Somewhere in My Heart
  ~ Katsumi's Monthly Essay ~

にっきの木(日記の己)


庭に古びた一本のにっき(肉桂)がある。秋が終わるころ陽光を入れるために枝を下ろす。すると庭いっぱいに
あの香りがただよう。葉をかめば、幼いころ巡り歩いたあちこちのお祭りの夜店の光景が浮かんでくる。
このページ「にっきの木」には,いつの日にか懐かしく読み返すことができたらいいと思うことを記そう。

 マンスリーエッセイ 2010~2013年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2007~2009年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2004~2006年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2000~2003年 掲載分はこちらへ


2017年7月7日更新

 6月23日「沖縄全戦没者追悼式」で朗読された詩
 誓い~私達のおばあに寄せて
                                                           宮古高校3年 上原 愛音

今日も朝が来た。/母の呼び声と、目玉焼きのいい香り。/いつも通りの/平和な朝が来た。/七十二年前/
恐ろしいあの影が忍びよるその瞬間まで/おばあもこうして/朝を迎えたのだろうか。/おじいもこうして/食卓についたのだろうか。/
爆音とともに/この大空が淀んだあの日。/おばあは/昨日まで隠れんぼをしていたウージ(サトウキビ)の中を/友と歩いた砂利道を/
裸足のまま走った。/三線の音色を乗せていた島風に/鉄の臭いが混じったあの日。/おじいはその風に/仲間の叫びを聞いた。/
昨日まで温かかったはずの冷たい手を握り/生きたいと泣く/赤子の声を抑えつけたあの日。/
そんなあの日の記憶が/熱い血潮の中に今も確かにある。/決して薄れさせてはいけない記憶が/私の中に/私達の中に/確かに刻まれている/
少女だったおばあの/瞳いっぱいにたまった涙を/まだ幼かったおじいの/両手いっぱいに握りしめたあの悔しさを/私達は確かに知っている。/
広がりゆく豊穣の土に芽吹きが戻り/母なる海がまた/エメラルドグリーンに輝いて/古くから愛された/唄や踊りが息を吹き返した今日。/
でも/勇ましいパーランク―(手持ち太鼓)と/心臓の拍動の中に/脈々と流れ続ける/確かな事実。/今日も一日が過ぎゆく。/
あの日と同じ刻(とき)が過ぎゆく/フェンスを飛びこえて/締め殺されゆく大海を泳いで/癒えることのない/この島の痛み/忘れてはならない/
民の祈り/今日響きわたる/神聖なサイレンの音に/「どうか穏やかな日々を」/先人達の願いが重なって聞こえる。/おばあ、大丈夫だよ。/
今日、私達も祈っている。/尊い命のバトンを受けて/今/祈っている。/おじい、大丈夫だよ。/この島にはまた/笑顔が咲き誇っている/
私達は/貴方達の想いを/指先にまで流れるあの日の記憶を/いつまでも/紡ぎ続けることができる。/誓おう。/私達はこの澄んだ空を/
二度と黒く染めたりしない。/誓おう。/私達はこの美しい大地を/二度と切り裂きはしない。/ここに誓おう。/私は、私達は/この国は/
この世界は/きっと愛しい人を守り抜くことができる。/この地から私達は/平和の使者になることができる。/六月二十三日。/
銀の甘蔗(かんしょ=サトウキビ)が清らかに揺れる今日。/おばあ達が見守る空の下/私達は誓う。/私達は今日を生かされている。

 ネットで詩を朗読する上原さんの声を聴いた。七年前に訪れた「平和の礎」とその前方に広がるコバルトブルーの海が浮かんできた。ステレオの
レコードボックスの中には森山良子の「さとうきびばたけ」(1969年)があることも思い出し探がし出した。


2017年6月7日更新

 平成29年6月14日
 
茅ヶ崎市教育委員会の「PTA指導者(広報部)研修会NO2」で講演会・講座 1000回に到達
 手元に古びた大学ノートがある。表紙には「新聞教育活動」と書いてある。その第1ページには「S35.8 厚木市立玉川中学校に勤務を始める。
生徒会顧問と新聞部こもんになり「玉中新聞」を創刊する。ガリ版で新聞づくりに取り組む」と記されている。それから10数年を経て、私なりの「新
聞教育論」を持つに至った。それが次の「新聞で学校に三つの声を響かせよう」である。
 新聞で学校に三つの声を響かせよう
 1960年に中学校の教師になった。その初任校で校長先生から「学校新聞の創刊」を命じられた。こうして、幸運にも ―本当にそう思っている―
学校新聞づくりに出会えた。以来きょうまで57年間、学校での新聞づくりにかかわってきている。
 学級担任時代は「学級だより」を週刊で。日刊でも3年間がんばったこともあった。担任を外れたら「学年だより」や「学校だより」を発行。PTA広
報づくりとのお付き合いもほとんど同じくらいの歳月になる。なぜそれほどまでに学校での新聞づくりにこだわるのか、と聞かれる。その時は次の
ように答えている。
「新聞で学校に三つの声を響かせよう」。“三つの声”とは、一つは子供の声。二つ目は保護者の声。そしてもう一つ、たぶんこれが一番大切だと
思うが、教師の声。この三つの声が校内に響きあうとき子供は育つ、教師も保護者も成長できる。だから「子供の声があふれる」学校・学級新聞
は欠かせないし、保護者が「学校や子供たちにかける願い」を実現するためにPTA広報は必要。教師は「自分の教育観・人生観」を子供たちや保
護者に語るためにも学級だよりや学校だよりを書くのだと。

 平成29年6月14日 茅ヶ崎市教育委員会 主催の「PTA指導者(広報部)研修会NO2」 で、私の講座・講演会は1000回を数える。下にその概要
は書いたが、第一回は昭和47(1972)年11月だった。そして1000回を来週・平成29(2017)年6月14日に迎える。この間は45年を数える。講演
会講座の多くは新聞教育・新聞づくりだった。北は北海道、南は九州まで出かけた。
 
 武勝美の講演会・講座の講師 1000回の記録                         
 NO 1 昭和47年11月 「広報紙づくり研修会」 秦野市東婦人会
 NO100 昭和62年11月 講演会「ちょっと聞いて先生」 秦野市教育を守る会
  (平成9年3月31日退職)
 NO189 平成9年4月 「PTA広報づくり研修会」 秦野市PTA連絡協議会
 NO200 平成9年9月  講演会「子供の心を鏡として」 東京・田無市立第一中学校PTA
 NO300 平成13年9月 講演会「ぼくが学校に行けないわけ」 神奈川・松田町生涯学習研修会
 NO400 平成17年5月 「PTA広報づくり講座」 神奈川・大井町教育委員会  
 NO500 平成20年4月 「新聞技術講習会」 秦野市立東中学校
 NO600 平成22年4月 「PTA広報づくり講座」 東京・荒川区教育委員会
 NO700 平成23年11月 講演会「大山道を歩く」 まほら秦野みちしるべの会
 NO800 平成25年8月  講演会「大山と盆地の暮らし」 JAはだの・組合員基礎講座
 NO900 平成27年4月 「こうすればできるPTA広報」 宮城県気仙沼市・三陸新報社

 NO989 平成29年4月17日 「広報紙づくり講習会」 神奈川・海老名市教育委員会
 NO990 平成29年4月26日 文化講演会「道祖神ワンダーワールド・神奈川の道祖神」 秦野市立東公民館
 NO991 平成29年5月 9日 「PTA広報づくり講座」 神奈川・伊勢原市PTA連絡協議会  
 NO992 平成29年5月10 日 「新聞技術講習会」 秦野市立東中学校  
 NO993 平成29年5月12日 「PTA広報づくり研修会」 秦野市PTA連絡協議会
 NO994 平成29年5月14日  講座「古道大山道を歩く・東地区」 まほら秦野みちしるべの会
 NO995 平成29年5月18日 「PTA指導者(広報部)研修会NO1」 神奈川・茅ヶ崎市教育委員会
 NO996 平成29年5月20日 「PTA役員(広報部)研修会」 神奈川・藤沢市教育委員会                          
 NO997 平成29年5月29日 「広報紙づくり研修会NO1」 神奈川・座間市教育委員会       
 NO998 平成29年5月30日 「PTA広報紙づくり講演会」 湯河原・真鶴・箱根町教育委員会
 NO999 平成29年5月31日 「広報紙づくり研修会NO2」 神奈川・座間市教育委員会
  (今後の予定)
 NO1000 平成29年6月14日 「PTA指導者(広報部)研修会NO2」 神奈川・茅ヶ崎市教育委員会                    
 NO1001 平成29年6月18日 文化講演会「道祖神ワンダーワールド・日本の道祖神」 秦野市立東公民館 
 
 ◇ 999回の講演・講座のテーマ
 1 子育て・教育の講演会  32回
 2 地域の文化・民俗・歴史の講演会 172回
 3 学校・学級・PTA新聞づくり講座  795回
 ※定年退職(平成9年3月)以降の講師  812回

2017年5月10日更新
  立 夏
 5月6日 「立夏」 
 この日、裏の畑の梅の木からオオルリの声が響いた。「ピィーヒィーリリ ピピーピィーリ ジジッと鳴く」(『日本の野鳥』山と渓谷社)のだそうだが、私
にはその鳴き方は文字化できない。ところがその一鳴きだけであとは聴かれなかった。
 この春、我が家の裏の植木畑は梅一本を残してきれいに整理された。その環境の変化にオオルリは反応し、他所にねぐらを求め飛び去ったのだ
ろう。ここ数日、オオルリのすんださえずりは聞かれない。
 午後、庭続きの畑に里芋の種を撒き、サツマイモの苗を植えた。夕方、サツマイモの苗に灌水をし、母屋に戻ろうと歩を進める私の目に入ったもの
は、モミジの根元に動く黒っぽい物体。それは、土を掘り起こしミミズを探しているのはタヌキ。私に気づいき、私の前を逃げていくのだが、猫や犬の
ような逃げ足ではない。たしかに逃げてはいるがのだ、ゆうゆうと、その走りはユーモラスに見えたた。裏の畑を棲家としていたのだろうこのタヌキは、
我が家の庭に引っ越してきていたのかもしれない。三日から始まった大型連休の間、私は庭の草取りに“全力投球”した。「目に見えて」と言うほどで
はないが、むしり取った草の量はかなりのもの。そのためタヌキはまた棲家を追われたのか。
 今年は松の新芽の伸びが早い。摘まなければ。朝顔と夕顔の播種もした。放っておいた枝垂桜の樹形を整えようと添木を立てた。まだキュウリなど
野菜苗は植えていない。
  七日 半年ぶりに刈り払い機を使って畑の周りをきれいにする。少し畑らしく見え納得、そして爽快感もちょっぴり。 

2017年4月7日更新
 わたし 車を換えました
:4月3日 
 80歳にして車を換えた。今まで持っていたクラウンには17年、スバルの軽トラも11年間お世話になった。家人が言った「クラウンを乗り潰すと言って
いたのに、あっさり換えたのね」。確かにクラウンで終わるつもりでいた。だがこの二車とお別れした。
 今年8月に運転免許証更新の日が来る。先日、県公安委員会から「認知症検査のお知らせ」が来た。更新には「認知症検査の受検」が義務付けら
れたのだ。高齢者の自動車事故がしばしば報じられ、「運転免許証」を返納した知人もいるというのに……。
 だが我が家は車がなければ暮らしていけない。それで、飛び出しや追突を避ける自動安全ブレーキ、はみ出し運転警報装置、後方確認カメラ付き
というソリオという車に乗り換えた。
 免許を取得したのは1966年だから今年でちょうど50年。敷地内の庭木にぶつかったりこすったりはしたが、他人に迷惑をかけた事故はしていない。
ルール違反で捕まったのは4回。だがスピード違反はしていない。かつて息子に言われたことがあった「お父さんの運転の特技は追い越されることだ
ね」。私は、機械というものに信頼感を持てない性格の持ち主。その上、運転技術に自信があるわけではない。しかも限界年齢と限界体力。
 だから、これからも運転での間違いは絶対起こしませんと宣誓し、「もう少しの間、車を使わせてくたさい」と世間様にお許しを乞う私です。

 買い替えし車に私の暮らし教えんと夕暮れの町も少し走らす

2017年3月7日更新

 「わたし 鶴田町の隣の出身です」
 古木文一先生の叙勲受章を祝う会に出席。祝宴が始まると直ぐに、一人の女性が私の席にみえた。そして「Yと申します。武先生とどうしても
お話をしたいと思っていました。出席者名簿の中に先生のお名前を見つけ、失礼とは思ったのですが、早速こうして参りました」と挨拶をされた。
 Yさんの話は『エコー』にまつわるエピソードだった。この号で私は「青森県・鶴田町への旅・鶴の舞橋と八木橋連長さん」を書いた。
 「ずっーと昔、内藤先生から『エコー』を読ませていただきました。生まれ故郷は青森県鶴田町のとなりの柏村(現つがる市)です。先生が津軽を
旅され、鶴多町の鶴の舞橋のことを書いてくださっているので感激しました。」とYさん。「実家に帰った折り、思い切って鶴田町役場に八木橋さん
を訪ねました。そして武先生が鶴田町をこんな風に書いてくださった、と『エコー』をお見せしました。とても喜んでくださいました。そしてお土産に鶴
田産の特製ワインをいただいちゃいました」。
 生まれ故郷を離れ、時が経てばたつほど、ふるさとの素晴らしさ確認し、ふるさとへの思いはつのる。

 「ECHO」113号(1994年9月20日)
 鶴の舞橋と八木橋連長さん
 今年の1月17日の朝、ネクタイを結びながらテレビを見ていた。番組はNHKの『おはよう日本』だった。その中の〈列島百景〉」で、『鶴の舞橋(そ
の時は“鶴舞い橋”と記憶していたのだったが)』が紹介された。たぶん20秒くらいのスポットの扱いだったろう。とにかく、その橋の名前だけで「よ
っし!、この夏はここに行こう」と決めた。橋の所在地も定かではなかった。ただ、手帳の八月第四週のページに「鶴舞い橋に行く」と記した。
 六月になり、地図や時刻表で『鶴舞い橋』のある町をそしてようやく青森県に鶴田町があることを発見。『鶴の舞橋』を見つけたのは、七月の終
わりだった。

旅の日記
 8月24日(水) 晴れ
 午前9時過ぎ、鶴田町役場に電話した。「鶴の舞橋を見たい」と言う私に、交換台をはじめ電話口に出た方の対応がていねいで気持ち良かつ
た。折り返しの電話までもらった。しかも、明日は企画課の八木橋さんが案内をしてくださるとのこと。「駅まで迎えに行きます」と言ってくださった。
まるでⅤIP待遇。ほんとに単純な動機で行動しているのに、申しわけない気がしきり。
 23時発の『はくつる3号』に乗り込む。旅に出たいという心。舞鶴祭(私の学校の学校祭の名称)に、『鶴の舞橋』で私個人として参加したい、と
いう願い。『エコー』の取材(記者きどり)のための旅。「動かなはれば出会えない」という、モットーの実践のため…。そして、そう、もう一つ動機が
あった。あのJR東日本のCF『その先の日本へ』に魅せられて、ということもある。山形の駅長さんの語りと井上陽水の歌 ♪ あーさきゆめ ♪ に
引かれて…。そんなものがすべて作用して、このの旅になった。寝台に横になり、缶ビールを飲みながら旅とはこういうもの」とイイ気分。少し青年
の心を取り戻しながら眠りについた。

8月25日(木) 晴れ 
 青森ヒバで造られた300㍍の鶴の舞い橋
 青森で奥羽本線に乗り、川部で五能線に乗り換える。9時56分、陸奥鶴田に着く。駅頭で八木橋さんを探す。すぐに分かつた。八木橋さんの第
一印象は、その職務の国際広報係長そのものだった。企画係長も兼任だそうで、ジャーナリスティックな感覚の持ち主だった。鶴田町役場に案
内された。洗練されたデザインの庁舎は、明るく機能的だった。企画誅にアメリカ人が二人勤務していた。八木橋さんの名刺に、“国際”という文
字がある意味が理解できた。鶴田町は『鶴』にこだわっている。庁舎のデザインをはじめ、さまざまな場所・物に鶴が、その形をみせていた。
 11時になり、車で『鶴の舞橋』に連れて行ってもらう。青森ヒバで作られた木造の橋はその長さは300㍍、日本一だ。総工費は二億円。完成した
のはこの四月だそうだ。三連の橋は、鶴の優雅な飛翔の一瞬の大きなはばたきを、津軽富士見湖(潅漑用水池)に映していた。岩木山の裾に広
がる水田地帯を育てているこの湖を、大きくまたいでいる。ゆるやかなうねりを見せる『鶴の舞橋』のたたずまいを見つめながら、私はこのゆった
りとしたふくらみが、鶴田町の人たちの心なのだ、と思った。それでいて、国際交流の発信基地になろうとする外に向かつての意志表示。 津軽の
リンゴと水田の町がこの三連の橋に懸ける思い、心意気を知ることができた。
 八木橋さんの名刺はYAGIHASHI-RENCHOと、ローマ字でルビがふられている。「ペンネームですか、それとも源氏名(失礼な聞き方をしてしま
いました)ですか」と私。「いや、ほんとの姓名です。この橋と一緒に忘れられない名前として覚えてもらっています」と八木橋さん。八木橋連長=日
本一の長さを誇る『鶴の舞橋』を案内するにふさわしい名前ではないか。
 辞そうすると「鶴田へお泊まりではないのですか。残念ですね。それでは五所川原までお送りしましよう」と車を回してくださった。五所川原駅前で
昼食をご一緒していただいた。その折、八木橋さんがボツリと語られた言葉が印象に残る。
 「津軽というと、すぐに『かく巻と地吹雪の冬』。もっと明るいイメージを生み出したいです」津軽という風土に、新たな地域性を創造しょぅとする試
みの象徴『鶴の舞橋』を渡った。「自ら求めないかぎり、ほんとうの出会いはない」と言われている。私は鶴田町を訪れ、八木橋さんと出会えた。
 「次は、ぜひ奥さんとご一緒に鶴田へ来てください」という言葉に送られ、八木橋さんとお別れした。
 
    ※2011年2月7日 地吹雪の中「鶴の舞橋」を再訪した。


2017年2月1日更新







2017年1月1日更新
 
 買い物難民
 私が生まれ育った秦野市寺山は昭和30年までは神奈川県中郡東秦野村寺山清水だった。寺山「清水」は村の中心地で、今も
幼稚園、小学校、中学校、郵便局、農協支所がある。その寺山にはかつて五軒の商店があった。「宝作」に①『藤棚・高橋八郎酒
店』、②『新店・シンダナ』又の名を「萬ちゃんち」、「竹ノ内」には③『水野商店』、ここは「栄ちゃんち」とも呼ばれていた。いずれも
生活雑貨の店で、酒、タバコ、味噌、醤油、砂糖なども商っていた。他に「清水」には④『露木商店』と⑤『中村商店』が在り、小学
校の通用門の向かいで学用品や駄菓子などを並べていた。
 これら五店の中で「藤棚・高橋八郎商店」以外は10年ほど前までに看板を下ろしていたが、「藤棚商店」はコンビニに衣替えして
営業を続けてきた。寺山の住民にはこのコンビニの存在はありがたかった。だがそのコンビニも昨年11月21日に閉店した。
 コンビニのオーナーから「先生、悪いけど11月20日で店を閉めるから」と告げられた日、偶然目にした光景が忘れられない。タバ
コを買った先客の女性 ― 私と 同年齢くらいだった ― が、駐車場の隅で私に背を向け、しゃがみこんでタバコをくゆらせていた。
その後ろ姿に、「この店が無くなったら、唯一の楽しみであろうタバコを手にすることが出来るのだろうか」と思ってしまった。
 「買い物難民」という言葉は知っていた。寺山の住民はそれが現実になった。この日から寺山の住民にとって最寄りのコンビニは
1km先になった。食料品が目玉のスーパーは2kmと離れている。
 寺山には『藤棚』と『花小路』というスナックもあった。食堂は『正美屋食堂』。店名は思い出せないが、「宝ヶ谷戸」に鉄板焼きの店
もオープンした(直ぐに閉じたが)。
 市内を通る国道沿いには大型スーパーや各種量販店、ファーストフードの店が林立している。こうした街中に住む人たちはこの生
活環境は快適とまではいえないが、便利なことは確かだろう。そして今や食料品を含めさまざまな商品が通販で手に入るという商戦。
だから経営戦略とかいう理由で、街中のスーパーでもあっさり撤退する。そこには消費者の利便性の論理はない。買い物難民がま
た増えるという倫理観もない。
 市内のスーパーが閉店することを知ったその周囲の人たちが存続を願う文をその店の店頭に貼り出した。「生活ができなくなる。
生きていけなくなる」と。

2016年12月1日更新
11月6日
   『まほら秦野みちしるべ』(会創立10周年記念誌)
  &『道祖神ワンダーワールド』の
出版合同祝賀会

                             ◇主催 まほら秦野みちしるべの会  ◇会場 神奈中グランドホテル秦野

 6月1日上梓の『Katsumi In道祖神ワンダーワールド』と創立10周年記念誌『まほら秦野みちしるべ』(11月1日発刊)の両書は、
私にとって《姉妹本》、いや《双体道祖神》である。
 日曜日の午後三時から五時三十分という時間帯だったが、ご来臨の皆さん全員が閉会まで席を温めていてくださった。そして
15名の方から祝辞をいただいた。 
 司会の関さん・横溝さんは教え子。頼んだときには「エー !」と絶句した両君。この日はマイペースで進めてくれた。しかも二時
間三十分ピッタリで閉会。「ご馳走、食べられなかっただろう」と 聞いたら「十分頂きました」とにっこり。「ご苦労さん会」でカラオケ
に興じる両君に、重責を全うできた喜びと解放感を見たのは私一人ではないはず。
 記念誌の写真撮影でモーレツに頑張った田中会員は、この日も会報担当としてカメラを来賓の一人ひとりに向けていた。受付
の責任者は関裕子会員、その夫君は今日の司会と、夫妻で奮闘してくれた。会計担当は浦田・田村会員が買って出てくれた。
 会員の小山田さんは花束贈呈の役だったが、お孫さんに頼んだ。「爺ちゃんの最後のお願いだから頼む」。お孫さんは女子高生。
小山田家は会の存在、お爺ちゃんの活動を認めてくれているのだ。会の終わりに浦田さんの発案で参会者全員が唱歌「ふるさと」
を唄った。指揮は小山田さん。
 「ご苦労さん会(二次会)」を六時半から。その席で会員の綾部さんが私にしみじみと言った。「この会に入ってよかった」と。横山
会長は「大勢の来賓に出席してもらった。もう撤収などできない」と意気軒昂。横山家のお嫁さん・富美さんはこの日を祝うクッキー
を焼いて、参会者にプレゼントしてくれた。クッキーの意匠は「みちしるべ」と「双体道祖神」。
 田村さんが軽妙洒脱にこの席を仕切ってくれ、全員がカラオケに挑戦というハメに陥ったのだが…この会も大盛会。祝賀会の良
い締めくくりができた。改めて思った「よい仲間に出会え、よき支援者に支えられたからこそ今日という日を迎えられたのだ」と。

 共に歩く人を募っています
 この日いただいた皆さんの言葉から「秦野を知り、秦野を愛し、秦野を育てる」という私の思いはいっそう強いものになった。「まち
興し、まちづくり」に欠かせない力は「①他所者、②馬鹿者(乱暴な言葉をお許し下さい)③若者」の力。「みちしるべの会」の①会員
の半数は秦野以外の生まれ。②仕事を持ちながら活動に積極的で、《のめり込んでいる》会員もいる。だが、③会員の平均年齢は
69歳。現在会員は14名(女性会員は3名)。
 次のステージに向けて歩み始めた「みちしるべの会」は、「余所者、馬鹿者、若者」を今求めている。とりわけ「若い力」が欲しい。
共に歩いてくれる人を募っています。申し込みをお待ちしています。

 ありがとうございました
◇出版記念合同祝賀会のご来賓   石川一郎様 市川和雄様 磯崎敬三様 瓜本公生様 大津道雄様 大塚毅様 片桐務様 
加藤誠一様 久保寺邦夫様 小泉俊様 小泉孝様 小菅めぐみ様 小宮茂平治様 佐藤健様 佐藤敏夫様 須山徹様 関利勝様 
関智子様 関直美様 高橋照雄様 田中淑生様 中川孝男様 東島礼美様 古木文一様 古谷義幸様 松下雅雄様 
◇「道祖神ワンダーワールド」への心温まるメッセージを次の方々から頂いた。石田望様 内田賢司様 栗田守健様、菅原澄子様、
古谷義幸様 吉成勝好様、

2016年9月30日更新

 『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』を手に道祖神に導かれ次の世界へ
 6月8日、東海大病院で心臓血管外科の手術(大動脈弁と僧帽弁を人工弁に置き換え)を受けた。6月24日、その手術の補完として14本抜歯した。
人工弁に歯槽膿漏の菌は危険だということだそうだ。残った歯は4本という状態で6月26日に退院。退院はできたのだが゛食べることに大変難儀だ
った。そして義歯ができたのは8月8日。体力回復に努めているところだが、術後の体重は46㌔、そして50㌔そこそこにまで戻ったのだが、医師の
話では、元の体力に戻るには一年くらい掛かるのだそうだ。
 今回の事態に遭遇して感じたことは、歯の健康が大切だということ。食事が十分摂れなければ体力の維持はできない、すると日常生活が消極的
にならざるを得ない、それが更に体力の減退に拍車をかける、という負のスパイラルに陥る。
 この手術を受けることに決まったのは2月の中旬だった。「人工心肺」を使っての手術・心臓を4時間とめる手術である。それで、“人生のある種の
まとめ”をしたいと思った。それで『Katsumi In道祖神・ワンダーワールド』の上梓に踏み切った。「なんとしても手術の前に」と思い、編集を急ぐと同時
に手術を4月から6月に変えてもらった。そして6月1日に予定通り上梓できた。だから6月8日、納得して手術室に向かった。
 昨年12月の検査で病状の重さを知らされ、手術を勧められてからの6カ月間の心の動きを振り返るとき、動揺に近いものはあったが恐怖感はなか
った。やらなければいけないことがあったこと、その一つは上梓に向けての心の高ぶりは3月31日の菊川市への取材、編集作業も記述内容の確認、
レイアウトなど忙しさがあったこと。
 手術の日が近づくにつれ、家族間に重い雰囲気が漂った。だが、出版が間に合ったということで、「ああこれでいい」と納得したような心境だった。
「79年間、自分なりに生きてきた」という納得もあった。
 この世を去った者を村はずれで待っていて、次の世界へ道案内してくれるのが村のはずれのお地蔵さん。その地蔵菩薩と連れられていく者が僧
形双体道祖神に遷化した。手術を決めたとき、『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』の上梓を“人生の締めくくり”としたいと思った。それで「なんとし
ても手術前に」と編集を急いだ。『Katsumi In 道祖神ワンダーワールド』に手に次の世界に行くのは私らしいと思ったからだ。

 今度の手術の担当医・長泰則先生に5月23日にお会いした。私の病状に対しての先生の言葉・説明は、私を得心させるのに十分すぎるほど力強い
ものだった。泰は「おおらか」「ゆったり」「安心できる」。
 眼鏡の長先生の柔和な笑顔がよく似ている知人がいる。秦野名産の落花生菓子の老舗のご主人・トヨちゃんた゜。創業90余年で、昔ながらの伝統
の味をかたくなに守り続けているトヨちゃん。伝統の技と永年の経験で培った職人技で煎る・味付け、袋詰めまで全て手作業にする人だ。「派手なこと
は嫌い、味で勝負」と通販など取り扱わないで、店頭販売にこだわっている。職種は違うが、二人の笑顔は、対面する誰にでも(長先生は患者、トヨち
ゃんは初見のお客)安堵感を覚えさせる笑顔。それは自らの仕事に誇りと自信が満ちている笑顔だから、と私は思う。

 そしてもう一人の主治医・岸波吾郎先生との出会いもありがたいことだった。私は次のような手紙を岸波先生に届けた。
 
 退院してから手にした本、酒井大岳師の『語るより歩む』に次のようなことが書かれていました。「水の表面が揺れることを《波》と言います。目に見え
ないけど《波》の下の水も揺れている、それは《浪》と表します。浪とは「澄み切った水」の意味です。そして底の水の揺れは《濤 》でず。
 《波》《浪》《濤》
《波》
 手術後のある朝の回診のときのことです。数名の先生方の最後尾の岸波先生は、病室からに出られる折、私に向かって腰の辺りで小さく右手を“ヒ
ラヒラ”させ、笑顔を送ってくださいました。この“ヒラヒラ”は、かつて訪れた三陸の春の海の《波》のように思えたのでした。
《浪》
 ある日、突然私のベッドにこられ、何も言わずに私の右足をさすり出て行かれました。これは《浪》です。「医は仁術」という言葉が浮かんできました。
《濤》
 傷口の縫合の糸を抜きにみえたとき、看護師さんに「『春』で、てんぷら食べてきちゃった。おいしかったよ」と話しかけられました。なぜか私は「ああ、
『春』のてんぷら、私もたべたことがあります。おいしかった」と、反応してしまいました。すると先生は「おいしいよね」と相槌を打たれました。「この仕事
けっこう体力がいるんです」とも。そして「そうだ、武さん、快気祝いを『春』でやろう。祝杯を挙げよう」。このときの先生の言葉は《濤》てした。手術が成
功したことをを保証する言葉と理解し、とても嬉しかったのでした。《濤》は波と浪を支える根源のエネルギーなのです。
 2011.3.11以降、私は気仙沼市に心を寄せ、いくつかの行動をしています。その気仙沼市には『蒼天伝』という銘柄の日本酒があります。「三陸の海と
空の蒼さは豊かさの象徴」という意味での命名だそうです。先生と『春』での快気祝いは、どう考えても理に叶うものではないようです。でも、先生の言
葉を本当に嬉しく思い、今夕、家族で『蒼天伝』で快気祝いをいたします。 ありがとうございました。
  2016年7月11日       武 勝美

2016年6月1日更新

 昨年度末発行の広報紙をお届けします
 326号に「感謝状をいただく」と報告した中野区中p連から次のようなたよりが届いた。身が引き締まる思いである。

 武勝美先生 新緑輝く季節となりました。先生におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
 遅くなりましたが、中野区立中学校11校の昨年度末発行の広報紙を送付させていただきます。先生の最後の講習
を受けた広報委員さんの作品です。どの学校もなかなかやり手が決まらない昨今の広報委員です。 どうしても前年
度と同じパターンのやっつけ仕事になりがちですが、武先生のお話を聞いた委員さんのアドバイスが光る箇所がきっ
とあります!(と思います)
 いつも熱意のこもった暖かく素晴らしい研修会を、長い間本当にありがとうございました。また、『春の朝』をいただ
き重ねてお礼を申し上げます。 先生の穏やかな感性と優しい言葉があふれていました。あらためて先生のすごさを
思い知り、このような方に長くお世話になれたことの幸せを、一同しみじみと噛みしめた次第です。
 どうぞ御身体ご自愛いただき、いつまでもお元気でお過ごしください。ありがとうございました。
                               平成27年度中野区立中学校PTA連合会会長  井戸田康敬




2016年4月7日更新

  3月31日・4月1日   サーカスを観る
 菊川市の應聲教院の道祖神に逢いに出かけた。 「(秦野のお話」のページ)
 浜松で公演中の「ポップサーカス」の『ワールド サーカス フェスティバル』を楽しむ。正面最前列のボックスシート。席で演者の息
遣い、汗、表情を見ることができた。 空中ブランコ、イリュージョン、ジャグリング、、軟体芸、エアリアルフープ、アニマルショ
ーなど、アジア・ヨーロッパ・アメリカのタレントたちが最高のパフォーマンス・技の妙を見せてくれた。中国雑技団の少女のア
クロバットの演技に入る前の恐怖感とも取れる表情を見た。
 クラウンのコントにも特別出演?させられたりと(もともと《目立ちたがり屋》だから見抜かれた!)、あっという間の二時間。
 中部電力の浜岡原子力館で原子炉の仕組みを少し学ぶ。帰りに長泉町の井上靖文学館を訪ねる。行く先々に桜花。



2016年3月7日更新


にっきの木 番外篇   2011年3月11日 私はこんなことを日記に記していた。

「2011年3月11日午後2時46分」 心に刻み込めと瓦礫の中の時計は時を止めた
 初めて体験する揺れの激しさ。東海沖地震が来たと思った。外を眺めていたら石灯籠が崩れ落ちた。額が一枚落ち、ガラスが飛び散った。
応接室の郷土玩具はちりぢりに落下。こけしが棚から転げ落ちる音がすざまじかった。小原庄助人形の徳利が割れた。トロフィーの女神像
の両腕が折れた。9時ごろ電気が復旧。テレビが報じる津波のエネルギーに茫然。被災地の皆さんの恐怖感は計り知れないものだったろう。
その心労は想像するに余りある。

2011年3月18日  セ・リーグ 予定通り開幕 
 プロ野球のセ・リーグが予定通り来週25日に開幕するらしい。今朝の新聞にその声明書が出ていた。その声明は350字ほどで全文の三分
の一がアメリカ大リーグが同時多発テロのときにとった対応の文の説明になっている。「野球の力で復興に寄与したい」というのが主旨のよう
だ。野球で「元気を、勇気を与えたい」というのだ。
 このごろ感じているのだが、テレビのインタビューなどで、何かにつけて「元気もらった」とか「勇気づけられた」などという言葉を使う人が多い。
(当人がそう感じるのだから、それはそれでいい。私はそう簡単にこの種の言葉は使えない。)
 被災地の人たちが電力も十分でない中での生活を強いられている夜、一方では煌々と輝くエアコン完備のドームで行なわれる野球を楽しん
でいる光景。それが勇気付け、元気付けになるのだろうか。
 「ナイターは電力の消費量が大きい」というのは“俗説”と言いたいらしいWオーナー。「野球を通して元気と勇気を被災者に送りたい」と言った
K社長。だがこんな言葉「日程の消化のためにも」(Y球団の役員)を聞くと《経営》も透けて見える。
 「ゴルフもフィギュアスケートも、すべて中止なのに、なぜプロ野球だけが開幕にそんなにこだわるのか。被災者のことを思うと野球開催どころ
ではない」。これは阪神の金本選手。彼は仙台の大学で学んだ。ヤクルトの宮本選手の言葉、「野球で勇気づけることはいいとは思うが、今、勇
気づけられると思っているなら思い上がりだと思う」。選手が元気でプレーできないで、どうして勇気づけ、元気づけができるのだろうか。
 コミッショナーは言う「批判は甘んじて受ける」。「受ける」のではなく「受けないようにする」ことが肝要。ファンからそっぽ向かれたらプロ野球は
存続できない。被災地を含め、国民の声を聞いているのか。

2011年3月18日
 昨夏、北上市での講座を通じて交流をしているWさんにお見舞いの電話をした。3月8日に届いた手紙では「彼岸には早いけど気仙沼に両親
の墓参りに行ってきた」とあったので。実家は火災が発生した地区で、2日前ようやく弟さんから無事の連絡が入ったとのこと。「家は焼けちゃっ
たけど、無事な声が聞かれて一安心」とWさん。 

2011年3月20日 つながりをもっとも確かにするのは言葉
 軽々しい言葉は口に出来ない。でも人のつながりをもっとも確かにするのは言葉。昨夜こんなメールが届いた。「今の状況の中、いつもと変わ
らない卒業式を迎えることができました。先生方に感謝です。校庭の国旗・校章旗掲揚は半旗になっていたような気がします。卒業式をできず、
後日卒業証書が郵送されるという話を聞きました。それに引き換え、晴天に恵まれ、素晴らしい卒業式ができて、ほんとにうれしいです。親子と
もども小学校を卒業しました」。


 東日本大震災から五年が経った。気仙沼と少し関わりを持った私が今できることは、気仙沼の人たちの暮らしを紹介することと思った。
 気仙沼は漁業・水産業のまちである。わたしたちが食べているサンマ、カツオ、マグロなどを獲る漁業従事者の船での生活はどのようなものな
のか。

第1回  遠洋マグロ船 航海日数は平均400日
 気仙沼港の遠洋マグロはえなわ船の平均航海日数は400日。この間、ずっと働き詰めではなく、ハワイやラス・パルマス(スペイン)などに寄港
して食糧や燃料などを補給し、乗組員は航海で疲れきった身体を癒す。魚を釣る方法は近海マグロ船とほぼ同じだが、遠洋マグロ船は航海が
長いため、漁獲した魚はすぐに尾や内臓を取り除き、血抜きしたあと、マイナス60度に急速凍結させて鮮度を保つ。
 近海マグロ船との大きな違いは、長い航海日数と船が大きいということ。119トン型が主流の近海マグロ船に対して、379トン、409トン型とビッグ
だ。遠洋マグロ船が漁獲したマグロ類が気仙沼港に水揚げされることは年に数えるほど。大半は、大手荷受業者がいる静岡県の清水、焼津、神
奈川県の三崎に水揚げされている。  「漁船のはなし」玉谷誠一著(三陸新報社刊)より



2016年2月7日更新

 神奈川新聞「文化欄」(2018/1/19)に掲載された 歌人米川千嘉子(1959年生まれ)さんののエッセ-
 好きになれない言葉
  「元気をくれる」「元気をもらう」という言葉があふれるようになったのはいつからだろう。そして、なぜか私はこの言葉がいつまで
たっても好きになれない。「癒やされる」というのも嫌だ。そのほうが何となく明るいし、後の会話もはずみそうなのはわかる。それで
も私は、「励まされる」とか「慰められる」とか地味に言いたい。「元気をくれる」などの言葉に私が感じる違和感は、苦境に耐えて成
功した人の話や目下頑張る人の様子を見聞きして、簡単にそれを理解できたと思い、簡単にそれを「元気」の素として受け渡しする
ような軽さへの抵抗感かもしれない。 そんなに人は他者が深く抱えているものを理解できないし、さらにそれを受け渡したりはでき
ない。むしろ私は、そんな、人間に関わる孤独をたしかに自覚させてくれるものに励ましを感じる。へそ曲がりである。

 私も「元気をもらった」「癒された」という言葉にはなぜか抵抗感があり、使った記憶はない、というより「使えなかった」。米川
さんのこの文にその答えがあった。小関さんが「言葉遊びをしよう」と書いてくれたが、「言葉遊び」にはたくさんの言葉が自分
のものになっていなければ出来ないことである。
 SNSの普及は文を単語化させた。そして、多くの人が個人の感情や情感を画一した言葉で表すようになった。その典型がテ
レビの取材に答える人たちの「元気をもらった」という表現だ。「直感はまちがえない」とある俳人が言った。心の襞の間から生
じた情感を私の言葉にしたい。だから 「感動で涙がとまらない」から観においで、と誘うキャッチコピーに、私は違和感を持つ。

 言葉あそび
 10年前になりますが、主人の仕事の都合で、アメリカに4年ほど住んだ経験があります。英語が得意ではない私は買い物をするに
もままならない日々でした。
 あるとき私の欲しい商品が高い棚に陳列されており、店員に「あの商品を見せてもらえますか?」という英語が思いつかず断念した
ことがあります。後から英語の先生にその話をすると、出てこない単語に固執せず、どれだけ変換できるかが重要で「届かない」 「見
たい」 「取って」どの言葉でも伝えることができると言われました。なるほど英語力も変換というより言葉あそびだったのです。
 「ちょっとイラストを描いて」「ちょっと一曲歌って」という場面と一緒で、文を書くことは「ちょっと」ではできません。「正しい文、難しい
文を書かなくてはいけない」という脅迫観念を意識してしまうからです。PTA広報紙の記事を書くときは、「言葉あそびを楽しもう」と気
持ちを切り替えたいと思います。文を書くということは言葉あそびの延長ではないでしょうか。   小関みちの


2016年1月1日更新

干支 信楽焼


 干「支申」  信楽の三猿

 信楽の倉田幸子さんは 「エコー」の創刊号からの読者のお一人です。その倉田さんから年の暮れになると信楽焼の干支が届きます。
今年・平成28年のもは(写真中央)デザインが過去のものとかなり違いがっています。一言で言えば「カワイイ」です。向かって左は12年
前・平成16年の干支で四足で立つ猿。そして右の三番叟を舞う干支は24年前・平成4年のものです。
 昭和52年から55年まで「朝日中学生ウイークリー」にコラム『職員室』を連載いたとき、お嬢さん・史子さんがその読者でその私に手紙
を書いてくれたのがきっかけで、信楽駅で倉田さん母子にお会いました。昭和55年(この年の干支は申)の春休みでした。その史子さんも
50歳を超えたと便りがありました。
 今年の干支を含め三体の申がそろったので、「ことしは三猿でいこう」と床の間に飾りました。この「三猿」のように「めを丸くして見て、耳
の後ろに扇を立て(耳が遠くなったので)そばだてて聞き、」大地にしっかと足を着け(何時か私も四足になる)、可愛く舞いながら暮らしたい
という願いなのです。、 


2016年1月1日 快晴・暖かい元旦

 落葉掃く頼るこころを誡めつ 
 元旦の朝9時から休日診療所iにお世話になったのです。昨夜9時過ぎ、いささか呑みすぎたため、昼間の窓ガラス拭きで頑張ったのがた
たり、ブリッジしてある6本の歯がスッポリ外れたのです。今朝の雑煮はもちろん食べられない、おせち料理に手をつけれ気分にもなりませ
んでした。
 当番医の先生の1時間近くのがんばりで、何とかはめ込んでもらえたのです。心からお礼を言いました「実は三日に大切なパーティーがあ
るのです。本当に助かりました」。そうしたら、その先生、私の肩を叩いて「がんばってください。仮の治療だけど大丈夫でしょう」。波乱万丈を
予感する一年のスタートです。
 昨年12月21日の「朝日俳壇」に掲載された酒井大岳師(昨8月東吾妻町に師を訪ねた)の作品 「落葉掃く頼るこころを誡めつ」 を今年の
生活の目標にしようと思ったのですが、元日から家族に、社会に頼る生活です。老いることは「頼ること」でもあるとしみじみ思った今日です。




2015年12月7日更新

                    

 11月7日  中野区中P連から感謝状をいただく
 今回でこの講座の講師を降りることになった。2008年から8年間、20回「中野ゼロ」に出かけた。はじめの三年間は夜の開催。午後
6時半から9時というハードなものだった。それで「体力的・時間的にも無理」と講師の辞退を申し出たら、四年目から「土曜日の午後1時
半開会で」と変更になり、継続することになった。
 それからはロマンスカーの先頭車両の最前列に席をとり、おにぎりをほおばりながら大山など車窓から景色を愛でる小さな旅になった。
 この日の講座が終わり、井戸田康敬会長さんが閉会の挨拶をされたのだが、途中で思いがけないことが起こった。私への感謝状の贈
呈式になったのだ。現・前・元のP連役員19名の寄せ書きも添えられた。気がつけば10名ほどのお父さんが会場の後部に立っていた。
 驚きと感激。土地柄というのだろうか、いつの講座でも、受講者の反応は良く、言いたい事を言わせてもった。このセレモニーがその“象
徴”と言える。
 後日 会長の井戸田さんと研修委員長の渡邉肇さんから次のようなお手紙もいただいた。
拝啓 深秋の候、先生におかれましては益々ご活躍で、ご多用のこととご推察申し上げます。先日行われました平成27年の第2回広報研
修会においては、ご多用の中ご講演いただきありがとうございました。PTAにとって広報がどういうものなのか、改めてその力を感じ、続け
て行くことの大切さを再確認いたしました。各校広報委員会にとりましても、何をどう伝えていくか、自校の紙面をもとに具体的なアドバイス
をいただき、今後の広報紙作りに直接役だつ内容でした。心より、感謝申し上げます。 
 当日のアンケートを同封させていただきます。
先生には長年にわたり講師をしていただき、誠にありがとうございました。先生の講義が受けられなくなるのは大変残念ですが、よりよいP
TA活動のため今後とも研修会を続けていきたいと存じます。先生のご健康と今後のますますのご活躍をお祈り申し上げます。  敬具

▽広報委員研修会のアンケートのまとめ△
感想・希望
・広報紙を作る上で注意すべきこと、読みやすくする工夫などのアドバイス。次の広報紙を作る上で今日のお話は役立ちました。
・何を伝えたいのか、誰を優先するか、それをレイアウトで工夫する必要がある―これは次号で活かしたい。
・広報を作るにあたり、学校側との調整や制限が色々あります。先生からのアドバイスを活かし今後の活動を進めていきたいと思いました。
身が引き締まりました。
・PTAの広報委員会は素人集団です。良いものを作成しようという気持はありますが、限界はあります。
・素晴らしい紙面作りというより、広報委員会を通して得る物も大事にしたいと思いました。来年の広報委員会の方々にもしっかりと引き継
ぎます。・PTAの広報紙とは何かを改めて考えさせられました。ありがとうごさいました。厳しく温かいお言葉を次に活かします。
・PTA広報紙としてのあり方をきちんと理解する事が出来た。他紙との比較により自紙の欠点が見えてきた。
・朝から晩まで働いて、その合間に仕方なく委員をやってます。〆切を守ってくれない先生、ふりがなを書いてくれない先生、写真を撮り直し
てくれという先生、また、なかなかチェックをしてくれない副校長など、学校に振り回されてやっと出来た広報紙。その上に研修会まで。負担
が大きすぎると思います。
・学校だよりではないという事が心に残りました。
・半分くらいはPTAの記事で埋めたい。学校の情報(行事)を載せるなら、保護者の意見(コメント)を載せて作りたいと思いました。記事を載
せる順番、行事の優先順位を考えるなど、きょうの研修内容を頭に入れて次回の広報紙をより良いものにしていきたいです。最後の講演を
聴けて良かったです。ありがとうございました。

 「中野ゼロ」での講座の思い出(『エコー』274号から)
 2010年5月22日  二人のお陰できょうの講座は“満点”
 講座が終えたのは3時半過ぎ。それから2校の相談を受けた。それで会場を離れたのは4時15分ごろ。
 講座が開かれた建物はストリートダンスの練習場として有名。20人ほどの若者が大きな窓ガラスに全身を写し、軽やかなステップに身を任
せていた。立ち止まって眺めるほどの時間(実は《勇気》)はなかったが、彼らの後ろ姿に目をやりながら建物の一角を曲がり表通りに出た。
 歩道を背にした位置で、建物の壁に一枚の紙を広げている二人の女性が目に入った。見た顔だった。数分前に相談を受けた『W』の二人
だった。近寄ってみると、壁に広げていたのは私がアドバイスした紙面だった。その紙面になにやら書き込みをしている。
「がんばってますね。編集会議ですか」と声をかけた。振り向いた二人は驚き、少し恥ずかしそうな笑顔。そして「さっき先生からいただいたヒ
ントを、忘れないうちに整理して紙面に書き込んでいるんです。余韻の残っているうちに…」と言った。きょうの講座の自己評価はこの二人の
お陰で《満点》。



2015年11月7日更新

 サンマ
 W様  気仙沼の大サンマが届きました。
 我が家の夕食は五時頃です。中学生ガ部活を終え下校する時間帯です。通学路は台所の横で、台所からサンマの焼ける匂いが流れ始めて
いました。通りかかった男子の声「あっ、サンマ焼いてんじゃない? ここの家」が妻を喜ばせたようでした。
 私の前に二匹が置かれていました。一匹は丸ごと・ハラワタは抜かないままで焼いてもらいました。「脂が乗っていておいしい」月並みですが、
お礼の言葉はこの言葉に尽きます。
 『新報』の10月6日付けの「ご会葬御礼」で第二幸漁丸の乗組員お二人の海難事故のことを知りました。先月の『新報』の企画記事「若い漁船
員さんたちの座談会」、頼もしく読みました。 ところが、その座談会の出席者の一人が船上で亡くなられたという記事を読んだ記憶があります。
(間違いであれば・記憶違いであれば、と思っているですが)海で働く危険性・まさに「板子一枚下は」なのです。『漁船のはなし(三陸新報社刊)』
の中で知ったこと。「遠洋漁業になると一年、二年も気仙沼に帰らない。近海でも三カ月は帰港しない。風呂水は海水」。そんな厳しい環境の中で、
私の食卓に魚を届けてくれる漁師さん。
 気仙沼の今年のサンマの水揚げはよくない、と『新報』で読んでいます。その気仙沼から送られてきたサンマです。いくたびも「おいしい」と、うな
ずきあいながいただきました。ご馳走さまでした。
 退職する年の最後の朝会で五味太郎さんの詩「正しい魚の食べ方」について話しました。

 正しい魚の食べ方              五味太郎
何千、何方、何億の人々の中の、/あの人でもないこの人でもない、/たまたま、まったくのたまたま、/このぼんやりした子と、/何億、
何十億、何百億の魚の中の、/あの魚でもなく、その魚でもない、/この魚とがなぜかここで出会ったのだ。
「なーんだ さかなか」/なんていっている場合ではない。/「あんまり うまくないね」なんていっている場合ではない。/「のこさず食べる
のよ」なんていわれている場合でもない。/まして「あしたはハンバーグにしてね」/なんていっている場合ではぜったいにない。
いいたいことは魚の方にこそ、たくさんある。でも魚はだまっている。/「ああ、こいつに食われてオレは幸せだ」/と思うか思わないかが
問題なのだ。/
魚の食べ方が正しかったかどうか/そこで決まる。

2015年10月7日更新

 葉月から長月へ
 9月29日 
 秦野市P連の広報づくり講座。紙面クリニックの第三日目。この日は小学校6校の出席。終わってから「楽しかった」という感想をもらった。別
な人からは「先生の話はおもしろい。大学の専攻は何ですか」と尋ねられた。「おもしろい」だけでなく「専攻は?」と聞かれたことが嬉しい。彼女
のここでの「おもしろい」は古語の「おもしろし」だ、と私は受け止めたから。
 10月1日
 かつての同僚Yさんが訪ねてきてくれた。里芋 葱 小松菜、ほうれん草 キャベツ 落花生 栗 万願寺唐辛子。嬉しい ありがたい。  
 10月2日 
 東中学校の「地域学習」の授業の第2日。この日は『東地区に地名』がメイン。難解地名として挙げられている「名古木・ナガヌキ」という地名
の由来を話す。他に「金目川・カナメカワ」は180年ほど前は「カナヒカワあるいはカナイカワ」と呼ばれていたことを紹介。



2015年9月7日更新

 凹凸館  8月の「道祖神の里めぐり」は群馬と長野。その時のこぼれ話

 吾妻線の中之条駅前通り(国道353号線)を伊勢町伊勢宮に向けて車を走らせていていたときのこと。道路工事のため少し渋滞があり車が
止められた。何気なく窓越しに町並みに目をやったら、「凸凹館」という看板を掲げた建物が目に入った。その瞬間、「凸凹館! おもしろい。
写真を撮ろう」と思った。だが車は流れ始めてしまった。
 伊勢宮には、碑の下部に線刻の男女双体神が祀られている文字碑道祖神が在る。線刻の道祖神像は伯耆地方で多く見られる。東日本で
は珍しいその碑をカメラに収めた。こうして、この「めぐり」の対象は一つクリアできたのだが、先ほど出合った看板を見過ごすことはできない
。引き返すことにした。、
  「凸凹館」の玄関に立ち案内を乞い、「軒に掲げてある『凸凹館』という文字に引かれて。写真を撮らせていただきたいのですが」とお願いす
る。対応してくれた家人・女性は「ウチは旅館で、あれは屋号の看板です。『凸凹館』じゃなくて『凹凸館』です。よく間違えられるのです。見てき
てください」とにこにこ。
 「エッ!}という感じの私、外に出で看板の文字を確かめた。右から左に「凹凸館」と書かれていた。そして「久保田」の文字も縦に添えられて
いる。「凹凸館」の意味を尋ねたら、「凹凸館」の「凹」は「窪む」だから、看板は『クボタ館』と読むのだそうだ。「そういえば『久保田』と添え書き
がありますね」と私。
 店の構えは昭和時代の旅館風。この女主人・50歳代か・の気さくで明るい人柄。珍しい看板、読み方のおもしろさあって、土木工事の関係者
の定宿になっているらしい。広い玄関と三和土(タタキ)に置かれている品々でそれを想像できた。
                    
                  「漆喰なので手入れをする職人さんもあまりいなくて」 がお上さんの心配事



2015年8月7日更新

 秦野市寺山のお盆
   〈ツジ〉とご近所暮らし

  寺山のお盆は七月十三日から十六日。その十三日から十五日までの三日間は近所の《*ツジ》にお参り(線香を上げる)慣わしがある。
 十五日の夕方、Yさんの娘さんが二人そろって線香を上げにきてくれた。OLの姉さんは事務服のまま。妹さんは大学生。二人とも幼い頃
からよくお参りしてくれた。
 お盆の三日間のお線香上げは子どもの仕事だった。少子高齢化、しかも子どもだって多忙。そんな今、帰宅早々に近所のツジを回って歩
く二人の娘さんの姿に、ただただ感激した。妹さんは「私、こういうこと好きなんです」と笑ったが、今帰ってきている我が家のご先祖様のこと
などほとんど知らないはず。
 しばらく顔を見なかった九十歳のUさんが来てくれた。だが大儀そうだった。このごろのライターは安全装置が万全。Uさんは線香を灯すの
に苦労していると、後から来たTさんが手伝い、二人一緒にお参りしてくれた。そのTさんも先ごろ八十五歳になった。
 「ありがとうございます。Uさん、Tさん」と妻が二人にお礼を言う。Uさんの姿をしばらく見なかったのは、縁側から転げ落ち左足首を骨折し
たからだった。「でもよかったね、こうやって外に出られるようになって」と言ったら、「ヨソの人が線香を上げに来てくれるのに、ウチが行かな
いのは悪いじゃない」と真顔。
 裏のH家は普段は空き家である。ところがこのお盆の四日間は四人姉弟が帰省し、お盆の「線香上げ」をしている。十年以上も前からであ
る。房総半島から帰って来る長兄・Sさんは「留守にしてご近所に迷惑をかけている。せめてこの時期だけはご近所付き合いをさせてもらい
ます」と六軒の《ツジ》を回る。
 昨日は親子孫三代・四人で拝んでくれたS家。きょうは高一の娘さんが一人で、体操着で、走って来てくれた。 我が家は私が回る。なぜか
毎日私が〈一番乗り〉である。

 この線香上げは、日ごろあまり顔を合わせることのない生活を送っている私たちにとって、「遠くの親戚より近くの他人」を再確認し、「ふるさ
と」への愛を深めることに繋がる大事な風習。その〈線香上げ〉が、若い世代に引き継がれている我が家の隣組を、私はとても誇らしく思う。

*ツジ 秦野地方では、お精霊さん(オショロさん・ご先祖)が、お盆に帰って来るときの目印になるように門口に砂の山(砂盛りとも)を作る。
    お精霊さんは家に入る前にこのツジで一休みする。 


2015年7月7日更新

 水無月のモノローグ
6月30日
 きょうで6月は終わり。今月中に届いたP広報紙は21紙。きょう4紙分を発送し一段落。
 送られてくるクリニック依頼の文書や手紙はさまざま。毎回同じ文面、要するにパソコンに保存してある文書の発送日とその号数だけを打ち
直しただけのもの。B4の用紙に「時下益々清栄のことと拝察いたします」で始まり、数行で終わっているような典型的な公文書スタイル。一方、
自筆のでいねいな文字で、自分たちが頑張ったところなど書いてくるもの(今回は便箋三枚の委員会もあった)。 そしてこんな文にも出合った。
「感想などお気軽にお寄せ下さい」。

6月29日 
 市P連情報委員会に出席。三つのことを行う。
 ① 9月に行う秦野市P連の「広報紙クリニック」の打ち合わせを情報委員会と。
 ② 「市P連だより」の企画会議、これはB班で発行は二学期だが、もう企画はまとまりつつある。こんなに早く動き出しているのは特集が「いじ
 め」
 のため。
 ③ A班は7月14発行ということで出稿直前の紙面整理。

6月22日
 気になっていた梅の木の剪定、というより枝下ろしをした。8時半から午後3時過ぎまで。かなり切り詰め整理したので、自分としては《納得》の
作業。今朝の新聞で「長寿の条件の一つは自律」という体験談を読んだ。私の《自律》は「晩酌は欠かさない」。

6月20日 
 アサガオの苗の最後の定植をした。N中のP広報委員二人が発行された広報紙を持って来訪。二人とも、私がN中に勤務していた時代に生徒
だったとのこと。しかも一人は授業も受けたと言う。

6月18日 
 茅ヶ崎市のPTA広報講座は今年で三年目になる。講座は3回シリーズで、この日が第一日。昨年の県PTA広報コンクールで市内の2校が最優
秀賞と優良賞を受賞。受講者の広報づくりへの関心は上昇気流に乗っていると見た。12時閉講だったが、質問・相談を受けたので会場を出たの
は12時40分。ゲリラ豪雨に出遭ったが《爽快》と感じた。



2015年6月1日更新

 〈新手のオレオレ詐欺師〉?
 角館町に「人形道祖神」が在ると知り、仙北市の教育委員会に電話で所在地を聞いた。対応してくれた畠山さんは雪の中、現地に出かけ写真
を21枚メールで送ってくださった。
 田んぼに囲まれた稲荷神社の境内に、その道祖神はあることが判った。2月12日のことだった。
4月12日午後2時頃、畠山さんから頂いた地図を元に、神社の近くのお宅に電話をかけた。道祖神の話を聞かせてもらうために、である。午後2
時頃二軒に電話をしたが年配の女性から話を聞くことは出来なかった。神奈川からの電話、全く知らない男の声、電話は住所と名前の確認、近
くの稲荷神社に祀られている道祖神のこと、――もしかしたら警戒されたのかもしれない、と思った。
 《ぶっつけ本番で》は、今での「里めぐり」でもしばしば敢行したこと。4月30日の午後、カーナビの目的地を角館町広久内下中川原に設定。だが
広い耕地(田んぼ)の農面道路の入り口で案内は終わる。そのはるか先に、貰った写真の景色が目に入った。まだ耕されていない3枚の田んぼの
横切り目指す祠にたどり着いた。祠には鍵はかけられていなかった。
 この地方では道祖神・塞の神を「おにょさま・御仁王様」と呼んでいるのだが、木のお面の「おにょさま」が二面ずつ二つの祠に納まっていた。
 この私たちの動きを、50メートルほど離れた民家の庭先で眺めている男性に気づいた。電話で「4月30日に見に行く」と言ったので、完全に警戒
されていると思った。「これは挨拶をしないとまずい」と、即その方のお宅に車を寄せた。そこは、畠山さんから送られてきた地図に載っている佐々
木さん宅だった。
 「お宅におばあちゃんいらっしゃいますか。少し前に、あの道祖神のことで電話をした神奈川の者ですが」と言うと、「ウチにはばあちゃんはいない。
隣りの佐々木だ。でも電話のことは知っている」。
 佐々木さんの話は続き、20戸のこの地区に、神奈川から不審な電話がかかってきたので気をつけるように回覧板が回ったとのこと。あわてて名
刺を差し出し、無作法な電話の主は私とわびる。「そうかあんたか」とにこり。そして「佐々木を名乗り、稲荷神社のことを聞く新手のオレオレ詐欺じゃ
ないか、と言ってる人もいる」と続く。「新手のオレオレ詐欺ですか。その方に伝えてください。ほんとに《おにょさま》を見に来た人がいたと」と私。「そ
れを言い出したのは私だけどね」と佐々木さんは大笑い。

 広報づくりの話をするとき、「私が好きなキャッチコピー」として必ず紹介するのが次の二つ。『二番目にイイことは声を聞くことです』。これはかつて
の電電公社のコピー。『大切だから 直接伝えたい 顔を見て、気持ちも一緒に』。これはあるPTA広報紙の見出し。顔を見せないから“新手の詐欺
師”と疑われた私。
 佐々木さんと言葉を交わしながら改めて思ったのは「顔見て 心をこめて 言葉で伝えよう 人間だもの」ということ。





 2015年4月1日更新 

 群馬県東吾妻町・長徳寺
 日曜・月曜日の楽しみは新聞の歌壇・俳壇を読むこと。その人の生き方を、日本語が生み出した俳句・短歌で表している作品の数々。
それらを目で追う私の心が清められるひと時である。そして特に心に染み込んだ作品をノートに書き写す。この作業は老いを伴って急激
に鈍っていく私の感性を食い止めてくれていると思っている。また日本語が持つ繊細な表現力に感じ入るのである。
 そのノートには次の作品が記されている。
 1999/5/30   夫は法話吾は草引く寺暮らし          酒井せつ子
 1999/6/30   草とつてこんなところに居りし妻        酒井 大岳
 1999/9/5   夫と守る小さな寺や星涼し            せつ子
 1999/9/5   腰低く作る母乗る瓜の馬             せつ子
 1999/10/31  どんぐりに顔描く妻の真顔かな         大岳 
 2000/2/3   雪へ発つ靴あたためて呉れしこと       大岳
 2001/12/24  また吾の靴を履きをり師走妻         大岳
 2002/7/8   拾はれて生きてゐる犬寺涼し          せつ子
 2003/2/9   雪掻いて妻ほのぼのと戻りけり         大岳
 2010/5/10   花に酔ふ夫を拾つて帰りけり          せつ子
 2009/1/19   雪降れば雪を喜び雨降れば雨に感謝す山寺暮らし せつ子
 2010/1/24   山姥の如き態して大掃除           せつ子
 2012/11/15  金婚を祝ってくれし紅葉山            せつ子
 
 そしてこの3月
 2015/3/9   風花のやうに母逝く山の寺            斉藤紀子
         選評に酒井せつ子氏が亡くなったことが書かれていた。
         齋藤さんは酒井せつ子さんの娘
 2015/3/23  あつぱれな妻よ涅槃の日に逝きて       酒井大岳
         酒井大岳氏はせつ子氏の夫君で群馬県東吾妻町・長徳寺住持。
 せつ子氏にはこんな作品も
 1998/3/31  鯵秋刀魚椎茸昆布海苔鯣干されて旨み吾も日向ぼこ  




 2015年3月1日更新

  五台山文殊寺 (熊谷市野原)の大縁日は2月25日

 「日本三体文殊」の一つ。その大縁日は2月25日、今日である。。その文殊寺は「道祖神めぐり」の道筋だったので寄ってみた。
露店・屋台が30店ほど出ていた。焼きそば、たこ焼き、いか焼き、お好み焼きなど食べ物の店が居並ぶ中、鍬や鎌など農具を
並べている店が一つあった。その店の主と話す。
 昔は数店出ていたらしいが「今はウチだけ。群馬から来た。安いものがホームセンターで売っているから売れないよね。ウチは
自分で打っているからサビなんかこないよ」。年配の農家の夫妻が鋤を買う交渉を始めた。言葉使いが押し問答のような値踏み
が続く。最後は「いいよ、それで。持っていきな」と店主。
 竹製の籠や笊、箕などの店もあった。果樹の苗木はけっこう売れていた。縁起物の白だるまも並んでいる。北海道の昆布、千葉
の落花生、青森のりんご、熊本のデコポンなど日本中? の物が売られている。
 そんな中、本堂前に陣取る大判焼きには長い行列ができていた。店員三人がフル回転で“ひっくり返している”のに、である。他に
二つの大判焼きの店があるのに、なぜこの店だけ?  並んで待つくらいだから手にするのものは焼きたて“熱々”である。アツアツだ
からおいしい。食べ物は総じて温かいものはおいしい。おいしいから、求める人が並ぶ。好循環である。
 農具や掛け軸などたくさんの店が霜解けの道の両側に出ていた中を、父と歩いた秦野の白笹稲荷の初午祭を思い出した。
「フウテンの寅さん」を模した出で立ち(声色はともかく顔はちょっとムリ…)の、街頭芸人も客寄せに歩き回っている。
 近隣の農家の人たちと思われる参拝者が圧倒的に多い。「合格豆」など文殊寺に似つかわしいものが並んでいた。それを手にし
ながら「もう少し早い時期にお祭りがあればねぇ、もう孫の試験、終わっちゃったべ」と笑うおばあちゃん。学校がまだ終わっていない
時間帯なので子どもの姿はあまり見られなかった。



2015年1月1日更新

もう直ぐ1月14日 ダンゴ焼き(道祖神祭り)


「JAはだの」の組合員基礎講座で 「秦野の道祖神は316塔」

 11・12月の私は“道祖神三昧”でした

12月24日
 10月の鳥取・大山町の「道祖神めぐり」でお世話になった教育研究所の杉谷さんからメール。
 「先日お越しになりました大山も、昨日スキー場開きをしました。 この度は、大変貴重な資料を送っていただきありがとうござい
ました。早速、所長と一緒に拝見させていただきました。 まず、短い日数で、よくこれだけ効率よく廻られたと所長と感心いたしま
した。ご子息様のご協力のお蔭ですね」。
 二年前、「まほらの会」で高崎市倉渕町の道祖神を見に行ったとき案内をして下さったの市川先生から「倉渕の道祖神と地域文
化」というシンポジュウムのレジュメが送られてきた。もう一度先生の道祖神の話を聴きたいと手紙を書いた。
12月16日
 東中学校1年の「総合の時間」の授業。年間3回の授業の最終回。授業の主題は「東地区の民俗ダンゴ焼きと目一つ小僧」。地域
の人にも講座として公開されている。「目一つ小僧」については「チーム竹の子」の関さんが自作の紙芝居を上演し、助けてくれた。
 夕方、今日の授業に出席されたSさんから電話が入った。電話の内容はSさんのお住まいの地区で80年ぶりに道祖神の太鼓を修
復され、来年1月14日子どもたちによってお披露目がされるとのこと。太鼓の中に太鼓作成の寄進者の書面が入っていたとも話され
た。嬉しい話だった。太鼓を見せていただきたいとお願いした。
 東地区に居を構えて10数年、PTA活動に積極的なKさんからも電話。この日の道祖神の在り処の説明にとても興味をもたれたよ
うで、「川向こうに『道陸神』と書かれた石碑があるが道祖神と違うのですか」と質問。Kさんは前回も参加された。私には嬉しい二本
の電話だった。
12月13日
 午後7時から自治会の全体集会。「道祖神祭りの勉強会」がメインの会。私が話をしたが、若いお母さん・Sさんが自作の紙芝居
「目一つ小僧」を上演してくれ、助けてくれた。年配者が多いので会の後の懇親会で昔のダンゴ焼きの話に花が咲いた。
 12月12日
「JAはだの」の「組合員基礎講座」の講師を務めた。演題「大山と盆地の暮らし」で90分の講演。内容は①秦野を通る富士道 ②秦
野の道祖神祭り(ダンゴ焼きと目一つ小僧) 「ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」― 秦野が大好きな私の願いである。
12月3・4日
 「まほらの会」の研修旅行。今年は西相模から伊豆、そして富士宮の道祖神を見て歩いた。また世界文化遺産の富士山の「構成
資産」である富士山本宮浅間大社、村山浅間神社、山宮浅間神社に参拝。富士講の聖地「人穴」も訪れた。参加は10名。
 一日目は好天、第二日は小雨、という変化に富んだ?旅。富士宮教育委員会のご好意で第二日は二人の学芸員がバスに同乗、
一日じゅうていねいに案内をしてくれた。帰りの車中で会報担当者から研修報告を書くという宿題が出された。
12月1日
 東小学校PTAの成人教育講座。
 テーマは「地域学習・東地区の歴史と文化をさぐる」で「東地区の地名の由来と民俗行事・ダンゴ焼き」の話をする。
 定員30名だったが、それを超えた参加があった。終わってから〈歴女〉と言われているお母さんから「時間が短い。この続きを」と申
し出が主催者にあったとのこと。
11月15日
 南公民館の事業「南地区道祖神めぐり」。このツアーのメインは『マラセの神』に参拝すること。それでオリエンテーションとして「マラ
セの神」の話をする。
 夜7時から寺山自治会の文化講演会。「道祖神ワンダーワールド」と題して講演。地元寺山の七つの道祖神にスポットを当てた。「目
一つ小僧」の紙芝居も上演。両会場とも終わってから質問が出た。
11月11・12日
今年で秦野ゆとりの会(旧秦野園芸愛好会)は創立20周年。そして会の研修旅行は今回で15回目。
 安曇野の穂高神社の参道に「塩の道道祖神」が祀られている。道祖神は私の出番。解説をした。昼食はそばの名店「常念」。店の
前を通る道の脇に「上原の彩色双体道祖神」が立っている。そこでも「道祖神の嫁入り」の話を聞いてもらった。
 


2014年12月1日更新

 信州満喫 千曲川旅情                                  
 今年で秦野ゆとりの会(旧秦野園芸愛好会)は創立20周年。研修旅行は今回で15回目。その研修旅行先は信州。高野辰之記念館、
小布施散策、安曇野の道祖神探訪、そして諏訪の酒蔵めぐり。
 高野辰之記念館を選んだのは、会歌としている「故郷」の作者であるから。長野県中野市永江に建つ記念館は、高野が学び、教壇
に立った永田小学校の跡地にある。記念館から眺めた風景は、高野の作品「紅葉」そのもので、里山は深い秋の色合いを見せていた。
 記念館から数分のところに永江地区の「ふるさと橋」が掛かっている。その橋の欄干はメロディパネルになっていて、マレットで順番
に叩くと「故郷」のメロディーが演奏できる。会員の演奏にあわせて「兎追いしかの山」と何度も口ずさんだ私だった。
 小布施の町で道祖神を探したが見つからなかった。いくつかの街角にしめ縄を巻いた自然石が祀られていたが、それは「市神」、商
売繁盛の神様とのこと。秦野にも「市神」は一基ある。
 夜の懇親会、参加した12名全員がマイクを握って絶唱? 私は「安曇野・原田悠里」引っさげて登場したのだが、キイが合わず惨憺
たるステージ。五木ひろしの「千曲川」を歌い、そしてフィナーレは「故郷」を全員で。
 第二日、安曇野の穂高神社は菊花展が開かれていた。菊作りは「ゆとりの会」の活動のメインでもある。全員がていねいに鑑賞、そ
して学んだ。境内には昨年12月に建立された日本一大きなステンレス製の道祖神・身の丈2.5㍍・が立っていた。さらに北参道には「塩
の道 道祖神」が6塔祀られている。「道祖神なら私の出番」とばかり、勝手に解説をし始めた。
 昼食は「そば処常念」。店の前を通る道の脇に「上原の彩色双体道祖神」が祀られていた。この道祖神はパンフレットなどで紹介され
る安曇野の代表的な道祖神の一つ。そこでも「道祖神の嫁入り」の話を聞いてもらった。
 諏訪大社下社秋宮でも菊花展に出合えた。「諏訪五蔵・酒蔵めぐり」は、相客がいなかったので、各蔵の銘酒をていねいに試飲。3本
求めた。秋天に恵まれた二日間、その歩行数はおおよそ1万7千歩。よい旅だった。
  
  昨日またかくてありけり  今日もまたかくてありなむ
  この命なにを齷齪  明日をのみ思ひわづらふ
                                  島崎藤村「千曲川旅情の歌」-落梅集より-                         
 幹事諸氏に深謝。


メロディパネルの欄干  ♪山は青き故郷 水は清き故郷

 2014年11月1日更新
 
 今年復刊 PTA広報紙『まなまな』

10月16日
 小田原発8時33分の熱海行きに乗る。朝の相模湾は秋の柔らかな陽光でまぶしかった。小旅行の気分。
 湯河原・箱根・真鶴町のPTA広報研修会が湯河原町で開かれた。この日座は今年度発行された広報紙のクリニック。9校のP広報
委員会と湯河原町子育てサポートセンターの広報担当者が出席してくれた。すでに今年度3号発行のPもあり、読ませてもらった広報
紙はその内容もレイアウトもかなりのレベル。
 真鶴町は小・中学校はそれぞれ一校なので、3年前に「まなづる小学校」と「真鶴中学校」のPTAは統合された。その時点で二校のP
TA広報紙は消滅してしまった。それが今年度になり、広報ボランティアの活動というう形で広報紙が復活したのだ。
 今年五月の講座に参加した有志が広報の意義を再確認してくれ、活動に入ってくれた。そして、早くも5月に『まなまな』を創刊。A4判
8ページ、オールカラー。
 表紙にこんな文が書かれている。
  新広報タイトル『まなまな』とは:「まな小」と「真中(まなちゅう)」だから『まなまな』。「まな」には「愛」と「目」という意味もあります。保護
者&先生&地域という、より多くのまなざしとあたたかい愛でつつみ、子どもたちの成長と「まな」びを見守りたい ― そんな思いをこめ
て『まなまな』にしました。

 経験から言えば、学校では一度消えた行事を復活させるのはとても難しいこと。まして単年度で役員が入れ替わるPTA活動では、事
業の復活とか再活動に、本部役員や学校側の意欲・意思が強く必要となる。まして最も敬遠される広報づくりである。
 それが3年目にして復活。『まなまな』を会場で手にしたとき、「ほんの少しだが私もこの創刊(復刊)に関われた」と思い、嬉しかった。

 昨年は『緑の風』も
 昨年、茅ヶ崎市で長い間休刊だったPTA広報紙が復刊した。私の講座に飛び入りで参加した三人のお母さんたちがボランティアで広
報紙を作り始めた。その広報紙『緑の風』(緑が浜小学校PTA)は年間3回(A4判で年間16ページ)の発行を成し遂げた。そして、今年は
さらに前進。広報作りの仲間は6人に増えた。
 『新聞づくりは仲間づくり』 発行された広報紙を通して「子育てごいっしょに」の仲間づくり。そして広報をつくる人たちの間に生まれる
仲間意識。広報紙はPTA活動にはなくてはならないものだ。
 


 2014年10月3日更新

 8月28日
  身延山の宿坊 樋澤坊に望月先生を訪ねる

 今回の山梨県身延町の道祖神めぐりを終えた足で身延山に向かった。
 日蓮宗身延山の宿坊樋澤坊は私がお世話になった望月治男先生の生家。その寺院の墓地に先生は奥様と一緒に眠っていらっしゃる。
 「ゆとりの会」が年に一度の研修旅行を持つようになったのは「みんなで生徒無しの、私たちだけの修学旅行をやりたいね。京都に行こ
うよ」と話をされたのがきっかけ。それで「ミレニアム修学旅行」と銘打った旅行を私は企画させてもらった。
 2011年2月5日、突然のお別れだった。享年78歳。
 「志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷」  会員はこの歌で先生を見送った。
 墓前に立つと眼鏡の奥の優しい眼差しが浮んでくる。そしてあの明朗闊達な言動も。お気に入りだった諏訪の酒「真澄」を献杯した。今、
私は先生と同じ年齢。  
                                
                 ※樋澤坊 (ひのさわぼう) 日蓮聖人の6人の直弟子の一人である日向上人が開いた寺院。坊の門は町の文化財になっている。 



 長野県飯島町教育委員会  Y様
 飯島町のお盆の「砂山」の風習、砂山に足跡が付くことでご先祖様が無事にお帰りになったことを信じる、逝った人を惜しみ、懐かしく思い
出す親族や縁者の心の表れと理解しました。このような風習は今の時代だからこそ、引き継いでいきたいことです。
 8月26日から28日まで長野、山梨の道祖神を見て回りました。長野・山形村では12基の道祖神にお会いできました。どれも魅力的でした。
 山梨は旧下部町に入りました。山深く入り込んだ細道に立つ道祖神。その道祖神を祀る集落は縮んでいました。廃屋がいくつも見られまし
た。それでも道祖神祭りが行われている様子が分かりました。江戸時代の、そして今の山里の生活に思いを馳せました。 機会があれば飯
島町を訪ねたいと思います。ありがとうございました。     武 勝美


 2014年9月6日更新

 誕 生 日
 8月18日は78 回目の誕生日。その朝の「朝日俳壇」の次の作品(〇印)に惹かれた。
 〇昼寝して余命を減らしをりにけり   永野由美子
  稲畑汀子先生の選評は「昼寝を余命を減らすと考える作者の事情が悲しい。」
 〇一瞬の命を鳴いて蝉は去る      坂上ふみお
  余命の「余」を文字通りに受け止めたい。
 
 学生の頃から誕生日は旅先で迎えることが多かった。ほそぼそだが、今もその流れは絶えない。 
 〇踊り笠かぶり彼の世の人となる  朝田 冬舟
  2009年 念願かなって「西馬音内盆踊り」(秋田・羽後町)へ。
  西馬音内の盆踊りは亡者踊りとも言われている。踊りの列の中に黒い覆面・ひこさ 頭巾の踊り子がいる。それが亡者を連想させるからとか。

 〇夏山の祖霊の在はす青さかな     小杉伸一郎
  2010年 四国八十八番札所の大窪寺にいた。

 〇蹴り出せし下駄の音より踊りそむ   緒方こずえ
  2011年「郡上八幡盆踊り」に出かけた。夕立の中で無心に踊る。
 〇旅戻り家居の風の秋近し       黒田千賀子

 1996年の8月19日付けの「朝日俳壇」「朝日歌壇」から、私の気に入った作品をノートに記すことを始めた。作句を楽しんでいた父の影響かもしれ
ない。「いつかは私も」と思っているうちに徒に余命を減らす日々。 今は、毎月曜日の朝の「俳壇」「歌壇」に《私》が投影されている秀作に出会うと
その作品をしみじみと書き写している。



 2014年8月9日更新

 第57回全国新聞教育研究大会 市川大会 2014年8月1・2日
  年に一度 旧交を温めた「全国交流会」

 8月1.2日に市川市で開かれた第57回全国新聞教育研究大会市川大会への参加で、大会参加は34回になる。その34回の中には昭和60年の28回市川大会も入っている。
大会恒例の「全国交流会」は今回も第1日の夜「市川グランドホテルで開かれた。かつては「全国の“新聞の鬼”たちが年に一度顔を合わせる」のがこの交流会と言われていた。「全国交流会」のメインは参加者が県別に自己紹介である。山形県の『花笠踊り』はどこの大会でも常に大きな拍手を浴びる。第59回の開催地である茨城県は小野瀬さんのパフォーマンスで『茨城の日本一』というクイズを携えて登場。その中の一題『茨城の難解地名』として「随分附」を読ませた。地名には興味がある私だがこれは読めなかった。(答えは文末に)
 大会の会場校である大和田小の若い5人の先生か『恋するフォーチュンクッキー』大和田小ver。さわやかにそして鮮やかに跳ねて見せた。この大会を作り上げてきたのは若い先生たち。武藤先生は良い後継者をたくさん育てている、と思った。
 神奈川は臼井先生と私。市川大会にエールを送り次のような挨拶をした。
 「市川市には私はご縁があります。昭和46年度の毎日新聞創刊100年記念の全国学校新聞コンクールで、大澤和子先生の指導する市川市の宮久保小学校と秦野東中が「特選」に選ばれました。両校の新聞委員長は札幌オリンピックの開会式に招かれ、大澤先生と私も同行しました。そのご縁で大澤級(小学生)と武級(中学生)で学級新聞の交換をしました。市川市の新聞教育の基盤は大澤和子先生。以降多くの先生方が新聞づくりの伝統を守り、築き挙げていらっしゃいます。この大会も大澤先生に続く若い先生方の力で大成功です」
 スピーチを終え自席に戻る私を二つの笑顔が待っていた。「母のことを話してくださってありがとうございます」と言ったのは大澤和子先生の長男明洋さんだった。市川市の小学校の教頭先生で、この大会の運営に関わっていらっしゃる。傍らにいた女性も「お久しぶりです」とにっこり。
 その女性は、平成15年度全国新聞コンクールの表彰式の会場で紹介された大澤先生の孫増子彩音さんだった。彩音さんはその年のコンクールで優秀賞を受けた市川・富貴島小学校の新聞委員会委員長だった。9年前、和子先生、明洋さん、彩音さん、それに大内文一さんと私が一枚に納まった写真が私のアルバムにある。彩音さんは、この4月から高校の教員になったとのことを私たちに報告するために来場したのだ。(なむさんづけ)
 市川の全国交流会でお会いした皆さん(敬称略)
 井上英昭 菅原澄子 伊藤映子 清水シズヨ 横山健次郎 吉成勝好 小野瀬容子 木野村雅子 関口修司 竹泉稔 香山昌彦 臼井淑子 武藤和彦 須藤晃 野田広明 奥脇弘久 越田清四郎 岡野実 丸山明美 斎藤真弓 宮前嘉則 金子道子 古川博 神尾啓子 大澤明洋 増子彩音  



2014年7月1日更新

 “不可解”
 ある団体から月刊で発行される機関紙に、読者に投稿を求めている文芸欄(俳句・短歌欄)がある。その6月の俳句欄で奇妙なことを発見した。欄の選者はS氏と欄の冒頭に明記され、続いて入選作が掲げられている。私の言う“奇妙なこと”とは、今月号の入賞句のトップ(「第一席」とは書かれていない)が、選者のS氏の作品であるということ。
 この欄は句評も付けられる。選評だから選者S氏が書かれたのだろう。今月は上位2句に評が書かれていて、S氏の評は約60文字、第二席の評は40文字。入選7句で選評が付けられたのは2句のみ。自作を投稿し第一席に選ぶ選者。そして自句の評を書く。二席のものと比べその文字数はアンバランス。短歌は入賞野の作品に短いが評が添えられている。
機関紙の編集室に問い合わせたら、選者S氏と第一席入賞者のS氏とは同一人とのこと。(私は誤植だと思っていたが…。) 種々の事情があるらしいが、この俳句欄は“不可解”。

2014年6月1日更新

 広報講座のエピソード二つ

  気仙沼に行きます
 今年の新聞・広報紙づくりの講座の導入には2014年3月6日の『三陸新報』の切り抜きを使っている。次がその記事である。
 12校で三年生 校庭使えぬまま卒業 気仙沼・本吉地方 
 今春、学び舎(や)を巣立つ中学生は震災直後の23年4月に入学した。ほとんどの中学校の校庭に仮設住宅が建つ気仙沼・本吉地方では、3年生がグラウンドを自由に使うことなく卒業を迎えることになった。同地方の中学校16校のうち、敷地内に仮設住宅が建つのは14校。その中の12校は校庭の大半が仮設住宅に充てられている。「卒業までには校庭が本来の姿に戻ると期待していました。仕方ないとは思うが、校舎を出てすぐに部活動ができる学校がうらやましかった」とはある中学の卒業生。野球部の練習のため、放課後に1キロほど離れた小学校の校庭に移動する日々を送った。(『三陸新報』2014年3月6日の「復興へ」の記事の一部)

 どの会場の参加者も被災地・気仙沼の子供たちが置かれているこの現実に耳を傾けてくれた。そしてある会場でのこと。講座が終わると一人のお母さんが相談があると私のところに来た。「今日の話を聞いて、今まで行こうと思ってもなかなか踏み出せなかった被災地でのボランティア活動に出かけることに決めました。気仙沼に行こうと思います」。彼女は子供たちとクイズで遊びたいと言った。それで「三陸新報社」の知人を紹介した。


、 いつかは広報委員になる
 下の子が小学校に入った年から、「いつかは広報を」と思い、ネットでPTA広報のいろいろなページを読み勉強してきたUさん。そして今年念願かなって広報委員になり私の講座に出席。資料に講師・武勝美とあるのを見たとき「あれ、何か聞いたことのある名前」と思ったUさん。そう、彼女がお気に入りに入れたページの一つが『エコー』のHPだった。
 「これからの一年間が楽しみです。相談することがあるかも知れませんがその時はよろしくお願いします」とメールが届いた。




2014年5月1日更新

 武勝美の道祖神めぐりNO7 山梨県中央市豊富地区      201444

 猿田彦の面を飾る道祖神を訪ねる

1 石祠の左右に猿田彦のお面が( 関原地区・旧豊富村)
 山梨県中央市に「猿田彦」の面を彫った珍しい石祠道祖神があることを知り、今回の「道祖神めぐり」はこの地にした。集落のはずれにある小さな塚、そこに立つソメイヨシノは見ごろだった。その樹下に尋ねた石祠道祖神は在った。
 台座正面に「猿田彦命」、右に「文化十三丙子霜月吉展」(1816)と記されている。祠は破風作りで飾りに猿田彦の面が左右両面に彫られている。猿田彦は天狗の原形ともとらえられる神。伊勢一の宮猿田彦大本宮・椿大神社の絵馬に描かれている猿田彦は、眼光鋭く鼻はまさに天狗である。ところがこの祠に飾られている猿田彦の面立ちはふっくらとして穏やか。祠の中には丸石、あるいは陽石と思われるものが鎮座している。

猿田彦の面が左右に

台座に猿田彦命の銘

文字碑の道祖神

 石祠の右に自然石の文字碑道祖神が立つ。この石碑の上に年代がまったく異なると思える灯篭の火袋が載せられていた。塚の向こうには春爛漫の田園風景が広がり、はるかに望むのは八ヶ岳連峰から甲武信ケ岳への山並み。

 

サルタヒコ(右)とアメノウズメ

秦野の酒を献杯

中央市関原の道祖神 

 2 水上、川東、浅利地区の6塔にも献杯
 山梨の道祖神は甲府盆地を中心に丸石が圧倒的に多い。中沢厚著「山梨県の道祖神」によれば「甲府市域を中心にした平坦地には双体道祖神は二体」しかなく、「その二体が中央市浅利地区にある」とのこと。それで豊富郷土資料館を訪ねた。末木館長さんから資料をいただく。その資料で豊富地区に7塔の双体道祖神があることがわかった。その中の数塔の在り処への道を教えてもらう。
水上地区は船型握手像で寛政3(1791)年の造立。川東地区のものは破風作りで肩組み握手像、明和6(1769)年の造立。丸石も祀られている。いずれも竹に注連縄、御幣の竹筒、灯明などが神前に残されていて道祖神祭りの余韻を感じた。川東の道祖神の傍に「()影山」の立派な石碑。この地区は今「シルクの里」としてまちおこしをしている。今も養蚕農家が存在しているとのこと。

水上地区は舟型握手像 川東地区には破風型肩組み握手像が

浅利地区の諏訪神社境内には、露座の合掌双体像(銘はなく傷みが激しい)が1塔、3基の石祠道祖神が祀られていた。その中の一基・横町組の石祠は明和3(1766)年で双体道祖神が収まっていた。中沢さんの言う「双体2神」はこの2体である。道祖神のそれぞれに護持している集落名(北村組、上手組、横町組、西村組)の立て札。

諏訪神社境内に集められた道祖神 露座の双体像(北村組) 横町組の石祠道祖神


3 「薬袋」姓にも出会う
 この諏訪神社は平成16年に再建されたようで、再健に尽力した氏子の氏名板が掲げられていた。そこに「薬袋」という姓を10ほど発見。川東地区公民館に取り付けられていた地区住居案内図でも「薬袋」姓を見た。「薬袋」は「ミナイ」と読む難しい姓。私が「薬袋」姓の方と出会ったのは10年ほど前、中野区で広報講座をもったとき。その講座の進行を務めた女性が「ミナイ」さんだった。この姓との出会いも今日の収穫。

「薬袋」姓があった川東地区の住居案内図

豊富郷土資料館はシルクの里公園内にある

  豊富のひな祭りは4月3日
 資料館の女性学芸員から、「この辺では四月三日がひな祭り」で、女の子は小高い丘に登り、お重に詰めたご馳走を食べる「お花見」という年中行事があったことを教えられた。寺山でもかつては同じような「お花見」を四月三日・四日におこなっていた。

  秦野市寺山・清水のお花見
 四月三日、四日は女の子の節句である。この二日間は“お花見”という子供にとって楽しみな行事の日でもある。女の子だけでなく、男の子も節句を祝う。
三日の朝が来る。あちこちからラッパの音がひびいてくる。軍隊の突撃ラッパである。どの庭にもラッパがあったような気がする。

清水庭の男の子たちは、手に重箱、白酒、木刀、むしろなどを持ち花見小屋に向う。小屋に到着すると、丹精して作った大きな日の丸や海軍旗を、長い青竹にかかげた。山の上、しかも四月の風である。青空にはためくひびきは心地よかった。不思議なことに、あの強い風にひきちぎられた旗の印象は全くない。
自陣の旗の下に立って周りを見回す。一つ谷をへだてた丘、その尾根の続きの更に高い処、大山道の「イヨリ越え」に続く尾根、神社の裏山というように、ちょっと数えただけでも10カ所ほどの城の旗が目に飛び込んでくる。
 “お花見”には《旗とり》というケンカゴトが付きものになっていた。見事に飾られた旗を取りに行くケンカである。清水庭は、宝作庭とケンカをするのが慣わしのようだった。小屋と小屋との間は、直線距離で数百メートルぐらい。その間に麦畑があり、雑木林があり、ちょっと下れば小川まである戦場だ。“戦争ごっこ”にふさわしい地形だった。
 手づくりの木刀を持ち、麦畑を走り抜け、ママ(土手のこと)に身をひそめ、相手の小屋の裏にまわる。そして、突然とび出していって旗の綱を切って逃げてくるのだが、おく病な私などは、相手の小屋の姿が目に入ると、もう、そこから逃げて帰ってしまうのだった。そして、自分の陣地にもどってみると、大騒ぎである。ふだんあまり付き合いのない名古木の庭が、山越えで攻めてきて、旗を持っていってしまったという。
 「これから、ケンカだ」と上級生はいきり立つ。バラの木(タラの木)や、木刀などを持ち、“復讐戦”に出かける。もちろん、チビは留守番である。まもなく、旗を取り戻しゆうゆうと帰ってくる上級生。そして武勇談が始まる。「崖の上から、こんなでけえ岩をころがしゃがってよ。あぶねえったらねえのよ」「あいつら、一人も向かって来れねぇのよー。だーれも城にいやあしねえ」。年少の者はただただ上級生への畏敬の念が大きくなるばかりだった。
 だが今、考えると、このケンカにはルールがあったようだ。旗とりで負傷者が出たとは聞いたことがなかった。もちろん、私の庭もだれひとりケガをしたことはなかった。
 こうして山野を走りまわると、おなかがすく。このお花見の弁当は、ほんとうに楽しみだった。三日と四日は、それぞれ弁当の内容がちがう。三日はお寿司。外を卵やきで巻き、中にはのり巻きが入っている太巻き寿司である。それが、朱ぬりの大きな重箱にぎっしりとつまっている。第二日日の四日は、あずき飯のオムスビになる。牛乳のテン寄せは、甘く、冷たくおいしかった。そして、好物のタニシがほんのわずかだが入っている。
 お花見が近づくと、近くの田んぼにタニシを掘りに行く。表面が少ししめった田んぼに行き、その地面にひび割れが入っているところを探す。ひび割れが走っていて、それが交差しているところがタニシのいるところだ。棒や人さし指で掘り出すのはかんたんだ。
 お花見には白酒も持っていった。清涼飲料水などほとんど手に入らない時代だった。白酒は、密造のドブロクからとる。ドブロクが十分発酵する前に上澄みをすくいとり、子どもたちは飲んだ。旗とりに疲れ、かわいたのどを甘く冷たく通り過ぎる白酒のおいしさ。その味は、うすい水色の四合びんと共に今も忘れられない。
バタバタと鳴る旗の音を頭上にしながら、レンゲ田がひろがっている谷あいを眺めると、女の子たちが、そのレンゲの花の中にゴザを敷き重箱をひろげている。女の子たちのお花見は、レンゲの花で作った首飾りをかけ、スミレの花を松ぼっくりに挿した飾り物を作り、つばなを噛んだお花見だった。

  




2014年4月5日更新


 大阪を学ぶ・楽しむツアー   3月18日~20日

  「なにわ探検クルーズ」は90分で大阪の川から街を眺める。安治川・堂島川・大川・東横堀川・道頓堀川と回る。案内は落語家の桂阿か枝さん。乗客は7人。こちらが気を使って10時発の便なのに、ウイスキーのホットなど注文し船内の雰囲気を盛り上げた私。川面からグリコの大看板を見る。 

   
 ユニバーサルシティポートから「川のゆめ咲き線コース」        道頓堀


 司馬遼太郎記念館  自書・資料・翻訳などの蔵書は6万冊。歴史小説を書くという作業の実態を知る。書斎前の庭が雑木林なのがうれしかった。司馬はシイ、クヌギ、ヤマモモ、エコノギ、クスなどの雑木が好きだったそうだ。館の周りは菜の花が満開。そして町内も菜の花を咲かせていた。2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」である。
 「私の好きな花に菜の花が加わった」と、誕生日が2月12日の妻は言った。

蔵書の数は約6万冊 展示
室には高さ11メートルの壁
面に2万冊の書棚が
 

 
 なんばグランド花月で、「オール阪神・巨人」 「今いくよ・くるよ」 「ザ・ぼんち」 「ティーアップ」など見事な話芸に屈託なく笑う。大相撲大阪場所十一日目・遠藤と豪栄道への声援のすごさ。椅子席D 西7列という席なので自由な観戦ができる。周りは英語、アジア系言語でにぎやか。缶ピール片手のアメリカ人が「ゴーエードー」と叫ぶ。タイミングも声も堂に入ったもの。法善寺の水掛不動尊でも外国の人に出会った。

  「ハルカス300」に朝八時半の第一便で登る。エレベーターに乗る順番が最後。300メートルの天空でエレベーターのドアが開いた時、そう、私が“一番乗り”ということになった。迎えてくれた案内の女性陣に「一番! 一番!」と左の人差し指を指し出しはしゃぐ。(〈左〉は特に意味はない、私は左利きだから)

   

 
  四天王寺で彼岸供養の「経木流し」(春秋の彼岸や盆に経木に故人の法名を書いて、金堂脇の「亀の井」の水に流す)を見る。屋外で行われる法要だが「撮影禁止」だった。 四天王寺の南大門から南200m程の処に建つ日本最古と云われる四天王寺庚申堂を訪れた。この堂は日本最古の庚申堂と言われている境内の西壁沿いの一画に聖観音像(1960
年建立)を中心に、古い庚申塔や板碑が十数塔立ち三猿・鶏などが刻まれている。江戸初期の寛文10(1670)年造立が最も古く、同12年・13年、天和4(1685)年、元禄5(1692)年などのものも。最新は昭和15(1940)年造立のものだった。この庚申堂参りには先客がいた。小樽から来たというカメラマンに出会う。庚申塔の研究をしているとのこと。「出身は相模原」と分かり名刺を交換。道祖神碑のことなど饒舌になった私だった。 

     
 寛文10(1670)年造立  寛文13(1673)年造立  天和4(1685)年造立

  大阪歴史博物館 ここは「見学した」という程度の関心度。
 
  住吉大社・「住吉造り」という固有の社殿作りの社。早朝なのに近所の方々が日参されていた。通勤途中の若い女性、近句で食堂をやっているというご夫婦など、大きな神社だが人々の生活の中に息づく神社。 

 

  
  国立民族学博物館は大阪万博の記念博物館。日本ゾーンだけに90分滞在。道祖神、山の神、田の神などの祭りの展示物に見入る。万祝いも掛けられていた。眺めているだけで楽しかった。家族に「よくそんなに眺めていられるね。他も回ったら」とあきれられた。 

     
 長野・上田市の双体道祖神 秦野にも山の神 田の神は祀られているが具象化されたご神体はない 


 東住吉区の宝神神社(賽の神神社)を詣でる。大阪にも道祖神があった。ご神体の道祖神は格子戸、金網に護られて拝観できない。フラッシュを焚き撮影を試みたが金網が反射してしまい中は撮れなかった。今、パソコンの力を借りてその映像を解析しているが、平たい丸石が二つ重ねられているようなご神体らしい。神社の脇の六地蔵や青面金剛像はその石の色からここ数年の間に建立されたようだ。道祖神は関西人には馴染まない神らしい。

 
 向拝に道祖神の由来が記された額が掲げられていた

 
  「さをりの森」は妻が趣味としている「さをり織り」の総本山。まったくの偶然、いや奇跡とも言えるだろうことが起こった。「さをり織り」の創始者・城みさを先生に出会えた。先生はまもなく百一歳におなりとか。今も週六日、機を織っていらっしゃるとのこと。先生を真ん中に記念写真を撮った。神奈川からの来訪を喜ばれ自作の織物をプレゼントして下さった。妻はただただ感激。 

   


 大阪市は市長選の最中、橋下候補の街頭演説を聞いた(見た?)。




2014年3月1日更新


 立春の朝 沢蟹 旅立つ
 去年の10月17日、台風一過の朝に出会い、10月25日に再会した沢蟹を2月4日・立春の日の朝旅立たせた。 
 出かける前にゆで卵のほんのひとかけらを与えたら抱え込んで食べた。
 どこに放そうかと思案の末、金目川に流れ込む湧水地につれていった。
 節分の昨日とはうってかわり、二月らしい気候の朝。小雨。 

 立春の瀬に沢蟹を帰しけり
 途方に暮れたのか、それとも別れを惜しんでいるのか、しばらくは浅瀬で動かなかった。やがてゆっくりと石の下に。
 沢蟹はしたり顔して石陰へ
 我が家での逗留は97日。桶の中での囚われの身に「理不尽!」と怒るのは当然。だが二度の出会いを〈縁〉と思い 許されよ。
 はなむけの辞
 沢蟹に我を離るる爽気あり



2014年2月1日更新
まほら秦野道しるべの会 研修会「日本最古の道祖神を訪ねて」 2013年12月4・5日
                   研修地 高崎市倉渕町  安曇野市穂高町  辰野町沢底地区





2014年1月1日更新
                                                  賀 正


日本最古の道祖神 長野県辰野町 永正2(1505)年


 マンスリーエッセイ 2010~2013年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2007~2009年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2004~2006年 掲載分はこちらへ
 マンスリーエッセイ 2000~2003年 掲載分はこちらへ






~ 武勝美の教育個人紙 ECHO ~