような。しかしオリンピックだけを目標にしてプールに来たら、付いて来る母親は三日も持たないでしょう。本人はがんばって一週間くらいかな。何しろ一日10時間はプールに入っているのですから。
 指導者は生徒に今は何をしなくてはいけないのかを明確に知らなければなりません。それは《今日の目標、今の目標》です。その目標を、私は「1ミリメートルの努力」と名づけ、一人ひとりに与えています。垂直跳びで今日40センチ跳べたら、明日は40センチプラス1ミリ跳ぼうというような、今の目標を生徒に持たせます。今日の目標が達成できた喜びと自信があるうちに、私はその子にさらっと次の目標を与えます。指導者が、子どもの持つ可能性を信じ、最大限の努力をすれば、子どもはきっと目標を達成するでしょう。向上しようとする人にとって、もっとも手ごわい敵は自分で限界を決めてしまおうとする、もう一人の自分です。シドニーでロシアに完敗したのは、過去にロシアに勝ったことがないということもありますが、長い間コーチをしてきた私の中に《当たり前》という(心)をつくってしまっていたからです。例えば「シンクロとはこういうもの」みたいな。
 2001年の第9回世界選手権で立花美哉・武田美保のデュエットが金メダルをとりました。この二人は、シドニーオリンピックでの成績が銀に終わったとき私に言いました。
 立花「あんなに良い状態だったのにこんな結果だった」
 武田「あれだけ努力したからこれだけのものが得られた」
 この二人と一緒に、シドニー以降もシンクロを続けることになったのは「まだだれも見たことがないシンクロを目差す」という目標を三人がもてたからです。シンクロには終りがないから、やり続けられるのです。
 私は練習でできても選手をほめません。試合でできなければダメなのです。銀メダルは「一位になれなかった、ご苦労さま」というご褒美です。練習のとき私は叱ります。責任があるから、向上させたいからきつい言葉を飛ばします。ですから、練習の後は選手たちとあまり接したくありません。試合の後「このコーチでよかった」と思わせたい、そのために本気でぶつかります。
 今、日本の教育にいちばん欠けているのは、心のふるえるほどの感動を経験させることです。教育改革にお金を使うなら、子どもたちに本物の感動をおぼえさせることをすべきです。

 198号 (2002年8月1日発行)

三人の娘が一人新聞に挑戦

  『親子でつくる新聞づくり』に母子四人で参加させていただきありがとうございました。一回目の講座が終えて、帰ると娘たちはさっそく『一人新聞』を作り始めました。きっと学校での
新聞づくりに活きてくると思います。私も、新聞に載せること、記事の書き方など、少しはアドバイスできそうです。また家族新聞も作ってみました。何号まで続くか分かりませんが、少しがんばってみようと思います。子どもが小さい頃、育児日記をつけていました。初めての子育ては毎日が発見であり、感動でした。大学ノートに絵も付けて書いていましたが、日記の形で書いているとなかなか他人には見せられないものです。でも、かわいいわが子のことを独り占めにするのはもったいない! 家族新聞なら、遠く離れた地の夫の両親にも楽しんでもらえたのに。そう思うととても残念です。これからのお母さんになる人、ちいさな赤ちゃんのいる家庭に家族新聞づくりを薦めたいです。マタニティー講習会や育児サークルなどで家族新聞を紹介できたらよいと思います。      Takahashi Yukiko

 この前は楽しい新聞づくりを教えていただきありがとうございました。先生に教えてもらったことをよく思い出しながら、学校でも新聞を書いています。これからもそのことを忘れずに家族新聞、または一人新聞をつくっていきたいと思います。お会いしたときにはよろしくお願いします。
                                                                             (小6) Miho

 新聞づくりを教えてくれていありがとうございました。楽しかったです。夏休みには一人新聞をたくさん書いてみようと思います。デジカメで写真もとって載せようと思います。 (小4) Rie

 新聞作りがんばります。7月1日に出た新聞はW杯特集でした。8月号にはプールのことを書くつもりです。 (小3) Sayo


親子で新聞づくりの感想

『いちご新聞』
 私は、初めて新聞を作って最初は大変だったけど、やっているうちに楽しくなりました。名前を考えたり、記事を書いたりして、世界でたった一つしかない第一号が完成してうれしいです。でも6月に終わらず7月になってしまいました。新聞を毎日作っている人は大変だなーと思いました。   小4  Sugano Sayo

『プーさんNEWS』
 私は初めての新聞を一人でかいた。一人じゃできないと思ってたけど完成できてうれしかったよ。  小4 Mizuno Tsugumi


『ゆきまましんぶん』
 今日は本当におせわになりました。娘と一緒に参加できて楽しかったです。帰ってから新聞づくりを続けました。そして完成したのでお送りします。段のけい線を引
き忘れました。読みにくいと思います。(すみません)二番目の息子が少し新聞づくりに興味があるようなので、夏休みに今度は息子と新聞づくりをしてみようと思ったりしています。  母 Kayama Kazue



ECHO 197号(2002年7月1日発行)

P広報から簡単には“撤退”しない三人

広報委員は初めての経験のKさん、Fさん、そしてTさん。その三人の最初の仕事が新しい校長先生へのインタビュー。緊張感のあまりドアをノックするの忘れてしまった三人を、笑顔で迎えてくれた校長先生。子どもたちのことや、総合学習のことなどたくさんの話をして下さった。インタビューが終わってから「今日は楽しかった」という言葉をもらった三人は、広報委員になって何か得をしたように感じたのだった。原稿をまとめるに際して、三人はできるだけその時の校長先生の雰囲気を伝えたいと思い、話された言葉・とくにインパクトのあった言葉を活かして書き上げることにした。大変だったが、また充実感も味わえた初仕事だった。

できあがった原稿を校長先生に見せた。ところが校長先生の最初の言葉が「この原稿では困る」だった。「ここの部分は載せて欲しくない」という強い指摘もあった。その部分とは、今の小学生は良いにつけ悪いにつけ自己主張が強い。特にNOを主張した場面でその対案を持っていない、という内容の個所だった。インタビューの中でもっとも印象に残った話だったので、その例も具体的に記事にした。そこがダメになった。そして、インタビューの筋立てもできていないから直してあげよう、と原稿は預かられてしまった。



預かられた記事

数日後、三人の手元に届いた原稿は、校長先生がQ&A形式で全部書き換えられていた。「自分たちの顔は陰も形も無い」原稿になっていた。「私たちが感じ取ったものは、校長先生には大切なものではなかったのだ」と思った。オフ・レコ、そして〈公式発言〉とは、こういうものだということも学んだ。三人は自分たちの〈心の耳〉の聞く力について自信をなくした。だが、頂いた原稿をそのまま載せるのでは広報の仕事をしたことにはならないと思い、再度原稿を書くことにした。そしてようやく書き上げた原稿。ところが、今度はそれを読んだひとりの委員が「この原稿 意味がわからないわ」と言うのだ。また書き直しである。締め切りは目前、取材ノートに書き留めていたキラキラした言葉は何も使わず三度目の記事を書いた。



なくした自信を取り戻したい

三人がこの一連の出来事から受けたショックは小さくなかった。だが、彼女たちは、広報から《撤退》しようなどとは思わなかった。ただ自信をなくした自分たちを元に戻したいと願うだけだった。そのために今回の事をできるだけ客観的に見つめてみることにした。そして次のようなことに気づいた。

@ 校長先生ヘのインタビューで、事前に質問項目を渡して置かなかったのはミス。

A「意味がわからない」と言われた。意味がわかる文を書きたい。

B 最初の原稿にこめた私たちの気持ちを誰かに理解してもらいたい。



六月のある日、私はこの三つの反省点を持った三人の訪問を受けた。この出来事を通して、三人は、自分を変え、高めた。そして今、自分を耕し、小さな、しかし豊かな実りを手にしようとしている。彼女たちの〈一生懸命さ〉がまぶしかった。 「〈広報〉は〈耕報〉、広く伝えるのが広報の役割である。そして、できることなら広報は読者の心を耕すものでありたい」と私は願う。だが一方では、広報づくりに携わった人が、その活動を通して少しずつ成長することができれば、それでいいのではないかとも思う。


P広報で学校に風穴を                                              

 今、学校は新指導要領の導入で大きく変わろうとしているはずなのに、現場は何も変わっていません。「今年の講座に出た質問」なんていうのは、昭和教育の様相です。学校に風穴が開かない、開いていない実態ですね。「広報活動を通して学校に風穴を開けましょう」なんて言ったら過激でしょうか。

PTA会長さんが週五日制の導入に関して「PTAは何も取り組みをしないでいいんですか」と相談されたので「土曜・日曜を使いPTAはこんな取り組みをしたい」と言い出してしまうと大変だから、広報で子どもたちの週末の過ごし方について取材してもらい、そのあとPTAとしてどんなことができるかをアンケートなどで調べ、記事にしてもらう。それから本部が考えるという段取りはいかがですかと提案しました。

ことを起こす時の啓発活動に広報を使うということが正しいかどうか分かりませんが、PTA活動を広く考えてもらう機会に広報を使うことは良いのではないかと思っています。 PTA、学校評議員制度、子どもを育む会、育成部会など学校を取り巻くいろいろな組織はあるものの、それがどう結びつき生かされていくのか、管理職の腕の見せどころです。管理職の考え方次第で学校は変わります。(逆に「変わらない」とも言えるかもしれません)。                                M ,M



ECHO 196号(2002年6月1日発行)

PTA広報と学校との関係


今年のP広報講座で出た質問

四月の後半からスタートした今年の新聞づくりの講座も五月が終われば一段落。この間12会場で900名ほどの人に「新聞づくり」の話を聞いてもらった。新聞づくりといっても、新聞の作り方より『新聞の果す役目』に力がはいってしまう私の講座である。そんな講座だから受ける質問もバラエティーに富んでいる。


1 「子どもの写真は後姿だけ」と言われて

「子どものプライバシーを守る、子どもの安全を確保するため」ということで、学校から広報の写真掲載に厳しい条件をつけられました。入学式の喜ぶ親子の顔など論外、集合写真もダメで「後ろ姿のものはいいが、誰であるかが識別できるものは避けてください」とのこと。三月の後半から準備していた『入学おめでとう号』は五月の今になってもまだ形にならないのです。完全に意欲喪失です。


2 子どもの写真掲載には全教師の承諾が必要

「これから広報が写真を掲載するときは、本人と保護者、学校の全先生の了解を得てください」と校長先生から言われました。子どもたちの安全を考えれば、そう自由に子どもたちの顔を広報に載せてはいけないのでしょう。そのことは学びました。ですから本人、そして保護者の許可を得ることはしなければいけないと思いました。でも先生全員のOKをとるという条件は厳しすぎます。この条件をクリアしなさいということは「子どもの写真の掲載はダメ」と言っている野と同じことではないのでしょうか。



3 《子供》はまちがい 

《子供達》と書いた原稿を読んだ先生が、「《子どもたち》にしなさい」と訂正されました。でも辞書には《子供》も《子ども》あります。いろいろな新聞で調べても《子ども》も《子供》も使われています。私たちは一文字でも多く情報を伝えるために《子ども》を《子供》にすることにしたのです。



4 広報だから伝えるだけでよい

 学校五日制がスタートしたので『五日制になって良かったこと、気になること』の特集を組もうとしました。すると学校から「五日制のことは学校が考えていることだから、広報で取り上げないでください」と言われました。「家庭のサイドから考えたいので」というと「広報は『広く報じる』と書く。伝える記事だけでよいのではなか」とキツイお言葉。

5 同時多発テロの企画はPTA広報の枠外か

 高校のPTA広報で、同時多発テロを子どもたちがどのように受け止めているのかをアンケート調査を基に探ることにしました。そのアンケートの項目に「報復攻撃を思うか」を入れました。校長先生から「この項目だけは絶対に許可できない」と言われました。加えて「この企画はPTA広報の枠をはみ出している。本来なら企画そのものを止めて欲しいと言いたい」との言葉。高校生が、PTAがこの問題を考えることは、教育の枠の外のことなのでしょうか。

6 わが子のガンバリを伝えたいのに

 養護学校の広報委員です。運動会での子供たちのがんばる姿を広報に載せようとしました。ところが学校からやめて欲しいと言われました。広報委員会は「私たちは、数々のハンデを背負いながら生きているわが子を最高の子と思っている。その子どもたちのすばらしさをたくさんの人に知って欲しい」と心から思っているのです。やめて欲しい理由は「誤解されるから」なのだそうです。

7 なぜPTAに広報が必要なのですか

 なぜ広報がPTAに必要なのかわかりません。広報委員になり手がない現実をみると、広報はいらないのではないと思うのです。それぞれの問いに答えるにはかなりのスペースが必要なので、質問の背景を考えることで大枠の回答とします。

足りない意思の疎通への努力

 「『ニュースとは、印刷して欲しくない何か、だれか、どこかのことで、その他は広告である』という言葉があるが、報道には常にそういう面がある。だから厳しい自戒が必要だ。」と神奈川新聞のコラム「照明灯」は書いている。
 学校側から指摘され、改めて考えればPTA広報などでの子どもの写真は気軽に使われすぎたのかもしれない。しかし、また子どもの情報の発信源の一つであるPTA広報は、子どもにかかわるメディアとしての立場や存在を十分意識するなら、写真は欠かせないものである。たった一枚の写真が、ときには世界さえ動かすのだから。子どもの安全のためのプライバシー保護についてPとTとが話し合っていくことが必要だと思う。学校からの一方的な通達では「学校は私たちを避けているとしか思えない」と保護者・少なくともここでの質問者は思ってしまう。


PTA広報が無くなるとき  

 PTA不要論が広報の講習会で出てきたこと自体は嬉しいことと思う。大変な広報委員ということで、会長さんは「できる範囲でいい」とする。これがその対応策では広報はドン詰まりになる。Pが教育や子育てについて発言できる公の場の一つが広報である。その手立てを捨てることはわが子を他人任せにしてしまうことになる。広報がなくなることはPTAが消滅すること―この認識をもつPTAでありたい。
 トマス・ジェファーソンの「私は政府があって新聞のない国より、政府が無くても新聞のある国に住みたい」という言葉は、PTA広報が存在しなければならない訳を説明する言葉にもなると思う。私の講座に出たK中学の広報委員長は、講座のあとで次のようなことを言った。「私たちの学校新聞に欠けているものは@自分たちの主張 Aみんなに必要だと思うことはイヤなことでも知らせるという姿勢。」 PTA広報は学校新聞に負けられない。


広報に立候補も増えている

 広報をやりたいという人が増え始めた。過去に広報委員を経験した杉浦さんからの『返ってきたエコー』を紹介したい。
 「もう終わったと思っていたPTAの委員がまた巡ってきました。幸か不幸か、広報でなく私にいちばん不似合いと思われる環境委員です。「好きか嫌いか」「合うか合わないか」で選ぶとしたら、私は当然広報です。多方面の活躍で忙しい年代なので、やはり時間を割かなければいけない広報は敬遠されています。でも広報の役割を知り、また作っているときの充実感や出来上がったときの喜びなどを体験した私としては「広報の方が良かった」と言いたいです。広報委員にならなかったから言っているのかもしれませんが」
 PTA広報講座の会場で「広報委員に立候補した人」と尋ねた。それぞれの会場で数名の手が挙がった。H小学校の委員長、副委員長は立候補だった。広報の意義、そしておもしろさを理解する人が少しずつ増えている。



          教育個人紙「ECHO」は月刊・B5判8ページ建てです。ご購読の問い合わせはE-mailでお願いします。

 エコー最新号 最新版 2014年 以降 はこちらへ
 エコー最新号 2010〜2013年 掲載分はこちらへ
 エコー最新号 2007〜2009年 掲載分はこちらへ
 エコー最新号 2004〜2006年 掲載分はこちらへ





〜 武勝美の教育個人紙 ECHO 〜