Somewhere in My Heart
  ~ Katsumi's Monthly Essay ~

にっきの木(日記の己)


庭に古びた一本のにっき(肉桂)がある。秋が終わるころ陽光を入れるために枝を下ろす。すると庭いっぱいに
あの香りがただよう。葉をかめば、幼いころ巡り歩いたあちこちのお祭りの夜店の光景が浮かんでくる。
このページ「にっきの木」には,いつの日にか懐かしく読み返すことができたらいいと思うことを記そう。

 マンスリーエッセイ 最新版 2014年 以降 はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2007~2009年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2004~2006年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2000~2003年 掲載分はこちらへ


2013年12月1日更新


秋深まる朝

  12月のモノローグ  「人生八十年」 の残余の時間
 64歳になった教え子たちのクラス会に出席した。そこでの話題が東京オリンピック、そして故郷・蓑毛を通る新東名高速道。いずれも7年後のこと。「私には縁のない世界の話かも」と加われなかった。
 2012年の日本人の平均寿命は女性が86歳、男性が80歳。「人生八十年」、いや「九十年の時代」になった。「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」。これは幸若舞い「敦盛」の一節で、織田信長が好んで、歌いつつ舞ったという。
 かつては「人生五十年」だった。働きに働き、気が付けば足下に死。だが今は「人生八十年」の時代。80年を生きることになった今、「生と死」の間に「老い」と「病」が入り込み、「生老病死」が人の一生を表す言葉となった。しかも、その老と病の時間は長い。その長い時間をかけ、「死」に向かい合うのが現代である。
購読している東北地方の地域紙に訃報広告欄がある。80歳を超えた方の訃報の言葉は、「天寿を全うし」人生を締めくくられた、と記される。まもなく「天寿を全うする歳」の私が、生を《全う》できたかどうかは残余の時間の過ごし方次第であろう。



2013年11月1日更新

武勝美の道祖神めぐり    その5 新潟・柏崎市、群馬・高崎市、群馬・中之条町       2013年8月26~29日


 越後もまた道祖神の宝庫 (下)
 私の道祖神めぐりも、神奈川・群馬・長野・静岡・山梨県は済ませた。それでこの夏は、少し脚を伸ばして新潟・柏崎市へ。資料によれば柏崎市の道祖神碑は県下では栃尾市に続いて第2位の造立数で、88基が確認(平成5年調査)されている。

 柏崎市立博物館を辞し外に出たら朝の天候と打って変わり真夏日。渡邉さんからいただいた詳しい資料も加わったので、これからの道祖神探しは楽になると思った。

 目指す道祖神にお会いするにはかなりの労力が
 道祖神めぐりを始めて分かったことの一つが道祖神の在り処はそうたやすく発見できないということ。その理由は、①開発により移されたり、不明になっている道祖神があること。②道祖神祭りが行われない。あるいは縮小を余儀なくされているので、地域の人たちにその存在が忘れられ始めていること。③道祖神の資料集は発行されているが、所在地が明記されていないこと。こうしたことにより、尋ね当たるまでにはかなりの労力を要する。だから対面できたときの喜びはことのほか大きい。
 先ず探したのは旧広田地区(引地) の「通称・三社宮=正式・天照大神社 付近の道祖神」。「三社宮の下・K氏宅の左横土手」と記録されているもの。神社はすぐに見つかったが道祖神は見当たらない。目標のK氏宅はすでに生活が放棄されていた。ようやく出会えた小学生を持つお母さんが、真昼の暑い中を現地までご一緒してくださった。K氏宅の右横の土手、生い茂る夏草の陰に道祖神は祀つられていた。「一年に一度しかお参りしないので」というすまなそうに言う案内のお母さん。この道祖神は、地域の子どもが『サイノカミ祭り』を行うということで知られている道祖神。ほそぼそだけど今も「サイノカミ祭り」は続けられているとのこと。少子化がここにも表れている。

 「神奈川から道祖神を見に」は絶大な効力
 次は、同じ地区に立つ「元北条中学校寄宿舎裏手の道祖神」を訪ねた。寄宿舎と思われる建物はすぐに見つかったので裏に回る。だが道祖神は見当たらない。それでまたご近所のお宅のインターホーンを押す。50代と思われる女性が出てきてくれた。訪問販売か布教と思われそうなので「神奈川県から道祖神を見に(お参りに)来た」と先ず言う。この「神奈川から道祖神を」は絶大な効力があって、「まあ」「ご苦労様」という言葉が返ってくる。
 資料にある「真裏」は、建物から30メートルほどの真後ろの段々畑の畦道に立っていた。寄宿舎からは見えない高さ。神祇の祝言像で、地元の人たちに「耳の神さん」とも呼ばれている。「耳の神」は子どもの耳の病気「ミミダレ」を治す神のこと。谷根地区の「こもかぶり道祖神」は「脚の神」で、これは〈脚気〉を治してくれる神。秦野の道祖神は「万病を直す神」だが、こちらは専門医。
 続いて大広田地区の「屋号・サイノカミ宅前の道祖神」を探す。ここでも「神奈川から」と驚かせ、すぐにたどり着くことが出来た。地区の中心・県道も走っているので木の祠の中に安置されていた。肩組み・祝言像で明治9(1876)年の造立。さらに「大広田公民館~I宅の間・F氏宅上の旧道 堂の中」と記録されている道祖神を探す。
 公民館とI氏宅の間の道を何度も往復したが見つからない。それで、Iさんの玄関に立つ。Iさんは昼休み中だったが《珍客》に大変興味を示され「道祖神は知らないが観音さんならこの先にあるから」と案内をしてくれた。記録にある公民館とは「旧公民館」のことで、旧公民館とIさん宅の間の道路の擁壁にコンクリートの祠があり、そこに探していた道祖神は祀ってあった。子孫繁栄を願う《野趣溢れる》男女双体道祖神だった。
 ここで今日の探訪は終わり。越後川口SAで遅い昼食。JR越後湯沢駅構内の日本酒ショップ「ぽんしゅ館」の利き酒コーナーで5銘柄を試飲?

     
 旧広田地区(引地) の通称・三社宮 付近の道祖神 《野趣溢れる》男女双体道祖神  大広田地区の「屋号・サイノカミ宅前」の道祖神   元北条中学校寄宿舎裏手の道祖神
     
 大広田地区の《野趣溢れる》男女双体道祖神   「屋号・サイノカミ宅前」の木の祠の中の道祖神  


 8月28日  中之条町の男女双体道祖神 男神は手にオンベロ
 7時50分出発。ロープウェイとリフトで谷川岳天神平に登る。虹を足元に見た。かつて無い経験。草津温泉に向かう途中の中之条町でも道祖神を探すことに。伊勢宮参道で道祖神3基を拝観。中央の1基、女神は扇を持っているが男神は「オンベロ(地元ではこう呼ぶとのこと) 」を持つという珍しい双体像。「オンベロ」とは御幣(オンベ)のこと。三基ともふくよかな体躯。中之条町の道祖神の特徴かもしれない。
 町の歴史と民俗の博物館「ミュゼ」で道祖神祭りの話を聞く。観光協会の人が、茅ヶ崎で働いたことがあり「同僚に秦野のYさんがいた」と懐かしがってくれた。

     
 虹を足下に  谷川岳天神平  中之条町にも道祖神さんはたくさんいらっしゃる・伊勢宮参道  男神が持つのはオンベロ(御幣)
      左の写真の中央


 「優雅さは天下一品」
  下諏訪神社の境内の男女双体道祖神
 8月29日 
 今回の道祖神めぐりの最後は高崎市倉渕町。倉渕を再訪するのは「その優雅さは天下一品」と言われている下諏訪神社の境内に立つ男女双体道祖神さんにお会いするため。
 倉渕の道祖神マップはていねいに作られているので、それほど苦労をしないでご対面させてもらえた。碑の高さ75㌢、男神は48㌢・女神42㌢。天明8(1788)年の造立。秦野の地酒を献杯した。ただ、イノシシの侵入を防ぐ金網の外(集落の外)に立たされていたのは寂しかった。  (終わり)

     
 男神の右手が    倉渕の道祖神を代表する男女双体道祖神
天明8(1788)年
     
 熊久保の僧形双体道祖神 寛永2(1625)年    熊久保の僧形双体道祖神の近くにあった
国体出場記念の姉妹の道祖神?
 
 長井の道祖神群  左端は「元禄雛」と呼ばれる坐像の男女双体道祖神(元禄5・1692年)
        右端は「御高祖頭巾」の女神 「山岡頭巾」の男神の双体道祖神




2013年10月3日更新

武勝美の道祖神めぐり    その5 新潟・柏崎市、群馬・高崎市、群馬・中之条町       2013年8月26~29日


 越後もまた道祖神の宝庫 
 私の道祖神めぐりも、神奈川・群馬・長野・静岡・山梨県は済ませた。それでこの夏は、少し脚を伸ばして新潟・柏崎市へ。資料によれば柏崎市の道祖神碑は県下では栃尾市に続いて第2位の造立数で、88基が確認(平成5年調査)されている。

8月26日(月) 寺山を5時出発 湯沢町歴史民俗資料館見学。館の近くの道祖神1基を紹介されたので尋ね歩き運よく発見(下写真)。南魚沼市浦佐に眠る友人・大竹さんの墓参。妻の学友の桜井さんを同市五日町に訪ねる(54年ぶりの再会とか)。夜は小出まつり花火大会を楽しむ。         

 
 萩森大神 風神 馬頭観音不動明王 名号塔などと共に立つ男女双体道祖神

8月27日(火) この日は午前10時から柏崎市立博物館の渡邉学芸員さんにお会いし、市内の道祖神についてお話を聞くことになっていた。それで事前にいくつかの道祖神を見ておくのが礼儀と思い、朝食抜きでホテルを6時30分に出る。(朝食はある程度目的を達成しところで、ということ。)
 最初に訪ねたのは谷根(たんね)地区。谷根は柏崎市の西部で名峰米山(「米山さんから雲が出た」の名調子で有名な「三階節」や「米山甚句」に歌われ、広くその名が知られる山)の東の麓に位置する。

谷根地区 草鞋が奉納される道祖神
 福祉施設「たんねの里」の前を流れる川の対岸に立つ男女双体道祖神は明治23(1890)年の造立。地元では「脚の神」でもあるので草鞋が奉納されていた。祝言握手像でコモを被っているのも珍しい。像には小豆飯が供えられ、ススキが飾られていた。聞けば、前日が諏訪神社の祭りだったそうで、その祭りでは、赤飯とススキは必ず道祖神に供えるのだそうだ。
 谷根神社境内には2基の道祖神が祀られている。そのうちの1基は肩を寄せ合っている祝言像。正面に「石工 源之丞」と記名があるのは、この作品に自信を持っているためなのだろう。浮世絵を思わせる浮き彫りは、美術作品のようだった。もう一つは肩組み握手像。この2基は天目塔や水神などと並置されていたが、いずれにも穂ススキが供えられていた。                              

     
 道祖神は脚の神 草鞋が奉納してある  レリーフのような男女双体道祖神     

山口地区
 次に探したのは「首と寸」で「道」(いわゆる異体字)を表していると思える道祖神。資料にある地名で探したが見つからない。大きな構えの農家のご夫妻がこれから軽トラで野良に出かけようとしているのを発見。道祖神の在り処を聞いた。
 写真を見てもらったら「この道が県道にぶつかる辺りで見たことがある」との言葉をもらう。道祖神祭りはもう行われていないので、地域の人たちにとっても道祖神の存在は消えかかっているようだ。教えられたとおり車を走らせたら、道祖神さんはいらっしゃった。だが猪よけの電気柵が張り巡らされている。それをどうにか乗り越え、持って行った秦野の酒『白笹つづみ』を酌み交わした。傍らに秦野では見られない「百八十八番供養塔」が立っていた。

 
 首と寸で「道」 異体字  坂東33・西国33・秩父34の観音で100
 それに四国88札所で188カ所巡礼

 祀り、焼かれる人形道祖神
 9時半過ぎ、柏崎市立博物館に渡邉学芸員さんを訪ねる。約束の時間より少し早かったが、快く迎え入れてくれた。「谷根の道祖神を見てきた」と言ったら、「ぜひ行ってほしい、と勧めるつもりだった」と喜んでもらった。渡邉さんお勧めの道祖神の写真や地図などをいただいた。
 柏崎の道祖神碑の数は、秦野の310基と比べれば少ない。しかし、柏崎など越後の集落では「人形道祖神」が祀られている。渡邉さんのご好意で資料収納室に入らせてもらう。博物館の舞台裏とも言える場所を見学したのは初めてである。そこには、木や藁、紙などで作られた道祖神がたくさん保管されていた。
 これらの道祖神は、小正月のサイノカミ焼き・ドンド焼きに祀られ、そして燃やされてしまう。存命は数日の神である。ドンド焼きで燃やされる道祖神は、私たち人間に降って湧いた災難や病気を一身に受け入れてくれる神で《人形・ヒトガタ、形代・カタシロ》だから焼かれる。「一回性を原則とした道祖神・焼かれる道祖神が、恒常的な神像・石造の道祖神にと変化していった」と渡邉さんは話された。越後には、道祖神は厄病神だからドンド焼きで焼く地区もある。そこからやがて「平穏で幸せに暮らせるように」と願う神として石造の道祖神は生まれた。ちなみに、柏崎最古の道祖神は文化3(1806)年、秦野は寛文9(1669)年が初出である。
 1時間半ほどの渡邉さんの話は興味深く、しかも楽しいものだった。館の窓の向こうに日本海が青く広がり、佐渡が見えた。(続く)

       
       







2013年9月3日更新

大山道の道標の設置に協力

山岸勉さんの田んぼに立てさせてもらいました

 大 山古道の整備・修復をしている伊勢原の「阿夫利睦会」から「秦野側の入り口に道標を立ててほしい」と依頼されていた。その道標をきょう建立した。睦会から磯崎敬三会長さんら二人。「まほらの会」13名、それに地主の山岸勉さんにも立ち合ってもらい、寺山772番地の稲田の角(ここは大山古道・坂本道の入り口)に立てることができた。
 道標の表示板は横95、縦35、厚さ5cmで栗の一枚板。「大山古道出入り口(坂本道)至 イヨリ峠 禊の大滝 大山町 所要時間80分と記されている。柱には「まほらの会」と記入。この道標を含め、大山町まで12基の道標が立てられた。古道の面影が色濃く残っているこの道を12本の道標に導かれ歩いてくれる人が増えることを願っている。
 


013年8月1日更新

  2013年7月12日の『徒然日記』に下のようなことを記した。
 嬉しい 広報紙の復活 
 昨日のPTA広報講座は一学期に発行された号の紙面クリニック。先生紹介と入学式が年度第1号の紙面の定番ではあるが、ていねいな取材と紙面づくりがなされているものが多く「褒めるだけ」のクリニック。特に私を嬉しくさせたのは、数年ぶりに広報が復活しその第1号がクリニックの対象として登場したことだった。
 題字は「広報ボランティア通信(仮)」となっているが、A4判・8ページ、企画もレイアウトも見事な広報紙である。しかも3人の有志で作成。「経費はどうしましたか」と尋ねたら「広報委員会が無いので広報発行費はありません。でも広報紙を読んだ会長さんが『これからも出してほしい』と経費を捻出してくれた」とニコニコ。
 PTAの役員の中で広報委員は最も敬遠される。そして何かの理由で広報紙が消滅すると、その復活はなかなかむずかしい。だが会員の多くはPTA広報を通しての学校・子どもの情報はほしい、思っている。
 2人で動き出し、途中で一人加わり、できたこの広報。最終ページに「急募 年齢・性別・経験 問いません。パソコンできなくてもダイジョウブ。条件は只一つ『一緒に広報誌を作ってみたい人』まってま~す」とある。精一杯応援したい。

 返ってきたエコー  頑張ります! 期待していて下さい!
 こんにちは。7月11日の広報研修会で声を掛けて頂いたtakumi☆です。先生の歯に衣着せぬものの言い方がとても好きで、毎回楽しく勉強させて頂きました。
 3年ぶりとなる広報誌発行。武先生はもっと素敵な理由を想像していたかもしれませんが、私たち二人が手を挙げたのはとても軽い気持ちからでした。文章を書くことが好きだったから。きっと素敵な仲間ができると思ったから。そして、少しだけ役に立てればいいな……と思ったから。そんな気持ちだったんです。
 でも、5月に開催された武先生の第1回目の研修会で、広報の役割や重要性を知り気持ちが引き締まったのを覚えています。その後、内容を決め、取材をし、写真を撮っていく中で、知らないことがたくさんあることに気が付いたんです。知らなくて当たり前だったことが、知り始めると「自分の子どもの学校なのに、なんでこんな事も知らないんだろう。みんなにも教えてあげよう」という気持ちが強くなっていきました。みんな気が付いてないだけなんじゃないかなって。見えなければ見ようとしないけど、少しでも情報があれば関心を持てるし、きっかけにもなる。伝え方次第で変わることもあるのかな、と。 
 初めは、4ページ・白黒の予定でしたが、その伝えたい気持ちが8ページになり、紙面を見た先生やP役員の強い後押しもありカラーとなりました。まだ今年度1回目の発行です。この後が大切ですね。今回の新鮮な気持ちを忘れないよう、気負いすぎずに頑張っていこうと思います。
 予算については会長さんから以下のように説明がありました。「会員の皆さんから世帯あたり年額2400円お預かりしているPGT会費(PTA会費と同じです。緑小はPTA活動に祖父母グランドペアレンツが加わっているためPGTといいます)の中から、ボランティア活動費という予算を毎年計上しています。M小は他校と違い完全ボランティア制を取っています。委員会ではないので自らがやりますと声をあげてくれる保護者がいてくれた時に広報ボランティアが立ち上がります。その声があがらなければ、その年は広報紙は発行されず、本部役員が月1回発行するA4の「PGTだより」のみになります。逆にその声が年度始めにあがれば、いつでも広報ボランティアを立ち上げれるように、予算は毎年計上していました。その金額は今年度は7万円、この金額には花壇、ベルマーク、広報が含まれていて、広報としては3万円をみていました。他校に比べるととても少ない金額だと思いますが緑小は世帯数304の小さな学校なので、白黒で印刷屋さんにお願いして1回1万5千円。年間2回発行と予想して予算3万円でした。なので、今回のカラーでの発行(4万円弱)は予定外でしたが、ずっと呼びかけてきて待ちに待った3年ぶりの広報紙なので、赤字覚悟のカラーです。内容が素晴らしくたった3人で本当に頑張って作りあげてくれた事、最初にカラーで目を惹き付けて中身を読んでくれさえすれば、次回は白黒でも中身を楽しみにしてくれる読者がきっと着くという声が先生からも本部役員からもあがったため実現したものです。今年度の広報ボランティアさんの頑張りをみて一緒にやってみたいという人が増え、来年度も広報紙が発行される事を心から願っています」 
 改めて広報誌を2部送りました。次回に向けてアドバイスよろしくお願いします。それから、武先生の徒然日記、大変嬉しく読ませて頂きました。今後とも末長くお付き合いできるよう、頑張ります! 期待していて下さい!     takumi☆


2013年7月1日更新

 富士宮市教育委員会富士山文化課
 富士宮の道祖神を訪ねたおり、深い山中(坂林地区)で出会った道祖神。そして、それと並び立つ題目塔が気になったので、帰ってから富士宮市教育委員会に尋ねた。だがその時点では「不明」という回答だった。
 ところが、5月28日に富士宮教育委員会から「坂林集落石造物調査報告」とタイトルの資料が届いた。
この報告の調査日は平成25年4月16日とある。私の問合せを受け調査をしたようだ。
 その報告書によれば、私が読めなかった題目塔の正面には「南無妙法蓮華経 元禄十四年辛巳年 題目講一結之男女 十月廿五日」と刻まれているとのこと。さらに、かつてここに住んでいた人からつぎのような話も採ってある。「50年くらい前までは二十三、四軒の家がありにぎやかだったが、現在は居住者していない。道祖神や題目塔、馬頭観音、水神などがある。水神を祀ったところはスイジンボリと呼ばれていて水が湧いている。坂林出身の65歳女性」。そういえば、この道祖神の手前に大きな墓石が二基立っていた。建立者は大阪の人だった。
 通りすがりの人(わたし)の個人的興味に、このような形で応えてくれたのは、教育委員会富士山文化課・学術文化財係のSさん。「お役所仕事」の悪弊の一つとして《たらい廻し》が挙げられるが、富士宮教育委員会の対応はそれとは際立って対照的であった。それにしても「富士山文化課」とは… そのネーミングも含め富士宮市のファンになった私である。



2013年6月1日更新

 
クサイチゴ
 

 5月26日   寺山はもう初夏
 気になっていたサツマイモの苗をようやく植えた。今年はベニコマチと安納芋。その畑の隣りはボサッカ(秦野弁で「かなり草木の茂った一角・荒れ果てた草叢」)。そこからウチの畑に根を伸ばしてきているのがクサイチゴ、別名ヤブイチゴ。季語では「夏」。
 その一本に赤く実ったイチゴを見つけた。そして、よく見れば潅木の下はクサイチゴの木の密生。そして赤い実がここにもあそこにも。
 小さな棘がある枝先の一粒を口に運んだ。ハウス栽培のイチゴとは異なり、少しざらざらするが甘い。はるか、はるか昔の、この季節の我が家の暮らしを思い出せる味覚だった。採ったイチゴは40粒を超えた。それをガラスの器に入れ仏壇に供えた。
 
 きのう25日は満月だった。百人一首にも採られている「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」 後徳大寺左大臣・『千載集』
 「 トッキョ キョカキョク・特許許可局」と鳴くホトトギスの鳴き声は午前3時ごろから聞こえてくる。

 去年まではあまり聞かれなかったキツツキのドラミングが、宝作(ホウザク・地名)の山から一日中聞こえてくる。ウチの庭で目にできるキツツキ類はコゲラ。スズメを少し大きくしたくらいの体躯だから、聞こえてくるようなドラミングはできない。アカゲラかな。
 
 裏の茂みにオオルリが戻ってきた。ときどき我が家の桜の大木でそのさえずりを聞かせてくれる。

 一昨日、妻があわてて離れに駆け込んできた。「ツバメが家の中を飛んでいる。どこから入ったのかわからない」。ウチには昔からツバメの巣はなかった。家中のガラス窓を開け追い出し作戦。だがこれは逆効果だった。しばらくの間放っておいたら、台所から出て行った。
 

 5月23日  「大山道を歩く・路傍の神仏を訪ねて (寺山地区)
 東公民館の事業「大山道を歩く・路傍の神仏を訪ねて」の案内を「まほら秦野みちしるべの会」で行う。きょうは東地区の寺山を歩いた。参加者は26名。今回のような特定の地域の歴史、地名の由来、民俗などの講座をあちこちの公民館で持っているが、なぜか地元の人の参加はほとんどない。
 寺山には『波多野城址』が存在するが、地元寺山を含め、秦野市の人たちにはあまり見向きされない。そして「一夜城を訪ねる」というようなツアーになると参加者が集まる。この日は地元・寺山からも5人の参加があった。9時から2時班まで「まほらの会」5名で案内。
 私の説明ポイント
 1 秦野地方の地神塔・天社神について 
 2 武邸の屋敷神 ①青面金剛像(庚申塔) ②弁財天像(巳待塔) ③ 稲荷神社 ④ 子宝神(陰陽石)
 3 波多野城(波多野氏の居住地)の所在地の推定
 4 金目川の由来 (金目とは)
 
 終わっての質問。 地名「東田原紀伊守」は
 福島出身で東田原に住んでいる人から「今住んでいるところの地名が『紀伊守・きいのかみ』。すごい地名で驚いている。喜んでいる。紀州の殿様との結び付きがあるのか」。
 私の回答
 地名『紀伊守』は、『井の上・イノカミ』で「水源地、あるいは水源地の上・うえにある地」 。 紀伊国はもともと「木国」だったが、和銅6年の官命によって(二字好字化)「紀伊国」になった。その故事を真似て、どなたかが「井」を「紀伊」にしたのだろう。ちなみに「東田原紀伊守」は葛葉川を挟んで曽屋神社と向き合っている地。曽屋神社は明治時代は井明神社と呼ばれ水の神様が祀られている。そこはかつての秦野町の水道(日本で3番目に敷設)の水源地だった。

 コースには寺山の福聚山円通寺の市重要文化財・十一面観音菩薩像の拝観も入れた。そして昼食をとらせてもらった。帰り際に「お参りいただいたので」と、全員「不腆」と記された記念品をいただいた。「腆」は「あつい」で、「不腆」は「粗品」「薄志」という意味。


2013年5月1日更新

武勝美の道祖神めぐり    その4 西相模・伊豆・富士宮編       2013年3月27~29日


1  伊豆型道祖神を初見  小田原から熱海へ

富士宮市もまた道祖神の宝庫(338基・ちなみに秦野は316)だから、どうしても一度は訪ねてみたいと思っていた。おりしも、富士宮市郷土博物館では「富士宮の道祖神展」が開かれている。「今、行かなければ!」と思っていた。するとその念願が叶った。長男が同行・車を出してくれたからだ。

先ずは西相模地方の道祖神巡り。
 道祖神の起源は、村はずれに立つお地蔵さんと言われている。小田原・根府川の寺山神社境内に祀られている4体の道祖神は市重要文化財。いずれも赤い頭巾をかむった地蔵。だが座像である。小田原・真鶴・湯河原、そして熱海・函南・三島。伊豆半島の東海岸の道祖神は座った地蔵さんである。それで「伊豆型道祖神」と呼ばれている。

寺山神社(根府川)と鹿島神社(秦野市寺山)

ところで道祖神が祀られているこの「寺山神社」。祭神は「タケミカヅチノミコト」。祭りには地元の人たちによって「鹿島踊り」という県民俗無形文化財が奉納される。私は秦野市「寺山」の住人で、寺山の氏神は「鹿島神社」。祭神は「タケミカヅチノミコト」。親近感を覚えた。何か繋がりがあるのだろうか。
 真鶴町は3カ所を回る。岩忠旅館裏の道路脇に道祖神は説明文があった。真鶴小学校の東側の塚の上に5体の道祖神。中央の像はひときわ大きく、経文を両手で持っている。目鼻が削り取られたように見えるのは、明治初期の廃仏毀釈の影響だろうか。下あごの張ったいかつい表情は他の4(地蔵)と異なる様相。伊豆型道祖神の発祥は小松石の産地・ここ真鶴だといわれている。そうだとしたら、この道祖神は沖の漁師たちのために眼力を効かせているのてはないか。
 湯河原町はサーファーが集る吉浜の素鵞神社。鳥居の脇に5体の道祖神。

      神奈川・真鶴町 下の道祖神と解説文(旅館岩忠の裏)

真鶴町・上の道祖神 昭和5年に再建された 

 東の道祖神・まなづる小学校の東側 

        穏やかな表情

湯河原・吉浜の素鵞神社の参道脇5体の道祖神


熱海市・伊豆山神社の道祖神
 参道の鳥居の脇の花壇を地元の女性が手入れをしていたので「ドンド焼き」のことを尋ねてみた。ところが予想に反して「そういうこと(ダンゴ焼き)はやっていない。お正月の飾り物はこの神社の庭で燃やすけど…」。
 境内に文字碑の道祖神(下左)が祀られ傍らに解説板。書かれている言葉は「進むべき道を見失い思い悩める時困難にぶつかり挫折してしまいそうな時一筋の光のごとくに正しい道を指し示し導くださる神様です」。この文言からは抱擁・握手・肩組み・祝言などの双体道祖神は浮かんでこない。
 神社と向かい合うところ(仲道公民館の横)に三体の道祖神が祀られていた。単体・座像だが、像は瓶子(ヘイシ)・酒器を持っている珍しい道祖神である。ここにも説明文がある。

         伊豆山神社の向かいに立つ道祖神とその案内の立て札

伊豆山神社境内の道祖神(文字碑)

伊豆山神社の桜


2  バラェテイに富む富士宮の双体道祖神
 富士宮市は広い。秦野市の約3.8倍。道祖神は村はずれに立つのが普通。カーナビではななか行き着けない。だが同行者の奮闘でお会いしたかったたくさんの道祖神にめぐり合えた。行き会った地元の人たちから道祖神祭りの話を聞かせてもらった。
 富士宮市で初めて出会った道祖神は沼久保の握手像。目を細め出迎えてくださった。
 次に訪れたのは富士フィルムの西門前の双体道祖神。男神は右手で拝み、左手は女神の下半身に伸びている。その手を押さえている女神。九曜紋が付いている。この碑の後ろに富士の湧水が豊かに流れていた。 

沼久保1062-2 付近
寛政11( 1799)年 急な斜面に立つ

富士宮市大中里252 付近
嘉永6(1853)年 富士フイルム西門前

富士宮市野中町812 付近
寛政9(1797)年

単体道祖神 
富士宮市星山1040-4 付近

本光寺参道入口の仏名塔と道を隔て対面している破風型の双体道祖神(下・左)。自然石や丸石も祀られていた。その仏名塔を寄進したという望月さんに偶然出会い、道祖神の話を聞く。 下・右は自然石をくりぬいて彫った双体握手像。11面観音像、庚申塔、馬頭観音像などが祀られていたが、行く場所がない七福神、犬、招き猫などの飾り物がが置かれ、現代の信仰のありようについて考えさせられた。

富士宮市黒田257 付近  天明6(1786)年
石棒と思われるものも祀られている。

富士宮市大岩1666-2 付近
寛政5(1793)年


3  富士宮最古の道祖神は元禄2(1689)年
 富士宮最古の道祖神は「富士山にこにこ長屋」という飲食店の裏に立っていた。持って行った歯ブラシで土ぼこりを払っていたら、年配の女性が現れた。そして「きれいにしてくださってありがとうございます」と話しかけてきた。道祖神祭りとダンゴ焼きのことを聞いてみた。ダンゴはミズキに刺すとのこと。道祖神を火中に投げ込むことは行われていないようだ。 
 山梨の北杜市高根町のある地区では「道祖神の火事見舞い」と呼ばれる行事が28日に行われる。114日に行われるドンド焼きの火は、道祖神が集落を代表して自分の住まいに火を放ち焼いてしまう火のこと。これで一年間この集落に火事が起こらない。それで住民は28日に、餅を背負わせた藁馬を道祖神に供える。これが「道祖神の火事見舞い」。
 28日は「事始め」といい農作業を始める日。128日は「事納め」で農事を終わる日。一方、128日は「事始め」で正月を迎える準備を始める日。28日が「事納め」で正月の行事雅全て終わる日、という地方もある。いずれにしても《28日》は大切な日。

富士宮市最古の道祖神双体 富士宮市山宮517-2 付近
元禄2(1689)年(富士宮最古) 横には明治42(1909)年造立の文字碑

山宮保育園の近くの交差点に「向の双体道祖神」(下・右)は立つ。道祖神は道案内・旅の安全を願って祀られている。下の2体・男性は笏、女性は拱手(懐手)の像。

富士宮市山宮778 付近
天保8(1837)年

富士宮市山宮1683-1 付近
万延元(1860)年 


4        大きな手で肩組む道祖神さん

富士宮市精進川 621 付近       安永9(1780)年

田んぼの農道に車を入れ、仕事をしている男性に道祖神の所在を尋ねると、「あの桜の木の下だよ。オレ、もう帰るからもっと車を突っ込んでいいよ」。
 幹本体はとうに枯れてしまったソメイヨシノ。だがヒコ生えは若い花を咲かせている。目指す道祖神さんはその木の下に大きな手で肩を組んでいらっしゃった。今まで各地の双体道祖神を拝んできたが、この像は特異といえる。

富士宮市精進川 470-2 付近    天明元(1781)年

 上は盗難に遭った道祖神。地域の人が買い戻しここに祀った、とある。 舟型双体祝言像で握手しながらヘイシと杯を持っているが、その手は大きい。上記の肩組み像と建立の年は1年違い。富士宮道祖神の特徴である手の大きいこと。この像は信州・高遠の石工の作と記されている。


5       大切な道祖神場だから

 
 富士宮市原224 付近    寛政6(1794)年

 どこでもそうなのだが、道祖神が祀られている前にはちょっとした広場がある。「道祖神場」と呼ばれているその広場は、昔から地域の人たちの祈りの場、交流の場、憩いの場である。 
 ここ市原地区の道祖神は一本の大杉の下に祀られていた。その道祖神場は、造花だが花が飾られきれいにされていた。
道祖神の汚れを落としていると、年配の女性が草削りを手に広場に入って来た。そして「お参りですか。ありがとうございます」と声をかけてきた。神奈川から来たといったら、大変驚き、喜んでくれた。
 6軒でこの道祖神を守っている。きょうはこれから広場の草取り。だけど周りは除草剤をかけてしまう。この土地の持ち主がここだけは昔のままにしておいてくれる。だからきれいにしなくてはねえ」。
 ドンド(ダンゴ)焼きのこと尋ねたら、広場の片隅の黒い灰を指し、「ここで焼いた」と説明してくれた。ダンゴの木(木の名を聞いたが《度忘れ》してしまったようだ)に三個のダンゴを刺す、というのも昔の秦野地方のダンゴの刺し方と同じ。
 「このごろ、ダンゴの色は白ばかりで寂しい。昔は赤や緑などきれいな色のダンゴを作ったけど」と言う。ドンド焼きのダンゴは本来白いもの。色とりどりのダンゴが作られたことは、子供がいた、若い母親が住んでいたということ。この女性が言った「昔」とは、高度経済成長期の前くらいを指すのだろう。集落の過疎化を思った。

6       道祖神はタムケノカミ

富士宮市精進川2272 付近 天明8(1788)年
ほうちん山荘(山小屋)の横

集落を抜けると車1台がやっと通れるほどの林道を10分ほど走る。対向車が来たらお手上げの杉林を抜けると山小屋・ほうちん山荘があった。そこにいたるまでに人家は全く見られない。人の気配は感じられない程ひっそりとしている小屋。その小屋と道を隔てたところに山羊が1匹つながれていた。その山羊が人恋しそうに私たちを見ている。
 山小屋の先に咲く豆桜
(富士桜)の下に立つ袖中合掌像。並び立つ名号塔は「題目」という文字だけが読めた。
 道祖神は「手向けの神」とも言われ、峠に立ち旅人の安全を守る。イザナギが黄泉の国からヨモツヒラサカまで逃げ帰ったとき助けたのが杖。その杖が「岐神・フナトノカミ」。そのことから、旅人は峠に杖を立て旅の安全を祈るようになった。「手向け・タムケ=峠・トウゲ」と解く人もいる。ここの道祖神は「タムケノカミ」なのだろう。この道はいくつか峠を越え身延山久遠寺に繋がっている。


7  富士宮の道祖神は 倉渕系・安曇野系・西相模系(秦野系)も

富士宮市精進川69付近
拱手像 天明2(1782)年

富士宮市上条878 付近
握手像 元治2( 1864)年

 秦野の道祖神と富士宮のそれとの違いは明らかである。秦野の多くは僧形直立双体像だが、富士宮は上左のように直立僧形もあれば、同右のように握手像もある。他にも肩組み像、祝言像、更には倉渕の道祖神の特徴とも言える野趣溢れるものも見られた。単体僧形の道祖神を富士宮で初めて確かめることができた。

     ※途中で目にした馬頭観音像(富士宮市沼久保1062-2付近)

 (左)文化13 (1816)年                天保12(1841)年

    馬頭観音像2体 頭部の馬がしっかりと見える。秦野ではほとんど見られない像である。

8 道祖神と桜の旅    
 東名高速道沿い、立ち寄った地のどこも桜は見ごろ。桜の下の道祖神さんはそれぞれ穏やかな表情で私たちを出迎えてくれた。
   車窓から途切れない花東名道

 富士山本宮浅間大社の朝の桜は
   咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり   虚 子

  

大岡信ことば館、若山牧水記念館も訪問。久能山東照宮参拝。浜松餃子、富士宮焼きそば、静岡おでん、しらす掻き揚げ丼、うな重は…。そして最後に訪れたのは「世界の菓子まつり」。 《道祖神とご当地グルメ三昧》の三日間。こういう過ごし方を「至福の時」というのだろう。同行者に感謝したい。
 上記の「ことば館」で見つけた大岡が朝日新聞に29年間・6762回連載した『折々のうた』の最終回(2007331)に採ったうたは、

   薦着ても好きな旅なり花の雨      田上 菊舎  







2013年4月2日更新
 
 3月1日から気仙沼市に本社を置く三陸新報の購読を始めた。

 三陸新報にエールを送ります
 今日で2011年3月11日から2年が経った。気仙沼市、南三陸町の人々の暮らしを毎日届く「三陸新報」を通して眺めている(失礼な言い方をお許しください)。
1 震災後の生活を広告欄から読み取っている。
・葬儀のお知らせをする喪主は、旧住所を記し、括弧書きで現住所の仮設住宅を知らせている。自宅から葬送できない悲しみ・無念さをそこに読み取る。
・3月8日付けに出た「臨時休業のお知らせ」。その本文は「日ごろのご愛顧誠にありがとうございます。悪夢のようだった東日本大震災からまもなく二年を迎えようとして降りますが、 未だ心の傷が完全に癒えぬまま時だけが過ぎた二年間でした。お客様にはもうしわけございませんが明9日(土)〜11日(月)まで休業を頂き、静かに心の整理を付けたいと存じます これからも復興に向けて頑張りますので宜しくお願い申し上げます。」
・未だ帰らぬご主人への思いを「願わくは寒くなる前に 雪の季節が来る前にお帰り下さい。只々ひたすらあなたのお帰りを待っています」。第2回恋文大賞を受けた菅原文子さん  の言葉に、未だ帰らぬ人を待つ人々の心、推し量るには余りある。(3/5)
2 定期的に掲載されている「写真救済プロジェクト」『思いでは流れない』の写真。そして3月9日に掲載された「リアス四季フォトコンテスト」作品「塩蔵ワカメ」に見る働く喜びの顔。
三陸の人々は漁業で生きている。新報の「漁業通信」は留守家族への無事の知らせとして重要。「昨枕崎発南下中」「凪よく138回目操業中」「御前崎沖回航中風悪し」「昨清水発  9日朝気仙沼に入る」(いずれも8日の情報)など読むと、漁船で働いている人たちのようすが私の眼前に迫る。
3  3月8日の「 唐桑中3年生が『合格目指して頑張って』と後期受験者にエール」を送った記事。《絆》とはこういうことをいうのだと思う。
4 人々の暮らしの哀歓は「三陸文芸」欄にこそ凝縮される。 
 3月5日の「短歌欄」
  いつもなら帰省する子が帰省せずひとり正月ひっそりと過ぐ 白崎千賀子
  絆とふ言葉は溢れさりながら復興いまだし更地広ごる     昆野 知子
  胡桃餅あん餅雑煮ずんだ餅五人の孫と祈る神棚       高橋 隆子
 3月9日の「俳句欄」
  下萌えや津波知る路地知らぬ路地      横山 ミキ
  水平線群青深く春兆す             熊谷 恭子
  昨年4月初旬に南三陸町から気仙沼市の海岸線を走ったとき、海の青さに未来を感じた。その時の私の心を詠んでくださった熊谷さん。
 
  数日前、北上に住む気仙沼出身の渡辺知子さんから、実家に墓参で帰ったら、マルチュウ斉藤商店が再開していたので、と「さば味噌煮」「さんま佃煮」「かつおパック」をたくさん送ってきてくださった。どれもおいしかった。とりわけ味噌煮は気に入った。それで「この味を真似て煮てよ」と妻に言った。「ムリ、でもがんばってみる」が答え。  武 勝美




2013年3月1日更新

「ECHO」300号発行のご挨拶  学校には三つの新聞が必要です 

 1960年に中学校の教師になりました。その初任校で校長先生から「学校新聞の創刊」を命じられたのです。こうして、幸運にも ― 本当にそう思っています ― 学校新聞づくりに出会えたのでした。以来きょうまで52年間、学校での新聞づくりにかかわってきました。学級担任時代は「学級だより」を週刊で書きました。日刊で3年間がんばったことありました。担任を外れたら「学年だより」や「学校だより」を発行しました。PTA広報づくりとのお付き合いもほとんど同じくらいの歳月になります。なぜそれほどまでに学校での新聞づくりにこだわるのか、と聞かれます。その時は次のように答えています。
 「学校に三つの声を響かせたい」。“三つの声”とは、一つは子供の声。二つ目は保護者の声。そしてもう一つ、たぶんこれが一番大切だと思っていますが、教師の声。この三つの声が校内に響きあうとき子供は育つ、教師も保護者も成長できる。だから「子供の声があふれる」学校・学級新聞は欠かせないし、保護者が「学校や子供達にかける願い」を実現するためにPTA広報は必要。教師は「自分の教育観・人生観」を子供たちや保護者に語るためにも学級だよりや学校だよりを書きたい。
 この答えの延長線上に個人紙『ECHO』は現れた、と思っています。「声が大きければ返るこだまも大きい」。声を発することが教師としての私には必要なのだ、(大言壮語です)そう決めました。

 1985年5月、転勤の挨拶状を兼ねて月刊『ECHO』 を創刊しました。それからまもなく28年になるのですが、この2月20日300号を数えることができました。でも「300が目標」などと考えたことはありませんでした。退職直後(1997年)は、続けるかどうかを考え数か月は休刊しました。「伝えたいこと」「書きたいこと」という思いがあるから書く、ということです。
250号に寄せられた一読者の声に、「初期の頃に比べると内容が控え目に…」とありました。“図星”でした。「控え目」ではなく、緊張感がなくなっています。このごろの紙面ははとみにそうなっています。「継続は惰性」かもしれません。ただ、今も私の新聞づくりにかける思いは変わっていません。(2012年は「学校新聞・PTA広報講座」を44会場で行いました。)
数字を追う、という意識は全くありませんでした。300を数えることができたのは皆さんのおかげです。

 過日、山梨文学館に出かけたおり飯田蛇笏の作品に触れました。
 冬瀧のきけば相つぐこだまかな    飯田 蛇笏
 「枯れ細った冬の瀧からでも、確かにこだまは生まれている、後から後から。」と鑑賞した私です。《こだま》してくださったみなさんによって今日までで生きてこられました。ありがとうございました。
 言葉とは、本来顔と顔を向かい合わせて交わすものです。だから言葉は生きています。生きているものには体温があります。言葉の体温とは、話す人の心です。私の言葉で、これからの《私の日常》を綴っていけたらいいなあ、と思っています。

 あなたのまわりの出来事は あなたの心が呼ぶのです。あなたは、今、何を呼んでいますか。    川村 直子

  2013年2月20 日                 武 勝美     





2013年2月1日更新

 


 「日本最古」といわれる道祖神に会いに 
 
 2013年1月8日
 6時半に出発。最初に安曇野の穂高神社御船会館で開かれている「道祖神特別展」へ。展示のために道祖神本体を動かすことはできないので、写真と拓本での展示。拓本の道祖神像に新たな魅力を感じた。「最も古い形の道祖神(実物)」が展示されていた。男性のシンボルを思わせる形。
 続いて安曇野市豊科郷土博物館を訪ね、館長さんに道祖神御柱の立っている場所を教えてもらう。地元の中年の女性に御柱の在り処を尋ねたら数カ所を挙げてくれた。小学生に聞いたら「知らない」。道祖神祭りとドンド焼きは別の行事であることを知った。新田地区と三郷地区の御柱を見る。残照を背に屹立する御柱は、私をしばしその場に佇ませた。高村光太郎の詩『冬が来た』の一節「きっぱりと冬が来た」が浮かんできた。

   
 穂高神社・御船会館の「道祖神特別展」  道祖神祭りの御柱 安曇野市・豊科地区


 1月9日 
 今回の道祖神巡りのメインは、長野・辰野町澤底地区の道祖神さんにお会いすること。訪れた澤底地区は、地名が持つイメージとは違い、谷間になだらかな耕地が広がっている。目指す道祖神さんはカーナビでは読み取れなかった。澤底地区は広く、一山超えてようやくたどり着いた。入村という集落を通り抜けると、里山の登り口に目指す「日本最古」の道祖神さんは私を待っていてくれた。「この先には民家はない。だが、かつては諏訪につながる大切な道だった」と地元の人は言った。
 甲子塔、寒念仏碑、庚申塔、馬頭観音碑などの野仏・石神を左右に従え中央に立つのが「日本最古」と言われている男女双体道祖神。東京・麹町の『一元最中』が供えてあった。山梨の『月の雫』も。それで私は『カンロ飴』を。
 地元では親しみを込めて「裾まくり道祖神」とも呼ばれているこの男女双体道祖神さん。間近に見たとき、「群馬・高崎市の倉渕地区で散見した男女双体道祖神と性格が同じ」と思った。
 町教育委員会から頂いた資料「辰野町資料第92号(平成16年発行)の中で、地元の研究家が「道祖神の形体がその年代にしては少し新しすぎるのではないか」と言っている。
その真偽は別として、この双体道祖神を眺めていると、たくましく生きた往時の村人の姿が二重写しになって、現れてくる。
 諏訪地方の寒気はことの他厳しいそうで、辺りには年末に降った雪が残っていた。

     
 甲子塔、寒念仏碑、庚申塔、馬頭観音碑に囲まれて  日本最古と言われる双体道祖神 永正2(1505)年 澤底地区は道祖神の里 

 長野・山梨から神奈川へと繋がる道祖神祭り
 午後、山梨県立博物館の『やまなしの道祖神祭り展』を観る。学芸員さんによれば「道祖神祭りは冬の山梨の最大の祭り」とのこと。明治の初めの頃まで繰り広げられた甲府市内の道祖神祭りの盛大さを常設のジオラマでうかがうことができた。
 甲府市内の道祖神祭りは消えたが、山梨各地では道祖神信仰は引き継がれ、さまざまな道祖神祭りが今も行われている。この祭りのために作られる小屋(オコヤ・オカリヤと呼ばれる)が展示されていた。会場入り口に据えられた山梨市牧平のオカリヤ(夫婦円満のための作り物)には圧倒された。
 どの地の道祖神祭りも火を燃やす。そのわけを山梨・北杜市辺りでは「道祖神さんが自分の家を焼いて村に火事が出ないようにしてくれる。その火がドンド焼き」。それで、村人は2月8日に「道祖神の火事見舞い」として米俵を背負わせた藁馬を作り道祖神に供える。
 道祖神祭りの「神木」は安曇野では「御柱」。ここ山梨では「ヤナギ」「オヤマ」などと呼ばれている。だがいずれも幣帛や切り紙などで美しく飾り、立てる。
 長野や山梨で見られる道祖神の神木飾りは、神奈川の山北町、松田町では花車という形になっている。そして神木は秦野と松田を分ける四十八瀬川を超えると「御幣・オンベ」になる。
 笛吹市内の丸石道祖神二体(石和八幡宮境内、笛吹権三郎像広場)を観る。丸石の道祖神は山梨県内に多く見られる道祖神。
 塩尻の宿で『道祖神の郷』というモナカに出会った。モナカの皮は男女双体道祖神の形。これも今度の「道祖神巡り」の収穫の一つ。

 旅の締めくくりに、立ち寄り湯『ほったらかし温泉』の露天風呂から夕暮れの富士を眺めた。富士山の向こうは富士宮。富士宮にも道祖神はいっぱいある。

   
 山梨は丸石道祖神が多い (笛吹権三郎碑の広場に立つ道祖神)
  「道祖神のさと」最中



2013年1月1日更新

 2012年の足跡   動かなければ出会えない  
 1月 箱根駅伝を小田原中継所で観戦(柏原選手最後の山登り)
    神奈川県公立高等学校PTA広報コンクール表彰式で記念講演
    全国小・中学校・PTA新聞コンクール審査会
 2月 京都・近江への旅
    富士講の聖地人穴浅間神社を訪ねる
    猿田彦大本宮・椿大神社参拝 
    神奈川新聞の「紙面拝見」の担当終了
    八代亜紀ショーに出かける
    般若心経の勉強会(円通寺)
 3月 全国小・中学校・PTA新聞コンクール表彰式(毎日新聞東京本社)
    秦野市PTA広報紙コンクール審査会
 4月 気仙沼市(三陸新報社)を訪ねる
 5月 秦野ライオンズクラブで講演「大山道と里人の暮らし」
 6月 PTA広報講座「こうすればできるPTA広報」(毎日新聞東京本社)
 7月 神奈川県公立高等学校PTA研修大会広報分科会講師(パシフィコ横浜)
 8月 第55回全国新聞教育研究大会(十勝・帯広大会)でPTA広報講座の講師
    大相撲十勝場所観戦(サイン集めに奮闘!)
    「夏休みの思い出を親子で壁新聞に」講座
    スカイツリーに上る(全国新聞教育研究大会・秦野大会速報部会の同窓会)
 9月 JAはだの組合員基礎講座で 「秦野の民俗」を講演
 10月 東中学校同窓会に招かれる
 11月 秦野ゆとりの会の「菊花展」に出品 
     秦野ゆとりの会研修旅行で「日光」へ
     玉川中同窓会に招かれる
     退公連秦野支部の文化講演会で講演「大山道と里人の暮らし」
     あずま荘のミニデイサービスで講演「気仙沼の子どもたち」
     まほら秦野みちしるべの会の活動・「大山道イラストマップ」全11図完成
 12月 足柄上郡PTAリーダー研修大会で講演「私の出会った人たち」
     東公民館祭りで壁新聞展  

   ※新聞・広報講座 44回   「まほら秦野(大山道)」講座 7回    「チーム竹の子」の紙芝居『目ひとつ小僧』公演 6回
 
 

2012年12月1日更新

  秦野ゆとりの会の研修旅行    拍手に龍鳴かせたる小春かな

 11月19・20日、秦野ゆとりの会の研修旅行で日光へ。研修旅行は今年で13回を数えるが、参加者20人は過去最高。
 熟女の旅行は《買い物ツアー》と囃されるが、我が会員も、お土産(食べ物限定)を買う頑張りは彼女たちに引けを取らない。日光に入って最初に訪れた見学地でもうお土産を買う。以降、見学地、トイレ休憩、食事場所と立ち寄る場所場所で、土産を手にし「また買っちゃったよ」にこにこバスに乗り込んでくる仲間たち。宿を発つ前、いっときお土産コーナーのレジに並んだのは我が会員ばかり。菓子箱を10個ほど重ね、抱えていたFさんの姿を見かねた店員か、「これをお使いください」と、買い物籠を持ってきた。そういう私もバスのトランクに土産を積んでもらう程度の《お買い物》はした。

 拍子木で鳴かせた龍
 東照宮境内に立つ本地堂の「鳴き龍」を鳴かせるのは中学校の修学旅行以来のこと。
 「どうぞ畳のところまで進んでください」と説明の僧に参拝者? は詰め込まれる。そして僧は手にした拍子木を打つ。「きーいいいん」と龍が鳴く。天井の龍とはマッチしないなと思った。僧は急かせる。「ハイ次の皆さんどーぞ、畳のところまでお進みください」。60年前の修学旅行では、私は自分の手で龍を鳴かせたような記憶がある。なぜなら次の一句を私は詠んでいるからだ。
 
 拍手に龍鳴かせたる小春かな
 次の句もそのときのもの。    
 眺め入る陽明門や日短し 
 そんな思い出がある日光なので、この旅は俳句に挑戦。
 東照宮
   冬うらら外つ国人も昇殿す
 二荒山神社
   しぐるるや参道の茶舗の灯は昭和
 大谷観音
  眼差しの凍ててはをらず磨崖仏
 紅葉街道
  柿すだれ以前は十割蕎麦の店
 鬼怒川温泉
  熱燗や我らすなはち昭和人
 宇都宮餃子
  餃子喰う早く飲むべしビール温む
   (「餃子」が夏の季語とは知らなかった)

2012年10月1日更新

このごろ PTA広報の「編集後記」が面白い

 編集後記ってなんですか
 このサイトの「PTA広報何でも相談室」で、私は「編集後記」について次のように書いている。 「記者として《客観的に書いてきた記事》に対して、編集者として、《情緒的》に自分たちの思いを書くのが編集後記。その号を作り終えたときの素直な感想を書く。読者が広報紙を身近なものに感じる欄が『編集後記』」
 だがPTAの広報紙に自分たちの思いを素直に書くのは難しい。“怖い”。だから現実には次のような内容の「編集後記」が多い。
 今号の発行にあたり、お忙しい中原稿をお寄せ頂いた方々、取材に応じてくださった先生をはじめ地域の皆様方に、紙面をお借りしてお礼申し上げます。これから一年間、力を合わせて頑張りますので、ご支援ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

 ところが、このごろこの「後記」は面白くなってきている。広報委員のほとんどが母親だが、メール時代が「書くこと」への抵抗感を少なくし始めたのだ。
 初めてあなたを学校に送り出した日のこと、よく覚えています。「先生の言うことを聞けるかな」「ちゃんとトイレに行きたいって亭見るかな」「友達と仲良くできるかな」 いろんなことが心配でした。あなたは、私の気持ちを知ってか知らずか、しつかりとたくましく成長しています。時にはケン力もします。でも、忘れないでね。私は、心の中であなたのことをいっぱい思ってる。いっぱい応援してる。どんなときも、あなたの味方です。さあ今日も元気に、『いってらっしゃい!!』 「稜線」

 中学生になり、ぐっと大人っぽくなった我が子の後ろ姿が頼もしくもあり、少々寂しさも感じさせます。先生方、保護者の皆様のご協力を得て、子どもとの距離感を縮める広報を目指したいと思います。 「なるせ」

 そして「やるなら本気で」という前向きな姿を読み、頼もしく思う。
 突然の広報委員。「ムリ!」 不安を抱きながら参加した広報技術講習会。「みんな広報委員に向いてるから」という講師の方の冗談ともつかない適性検査(?)に励まされ、理想の広報紙と現実の力量との狭間で悩みつつも、なんとか送り出した第一号です。 「ぎんなん」

 「カメラ買っちゃつた」運動会の当日広報委員として集まった時、私が言ったら「私も」と4人までがカメラを買ったことが判明。張り切りすぎて、担当以外の競技も写真を撮っていたら、最後の最後にバッテリーが切れてしまいました。運動会でトラックに入り、写真を撮れるのは広報委員の醍醐味ではないでしょうか。私が撮った写真は300枚。広報委員全員は2500枚以上にもなりました。少しでも子供たちの頑張りが、紙面でお伝えできればと頑張りましたが、いかがでしたでしょうか。 「ほりかわ」


 広報・新聞の果たす役割についても考えるようになってくる母親たち。
 4月に初めて集まった広報委員の皆で、手さぐりで作った96号です。感動をもらった体育祭をメインに、会員の皆さんが知りたいであろう先生の事、また子ども連が勉強より力を入れている(笑)部活動を中心に、他にも現在気になっていることを盛り込んでみました。
 最近は文章を読む時はPCや携帯の画面で、という方が多いのではないでしょうか? しかし、私は紙面に印刷された文字を読むことが大好きです。表紙を見た時やページをめ<る時のワクワク感、紙の手ざわり、インクのにおい、それら全部ひつ<るめて楽しいのです。皆さんに少しでもその楽しさを味わっていただきたいと思いながら作っ田この号です。ぜひお子さんと一緒に読んでください。 「深中たより」

 ライフラインのストップした被災地で人々に勇気を与え、情報を届けているものの一つが「新聞」でした。広報委員になり、初めて取り組むことになった紙面作り。広報紙を通して伝えたいことは何なのか、PTA活動をより深く、身近に感じとつてもらうには、何が必要なのか。試行錯誤しながら、会員の皆様に役立つ情報を届けたい一心で作り上げました。楽しんで読んでいただけると嬉しいです。 「稜線」


 編集の際、「読みたくなる広報紙」を目指しておりましたが、若干読み難さが先行するような紙面になりましたこと、深く反省いたしますとともにお詫び申し上げます。 「わかば」

 「広報作りを楽しんでいる」と感じさせる次のような「後記」を読むと、読者の頬はゆるむ。
 「西のいぶき」238号は字体を変えてみました。いかがだったでしょうか。今回、本当に多くの方のご協力により、紙面を作りあげることができました。取材中は、委員活動であるのを忘れ《素》で楽しませていただき、毎日が新しい発見の連続です。今回の取材中、丹沢ファームの三武さんに、そら豆はサヤのままグリルで焼いて食べるのが、一番美味しいと教えていただきました。豆が蒸されたようになり、ホクホクと美味しくいただけますよ。ぜひ一度お試しあれ。 「西のいぶき」

 中学時代の夢は作家。高校生のときは新聞記者。今は広報委員として取材に明け暮れする日々。夢を叶えたのかも♪  「秀群」

 毎日10kmのジョギングという私の生活に、4月から広報委員の仕事が加わった。頭を使い、体力を活かした充実した日々。今年の広報のテーマは「つながり」。この広報紙がまずは親子のつながりなればいいなあ、と思う。だから興味や関心をもってもらえるような紙面づくりに励む! そんな一日の終わりにはご褒美が待っている。きょうは旬のたけのことスーパードライです。 「ふれあいの丘」


  「広報(新聞)づくりは仲間作り」。 PTA活動は、子どもが学校に在籍している間だけできる特別な活動。だから広報委員になったのなら、その活動の中から喜びや達成感を得たいと願う。 
 まったくの初心者18名が集ってワイワイ楽しく4回の「せんだん」を発行することができました。号を重ねるごとにチャレンジ精神が大きくなり、今回は綴じこみ付録のおまけき! 最後の最後まで私達の「読んでいただきたい」という気持ちをこめて一生懸命頑張りました。仕事をしながら、小さい子どもがいながらも、みんなで協力し合ってひとつの作品を仕上げていくという「達成感」や「充実感」は他の委員会では味わえない経験だと思います。最後にこの一年間、ご協力頂きました保護者の皆様、先生方、児童の皆さんに深く感謝申し上げます。それと、時々お皿を洗ってくれたお父さん、会議が終わるまでいい子に待ってくれていた我が子へ… 本当にありがとう。 「せんだん」


2012年9月1日更新
 動かなければ出会えない!  
 ◇全国新聞教育研究大会 十勝・帯広大会(8月3・4日)に合わせて
  8月2日(木) 旭川空港8:30着  旭山動物園  美瑛  富良野  幌舞駅(映画「鉄道員・ぽっぽや」高倉健)  旭川ラーメン
  8月3日(金) 十勝ヒルズ 豚丼 北の屋台
  8月4日(土) 帯広百年記念館  ばんえい十勝(輓曳競馬)  
  8月5日(日) 大相撲十勝場所  紫竹ガーデン  幸福駅 とかち帯広空港19:10発  22:20寺山着

 大相撲十勝場所 
 白鵬 稀勢の里にサインをもらう

 8月5日 音更アグリアリーナで開かれた大相撲十勝場所。朝7時半過ぎに開場を待つ列に加わる。開場は8時だがもう長い列が。開場まで周りの人とおしゃべり。私の後ろに立つ人は62代横綱の大乃国の叔父さん。かつて力士だったというだけに堂々たる体躯。80歳を超えているとのことだが若い。思わずその太鼓腹に触れてしまった。 
 前は足寄町の廣瀬さん夫妻。「松山千春が小さいころ、ウチで面倒をみた」と言い、エピソードをいくつか披露してくれた。その松山千春の「デビュー35周年記念・10000人野外コンサート」が、昨夜音更町のとかちエコロジーパークで開かれていた。「鳩山さんと争うことになったら毎日応援に行く。ゼッタイ勝つ」と真顔。
 廣瀬さんの今日の観戦はサイン集めのため。白鵬をはじめお目当ての力士の顔写真を貼り付けた色紙をたくさん持っていた。神奈川から来たと言ったら、「若いころ静岡の小山町で暮らしていた」と奥さん。御殿場、山北、小田原など地名を挙げ懐かしがっていた。
 「それでは」と入り口で別れてから1時間ほど経ったころ、廣瀬さんが私たちの席を探し当て来てくれた。手にはポテトチップの袋が三つ。「おいしいから」と、笑顔で差し出す。袋には『生産者還元用』と書かれていたが、廣瀬さんはジャガイモではなくピート農家だった。

 この日の席は東の花道の入り口。サインをもらうには絶好の場所。私の席の横に母子が立っていた。お母さんはカメラ、女の子(後で知ったが小3)はノートを手にしている。聞こえてくる二人での話の中に、琴欧州や把瑠都など四股名が飛び交う。この場所でサインをもらおうとしているらしかった。

 十勝・帯広大会がもたらした奇遇
 《小3の女の子の相撲ファン》ということに、新鮮さを感じ、言葉を掛けた。私が「帯広で開かれた新聞大会に来た」と言ったら、お母さんは大会のことを知っていた。大会一日目に公開授業をした後藤卓也先生(帯広第一中学校)の奥さんは友達で、家も近いとのこと。《奇遇!》 それで一緒にサイン取りに挑戦することにした。先ずは色紙、と売店で20枚買ったら店の人たちがケゲンな顔をした。《動かなければ出会えない》ではないか。

 「稀勢の里がいる 走れー」 
 「場所」とはいえ、地方巡業だから花道付近にいる力士たちの表情は穏やか。聞こえてくる三段目あたりの力士の雑談は、いかにも今風の若者の声・言葉、内容だった。
 最初に書いてもらったのは臥牙丸関。大関把瑠都には「おじいちゃんと孫」のように見えたのだろう。私たちそれぞれにサインしてくれた。大関稀勢の里が屋外で付き人と二人でアップしているのを見つけた。それで「走れー、後から行くから」と命令? 30メートル先の大関を目指して一目散の彼女、追いかける私。ここでも二枚のサインをもらった。 私たちの行動にあわてたガードマン。それ以降稀勢の里へのアプローチは完全にシャットアウト。
 午後3時の打ち出しまでにもらったサインは、大関稀勢の里・把瑠都・鶴竜 小結妙義龍、前頭旭天鵬・安美錦・栃ノ心・高安・豊真将・臥牙丸・魁聖・雅山・時天空・隆の山・栃の若、十両朝赤龍・大岩戸、そして第62代横綱大乃国(柴田山親方)。堅いガードの横綱白鵬も彼女一人だけにサインしてくれた。(おじいちゃん効果?)
 旭天鵬は、私の後に続いてサインを求める人たちに、土俵を指差し笑いながら言った。「ちょっくらあそこで一仕事してくるから」。安美錦関に「秦野から来ました。お願いします」と色紙を差し出すと、「遠いところから来たんですね」としげしげと私を見る。(安美錦関は、毎年節分祭で秦野に来ている)
 「把瑠都がいる!」という声に、すぐに反応する・行動する私を見て、妻と長男は「でもあの人だかりではあきらめて戻ってくるよ」と《期待》したそうだ。だが首尾上々、ニコニコ顔で戻ってくる私を眺め、「なかなかやるじゃない」と顔を見合わせたのだっだ。家族はこの日の《私》に、驚き、あきれて、見直したようだ。

 とかち帯広空港19時10分発が帰りの便。東京に近づくと「夜景が今日は特別きれいなので室内の灯りを落とします」と機内アナウンスがされた。
                          (関連写真はギャラリーのページに)


臥牙丸関と

   
        把瑠都                     稀勢の里
         妙義龍                      鶴 竜 
          豊真将                  旭天鵬
           時天空                  安美錦
   
          魁 聖                    臥牙丸
          栃の若                     雅 山
          高  安              第62代横綱 大乃国
          朝赤龍                  隆の山


2012年8月1日更新

 7月29日に市立東公民館で開いた「夏休みの思い出を壁新聞に」講座の報

だれにでもできる新聞づくり講座
  夏休みの思い出を壁新聞に
                                     主催・秦野市立東公民館  協力・秦野市P連情報委員会   2012/7/29      

新聞っておもしろい (新聞の読み方)              
1 新聞を知ろう
新聞の種類 ①一般紙 ②スポーツ紙 ③専門紙・業界紙 ④その他の新聞
2 新聞を読もう
 (1)欄外を読もう(値段、360で割ると最古は毎日新聞・その前身の東京日日新聞で1872年創刊)
 (2)記事の鮮度(新しさ)のマーク
 (3)見出しの大きさ 新聞は三度読まれる 
 (4)誤報(まちがった記事)
3 小学生新聞を読む コラム「あなたの学級のおわりの会」

  参加者 15家族 36人(子ども20人) 
  特別取材 「恐竜を折る」 折り紙講師 田中淑生先生 参加者全員がブラキオサウルスを折り上げました。

                                   きょう作る新聞は 世界でたった一枚の新聞

 
 家族で新聞を読もう きょうはお父さんと一緒に  
 
 新聞っておもしろい! 新聞の値段はここに書いてある  やる気十分 早速レイアウトの相談が 
   
田中淑生先生(左)の指導で恐竜ブラキオサウルスを折る  これを新聞の記事にする  



2012年7月1日更新

 「PTA広報づくり講座」  大勢の応援団に支えられて


参加者と交流 「PTA広報づくり講座」 6月9日・毎日ホール

 秦野から参加の相原さんは、毎日新聞・全国新聞教育研究協議会主催の23年度「全国学校新聞コンクール・PTA広報の部「最優秀賞」の『西中PTA広報陽光』の編集者の一人。この日は中3の娘さんも一緒に話を聞いてくれた。後で聞いた話、この講座の後は東京駅の「東京おかしランド」で楽しんだとか。渋谷の小泉さんたち3人は、この日予定されていた運動会が雨で流れたので急遽きてくれた。その小泉さんは今年は小・中両校の広報委員でがんばっている。
 柏市の松浦さんは「今年で8年目の広報委員、集大成の年」なのだそうだ。そして川崎市からは河野さん(『はるひの』で22年度、日本PTA全国協議会の全国広報紙コンクールで「最優秀・文部科学大臣賞」を受賞)。新聞教育支援センターから吉成先生、菅原先生の参加があり心強かった。こうした皆さんは私の応援に来てくれたのだ。
 PTA広報づくりの指導者として先生方の参加を待っていたのだが、この日はなし。NIEが最終的に目指すのものは「新聞づくり」。学習新聞からスタートしたとしても、学校という社会を導く新聞が子どもたちの手で発行される、それがNIEの実践だと思っている。
 午後2時から、同じ会場で「新聞活用実践講座」が開かれたので、そちらにも参加した。






2012年6月1日更新

 新聞づくりの縁(えにし)
  2012年4月24日 
 秦野市文化会館小ホールでの秦野市P連の「広報技術講習会」のこと。会場に入ろうとしたら「武先生ですね」と声をかけられた。その人は大学の同期のKさんの姪と名乗った。
58歳で他界したKさんは東京新聞の現役の記者だった。当時の新聞記者は「夜討ち朝駆け」。Kさんはその典型のような生活をしていた。日本酒をこよなく愛した彼は肝臓癌で倒れた。弔辞を読ませてもらった。(『エコー』99号)。その彼の姪が、PTA広報ではあるが新聞づくりに立候補してくれた。Kさんの遺志を継いでくれたと思った。
 2010年に北上市で開かれた第54回全国新聞教育研究大会で、秦野から渋沢小と本町小の広報委員会がPTA分科会で実践報告をした。その提案者である渋沢小の多田さん、米谷さん、本町小の横溝さん、近藤さんがこの日の広報講座に参加してきた。4人そろって再登板!である。それぞれが「三年振りに帰ってきました! 今年もお願いします」とにこやか、そして元気。付け加えれば、北上大会への参加を渋沢小は夜行バス、本町小は日帰りという強行軍でやってのけた人たちだ。(『エコー』276号参照)。その4人が活動する今年の秦野のPTA広報は楽しみ。さらに書けば、近藤さんはKさんの姪と一緒に広報をつくるという“めぐり合わせ”である。
  「昨年に引き続き」を確認できたのはSA、KO、NAさんだった。1年休んで復帰したNIさんは会場から質問。ISさんも明るく挨拶をしに来た。昨年度の市P連情報委員や単Pの広報委員が大挙応援? に来てくれた。その数は十数名。私にとって大きな力となった。
 講座が終わりロビーで休んでいたら、文化会館に勤務している笠井さんが挨拶に来た。彼女は6年前、全国コンクールで最優秀賞を受けた『丹沢の風』(秦野・本町中P)の委員長。その笠井さんが同僚のKMさんを引き合わせてくれた。彼は渋沢中での教え子。そのお母さんはpTA広報委員長として年間12回の発行を手書きでがんばった人。この笠井さん、KMさんと机を並べている一人にNSさんがいる。NSさんのお母さんも『東中PTA広報』を一緒につくった人。
 この日用意されたテキストは400部だったそうだが、入場者全員に行き渡らなかったとのこと。男性会員の姿もかなり多く見られた。記憶では、今回の参加者は今での私の講座の中で最高の参加者。
 後日、主催者から届いた「広報講座のアンケート」の中に、こんな一人を見つけた。「初めての講習会参加です。私は武先生のはるか昔の生徒です。私の出身の東中学校は、当時も武先生を中心にした新聞作りを全校でおこなっていました。親になって子どもの学級新聞やPTA広報を手にすると、当時のことが懐かしく思い出されます。私の母も、私が在学中に広報委員として武先生の指導を受けたそうです。ですから、親子二代、PTA広報でお世話になることになりました。久しぶりに聞いた武先生の声には、昔と変わらぬ心地良さを感じました。講座の内容のいくつかは中学時代にも聞いたように思いました。今日のお話を聞いて、広報委員としてがんばる気持ちが湧いてきました。ご指導をお願いします」
 そして、この人の感想文も私を喜ばせた。「去年も参加したので、分かっていると思っていましたが、今年も参加しました。新鮮でした。楽しかったです。広報だけでなく、生きていく上でもとても興味深い、大切なお話でした。広報ってスゴイ! そして、おもしろい!! 今年も来てよかったです」。
 新聞づくりのネットワーク、《縁(えにし)》を思う。





2012年5月1日更新

 これが秦野市P連の広報技術講習会
   

 4月24日 秦野市文化会館小ホールで秦野市P連の「広報技術講習会」。会場に入ろうとしたら「武先生ですね」と声をかけられた。その人は大学の同期のKさんの姪と名乗った。
58歳で他界したKさんは東京新聞の現役の記者だった。当時の新聞記者は「夜討ち朝駆け」。Kさんはその典型のような生活をしていた。日本酒をこよなく愛した彼は肝臓癌で倒れた。弔辞を読ませてもらった(『エコー』99号参照)。その彼の姪が、PTA広報ではあるが新聞作りに立候補してくれた。Kさんの遺志を継いでくれたと、喜んだ私だった。
 2010年に北上市で開かれた第54回全国新聞教育研究大会で、秦野から渋沢小と本町小の広報委員会がPTA分科会で実践報告をした。その提案者である渋沢小の多田さん、米谷さん、本町小の横溝さん、近藤さんがこの日の広報講座に参加してきた。4人そろって再登板! それぞれが「三年振りに帰ってきました! 今年もお願いします」とにこやかに挨拶してくれた。付け加えれば、北上への参加を渋沢小は夜行バス、本町小は日帰りという強行軍をやってのけた人たち(『エコー』276号参照)。その4人が活動する今年の秦野のPTA広報は楽しみだ。さらに書けば、近藤さんはKさんの姪と一緒に広報をつくるという“めぐり合わせ”である。
 “昨年に引き続き”を確認できたのはSA、KO、NAさんだった。1年休んで復帰したNIさんは会場から質問。ほかにも質問が2つ。
 講座が終わりロビーで休んでいたら、文化会館に勤務している笠井さんが挨拶に来た。彼女は6年前、全国コンクールで最優秀賞を受けた『丹沢の風』(秦野・本町中P)ときの委員長。その笠井さんが同僚のKMさんを引き合わせてくれた。彼は渋沢中での教え子。そのお母さんは『西中PTA広報』の委員長として年間12回の発行を手書きでがんばった人。この笠井さん、KMさんと机を並べている一人にNSさんがいる。NSさんのお母さんも『東中PTA広報』を一緒につくった人。
 この日用意されたテキストは400部だったそうだが、入場者全員に行き渡らなかったとのこと。男性会員の姿もかなり多く見られた。私の記憶では今回の参加者は過去最高。
 昨年度の市P連情報委員や単Pの広報委員が大挙応援に来てくれた。その数はんと十数名。この日の私にとって大きな力となった。



2012年4月1日更新

 冬の京都・近江その2  2012年2月6日(月)~2月8日(水

 2012年2月7日 雨
 7時50分出発 雄琴から比叡山を越えて下鴨に抜ける道は下鴨大津線。この道は通勤道でもある。地元ナンバーの軽自動車にあおられた湘南ナンバー。だが、断固マイペースで走る。そして8時半に下鴨神社に到着。 

下鴨神社
 都ではもっとも古い神社の一つ。雨の中、境内を掃き清め、玉砂利を均す神官の姿が見られた。
 重要文化財の「大炊殿」(おおいどの)の特別公開期間だった。見学時間はまだ来ていない。それで覗くことにした。だがそのまま入ることができたので(?)大炊殿の竈に近づく。神へのお供物の調理をする器具、食器なども展示されている。外に御車舎、牛車もあった。神社を包む森は世界遺産「糺の森」。
        

金閣寺(鹿苑寺) 
 池越に金閣を眺めながら歩き、出口に向かう。途中で夕佳亭を覗くのだが、その道が変わっていた。案内書は英語、韓国語、中国語で書かれている。 

龍安寺 
 この季節と午前10時前という時間帯なので駐車場はガラガラ。係りの人が車の窓越しに「1時間以内なら無料です」と説明。そして「足のご不自由な方がいらっしゃるのですか」と聞く。助手席に立てかけておいた杖が目に留まったのだ。「ええ」と答えると「この奥まで入れますから。どうぞ」と進む先を示してくれた。その言葉に甘え、寺務所の駐車場に入れさせてもらった。車を降りて10秒で庫裏の入り口(拝観の入り口)だった。
 石庭に向かい合ったのは私たちを含め4組・8人。入場券に書かれた解説「静かに心眼をひらき自問、自答するにふさわしい庭」。寒かったが10分間ほど縁から足を垂らし坐り込む。
        

広隆寺 
 秦野という地名の由来に関係がある秦河勝(はたのかわかつ)が建立した寺。
 国宝第1号の弥勒菩薩半跏像が祀られている霊宝殿の入り口で、案内に立つ僧侶から、さしつかえなければ帽子をとってほしい、とていちょうに頼まれた。ここも見学者は数名。弥勒菩薩像にしっかりお会いできた。以前訪ねたときはガラスケースの中に納まっていたように思うが…。畳敷きの腰掛のようなものが置かれていて、そこに上がって拝観できるが、ちょっと勇気がいる。

松尾大社(まつのおたいしゃ) 
 秦氏が信仰した神社・酒の第一神社。五・六世紀の頃、渡来人秦氏の大集団が朝廷の招きによってこの地方に来住。新しい文化を元にこの地方の開拓した。秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰されるようになった。
 日本酒(ビールも)が好きな私。「一度はお礼参りを」と思っていた。念願が叶った。
 厚木・黄金井酒造の「盛升」の薦被りが奉納されていた。私の初任校玉川中学校は黄金井酒造の近くにあった。 学校の四季の宴会は、学区内の玉川温泉の旅館を順番に回って開かれた。どこの席でも酒は「盛升」だった。
          

嵐山から天龍寺
 渡月橋を眺めていたら白のウエディングドレス姿が目に入った。映画のロケかと思った。だがカメラを構える男性と二人だけ。男性も正装だったが、傍らにキャリーバッグが。本物の新婚さん! カーディガンを羽織ってはいるが「寒いだろう」と思ったが、新婚なら…。
 偶然にも同じレストランの後ろ前で食事をすることになった。二人の会話は中国語だった。
 お土産を眺めてから天龍寺に向かった。美空ひばり座の近くで、あの二人がまた写真でがんばっている姿を発見。若いってすばらしい! 愛は強い!
 
知恩院  
 教師としての初めての修学旅行は厚木・玉川中学校で1962年。そのとき訪れた知恩院を詠んだ短歌。 

 男坂子らと競いて登り来て見上げる朝の大伽藍清し

 三門をくぐると急な石段が迫る。この石段が「男坂」。
        

銀閣寺(慈照寺)
 
 門前通りのおかき処・寺子屋本舗で、焼きたての煎餅を買い歩きながら食べる。これぞ修学旅行。
 
 ※第3日は三井寺→石山寺→椿大神社(鈴鹿市)→人穴浅間神社(富士宮市)と回る。
            
  椿大神社は全国に2000余ある猿田彦大神を祀る神社の本宮。猿田彦大神は道祖神の神さまでもある。



2012年3月1日更新

 冬の京都・近江 2012年2月6日(月)~2月8日(水)

 教員OBが集まる「秦野ゆとりの会」の会長望月先生の突然の訃報が届いたのは昨年2月6日だった。10数年前、その望月先生から「武さん、この会の皆さんで京都に修学旅行に行きたいね。計画を立ててよ」と頼まれた。それで2000年の秋「ミレニアム修学旅行」を企画した。方面は岐阜・長野、京都には行けなかった。そんなこともあって、「もう一度、京都に修学旅行として行きたい」という思いが強くなっていた。そしてこの二月、念願かなって京都を訪ねた。


伏見稲荷大社 千本鳥居の入り口

1日目・2月6日 5:00 寺山出発
 東名高速道 ― 富士川SAで朝食 ― 浜名湖SA(休憩) ― 伊勢湾岸自動車道 ― 湾岸長島PA(休憩) ― 東名阪自動車道 ― 新名神高速道 ― 土山SA(休憩) ― 名神高速道 ― 京都南インターチェンジ(10時30分ころ)
 京都に修学旅行で訪ねたのは15回、個人での旅が4度、最後は全国新聞教育研究大会・京都大会で5年前の夏だった。なんと今回が20回目の京都の訪問。そのスタートの伏見稲荷大社に着いたのは10時40分ころだった。傘を持って車を降りた。

伏見稲荷大社 
 3万社あるといわれている稲荷神社の総本社。祭神は宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)。秦野にも深く関係がある秦氏一族が守り神とした。秦野に関東三大稲荷の白笹稲荷があるのもこのことによる。「稲荷」だから農業の神様。子供のころいったことがある白笹稲荷の初午際。参道には農具を売る店がたくさん出ていた。今は商売繁盛などいろいろとご利益を下さる神らしい。東アジア系の若者たちが千本鳥居にカメラを向けていた。怒られるかもしれないが「神秘性はあまり感じないあっけらかんとした神社」。
ここは二度目のお参り。

東福寺
 1991年11月「勤続30年のリフレッシュ休暇」それで京都を訪れた。そのことを「エコー」80号にこう記している。
「洛南の紅葉は東福寺」といわれている。観光客でにぎわっていた。箱庭的だが、洗玉潤と呼ばれる渓谷を覆う紅葉に夕陽が映えるさまは息を呑むほど。高山寺や神護寺の紅葉は体を包み込んでくれるようだったが、ここ東福寺の紅葉は染み込んでくるといった感じである。
 ここには国の重要文化財建造物に指定されている「東司・とうす」が建つ。この「東司・厠」からでる排泄物は「京の野菜づくりに携わる人々に売られ、おいしい京野菜をつくる肥料として使われた。お寺にとっても貴重な現金収入をもたらした」と説明板に書かれていた。

清水寺(昼食・梅山堂)
  「行けるところまで行こう」と、茶わん坂に車を乗り入れた。駐車場が心配だったが、山門まで2分の駐車場に入ることができた。数えたら4台しか入場していなかった。昼飯どきなのに、清水坂の観光客の少なさ。山門からかなり下まで道路が見通せる。清水の舞台では映画のロケの準備が行われていた。「一方通行」の見学路を逆行しても誰に迷惑はかけなかった?  このごろ縁結びで《売れっ子》の地主神社の周囲だけが若い女性で華やいでいた。
 山門下の梅山堂に呼び込まれたのでそこで昼食。ここは、修学旅行でよく使わせてもらった店だ。東アジア系の人たちだけが元気な清水寺。雪 ちらつく。観光のオフシーズンを象徴する光景にいくつも出合えた。

蓮華王院・三十三間堂 
 ここでも私たちの前後の見学者は10名ほど。千体千手観音像の中尊は千手観音坐像。「ここに座って見上げると中尊の視線と合う」と観光タクシーの運転士が説明している。それで、通路に座って見上げてみた。慈悲のまなざしをこの身で受けることができた。かつて風神、雷神は千体の裏側に安置されていたが、今は1001体を護って表の左右に安置されている。

東本願寺 
 御影堂と呼ばれる本堂は平成21年にその改修築が終わった。世界最大の木造建築物といわれるその堂宇の壮大さに眺めいった。参拝者は少ないが誰もが額づいている。

東寺 
 今回の旅でぜひ訪ねたかった寺社のひとつが東寺。新幹線が東山トンネルを抜けると東寺の五重塔が見える。東寺は京都のランドマーク。この季節に修学旅行に来ている中学生に出会う。ジャンボタクシーを使っての見学。これだと男女混成の班行動ができる。五重塔を背景にした記念写真の撮影を頼まれた。豪雪地帯からの来訪だそうだ。「京都は室内が寒い」と言っていた。底冷えのするのは確か。それでも金堂の薬師三尊、講堂の諸仏にはゆっくりとお会いする。

比叡山延暦寺 東塔 
 今回で三度目の参拝。雪が残る参道は凍りついている。3時半を回っていたので参拝者は数名。その人たちも早々に引き上げて行った。以前訪ねたときは、根本中堂を正面に見下ろす形で石段を下りた。この日は左手の階段をそろそろと下る。堂内は吐く息が白くなるほどの冷え。1200年間守り継がれた法灯に礼拝。車に戻る途中で午後4時。大講堂の蔀戸が閉じられる様子を見ることができた。

 比叡山ドライブウェイ ― 奥比叡ドライブウェイ(びわ湖展望台で休憩)を走り雄琴温泉「京近江」へ。(以下次号)



2012年2月1日更新

教え子三人と国立歴史民俗博物館へ
向こうへ行け」と青面金剛は立ちはだかる?

 1月29日、教え子三人(高橋さんは古地図、関さんはお城、山口さんは社寺の建築様式、とそれぞれ異なった分野に興味を持っている。私は道標だが)と一緒に佐倉市にある国立歴史民俗博物館に出かけた。関さんと山口さんは二度目の来訪である。山口さんの車で8時に秦野を出た。道路が空いていたので9時40分にはもう佐倉に着いた。
 展示案内のパンフに「ゆっくり一回りで2時間程度」と書いてある。私たちが入った時間帯の見学者はほんの数人だったので、気の向くままに見て回れた。一回りして時計を見たら12時半近かった。
 たぶん石仏・石神がたくさん見られるはずの「日本の民俗世界」の展示室は、リニューアルのため来年3月まで休室。残念なことだった。そんな中、第三展示室の近世・「ひとともののながれ」のコーナーに建つ庚申塔を発見。レプリカだがその碑文に興味をそそられた。
 寛延2年(1749)2月3日に建てられたこの駒形の青面金剛像の庚申塔。
 正面の左に刻まれた「さくらミち」は読めた。右は「むかうへゆけ」まで読めたが次の一文字が解読できなかった。それで、庚申塔だから「厄病災いよ向こうに行け。ここから入るな」とがんばっている青面金剛の言葉と理解した。
 この碑の左右の面にも文字があった。右面に「この本(ほ)う行ハ小が年(ね)町」。左面「この羽(は)うへ行ハふなはしへ」。この面の下部に「坪井住人」。
 それらの文を読んだとき、「むかうへゆけ(は)さくらミち」と書いてあるのだと分かった。「千葉郡坪井村住人(現在の八千代市)」は、 「向こうへ行けば」とていねいな案内をしている。

夜明け

 2012年1月1日更新

 
紙芝居チーム「竹の子」ダンゴ焼きの民話「目一つ小僧」を紙芝居に

 私の住む清水庭・現在の清水自治会(「庭」とは秦野地方で用いられてきた小集落を表す言語、今も使われているが)の道祖神は自然石の文字碑(「久奈斗大神」・明治16・1833年造立)である。
 清水庭のダンゴ焼きは、今年も1月14日の午後2時30分からこの道祖神の横の広場で行なわれる。私の記憶する限り、清水庭のダンゴ焼きは1月14日で行なわれてきた。その日は動かしていない。清水庭の子どもたちは、昔のままに版木で道祖神のお札を刷り、各家庭に届ける。だが、子供の数の減少、そしてダンゴ焼きという行事を知らない新しい地区民もいて、昔ほど大勢の参加は見られなくなっているのも現実である。
 14日のダンゴ焼きの広場では、子供たちには自治会が用意したお菓子が配られ、数年前からトン汁も振舞われるようになった。「あんた どこの嫁さん?」などと年配の女性が声をかけたりして、この日は庭に住む人たちに新しい交流も生まれる。昨春の大震災を経て地域の結びつき、人々の繋がりの大切さを思う。ダンゴ焼きはその手立ての一つとなる。そのためにはダンゴ焼きの意義を伝えなくてはと思い、紙芝居をつくることを考えた。
 イラストが得意な二人のお母さんに「ダンゴ焼きを後世に伝える紙芝居をつくろう」と持ちかけた。一人は秋田出身の伊東祐子さんで中一と中三の子供がいる。伊東さんは昨年の一月、秦野市P連情報委員会の研修会で私の「秦野地方の道祖神祭り」の話を聴いた人。もう一人は、わが家の隣りの関智子さん、中二と小六の子のお母さん。関さんは4年前、清水庭のダンゴ焼きの夜、私が庭の子供たちに話した『目ひとつ小僧』の話を一緒に聴いてくれた。
 紙芝居作りの話を持ちかけて10カ月が経った昨年十一月の末、二人は紙芝居『目ひとつ小僧』の原画を完成させた。二人にコンテを渡し、あとは想像力、創造性に期待した。伊東さんにも関さんにも「もう一人の人にも紙芝居をお願いしている」とは告げなかった。面識の全くない二人なのに、打ち合わせをしたかのように時代設定が見事に異なっていた。伊東さんの舞台は江戸時代、関さんは現代版である。(下・参照)二人が描いた絵は、私の想像していたものをはるかに超えるすばらしいものだった。
 昨年の12月14日、JAはだのの組合員基礎講座で、私は「秦野地方の道祖神祭り(ダンゴ焼き)」を話した。その中で伊東さんの紙芝居「めひとつ小僧」も初上演。12月21日、『あずま荘デイサービス』で、関さんの紙芝居「目一つ小僧」を上し“ダンゴ焼き”の話をした。どちらの公演でも、聴衆はダンゴ焼きにまつわる「目一つ小僧」の話を懐かしく聴き、紙芝居を楽しんでくれて。伊東さん、関さんはそれぞれの会に参加してもらい、ストーリーを確認してもらった。
 二人の作品をとりあえず私が1回ずつ上演したが、これからは《ひとり立ち》してもらう。1月14日、清水・東の原のダンゴ焼きの夜、関さんは子供たちに「目一つ小僧」を見せる。伊東さんは1月18日、市PTA連絡協議会情報委員会で「めひとつ小僧」を上演する。
 三人は「紙芝居チーム・竹の子」と名乗り、紙芝居「目一つ小僧」を上演することにしている。「これであと50年は“ダンゴ焼き”は存続する」と二人に言った私だった。

 ※ 紙芝居の上演についてのお問い合わせは武勝美まで

   
絵・伊東祐子                                絵・関 智子





2011年11月1日更新
この夏の旅 
 
道祖神の里めぐり 郡上おどり こきりこ節 越中八尾 そして福地温泉夏祭り

♪こきりこのお竹は七寸五分じゃ♪ 「こきりこ節」を歌い、舞う村上家の当主忠兵衛さん

 40年くらい前だろうか。勤務していた中学校の音楽の先生が、職員室で木片を繋ぎ合わせたような半円形のもので、「しゃっ しゃっ」と音を出していたことを記憶している。

8月18日
 9時少し前、越中五箇山(富山県南砺市)の村上家を訪れた。築400年の村上家は、昭和33年に国指定の重要文化財合掌造りに指定されている。
 こんな早い時間だったが、当主の忠兵衛さんは囲炉裏に火をおこし私たちを迎えてくれた。その囲炉裏端で五箇山の歴史、合掌造りの説明を聞いた。その維持の大変なことも。 
そして忠兵衛さんは、七寸五分(約23cm)の二本の竹を両手の指で回しながら打ち鳴らし、五箇山の『こきりこ節』を歌った。軽やかなこきりこの音、そして伸びやかな節まわしだ。
 
 こきりこの(お)竹は 七寸五分じゃ 長いは(あ)袖のかなかいじゃ~♪
 (こきりこの竹は23cmの長さである。それより長いと袖に引っかかってじゃまになる。
 ※(はやし) 窓のさんさもデデレコデン はれのさんさもデデレコデン

 踊りたか(あ)踊れ 泣く子をいくせ ささらは(あ)窓のもとにある~♪
 (踊りたければ踊りなさい。泣く子はよこしなさい。ササラは、窓のところにあるので、それをもって踊りなさい)
 ※(はやし)

 月見て歌う放下(ほうか)のこきりこ お竹の夜声の澄みわたる~♪
  (月夜に歌う大道芸人のこきりこ節は、竹の音とともに夜空に澄みわたる)
 ※(はやし)

 「こきりこ節」は日本で一番古い民謡だそうだ。田楽から派生し、田踊りとして、五穀豊穣を祈り、百姓の労をねぎらうため、田楽法師によって田植えや稲刈りの間に踊られた。
 忠兵衛さんは立ち上がると、「放下僧のささら踊り」を舞った。ささらを鳴らして舞う優雅で、しかもキレのある踊りだった。半円にし波打たせて鳴らす「ささら」のザザッという音と忠兵衛さんの直垂衣装は、はるかな平安時代に思いをはせることが出来る印象深い舞いだった。忠兵衛さんの額には汗が噴きでていた。
 合掌造りの二階、三階には五箇山の民俗資料がびっしり陳列されていた。その資料の中に懐かしい言葉を見つけた。「塩硝」。子供の頃、雑貨屋で「エンシュウ」と呼ばれてた紙火薬が売られていた。石で叩いて爆発させたり、ブリキ製のピストルにセットして撃ち合いに興じたりた。あるとき、転んだ拍子に胸ポケットにしまっておいたエンシュウが発火して服を焦がし大騒ぎした。その「エンシュウ」は「塩硝」のことだった。
 五箇山は火薬原料の生産地で、加賀藩の重要な役割を担っている土地だった。火薬の製造は軍事機密、秘境の五箇山は幕府や他藩の目からのがれるのには格好の地だった。300年以上にわたり、五箇山全戸が塩硝製造に携わり、質量ともに全国随一であったと言われている。
 村上家を辞し合掌造り集落の相倉に行く。20棟の合掌造りが建ち、60人ほどの人が生活しているとのこと。集落に入ると「お願い」と書かれたリーフレットを渡された。「・屋敷内、田畑などには立ちいらないで・夕方から早朝の見学はご遠慮を・住民の車が通ります・ゴミの持ち帰りを・集落内は禁煙です」そして「またいつか訪れていただいた時に、変わらない『相倉合掌造り集落』であることを願っている私たちです」と書いてあった。

 五箇山民謡の双璧は『こきりこ節』と『麦や節』。黒の紋付袴、白たすき、白足袋といういでたちで、一尺五寸の杣(そま)刀を差し、笠を持って踊る勇壮踊りの『麦や節』。その踊が見られるという南砺市の城端伝統芸能会館「じょうはな座」に行った。ところが開催は第2・4土曜日だけ。「せっかく城端に来たのだから」と、名の通っている料理屋で昼食。出されたうな丼を見たらうなぎの姿がない。タレのかかったご飯の下にうなぎは隠れていた。仲居さんに聞いたら「これがうな丼です」。関西風というらしい。善徳寺、城端曳山会館、じょうはな織館を見学。
 『麦屋節』と呼ばれることもある『麦や節』。その唄の出だしの歌詞は「麦や」、そこから『麦や節』となった、と説明されている。
 
 ♪ 麦や菜種は二年で刈るが 麻が刈らりょか半土用に 浪の屋島を遠くのがれて来て 薪こるてふ深山辺に 烏帽子狩衣脱ぎうちすてて 今は越路の杣刀

 『こきりこ節』『麦や節』と並べば、残りは『越中おわら節』。富山市八尾町の「越中八尾観光会館」を訪れた。会館には曳山が6台展示されていた。おわら踊りが見られる「風の盆ステージ」は、ここも第2・4土曜日。『麦や節』とリンクしているのだ。売店で記念切手「おわら風の盆・舞」が売られていたが、2セットしか残っていなかった。
 二週間後に迎える「おわら風の盆」。人口2万のこの町に30万もの人が踊を見に来る。町を車で走ってみた。坂の町、通りの両側に火防・流雪用水路「エンナカ」が走っていた。その水の奏でる音は、胡弓の伴奏で歌われる哀調を帯びた『おわら』の音色と共に、平成8年「残したい日本の音風景100選」に選ばれた。

 ♪ 越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山 三国一だよ
   (はやし)唄われよ わしゃ囃す
   ♪ おわら踊りの 笠きてござれ 忍ぶ夜道は オワラ 月明かり
   (はやし)キタサノサ ドッコイサノサ 

 この日の宿は奥飛騨の福地温泉。郷土芸能「へんべとり」(獅子が笛や太鼓にあわせ蛇(へんべ)をくわえて舞う獅子舞)を見るはずだったが雨で中止。  
 
 日本人は「三大○○」という表現が好きだ。「日本三大盆踊り」は 阿波踊り、西馬音内盆踊り、郡上おどり、なのだそうだ。この旅の郡上おどりで三大盆踊りはクリア。



2011年10月1日更新
この夏の旅 上
 
道祖神の里めぐり 郡上おどり こきりこ節 越中八尾 そして福地温泉夏祭り

8月16日 別所温泉
 倉渕から浅間山の麓を通り「あぐりの湯こもろ」に寄る。12年前の初冬、懐古園を歩いていたら地元の人から「あの丘の上のお風呂に行くといいよ。この10月にオープンしたばかりだから」と勧められたのが「あぐりの湯こもろ」だった。
 方形の露天風呂の縁は動かない湯浴み客でいっぱい、割り込む隙はない。それで湯船の真ん中に陣取り、雄大な浅間連峰の夕焼けを眺めた。湯上りに地ビール「おらほ」を飲む。
 この日の宿は別所温泉の中松屋。1999年11月、教え子二人に誘われ信州を旅した。そのときの宿が中松屋で、宿から“記念”にカレンダーをもらった。(下:「エコー」176号参照) それで、その「お返し」に秦野の落花生を持っていった。女将さんがとても喜んでくれた。


中松屋の玄関先に立っていた握手像の道祖

 北向観音の境内の盆踊り会場を通り抜け、夕食をとりに“焼き鳥の『桂』”を訪ねた。ネットではけっこう知られている店、それに盆踊りの最終日ということで予約で満席。
「神奈川から来た、ネットで調べてきた」と言ったら、「盆踊りがハネてからの予約席がある。8時半までなら」と座敷に上げてくれた。
 気さくな女将さんで、妹さんも加わりいつの間にか高校野球の話。妹さんのご主人は丸子実業で甲子園に出場したとのことだった。かつて県立伊志田高校野球部長だった妻は、あの高橋由伸選手のいた桐蔭高校に秋の県大会で勝ち、夏の大会では第一シードの横浜商大高校を破った“実績”の持ち主だから、大いに盛り上がった夕食会になった。
店を出ようとしたら、「ちょっと待ってて」と女将さんが採りたてのピーマンとズッキーニをたくさんくれた。


8月17日  白川郷から郡上八幡へ 


前山寺、安楽寺、常楽寺を見てから白川郷へ。萩町城跡展望台から合掌造りの集落を眺めた。集落に入る車の列が延々と伸びていた。

 郡上八幡市に入ったのは午後2時過ぎ、郡上八幡には子供たちの度胸試しをする橋がある。宿の部屋から見えるその橋できょうは度胸試しはなさそうだった。その橋の下流に目をやると、2メートルほどの高さの岩から飛び降りようとする子供を発見。水中に居て励ましているお父さん、お母さんは岩の上で。橋のたもとの岩の5メートルほどのところから中学生くらいの二人が飛び下りる姿が見られた。岩を蹴るまでのにかなりの時間を要した。、それは観衆を意識していたのか、それとも決断までの時間だったのだろうか。こうして低い岩から高い岩へと心を鍛え、最後に挑戦するのが高さ12㍍の新橋の欄干からの飛び込み。その欄干に警告文が書かれている。「この橋からの飛び込みで重大な事故が発生しています。不慣れな方等の無謀な飛び込みはは厳に自粛されるよう警告します。-郡上市-」
 夕方の職人町には人通りはなかった。民家の人が道路わきを流れる用水路の水を打ち水していた。郡上おどりを楽しむ旅人たちを打ち水で迎える町の心の表れだった。
職人町、鍛冶屋町を通り抜け、本町の中ほどで右に折れると清泉「宗祇水」がある。「宗祇水」は、秦野も選ばれた環境省が選定の「日本名水百選」の第1号に指定された。郡上八幡には「水舟」という特有の水利用のシステムがある。湧水や山水を引き込んだ三槽からなる水槽のうち、最初の水槽が飲用や食べ物を洗うのに使われ、次の水槽は汚れた食器などの洗浄。いちばん下流の槽は野菜晒し槽で鯉なども飼われるというシステム。その代表が「宗祇水」。 


道の両側に用水路 打ち水がされた職人町を歩いた 

 盆踊りのロングランで知られている「郡上おどり」は、8月のお盆の4日間は朝まで踊られる。この日から9月3日まで町内の広場を会場に巡回して踊りが繰り広げられる。この日は城下町プラザが会場だった。だが踊りが始まる前から激しい雨。そんな雨の中、地元の青年が一人、スローなタップダンス調で、たくみに下駄の音を響かせていた。そして定刻、雨をものともせず踊りが始まった。観光客はそれほど目立たない。聞けば、昨日までの徹夜踊りが終ったので、地元の飲食店はきょうは休業。店主も従業員も踊りの輪に入っているとのことだった。
 長男の中学時代の同級生のSさんは郡上おどりにとりつかれている。ここ数年、徹夜踊りは郡上に来ている。それで試みにSさんに電話を入れてみた。なんと、彼は郡上に居た。それから20分くらい経ち、奥さんと女の子を連れて浴衣で現れた。三日前からキャンピングカーで寝泊りし踊りに興じているとのこと。「今夜、踊り終えたら相模原に帰る。明日から勤務」と笑いながら踊りの輪に入っていったSさん。子供のころの彼を知っている妻にとって、信じられない今のSさんだった。 

   
      郡上のな~ 八幡出て行くときは 雨も降らぬに袖しぼる 17日夜は夕立 




2011年9月1日更新


直立僧形道祖神 寛永2年(1625年)
 倉渕地区のこの道祖神は群馬県最古


画像ギャラリーのページに倉渕の道祖神を載せました。ご覧下さい。

2011/8/16  道祖神の里めぐり 
                                     2011/8/16                  群馬・高崎市倉渕地区    



 『奥の細道』の序章に「道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより」という一節がある。この8月、宿願だった群馬・高崎市の倉渕地区(旧倉渕村)と長野・安曇野市穂高地区(旧穂高町)の道祖神に会い出かけた。

 8月16日 午前9時少し前、倉渕地区の入口で出会ったのが抱擁する道祖神(上掲)。高崎市教育委員会の解説書には「特異な抱擁像」とある。像の側に立つ旧倉渕村教育委員会の案内板には「浮世絵を思わせるような夫婦和合像」と記されていた。道祖神は複合信仰の神で、塞の神、岐の神、結縁の神、子宝の神、豊作の神など万能の神。この抱擁像の他にも、女性の胸元に手を滑らせているもの、下半身に手を伸ばしているもの(下)など、おおらかな神様がいくつも見られるのが倉渕の双体道祖神の特徴の一つ。秦野地方では全く見られない道祖神像である。            


 水沼坂下の握手像はガイドブックなどにも載る特徴のある道祖神。今回ぜひ会いたいと思っていた道祖神さん。お盆で倉渕に里帰りしている女性に出会ったので、像のありかを尋ねたが自信のある答えはもらえなかった。集落からの道が大きく回りこんでいる山道の陰に、頬を寄せ合っている道祖神さんがいらっしゃった。仕草・表情はまさに夫婦円満の象徴。明るい開けた場所に立たせたい。


 長井地区の「百庚申」と呼ばれているところに6基の道祖神があると資料に紹介されている。林道の脇の階段を登ると、生い茂る夏草の中に庚申塔が林立している。文字通り「百」はありそうだった。その庚申塔群の奥に道祖神が祀られている。この地に立つ道祖神と庚申塔は道路改修の際、ここに集められたらしい。
 長井を通る信州街道は草津温泉に続くので草津街道とも言われ、多くの旅人が行き来した。6基の双体道祖神の中で「御高祖頭巾」の像は「優雅て逸品」と記録されているが、時を経たこととその修復とで価値をうかがうことが出来なかった。倉渕にしかない「元禄びな」と呼ばれる坐像の双体道祖神もある。冬の陽だまりの中で6体に再会したいと思った。


 「優雅」な道祖神といえば下諏訪神社境内に立つ酒器像(下)は「天下逸品」と地元で評されている。天明8年・1788年の造立だから220年を経ているのだが、その穏やかな表情などはますます美しさを増している。


  倉渕地区は道祖神の宝庫といわれている。77カ所、114基という数はもちろん、造形的に見ても優れたものが多い。こんな素朴で優雅な倉渕の道祖神さんが盗難にあった。下の像は平成3年盗難に遭い、まだ倉渕に戻って来ていない。

 



道祖神の里めぐり  2011/8/19  
                                     2011/8/16              長野・安曇野市穂高町  

画像ギャラリーのページに穂高の道祖神を載せました。ご覧下さい。

 朝の連ドラ「おひさま」の舞台は安曇野。そのドラマにも時々道祖神が登場する。安曇野には仲むつまじい双体道祖神があちこちに立っている。大糸線穂高駅前の看板にあるように旧穂高町には83の道祖神が祀られている。文字碑を含めれば130体以上。町のいたるところに道祖神―角を曲がると道祖神が現われる―そんな感じのする地だ。

  
信用金庫の入口に                          たばこ屋の角を曲がったら

 穂高町の道祖神は他の神仏と共に祀られているものもある。下は等々力地区で見たその典型的な5基。右から道祖神 甲子塔(大黒天) 二十三夜塔(勢至菩薩) 庚申塔 二十一夜塔(如意輪観音)。この5基の前に無縫塔が立っていた。

 

 秦野地方の双体道祖神は舟後光型がほとんど。安曇野の相体像は自然石に彫り込まれている。服装も冠衣束帯の男神と十二単の女神が多い。道祖神を神殿を線彫りにし、その中に祀るもの(下左)や、菊花紋の欄間の下に立つものなど他の地方の道祖神にはあまり見られない型のものもある。(私は初見)。

 
神殿型・線彫り                                   菊花紋の欄間   

 安曇野では彩色された道祖神に会える。年に一度、地域の子供たちが塗り替える。そのわけは、色を付けることで道祖神の霊力が新たになり病気や災難から護ってくれるから。子供が色付けするので、その表情はおのずから現代調(右)。“好み”からすれば、「極彩色は…」。

  

 等々力町の道祖神碑(下)の近くの住む女性から道祖神の祭りのことを聞いた。「この道祖神は今は色は塗らない。子供の道祖神の祭りもなくなった。五月に、大人が手料理を持ち寄って道祖神の前で宴会をやるだけ。昔は子供の相撲大会もあったらしいけど」。
 湧き水と北アルプス、「おひさま」人気で安曇野はにぎやかだった。だが「道祖神めぐり」で出会った人たちはわずか二組。それでも穂高の道祖神たちは穏やかに私たちを迎えてくれた。


今回の安曇野・穂高町の道祖神めぐりで気に入った三基
              
  ダンスのステップを踏んでるような     菊紋、人物などすべてていねいに彫られている    大きな盃と徳利・珍しい 

                          

              彩色された青面金剛像と二十三夜塔にも出会った        道祖神そばに馬頭観音と百観音の石碑が20基ほど置かれていた




2011年8月1日更新

「祝秦野たばこ祭り」の花火の打ち揚げ ありがとうございました

林家 たい平様
 7月9日、秦野での「みなせ寄席」で、たい平さんの『七段目』を聴きました。『笑点』でのイメージと全く違う話芸に聴き入りました。オレンジ色ではない羽織姿、粋な噺家さんでした。そして、降壇される前に、秦野たばこ祭りを祝って《花火》を打ち揚げてくださいました。客席は驚き、どよめきました。
 今年の秦野たばこ祭りは9月24・25日に行なわれます。64回を数える祭りです。大震災をおもんばかり花火大会は中止になりそうでした。6月になりようやく実施が決まりました。花火大会は河原や海辺で行なわれるのが一般的です。でも秦野たばこ祭りの花火は、権現山の山頂で打ち揚げられます。「会場まで足を運ばなくていいから」ということです。秦野人は “商売気”はあまりないのです。その花火大会に先駆け、秘芸の《花火》を揚げてくださいました。
 世をあげて「嫌煙ムード」の中、『たばこ』を冠とする祭りです。「変えたら」という声が市外はもちろん、市内からも聞こえてきます。しかし秦野市の基盤は、江戸時代からの葉タバコの生産にあります。秦野産の葉タバコは、鹿児島の国分、茨城の水府と共に「日本三銘葉」でした。秦野という郷土を作るのに一役買った葉タバコを秦野市民は忘れてはいけないのです。私は秦野を愛しています。「たばこ祭り」が、「花火大会」が好きです。
 たい平さんは、「秦野たばこ祭りの成功を祈って」と『花火』を揚げてくださいました。嬉しかったです、感激しました。少しジーンときました。実は《花火》をお願いしたのは私です。たい平さんに私のお願いを中継ぎしてくれた職員・笠井麗子さん・が、お願いしたときの状況を話してくれました。「話の流れがあるから…」おっしゃったそうですね。演目は十八番の『七段目』でした。《一発芸》など入れたら話は壊れます。それなのに勝手な願いを聞き入れてくださいました。ありがとうございました。 たい平さん、私はあなたに本物の江戸噺家を見ました。そして芸人の心意気を感じました。すばらしいエンタテイナーであることを再確認しました。
 寄席が跳ねてから、直接お礼を申し上げようと思ったのでした。ところが既に埼玉に向われたとのこと。それでこのようなぶしつけなお手紙を差し上げることをしてしまいました。お許しください。 
 たい平さんの人柄に触れ、とても豊かな心で一日を終わることができました。ありがとうございました。秦野をご再訪くださることをお待ちいたしております。末尾になりましたが、ご健康を心よりお祈り申し上げます。                     武 勝美








2011年7月2日更新

2011/7/1の日記
 「きょうは武先生はパス」

 相模原市P連・旭ブロックのPTA広報づくり講座に出かけた。ここでは講座のあと運営を担当した皆さんと昼食を一緒に食べるのが慣例になっている。きょうは6名のお母さんたちがご一緒してくださると聞いていた。ところが実際には4名になった。食事の席できょうの講座の責任者であるOさんから2人減になった訳が聞けた。
 午前の講座の中で、私は「PTAは“一緒に子育てしましょう”を勧める会。だからその活動の原点、そして最終到達点は学級懇談会」と、学級懇談会の重要性、必要性について話した。午後、学級懇談会が開かれるがそちらパスし、会食会に出るつもりでいた二人はこの話に共感してくれた。
 「きょうは武先生はパス。先生によろしく」と言って学校に向ったとのこと。 

 この日の私に向けて事前に次のような質問・相談が寄せられていた。講座の中で回答した。
 広報づくりで悩んでいること わからないこと
・先生方が毎日熱心に学校HPを更新しており、閲覧している会員が多く、広報の記事がいつも後手に回ってしまう。広報の存在が薄れがちな気がする。広報ならではの在り方はあるでしょうか。
・載せる記事について、PTA本部からはPTA活動の紹介に力を入れて欲しいと言われ、学校サイドからは子供の生き生きした活動の紹介に力を入れるように言われ、なかなか方針を決められない。
・過去の広報を参考にすると、紙面がワンパターンになってしまう。面白味のある紙面にするコツはあるでしょうか。
・広報は読み手のことを考えろと言われるが、対象が広すぎてどの層を一番に考えるべきか分からない。
・方針が決まらないままスケジュールに追われて記事を作ってしまう。統一したテーマを持った方がよいのでしょうか。
・アンケートなど集計した記事を載せるのは良い手法なのかどうか。またどのように載せるのが効果的か。
・数人に分かれてレイアウトを担当すると、統一感をうまく出せない。文字数や写真の位置など、うまくまとめるには、どういった点に気をつけるべきでしょうか。
・記事の配置、配色など、構成を考えるのが難しい。記事と写真の比率はどの程度が良いのか。

 《きょうは武先生はパス》はうれしかった。4月15日からのスタートしたPTA広報講座はきょうで一段落。きょうは7月1日、夏を迎えるにふさわしい和菓子を買って帰った。







2011年6月1日更新

新聞の記事読みくらべ
私の講座(伊勢原会場と秦野会場)を取材してくれた『タウンニュース』の記事です。「読みくらべ」の感想をお聞かせください。







2011年5月1日更新


端午の節句を祝う箸袋 読者のKさんからいただきました


高部屋小学校PTA広報『おおぞら』(168号・ 2011/3/8発行)より

 私の子供の頃の端午の節句は「凧揚げ」の季でもありました。日本の各地にそれぞれ独特の凧があるように、秦野の凧は「せんみ凧」と「達磨凧」でした。その「お節句の凧揚げ」の風習も、父親になった頃には消えていました。そんなこともあり、日本の凧に興味を持ち旅先で買い求めたのです。長崎、讃岐、浜松、津軽、そして中国やマレーシアの凧も応接室に飾っていました。
 たぶん30数年も前のことでしょう。伊勢原市の大山阿夫利神社に参拝に行った帰り、麓の土産物店で凧を見つけました。店内に掲げられていましたが、売り物でなく、そのお店の子供の初節句に揚げた凧だったのです。たいへん素朴なつくりの凧でした。地元・伊勢原では「あぶ(虻)凧」と呼ばれているとのことでした。秦野にも形が似ている「せんみ(蝉)凧」があります。“頼みに頼み”譲っていただいたのでした。横幅は180センチくらいの大きな凧でした。
 妻が伊志田高校に勤めていたときのことです。文化祭のクラス参加で「郷土玩具あぶ凧づくり」をすることになりました。1995年のことです(下の記事参照)。妻とあぶ凧を作る三川由利五郎さんを伊勢原市西富岡に訪ねました。三川さんに学校に指導に来てもらうお願い出かけたのです。そのとき大山の土産物店で譲りうけたあの大凧を持っていきました。
 私が持っていったた凧を見るなり、三川さんとても驚き、そして感激されたのでした。三川さんがあぶ凧作りを始めた頃のものだったのです。「どうしても欲しい。自分の記念にしたいから」と乞われ、同じ大きさの凧と連凧と交換することになりました。
 そろそろ“しまい支度”に入らなければいけない私です。凧は紙製品です。それで、三川さんがあぶ凧を作っていたお寺の近くにある高部屋小学校に「納まりどころ」をお願いしたのです。


2011年4月1日更新
 東北関東大震災

3月11日 
 揺れが収まったところで、買い物に出かけようとする奥さんに、Iさんは言った。「帰りに電車がどうなっているか、駅に行って見てきたら」。しばらくして奥さんが母子二人を伴って帰ってきた。聞けば、埼玉の越谷からお子さんの病気のことで秦野市内の病院に相談に来たとのこと。鶴巻で電車が止まり途方に暮れていた。話しかけた奥さんに「しばらく待ってダメならタクシーで」とお母さん。奥さんは「渋滞でムリ。よかったらウチに泊りなさい」。そう、かなり強引に勧めたのだった。

3月14日 
 近くにJAの給油所がある。今週(3/14)に入って連日、給油を求める車が数十台並んでいる。7時がオープンなのに午前5時にはもう列ができる。「買いだめは止めよう」と枝野さんが訴えているのに。私の車の燃料は残りわずかですが、とりあえず給油は我慢する。「がんばれ、東北。」だから。

3月17日
 計画停電の実施が市の緊急放送で流れた。近くに住む友人から電話が入った。「ウチは電気が止まるのかね」。市は「停電の地区の区分けは市のホームページで」と放送した。彼はパソコン、ケイタイは使っていない。だから私に尋ねたのだ。二回目から放送の内容が変わった。「詳しくは公民館など市の機関にお尋ねください」。今回のような非常事態が発生すると、行政の姿勢がよく見える。

3月18日
 プロ野球のセ・リーグが予定通り来週25日に開幕するらしい。今朝の新聞にその声明書が出ていた。その声明は350字ほどで全文の三分の一がアメリカ大リーグが同時多発テロのときとった対応の文の説明になっている。「野球の力で復興に寄与したい」というのが主旨のようだ。野球で「元気を、勇気を与えたい」というのだ。
 このごろ感じているのだが、テレビのインタビューなどで、何かにつけて「元気もらった」とか「勇気づけられた」などという言葉を使う人が多い。(当人がそう感じるのだから、それはそれでいい。私はそう簡単にこの種の言葉は使えない。)
 被災地の人たちが電力も十分でない中での生活を強いられている夜、一方では煌々と輝くエアコン完備のドームで行なわれる野球を楽しんでいる光景。それが勇気付け、元気付けになるのだろうか。「ナイターは電力の消費量が大きい」というのは“俗説”と言いたいらしいWオーナー。「野球を通して元気と勇気を被災者に送りたい」と言ったK社長。だがこんな言葉「日程の消化のためにも」(Y球団の役員)を聞くと《経営》も透けて見える。
 「ゴルフもフィギュアスケートも、すべて中止なのに、なぜプロ野球だけが開幕にそんなにこだわるのか。被災者のことを思うと野球開催どころではない」これは阪神の金本選手。彼は仙台の大学で学んだ。ヤクルトの宮本選手の言葉、「野球で勇気づけることはいいとは思うが、今勇気づけられると思っているなら思い上がりだと思う」。
 選手が元気でプレーできないで、どうして勇気づけ、元気づけができるのだろうか。コミッショナーは言う「批判は甘んじて受ける」。「受ける」のではなく「受けないようにする」ことが肝要。フアンからそっぽ向かれたらプロ野球は存続できない。被災された人たちのことを心底思っているのか、と疑いたくなる。

3月19日
 もれ出る原発の放射能を沈静化させるため、昼夜兼行で懸命に作業をしている自衛隊、消防署、警察。そして、たしかに《遅れ》はあったにしても東電も政府も、努力している。それなのに、きょう19日発売の週刊誌の新聞広告は、その対応をなじり、否定し、市民の不安をあおるコピーを羅列した。それぞれがそれぞれの場所で、可能な限り、ときに限度を超えて努力しているときに、「私こそ正義、私の書いたことは真実」と言いたげなその姿勢。その広告の隅に「売上金の一部を被災地に寄附する。義捐金を募ります」と書いているが心が動かない。「いまは否定的な言葉は抑制すべきだ」というコピーが一本あった。そう思う。
救国内閣を作りたいと申し出た首相に、政局がらみととらえた発言をしている野党の幹部。《お手並み拝見》調の政治家も。大政翼賛会になれとは言わない。チームワークが無くて、どうしてこの難局を乗り越えられるか。防災服を着て、皆さんは何をしようとしているのか。

3月25日
 知人Yさんの息子さん(消防署員)が、災害地の救援に派遣された。不眠不休に近い状態で帰ってきた。派遣された人は全員カウンセラーと面談しているとのこと。そのことで災害地の現状をうかがいしることができる。

3月28日
 昨夜の「BS日本のうた」は再放送番組。千昌夫と新沼謙治がスペシャルゲスト。千は大船渡、新沼は陸前高田の出身と二人の会話から知った。このたびの大震災の被災地を意識しての再放送と思った。
最後に二人で歌ったのは「北国の春」。 
 白樺 青空 南風/こぶし咲くあの丘 北国の ああ北国の春/季節が都会ではわらないだろうと/届いたおふくろの小さな包み/あの故郷へ帰ろうかな 帰ろうかな
 山吹 朝霧 水車小屋/わらべ唄聞こえる北国の ああ北国の春/あにきもおやじ似で無口な二人が/たまには酒でも飲んでるだろうか/あの故郷へ帰ろうかな 帰ろうかな
 被災地の皆さん、そしてその地に思いがいった私だった。


2011年2月1日更新
  俳 写
 東公民館で開かれている「楽々フォト展・東写友会」の会場に、「作品から俳句を作ってみませんか」というお誘いが掲示されていた。おもしろそうなので挑戦してみることにした。ケータイで写真が撮れるので、「俳写」はこのごろけっこうブームになっている。だが俳句と写真のコラボレーション作品を「俳写」と呼ぶのだから、本来は俳句も写真も同一人が作るもの。撮影者の研ぎ澄まされた眼でとらえた情景を、私の感情で季語にしてしまうのは写真という作品の冒涜なのかもしれない。


「夕日に群舞」

   作品(写真)の題     私が付けた俳句
  「夕日に群舞」    「一人ではもつたいないよ」 真雁舞ふ
  「秋 景」        ことごとく雑木燃えゐる里の秋
  「色のコントラスト」  いちよう散る歩いて遠き大伽藍
  「佐渡島真野湾」  真野湾を夕陽まつすぐやつてくる
  「幸せでーす」    石神のほほえみ二つ寒明ける

2011年1月1日更新


              夕映え 伊豆沼で   森下 政司

生命の星

 10年くらい前、中学校の近くの畑に親子連れの鹿が現われた。その光景を教室の窓から眺めた生徒が「私たちの学区は自然が豊だ」と書いた。
 昨秋、校地から道路ひとつ隔てたところに立つ柿の木に仔熊が登っていた。学区の子供たちは熊避けの鈴を全員つけるようになった。中学校のPTA広報にそのことを踏まえた意見記事が載った。
『学校の近くに熊出没 野生動物がなぜ人里に』
 十一月十九日、PTAより「熊よけ鈴」が生徒と職員に向けて配られました。熊よけ鈴は熊に人間の存在を知らせることにより、いきなり襲撃されることを防ぐものです。熊による害を防ぐ手軽で有効な手段として知られています。でも、熊よけ鈴さえつければ大丈夫でしょうか。昔は、熊は住宅地に出てくるようなことはありませんでした。しかし近年「熊出没」のニュースがとても頻繁にきかれます。熊に限らずさまざまな野生動物が人里にやってくるようになりました。 「熊が捕まったから」「熊よけの鈴を持っているから」、と安心してしまうのではなく、なぜ動物たちは人の世界に自ら入ってくるようになつてしまったのか、私たち人間が何かしなければけないことはないか、そんなことを考えることが大切だと思います。 上條 有紀
 この中学校のもう一つの話である。校庭にそびえていた他樹齢200年といわれているイチョウが、校庭の整備のため移植された。PTA広報紙は、移植後の様子を毎号写真で報じている。昨年12月に発行された号では「やっと色づいたけれど、ちょっとちぢれた葉が痛々しい…。ガンバレ!」と書いた。
 
 12月になって、渡り鳥のサンクチュアリィである鹿児島・出水市に飛来したナベヅル、マナヅルの中に鳥インフルエンザに冒されているものがいることが報じられた。昨夏の猛暑が「今年の一字」に選ばれた。今、生命の星・私たちの地球がおかしい。
 CD「森繁久彌愛誦詩集」の中に、自作の「潮騒のうた」(教育コラム『エコー』に掲載)が収められている。その詩の中で森繁さんはこう詠う。「次の世代にいのちを託そうとしている今 地球を泣いたまま 泥にまみれ 引き継がせたくはない」。
 

2010年12月1日更新



足利学校のいちょう

 秦野ゆとりの会」 第11回研修旅行
  スパリゾートハワイアンズ(フラガール)から足利学校(孔子様)へ 

11月25日 
 「秦野ゆとりの会」の研修旅行も今年で第11回。今回は17名の参加で福島・栃木方面へ。
 東名高速に乗るや否や「研修の充実と旅の安全を願って、乾杯!」(2日間の酒量はご想像に任せる)。牛久でワイナリーの見学そして昼食。「電気ブラン」という懐かしい文字を見ることができた。この会の人は土産をよく買う。昼食後もうワインを数人が求めた。
 勿来の関公園に行く。「勿来」とは「来ル勿(ナカ)レ」、「来るな」という意味。蝦夷の南下を防ぐ意味を持っていたという。ここには源義家、小野小町、松尾芭蕉、斎藤茂吉などの歌・句碑が点在する「詩歌の小径」がある。そこを歩く。和泉式部の「名古曽とは 誰かは云いし いはねとも 心にすうる 関とこそみれ」もあった。この歌、こんな意味らしい。「来ないでなんて誰が言ったというの。いいえ誰も言っていないわ。あなたが勿来関みたいな心の隔てを作って、私に会いに来ないだけでしょう」。会いに行けないという恋人への返歌。「勿来」は趣きのある地名だ。
 そして野口雨情童謡館で「七つの子」「雨降りお月さん」「赤い靴」をアカペラで歌う。酔った勢い! いいえ歌唱力に絶対自信のある私たちだから。2年前、信州中野の中山晋平記念館で「ゴンドラの唄」を歌ったことで楽しみを覚えたからから。館を離れる前に野口雨情・中山晋平の「船頭小唄」を歌う。こんなわけの分らぬ行動をする私たちを、館員さんたちは、感心というか、驚いたというか、そんな表情で見送ってくれた。
 宿はスパリゾートハワイアンズ。6時からの宴席で研修旅行に10回参加した5会員の表彰。この5人を加えて10回参加者は9人となった。30人の会だから、いかにこの研修旅行が期待されているかが分かる。この会としては珍しく早めに宴会はお開きになった。“飲み疲れ”“乗り疲れ”から?ではなく、あの“フラガール”によるグランドポリネシアンショーへの期待大だったからである。幹事が用意してくれた指定席から眺めた踊り子たちの体型はアスリートのようだった。「全員同じ顔に見える」という感想が聞こえたが、選ばれた自信が笑顔に現われているからだろう。

11月26日 
 大露天風呂は6時から開くのだが、5時40分頃から開場を待ってロビーでうろうろしていた私。そんなにがんばっていたのに、残念ながら3人目の入場になってしまった。白み始めた空には下弦の月がかかっている。 朝食はバイキング。6時55分にレストランに行ったら、我が会の会長ら3人が数十人はいるだろう列の先頭にいて「こっち、こっち」。ところが、私たちの食事処はそこではなかった。
 出発は8時半なのだが、幹事が食事の時間を早くしたのは買い物があるから。「また買っちゃった」と、大きな土産袋を手にニコニコしながら乗り込む面々。バスのトランクを開けてもらう人も。
 常磐道から北関東道を走る。朝日に映える紅葉は見ごろ。足利学校を見学。樹齢300年といわれている大イチョウの黄葉が散る中、ボランティアガイドに連れられて歩く。熱心に聴き、ときに質問もするので、「よく勉強する団体」と褒められた。ガイドさんは“舌好調”で、知っていることはすべて話そうとしている。幹事は昼食時間を気にしているのに。ひるがえって、私の講座は…。足利氏の菩提寺・ばんな寺は山門からのお参り。だがそこから見える大いちょう(県の名木に指定・推定樹齢550年)は、他のいちょうは既に落葉しているのに、今を盛り黄葉だった。今、こんなふうにいちょうのことを書くのは、移植された東中学校の大いちょうに心がいっているからなのだ。
 太田市で昼食は群馬の代表的な郷土料理「おきりこみ」。コシのある特徴的な幅広麺を野菜で煮込んだもの。ここでも店主が登場し、鍋の蒸気が上がるまで“お話”をしてくださる。ビールの香が抜けるというのに。美味しかったけどねえ…。
旅の終りは佐野厄除大師。全員もう厄年は終わっているのだが、それぞれが家族のために深々と拝礼。私は、本堂で護摩を焚き読経を受けている家族に便乗させてもらった。
 帰路に着いたのは午後4時ころ。難関の都内も3月に開通した首都高・中央環状新宿線の山手トンネルのお陰でスムーズに走り6時40分に秦野駅前に到着。

2010年11月1日更新

 送付状だけど 送付状だから
 10月に入ると、年度第2号(年度第4号もある!)のPTA広報がぽつぽつ届き始める。招かれたPTA広報づくり講座で、発行された広報紙を送ってくれば感想を書いてお返しする、と話しているからだ。「広報紙2部、切手付きの返信用封筒も」でお願いしている。 送られてくる広報紙には、クリニッのお願いの文(送付状)が付けられている。その文面に委員会の顔、心が見える。
 ①毎号同じ文面(「時下ますますご清栄のことと拝察いたします」の類)で、号数の部分だけ直筆のもの。
 ②宛名が「会員各位」で、①と同じような形式のもの。
 ③文書として完成していないもの(発信日が空欄や号数の記入が抜けているもの)。
 ④宛名が私と違う氏名になっているもの。(これには戸惑った)
 これらの送付状を手にしたとき、私の心は萎える。
 《広報づくり》という最も敬遠される活動をしているのだから、自分たちの努力の成果を知りたいのは当然のことである。そのことを踏まえ、心を込めた手書きの私信が添えられていると、こちらもその気になって読み、心を込めた返事を書こうと思うようになる。次はその私信の一通である。
  
 先日はいろいろなアドバイス(注・講座でのクリニックのこと)ありがとうございました。あの日、あれから学校にもどり全員で再校正しました。それからも毎日のように手直しをしました。そしてようやく発行できました。不思議なことに、一日置いて読み直すと、昨日はすべてOKと思っていたのに、また気になるところが出てくるのです。どこまでやれば読んでもらえる広報紙になるのやら。自分たちが納得できる紙面なら読んでもらえるのですが、そのレベルには届いていない! 紙面の余白が気になって、そこを埋めようと苦心さんたん、でもぴったり納まった時には「私たちプロ、天才!」とほめあい高笑い。これこそ広報づくりの醍醐味なのでしょう。なにより楽しい時間です! さて、気持ちは既に116号に向っています。読んでもらえる広報紙を目指します。また先生のアドバイスを大いに活かしていきたいです。今回も辛口のクリニックをお願いします。     H小広報委員会 

2010年10月1日更新

あずま荘 ミニデイサービスでの講話  2010/7/21
   「寺山ものがたり」 名字は祖先からのメッセージ (下)

 寺山に武姓が多いわけ
 日本の名字の数は20万とも30万ともいわれている。(この違いは、例えば「渡辺」「渡邊」「渡邉」を一緒にするか、それとも独立して数えるか、というような整理の仕方による)
 天保6年の記録によると、寺山には、作右衛門(現・古谷氏)、善右衛門(現・武氏)、庄左衛門(現・武氏)、兵右衛門(現・山岸氏)の四人の名主が存在した。したがって、武姓、古谷姓、山岸姓が寺山には多い。とりわけ多いのは武姓。これは鎌倉・鶴ケ岡八幡宮で暗殺された三代将軍源実朝公の御首を、波多野庄田原(現在の秦野市東田原)に葬った三浦の武士・武常晴を出自としているからである。
 日本の人口のおおよそ10パーセントが、いわゆる「十大姓」と言われている佐藤、鈴木、高橋などを名乗っている。名字の研究家などによってその「十大姓」のランクは少し異なるが、ここでは『日本の苗字ベスト10000』(新人物往来社)のランキングを見てみよう。それによれば、1佐藤 2鈴木 3高橋 4田中 5渡辺 6伊藤 7山本 8中村 9小林 10加藤、となっている。ちなみに、同書では「武」は2386 、「古谷姓」は397にランクされ、山岸姓は10000位内にはなかった。

日本でもっとも多い「佐藤」姓
 ランク1位の「佐藤」姓は栃木県の佐野地方から生まれたといわれている。天慶の乱の平将門を討ったのが藤原秀郷。余談だが、秀郷は田原藤太とも称し、秦野では「田原に住んでいた」という話も伝わっている。結城系図には「秀郷 始め相州田原を領し田原藤太と号す 後家督を継いで下野国に住む」とあるのがその根拠になっているようだ。その剛勇藤原秀郷の五代目の子孫が藤原公清、公修。彼らは佐野地方の領主だった。それで、佐野の「佐」と藤原氏の「藤」をあわせ佐藤氏を名乗った。佐藤家の武士たちは、主に東北地方に根を張り成長していった。「佐藤」姓は福島、宮城、秋田、岩手では県第1位のランキング。統計的には、千人集ると15人くらいが佐藤姓になるらしい。
 お坊さんの名字は難しいものが多いといわれている。秦野市内を調べてみたら、寺山・円通寺の前の住職は「大仏(オサラギ)」さん。東田原の金蔵院は「日置(ヘキ)」さん、鶴巻の西光寺は「一(ハジメ)」さん、乳牛の天徳寺は「安居院(アグイ)」さん、平沢の浄円寺は「賜(ヒノデ)」さん、堀山下の蔵林寺は「秀(ヒデ)」さん。お坊さんになることを『出家』すると言う。文字通り、家を出たわけだから坊さんには名字はなかった。ところが1875年に出された苗字必称令で、お坊さんも名字を持たなくてはいけなくなった。それで、俗人とは違う名字をつけた。

鯨の勘七さん
 10数年前の話である。勤務していた中学校に「鯨」という姓の女生徒がいた。三年生になると私の部屋で数人ずつの生徒と会食をすることを続けていた。鯨さんとの食事のとき、鯨姓はとても歴史のある姓だから大切にしてほしい、と話した。その年から3年経ったある日(私は既に退職していた)、鯨さんから電話をもらった。
「明日、面接を受けるのですが、きっと『珍しい名字だね』と聞かれると思います。先生が、私の名字には歴史がある、って校長室での会食のとき言われました。その歴史を教えてください」。
私が鯨さんに話したこと
 和歌山県の三郷村に「鯨の勘七」と名乗っていた漁師がいた。初代の勘七が素手で鯨を捕まえたということを代々伝えるため「鯨」を名乗っていたのだ。苗字必称令が出た折、勘七は郡役所に行き《鯨》を姓として届け出た。ところがお役人は《鯨》は珍名だからと、「栗良・くりら」にして受け付けてしまった。これを知った勘七は何度も県庁に掛け合いに行き、ついに「鯨」姓を勝ち取った。
 名字は祖先からのメッセージ。自分の家の名字に誇りをもとう。名字を大切にしよう。

2010年9月1日更新


第53回全国新聞教育研究大会 岩手・北上大会(2010/8/4・5)

 北上は「鬼すむ誇り」  『新聞の鬼』が集う
 全国新聞教育研究大会・北上大会は、地元・北上市立鬼柳小学校の児童による「鬼剣舞」の歓迎の舞いから始まった。北上市を中心に保存されている伝統芸能「鬼剣舞」は国の重要無形民族文化財である。
北上市の市民憲章の中に「あの高嶺 鬼すむ誇り」とある。「鬼柳」という地名があり、テーマ博物館「鬼の館」を持っている。その北上に、この大会を契機に『新聞の鬼』が生まれることを願う。
 大会委員長の渡邉真龍(岩手・釜石中学校長)は、その挨拶の中で「鬼は大きな力や神秘性ゆえに恐れられている。北上市立黒沢尻西小学校が初任校だった。当時、黒沢尻西小には鬼がいた。名前は『新聞の鬼』。その鬼たちの実践力に感化され、自分も『新聞の鬼』を目指した」と話した。『新聞の鬼』とは、「新聞づくりを通して子供たちは変容する」という理念を持ち、新聞づくりが何よりも好きな教師のことである。

 配られた大会紀要をめくっていったら、「岩手県の全国新聞コンクール入賞作品紹介」のページに出会った。その紹介の第1ペーシは、昭和45年度特選『光速新聞』(千厩小・5年い組) 、指導者は菊池徳夫先生。「45年度」「特選」『光速新聞』。この三つのキーワードで、あることを思いついた。私のクラスの学級新聞『3Cタイムス』も、昭和45年度の全国コンクールで「特選」を受賞していたのだ。その菊池先生と、第2日のPTA広報分科会で助言者としてご一緒させていただいた。菊池先生の助言を聞いた。岩手の『新聞の鬼』は健在、嬉しかった。

 大会の夜開かれる全国交流・懇親会は『新聞の鬼』が年に一度集う会でもある。茨城の儘田茂樹さんと偶然席が隣あわせになった。 
私の全国新聞教育研究大会への参加は、今年の北上大会で32回を数える。40年前の昭和46年に盛岡で13回大会が開かれた。その大会で同宿したのが儘田先生だった。当時は相部屋・雑魚寝、儘田さん25歳、私は32歳だった。儘田さんは今も茨城県の新聞教育を力強く引っ張っている。
 北上で出会った小笠原味佐枝、奥脇弘久、菊池徳夫、吉成勝好、儘田茂樹、横山健次郎、伊藤映子、菅原澄子、鈴木伸男の各氏、皆さん今も変わらぬ『新聞の鬼』。そしてこの大会で出会った最も偉大な『新聞の鬼』は、公開授業の黒沢尻東小と北上中の子供たちと先生方。

 大会が開かれた北上市の8月5日は猛暑日。会場は黒沢尻東小学校。PTA広報分科会には、岩手の一関・千厩小、秦野・渋沢小と本町小の3広報委員会が招かれ、3紙3様、それぞれの視点にたった実践発表をした。
 渋沢小の多田亜希子さん、米谷知子さんはプロジェクターで広報紙を写し、話を進めた。本町小の横溝夕紀子さん、近藤真由美さんはパソコンを持ち込み、パワーポイントで発表。2校ともリハーサルを繰り返してきたので、落ち着いて秦野のPTA広報の充実ぶりを全国の参加者に紹介してくれた。会が終わってから質問や賞賛の言葉をたくさんもらっていた4人。お陰で予約していたタクシーを他の人に乗られてしまうという《悲劇》も。
 発表の内容の素晴らしさもさることながら、4人のお母さんたちの行動力にはただただ圧倒された。渋沢小は夜行バスで北上入り。本町小は日帰りの強行軍だった。この行動力の源は、「広報づくりが好き」に尽きると思うのだが、広報の意義を自分たち流に確認しながら作った紙面に誇りを持っているからだろう。
 「結婚してから友達と旅に出たのは今回が初めて」と笑った4人は、大会の後のわずかな時間で旅を楽しもうと北上駅に駆け込んでいった。
 歴史的にみると、初期の鬼は皆女性の形で現れている。はるばる秦野から参上した「新聞のお母さんたち」が、とてつもなく元気はだったのは『新聞の鬼』だったからだろう。  

2010年8月1日更新

 あずま荘 ミニデイサービスでの講話  2010/7/21
   「寺山ものがたり」 名字は祖先からのメッセージ (上)

 今もPTA広報紙づくりに関わっていること、大勢の人と接する機会が多い教職に就いていたこと、この二つが大きな利点になって、珍しい姓を持っている人に出会ってきた。
 「薬袋」と書いて「ミナイ」と読む『薬袋(ミナイ)』さんは東京のPTA関係の人。出身は山梨。当人のお話によれば、武田信玄公が狩に出かけ、薬袋を落とした。住民が拾い差し出したら「この袋の中は見なかったな」と尋ねられた。それで住民は「見ない、見ない、見ていません」と答えた。この出来事があった処を『薬袋・ミナイ』という地名にし、そこから『薬袋』姓が生まれた。山梨県早川町に『薬袋』という地名がある。秦野市の教員をしていた望月さんは40年来の知己。望月さんは早川町の生まれ。早川町の人口の4割が望月姓という特長ももっている。
 初めて赴任したのは厚木の玉川中学校。そこに一年先輩の 『空(ソラ)』先生がいらっしゃった。名ジョッキー武豊さんのお陰で『武(タケ)』姓はメジャーになったが? 「空」姓と「武」姓は珍しがられ、子供たちに「ソラっタケ」と囃したてられていた。
 この『空』姓は、「ソラ」の他に「クウ」と呼ぶ姓にもなっている。さらにこの「クウ」から発展して、『空』を「キノシタ」読み、姓にしている人たちがある。なぜ『空』が「キノシタ」なのか。
 『クウ』を五十音図で読んでいくと「カ」「キ」「ク(ウ)」、「ク(ウ)」は「キ」の下・次ぎになる。だから「キノシタ」。このややこしさは「私たちは豊臣の木下の流れを汲む者。徳川の追及を逃れるため『空・クウ』姓を創った」からだと言われている。
  「小鳥遊」という姓は「タカナシ」と読む。代表的な珍しい名字として知られているこの「小鳥遊」さんのことは、横須賀市を訪れたとき同席した人から「私の友人にいる」と聞かされた。
 明治8年(1875)、「苗字必称令」が発せられ、すべての家が名字をもつことになった。 「一」という姓をもった家が秦野市にある。「ハジメ」さんで西光寺の住持さん。浄円寺の賜「ヒノデ」さん、金蔵院の日置「ヘキ」さん、天徳寺の安居院(アグイ)さん、蔵林寺の秀(ヒデ)さん、いずれも住持である。寺山の円通寺も前住持は大仏(オサラギ)さん。仏道に入ることを「出家」と言い、家を捨てることを意味する。その僧たちも名字を持たなくてはいけなくなった。それで、庶民と異なる難しい読みかた、仏道に関係する文字を名字とした。
 
 妻の名前に関するエピソード 
 40 年ほど前の話。転勤して最初の授業、教室に入ったら黒板に「謎の中国人 武厚子(ブコウシ)」と歓迎の言葉・振り仮名付き・が書かれていた。妻はそのクラスでは漢文を教えることになっていた。妻は黙って、「ブコウシ」の振り仮名を『ブアツイコ(分厚い子)』に変え、にっこり。生徒たちの反応は直裁で鮮やかだった、とのこと。当時の妻は分厚かった。(妻の名誉のために、今は“分厚い子”ではない)




2010年7月1日更新

 6月5日・毎日ホール(毎日新聞東京本社)で  初歩から始めるPTA広報紙づくり講座  遠くは福島からも

 遠くは福島、そして茨城、埼玉、千葉、神奈川、地元東京と、毎日ホールでの「初歩から始めるPTA広報紙づくり」講座に来てくれた人は60名弱。その内、昨年に引き続いての参加が12名。茨城から参加のFさんKさんは、私が講座で使う「顔見て伝えよう」の特集を組んだ人たち。三年前京都で開かれた全国新聞教育大会で、そして昨年と今年、三年続けて私の話を聴いてくれた力強いサポーターです。二人とも義務教育は2年前に終え、今は公民館の広報を発行する委員とのこと。
 渋谷区からのKさんは家族4人で参加。講座の後、ご主人が「攻めの広報紙を作る」と元気だった。ご夫婦で広報委員だそうで、委員長の奥さんは傍らでにこにこ。文京区、柏市、伊勢原市からの参加者もそれぞれ地元での私の講座の受講者。「PTA広報は子育ての手助けをするもの」という話の流れは変わらないのだが、話材や例示する資料は新しいものを心がけた。帰りの小田急で、講座に参加した海老名市のお母さんたちにバッタリ。まさに、“動かなければ出会えない”なのだ。

 届いたエコー
 先日は講習会に参加させていただき,お世話になりました。1時間半があっという間で,何度聴いても,新たな発見をして帰ってまいります。今回もたくさんの聴講者がいらっしゃいましたね。お子さんを連れた方もおいでだったので,広報紙つくりへの熱意を感じてきました。先生の周りはいつも熱い空気で、私も感化されます。
 今回の『原稿依頼にはこちらの誠意を伝える』というお話に大変感じ入りました。原稿依頼だけではなく、すべての物事に共通する相手への気遣いですよね。気持ちが伝わらないと嘆いていても先へは進めない。伝え方を工夫し,相手にわかってもらう努力が必要だと、改めて考えさせられました。自分達はそうではない委員だったなぁって反省です。
 また、あのようにたくさんの紙面を見せていただけるのはとってもわかりやすいです。5月に地元でも広報紙セミナーがありました。主催側の会議で「どうすればわかりやすい?」と聞かれ、(皆さんセミプロなので、素人は何がわからないのかがわからない…)迷うことなく先生の講習会をイメージして答えました。参考にできるよい広報紙が手元にないので,どうしても文字での説明になってしまったようですが。12日にはそれぞれの広報紙を具体的にクリニックする講習会があります。来年以降も続いていきますので,新人広報委員さんの力になれるようなお手伝いができたらいいなと思います。  F..M

 突然メールいたしまして、申し訳ありません。5日土曜日の毎日ホールでありましたPTA広報講習会でご挨拶させていただきましたUです。
講習会の後、先生とのお話やいただいたレジュメなどを見ながら、まとめをしていまして、改めてPTA広報の役割の大切さを感じました。特に広報は「広く(会員に対して)報いる」というお言葉には、とても広報活動の意味を考えさせられることになりました。 私自身も今回先生から教えていただいたことをもとに、学校で活動していらっしゃる広報委員会の方々に伝えることができるよう、さらに勉強していきたいと思っています。相談させていただきたいことがありましたら、よろしくお願いいたします。  U.G 
 (武注:Uさんは県教育委員会の指導主事さん)
 講座の最後に「こちらの気持ちを伝えれば、必ずその気持ちが返って来る。人に会う楽しさを味わってください。」とのお言葉、心に沁みました。先生のお気持ちをしっかり受け止めた方々が当日参加されたのですね。講師を期待して集まって来るのはなんとも嬉しいです。   S..S

実物に触れるのが何よりの勉強
プロジェクターを使ってたくさんの広報紙を見てもらう。
東京まで勉強にみえたその情熱に私はこう応えた。
PTA広報を作るお母さん・お父さんはステキです」
発行されたばかりの広報紙の紙面クリニック。
川崎市の小・中学校の広報委員会


2010年6月1日更新

 「きょうも生きていたよ」

 動物がおしゃべりをするとか、動物だって言葉を持っているという人がいます。植物にだって言葉があると信じている人もいます。動物がもし言葉を持っているなら、話しているなら、何を、どんなことを話しているのでしょう。
 チンバンジー、猿、猫や犬などの動物には記憶する力があるようです。確かにそれが動物にはあります。何かを記憶する能力、たとえば犬に「お座り」言ったら座る。それはたぶん記憶する力だと思います。だからもし動物が言葉を持っているならば、記憶したものを伝えあうというような会話は犬同士、猫同士しているのかもしれません。
 動物に記憶力があるなら、判断することも出来るでしょう。例えば、叱られたらやってはいけないんだ、と判断する、そういう判断する力が動物にはあると思います。動物には、“記憶する力”と“判断する力”がある、記憶したことを伝え合う、判断したこと確認し合っている。「敵が来たぞ」とか、でもそれは言葉を持っているということではないと思います。
 人間の言葉は、正しい使い方で正しく表現をすれば、その言葉を通して、次のものを作り出す力があるのです。人間の言葉は、言葉を通じて、媒体にして次のものを創造することが出来るのです。動物は、彼らの持つ言葉で記憶し、判断し生きています。人間は、言葉で記憶し、判断し、その上に新しいものを創り出してせいかつしているのです。だから私たちは犬や猫とは違う生活をしているわけです。新しいものを生み出す、より豊かなものを生み出す、そういう会話を私たちは創り出さなくてはいけないのです。
『言葉』を語源辞典で調べました。言葉の《言》についてこう書いてありました。「《言》とは話したり、語り合ったりすること」。さらにもう一つは「口でしゃべったり、文字で表す内容のこと」。その「話したり語ったり、文字で表したりする」《言》に、《葉》という文字が付いています。音の「ことば」に漢字で当てはめてこうなったのです。さて、コト(言)にハ(葉)を付けたということはどういうことなのでしょうか、どういう意味で“葉”という字を当てはめたのでしょう。
 木の葉や草の葉は何のためにあるのでしょう? それは幹を太らせるため、枝を茂らせるため、根を太くするため。私たちが使う言葉もそれを使うことによって、もっと大きな意味を持つことが生まれ、次のステップに進むような、そういう力あるのが言葉であると信じたいのです。葉が木を茂らせるように、私たちが発する言葉から次の世界が生まれる、私たちが使う言葉は、新しいものを生み出す力があるのです。
 もう一つ、葉っぱというのは、木でも草でも全て違う、イチョウの葉と桜の葉は違う。私たち一人ひとりが話すことは全て違う、違わないといけない。「あなたの言うこととまったく同じです」ではなく、私はこう思うから、あなたと同じなのです。と自分の思いを表すのが言葉です。口に出し、文字で書き表し、伝える。その伝えることによってさらに大きなものが出来る。もっと豊かな世界が広がるために言葉がある。言葉は、他の人と私は違うのだということを表すためにある。それが言葉という漢字の日本語の持っている意味ではないかと思っています。 そういう「言葉」の力を、高めるとか、強めるにはどうしたらよいのでしょうか。家庭で、職場で、或いは地域で、どのようにしたら言葉の力が高められるのでしょう。
 「先ず、挨拶をしましょう。でも、おはよう、さよなら、こんにちは、だけじゃなく、その挨拶の後に、もうひとこと自分の思いを付け加えよましょう」とある会で話しました。数日後、私の話を聞いてくださった方から手紙を頂きました。「挨拶の後にひとこと、私も早速実行してみることにしました。でも簡単なようで、構えて考えるとなかなか出来ないことです。私がすることにしたのは、まず笑顔で挨拶して季節の話をしようかなって、そこから始めよう」と書いてありました。
 挨拶の後にもうひとこと。「おはよう」の後にもうひとこと、そこから会話が始まる、広がる、その会話によって豊かな感情・世界が出来るのではないかと思っています。「じゃあ武さん、あなたは今朝どんなひとことを付け加えたのですか」と尋ねられれば、今朝の私のひとことは「きょうも生きていたよ」でした。          






2010年5月5日更新
                  
大イチョウ 芽吹く




 東中学校の校庭の大イチョウ 4月18日 輝く芽吹きが

 教育活動に支障をきたすということで、伐採されるかもしれなかった東中学校の校庭の大イチョウ(私は「辻のイチョウの木」と呼んでいた)が、西門の側に移植された。
 私は、この『エコー』でも「大イチョウは開校以来子供たちを見守ってきた。またいつも子供たちの視界の中に在った。移植を」と訴えてきた。
 昨年12月9日、整枝と移植作業が行なわれた。「ゼッタイ根付け! いや、お前の生命力なら大丈夫だ。信じているから」、と念じながら、私はその作業をしっかり見届けた。あっないほどの短時間で移植は終わった。
 3月
10日、秦野も強風が吹き荒れ、明け方は雪が舞った。その大風で鎌倉・鶴岡八幡宮の大イチョウが根元から折れた。このニュースは私の心をひどく不安にさせた。その日は一転して《春の夕暮れ》となった。校庭にイチョウの姿を確かめに行った。
 3月30日、「古道・大山道を歩く」の案内の波多野城址を訪ねた。その道すがら校庭に立ち寄り、大イチョウの芽吹きを参加者と探したが無かった。
 4月11日の夕方、その日は寺山のお祭りの日、校庭に足を運ぶ。残された小枝の先にかすかな色づきが見えた。木肌に生気が感じられた。
 4月18日、切り残された小枝に数枚の若葉が着いていた。幹をたたいて喜んだ私だった。
 4月25日、幼稚園の満開の八重桜と競うようにイチョウの若緑の葉が青空の中で輝いていた。それは生命の輝きそのものであった。
 今、大イチョウは新しい地に根を下ろした。その場所は中学校の西門の脇であり、幼稚園の正門の横でもある。数回の春秋を経た秋、黄金色の落ち葉に園児は歓声を上げるだろう。

この大イチョウの下に小さな菅原神社が祀られていた。小学生の頃、1月25日のお祭りの日、参詣者にお札を渡す手伝いをした。
昭和39年、このイチョウの木を含めた土地が校庭として整備されたのだが、地主の武完さん(《辻》と呼ばれている江戸時代からの旧家)の強い希望でこの大イチョウは残された。昭和38年から通算20年間東中に勤務した。日刊学級通信を収録した表紙にイチョウを描いている。私の教師としての生活は常にこの大イチョウを眺めながらのものだったと言える。秦野市制50周年記念事業『ふるさと秦野の景観100選』の選定実行委員会代表として「東中の大イチョウ」を選んだ。
 70有余年、私はこの大樹を眺め生活してきた。だから、個人的なノスタルジックでこの大イチョウに執着しているのかもしれない。だが、次代に一つの命を引き継ぐことができたと思っている。




1973年度学級だより「27号室」総集編の表紙

鶴岡八幡宮の大イチョウ 1219年1月27日、時の三代将軍源実朝は、イチョウの背後に隠れていた公暁によって暗殺された。それで「隠れイチョウ」との別称がある。樹高30m、周囲6.8㍍。実朝公の御首は、三浦の武士・武常晴によって秦野市東田原に埋葬された。その場所を、地元では「実朝の首塚」と呼んでいる。「首塚」は、東中学校から指呼の間に望むことができる。

2010年4月1日更新
                  さくら

歌人となり俳人となり画家となり僧侶となりて眺める桜  山仲 勉




今年のわが家のさくら



 桜の花ちりぢりにしもわかれ行く遠きひとりと君もなりなむ  釈 迢空
 4月1日、新しい年度が始まった。昨日の新聞に恒例の教員の人事異動が出た。昇進、転勤、そして退職、それは出会い、そして別れのときでもある。ある意味では人生のエポックとなる今日である。
 
 庭桜見上げて今日の始まれり  今橋眞理子
 仰がるることを知れるか桜花万朶それぞれ下向いて咲く  石渡 英夫
 昨年の暮、枝を下ろした桜が花を開き始めた。昨春まではまさに「万朶の桜」だった。残された細い枝に付いた花は心なしか大きく見える。その花々は「生命の謳歌」の表れととるべきなのだろうが、必死に命を引き継ごうとするけなげな様と思えてならない。
 桜ばないのち一ぱい咲くからに生命をかけてわが眺めたり  岡本かの子
 
 日本人は桜が好きだ。昨年、この桜の下で花見をしたAさんが、「お花見、今年はダメですね。来年はかなり見られる桜になりますか」と言った。「去年までのような桜が見られるようになるころは、私はいないよ」と私。
 毎年を更に新しく存うる幸せを思う咲き満つる桜に  田中 博
 
 だが、桜がいっそう私たちの心に入り込むのは開花期間の短さ、美しさゆえのはかなさにある。 
 花畢る来年のことな言ひそ  井原 三郎
 散るさくら 残るさくらも 散るさくら  良 寛

 
 梶井基次郎の「桜の樹の下には」の中の次の一文は、桜の花の神秘的な美しさを解き明かしている。
 「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる! これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。」

 そして桜花は、ときにその美しさと散りぎわゆえに《死》に結びつけられる。西行法師は「ねがはくは花のしたにて春しなん そのきさらきのもちつきのころ」(山家集)と詠み、旧暦2月16日(はちょうど今ごろ)73歳で入寂。 
 逝く空に桜の花があれば佳し 三波春夫の辞世である。

 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平
 私にこんな文を書かせたさくらはたしかに“人騒がせ”な花だ。
 



2010年1月1日更新

      秦野ゆとりの会の研修旅行  戸田温泉から時之栖へ 2009/11/25.26 
       


時之栖 光の川を流れる

11月25・26日 今年の「秦野ゆとりの会」の研修旅行の参加は19名。『戸田温泉から御殿場・時之栖へ』がキャッチコピーだが、かなり《グルメ》を意識して企画した。ヤクルト裾野工場でのジョアの試飲からスタート、伊豆・長岡で牛シャブの昼食。中伊豆ワイナリーで今年のワインを味わい、修善寺公園で紅葉明かりの樹下を楽しく歩いた。
 戸田温泉『ときわや』での夜の宴の主役はタカアシガニ。5年前、私はこの『ときわや』の「豆まき」に参加している。そのつながりもあって、女将さんから「今、上がってきたばかり」と自慢するボタンエビ(1匹数百円とのこと)を全員に2匹ずつサービスしてもらった。天竜下りの第1回から10回連続参加の4会員を表彰した。
 2日目の昼食は由比でサクラエビのかき揚げ。由井宿を少し散策。そこから身延山久遠寺へ。わが会の会長・望月治男さんの長兄・望月海淑師に従い寺院内を見学させてもらった。その後望月会長の生家である樋之沢坊でお茶をいただいた。御殿場・時之栖に午後5時半に到着。まずは夕食。生ハム、スペアリブ、ソーセージ、ピザというメニューなので、地ビールのジョッキの注文のペースは予想を超える速さ。バージョンアップされたイルミネーションもある程度堪能?。
 
研修旅行10年のメモ 振り返れば全10回すべて成功

第1回 ミレニアム修学旅行・天竜下りと木曽御岳    (参加16人・2000/9/28.29)
「ミレニアム修学旅行のご一行様」と呼び出されたとき、私たちを見る周囲の目は好奇心に満ちていた。このネーミングは会員にも好評。秦野を出ると同時にビールで乾杯。それほど量はいかないが絶え間なく飲む。諏訪の地酒「真澄」を幹事が途中の酒屋で補充した。宿は昼神温泉の『伊那華』で中日ドラゴンズ御用達の宿。

第2回 二本松の菊人形と裏磐梯の紅葉    (12人・2001/10/30.31 )
 菊作りをする会だからということで二本松の菊花展を見学。千輪咲きを作る人の努力にただただ驚嘆。城があるということは、それだけ確かな伝統とそれを支える人材があるということだろう。この研修以来、わが会の菊作りのレベルは急速に上がる。(ほんの一部の会員のみだが…) 東山温泉『御宿東鳳』が宿。

第3回  紅葉の香嵐渓と常滑焼   (13人・2002/11/18.19)
 香嵐渓の混雑振りは聞きしに勝るもの。到着が午後4時と大誤算。バスを降りて1キロ歩く。見学の最後になってわが集団も二つになってしまい、バスの待っているところを探して右往左往。このときほど携帯は必要と感じたことはなかった。蒲郡『ホテル竹島』に着いたのは7時過ぎ。「すぐに夕食を」と急き立てられ、風呂にも入らず大宴会に突入。

第4回  秋の高山祭りと平湯温泉   (10人・2003/10/9.10)
 高山祭りにあわせたので都合のつかない会員が多く参加は10名。別院の駐車上に入れたのは幸運。山車の巡行に出会い、10台の勢ぞろいも見られた。その日の宿『奥飛騨ガーデンホテル本陣』は三味線の「奥飛騨慕情」で迎えてくれた。いろり端での宴。露天風呂で、Yさんが「満天の星とは言えないが、星が見える露天風呂はイイ」しみじみ。翌朝、新穂高ロープウエイで2200㍍の天空の世界へ。

第5回  鹿島神宮と養老渓谷の紅葉   (16人・2004/12/2.3)
 ひたちなかの魚市場で握りの昼食。ボリュームたっぷり、味はもちろん値段も好評。鹿島神宮の森は立派。『犬吠崎京成ホテル』の午前6時50分、海から昇る太陽を見る。九十九里浜で鰯の刺身の昼食。養老渓谷の川原に降りて栗又の瀧まで1.9キロを歩く。さらにそこからバスの待っている場所まで1.1キロ。トータルで3キロ、みなさんよく歩いた。

第6回  鮟鱇鍋と黄門様を訪ねて   (17人・2005/12/1.2)
 テレビ「水戸黄門」で格さん役を務めているのは寺山出身の合田雅吏さん。その黄門さんの西山荘の紅葉が見ごろだった。この旅の宿・袋田温泉の『思い出浪漫館』の思い出。北桜関と風呂で一緒になる。初場所、弟の豊桜関も幕内に昇進ということでお祝いの言葉を贈った、とMさんKさん。宴会に、結城紬の《年の離れた》私の妹が現れ、カラオケでデュエットしてくれた。この女性、実は小野瀬容子先生、茨城の新聞教育を進めている大家。鮟鱇鍋は全然話題にならず、残念。竜神大橋からの秋色は見事だった。

第7回  奥三河の紅葉と西浦温泉   (18人・2006/11/30.12/1)
 長篠城址、鳳来寺山の紅葉がよかった。鳳来寺温泉に泊るはずがダブルブッキングで西浦温泉に回されていた今回の旅。その宿は『銀波荘』。値段からすれば、部屋、風呂、料理、すべてOK。だがこれは「怪我の功名」。浜松にある航空自衛隊エアパークに寄る。昼食は「うなぎの藤田」で鰻重。皆さんにいたく褒められた今回だったが……。

第8回  秩父札所巡りと風林火山博   (17人・2007/11/15.16)
 秩父札所巡りは1番の四萬部寺と34番の水潜寺だけ参拝し34の札所を全部回ったことにした。雁坂トンネルを通り抜け石和に。『石和びゅーほてる』が宿。3部屋だったが、そのうちの1部屋は7人(私もこの部屋)、これは申し訳なかった。昇仙峡を歩く。皆さん健脚であっという間にバスへ。「もっとゆっくり見たらいいのに」は地学のKさんの言葉。ほうとうの昼食。「月の雫」をお土産に買った。

第9回  名湯渋温泉と海野宿    (19人・2008/11/27.28)
 この年度から「秦野ゆとりの会」と改称した。その改称に合わせ、今回の旅のテーマを《レトロ》にした。信州・中野の中山晋平記念館で、晋平が教室で使ったオルガンの伴奏で「船頭小唄」と「故郷」を全員で歌った。「船頭小唄」の哀愁とはかけ離れた大合唱になった。
渋温泉の『歴史の宿金具屋』に泊る。別所・前山寺で「くるみおはぎ」をいただき、北国街道・海野宿を散策。今回はサプライズとして、清里の清泉寮でソフトクリームを食べてもらうことにしていたが、ドライバーが不案内で通過。たいへん《おかんむり》の私だった。

第10回  戸田温泉から時之栖へ    (19人・2009/11/25.26)
 10回を数えた研修旅行、その全10回を企画してきたが、今回でその任を解いてもらうことになった。持てる力を最大限発揮し『有終の美』とも言える企画と自負したのがこの《グルメツアー》。

 マンスリーエッセイ 最新版 2014年 以降 はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2007~2009年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2004~2006年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2000~2003年 掲載分はこちらへ





~ 武勝美の教育個人紙 ECHO ~