Somewhere in My Heart
  ~ Katsumi's Monthly Essay ~

にっきの木(日記の己)


庭に古びた一本のにっき(肉桂)がある。秋が終わるころ陽光を入れるために枝を下ろす。すると庭いっぱいに
あの香りがただよう。葉をかめば、幼いころ巡り歩いたあちこちのお祭りの夜店の光景が浮かんでくる。
このページ「にっきの木」には,いつの日にか懐かしく読み返すことができたらいいと思うことを記そう。


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  2024年4月15日更新
   
   寺山花だより

            
                       東小学校の桜と競演

        
    
     
                                   
     
 
          
  
  
     
 新しき眼鏡の中の朝桜
 花散らす雨の一日や放哉忌 (4月7日)
 路線バス止めし神輿や落花飛花
 カリヨンのある小学校の大桜
 空つぽの教室覗く夕桜
 夕風と遊ぶブランコ花の滝
 園庭を狭しと桜吹雪の児
 宮入りを遅らせてをり夕桜

 出征を見送りし塚の桜木は復員待ちて今年も万朶  (道永塚)
 濃き紅を蕾に抱きし糸桜ふふめば淡き紅に装ふ
 桜蕊散り敷く大樹見上ぐれば新樹の光余すことなく
 退院の妻ベランダに佇みて桜の空の光を愛でし
 大桜咲かせし里に箱型の家立ち並び離農の増えて  




  2024年2月1日更新  
 1月20日
 「大寒」の寺山は未明ミゾレ 心も体もホカホカの一日
 『エコー』410号の発送作業を午前中。午後六時から「みちしるべの会」の新年会兼『道祖神の落ち穂拾い』
出版祝賀会が開かれた。出席は11名。「励ましの言葉とお祝い」を皆さんからいただいた。
 横山会長から「公民館などの『古道歩き』のガイド役を令和5年度は13回行った」との報告があった。自己研
鑽をゆるがせにせぬこの会に加わっていることを誇りに思う。
 今朝、こんなメールが届いた。「3冊目の出版、おめでとうございます。昨日は出勤日。会社から「おめでとう御
座います」していました。寒かったけど、お祝い席は、温かい、熱い、楽しい会だったのでは。道祖神さんの本は3冊
目なので、次は自叙伝を楽しみにしています。あー、「エコー」を本にしたら、分厚い本になりそうですね。 寺山は雪
ですか。たけジージ、たけバーバ、寒いからお気をつけください。また孫を連れて遊びに行かせてもらいますね。A」


1月18日  
演 歌
 
1月11日に八代亜紀さんのことを書いたらこんなメールが届いた。「気仙沼は港町、全国から集まり停泊する
漁船のスピーカーから八代亜紀さんの曲が流れ、それはもう賑やかです。更に市場に出入りするトラックの運ちゃ
ん達も八代さんの曲が好きみたいで、8トラで八代さんの歌を流しながら魚箱の積み込みをしているのを見かけま
す。これは港町・気仙沼の風物詩です。八代亜紀さんは船乗りやトラックドライバーのアイドルだったのです。ご冥
福をお祈りいたします。」
今、なぜか弦哲也さんの「御蔵島唄」と「五島(しま)の母ちゃん」に魅かれている。


1月14日
 清水のダンゴ焼き
 
「ダンゴ焼き(どんど焼き)」の日。ダンゴを吊るした竹竿を杖に、道祖神場に行ったら、既に大勢が集まっていた。
総勢50人くらいか。その半数は子供で、お母さんに連れられてよちよち歩きの子も。これは嬉しかった。 どんど火
で身体を炙りながらお神酒を頂き、大勢の人と世間話を楽しんだ。
 ダンゴ焼きを執りし切っているのは清水自治会の役員さん。会長のKさん、副のTさん、会計のEさんは私の東中時
代の教え子。そういう彼らのてきぱきとした動きを眺め、清水庭のダンゴ焼きはダイジョーブと思った。火勢が落ち
始めたので失礼することにした私に、もう一人教え子Tさんが「先生、タウンニュース(1月12日号)で道祖神の本の
こと読んだよ」と声をかけてくれた。その声に送られ、焼いたダンゴの杖にすがりながら明るい心で家路についた。
  ・どんど火を守る昭和の教え子の輪に加わりてカッポ酒酌む

1月13日 達平(タッペイ)ちゃん
 
午後1時過ぎ、卒業してから一度も会っていないが、年賀状での交流は続いている達平ちゃんから電話。電話も
確か初めてのこと。今年の年賀状には「転勤で前橋にいる」と書いてきた。それで、群馬は道祖神がたくさん祀られ
ている。特に高崎市の倉渕町は道祖神の宝庫だから、見て歩いたらと道祖神の本を届けた。その本を手に今、倉渕
を歩いているとの声。驚き感激した。道祖神に護られて前橋での仕事をがんばってほしい。
 夕食後明日のためのダンゴづくり。ダンゴ粉の袋に書かれているレシピは「茹でる」だが我が家は蒸かす。蒸し上が
ったダンゴに団扇で風を送るとダンゴは照り輝く。


1月10日 カズさんと亜紀さん 
 
三年ぶりに妻の実家の墓参りに飯山観音へ。坂東六番霊場なので、平日だが御朱印を授かろうと訪れる参拝者
を多く見かけた。「昔は馬場だった」と妻が記憶する広場が整備され円形の散策路になっていた。大型バス用の有料
駐車場も設けられた。
  飯山から愛川町の相模メモリアルパークの義兄姉の墓に詣で、最後に嫁ぎ先の屋敷墓地に眠るカズさんに香を手
向けた。 73歳で他界したカズさん。兄弟会の旅行で八代亜紀の「雨の慕情」をフリを付け「雨々ふれふれ もっとふれ」
と唄ったシーンを墓前て思い浮かべた。
 八代亜紀さんがカズさんと同じ73歳で亡くなった。きょう11日の朝日川柳に〈ぬる燗や八代亜紀逝く雨の夜〉〈CD
よりカセットテープが似合う人〉が掲句。車のカセットで彼女の歌をよく唄っていた私だった。「天声人語」が書いている
「歌は誰かの心を表現する代弁者」と。昭和の時代に生きた私はこの言葉に深くうなずく。


1月3日 一日も早く「ふるさとの暮し」が戻ることを
   「天声人語」に震災に遭った能登・輪島の朝市ことが書かれ、山下すてさんの短歌が載っていた。
 〈雪深くなれば葱売る小母さんもいつもの場所にいない朝市〉

  平成5年2月7日の朝日歌壇で私は初めて山下すてさんの次の2首に出逢った。すてさんは輪島の人。
・遊ぶ処なにもなき町海へゆき鴎とあそぶ女正月
・雪晴れは町より人の来る予感香をたきて猫の匂い消しおく
 この2首は奥能登での生活ぶりと人となりを余すことなく伝えている。以後、すてさんの作品を追いかけるようになった。
・神にまだ生かさるる身の寒明けにきゅっきゅっきゅっと拭く畳の目
・陸に寄する波藍青の夏来る繰り言などは小さきこと
・襖立て潮騒遠くなりたれど朝夕の歌の鐘は伝わる
・町なかにこんな音なき処ある話しかけては墓洗うなり
・厚きもの朝夕の肌に重ねゆく海白くなる風の盆以後
・らいねんは生きているかななど思い土ほろほろと菊の根分けす
・夜詣でに水仕事終えてゆくころは海あかあかと鯖火の燃えて
・蕗摘みも飽きて膝抱き沖をみる次の世もこの涯に生まれたし(H7・6・15)
 《次の世もこの涯に生まれたし》この言葉が私の胸に沁み込む。被災された皆さんに一日も早く「ふるさとの暮し」が戻る
ことを願う。

 

 
2024年1月1日更新
 11月26日 「さをり&道祖神」展 盛況裡に終わる 
     
ご支援ありがとうございました
     

 
 「さをり&道祖神」展の最終日。21名の方が来てくださった。『落穂拾い』の表紙に使わせてもらった古谷家の関係
者も上梓のお祝いに来てくださった。ありがたいこと。再来訪のKさんOさんは平成23年度の「市P連だより」の正・副
編集長。当時の広報作りの思い出話で花が咲いた。ふらりと立ち寄られた男性から「道祖神展はいい企画」との言葉
を貰った。

 妻の「さをり織り」への来場者は教え子も多かった。特に野球部の女子マネージャー6名が誘い合わて初日に来て
くれ、開催を晴れやかに祝ってくれたのは嬉しかった。五日間の来場者は100余名。皆様、本当にありがとうございま
した。
 撤収には長男の力が大きかった。静岡から5泊6日で会を支えてくれたクマちゃん(古布リメイク・妻の教え子)、綾瀬
市からのペコちゃん、愛川町のカヨちゃんの三人と妻は別れを惜しんだ。 
  再会を誓ひて秋を惜しみけり
11月25日
 展示会四日目・17名のご来籠。かかりつけの歯科医院の先生夫妻、妹夫婦、鶴巻中時代の保護者夫妻、Beauty7の
Mさん。通りすがりの来訪者が、私の年齢を知り握手を求めてきた。
11月24日
 展示会第三日は23名のご来場。 相模原市緑区からHさんご夫妻。厚木市、綾瀬市、小田原市、愛川町からも来てく
ださった。「みちしるべの会」のOさんとKさんは大山寺の紅葉を楽しんだ後のご来館。その健脚ぶりに驚く。
11月23日
 展示会第二日。13名のご来場。知人のYさんが「鹿沼の道祖神、、主人と見てきました。その道祖神の傍のお店で『道
祖神まんじゅう』を買いました。餡がいっぱいの大きなおまんじゅうでとてもおいしかった」。 鹿沼のこの道祖神は抱擁像
で市重要文化財。「歓喜天道祖神」と呼ばれているもの。おまんじゅうは私も食べた。2018年4月に訪ねている。
11月22日
 今日は「いい夫婦の日」だそうで……、我が家の二人は今日から26日までの日程で「さをり織り」と「日本の道祖神(写真)」
の展示会を丹沢美術館で開く。『道祖神の里 落穂拾い』も今日の日付けで上梓できた。22日の上梓は「さをり展」の日程
に合わせたためで、特別な意識は無かった。展示会第一日。30名ほどのご来場いただいた。ありがたいこと。





2023年11月5日更新

 
9月19日 54年間の車生活にピリオド  
 
今日で運転免許証は完全失効。1970年から昨日まで54年間の車生活を終えた。この間の運転歴で
違反切符を切られたのは3(スピード違反・追い越し違反・進行指定標識の読み違え)。人身事故無し。
物損事故で保険を使ったのは1件(庭石に触れバンパー損傷)。優良運転者の証?
 乗った車はパブリカ(空冷だった)、カローラ、マークⅡ、クラウン、最後がソリオ。8月31日、そのソリオで行
きつけの食事処に出かけ、車運転の終止符を打った。退職後10数年は軽トラも併用していた。乗った車の
台数は12台。ちなみに、18年前に乗り始めたクラウンは今も健在で息子が乗っている。その息子が言った。
「『免許 返納したら』『いやだ』などともめなくてよかった。これも優良運転者。それにしても潔いね、なぜ降
りたの」と聞く。決め手は視力が落ちたこと。運転後その疲れを実感するから。運転には自信はあったが、
体力が止めさせたのだ。また、生活に必要だから乗っていたので、運転が好きというわけでもないのも理由
の一つ。とは言うものの《買い物難民》になることは確か。バスとタクシーと通販で困惑することになる。
 この日、妻と息子がケーキで私の《卒業》を祝ってくれた。

 
9205は永遠
 十八年乗りしセダンが木犀の花をこぼして引き取られゆく 
 18年6か月、家族の絆を深めてくれたクラウンとお別れ。
クラウンでの最初の遠出は2005年2月3日、「節分祭・豆まき」を行う西伊豆の「ホテルときわや」行だった。
大広間で行われた「豆まき大会」の場で、宿の女将さんに「恵方巻は出ないの」と聞いたら、恵方巻はご存じ
なかった。それで恵方巻の姿や食べ方などを話した。すると女将さんは直ぐに板場に入り、太巻き寿司を《板
さん》に巻かせ振る舞ってくれた。
 09年8月17日 秋田・羽後町の『西馬音内盆踊り』もクラウンで。長男は言う「今では考えられない強行軍」と。
この旅で福島・母畑温泉から猪苗代湖までハンドルを握った。東北自動車道をクラウンで走ったのだ。
 12年2月7~9日 京都市内、比叡山から琵琶湖と廻り、帰路鈴鹿の椿大神社、富士宮の人穴神浅間神社
の参拝。これもクラウンのお世話になった。この行程の走行距離はおおよそ1050㎞。
 長野、群馬、静岡、そして千葉の「道祖神の里めぐり」では山道や悪路を走ってもらった。道祖神の本を上梓
はクラウンの力《大》である。ありがとう。お疲れ様でした。我が家にとって9205は永遠である。




 2023年9月5日更新

                       
                                           
  タバコの花

 タバコの花は茎の先端部分に咲く。花冠の形は漏斗状で色はうす紅。タバコの栽培は葉を成熟
させること。そのためには養分や水分が必要。ところが花を咲かせると葉の成長は弱ってしまう。
それで摘芯(花の咲いた先端部分を切り落す)をする。
 秦野煙草音頭の三番
 いじらしいぞえ 煙草の花は 咲かで摘まれる エーなんとしょ恋の色
 ソレ 秦野葉たばこ 畑つくり ハーみてくれ秦野のはたらき手

 お盆に里帰りした後ろ隣りのやっさんが顔を見せに来てくれた。軒下で花を咲かせているタバコ
の鉢を見つけたやっさんが「やータバコの花だ」としげしげと眺める。そして、子供の頃のタバコの
花のことを語り始めた。
 「悪ガキみんなで、タバコ畑の隅に捨ててあるタバコの花を掻き集め、金目川に持って行った。
川原の石で小さな堰を作り、上流でタバコの花を水の中にグシャグシャ踏み込む。すると花の茎
からニコチンが出てハヤ(オイカワ)やカジッカ(カジカ)が浮き上がってくる。それを拾って持ち帰り焼
いて食った。一度だけウナギも獲れた。それは覚えている。今も煙草を止められないのは、このタ
バコの花の魚とりのせいかもね。タバコ掻き(タバコの葉の収穫)はベタベタのヤニで手が真っ黒、
イヤだったね。でも手伝いはした。タバコづくりの農家だったからね」。

 同じ清水庭に暮らしていた一回り年上の私にこの経験はなかった。秦野の葉タバコ栽培の隆盛
期とやっさんの少年時代は重なる。
  今年第76回を数える「秦野たばこ祭」は、9月23・24日に開催される。





2023年7月5日更新
  西のいぶきビューティSEVENSが
  「祝『ECHO』400号の会」を


 「西のいぶきビューティSEVENSは、2013年にPTA広報『西のいぶき』をつくった7人の女子会。
コロナ前は毎年夏・冬に集まって近況報告の食事会をしてきた。私もSEVENS+ワンとして加わっ
ていた。
 4月22日、三年ぶりに7人全員が焼き鳥屋に集合。会の冒頭、お祝いにバルーンフラワーと大
吟醸をいただいた。メッセージカードに「祝武勝美先生 『ECHO』第400号 まだまだ現役!!  い
つも元気でいてください」。
 この11年間で広報委員を4回務めた人4名。うち二人は現役。その中の一人は「『スキだねー』と
言われているけど、ここにいるこんなにいい仲間に出逢えたのは広報をやったから。今年もそうい
う仲間づくりをしようと思っている」と明るい。
 店のオープンは午後五時で八時半に閉店。料理の再注文は受け付けない。焼き鳥、浅漬け、野
菜サラダと多めに頼んでしまう。なかなかの商法だ。7人の健啖・痛飲とさわやかな弁舌に瞑目の
私。ありがたい、たのしい三時間だった。
 七人の近況報告
A 大学と高校の二人の受験生がいる。「推薦では行かない。受験とは試験を受けることだ」と言う
二人。頼もしいと思うが心配。
B 九州で勉強している長男に中古車を買って届けた。湘南ナンバーなのでモテてるらしい。コロナ
感染の最盛期には他県ナンバーの車は訝しがられたのに。
C  旦那と喧嘩した友達が来て「今夜はゼッタイ帰らない」と言うのでカラオケを一晩付き合った。K
ポップを唄いまくった、と言ってもハミングだけどね。
D 「女一人旅」デビューをした。清州城の見学そして名古屋で一泊。ホテルのバーは高そうなので
町の居酒屋で飲んだ。次は京都あたりを、と狙ってる。
E 二級園芸装飾技能士の資格を取った。フォークリフト、パワーシャベルの運転もできる。現在、あ
る会社の庭園管理をしている。
F コンビニでバイトをしている。若い人は社会人になる前にコンビで働くことを勧める。多岐の仕事が
経験できるから。特に接客の術を学ぶことができるから。今年、中学で二度目の広報委員長をする。
G 和歌山の母から「天声人語」に武先生が出ている、と電話があった。楽しい話ができた。いま三か
所でパートしている。
H 長男が希望していた鉄道の仕事に就いた。五月から新幹線の仕事を東京駅で始める。今年度四
度目の広報委員を務める。I 息子の彼女が私の誕生日の日に訪ねてきて、ギターで「ハッピーバース
デイ」を唄ってくれた。

2023年4月5日更新

 旅立ちの季
 2月27日の午後5時少し前、台所の横の竹垣に尉鶲が一羽姿を見せた。しばらくして飛び去った
が、また舞い戻ってきた。その繰り返しが4回。3月1日も同じ時間帯に飛んできて羽を休めた。
 私からは3mほどの近さ。また来るのではないかとカメラを用意していたので、その姿を撮ること
ができた。
 我が家には毎年尉鶲が来る。そして、私が畑仕事や庭の草取りをしていると近くに来て私を見守
ってくれる。尉鶲にはそろそろシベリヤや中国へ渡る季だ。2、3日は現れなかった。あれは旅立ち
の挨拶だったのだ。
 ・春耕の吾に鶲の尾を振りて
 ・尾を振りて旅立ちを告げに来しジョウビタキ元気で渡れ帰って来いよ  
                           

     
                         2023年  桜 サクラ
           

 「桜・サクラ」の「サ」は田の神を意味する「田神・さがみ」の「サ」。 「早乙女」 「早苗」 「皐月」
「五月雨」などサのつくこれ等の言葉は、いずれも田・稲に関係する特別な言葉である。「クラ」は
「依代・神の座」の意味だから、桜は田の神が美しい花となって姿をあらわす処。満開の桜は豊作の稲穂
のイメージでもある。
 春日和の一日、人々はその田の神を正客として迎え、豊年を予見する宴を催す。これが花見の起こ
りと言われている。四月の特定の日に行うこの「お花見」という風習は農民文化の一つ。弥生時代から、
農民が山に入り、桜花の下で田の神をもてなす(飲み食いする・「直会」のこと) 「春山行き」という農耕
儀礼があった。この秋の豊作を予言する、満開の桜花を連れてきた田の神に感謝するお花見は、農民の神事
であり、祝い事なのである。
 
 子どもの頃の秦野地方は、女の子の節句(ひなまつり)は四月三日、四日だった。そしてこの二日間は
《お花見》という節句行事があった。子どもたちは太巻き寿司のお弁当を食べ野遊びをして春を楽しんだ。  

 3月27日からした桜のライトアップを昨夜で終わりにした。今日2日、曇り空の下、絶え間なく散る花
びらが地面を白く敷き詰めている。

 歳古りて庭の主たる桜木の今を限りと落つ花の滝
 残されし刻はいかほど花の滝
 立ち止まりまた立ち止まり浴びる飛花
 カリヨンをある小学校の大桜
 葉桜の駅より発ちぬみちのくへ



2023年3月1日更新
 気仙沼の渡邉さんからのたより (返ってきたエコー)  
 つながり、思い合って暮らしましょう
 武先生が気仙沼を来訪されたときから、ずいぶん町が変わりました。大島架橋や気仙沼湾横
断橋など、一見、美しい港町が見られます。我が家は気仙沼の奥湾の高台にありますが、夜は
魚市場がライトアップするので、横断橋のつり橋と共にとても美しい光景が広がります。東日本
大震災があったとは思えないほどの景色です。
 若い人たちが一生懸命、町を盛り立てようとしています。しかし、全国どこでも同じように、人口
は減り続けています。亡くなる人が多く、新生児はその数を大幅に下回るのですから、当然と言
えば当然です。現在5万9千人余り。震災前は7万5千人でした。まだまだ減少すると思います。
 コロナから始まり、ウクライナ情勢。ロシアはどこに向かいたいのでしょう。地球環境が変わり、
さまざまな問題が起きている時に人間が人間を襲うなど、とても考えられません。ですが、現実
に起きているのですから、どうしようもありません。今後ますます、自然災害など起きると思いま
すが、多くの方々とつながり、お互いを思いながら暮らしていきたいものです。

 返書
 トルコ・シリアに大震災発生 (2023/2/6)

 3・11を忘れない                                       
  ・短歌
 題字下に「果たそう復興」と刻む日刊紙あり気仙沼市に
 「ジイちゃんのホヤ食べたいなー」と望郷の気仙沼大島育ち
 鼎ケ浦を跨ぐ橋の愛称は「かなえおおはし」叶え復興
  ◇渡邊眞紀さんからの便り
 「十年支えてくれてありがとう」太き筆字に表われし生活
 〈福来旗立て出漁〉を詠みし歌 朝日歌壇に嬉しく読みぬ※ 
 卒業号に『3・11を忘れない』を組みしPTA新聞
  ◇気仙沼から北上に嫁いだ知子さんへ
 姑をライバルとして三十年農を守りきし汝は海育ち
  ※空の青海の青のその間大漁旗なびかせて船が出てゆく 及川睦美(令和5・2・12)
  ◇原発再稼働の動き  汚染水放出の話に
  フクシマの今を十年詠みし人の言う「フクシマは福島に戻らず」
 〈生くることかなし〉とフクシマを詠みつづく人あり今朝も歌壇に
 フクシマの復興は「未だし」フレコンバッグに辛夷の散りて
  ・俳句 
 本通りもう閉店や島の秋
 福島の蕗味噌を買ふ復興祭
 新涼の汽笛届きぬ湾深く
 復興の橋の掛かりて鳥帰る
 初孫を授かる話どんと祭
 初凪の大島鳶の輪の下に 
 鮫尾鰭を室根颪に晒らす浜
 冬帽が大き手を振り出航す
 春立つ日棟上げのクレーン首を上ぐ
 ・春の海見下す坂のまだ途中


2023年1月5日更新

2022 この一年の出来ごと
 昨日には帰れないから始まりしひと日の生を味わい尽くさん  

1月5日 元旦 初茜老ひにも未知の明日があり
1月5日 妻入院 あの窓が妻の病室春を待つ
1月6日 積雪10㌢
1月9日 今年は今日がどんど焼き
      
どんどの火守り来し顔一つ消へ
1月16日 新聞歌壇で初めて「特選」に
2月17日 安曇野の米倉さんと交歓 「願掛け道祖神」の資料が届く
2月27日 神奈川新聞「照明灯」に疫病退散と道祖神のことが書かれていて、そこに私の名前が
3月17日 女性交流会の「東地区の歴史」ウオークの講師を務める
5月30日 懸案だった桜の大整枝
5月29日 句・歌壇ダブル入選 この週以降八週連続入選 
5月29日 伊勢原市P連より20年に亘る広報指導で感謝状と「大山こま」トロフィーを頂く
6月26日 「みちしるべの会」で地元の方3人を招き「昭和の頃の今川町のくらし」の座談会を開く
     
 妻居らぬ日の昼食はカップ麺きょうはむすびを握ってみたり
7月9日 西公民館で女性交流会の郷土料理「へらへら団子」づくり
7月17日 ガラケーを買い替える 
7月26日・8月23日 家族かべ新聞づくり講座(東公民館)
8月19日 シドニーから里帰り原川さん(妻の教え子)一家来訪
8月25日 小田原史談会の「歴史散歩・秦野市東地区」の案内を「みちしるべの会」で
9月11日 鶴巻の長老・沼田さんを講師に「鶴巻あれこれ」の講座(みちしるべの会の会員研修)
9月25日 プリンター交換 これで4台目
9月27日 虚血性大腸炎で入院「三日間絶食」を体験
10月9日 東地区体協の「ふるさとめぐり」の講師
10月16日 みちしるべの会のウオーキングマップ「冨士道」を発行
11月2日 北上から「さわし柿」の第一便が
11月6日 東公民館祭りでウオーキングマップ「冨士道」を公開展示
11月12日 庭師による庭の手入れ4日間 ♪もう幾つ寝るとお正月
11月26日 佐賀から蓑毛に里帰りの谷口さん一家が顔を見せてくれた
11月27日 長男と里芋の種芋を貯蔵して畑仕舞い 今年のサツマイモ、里芋は「おいしい」と
       大勢の人に喜ばれた Yさん、Mさんのお陰
12月1日 東公民館で「日本の道祖神 異形の神の系譜」の講座 12月15日に鶴巻公民館でも
12月13日  5回目のワクチン接種
12月28日~30日 新年を迎える用意 ハードだったが頑張れた
 会者定離  「エコー」をお読みいただいた方・その近親者、新聞教育の同志、教師時代の先輩・
         後輩、我が家の縁者など。
    


 出会いの妙

  緊急入院して一週間経ち、退院することになった朝。治癒にあたってくださった三人の医師から
これからの生活について丁寧な指導を受けた。その際「私の生活管理は家族に任せているので、
家族にもご指導を」とお願いした。すると「武さん、あなたの体のことは、あなたにしか分からない。
家族には分からない。自分の体の管理は自分でしなさい」と諭された。
9月27日午後11時の入院。翌早朝、ベッド脇に来てくれ話しかけてくれた看護師さんは「武さんはお
地蔵さんが好きなんですってね」から話は始まった。六年前、私が手術を受けた心臓血管外科の先
生から、私を励ますように、と担当の看護師さんに話してくださったのだ。私の入ったのは消化器内
科。長先生の心遣いが嬉しかった。感激した。「元気にならなくちゃ」と思った。 かつて長先生の科
で働いていたこの看護師さんの姓が「小野寺」ということを知り驚いた。
 2022年に神奈川病院にお世話になった折り、担当してくれた看護師は宮城・気仙沼出身の「小
野寺」さんだった。そして今回、最初に出逢った看護師さんも「小野寺」さん。「一ノ関」~「気仙沼」は
大船渡線で一時間半《出会いの妙》。こちらの小野寺さんの故郷は岩手・一関市。一関の金烏神社
に参拝し道祖神を探したことなどを懐かしむことができた。
  
東公民家館での私の「新聞」や「道祖神」などの講座をサポートしてくれているのは泉さん。その泉
さんの旧姓は「小野寺」だと知った。出身は宮城県栗原市(オオハクチョウの飛来地で知られている
伊豆沼は栗原市)。
 神奈川病院で気仙沼の小野寺さんに出会い、東海大病院では岩手・一関出身の小野寺さん、そし
て東公民館で三人目の小野寺さんに逢う。この出逢いの〈妙〉。



2022年5月1日更新
 次のの検診は武さんの米寿の年に
 2016年の6月 東海大病院で心臓血管外科の手術を受け、以降三か月ごとに定期検診を受診。きょうはその日で、
問診を担当してくれたのは手術の執刀医だった岸波吾郎先生。検査結果は、年齢からすれば〈まあまあ良好〉らしい。
 問診の中で「武さん、道祖神見に行ってますか。講演は?」。それで用意していった『エコー』を渡した。それが話材に
なりしばし閑談。楽しい問診? が終わり立ち上がった私に「武さんに次に会うのは武さんの米寿の年だと思う。四月か
ら三年ほどここを離れることになったので。元気な武さんにまた会えるのを楽しみにしています」と離任の言葉が。私を
励まし、生きる目標を与えてくださった。《医は仁術》という言葉を実感した。「はい頑張ります。お会いできる日を私も待
っています。先生もお元気で」とお返した。私には忘れられない岸波先生との交歓がある。
 傷口の縫合の糸を抜きにみえたとき、「『春(院内の食事処)』で、てんぷら食べてきちゃった。おいしかったよ」と話しか
けられた。「ああ、『春』のてんぷら、私も食べたことがある。おいしかった」と私。「この仕事けっこう体力がいるんです」と
も。そして「そうだ、武さん、快気祝いを『春』でやろう。祝杯を挙げよう」。このときの先生の言葉は「手術は成功したんだ
という安堵感」を私に与えてくれる言葉だった。

 サトウハチローが改訂した歌詞
 「もずが枯れ木で」「めんこい仔馬」
 
11月22日のラジオ深夜便「にっぽんの歌こころの歌 作家でつづる流行歌」はサトウハチロー作品集だった。サトウハ
チローは童謡や流行歌の作詞をたくさんしている。この日は次のような曲も流された。
 ・もずが枯れ木で 1935(昭和10)年  ・ああそれなのに 1936(昭和11)年  ・うれしいひなまつり 1936(昭和11)年 
・めんこい仔馬 1936(昭和11)年 ・目ン無い千鳥 1940(昭和15)年  ・リンゴの唄 1946(昭和21)年   ・長崎の鐘
1949(昭和24)年  ・小さい秋見つけた 1955(昭和30)年
  ここに挙げた曲は全部唄える。「ああそれなのに」「目ン無い千鳥」はSP盤のレコードで覚えた。我が家には昭和初期
から蓄音機があった。「目ン無い千鳥」は一時期私のカラオケでの愛唱歌だった。「もずが枯れ木で」と「めんこい仔馬」を
ラジオに合わせ口ずさんだ。

 もずが枯木で
もずが枯木で  曲・徳富 繁   
(一)百舌が枯木で 鳴いている 俺らは藁を叩いてる 綿挽き車は おばアさんゴットン水車も 廻ってる
(二)みんな去年と 同じだよ けれども足んねえ ものがある 兄(あん)さの薪割る 音がねえ バッサリ薪割る 音がねえ
(三)兄さは満州に 行っただよ 鉄砲(てっぽ)が涙で 光っただ 百舌よ寒くも 泣くでねえ 兄さはもっと 寒いだぞ
  この詞の三番は戦後の昭和31年ごろ次のように改訂された。
(三)兄さは満州に 行っただよ 鉄砲が涙で 光っただ 百舌よ寒いと 鳴くがよい 兄さはもっと 寒いだろ
 現在歌われている「鳴くがよい」が、元は「泣くでねえ」だった。「泣くでねえ」は、1931(昭和6)年の満州事変への、《戦意
高揚》の歌ともとれる。だから戦後この歌詞は改訂されたのだろう。歌詞も《もずよ寒いと鳴くがよい 兄さはもっと寒いだろ》
の部分の言葉使いは、前のフレーズの《行っただよ》《光っただ》の口調にいかにもそぐわない。

 めんこい仔馬
 私が生まれた年昭和11年(1936年)に発売されたのが「めんこい仔馬」。明るくて歌い易い童謡となっているが、これも「少
国民」の軍歌だった。当時の日本の世相からすれば、流行歌はもちろん童謡でさえ「国家総動員」を意識した歌でなければ
発表は叶わなかったのだろう。私が歌詞として記憶しているの(一)(二)(四)番。
 めんこい仔馬  曲・仁木他喜雄
(一)ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露 呼べば答えてめんこいぞ オーラ 
駆けて行こうよ丘の道 ハイド ハイドウ 丘の道
(二)藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる お腹こわすな風邪ひくな オーラ 
元気に高くないてみろ ハイド ハイドウ ないてみろ
(三)紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか 遠い戦地でお仲間が オーラ 
手柄を立てたお話を ハイド ハイドウ お話を
(四)西のお空は夕焼けだ 仔馬かえろかおうちには お前のかあさん待っている オーラ 
唱ってやろかよ山の唄 ハイド ハイドウ 山の唄
(五)明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ 軍馬になって行く日には 
オーラ みんなでバンザイしてやるぞ ハイド ハイドウ してやるぞ
この歌詞も戦後改訂された。(三)(五)が消え、新たに次の歌詞が(四)とされた。

(四)月が出た出たまんまるだ 仔馬のお部屋も明るいぞ 良い夢ごらんよねんねしな 
オーラ あしたは朝からまた遊ぼ ハイド ハイドウ また遊ぼ 
軍馬として仔馬を送り出す哀歌が仔馬の楽しい一日の歌になった。1988年の映画『火垂るの墓』の中でこの改訂版が歌わ
れている。
 「戦地に行った軍馬は生きて故郷には戻れない」ので、愛馬を供養するために馬頭観音を祀る習俗が各地にあった。秦野
地方の馬頭観音の造立数は、『秦野の石仏』(秦野市教育委員会・2001年刊)次のように報告されている。
市内に420基の馬頭観音像碑を確認できる。紀年銘・造立年が分かる像311基。1900年代21基 1910年代61基 
1920年代63基  1930年代35基 1940年代9基。 
 当時の日本を「戦争」という視点で見てみると ・日清戦争1894(明治27)年 ・日露戦争1904(明治37)年
 ・朝鮮併合1910(明治43)年 ・日中戦争1937(昭和12)年  ・太平洋戦争1941(昭和16)年。 
 1900年代から1930年代の秦野地方の馬頭観音像の造立数は、間もなく太平洋戦争に突入するという予感を感じる数と
も思える。 「飼い馬には名前を付けない」と聞いたことがあった。国に徴発されたときは二度と会えない別れになる。「名前を
付けると愛情が湧き、別れが辛くなるから」。それでも、市内には出征する愛馬にあえて名前を付けた家もあった。平駒号、黒
鹿毛片月号、盛榮号を『秦野の石仏』の中に見ることができる。
 
 サトウハテローが改訂した歌詞   「めんこい仔馬」 「もずが枯れ木で」
 『ECHO』に「北上だより」を寄せてくれる渡辺知子さんから次のような手紙が届いた。
 北上展勝地に建つ「サトウハチロー記念館」の館長は息子の佐藤四郎さん(八郎さんの半分ということだそうです)です。その
四郎さんの奥様鈴枝さんが北上市のご出身であることからこの地が記念館の地に選ばれたと聞いております。記念館に隣接
する四郎様のご自宅に、地域の役員として鈴枝さんを何度かお訪ねしたことがあります。
 先生から届いた 「えニー」 388号にサトウハチローの記事がありましたので、コピーをとつて佐藤さんの自宅をお伺いいたし
ました。鈴枝さんも歌詞の書き換えについては「聞いたことがある」とおっしゃいましたが、記念館はコロナのため休館中なので、
歌詞の書き換えについて何か資料がありましたら、後ほど頂くことになつていました。そしてこのほど館の事務の方から資料が
届きましたので、先生にお送りいたします。

 資料1 「めんこい仔馬」 のこと     足羽 章 
 私がコロムビアで、一般童話レコード制作担当したのは戦後である。そこで、ハチロー先生の 「めんこい仔馬」を録音しようと
思い、二葉あき子さんと高林裕子ちやんの歌った古いレコードの歌詞カードを調べると、歌詞は五番まであつて、三番と五番は
戦争に関連した内容である。これで領新憲法で、戦争放棄を内外に宣言した終戦直後としては、根本精神として大変具合が悪い。
 そこで、この際、この歌の生れた東宝映画「馬」(山本嘉次郎監督) の主題歌として仔馬の行末、つまり子馬の将来「軍馬」 
に徴集されて、お国のためにつくすという精神を捨てて、農家の家族の一員として一緒に生活をし育っていく一頭の仔馬と、子ど
もの純粋な愛情の交流の辞に作り直して頂きたいと思い、先生に電話でお顔いした。
 先生は「もっともだ、直ぐ作るよ」と快許してくださり、一週間も経たないうちに改訂された歌詞を届けて下さった。原稿を開いて
見て、私は 「うん」 とうなってしまった。第三番、第五番は全面カット、最後の節に第四番として、全く新しいものが作られている。
 月が出た出た まんまるだ 仔馬のお部屋も明る いぞ  よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
 あしたは朝からまた遊ぼう ハイドハイドゥ また逓ぼう
 「めんこい仔馬」 は戦争のための馬、軍馬にならないで、家族の一員となつて生活し、末ながく生きられるようになつたのだ。
詩としての着想のうまさ、表現力の豊かさ、溢れるばかりのナ愛情、構成の適確さなど、非の打ちどころの無い素晴らしい出来
ばえである。早速電話でお礼を申しあげたのであつた。あの時の感激は一生忘れられない。こうして出来たのが、現在歌われて
いる 「めんこい仔馬」である。 なお、この詩の各節に現われる 「オーラ」という掛け声は、作曲者の仁木(多事雄)さんが考え
たものだ。 この歌は「あの映画には結果的には、入らなかったよ」 と、ハチロー先生はおっしゃっていた。

 資料2 「もずが枯れ木で」 について   「サトウハチロー記念館」事務室
 戦前、作曲者が少年たちと共に合唱していた頃は、原詩のままでした。戦後その少年たちの一人が茨城県萬貞選挙でこの歌
を広めたのですが、そのころから今のように書き替えられたものになつていました。誰かが、あえて書き替えたのか、それとも単
なる間違いなのか、いまだに解明されておりません。 ハチローが書き替えたものではなく、勝手に替えられたことに対して非常
に憤慨していたのは事実です。ただ、あまりに現在の歌詞が広がりすぎてしまったので諷めざるを得なかつたようです。
 「戦争」という事情でハチローが書き替えたのではありません。

・サトウ ハチロー 本名佐藤 八郎 1903年〈明治36年〉~1973年〈昭和48年〉 詩人 作家 作詞家 

2022年1月1日更新
 2021年 締めくくりの講座は「道祖神ワンダーワールド」
12月16日  鶴巻公民館の「道祖神」の講座を午後1時半から3時半まで。受講者は7人のこじんまりした講座だった。少人
数だったので参加された全員と言葉を交わせた。
 Aさんご夫妻は町田市にお住まい。ネットで探し当てての参加とのこと。私は「高崎市の倉渕町を訪ねれば、それこそ千
姿万態の道祖神に会える」と言っている。このご夫妻は倉渕に、泊りがけで三回も足を運んでいると話された。倉渕の小・
中学生が案内する「道祖神ツアー」にも参加されたとか。奥さんから「なぜ倉渕の双体道祖神が衣冠束帯・十二単の宮廷
人なのか、気になっていたが、今日の先生の話でその謎が解けました」との言葉をいただいた
 長野・飯田出身のBさんは「天竜川沿いにも道祖神がたくさんあ。」と誇らしげ。道祖神の形態の一つに「天竜系」というも
のがある。アメノウズメとサルタヒコが刻まれた双体像が「天竜系」と応じた私だが、南伊那や飯田地方の道祖神にはまだ
会っていない。
 CさんEさんは秦野市内にお住まいのご婦人。「近くに四角な石の道祖神があるけど、放っておかれていて可哀そう」と報
告された。Eさんからは「先生自身が発見された道祖神はありますか」と聞かれた。私は記録に残されている塔碑を確認し、
記録し後世に伝えることを意識して里巡りをしている。道祖神の《新発見》ということには思いが至らなかった。次は挑戦し
てみるか。でも時間がない!
 Dさんは会場に入るとすぐに、私の処に来て「東公民館の講座は満員で出られなかった。それで今日来ました」とにっこり。
Dさんは私の“追っかけ”的存在。
 今年最後の今日の講座が充実したものと感じられたのは、参加された7人との交歓があったからだ。


2021年11月3日更新

10月29日 『おかえりモネ』
 朝ドラの『おかえりモネ』は今日が最終回。5月17日から毎朝7時30分から120回を欠かさず観た。これほど『おかえりモネ』
に引っ張られたのは、ストーリーとその演者たちからだ。「朝ドラとしては重すぎる」という声もあったが、セリフとその言葉を
使う俳優たちのその表情に惹き付けられた。演劇の「脚本」というものを強く意識させてくれた安達奈緒子さんはすばらしい。
 最後のシーン 青空の下抱き合う二人「あッ」「え?」「雨が降ります」「え? こんな天気なのに?」「子供達の声が聞こえた
から」「じゃぁ 行きましょう」砂浜を歩きながら手を繋ぐ二人。
 モネを演じた清原果耶さんは「できる限り痛みを忘れないこと。それが途切れないようにちゃんと心の奥で持っていること
ができれば、私は百音を最後まで演じることができるんだろうなと思ったので、そこは意識していました」と言っている。
 最近「エコー」の読者になってくれたNさんが、私と気仙沼との関わりについて聞いてきた。2012年に気仙沼を訪れたのが
きっかけで、気仙沼の人たちと関わりを持つようになり、現在に至っている。これからも私なりに気仙沼と一緒に歩みたい。


9月24日  ハーモニカの伴奏で「丘を越えて」
 11月に井越さんと開く「道祖神ワンダーワールド・淡彩画&写真展」の打ち合わせをする。井越さんはハーモニカが趣味
で、山行にも持っていき、山小屋で仲間と歌うのが恒例とか。今日は寺山の山小屋に四本のハーモニカを持参してくれた。
リクエストを求められたので、先ず「丘を越えて」を頼み、手拍子を添えて歌った。そのあとは「砂山」、「花嫁人形」を聞か
せてもらった。三橋美智也の「星屑の町」を頼んだら、「それは吹けない、先生、若いね」と言う。そして「私は戦中派だから」
と「ラバウル小唄」を吹きはじめる。井越さんと同じ齢の私だから「さらばラバウルよ また来るまでは」と唄った。
 井越さん自身の選曲は「十三夜」「異国の丘」そして軍歌。最後はブルースハーモニカ(そういうハーモニカがあることを
知る)で「聖者の行進」。生の伴奏で歌える興奮、楽しく嬉しい小半日だった。


9月21日  中秋の名月
 月見の卓にはススキとコスモス、里芋、茄子、南瓜、生姜、茗荷、ここまでは自家製。月見団子、豆腐、梨、早生蜜柑、
そして足長蕎麦。この足長蕎麦は渡辺さんが持ってきてくれた。「足長をもらったので、蕎麦で食べてもらおうと思って」と。
「足長キノコ」とはナラタケのこと。秦野では足長蕎麦は「秋のオオゴッソウ(大御馳走)」。
 曇りかもしれないと気になっていたが、満月が見られた。信楽の狸にも月見をしてもらった。足長蕎麦に気仙沼の銘酒
「蒼天伝」での良夜。
 ・山の端に月を預けて団子食む



2021年9月15日更新

9月7日  今も息づいている秦野の道祖神
 東公民館経由で、西地区にお住いのSさんから道祖神についての相談の電話が入った。
 「鍋割山への登山道の道端に道祖神が祀られている。その祠がかなり傷んでいるのが気になっている。その祠を建て直し
てやりたいと思うが」。それで道祖神の祠には何か決まり事(建築様式など)があるのかと聞いてきたのだ。
 あちこちで道祖神の祠や覆い屋は見てきたが、神殿造り、石小屋、四本の柱で杉の葉葺き・藁屋根・板張り屋根などそれ
ぞれ固有の形式だった。「建て直したい」とSさんが思う覆い屋は、四本柱の板屋根とのことなので「上地区にはその形式の
祠がいくつか在る。それらを参考にされたら」とアドバイス。
 Sさんはその道祖神の講員ではないので、その講中に言葉掛けし、出来れば一緒に再建作業をしてほしいともお願いした。
秦野の道祖神は今も人々の暮らしの中に息づいている。

9月4日  秦野と葉タバコ
383号の「『秦野の煙草煎餅』の話 読んだよ」とKさんから電話。Kさんは私と同じ年齢なので子どものころの暮らしは同じよ
うなもの。それで葉タバコ農家の思い出話に花が咲いた。
 Kさんの語った思い出「農家だったし勉強が嫌いだったので、中学を終えたら農業に就いた。二十歳の年に一念発起、定時
制高校に入った。だが葉タバコの作業は人手が必要で六、七、十、十一月の四か月は学校には行けなかった。葉タバコの作
付けは2反余り。その収益は4万円ほど。そのお金で一年を暮らした。葉タバコはありがたかった。だから葉タバコ農家は一生
懸命働いた。秦野は葉タバコで発展した」。我が家とは農業の経営規模が違うが、Kさんの話にたびたび頷く私だった。

 演歌が好きです 歌います」に平川貞をさんからたよりが届いた。
 夜間急行「丹沢号」のころ
 私は昭和三十三年春、高校を卒業し、小田急電鉄に入社した。大秦野駅(現秦野駅)に配属され、駅務掛として一年半ほど
勤務した。ご存知のように昭和三十年に第十回国体が神奈川県で開催され、丹沢山塊が山岳部門のメイン会場として使用さ
れた。これを機に丹沢への登山は、レジャーブームの風潮とも相まって盛んになつた。
 私の勤務する大秦野駅は主にヤビツ峠を経て大山や表尾根への下車駅であった。当時の駅舎は昔からの牧舎型の大きな
屋根で、待合室の天井も高くて涼しかった。改札口も北側だけで、駅前の道は水無川の方へ真っ直ぐ伸びていた。メイン道路
の左側には「亀本」や「福春」のほか喫茶と軽食の「みなと」があった。川寄の角には「煙草会館」が立ち、今の「まほろば大橋」
を渡った左側にマーケットがあり賑やかだった。
 小田急では三十一年から、登山者のための週末夜間急行「丹沢号」を運行していた。遅番のときは「丹沢号」が到着すると降
車客を数えながら集札したものである。丹沢登山者をこよなく愛していた「みなと」のおやじさんも、この日は夜中まで店を開け
ていて一緒に登山者の数を数え、登山の無事を祈りながら山に送り出すのが常であった。
 私自身の丹沢・大山登山経験は主に二十歳代。主脈と沢登りを除いて何回かはあるが多くはない。現在、定年を経て時間に
ゆとりが出来たので、外側の峰々から登り始めている。頂上へ到着した時の喜び、時々遭遇する野鳥や野生動物、神の創造に
よるかと思わせる色鮮やかな草花と出会った時の感動は何ものにも替え難い。丹沢は素晴らしいと思う。この掛け替えのない自
然を大事にしていきたい。    平川 貞夫
 
 私の返信
 おたよりありがとうございます。「夜間急行『丹沢号』のころ」 懐かしく嬉しく読ませていただきました。大秦野駅の駅舎、桜マー
ケット、みなと食堂、売店のタミちゃん、柳川菓子店、そして「丹沢号」。
 私は昭和30年に大学生になりました。土曜日、新宿で少し勉強して?帰るときは、しばしば「丹沢号」に乗りました。大秦野に着
くと待っている「蓑毛行」の神奈中バスに乗り込むのですが乗客はすべて登山者。一人私だけが途中の「藤棚」で降りるのですが、
下車のブザーを押すことにとても勇気が必要でした。
 大秦野駅前にたばこ会館があり、その中で亀本の「煙草煎餅」が売られていました。その煎餅の表面に和歌が焼きこまれてい
るということを最近知りました。それで焼きこまれている和歌を何とか解読しようと挑戦を始めました。でも、その煎餅の金型が摩
滅しているので難儀しています。      

2021年4月3日更新
 演歌が好きです 歌います
 現役だった昭和年代の学校では「納め会」「ご苦労さん会」などと称して七月・十二月・三月にささやかな宴を開いていた。
飲んで、語って、それでもまだ〝元気″が残っていて「歌おう」ということになる。すると私は、♪雨の外苑 夜霧の日比谷
(『東京の灯よいつまでも』)と東京の灯を懐かしみ、興に乗れば♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道(『旅の夜風』)
と〝当てフリ″で舞い歌うのだった。
 ♪息でくもる 窓のガラスふいてみたけど はるかにかすみ見えるだけ♪ ー津軽海峡冬景色・石川さゆり         
 今でもこの歌を聞くたびに昭和五十二、三年の、私にとっての試練の時のことを思い浮かべる。当時教職員組合の副委
員長だった。〝主任制闘争″に明け暮れた二年間。スト、座り込みなど抗議行動はすべて実力行使。そしてどうやら当局と
合意に達した。その最後の確認の団体交渉の会場で「単なるセレモニーじやないか」と、傍聴していた数人の組合員が怒
声を上げて退場していった。疲れはて、事務所からの帰りに立ち寄った小料理屋で聴いた『津軽海峡冬景色』は、ますます
混沌としていくだろう、この闘争の行方を暗示しているようだった。 
 ♪さよなら さよなら 泣いたらだめね つらい気持ちはあなたもおなじ♪  ー好きになった人・都はるみ
 私が最後に学級担任をしたのは、今からおおよそ五十年も前。三年生だったので三月に入り、教室でお別れ会が開かれた。
当時はまだ珍しかったカラオケの機械が持ち込まれた。 生徒に請われるままに歌ったのが、この『好きになった人』。少しフ
リも入れて歌っている雄姿が、私のアルバムに収まっている。それより前の時代は謝恩会(昔は卒業式の前に父母や子供た
ちと一緒に楽しんだ)で、私はこの歌を必ず歌い、別れを惜しんだ。心からの別れにこの詞はピッタリだ。♪泣いたらだめね♪
と歌いながら、毎年卒業式には涙を流している。「卒業式に涙を流せる教師になりたい」などと、学校新聞に書いたりしていた。
だがこれも、涙もろいのを繕うための言い訳に過ぎない。
 ♪駄目な駄目な はんとに駄目な いつまでたっても 駄目なわたしね♪  ーよせばいいのに・敏いとうとハッピー&ブルー
「ど演歌ばかりではないよ」と、少しはリズム感のあるものも歌ってきた。だが〝若づくり〟をしても、年齢から、また生活感覚か
らいってもそれは無理なこと。歌えるとしたら、せいぜいこの程度のテンポのものしか歌えなかった。だからこの曲は求められた
ときに歌う〝私のたった一曲″でもある。これが私の一曲になっているのは、実は詞が気にいっているからである。
 「新聞作り、いつまでやってんの。よせばいいのに」と他から言われ、「そうなんですよ。よせばいいのに、まだやってるんです。
駄目な私なんです、ほんとに駄目な、新聞しかできない私なんです」というセリフで、新聞づくりを続けてきた、言うならば私のテ
ーマ・ソングである。
 私の息子は高校野球のピッチャーだった。この学校の野球部は、伝統として夏大会の最後の日(敗退した日)の帰りのバスの
中で歌合戦をする。その日、彼が歌ったのは細川たかしの『心のこり』 ♪秋風が吹く港の町を 船が出てゆくように 私も旅に出
るわ 明日の朝早く♪  そして早春二月、彼は成田からイギリスへ旅立った。演歌『心のこり』は惜別、新たな旅立ちの決意だっ
た。
 敗戦直後、青年団の文化活動として歌謡舞踊が流行した。近所のお兄さんお姉さんにあこがれ、田端義夫の『かえり船』を覚え
た。 
 舟木一夫の『高校三年生』を教え子の同窓会で朗々と歌ったら、手紙が来た。「先生、高校に行けなかった私には『高校三年生』
は歌えないのです」。その子たちの時代は高校への進学率は二・三割くらいだった。
 そして、これも若き日・四十年も前の演歌の思い出。「新聞」の仲間と新宿で飲んだ夜、初めて自分の歌をテープに採ってもらっ
た。その歌は『奥飛騨慕情』(歌・竜鉄也)。そのテープと一緒に秦野までタクシーで帰るという豪勢な演歌の夜もあった。
 だが、こうして拾いあげた歌をみると、歌い込まなければ歌えないようなものは一曲もない。その程度の歌唱力しかない私である。
それなのに、マイクを持つとその気になってしまう。

 歌詞のワンフレーズで好きになった歌がある。
 ♪最終電車のあかりの帯が 笛を鳴らして遠ざかる♪   ー音無川・綾世一美   秦野には水無川が流れていて、昔はその川岸
に赤提灯が連なっていた。小田急の終車に駆け込む飲み友達を送り、タクシー待ちの列に加わる私の姿がたびたび見られた。
 ♪あの人に逢いたいよ この世がかぎりの縁じゃないか♪  ー江刺追分風の街・渥美二郎  演歌は別れ歌だが〈恋〉なら現世で
成就したい。
 ♪北へ流れるあの雲が 津軽のづらで雪になる♪ ー津軽慕情・山本謙司   目立ちたがり屋の私だが、この曲は人前では歌え
ない。キーが高く、四分をはるかに超えるこの歌は、民謡歌手山本謙司の世界の歌だ。それでもこの歌が好きなのは、冬の夜弘前
の居酒屋での渋谷和生の津軽三味線ライブがよみがえるからだ。
 ♪あれは高松最終便 グラス持つ手に汽笛がからむ♪  ー波止場しぐれ ・これは岡千秋のピアノ弾き語りがイイ。  「グラス持
つ手に汽笛がからむ」この情景描写は見事。
♪肩の向こうにあなた 山が燃える♪  ー天城越え・石川さゆり   この一節だけで昭和を代表する名歌。
 ♪あなたの真似して お湯割りの 焼酎のんでは むせてます 強くもないのに やめろよと 叱りにおいでよ 来れるなら♪   ー冬
隣・ちあきなおみ   「あれからわたしは冬隣」とちあきなおみが逝ってしまった夫に話しかける。彼女固有のフィーリングが冴える名
曲。「喝采」を超える名歌と思う。
   ♪遠くで祈ろう幸せを 今夜も星が降るようだ♪  ー星影のワルツ・千昌夫   残る人たちが両手アーチのトンネルを作り、「星
影のワルツ」を歌う。送られる人はそのトンネルを抜け新しい職場へと旅立つ。そしてこの一節は、この世を旅立つ人が〈愛する人〉へ
の感謝を込めた惜別の言葉でもある。演歌とは「恨み節・別れ歌」であって「援歌」とは捉え難い。私には人生の応援歌はないし、唄え
ない。
 ネットサーフィンをしていたら、ユーチューブで浜松湖東高校吹奏楽部の「ど演歌えくすぷれす」に出合った。高校生が奏でる軽快なテ
ンポの演歌に私はすっかり引き込まれた。同部の「ど宴会えくすぷれす」も快調でイイ。指揮棒を振る先生の動き、生徒たちのソロのテ
クニックも素晴らしい。この「ど演歌」「ど宴会」の再生回数はそれぞれ120万を超えている。その中の100くらいは、湖東高校の生徒た
ちの奏でる「ど演歌」をバックに、独りで歌っている私のアクセス数である。
  私は昭和っ子。演歌が好きです 歌います。先天的にも後天的にも《演歌の世界》の住人なのです。 





 2021年1月1日更新
                       疫病退散をアマビエで  

                       

 「お酒はいけないのでしょうが」と、お見舞いに日本酒を持ってきてくれたYukiさん。無病息災、縁結び、子孫守護
などのご利益で知られている仙台市の二柱神社は、この四月から新型ウイルスの終息を願う御朱印を貰うためにぎ
わっているとか。その御朱印をラベルにした『疫病退散』という日本酒をK酒造が販売している。このお酒を私のため
にYukiさんは求めてくれた。「コロナ」と「腰痛」の終息を願ってのお神酒。その御朱印には「アマヒコ」「アマビエ(ヱ)」と
いう足が三本の半人半魚の妖怪が描かれている。
  「アマヒコ」「アマビエ」は、江戸時代に疫病退散の妖怪として信じられていた。その発祥は肥後の国とのこと。アマ
ビエは「疫病が近づいてきたら私の姿を描いた絵を見せろ。疫病は退散するから」と言った。「コロナ退散」を願って「ア
マヒコ」「アマビエ」が絵葉書、御朱印、ストラップ、フイギャア、Tシャツの柄などに取り入れられていて、昨年の「新語・
流行語大賞」でトップ10入りしている。 
  「二柱」とはとはナギノミコト・イザナミノミコトのこと。男女双体道祖神はその二柱から派生した。「アマヒコ」「アマビ
エ(ヱ)」もこの流れから生まれたと思う。

2020年10月10日更新
 Mr.Eric Ggaham 逝く     雷光一閃外つ国より訃報     勝美

 Dear Mr.Take
 Eric passed away on the 10th July 2020, peacefully in his sleep, his age being 93 years.
 He always remembered the great kindness you  showed him and my mother whilst visiting you
  in  Japan.
 I thank you for being part of one the happiest and  fondest times in dad̉s and my mothr̛s lives.
                                         Peter Ggaham

 上の訃報に続けて次の文が書かれていた。ピーターさんの手書きの日本語文字である。この言葉(表現)に私の
心は強く揺り動かされた。 
      
 Eric&Vera夫妻をはじめグレイアム家の家族に出会えたことで、長男は自分の生き方を確立できたように思うの
です。私たちこそ心からお礼を申し上げなくてはなりません。
 Mr.Eric Ggahamのご冥福をお祈りいたします。
   ペルセウス流星群や友の逝く   勝美
  長男のホストファミリーはグレイアム家
 36年前、英国に留学した長男・郁彦(グレイアム家では「フミッコ」と呼ばれていた)がお世話になったホストファミリ
ーは、コベントリー市のグレイアム家だった。そのことがきっかけで現在もグレイアム家とお付き合いが続いている。
そのグレイアム家から訃報が届いた。グレイアム家は、コベントリーでの長男の生活に大きな支えと力だった。食事
の「フィシュ&チップス」に馴染めない長男のためにお米を求めおかゆを炊いてくれたベラ夫人、車の免許取得は長
男のピーターさんのおかげ。
 頻繁にパブに連れて行き生の英語を叩き込んでくれたエリックさん。(我が家の三人がコベントリーを訪ねた折、長
男の行きつけのパブに連れて行ってもらった。顔なじみの常連が「フミ フミ」と声をかけ懐かしんでくれた)
 グレイアム夫妻の来日
  1989年3月、グレイアムご夫妻を日本にお招きした。東京、箱根、秦野、京都、奈良、そして最後の夜は東京ディズ
ニーランドの花火と7泊8日の旅を楽しんでもらった。
 箱根は妻と私が案内した。早雲山からのロープウエイの旅は妻一人が案内。ゴンドラから「マウントフジ、マウントフ
ジ」と富士山を指差し続けた妻には.その30分間が長い長い時間だった。その夜は「山の上のホテル」泊りで、もてなし
は私一人。まだ外国の旅行客は多くない時代だった。夕食の席は食堂の真ん中? に取られていた。周囲の耳目が
私に集中しているので会話が続かない。私たち二人の“悪戦苦闘”した箱根の案内だったが、今はとても貴重な体験が
できたことを喜んでいる。
 ◇この旅で楽しんでもらったこと◇ 3/15~3/24
・乗り物  はとバス、新幹線、ロマンスカー、モノレール ロープウエイ、ケーブルカー、山手線、タクシー、箱根海賊船、
東名高速道(私の運転で)
・食べ物  すき焼き、寿司、天ぷら、くるくるずし、鹿肉鉄板焼きステーキ、会席料理、母の田舎料理(そば、竹の子ご飯、
みそ汁、煮しめ、漬物、さしみ)
・見学地  歌舞伎座、松葉屋、浅草寺東京タワー、明治神宮、皇居前広場、田崎真珠、御坂峠の富士、清水寺、二条城、
金閣寺、太秦・映画村で大名と奥方の衣装を試着、平安神宮、御所、三十三間堂、夜の祇園、比叡山延暦寺、奈良公園
の鹿、東大寺の大仏、春日大社、東京ディズニーランドで花火
 エリックさんの車でエディンバラの「ミリタリイ・タトゥー」へ
 その二年後の夏、我が家の三人がグレイアム家を訪ねた。コベントリーはイングランド中央部の都市、そこを拠点にスト
ラトフォード・アポン・エイボン、ウオーリック城、北部のノーサンバーランド、湖水地方、そしてスコットランドのエディンバラ
と5泊6日の旅。グレイアム夫妻が車で案内してくれた。
 B&Bの「開業第1号の客」というもてなしをしてくれたエリックさんだった。港町Seahousesのレストランで夕食をとり、なぜ
か会計をしないまま店を出てしまい、エリックさんと慌てて支払いに走ったというハプニングもあった。この Seahousesの朝
の風景は今も鮮明に瞼の裏に焼きついている。
 夫妻はこの旅のハイライトをエディンバラ城の広場で行われる「ミリタリイ・タトゥー」にセットしてくれた。バグパイプの演奏
とキルトを着たスコットランド兵の行進を中心に、各国のバンドやダンサーが音楽とパフォーマンスを披露するフェスティバル
が「ミリタリイ・タトゥー」で、エディンバラで毎年八月に三週間だけ行われる。壮観で楽しいショウに魅せられた。だから私の
携帯の着メロはバグパイプの演奏。
 
         
           グレイアム家と武家   マッセルバラのゲストハウスで(エディンバラ近郊)

2020年8月5日更新 
「一人遊び出来ねば放(ほう) ける」と言ふ 呆けぬために短歌(うた)に親しむ  武勝美

短歌日記 腰椎圧迫骨折のため入院治療 (6月8日~7月6日)
 起き上がるたび走る激痛に救急車を頼みぬ午前五時
 体力に余裕などあるはずなし無鉄砲が招きし骨折
 面会謝絶ベッドで孤食コロナ禍の病棟は森閑として
 初成りのトマトを見せに来し妻の日焼けが羨(とも)し吾(あ)には
 リハビリの順調な進捗に親指立てて喜びし看護師
 深更のトイレ介助を詫びし吾(あ)に「大丈夫!」と涼やかな声
 看護師の「ヨイショ」の大き声 リハビリ棟では医療用語
 「声を掛けてよ 寂しいじゃない」この叱り方ナースより学ぶ
 怒声・幼児返り・懇願に「人生劇場」も流れるリハビリ棟
 陰陽の激しき患者(ひと)に応接の《チーム看護師》清し(すが)尊し
 四六時中響く叫声に反応せんとする吾(あ)の怖し
 深更に幾たびも聞く叫び声 治癒の過程と思ふしかなし
 秦野弁での限りない懇願にその人の来し方を想ひぬ
 「帰りたい」とすすり泣く母を諭す漢(おとこ)の頬に光る一筋
 八十路往く吾(あ)が入院で想ひしは残余時間に為すべき事
 幻聴に抗ひ幾たびも「千曲川旅情の歌」小声で吟ず
 「どうですか」に籠る温かさ「医は仁術」と思う夜の回診
 歩行器での院内行動許されて病室日記の行数が増へ
 寒河江より届きしさくらんぼ三粒持ち急ぎ面会に来し妻
 梅雨晴れの星空が見える夜はベッドを少し低くセットしてみる
 転倒をせぬよう小さき歩を踏めば杖が絡みぬ左の足に
 「わたしS中の一期生」と告げ吾の今夜を看ると言ひし教え子
 「野仏に魅かれる」とふ看護師と秋の講座での再会を約す
 病む人にこそ「逢ふことが大切」と思ふ 明日は七夕
 教へ子の言葉ありがたし「いつまでも元気で。私も頑張るから!」
 屋根を打つ微かな雨音に安らぎ満つる退院の夜の寝室
 十本の向日葵を胸に咲かせ吾(あ)の退院を言祝ぎしに来し朋友(とも)
 三十年馴染みし草刈り機 腰痛の吾(あ)に伴ひてリタイアす

2020年5月17日更新 

 健 康
 「健康」という言葉は様々な場面で使われている。私も手紙の結びに「健康にご留意ください」と書くこともある。この「健康」という文字・言葉の持つ
深い意味を最近ある本から学ぶことができた。(「かがやく山河 仏の道・詩歌の心」酒井大岳著)。
 この書で、「健康」とは「健体康心」から派生した言葉で、「健体」とは「すこやかなからだ」、「康心」は「さわやかなこころ」。「すこやかなからだ」と「さ
わやかなこころ」は「さらさらと生きる」。「さらさらと生きる」とは見るもの、聞くもの全てから教えを乞う、学ぶ生活をするとさわやかな風が吹いてくる、
と酒井大岳師は説いている。「さらさら」という言葉から思い浮かんだのは唱歌「春の小川」。(高野辰之詞 岡野貞一曲)
 春の小川は、さらさら行くよ。岸のすみれや、れんげの花に、すがたやさしく、色うつくしく、咲けよ咲けよと、ささやきながら。
 春の小川は、さらさら行くよ。えびやめだかや、こぶなのむれに、今日も一日、ひなたでおよぎ、遊べ遊べと、ささやきながら。 

 春の小川は「さらさら」と流れながら、菫や蓮華に「やさしい心で美しく咲きなさい」とささやき、蝦や目高小鮒たちには「元気に遊べ」と言葉をかける。
「さわやかな心」「すこやかな体」を願う心が「さらさら行くよ」という言葉に込められている。健やかな体で、心がさわやかな「健康」人でありたい。
 この「健康」を綴っていたら4月12日の朝日俳壇の次の句で酒井大岳師の逝去を知る。
  入選324句大岳春に逝く      蜂巣 幸彦 

 朝日新聞の「俳壇」に掲載されたた先生の作品
  雪へ発つ靴あたためて呉れしこと    酒井 大岳       
  また吾の靴を履きをり師走妻               
  雪掻いて妻ほのぼのと戻りけり  
  あぱれな妻よ涅槃の日に逝きて
  杣送る短き弔辞あたたかし 
 

2020年3月25日更新 

                          故郷に帰りたい

           
                 
             平成3年に盗まれた高崎市倉渕町岩氷の道祖神さんです。稲吉純子さんから届いた絵手紙です。


 1月は道祖神祭り

 1月26日 道祖神祭りの意義を伝えたい 
 落合ボランティアの会の活動「いきいき落合」の1月例会で「道祖神祭り」の紙芝居二編「目一つ小僧」と「トッケダンゴ」を「チーム竹の子」で公演した。
 「マックスで30名」と聞かされていたが35名が観に来てくれた。小学生7名の参加が嬉しかった。 公演の後、地元の小沢さんから「この地区はトッケ
ダンゴじゃなく、取り上げダンゴだ」という話を聞いた。 興味深い中身だった。
 午前中訪ねてきた母娘が「ウチの地区では、どんど焼きは豚汁やお汁粉が食べられる会と思っている子がいる」と話した。自治会の役員さんがダンゴ
を作って子供たちに焼かせているというところもあるとか。環境問題から火を燃やすこと自体が難しく「どんど焼き」を止めた地区もある。
 どんど焼きは隣人と触れ合い絆を強める行事でもある。紙芝居で道祖神祭りの意義を多くの世代に伝えたい。

 1月19日 「どんど焼き」のコッブ酒 厚木・飯山 
 飯山観音・長谷寺に初詣。寺の境内の一角に佐藤家(妻)の墓地があるので墓参も兼ねている。 帰りは県道60号線で清川村に向かった。その途中、
飯山・尼寺地区を走っていたらどんど焼きが行われていた。「道祖神の落穂拾い」をしているから見過ごせない。斎灯の写真を撮らせてもらった。太い孟
宗竹で組み立てられた斎灯の高さは優に5㍍はある。竹の弾ける大きな音が火勢を表していた。
 三人の世話人が近づいてきて「ご苦労様です。お神酒を」と紙コップを差し出された。通り掛かりの者だから、と言ったが「それじゃあ尚」と勧められた。
飲めない私ではないので「そうですか」とご相伴に預かった。久しぶりの野外でのコップ酒 おいしかった。
 三々五々竹竿に団子を吊るした人が集まってくる。カラフルな団子をいっぱい刺したコナラの木を手に走ってきた女の子が私の前で躓いた。おばあち
ゃんが「まだ大丈夫だから」と静止するが構わず走っていく。
 ここ尼寺地区では「ダンゴは三つ焼いて、交換して食べた」との記録がある。(「厚木の道祖神」厚木市教育委員会刊) トッケダンゴの風習がここにもあ
った。立ち寄ってよかった。
                                        

 1月5日  安曇野の道祖神 
 根倉喜美江・修さん母子の来訪。「叔父の遺作ですが、道祖神なら武さんだから」と、古谷正一さん制作の銅板レリーフ「神の集い 安曇野の道祖神」
(8号)を恵与していただいた。作品は常念山脈を背景に、酒器像、肩組酒器像、袖中酒器像、肩組握手像、そして文字碑の五基が彫られているもの。こ
の安曇野の風景が私の「道祖神の里めぐり」のきっかけだった。

 令和2年1月3日  二宮町川匂は「どんと」焼き
 今年も二宮の山西の道祖神場で箱根駅伝応援。昼食の後、小田原・曽我の瑞雲寺で義兄の墓参。帰りに二宮町の「道祖神の落穂ひろい」をする。
 昨年六月、沼津を訪ねて以来の「道祖神めぐり」。四か所を巡ったが、川勾の道祖神に「どんと焼きは午後二時頃火入れ」との案内が掲げられていた。
ここでは「どんど焼き」ではなく「どんと焼き」と言っているらしい。「どんと焼き」は東北地方、特に宮城県で広く使われている呼称。気仙沼地方の各神社
では「どんと祭」は「年祭」になっている。貴重で、しかもうれしい「落穂ひろい」ができた。

 1月12日  清水の「どんど焼き」に長野・富士見町の下平さんが参加
 清水庭の今年の「どんど焼き」(団子焼き、道祖神祭りとも)は12日に行われた。一人でも多く参加してほしいということで14日に近い日曜日に行われる
ように変更された。この清水・東ノ原自治会の「どんど焼き」に長野・富士見町から下平武さん・「信濃路てくてく」会の代表・が参加してくれた。下平さん
は、私の『道祖神ワンダーワールド』を読み、秦野の道祖神に強い関心を持たれ清水のどんど焼きを見たいと連絡してきた。
 午後二時に下平さん到着。「みちしるべの会」の横山会長と田中事務局長を交え、道祖神など野仏信仰などについて情報交換をした。3時過ぎ、下平
さん、横山・田中さんとどんど焼きに出かける。「遠来の客」の参加いうことで、火守りをしている長老の皆さんから甘酒、お汁粉、豚汁で歓待された。
 四人は午後4時ごろ「あずま荘」に出向き、清水・東ノ原子供会の「道祖神祭りと天神講」に参加。子供たちと道祖神祭り(だんご焼き)にまつわる紙芝居
二話を鑑賞してもらった。第一話「目一つ小僧」は関智子さんが。第二話は「秦野の道祖神祭り トッケダンゴ」は私が公演。「トッケダンゴ」は《本邦初公
開》。観客は子供20数名、その保護者10名ほど。それに私たち4人でトータル40名ほどか。 
 午後5時半、「みちしるべの会」との再会を約束し下平さん離秦された。富士見町までおおよそ3時間のドライブとか。道祖神のお蔭でまた一つ印象に
残る出会いを持っことができた。ところでその下平さんのこの二日間の行動は、11日夜 山北町の道祖神祭り。12日は茅ヶ崎と藤沢の庚申講に関わる寺
を訪問することから始まり、秦野に入って白笹稲荷・出雲大社・御嶽神社に参拝。白笹稲荷では富士見町に白笹講の存在していたとのこと(石祠がある)
を宮司さんに伝えた。「宮司さんはたいへん驚き、とても喜ばれた」とのこと。 我が家に来る前に東田原の文字碑道祖神なども見てこられた。その動き
に驚き羨んだ「みちしるべ」の三人だった。



2020年1月1日更新
 2019年11月30日  中曽根康弘元総理逝く
 「きみ 大丈夫かね」
 中曽根康弘元総理大臣が亡くなられた。中曽根さんと出会いの思い出。
 雑誌記者としての初仕事は、堀内社長と一緒に中曽根康弘代議士(科学技術庁長官)にインタビューする仕事でした。創刊する雑誌『新しい青年』
の主要企画のひとつ「新しい青年のあり方」という特集ページの取材です。社長と議員宿舎に中曽根さんを訪ねました。
  「武さん、写真撮れるか」と入社したときに聞かれ、「はい」って言ってしまったのです。わが家にはカメラはありませんでした。叔父のカメラを借り
て、写真を撮ることはしていましたが。叔父のカメラは二眼レフという上から覗いて撮る、6・6判のカメラでした。そのカメラしか触っていなかったの
に、写真を撮れると言ってしまったので、社長は私を連れていったのです。
 部屋に入るとすくに撮影のセッティングに入りました。何しろ私はカメラマンですから。当時、室内撮影のフラッシュはストロボガンを使うのが普通 
でした。ストロボガンは小さな電球を発光させるもので、特に報道写真はこれが一般的でした。
 中曽根さんと社長が向かいあってインタビューが始まりました。インタビューの後に顔写真を撮影することになっていたので、カメラを手に、二人
から離れたところに待機していました。ところが、いきなりストロボが発光してしまったのです。中曽根さんはびっくりして、「きみは何をやってるんだ」
と私は叱られました。「すみません、何もしていないのに発光してしまって。なぜなのか分かりません」。こんなことを口走ったような記憶があります。
でも、どこかに触れなければ発光なんてしないのです。
 インタビューが終わり、いよいよ撮影。「きみ 大丈夫かね」との中曽根さんの言葉は「心配」と「同情」のように思えた。その写真は昭和34年8月
に創刊された『新しい青年』に使われています。(この創刊号は手元にある)  昭和34年・中曽根さんが45歳のときの話です。 

                                

2019年12月28日~2020年1月1日
 八回目の干支    初山河老いにも未知の月日あり

「一夜(いちや)飾りはいけない」「九日(くんち)餅はだめだよ」。お正月の準備をする中でそう言い聞かされてきた。今年の切り餅は
二十八日、JAの「歳の市」で買った。
 30日の“松飾り”は《今年は》長男に頼んだ。その松飾りの品も市販のもの。昔は、わが家の松飾は、タコーチ山の尾根に生える松
の枝を使い、紙垂(しで)は半紙で作った。わが家の餅つきと松飾りが変わったのは父が亡くなってから。
 「一文飾り」と呼ばれる輪飾りを、神棚、仏壇、ガステーブル、水道、風呂、トイレ、物置、車庫など二十カ所に飾った。墓所と清水の
久奈斗道祖神にも飾る。
 玄関は津軽凧絵、これは中野啓次郎さんのもので私のお宝。そして、今年も頂いた信楽焼の干支で迎春。

大晦日 午前中に菩提寺・円通寺に「年お礼」に出かける。雑煮用の里芋の芋コジをする。神棚に供える「オヅッキ(御厨器)」「オミキ
スズ(御神酒錫)」「燭台」を清め年越しに備える。夕方、畑で「ヒトガタ(人形)」のお焚き上げ。「年越し」は、家の中の六カ所の神仏に
燈明を灯し、お神酒と蕎麦を供える。少しばかりの年越しの酒で酔いつぶれた感?、いや28日からの重労働?でそうなったのだ。そ
れで初詣は諦めた。酒の所為ではない、杖を使っての、夜の歩行は転倒しそうだから。
  母の遺した綿入れを着て年送る

元日 初日の出は拝めず。午前6時、今年の「開きの方」は庚・西の方向なので座敷のガラス窓を開けた。そして燈明と雑煮とを前夜
と同じ神仏に供える。この《年男》という役を三日間勤める。歳神に供える雑煮には一膳の箸。(干支の「卯」が今年は一日なので。母
がそう言ってきたので)
 雑煮朝食の後、神棚、仏壇に鏡餅を供えた。今年は豊岡の丸餅にした。八時過ぎ、早々と賀状が届く。配達の人に「謝意」を表す。
午後はその返信を頑張る。これも例年のこと。
 歳神様の「三が日」の夕食は炊きたてのご飯。だから私たちも炊き立てのご飯。直会ということなのだろう。わが家の三が日の朝・夕
食にはお神酒が出る。だから朝からほろ酔い気分なのだ。





2019年11月30日更新
                           
                                          今年の菊
 津軽とわたし
  「ECHO」と鶴田町(鶴の舞橋)
 10月27日のこと。「ご無沙汰しています。「ECHO」創刊35周年おめでとうございます」と坂田美代子さんが訪ねてきた。そして「十和田
と奥入瀬の紅葉を見にいってきました。鶴の舞橋にも行きました」と「ねぶた」のお菓子を頂いた。「エッ、鶴の舞橋へ?」と驚く私に「ずっ
と昔、エコーで鶴の舞橋のことを知り、いつか行ってみたいと思っていました。それて今回主人と二人で訪ねました。橋も渡ってきました」
とにっこり。坂田さんは「東中PTA広報」が全国コンクール(1990年)で最優秀を受けた広報委員長で、この夏まとめた小書「PTA広報と
歩んだ50年」に登場してもらった。
 「鶴の舞橋」は青森県鶴田町が造った日本一長い木造の三連橋。私は1994年8月と2011年2月に訪ねている。(「ECHO」113号19
94年9月・281号2011年3月)本町中学校PTAが広報の全国コンクールで最優秀賞を受賞したのは2007年。その時の広報委員長は
笠井麗子さん。笠井さんは「ECHO」の読者で「みちしるべの会」のメンバー。長女は鶴田町の大きな農家に嫁いでいるので、鶴田町を聞か
せてもらっている。 「ECHO」の読者の一人・山口静子さんは鶴田町の隣の「つがる市」の出身。生家から自転車で10分ほどのところに鶴
の舞橋がある。113号の「「鶴の舞橋と八木橋連長さん」を読み、津軽の冬のエッセイ「津軽平野はどこまでも白」を「ECHO」に寄せてくれた。

 津軽平野はどこまでも白               
 私の故郷は青森県つがる市。合併する前の西津軽郡柏村です。その柏村での子供の頃の思い出。
 夏は地区ごとでの「ねぶた」作り。作ったねぶたをリヤカーに乗せ、みんなで引っ張り各家を回るのです。「ヤーレヤレヤーレヨ ろうそく一
本ちょうだいな」と。今は地域ごとの「ねぶた」は姿を消しました。たくさんの観光客が集まる青森のねぶた、弘前のねぷた、五所川原の立佞
武多をテレビなどで見ます。囃子や掛け声はそれぞれですが、なぜか胸にジーンと来るものがあるのです。
 冬は竹スキー(タケベンジャと言っていました)やソリで遊びました。屋根から降ろした雪は軒先まで届いてしまうので、屋根の上からすべり
下りられます。我が家の前には大きな川があり、氷が張るのでそこにも雪が積もります。屋根から庭、そして川の上まで一気に滑り下りるの
です。庭に続く畑が雪に覆われると、踏み固めて大きなカマクラを掘りました。津軽では「カマクラ」は掘って作るのです。秦野から連れて行っ
た息子が雪の原を見て言いました。「図画の時間、白い画用紙の裏に名前だけ書いて出せそう」と。津軽平野はどこまでも白一色の世界。そ
して寒い!
 岩木川の向こうは鶴田町、そして憧れの五所川原市。太宰の生家・斜陽館がある金木町も合併して五所川原市になりました。高校はその
五所川原に通い、学生時代は弘前で過ごしました。津軽の人は《話好き》です。津軽弁といわれている方言で屈託ない生活をしたのでした。
 雪どけと共に一斉に芽吹く春。りんご畑の白い花、短い夏、津軽富士と呼ばれる優美な岩木山、八甲田の紅葉、「リゾートしらかみ」が走る
五能線など、私にとって「ふるさとは遠くにありて思うもの そして悲しく」ではなく、「そしてなつかしくうたうもの」です。
 毎年ふるさとに帰ってはいますが、年々遠くなっていきます。もう四十年も住んでいる秦野は私のふるさとです。ふるさとが二つもあるのは
〈ちょっと得〉という気分はしますが…。

 津軽は演歌のふるさと            
                              ・渋谷和生の津軽三味線ライブ
 津軽への旅は六回。印象に残っている風景・光景は次の通り。竜飛崎(岬)・青森のねぶた祭り・弘前ねぷたまつり・夏の「鶴の舞橋」・五能線
・ストーブ列車・斜陽館・地吹雪の「鶴の舞橋」・五所川原の立佞武多・板柳町に高見盛関のお母さんを訪ねる
・「津軽平野(吉幾三詞)」の歌碑・「津軽海峡・冬景色(阿久悠詞)」の歌碑(外ヶ浜町(旧三厩村)

 誕生日8月18日は旅の空の下で迎えることにしたのは教師になってからだ。私の時代は教師も夏休みだった。 
 一学期の終業式の夜は「納め会」。その宴席で校長先生が「武さん 今年はどこに行くの」などと声をかけてくださった。すると「今年は知床で
誕生日を迎えます」と答えたりしたのだった。
 「演歌は日本人の心」と言われている。その演歌のテーマに失恋は欠かせない、主人公はなぜか北に向かう旅人。『北のはやり歌』の著者・赤
坂憲雄先生は「失恋して南に行く人は少ないと思う。とことん落ち込んでいくためには、北なんです。落ち込んでそこから這い上がってくる癒し方が、
北にはある」と言う。だから、小林旭の「北帰行」(小林旭)・「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)・「北の宿から」(都はるみ)・「函館の女」(北島三郎)など
が熟年層だけでなく、多くの人に愛され歌われている。
 北への郷愁を強く抱いているのは、戦後の高度経済成長を支えた東北からの集団就職の中学生。津軽を離れた者にとって津軽への郷愁は尽
きない。
  津軽平野  詞曲・吉幾三
  津軽平野に 雪降る頃はよ 親父(おとう)ひとりで 出稼ぎ仕度 春にゃかならず 親父(おとう)は帰る 淋しくなるけど 馴れたや親父
 2004年に山本謙司さんがリリースした「津軽慕情」(平山忠夫詞・遠藤実曲)もカラオケで根強い人気がある歌である。 
  北へ流れるあの雲が 津軽野づらで雪になる 俺の分まで働き終えて 親父(おやじ)いまごろ囲炉裏酒 ああ帰りたい帰れない 
  酔えば恋しいイヤーイー ふる里が
 歌う山本謙司は津軽の民謡歌手だから、その声と節回しは津軽の風土がしみこんでいる。その声に曳きこまれ歌う年配者が多い。わたしも「酔え
ば」湯船で口づさむ。キイが高いので人前で歌えない。
 美空ひばりの「津軽のふるさと」(米山正夫・詞曲)。最後のフレーズは
  「ああ 津軽の海よ山よ いつの日もなつかし 津軽のふるさと」

 竜飛崎への旅
  道がいよいよ狭くなったと思っているうちに、ふいに、鶏小屋に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何がなにやら、わけがわからなかった。「竜飛だ」とN
  君 が、変わった調子で言った。(『津軽』太宰治)
 竜飛を訪ねたのは60年ほと昔の11月の終りのころだった。三厩からのバスの乗客は数人、最後尾の中央に一人で坐っていた。たぶん竜飛の集落
に入ってからだと思う。ハンドル操作のミスだったのだろう、私の左側の窓ガラスがバリバリと割れた。家を囲っている防風雪柵に接触したのだ。『津軽』
の一節(前述)を実感した。
 竜飛崎最北の宿・奥谷旅館に泊まった。多分わたし一人が客だったのだろう、夕食が囲炉裏端に用意され、宿の主人が話し相手になってくれた。だ
が話は弾まなかった。このもてなしは、この時季に無口な若者の一人旅、ということで警戒されたのかもしれない。部屋から暗い冬の日本海が見えた。
すっかり失恋の演歌の世界に入り込んでいた。

 11月7日の11時40分からテレビ東京の旅番組「あなたのご飯見せてください」を観た。ロケ先は鶴田町の「鶴の舞橋」とその周辺。わたしの津軽の旅
と重ね合わせたのだった。  過去を振り返り、懐かしむようになると《末期高齢者》だとか。



2019年10月20日更新

          三陸新報 2019年9月4日のコラム
           

  
               

2019年9月1日更新
 秦野の新聞教育のDNA

PTA広報講座の講師・田村俊雄先生
 2019年7月29・30日に北海道・帯広市で開催さた第62回全国新聞教育研究大会で、PTA広報講座の講師を務めたのは田村俊雄先生
(東京・四谷中学校)。この全新研の全国大会でPTA広報講座を長年担当してきた私としては、田村さんが後継者になってくれたことがとて
も嬉しい。なぜなら田村さんが教師として最初に教壇に立ったのは神奈川県の秦野市立西中学校だった。私と同じ学年に所属したので一
緒に学級新聞や学年だよりの発行をがんばった。その後、ふるさと東京に転勤し、学校新聞で内閣総理大臣賞を受賞する新聞委員会を育
てた。

前本町幼稚園長加藤しのぶ先生が壁新聞の総評
 8月20日の東公民館の「夏の思い出をかべ新聞に」の講座(この号のトップ記事参照)に加藤しのぶ(この三月まで本町幼稚園長)さんを招
いた。加藤さんは秦野・東中学校での教え子で、新聞づくりに長けていた。その力を活かし、本町幼稚園で「親子で壁新聞作り」を毎年夏休
みに行ってきた。その経験を活かし、講座の最後に講評をしてもらった。幼稚園の先生らしく、優しい言葉で全新聞を褒めてくれた。

広報づくりで得たノウハウを活かす三人
 私が所属している秦野の歴史・民俗を学ぶ「まほら秦野みちしるべの会」の会員・相原・笠井・鈴木さんは会報発行の中心的存在である。こ
の三人、いずれもPTA広報づくりの実力者(全国コンクールで「最優秀賞」や「優秀賞」受賞)で、新聞作りソフトを使い、オールカラーの手作り
の会報を作っている。付け加えれば、この会の横山会長・浦田副会長さんもPTA広報づくりの経験者なのである。

六人が六年ぶりに広報づくりに再挑戦
 六年前に小学校でPTA広報を作った六人(飯塚・田中・羽生・林・中野・前原さん)が、今年度は中学の広報委員に立候補した。そして一学
期にA4判8ページ立てを二回発行するというような充実した活動をしている。
 
 「新聞づくりは仲間づくり」を続けたい
◇第62回全国新聞教育研究大会・北海道十勝帯広大会◇ (2019年7月29・30日)
「新聞教育 北から南から」
 秦野地区だより  「新聞づくりは仲間づくり」を続けたい            全国新聞教育研究協議会理事   谷津 裕
第68回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの中学校学校新聞の部で、秦野市立東中学校の『東中新聞』が「優秀賞・全国新聞教育研究協
議会賞」を受賞しました。『東中新聞』は、発行号数が1100号を超える学校新聞であり、伝統と歴史の力を発揮することができました。 また、
PTA新聞の部では北小PTAの『稜線』、渋沢中PTAの『ふれあいの丘』、南中PTAの『みなみPTAかけはし』の三紙が「努力賞」を受け、「PT
A広報の秦野」の実力は健在でした。
 昭和48(1973)年に秦野市PTA連絡協議会が設立され、その年の10月に『はだのP連だより』が創刊されました。その「P連だより」は2019年
2月発行で116号を数えています。ところが、改元されたこの四月に『はだのP連だより』は印字版からweb版に移行したのです。
 若者を中心に新聞を読まない人が増え、「各家庭に購読紙があるのが当たり前」は過去のものとなった今、これも時代の流れでしょうか?
 web版になって懸念されるのは、情報の《一方通行・公報化》です。時代が変わっても、情報伝達の手段が代わったとしても、「新聞づくりは仲
間づくり」だけは忘れてはなりません。これからも秦野では、これまで培てきた「学校で新聞の文化」を継承していきたいと思います。
                                                                     (秦野市立大根中学校)
 ※谷津裕先生も新採用教員として秦野東中に着任。そこで私と出会い新聞づくりを始めました。












2019年7月1日更新

  押絵雛づくり  
 4月19日 秦野の中央労金の「ものづくり講座」の『押絵雛づくり』に参加した。受講者は20名で男性は二人。私がこの講座に参加したのは次のよ
うな理由による。
 信州の松本地方、とりわけ安曇野では彩色の双体道祖神が多く見られる。現世を安寧に生きることを願う信州の村人たちは、豊穣、健康、良縁、
子孫繁栄を願い、その究極の暮らしを宮廷人のものとし、象徴として衣冠束帯・十二単像の男女双体像を造立した。その色付けは、道祖神は「子ど
もの守り神」という性格があり、毎年その地域の子どもたちが行う。道祖神は色を塗り直すことで霊力を再生し子どもを守ってくれるからだ。 
 この彩色の男女双体像(衣冠束帯・十二単形)が松本地方に出現した時期は、松本城の藩士の妻女が「押絵雛」を作った江戸時代中期と重なる。
彩色道祖神は、押絵雛の出現の影響を受けていると思われる。
 この頃その彩色された双体像も色あせたものが多くなっている。ここでも「小子化」と「地域意識の希薄化」で色付けがむずかしくなってきているよ
うだ。
 
 元々手先は不器用な私。女性陣のスピーディーな作業ぶりに焦ったが、講師の《強力》な《協力》により、私が作ったとはとても信じられないような作
品が誕生した。充実した三時間だった。  
                                          私の作品 ↓
                               
  これからいくつかの会場で「道祖神ワンダーワールド」の講座を持つ。その講座の中で「道祖神の彩色と押し絵雛」について話す。その折、「押絵
雛」というものを見てもらおうと思ったからだ。       
 
                 

 2019年5月1日更新
  昭和、平成、そして令和に思う
 1969年1月8日の日記から この日は雨
 「昭和の終焉・そして平成のスタート」   
 一月六日、今年になって初めての外出である。遅ればせながのら初参りに厚木の飯山観音(坂東第六番の
霊場、飯山観世音長谷寺)に行った。この寺の境内には妻の両親が葬られているので、例年元旦に墓参を兼
ねての初詣でをしている。
 長谷寺は修業をする寺であって、墓地は持っていない。それなのに境内の一角に墓所をとっていただいてい
るのは、義父・佐藤武男が近くの駐在所勤務時代に方丈さんに大変かわいがられたからだった。
 松の内というのに、札所巡リのバスツアーの一行が集印所に押し掛けていた。長谷寺を下りて道を左に取リ、
小鮎川に沿って車を北に走らる。この道の行き止まり(?)ほ清川村営ケ瀬である。そこに首都圏最後の水瓶、
宮ケ瀬ダムが完成するのは四年後。そしてその地は、妻の一家が駐在さんとし、昭和二十年代の後半を生活し
た地でもある。
 学校があり、役場が、駐在所があったかつて村の中心地は、ブルドーザの爪痕も荒々しく整地されていた。小
学校の校庭跡に大きなヒマラヤスギが一本、ポツンと立っている。ここで暮らした人は誰もがあの木と共に幾つ
もの思い出を持っているだろう。だから切り倒されなかった、そう思いたい。
 駐在所の跡には、よもぎとスカンポが立ち枯れ風に鳴っていた。「部屋の間取りまで思い出せる」そう言いなが
ら言葉が途切れてしまう妻。そして「たしか、あそこに先生の下宿している家があった」「ここの道を真っすぐ行くと
地主さんの大きなお屋敷があって、遊びに行くのはそこまでは許されていたの」と、思い出をさがし出し続ける妻
だった。
 間もなくダムの湖底になるかつての村の“銀座”から、仏果山やあたりの景色に眺め入る妻の姿が、冬の陽光
の中に白く乾いて見える。「自然は悠久である」と人は言う。だがここ宮ケ瀬の自然は人力によって変えられ、悠
久というポーズをとろうとしている。『生々流転』とか『輪廻』というものは、永遠の時の流れの中で起こるの自然の
摂理である。 昨日から今日にかけて、私の世界はすっかり昭和の終えんでした。
 昭和六十四年一月七日午前六時三十三分 昭和天皇崩御。午後二時過ぎ、新元号「平成」の発表。


 平成の終幕 久保田浩さん逝く
 4月29日、耕耘機で畑を耕した。黒い土が香るようで楽しい作業だった。そして平成の終わる日30日、昨夜半か
ら雨。朝、畑を見回ったら、もう小さな植物の芽があちこちに顔を見せている。鋤きこんだナズナだ。この自然界
の動きに年代変わりをりを思った。
 平成が終わる月の4月18日、小・中・高の同級生で幼馴染の久保田浩さんが急逝。難病だったので治療もまま
ならなかったようだ。浩さんは数年前から短歌を始め、或る新聞に投稿していた。
◇平成31年1月以降の入選歌
 一月  今風の横文字略語に四苦八苦老い二人して解くのも楽し
 二月  春を呼ぶ観音市に花添えて郷愁誘うチンドン屋の太鼓
 三月  真剣に叱られるって幸せよその一言にこもるせつなさ
 四月 世の安寧祈る思いに天皇の御声震えるをかしこみて聞く(遺稿)
  これらの作品からは病魔と闘っている姿や心はまったく見えない。だから、私は彼が昨夏から闘病生活にはい
っていたことなど知る由もなかった。
 遺稿となった四月の一首は、昭和、平成と生きてきたことに感謝さえしているように思える。そして「諦観」さえ感
じるのだが。    合 掌

 久保田浩 様  享年82歳 元公立小学校長

2019年3月10日更新
 エコー教育相談室に突然の来訪 ムクドリ
 2月1日  午後4時過ぎ、パソコンに向かっていたら右側のガラス戸にドスンという音。「アッ、まただ」と思った。
 その思った通りの出来事。ガラス戸の下に鳥が一羽うずくまっている。近づいたが動かない。姿勢は立っている
のだが動けないのだ。ガラス戸に衝突し、脳震盪を起こしているのだろう。ヒヨドリより小型。全体に黒っぽいがコ
ゲ茶色の羽も見える。嘴は黄色で、白い部分が目立つ顔。ムクドリだった。ザルに収容したが、暴れることもなか
った。10分ほど経つと部屋の中を飛び回り始めた。それで部屋の全ての窓を開けて夕空に放した。
                                   

「道祖神」の講座は満席 
  「はだの雑学大学」の『道祖神は千姿万態』の講座を1月27日に保健福祉センターで持った。山北町、愛川町、伊
勢原市など市外からの受講者もあり満席。年齢層も40代から80代までと巾広かったのも嬉しかった。だが講座は準
備した資料の半分くらいのところで「タイムアップ」。出席された皆さんには本当に申し訳ないことになってしまった。そ
れにも拘わらずありがたい言葉が届いた。

あっという間の2時間でした
 先日の武先生のご講演,とてもおもしろかったです! あっという間の2時間でした。道祖神についての説明も論理
的でわかりやすかったですし、キャンピングカーで全国を回っているご夫婦(東田原の方だなんて!)、本当にたくさん
の土地を訪ね、ご自分の足で調べられているのですね。秋田の神社を訪ねられた時、地区の方が「オレオレ詐欺師」
ではないかと怪しんで様子を見に来た、というお話を聞いているとき、事の成り行きにドキドキし、最後にはホッとしま
した。
 先生の体験を交えながらの説明なので,とても興味深く講義を聞けます。いつもの通り道を少し変えて、西田原谷戸
の道祖神の前を歩いてみよう、と思いました。最後に先生の道祖神調査の七つ道具の「本物」を見られたし、片栗粉を
取り出して使い方を説明されたとき、会場の皆さんがとても感心されていましたね。
 会場で、PTA活動でご一緒した方とも思いがけない再会もできとても有意義なひと時でした。次回の講義を見逃さな
いように「広報はだの」をしっかりチェックしようと思います!      上條 有紀

◇昨日は大変に楽しいお話ありがとうございました。時間を忘れるくらでした。ボールペンのインクが途中で無くなり書く
ことができなくなったのが心残りです。一緒に行った連れ合いも大変良かった!と楽しんでいたようです。また機会があ
れば是非参加させてください。寒いなか風邪などひかれませんよう☀     太一&政子
◇はだの雑学大学の「道祖神ワンダーワールド・道祖神は千姿万態」を受講。全国の珍しい道祖神を地区別に紹介さ
れた。ボリュームタップリな資料と「道祖神モナカ」のお土産つきの楽しい講座だった。    眼鏡の松ちゃん                

2019年1月1日更新

平成最後のお正月の行事
 「一夜(いちや)飾りはいけない」 「九日(くんち)餅はだめだよ」。お正月の準備をする中で、毎年そう言い聞かさ
れてきた。だから、のし餅と鏡餅は三十日に配達してもらっている。餅屋さんも心得ていて、その日の配達を条件に
注文を受けている。わが家で、臼と杵を使わなくなってもうう40年になるだろうか。
 三十日の私の一日は“松飾り”と掃除で暮れる。父の時代、注連飾りは全て自家製だった。タコーチ山の尾根に
生える松の枝を使っていた松飾も、30年くらい前で終わった。わが家のお正月行事にこの二つの変化が生じたのは
父が^平成元年に亡くなってからである。
 「一文飾り」と呼ばれる輪飾りを、神棚、仏壇、ガステーブル、水道、風呂、トイレ、物置、車庫など二十カ所に飾る。
墓所にもお正月が来るようにお飾りをする。お墓からの帰り、鹿島神社の裏の延沢川に厄払いの「ヒトガタ(人形)」
を流す。
 年越しの夜は、家の中の六カ所の神仏に燈明を灯し、お神酒と年越し蕎麦を供える。午前零時を過ぎると氏神
である鹿島神社と菩提寺の円通寺に初詣でにでかける。
 元日の午前6時、「開きの方(今年は甲の方向・東北東)」である台所のガラス戸を開ける。そして燈明と雑煮とを
前夜と同じ神仏えるのが年男(私)の勤めである。大歳神に供える雑煮に今年は六膳(干支の「卯」が今年は六日
なので-「初卯は歳神さんが帰る日」と、そう母が言うので)の箸が添えられる。雑煮朝食の後、神棚、仏壇、床の
間の三カ所に鏡餅を供える。三が日の神様の夕食は炊きたてのご飯になる。毎日“お冷”ができるがそれは仕方の
ないこと。わが家の三が日の朝・夕食には必ずおお神酒が出る。だからら一日中ほろ酔い気分である。
 3日箱根駅伝の応援。駅伝の応援に立つところは二宮の山西の信号の所。そこには道祖神が3基祀られている
からだ。に選手の到着を待つ。応援が終わると根府川のホテルに向かう。今年は途中、二宮川神社と小田原高田
の道祖神を訪ねることにしている。根府川のホテルで温泉に入り昼食バイキング。帰路、小田原曽我の瑞雲寺で
義兄の墓参り。 
 4日は厚木の飯山観音に初詣でに行く。ここには妻の両親が眠っている。かつては門前の茶店で飯山の田螺の
佃煮を買うのも正月行事だったが、その店も閉まってしまった。
 私や家族がとりたてて神道や仏教の信仰に熱心であるわけではない。イギリスにクリスマスカードを送ったりもし
ている。イダヤベンダソンが「日本人の宗教は“日本教”というべきもの」と書いている。 年末から年始にかけての
私は“日本教”、とりわけ“民俗宗教”の熱心な信者といえるだろう。 日本人は、その感覚や心情を家族や地域社
会の年中行事や通過儀礼を通して、次の世代に引き継ぎ伝えてきた。例えば、歳の市で昨年より一回り大きい福
だるまを求め、新しい一年への期待や決意の表れと同時に、家運の継続・発展を願っているのだ。
 正月二日、わが家では親戚・兄弟姉妹が集まり“お年始”の祝宴を開いていた。その日は女性が全員台所に入り、
にぎやかに太巻き寿司を巻く。やがて家長(封建的と言われそうだが)での「明けましておめでとうございます。本年
もよろしくお願いします」の言葉で乾杯、祝宴になる。この種のわが家の“顔合わせ”は、年に五回、お年始、お祭り、
お盆、春・秋の彼岸とおこなってきた。母は言う「私が丈夫の間だけは続けてよ。近所の手前もあるし」。この恒例
の顔合わせも 母が亡くなり、鹿島神社の祭りの日の一回になった。日本が経済的に豊かになるにしたがって、家
庭、隣り近所、地域社会などでの人間関係は希薄になり、個人主義が強くなってきた。そのことは、私たちの生活の
ある種の精神的な基盤となつていた『日本教』の力が薄れていくことを意味している。
 初詣では年中行事として私たちの生活の中に定着した。今年の三が日、初詣でに出掛けた日本人は九千八百万
人と報じられた。神仏に自分や家族の幸せを祈る、世の中の平穏無事を願うことはよいことではある。ところが、私
が初詣でする寺山の氏神・鹿島神社の境内は年毎に寂しくなっている。円通寺に初参りする人に出会うのはまれで
ある。ここにも家庭や地域が、集団としての機能を失いつつあることが表れているように思う。
 人の心は、先行する世代―親たち、近所の大人たち、教師などによって植え付けられ、育てられるものである。正
月行事などの民俗行事を通じ、子どもたちに心のありようを教えたい。

2018年11月10日更新
   2018年の菊 
 「畑の作物にとって最もよい肥料は人の足音」 。畑をよく見回れば、肥料の足りなさとか、病害虫の発生なども
早く発見できる。それでよい実りが得られる。だから、足音が最高の肥料なのだ。そのことが私の菊作りにも現
れている。施肥の勉強をしないから茎は太らない。だから花はちいさい。菊作りを始めた頃のものと比べ、年を
重ねるたびに花は悪くなっている。「継続は力」という格言は、私の菊作りでは「継続は惰性・退歩」。菊苗に、そ
して苗を育ててくれたFさんに申し訳なく思う。
              

2018年10月10日更新
 間違えやすい慣用表現 
 9月29日の朝日新聞は『be on Saturday』欄に「間違えやすい慣用表現」のランキングを載せた。
 その上位10は、
 1間が持たない ○間が持てない=時間をもてあましてどうしたらよいかわからない。
 2押しもひ押されぬ ○押しも押されもせぬ=どこへ出ても圧倒されることがない。
 3怒り心頭に達する 〇怒り心頭に発する=心から怒りがこみあげる
 4足もとをすくう ○足をすくう=相手のすきをつき、卑劣な方法で失敗させる。
 5過半数を超える 〇半数を超える、過半数を占める=全体の半数を超える。
 6愛想を振りまく ○愛嬬を振りまく=好感の持てる言動や表情をする。
 7恨み骨髄に達す ○恨み骨髄に徹す=人を恨む気持ちが骨のしんまでしみとおる/深い恨みを抱く。
 8思いもつかない 〇思いもよらない/まったく思いがけない。
 9乗るか反るか ○伸るか反るか=成否は天にまかせ、思い切って物事を行う様子。
 10熱にうなされる ○熟に浮かされる=高熱のためにうわごとを言う/夢中になって分別を失う。

 そして11~20位として次の言葉が並んだ。
 11上や下への大騒ぎ
 12うしろ足で砂をかける
 13屋上屋を重ねる
 14微に入り細にわたつて
 15薄皮をはぐように
 16合いの手を打つ
 17的を得た
 18二の舞いを踏む
 19したづつみを打つ
 20火ぶたが切ってて落とされる
 紙面ではこれらの語句の〇(正しい表現)を示していない。 この一覧・20語句を読んだ妻も私も《反省モード》に陥った。

2018年8月10日更新
『エコー』350号の感想                           三嶽 雅彦  
◇21年前、中2だった方のお父さんということは60代かな。早いですね。82歳の武先生に会うことで、命の尊さというか、生き
ていくことの書びというか、何かを感じたいのだと思います。私が瀬戸内寂聴さんにすがりついたように。
◇「朧月夜」。明治時代の歌でしょうか。いい歌は自然口ずさみたくなります。時代を超えて世代を超えて。平和のありがたさ
をしみじみと感じる風景です。
◇六月に秦野市でPTA研修会が開かれました。そこに出席された方が「勉強になりました」と教えてくれました。PTA廃止が叫
ばれている中、その存在意義を考える時、親の勉強の場、情報交換の場としての役割を強調してもいいように思います。「役
員を〈順番〉にして、いろいろな負担を背負わされる」というマイナスのイメージからプラスのイメージへ変えられたらいいなと思
います。
◇別人のような顔つきから満面の笑み。人は表情に生活が浮き出てしまいます。つらい日々を送ればそれなりに楽しい日々を
送れば明るくなります。表情を見ると生活がわかります。中学生もそうです。
◇母子寮 収入が少ないためにそのような施設で過ごすことになったのでしょう。つらい生活の中で見出した楽しい思い出。私
の母は82歳。介護するほどではありませんが、毎日を元気に過ごしてくれればと思っています。「忙しい、忙しい」が口癖で、の
んびりと昼寝をしていても、そんなことを言います。
◇震災遺構とパークゴルフ場。将来にわたってどちらがいいのか。むずかしい判断ですが現地の人の声が優先されるべきです。
忘れたくないという思いと、大勢の人が交流し楽しむ場として利用してほしい。  
 ※三嶽雅彦さんは、毎号読後感をていねいに綴り届けてくださいます。私を支える大きな「返ってきたエコー」です。
2018年7月10日更新
 6月7日 尾上喜代司・オノエキヨシさんとの別れ 
 所属している「秦野ゆとりの会」の仲間がこの二カ月の間に三名急逝。その一人・尾上喜代司さんの葬儀に参列した。
 尾上さんとは高校一年のとき同じクラス。そして41歳の年、教職員組合の役員として一緒に行動した。彼が執行委員長、私
は副委員長。主任制闘争の最も厳しい時期だった。執行委員長としての彼の言動はブレが無かった。〈厳冬の戦い〉なのに
「春風駘蕩」、いや「泰然自若」な立ち振るまいに私も平静を装うことができた。
 それから二十数年を経て「ゆとりの会」で三度目の出会い。彼は平塚市の小学校、私は秦野の中学校と校種・生活拠点も異
なるので、二回目、三度目の出会いは新鮮なものだった。
 「菊作りをしよう」との私の誘いで入って来たが、彼の行動力と情熱とでたちまち講師を務めるほどの菊作りの名手になった。
アルコールは苦手だが酒席での話は洒脱だった。「ゆとりの会」の懇親会の〆は、尾上さんのタクト(宴席の箸が指揮棒)で「心
ざしを果たして いつの日にか帰らん」と全員で唱和するのが恒例。
 東日本大震災で発生したフクシマの風評被害に対して「福島の野菜を積極的に買っている」と言った言葉も印象に残っている。
 出棺のとき「信念を貫いた父、特に教育についてはガンコだった。私たちはそれに反発した時代もあった。寂しい思いをさせて
しまったかもしれない」とご子息が話された。
「オノウエさん」と声を掛けると「オノエです」。「キヨジさん」と呼べば「キヨシです」と、笑いながら訂正していたオノエさん。名前は
「姓名」とも言う。「姓」は苗字・その家の歴史を表す。そして「名」は親が子に懸ける期待、希望、願いを込めてつける。だから名
前を大切にする尾上喜代司さんだった。
 大兄の佳きことばかり梅雨の夢    勝美

2018年6月10日更新
5月31日   
 我が家の横は中学校の通学路。部活を終えた男の子のグループの明るい声が今日も聞えてくる。午後6時を告げる市のメロ
ディチャイム「朧月夜」が流れ始めた。すると男の子が「菜の花畠に 入り日薄れ」と歌い始めた。それに唱和する声も。「見わた
す山の端 霞ふかし」まてで終わったが、笑いを含んだ大きな声で歌ったのだ。彼らの今日一日の学校生活は充実したものだっ
たに違いない。「いい生徒たち いい学校だな」と思った。夕食のビールを飲んでいた私は「春風そよ吹く」その続きを口ずさんだ。
こんなふうに歌は生活と共にあるのだ。

6月2日
 義弟の住まいは東京・町田市。白洲次郎・正子夫妻が暮らした武相荘の入口近く。一度訪ねてみたいと思っていたので墓参を
兼ねて出かけた。白洲正子さんの書斎・仕事場が往時のままで公開されていた。自然と向き合う静寂な和室だった。
 十数年前に読んだ白州正子さんの文 (「 」の部分)
 「夕方、夕顔の蕾の前に椅子を据え、一つの蕾に集中して目をはなさぬように開花を待っていた」。正子さんは四時、五時、七
時と咲くのを待ったが「蕾はぴくりともせず、かすかにふるえるような動きをみせたかと思うと、さもくたびれたように首を垂れてし
まった。ほかの花はみな元気に咲ききっているのにこれはどうしたことか。もしや息を吹き返してくれはせぬかと、十一時まで見
つづけたが、しまいにはまったく生きる力を失って、地に落ちた」。「その翌晩も翌々晩もためしたけれども」結果は同じだったと
書いている。
 夕顔は花を開くという神秘敵な営みを覗かれることに耐えられなかったのだ、と白州さんは思った。すべての生き物に心はある。


2018年4月7日更新
 :                    気仙沼を応援したい私に出来ることは
 3月28日の「三陸新報」1面トップ記事の見出しは(宮城県内の)「 復興実感 気仙沼・本吉が最低」。「その実感度は46.2%
で石巻とは15ポイントも開いている」とある。

      
       
 このたびは本市地元紙の「三陸新報」に「心に響く短歌」と題して印象短歌会の作品についてのご投稿いただきありがとうござ
いました。作品それぞれに心温まる感想を添えていただきましたことを会員みんなと喜びあいました。
 当会は昭和51年1月会誌『印象』の創刊以降、先輩諸氏のご尽力により発行を続けてまいりましたが、震災や諸事情により平
成24年3月発行の205号をもって発行を終了しました。その後、毎月「三陸新報」に掲載する二首を紙上勉強会として継続してい
るのが現状です。
 会員の年齢も高く、96歳の小川きく江さんを筆頭に卒寿、米寿、傘寿の方々が続いており作品もマンネリに陥っています。私
一人での添削や校正にも不安を感じており「終了」を考えていた矢先、武様のお言葉を拝見し、もう少し継続していこうという力
をいただきました。どうぞこれからも復興途上である当地方にお心をお寄せいただき、引き続き文芸欄にめを通していただけま
すようお願い申し上げます。ありがとうございました。    
 余寒厳しき折から、どうぞご自愛ください。  かしこ          
  平成30年2月23日                                                 岩手由貴子

 日記
 2018年3月20日  寝そべりスヌーピー
  小田原の日帰り温泉に行く。そこでぬいぐるみのクレーンゲームをしてみた。はじめはライオンキングのキャッチを狙った
が4回であきらめ、スヌーピーに挑戦。すると、なんとなんと3回目でキャッチに成功。ところがクレーンが取り出し口に向かう
途中で止まってしまった。店員さんを呼び、対応してもらおうしていたら、吊り上げた獲物は落下。「エー そんなの無いよ!」。
 でも店員さんはそのスヌーピーをケーム機から取り出し 「おめでとうございます」と渡してくれた。
 全長60㌢のスヌーピーは今、応接室のソファ上で眠そうな顔で腹ばいになっている。「寝そべりスヌーピー」というのだそうだ。
           
 
  2018年3月25日  桜 三本 
 今日の暖かさで我が家のソメイヨシノは三分咲き。今日から毎朝カメラに収めるつもり。↑
 昨日の午後、出かけ際に枝垂れの下枝に薄ピンクの花がたくさん開いているのを見つけた。この桜は白泉寺の枝垂桜の実
生のもの。高遠で求めた楊貴妃という八重桜は、まだ芽は小さくて花芽かどうか判らない。四月下旬が開花なので、見守るしか
ない。でも期待したい。
                

               



2018年1月7日更新

 北杜市の寺院 津金山海岸寺 
  
 12月13・14日に「まほら秦野みちしるべの会」の8名は山梨・静岡へ研修に出かけた。その研修先の一つに津金山海岸寺を選ん
だ。海岸寺は中央高速道の長坂インターで降り、県道605号線を清里高原に向かって20分・12キロほど走る。人家が途切れた道は
山中に入り、やがて津金山海岸寺(北杜市須玉町上津金1222)の山門が左手に表れる。
  山梨県は「海無し県」、その深山に「海岸寺」。海岸寺という寺号はどういう意味なのかと興味があった。その意味を境内に立つ
石碑がら知ることができた。
 碑には次の和歌が刻まれていた。
   補陀落は他餘にはあらじ津金なる大悲も深き海の岸寺 
        平成六年十二月吉辰建立  高根町樫山(紺屋)浅川金治  
 
 補陀落山は観音菩薩が降臨する聖地。海を越えた南方の地にあると信じられ、その聖地に渡ろうとする「捨身行」が中世、紀州・
熊野地方から起こった。
 この歌の主意は、「海岸寺がその聖地」であるということ。あるいは「この寺・岸から出発し海を渡れば、観音様のおわす極楽に行
き着くことができる」との意か。海岸寺は二度目の来訪。最初の参詣の時にはこの碑にめを向けなかった。ただ寺名の「海岸」は気
になったのだった。それだけに、今回それが解明できたので大収穫の研修となった。
 海岸寺は石造の百観音が祀られていることでも知られている。百の像は信州・高遠の石仏師守屋貞治の彫ったので芸術的に優
れている。とくに百番の結願寺である「水潜寺」の千手観音像は美しい。百観音は坂東三十三、西国三十三、秩父三十四観音を合
わせた数。
 坂東三十三札所の中で秦野近隣の札所は、五番・飯泉観音(小田原)、六番・飯山観音(厚木)、七番・金目観音(平塚)。海岸寺
でこれら三寺の観音像にお参りできた。
 その夜の懇親会は次の一句で十分に表せる。
  野仏をめぐり熱燗の人となる   勝美



2017年12月15日更新

11月29・30日 伊豆半島の紅葉、道祖神、そして海釣り
 静岡・函南町、三島市、伊豆市の道祖神を訪ねた。国道1号線で箱根を越えたので照り映える雑木紅葉を満喫。修善
寺ではもみじの紅と竹林の緑のコントラストの鮮やかさに見入った。外国の観光客の多さに驚く。
 伊豆型道祖神の特徴は単体坐像だが、今回どうしても対面したかったのは「目一つ小僧」が預けた帳面を手にする道
祖神。その道祖神を捜した。そして伊豆市の柏久保にその道祖神はあった。これで私の「目一つ小僧の」の話は現実味
を増す。
 修善寺の本立野地区では、道祖神の赤い頭巾を作っているお母さんから道祖神についていろいろな話を聞かせてもら
った。そして「お茶を入れますから」と招かれ、縁側で静岡のお茶とミカンをいただいた。秦野の落花生甘納豆をご存知だ
ったこのお母さんに出会えたのも道祖神さんが取り持ったご縁。
 道祖神めぐりを終え、土肥で海釣りに挑戦。鯛と鯵を釣り上げた。“生簀”で。魚が掛かったときの引きが『釣り』の醍醐
味であることを知った。近くのお寿司屋さんに釣果を持ち込み、鯛は活き造り、鯵は塩焼きと煮付けに。美味しかった。



2017年11月5日更新
 地域コミュニティの再生はJAが
 11月1日に開かれた「JAはだの」の組合員教育対策委員会で、私は「組合員講座」について次のような提案をした。講座
への積極的な参加希望者は少ないと聞いている。その受講者にJAの理念(協同組合の意義)などを学んでもらっているが、
正組合員3000に対して準組合員は11000。準組合員の多くは金融やガソリンスタンドの利用者。野菜作りを楽しむ人たちも
いるがそれほど多くない。
 縁あって秦野に住み組合員になられた人たちに、第二の故郷・秦野のことを知ってもらうことに、目を向けた講座を開き
たい。「秦野について学び 秦野という地の良さを知り、秦野が好きになる」、そこから故郷・秦野をもっと良いまち、誇れる
まちにしよう、という意識がが強くなる。それが「JAはだのを知り  JAから学び  JAを育てる」ことに繋がる。
 一極集中型のわが国の経済・文化構造は若者の都会への流出を招き、誇るべき仕事・農業も高齢化により耕作放棄が
広がる。加えて少子化現象。「シャッター通り」や「限界集落」などと呼ばれる言葉に象徴される村や町の現実が各地に見ら
れる。
 秦野市の人口は現在16万人後半、ところが十年後には15万人になるかもしれないという予想が、今朝発行された「広報
はだの」で報じられた。JAには生産組合や女性部という組織(ある種のコミュニティ)がある。その組織を活かし、地域コミュ
ニティの機能を高めたい。JAは 「ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」機能を持っている。そのことに着目し
活動していきたい。

2017年10月7日更新
 栃尾の夜空に“祝1000回講演”            2017年8月27日
 夏になると新潟では打ち上げ花火大会があちこちで開かれる。長岡、片貝の花火大会は2万発を上げることで有名。そして
栃尾の花火大会も知られている。
 ちょんぼ道祖神に出会った日の夜に、第63回とちお祭の大花火大会が開かれる。このことは道祖神の下調べの中で知った
ので、今回は「花火とちょんぼ」の組み合わせという、豪華な「里めぐり」になった。
 花火大会の様子は地元「FM長岡」が、実況放送で打ち上げる花火とその提供者を紹介するというので、長男は携帯ラジオ
を用意していた。見物場所は打ち上げ場所から400mほどの公園。ブルーシートを敷き、ゴロリと横になって花火を楽しんでいた。
するとラジオから流れたアナウンス「96番 五号 祝1000回講演 武勝美先生 エコー教育広報相談室」。
 驚く私の眼前に花火は大きく弾けた。家族が「サプライズ」をプレゼントしてくれたのだ。
 この夜はスターマイン20数発を含め5000発が上がった。フィナーレは、花火を愛する人々が集
まった「千輪の会」が作り上げたオリジナルの10分にわたる大スターマイン。だがそれよりも明る
く輝いたのは「96番の五号玉」だった。

   五号玉胸にも咲かせ仰ぎたり     勝  美
 私の花火


2017年9月7日更新
 お弁当と言えば
 2学期が始まった。隣の小・中学校は運動会の練習がピーク。何しろ中学校は9日が開催日なのだから。
 私の方も活動再開。昨日6日は秦野市内のPT広報紙クリニックをした。この日は「中学校の部」で9校・50余名が来てくれた。ある中学校のPTA
広報が、先生たちに「お弁当の思い出」というテーマで書いてもらっている。 会の終了後「給食がお弁当か」で数人のお母さんたちと討論?  した。
 そんなこともあり「お弁当と言えば」で、その想い出を書いてもらった広報紙があったことを思い出した。帰ってからその広報紙を再読した。
 その広報紙には次のような「弁当の思い出」が書かれていた。

 「母はいつも朝早くから畑仕事に出ていましたので、祖母がお弁当を作ってくれました。母に『たまにはお母さんのお弁当がたべたい』と無理を言
ったことを思い出します」
 「今のように食生活が豊かでなかった時代のお弁当。鯨カツ、魚肉ソーセージが思いでのおかず」
 「お弁当と言えば、私は揚げ玉子。中学生のとき、一度好きといって以来、毎日続いた一品。『もう勘弁!』と思っていたのに、今は食べると涙が」
 「週に一度、部活の仲間とお弁当のおかずを取替えて食べた。友達の好きなおかずをわざわざ作ってもらった」
 「お弁当一面にノリがあるとうれしかった。それに煮カツがおかず、最高でした」
 「腐ったもの以外残したことはありませんでした。大好物は玉子焼きでした」
 「テニスの大会のために朝5時に起きて作ったお弁当。それなのに試合場で会った娘は『おかあさん、お弁当落とした!』」
 「子どものお弁当作りを14年間も続けなければいけないと気づいたとき、ため息がでちゃいました」
 「私にとってのお弁当は、結婚以来欠かせない毎朝のお仕事。2個から6個、そして3個、我が家の歴史を語る数です。心を込めて『愛の宅急便』
を…、でもあと何年続くのでしょう」
 「できるかぎり手作り弁当を心がけています。お弁当を開いたとき、作った私を思い出すように心をこめて。でも子どもたちはたまにあげるお弁当
代の方がうれしいようです。悲しい」 
 さて私の「お弁当といえば」は、 小学校の校庭の通用口まで10メートルだった我が家。だからお弁当は作ってもらえなかった。お昼の時間になる
と「弁当食べに行ってきます」と先生に断って家に帰った。正月明けの昼ご飯は朝の雑煮を温め直したもの。我が家では、水餅の「焼きざまし」を二
月中ごろまで食べていた。そんな食生活を思い出す。
 
 運動会に食べるお弁当も「お弁当の思い出の一つ」になるだろう。

2017年8月7日更新
               庭の花  今年も秋には菊も咲かせる
                  

                    


  
 昨日の夕方訪ねてきた人が、庭に入るなり「蝉の声がすごいですね」と立ち止まり、桜の木()を見上げた。市街地に住んでいるので、大きな
木はほとんどないらしい。「いいですね、こんな環境の中で暮らせて」と言う。「そうですね」と相槌を打ちながらも、それほどの感慨はない。何しろ
80回もこの家で夏を過ごしてきたのだから。
 まだ暗い四時半頃からヒグラシが鳴き始める。「カナガナ カナカナ」。日暮しなのに、である。そしてニイニイが鳴き、六時半ごろからアブラとミ
ンミンが競い合うように鳴く。一昨日と今朝は「シュ シュ」とクマゼミの声も聞いた。夕暮れになってもがんばるのはアブラ。 ツクツクはまだ登場
していない。夜通し、私の耳にはジーという高齢というセミの鳴き声が……。
  今朝の朝日俳壇で読んだ二句
  真昼時蝉に昼寝があるようだ  鵜川朗太
  蝉時雨はたと息ぬく刻のあり  田中由紀子
  別棟から母屋に行き来するのだか、ときにアブラと鉢合わせする。休んでいて私の出現に驚いたのだろう、ジッと鳴いて逃げながらおしっこを
放つ。あれは蝉が吸った樹液の水分なのだそうだ。樹液にはそれほど栄養分がないので、蝉はたくさん吸わなければならない。それで体内に溜
まる水は、何かの拍子に自然に排出されてしまう。「仕返しにおしっこをかける」わけではないらしい。
 
                            



2017年7月7日更新

 6月23日「沖縄全戦没者追悼式」で朗読された詩
 誓い~私達のおばあに寄せて
                                                           宮古高校3年 上原 愛音

今日も朝が来た。/母の呼び声と、目玉焼きのいい香り。/いつも通りの/平和な朝が来た。/七十二年前/
恐ろしいあの影が忍びよるその瞬間まで/おばあもこうして/朝を迎えたのだろうか。/おじいもこうして/食卓についたのだろうか。/
爆音とともに/この大空が淀んだあの日。/おばあは/昨日まで隠れんぼをしていたウージ(サトウキビ)の中を/友と歩いた砂利道を/
裸足のまま走った。/三線の音色を乗せていた島風に/鉄の臭いが混じったあの日。/おじいはその風に/仲間の叫びを聞いた。/
昨日まで温かかったはずの冷たい手を握り/生きたいと泣く/赤子の声を抑えつけたあの日。/
そんなあの日の記憶が/熱い血潮の中に今も確かにある。/決して薄れさせてはいけない記憶が/私の中に/私達の中に/確かに刻まれている/
少女だったおばあの/瞳いっぱいにたまった涙を/まだ幼かったおじいの/両手いっぱいに握りしめたあの悔しさを/私達は確かに知っている。/
広がりゆく豊穣の土に芽吹きが戻り/母なる海がまた/エメラルドグリーンに輝いて/古くから愛された/唄や踊りが息を吹き返した今日。/
でも/勇ましいパーランク―(手持ち太鼓)と/心臓の拍動の中に/脈々と流れ続ける/確かな事実。/今日も一日が過ぎゆく。/
あの日と同じ刻(とき)が過ぎゆく/フェンスを飛びこえて/締め殺されゆく大海を泳いで/癒えることのない/この島の痛み/忘れてはならない/
民の祈り/今日響きわたる/神聖なサイレンの音に/「どうか穏やかな日々を」/先人達の願いが重なって聞こえる。/おばあ、大丈夫だよ。/
今日、私達も祈っている。/尊い命のバトンを受けて/今/祈っている。/おじい、大丈夫だよ。/この島にはまた/笑顔が咲き誇っている/
私達は/貴方達の想いを/指先にまで流れるあの日の記憶を/いつまでも/紡ぎ続けることができる。/誓おう。/私達はこの澄んだ空を/
二度と黒く染めたりしない。/誓おう。/私達はこの美しい大地を/二度と切り裂きはしない。/ここに誓おう。/私は、私達は/この国は/
この世界は/きっと愛しい人を守り抜くことができる。/この地から私達は/平和の使者になることができる。/六月二十三日。/
銀の甘蔗(かんしょ=サトウキビ)が清らかに揺れる今日。/おばあ達が見守る空の下/私達は誓う。/私達は今日を生かされている。

 ネットで詩を朗読する上原さんの声を聴いた。七年前に訪れた「平和の礎」とその前方に広がるコバルトブルーの海が浮かんできた。ステレオの
レコードボックスの中には森山良子の「さとうきびばたけ」(1969年)があることも思い出し探がし出した。

2017年6月7日更新
 平成29年6月14日
 
茅ヶ崎市教育委員会の「PTA指導者(広報部)研修会NO2」で講演会・講座 1000回に到達
 手元に古びた大学ノートがある。表紙には「新聞教育活動」と書いてある。その第1ページには「S35.8 厚木市立玉川中学校に勤務を始める。
生徒会顧問と新聞部こもんになり「玉中新聞」を創刊する。ガリ版で新聞づくりに取り組む」と記されている。それから10数年を経て、私なりの「新
聞教育論」を持つに至った。それが次の「新聞で学校に三つの声を響かせよう」である。
 新聞で学校に三つの声を響かせよう
 1960年に中学校の教師になった。その初任校で校長先生から「学校新聞の創刊」を命じられた。こうして、幸運にも ―本当にそう思っている―
学校新聞づくりに出会えた。以来きょうまで57年間、学校での新聞づくりにかかわってきている。
 学級担任時代は「学級だより」を週刊で。日刊でも3年間がんばったこともあった。担任を外れたら「学年だより」や「学校だより」を発行。PTA広
報づくりとのお付き合いもほとんど同じくらいの歳月になる。なぜそれほどまでに学校での新聞づくりにこだわるのか、と聞かれる。その時は次の
ように答えている。
「新聞で学校に三つの声を響かせよう」。“三つの声”とは、一つは子供の声。二つ目は保護者の声。そしてもう一つ、たぶんこれが一番大切だと
思うが、教師の声。この三つの声が校内に響きあうとき子供は育つ、教師も保護者も成長できる。だから「子供の声があふれる」学校・学級新聞
は欠かせないし、保護者が「学校や子供たちにかける願い」を実現するためにPTA広報は必要。教師は「自分の教育観・人生観」を子供たちや保
護者に語るためにも学級だよりや学校だよりを書くのだと。

 平成29年6月14日 茅ヶ崎市教育委員会 主催の「PTA指導者(広報部)研修会NO2」 で、私の講座・講演会は1000回を数える。下にその概要
は書いたが、第一回は昭和47(1972)年11月だった。そして1000回を来週・平成29(2017)年6月14日に迎える。この間は45年を数える。講演
会講座の多くは新聞教育・新聞づくりだった。北は北海道、南は九州まで出かけた。
 
 武勝美の講演会・講座の講師 1000回の記録                         
 NO 1 昭和47年11月 「広報紙づくり研修会」 秦野市東婦人会
 NO100 昭和62年11月 講演会「ちょっと聞いて先生」 秦野市教育を守る会
  (平成9年3月31日退職)
 NO189 平成9年4月 「PTA広報づくり研修会」 秦野市PTA連絡協議会
 NO200 平成9年9月  講演会「子供の心を鏡として」 東京・田無市立第一中学校PTA
 NO300 平成13年9月 講演会「ぼくが学校に行けないわけ」 神奈川・松田町生涯学習研修会
 NO400 平成17年5月 「PTA広報づくり講座」 神奈川・大井町教育委員会  
 NO500 平成20年4月 「新聞技術講習会」 秦野市立東中学校
 NO600 平成22年4月 「PTA広報づくり講座」 東京・荒川区教育委員会
 NO700 平成23年11月 講演会「大山道を歩く」 まほら秦野みちしるべの会
 NO800 平成25年8月  講演会「大山と盆地の暮らし」 JAはだの・組合員基礎講座
 NO900 平成27年4月 「こうすればできるPTA広報」 宮城県気仙沼市・三陸新報社

 NO989 平成29年4月17日 「広報紙づくり講習会」 神奈川・海老名市教育委員会
 NO990 平成29年4月26日 文化講演会「道祖神ワンダーワールド・神奈川の道祖神」 秦野市立東公民館
 NO991 平成29年5月 9日 「PTA広報づくり講座」 神奈川・伊勢原市PTA連絡協議会  
 NO992 平成29年5月10 日 「新聞技術講習会」 秦野市立東中学校  
 NO993 平成29年5月12日 「PTA広報づくり研修会」 秦野市PTA連絡協議会
 NO994 平成29年5月14日  講座「古道大山道を歩く・東地区」 まほら秦野みちしるべの会
 NO995 平成29年5月18日 「PTA指導者(広報部)研修会NO1」 神奈川・茅ヶ崎市教育委員会
 NO996 平成29年5月20日 「PTA役員(広報部)研修会」 神奈川・藤沢市教育委員会                          
 NO997 平成29年5月29日 「広報紙づくり研修会NO1」 神奈川・座間市教育委員会       
 NO998 平成29年5月30日 「PTA広報紙づくり講演会」 湯河原・真鶴・箱根町教育委員会
 NO999 平成29年5月31日 「広報紙づくり研修会NO2」 神奈川・座間市教育委員会
  (今後の予定)
 NO1000 平成29年6月14日 「PTA指導者(広報部)研修会NO2」 神奈川・茅ヶ崎市教育委員会                    
 NO1001 平成29年6月18日 文化講演会「道祖神ワンダーワールド・日本の道祖神」 秦野市立東公民館 
 
 ◇ 999回の講演・講座のテーマ
 1 子育て・教育の講演会  32回
 2 地域の文化・民俗・歴史の講演会 172回
 3 学校・学級・PTA新聞づくり講座  795回
 ※定年退職(平成9年3月)以降の講師  812回

2017年5月10日更新
  立 夏
 5月6日 「立夏」 
 この日、裏の畑の梅の木からオオルリの声が響いた。「ピィーヒィーリリ ピピーピィーリ ジジッと鳴く」(『日本の野鳥』山と渓谷社)のだそうだが、私
にはその鳴き方は文字化できない。ところがその一鳴きだけであとは聴かれなかった。
 この春、我が家の裏の植木畑は梅一本を残してきれいに整理された。その環境の変化にオオルリは反応し、他所にねぐらを求め飛び去ったのだ
ろう。ここ数日、オオルリのすんださえずりは聞かれない。
 午後、庭続きの畑に里芋の種を撒き、サツマイモの苗を植えた。夕方、サツマイモの苗に灌水をし、母屋に戻ろうと歩を進める私の目に入ったもの
は、モミジの根元に動く黒っぽい物体。それは、土を掘り起こしミミズを探しているのはタヌキ。私に気づいき、私の前を逃げていくのだが、猫や犬の
ような逃げ足ではない。たしかに逃げてはいるがのだ、ゆうゆうと、その走りはユーモラスに見えたた。裏の畑を棲家としていたのだろうこのタヌキは、
我が家の庭に引っ越してきていたのかもしれない。三日から始まった大型連休の間、私は庭の草取りに“全力投球”した。「目に見えて」と言うほどで
はないが、むしり取った草の量はかなりのもの。そのためタヌキはまた棲家を追われたのか。
 今年は松の新芽の伸びが早い。摘まなければ。朝顔と夕顔の播種もした。放っておいた枝垂桜の樹形を整えようと添木を立てた。まだキュウリなど
野菜苗は植えていない。
  七日 半年ぶりに刈り払い機を使って畑の周りをきれいにする。少し畑らしく見え納得、そして爽快感もちょっぴり。 

2017年4月7日更新
 わたし 車を換えました
:4月3日 
 80歳にして車を換えた。今まで持っていたクラウンには17年、スバルの軽トラも11年間お世話になった。家人が言った「クラウンを乗り潰すと言って
いたのに、あっさり換えたのね」。確かにクラウンで終わるつもりでいた。だがこの二車とお別れした。
 今年8月に運転免許証更新の日が来る。先日、県公安委員会から「認知症検査のお知らせ」が来た。更新には「認知症検査の受検」が義務付けら
れたのだ。高齢者の自動車事故がしばしば報じられ、「運転免許証」を返納した知人もいるというのに……。
 だが我が家は車がなければ暮らしていけない。それで、飛び出しや追突を避ける自動安全ブレーキ、はみ出し運転警報装置、後方確認カメラ付き
というソリオという車に乗り換えた。
 免許を取得したのは1966年だから今年でちょうど50年。敷地内の庭木にぶつかったりこすったりはしたが、他人に迷惑をかけた事故はしていない。
ルール違反で捕まったのは4回。だがスピード違反はしていない。かつて息子に言われたことがあった「お父さんの運転の特技は追い越されることだ
ね」。私は、機械というものに信頼感を持てない性格の持ち主。その上、運転技術に自信があるわけではない。しかも限界年齢と限界体力。
 だから、これからも運転での間違いは絶対起こしませんと宣誓し、「もう少しの間、車を使わせてくたさい」と世間様にお許しを乞う私です。

 買い替えし車に私の暮らし教えんと夕暮れの町も少し走らす

2017年3月7日更新

 「わたし 鶴田町の隣の出身です」
 古木文一先生の叙勲受章を祝う会に出席。祝宴が始まると直ぐに、一人の女性が私の席にみえた。そして「Yと申します。武先生とどうしても
お話をしたいと思っていました。出席者名簿の中に先生のお名前を見つけ、失礼とは思ったのですが、早速こうして参りました」と挨拶をされた。
 Yさんの話は『エコー』にまつわるエピソードだった。この号で私は「青森県・鶴田町への旅・鶴の舞橋と八木橋連長さん」を書いた。
 「ずっーと昔、内藤先生から『エコー』を読ませていただきました。生まれ故郷は青森県鶴田町のとなりの柏村(現つがる市)です。先生が津軽を
旅され、鶴多町の鶴の舞橋のことを書いてくださっているので感激しました。」とYさん。「実家に帰った折り、思い切って鶴田町役場に八木橋さん
を訪ねました。そして武先生が鶴田町をこんな風に書いてくださった、と『エコー』をお見せしました。とても喜んでくださいました。そしてお土産に鶴
田産の特製ワインをいただいちゃいました」。
 生まれ故郷を離れ、時が経てばたつほど、ふるさとの素晴らしさ確認し、ふるさとへの思いはつのる。

 「ECHO」113号(1994年9月20日)
 鶴の舞橋と八木橋連長さん
 今年の1月17日の朝、ネクタイを結びながらテレビを見ていた。番組はNHKの『おはよう日本』だった。その中の〈列島百景〉」で、『鶴の舞橋(そ
の時は“鶴舞い橋”と記憶していたのだったが)』が紹介された。たぶん20秒くらいのスポットの扱いだったろう。とにかく、その橋の名前だけで「よ
っし!、この夏はここに行こう」と決めた。橋の所在地も定かではなかった。ただ、手帳の八月第四週のページに「鶴舞い橋に行く」と記した。
 六月になり、地図や時刻表で『鶴舞い橋』のある町をそしてようやく青森県に鶴田町があることを発見。『鶴の舞橋』を見つけたのは、七月の終
わりだった。

旅の日記
 8月24日(水) 晴れ
 午前9時過ぎ、鶴田町役場に電話した。「鶴の舞橋を見たい」と言う私に、交換台をはじめ電話口に出た方の対応がていねいで気持ち良かつ
た。折り返しの電話までもらった。しかも、明日は企画課の八木橋さんが案内をしてくださるとのこと。「駅まで迎えに行きます」と言ってくださった。
まるでⅤIP待遇。ほんとに単純な動機で行動しているのに、申しわけない気がしきり。
 23時発の『はくつる3号』に乗り込む。旅に出たいという心。舞鶴祭(私の学校の学校祭の名称)に、『鶴の舞橋』で私個人として参加したい、と
いう願い。『エコー』の取材(記者きどり)のための旅。「動かなはれば出会えない」という、モットーの実践のため…。そして、そう、もう一つ動機が
あった。あのJR東日本のCF『その先の日本へ』に魅せられて、ということもある。山形の駅長さんの語りと井上陽水の歌 ♪ あーさきゆめ ♪ に
引かれて…。そんなものがすべて作用して、このの旅になった。寝台に横になり、缶ビールを飲みながら旅とはこういうもの」とイイ気分。少し青年
の心を取り戻しながら眠りについた。

8月25日(木) 晴れ 
 青森ヒバで造られた300㍍の鶴の舞い橋
 青森で奥羽本線に乗り、川部で五能線に乗り換える。9時56分、陸奥鶴田に着く。駅頭で八木橋さんを探す。すぐに分かつた。八木橋さんの第
一印象は、その職務の国際広報係長そのものだった。企画係長も兼任だそうで、ジャーナリスティックな感覚の持ち主だった。鶴田町役場に案
内された。洗練されたデザインの庁舎は、明るく機能的だった。企画誅にアメリカ人が二人勤務していた。八木橋さんの名刺に、“国際”という文
字がある意味が理解できた。鶴田町は『鶴』にこだわっている。庁舎のデザインをはじめ、さまざまな場所・物に鶴が、その形をみせていた。
 11時になり、車で『鶴の舞橋』に連れて行ってもらう。青森ヒバで作られた木造の橋はその長さは300㍍、日本一だ。総工費は二億円。完成した
のはこの四月だそうだ。三連の橋は、鶴の優雅な飛翔の一瞬の大きなはばたきを、津軽富士見湖(潅漑用水池)に映していた。岩木山の裾に広
がる水田地帯を育てているこの湖を、大きくまたいでいる。ゆるやかなうねりを見せる『鶴の舞橋』のたたずまいを見つめながら、私はこのゆった
りとしたふくらみが、鶴田町の人たちの心なのだ、と思った。それでいて、国際交流の発信基地になろうとする外に向かつての意志表示。 津軽の
リンゴと水田の町がこの三連の橋に懸ける思い、心意気を知ることができた。
 八木橋さんの名刺はYAGIHASHI-RENCHOと、ローマ字でルビがふられている。「ペンネームですか、それとも源氏名(失礼な聞き方をしてしま
いました)ですか」と私。「いや、ほんとの姓名です。この橋と一緒に忘れられない名前として覚えてもらっています」と八木橋さん。八木橋連長=日
本一の長さを誇る『鶴の舞橋』を案内するにふさわしい名前ではないか。
 辞そうすると「鶴田へお泊まりではないのですか。残念ですね。それでは五所川原までお送りしましよう」と車を回してくださった。五所川原駅前で
昼食をご一緒していただいた。その折、八木橋さんがボツリと語られた言葉が印象に残る。
 「津軽というと、すぐに『かく巻と地吹雪の冬』。もっと明るいイメージを生み出したいです」津軽という風土に、新たな地域性を創造しょぅとする試
みの象徴『鶴の舞橋』を渡った。「自ら求めないかぎり、ほんとうの出会いはない」と言われている。私は鶴田町を訪れ、八木橋さんと出会えた。
 「次は、ぜひ奥さんとご一緒に鶴田へ来てください」という言葉に送られ、八木橋さんとお別れした。
 
    ※2011年2月7日 地吹雪の中「鶴の舞橋」を再訪した。


2017年2月1日更新







2017年1月1日更新
 
 買い物難民
 私が生まれ育った秦野市寺山は昭和30年までは神奈川県中郡東秦野村寺山清水だった。寺山「清水」は村の中心地で、今も
幼稚園、小学校、中学校、郵便局、農協支所がある。その寺山にはかつて五軒の商店があった。「宝作」に①『藤棚・高橋八郎酒
店』、②『新店・シンダナ』又の名を「萬ちゃんち」、「竹ノ内」には③『水野商店』、ここは「栄ちゃんち」とも呼ばれていた。いずれも
生活雑貨の店で、酒、タバコ、味噌、醤油、砂糖なども商っていた。他に「清水」には④『露木商店』と⑤『中村商店』が在り、小学
校の通用門の向かいで学用品や駄菓子などを並べていた。
 これら五店の中で「藤棚・高橋八郎商店」以外は10年ほど前までに看板を下ろしていたが、「藤棚商店」はコンビニに衣替えして
営業を続けてきた。寺山の住民にはこのコンビニの存在はありがたかった。だがそのコンビニも昨年11月21日に閉店した。
 コンビニのオーナーから「先生、悪いけど11月20日で店を閉めるから」と告げられた日、偶然目にした光景が忘れられない。タバ
コを買った先客の女性 ― 私と 同年齢くらいだった ― が、駐車場の隅で私に背を向け、しゃがみこんでタバコをくゆらせていた。
その後ろ姿に、「この店が無くなったら、唯一の楽しみであろうタバコを手にすることが出来るのだろうか」と思ってしまった。
 「買い物難民」という言葉は知っていた。寺山の住民はそれが現実になった。この日から寺山の住民にとって最寄りのコンビニは
1km先になった。食料品が目玉のスーパーは2kmと離れている。
 寺山には『藤棚』と『花小路』というスナックもあった。食堂は『正美屋食堂』。店名は思い出せないが、「宝ヶ谷戸」に鉄板焼きの店
もオープンした(直ぐに閉じたが)。
 市内を通る国道沿いには大型スーパーや各種量販店、ファーストフードの店が林立している。こうした街中に住む人たちはこの生
活環境は快適とまではいえないが、便利なことは確かだろう。そして今や食料品を含めさまざまな商品が通販で手に入るという商戦。
だから経営戦略とかいう理由で、街中のスーパーでもあっさり撤退する。そこには消費者の利便性の論理はない。買い物難民がま
た増えるという倫理観もない。
 市内のスーパーが閉店することを知ったその周囲の人たちが存続を願う文をその店の店頭に貼り出した。「生活ができなくなる。
生きていけなくなる」と。

2016年12月1日更新
11月6日
   『まほら秦野みちしるべ』(会創立10周年記念誌)
  &『道祖神ワンダーワールド』の
出版合同祝賀会

                             ◇主催 まほら秦野みちしるべの会  ◇会場 神奈中グランドホテル秦野

 6月1日上梓の『Katsumi In道祖神ワンダーワールド』と創立10周年記念誌『まほら秦野みちしるべ』(11月1日発刊)の両書は、
私にとって《姉妹本》、いや《双体道祖神》である。
 日曜日の午後三時から五時三十分という時間帯だったが、ご来臨の皆さん全員が閉会まで席を温めていてくださった。そして
15名の方から祝辞をいただいた。 
 司会の関さん・横溝さんは教え子。頼んだときには「エー !」と絶句した両君。この日はマイペースで進めてくれた。しかも二時
間三十分ピッタリで閉会。「ご馳走、食べられなかっただろう」と 聞いたら「十分頂きました」とにっこり。「ご苦労さん会」でカラオケ
に興じる両君に、重責を全うできた喜びと解放感を見たのは私一人ではないはず。
 記念誌の写真撮影でモーレツに頑張った田中会員は、この日も会報担当としてカメラを来賓の一人ひとりに向けていた。受付
の責任者は関裕子会員、その夫君は今日の司会と、夫妻で奮闘してくれた。会計担当は浦田・田村会員が買って出てくれた。
 会員の小山田さんは花束贈呈の役だったが、お孫さんに頼んだ。「爺ちゃんの最後のお願いだから頼む」。お孫さんは女子高生。
小山田家は会の存在、お爺ちゃんの活動を認めてくれているのだ。会の終わりに浦田さんの発案で参会者全員が唱歌「ふるさと」
を唄った。指揮は小山田さん。
 「ご苦労さん会(二次会)」を六時半から。その席で会員の綾部さんが私にしみじみと言った。「この会に入ってよかった」と。横山
会長は「大勢の来賓に出席してもらった。もう撤収などできない」と意気軒昂。横山家のお嫁さん・富美さんはこの日を祝うクッキー
を焼いて、参会者にプレゼントしてくれた。クッキーの意匠は「みちしるべ」と「双体道祖神」。
 田村さんが軽妙洒脱にこの席を仕切ってくれ、全員がカラオケに挑戦というハメに陥ったのだが…この会も大盛会。祝賀会の良
い締めくくりができた。改めて思った「よい仲間に出会え、よき支援者に支えられたからこそ今日という日を迎えられたのだ」と。

 共に歩く人を募っています
 この日いただいた皆さんの言葉から「秦野を知り、秦野を愛し、秦野を育てる」という私の思いはいっそう強いものになった。「まち
興し、まちづくり」に欠かせない力は「①他所者、②馬鹿者(乱暴な言葉をお許し下さい)③若者」の力。「みちしるべの会」の①会員
の半数は秦野以外の生まれ。②仕事を持ちながら活動に積極的で、《のめり込んでいる》会員もいる。だが、③会員の平均年齢は
69歳。現在会員は14名(女性会員は3名)。
 次のステージに向けて歩み始めた「みちしるべの会」は、「余所者、馬鹿者、若者」を今求めている。とりわけ「若い力」が欲しい。
共に歩いてくれる人を募っています。申し込みをお待ちしています。

 ありがとうございました
◇出版記念合同祝賀会のご来賓   石川一郎様 市川和雄様 磯崎敬三様 瓜本公生様 大津道雄様 大塚毅様 片桐務様 
加藤誠一様 久保寺邦夫様 小泉俊様 小泉孝様 小菅めぐみ様 小宮茂平治様 佐藤健様 佐藤敏夫様 須山徹様 関利勝様 
関智子様 関直美様 高橋照雄様 田中淑生様 中川孝男様 東島礼美様 古木文一様 古谷義幸様 松下雅雄様 
◇「道祖神ワンダーワールド」への心温まるメッセージを次の方々から頂いた。石田望様 内田賢司様 栗田守健様、菅原澄子様、
古谷義幸様 吉成勝好様、

2016年9月30日更新

 『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』を手に道祖神に導かれ次の世界へ
 6月8日、東海大病院で心臓血管外科の手術(大動脈弁と僧帽弁を人工弁に置き換え)を受けた。6月24日、その手術の補完として14本抜歯した。
人工弁に歯槽膿漏の菌は危険だということだそうだ。残った歯は4本という状態で6月26日に退院。退院はできたのだが゛食べることに大変難儀だ
った。そして義歯ができたのは8月8日。体力回復に努めているところだが、術後の体重は46㌔、そして50㌔そこそこにまで戻ったのだが、医師の
話では、元の体力に戻るには一年くらい掛かるのだそうだ。
 今回の事態に遭遇して感じたことは、歯の健康が大切だということ。食事が十分摂れなければ体力の維持はできない、すると日常生活が消極的
にならざるを得ない、それが更に体力の減退に拍車をかける、という負のスパイラルに陥る。
 この手術を受けることに決まったのは2月の中旬だった。「人工心肺」を使っての手術・心臓を4時間とめる手術である。それで、“人生のある種の
まとめ”をしたいと思った。それで『Katsumi In道祖神・ワンダーワールド』の上梓に踏み切った。「なんとしても手術の前に」と思い、編集を急ぐと同時
に手術を4月から6月に変えてもらった。そして6月1日に予定通り上梓できた。だから6月8日、納得して手術室に向かった。
 昨年12月の検査で病状の重さを知らされ、手術を勧められてからの6カ月間の心の動きを振り返るとき、動揺に近いものはあったが恐怖感はなか
った。やらなければいけないことがあったこと、その一つは上梓に向けての心の高ぶりは3月31日の菊川市への取材、編集作業も記述内容の確認、
レイアウトなど忙しさがあったこと。
 手術の日が近づくにつれ、家族間に重い雰囲気が漂った。だが、出版が間に合ったということで、「ああこれでいい」と納得したような心境だった。
「79年間、自分なりに生きてきた」という納得もあった。
 この世を去った者を村はずれで待っていて、次の世界へ道案内してくれるのが村のはずれのお地蔵さん。その地蔵菩薩と連れられていく者が僧
形双体道祖神に遷化した。手術を決めたとき、『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』の上梓を“人生の締めくくり”としたいと思った。それで「なんとし
ても手術前に」と編集を急いだ。『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』に手に次の世界に行くのは私らしいと思ったからだ。

 今度の手術の担当医・長泰則先生に5月23日にお会いした。私の病状に対しての先生の言葉・説明は、私を得心させるのに十分すぎるほど力強い
ものだった。泰は「おおらか」「ゆったり」「安心できる」。
 眼鏡の長先生の柔和な笑顔がよく似ている知人がいる。秦野名産の落花生菓子の老舗のご主人・トヨちゃんた゜。創業90余年で、昔ながらの伝統
の味をかたくなに守り続けているトヨちゃん。伝統の技と永年の経験で培った職人技で煎る・味付け、袋詰めまで全て手作業にする人だ。「派手なこと
は嫌い、味で勝負」と通販など取り扱わないで、店頭販売にこだわっている。職種は違うが、二人の笑顔は、対面する誰にでも(長先生は患者、トヨち
ゃんは初見のお客)安堵感を覚えさせる笑顔。それは自らの仕事に誇りと自信が満ちている笑顔だから、と私は思う。

 そしてもう一人の主治医・岸波吾郎先生との出会いもありがたいことだった。私は次のような手紙を岸波先生に届けた。
 
 退院してから手にした本、酒井大岳師の『語るより歩む』に次のようなことが書かれていました。「水の表面が揺れることを《波》と言います。目に見え
ないけど《波》の下の水も揺れている、それは《浪》と表します。浪とは「澄み切った水」の意味です。そして底の水の揺れは《濤 》でず。
 《波》《浪》《濤》
《波》
 手術後のある朝の回診のときのことです。数名の先生方の最後尾の岸波先生は、病室からに出られる折、私に向かって腰の辺りで小さく右手を“ヒ
ラヒラ”させ、笑顔を送ってくださいました。この“ヒラヒラ”は、かつて訪れた三陸の春の海の《波》のように思えたのでした。
《浪》
 ある日、突然私のベッドにこられ、何も言わずに私の右足をさすり出て行かれました。これは《浪》です。「医は仁術」という言葉が浮かんできました。
《濤》
 傷口の縫合の糸を抜きにみえたとき、看護師さんに「『春』で、てんぷら食べてきちゃった。おいしかったよ」と話しかけられました。なぜか私は「ああ、
『春』のてんぷら、私もたべたことがあります。おいしかった」と、反応してしまいました。すると先生は「おいしいよね」と相槌を打たれました。「この仕事
けっこう体力がいるんです」とも。そして「そうだ、武さん、快気祝いを『春』でやろう。祝杯を挙げよう」。このときの先生の言葉は《濤》てした。手術が成
功したことをを保証する言葉と理解し、とても嬉しかったのでした。《濤》は波と浪を支える根源のエネルギーなのです。
 2011.3.11以降、私は気仙沼市に心を寄せ、いくつかの行動をしています。その気仙沼市には『蒼天伝』という銘柄の日本酒があります。「三陸の海と
空の蒼さは豊かさの象徴」という意味での命名だそうです。先生と『春』での快気祝いは、どう考えても理に叶うものではないようです。でも、先生の言
葉を本当に嬉しく思い、今夕、家族で『蒼天伝』で快気祝いをいたします。 ありがとうございました。
  2016年7月11日       武 勝美

2016年6月1日更新

 昨年度末発行の広報紙をお届けします
 326号に「感謝状をいただく」と報告した中野区中p連から次のようなたよりが届いた。身が引き締まる思いである。

 武勝美先生 新緑輝く季節となりました。先生におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
 遅くなりましたが、中野区立中学校11校の昨年度末発行の広報紙を送付させていただきます。先生の最後の講習
を受けた広報委員さんの作品です。どの学校もなかなかやり手が決まらない昨今の広報委員です。 どうしても前年
度と同じパターンのやっつけ仕事になりがちですが、武先生のお話を聞いた委員さんのアドバイスが光る箇所がきっ
とあります!(と思います)
 いつも熱意のこもった暖かく素晴らしい研修会を、長い間本当にありがとうございました。また、『春の朝』をいただ
き重ねてお礼を申し上げます。 先生の穏やかな感性と優しい言葉があふれていました。あらためて先生のすごさを
思い知り、このような方に長くお世話になれたことの幸せを、一同しみじみと噛みしめた次第です。
 どうぞ御身体ご自愛いただき、いつまでもお元気でお過ごしください。ありがとうございました。
                               平成27年度中野区立中学校PTA連合会会長  井戸田康敬




2016年4月7日更新

  3月31日・4月1日   サーカスを観る
 菊川市の應聲教院の道祖神に逢いに出かけた。 「(秦野のお話」のページ)
 浜松で公演中の「ポップサーカス」の『ワールド サーカス フェスティバル』を楽しむ。正面最前列のボックスシート。席で演者の息
遣い、汗、表情を見ることができた。 空中ブランコ、イリュージョン、ジャグリング、、軟体芸、エアリアルフープ、アニマルショ
ーなど、アジア・ヨーロッパ・アメリカのタレントたちが最高のパフォーマンス・技の妙を見せてくれた。中国雑技団の少女のア
クロバットの演技に入る前の恐怖感とも取れる表情を見た。
 クラウンのコントにも特別出演?させられたりと(もともと《目立ちたがり屋》だから見抜かれた!)、あっという間の二時間。
 中部電力の浜岡原子力館で原子炉の仕組みを少し学ぶ。帰りに長泉町の井上靖文学館を訪ねる。行く先々に桜花。



2016年3月7日更新


にっきの木 番外篇   2011年3月11日 私はこんなことを日記に記していた。

「2011年3月11日午後2時46分」 心に刻み込めと瓦礫の中の時計は時を止めた
 初めて体験する揺れの激しさ。東海沖地震が来たと思った。外を眺めていたら石灯籠が崩れ落ちた。額が一枚落ち、ガラスが飛び散った。
応接室の郷土玩具はちりぢりに落下。こけしが棚から転げ落ちる音がすざまじかった。小原庄助人形の徳利が割れた。トロフィーの女神像
の両腕が折れた。9時ごろ電気が復旧。テレビが報じる津波のエネルギーに茫然。被災地の皆さんの恐怖感は計り知れないものだったろう。
その心労は想像するに余りある。

2011年3月18日  セ・リーグ 予定通り開幕 
 プロ野球のセ・リーグが予定通り来週25日に開幕するらしい。今朝の新聞にその声明書が出ていた。その声明は350字ほどで全文の三分
の一がアメリカ大リーグが同時多発テロのときにとった対応の文の説明になっている。「野球の力で復興に寄与したい」というのが主旨のよう
だ。野球で「元気を、勇気を与えたい」というのだ。
 このごろ感じているのだが、テレビのインタビューなどで、何かにつけて「元気もらった」とか「勇気づけられた」などという言葉を使う人が多い。
(当人がそう感じるのだから、それはそれでいい。私はそう簡単にこの種の言葉は使えない。)
 被災地の人たちが電力も十分でない中での生活を強いられている夜、一方では煌々と輝くエアコン完備のドームで行なわれる野球を楽しん
でいる光景。それが勇気付け、元気付けになるのだろうか。
 「ナイターは電力の消費量が大きい」というのは“俗説”と言いたいらしいWオーナー。「野球を通して元気と勇気を被災者に送りたい」と言った
K社長。だがこんな言葉「日程の消化のためにも」(Y球団の役員)を聞くと《経営》も透けて見える。
 「ゴルフもフィギュアスケートも、すべて中止なのに、なぜプロ野球だけが開幕にそんなにこだわるのか。被災者のことを思うと野球開催どころ
ではない」。これは阪神の金本選手。彼は仙台の大学で学んだ。ヤクルトの宮本選手の言葉、「野球で勇気づけることはいいとは思うが、今、勇
気づけられると思っているなら思い上がりだと思う」。選手が元気でプレーできないで、どうして勇気づけ、元気づけができるのだろうか。
 コミッショナーは言う「批判は甘んじて受ける」。「受ける」のではなく「受けないようにする」ことが肝要。ファンからそっぽ向かれたらプロ野球は
存続できない。被災地を含め、国民の声を聞いているのか。

2011年3月18日
 昨夏、北上市での講座を通じて交流をしているWさんにお見舞いの電話をした。3月8日に届いた手紙では「彼岸には早いけど気仙沼に両親
の墓参りに行ってきた」とあったので。実家は火災が発生した地区で、2日前ようやく弟さんから無事の連絡が入ったとのこと。「家は焼けちゃっ
たけど、無事な声が聞かれて一安心」とWさん。 

2011年3月20日 つながりをもっとも確かにするのは言葉
 軽々しい言葉は口に出来ない。でも人のつながりをもっとも確かにするのは言葉。昨夜こんなメールが届いた。「今の状況の中、いつもと変わ
らない卒業式を迎えることができました。先生方に感謝です。校庭の国旗・校章旗掲揚は半旗になっていたような気がします。卒業式をできず、
後日卒業証書が郵送されるという話を聞きました。それに引き換え、晴天に恵まれ、素晴らしい卒業式ができて、ほんとにうれしいです。親子と
もども小学校を卒業しました」。


 東日本大震災から五年が経った。気仙沼と少し関わりを持った私が今できることは、気仙沼の人たちの暮らしを紹介することと思った。
 気仙沼は漁業・水産業のまちである。わたしたちが食べているサンマ、カツオ、マグロなどを獲る漁業従事者の船での生活はどのようなものな
のか。

第1回  遠洋マグロ船 航海日数は平均400日
 気仙沼港の遠洋マグロはえなわ船の平均航海日数は400日。この間、ずっと働き詰めではなく、ハワイやラス・パルマス(スペイン)などに寄港
して食糧や燃料などを補給し、乗組員は航海で疲れきった身体を癒す。魚を釣る方法は近海マグロ船とほぼ同じだが、遠洋マグロ船は航海が
長いため、漁獲した魚はすぐに尾や内臓を取り除き、血抜きしたあと、マイナス60度に急速凍結させて鮮度を保つ。
 近海マグロ船との大きな違いは、長い航海日数と船が大きいということ。119トン型が主流の近海マグロ船に対して、379トン、409トン型とビッグ
だ。遠洋マグロ船が漁獲したマグロ類が気仙沼港に水揚げされることは年に数えるほど。大半は、大手荷受業者がいる静岡県の清水、焼津、神
奈川県の三崎に水揚げされている。  「漁船のはなし」玉谷誠一著(三陸新報社刊)より



2016年2月7日更新

 神奈川新聞「文化欄」(2018/1/19)に掲載された 歌人米川千嘉子(1959年生まれ)さんののエッセ-
 好きになれない言葉
  「元気をくれる」「元気をもらう」という言葉があふれるようになったのはいつからだろう。そして、なぜか私はこの言葉がいつまで
たっても好きになれない。「癒やされる」というのも嫌だ。そのほうが何となく明るいし、後の会話もはずみそうなのはわかる。それで
も私は、「励まされる」とか「慰められる」とか地味に言いたい。「元気をくれる」などの言葉に私が感じる違和感は、苦境に耐えて成
功した人の話や目下頑張る人の様子を見聞きして、簡単にそれを理解できたと思い、簡単にそれを「元気」の素として受け渡しする
ような軽さへの抵抗感かもしれない。 そんなに人は他者が深く抱えているものを理解できないし、さらにそれを受け渡したりはでき
ない。むしろ私は、そんな、人間に関わる孤独をたしかに自覚させてくれるものに励ましを感じる。へそ曲がりである。

 私も「元気をもらった」「癒された」という言葉にはなぜか抵抗感があり、使った記憶はない、というより「使えなかった」。米川
さんのこの文にその答えがあった。小関さんが「言葉遊びをしよう」と書いてくれたが、「言葉遊び」にはたくさんの言葉が自分
のものになっていなければ出来ないことである。
 SNSの普及は文を単語化させた。そして、多くの人が個人の感情や情感を画一した言葉で表すようになった。その典型がテ
レビの取材に答える人たちの「元気をもらった」という表現だ。「直感はまちがえない」とある俳人が言った。心の襞の間から生
じた情感を私の言葉にしたい。だから 「感動で涙がとまらない」から観においで、と誘うキャッチコピーに、私は違和感を持つ。

 言葉あそび
 10年前になりますが、主人の仕事の都合で、アメリカに4年ほど住んだ経験があります。英語が得意ではない私は買い物をするに
もままならない日々でした。
 あるとき私の欲しい商品が高い棚に陳列されており、店員に「あの商品を見せてもらえますか?」という英語が思いつかず断念した
ことがあります。後から英語の先生にその話をすると、出てこない単語に固執せず、どれだけ変換できるかが重要で「届かない」 「見
たい」 「取って」どの言葉でも伝えることができると言われました。なるほど英語力も変換というより言葉あそびだったのです。
 「ちょっとイラストを描いて」「ちょっと一曲歌って」という場面と一緒で、文を書くことは「ちょっと」ではできません。「正しい文、難しい
文を書かなくてはいけない」という脅迫観念を意識してしまうからです。PTA広報紙の記事を書くときは、「言葉あそびを楽しもう」と気
持ちを切り替えたいと思います。文を書くということは言葉あそびの延長ではないでしょうか。   小関みちの


2016年1月1日更新

干支 信楽焼


 干「支申」  信楽の三猿

 信楽の倉田幸子さんは 「エコー」の創刊号からの読者のお一人です。その倉田さんから年の暮れになると信楽焼の干支が届きます。
今年・平成28年のもは(写真中央)デザインが過去のものとかなり違いがっています。一言で言えば「カワイイ」です。向かって左は12年
前・平成16年の干支で四足で立つ猿。そして右の三番叟を舞う干支は24年前・平成4年のものです。
 昭和52年から55年まで「朝日中学生ウイークリー」にコラム『職員室』を連載いたとき、お嬢さん・史子さんがその読者でその私に手紙
を書いてくれたのがきっかけで、信楽駅で倉田さん母子にお会いました。昭和55年(この年の干支は申)の春休みでした。その史子さんも
50歳を超えたと便りがありました。
 今年の干支を含め三体の申がそろったので、「ことしは三猿でいこう」と床の間に飾りました。この「三猿」のように「めを丸くして見て、耳
の後ろに扇を立て(耳が遠くなったので)そばだてて聞き、」大地にしっかと足を着け(何時か私も四足になる)、可愛く舞いながら暮らしたい
という願いなのです。、 


2016年1月1日 快晴・暖かい元旦

 落葉掃く頼るこころを誡めつ 
 元旦の朝9時から休日診療所iにお世話になったのです。昨夜9時過ぎ、いささか呑みすぎたため、昼間の窓ガラス拭きで頑張ったのがた
たり、ブリッジしてある6本の歯がスッポリ外れたのです。今朝の雑煮はもちろん食べられない、おせち料理に手をつけれ気分にもなりませ
んでした。
 当番医の先生の1時間近くのがんばりで、何とかはめ込んでもらえたのです。心からお礼を言いました「実は三日に大切なパーティーがあ
るのです。本当に助かりました」。そうしたら、その先生、私の肩を叩いて「がんばってください。仮の治療だけど大丈夫でしょう」。波乱万丈を
予感する一年のスタートです。
 昨年12月21日の「朝日俳壇」に掲載された酒井大岳師(昨8月東吾妻町に師を訪ねた)の作品 「落葉掃く頼るこころを誡めつ」 を今年の
生活の目標にしようと思ったのですが、元日から家族に、社会に頼る生活です。老いることは「頼ること」でもあるとしみじみ思った今日です。




2015年12月7日更新

                    

 11月7日  中野区中P連から感謝状をいただく
 今回でこの講座の講師を降りることになった。2008年から8年間、20回「中野ゼロ」に出かけた。はじめの三年間は夜の開催。午後
6時半から9時というハードなものだった。それで「体力的・時間的にも無理」と講師の辞退を申し出たら、四年目から「土曜日の午後1時
半開会で」と変更になり、継続することになった。
 それからはロマンスカーの先頭車両の最前列に席をとり、おにぎりをほおばりながら大山など車窓から景色を愛でる小さな旅になった。
 この日の講座が終わり、井戸田康敬会長さんが閉会の挨拶をされたのだが、途中で思いがけないことが起こった。私への感謝状の贈
呈式になったのだ。現・前・元のP連役員19名の寄せ書きも添えられた。気がつけば10名ほどのお父さんが会場の後部に立っていた。
 驚きと感激。土地柄というのだろうか、いつの講座でも、受講者の反応は良く、言いたい事を言わせてもった。このセレモニーがその“象
徴”と言える。
 後日 会長の井戸田さんと研修委員長の渡邉肇さんから次のようなお手紙もいただいた。
拝啓 深秋の候、先生におかれましては益々ご活躍で、ご多用のこととご推察申し上げます。先日行われました平成27年の第2回広報研
修会においては、ご多用の中ご講演いただきありがとうございました。PTAにとって広報がどういうものなのか、改めてその力を感じ、続け
て行くことの大切さを再確認いたしました。各校広報委員会にとりましても、何をどう伝えていくか、自校の紙面をもとに具体的なアドバイス
をいただき、今後の広報紙作りに直接役だつ内容でした。心より、感謝申し上げます。 
 当日のアンケートを同封させていただきます。
先生には長年にわたり講師をしていただき、誠にありがとうございました。先生の講義が受けられなくなるのは大変残念ですが、よりよいP
TA活動のため今後とも研修会を続けていきたいと存じます。先生のご健康と今後のますますのご活躍をお祈り申し上げます。  敬具

▽広報委員研修会のアンケートのまとめ△
感想・希望
・広報紙を作る上で注意すべきこと、読みやすくする工夫などのアドバイス。次の広報紙を作る上で今日のお話は役立ちました。
・何を伝えたいのか、誰を優先するか、それをレイアウトで工夫する必要がある―これは次号で活かしたい。
・広報を作るにあたり、学校側との調整や制限が色々あります。先生からのアドバイスを活かし今後の活動を進めていきたいと思いました。
身が引き締まりました。
・PTAの広報委員会は素人集団です。良いものを作成しようという気持はありますが、限界はあります。
・素晴らしい紙面作りというより、広報委員会を通して得る物も大事にしたいと思いました。来年の広報委員会の方々にもしっかりと引き継
ぎます。・PTAの広報紙とは何かを改めて考えさせられました。ありがとうごさいました。厳しく温かいお言葉を次に活かします。
・PTA広報紙としてのあり方をきちんと理解する事が出来た。他紙との比較により自紙の欠点が見えてきた。
・朝から晩まで働いて、その合間に仕方なく委員をやってます。〆切を守ってくれない先生、ふりがなを書いてくれない先生、写真を撮り直し
てくれという先生、また、なかなかチェックをしてくれない副校長など、学校に振り回されてやっと出来た広報紙。その上に研修会まで。負担
が大きすぎると思います。
・学校だよりではないという事が心に残りました。
・半分くらいはPTAの記事で埋めたい。学校の情報(行事)を載せるなら、保護者の意見(コメント)を載せて作りたいと思いました。記事を載
せる順番、行事の優先順位を考えるなど、きょうの研修内容を頭に入れて次回の広報紙をより良いものにしていきたいです。最後の講演を
聴けて良かったです。ありがとうございました。

 「中野ゼロ」での講座の思い出(『エコー』274号から)
 2010年5月22日  二人のお陰できょうの講座は“満点”
 講座が終えたのは3時半過ぎ。それから2校の相談を受けた。それで会場を離れたのは4時15分ごろ。
 講座が開かれた建物はストリートダンスの練習場として有名。20人ほどの若者が大きな窓ガラスに全身を写し、軽やかなステップに身を任
せていた。立ち止まって眺めるほどの時間(実は《勇気》)はなかったが、彼らの後ろ姿に目をやりながら建物の一角を曲がり表通りに出た。
 歩道を背にした位置で、建物の壁に一枚の紙を広げている二人の女性が目に入った。見た顔だった。数分前に相談を受けた『W』の二人
だった。近寄ってみると、壁に広げていたのは私がアドバイスした紙面だった。その紙面になにやら書き込みをしている。
「がんばってますね。編集会議ですか」と声をかけた。振り向いた二人は驚き、少し恥ずかしそうな笑顔。そして「さっき先生からいただいたヒ
ントを、忘れないうちに整理して紙面に書き込んでいるんです。余韻の残っているうちに…」と言った。きょうの講座の自己評価はこの二人の
お陰で《満点》。



2015年11月7日更新

 サンマ
 W様  気仙沼の大サンマが届きました。
 我が家の夕食は五時頃です。中学生ガ部活を終え下校する時間帯です。通学路は台所の横で、台所からサンマの焼ける匂いが流れ始めて
いました。通りかかった男子の声「あっ、サンマ焼いてんじゃない? ここの家」が妻を喜ばせたようでした。
 私の前に二匹が置かれていました。一匹は丸ごと・ハラワタは抜かないままで焼いてもらいました。「脂が乗っていておいしい」月並みですが、
お礼の言葉はこの言葉に尽きます。
 『新報』の10月6日付けの「ご会葬御礼」で第二幸漁丸の乗組員お二人の海難事故のことを知りました。先月の『新報』の企画記事「若い漁船
員さんたちの座談会」、頼もしく読みました。 ところが、その座談会の出席者の一人が船上で亡くなられたという記事を読んだ記憶があります。
(間違いであれば・記憶違いであれば、と思っているですが)海で働く危険性・まさに「板子一枚下は」なのです。『漁船のはなし(三陸新報社刊)』
の中で知ったこと。「遠洋漁業になると一年、二年も気仙沼に帰らない。近海でも三カ月は帰港しない。風呂水は海水」。そんな厳しい環境の中で、
私の食卓に魚を届けてくれる漁師さん。
 気仙沼の今年のサンマの水揚げはよくない、と『新報』で読んでいます。その気仙沼から送られてきたサンマです。いくたびも「おいしい」と、うな
ずきあいながいただきました。ご馳走さまでした。
 退職する年の最後の朝会で五味太郎さんの詩「正しい魚の食べ方」について話しました。

 正しい魚の食べ方              五味太郎
何千、何方、何億の人々の中の、/あの人でもないこの人でもない、/たまたま、まったくのたまたま、/このぼんやりした子と、/何億、
何十億、何百億の魚の中の、/あの魚でもなく、その魚でもない、/この魚とがなぜかここで出会ったのだ。
「なーんだ さかなか」/なんていっている場合ではない。/「あんまり うまくないね」なんていっている場合ではない。/「のこさず食べる
のよ」なんていわれている場合でもない。/まして「あしたはハンバーグにしてね」/なんていっている場合ではぜったいにない。
いいたいことは魚の方にこそ、たくさんある。でも魚はだまっている。/「ああ、こいつに食われてオレは幸せだ」/と思うか思わないかが
問題なのだ。/
魚の食べ方が正しかったかどうか/そこで決まる。

2015年10月7日更新

 葉月から長月へ
 9月29日 
 秦野市P連の広報づくり講座。紙面クリニックの第三日目。この日は小学校6校の出席。終わってから「楽しかった」という感想をもらった。別
な人からは「先生の話はおもしろい。大学の専攻は何ですか」と尋ねられた。「おもしろい」だけでなく「専攻は?」と聞かれたことが嬉しい。彼女
のここでの「おもしろい」は古語の「おもしろし」だ、と私は受け止めたから。
 10月1日
 かつての同僚Yさんが訪ねてきてくれた。里芋 葱 小松菜、ほうれん草 キャベツ 落花生 栗 万願寺唐辛子。嬉しい ありがたい。  
 10月2日 
 東中学校の「地域学習」の授業の第2日。この日は『東地区に地名』がメイン。難解地名として挙げられている「名古木・ナガヌキ」という地名
の由来を話す。他に「金目川・カナメカワ」は180年ほど前は「カナヒカワあるいはカナイカワ」と呼ばれていたことを紹介。



2015年9月7日更新

 凹凸館  8月の「道祖神の里めぐり」は群馬と長野。その時のこぼれ話

 吾妻線の中之条駅前通り(国道353号線)を伊勢町伊勢宮に向けて車を走らせていていたときのこと。道路工事のため少し渋滞があり車が
止められた。何気なく窓越しに町並みに目をやったら、「凸凹館」という看板を掲げた建物が目に入った。その瞬間、「凸凹館! おもしろい。
写真を撮ろう」と思った。だが車は流れ始めてしまった。
 伊勢宮には、碑の下部に線刻の男女双体神が祀られている文字碑道祖神が在る。線刻の道祖神像は伯耆地方で多く見られる。東日本で
は珍しいその碑をカメラに収めた。こうして、この「めぐり」の対象は一つクリアできたのだが、先ほど出合った看板を見過ごすことはできない
。引き返すことにした。、
  「凸凹館」の玄関に立ち案内を乞い、「軒に掲げてある『凸凹館』という文字に引かれて。写真を撮らせていただきたいのですが」とお願いす
る。対応してくれた家人・女性は「ウチは旅館で、あれは屋号の看板です。『凸凹館』じゃなくて『凹凸館』です。よく間違えられるのです。見てき
てください」とにこにこ。
 「エッ!}という感じの私、外に出で看板の文字を確かめた。右から左に「凹凸館」と書かれていた。そして「久保田」の文字も縦に添えられて
いる。「凹凸館」の意味を尋ねたら、「凹凸館」の「凹」は「窪む」だから、看板は『クボタ館』と読むのだそうだ。「そういえば『久保田』と添え書き
がありますね」と私。
 店の構えは昭和時代の旅館風。この女主人・50歳代か・の気さくで明るい人柄。珍しい看板、読み方のおもしろさあって、土木工事の関係者
の定宿になっているらしい。広い玄関と三和土(タタキ)に置かれている品々でそれを想像できた。
                    
                  「漆喰なので手入れをする職人さんもあまりいなくて」 がお上さんの心配事



2015年8月7日更新

 秦野市寺山のお盆
   〈ツジ〉とご近所暮らし

  寺山のお盆は七月十三日から十六日。その十三日から十五日までの三日間は近所の《*ツジ》にお参り(線香を上げる)慣わしがある。
 十五日の夕方、Yさんの娘さんが二人そろって線香を上げにきてくれた。OLの姉さんは事務服のまま。妹さんは大学生。二人とも幼い頃
からよくお参りしてくれた。
 お盆の三日間のお線香上げは子どもの仕事だった。少子高齢化、しかも子どもだって多忙。そんな今、帰宅早々に近所のツジを回って歩
く二人の娘さんの姿に、ただただ感激した。妹さんは「私、こういうこと好きなんです」と笑ったが、今帰ってきている我が家のご先祖様のこと
などほとんど知らないはず。
 しばらく顔を見なかった九十歳のUさんが来てくれた。だが大儀そうだった。このごろのライターは安全装置が万全。Uさんは線香を灯すの
に苦労していると、後から来たTさんが手伝い、二人一緒にお参りしてくれた。そのTさんも先ごろ八十五歳になった。
 「ありがとうございます。Uさん、Tさん」と妻が二人にお礼を言う。Uさんの姿をしばらく見なかったのは、縁側から転げ落ち左足首を骨折し
たからだった。「でもよかったね、こうやって外に出られるようになって」と言ったら、「ヨソの人が線香を上げに来てくれるのに、ウチが行かな
いのは悪いじゃない」と真顔。
 裏のH家は普段は空き家である。ところがこのお盆の四日間は四人姉弟が帰省し、お盆の「線香上げ」をしている。十年以上も前からであ
る。房総半島から帰って来る長兄・Sさんは「留守にしてご近所に迷惑をかけている。せめてこの時期だけはご近所付き合いをさせてもらい
ます」と六軒の《ツジ》を回る。
 昨日は親子孫三代・四人で拝んでくれたS家。きょうは高一の娘さんが一人で、体操着で、走って来てくれた。 我が家は私が回る。なぜか
毎日私が〈一番乗り〉である。

 この線香上げは、日ごろあまり顔を合わせることのない生活を送っている私たちにとって、「遠くの親戚より近くの他人」を再確認し、「ふるさ
と」への愛を深めることに繋がる大事な風習。その〈線香上げ〉が、若い世代に引き継がれている我が家の隣組を、私はとても誇らしく思う。

*ツジ 秦野地方では、お精霊さん(オショロさん・ご先祖)が、お盆に帰って来るときの目印になるように門口に砂の山(砂盛りとも)を作る。
    お精霊さんは家に入る前にこのツジで一休みする。 


2015年7月7日更新

 水無月のモノローグ
6月30日
 きょうで6月は終わり。今月中に届いたP広報紙は21紙。きょう4紙分を発送し一段落。
 送られてくるクリニック依頼の文書や手紙はさまざま。毎回同じ文面、要するにパソコンに保存してある文書の発送日とその号数だけを打ち
直しただけのもの。B4の用紙に「時下益々清栄のことと拝察いたします」で始まり、数行で終わっているような典型的な公文書スタイル。一方、
自筆のでいねいな文字で、自分たちが頑張ったところなど書いてくるもの(今回は便箋三枚の委員会もあった)。 そしてこんな文にも出合った。
「感想などお気軽にお寄せ下さい」。

6月29日 
 市P連情報委員会に出席。三つのことを行う。
 ① 9月に行う秦野市P連の「広報紙クリニック」の打ち合わせを情報委員会と。
 ② 「市P連だより」の企画会議、これはB班で発行は二学期だが、もう企画はまとまりつつある。こんなに早く動き出しているのは特集が「いじ
 め」
 のため。
 ③ A班は7月14発行ということで出稿直前の紙面整理。

6月22日
 気になっていた梅の木の剪定、というより枝下ろしをした。8時半から午後3時過ぎまで。かなり切り詰め整理したので、自分としては《納得》の
作業。今朝の新聞で「長寿の条件の一つは自律」という体験談を読んだ。私の《自律》は「晩酌は欠かさない」。

6月20日 
 アサガオの苗の最後の定植をした。N中のP広報委員二人が発行された広報紙を持って来訪。二人とも、私がN中に勤務していた時代に生徒
だったとのこと。しかも一人は授業も受けたと言う。

6月18日 
 茅ヶ崎市のPTA広報講座は今年で三年目になる。講座は3回シリーズで、この日が第一日。昨年の県PTA広報コンクールで市内の2校が最優
秀賞と優良賞を受賞。受講者の広報づくりへの関心は上昇気流に乗っていると見た。12時閉講だったが、質問・相談を受けたので会場を出たの
は12時40分。ゲリラ豪雨に出遭ったが《爽快》と感じた。



2015年6月1日更新

 〈新手のオレオレ詐欺師〉?
 角館町に「人形道祖神」が在ると知り、仙北市の教育委員会に電話で所在地を聞いた。対応してくれた畠山さんは雪の中、現地に出かけ写真
を21枚メールで送ってくださった。
 田んぼに囲まれた稲荷神社の境内に、その道祖神はあることが判った。2月12日のことだった。
4月12日午後2時頃、畠山さんから頂いた地図を元に、神社の近くのお宅に電話をかけた。道祖神の話を聞かせてもらうために、である。午後2
時頃二軒に電話をしたが年配の女性から話を聞くことは出来なかった。神奈川からの電話、全く知らない男の声、電話は住所と名前の確認、近
くの稲荷神社に祀られている道祖神のこと、――もしかしたら警戒されたのかもしれない、と思った。
 《ぶっつけ本番で》は、今での「里めぐり」でもしばしば敢行したこと。4月30日の午後、カーナビの目的地を角館町広久内下中川原に設定。だが
広い耕地(田んぼ)の農面道路の入り口で案内は終わる。そのはるか先に、貰った写真の景色が目に入った。まだ耕されていない3枚の田んぼの
横切り目指す祠にたどり着いた。祠には鍵はかけられていなかった。
 この地方では道祖神・塞の神を「おにょさま・御仁王様」と呼んでいるのだが、木のお面の「おにょさま」が二面ずつ二つの祠に納まっていた。
 この私たちの動きを、50メートルほど離れた民家の庭先で眺めている男性に気づいた。電話で「4月30日に見に行く」と言ったので、完全に警戒
されていると思った。「これは挨拶をしないとまずい」と、即その方のお宅に車を寄せた。そこは、畠山さんから送られてきた地図に載っている佐々
木さん宅だった。
 「お宅におばあちゃんいらっしゃいますか。少し前に、あの道祖神のことで電話をした神奈川の者ですが」と言うと、「ウチにはばあちゃんはいない。
隣りの佐々木だ。でも電話のことは知っている」。
 佐々木さんの話は続き、20戸のこの地区に、神奈川から不審な電話がかかってきたので気をつけるように回覧板が回ったとのこと。あわてて名
刺を差し出し、無作法な電話の主は私とわびる。「そうかあんたか」とにこり。そして「佐々木を名乗り、稲荷神社のことを聞く新手のオレオレ詐欺じゃ
ないか、と言ってる人もいる」と続く。「新手のオレオレ詐欺ですか。その方に伝えてください。ほんとに《おにょさま》を見に来た人がいたと」と私。「そ
れを言い出したのは私だけどね」と佐々木さんは大笑い。

 広報づくりの話をするとき、「私が好きなキャッチコピー」として必ず紹介するのが次の二つ。『二番目にイイことは声を聞くことです』。これはかつて
の電電公社のコピー。『大切だから 直接伝えたい 顔を見て、気持ちも一緒に』。これはあるPTA広報紙の見出し。顔を見せないから“新手の詐欺
師”と疑われた私。
 佐々木さんと言葉を交わしながら改めて思ったのは「顔見て 心をこめて 言葉で伝えよう 人間だもの」ということ。





 2015年4月1日更新 

 群馬県東吾妻町・長徳寺
 日曜・月曜日の楽しみは新聞の歌壇・俳壇を読むこと。その人の生き方を、日本語が生み出した俳句・短歌で表している作品の数々。
それらを目で追う私の心が清められるひと時である。そして特に心に染み込んだ作品をノートに書き写す。この作業は老いを伴って急激
に鈍っていく私の感性を食い止めてくれていると思っている。また日本語が持つ繊細な表現力に感じ入るのである。
 そのノートには次の作品が記されている。
 1999/5/30   夫は法話吾は草引く寺暮らし          酒井せつ子
 1999/6/30   草とつてこんなところに居りし妻        酒井 大岳
 1999/9/5   夫と守る小さな寺や星涼し            せつ子
 1999/9/5   腰低く作る母乗る瓜の馬             せつ子
 1999/10/31  どんぐりに顔描く妻の真顔かな         大岳 
 2000/2/3   雪へ発つ靴あたためて呉れしこと       大岳
 2001/12/24  また吾の靴を履きをり師走妻         大岳
 2002/7/8   拾はれて生きてゐる犬寺涼し          せつ子
 2003/2/9   雪掻いて妻ほのぼのと戻りけり         大岳
 2010/5/10   花に酔ふ夫を拾つて帰りけり          せつ子
 2009/1/19   雪降れば雪を喜び雨降れば雨に感謝す山寺暮らし せつ子
 2010/1/24   山姥の如き態して大掃除           せつ子
 2012/11/15  金婚を祝ってくれし紅葉山            せつ子
 
 そしてこの3月
 2015/3/9   風花のやうに母逝く山の寺            斉藤紀子
         選評に酒井せつ子氏が亡くなったことが書かれていた。
         齋藤さんは酒井せつ子さんの娘
 2015/3/23  あつぱれな妻よ涅槃の日に逝きて       酒井大岳
         酒井大岳氏はせつ子氏の夫君で群馬県東吾妻町・長徳寺住持。
 せつ子氏にはこんな作品も
 1998/3/31  鯵秋刀魚椎茸昆布海苔鯣干されて旨み吾も日向ぼこ  




 2015年3月1日更新

  五台山文殊寺 (熊谷市野原)の大縁日は2月25日

 「日本三体文殊」の一つ。その大縁日は2月25日、今日である。。その文殊寺は「道祖神めぐり」の道筋だったので寄ってみた。
露店・屋台が30店ほど出ていた。焼きそば、たこ焼き、いか焼き、お好み焼きなど食べ物の店が居並ぶ中、鍬や鎌など農具を
並べている店が一つあった。その店の主と話す。
 昔は数店出ていたらしいが「今はウチだけ。群馬から来た。安いものがホームセンターで売っているから売れないよね。ウチは
自分で打っているからサビなんかこないよ」。年配の農家の夫妻が鋤を買う交渉を始めた。言葉使いが押し問答のような値踏み
が続く。最後は「いいよ、それで。持っていきな」と店主。
 竹製の籠や笊、箕などの店もあった。果樹の苗木はけっこう売れていた。縁起物の白だるまも並んでいる。北海道の昆布、千葉
の落花生、青森のりんご、熊本のデコポンなど日本中? の物が売られている。
 そんな中、本堂前に陣取る大判焼きには長い行列ができていた。店員三人がフル回転で“ひっくり返している”のに、である。他に
二つの大判焼きの店があるのに、なぜこの店だけ?  並んで待つくらいだから手にするのものは焼きたて“熱々”である。アツアツだ
からおいしい。食べ物は総じて温かいものはおいしい。おいしいから、求める人が並ぶ。好循環である。
 農具や掛け軸などたくさんの店が霜解けの道の両側に出ていた中を、父と歩いた秦野の白笹稲荷の初午祭を思い出した。
「フウテンの寅さん」を模した出で立ち(声色はともかく顔はちょっとムリ…)の、街頭芸人も客寄せに歩き回っている。
 近隣の農家の人たちと思われる参拝者が圧倒的に多い。「合格豆」など文殊寺に似つかわしいものが並んでいた。それを手にし
ながら「もう少し早い時期にお祭りがあればねぇ、もう孫の試験、終わっちゃったべ」と笑うおばあちゃん。学校がまだ終わっていない
時間帯なので子どもの姿はあまり見られなかった。



2015年1月1日更新

もう直ぐ1月14日 ダンゴ焼き(道祖神祭り)


「JAはだの」の組合員基礎講座で 「秦野の道祖神は316塔」

 11・12月の私は“道祖神三昧”でした

12月24日
 10月の鳥取・大山町の「道祖神めぐり」でお世話になった教育研究所の杉谷さんからメール。
 「先日お越しになりました大山も、昨日スキー場開きをしました。 この度は、大変貴重な資料を送っていただきありがとうござい
ました。早速、所長と一緒に拝見させていただきました。 まず、短い日数で、よくこれだけ効率よく廻られたと所長と感心いたしま
した。ご子息様のご協力のお蔭ですね」。
 二年前、「まほらの会」で高崎市倉渕町の道祖神を見に行ったとき案内をして下さったの市川先生から「倉渕の道祖神と地域文
化」というシンポジュウムのレジュメが送られてきた。もう一度先生の道祖神の話を聴きたいと手紙を書いた。
12月16日
 東中学校1年の「総合の時間」の授業。年間3回の授業の最終回。授業の主題は「東地区の民俗ダンゴ焼きと目一つ小僧」。地域
の人にも講座として公開されている。「目一つ小僧」については「チーム竹の子」の関さんが自作の紙芝居を上演し、助けてくれた。
 夕方、今日の授業に出席されたSさんから電話が入った。電話の内容はSさんのお住まいの地区で80年ぶりに道祖神の太鼓を修
復され、来年1月14日子どもたちによってお披露目がされるとのこと。太鼓の中に太鼓作成の寄進者の書面が入っていたとも話され
た。嬉しい話だった。太鼓を見せていただきたいとお願いした。
 東地区に居を構えて10数年、PTA活動に積極的なKさんからも電話。この日の道祖神の在り処の説明にとても興味をもたれたよ
うで、「川向こうに『道陸神』と書かれた石碑があるが道祖神と違うのですか」と質問。Kさんは前回も参加された。私には嬉しい二本
の電話だった。
12月13日
 午後7時から自治会の全体集会。「道祖神祭りの勉強会」がメインの会。私が話をしたが、若いお母さん・Sさんが自作の紙芝居
「目一つ小僧」を上演してくれ、助けてくれた。年配者が多いので会の後の懇親会で昔のダンゴ焼きの話に花が咲いた。
 12月12日
「JAはだの」の「組合員基礎講座」の講師を務めた。演題「大山と盆地の暮らし」で90分の講演。内容は①秦野を通る富士道 ②秦
野の道祖神祭り(ダンゴ焼きと目一つ小僧) 「ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」― 秦野が大好きな私の願いである。
12月3・4日
 「まほらの会」の研修旅行。今年は西相模から伊豆、そして富士宮の道祖神を見て歩いた。また世界文化遺産の富士山の「構成
資産」である富士山本宮浅間大社、村山浅間神社、山宮浅間神社に参拝。富士講の聖地「人穴」も訪れた。参加は10名。
 一日目は好天、第二日は小雨、という変化に富んだ?旅。富士宮教育委員会のご好意で第二日は二人の学芸員がバスに同乗、
一日じゅうていねいに案内をしてくれた。帰りの車中で会報担当者から研修報告を書くという宿題が出された。
12月1日
 東小学校PTAの成人教育講座。
 テーマは「地域学習・東地区の歴史と文化をさぐる」で「東地区の地名の由来と民俗行事・ダンゴ焼き」の話をする。
 定員30名だったが、それを超えた参加があった。終わってから〈歴女〉と言われているお母さんから「時間が短い。この続きを」と申
し出が主催者にあったとのこと。
11月15日
 南公民館の事業「南地区道祖神めぐり」。このツアーのメインは『マラセの神』に参拝すること。それでオリエンテーションとして「マラ
セの神」の話をする。
 夜7時から寺山自治会の文化講演会。「道祖神ワンダーワールド」と題して講演。地元寺山の七つの道祖神にスポットを当てた。「目
一つ小僧」の紙芝居も上演。両会場とも終わってから質問が出た。
11月11・12日
今年で秦野ゆとりの会(旧秦野園芸愛好会)は創立20周年。そして会の研修旅行は今回で15回目。
 安曇野の穂高神社の参道に「塩の道道祖神」が祀られている。道祖神は私の出番。解説をした。昼食はそばの名店「常念」。店の
前を通る道の脇に「上原の彩色双体道祖神」が立っている。そこでも「道祖神の嫁入り」の話を聞いてもらった。
 


2014年12月1日更新

 信州満喫 千曲川旅情                                  
 今年で秦野ゆとりの会(旧秦野園芸愛好会)は創立20周年。研修旅行は今回で15回目。その研修旅行先は信州。高野辰之記念館、
小布施散策、安曇野の道祖神探訪、そして諏訪の酒蔵めぐり。
 高野辰之記念館を選んだのは、会歌としている「故郷」の作者であるから。長野県中野市永江に建つ記念館は、高野が学び、教壇
に立った永田小学校の跡地にある。記念館から眺めた風景は、高野の作品「紅葉」そのもので、里山は深い秋の色合いを見せていた。
 記念館から数分のところに永江地区の「ふるさと橋」が掛かっている。その橋の欄干はメロディパネルになっていて、マレットで順番
に叩くと「故郷」のメロディーが演奏できる。会員の演奏にあわせて「兎追いしかの山」と何度も口ずさんだ私だった。
 小布施の町で道祖神を探したが見つからなかった。いくつかの街角にしめ縄を巻いた自然石が祀られていたが、それは「市神」、商
売繁盛の神様とのこと。秦野にも「市神」は一基ある。
 夜の懇親会、参加した12名全員がマイクを握って絶唱? 私は「安曇野・原田悠里」引っさげて登場したのだが、キイが合わず惨憺
たるステージ。五木ひろしの「千曲川」を歌い、そしてフィナーレは「故郷」を全員で。
 第二日、安曇野の穂高神社は菊花展が開かれていた。菊作りは「ゆとりの会」の活動のメインでもある。全員がていねいに鑑賞、そ
して学んだ。境内には昨年12月に建立された日本一大きなステンレス製の道祖神・身の丈2.5㍍・が立っていた。さらに北参道には「塩
の道 道祖神」が6塔祀られている。「道祖神なら私の出番」とばかり、勝手に解説をし始めた。
 昼食は「そば処常念」。店の前を通る道の脇に「上原の彩色双体道祖神」が祀られていた。この道祖神はパンフレットなどで紹介され
る安曇野の代表的な道祖神の一つ。そこでも「道祖神の嫁入り」の話を聞いてもらった。
 諏訪大社下社秋宮でも菊花展に出合えた。「諏訪五蔵・酒蔵めぐり」は、相客がいなかったので、各蔵の銘酒をていねいに試飲。3本
求めた。秋天に恵まれた二日間、その歩行数はおおよそ1万7千歩。よい旅だった。
  
  昨日またかくてありけり  今日もまたかくてありなむ
  この命なにを齷齪  明日をのみ思ひわづらふ
                                  島崎藤村「千曲川旅情の歌」-落梅集より-                         
 幹事諸氏に深謝。


メロディパネルの欄干  ♪山は青き故郷 水は清き故郷

 2014年11月1日更新
 
 今年復刊 PTA広報紙『まなまな』

10月16日
 小田原発8時33分の熱海行きに乗る。朝の相模湾は秋の柔らかな陽光でまぶしかった。小旅行の気分。
 湯河原・箱根・真鶴町のPTA広報研修会が湯河原町で開かれた。この日座は今年度発行された広報紙のクリニック。9校のP広報
委員会と湯河原町子育てサポートセンターの広報担当者が出席してくれた。すでに今年度3号発行のPもあり、読ませてもらった広報
紙はその内容もレイアウトもかなりのレベル。
 真鶴町は小・中学校はそれぞれ一校なので、3年前に「まなづる小学校」と「真鶴中学校」のPTAは統合された。その時点で二校のP
TA広報紙は消滅してしまった。それが今年度になり、広報ボランティアの活動というう形で広報紙が復活したのだ。
 今年五月の講座に参加した有志が広報の意義を再確認してくれ、活動に入ってくれた。そして、早くも5月に『まなまな』を創刊。A4判
8ページ、オールカラー。
 表紙にこんな文が書かれている。
  新広報タイトル『まなまな』とは:「まな小」と「真中(まなちゅう)」だから『まなまな』。「まな」には「愛」と「目」という意味もあります。保護
者&先生&地域という、より多くのまなざしとあたたかい愛でつつみ、子どもたちの成長と「まな」びを見守りたい ― そんな思いをこめ
て『まなまな』にしました。

 経験から言えば、学校では一度消えた行事を復活させるのはとても難しいこと。まして単年度で役員が入れ替わるPTA活動では、事
業の復活とか再活動に、本部役員や学校側の意欲・意思が強く必要となる。まして最も敬遠される広報づくりである。
 それが3年目にして復活。『まなまな』を会場で手にしたとき、「ほんの少しだが私もこの創刊(復刊)に関われた」と思い、嬉しかった。

 昨年は『緑の風』も
 昨年、茅ヶ崎市で長い間休刊だったPTA広報紙が復刊した。私の講座に飛び入りで参加した三人のお母さんたちがボランティアで広
報紙を作り始めた。その広報紙『緑の風』(緑が浜小学校PTA)は年間3回(A4判で年間16ページ)の発行を成し遂げた。そして、今年は
さらに前進。広報作りの仲間は6人に増えた。
 『新聞づくりは仲間づくり』 発行された広報紙を通して「子育てごいっしょに」の仲間づくり。そして広報をつくる人たちの間に生まれる
仲間意識。広報紙はPTA活動にはなくてはならないものだ。
 


 2014年10月3日更新

 8月28日
  身延山の宿坊 樋澤坊に望月先生を訪ねる

 今回の山梨県身延町の道祖神めぐりを終えた足で身延山に向かった。
 日蓮宗身延山の宿坊樋澤坊は私がお世話になった望月治男先生の生家。その寺院の墓地に先生は奥様と一緒に眠っていらっしゃる。
 「ゆとりの会」が年に一度の研修旅行を持つようになったのは「みんなで生徒無しの、私たちだけの修学旅行をやりたいね。京都に行こ
うよ」と話をされたのがきっかけ。それで「ミレニアム修学旅行」と銘打った旅行を私は企画させてもらった。
 2011年2月5日、突然のお別れだった。享年78歳。
 「志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷」  会員はこの歌で先生を見送った。
 墓前に立つと眼鏡の奥の優しい眼差しが浮んでくる。そしてあの明朗闊達な言動も。お気に入りだった諏訪の酒「真澄」を献杯した。今、
私は先生と同じ年齢。  
                                
                 ※樋澤坊 (ひのさわぼう) 日蓮聖人の6人の直弟子の一人である日向上人が開いた寺院。坊の門は町の文化財になっている。 



 長野県飯島町教育委員会  Y様
 飯島町のお盆の「砂山」の風習、砂山に足跡が付くことでご先祖様が無事にお帰りになったことを信じる、逝った人を惜しみ、懐かしく思い
出す親族や縁者の心の表れと理解しました。このような風習は今の時代だからこそ、引き継いでいきたいことです。
 8月26日から28日まで長野、山梨の道祖神を見て回りました。長野・山形村では12基の道祖神にお会いできました。どれも魅力的でした。
 山梨は旧下部町に入りました。山深く入り込んだ細道に立つ道祖神。その道祖神を祀る集落は縮んでいました。廃屋がいくつも見られまし
た。それでも道祖神祭りが行われている様子が分かりました。江戸時代の、そして今の山里の生活に思いを馳せました。 機会があれば飯
島町を訪ねたいと思います。ありがとうございました。     武 勝美


 2014年9月6日更新

 誕 生 日
 8月18日は78 回目の誕生日。その朝の「朝日俳壇」の次の作品(〇印)に惹かれた。
 〇昼寝して余命を減らしをりにけり   永野由美子
  稲畑汀子先生の選評は「昼寝を余命を減らすと考える作者の事情が悲しい。」
 〇一瞬の命を鳴いて蝉は去る      坂上ふみお
  余命の「余」を文字通りに受け止めたい。
 
 学生の頃から誕生日は旅先で迎えることが多かった。ほそぼそだが、今もその流れは絶えない。 
 〇踊り笠かぶり彼の世の人となる  朝田 冬舟
  2009年 念願かなって「西馬音内盆踊り」(秋田・羽後町)へ。
  西馬音内の盆踊りは亡者踊りとも言われている。踊りの列の中に黒い覆面・ひこさ 頭巾の踊り子がいる。それが亡者を連想させるからとか。

 〇夏山の祖霊の在はす青さかな     小杉伸一郎
  2010年 四国八十八番札所の大窪寺にいた。

 〇蹴り出せし下駄の音より踊りそむ   緒方こずえ
  2011年「郡上八幡盆踊り」に出かけた。夕立の中で無心に踊る。
 〇旅戻り家居の風の秋近し       黒田千賀子

 1996年の8月19日付けの「朝日俳壇」「朝日歌壇」から、私の気に入った作品をノートに記すことを始めた。作句を楽しんでいた父の影響かもしれ
ない。「いつかは私も」と思っているうちに徒に余命を減らす日々。 今は、毎月曜日の朝の「俳壇」「歌壇」に《私》が投影されている秀作に出会うと
その作品をしみじみと書き写している。



 2014年8月9日更新

 第57回全国新聞教育研究大会 市川大会 2014年8月1・2日
  年に一度 旧交を温めた「全国交流会」

 8月1.2日に市川市で開かれた第57回全国新聞教育研究大会市川大会への参加で、大会参加は34回になる。その34回の中には昭和60年の28回市川大会も入っている。
大会恒例の「全国交流会」は今回も第1日の夜「市川グランドホテルで開かれた。かつては「全国の“新聞の鬼”たちが年に一度顔を合わせる」のがこの交流会と言われていた。「全国交流会」のメインは参加者が県別に自己紹介である。山形県の『花笠踊り』はどこの大会でも常に大きな拍手を浴びる。第59回の開催地である茨城県は小野瀬さんのパフォーマンスで『茨城の日本一』というクイズを携えて登場。その中の一題『茨城の難解地名』として「随分附」を読ませた。地名には興味がある私だがこれは読めなかった。(答えは文末に)
 大会の会場校である大和田小の若い5人の先生か『恋するフォーチュンクッキー』大和田小ver。さわやかにそして鮮やかに跳ねて見せた。この大会を作り上げてきたのは若い先生たち。武藤先生は良い後継者をたくさん育てている、と思った。
 神奈川は臼井先生と私。市川大会にエールを送り次のような挨拶をした。
 「市川市には私はご縁があります。昭和46年度の毎日新聞創刊100年記念の全国学校新聞コンクールで、大澤和子先生の指導する市川市の宮久保小学校と秦野東中が「特選」に選ばれました。両校の新聞委員長は札幌オリンピックの開会式に招かれ、大澤先生と私も同行しました。そのご縁で大澤級(小学生)と武級(中学生)で学級新聞の交換をしました。市川市の新聞教育の基盤は大澤和子先生。以降多くの先生方が新聞づくりの伝統を守り、築き挙げていらっしゃいます。この大会も大澤先生に続く若い先生方の力で大成功です」
 スピーチを終え自席に戻る私を二つの笑顔が待っていた。「母のことを話してくださってありがとうございます」と言ったのは大澤和子先生の長男明洋さんだった。市川市の小学校の教頭先生で、この大会の運営に関わっていらっしゃる。傍らにいた女性も「お久しぶりです」とにっこり。
 その女性は、平成15年度全国新聞コンクールの表彰式の会場で紹介された大澤先生の孫増子彩音さんだった。彩音さんはその年のコンクールで優秀賞を受けた市川・富貴島小学校の新聞委員会委員長だった。9年前、和子先生、明洋さん、彩音さん、それに大内文一さんと私が一枚に納まった写真が私のアルバムにある。彩音さんは、この4月から高校の教員になったとのことを私たちに報告するために来場したのだ。(なむさんづけ)
 市川の全国交流会でお会いした皆さん(敬称略)
 井上英昭 菅原澄子 伊藤映子 清水シズヨ 横山健次郎 吉成勝好 小野瀬容子 木野村雅子 関口修司 竹泉稔 香山昌彦 臼井淑子 武藤和彦 須藤晃 野田広明 奥脇弘久 越田清四郎 岡野実 丸山明美 斎藤真弓 宮前嘉則 金子道子 古川博 神尾啓子 大澤明洋 増子彩音  



2014年7月1日更新

 “不可解”
 ある団体から月刊で発行される機関紙に、読者に投稿を求めている文芸欄(俳句・短歌欄)がある。その6月の俳句欄で奇妙なことを発見した。欄の選者はS氏と欄の冒頭に明記され、続いて入選作が掲げられている。私の言う“奇妙なこと”とは、今月号の入賞句のトップ(「第一席」とは書かれていない)が、選者のS氏の作品であるということ。
 この欄は句評も付けられる。選評だから選者S氏が書かれたのだろう。今月は上位2句に評が書かれていて、S氏の評は約60文字、第二席の評は40文字。入選7句で選評が付けられたのは2句のみ。自作を投稿し第一席に選ぶ選者。そして自句の評を書く。二席のものと比べその文字数はアンバランス。短歌は入賞野の作品に短いが評が添えられている。
機関紙の編集室に問い合わせたら、選者S氏と第一席入賞者のS氏とは同一人とのこと。(私は誤植だと思っていたが…。) 種々の事情があるらしいが、この俳句欄は“不可解”。

2014年6月1日更新

 広報講座のエピソード二つ

  気仙沼に行きます
 今年の新聞・広報紙づくりの講座の導入には2014年3月6日の『三陸新報』の切り抜きを使っている。次がその記事である。
 12校で三年生 校庭使えぬまま卒業 気仙沼・本吉地方 
 今春、学び舎(や)を巣立つ中学生は震災直後の23年4月に入学した。ほとんどの中学校の校庭に仮設住宅が建つ気仙沼・本吉地方では、3年生がグラウンドを自由に使うことなく卒業を迎えることになった。同地方の中学校16校のうち、敷地内に仮設住宅が建つのは14校。その中の12校は校庭の大半が仮設住宅に充てられている。「卒業までには校庭が本来の姿に戻ると期待していました。仕方ないとは思うが、校舎を出てすぐに部活動ができる学校がうらやましかった」とはある中学の卒業生。野球部の練習のため、放課後に1キロほど離れた小学校の校庭に移動する日々を送った。(『三陸新報』2014年3月6日の「復興へ」の記事の一部)

 どの会場の参加者も被災地・気仙沼の子供たちが置かれているこの現実に耳を傾けてくれた。そしてある会場でのこと。講座が終わると一人のお母さんが相談があると私のところに来た。「今日の話を聞いて、今まで行こうと思ってもなかなか踏み出せなかった被災地でのボランティア活動に出かけることに決めました。気仙沼に行こうと思います」。彼女は子供たちとクイズで遊びたいと言った。それで「三陸新報社」の知人を紹介した。


、 いつかは広報委員になる
 下の子が小学校に入った年から、「いつかは広報を」と思い、ネットでPTA広報のいろいろなページを読み勉強してきたUさん。そして今年念願かなって広報委員になり私の講座に出席。資料に講師・武勝美とあるのを見たとき「あれ、何か聞いたことのある名前」と思ったUさん。そう、彼女がお気に入りに入れたページの一つが『エコー』のHPだった。
 「これからの一年間が楽しみです。相談することがあるかも知れませんがその時はよろしくお願いします」とメールが届いた。




2014年5月1日更新

 武勝美の道祖神めぐりNO7 山梨県中央市豊富地区      201444

 猿田彦の面を飾る道祖神を訪ねる

1 石祠の左右に猿田彦のお面が( 関原地区・旧豊富村)
 山梨県中央市に「猿田彦」の面を彫った珍しい石祠道祖神があることを知り、今回の「道祖神めぐり」はこの地にした。集落のはずれにある小さな塚、そこに立つソメイヨシノは見ごろだった。その樹下に尋ねた石祠道祖神は在った。
 台座正面に「猿田彦命」、右に「文化十三丙子霜月吉展」(1816)と記されている。祠は破風作りで飾りに猿田彦の面が左右両面に彫られている。猿田彦は天狗の原形ともとらえられる神。伊勢一の宮猿田彦大本宮・椿大神社の絵馬に描かれている猿田彦は、眼光鋭く鼻はまさに天狗である。ところがこの祠に飾られている猿田彦の面立ちはふっくらとして穏やか。祠の中には丸石、あるいは陽石と思われるものが鎮座している。

猿田彦の面が左右に

台座に猿田彦命の銘

文字碑の道祖神

 石祠の右に自然石の文字碑道祖神が立つ。この石碑の上に年代がまったく異なると思える灯篭の火袋が載せられていた。塚の向こうには春爛漫の田園風景が広がり、はるかに望むのは八ヶ岳連峰から甲武信ケ岳への山並み。

 

サルタヒコ(右)とアメノウズメ

秦野の酒を献杯

中央市関原の道祖神 

 2 水上、川東、浅利地区の6塔にも献杯
 山梨の道祖神は甲府盆地を中心に丸石が圧倒的に多い。中沢厚著「山梨県の道祖神」によれば「甲府市域を中心にした平坦地には双体道祖神は二体」しかなく、「その二体が中央市浅利地区にある」とのこと。それで豊富郷土資料館を訪ねた。末木館長さんから資料をいただく。その資料で豊富地区に7塔の双体道祖神があることがわかった。その中の数塔の在り処への道を教えてもらう。
水上地区は船型握手像で寛政3(1791)年の造立。川東地区のものは破風作りで肩組み握手像、明和6(1769)年の造立。丸石も祀られている。いずれも竹に注連縄、御幣の竹筒、灯明などが神前に残されていて道祖神祭りの余韻を感じた。川東の道祖神の傍に「()影山」の立派な石碑。この地区は今「シルクの里」としてまちおこしをしている。今も養蚕農家が存在しているとのこと。

水上地区は舟型握手像 川東地区には破風型肩組み握手像が

浅利地区の諏訪神社境内には、露座の合掌双体像(銘はなく傷みが激しい)が1塔、3基の石祠道祖神が祀られていた。その中の一基・横町組の石祠は明和3(1766)年で双体道祖神が収まっていた。中沢さんの言う「双体2神」はこの2体である。道祖神のそれぞれに護持している集落名(北村組、上手組、横町組、西村組)の立て札。

諏訪神社境内に集められた道祖神 露座の双体像(北村組) 横町組の石祠道祖神


3 「薬袋」姓にも出会う
 この諏訪神社は平成16年に再建されたようで、再健に尽力した氏子の氏名板が掲げられていた。そこに「薬袋」という姓を10ほど発見。川東地区公民館に取り付けられていた地区住居案内図でも「薬袋」姓を見た。「薬袋」は「ミナイ」と読む難しい姓。私が「薬袋」姓の方と出会ったのは10年ほど前、中野区で広報講座をもったとき。その講座の進行を務めた女性が「ミナイ」さんだった。この姓との出会いも今日の収穫。

「薬袋」姓があった川東地区の住居案内図

豊富郷土資料館はシルクの里公園内にある

  豊富のひな祭りは4月3日
 資料館の女性学芸員から、「この辺では四月三日がひな祭り」で、女の子は小高い丘に登り、お重に詰めたご馳走を食べる「お花見」という年中行事があったことを教えられた。寺山でもかつては同じような「お花見」を四月三日・四日におこなっていた。

  秦野市寺山・清水のお花見
 四月三日、四日は女の子の節句である。この二日間は“お花見”という子供にとって楽しみな行事の日でもある。女の子だけでなく、男の子も節句を祝う。
三日の朝が来る。あちこちからラッパの音がひびいてくる。軍隊の突撃ラッパである。どの庭にもラッパがあったような気がする。

清水庭の男の子たちは、手に重箱、白酒、木刀、むしろなどを持ち花見小屋に向う。小屋に到着すると、丹精して作った大きな日の丸や海軍旗を、長い青竹にかかげた。山の上、しかも四月の風である。青空にはためくひびきは心地よかった。不思議なことに、あの強い風にひきちぎられた旗の印象は全くない。
自陣の旗の下に立って周りを見回す。一つ谷をへだてた丘、その尾根の続きの更に高い処、大山道の「イヨリ越え」に続く尾根、神社の裏山というように、ちょっと数えただけでも10カ所ほどの城の旗が目に飛び込んでくる。
 “お花見”には《旗とり》というケンカゴトが付きものになっていた。見事に飾られた旗を取りに行くケンカである。清水庭は、宝作庭とケンカをするのが慣わしのようだった。小屋と小屋との間は、直線距離で数百メートルぐらい。その間に麦畑があり、雑木林があり、ちょっと下れば小川まである戦場だ。“戦争ごっこ”にふさわしい地形だった。
 手づくりの木刀を持ち、麦畑を走り抜け、ママ(土手のこと)に身をひそめ、相手の小屋の裏にまわる。そして、突然とび出していって旗の綱を切って逃げてくるのだが、おく病な私などは、相手の小屋の姿が目に入ると、もう、そこから逃げて帰ってしまうのだった。そして、自分の陣地にもどってみると、大騒ぎである。ふだんあまり付き合いのない名古木の庭が、山越えで攻めてきて、旗を持っていってしまったという。
 「これから、ケンカだ」と上級生はいきり立つ。バラの木(タラの木)や、木刀などを持ち、“復讐戦”に出かける。もちろん、チビは留守番である。まもなく、旗を取り戻しゆうゆうと帰ってくる上級生。そして武勇談が始まる。「崖の上から、こんなでけえ岩をころがしゃがってよ。あぶねえったらねえのよ」「あいつら、一人も向かって来れねぇのよー。だーれも城にいやあしねえ」。年少の者はただただ上級生への畏敬の念が大きくなるばかりだった。
 だが今、考えると、このケンカにはルールがあったようだ。旗とりで負傷者が出たとは聞いたことがなかった。もちろん、私の庭もだれひとりケガをしたことはなかった。
 こうして山野を走りまわると、おなかがすく。このお花見の弁当は、ほんとうに楽しみだった。三日と四日は、それぞれ弁当の内容がちがう。三日はお寿司。外を卵やきで巻き、中にはのり巻きが入っている太巻き寿司である。それが、朱ぬりの大きな重箱にぎっしりとつまっている。第二日日の四日は、あずき飯のオムスビになる。牛乳のテン寄せは、甘く、冷たくおいしかった。そして、好物のタニシがほんのわずかだが入っている。
 お花見が近づくと、近くの田んぼにタニシを掘りに行く。表面が少ししめった田んぼに行き、その地面にひび割れが入っているところを探す。ひび割れが走っていて、それが交差しているところがタニシのいるところだ。棒や人さし指で掘り出すのはかんたんだ。
 お花見には白酒も持っていった。清涼飲料水などほとんど手に入らない時代だった。白酒は、密造のドブロクからとる。ドブロクが十分発酵する前に上澄みをすくいとり、子どもたちは飲んだ。旗とりに疲れ、かわいたのどを甘く冷たく通り過ぎる白酒のおいしさ。その味は、うすい水色の四合びんと共に今も忘れられない。
バタバタと鳴る旗の音を頭上にしながら、レンゲ田がひろがっている谷あいを眺めると、女の子たちが、そのレンゲの花の中にゴザを敷き重箱をひろげている。女の子たちのお花見は、レンゲの花で作った首飾りをかけ、スミレの花を松ぼっくりに挿した飾り物を作り、つばなを噛んだお花見だった。

  




2014年4月5日更新


 大阪を学ぶ・楽しむツアー   3月18日~20日

  「なにわ探検クルーズ」は90分で大阪の川から街を眺める。安治川・堂島川・大川・東横堀川・道頓堀川と回る。案内は落語家の桂阿か枝さん。乗客は7人。こちらが気を使って10時発の便なのに、ウイスキーのホットなど注文し船内の雰囲気を盛り上げた私。川面からグリコの大看板を見る。 

   
 ユニバーサルシティポートから「川のゆめ咲き線コース」        道頓堀


 司馬遼太郎記念館  自書・資料・翻訳などの蔵書は6万冊。歴史小説を書くという作業の実態を知る。書斎前の庭が雑木林なのがうれしかった。司馬はシイ、クヌギ、ヤマモモ、エコノギ、クスなどの雑木が好きだったそうだ。館の周りは菜の花が満開。そして町内も菜の花を咲かせていた。2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」である。
 「私の好きな花に菜の花が加わった」と、誕生日が2月12日の妻は言った。

蔵書の数は約6万冊 展示
室には高さ11メートルの壁
面に2万冊の書棚が
 

 
 なんばグランド花月で、「オール阪神・巨人」 「今いくよ・くるよ」 「ザ・ぼんち」 「ティーアップ」など見事な話芸に屈託なく笑う。大相撲大阪場所十一日目・遠藤と豪栄道への声援のすごさ。椅子席D 西7列という席なので自由な観戦ができる。周りは英語、アジア系言語でにぎやか。缶ピール片手のアメリカ人が「ゴーエードー」と叫ぶ。タイミングも声も堂に入ったもの。法善寺の水掛不動尊でも外国の人に出会った。

  「ハルカス300」に朝八時半の第一便で登る。エレベーターに乗る順番が最後。300メートルの天空でエレベーターのドアが開いた時、そう、私が“一番乗り”ということになった。迎えてくれた案内の女性陣に「一番! 一番!」と左の人差し指を指し出しはしゃぐ。(〈左〉は特に意味はない、私は左利きだから)

   

 
  四天王寺で彼岸供養の「経木流し」(春秋の彼岸や盆に経木に故人の法名を書いて、金堂脇の「亀の井」の水に流す)を見る。屋外で行われる法要だが「撮影禁止」だった。 四天王寺の南大門から南200m程の処に建つ日本最古と云われる四天王寺庚申堂を訪れた。この堂は日本最古の庚申堂と言われている境内の西壁沿いの一画に聖観音像(1960
年建立)を中心に、古い庚申塔や板碑が十数塔立ち三猿・鶏などが刻まれている。江戸初期の寛文10(1670)年造立が最も古く、同12年・13年、天和4(1685)年、元禄5(1692)年などのものも。最新は昭和15(1940)年造立のものだった。この庚申堂参りには先客がいた。小樽から来たというカメラマンに出会う。庚申塔の研究をしているとのこと。「出身は相模原」と分かり名刺を交換。道祖神碑のことなど饒舌になった私だった。 

     
 寛文10(1670)年造立  寛文13(1673)年造立  天和4(1685)年造立

  大阪歴史博物館 ここは「見学した」という程度の関心度。
 
  住吉大社・「住吉造り」という固有の社殿作りの社。早朝なのに近所の方々が日参されていた。通勤途中の若い女性、近句で食堂をやっているというご夫婦など、大きな神社だが人々の生活の中に息づく神社。 

 

  
  国立民族学博物館は大阪万博の記念博物館。日本ゾーンだけに90分滞在。道祖神、山の神、田の神などの祭りの展示物に見入る。万祝いも掛けられていた。眺めているだけで楽しかった。家族に「よくそんなに眺めていられるね。他も回ったら」とあきれられた。 

     
 長野・上田市の双体道祖神 秦野にも山の神 田の神は祀られているが具象化されたご神体はない 


 東住吉区の宝神神社(賽の神神社)を詣でる。大阪にも道祖神があった。ご神体の道祖神は格子戸、金網に護られて拝観できない。フラッシュを焚き撮影を試みたが金網が反射してしまい中は撮れなかった。今、パソコンの力を借りてその映像を解析しているが、平たい丸石が二つ重ねられているようなご神体らしい。神社の脇の六地蔵や青面金剛像はその石の色からここ数年の間に建立されたようだ。道祖神は関西人には馴染まない神らしい。

 
 向拝に道祖神の由来が記された額が掲げられていた

 
  「さをりの森」は妻が趣味としている「さをり織り」の総本山。まったくの偶然、いや奇跡とも言えるだろうことが起こった。「さをり織り」の創始者・城みさを先生に出会えた。先生はまもなく百一歳におなりとか。今も週六日、機を織っていらっしゃるとのこと。先生を真ん中に記念写真を撮った。神奈川からの来訪を喜ばれ自作の織物をプレゼントして下さった。妻はただただ感激。 

   


 大阪市は市長選の最中、橋下候補の街頭演説を聞いた(見た?)。




2014年3月1日更新


 立春の朝 沢蟹 旅立つ
 去年の10月17日、台風一過の朝に出会い、10月25日に再会した沢蟹を2月4日・立春の日の朝旅立たせた。 
 出かける前にゆで卵のほんのひとかけらを与えたら抱え込んで食べた。
 どこに放そうかと思案の末、金目川に流れ込む湧水地につれていった。
 節分の昨日とはうってかわり、二月らしい気候の朝。小雨。 

 立春の瀬に沢蟹を帰しけり
 途方に暮れたのか、それとも別れを惜しんでいるのか、しばらくは浅瀬で動かなかった。やがてゆっくりと石の下に。
 沢蟹はしたり顔して石陰へ
 我が家での逗留は97日。桶の中での囚われの身に「理不尽!」と怒るのは当然。だが二度の出会いを〈縁〉と思い 許されよ。
 はなむけの辞
 沢蟹に我を離るる爽気あり



2014年2月1日更新
まほら秦野道しるべの会 研修会「日本最古の道祖神を訪ねて」 2013年12月4・5日
                   研修地 高崎市倉渕町  安曇野市穂高町  辰野町沢底地区





2014年1月1日更新
                                                  賀 正


日本最古の道祖神 長野県辰野町 永正2(1505)年


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