返ってきた  - ECHO -
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2006年12月1日更新

 言葉のシャワー

 244号を拝見。「言葉のシャワー」「ばあやのお話」を興味深く読ませて頂きました。このテーマは少子化問題にも示唆を与え、さらに、育児を経て幼児教育や公教育のあり方にも発展し、私達が真剣にしかも喫緊に考えなければならない課題だと思われます。
読み、書きが大切であり、そのための実践論としてNIEや新聞づくりの有用性が唱えられています。そしてその原点にあるのは会話。コミュニケーション不足に起因するトラブルが数多く伝わっています。「言葉」を使って意思の疎通を図ることがとても難しい世の中なのだと思います。
美しい国と美しい日本語を大切にしないといけませんね。各地で研究会や講習会の開催が続きます。またどこかでお目にかかり、沢山のご教示を頂ければ嬉しく思います。    野田 広明


 『言葉のシャワー』のお話は忘れていた大切なことを改めて考えるきっかけとなり、とてもありがたかったです。環境ばかり気にしていて、子どもとの会話をなおざりにしていたと反省しています。    臣子


 前夜7時から東公民館で『私が出会った言葉』で講演なさり、もう翌日に、出だしが「心にしみる講演をありがとうございました。」で始まるお手紙やメールが届いたなんて、先生のお話が如何ばかりかと嬉しくなります。何かの道に取り組んで、その道を極めた人しか残せない言葉で、会場のみなさんの心を奮わせたのでしょうか。
「言葉の力」とは、いったい何なのでしょうね。“心ありて言葉あり”“言葉ありて心通う”。ECHOの『動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない』が改めて迫ってくるようです。
 もう一つ16日の日記“玄米”にある、H中の規約改正のための臨時総会開催を知らせるPTA広報にも驚きました。規約改正の狙い「PTA活動の活性化を指名委員の増員で」をめぐって、賛否両論しっかり載せて会員に関心を持たせ、審議する内容を丁寧に報じているなんて素晴らしいです。    菅原 澄子  







2006年11月1日更新

 10月更新のこのページの「ペットボトルを持って《秦野詣で》をしなければ」の吉野恒夫(千葉)さんの後日談です。


 秦野探訪報告「一富士・二は島・三すすき」

 10月7日、八王子に出かけました。(娘のところ)目的は、好天気を見越して秦野探訪です。そして帰ってきたのが10月9日で、この3日間はパソコン同伴でした。
さて、秦野探訪報告。10月8日、八王子から秦野に出かけました。お誂えの晴天でした。眺望はと言えば、「一富士・二は島・三すすき」と、恍惚のひと時でした。うねうね車を走らせて、「ヤビツ峠」からの眺めです。又ここで念願の湧水を汲み上げました。
 市内遺跡、名所の探訪は、歩かなければ無理かと思い、富士山が雪化粧した頃あたりに、もう一度どうかなと思っています。又、絶好の日を選んでです。目下、秦野にはまっています。カメラを忘れてしまったのが残念でなりません。
 もっと早く武先生のHPを見ていたら7日の武先生のお話を聞きに行けたかも。
  10月10日     
                              吉野 恒夫

本当に秦野に来てくださったのですね。感激・深謝。



 子育ては学校と家庭の両輪で

 学級懇談会について、これだけ反応があったのはおもしろいです。PTA活動にかかわると、そうそう簡単に切れないぞという思いになられるのでしょう。 子育てを学校と家庭の両輪で行っていくという発想、大事にしていきたいし、大事にいってもらいたいです。どうも責任のなすり合いで、新総理の目には、この両輪のズレをっなごうとなされるのではなく、分断してしまって、家庭を立て直させる、学校を立て直させるという視点が両極端にあるように患えます。学校を外部評価させることで、学校間の競争をあおり、よりよい教育をめざすようにさせる。聞こえはいいですが、現場にいる教師はそれに乗って仕事をするでしょうか。管理職ばかりが先走って、不満ばかりがたまっていく職場になるような気がして仕方がありません。家庭教育にどうかかわっていこうとされるのか。子育ての相談機関を増やし、親としての姿勢をたださせるということでしょうか。まじめにそういう所へ行かれる親御さんは心配ないんです。仕事と称して、子どもを視野の外に置いてきてしまう親こそ心配なんです。    真佐美





2006年10月1日更新

 
 大会で三つの言葉を再確認しました

 先生から「大会で提案を」と依頼され、受けたのですが、不安で胃が痛くなり、6sもやせ(結果はうれしい!)ました。
 でも、先生をはじめみんなの温かいサポートで大会に臨むことができました。
 発表のための冊子を作ることで、西中のPTA広報の歴史に触れ、たくさんのことを学びました。PTSCA活動についても勉強することが多くありました。当日も一人で発表という感覚はなく、みんなと一緒という感じで心は安定していました。
 このような機会を与えてくださった関係者の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。『サプライズ』(武注・大会資料を作成したメンバー)のメンバーと共に生涯忘れることの出来ない思い出となりました。 
 それから、同じ提案者であった東京の石原さんとお友達になりました。大会終了後、わたしたち『サプライズ』のメンバーと石原さんとでランチをし「交流」しました。わたしの大事なお友達の一人に石原さんが加わりました。これも大会で得られた素晴らしいことです。
 「動かなければ出会えない」「語らなければ広がらない」「聴かなければ深まらない」という三つの言葉を、この大会に参加することで確認することができました。この言葉が大好きです。  吉村えみ子
 


 母親の楽しくがんばっている姿から、子どもは生きる喜びを感じとったはず

 『エコー』と共にお届けいただいた『大会速報』を拝読させていただき、ありがとうございました。《熱い夏》の新聞大会の成功、本当におめでとうございます。そしてご苦労様でした。
 18名のお母さん方の力、すごいですね。笠井さんがおっしゃるように、ご家族のバックアップあってこそ、です。お子さんにとっては夕食のおかずが一品少なくても、お母さんが楽しくがんばっている姿から、きっと生きる喜びを感じとったことでしょう。
 歳を重ねるにつれ、感動するチャンスが少なくなるのは仕方のないことですが、自分から動くことでたくさんの感動を得ることができるということを速報のお母さん方から学びました。 
 8月上旬、孫に私の生まれ育ったふるさとを見せたく、二人だけで里帰りをしてきました。生活様式が全く異なる所で一週間を過ごしました。その生活についての彼の感想は、「いがったなー」でした。   初野クニ子



 速報部の皆さん 楽しそうでしたね

 『エコー』読みました。ホテルが満室になったことで「秦野に経済的効果をもたらしたかも」というところ、クスっと笑えました。今、大勢の人で一つの目標を持って何かをすることが少ない私には、速報作りをされた皆さんが楽しそうに思えました。自分も何かそういうものを探せば見つかるだろうし、選ぶのも私なのですが、実際には楽しいだけではないだろうと思うと、ためらってしまいます。自分の好きなことを行動に移すことができることを、少しうらやましく思いました。  悠



 大会を通じて新しい交流が

 『エコー』を拝読しながら夏の感動の一コマ一コマを思い浮かべています。素晴らしい全国大会でした。小学校NIEの発表者、北海道のI先生から「はがき新聞」を指導してみたいとのお話。資料をお送りし交流しています。今、子供たちは二回目の、敬老の日の「はがき新聞」に取り組んでいて、送られてきた作品を手直ししてあげています。すべて秦野大会から生まれた宝です。ありがとうございました。     野手美和子



 名実共に新聞のまち秦野

 『広報はだの』『ECHO』最新号をお送りいただきありがとうございました。今回の資料を拝見して、舞台裏側のドタバタと同時に、会場でほとばしっていた熱意のようなものを感じさせられました。「お疲れ様でした、市広報まで“ジャック”して、名実共に新聞のまちとして、太鼓判を押されたのだと思います。暑い中、みなさんの思いが実ったと感じます。  本橋 和夫



 ペットボトルを持って《秦野詣で》をしなければ

 全国新聞教育研究大会速報を送っていただきました。速報には驚きました。ここまで力があるとは…。武先生のもと、お母さん記者の熱意に敬服いたしました。なんと言っても秦野ですね。「秦野を知らずして、新聞教育を語ることなかれ」ということになります。それに加えて《名水》、一度は「秦野詣で」をしなくてはと思います。その際は、ペットボトルを1ダースもっていきます。中身は空っぽでですが帰りは湧水を満タンにしてきます。ついでに「大山参り」もできれば。    吉野 恒夫


 
秦野だからこそ出来た速報

 全新研の秦野大会のご成功おめでとうございました。それにしても母親中心の編集委員で、2日で4回発行したことに驚きました。30数年間、学校新聞での実力を育ててきた秦野だからこそ出来たものと思います。浦田さんの「四季つれづれ」も、短い中に適切に秦野を紹介していてよかったです。さすが浦田さん、という感じがしました。      初野 正博


 
 《エコー》で苦労が報われた感じ

 今日は一日中、幼稚園の50周年記念式典実行委員会に出ていました。その場で、『エコー』を読んだという山崎さんに「全国大会大変だったんだねー。あなたの文から、大変さがすごくリアルに伝わってきたわ。そんな中こちらと掛け持ちしてたんだねー」と声をかけていただきました。苦労が報われたようなとても嬉しい気持ちでした。《エコー》が返るって、なんだか気恥ずかしいけれど幸せです。   後藤 珠実





2006年9月1日更新



秦野大会に参加して


 早速「手引き」作りを始めました

 
 会場でお声をかけていただき、うれしかったです。ありがとうございました。帰りのロマンスカー、残5席のところで何とか予約がとれ快適に帰りました。
 まずスゴイと思ったことは速報です。これぞ新聞と思いました。第3号を読んで交流会に出なかったことをどれだけ後悔したことか‥。
 先生の講座は、とても分かりやすかったです。また、私の新聞作りのメモがいっぱい増えました。「進路報告」掲載のお話の件。以前先生から「どうして高校進学者しか載せないのか?」と聞かれたのに、お答えしてなかったことを思い出しました。
H中は毎年全員掲載していたのですが、去年一人の広報委員が「自分の子どもが高校受験に失敗して、未定と書かれたのがとっても辛かった。高校が決まった子だけ掲載して欲しい」と話され、押し切られた形で高校進学者のみの掲載になりました。この記事を読んだ子どもたちから、「就職したA君や、まだ決まっていないC君は載らないの」との声がありました。武先生の話を聴き、私もそう思いますので、次年度に申し送りをします。
 仕事の休みがもらえ、2日目も出席でき本当に良かったです。見出しやキャプションなど技術面でも悩んでいるのですが、広報委員長を引き受けた当初から「次につなげる活動を行うこと」が最大の悩みでした。
 佐古小・杉本様の「文章は書かなくていいから、先ず取材に行ってみて」と取材に出てもらい、取材の楽しさや取材から得られる感動を自分の物にしてもらい、広報活動に入ってもらうと言う話。八鹿小・守本様の次につなげるために手引きを作った話。亀戸第三中・石原様の自然体で楽しんでやることの話など、役に立つ話がたくさん聞くことができました。早速できることから始めようと「手引き」作りを始めました。PC使える人がいるといないとでは活動に大きな差ができることも改めてわかりました。PCを使える広報委員がいない時の対応も考えながら、手引きを作っていこうと思っています。
 帰りに、会場の外のベンチでロマンスカーの時刻表を見ていたら、隣のベンチで、たぶん小学校のP広報委員会だと思いますが、編集会議をしていて「さっきの話にあたようにやればいいんじゃないの」「それはこれでイイということね」などと、レイアウト用紙らしきものを囲んで、会場に負けない熱のこもった会議を聴くこともできました。参加していた皆さんの熱気に圧倒されつつ、新聞ってすごい、広報委員は楽しい、と改めて思いました。   真貴



 人の心が温かいまち秦野

 秦野は初めてでしたが、あまりにも風土が、桐生市に似ているのに驚きました。まず空気がうまい、水がうまい、従って御蕎麦や饂飩がうまい。なにより人の心が温かい。タクシーに乗ってみて分かりました。
 運転士さんの話(かなか楽しい人でした)。排気ガスで丹沢のブナ、モミがピンチとのこと。帰りは秦野でなく渋沢行きに乗るほうが料金が安いと教えてくれた。 水無川と弘法大師の杖の話。護摩屋敷の湧水は是非行ってみたいところ、とのこと。
 丹沢の山を目の前にして登れないのがどうにも悔しい。せめて植物の本でもないかなと、武先生にお聞きすると『秦野の植物』があるからと、米山和久先生にお願いしてくださった。開会15分前なのに、米山先生はわざわざ研究所まで取りにいってくださった。感激!。しかも「お土産に」と頂いてしまった。武先生、米山先生ほんとうにありがとうございました。  清水シズヨ



『湧水』を読んで


  活力溢れる速報『湧水』

 大会前から期待していたのは「秦野の速報」。次号が待ち遠しくなるほど活力に溢れた速報『湧水』でした。涼しげな題字『湧水』は、秦野ならではの天然の水がめ。こんこんと湧き出し尽きない自然の恵みと、限りなく発展していく新聞教育が重なって、心に深く刻まれました。
「言葉の力を育む新聞教育」のねらいに適っている題字の付け方に感心しています。編集のねらいもしっかりとして、わかりやすい紙面になっています。ゆっくり読んでみると、秦野ならではの自然と文化、そして新聞教育の奥深さに出会える速報であることがわかります。お母さん記者18名、先生2名、パソコン入力は渋沢中の生徒さん。皆さん、ひたすら前向きにご奉仕なさったことに心から感謝しています。      Sugawara



  きっと子供に引き継がれる母親たちの新聞活動

 「湧水」4号の速報、これはなかなか出来ることではありません。PTAの方々がインタビューをして、即発行という連携プレーの手際のよさ、しかも、要点を捕らえたインタビューのまとめ方、記念講演で玉木研二氏が「記事は足をつかって、誠意をもって人に対すること、正確に早く伝えることの工夫が大切」と言われた言葉が浮かびます。こうしたお母さん方の活動は、今後、子供たちにきっと引き継がれていくことでしょう。先生が三十三年間温めてこられた思いが「花開いた!」そんな感じをうけました。うまく言葉では言い尽くせませんが、実りある大会でした。これをバネにしてますますの発展を期待しています。感動を有り難うございました。      Shimizu



 


2006年8月1日更新



 P広報委員もジャーナリストであるべきです

 ECHO241号をお送り頂きましてありがとうございました。にっきの木「学級懇談会」での雑感です。
 子どもを巻き込んだ殺伐とした事件や事故が続発し、原因が学校にあるかのように報道するマスコミが数多く見られます。また、一部ジャーナリストや有識者と呼ばれる人々の中から、「家庭に問題あり」という発言も出てくるようになりました。
 子どもたちが生きる未来を、心豊かな社会にしていくには、学校と家庭がその課題を明らかにして、大人が知恵を出し合い、より良い教育環境を築き上げていくことが肝要です。 
 現代の子どもたちは、学校での顔と家庭での顔を上手に使い分ける術を知っているようです。また反面使い分けのできない子どもが出てきていることも事実であり、いずれも大きな社会問題になりつつあります。B校の先生は、学校での一面から家庭生活を推測されたようですが、保護者の目で見た学校も推測できるはずですので、両者が心を開いて真摯に意見交換すれば、理想的でとても良い教育環境がつくれるのではないでしょうか。
 「学級懇談会」は、子どもをテーマとした情報交換の場ですし、また、「懇談会を問う」紙面づくりは時機を得た、とても必要なことだと思いますし、「広報誌」が必要だと言われる所以なのではないでしょうか。
 ジャーナリストとは事実を正確に伝える人のこと。広報委員も学校と地域のジャーナリストであるべきです。様々な戸惑いや軋轢を受けながらの活動になるのかもしれませんが、改めて広報委員の皆さんには頑張って頂きたいと思った次第です。
 いよいよ秦野大会が目前に迫り、関係する皆さんは諸準備で大忙しの毎日を過ごされていることでしょう。また講師を担当される先生方は、大きな足跡を残されている方ばかりですので、とても有意義な全国大会になることと思います。参加される方々は、たくさんのお土産を持ち帰ることになりそうですね。心より大盛会をお祈りいたします。   野田広明




 親と教師が一緒に学び合う横会があればいい

  『エコー』241号、拝読いたしました。
 「学級懇談会はPTA活動の原点」。なぜ、この先生はそんな手段で話をされたのでしょうか。何歳ぐらいの先生なのでしょうか。学疲対PTAという色合いを強く感じられるできごとです。かつて私に「オマエはどっちの味方なんだ」と問い詰めてきた校長がいましたが、その人でさえ、PTAの前では借りてきた猫状態でそんなことはおクビにも出しませんでした。
 子どもを育てるということでは、親も教師も同じはずなんですが、親は親でわが子を人質にされたような思いで、自由に語ることもできず、教師は親から何を言われるかとビクビク、戦々恐々として本音を語らない。歩み寄りきれない壁があります。
 親と教師が一緒に学び合う横会があればいいのかもしれません。組合の地区懇談会は有意義な感じを受けるときがあります。第三者の講師を招いて話をしてもらい、それについてお互いに意見を交換し合う。本音がポロリと出たりして、大変勉強になったります。ただ怖いのは、そんな席で本音をポロリとしゃべられた親御さんが家に帰ってからお子さんから、なんでそんなこと言ったんだと責められることもあると聞きます。そのあたりが難しいですね。
 「やっぱり学校の雰囲気って好きだな!」 林先生の教え子かな、Mayuさん。元気で明るいですからね。小学校でも中学校でもいい実習ができることでしょう。
 内藤先生の手厳しい指摘。作文教育の課題が如実に現れています。表現することを学ぶことの大切さ。「楽しかった」という言葉をもっとふくらませてあげられたら、その子の力も増したことでしょう。授業中の生徒とのやりとりは、そこが肝心だと思っています。生徒の言葉をいかにふくらませてあげられるか。 新聞教育全国大会のご成功をお祈り申し上げます。      masami




 学級懇談会は自分のことを知ってもらう好機

 学校現場を離れている今の私にとって、『エコー』は貴重な情報源です。
 「にっきの木NO85」のB小のPTA広報委員の取り組み、学校にとって力強い応援だったと思います。学級懇談会はPTA活動の原点であり、担任にとって自分のことを知っていただく(もちろん学校の活動・教育方針も)大切な機会です。自分の目指す授業を、子どもの具体的な姿を通して語り、教室で見せてくれる子ども一人ひとりのよさ、輝きをお伝えし、学校と家庭とが、一人の子どもを成長させる両輪となって機能していくためにどういう役割を果たしていけるのかを共通理解する場と考えています。
 そのことを通して、保護者と子どもの担任という立場から、一人の人間として向き合い語り合い、お互いの心を寄り添わせていける関係にまでなれたら、お互いの人生の財産が又一つ増えたように思えます。学級懇談会に一人でも多くの保護者に出席していただきたいと思います。
 担任にとっても、保護者の皆さんのご理解を得られる貴重な機会が懇談会であるはずなのに、全く違う考え方の先生がいらっしゃる。もしこれが事実なら、なおさら学級懇談会は大きな意味をもってくるのではないでしょうか。
 「学校を開く」とは「学級を開く」ことです。もしかしたらお互いに誤解があるのかもしれません。子どものことを話題にしながら、教師も保護者も共に希望を語り合えるときがその学級に訪れることを願ってやみません。    Emy




 8月3日4日 楽しみにしています

 全国大会を控えて大変な日々でしょうに、8日の日記『前期最後の広報講座』によると、この日の講座が、今年の前期の私の新聞作り講座。印象的な締めくくりができた。前期の講座の数は19回。後期は8月3日の全国大会の「PTA広報講座」でスタートする。》に驚いています。 そんな状況の中で今月のHPの更新やECHO241号お送り頂き誠に有難うございます。
 ECHO241号の中に秦野大会の案内状を入れて下さったのは効果的です。そして日程の面の真ん中に「丹沢と名水と新聞づくりの秦野へお越し下さい。」と書いてあり、その部分にグリーンの蛍光ペンで色を添えてくださったお心遣いが和めます。
 参加人数のご心配如何ばかりかと拝察してますが、秦野大会・速報はA3判2ページで4号まで発行される、その活力ぶりに驚いて、参加数にかかわらずこれは素晴らしい記念になる大会だと喜んでいます。「生涯一度のこと。千載一遇の好機」と受け止めて下さる前向きな保護者の方々のお心嬉しいですね。
 曇ったり照ったり降ったりですが暑くなりました。お体を大切になさってください。8月3日4日、楽しみにしています。    Ssuga





 

2006年7月1日更新



 池田裕子さんのこと

 一報道する側の倫理観。「倫理観」という言葉自体、今の世の中、見落とされている言葉のように思います。倫理などどこ吹く風0自分の利益になることに対しては目の色をかえて飛び付く人が、いざ自分に無益なこととなると遠ざかってしまう。自分の利擬を利用して、懐を増やす人は数多くいます。ジャーナリズムも倫理を横に置いて、いかに人の目につくかばかりを追い求め、そこで傷つき倒れていく人がいたとしても無視してしまう。怖いです。

 倫理観の裏側には宗教観があることも見逃せません。「いただきます」という言葉も元は宗教。生命の尊重から生まれてきた言葉です。「ごちそうさまでした」は「御馳走様でした」で、はるばる食材を集めていただき、こんなおいしいものを食べさせてもらったことに対する感謝の気持ちです。そういう心の部分を無視して、現象ばかり見ているからおかしなことになります。保護者の世代が変わって、物の見方が変わってきている気がします。

「細い道でも復活すれば」
 今年も中学校の社会科資料集の改訂作業を行います。前回、矢倉沢往還の道筋を書き直して、初めてそれを知ることができました。今回の作業でも新しい発見がありそうです。古のことを知ることはロマンを感じます。昔の人の息遣いが聞こえてきます。時には牛が、時には馬が、そこを通り過ぎていった。歴史を知ることは同じ場所に立つことで昔の人と気持ちを通じ合わせることができる一体感につながるような気がします。昔は、畑や田圃や林におおわれていた西地区のことを思い浮かべ、慌ただしく過ぎ去る毎日の中でふと足を止める機会になります。「弘法山から望む富士山=まあまりにも建物が目に入り、その雄大さよりも街の雑踏の方が気になってしまいます。やはり伊勢原方面から善波トンネルをぬけて広がって見ぇてくる富士山の方がきれいです。私はそちらに1票を加えたいと思います。本当は、金目地区の田圃の中をつつきっている舗装道路を平塚から大根地区方面に向かい、東海大学の建物が見えてくるようになった頃の富士山はきれいです。山裾まで見えて、女性的でスラーツとした感じがします。道路を走っていると、真正面に富士山があるところが多くあり、恐らく昔の人も、富士山を目印にしながら目的地に向かう道をつくっていったんだろうなと思います。

「今日生きるよろこび」
 授業中に言うことをきかない生徒がいて、コンコンと指導していると、近くにいた女子生徒が、見るに見かねてか「先生、幸せ?」という質問をしてきました。この4月から復職して、ビシャツとした指導、血圧の上がるような指導ができず、コンコンと話を掛け理解を求めるような話しっぷりしかできず、まあ周りから見れば、もっと強く言えばいいのにと思うのかもしれないけれど、やらなくなってしまいました。「先生、幸せ?」という質問に対しては何も答えませんでしたが、考えてみれば、山を眺めながら何するともなく過ごしていた日々のことを考えれば、なかなかわかってくれない、態度を改めようとしない生徒の前にいることことはある意味で幸せなのかもしないなと思いました。山を眺めていた頃の自分にはこんなことはできなかった、確かに。
    Masami



 
秦野大会 ぜひ参加しよう

 デスクトップにあるECHOをクリックすると、“大きな古時計”の明るく軽やかなメロディーに乗って、今月の一枚「アジサイ・箱根登山鉄道」と出てきたので、ああ6月号だ!と喜びました。トンネルと電車のヘッドライト、線路の両脇の白やブルーの爽やかなアジサイに、もう元気が沸いてリズムに合わせて大きく手を振ってしばらく足踏みしました。そして下に「紫陽花の花に日の経る湯治かな 高浜虚子」とあり、「日の経る」の鋭い描写に浸りながら箱根や湯河原の湯煙が漂ってきて、また行ってみたくなりました。
 そうだ今年は秦野大会だ。「秦野の新聞教育」のページを開くと赤の大きなポップ体で《この夏 秦野は新聞で熱くなる》そして下に“第49回全国新聞教育研究大会・秦野大会 平成18年8月3・4日 秦野市文化会館”と青色であり、地元の熱気が伺われます。トップページのスイッチバックでズンズン登っていく鉄道沿いに紫陽花がいっぱいの箱根登山鉄道と両々相俟って、ぜひ参加しようという気分にさせられ素晴らしいHPになってることに感心しました。
 また、「あなたからのエコー」のところのトップにKさんの謙虚で明るい言葉があるのも嬉しくなりました。新聞教育に関して研鑽を積み実践を重んじる彼女が「頂いた機会を生かし、自分にできる新聞教育(活用やつくり)を深めていきたいと思っています。先ずは新任地での学級新聞づくりでしょうか」とあるのに心洗われます。
 今日は朝から夕方まで高校の時の同級生同士でニュージーランド、大阪、横浜、市川とメール、FAX等で交信が始まり面白かったけど疲れました。偶然重なって入ってきてこんなことは珍しいのですが。
 昨日は山形へ行くのも近づいたので、夕方自転車で市川駅まで切符買いに走りました。途中家々の軒先にホタルブクロ、ドクダミ、花ショウブ、柏葉アジサイ、矢車草等々、綺麗に花開き心引かれました。そうだ折角だからと「芳澤ガーデンギャラリー」に寄り「林 功」(日本画)個展を観て和みました。題名の付け方も巧いし情感が溢れています。秋韻、雨聲、懐風、雪韻、秋信…漢詩の素養が土台にある方ですね。お陰であれこれ渦巻くストレスもだいぶ癒されました。ここを出て駅へ急ぎましたが窓口は空いていて、親切にお得な切符(庄内往復切符)を教えてくれたので、喜んでO先生と二人分買い、気持ちよく真間川沿いを走りました。  Sumiko



 

 がんばる子どもの瞳はパワフル
 
 240号拝読いたしました。一緒に新聞作りをした新卒二年目、三年目の先生から「また、子ども達に新聞を作らせたいです。あんなに集中して取り組む子どもたちに出会ったのは初めてです」と言われ、うれしい日々です。
 1、 2年生はB5サイズ、クレヨン、色鉛筆、写真付きの新聞づくり。一生懸命、そして夢中です。一人ひとりお手伝いしながら、一人ひとりとお話しする、子どもの顔に私の顔をくっつけて…、ステキなオーラが漂います。がんばる子どもの瞳はパワフル。そのパワーをもらいます。      美和子






2006年6月5日更新



 先ずは新任地で学級新聞づくり

 遠くまで来ていただきありがとうございました。前夜祭・・・これまでに度々ご一緒したことのある方々ですが、柏で揃ったことがまた新鮮で、話題・内容も充実し、楽しく過すことができました。あれこれ考えていたのですが、人数もメンバーもいい感じだったのではと自己満足に浸っています。これも先生が柏においでくださったから実現したもので、機会を作ってくださった先生に感謝です。
 講習会 またまたたくさんの勉強をさせていただきました。層が若くなり学んだことを即実行するセンスを持っているので、先生から学んだことが生かされていることを実感しました。どの地域の方々も同じかと思いますが、柏のP連の役員さんたちの繋がり(現役もOBも)の深さと意欲を改めて感じました。私も参加させていただき、側面から見ることができたからだと思います。
 帰り際に駅に向かう交差点で、柏5小の保護者達(自転車部隊)と交わした会話が印象的でした。柏のPTA広報員は幸せ者だなあとつくづく感じました。年度末の「クリニック」が楽しみです。
 NIE(新聞活用と新聞づくり)についてもっともっと勉強したいと思っています。先日、全国高校NIE研究会にお邪魔しましたが,そこでもたくさんの学びを得ました。頂いた機会を生かし、自分にできる新聞教育(活用やつくり)を深めて生きたいと思っています。先ずは新任地での学級新聞づくりでしょうか。無の地域へのきっかけになればと思っています。校内で子供たちに新聞づくりの楽しさ、おもしろさを広めることから始めようと考えています。     Keika





広報を作ったこの一年の充実感・満足感
                                 木村 俊子

 私たちの広報活動は、文集『つくし』の作成から始まりました。用紙選びから原稿回収など、なんとか発行にたどりついたら、もう五月は終わりでした。委員長として、当初一番とまどったのは「指示すること・委員のみんなの仕事を割りふる」ということです。そんな立場になったのは初めてで、遠慮して仕事をひとりで抱え込みがちでした。けれど作業は山のようです。それで、やるべき作業内容を紙に書上げ、期限を決め、みんなで分担し、後はお任せ、という方法にしました。そうすると、自然に委員間でコピーのこつや切り貼りの方法など教えあったりして、効率よく仕事が回るようになりました。この方法での『つくし』作成のお陰で、後の広報活動もうまくこなせたように思います。
 今年の広報は、毎月の園行事の中で見学できないものを選び、写真に撮って園内に貼りだしました。その写真撮影ですが、最初は邪魔にならないように、ということで遠い写真ばかりでしたが、プリントしてみると《イマイチ》です。「もっと良い写真を」と思う気持ちが強くなり、「広報の腕章が欲しいよね」というくらい、記者になりきった委員たちでした。
 この毎月の仕事が軌道に乗ったころ、『運動会ガイド』の企画を検討し始めました。話していたときは簡単だったのですが、実際にフオーマットづくりにとり掛かると大変でした。とにかく簡単に、来年も続けてもらえるようにと思い、形を作りました。
 その後からは記者たちが大活躍。「そうそう、ここが知りたかったんだよね」とか「ここはお楽しみだから内緒」というように、とても内容は充実したものができました。予想以上のできで、運動会当日、ほとんどの保護者がガイドを手にしていました。「みんな読んでたよね」、「役に立った、といわれた」などと委員のみんなは大感激でした。その後、園からの依頼され『発表会ガイド』も作成しました。このガイドも大好評でした。
 私にとって何よりうれしかったのは、委員が「広報やって楽しかったよ」と言ってくれたことでした。委員長を引き受けたとき、「どうせやるのなら、楽しくやりたい」と思っていたので、それを少しは実現できたのかなと思っています。
 こうして思い返すと、やり残したこともあり、後悔もあるのですが、それらを吹き飛ばすくらいの満足感、充実感を味わうことができました。こんな一年が、生涯に一度くらいあってもいいよね、というのが今の心境です。


               
 


 コンクールに入賞 実感が湧かない

 慌ただしい連休が終わり、気がつけば運動会まで一ヵ月となってしまいました。先ほど学校から連絡があり、17年度県PTA協議会広報紙コンクールで奨励賞に入賞しました、とのことです。…喜んでいいんでしょうか…実感が湧かないんです。武先生に指摘されたところや、自分でももっとこうしたかった、こうすればよかったと欠点が目についたり悔いが残ったり…。しかも次年度が始まって、今度はこうしようと頭が切り替わっていたところなので、「え?あれでいいの?」…贅沢でしょうか…(笑)。だけど全国までの道程は遠いですね! 6月9日が表彰式だそうです。前副委員長さんと行く予定です。   Miki




 
 
自分たちが選んだ広報が県で入選

 我が家の庭には稲の苗床が緑のジュ−タンのように並んでいます。いよいよ田植えの時期になって来ました。
 先ほどメ−ルが届き、17年度広報紙コンク−ルの審査結果の報告がありました。先生が一押しだったI小が奨励賞に入選しました。伊勢原の広報紙活動が益々活発になることと思います。自分たちが選んだ広報が県で入選となり感無量です。とりあえずお礼が言いたくてメ−ルしました。ありがとうございました。市P連総会が終わり、母親委員長も解任、ホッとしています。   Yokoya





 新物の桜海老です

 あしがらの山々の若葉がきらめく頃となりました。いかがおすごしでしょうか。先月4月21日、先生の講座に伺えなくて残念でした。あいにく勤務となってしまいました。
 エコーも毎月楽しみにしています。学校でおきていること、暮らしのことなど身近でありながら、深い問題提起がなされ、はっとさせられます。編集作業から発行まで大変だろうなと思いながら、ぜひ続けて欲しいと願っています。生涯学習でよく言われる「グローバルに考えてローカルに活動する」ということなのだと思っています。故郷の新物・桜海老をお届けいたします。    Kiguchi







2006年5月1日更新

 いつか、また広報づくりを

 ご無沙汰しております。4年前になりますが、PTA広報でご指導いただいたMです。『市民が作る広報はだの』やPTA広報の指導などで先生のご活躍を見聞きするたびに、先生からご指導いただき、自分達なりに考え、悪戦苦闘しながら広報誌を作成したことを、懐かしく思い出しています。
 自分達の年度が終了したとき、「PTAの役員をするなら、また一緒に広報をやろうね」と話しました。そのときのメンバーが、前前年度、前年度の広報委員として3人もその約束を実現してくれました。とても嬉しかったです。『広報H・K』が、このごろ素晴らしくなったと思うのは身びいきでしょうか?(笑)
 私の方はと言うと、昨年末に次女を出産し、久しぶりに《赤ちゃん育児》を楽しむ身となり、PTA活動は休眠状態です。でも、子どもが持ち帰る広報誌を手にするたびに「いつか、また私も」と思っています。
 『ECHO』毎回楽しみに読ませていただいています。今、ふと読み返してみましたら、『ピアノは知っている月光の夏』という絵本の投書が載っていました。読み返してみましたら、私が勤務していた会社の方の奥様からの投書でした。とても不思議な気持ちになりました。これも『ECHO』のご縁でしょうか? 嬉しいことでした。それにしても《世間》とは狭いものですね。   M・H



 早速 学級新聞づくりを始めました

 おかげさまで、無事に3年間の校外研修を終え、中学校に戻って参りました。学校から離れていたことがうそのように、初日から猛烈に働かされています(笑)。2年の学級担任としてようやくクラスの雰囲気が見えてきたのと、久々に英語を教えることの新鮮さが感じられるこの頃です。さっそく班の仕事として学級新聞を作ってもらいました。周りのクラスで新聞を作っている様子はまだありません。学級目標が「マイペース」と決まったように、自分のペースでいいものをまた広げていきたいと思います。今後もご指導り程、よろしくお願いします。     Whale



 広報に積極的に関わろうとする人が目の前にいる!

3年前に初めてお話を聞いた時は、山の麓で遥か遠い頂上の話を聞いているようでした。自分が足を踏み入れて良いのかしら? と不安さえ感じていました。それから、少しでも上へ上へと、頂を仰ぎながら道を探して、一歩ずつ登っていたような気がします。今日の講習会では、先生のお話がとても良く分かりました。山の中腹の林の中にいて、「あの森の向こうにはきれいな湖があるよ」とか、「あの尾根の向こうには花畑が広がっているよ」と教えられているようでした。どのコースをとろうか、それとも未だ見つかっていない秘密の場所を探しに行こうか…(迷子になるかも)。そして、下のほうから登ってくる人、近くを歩いている人がワサワサいるのを感じました。以前は自分が登ることに夢中で、周囲を見回す余裕がなかったのですね。上を向いて一生懸命登ろうとしている人たちのひた向きさを眩しく感じました。
 3年前も先生は(恒例の)「自分から広報に立候補した人」と尋ねられました。私は、「頼まれて引き受けたけど、一応納得してやる気になってるし、立候補になるのかな?」と悩んでいました。また、「広報に立候補したなんて、大っぴらに言うほど自信家でも恥知らずでもないし」とも思っていました。そんなに明確に思っていたわけではありませんが、漠然と「広報に立候補したなんて言うもんじゃない」と感じていました。しかし、私の少し前の席の方が、スッと手をあげたのです。驚きでした。「人前でハッキリ立候補したと言える人がいる。あの挙げ方は、本当に立候補したんだ。」
 今日、私は、その方が私に与えたのと同じ影響を周りの人に与えたいと思いながら、手を挙げました。広報に積極的に関わろうとしている人が目の前にいるという事実は、先生のお話以上に(失礼)説得力のあるものだと思います。少なくとも私にとってはそうでした。賞を取った素晴らしい(特別な)方の話ではなく、ごく身近な存在として勇気を与えてくれました。私の席がもう少し前ならもっと多くの方に感じてもらえたかも。(ちょっと自信過剰? でも私がそうだったから…。)
 今日久しぶりに先生を拝見して、お若くなったように感じました。「精悍」の言葉が思い浮かびました。全国大会に向けて、気が乗っているからでしょうか。締まった印象を受けました。(体形も?) 当方も、5月中には第1号を発行します。乞うご期待。    Reika



 日記から楽しい声が聞こえてくるようです

 昼過ぎまで晴れてたのに今急にどしゃ降りでまた寒くなりました。日増しに伸びる藤の花房や透き通るようなハナミズキの色合いに、行く春を思う今日この頃です。秦野の里ではこれまで育ててこられた新聞活動が各所に花開き、活気に満ちた明るい日々を過されていますね。HPの日記から楽しい声が聞こえてくるようです。次の場面を思い浮かべると爆笑です。
 《自治会の集金で訪ねた折「PTAの委員をやるなら広報をやっちゃいな。面白いよ」と勧めた。一緒にいた姑さんも「そう、やっちゃいな。先生がそばにいるから。私もやったよ」と援軍。姑さんといっても50歳をちょっと出ただけ。》と。流石ですね。本当に新聞活動が秦野の大地にしっかり根づいたことが実感させられ嬉しくなります。そして『わが家の「向こう三軒両隣り」に二人の広報委員がいるのだから』にも、あっと驚きました。全国見回してもこんな関係を作り上げた人はいるのでしょうか。
 もう一つ嬉しいのは、2年前、荒川区PTA広報研修会で「PTA広報に広告を載せたいが」という質問をされた方から武先生にお手紙が届いたことです。そこには《広報誌を説得材料にし『PTAを変える』ということを教えていただいたことに感謝しています。これからも地域や市民活動で広報誌を作っていこうと思います。PTAでは高校でも広報委員を受けましので、もう少し楽しむつもりです」》とあります。学校の良さをPTA広報を通して荒川全区の人たちに知ってもらおうと努力なさったその躍動感が漲っています。若さと光るものがありますね。   4/29 Sugawara







2006年4月1日更新

王ジャパンの優勝と私の広報づくり

 野球世界一を決めるWBCでは日本がみごと優勝し、一夜あけてもニュースやワイドショーでは、王ジャパンの話題で持ちきりでした。そのTVを見ていたら、多くの選手が「このチームでやってきてよかった。今日で終わりは寂しい」と感想をもらし、イチロー選手も「こんなに同じ目的で心が1つになれたチームはない」「最低の酒を飲み最大の屈辱を受けたが、最後に最高の酒が飲めた。」と喜ぶのを見て、私が経験した広報作りと似ているなと思いました。
 1年前に広報を作るという目的のもと、見ず知らずの者同士が集まりました。はじめは広報のことは何も分からず、また、みんなをまとめられるのかも不安でいっぱいでした。しかし、多くの失敗・苦難を乗り越えながら、協力し合って、1年間広報を発行し、(しかも賞まで頂けて)その任務を終えた今、賞の喜びや安堵とともに寂しさも感じています。また、以前、一年を振り返ってでも書きましたが、毎回、そんな苦労して出来上がった広報を見ると、なんとも言えない充実感がわいてきます。一生懸命に取り組んだから、形になった喜びは、大げさかもしれませんが、今回優勝した選手達の喜びと似ている様な気がします。(もしかしたら、今回私たちも賞を取ったから余計に感じるのかもしれませんが)
 なかなか、広報委員のなり手のない中、嫌々ながら1年過ごすのと、一人一人の気持ち次第では誰でも、今回の感動にも似た感動を味わえるのではないかと思っています。何でもそうですが、要するに気持ちが大切なのですよね。私も常に前向きに取り組んできたわけではありません。時にはモチベーションが下がったり、苦悩したりしました。でもそんな時は仲間が支えてくれたからこそ、やってこられました。武先生がおっしゃっていた「新聞作りは仲間づくり」もこんな意味なのだろうなと思います。
 ぜひ、先生には、今後もこの喜びを伝えて欲しいと思いますし、もちろん、私もこのかけがえのない経験を大切にして、これからも頑張りたいと思っています。  Ichino




『せせらぎ』最終号との出会い

 3月18日〜22日 岩手県一関市大東町猿沢に滞在。19日に夫が地元の興田小学校の閉校式に招かれたからです。
 彼は昭和20年代に3年間興田小に勤務していました。式典のあとのお別れ会も終え、教え子(当時小学2年生)だったという方に車で送られ、戻ってきた時は夜になってました。その方にも家に上がってもらい、近所の人も来てたのでまたどっと盛り上がりました。
 そんな中、頂いてきた記念品の袋を開けると、中から「第25号(最終号)興田小学校PTA広報『せせらぎ』が出てきました。B4で四面。一面のトップ見出しに「ありがとう興田小学校」「132年の歴史に今、幕を閉じる」とあり感慨深いものがあります。そして下の方に「昭和二十年代、北部支会(陸上記録会)」の写真が載っています。白いハチマキ姿の可愛い子どもたち25名と後ろに大人が13名います。その中に詰め襟学生服姿の夫が映っているのです。17〜18歳位のころでしょうか。それを見て、みんな驚き爆笑です。それから「けんぱたん、タガまわす、バクハツ、バッタ、…」、当時の遊びや服装の話しで盛り上がり、どぶろくの密かな運び方にも笑ってしまいました。
 そう言えば『せせらぎ』あの時の…、と思い出し驚きました。平成12年 第50回全国小・中学校・PTA新聞コンクール(毎日新聞社・全新研主催)で、興田小学校PTA広報『せせらぎ』(9号)が審査委員会賞を受賞したことが浮かび上がったのです。入賞作品集を毎日新聞社で発行した時に、たまたまPTA新聞の講評の担当だったので『せせらぎ』には親近感を覚えていました。その紙面から、菊池徳夫先生のご指導の様子が伺え有り難く拝読しました。
 このたびの『せせらぎ』最終号の4面にO.Bの方々からのコメントがあり、それにまた心打たれました。そこには 「ご指導いただいた菊池徳夫先生は、『新聞とは学校行事を追いかけるのではなく、親の目線で課題を見つけ、考えや意見を言ってもらうもの』と話されました。」と書いてあったからです。
 児童数減少で、歴史に幕を閉じた学校が岩手県内で12小学校あり、そのうちの5校は一関市大東町の小学校です。興田小、天狗田小、中川小、京津畑小、丑石小の5校が17年度末で閉校し、5校を統合した新生「興田小」で4月8日に開校式があります。輝く新校舎が皆さんを待ってるようです。 Sugawara







2006年3月1日更新

「ふるさと」は、土地でも、人でも、好きな食べ物でもいい
                                     嶋田 真貴

 「わたしのふるさと」という題を頂いたとき、子どもの頃におたまじゃくしのうようよいる小さな池で遊んだことや、トカゲの尻尾を切って集めていた四国の自然の情景を書けば、すぐ書けると思った。ところが、何度も書いて読み直してみても、つまらないものにしかならない。「どうしてだろう?」とずっと考えて、もう何ヶ月も経ってしまった。子どもの頃は確かにおもしろかった。だけど、現在の生活が充実しているから昔のことが色あせてしまっていることにやっと気づいた。今、暮らしている町や人のことを書こう。
 今、東京都荒川区の典型的な下町に住んでいる。大きなマンションが次々と建ってはいるが、だいたいは建坪が20坪くらいの小さな一軒家が密集し、戦争で焼けなかったこともあって、迷路のような道がたくさん残っている。20年も住んでいるのに、まだ迷ってしまったり、新しい抜け道を発見したりすることがある。町会で、もちつきや盆踊りを行ったりする下町の風土がちゃんと残っている町でもある。お年寄りも多いが、若い人たちも増えてきて活気のある町になってきている。東京では唯一残っている路面電車が走る町でもある。こだわりのお店やおいしいお店の話を書くときりがない。平泳ぎの北島康介さんは荒川区出身である。
 新旧混在するこの町におもしろい人がいる。鉄道模型常設運転場『のぞみ会』の会長、伊藤信男さん(70)である。鉄道模型とは精巧に縮尺されたおもちゃのような電車が、ミニチュアの町の中を走っている光景を思い浮かべてもらえるとわかりやすい。このミニチュアの町を家の中に作り、レールを敷き、一般の人たち、特に子どもたちに安い値段で開放している。1階ではもの足りず、2階までレールを敷いてしまった。最近はやっと布団を敷くスペースを作ったが、ずっとレールとレールの間に寝袋で寝ていたのである。あえて書くが、変人ではなく、孫もいるちょっとがんこな普通のおじいさんである。
 本職は大工だが、自分のために働くのではなく『のぞみ会』の運営費をまかなうために働いている。儲かるわけでもなく、誰にほめられることもない『のぞみ会』に、ここまで心血を注ぐ理由は単純明快、子どもたちの喜ぶ顔が見たいから、鉄道が好きだからの二つだけである。人が多く集まるため、楽しいだけで運営できるはずはなく、いろいろな問題も起きてくる。それでも、がんばっている。伊藤さんと関わっていて思うことは、自分のやりたいこと、好きなことを見つけられることのすばらしさ、すごさを感じる。
 こんな町に住み、いろいろな人と関わりながら「わたしのふるさと」について考えてみた。ふるさとは、土地でもいいし、人でもいいし、好きな食べ物がふるさとでもいい。「ふるさとは?」と伊藤さんに聞いたら、『のぞみ会』と答えるだろう。熱烈な阪神フアンの友人は、迷わず「甲子園」と答えた。
 《ふるさと》は過去にあっても、現在にあっても、未来にあってさえいいと思う。ふるさとと呼べるものがない人はこれから見つければいい。一つではなく、いっぱいあってもいい。かく言う私は《ふるさと》がどこになるのか、何なのかまだ定まらず、忙しい日々を突っ走っている真っ最中なのだ。これからも、ふるさとと呼べる事柄や人にたくさん出会えることを期待し、暮らしていきたい。





2006年1月1日更新
 

 「クライマーズ・ハイ」の原稿を書くシーン
 
 毎回ECHOをお送り頂きまして、ありがとうございます。財団を離れて6ヶ月が過ぎましたが、私のもとへ毎月、学校新聞や研究資料、図書等が送られてきます。忘れずにいてくださる先生方のお気持ちに、とても感謝致しております。ECHOも、とても楽しみにしております。
 234号に掲載された、菅原先生や吉成先生、大勢の皆さん方からのお便りは、世知辛い世の中にとって、一服の清涼剤ですね。見識があり、心のこもった素敵な文章に接すると、心が安らぎ、まだまだこの世は捨てたものではない、そんな気持ちさせられます。
 「作文がきらい・・」での雑感。先般の、NHKの長編ドラマ「クライマーズ・ハイ」の中で、新聞記者が原稿を書くシーンを見て大感激。なんと原稿用紙は短冊形、紙の大きさから推測すると、400字詰め原稿用紙を四つに切って、100字原稿にしたものだったのではないでしょうか。記事は、100文字の文章の積み重ねだということを聞いたことがありましたが、画面で再認識した次第。
 企業が新入社員に文書作成の教育をするときに、課題について5W1Hで、ポストイットに沢山の書きたい単語を書かせ、それをつないでいく方法を取ることがあります。子どもの時に学んだ手法が、大人の社会で活かされている。基本の積み重ねが社会なのですね。何れにしろ、3分間スピーチや15分の講演は、研究や準備がとても大変だということは理解できます。
 早いものでもう年末年始です。落ち着いたら新年会でも如何でしょうか。少し早いのですが、今年も大変お世話になりました。来年も宜しくお願い申し上げます。      野田広明






 西山荘の紅葉には目を見張りました

 昨日は午前中急に曇りパチパチと音がしたので、庭を見ると飛び跳ねる初霰で驚きました。
 昨夜 HPのマンスリーエッセイ“奥久慈に秋を求めて”特に西山荘の紅葉には目を見張りました。10月3日にパピルスで訪れた時は爽やかなみどりに囲まれていたので、こんなにも変わるのかと驚き喜んでいます。また 先生の名句にうっとりしてました。

・全山のもみじ双手で抱きけり
・冬晴れの力を借りて滝落ちる
・先客は紅葉一片露天風呂
   
  三句何れもいいなあと思うし並べ方も巧く  それぞれが引き立っていろいろなことが 見えてきます。二句目の「力を借りて」の 語句が鮮やかに生かされて、真っ青な空、 冷たく引き締まった空気、力強く落ちる滝の音が全身に響いて冬ならではの凛と張った爽快感を覚えます。
 第5回湯河原文学賞、佳作といえども総数4222の中から30句選ばれ、その中に入っているのだから流石です。

 山を負う軒にふくれて干布団

 あたたかくて楽しい句です。武先生ならではのユーモアも漂っています。「ふくれて」という語句から、ふっくらと厚みのある丸みを帯びた布団が見えてきます。「膨れる」と漢字にしないで「ふくれる」とかな書きにしてあるのが布団自らが「ふくれる」という擬人法的な表現になっていて動きと面白さが感じられるのかなあ。今日は俳句の大先生に向かって変なことをウダウダ書いて失礼しました。好きな句だなあと思いながらついつい…。  菅原澄子




 良い活動から良い広報は生まれるというが

 『H』71号と号外をお届けいたします。
 以前から地区委員の活動を会員の皆さんに伝えたいと思っていました。今回、地区委員長さんの協力もあって記事にすることができました。今回の発行を通して、以前先生が「良い広報は良いPTA活動の中から生まれる」とおっしゃいましたが、その言葉を実感することができました。良い活動は、間違いなく良い記事になるのです。しかし、同時に、活動の内容やその思いを正確に伝えることができなければ良い広報にはならないということも分かりました。改めて、広報はせきにんある活動であることを 学びました。私たちの活動も三学期を残すだけになりました。どこまでできるのかわかりませんが、有終の美を求めるつもりです。   M.I




 長男が小説を出版しました

 師走も押し詰まり何かと気ぜわしい毎日をお過ごしのことと思います。月・火・金の教室と、その準備、講座出席などと、いつも何かに追いかけられながら一日一日と終わっていき、一年が経ってしまった、というのが正直な感想です。でも、こんなふうに忙しく張り合いのある時間が持てることは幸せなのかもしれません。かわいい子供たちとふれあい、元気なエネルギーをいっぱい貰っています。そんな子供たちに恥ずかしくないようにと、前向きに生きている自分です。何か青春時代を再現しているような思いさえしています。しっかりとした学力をつけ、自分の夢の実現のために努力していける子供を育てていきたいと思います。
 息子が高校三年の時に書いた本が6月に出版されました。はずかしいのでずか、思い切ってお送りしました。どうぞ読んであげてください。  山田雅子

 「オレンジ」 花一揆著・日本文学館 800円+税




 
 自分で確かめてみます
 『ふるさと秦野の景観』の中の「東小・東中学校の校地内の道と大銀杏」については自分のなりに確認したいと思っています。「大山道道標」についても。    S.T


 娘のお陰で世界平和が最大関心事に
 娘が青年海外協力隊でパキスタンに出かけてすら、世界平和が大きな関心事となりました。我ながら“勝手なもの”と… 知恵遅れの人たちの施設から児童館の更生員に変わりました。ノーマルな人たちの方が『
ふしぎ》です。    miura


 『書くのが苦手なあなたへ あなただけの文の書き方』に、「なるほど、そうなんだ。」 はがき一枚書くにも四苦八苦している私は、頭と体に「まだまだ大切にするからがんばってね」と言い聞かせて文を綴っています。   恵津







2005年12月1日更新



『学校のことが気になる』を読んで

 231号の「K子さんの手紙」など、同じ年頃の子どもを持つ身として、本当に考えさせられるものでした。自分の子どもの頃を振り返り、子どもを理解しようと思っているのですが、その子が《自分》を持っていて、私の思う《子ども》との違いを強く感じています。それなのに子どもに選ばせるのではなく、押し付けをしていることもしばしばだったと反省しています。
子どもが子が何かを始めるのを待つということは周囲にとって、とても大変なことです。しかし、親が《待つ》ことが、本当に子どもを育てることになるのだと思いました。また答えは一つではなく、たくさんあるのだとも思えてきました。          
                             矢部 臣子







2005年11月1日更新



 
遅い時間で申し訳ありません

 遅い時間で申し訳ありません。
 先日 長女の結納式でした。12月24日に 山形の鶴岡に嫁ぎます。
 サクランボ畑を持つ農家の長男に です。
 今夜は 一人で「蝉しぐれ」を見てきました。
 結婚する二人にも ぜひ見て欲しいと思いました。
 日本の景色はすばらしいです。人の心も 人を好きになる心も すばらしいです。
 私は 秦野で見る富士山が好きです ふるさとが好きです。
 娘が 山形が好きになることが不思議です。ばかな親です。
 先生 風邪などひかれませんように。
                       匡




「ふるさと見て歩き」に参加して これからは古道を歩こう

 先日は東地区の「ふるさと見て歩き」のご案内、ありがとうございました。
 私の小さいころと比べるとすっかり様変わりした秦野市。過疎になるより開発され豊かになったことは喜ばしいことですが、祖先の人たちのご苦労を忘れてはいけないという思いを強く感じた半日でした。
 子どものころ、両親は畑仕事で忙しく、近所のお年寄りに面倒見てもらったとき、聞かせてもらったような話もなつかしく思い出しました。小さな丘から見下ろしたとき、畑や山に囲まれ暮らしている人々が、それらを実にうまく生活に取り入れていることも学びました。そして、そこから文化や歴史が生まれてきたということも知りました。大山道を歩いた昔の人たちの健脚ぶりも想像でき、これからは古道を歩いてみようと思いました。先生の「ふるさとめぐり」に参加させていただきよかったです。これからもこのような行事にできる限り参加したいと思います。   相原 昭枝




 千葉の秋

 富士山のシルエットがみごとな昨夕で、マリンスタジアムの連続安打も千葉を明るくしてくれました。今日も快適な秋日和。
「その校庭から周囲の山々を眺めた。北の尾根にもう雪を置いている富士。大山に連なる里山の色にもわずかな変化が見える。大公孫樹が銀杏をテニスコートに降らせていた。心が洗われる寺山の景色。」10月23日の日記を読みました。『寺山ものがたり』を捲ってみたくなります。
 昨日は午後から風が強い中、自転車で真間の芳澤ガーデンギャラリーへ。”藤田喬平 ガラスの世界”展。ヴェニスの空気と色彩が伝わってくるような別世界で雑用を捨てて逃げ出した甲斐がありました。庭園には白い萩の花、真っ赤なぴらかんさ、万両の実はまだ緑色、大きな4本の柿ノ木には それぞれ種類の違う実を鈴なりにつけて、青空の下昔ながらの秋景色を醸し出していました。      Sugawara








2005年10月1日更新



大切な 作る側のコミュニケーション

 お送りしました私たちの広報にお返事をいただき、ありがとうございました。あらためて、がんばろうという気持ちになりました。
 きょうは『H』69号をお届けいたします。この号は、はじめは号外程度に考えていたのですが、読み応えのあるものになったので、最後になってナンバーをつけて発行することになりました。 印刷は赤黒の2色コピーを使ったため、単色よりキレイにできたと思っています。それに、両面20円で印刷できましたのでカラーコピーより経済的です。個人的には、とても気に入ったものになりました。
 委員長として、委員会をまとめる難しさを感じています。全員が集まることができる時間が少ないことから、1号目は自分でやってしまうことが多くなりました。これではいけないと思い、69号は記事を分担で書いてもらうことにしました。広報は、コミュニケーションをよくするために発行されるのですから、広報を作る側のコミュニケーションはより大切なことと思っています。今回、担当者たちは「みんなで取材に行ったのでよかった」と反省してくれました。少し前進できたと思っています。まだ十分に機能はしていませんが、委員全員でがんばっていきます。     いち乃



 鹿児島生まれの私には、「知覧」という地名は懐かしい想いがして、興味津々で拝見しました。NIE全国大会鹿児島大会のご案内を頂き、お誘いもあり、是非参加したいと考えていたのですが、仕事の都合で叶わず断念した次第でした。
 まだ健在でいる叔父は、霞ヶ浦航空隊から山口県の防府基地に異動し終戦。いまだに特攻隊の話が良く出てきます。自衛隊霞ヶ浦駐屯地にも当時の状況を伝える資料館があります。太平洋戦争を伝える貴重な施設で、私も何度か先生方をご案内しましたが、本や教科書と違った視点で戦争をご覧になったようです。「知覧」とは少し違った趣で、一見の価値があります。    野田 広明



笠井様の最後のおことば

 ECHO 231号もありがとうございます。一気に読了。どの記事も内容に深みとひろがりがあります。特に「学校講話集」をご覧になって「私にとっての『知覧』」を書かれた笠井様の最後のおことば「私たちは、あの太平洋戦争をそれぞれの思いで受け入れ、封じ込めているのです。 8月の暑い日に」が波紋のように広がっていきます。また、先生のHPのマンスリーエッセイ「わが家の一番大切なものは」も素晴らしいですね。大切なものが見つからない覚めた自分が見えてきて面白いです。
 4日は鎌倉へ、というと聞こえはいいですが、母方の叔母の一周忌で鎌倉霊園。でも早目に行って2,3ヶ所廻ろうと思ったのですが、事故のため総武快速が遅れて直接式場へ行きました。駅からバスに乗り、鶴が岡八幡宮、杉本寺、浄明寺、明王院、十二所神社と、霊園までなかなかの名所を通過するので楽しめます。霊園も広くて自然がいっぱいでテッポウユリやナツズイセンが咲き乱れ和めました。叔母は91歳で亡くなったのだから半分は楽しみながらみんな集まりました。
 帰りはまた鎌倉に出て、いとこと三人で片瀬江ノ島の水族館へ。台風の影響で白波も激しく波も高いのにサーファーも多く、泳いでる人までいて危険な雰囲気。でも、みんなこの時とばかり夢中になっている。事故があったらしく救急車やパトカーが来てても、関係者以外は楽しんでいる。注意する声など、まったく聞こえないし、無駄。海水浴場の海の家から眺めていると実に面白い。ガンガン流れる音楽と波の音と潮風が混じりあってるのが心地よく、ビキニのおねえちゃんたちのプロポーションのよさも目を楽しませてくれます。海は生きる活力というか不思議な力を与えてくれますね。久しぶりに海に行ってしあわせ感いっぱい。帰りは「えのでん」で鎌倉へ。快速電車で市川までグリーン車にしたので旅の気分を味わえました。  Sugawara






2005年9月1日更新
 

  『エコー』230号、拝読

 残暑お見舞い申し上げます。『エコー』230号、拝読させていただきました。
 高校時代の恩師の思い出→統合で新校となったわが母校は、ただ今、校舎改築のため工事車両がグラウンドに入り込んで砂ぼこりをまきあげている。私にとって根本的なものが壊されていくような虚しさを感じた。
 夏休みの思い出→学校の池の水が緑色ににごっていて、悪臭をはなちかねない様子だったので、出勤日に水を取り替えた。思い起こせば、子どもの頃、自分の家の池の掃除は夏休みの行事の一つだった。私にとっては水遊びの一つとして楽しかった。学校の池に水道水を流し込みながら、そんなことを思い出していた。
 小学生の時の思い出→怒られたことはよく覚えている。どの担任の先生も、褒められたことよりもこんなことで叱られたなという思い出の方が強い。それは嫌な思い出ではなく懐かしい思い出として。
 広報担当になった決意→PTAの広報さんは熱心です。というよりも熱心にならざるをえない。新聞を作るための取材活動は事細かに行われている。行事担当の人は、その行事が終わってしまえば仕事が完了するが、広報は取材から、記事をまとめ、 新聞の形にして発行までしなければならないので休む間がない。
 広報づくり=写真掲載とプライバシー→中体連の大会参加承諾の中に、取材等で名前や顔写真をマスコミに知らせてもいいかの確認をとることになった。活躍している様子を簡単に紹介することができなくなった。                    mita




 子どもと戦史博物館やパールハーバーを訪問

 8日から出張と夏季休暇が続き、本日から社会復帰です。早々にECHOは届いていたのですが、拝読が今になってしまいました。申し訳ありませんでした。40年程前に、勉強もせず武道に夢中になり、今になって大いに反省している、高校時代を懐かしく思い出しました。
 休暇はホノルルに滞在し、子どもと戦史博物館やパールハーバーを訪問、改めて日米の教育の違いを痛感した次第です。そこには大勢の青少年が勉強の為に訪れていて、日本の国際法を無視した攻撃により太平洋戦争が始まったこと、米国民は一致団結して卑劣な行為と戦い勝利したこと。家族や国を愛する気持ちを育てるため、お互いに歴史を確認し、意識の高揚を図っていました。非戦を基幹とする我が国の広島や長崎の位置づけ、そして靖国等に象徴される平和の考え方と、なすべき事に大きな違いを感じました。
 何れが是かは、これからの歴史が証明することになるのでしょうが、教育によって国民性がこんなにも変わるものなのでしょうか。
 英語が少し分かるようになった我が愚息も、同年代の米青少年の様子を垣間見て、気持ちを新たにしたようです。
 さて、いよいよ夏休みも終盤に入り先生方もエンジン始動、各地のイベントや講習会も仕上げの段階のようですね。私も下期計画や新規業務で無い知恵を絞り、ペースを上げることになりそうです。残暑厳しき折、ご自愛下さい。    野田 広明





 おかげさまで300人超の参加者

 お暑うございます。ご無沙汰してます。
 echo230号では全国紙芝居まつりを貴重な紙面をさいて掲載していただきありがとうございます。感謝してます。おかげさまで300人を超えて嬉しい悲鳴です。きていただけるか不安でいっぱいでしたが、やってみるものですね。月一回の実行委員会討議資料は『おまつりタイムス』と名づけました。内容は新聞ではないですが、討議資料は委員の気持ちを高める機関車みたいなものだから、新聞と似ているからと勝手に納得して「タイムス」なんていってます。高校の総合の時間で紙芝居を2時間×3回実演をまじえてやってきました。おかげで28年ぶりの教壇でした>まさか紙芝居で再び教壇に立つとは!世の中も変わりました。8月8日には愛川ふれあいの村での全神奈川高校生のボランティア研修にもお声がかかり紙芝居の作り方演じ方などををやってきました。紙面があきましたらそのことを書かせていただけないでしょうか。(10月にも1校依頼がきてます)
暑さ厳しき折ご自愛のほどお祈り申し上げます。   木口まり子




 来年の秦野大会 必ず行きます

 『初秋を感じさせるようなさわやかな風が吹いた一日』と先生の日記にあり、いいなあ、来年は必ず秦野大会に参加させていただこうと喜んでおります。
こちらは昼間只ならぬ暑さの日照りで外に出る気がしなくなり、夕食後 自転車でスーパーに買い物へ行きました。ドド〜ン、ドドドド…とディズニーランドの花火が遠くから響いてきて、涼しい風が少しばかり流れ、やはり夏の買い物は夜に限ると果物や野菜をたくさん積んで先ほど帰って来ました。どこか崩れたお気楽な生活になってしまいましたが。
 26日、朝日新聞社「新聞活用・スクラップ講習セミナー」での武田剛氏の講演が素敵だったので、稚拙なメモですが添付しました。場所は有楽町「マリオンスクエア」で、知った顔触れは鈴木伸、田村、香山、竹泉、小野瀬、藤平、斎藤、武藤、吉成、内野(朝日新聞社)、山本(バックス)、その他5〜6人、知ってても名前が出てきません。講師・藤平咲雄先生が「基礎理論としての新聞活用」で“考える力を伸ばす指導法の工夫”としてわかりやすく話されました。
 28日は昼から学生時代の友人4人で恵比寿ガーデンプレイスで、のんびりゆっくりしてきました。センスのいいお店もいっぱいあり、涼しくて快適でした。「PARTY」ワインショップで貴重な塩(フランスのブルターニュのゲランドの塩)や面白い恵比寿ビールのゼリー、風味ある柚子七味唐辛子等々買って喜んでいた私でした。     suga







2005年8月1日更新

 このごろ 心配です

 夫の職場、不祥事が起こると家族宛に手紙が来ます。「一部職員の不祥事によって御家族の皆様にも…」。そして「談話が出来る、くつろげる家庭を」みたいなことを言っている手紙です。でも私は「家庭は円満、でも職場でのストレスが原因で」なんて思ってしまいます。休日当直だったから代休が取れるはずなのに休めない。人数は少ない。以前は愚痴など言わなかったのにこのごろ言うし、外で飲むことなどあまりなかったのに、飲んで帰宅することが歩増えました。体をこわすのではないかと心配です。  mayu



 わが家は石川産の「こしひかり」

 6月号の「エコー」の中で石川町を見て、ほのぼのとした心になりました。
福島県石川郡石川町 水戸と郡山を結ぶ水郡線の石川駅が中心の小さな町。私は毎年11月に主人の姉を石川町に訪ねます。リンゴが実るころを見計らい、おいしい作物を車にいっぱい積んで帰ってきます。車で小一時間ほど走るとボタン園で有名な須賀川に出ますが、その沿道には、桃・ナシ・リンゴの果樹園が続き、宅配便の旗が翻っています。素朴でまじめな静かな町・石川。わが家の食卓には毎日、石川産の「こしひかり」が上ります。  tochi


 映画のラストシーンのよう

 越後湯沢のお話、昨年の地震以来どうなさったかなとOさんのことが気になっていましたが、これを拝読、しみじみと嬉しさがこみ上げてきました。学生時代のよき仲間がこんな形で続いているなんてうらやましいです。今回の場面は映画のラストシーンに出会ったようで、素敵で余韻がいつまでも響いています。
 「わたしのふるさと NO19」 久保志保様の『古里・椎田は海と山の町 今も 生きとし生けるものの営みを見続けて』、厚みと深さがあるのに感動しました。お人柄なんでしょうね。「そして今、わが子に言っています。『土から離れない生活をしてね』と。」心に深く刻まれ、いろいろなことを考えさせられ有り難く思っています。   suga

 
 「越後湯沢 雪国の宿」皆さんの行動に心が温まりました。病に倒れた方を訪ねる、それを受け入れる、ということは、両方の気持ちが一致しないと実現しにくいものです。旧交を温められた陰にO様の奥様の広いお心が見えてきました。  kuniko







2005年7月1日更新

 「二つの地に住めたことの幸せ」に共感

 エコー」228号では、「二つの地に住めたことの幸せ」と「わたしのふるさと」が印象的でした。二つとも今の私が体験も含めて共感できる内容でした。さらにそうなれるよう実践していきたいと思います。
 赴任早々PTA書記の仕事を任されました。総会までは混乱の日々でしたが、実行委員会が3回目になると、行事はともかく役員さん達と顔見知りになるので、居心地の良い仕事という実感が湧いてきました。 
 PTAの広報研修会で、先生に講習を受けた広報委員さん達がとても意欲的になっていて驚きました。先日の実行委員会では、コンピュータを要望されました。実行委員会では、その趣旨(タイムリーな広報をめざしたい)に共感し、できるだけ今年度の予算内で購入できるよう努力して欲しい、という結論になりました。委員長さんもそのつもりで行動を始めたようです。できるだけ援助したいと思っています。   hana



 きっとなります すてきな女性に

 私たちの作るH中広報紙は、近隣町会の回覧板でも読んでもらっており、発行部数が1,200部になります。三校の小学校の6年生にも配られます。H中も悪い評判があり、2年前から2クラス分しか新入生が入ってきません。私には3年と1年の娘がいますが、娘の友達や学校の雰囲気は悪くありません。「そんなにH中は悪くないよね。」というのが、委員みんなの声見です。K中広報を見習ってH中の広報紙もがんばります。学校新聞がないことと地域に配られることもあり、先生のおっしやるm広報紙の姿勢とは、違ったものにならざるを得ませんがPTA活動もできるだけ記事にすることを胆に命じて、記事を作っていきます。
 がんばって、なんとか6月の発行にこぎつけました。これは、ワードで作った原稿を知り合いのコピー屋さんに頼み、両面で1枚16円で作りました。約2万円で発行できました。区と町会の方にも写真・記事掲載の許可をとってあります。試行錯誤中ですが「H中の広報委員はすてきな女性ばかりだ」って噂されるようにきっとなります。    Maki



 次号は私も記事を書きたい

 まさか広報委員長になるなんて。4月から今日まで緊張と不安でいっぱいでした。委員をまとめる、というようなことがもっとも苦手な私ですが、副委員長さんの温かい言葉に励まされてここまできました。「委員が作りたい内容にする、読みたい広報にする」ということで、今までの広報を変えることになったのです。そのため委員の皆さんががっばってくれました。委員さんが取材や編集の作業をしている中、私は印刷屋さんとの交渉などで直接広報作りに参加できず、少し心苦しさを感じました。それだけに、こうして第1号を発行できたとなると、感激ひとしおです。そして、次号は、私もぜひ記事を書きたいと思ったのでした。81号をお届けいたします。  Stone



 あー、懐かしい! こごみとミズは私も大好きです。こごみはお浸しにして刻んだ胡桃をたっぷりかけて食べるのが我が家の定番でした。その胡桃は母の実家のもの。それを炒って割って中味を取り出すのが私の仕事。プチプチと包丁で刻むのもおもしろく、粉のようにしてあきれられたことも…。ミズは、地元でも最近は少ないという高級品。あっさりした味が好きです。(R子さんからのメール)






2005年6月1日更新


 創刊二十一年おめでとうございます

 桜の最終ランナーであるぼたん桜が終わりを告げた途端、新緑の鮮やかさが目に留まるようになりました。
 ECHO227号ありがとうございました。読ませていただく中で1面「にっきの木」の中の「冷たい雨の中でバスを待つ二人の女子高校生」の話が強く心に残りました。雨に濡れながら立っている友を横にして、一人傘を差す女の子の心の中はどうなっていたのでしょうか? 「傘の中にどうぞ」と言われることなく、じっと雨に打たれる女の子はどのような思いをもっていたのでしょうか?  その光景を思い浮かべ、二人の人間のそれぞれの胸中に想いをはせると、悲しいような、そしてある意味恐ろしいような気がしてきました。それとは対照的な2面の「わたしのふるさと」の初野クニ子さんの文。地域にいる人間がお互いに助け合い、いたわり合って生きていた遠い昔。
 物が豊かになり、生活が便利になっていくのは時代の流れで仕方のないことです。しかし、生活の様式が変わっても、変わってはいけないことがあります。それは、「人の痛みを知る心」であり「人を思う気持ち」であると思うのです。その女子高校生たちの姿を目にしても何も感じない人もいるかもしれません。武先生のように、その光景を見て「ハッ」と思う気持ちのある人は、きっと失ってはいけない心を未だ持っている人だと思います。
 ECHO創刊二十一年おめでとうございます。そしてこれからもいろいろな視点から人を見つめられる広報紙を目指してください。  K.Uehara


PTA広報・こどもつうしん
                
  私がPTA広報を作っていた小学校では「PTA本部だより」が月1回(号外もありました)出ていました。PTAのイベントに合わせて「委員会だより」も随時発行されていました。そんな中で、過去の広報は各委員会の事業や学校行事などを何ヶ月もたってから記事にしてきていました。本部だよりは月刊ですから、委員会の活動などもろもろものものが記事にできます。それに対して、年に数回発行の広報では、本部だよりや委員会だよりと記事がダブり、また遅れてしまいます。それで、毎年、広報が仕方なく取り上げる企画が、写真による「運動会特集」や「学校祭特集」なのです。
 そんな前例の中、私たちは「PTA広報・こどもつうしん」を創刊しました。これは、子どもたちの活動やニュースだけを写真で特集したものです。そして本紙は特集中心でいきました。
 PTAや学校で、新しい試みや壁を外すことはなかなか大変なことです。今、PTA広報はどんな紙面を作っているのでしょうか。初孫が小学校に入る頃、学校はどのように変わっているのでしょうか。 潟永真由美






2005年5月1日更新


 美しく咲く桜と共に新学期を向かえ、またにぎやかで楽しい学校生活が始まりました。「エコー」の中に、懐かしい教え子たちの活躍ぶりを発見し、何度も読み返しました。素晴らしい力です。ありがとうございました。  Shinomoto



 お元気ですが。日本は桜の季節ですね。こちらは今はもう冬です。ビクトリア大学は規模も大きく、内容も難しく、勉強し甲斐のあるところです。まだ始まったばかりですから、全てに「一生懸命」というところです。7月くらいからいろいろなことに挑戦しようと思っています。  Tomoko





2005年4月1日更新



 PTA新聞『むぎ』と私

 『エコー』をお読みの皆さんは飯塚市をご存知でしょうか。一昨年の水害で被害を受けた芝居小屋・嘉穂劇場の復旧に奔走する芸能人の様子がテレビで流されたため、ちょっぴり全国区になった(この冬は恐ろしいニュースもありましたが)わがまちは、福岡県のほぼ中央にあります。かつて飯塚市は筑豊炭鉱の中心都市として栄えましたが、石油へのエネルギー革命の嵐が去り人口八万余りに減りました。今は大学を三つ擁して学園都市を目指しています。
 お役に立つことがあればと、幼稚園からPTAにかかわってきましたが、広報委員だけは絶対にすることはない思っていました。そんな私が、年6回の手書き・自校印刷のPTA新聞『むぎ』にどっぷりつかってしまったのです。
 私たちの『むぎ』がもっとも大切にしていることは、当たり前ですが「PTAのことがよくわかる新聞をつくること」です。そのために、行事にはできるだけ参加して記事を書く(依頼記事にしない)、参加者の声を必ず記事にするようにしました。また、知りたいことは直接取材に出かけることを心がけました。そうすることで記事が臨場感にあふれたものになるからです。足を運んで取材する―これは手間暇がかかりますが「わが子の通う学校に詳しくなる委員会」と開き直って、楽しんで、活動しています。
 「PTAのことがよくわかる新聞」というからには、PTA活動が活発でなければ記事は書けません。地域のキャッチフレースが「ふれあいのまち・ふたせ」なので、PTAも地域と共に活動することが多く、そのことが紙面を豊かにしてくれています。
とは言え、年度による活動の温度差や、仕事を持つ保護者が多くなっているので、PTAの活動になかなか参加できないのが現実です。そんな人たちに「今、PTAはどんな活動をしているのか」を知らせ、「次は参加しようかな」とか「私もがんばってみるか」と思ってもらうようにすることがPTA新聞の果たす役割だと思っています。
 このように、心構えや思いは“一人前”なのですが、実際には委員だけでは手が足りず、いろいろな人にお手伝いをしてもらっています。そんな皆さんのお陰で、昨年・今年とコンクールで大きな賞をいただくことができました。労力、時間をとても要する広報委員会ですが、新しい知識を得たり、子育てを助けてもらったり、また友人ができたり、とたくさん贈り物もいただきました。武先生とのご縁もそのひとつのよう気がします。(それで、この原稿を書く破目になったのですが。)広報を辞められない本当の理由はこれなのかもしれません。
 今年、子どもは卒業ですが、これからも地域の一人として『むぎ』に関われたらいいなあと思っています。
                     飯塚市立二瀬中学校PTA会長(前広報委員長)  岸 佳代
 

  飯塚市立二瀬中学校PTA新聞『むぎ』
   平成16年度 全国PTA新聞コンクール「優秀賞」受賞
   平成15年度 全国PTA新聞コンクール「全国新聞教育研究協議会賞」受賞




 どうやら完走 広報づくり

 広報の講習会で教えていただいたことをゆっくり見直す時間もないまま1号発行に向けて走り出し、どうやら最終号発行まで完走できました。いろいろありましたが、私としてはとても楽しく活動できた一年でした。4月になり、情報委員のなり手がなかったら、また手を挙げるかもしれません。一緒にやった仲間の中にも、やってもいいかなーと言っている人もいます。   ひろみ






2005年3月1日更新


 ジレンマ
                
 「ECHO」の題字の下の「動かなければ」を見るたびに、私のために、社会のために何かをしなければと思うのです。でも、最近はちょっと落ち込みぎみです。欲深な私は、今、ちょっとの仕事をし、中学校のPTAの役員、嫁で、母で、妻で、最後に私で…。PTAの会議、もう少し話し合いに参加したいと思っても次の仕事があるので「すみません、お先に」。仕事をもう少し本腰入れてやりたいのに、家事や子どものことが気になり、と言って家事ばかりでは「私」がなくなっているのではと思ったりしていまうのです。何もかも中途半端、それで何かひとつにと思えば、他は犠牲にしなくてはいけない、ところがどれも捨てられないのです。一度専業主婦になった女の悩み、ジレンマです。
 先日、母の喜寿のお祝いに親孝行を、と伊豆長岡に行ってきました。途中、仙石原にある母の実家の墓参りも親子三代でしました。墓碑が『寺山ものがたり』で読んだ勝俣姓の多い墓地に驚きました。そして祖父母に思いを馳せたのでした。母と温泉に入ったのは何年振りでしょう。母は小さくなり、背は丸くなっていました。    Takako 




 このごろ思うこと
                 
 いつもは無難な、楽な道を選んでいた私ですが、娘の高校の広報委員に立候補しました。母親委員をしているとき広報作りに参加できなかったので、チャンスがあったら広報を、と思っていたのです。でも、よく分からないまま委員会に出ています。そして皆さんの後を一生懸命ついていっています。武先生が『広報はだの』を作っている写真を新聞で見ました。一緒に広報を作っている人たちがうらやましく思えました。「私も」と思ったりしたのですが、力不足、怖いかな。
 学生だったころ、先生方からいろいろな話をたくさん聞かせてもらったのに、話の中身はほとんど記憶にありません。このごろ、保護者として中学や高校に出かけ、先生方の話を聞いて「ふーん、そうなんだ」と思うことが多くなったように感じています。少し前、親子で聞く講演会がありました。とても印象
に残る話だったので、帰ってきた子どもに「きょうの講演、こんなこと話していたね」と話しかけたら「そうだった?」でおしまいでした。私の学生時代も多分これと同じだったのでしょう。話を聞くということは、ただ黙って聞いているということではなく、理解しようとする気持ちがなければいけないということがこの歳になって分かりました。今の私は、どの人の話も興味を持って聞きたいと思うようになっています。     Kmmi


 ◆224号の田中さんの「買わないみかん」。私の場合は柿です。子どものころどこの家にも柿の木があり、好きなだけとって食べた記憶があるので、未だに柿を買うことに抵抗感があります。柿の季節になると、今でも姉がたくさんの柿を送ってくれます。   Tochigi




 『広報はだの』から「書くことは考えること」を実感
                
 いただいた市制五十年の広報、圧倒されました。先生が積み重ねてこられたことが、こうして世代を超えた人たちによって、この紙面にぎゅっと詰まり、大きな実を結んでいるように思えます。中学生たちが中心になって書いた4面を拝見し、ずっと昔のこと、忘れていたことを思い出しました。私も小学校高学年のころ学級新聞を書いていました。題字は『リーダーズタイムス』でした。そのころは当たり前のように、どのクラスでも新聞づくりがおこなわれていたようです。だから、教師になったその日から、私は毎年学級だよりを書き続けられたように思うのです。新採用二年目、六年生を教えたとき、国語の教科書で「書くことは考えることだ」という文に出会いました。
 自分の思いや考えを文や絵で表現することは、自分のそのままの心を伝えることなのです。それまで好き勝手に文を綴っていましたが、この一文から、自分なりに立ち止まって文を書くことができるようになったと思います。「伝え方には技術が必要、工夫がある」ということを知り、勉強しました。武先生は、新聞づくりを通して長い間皆さんにそれらのを教えてこられたのだと、『広報はだの』から感じました。    Emi




 サプライズ

 市内学級新聞コンクールで、わがクラスの新聞が最優秀をとってしまいました。新聞づくりの中心人物は昨年度、田中先生に鍛えられた生徒です。驚いてしまいました。構成から記事の扱い方について評価され入賞を果たしたようです。それを知らせる神奈川新聞の記事に「東中学校3年1組」とデカデカと書かれた時には正直恥ずかしかったです。題字も私の名前をもじったもので、はるばるM市の先生がその記事を読んだことを教えてくれました。早速学級通信で家庭に連絡しました。
 昨今、人を信じてバカを見たという話が増えてきています。詐欺行為が悪質になり、震災で苦しんでいる新潟の人達にまでもオレオレ詐欺の魔の手が伸び、その被害を受けた人がいたようです。何か今「人を信じてはいけない」というようなことを感じさせることが増えてきていませんか。家にも職場にもかかってくるおかしな電話。この前は、「何度も同じような電話がかかってきて困っている。そちらで調べてもらえませんか」と言ったら、それ以降かかってきていません。変な知恵がついてしまって、世の中をまっすぐに見ることができない、まっすぐ見ちゃいけないという先入観が植え付けられています。
 もう一つ報告。校内の合唱コンクールで最優秀をとることができました。リーダーがよく動いたおかげです。一人だけでなく、連動できるリーダーがいたおかげです。放課後や朝、「禁止」とまで言われた校外での練習など、本当によく練習していました。みんなで歌うことの楽しさを感じ取っていました。私は練習開始の合図と終了の合図をするだけで、その問は生徒達が自主的に練習し、反省し、また練習、と繰り返していました。「やる時はやる」などという学級目標が、こんな形で実を結ぶとは。これもサプライズでした。              
                                           Mitakex






2005年2月1日更新



  「行く年来る年

 夫が「洗濯物を入れろ」と言うので、窓辺に行くと色鮮やかなみごとな夕焼けに驚きました。急いで二階に上がって窓から感嘆。横になびく雲と富士山もくっきり、いい元旦でした。
 大晦日 23時過ぎに近くの白幡神社へ初参りに出かけました。午後からかなり降った雪が解け出してますが、木々や道路の脇は真っ白です。見上げると星がキラキラ瞬き、月もくっきり。寝待月をこんな時間に眺めるのは珍しいことです。あんなに降ってた雪が止んだのが不思議。小高い山地にある神社で、二十段くらいある石段はさすが雪掻きしてあり助かりました。上はこんもりとした森になり、雪道をザクザク100m位歩くと火の周りに20人ほど居て、消防自動車も。参道を真っ直ぐ進み拝殿に。
 拝殿の茅葺き屋根には雪が乗っかって、延長線上にぽっかり月が。この光景に暫し引き込まれました。20分前だというのに、いつもの年よりかなり少なく20番目くらい。頭上の楠の雪の滴が時々ポタリと。拝殿の奥では厳かな灯かりが輝き、お払いや祝詞などが響いて来る。注連縄も新たに、寄贈された酒の瓶もずらりと並べてある。社務所では御札やお飾り、おみくじなどの販売店が明るく照らし出され、参拝客に振る舞う甘酒に携わってる人たちも湯気で活気付いています。
 やがて大男の神主さんが壇上で大声で「明けましておめでとうございます。さあ、どうぞどうぞお参りをなさってください」と言われたので、最初の3人が静静と参拝。と、その時、次に待ってる人が「まだ58分だから早いよ」と言ったのでみんな大笑い。神主さんが「去年もそう言えば早かったなあ」と言って、またまた爆笑。
 デズニーランドの花火が正確だからと何人かが言って、みんなで南の方を見る。0時00分を待って次の人たちが壇上に上ったら、なるほど右側とおく南西の方にチラチラとデズニーの花火が見える。「さすが! 」とみんなで喜んだ。甘酒も美味しく、何人かの知り合いともむつまじく話せ、よいひとときでした。村の鎮守の「行く年来る年」でした。   菅原 澄子



 想像以上 予想以上

 すばらしい「広報はだの」ありがとうございました。想像以上、期待以上―すみません、生意気なことを言って―のもでほんとうにビックリ。一面のアイディア すてきです。四面では昔、昔の東中での学級新聞づくりを思い出しました。私が怒りっぽかったので、子どもたちが『スマイル』と名付けた学級新聞が入賞したことが浮かんできました。あの子達はもうみんな立派な大人になっていることでしょう。大切に保存します。ごくろうさまでした。そして、ありがとうございました。   石井 朝子


 50周年記念紙、何度も読み返しました。宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の中で、カンパネラに言わせている言葉「いいことをしたら一番幸せなんだね」。武先生をはじめ編集委員の皆さんが今、一番幸せを感じていらっしゃるのでしょう。本校を担当してくださった初野様、千田様ありがとうございました。    本多勝昭


´05年 いただいた力作年賀状


畠和子

久保田忍

杉野清美

児玉正彦

稲吉純子

野中麻未

相原宗由

早川幸雄


2005年1月1日更新

『エコー』222号の感想
・「十三夜の和菓子屋さん」―いいなあ、こういうお店が残っていること。寺山の素晴らしさですね。
・「清水のメンヒル」―まさに語り継ぎ、記憶しておくべき事跡の一つ。『寺山ものがたり』の続編が待たれます。
・「鶴巻温泉・陣屋の夜」―武さんの笑顔が目に浮かびます。教師冥利、うらやましい。
・「秦野の新聞教育の伝統」―脈々と受け継がれていることがわかるコンクールの入賞。学校新聞と学級新聞との落差の分析を期待いたいです。
・「わたしのふるさと」シリーズ―毎回いいいお話。「ふるさとは遠きにありて思うもの」なんてイキがってふるさとから出てきた私。ふるさとの中にしっかりと生きている根拠と活動の場を築いてきた武さんの生き方。一つの理想と思います。
・「生命の誕生」―授業にこだわり、ひと工夫、もう一工夫と努力している若い教師の姿。頼もしい限りです。
・「現代学生百人一首」―どれもいいですが、一首選ぶとしたら「両足で地面に立てる喜びを一緒にわかつ看護実習」。良い感性を持った若者がもたくさんいることがよくわかります。           



『エコー』で同じふるさとの人に出会えました
 『エコ−』221号で、木口さんの「ウスゴとイルカのタレ」を読ませていただきました。「そうそう、イルカのタレはよく父親が酒のつまみにしていた」「『しよんない』は清水の言葉だったよね」などと思い出したのでした。『エコー』で同じふるさとの人に出会えてとても嬉しかったです。        田中くみ子 



 フォーラム「教育の今を考える」に参加
                                                                菅原 澄子

 『ECHO』222号 ありがとうございました。さあ、夕飯の買い物にと5時に家を出たら、富士山の方角の残映にうっとりさせられ、なんと三日月がすっきり、くっきりと爽やかなライトブルーの空に輝いているのに、また暫し見とれてしまいました。
 先生の研修旅行も輝いていますね。マンスリーエッセーのお写真で紅葉に浸れます。鹿島神宮のの杜の厳かさ、拝殿の紅葉、照り映える楼門、養老渓谷の紅葉、清々しい粟又の滝、それぞれにうっとりしました。紅葉照り映える川沿いを3キロ散策も素晴らしい計画です。今年は慌ただしく紅葉も忘れていたので、このお写真が心に染みました。伊藤先生の嬉しそうな声やいわし料理の美味しい香りが伝わってくるようです。
 師走も残り半月。1日の「イノ・シカ・チョウ」、これは花札のお話しかなと読み出したら、お百姓さんの真剣な戦いの貴重なお話しだったので考えさせられ。8日の「すごい一日」 想像しただけでも歯が抜けそうな一日です。
 さて、私は吉成先生のお蔭で10月30日が素晴らしい一日になりました。早稲田大学14号館で、主題「教育の今を考える」の連続フォーラムの第4回に参加。講師は吉成勝好先生でした。
 吉成先生ははじめに参加者に自己紹介させ、御自身の学生時代やその後のお話しもして下さり楽しかったです。当日の朝刊を買って持ってきて皆さんに配って下さいました。そして「スクラップしたい記事を切り抜きなさい」と指示され、選んだ記事について各自が発表するということをしました。参加した喜びが湧いて来ました。切り抜きに何を選ぶかで自分が見えてきて、問題点や今後の課題も見つかり広がっていくようでした。普段あまり新聞や本を読まない私には、とてもよい勉強ができました。
 吉成先生が選択された記事は「漫画休載と表現の自由」でした。日本にまだ真の思想、信条、表現の自由が確立されていない証拠の記事だと思いました。さすが吉成先生は新聞の達人! 
 私が慌てて直感的に選んだ二つの記事は、
 1 「理系白書、文・理の壁 どう壊す」この記事を選んだ理由は、市川文化会館で聴いた毛利さんの講演。宇宙への夢を語った毛利さんは会場を魅了した…その直後に衝撃的なスペースシャトルの事故−そのことを思い出したのと、「政治や行政のトップは文系出身者で占められ…」から、これまでの進路指導を思い浮かべたからです。
 もう一つは「英社会 フリー記者支える」という見出しの記事。「世界の肉声を伝えるフリージャーナリストは、社会で重要な役割を果している」という一文に強く引かれました。                                       







2004年12月1日更新


 ゆっくりでもいい 一人ひとり成長して欲しい

 体力的には不安ですが、昨年からサッカー部の指導をしています。大会の審判は配慮してもらっているのが現状ですが、生徒たちとけっこう楽しく活動しています。学校での部活動の大切さ、重要さは今も昔も同じです。新聞の武先生だけでなく、野球部でノックをしている武先生も私には強く印象に残っています。
 教師生活30年目、「生徒指導担当のO先生」だけでなく「サッカー部のO先生」として生徒に認めてもらえたら、と思っています。できるだけ多くの生徒にチャンスを与えてあげたいと考えています。その結果が勝利に結びつけば最高です。部活だけでなく、学校生活のさまざまな場で、一人ひとりがゆっくりでも成長していって欲しいです。同封した手紙は夏の大会のあとに三年生のS君から手渡されたものです。すばらしい3年生のチームがあったから、新人戦準優勝が得られたのです。「動かなければ、語らなければ、聴かなければ」を教師として忘れないようにがんばります。
 
 俺はS中のサッカーが好きだ
 俺は高校に行ったらサッカーはしない。それはサッカーが大好きだとわかったから。俺は大好きなサッカーをやってもう涙を流したくない。最初は、そこまでサッカーは好きではなかった。でも先生のおかげ、部員のみんなのおかげで、最後の大会が終わって、そのことにやっと気づいた。気づくのが遅かったかもしれない。でも、俺の中で気づけてよかったと思う。
 毎日学校に行くのが楽しかった。だから学校はサボらなかった。とてもわくわくしていた毎日だった。今思うと俺の唯一の楽しみは部活だったんじゃないのか、と思う。それは、みんなと楽しくわいわいとサッカーができたからだ。大会が終わって、今までの練習はムダだったのかなあと思ったりしたけど、やっぱりムダじゃなかった。最後の大会の試合、O中戦・K中戦は俺のせいで負けたんだと思う。あいつは替えたほうがいいとと、仲間を信じないことを先生に言った。それなのに、さっき、亮に「サッカー やめるのもったいないよ」と言われた。すげーうれしかった。俺は、S中のサッカーが大好きだ。

 サツマ芋畑はイノシシにほとんどやられてしまいましたが、近所のおばさんたちに励まされて、がんばってお百姓さんもしています。    T・O




 歯の治療 あの音

 前後の事情がよく分かり、お母様の様子がみごとに描写され臨場感あふれています。生きるということは大変なんですね。なんといっても、生きることで一番大切なことは、歯があることだと改めて考えさせられました。往診を頼んで歯の治療をするなんて、普通の人はなかなかできないですよ。武先生のお陰でお母様は本当に幸せです。
 知り合いが銀座で絵の個展をやってたので行ったら数ある中の一枚で、104歳のお母さんの紋付き姿の大きな絵(100号)があり驚きました。亡くなった状況を聞いたら、「舌ガン」とのことで、またビックリ。104歳になってもガンになるのかと不思議でした。口腔に歯などで刺激を与えないように気をつけなければと、その時チラッと思ったことが浮かんできました。
私も今日 歯を一本抜いてきました。8月〜11月 ゆとりがない日々が続き、疲れて歯がグラグラになってしまい、それでも我慢して過ごしてましたが、ついに本日…。自分の歯でいつまで生きられるのか、あと2,3年かな?
 どんなに忙しくても先生の日記は何時も拝読しては何か書きたいなあ、と思ってましたが、ついに今日まで御無沙汰してました。ECHO 221号のお礼も申し上げず失礼してました。特に雨の「川越散歩」の中の宮武 外骨に引かれました。『面白半分』なんて、現在 何処も「なんでもランキング」が流行ってますが外骨はその元祖なんだと笑ってしまいました。最先端を行ってた人なんですね。
 
22日の「新米届く」
教え子のTさんがなんと30キロのお米を!武先生へのTさんの深いお心なんでしょう。我が家も時々貰うけど10キロか20キロです。”この冬は、身も心も温まるご飯を毎朝いただける”とても嬉しいお言葉です。
 お米といえば、あの23日、今夜は十日町のTさんから届いた魚沼産コシヒカリにしようと、水を入れてとぎはじめたら、グラグラグラ・・・と何時もと違った奇妙な揺れで気になりドアを急いで開けたりしました。それ以来Tさん宅(外科医で開業)のことが、ずっと気になってましたが、本日 大変だった様子が書かれた手紙が届き、「クリニックが無事でよかったと、クリニックに診察に来て思わず泣き出してしまう人もいて、みんなから心配してもらってありがたく思いました。」と結んであり嬉しくなりました。武先生の浦佐のOさんのこともとても気になってましたが、11月4日のOさんのお便りで少しばかりホットしたりしてました。

 「広報はだの」も着々と進み、明るい日々ですね。雲一つない空には十三夜の月がくっきり…。今夜はお月見をしてもいいような穏やかな空気です。     sugawara





2004年11月1日更新



 記事にしてよかった

 10月2日の運動会では、過去と比べ物にならないくらい違法駐車は減りました。当日各委員会の役員は、それぞれ当番があり、私は自転車整理でしたが、違法駐車の多い道路に面した所だったので道路に出て、様子を見ていました。「広報の効果か、荷物降ろしたら移動します」という方も多く良かったと思います。詳しくは、次回の「みなみだより」でお知らせします。今までは、違法駐車がいっぱいだったというあとからの記事だったので、今回は、記事がきっかけで、PTA会長を始め、本部役員の方も動いてくださり、語った事で、広がりを実感しています。
 又、体が不自由な方の車もあること、門を乗り越えて場所取りをする人、(池田小の事件前は門だけで、扉の無い学校でした)us別の課題も見えてきました。
 武先生の勉強会にでて、初めての広報の仕事ですが、おもしろいなと思って活動しています。
 今、学校の広報誌とは別にP連の記事も作っています。A4、1ページだけなので子どもたちに協力してもらったアンケートも載せきれないので、5号にもう少し掘り下げた記事を載せたいと思っています。
 御手洗さんの手記は「みなみだより」にも載せたいと思います。いただいたアドバイスは、委員会で検討し、改善して行きたいと思います。       hiromi




 スピーチコンテストを行って思ったこと

 3年生ですが、ここで各クラスごとに「スピーチコンテスト」を行いました。クラスのみんなの前で自分の考えを作文にまとめて発表してみる。この後は、クラス代表を決めて、学年全体の前で発表会を行います。高校入試の面接の練習の一環として、昨年度より始まりました。私には初めての試みで、どうなるのか不安ではありました。それで、前もって原稿のチェックを行いました。原稿用紙に書かせました。ところが原稿用紙の使い方を知らないのです。段落を分ける時に、一マス空けることをせず、一番上から書き始める生徒がたくさんいます。段落を作る必要がないのに、わざわざ段落を作るのです。一文を書いたらすぐに次の段落みたいな書き方をします。一つのまとめとして段落を作るということがわかっていないようです。句読点の打ち方。何でも「、」だったり、いっになったら「。」がつくのかという文もありました。文を短めに区切るように手直しをしました。 文章の構成。言いたいことはわかるのですが、並びが悪いのです。いきなり話が飛んでしまうところがあるので「ここにワンクッション入れたらいいね」というようなアドバイスをしました。戦争直後以来、国語教育の本幹には作文がありました。無着恭成さんの『山びこ学校』のような、日頃の生活を作文に書き留めてみようという勉強が流行っていました。今はあまり作文指導は行われていないのですね。
 今回、これ経験してみて思いました。作文指導と発表は意味があると思いました。今回は自由題でしたので、大半が「中学校生活をふり返って」とか「高校に進んだら」などでしたが、中には自分のペットの病気のことや地球の温暖化についてとか、イラク戦争に対する日本政府の姿勢とかも取り上げられていました。一番うけたのが「栄養ドリンクについて」という発表でした。成分の内容を紹介やその効能、また最近発売されたものは特にからだよいとか、でもまだ15歳の誕生日を迎えるまではダメだとか、どこで入手した情報かわかりませんが、よく調べてありました。
 このスピーチコンテストを通して、クラスの仲間が日頃どんなことを考えているのか知る機会になりました。その意味でもクラスの仲間との交流ができてよかったです。    masami
 



 “秋の精(fairy)”

 昼頃 地区のパトロールに出かけると、天高く晴れ渡り、柿の実が熟し、ザクロの大きな実が弾いて、大輪の菊の花々が高貴に香り、まさに晩秋です。空き地にススキがゆらゆら揺らいで、そういえば今夜は十五夜だと気づきました。先生の26日の日記に「きょうは『十三夜』」を思い出したのです。今年は10月26日が「十三夜の月見」だったのですね。『秋の宵』をプレゼントなさった方は“秋の精(fairy)”でしょうか。     sugawara






2004年10月1日更新


  地名は生活に基づいて生まれる

 「『清水湧水地跡』碑建立ものがたり」。アスファルトの下に埋められてしまった湧水地。所番地から、昔からの地名が消えていってしまうことと通じます。そこにあったことを後世に伝えたいと思います。そこには昔からたくさんの人々が住んでいて、そこには時代時代の生活があったことを忘れてはいけないのだと思います。過去があって今があることを忘れてはいけない。
 秦野では様々な「講」があります。夏休みのしおりに蓑毛の柏木さんが7月の下旬に家を掃除して「大山講」の人達を招き、みんなで食事をとったという話を書いてきてくれました。私の家の実家、菩提の家では「庚申講」を開いて、近所の人を呼んで一晩中飲み明かしたという話も聞きました。東田原で正月に開かれる「講」があることを、テレビの番組で見たことがあります。近所の人達とのふれあいの場として行われた「講」。これを調べるだけでもふるさとを知る手掛かりになります。
 秦野の地名の由来として、「はたの」の「はた」は機織りの「はた」で、その技術を伝えたのが大陸から渡来した秦氏一族。その秦氏が多く住んだのが京都の太秦。映画村や広隆寺があるところ。そこでテレビの『水戸黄門』の撮影をしている「格さん」こと合田雅吏くん(東中56年度卒)。「秦氏に縁のある秦野と太秦」そのことを知っているかどうかご本人に聞いてみたいです。
 8月27日の朝、早朝の部活動を行うために6時40分頃でしたか、東中の近くに来たら、小学生ぐらいの子ども達が家に帰っていく姿を見掛けました。「編集後記」で知りました。ラジオ体操の帰りだったのですね。生徒に聞いてみたところ、夏休み中の朝のラジオ体操のことは、あまり記憶にないようです。地区によっては夏休みの最初だけやったそうです。私の家の近所ではもうやっていません。やっていた頃も夏休みの始めのころだけ。毎日やっても全員がそろわないのでそうしていると聞いたことがあります。「2学期に向けて生活を整えるため」というねらいはどこから出てきたのでしょうか。子ども会の役員の方々が面倒をみていらっしゃるのでしょうか。すごくいいですね。
 青少年指導員をしていて思うのは、子ども達が大人と話す機会をどんどんつくるべきだということ。近所のおじさんに気軽に挨拶ができるようにするには、このような接点が欲しいと思います。学校の正門で、登校してくる子ども達に挨拶を繰り返す挨拶運動よりも、こうした地域でのふれあい活動の方がまさります。   mamita



 「清水」はいつまでも人々の心に生き続ける

 今夏は例年より多い台風の上陸。その被害にも心が痛みますが、ロシヤのテロでの子どもたちの犠牲には、深い悲しみと、やり場のない憤りをおぼえ、たまらない気持ちでした。そんなとき「清水湧水池跡」記念碑の建立という朗報は一服の清涼剤でした。大人は子どもに伝えるべきものをたくさん持っています。そして、それらを伝える責任があります。その行為が乏しくなるき文化が衰弱するのだと思います。碑があるということは「語る」ことであり、伝えることです。「清水」の地名の由来は、碑を通していつまでも人々の心に生き続けるのです。よい仕事をしてくださいました。先生のふるさとを愛する心が、行動が、人々の心を動かし、この結果が生まれたのです。  yoshihiko



 碑を見に行きます                     
「碑建立ものがたり」を読んで思いました。身近なことをこつこつと積み上げることで、知らないうちに周りの人を動かし、自治会の人たちを動かして、また県外からも応援を受けで「清水湧水池跡」の碑を建立されました。いろいろなご苦労はあったかと思います。本当におめでとうごさいます。私も碑を拝見させていただこうと思っています。  ichiro



 大山道道標の資料 ありましたよ
 先日、先生が質問された第一自治会館の前の道標のことですが、前に大叔父の自分史の本の中に書かれていたように思い、何年ぶりかで開いてみました。その本の最後の章「 鶴巻のこといろいろ・大山街道下落幡部落のこと」のところに、 「 県道(大磯・鶴巻・上糟屋線)を真田橋から落幡耕地を越え、善唱寺前(芦川はんめえ)を右に折れて進むと、奥津さんの角に出る。左に折れて僅かに進むと左側に深川さんのお稲荷さんと庚申塔がある。この庚申塔には「右おおやま、左かねえ」と刻んである。(中略)ここは昔から八月のお盆に大山講の大灯篭がたつところで知られていた。(中略)その昔から大山講の参詣者達の闇夜の道知るべ(道標)として知られてきた。ここは現在、ひかりの街団地の東南に位置する第一自治会館の前あたりである」とあります。残念ながら大叔父はこの本を出版してすぐに亡くなりましたので詳しい話は聞けませんが、明日にでも孫と散歩しながら見てきます。後日、庚申塔の写メールを送ります。   tomiko



 二つの実り
 我が家にも二つの秋の実りがありました。ひとつは、春に植えた一粒の種から実ったかぼちゃ。もうひとつは、学校の田植えの残りを持ち帰って育てた苗。どちらも狭い庭の一角やプランターで育てたものですから、環境は決して良くなかったのです。それでも、両方とも小さいながらも立派に実ったことで、親子は感動したのでした。何より愛おしさを感じました。先日の広報クリニックの進行を担当させていただき、我が家の二つの実りが広報紙づくりと同じだと感じました。各校の委員さんが、地道な取材(種蒔き)をし、レイアウトや記事書きに苦労したこと(育てる)が、広報が完成したとき(実り)の、大きな喜びになっていると思ったのです。かぼちゃは食べてしまえばお終いですが、広報紙はそれが形として末長く残ります。それだけでもすばらしいことだと思います。  naoka



 「ふるさと」は両親です
 このごろ「ふるさと」のお話が多いので、なんとなく私も考えてみました。「私のふるさとって何なのだろう?」と。
 私は、東京の駒込で生まれましたが、すぐに中野に引っ越して妹が生まれました。それから世田谷に引っ越して弟が生まれました。小1の時に相模原市に移り、それからはずっとそこで生活しました。学生時分から就職三年目まで生活していましたが、今の私にとっては、相模原には「ふるさと」という印象はあまりありません。思い出はたくさんありますがちょっと違います。両親は、父は定年退職を期に、鹿児島県の東郷町の父の実家で、二人で暮らしています。今の私にとっては、そこが「ふるさと」と思えます。幼少の時は転居ばかりで土地に対する執着が薄いんだと思います。
 私にとってはおそらく親そのものが「ふるさと」と思える気がします。今のところ、まだ二人とも健在なのでありがたいことです。半年前くらいから、月に一度親に手紙を書くようにしました。時々電話でも話しますが、手紙となるとちょっと形式張った中に思いが強く伝えられる気がします。何かあれば、今度の手紙にこのことを書いてみようなどと思いつつ生活しています。いつまでたっても親孝行できないので、とりあえずできることからやればいいと思って書いています。みなさんのそれぞれの「ふるさと」を読み、『わたしのふるさと』を書いてみました。   whale






2004年9月1日更新


このHPの日記を読んでの「返ってきたエコー」その1

  山形でも四十二歳の同窓会は決まりごと
                   
日記「寺山だより」に登場のAさんの話に、昨年の事を思い出しました。私の故郷山形でも42歳の同窓会は決まり事で、友達とは2年も前から「絶対に出るんだぞ!」と年賀状で約束していました。子どもたちのスケジュールの合間を縫って無理やり都合を付けての帰省でした。
中学の頃さんざん反抗した先生もいて、挨拶を聞きながら、昔と変わらない話し口に「あ、やっぱり私とは合わない」と感じました。子どもなりに正しい判断だったのか、私が成長していないのか…。好きだった先生は、担任を持ってなかったので、いらっしゃってなく、ちょっと淋しかったな。まぁ、そんなものですよね。体が丈夫な方ではなかったので、お元気なのか気になっていたのですが。
 数人の同級生は教師になっていました。その中の1人、小林君のことを紹介させてください。送っていただいた『エコー』218号を読んで思い浮かことでした。彼とは小学3年〜6年まで同じクラスでした。同窓会の幹事をやって、会の様子をその日のうちにサイトにアップしてくれた彼に、「小林君が小学校の先生なんて、ピッタリすぎる!」とメールを送ったところ、彼が開設したHPを教えてくれました。「学級通信で学級作り」のページを見て、こんな形の学級だよりもあるんだな、と思いながら3、4年の時に担任だった先生のことを思い出しました。
 彼の授業の様子の中に、私達もやった「遊び」や「ゲーム」のような部分を見つけたのです。「あぁ、原田先生も、こんな感じで授業してたな」と懐かしく感じながら、やんちゃな子はいてもキレル子などいなかったクラスのことや、どんなにおとなしい子でも自分の意見を持っていたことを思い出しました。40人以上のクラスの中では、それぞれの役があって、各自やお互いが認め合いながら生活していたように思います。時に不公平を感じることもありましたが、無理に「同じ」を求めることもなく、ちょうど居心地の良い不平等だったと感じているのは私だけだったのでしょうか。
 話が逸れてしまいましたが、『エコー』の中の学級通信の記事を読んだ時に、小林君の「長いこと学級通信を書き続けてきました。なぜか、やめられないんです。子供のため、保護者のためもあるでしょう。でも、自分が教師として生きてきた証として書き続けている、これが一番の答かもしれません。それではいけないのかもしれません。でも、書き続けます。子供たちのため、そして、自分のために。」の言葉を思い出しました。 K.R



 この日記を読んでの「返ってきたエコー」その2

  峰浜村に最近2つ目の信号機がついたそうです
 
 今日メールをさせていただきましたのは、先生の日記とエコーに秋田県出身のお方の話題が書かれていたからなのです。私も故郷が秋田県(北秋田郡)ですので、同郷のお方がいられますと嬉しくなってしまいます。お会いした事もお話をした事もないお方でも、同郷人と言うだけで一種の懐かしささえ感じてしまいます。岩井さんご出身の峰浜村に知り合いがいまして、最近村で2つ目の信号機がついたと話していました。ぽんぽ山とか、おらほの館の事も聞いたことがあります。岩井さんが書かれていますように、秋田では何でも語尾に「こ」をつけるんですよ。Aさんの話されていますように、秋田では厄年のお祝いを盛大に行います。本当に嬉しく懐かしく読ませてもらいました。
 一昨年の秋の事ですが、東京タワーの近くにあります「東京プリンスホテル」で「そのまま秋田講座」というお祭りのような楽しい講座が開かれました。秋田県知事、なまはげ、秋田おばこ、マタギ、たくさんの蔵元、秋田出身の著名人など多くの人たちが一同に集って、秋田にどっぷりの楽しいひと時を過ごしてきました。秋田県出身で現東大学長の佐々木毅さんが塾長、元国連事務次長の明石さんが副塾長でした。佐々木さんも明石さんも、テレビとかで拝見していた固いイメージではなくてとっても優しいおじ様でした。雑談をしながら、一緒にきりたんぽを食べてきました。
 年令と共に故郷が懐かしくなり、秋田関係の情報が耳に入るとつい参加をしてしまいます。今は休会の状態ですが、秦野市民の秋田県人会の組織もあります。市民の日には、何年間も「きりたんぽのお店」を開いていましたが、会員さんが忙しかったり高齢になって来たりで今は参加をしていません。HPで同郷のお方をお見かけしまして、何だか嬉しさのあまりメールをさせて頂きました。 K.S



  大子、袋田の滝へ

 先生とご一緒した全国新聞教育研究大会が終了した8月3日、Oさんの運転で12:30頃 水戸市民会館を出発。一番忙しかったOさんに運転してもらって申し訳ないなあ、と思いながらIさん、Sさん、そして私は座席でワイワイおしゃべり。ノンストップの車中ではIさまの「ヨン様放談」となる。ツアーに参加した人たちの動きや撮影現場、綺麗な風景、流れる音楽のこと等々、しばし楽しそうに話してくれた。「ヨン様までは手がまわらないよ」と私。
 やがて道の両側に幾つも山が続く風景になる。「あの山はそれぞれ持ち主が決まってるのかね」とIさんらしい質問。するとOさんが指差して「あの辺りずっとウチの山です」と言われみんなびっくり! 「 私も一度はそんな台詞を言ってみたいよ」と言うと、Iさん、Sさんも同感の面持ち。「その山の上に城跡があり、その向こうが我が家です」とOさん。「うーん、じゃ、御殿様なんだ」と私。「いったい水戸からお家まで何キロなの」と聞いたら40キロだと。これにもみんな驚き。しばしば毎日新聞社、朝日新聞社、その他に講師として出て来る回数が多いのに「よくもまあと」改めてOさんのいろいろな面での力強さに感心させられた。
 Oさんから「このあたりでは“おしん”のような生活もあるんだ」なんて話を聞きながら…、でもいっこうに目的地に着く気配がありません。袋田の滝まで水戸から何キロと聞いたら、50キロだと。あと12キロ!へえ〜、ホントにOさんには申し訳ないと思いました。
 「舟納豆」というの看板に興味を引かれながら、かなり走って到着。遅い昼食は「お蕎麦」、名物だけあって美味しい。滝があるはずなのに、炎暑熱暑、しばらく歩いて滝壷へ、だが、水が少なくがっかり。やけくそで吊り橋を揺らしながらどんどん渡っていく。Iさんだけがゆらゆらついてきて、上品なOさん、Sさんはお渡りにならないのでした。引き返す時に見た下の岩々の大きさには驚く。帰り道、雨に遭ったが「舟納豆」で納豆を注文し、一路水戸へ。Oさんにお礼を言い16:55の列車に乗り込む。
 、夕日に照り映えるみどり、一面の蓮田の蕾の輝きを車窓から眺めながら、今日の半日ツアーが水戸大会最高の「ひとこま」となったことをOさんに感謝したのでした。Oさんの素晴らしさに出会え幸せでした。 菅原 澄子




 2004年8月5日更新



 武さんも幸せですね

 帰宅しましたら「ECHO」218号が届いていました。いつもありがとうございます。毎回、感動を持って読ませて頂いておりますが、今号も、素晴らしいですね。武さんの生き方、うらやましい限りです。私なども、ずっと「地域の学校」「地域に根ざした教育」などと言いつづけて、私なりにいろいろなことをしてきたのですが、全て、赴任した先の学校の地域でのことで、仕事がらみ、ジプシー地域派、根無し草です。どんなに「成果」があがったように見えても、異動してしまえば、後のことはどうすることも出来ず、歯がゆい思いや虚しい思いをしたことも少なくありません。自分が育った土地、自分が現に住んでいる地域にしっかりと腰を落とし、地に根をはって、日常として、地域活動・地域貢献をしていくことの大切さ・素晴らしさを、武さんの姿の中に「よきモデル」として見ることが出来ます。秦野の人も幸せ、武さんも幸せですね。では、また。    
                                2004.8.3   吉成勝好



幸せな私です (撮影は吉永先生)
(全国新聞教育研究大会・水戸大会の全国交流会で神奈川からの参加者三人は「箱根八里」を歌いました。)



 高校の広報委員に立候補

高校のPTA委員は「三年間継続してやる」ということを知らず、広報委員に立候補してしまいました。初仕事は五月というのに30度という炎天下での陸上競技大会の取材でした。9時からずっと写真を撮りっぱなし。学校に戻ってきたときには顔から塩がふきだしていたようで、恥ずかしかったです。でも中学と違った“青春真っ只中”の若者達の熱気に触れることができ、楽しい一日でもありました。    (Iwa)

 末娘も4月に高校生になりました。それで、私は広報委員になりました。広報は初めてなので、ただ見て、聞いて、参加しているだけです。カメラも、文も、パソコンも、何もできないのに自分から手を挙げてしまい、今思えば「身の程知らず」でした。学生になったつもりで、これから広報の勉強をします。   (Kumiko)


19年目の柚子の木
 わが家の庭の隅に実生から育った柚子の木がある。その柚子が19年目の今年初めて花を咲かせ、今小さな緑の実をつけている。この19年目の柚子の木と、先日の朝日新聞の先生の記事とが妙にオーバーラップして(内容のウエイトは全然違います)、継続は力なりということを今更ながら重く感じています。先生の益々の意欲をお願いします。   (木瓜の花のひとり言)



今日も草取りですね ビールがさぞかし…
 先生の日記…蚊取り線香を腰に下げ、烈日を背追いながらの草取り…情景を浮かべると底抜けに可笑しい。この酷暑を笑い飛ばして、さあ頑張るかとこちらまで やる気にさせられます。新聞関係のお仕事に追われる日々、そして今度は畑や庭の草取りが続くという激しい大波の生活のリズムとスピードが迫ってきます。山田暁生先生の「オー 二十年か!」が重なっていっそう響いてきます。「先発の武さんが続けて走ってくれているので、私もフーフー言いながらも続けられていると思います」山田先生は素晴らしいエコーを送信なさった、流石だなあと思います。在職中、学級活動や学級指導で山田先生の新聞記事を何回か使わせて頂き懐かしく思い出されます。
 今月の一枚「アサガオ」と“朝顔やすでにきのふとなりしこと  真砂女”
 これはなんとも言えない恋心と朝顔が重なって波紋のように広がっていくようです。華やかなアサガオの写真でなく、ささやかにしっとりと、それでいて これから美しく広がっていきそうな感じで、句とよく合っています。瀬戸内寂聴「いよよ華やぐ」が日経新聞に連載していたころ、朝イチ楽しみに読んでました。阿紗女と称して、鈴木真砂女の来し方・行く末の熱情が語られ「さすが 寂聴さん!」と思ったのでした。今日も草取りですね。ビールがさぞかし…。   Sugawara






2004年7月1日更新



 オー 二十年か!           やまびこ会主宰  山田 暁生
 いつもECHOを読ませていただきながら、全くのご無沙汰で申し訳ありません。自分の主宰している「やまびこ会」では「エコーをください。それが発信者にとって何よりの励みになります」などと、度々言っているくせに、有言不実行の見本のようなことをしていて、恥じ入るばかりです。
ECHO第215号(2004・5・1発行)を読み進めているうちに、「ECHOは創刊20年目にはいりました」に目が止まりました。「そうか。そうだな。20年か…」と、しばらくこの控えめに記された見出しを眺め、創刊当時のことなどを私なりにいろいろ思い出していました。
 武さんはずっと新聞教育の実践をしておられ、その実践では既に全国に知られた実践の第一人者でした。「新聞教育のことなら武さんに聞けば何でも分る」と、新聞作りを教育に取り入れようとしていた先生方はそう思っていました。 「コミュニケーションを重視した教育」という点では私も学級通信活動や保護者との対話活動に熱を入れていたものですから、東京と神奈川という別の地での実践ではあっても、自然とお互いに引き合うものがありました。
 武さんに学校の研修会に呼んでいただいた時は先生の多さにびっくりしました。確か80人を超えていて、研修会場(図書室?)に入った時はあまりにも多いので、「あれ?ほかの学校の先生方も一緒ですか」と聞いたのを覚えています。超マンモス校でしたね。
 武さんも私も、「ECHO」の題字下に書かれている「・動かなければ出会えない・語らなければ広がらない・聴かなければ深まらない」と思っていましたし、お互いの実践にはこの思いが共通していましたので、「お、武さんやってるな」と武さんのたゆまぬ実践にずっと関心を持ち続けていました。その武さんが「自分の思いを自分の言葉で、誰の制約も受けず、広く伝えていきたい」と、1985年5月に「ECHO」の発行をスタート。それを手にした私は猛烈に「自分もこのようなことをやりたい!」と思ったものです。
 しかし、現場は、全国的にも私の勤務校も荒れまくっていましたので、朝は7時前に出勤、帰りは夜の11時過ぎといった状況でしたので、何とか日刊通信は出せていたものの、外に向けて、月刊で何かを出すという作業は、とても出来そうな状態ではありませんでした。
 それを武さんは軽く(?)できている。困難を乗り越えてでも、自分の思いを外に向けて発信したい、というその執念ともいえる意欲が実行まで具現されている事が私にとって、とても魅力でした。
 ある出版社の社長さんの励ましもあって、武さんに遅れること1年後に、「やまびこ会」を立ち上げ、毎月8ページ立ての通信を作り、全国に発信しはじめました。1時は650人ほどの会員が全国から会への参加があり、その頃は私も死に物狂いの対応生活でした。家族はみんなあきれ返って、最初は協力的な姿勢があったのですが、そのうち「こんなお父さんの趣味にはついて行けない」と女房や子どもたちからも「好きにやれば」と突き放され、孤軍奮闘の日々を続けることになってしまいました。 武さんのご家族はどうだったのでしょう。わが家と比べると格段の違いがあり、みなさんよき理解者だったのではないでしょうか。
 わずか9行の文章でしたが、「ECHOは創刊20年目にはいりました」の文章を読みつつ、あんなこと、こんな事が思い出されてきたのです。書けばいろいろありますね。 意志力の弱い私は、1か月入院した時は、「自分に負けるようでちょっと口惜しいけれど、この辺が止め時か」と思ったこともあり、郵便料金が値上げされ、かといって会費を上げるとごそっと退会者が出てさらに立ち行かなくなる。 子育て真っ盛りの当時、家計からやまびこ会に補填と言うわけにも行かず、いろいろ気苦労も勉強させてもらいました。
 武さんは「自分の思いを自主的に出していくのだから当然」ということでしょうか、随分長い間、無料で送り、郵送料も武さん負担という、とても考えられない形で、実践しておられました。 インターネット時代の今日も、武さんはホームページを持ち、さらに、紙でも皆さんに伝えるという、誰も真似の出来ないことをやってのけています。本当に凄い人ですよ。 先発の武さんが続けて走ってくれているので、私もフーフー言いながらも続けられていると言えます。
 武ECHOがストップしたら、私の教師になって始めた1960年からの「やまびこ実践」も、あの世往きになるかもしれません。







2004年6月1日更新



  今朝は爽やかな富士が

 今朝は雲を吹き散らして富士山が爽やかに…。先生のハードスケジュールに驚きながら、お体は大丈夫かな?と気になってましたが、26日の日記 “5月25日 夜のPTA広報講座 ”の最後に「…11時半過ぎに帰着。体は疲れたが、心はかなり上気した今日だった。」とあり、よかったなあ!と安心しました。どんなに忙しくても心が満たされると、体内によい気が巡り、幸せなんですね。また、先生自ら担当される講座が多く大変な中、“講演「大山講と大山道 ”に参加されたのも心打たれます。「大山道・蓑毛通り」から、先生の御本「寺山ものがたり」に出てきたのを思い出し、開くと36ページに「寺山地内を通る大山道」とあり、もう一度読んでみました。   sugawara


 先日、八十八ヶ所巡りを終えてきました。坂出の句友との再会も果たしてきました。万緑の中を流れる四万十川がたとえようもなくきれいでした。    tochigi



返ってきたエコー

 養花一年 看花三日

 さわやかな「ECHO」215号 ありがとうございました。新任地の激務の中、気がつけばゴールデンウイークも終わり、五月も半ばを過ぎていました。「鯉幟を見たかしら」と不安になるほど《下向き》で多忙な毎日です。四月下旬に第1回目の新聞部会が開かれ、ヤル気満々の部長・副部長と30名の部員で今年度第1号発行に向けて頑張っているところです。「ECHO」巻頭の「養花一年看花三日」のお話のように、読者の心に残る新聞づくりをめざし、努力を惜しまぬようにしたいです。    kunisaki


 煩悩の権化たる私は、一年中どこにでも咲いていたい、咲かせて見せるタイプ(ベストを尽くすという意味ですが)。生き物の本質なのでしょうが「養花一年看花三日」、意味深い言葉です。    koumei


  「エコー」20年 おめでとうございます。そしてありがとうございます。さまざまな山や谷を越えての864ページだったことと存じます。これからもお続けいただければと願っております。「さくら」のお話、ありがとうございました。私の『心の花びら』のページがまた増えました。「養花一年看花三日」私もさらに一日一日を大切にしようと思います。栃木さんの新聞づくりの話、あたたかくて、やさしくて、…微笑んで読みました。      matsukaze


 あっという間に新緑のまぶしい季節の到来です。215号ありがとうございました。「養花一年看花三日」心にしみました。今年、福島三春の滝桜の満開に出会うことができました。感激し、角館まで足を延ばしてしまいました。ライトアップされた先生の庭の桜に、来年はぜひお目にかかりたいと思っています。    kuniko


 木々の緑に生命の燃える力を感じる季節です。「養花一年看花三日」という魅力的な言葉に引きつけられ、拝読させていただきました。果実も花も、その出来上がった美しさにだけに目が行ってしまう日常。この言葉にハッとさせられたのでした。     kazuko
 

 215号の「養花一年看花三日」を読みながら、毎年春に「桜ばかりであるまいに」と五七五の句もどきをつくったことを思い出しました。私は雑草(雑華)が好きでして、春のころは「下を向いて歩こう」などと言ったりしています。誰も養わず、誰も意識して看ず、しかしそれぞれに美しく咲く、そんな雑華たちです。「散り敷いた 花びらを掃く 人もあり」「若草抜く たがいに雑草 なのになぜ」。今年もこんな五七五をつくったしだいです。どうぞ、お体お大切に。    hasegawa kou


 美しい新緑の季節となり、その緑に毎日変化が感じられて、うれしい日々を過ごしています。四月、長男は希望する運動部に配属になり、期待と不安で目いっぱいのようです。とりあえず家からに通っています。学生時代と同様「不規則」そのものの生活ですが、充実した日々を送っているようです。娘は、考えた末浪人することになりました。相変わらずマイペースです。落ち着かない春でしたが、私を含めそれぞれが自分の生活を始めました。(私は、夕暮れの桜―夕食を作っている時間、公園の桜がだんだん消えていく―を眺めるのが好きです。)    toki


 毎月のエコー ありがとうございます。いろんな人が、いろんな所で、いろんな発見をしている、それを読むのは楽しいです。中学生向けの「サクラ」の話、良かったです。コールデンウイークに諏訪で初めて御柱のお祭りを見ました。秦野市のソフトボールの仲間40人との小旅行。息抜きができました。    michy


今年も子どもたちと新聞づくり
 新年度が始まるやいなや運動会と、日々に追われています。帰宅時間はますます遅くなり、仕事を上手にこなさないと…。創刊以来20年の『ECHO』をお手本に、今年も子どもたちと新聞づくりをしています。子どもたちの、生き生きと楽しそうなのが何よりです。どうぞ健康第一で、『ECHO』を継続くださいますように。    kamoi


 山々が緑に覆われています。エコー215号による先生のお姿、日々お元気の様子が映されています。6Pの同窓会のようす、わがふるさと御殿場へも足を運んでいただき、よい思い出を作ってくださりありがとうございました。心温まる師弟愛でうらやましい限りです。10回以上も続く仲間意識の形成には、きっと先生の新聞教育の展開があったからでしょう。私も日々の教育実践に打ち込みたいと思います。    katsumata


 215号のエッセイ、「から『引越し』」を読んでのこと。大げさに言えば、今の日本にこんな愛情、そして周りへの気配りができる家族がいることを非常にうれしく思いました。この家族の姿が目に浮かぶようです。    木瓜の花の独り言


最近、自分のHPを作ろうかななどとほんのちょっと思ったのですが、運営が大変だよ、と知り合いに言われ、身近な人のHPはどんな風になっているだろうと、ECHOの事を思い出して検索して探し当てたら、まあなんとすてきなHPになっていること!(素晴らしいですね。失礼ながら、この前に覗いたのはHPを立ち上げられて少したったくらいの頃に数回・・・だった気がします。本当にいい加減な人間で・・・。あの広報の仲間とは、13人が8人に減りましたが今でも毎月食事をしたり運動をしたり集まっています。個性豊かなメンバーばかりなので、ここまで続いているのも不思議です。この前の日曜は中学校で市民体育祭でした。自治会の体協をしているので、小雨で寒い中、1日グラウンドにいました。中学の正門の方の道路はもう何年も通ってなかったのですが、先日たまたま通ったら工事中で景観もすごく変わっていますね。家もたくさん増えて、先生のお宅の入り口がどこだったか判らなくなってそのまま通り過ぎてしまいました。    kumiko






2004年5月1日更新



 「寺山日記」は楽しみです

 雨の降り出しそうな夕暮れ、近くに買い物に出かけたら花吹雪が舞っていて、道路の脇にも綺麗な桜の花びらが盛り上がっている。おや?今ごろなんで? とキョロキョロすると、「電子セイコー」の庭を囲んでいる10本位の大木の八重桜が満開で華やいでいる。刻々と移り行く春を感じています。
 3月31日の深夜、一人で真間川の夜桜を見ながら花房を採ってきて、玄関にある小さな薄いピンクのガラスの瓶に挿しました。それが我ながら気に入り、満たされたのでした。そして、PCを開いてみると、HPが更新されていて、 今月の一枚「さくら」が鮮やかに飛び出してきました。透き通るような満開の花びらにうっとり。“ 特急のゆっくり通る花の駅 ” いいですね。ややしばらく 流れる曲に乗りながら見入ってました。そして、エッセーの「・・・考えてみれば私たちの生活はすべて『養花一年 看花三日 』の一語に尽きるのではないでしょうか。」に、しばし感慨に耽ったり、何もやってない自分を反省したりしていました。
 どんなに忙しくても先生の日記は楽しみです。いろいろな鳥の声が聞こえて来るような気がしたり、ああ、ハナミズキは私の大好きな花、毎年家庭訪問の頃に満開のハナミズキに出合って楽しい思い出がちらついたりします。我が家にもヤブカラシが、等々、いろいろなことに気づかされる面白さがいっぱいあります。
 4月8日の「花祭り」は、なんとも美しく気品のあるお話しですね。円通寺からお母様へ届けられたご馳走と墨の直筆のお手紙。それを しっかり読んで 二度も拝んで竹の子ご飯を召し上がったお母様。本当に幸せなひとときが伝わってきます。長寿の方に、このような幸せをもたらして下さる配慮が素晴らしいと思います。では、では…。    sugawara




 故郷は沼津 海が近いのに泳ぎはダメ

 私は沼津御用邸まで歩いて15分というところで生まれました。小学生のころは、水着のままで浮き袋を小脇に抱え、1メートルくらいの竹竿を持って友達と海に行きました。(今、そのかっこうを想像するだけでも恥ずかしい、まさしく田舎者。)途中、釣餌屋さんでゴカイを買い、我入道海岸や牛臥海岸でアジやコチを釣って遊びました。泳ぐだけなら御用邸の近くでした。でも、海に通っていたのに、釣りで遊ぶことのほうが多かったので、泳ぎはまったくダメです。足の着かないところは怖くて、水平線と平行に泳ぎました。海が怖いのは溺れたことがあるからです。『ここまでは安全』のポールまでやっと泳ぎ着いて、ヤレヤレと立ち上がろうとしたらズブズブと沈んでしまいました。水を蹴り上げやっとの思いで浮き上がったら、友達がニコニコと「なかなか浮いてこなかったのでどうしたのかな、と思ってた」と言うのです。「スゴーク怖かったのに」と私は怒りました。
 海に近い私のふるさとですが、川も近くにありました。狩野川です。父はそこで蟹を捕って来て食べさせてくれました。おいしかった。夏の夜は花火大会がこの川原でありました。お座敷で、打ち上げられる花火を待ちながら食べたお弁当もおいしかった。初めてボーイフレンドと夜店を見て歩いたのもこの川の花火大会。今は父も母も故郷にはいませんが、沼津は本当に私の心のふるさとです。 
                masumi



 わが家と「スイミー」

 214号で『スイミー』のことを読みました。なつかしく、うれしく読みました。私が初めて『スイミー』に出会ったのは、長女の国語の宿題でです。ワークブックの問いを娘と一緒に考えたのですが、その時から娘と私は『スイミー』の話が好きになりました。長男、次男も『スイミー』の教科書だったのです。今月の「エコー」に『スイミー』という文字をみつけ、あの頃のわが家のことを思い出しました。それで、夕食のテーブルで、久しぶりに『スイミー』を話題にしました。わが家はみんな『スイミー』が大好きです。     mihira







2004年4月1日更新


  親離れ

 娘は相変わらず週3日、4時起きの始発でアルバイトに出かけています。いつまで続くかと、タカをくくっていたのですが、しぶとくがんばっています。4月に買う教科書のお金が足りないようなことを言っているので、少しかわいそうに思い「少しだしてあげようか」と口に出そうになったのですが、本人のため(?)とグッと飲み込んだのでした。
このところ疲れているようで「わたし、過労死するかもしれない、美人薄命だし」などと言っています。それを聞くと、また「少しは」と言いそうになるのですが「美人じゃないからそれはないよ。それに辞世の句はできているの」と私。「それがまだなのよ。信長より、だれよりも美しい辞世の言葉を残すんだ。」そして「それより、お母さんこそ、早く辞世の句を考えたほうがいいよ。間に合わないよ」と、こんな会話を交わしています。
 早く子どもの手が離れて、楽になりたいと思っていたのですが、今は逆にもう一度私の胸に帰ってきてほしいような、一抹の寂しさ感じています。
 さてさて、一方の息子は果たしていつ自立してくれるのか。反抗期に入り、扱いにくくなった彼に負けてはならじと、乏しくなった体力と無い知恵をしぼり、日々戦っています。      atsuko



 夕月が夜桜の風景を引き立てています

 風の中、ポストに出しに行ったついでに、真間川まで足を向けました。夜桜が冷たい大風に揺れて、ずらりと並んだ提灯もゆらゆら・・・・、川面も踊る提灯で輝きを増しています。青みを帯びた夜空に星が瞬き、西に位置する夕月がくっきり大きく、夜桜の風景を引き立てています。二分咲き、三分、五分、六分咲きと木によりまちまち。花びらも吹きさらしで寒そうだけど、気品と華やぎを秘めて魅力的です。
 家に戻ってPC開くと、なんと先生の日記に桜のことがあったので驚きました。やはりこの時期は自然も人々も独特の空気が漂い、ある種の興奮を覚えます。人事異動の件でメールが幾つか入ってきますが、共通点は出られてよかった、次の学校ではこういうことをやりたいと、目標をしっかり持ってる人たちです。「まだ内示の段階ですが、4月からは新聞を子どもたちとがんがん実践していきたいと思います」なんて入ってくるのも嬉しいものです。因みに千葉県は明日、27日が新聞発表です。
 4月1日のマンスリーエッセー「桜」楽しみにしています。この風と冷えでは明朝富士山がくっきり見えることでしょうか。
                             sugawara



  PTAのあり方は常に考えていかないと

 そろそろPTAの次期役員選出の時期になり、抽選で選んだとか、言いたくもない家庭の事情まで洗いざらい言っても「勘弁」してもらえなかったとか、情けない話を聞きます。幸い、I中ではそういうことはほとんどないんですが、PTA委員役員の引き受け手が年々減って、最近では存続も危ういことを思うと、子ども達はどうなるんだろうと心配になります。
 実は私は今年度、高校の学年委員もやっていましたが、高校に関しては来年度はやめておこうと思っています。やって楽しくなかつたわけではないのですが、基本的に高校にはPTAはいらないだろうと思っていますし、どうも、学校後援会で、そのことをだれも疑問にも思わないようで、そういうPTAには、私は関われないなと思うんです。
 子ども達の精神年齢がだんだん下がってきているという話もあつて、まだ高校生の間は親が出なければいけないのかな、と思うこともちょつとありますが、できるだけ親は前面に出ないですませたいものだと考えています。息子のことを見ると、本当にまだまだ幼くて、上の娘よりずつと頼りなくて、つい口出しもしたくなりますが、それでももう16歳なんだから、親がああしろこうしろというのは極力さけたいと思います。PTAのあり方は常に考えていかないといけないですね。       setsuko



  読者一人のための新聞づくりを楽しんでます

 今、五日に一度、読者一人のための稚拙な「ニュース紙」を作っています。お隣の奥さんが突然入院され、面会も叶わないため、思いついたのが手紙を書くことでした。お隣のきれいな庭に花が咲き始めたのをデジカメに収め、A4サイズにレイアウトし、言葉を添えて送ったのが始まりでした。夕方になると金柑の枝に泊まっていくヒヨドリを撮ったり、近所に入った空き巣の話など、少しずつ紙面づくりを工夫し、私自身も楽しめるようになりました。ご主人の話では「とても楽しみに待っています」とのこと。もうしばらくこんな日が続きそうです。      tochigi



  周りに支えられてできた広報

 楽しく見やすい広報作りを目標に、この一年をみんなで協力し意見を出し合いながら、学校に何十回と通い、忙しくも充実した日々をすごしてきました。広報の特稚として、日頃見ることのできない子どもたちの表情や行動、学校行事での子どもたちのがんばり、また学校と地域の方々の広い範囲での関わり合いなど、今まで知らなかったことが広報を携わることで見えてきました。
 確かに広報を発行するまでの労力は大変なものです。でも、でき上がった時の達成惑は本当に気持ちのよいものです。また、学校外の方々にも『良かったよ』の声をいただくと、まだまだ頑張れるという気持ちにもなるものです。私たち六人で作り上げた広報というよりも、まわりのたくさんの方のご協力やご指導をいただきながら完成していった広報でした。最後に結果が残せて委員一同大変うれしく思います。武先生からのアドバイスやねぎらいのお言葉をいただき、とても励みになりました。ありがとうございました。
                                            眞由美

 




2004年3月1日更新

 中学校が地域文化の発信地になれたらいい

 拝啓『エコー』212号をいただき早速読ませていたきました。
「国際理解」のこと
 総合的な学習の時間の内容にも入っています。「国際理解」というと、外国の風俗を学び、言葉を覚えたり、服装を着てみたり、楽器を演奏してみたり、その国の人と同じような実体験をしがちです。おそらくこの分野の実践としてこのようなことが行われているでしょう。その中で「国際理解はまず足元から」というのはよい観点です。英語の勉強も大切だけれど、まずは日本語を使いこなせるようになることが大事だろう、というのと同じだと思います。

 『寺山ものがたり』、購入しました。この本を見たら、東中の総合の時間の調査は十分、進めることができます。東中の生徒がこの本を読んで、東地区を、秦野市を実体験することができたら、また新たな視点を見いだすことができそうです。空き教室の利用法として、これらの資料を集めておく場所にして、そこには常駐の先生(地域に住む方)がいて、学校の職員にも生徒にもいつでも資料を提供することができる。また、地域のことについていろいろな質問を受け付け、地域の人達もぶらっと寄ってお茶の一杯でも飲みながら昔話に花を咲かせたり、夜は地域の会合の場所としても提供する…なんてことができたらいいでしょうね。

 青少年指導員をもう一期、あと2年務めることになりました。子ども会や公民館・児童館などとの連携で活動していますが、このところ青少年指導員独自の活動を模索していて、岩田先生のご指導により秦野の民話の紙芝居を製作したり、地域を巡るウォークラリー大会を企画したり、と研修委員会を中心に、に新たな方針が構築されようとしています。         mita




 秦野のいい空気を吸ったようで爽やかでした

 1月24日の朝は8:00〜NHK「ふるさとすてき旅」で、秦野のいい空気を吸ったようで爽やかでした。水がいいというのは産物も料理もすべて美味しいですね。なるほど銘酒もさぞかしと・・・。先生の御本にある、湧水、井戸神様、名水、清水、湧水池、水神様、伏流水、湧水群、名水百選等々の言葉が感じられ、”水神様の祭り”の話と92Pの”おいしい水マップ”がリアルに伝わってきました。   sugawara

 


『寺山ものがたり』を長男が買ってきてくれました

「寺山ものがたり」 読ませていただきました。長男が会社の帰りに買ってきてくれました。
寺山・蓑毛のことが書かれているこの本は、知っている地名がたくさん出てくるので、読んでいて私はにこやかになります。
小学校のとき、武俊次先生から「源実朝」の話を聞いたことを思い出しました。
書初めを暮のうちから書き、近所の家の神棚に貼ってもらい、だんご焼きて燃やしました。高く燃えあがったので「字がまくなる」と喜びました。でもこの通りの字です。 楽しく、懐かしく読ませていただきました。ありがとうございました。    noriko




 元気をもらいました

 ずい分と長い間ごぶさたしています。
 数日前に届いた「エコー」の欄外に「全国コンクールの審査会で『ぬま』にお目にかかりました」という一行のメッセ−ジを見つけて感動しています。 3年前からフルタイムの仕事に変わりました。「無理かな」と思いながらも昨年からPTAの広報委員長をまたもや引き受ける事になり、同時に昨年1月に職場の広報紙を創刊、編集長を引き受けて頑張っています。さらに昨年6月からY新聞のミニコミ紙の取材と原稿を頼まれ…あれもこれも断る事が出来ずに何とか今日までやってきました。たまに何にもない休日があるとボーッとして、何もしないまま一日が終わってしまう事があります。
 そのボーッとなりそうな休日の前に「エコー」が届き、先生の温かいメッセージを見つけて嬉しかったです。明日は今年度最後の発行となる広報紙の編集会議で追い込みです。3女と7才も年の離れた4女は今年中学三年生になります。学校も機械警備となり、夜間の使用が難しくなりました。時代の流れにくじけそうになったりしますが、もう一年で最後のPTA活動です。先生からいただいた一行のメッセージに元気をもらって頑張ろうと思いました。     moon

  





2004年2月1日更新


どれだけ子どもと向き合えるかわからないが

 小6の長女が最近ギターに興味を持ち始めまして、ちょうど私がギターを始めたのが小学校5年生でしたから、まあ同じような人生の始まりを感じさせてくれるようでうれしくて仕方がない毎日です。でも、これがなかなか他の会話をするのは難しい年頃にもなっており、このギターを教える時が一番会話できるという複雑な思いでもおります。で、話はここからなのですが、こうして日頃すれ違いがちな娘との会話の中(つまりは反抗期の中)で、どうすれば、親としての真意を伝えることができるんだろうなって悩み始めた数ヶ月、ある番組が、「ついこの間まで子ども子どもしていた娘が成長して変化している姿を自分はどれだけ受け止めているんだろう。」ってつくづく反省させてくれました。いろんなことで「これはだめ、こうしちゃいけない。」と怒っている自分ばかりで(妻も)、どれだけ娘の言い分を聞いてやっていたか…。どれだけ向き合っていたのかな?って、娘の変化に追いつけなくて、ほとんど聞いてやっていなかったな、と。
 「俺が、全部受け止めてやる。おまえらのすべてを受け止めるから」と、反抗的な女子高校生と顔をすりあわせて叫ぶせりふでした。感動のせりふでした。 この番組は、「ヤンキー母校に帰る」という番組で、おそらく良識ある大人が聞くと「あーあ、あの番組ね!」と言われそうな番組なんですけど、これがその真剣な教師の姿を見ていると、まあテレビですから、あそこまでは本当には・・とは思いますが、なかなかどうして感動させられることが多くて、やみつきになっているんですね。
 先生もご存じと思いますが、そのモデルになっている高校は北星学園余市高校で、その教師義家弘介氏が書いた本が原作となっているドラマですが、この義家氏も同学園に在学中は相当の不良で、ある先生の思いを胸に立ち直り、自分も教師を選んだという異色の人生を描いたものになっています。すべての教師が、あああるべきだなんてことは言えません。それぞれの先生が、それぞれ個性の違う生徒を受け持っていらっしゃるのですから、人に言えない苦悩を教師の皆さんがそれぞれに抱えていらっしゃるのだと思います。でも、理屈の前に「身体でぶつかる、自ら飛び込んで体験してみないと・・」と言うのも私の人生の中では大切で大事にしていることなので、自分としては、そんな部分に共感を覚えるのかも知れません。まあそうはいいつつも、私の威厳が保てる唯一のものが、このギターテクニックとは・・、何が幸いするかわかりません。今後も、教師依存型の親ではなく、親としてどれだけ子どもを受け止められるかをよく考えながら子どもと向き合っていけたらなと思います。
 今年もいろいろありがとうございました。来年も楽しみにしています。今のうち、最繁忙期に入る前に、一度たよりをと思いましたが、例により、何を書いているかよくわからない文面となりました。来年もよろしくお願いします。

 平成15年12月6日
                               from   Etto



「晧晧と照る月」

 いいですねえ〜! まさに今夜の満月、この時間 空を見上げると月天心ですね。くっきりとキラキラ輝いて青みを帯びた透明な夜空に寒さを際立たせています。いつもより星の数も多く煌いて風も冷たい。「月天心・・・」の蕪村の句もとても好きです。先生の日記から素敵な日本の風景が浮かんできます。
 風景といえば、4日は ちょっと高級な空気が伝わってきました。横浜美術館の3時からオープニングセレモニーに招待されたのです。「東山魁夷―ひとすじの道―」。記者会見および開会式、グランドギャラリーで。高円宮妃久子殿下、日経新聞、テレビ東京、神奈川新聞、東山すみ様、唐招提寺長老、その他、厳かで温かい雰囲気で始まりました。展覧会を催すに当っての魁夷様の奥様のお力と情熱に感動しました。今回は作品数も多く、これまでにない大きな企画。空調がよいので、”御影堂障壁画”から波の音や風が心身に伝わってくるようでなんとも言えない心地。
 1月5日〜2月24日開催、後半30点ほど作品が入れ替わるので、もう一度行けたらと思ってはいるのですが…。前夜、寝てないので非常に疲れたけど、素晴らしい日となりました。      sugawara

   

 秦野の教育 これからが楽しみ

 12月の「秦野教育懇談会」の提言はいいですね! 提言の後にいろいろな立場の人たちがグループごとに話し合い、その中で何をしていくのか確認しあうのはとても大事なことです。お互いの立場を分かり合えるというか、分かり合う努力ができるというか― うらやましい限りです。行政だけでなく一般市民も巻き込んでいっしょに考えていく姿勢はすごいですね。これからが楽しみです。寒さが厳しくなります。ご自愛ください。
    homan






2004年1月1日更新

 みんなが力を出し合えば

 先日、東京に「第九」を聴きにいってきました。最後の合唱の場面では、その迫力とそれを支えるエネルギーに圧倒され、「人間てスゴイ!」と思いました。思わず、目頭が熱くなりました。一人ではできなくても、みんなが力を合わせれば、そこから湧きだすエネルギーは無限。昨今の戦争やテロなどのニュースを目にしたり、聞いたりするたびに、みんなの力でこの困難を乗越えられないのかなあと考えるのです。        mariyo



 秦野教育プランについて

 「秦野教育懇談会の提言」は、じっくり味わいながら読ませていただき、さて、私の市はどうなってるのだろうと気になります。特に私が心引かれたのは、「秦野教育プラン基本コンセプト」も「秦野」で「望まれる子供像」についてのどちらも、 1番は秦野の自然、風土、に関することです。これまでの武先生のHPから教えていただいた秦野の自然や風土、文化がいっそう迫って来るようで嬉しいです。『生まれ育った「ふるさと」の原風景は、一生涯心に残り、その人の人となりに大きな影響を与えます。秦野の自然や風土を愛し、人としての豊かな感性を持つ子供に育ってほしいと思います。』の言葉、とても気に入ってます。      sugawara



 秦野市が市をあげて教育に取り組んでいる様子が良く分かりました。その中でも,新聞を教育に取り入れて行く姿勢を拝見し,大変嬉しく思った次第です。「次代の秦野を創るのは私たち」は,大人も子どもも共に責任の重さを分かち合うこと,そして夢を実現しようという素晴らしい言葉です。          noda



 テスト問題に新聞の記事

 先生 風邪など引かれていないですか。今、日本だけでなく世界が大きく変化しています。学校も同様ですが、生徒達と楽しく元気にやっています。試験問題を同封しました。ごらんのように毎回新聞記事を扱っています。「日本全図」と「世界全図」の地図は、歴史の授業でも常に掲示するようにしています。     ohtsu



 トゲ
 
 ふとしたことがきっかけで、中1の子どもに私のことをどんな人だとおもっているのかを聞くことができた。すると「きれいな花にはトゲがある」と答えた。「キレイな」はお世辞だが、それでもうれしい。だが、実はトゲを強調したかったから、そう言ったようだ。下の子たちに同じことを聞けば言いたい放題。そうでないこの子から“トゲ”という指摘は“注意信号”なのかもしれない。子どもたちの成長に負けないように、母親としても努力しなければ。    Akemizu





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