Somewhere in My Heart ~ Katsumi's Monthly Essay ~
(2000年〜2003年掲載分 バックナンバーのページ)
にっきの木(日記の己)
庭に古びた一本のにっき(肉桂)がある。秋が終わるころ陽光を入れるために枝を下ろす。すると庭いっぱいに
あの香りがただよう。葉をかめば、幼いころ巡り歩いたあちこちのお祭りの夜店の光景が浮かんでくる。
このページ「にっきの木」には,いつの日にか懐かしく読み返すことができたらいいと思うことを記そう。
マンスリーエッセイ 最新版 2014年以降 はこちらへ
マンスリーエッセイ 2010〜2013年 掲載分はこちらへ
マンスリーエッセイ 2007〜2009年 掲載分はこちらへ
マンスリーエッセイ 2004〜2006年 掲載分はこちらへ
2003年のまとめ
5人の大学生のことば
Uさん 「興味があったから」「知りたいから」研究する
Uさんは我が家の菩提寺の娘さんです。外語大を出てロンドン大学に留学、そこで中国文学を学びました。そしてこの秋博士号を取得。その博士課程の論文を指導の先生と共著で出版しました。『「気」の思想から見る道教の房中術』という本です。先日、彼女になぜこのテーマを選んだのかを尋ねました。彼女は「興味があったから、どうしてなのか知りたいから研究した、としか答えられないのです」と言いました。私は、研究とか勉強とかはこれが本道だと思いました。「仏教じゃなくて道教なのが家族に申し訳ないと思います。その道教もほとんど勉強していません」と笑っていました。
彼女が中学生のとき、私は授業中に「今日は12月8日だけど何の日かな」と尋ねました。太平洋戦争の開戦日を意識させたいと思いました。でもその答えは出てきませんでした。それで宿題にしたのです。翌朝、彼女は職員室に来て「12月8日はお釈迦様が悟りを得た日です」と私に言ったのです。私は彼女から成道会ということを教えてもらいました。 (彼女の本をお読みになりたい方はご連絡ください。)
Iさん 「『足元のことが分からないで なんの国際理解か』という言葉に共感」
Iさんは鶴巻中学校の卒業生で、国際学部に席を置いている4年生です。卒論の資料として私の話を聞きたいと、先月の半ば私を訪ねてきました。取り組んでいるテーマは「学校と地域の連携」です。「国際学部と全然関係のないテーマになってしまって」とIさん。ゼミの先生の「自分の足元のことが分からないで、なんの国際理解か」という言葉に共感し、その先生に卒論をみてもらうことにしたのだそうです。一番身近な国際理解として、西表島の学校と彼女が学んだ学校の比較を取り上げたのです。そして、その研究は「地域と学校の連携」に行き着いたようです。私のところに来たときには結論の部分だけが残っているようでした。2時間ほど意見交換をしました。帰り際に「論文ができましたら必ずお届けします」といいました。その夜メールでお礼の言葉が来ました。「教育学を専攻している訳ではないので、本当に少しかじっているだけですが、とても参考になりました。今日、お伺いしたお話を含め、うまくまとめ上げられるか分かりませんが、無事に卒論が完成したらお送りしたいと思います。」
中3の時、彼女は私の本『春の朝』を「切り絵」で飾ってくれました。(関連記事「エコー教育広報相談室」のページ)
Mさん 「故郷のことを何もしらない恥ずかしさと悲しさ」
Mさんは大学1年生です。私のホームページをみてこんなメールをくれました。
「出身が秦野なのですが現在東京の大学に通っている者です。大学の文化人類学の授業で秦野のことが出てきて大変嬉しかったのと同時に、(故郷に帰りたくなりました)何もしらないのだなと恥ずかしさと悲しさでいっぱいになりました。それは正月の「鳥追い」の話だったのですが、聞いたこともありませんでした。故郷にもし昔から伝わる文化があったら、若者も役割があたえられて居場所が出来、それを教えてもらう大人に尊敬の念を抱きます。文化があるって、その人を土地に縛ることじゃなくて、受け入れてくれることなんだなと思いました。帰ったときに何か文化があったら、「私はここに帰ってきていいんだな。」という安心感と、暖かさがあります。それは必ずしも大きなものではなくていいと思いますが。そこでともかくまず私はレポートも兼ねて地元の文化について少しでも調べようと思いました。(以下略)」
早速私は「鶴巻」と「落幡」の地名の由来をメールで送りました。その折「私はMという姓の生徒に二人出会いました。一人は東中、もう一人は鶴巻中でです」と余計なことを書き添えました。
Mさんからお礼のメールがすぐに入りました。「質問に丁寧に答えて下さってありがとうございました。お返事もすぐくださってとっても助かりました。住んでいながら知らないのは恥ずかしいものですね。ところで鶴巻中学校のMという女生徒は3つ上の姉だと思います。Wというのですが、武校長先生になってから鶴中がとっても雰囲気がよくなって中学校がとっても楽しかったと言っていました。その武先生だったのですね。こんなところで武先生のお話が聞けるなんて嬉しいです。私も鶴巻中学校に行きたかったなあと悔やまれます。本当にありがとうございました」
メールの主は、想像していた通りMWさんの妹さんでした。姉のWさんは学校新聞づくりで活躍したことが印象に残っています。
Kさん 「長い間お返事を差し上げられず申し訳ございませんでした」
4年生のKさんから手紙がとどきました。そのたよりは「心せわしい年の暮れ、たいへんご無沙汰しております。長い間お返事を差し上げられず申し訳ございませんでした」で始まっています。そして、高校一年の夏、私から暑中見舞いをもらったときは「手根骨の骨折で骨移植の手術をしたときだった」と書いています。
高校野球に夢を掛けて進学した彼にとって、この骨折は厳しいハンデになってしまったようです。「三年間何とか高校野球を続けることができました。最後の夏はベンチ入りできなかったのですが、秋と春の大会は出場できました。」しかし、それをプラスにできたK君です。「一年間のリハビリを通して人のやさしさや努力することの価値を知ることができたました。私の高校三年間は充実したものでした」と書いています。
大学では歴史を学んだのですが、自分がスポーツで怪我をしたことから、同じように苦しんでいる人の力になりたいと、アスレティックトレーナーを目指し、これから三年間まったく別の世界の勉強を始めるという決意を書いてきたのです。
結びにまた返事の遅れたお詫びをするKさんでした。
Tさん 「サングラスで表情を隠し、眼鏡をはずせばしかめ面をしていた私」
23日の朝9時ごろ電話が入ました。電話の主は教え子でした。NHKの「青春メッセージ」の関東甲信越地区大会に子どもが出るから見て欲しい、というお願いでした。彼の息子・Tさんとは秦野教育懇談会の委員としていろいろ意見を交わしてきた間柄です。庭で働いている植木屋さんに少し気兼ねしながらテレビの前に座りました。
彼はアフガンの難民キャンプを訪問した時の体験を話した。
「あなたの国には難民はいませんか、と聞かれて答えが出なかった」「難民キャンプの子どもたちの笑顔を目の当たりにして思ったことがある。サングラスで表情を隠し、眼鏡をはずせばしかめ面をしている私。厳しい生活の中でも明るい笑顔を絶やさない彼ら。彼らは、私と何と違うこだろう」。
放送が終わって自宅に電話をしたら本人が電話に出てくれました。就職も決まったようです。これから今日の発言を実践するとになるのでしょう。彼の行動力を信じたいと思います。
2003年12月1日更新
かながわ県民センターのロビーで
今年の神奈川県の中学校高等学校の新聞コンクールの入賞紙の展示が、横浜駅西口のダイヤモンド地下街で始まっていた。それで11月13日に見に行った。私が審査に関わっていた頃からここでの展示が始まった。この展示場所は“ギャラリー乙女通り”。大きな本屋も近くにあるので、けっこう立ち止まって読んでくれる。
この通りを抜けると地上に出る。「この先には“県政総合センター”があったっけ」。新聞の表彰式が行われたことがあったこのセンター。そんな懐かしさもあって立ち寄ってみることにした。首都高速のガードをくぐるとその先に、昔のままのくすんだビルがあった。ビルの表示は「かながわ県民センター」となっていた。「エコー教育広報相談室」も登録されている「県民サポートセンター」もこのビルの中にあった。 ロビーはすべて昔のままのようだだった。そこのソファに腰を下ろし、通りの人通りを眺めていた。この先には大きな予備校があって、若者達の姿がたくさん見えたのだが、その日はその行き来が見られなかった。
ぼんやりと通りを眺めている私に、突然1991年1月17日のこの街の光景がよみがえってきた。その日は学習検査の問題作成委員としてここに来ていた。昼休みに『湾岸戦争』が始まったことを知った。その日のことを、私は日記に次のように記していた。
1991年1月17日の日記
1月17日 (木) 晴れのち曇り・時雨・晴れ
昨夜のブッシュ大統領の就寝は、もう開戦を決めて上でのことだったようだ。そう思えは納得できる。世界が注目している中、前夜のアメリカのテレビは「ブッシュ大統領はベッドに入った」と放送した。
5時過ぎ、ルミネのテレビの前、20人ほどの人が繰り返し写し出される爆撃のニュースを観ていた。その隣のフアーストフード店のにぎわいはいつものとおりなのだろう。特に若い女の子が群れたかっている観。彼女たちに問えば「戦争は反対!」と答えるに違いない。だが、人間が殺し合いをするのが戦争、しかも大量殺人が行われているのに、あまりにかけ離れた、だがこれが日本の現実の光景。日本から遠いところで行われているから、あるいは経済力の違いから起こった戦争だから…。こんなことを書いている自分が何もしないで“ええカッコシイ”なのだが…。駅西口の広場のイルミネーション、立ち木は電飾されキレイだった。イラクの空に広がっているだろう閃光、そして駅前にきらめく光の海の横浜。
海部さん(他のほとんどの政治家も)のように、年に一、二度しか国民に話しかけないような日本のリーダーたち。だから、世界がこんな危機的な事態になったのに、私たちは日本人は考えようとしない、いや考えられないのだ。
2003年11月1日更新
現実を直視できるかどうかの違い
10月27日の朝日新聞の『声」の欄に寺尾恵仁さんの投書(下に転載)が載っていた。総選挙特集で「言葉の羅列のマニフェスト」というタイトル。今おこなわれている選挙について「何を思っているのか」と自問してみても答えはない私。私が読む政治の記事は、いわゆる“ゴシップ”だけ。政治を考える気力が私にはとうに失せている。彼と私との違いは、現実を直視できるかどうかということ。
言葉の羅列のマニフェスト
高校生 寺尾 恵仁(神奈川県秦野市 18歳)
自民党の政権公約(マニフエスト)「小泉改革宣言」を読んで、居ても立ってもいられず筆を執ります。一体、この党はどこまで本気なのでしょうか。
「自民党だから、小泉だから、できます」「必ずやります。約束します」。前文がひどくうつろに響きます。「宣言」の述語は「改革します」「目指します」「突き進みます」「両立させます」「再生します」、中身もざっと読んだだけですが、「検討する」「目指す」「改革を進める」の羅列…。政権公約とはこういうものなんですか。
経済や社会保障のことはよく分かりませんが、教育はひとごとではありませんから、全部目をとおしてみました。同じです。「信頼」「公徳心」「誇り」「国際競争力」「青少年の健全育成」。耳に快い語句が並んでいますが、どのような教育を受けるのか、どんな未来像を描いているのか何も伝わってきません。
小泉さん、2年後に選挙権を得る身には、あなたの改革宣言は何を言いたいのか、さっばり分かりませんでした。大人の皆さん、若者からのお願いです。どうか政権公約に目を通してください。新聞でもインターネットでも方法はいくつもあります。そして選挙に行ってください。僕らには投票に行かない自由なんてものはないのですから。
e-mail from New Zealand 第4信
紫外線対策に忙しくなりそうです
パソコンを修理にだしていたため、メールが書けませんでした。
この1ヶ月で季節もだいぶ変わりました。きれいに咲いていた桜はちり、学校のアヒルは、生まれたばかりの子供を引き連れてよちよちとキャンパス内を歩き回っています。昼間は半袖でも十分ですが、夜はまだ寒さが残っています。いちばんの驚きは沈まない太陽です。サマータイム(10月4日)から、日本との時差が4時間にかわった頃から太陽が8時を過ぎても沈みません。日本では見たことのない光景だけに驚きました。8時を過ぎても明るいとなりますと調子がくるいます。夜なのか昼なのかと頭の中はごちゃごちゃです。これからは紫外線対策に忙しくなりそうです。
さて学校生活の方はといいますと、イベントで盛りだくさんです。明日から2日間は学園祭、そして31日にハロウィン、11月にはダンスパーティーが催されます。またこれらのイベントが終わりましたら、報告したいと思います。日本はどんな様子ですか? 地震が多いと聞きますが大丈夫でしょうか? それではこのへんで。 10月25日 朋子
2003年10月22日更新
高山祭りと新平湯温泉を訪ねて
秋を楽しんだ二日間
9,10日と園芸愛好会の10名で高山祭りに出かけた。9日は汗ばむほどの好天。3時前に桜山八幡宮の表参道に入れたので、屋台の「曳き廻し」が見られた。この日は4台だった。神楽台、鳳凰台、宝珠台、大八台が静に古い町並みをゆっくりと通る。、鳳凰台という屋台は「透かし金具が優美」だそうだが、秋空の下、西日に輝いて豪華で優美だった。参道には5台が「曳き揃え」で並んでいた。屋台の上で女の子(小学校1.2年くらいか)が横笛を練習している。宮川べりに露店が並んでいた。裃と袴の衣装の男の子が二人、嬉々として店を覗き回っていた。屋台のからくりガ境内で行われていたが近づけなかった。石段の下でロープが張られ、警官が立ち「立ち入り禁止」。大勢かそのロープの前にいるのでもう一回公演があるのかと思ったら「今日はこれでオシマイ」なのだそうな。
2時間ほど歩いて疲れたのでお茶を飲むことにした。どこのコーヒー店もいっぱい。空いていても10人は入れない。あきらめて駐車場に向かう途中,路地裏にコーヒーの看板を出している民家を見つけた。人数を聞いて躊躇しているお店の人を押しのけるようにして、入れてもらった。間口は狭いが奥行きのある旧家かだった。。和室4部屋が、喫茶室として用意されていた。奥の部屋に通された。畳の上に椅子とテーブルガしつらえてあった。畳に椅子でコーヒー。掛けててある絵が小林古径の「舞妓」(コピーだろう)は納得できたが、裸婦像の大作も飾られていた。
宿は新平湯の奥飛騨ガーデンホテル。露天風呂に入っていたら、同行のYさんが「武さん、秦野でもこんな星空、見られないね。あれが金星かな、火星はあれだ。まだ、けっこう赤く見える。いいねえ、いい風呂だねえ」。
夜の席は日本酒ばかりが売れた。これは囲炉裏端という雰囲気…よりは年齢のせいだろう。
10日、ロープウエイを使って西穂高口の展望台に立った。待ち時間を入れて1時間ほどで2156メートルの地点に立てるのだ。槍ヶ岳のあの頂は、大喰岳・南岳などが面前なので、わずかに見えるだけだった。奥穂高岳、北穂高岳など名前だけしか知らなかった3000メートル級の山々をすぐそこに見ることができた。南には焼岳。360度の眺望を見飽きることはなかった。ロープウエイに乗り込む人たちのほとんどが、私たちと同じように普通の旅行着。一割くらいが登山者だった。ここから西穂高山荘に向かうらしい。ロープウエイの終点に千石園地という庭園がある。その入り口に「登山計画書を必ず出してください」と表示してあった。この高さは完全に登山なのだ。何も労せずにこんな高所まで来てしまっていいのだろうか。
ようやく色づき始めた落葉樹だった。第2ロープウエイ脇の桜紅葉のワインレッド・オレンジはイイ色だった。
28人乗りのサロンバスに10名という大名旅行。少しはお酒も飲んだ。みんな元気だった。ゆったりと秋を楽しむことができた二日間だった。
参加者 望月治男 稲毛喜久三 矢野恒雄 森下征司 矢野直吉 高橋庄造 植木正美 古木文一 栗田佳史 武勝美
屋台曳き廻し・宝珠台 | 屋台曳き廻し・鳳凰台 |
笠ケ岳(2898m) | 槍ケ岳 (中央・3180n) |
2003年10月1日更新
10月11日に
秋の「大山道・寺山の里ウオーク」
10月11日の午後、『大山道・寺山の里ウオーク』を行います。これは「訪ねてみたい蕎麦処・全国100選」の「丹沢そば石庄」さんが行う、「そばの花見」の中の催しものです。石庄さんが自前のそばを栽培しているのが、寺山の奥・横畑地区です。その横畑の「そばの里」から鹿島神社、清水湧水地、首切り畑、道永塚、波多野城址、てふ塚と回ります。所要時間はおおよそ3時間。首切り畑、道永塚、てふ塚には伝説があり、波多野城址は源実朝の御首とかかわりがあります。私のふるさと寺山は、大山道の通る里として、歴史や民俗的にも興味のある里です。参加者は100名ほどとか。「まほら東・案内人」と名乗り、下のイラストマップを手に案内をします。
2003年9月1日更新
鶴巻中学校 平成8年度卒業生の同窓会
8月9日、厚木FUSSYで開かれた同窓会に招かれた。22歳の若者たちがつくった会は印象的だった。
(1)案内状の添え書き
お元気ですか。早いもので鶴巻中学校を先生と一緒に卒業してもう7年が経ちました。先生は今も新聞の指導や執筆活動などでお忙しいと耳にしました。私も大学のエッセイや課題に日々追われている生活です。卒業生もみな成長しています。ぜひ、ご出席ください!!
こんな添え書きと共に、鶴巻中学校平成8年度卒業生の同窓会開催の案内が届いた。
鶴巻中学校 平成8年度卒業生の同窓会のお知らせ
初夏の候 ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。私たちが鶴巻中学校を卒業もう7年が経ました。来年になると、就職やその他の理由でこの秦野の地を離れてしまう人が多くなりそうですので、その前に同窓会を、という声が多く上がりました。先生にもこの会をより一層盛り上げていただきたく、お便りさせていただきました。お忙しいとは思いますが、先生のご出席を心よりお待ちいたしております。 実行委員会代表 高橋 伸夫
(2)前日の電話
8月8日、代表の高橋さんから電話が入った。「先生、車が必要でしたらお迎えにあがりますが」「ええ!車? 要りません。電車で行きます」「先生、卒業式のとき松葉杖を使っていらっしゃいましたね。それで、少し心配しています」「ありがとうございます。でも、ちゃんと歩けます。その姿をみてください」と笑った私。卒業式、私はひとり壇上に居座り、松葉杖で式に参加した。今思えば“汗顔の至り”。
同窓会の案内状をもらう一月ほど前、代表の一人芦川さんからも電話をもらった。私の都合も聞かずに同窓会の日時を決めてしまったがぜひ出席を、という同窓会開催の予告の挨拶だった。
(3)「10年後の私へ」手紙を書く
8月9日17時50分、本厚木駅改札口に立った私を迎えてくれた二人の青年がいた。
この年度の卒業生は6クラス、239名。この日は教師6名を含め90余名が集まった。会の中で、参加できない教師のビデオレターも公開された。今はもう鶴巻中を離れてしまった3人の教師を現任校に訪ね、撮ってきたようだ。なつかしい鶴巻中の教室や校庭もスクリーンに映し出された。そして「10年後の私へ」というメッセージを全員が書いた。アルコールも入っている22歳の彼らがこの企画にどれだけ興味を示すか、という心配が、正直に言えば私にはあった。だが、参加者全員がテーブルにかがみこんでペンを走らせていた。就職が内定した学生、長女を連れてきた子、情報物理科学の大学院に進む男子、アメリカに留学すると告げた子、すし職人、保育士など、それぞれが明日を夢見て生きている。10年後、彼らは32歳。夢を実現できるこれから10年、と彼らは考えているのだ。そして…、私のペンは走らない。
(4)子どもとの結びつき
彼ら一人ひとりと私の唯一の接点は、校長室での昼食会だけだった。何人もがそのときのことを話す。そして、私とのわずかな交流を今も心に留めておく子もいた。
・ 作文コンクールで入賞したことを校長室で知らされたときの感激
・ ロッカーを壊し校長室に報告(謝り)に行ったこと
・ 私の昼食のウドンを校長室で食べたこと
・ 卒業式の式辞の中に自分の名前が入っていたこと
・ 卒業文集に書いた夢について励ましの手紙をもらったこと(彼女は間もなくニューヨークでダンスを学ぶことになってた。)
・ 練習試合の帰りにわが家に寄りコーヒーを飲んだこと
・ 卒業式の式辞の内容
・ 一学期終業式での自転車事故の話
子どもと校長・校長室との結びつきを思う。
(5)署名は直筆のお礼状
8月の終わりに高橋さんの名で手書きのお礼状が届いた。
武校長先生へ
先日は平成8年度卒業生同窓会へご参加いただきありがとうございました。卒業生一同、先生と一緒に楽しいひとときを過ごすことができました。初めての同窓会で、至らない点もありましたが、幹事の力だけでなく、先生を始め参加者全員で有意義な時間を作り上げることができたと思っています。いつかまた、このような形で先生とお会いできるのを楽しみにしています。高橋伸夫 芦川あゆみ 三本家一穂 牧野聖子 中島彰 和田奈津子
六名の署名はそれぞれ直筆だった。
こんな生徒に出会えた今年の夏 私は幸せです。
--------------------------------------------------
e-mail from New Zealand 第3信
もうすぐ桜が咲きます
まだまだ日本は暑いことと思いますがお元気ですか。私は充実した冬休みを過ごすことができました。友達がニュージーランドを訪れてくれたこともあって、北島を2人で旅することができました。ネイピアからロトルアそしてオークランドという順番で旅をしました。その旅の途中に日本人だけでなくいろんな人に会うことができ、英語も含めいい勉強になりました。そして旅から帰ったあとは勉強をして、車のpaper試験に合格することができました。1学期の成績もそこそこ伸びていたのでクラスも3つ上に上がることができました。でも新しいクラスはとても難しいです。
クラスがかわり、新しい友達もできました。今クラスで1番仲のいい友達はタイ人で、最近は英単語よりタイ語を覚えはじめ、困ったものです。(笑)そしてタイとの文化の違いをつくずく感じています。いろんな国の子がいると、日本の常識は通じないので、面白いものです。もうすぐここでは桜が咲き始めます。9月23日には桜祭りがあります。私はバナナチョコのお店を友達と出そうと考えています。こんな感じでなんとか楽しく過ごせています。ただ日本が恋しくなってきたのも確かです。8月12月と日本に帰る子もたくさんいるので、そんな話を聞いていると、いいなぁーと思います。でも自分で決めた道ですから、ある程度、成長するまでは日本には帰らないと決めたので、ここは我慢だと自分に言い聞かせています。先生もまだまだ暑いでしょうから体調にはくれぐれも気をつけて残りわずかな夏を満喫してください。それではまた。 8月27日 朋子
2003年8月1日更新
地名のおはなし
平成の市町村大合併で生まれた 南アルプス市 あさぎり市 四国中央市
大リーグのオールスターが終わった。初出場の松井選手は初打席・初安打、その存在感を見事に示してくれた。スゴイ選手だ。その松井選手の出身地・石川県根上町についての話。
国の音頭とりで「平成の大合併」・市町村の合併が進んでいるらしい。松井選手の根上町も他の二つの町と一緒になり、市になることを目指しているとのこと。今、新しい市の名前が検討されているらしいが、なんと「ゴジラ市」「松井市」も候補だったようだ。話題づくり、景気付けに、というらしいが少しふざけていると思った。
市町村の合併で、ときとして障害になるのは新しい市町村のネーミングである。「こしひかり」の「魚沼」を北、南、中の三つの魚沼郡が取り合っているらしい。地名について少し興味を持ち、関係の本を読んだりしているので、新しく生まれる市町村名に関心がある。話題になったのは、誕生した西東京市、南アルプス市(山梨)。
まもなく誕生する四国中央市(愛媛)、あさぎり市(熊本)、ひらなみ市(岐阜)などの名称は話題性に富んでいる。その自治体が熟慮の末、もっともふさわしいと決めたのだから異議を唱えるつもりなどない。それでも、その名称には、それなりの意味(地域とか歴史とかを感じさせる)があるものが良いと思う。
長野の豊科町は鳥羽村、吉野村、新田村、成相村が明治7年に合併してできた町だ。その「豊科(トヨシナ)」という町名は、合併した四つの村名の最初の音「ト」「ヨ」「シ」「ナ」を組み合わせたもの。今は韮崎市の中の一町名になっている清哲町は、以前は清哲村だった。この清哲村は水上村、青木村、折居村、樋口村が一緒になってできた村。新しい村名「清哲」は消えていく四つの村名の漢字の一部を生かした、苦心のネーミングといわれている。清は「水・シ(サンズイ)」と「青」でできている文字。哲は「折」と「口」で作られている。「考え過ぎ・凝り過ぎ」とも言われているが、四つの村名には歴史があるのだろうから、それを生かそうとした村の先人たちの心を、私は理解したい。
地名「落幡」は 落幡村→大字落幡→鶴巻に吸収・消滅→バス停で復活
私の住んでいる秦野市では、明治22年の合併の折、由緒ある村の名「落幡」という地名が消えた。「落幡」とは、大化の改新のころ服部が開いたのが大服村(オオハタ村)。その村人が、後に新たに開拓したので、遠服村(オンハタ)と名づけた地域。その「オンハタ」が「オチハタ」に変わり、「落幡」という文字が与えられた。この「落幡」という地名は、今は地元の神社名と、数年前開かれたバス路線のバス停の名称に生きるだけである。(新しいバス路線に、「落幡」というバス停が設けられたのはうれしいことだった。)
教員になったのは、サッカーの指導者になるため
こんな新聞の記事があった。(朝日新聞・7月8日)スポーツ欄だから、とは思うのだが、長い間教師をやってきた私には理解できない内容だ。
「私が高校の教員になったのは、サッカーの指導者になるためだった。日体大を卒業するとき、当時の日本リーグのチームから誘いがあった。だが自分は日本代表になれる選手じゃないと、見極めをつけていたので断った。でもサッカーにはずっとかかわっていたいという思いがあったので、高校でサッカーを教える道を選んだ。教員時代は朝練習、授業、午後の練習と、朝7時から夜9時まで学校にいた。常に選手と顔を合わせているうちに、指導者と選手という関係を超えた強い連帯感が生まれた。素晴らしい体験ができたと今でも思う。昨春、「来年度は異動」と非公式に伝えられた。市船橋高とはサッカーのレベルが全く違う学校へ転勤するかもしれない。それを聞いて正直なところ、やる気がわいて来るという気にはならなかった。教員でサッカーを教えるという環境に限界が見え、プロコーチヘの転身を決めた。サッカーを教えたいという教え子もいる。だが採用数が少なく、狭き門を通過しても、サッカーのやりがいがある学校に赴任できるとは限らない。教員になって子どもにサッカーわ教えたいという教え子もいる。今、個性の時代といわれている。公立高校にも進学重視の学校、スポーツにカを入れる学校、芸術の分野を充実させる学校などがあっていい。ある高校は野球、ある高校はサッカーというように、特色ある学校を地域ごとに設け、指導力のある教員を配置する。行政がそんな方針を打ち出してもいいのではないか。
このままでは、スポーツに意欲を燃やす教員の人材が埋もれてしまう。各都道府県のスポーツの強化、ひいては国の強化が地盤沈下していく。
布啓一郎(15歳以下日本代表監督)
子どもたちにとって、教員から転身されたことは正解だ。
『e-mail from New Zealand』 第2信
まだ梅雨が続いているようですがいかがお過ごしですか? 私は今週から冬休みが始まりました。っといってもすることがなくて毎日グーたらしているだけなので、明日からは補習クラスにでもでてこようと思っています。勉強は嫌いですが、部屋にとじこまるよりはましかなっといった感じです。私の友達は日本に帰った子がほとんどのためこの休みがひまになったといううわけです。ここにのこっているこもスキーやスノボー、オーストラリアやサモアにいっています。
私も来週からオークランドとロトルアにいってこようと計画しています。さて9月にはここ、私の学校で桜祭りが開かれます。4000人が訪れると言う大きなイベントのようです。7月を乗り切ればもう春が待っているという感じです。時間が経つのは早いものだと実感しています。夏が大好きな私にとっては冬は耐え難いものですが、日本とはまた違う季節の変化を楽しんでいます。それでは、また。 朋子
2003年7月1日更新
続 短い話 短い文
400字で「わが人生」を書く試験
六月の初めにパートの採用試験を受けたAさんの話。PTAの広報委員を三年経験するなど、意欲的な生き方をしてきた彼女。一次試験が受かり、最終の面接試験の日。
「筆記用具の準備」を言われていたが、面接の前に作文を書かせらるとは思ってもみなかった。その作文の題が「私の人生」。四十代前半のAさんにとっては、とてつもない重たい題。しかも400字で15分というとんでもない条件(そう思いませんか?)で書くのだ。
「“頭の中が真っ白”って言うのはこういうときのことだと思った」と、そのときの混乱ぶりを笑って話した彼女。
「よかったら、何を書いたか教えて」と私。「何を書いたらいいのか分からない。何も書けない、ということで、今までの自分の生き方をドンドン否定的に見てしまって…。とても悲観的な内容のものを書いてしまいました」。
「多分ダメでしょう」と笑いながら、「先生なら何を書きますか」と聞く。「私の人生は400字・15分なんてものではない」と、その憤りをぶつければいいのか。それとも、人生訓を引き合いにしてまとめればいいのか。どちらもピントはぼけている。その場の、この恐ろしい体験を「私の人生」として綴れるような柔軟性・融通性のある人を求人側は求めているのかもしれない。そんなことを考えたら「私には書けない」と心底、思った。彼女が挑戦したのは税理事務の仕事だった。
コラムニストの扇谷正造さんは、「スピーチの素材にあれこれと迷ったら、ちゅうちょなく自分の人生経験に結びつけることである。『人は他人の人生経験に対してはいつも関心を抱く』というのは不滅の心理である」と書いている。そうだとしたら、彼女の心配は取り越し苦労かもしれない。試験官は興味深く彼女の人生を読んでくれる―それにしても、400文字で「わが人生」を語る(書く)ことは大変なことだ。
短い話、短い文をつくることは難しい。
このページ四月号で紹介した夜桜を見てニュージーランドに出発したお隣の朋子さんとときどきメールの交換をしています。その朋子さんの許しを得て、『e-mail
from New Zealand』のコーナーを開きました。
『e-mail from New Zealand』
第1回 5月17日
しばらくでした。学校が始まったようですので、あまり邪魔をしてはいけないと思っています。それでも、少し勉強の様子が知りたいです。朋子さんの他に留学生はいるのでしょうか。どんな中身の勉強をしているのか、そんなことにも興味があります。いつか、そんなことを聞かせてもらえたらうれしいです。
さて、こちらは今日、20度を越えています。パラソル、そしてノースリーブの女性の姿がありました。女性は季節に対する反応がすばやいですね。特に中年の女性がそうです。そちらもそうでしょうか。もっともそちらは冬に向かうわけですから、皮ジャンにブーツかもしれませんが…。風邪を引かないようにしてください。私はいよいよ畑仕事に熱が入る季節です。朋子さんの家の裏の畑に、トマト、ナス、キュウリの苗を植えました。 勝美
「授業も生活も楽しくてしかたありません」
一年はみんな語学をとらなくてはいけないので、同じクラスには結構日本人がいます。8人ずつ13クラスに分けられていています。なんか日本とは違い、丘までハイキングして授業を受けたりと、幼稚園児に戻った気分です。
今は、こちらの高校生が習うくらいまでの歴史や文法などを、英語で学んでいます。こちらの国では普通3年で卒業できるのですが、私は、今年はしっかり基礎をつけ、4年で卒業しようと考えてます。日本人の先輩を見てると、専門課程に進んでも基礎を飛ばして進級しきているようで、すぐにわからなくて、また1年課程に戻る人が少なくありません。2学年の学生数は250人から既に130人まで減っています。日本の大学のようにはいかないのだと実感しました。
今のとこ授業も生活も楽しくてしかたありません。日本にいたときより楽しいです。明日は友達と首都のウェリントンに行こうと決めました。今日からEaster
weekで4連休です。宿題が多いのですが、休みにはたくさんやりたいことがあるので、いろいろ挑戦していきたいと思います。
こちらは今寒さよりも風が強く吹いています。私は長そで長ズボンですが、地元のキウイの人は、まだ半袖・半ズボンです。しかもはだしが好きみたいです。これぞ国のちがいです。 朋子
2003年6月1日更新
短い話 短い文
所属している会から急に卓話を依頼された。電話で済むことなのに、担当の人がわざわざ出向いて頼みにみえた。そんな経過もあったので、少しは聞いてもらえる話をしようと思った。
当日、例会場に入ったら、幹事のHさんが私の席まで来て「今日は全部時間を使ってください」と言ってくれた。卓話の時間は30分だが、報告や連絡があるので20分くらいが目安になっている。ところがこの日は前週が休会だったため、連絡・報告が多い。時間はドンドン過ぎていく。17、15、12、10分とカウントダウンまがいに数字は減っていき、例会終了5分前になって「武君の卓話」と告げられた。
5分を与えられて何が話せるのか。準備した内容は、皮肉なことに「読んでもらえる文の書き方」で、短い文ほど分かりやすいというものだった。
アメリカの第28代大統領のウイルソンは、15分のスピーチを突然頼まれた時こう言った。「2時間の演説なら今すぐにでもはじめられる。15分の話なら半日の準備が必要だ。」「大統領だからそう言ったのだ。お前はアマだろう」と言われるかもしれない。だが「プロでさえそうなのだ。だから私のような者にはいっそう準備が必要」なのだ。30分のものを用意していた私に、その中の“5分ぶん”を話せばいいといわれても、それはムリなこと。
短い話、短い文をつくることがどれほど難しいかを示す例を書く。
平塚市は七夕祭りで有名だ。その七夕祭りを盛り上げるものに「ミス七夕」のコンテストが毎年行われている。平成7年のこと、「ミス・コン」に対する批判もあって、このコンテストに参加する女性は200字の作文が課せられることになった。すると前年は260名あった応募者が73名に撃滅した。主催者は、翌年200文字という作文の条件をはずし、応募の動機を文字数に制限なく書くことに変えた。その結果は7年度の応募者の2倍を超える168名が応募してきた。200字という制限がとれたことで、応募者は思いのたけを書けるからだ、と思った。
短い文について、最近読んだ『新聞は生き残れるか・中馬清福著』に、次のような一節があった。
漢字だらけの長い文
まず、吉本ばななの「キッチン」 の書き出し部分を読んでもらいたい。
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作る場所であれば私はつらくない。できれは機能的でよく使い込んであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴかぴか輝く。
ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
五つの短文からなり、句読点を除いて最大三八字、最小二〇字、全一三一文字。うち漢字の数は三三である。
この本が発行された一九八八年一月の朝日新聞を見てみよう。(中略)例として三日朝刊を取り上げる。トップ記事は「阪大で心・肝臓移植申請/年内実施の可能性/学内倫理委脳死・手順など協議」。その書き出し(リード部分)はこうだ。
「脳の死は人間の個体死」と認めた日本医師会生命倫理懇談会の最終報告を受け、大阪大医学部第一外科(胸部)の川島康生教授(五七)と同第二外科(消化器)の森武貞教授(五七)の二人は二十日、心放と肝臓の移植手術を医学部医学倫理委員会に申請した。倫理委は二 十七日の会合から審査を始め、脳死に関する見解も含め、移植手術を承認するかどうか、数カ月かけて結論を出す見通し。
二つの文からなり計一六一文字(句読点やカッコの類は除く)。第一の文が一〇五字、第二が五六字と長く、うち漢字は一一六。
漢字だらけの、息切れしそうな長い文章。知りたいことがいつまでも出てこない文章。手術を申請した教授の年齢がなぜ要るのか。
2003年4月30日更新
April(四月)の語源は「開く」
花開く四月(April)です。心が弾む春(Spring)です。春は若者たちの季節です。その躍動する若者たちの姿を、まぶしく眺めている私です。
高校生の創った演劇
四月四日に秦野市文化会館で行われた秦野+秦野曽屋高校合同演劇部の定期公演を見に行った。中学生のころから、ときどきわが家に遊びに来ていた寺尾君。その彼が、脚本を書き、演出し、ダンスの振り付けも担当、そして主演(二役)を務めた劇『らせん』。 高校の演劇部はそれほど人気があるわけではないようで、カーテンコールでステージに立った部員は両校で八名だった。キャストは二人だけで、それぞれが二役を受け持っていた。 『らせん』のテーマは「知恵の実を食べた罪で二人は楽園を追放された。そのときから人間は苦痛と、老いと、病気と、死を手に入れた。はるか昔の先祖の罪で、僕等は今も苦しんでいる。」
『らせん』の主人公は、能力主義・効率主義の今に生きられない引きこもりの高校生。祖父の死に直面し、少年は死後の世界にこそ平穏がある、と信じるようになった。それは、祖父が何の苦しみもなく逝ったのを見たからだった。それで彼は、自ら命を絶ち、天国と称する処に行く。だがそこで彼が発見し、体験したのは『暗黒・無音の世界』の平穏でしかなかった。 かろうじて現世に戻ってきた彼は、見上げる青空に、吸い込む空気に、生きている喜びを感じる。そして、スキップしながら学校に向かう彼の口から出る言葉は「人間生きようとすれば何処ででも生きられる」だった。(※ここに書いた『らせん』のストーリーは、武が舞台から読み取ったもの。寺尾君が訴えようとしているものと違うかもしれない)
「この公演でほんとは引退なのですが、二人はもう少し部活をやります」とステージで挨拶した。55分のこの物語を、文字どおり創り出した寺尾君の雄弁さに胸が熱くなった。月並みな表現だが「若者は無限の可能性を秘めている」ことにうらやましさを覚えた。
暮れに訪ねてきたとき「井上ひさしの作品の追っかけをしている」と笑っていた彼だった。
みんなと新聞をつくりたい
四月六日の夜、中学三年生のHさんから電話があった。「新聞の話がしたいのでお訪ねしてよろしいでしょうか」そして七日の始業式のあと、Hさんは一人で訪ねて来てくれた。今年も学級新聞を作りたいけど「どうしたらクラスのみんなに協力してもらえるか」という相談だった。それで恒例の自己紹介の時に「私は学級新聞をつくりたい。みんなと一緒に新聞をつくりたい」と宣言することを勧めた。「できるかな」と、少し自信がなさそうだった。だが、特集のテーマなどをもう話題にした彼女だった。大丈夫だと思った。
夜桜を見てニュージーランドに出発
四月七日夜9時半過ぎ、ライトアップの灯りを消そうと庭に出たら「こんばんは、
桜を見させてください」と女性の声。声の主は隣リの朋子さんだった。ほかに友達が三人。「明日出発します。しばらくこの桜、見られませんから」と旅立ちのあいさつをしに来てくれたのだ。明日の夜、成田を発ってニュージーランドの大学に留学する朋子さん。友達がお別れに来てくれたようだ。「お父さん、どう?」と聞いたら「内緒ね、もう昨夜大泣き!」と明るく話してくれた。彼女が行ってしまうので、犬を飼い始めた一家。あの「どうする〇〇〇〇」のコマーシャルの父親よろしく、犬を抱いてウルウルの日々を送るのだろう。もっとも、彼女の家の犬はチワワではなく、ラブラドールという真っ黒な大きなもの。その夜は朋子さんのそばに行儀よく座っていた。
メールで話をする約束をした。南半球はこれから冬。妻は手織りのマフラーをプレゼントした。「応援してるからね」と言って別れた。出発の日は春雨。これもまた朋子さん一家にとっては印象的でいいだろう。翌日の夕方、メールチェックをしたら、ニュージーランドからもうメールが入っていた。星空がきれいなこと。だから、そこが田舎であること。そして、食べたうどんの中に、なぜかパイナップルが入っていたことが書いてあった。新鮮な感覚で、新しい世界が見られる喜びがあふれている内容だった。さっそく、ラブラドールのお父さんに電話した。
2003年3月31日更新
3月8日の日記 ことしの“毎日通い”も今日で終わり
3月8日 毎日新聞本社の毎日ホールで全国学校新聞コンクールの表彰式。東中からは安田校長先生、千葉先生、そして森谷さんと今林さんが参列。来年の広報委員長の今林さんは、「新聞と教育賞」の授与者・新聞教育研究所長大内先生の言葉にかなり“洗脳”されたようだ。
表彰式の後は祝賀パーティー。PTA広報で入賞した松田小のお母さん二人と記念写真に収まる。松田町では広報講座を四年続けてきた。来年度も4月に行う予定になっている。沖縄から表彰式に参加された西原東中学校PTAの城間さんと本庄さんが、私を探して会いきてくれた。そして、私の講評の内容を「自分たちの思っていることと同じ」と喜んでくれた。二人とも元気なお父さんだった。後日、本庄さんから、さらにお礼の手紙をもらった。「新聞の講評」の“講評”をもらったのは初めて。
祝賀パーティーを終え、コンクールの運営にかかわった人たちで“打ち上げ”をした。レストランの片隅に陣取った人数は十数名。全新研の井上会長の挨拶の後、乾杯。井上先生はこの3月で退職。30数年新聞教育にかかわってきただけに、今日は特別な感慨があるだろう。私も30年近くお付き合いさせてもらった。「武先生(井上先生の『武』の発音・アクセントは『竹』と同じ)」といつも声をかけてもらい、いろいろなことをさせてもらった。このコンクールにかかわるようになっのも、井上先生の声かけからだった。この打ち上げには、中学校の部で総理大臣賞を受けた大分・姫島中学校の上原先生の顔もあった。そして生徒代表の林さんもいた。彼女は、私たちのテーブルと背中合わせの席に一人で漫画を読んでいた。それで「日本一の新聞をつくった林さんにインタビューさせてもらいます」と、林さんのテーブルに同席させてもらった。
《姫島のこと》
姫島は国東半島の伊美から船で20分ほどのところにある。島と本土とを結ぶ最終便は18時台とのこと。パソコンで作る学校新聞『やはず』は月2回の発行で、村の人(人口およそ3000人)みんなに読んでもらっている。その例としてこんな話を聞かせてもらった。「村のフェリー乗り場に『やはず』を80部置いている。それを読んだ人から手紙が届いた。その人は『年間で一番多く来ている営業マン』と名乗っていて、「みんなの声か聞こえてきそうな楽しい新聞です。これからも楽しみに待っています」とあった。卒業生や村の人はもちろん、時に観光客からも声がとどく。学校新聞は村(地域)の新聞になっている。
彼女の父は漁師、母親は対岸の伊美で介護の仕事をしている。そんな母を生活を見ている彼女の夢は看護師になること。「中学生でケータイを持っている人はいない。島での生活だからケータイを使う意味がない」と言う。私の前だから、という訳ではない。同席したK先生が「島を離れてからが心配」と感じるくらい純朴な中学生だった。だが「今、私たちのことを思って本当にしかってしかってくれる先生は3人くらいかな」など、しっかりとした眼は持っていた。
帰途につき、井上先生と竹橋のホームに立っていたら、毎日こども環境・文化研究所の菊池所長さん、全新研の菅原さん、横山さんが後から来た。去年の打ち上げの日には、菊池さんは私たちを率いてカラオケに行ったのに。この日は帰宅するとのこと。「菅原さん、横山さん、一緒に帰えろー」という。彼はここで社会部に戻るらしい。このコンクールの運営の中心者だっただけに、寂しいのだろう。
井上先生とは新百合丘まで一緒。その日の井上先生の手には小さな花束があった。打ち上げの席で誰かが先生に贈ったのだ。こんな心遣いができる人たちが新聞づくりを進める人たちなのだ。「新聞づくりは仲間づくりり」である。1月13日からはじまった今年の“毎日通い”もこうして終わった。
2003年3月1日更新
日本語の縦書き・横書き
『エコー』を、インターネット上と、郵送された印刷物の両方で読んでいる人から次のような言葉をもらった。「横書きと縦書きでは読んだときの印象が違う。活字で印刷された文の方がしっかり伝わる。『エコー』の主張みたいなものを強く感じる」
今の『エコー』は、ホームページに先ず横書きでアップし、その後印刷用に縦書きに変えている。私自身、両者を比べてみると印刷されたもののほうが読みやすい。パソコンの画面の横書きは、行間や文字の間も詰まっているからだ。読んでいて集中できない。これは使っているワードというソフトが横文字用に作られたものだから仕方ないことだが。
私が育った時代は縦書きだ。教師になっての書類や文書はすべて縦書きだった。当然のことだが、新聞づくりも縦書きで手書き。だから今も「主見出しは縦,横はサブ見出し。日本語は縦書きがふさわしい」と新聞づくりの指導でも話している。漢字・平仮名は縦書きのためにある、と思っている。だが根拠はあいまい,うまく説明できなかった。
この縦書き・横書きについて、二月二七日の神奈川新聞のコラム「照明灯」に書いてあったが、おもしろかった。けっこう納得した。この欄で次のようなことが紹介されていた。
作詞家の阿久悠さんは「縦書きは一行ずつ、うなずきながら読んでいく。横書きだったら、全部首を横に振って否定しながら読む。縦に読むほうがとにかく体に入っていく」といっている。
「縦書きはうなずきながら読める」という認識がいい。 こんな一文もあった。
書家で京都精華大教授の石川九楊さんが、学生たちに「私の人生」というテーマで縦書き、横書き二種類書かせた。すると、縦書き、横書きとでは文章、文体が きく異なった。その違いを質問すると、縦書きは「重い、苦しい。だが、まとまりやすい」。横書きは「どんどん書けるが、散漫に終わる」。これが大方の回答だっ たという。
阿久悠さんは「日本語をダメにしたのは横書きによるところもあるんじゃないか、とまで思う」といっている。
この文は横書き。私はこの文を縦書きで書き、このページに横書きで貼り付けている。
2003年2月12日更新
湯河原文学賞授賞式に行ってきました
2月11日、一人旅の気分で湯河原に行ってきた。
万葉公園の中に設けられた投句箱の除幕式のあと、黛執・まどか先生親娘と一緒の写真におさまることができた。その折、執先生に「振り返ってみたくてのぼる春の坂」という作品が好きですと言ったら、まどか先生が「私もその句 好きなんです」と答えてくれた。入選の副賞に頂いた黛まどか句集『京都の恋』の巻頭句は「春の坂のぼりて恋の願かけに」だった。
俳句の部 兼題 湯河原・家族
最優秀賞 父は田を子はかまきりを見ていたり
川崎市 須佐はじむ
優秀賞
一般の部 梅ほつほつ親子が足湯に足並べ
厚木市 小倉 康雄
高校生の部 雲間から陽の光射す秋の海
茅ケ崎市 田辺 桃子
中学生の部 「ほうたるこい」はしゃぐ私のとなりは父
湯河原町 石上 真理
小学生の部 どんぐりが茶いろい服でお出かけだ
湯河原町 大山 凌
入選 滴りの観音像の肩に落つ
渋谷区 加藤 房子
足湯して四囲の万緑ほしいまま
横浜市 三浦 鉄夫
病む妻に聞く新米の水加減
神戸市 小西 明彦
海に向く武将の墓や寺小春
湯河原町 細野みさお
碧空にあそび雲なし梅光る
秦野市 武 勝美
足萎えの母を支えて彼岸道
湯河原町 小澤すみ江
冬の日を拾ひ拾ひて老二人
熱海市 渡辺すすむ
相寄らぬままに消えたるほたるかな
伊勢原市 菅野 忠夫
湯河原の湯の香に染みし初時雨
横浜市 長谷川きよ志
足湯せる火照りいつまで冬椿
大和市 平綿 涼風
はらからの一つ灯に寄る夜長かな
三郷市 吉田 静子
万葉の里に色無き風の声
足立区 松下千恵子
小春日の伝言板に夫の文字
大磯町 川村 文英
碁敵の一人に息子春火鉢
小田原市 古矢 智子
まどか先生から 「あそび雲なし、が早春の命の躍動を感じさせる」との評をもらった。
表彰式の午後、黛まどか親子俳句会が開かれた。短冊に作品を書いて投句するらしかった。白状すると,短冊の裏表が分からなかった。それで周りの人が書くまで作句に専念するふりをしていた。席題は「梅 梅の花」
枝先の梅で視力もたしかめて
言の葉は少なきが良し雨の梅
で挑戦したが恥ずかしかった。
選評のとき分かったことがあった。こういう句会では「挨拶句」というのがあるのだそうだ。もうひとつ,プラス思考の作品が好まれる。
親子句会の入賞句
最優秀 梅林を抜けきし水の勢いかな
優秀 梅咲いてここより万葉古歌の径
手をはなし梅の香空へ返しけり
紅梅もをみなも闇に息づける
これらの作者はみな男性。いずれも私と同年齢くらい。研鑚を積んでいる。
足湯「独歩の湯」の手前に設けられた投句箱の前で 執先生(左)・まどか先生(右)と
2003年2月1日更新
湯河原文学賞授賞式
お気づきと思うが『今日の日記』に週一回のペースで俳句を載せている。朝日新聞の俳壇から私が好きな句を選んでいる。朝日俳壇の今の選者は稲畑汀子、金子兜太、川崎展宏、長谷川櫂という大家。この4先生の「選」をさらに私が選んでいる。だからたいへん恐れ多いこと、いやとんでもないことをしている。
現職の頃−当時日曜日が掲載日だったので−月曜日はそのページを持って普段より早く出勤し、仕事を始める前に俳壇・歌壇を読んでいた。それは心を落ち着ける、あるいは今週も頑張ろうとする気持ちになれるすがずかしい時間だった。そして、時にはそこで見つけた句や歌を元に子ども達に話をすることもできた。その習慣は今も続いていて、気に入った作品をそれ用のノートに書き抜いている。いつか俳句を作ろうという思いはあるが、このノートを広げるとその気力は失せていく一方。
昨秋、新聞に『湯河原文学賞』作品募集の記事が出た。小説と俳句の懸賞募集だった。思い切って、いや「参加したい」と切に思った。湯河原という町が好きだからだ。それに選者は黛まどかさんではないか。
1月25日、湯河原町役場から封書が届いた。開けてみると『湯河原文学賞表彰式』の案内だった。なんと『文学賞』入選の知らせなのだ。うれしかった…だけど時間の経過とともに怖くなった。表彰式のあと万葉公園で『黛まどか親子俳句会』も行われるが、そちらにも参加するように、とある。
出欠席の返事を出すのをためらっていたら、30日の4時ごろ湯河原町役場から電話が入った。 「ハガキはもう投函されましたか」という問い合わせ。「まだ」というと「昼食を用意しますので俳句会に参加を」と勧められた。俳句会も短歌会にも、その種のものに参加したことなどない。限られた時間と空間で作句することなど無理なこと。ますます恐怖心は大きくなった。でも、黛まどかさんには会いたい。一緒に写真に収まりたい。もしかしたら言葉が交わせられるかもしれない、などと今は大いにミーハーの心境になっている。それにしても、どの句が採られのだろう。作品はメモしてあるが、今それらを読んでみると、やはり恐怖心は増す。 それでも、2月11日、湯河原町観光会館に出かけることにした。梅の花と光る海と俳句(黛まどかさん)に、やっぱり惹かれる。
--------------------------------------------------
2003年1月1日更新
返ってきたエコーに勇気づけられ 今年も一歩踏み出します
12月25日、私へのクリスマスプレゼントは“返ってきたエコー”。朝日新聞が「エコー」のことを記事にしてくれた(下参照)。8人から「読んだ」という連絡があった。うれしかった。最初はメールで7時半。mailが5人、FAXが2人、電話が1人。電話で「これは先生から私へのクリスマスプレゼントです」と喜んでくれたTさん。
「先ほど先生の日記を拝見し、なに、朝日に!!!
これは嬉しいなあと、神奈川版を見たらすぐ出てきました。内容をみて、またまた感動しましたよ。涙が滲みます。素晴らしい「小径」となっていますね。 シンナー少年少女とのやり取りが次々浮かんできます。中学卒業して3年目ごろ、「先生!レイコだよ、レイコッ!わかる?
子どもが産まれたんだよ。子どもだけは不良にしたくないんだよね。いい子にしたいから、どうやって育てたらいいかね〜?先生」
といきなり電話が入る。度肝を抜かれてう〜んと唸ったのが昨日のことのようです。
富士山が真っ白に望め、今日は冷たいけど暖かいといったよき日でした。そこへ武先生のよきニュース!夕暮れの富士山も、2階から見事な シルエットになって見え、今日は特に綺麗でした。 先生はじめ 御家族の皆様、 ご健康でよいお年をお迎え下さい。」これはSさんからのメール。田玉記者の記事にも、激励が潜んでいる。こんな言葉をもらうと、2月からどんな「エコー」にしようかと気になる。
そして12月29日、鶴巻中で一緒に仕事をしたY先生から手紙が届いた。
「今年の夏休みに入る前にクラス子どもたちに『夏休みに本格的に漢字の勉強を頑張る』.と宣言しました。そして10月に漢字検定準1級を受験したところ先日合格の通知が届きました。『2級を取ってから8年かかったんだよ』と話したら子どもたちもびっくりしていました。今年頑張ったことのBest1かもしれません。来年は以前少しやっていた点字の勉強をもう一度やってみようという気持ちもあります。また子どもたちに宣言して励みにしようかなと思います。」
Yさんの頑張りもまた私への刺激と励ましになっている。まもなく届くことしの年賀状もまた、私への応援歌だ。こうして、多くの人に励まされ、刺激されて私の一年の生活は保てる。
--------------------------------------------------
2002年12月2日更新
モノを整理するということ
シロアリのお陰で、台所と応接室の調度品の整理をしようという気になった。シロアリのお陰で、この二つの部屋の中のモノを少しだけ整理することができた。
食器戸棚の隅に「竹に雪国の子ども」という奇妙な組み合わせがデザインされた皿やカップ、小鉢などがうずたかく積んであった。教師になりたての頃、家庭科の先生にすすめられて毎月一回の通販で買ったもの。これは簡単に処分を決断できた。対のご飯茶碗も十数組ある。我が家だけのしきたりなのだろうか、今も毎年大晦日の買い物に一対のご飯茶碗を買っている。この茶碗で元旦の朝からの年神様へ食事を供えるのだ。家族の中に、特に“茶碗を投げる癖”を持つ者もないから、ご飯茶碗はそう換えることはない。だから、新聞紙に包まれて引き出しにしまいこんである。二十数年前のものから今年のものまで、その気になって眺めてみると、絵柄や大きさなどの形が時とともに変化していることが分かる。それは、また父が買った茶碗と私が求めるようになってからの茶碗に違いも表している。この茶碗類は簡単に処分する気にはなれない。何しろ神様が使った茶碗だから。
応接室には、かつて集めていた郷土玩具が飾られている。その数はおおよそ300。系統的でもなれば、限定的でもない。こけし、凧、土人形、独楽などが多い。この蒐集品も、40年も経てば紙製品は色あせ、もろけてしまっているものもある。「ここで整理するか」と取捨選択を始めてはみたが、なかなか“捨”はできない。
背丈50センチほどの銀山こけし−工人は伊豆護−は、ほほに縦に大きくひびが入ってしまい無残、かわいそうだ。だが、このこけしは尾花沢市市立宮沢中学校で「新聞づくりの話」をしたときに、主催者である公民館から頂いたもの。8月の末だったった、訪れた校長室でお茶代わりに尾花沢西瓜が出された。一個の西瓜が真っ二つに割られたもの…「これがこちらのもてなし」と言われ、スプーンですくって食べた。そんな思い出が浮かんでくるこけしが処分できるはずはない。森繁久弥が「なぜに思い出を手繰り寄せるのだ」と詠っているが…。応接室のモノは、私と共にこの世から消えるのが自然だろう。
娘さんがドイツで生活しているPさんから『ドイツ流シンプル家事学』沖幸子著、を紹介された。この本の「はじめに」に、次のようなことが書かれている(一部省略)。家の中のモノを整理しようとしていた私には興味深い内容だった。
どこの世界にも「ケチ」は存在します。でも、二年間のドイツ暮しの中で出会ったほとんどの人は「ケチ」ではなく、「合理的」な生活を楽しんでいるように見えました。つまりドイツ語「シュパーレン」なのです。簡単に言えば「節約する」ことですが、日本語の意味する「切り詰めた生活をする」のではなく、毎日の生活を楽しみながら、目的をもった「シュパーレン」ということなのです。
人を喜ばせるためには、お金ではなく知恵を絞る。毎日の服装は清潔で質素そのものですが、住む家にはこだわり、知恵を使う。自分の心が満足できる実感があるモノにはここぞとお金を使い、ふだんは無駄なお金は小金といえども使い方には慎重です。無意識に小さな買い物を重ねていると、お金は何時の間にかチリが積もるように出ていき、モノだけが残されて家の中に増える、というわけです。不必要な安物が家中に散乱するほど、心の貧しいことはないというのがドイツ式の考え方なのです。
豊かな暮らしとは、モノを飽くことなく買い求め、高価なモノに囲まれてゴージャスさを身体全体に塗りたくることではなく、古いモノや伝統、習慣を大切にしながら、自分に必要なモノをどうシンプルに、合理的に使いこなしていくかの知恵を楽しむことなのです。
2002年11月1日更新
10.11 5年ぶりに鶴巻中で授業 2年選択社会「地名鶴巻について」
授業は「鶴の舞橋・青森県鶴田町の日本最長の木造橋」 と「珍蔵寺・山形県南陽市にある“鶴の恩返し”の寺」を訪ねたことから話し始めました。
担当のK先生へのお礼状
K先生 お世話になりました。
地名鶴巻についての話は初めてでしたので、ペースがつかめませんでした。生徒さんにはわかりづらかったのではないかと反省しています。教える方が、興味津々で興奮して話しているようでは、その話を聴く立場の者にとっては、はなはだわかりにくいものになるようです。授業であることを忘れていた私でした。もし次の機会があれば、もう少し落ちついて話せるでしょう。教室の雰囲気は私次第、教師が生み出すものです。
あの日の夜、二人の鶴巻の保護者から電話をいただきました。一人は、私も聴きたかったという声です。PTA行事と勘違いなさっていたようでした。あの教室にいらっしゃったあるお母さんは「鶴巻が好きになりました」と電話を下さいました。そして、もっと大勢のお母さんたちに聞いて欲しい、とも言ってくださいました。ふるさとを知ることから ふるさとを愛するようになり ふるさとを育てる心になる−これが地域学習のねらいだと思います。子どもたちが少しでも鶴巻について興味を持ってくれたらいいなあ、と思っています。
昨日『丹沢そば・石庄』のソバ畑で花見がありました。ご主人の石井貞男さんに頼まれて、ソバの花見の客40名ほど−ほとんど東京の人、小学生から70代までの男女−を連れて「大山道・寺山の里めぐり」をしました。この寺山でさえ2時間では歩ききれないほどのいろいろな場所・興味深い、あるいは由緒ある話ができるところがあるのです。案内をしながら、私は寺山に生まれてよかったと思ったのです。石庄のソバ畑も、やがて寺山の名所になるのでしょう。
散歩のあとはソバの花を見下ろしながらバーベキュー、最後に貞男さんが打ったソバをいただきました。石井さんは「同級生に12人の先生がいることが自慢だ。担任のA先生の影響によると思う」と言っていました。K先生もその一人だそうですね。こんなふうに教師を認めてくれる同級生がいるとは羨ましいかぎりです。
地域めぐりで東中学校での総合学習のお手伝いをするとき、私は『まほら東・案内人』というタグを首から懸け、案内人になります。昨日の石庄さんのツアーもタグをぶら下げて歩きました。ツアーの終りに『まほら』という言葉を解説しています。
校長先生、教頭先生、S先生によろしくお伝えください。ありがとうございました。
「7年半で200号」 それとも“17年半で200号”で悩みました
下はECHO200号を紹介してくれた新聞の切抜きです。記事は私の思いをていねいに伝えてくれています。取材にみえたY記者の人柄がにじみ出ていると思いました。
ところで、見出しの『エコー響かせ7年半』は間違いです。創刊が1985年ですから「17年半」が正しいのです。訂正をお願いしようと思いました。でも考えました。私の新聞づくりの経験からすれば、これだけ大きな見出しになると、たとえ訂正が出てもこの見出し「7年半」がもう真実になっているからです。「7年半で200号なら、月3回の発行というペース。月刊じゃなく旬刊、これは読者に与える印象は強い。アピール度はけっこうある。このままでいこうか」。「正しい見出し『17年半で200号』となると、継続性だけは訴えられる。短く密度濃くか、長く薄くか」と心は揺れました。
8時過ぎ、読者のNさんから電話がありました。「新聞を読みました。あらためておめでとうございます,と言います。でも7年じゃないですよね、エコーは…。」Nさんと話したあと、私は記者さんに電話をしました。そして16日に《訂正》がでました。(左下の訂正記事がそれです)
今年の新聞週間の標語は「知りたい、本当のこと、だから新聞」でした。
武 勝美 のこれからの情報
その 1 2002年11月 2日
古事記を読む会 秦野曽屋高校
その 2 2002年11月 8日
神奈川新聞社見学 秦野市PTA母親委員会
その 3 2002年11月9、10日
菊の展示会参加 東公民館祭り
その 4 2002年11月18、19日
東海の秋を歩く 秦野園芸愛好会
その 5 2002年11月28日
秦野教育懇談会 秦野市教育委員会
その 6 2002年11月30日
家庭教育講演会 なごみ会
2002年10月1日更新
「言 葉」
私の右足は左とくらべて少し短い。それでも教師になりたての頃は、子どもたちと富士山の頂上に二度も立った。足が悪いということはまったく気にならなかったし、ハンディを感じたこともなかった。しかし、私が足を引きながら歩いていることは、だれにでもわかっていたはずである。ただ、そのことに触れる人に出会わなかっただけである。
十数年前のある日。その日は教師を対象とする健康診断の日、いろいろな検査を受けた私は、最後に医師の問診を受ける部屋に入った。私を診る医師は、私が彼の前に歩んでいく動作を見て「ビッコだね」と言った。他の言葉もあったろうが、私には《ビッコ》という言葉しか聞こえなかった。三十数年の私の人生の中で、身体的欠陥を正面切って指摘されたのは初めてだった。彼は何気なく、全く他意はなく、たぶん私がケガでもしていると思って、むしろ親しみを込めて声をかけてくれたのだろう。しかしその言葉が私に与えたものは鮮烈だった。このことがあってから、私は身体的欠陥や欠点を表す言葉にピリピリするようになった。今、教師という立場にあって、子どもたちに向かって発している言葉の重さを意識せざるを得ない。
地球上で言葉を使うのは人間だけである。もっとも弱い動物の一種であろうホモサピエンスは、言葉を持ったことによって、いまや全宇宙を自分のものにしようとしている。しかし、その人類の『生殺与奪』権は、もしかしたら人間が使う、何気ない言葉に握られているかもしれない。
『エコー』60号(1990年4月)に書いた私の文(上)を読んだ教え子のAさんから、次のような手紙をもらった。
先生の心のままに いっしょうけんめい動いてくれる足に感謝していますか
どちらの足か知らないけれど、片足を引いて歩く武先生です。不思議ですね、初めからそうでした。「ナゼ?」とも思わず、先生に出会ってからずっと普通ではない歩き方の先生が私の武先生でした。あの歩き方と、いつも血走った目をして…と今思い返しています。先生は、びっこを引く自分がいやなんですか。そんなご自分の姿を認めていらっしゃらないのですか。先生のがんばってしまう心で足を引きずりまわして、足を痛めていらっしゃるのでしょう。先生の心のままに動いてくれる足に感謝なさっていますか。先生の心のままに、いっしょうけんめい動いている足に。
先日、丸山浩路さんの講演会にいってきました。彼の言葉にこんなものがありました。「この世の中は、障害を持った人と、これから障害者になる人との、二種類の人で成り立っている」武先生は、先生にとって不本意なことは今まで誰からも言ってもらえなかった、そのことは哀しいことです。世のため、人のため、子供のためとか、いっしょうけんめいやっている人の宿命なのかも知れませんね。「とてもすばらしいことをなさっていらっしゃるから…」が邪魔して、先生の周りの人たちは先生をほめることはしても「先生、それちょっとおかしいんじゃないですか」と言ってくれる人がいなかった…。
ご自分の姿が子どもたちに不快感を与えている、などと本当にお考えなら、それは足のせいではなく、武先生という人間そのものではないですか。医師の言葉に反応したご自分の心をしっかり観てごらんになりましたか?先生、何ももう力まなくていいのではないですか。そのままの人間臭さい先生でいいのです。ありのままの自分を受け入れてください。
▽ この日(五月十三日)の私の日記の一部 ▽
Aさんが書いてきたことは論点が少し違うと思う。だが「なぜそんなに、足のことを今になってもこだわるのか」という言葉に、自分の生き方ができていないことに気づいた。
ECHOが200号までたどり着けたのは、このような「返ってきたエコー」があったからだ。私に与えてくださった皆さんの心や言葉を、ECHOはそのまま食して命をつないできた。そして、それは私は生き方を支えてくれた。だからECHOは止められなかった。
武 勝美 のこれからの情報
その 1 2002年10月 3.4日
関東パピルス会総会 東京・上野
その 2 2002年10月 5日
古事記を読む会 秦野曽屋高校
その 3 2002年10月11日
社会科授業「地名鶴巻について」 秦野・鶴巻中学校2年
その 4 2002年10月14日
蕎麦゛の里・寺山散歩ガイド “
そばの花”花見会 丹沢そば『石庄』
その 5 2002年10月28日
秦野教育懇談会 秦野市教育委員会
--------------------------------------------------
2002年9月1日更新
九月の歌 詞 広木明美 曲 中原健二
楽しい楽しい 夏休み 芙蓉の花が もう咲いて
いつか 九月になりました 海でくらした 子どもらは
海のかもめに もうします 仲良しかもめよ さようなら
楽しい楽しい 夏休み かなかなぜみが もう鳴いて
いつか 九月になりました 山でくらした 子どもらは
山のこだまに もうします 仲良しこだまよ さようなら
九月の歌
日記に書くネタが切れたら、それこそ私は「ネタ切れ」老人。日記を書いてはいるが、その中身は
一日の行動のメモ書きていどのもの。感動する感覚が薄れたのかも知れない。何に出会っても「そういうものよ」で、やり過ごしてしまう私。歳をとるとこんなふうに淡白に生きることがいいのかもしれない。
国木田独歩の「武蔵野」を今繰り返し読んでいる。「こんなふうに自然の中に溶け込めたらいいなあ」とつくづく思う。 私とて、緑に包み込まれて暮らしている毎日。自然が発するさまざまなメッセージや声を受け止められるはずなのに、アンテナが低すぎる。受信能力が極度に落ちている。そんなわけで、ここ数日、庭に目をやり、耳をそばだててみた。
四十雀の「ツピーツピー」「ジュクジュク」という鳴き声が一日中聞こえる。今までは冬枯れ木立にその姿をよく見た。今は早朝から、桜の葉影に頬に大きな白い斑紋が見え隠れする。その桜の木に来る蝉、ニイニイ蝉が最初に表れて、やがてアブラ蝉の天下。だがその「ジージー」という鳴き声に、時に「シュッシュッ」とクマ蝉も混じる。そして、8月の後半はミンミンが元気。だが今朝はツクツク法師が鳴いている。
8月29日、この朝最初に鳴いたのはミンミン、5時20分ころ、ヒヨドリがやかましく騒ぐのですぐに鳴き止む。桜の木に陽光が当たり始めるは6時過ぎ。ミンミン蝉の大唱和が始まる。最高潮の時は「ミーン ミン ミン ミーン」が一般的に鳴き方。カナカナがこの家までやってくるのは稀。カナカナは夕方遠くから聞こえてくるのがいい。蜩の声は晩夏の歌だ。
また庭木の松がやられた。昨年に続いて、だ。残りは三本。庭師の手間賃(一本の松に半人分以上かかる)が減るのはいいが、既に数十年、わが家の景色となっていたこの松。明日2日こそ切り倒すつもり。一日送りで延びてきた。
一日10感動
8月30日相原家から2種類の新聞が届いた。秦野市は毎年8月6日の広島平和式典に親子広島訪問団を送っている。今年参加した相原幸子さんは、広島を訪れた印象を「広島平和祈念号・LOVE&PEACE」という新聞にまとめた。
初めて訪れた広島で受けた衝撃、それは「悲しい」とか「恐ろしい」というようなものではなく、ただ「重苦しい」心になった自分を解明したかったからだという。A4判4ページの新聞ができた。
彼女は半日経理の仕事をしている。家に帰れば二人の子どもと高齢の両親を抱えたサラリーマンの奥さん。あえて特徴を挙げればPTA広報に二年ほど携わったことか。こうしたことができる行動力、やろうとする心が生まれることが羨ましい。同行した末彩さん(小6)も『平和の輪』(B4判2ページ、カラー版)という新聞を発行した。「夏休みの宿題の自由課題として新聞作りをした」とメールが届いたきた。
未彩さんの新聞を読んでください↑
↓そしてお母さんの編集後記です
家族新聞『らんどせる』と『O sole mio』は昨年六月にスタート、どちらも月刊で発行が続いている。今年の五月の講習会から家族新聞を書き始めた高橋家、加山家、浦田家、伊野家なもど順調なようだ。どれも相原さん親子と同じように、夏休みの家族の動きが書いてある。読ませてもらう私までホノボノとした気持ちになる新聞だ。
8月の後半、新聞づくりの相談で来訪が7件・12名。子どもたちもPTAも二学期に向けて動きだしている。この夏の大仕事の一つは、秦野・東小6年生の学習新聞を116紙・全ページを読むことだった。上の未彩さんの新聞でも感じたが、全紙の読後感は「子どもはスゴイ!」という一言。そして「母親もスゴイ」例を。講習会で「学期1回発行の“通信簿型”広報からの脱却」を勧めたら、秦野・堀川小と西東京・谷戸小が反応してくれ、夏休み直前に号外を発行した。堀川小はパソコンを駆使した斬新な横組み、谷戸小は手書きでその実力を見せている。どちらも見事なレイアウト。
8月25日の夕、テレビで黒田征太郎の「課外授業・戦争を感じ,命を描け」を見た。黒田さんの授業の組み立ても見事だが、それに応えた子どもたちの感性,表現力に感動した。こんなとき「感動」としか書けない私。
加藤シズエ元議員が100歳になったとき「一日十感動」を話していた。「感動」でいいのかもしれない。
--------------------------------------------------
武 勝美 のこれからの情報
その 1 2002年 9月 6日
生涯学習指導者研修会 神奈川県・松田町教育委員会
その 2 2002年 9月10日
広報づくり講習会 神奈川県・大井町教育委員会
その 3 2002年 9月20日
秦野教育懇談会 秦野市教育委員会
その 4 2002年 9月21日
家庭教育講演会 広畑プラザ
その 5 2002年 9月24日
総合学習「郷土めぐり」 秦野市立東中学校
---------------------------------------------
2002年8月1日更新
7月29日の日記 第45回全国新聞教育研究大会の私的レポート
「ゴメンナサイこんな服装で」とTシャツで講義
「先生、ラフな服装ですね、うらやましい」スーツにネクタイ姿のF先生が言う。前日は38℃、と報じられている大阪での大会、私の平熱は34度未満なのに。しかも私の担当するPTA講座の会場は、事前に届いた大意案内では《講堂・波除小学校》になっている。他の講座は大阪市教育センターの中。「ええ〜、この暑さの中、小学校の講堂!エアコンなんて着いているはずない」そう思った。悲壮な覚悟!とにかく暑さ対策をということで、Tシャツに半そでのオバーブラウスで出かけた。
「会場が学校でしょ、暑いからこれで許してもらうつもり」と笑う私に「先生、会場はここの講堂ですよ」とFさん。「でも送られてきた案内には《講堂・波除小学校》とあったので‥。変わったのですか」と、あわてて今もらったばかりの大会要綱を見た。事前の案内と変わりなく 新聞講座 (講堂・波除小学校) PTA広報講義…講堂 パソコン新聞作り(実習)…大阪市立波除小学校 と書いてある。
《講堂・波除小学校》という表記を、私は波除小学校の講堂と理解してしまったのだ。相変わらず早とちりである。だがもう一人私と同じように理解してくれた人がいた。千葉のSさんが「先生の講座は小学校ですよね」と声をかけてくれた。
今このことを書きながら、読売新聞社校閲部が出している『正確でわかりやすい文章を書く手引き』を開いてみた。 《講堂・波除小学校》で使われている【・】は中点といい、 @同格の語が続く場合に使う A切り離せない関係にあるものの間に使う とあった。私はAで解釈をしていたのだ。
センター内の講堂は涼しく、卓上のウーロン茶で喉をうるおすこともなく、話を終えることができた。
山盛りのデザートを持ってきてくれたお母さん
第1日の夜は6時から全国交流会があった。北は札幌から南は次年度開催地の北九州市まで、100名を超えた参加者でにぎやかだった。各都道府県ごとに挨拶をするのだが、神奈川は村田可代子先生・横浜、臼井淑子先生・横須賀(ここの中点の使い方はAですね)と私の三名だけ。いつものとおり『箱根八里』を合唱した。
生ビールを飲みながらおしゃべりに興じていると「先生、先ほどはありがとうございました。広報づくりに元気をいただきました」」と一人のお母さんがデザートの果物を小皿に一杯取って持ってきてくれた。「大阪は熱いですから、果物類を摂らないといけません」と言った。たった一人の反応だったが、うれしかった。今日の私の役割は果たせたような気がした。
この大会を作り上げたのは全て現役の先生たち、しかも大阪という地でその中に加えさせてもらった自分を光栄だと思う、なにより幸せだった。
交流会のクライマックスは豪華な景品が出る抽選会。司会の女先生の大阪弁にボルテージは上がり続ける。残念ながら私に『福』はこなかったが、その福は全て阪神タイガースの応援グッズ。メガホン、ミニバット、タオル、なんとゴーフルまで虎印。さすが大阪、何のけれん味もなく『六甲颪』を歌わせてしまう大阪人のひとがら。好きやねん、大阪。
宿は『ベイタワー』の35階。阪神高速の車のヘッドライト、.安治川の流れの先に大観覧車の白い光、右にはユニバーサルスタジオ。明石海峡大橋のかすかな灯り。缶ビールを開けて光の海に眺め入った。エコーの読者9名にも会えた。
2002年7月1日更新
わたしの使えない言葉
もう10年くらい前になるかもしれない。『エコー』に“いきざま”という言葉は使いたくない、と書いたことがあった。“明解”さんには「ざまは『ざまを見ろ』のざまとは意味が違い、悪い寓意は全く無い。一部の人が上記の理由でこの語をいやがるのは、全く謂れがない」とある。だが、“ざま”という音の響きが、なぜかわたしには合わない。
このごろ、わたしの使えない言葉。
「わたしって“○○な人”じゃないですか」という言葉、「私って“サッカー音痴な人”じゃないですか」。なぜ自分を三人称にしてしまうのだろうか。「わたし、サッカー音痴だからあ〜」でいいと思う。
「○○じゃないですか」も使えない。何か押し付けがましいし印象の言葉だ。
「わたし的には〜」も使えない。「わたしとしては」と言い切りたい。テレビの野球中継で解説者が「ピッチャー的には〜」を連発していた。これも発言内容をぼんやりさせる、いわば責任回避の言い回しだと思う。
「いい仕事してますね」は、すっかり市民権をえた流行語。佐々木投手が大リーグで100セーブを記録した。その彼の活躍を「いい仕事してますね」という感想で表してしまうと、彼のなしたことが軽く感じられてしまう。お宝鑑定団のあの人が「いい仕事してますね」と、微笑んで言うと、軽い感嘆符になってしまい、仕事の持つほんとうの意味が消えてしまうように思える。
テレビでのプロ野球のヒーローインタビュー。殊勲打の選手が「「おいしいところでしたから…」。〈おいしい〉は〈食べて美味〉なこと。やがて「おいしい」は「いい仕事をした」ときは、いつでも使えるようになるのだろうか。
食べ物に関する言葉を、テレビの世界からもう一つ。行列ができるラーメン店のスープは、加える秘伝のタレにあるらしい。だから店主は「企業秘密」と言い、カメラを回させない。たしかに商売の上での秘密事項なのだが、そのとおりだが…。グルメ番組で耳につく言葉「くせになりそう」「病みつき」。レポーターのタレントさん、安易に使い過ぎていませんか。「モチモチ感」と「まったり」も、わたしにはつかめない感触用語。
「金融危機が再来する可能性がある」と聞くと、わたしは、〈可能性〉と言わず、〈恐れ〉という言葉を使うのではないか、と思ったりする。わたしは、〈可能〉とは、プラス思考の言葉のように使ってきたからだ。
ここまで書いてきて気がついた。「わたしは、こういう言葉が使える生き方(ヤッパ「いきざま」じゃない!)をしてこなかった。今もしていない」と。
-------------------------------------------------------
2002年6月1日更新
もう一つの肩書き まほら東・案内人
五月、原稿を3本書いた。学校教育新聞の教育随想欄と7月に大阪で開かれる第45回全国新聞教育研究大会の大会要綱のPTA広報講座の資料、そしてもう一本が神奈川県湘南地区行政センターが発行している『金目川水系せせらぎ通信』だった。
当然のことだが、どの原稿も必ず肩書きをつけるように求められた。はじめの2本は新聞関係だから、臆面も無く「エコー教育広報相談室」という文字を武勝美の前に置いた。さて『せせらぎ通信』は「は金目川水系流域に住む人たちが流域の自然・歴史・文化、現在の問題などに理解を含め、地域づくりの土壌を創っていきたい」と創刊号に、その活動の趣旨を書いている。
この『通信』から原稿依頼がきたのは、この3月金目川の源流である東地区蓑毛地区を訪ねた人たちに、金目川について話をしたからだった。原稿を送ったところ、担当者から私の肩書は「エコー教育広報相談室」でよいかとの問い合わせがきた。この通信を読む人にとって、この肩書きは意味不明であるし、私の書いたものとも合わない。単なる肩書きなのだが、ここで使うものではないと思った。
それで、この原稿にふさわしい肩書きをつくることにした。“民俗研究家”“地域史研究家”、研究などしている私ではない。“語り部”では分野が違いすぎる。書いた中身からすれば“エッセイスト”が近いかもしれないが、これがエッセイというのに、自分自身抵抗があり過ぎる。
考えた末、新しい肩書きは「まほら東・案内人」とした。私が生まれ、住んできた東地区(旧東秦野村)の「良いことだけを伝える(案内する)」そんなことをしてきたし、これからも続けていきたいと思っているからである。本来なら『東』という広さでなく(東秦野村『寺山の案内人』とすべきだろうが、少し大きな肩書きにさせてもらった。このHPの「寺山物語」を中心に、昔の寺山の良いことを語り伝えていきたい。
武 勝美 のこれからの情報
その 1 2002年 6月 1日
古事記を読む会 県立曽屋高等学校
その 2 2002年 6月15日
PTA広報講座 西東京市PTA連絡協議会
その 3 2002年 6月15日 Toshiふれあいコンサート
その 4 2002年 6月17日
学校新聞指導者講習会 秦野市中学校教育研究会
その 5 2002年 6月21日
秦野教育懇談会 NO3 秦野市教育委員会
その 6 2002年 6月22日
親子で楽しく新聞づくり講座NO1 秦野市立東公民館
その 7 2002年 6月29日
親子で楽しく新聞づくり講座NO2 秦野市立東公民館
あなたのご参加をお待ちいたしております
2002年5月1日更新
どうやら今年も“新聞”で生きられそう
新年度がスタート。5月1日、うれしいことに小学6年生に新聞づくりの話をさせてもらうことになりました。学校五日制にかかわる事業として、6月には『親子で新聞を作ろう』という講座も開くことが決まっています。婦人会の会報にもアドバイスをします。もう一年‘新聞の武’でいられそうです。
4月10日 (水) 曇り
三時半ころ、東中のHさんが来る。新しい学級で学級新聞をつくるので話がしたいとのこと。初めての家に一人で来る、ということだけでもすごいのに、新聞をつくると言うのだ。Hさんとは、郷土学習のとき言葉を交わしただけ。昨年の全国コンクールで佳作に入賞したのがとても嬉しくて「今年もがんばる」らしい。バレーボール部に加わっている身長175センチの彼女。生徒会広報委員にも立候補するらしい。学級新聞をつくる時間が足りないだろと聞いたら「時間は見つけます」。今クラスにもう一人新聞づくりが好きな子がいるので二人で始めるらしい。「応援するね」と新聞罫の原稿用紙を一冊あげたら、小さな声で「やった!」 そして大きな声で「ありがとうございます」。おもしろい子。一人でも新聞に興味を示す子がいる限り、もう一年新聞教育にかかわっていこう。
4月15日 (月) 晴れ
松田町と大井町のPTA広報講座の資料を作った。その資料作成のため、全国のたくさんのPTA広報に目を通した。それで気が付いたこと。
1、広報にお金をかけている。(写真をたくさん使っている。カラーページもけっこうある) 広報の重要性が十分認識されたのか。そうでもなさそうだ。 なぜなら 2、内容は学校だよりと同じ、学校行事を写真で特集しているだけ。PTAの活動がわずかしか記事になってない。これはPTAが活動をしていないことを表している。だから会費を広報にたくさんつぎ込むことができる。もしかしたら広報以外には実質的なPTA活動は無い? 3、読ませる、考えさせる広報もあるが「PとTで共に考える」という紙面づくりになっていない。「父母・地域との連携」と口にし、「学校に行こう」と掛け声はかかるのだが、現実には両者は分断されている。五日制や絶対評価、総合学習、などについて特集も組まれた広報もあるが、言われる『責任説明』は不十分。
4月16日 (水) 曇り
東婦人会の広報担当の4人が来訪。前号の批評会をした。出来具合はけっこうなもの。全てが署名記事になっているがいい。だが、この組織での広報づくりは大変だろう。見えた4名の委員の年齢は40歳代から60歳後半まで。長年の−それこそ30年もの−会員暦がある先輩会員から「一面のトップは会長が写真付きで載るのよ」などと言われてしまうと、紙面の刷新など、そう簡単にできるものではなさそうだ。それらが、広報委員になるという条件をいっそう厳しくしているようだ。だが今日の4人には「一つだけでも変化を」という思いが強かった。その心意気を応援したい。
4月19日 (金) 曇り
昨年の委員長・副委員長さんに連れられて、H小のP広報委員長のKさんと副委員長のIさんが訪ねてきた。二人とも広報に立候補したとのこと。広報の経験は全く無し。初対面なので、その立候補の弁は聞くことはできなかったが、とにかくその意欲が嬉しい。今、この時に抱いた広報への熱い思いを冷ますことの無いようにするのが私の役目。「何から手をつけていのか全く分からない」ということ。それで、二つのことをするように提案した。
1は前年度の広報を委員会で読み直し、つまらない企画や記事があったら、今年はそれと同じようなことはしない。2、年間のテーマ みんなで決める。他に、委員長は委員会をまとめる。委員会の和をつくり、しっかりとした輪を作る。副委員長さんは、広報づくりの実際的なまとめ役、進行係になる。
Kさんの長女は、この間ウチに来た東中のHさんとは大の仲良しで、彼女も新聞づくりが好きなのだそうな。“母娘で新聞づくり”これも東地区ならでは。嬉しい。
武 勝美 のこれからの情報
その 1 2002年 5月 1日
総合学習 学習新聞づくりの指導NO1 秦野市立東小学校
その 2 2002年 5月 7日
新聞づくり講習会 秦野市立東中学校
その 3 2002年 5月 8日
新聞づくり講習会 秦野市立本町中学校
その 4 2002年 5月 9日
PTA指導者講習会 広報づくり講座 藤沢市教育委員会
その 5 2002年 5月10日
PTA広報づくり講座 秦野市PTA連絡協議会
その 6 2002年 5月11日
園芸愛好会例会
その 7 2002年 5月15日
新聞づくり講習会 秦野市立北中学校
その 8 2002年 5月17日
総合学習 学習新聞づくりの指導NO2 秦野市立東小学校
その 9 2002年 5月18日
古事記を読む会 県立曽屋高等学校
その10 2002年 5月21日
PTA指導者講習会 広報づくり講座 寒川町教育委員会
その11 2002年 5月25日
中地区退職教職員の会総会
その12 2002年 5月28日
秦野教育懇談会 NO2 秦野市教育委員会
2002年4月1日更新
やよい 三月は終わりました
3月14日 (木) 晴れのち曇り
東中の「総合学習・郷土に親しむ」のまとめの日。学校から金剛寺まで、行き組と帰り組それぞれ2クラスずつ案内して歩いた。校庭の大銀杏→金目川古墳群→校歌に歌われている清水→大山道道標→首切り畑→金目川の名称の由来→馬頭観音群→馬渡の橋→村役場跡→大山道道標を兼ねた道祖神→金剛寺。これだけの場所を1時間ちょっとで歩きながら説明するのは大変。まして生徒が70名をこえているのだから。一人でも関心を強めてくれたら成功と思わなければ。こちらの勉強も大切。昼食に彼らが育てたソバを頂いた。自分で打ったソバに「オイシイー」と歓声を上げて食べている姿。私の話よりソバ打ちの方が体験学習のまとめとしては良かったようだ。帰りに大津俊彦さんに会ったので金剛寺の湧水のことを話したら、「ウチの近所はまだ数軒、裏の山から取った水を使っている」とのこと。「市の水道の水は牛に飲ませるのに使っている。わたしたちは湧き水を飲んでいる」と笑う。信じられないような話に「逆じゃないの」と私。でもなぜか嬉しかった。『まほら・東』だ。4月1日に水神さんのお祭りをするから来てみな、と言ってくれた。お年寄りのこの地のおもしろい話が聴けるらしい。中学生に紹介したい。
3月23日 (土) 曇りのち晴れ
蓑毛の緑水庵で講演。『金目川水系流域ネットワーク』が、金目川源流の春嶽・髭僧の滝を訪ねたあと「この地域の歴史的・民俗的な背景を知りたいので話を」という依頼だった。20名ほどの参加。大学の先生を中心にした、自然環境の保全を考える人たちの集まり。大学の先生、行政の方、ビオトープの活動をしている人、学生さんなど、さまざまな人の集まりだった。金目川に「加奈比可波」「加奈為可波」と読みかなを付けた新編相模風土記稿の話は“受けた”と思った。
3月28日 (木) 晴れ
婦人会の総会に講演をすることになっていたので、1時30分に東公民館。2時には“出番”と計算していた。来賓が多く祝辞に45分かかった。それて私のスタートは2時40分過ぎ。出鼻をくじかれた感があった。「家庭」がテーマ。同級生を始め知り合いはたくさん。教え子もいた。会員の年齢層は巾広い。「婦」という文字のもつ意味を知ってもらった。「これから自信を持って婦人会への入会を勧めることができる」と感想述べてくれた人がいた。よかった。終わって役員の反省会。そこにも招じ入れられた。お茶にお饅頭、蜜柑。そして白菜の漬物、沢庵。なつかしい! そう、昔から婦人会はこうだった。
3月29日 (金) 雨
10時過ぎにジャスコへ。今日から秦野市PTA優秀広報紙展示会が開かれる。9時から準備をしてくれたのは母親委員さん。二階の子供服売り場の前。ボード10枚に、市内コンクールでの入賞13PTAの広報が掲示されている。時間的に早かったせいもあって見学者はあまりいない。母親よりは子どもの方が立ち止まってくれる。初めての試みだが、私の永年の願いだった。市内のPTA広報の質的向上もねらいの一つではあるが、PTAの存在を市民に知ってもらうことが何より大切なとき。広報を読むことで、教育への関心が深まるならこれにこしたことはない。来年はPRをもっとしなければ。ジャスコの片山さんに感謝。
下は3月19日と29日の写真です
藤棚バス停そば 大山道道標 「左みのげ道 右さか本道 (左奥が首切り畑寺山物語参照) |
道祖神 大山道の道標も兼ねている (東公民館の傍)(左)大山道 (右)いせ原□ とあるらしいが判読できない |
種まきから収穫 そして自分で打った蕎麦 東地区は秦野蕎麦の産地 この日はてんぷら蕎麦でした |
3月29日から4月2日まで ジャスコで開いている秦野市PTA広報展 力作ぞろいです ぜひ見に行ってください |
平成13年度秦野市PTA広報コンクールの結果 (平成14年3月13日実施)
優秀賞 秦野市立東中学校 西中学校 東小学校
優良賞 秦野市立本町中学校 鶴巻中学校 末広小学校 上小学校
奨励賞 秦野市立南中学校 北中学校 大根中学校 南小学校 本町小学校
武 勝美 のこれからの情報
その1 2002年 4月25日 PTA広報づくり講座 松田町教育委員会
その2 2002年 4月30日 PTA広報づくり講座
大井町教育委員会
2002年3月1日更新
2月14.15.16.18日の日記
2月14日 (木) 晴れ
1時30分、道永塚で待つ。東中の一年生11名と寺山を歩く、道永塚から横畑の松下家まで。この季節なのに『西の久保』の湧水がゆたかだった。近くの無人スタンドで売る野菜をここで洗っている、と聞いた。人間に使われることが分かり、湧水も元気を取り戻したのだろう。小学校と中学校の校歌に詠われている清水は、県道の拡張でアスファルトの下に押し込められてしまった。そのことを子どもたちにしっかりと伝えた。3時45分に帰校。彼らも私もけっこう楽しく歩けた、と思っている。
<生徒の感想文>
武さんが湧き水の所を案内してくれました。途中から松下さんの家まではしっていきました。裏庭に湧き水があってそれを飲みました。武さんが松下さんに頼んで、ワサビをもらってくれました。それから古い家を見せてもらいました。途中女子が走り出したので、バス通りまで走りました。すごく疲れました。とても楽しかったです。 正英
湧水地だけでなく、そばの石に書いてあることまで教えてくれたりして、とても勉強になりました。大山道を歩いているときは昔の様子とかをくわしく教えてくれました。私は湧水地を見たことがなかったから、見たときはすごいなあと思いました。また、飲める水があると言われたので、そこまでずっと走っていって、とても疲れました。水はおいしかったです。その所には家があったりして、いろりとか昔の家を見せてもらって、とてもいい体験をしました。 千夏
僕たちは武勝美先生と一緒に地域訪問をしました。最初に道永塚について話してもらい、次にampmの下の湧き水の所にいきました。30分くらい歩いて蓑毛の松下さんの所に行きました。湧き水を飲んでみたら、ちょっとぬるかったけどすごくおいしかった。松下さんの庭には昔の橋の家がありました。中に入れてもらったら、すごく木の匂いがして、土間もありました。帰りにわさびをもらいました。蓑毛のバス通りを帰り、昔の小学校跡(東雲小学校跡)を見て、学校に帰りました。すごく疲れた!! 樹
2月15日 (金) 晴れ
文化会館でJA・天童よしみショー。開演20分前の1時40分頃会場に。席は最後列の一つ前“への11”番だった。午前6時から並んだ人もいるのだから仕方ない。入場するとき気づいた 「自分がばかに背が高い」と。167センチの私が周りの人たちより頭一つ抜け出ている。そう、農業に勤しんできた人たちの会場なのだ。彼女の話術に乗せられてスタンディングイノベーションまでさせられた会場。3分の1は立ち上がって頭上で拍手。最後方では、さすがの私も立てなかった。でも「イエィ!」など、小声で言ったりして、けっこうノセられていた。彼女の燕尾服姿でのダンス、短矩を振り上げての踊りに会場が沸くのはうなずける。
過去3年、JA秦野が招いた歌手は、美川憲一、長山洋子、梅澤富美男(全部観た)。そして今年は天童よしみ。紅白のトリをとった歌手には、それだけの何かがあると思った。
2月16日 (土) 晴れ
ロータリーのIntercity Meeting。 会場は秦野商工会議所4階。北から西南に伸びる丹沢の山並みを眺めて、秦野はいい所だと思った。『新世代から学ぶロータリー』をテーマにパネルが持たれた。「ロータリーの特長であるダイナミズムが失われている」という、若者の言葉に共感。第2部はソプラノとピアノのミニ・コンサート。とても近くで、いずれもナマで聴けたのが嬉しかった。第3部の懇親会では、生後7カ月で視力を失った熊坂さんのアコーディオン演奏を聴いた。グラスを口に運ぶのが申し訳なかった。「表現できないものを表現するのに一番近いのが音楽」と先人は言っている。三つの音楽からそれを感じた。今日の会のようすを月報に書くように頼まれた。それで久しぶりに一生懸命取材した。他の人の話を漏らさずに聞くということの大切さを改めて確認。午前11時から午後8時まで、中ロータリーのメンバーは生き生きしていた。打ち上げの会は、一つのことをやり遂げた充実感が笑い声の中に満ちていた。
2月18日 (月) 晴れ
Aさん、県の女性部会の研修会へ。この研修も今回が最後とのこと。「なせ女性部会が必要なのか」と自問し、その答えをだしたのだ。たまたま、午後PTAの母親委員のMさんが訪てきた。雑談のなかから「県Pは母親委員という名称をなくした」ということを知った。PTA活動の実態は母親たちによって行われていることからすれば、これも当然かもしれない。代わって『オヤジの会』が話題になり始めている。教育や子育てのために、PTAへの父親の参加が強く求められるときになっているからだ。だが今の日本の情勢では、父親は出番を求められても身動きが取れないのが現実。今までは土曜日の午後にPTA役員会が開かれ、父親の参加もある程度可能だったが、来年度からは学校5日制。「土曜日にPTAなど…」と学校がスネたりすれば、PTAそのものが終焉を迎えることになる。地域の力を借りたい、と学校は言う。その前にPTAをどう力づけるかを考えるべきだ。教職員の意識変革が必要。
武勝美 のこれからの情報
その1 2002年 3月 8日 卓話「秦野の教育と新聞活動」 秦野中ロータリー
その2 2002年 3月 9日 全国学校新聞コンクール表彰式 毎日新聞社
その3 2002年 3月13日 秦野市PTA広報コンクール審査会 秦野市PTA連絡協議会
その4 2002年 3月14日 『郷土ウオーク学習』(大山道を歩く) 秦野市立東中学校
その5 2002年 3月16日 古事記を読む会
秦野曽屋高校
その6 2002年 3月22日 教育懇談会 秦野市教育委員会
その6 2002年 3月28日 講演「家庭をオアシスに」 東婦人会総会
2002年2月1日更新
このごろ俳句に惹かれています
「女の涙は武器になる」と一国の宰相が言って物議をかもしている。男の涙も話題になった。涙は純粋な心の表れといった大臣もいた。年老いた私が、いっそう涙もろくなったのも純粋な心の表れか。そうではない。全ての感覚がただ一つの機能に化してしまって、涙腺を刺激するだけなのだ。だから見るもの・聞くもの、全てが感情の高まりに凝縮してしまい、あとは涙。そんな私は、このごろ俳句に惹かれている。
早発ちの駅伝の客三日かな K.A
1月29日の新聞の「俳壇」で目に止まった俳句です。特選でした。作者はK.Aさん、もしや箱根のH荘の女将さんではないかと、旅行雑誌で調べました。想像したとおり以前ご厄介になった宿のKさんでした。忙しい仕事の中、俳句を楽しむ、ゆとりある生き方ができるKさんです。
H荘を訪れたとき、通された部屋に次の句が掲げてありました。
紅葉尋め箱根八里を三里ほど
この句を印象深く覚えていたので、新聞に掲載された作品はH荘のKさんの作だと直感したのです。
もっぱら鑑賞の私ですが、その宿では詠んだのでした。
秋深し宿のこころを尽くす膳 勝美
四十雀見る今日よりは小鳥日記
考えること止めし紅葉の一樹あり
そして、このごろの傑作?
山を背の一村ありぬ大根干 勝美
如月の風四辻で迷ひをり
春寒や肩ぐりぐりと回しをり
登校の子の声澄みぬ春浅し
梅が香や峡里はまふ暮れてゐて
2001年12月31日更新
12月30日の私
少しばかりの寂しさも感じながら迎える新年
昨日・12月30日は朝から神様を迎える仕事で忙しかった。神棚の掃除から始めるのだが、その神棚に納める神社のお札は、伊勢神宮、阿夫利神社、鹿島神社、それに大年神様。神棚の松飾りは父がいなくなって止めたが、注連飾りは続けている。茶の間の神棚には恵比寿・大黒様がいらっしゃる。台所は荒神さん・火伏せのお札(火産霊神)も入れかえる。ご先祖様のいらっしゃる仏壇も正月飾りをする。日本は神仏混交、どんな正月の神様がいらっしゃるのだろうか。こうして、神棚と仏壇のお飾りが済んだら、家中の全ての部屋に輪飾りを付ける。さらにトイレ、風呂場、洗面台、蛇口、プロパンのタンク、給湯機。そして戸外に出て、物置、車庫、耕運機、パソコン、ワープロにも輪飾り。車には鹿島神社の交通安全のお札。私の居城である相談室の中も同じである。昔は門松も立てたが、私の代になって玄関飾りに変えた、松を取ってくるのが大変だから。
家での全てが終わったら、最後はお墓。墓石を水で拭き清め、お飾りをつけ、線香を焚く。力さん(祖父・力三郎)と久雄はん(父)の前で缶ビールを開け、そこから見える我が家のヒノキ林の成長ぶりなどを話し合ったのだった。これで一日は終わった。今日の万歩計は8000ちょっとを示していた。
特別、信仰心がある私でもない。だが「今年が終わる、新しい年が始まる」という時になると、あらゆるものに感謝するという神妙な心持ちになる。少しばかり寂しさも感じるのだが、引き締まったこのすがすがしい気分は悪くない。これも、たぶん寺山という環境の中に生活しているからだろう。
さて今年一年、パソコンに向かいながらけっこうCDを聞いてきた。好んで流したのは、ENYA 石川セリ SOPHIA 堀内孝雄 ジェットストリーム。森繁久彌愛誦詩集もよく聴いた。詩の朗読はBGMにはならない、手を止めてしまう。森繁さんが最後に読む自作がいい。
潮騒のうた 森繁久彌
潮騒を聞きながら わたしは 踏み込む砂の中に
桜貝の小さな片割れを見つけた
手に取れは 虹の美しさを失わず
それは掌の中を ころころところげた
ひびく ひびく
何のひびきだ
はるか はるか 太古の昔
この海の中に不思議ないのちが誕生した
それは この地球という里の 新しい世紀の始まりだった
不思議ないのちは 枝分かれを重ね やがて
酸素のあふれる陸地を目指した そのいのちの中に
わたしたちの遠い祖先もいた
生命が誕生してから 三十六億年
愛も生まれ また はげしい嫉妬もおこり
平和のため 自由のため と
数えきれぬあまたの戦争があった
動物たちの種を滅ぼし 緑を砂漠に変え
森や林をまる裸にし 大気を汚し
あろうことか
いのちのふるさとの海に毒を注いだ
地球は今泣いている その泣き声の高まる二十世紀を
わたしたちは後ろめたい罪人の目で 見送ろうとしている
悲しいことだ
ごらん 光のしぶきが水平線の上にこぼれ散る
日の出だ
朝の来ない夜はないと 明るさの訪れない闇はないと
蘇った空と海は 互いの青を 水平線の上で分かち合っている
ニンゲン同士分かち合うものがあるはずだ
ふるさとを同じくする生物たちと 分かち合う責めがあるはずだ
三十六億年のいのちは子どもから孫へと伝わっていく
わたしたち一代のものではないのだ
新しい世紀に足を踏み入れようとする今
次の世代にいのちを託そうとする今
地球を泣いたまま 泥にまみれ 引き継がせたくはない
わたしたちが去って間もない頃
この地球は 音もなく こなごなに
こわれる日がくるのだろう
なあ 桜貝 桜貝よ
百八の除夜の鐘はホームページで撞きました。 http://www.jodo.or.jp/joya/index.html
それではこれから氏神様に初詣に出かけます。その前にご挨拶を「明けましておめでとうございます。
あなたにとって今年がよい一年でありますように」
2001年12月5日更新
一年の終りに
50日くらいの間隔で床屋に椅子に座ると、毎回「どこかお出かけですか」と聞かれる。「いや」と答えると、「時間を持て余すでしょう」という言葉。自治会の仕事を受けたとき「これから忙しくなってイイね」とも言われた。
退職してもう4年もたつのに、まだこの類いの言葉にけっこう出会う。そこで、今やっていることを話せばいいのだが面倒だから、答えをはぐらかす。
「辞めた当座はね“毎日が日曜日”と喜んでたけど、半年も経つと買い物に出かけることにも気が引けます。働いている皆さんに申し訳ないと思うようになってね。皆さんのお金が年金になっているのだから。それで、スーパーでの買い物も、秦野ではなく小田原まで行くようになりました。そうしたら、慣れない駐車場だったから、車をこすっちゃって」
この一月の間に知り合いが三人亡くなった。二人は現職の先生、もう一人は同級生。今、心のどこかに『ゴールは見えている』という思いは確かにある。「残りわずか」である。確実に終りは来るということを、自分に言い聞かせなければいけない。
来春五月に実るだろう絹サヤエンドウが細い黄緑色の芽を出した。霜除けをしなければこの冬は越せないから笹竹を取りに行く。「だめだったらまた来年」という考えは、今の私にはない。来秋蒔いて実るのは再来年の春―3年先など、私には実感がない。今日の生活が明日につながると信じて、今日を送るしかない。『空っぽの袋は立たない』という英国の言葉があるそうだ。時間を持て余していると軽蔑視されても、「毎日が日曜日でいいね」と皮肉られても、行き着くところがあることを心に自分らしい生き方をしたい。
現実の私の毎日の生活から“細切れ”感はぬぐいきれない。『エコー』をはじめとする新聞を出したり、パソコンの前に座ったり、園芸と古事記を月一回楽しんだり、20アールの畑の管理もしたり。時には人様の前でしゃべったり、雑誌にも書かせてもらった。本も何冊か買って…今年は俳句らしきものもいくつか詠んだ。
武 勝美 のこれからの情報
その1 2001年12月 8日 全・新・研全国理事会東京
その2 2001年12月12日 秦野園芸愛好会
その3 2001年12月15日 中地区退職教職員の会理事会(「中退教だより」第3号発行)古事記を読む会 秦野曽屋高校
すてきな出会いもいくつかあった。その中の一つ、こんなことを言ったお母さんに会えた。
「私を含め、たいていのお母さんは先ず『お母さん』で、次が『妻』『嫁』。そのあとに『人間』、そして最後に『女性』であると感じている。男の人は、まず最初に『お父さん』ということはない。少なくとも『一日中お父さん』ではない。女の人は『一日中お母さん』であることが多い。無理なこととは分かっているが、私はそれは超えたい。ご飯を食べさせているときや、掃除・洗濯に励んでいるときは、お母さんをしているが、子どもを送り出してからは『女』でいたい、『音楽をする人』でいたい」
「…をしたい」ではなく、「…でいたい・…でありたい(human
being)」という思いをことさら強く感じた言葉だった。
2001年11月1日更新
心の若さが健康な体を保つ6つの条件
− 10月22日 熱海で中学校の同窓会を開きました。今回は幹事、それで次の挨拶をしました。−
こんなにたくさんの人が、わざわざ熱海まで来てくださって、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。まだ現役でがんばっているという男性の声も何人からかお聞きました。もちろん女性は全員主婦として現役でいらっしゃいます。ところで、わたし個人で言えば、老齢年金をいただき、介護保険証も届きました。間違いなく“老いの世界”の住人になりました。でも、もう少し心も体も若く健康でいたいと思います。
体の健康を保つには、運動など実際に体を動かすことが必要です。そのためには、心の若さがなければいけません。その心の若さを保つための六つのチェックを、これから皆さんと一緒にしたいと思います。一つずつ自分で確しかめてください。
1 いつも周りに感謝しましょう。 今日こうして同窓会に来られたのは家族のおかげ、そう思いましょう。
2 外出することを億劫がらない。 外に出れば友達に会える、友達ができます。
3 活字・文字に親しみましょう。 新聞や本を読みましょう。日記を書きましょう。ボケ防止です。
4 お洒落をこころがけましょう。 身なりから老いるのはいけません。
5 異性に関心をもち続けましょう。キムタク、イチロー、純一郎。 浜崎あゆみ、叶姉妹、八千草薫、今夜も周りに素敵な人がいっぱいいます。
6 最後、最も大事なこと。お酒の席を楽しみましょう。 今夜は、飲めないお酒も少しはたしなんで、カラオケで歌って、それが今夜いちばん必要なこと。
「♪今日もお酒が飲めるのは 同窓会のおかげです 同窓生よありがとう 同窓生よありがとう♪」 これからの二時間、楽しく過ごしましょう。
かなり歌も出た。お酒も飲んだ。二次会は37名全員参加。三次会にも半数が残った。お開きは午前0時。何人かの女性はそれから風呂、3時就寝とか。二次会の最中「次回は日帰り それとも泊まり。どちら?」と女性全員に聞いて回った。ほとんどが「泊まり」と答える。わたしたちの年代の女性は、カラオケにそれほど慣れていない。酒席に親しんでいる人も少ない。それなのに、もう「次回を楽しみにしている」と言う。
前回から恩師は呼んでいない。招かない理由が振るっている。「武よ、恩師より俺たちの方が老けていたらいやじゃないの。飲みすぎて、先生に面倒かけることになったら大事だ。俺たち、もう面倒見られる歳なんだよ。」
生徒の時の話もそれほど出ない。「中学生のとき、誰が好きだったか言いっこしよう」という提案も、ご本人一人の“告白”でオシマイになってしまった。“男尊女卑”から“男女平等”に大転換した時の中学生は、表面的には“いがみ合って”ばかりいたからだ。
それでもなお、同窓会が楽しみなのはなぜなのだろうか。そのただ一つの理由は、10数時間の過ごし方が普段と違うということだと思う。旅は非日常性の世界に入ること、だと言われている。だから人は旅に憧れる、旅に出る。同窓会も、その非日常性ゆえに期待され、また来年も行われる。
秦野園芸愛好会
「菊と紅葉の南東北の旅」
10月30・31日に菊づくりを楽しんでいる仲間と、二本松市の菊人形を見に行ってきました。安達ケ原ふるさと村で、鬼ばば伝説を知りました。二日目は酒蔵、裏磐梯・五色沼と回りました。派手な紅葉は見られませんが、さかりを過ぎたカラマツの黄葉に雑木の茶色や褐色が、陽だまりのような暖かさを見せていました。
下に紹介しています「千輪咲き」は、斎藤弘さん(76歳)の作品です。一年半かけて2347の花を咲かせました。昨年は2331輪だったそうです。その技術、そして挑戦する意欲に驚きました。
会津酒造歴史館にも寄りました。午前9時から利き酒でした。醸造所の火伏せの神棚に大山阿夫利神社のお札がありました。そういえば、この旅行は秦野中井インターから東名高速に入った時から「乾杯!」で、二日間、車中の“紅葉”は盛りでした。
「千輪咲き」といいますが、なんと一本の茎から2347の花が着いているのです。
三色千輪咲きです。
競技用管物、三本仕立。下段の私のものと比べたら…。
裏磐梯の紅葉、暖かい色合いでした。
五色沼の紅葉。
私の菊(福助作り)。11月10・11日の東公民館祭りに出品します。
《旅のメンバー》 望月治男 久保寺和一 山田喜一 矢野恒雄 亀山金造 稲毛喜久三 森下政司 矢野直吉 栗田佳史 安藤清 古木文一 武勝美。 この仲間は東公民館を活動場所にしている教員OBたちです。秦野園芸愛好会という名称をもち、会員は現在19名。6月に「朝顔のあんどんづくり」 秋に「菊の福助づくり」を地域の人たちと行っています。
武 勝美 のこれからの情報
その1 2001年11月 6日 東京裁判所法廷傍聴
市P連母親委員会研修会
その2 2001年11月10・11日 菊花展参加 東公民館祭り
その3 2001年11月17日 古事記を読む会 秦野曽屋高校
その4 2001年11月20日 講話「まほら東」
秦野市立東中学校
2001年10月8日更新
10月8日 ホームページ開設一周年の日
今日はこのホームページの開設一周年の日です。一年前・2000年10月8日の日記には、そのことが次のように記されています。
「午後4時から6時間かけてHPの完成。カウンターが作れなかったが、全く単純にcounterという文字を書き込んだだけで解決できた。専門家が、私のようなパソコンの素人に伝える文を書くことの難しさ。一方的な伝達のしかたは、まちがいに近いということが分かった。」
そして、今朝5時にテレビをつけたら、アメリカによる(いやイギリスなども加わったようだからアメリカと書くのは間違いか)アフガニスタンへの攻撃が始まったことを報じていました。ついにその日がきてしまった…。
巡航ミサイル50発による空港や軍事施設への攻撃、そして6時半になると「空爆は7時間にも及ぶ予定」というニュース。アフガニスタン内のタリバンの軍事基地を叩き、制空権を完全に掌握するのがねらいのようで。
そして「これからアフガニスタンの国民に、救援の食料や医薬品を空中から投下する予定」ということも報じられました。一つの国の国民(タリバン政府)を殺戮し、一方で同じ国民に救援物資を空中投下する…、アフガニスタンの人たちはこの行為に理解を示し、納得できるのでしょうか。
意志や思いの伝え方は難しいです。
2001年 10月8日 7:00AM アクセス数 7313
2001年10月1日更新
生きているとは食べることと呼吸をすること
夕方6時の時報のメロディ―が近くの無線塔から流れてくる。今、秋は「秋の夕日に照る山もみじ…」・『もみじ』の歌。12月になると「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた」の『かあさんの歌』に変わる。春、3月1日からは『朧月夜』で「菜の花畑に入り日薄れ‥」。 ここまではなんとなく納得だが、夏の「遠き山に日は落ちて…」という歌詞が付けられているドボルザークの『新世界より』には、首をかしげる人がいるかもしれない。この歌詞で歌える人は学生時代にキャンプァイヤーを体験した人たちだけだろう。
“お願い”
あなたのまちには、どんなメロディーチャイムが流れているのでしょうか。全国規模で調べてみたいのです。
ご協力をお願いします。掲示板に書き込んでください。
92歳の食事マナー
午後6時のチャイムが鳴ると母の食事が始まる。夏の6時は日がまだ高く、暑い。足元に扇風機の風を送り込むので蚊取り線香の効き目はない。冬は、窓越しにもう星のきらめきをいくつも目にすることができる。
まもなく一年になるが、週6日、夕食は92歳になる母と二人だけでとっている。だから当然のことながら、夕食はわたしが作る。
ちなみに9月25日の夕食は肉うどん。一品豪華主義の夕食といえばかっこいいが、要するに一品つくるしかエネルギーとレパートリーがないということ。汁に入れた茄子、薬味のしょうが、葱、みょうが、漬物のきゅうり、ミニトマト、これらは全部自家製。
「ご飯」とぶっきらぼうに声をかけるのはいつものとおり。「はい、ありがとう」こちらもいつも通りの返事。
椅子に着く前に、準備されたものを覗き込むことから母の食事は始まる。今日のメインディッシュは何かを見極めるのだ。(期待されるものなどありはしない!)そして、おもむろに座る。(そんな座り方じゃ後ろの冷蔵庫から晩酌のビールが取り出せないよ…。)姿勢を整え、両の手を口の前で合わせ、しばらくの間瞑目。(対座しているわたしは、こうして毎晩祈りを捧げられる…のを避けて回るためにビールを取りに立ち上がる。)
冷やした信楽焼きのコップにビールを音高く注ぐ。そして一杯目は一息に。だが、わたしの視線は母の動きを追っている。(たぶん“シニカルな”視線だろう…。)
ある習性
母が食卓の上のものを口に運ぶ順はたいてい当たる。もっとも美味しいもの、好きなものに先ず箸がいく。肉類があればそこが基点。(そのとき、わたしは思う“人間は肉食動物である”と…)。次は野菜に移る、卓上の野菜類をそれこそ満遍なく摂る。(それを眺めて、今度は「人類は草食動物だ。」)もくもくと食べる。食べ方も書いてしまおう。(もしこの後の文を母が読んだら…)うどんでもカレーライスでも、口にはいるだけ入れてしまう。(貧しかったことと兄弟が多かったから、他の人に取られないように、とにかく口の中に入れてしまうしかない−そういう習性が今もしっかり残っていると、あるとき言った母。)そして目を閉じて、恍惚感に浸っているように映る。
会話はほとんどない。話し掛けるが、まるで、母を叱っているような誤解が生じるような大声が必要なのだ。補聴器を買ってやった。この間の敬老の日、プレゼントに妹夫婦が最新のものを買ってきた。その場では着けた、だが彼らが帰ればしまいこんでそれでオシマイ。一応「皆さんの希望には応じた」ということらしい。
好き嫌いはない。(積極的に口にしないのはワサビとナットウだけ)。「どれもおいしい」とポツリと言う。だが「うな重は〇〇」などと店を指定するしたたかさも健在。
今の食べ方は黙々と、口に運ぶだけ。そして時々食べている箸を休めて大きなため息をつく。いや、それはため息でなく、深呼吸なのだ。
その食事の様子を見ると、92歳の人間にとって、食べるということは大仕事、重労働なのだとつくづく思うのである。生物としての仕組みの中に、呼吸することと食ベることがあるということを、あらためて知らされる。
デザート代わりのデイベート
食事か終わるとおもむろに口を開く。「よくわかんないけど…」 この言葉は“読者質問箱”の開封である。新聞2紙をていねいに読むのが日課、いや仕事である。なぜテロが起こったか、イスラムとは何かを私は答えなければならない。大声で説明しなければならない。道行く人は、親子喧嘩ではと聞き耳をたてているに違いない。母の理解の程度は分からない、なにしろ解説者の実力のほどが知れているから…。
やがてゆっくりと立ち上がり、食卓に向かって最敬礼して「ごちそうさま」と小声で、しかししっかりとした声で言う。ついで「薬が終わっちゃったからいつでもいいからお願いします」と言う。血圧降下剤をもらっている。その薬を飲んで漬物をバリバリ食べる。醤油をジャブジャブ使う。だが「年寄り“叱るな”、いや“笑うな”行く道じゃ」である。何も言わないで命令に従っている。
これからが私の時間、2本目のビールの栓を抜く。まちがいなく肝硬変になる。軽くてアルコール依存症?どちらが重症なのか、私には分かりません。(むかし英語の答案に「はたし(わたし)は、はかり(わかり)ません」と書いた子がいた。)
92年間生きていることのすごさは量りしれない、分からない。そのことを毎夕ビールを飲みながら一人うなずいている、いや確認している。
2001年9月1日更新
同窓会の夜の歌
「おやじ先生」と「高校三年生」
この夏、同窓会に招かれた。授業だけのお付き合いの学年だったから、実に40年を経てのご対面だった。会場に入って行った私をいぶかしげに見る彼らは、私であることに気づき歓声をあげてくれた。そして「初め、同級生の誰かなと考えちゃいました」などと喜ばせてくれる。[先生、勝つつもりで行ってひどい負け方したよね。それだけが中学の思い出かな。不思議だね] 「私にだけひどいノックをして!。覚えてますか」 新人だった私に与えられた放課後の仕事は、ソフトボール部と新聞委員会だった。よき時代だった。
三次会までついて行ってカラオケ。K君が歌ったのは千昌夫の『おやじ先生』。演歌好きの私も知らない歌だった。
先生に会うと背筋が延びる/わんぱく小僧で迷惑かけた/立たされたとき叱られたとき/
うらみもしたけど/今日は先生と男同士で酒酌み交わす
私を目の前にしながら、彼は当時を思い浮かべ「竹の棒を左手に持った厳しい先生だった」と言う。生徒は教師を選べない。比較対照の範囲も限られている。だから私にこんなやさしい歌を歌ってくれたのだ。彼は学校新聞を創刊したときの新聞委員。
気がついたらもう10時。午後3時から延々7時間、最後まで付き合ってくれたのは十数人。「さよなら」する前にみんなで合唱をしようと、私は『高校三年生』を歌った。
2週間ほど過ぎて、Tさんから手紙が届いた。彼女も新聞委員だった。そしてソフトボールも一緒にやった。
拝啓 さわやかな秋風にコスモスが咲き競っています。同窓会での思いがけない先生との再会、とても楽しいひと時をありがとうございました。あの騒ぎの会でしたので余りお話しできず残念でした。
10年くらい前でしょうか、NHKの[心に残る歌]というリクエスト番組で、『高校三年生』が一位になったことありました。あの歌がヒットしたころ私は高校一年生でした。明るく、さわやかに歌われたこの歌は当時誰もが楽しく口ずさんでいたと思います。でもそのころの高校進学率まだ低く、高校に行けたのは同級生では半分に満たなかったと思います。地方から都会に集団で働きにきた17歳は、汗まみれで働きながら『高校三年生』を聞いていた…昭和30年代の終りはそんな時代でした。
同窓会の夜、みんなの『高校三年生』を聞きながら、今はとても幸せに生活している友人が、昔「中学卒の履歴書を書くのは嫌」と言った寂しい顔を思い出しました。あの歌を切なく聞いている五十台は多いのかも知れません。思い出は時に残酷な顔をちらつかせたりするものですね。
二つの歌に、思うこと一杯あった夜だった。
2001年8月18日更新
新聞を読んで
甲子園と敬遠の四球
‘敬遠されて「勝負しろ」明徳義塾・松浦’
こんな見出しの記事が8月16日の朝日新聞のスポーツ面に出た。甲子園の高校野球のページである。8回2死3塁で敬遠されたとき、相手チームの投手に「びびっとるんか。勝負しろ」と叫んだのだそうだ。
ちょうど9年前、明徳は松井選手を5打席全部、ストレートの四球で敬遠した。そのとき松井選手が言った言葉は…。
時代は変わったのだ。それにしてもこの見出しと記事、などと思うのはうがち過ぎの読み方なのだろうか。
1992年8月16日の『私の日記』から
星陵対明徳義塾の試合、星陵の松井選手に対して5打席全部ストレートの四球。明徳は3−2で勝った。だが、誰が明徳のこのやり方に理解を示すだろうか。高校野球は、どのように言われようとも教育の一環である。それにスポーツとはさわやかなものではないか。
三年間野球をやってきた投手には、同じように野球をがんばってきた相手・たとえそれが松井という評判の選手であっても、5度も一塁に歩かせるなどという考えはないはず。確かに試合だから勝たなければいけない。しかし、互いに精一杯力を出し合って、ぶつかりあっての勝ち負けでありたい。星陵は8.5人で試合をしたのだ。対等ではない。
明徳の監督が言った「勝負するときはします。しかし、あのときはあれがベターだった。」 なぜベストと言わないのか。監督は常にベストの作戦を執るのではないのか。
郁彦は言う「もうあのピッチャーは、いやあのチームのみんなが野球をやらないのではないか。もし優勝しても、松井の存在がどこかにあるはずだから。」
Aさんは言う「明徳の作戦 解らなくもないな。やっぱりベンチにいれば勝ちたい、.勝たせてやりたいと思うから。」 だがこの“思い”が、あの敬遠につながったらおかしい。.だいいち、あの敬遠は選手のものではない。監督の、部長の“思い”でしかない。
「いかにも勝負するようにキャッチャーは座っていて、ストライクを一球も投げない、投げてはいけない、そのときの.ピッチャーの心を他の人は想像できない。ピッチャーだった俺にも明徳のピッチャーの心のうの内は解らない。俺だったら、悔しい、恥ずかしい、情けない、という思いだけだろう。秦高の今年の試合はこの逆、だからベスト16止まり.だけど、俺たちはそれでいいと思っている。やってるみんなが納得しているから。『このくらい勝負にこだわらないから、底辺チームなのさ』と冷笑されるだろうか…。」
それにしても、あれはほんとうにベターなのか。松井というバッターのバットを振る姿を見せなかっただけで、もうベターではないと思う。
松井選手の試合後のコメント「相手チームの作戦ですから、私はとくに言うことはない」
長嶋語録 今 佳境ですから
長嶋監督っておもしろい人だ。これも8月16日の朝日の記事。巨人の最高経営者会議で、来年も本人が望むなら留任、と話し合われたらしい。そのことについて記者に尋ねられたときの長嶋さんの言葉「今はそれどころじゃない。佳境ですから」その日のヤクルトとのゲーム差は6。この非常事態を“佳境”と表現する長嶋さん。
“佳境”とは『物事が進行しておもしろくなったところ』と辞書にはある。「ミラクル・アゲイン」が今の巨人のキャッチフレーズだから、おもしろくなってきたところなのだろうが…。長嶋さん、ほんとは“苦境”に落ちいっているんじゃないですか。いや、やっぱり心から“佳境”を楽しんでいらっしゃるのですね。
2001年8月5日更新
蛍にしかなれなかった特攻兵の命の軽さを母よ許すな 梅田悦子(朝日歌壇2001.7.23)
今『ホタル』という映画が話題になっている。“歴史教科書”や“.靖国”でかなりかまびすしい。“8月”だと思う。
そして明日は8月6日。学校にいたときは8月6日、9日、15日をずっと意識してきた。
1996年8月の登校日の朝会の話
知覧特攻記念平和会館
8月6日に鹿児島県の知覧町を訪れました。知覧はお茶の名産地です。明るく広がる茶畑の先に、開聞岳が美しくそびえています。また知覧は、太平洋戦争のとき爆弾を積んで敵の軍艦に突っ込んでいった特攻隊の基地としても知られています。私が知覧に行ったのは知覧特攻平和記念館があるからです。記念館には1035柱の特攻隊員の写真、そして出撃前に書かれた遺書などが展示されています。
「肉に死して霊に生きよ、個人に死して国家に生きよ。現代に生きて永久に生きよ」という司令官の訓示もありました。たくさんの若者が―15歳の少年もいました―他からの大きな力によって自ら命を絶つ、そのことを自分に納得させるために、遺書を書きました。
「一度死んでみるべえ」「明日は敵艦殴りこみ、ヤンキーを道連れ、三途の川にを渡る」「現し身は八重の潮路に果つるとも永久に護らん御代の栄を」と自分を勇気付け、死ぬ理由を探したのです。
そして「親孝行らしいことを何ひとつせずと先立つ不幸をお許しください。はるかの地緒り寄り家族の幸福を祈っています」「弟よ妹よ、父母に孝養を尽くしてくれ。兄は先にゆく。さようなら」「父恋しくば空を覗よ」と家族へ別れを告げたのでした。とりわけ、次のような遺書を読んだ私は涙が止まりませんでした。
その1通は楽しかった家族との生活を思い出しそのことを次々に綴っている手紙でした。もう一通は、遺書を書くことになったが何を書いてよいのかわからない、という書き出しになっているものです。どちらの遺書も、書いた人の心の乱れがガラスケースを突き抜けて、私の心の突き刺さりました。それは“生きていたい”という思いの表れだからでした。
梅崎春生の『桜島』いう小説の中に、死を目前にした兵士が遺書を書こうとペンを取ったときの心のようすが、次のように書かれています。「書くことが思いうかばなかった。書くことが沢山あるような気がしたが、いざ書き出そうとすると、どれも下らなかった。遺書を書いてどうしようという気なのだろう.文字にすれば嘘になる。言葉以前の悲しみを、私は誰かに知って貰いたかったのだ」
館を出た。ここを離陸した特攻機は、再び見ることのないあの開聞岳に送られて沖縄の海に向かったのでした。私は南に広がる夏空を見つめました。
2001年7月4日更新
「エコー」185号の発行が五日遅れた。何人かの読者から電話や手紙をいただく。申し訳ないと思う。実際5月の後半から6月一杯は忙しがった。
『新聞ってオモシロイ!講座』は別ページでも書いているが、とりあえず一安心というところ。参加者の感想文を読む限り、主催者に迷惑を懸けずに済んだと胸をなでおろしている。(頂いた感想文は185号に全部掲載されている)
6月で最も難関だったのは『中退教だより』という機関紙を発行することだった。これは、会員1600名の退職教職員の会の会報で、創刊からかかわっている。編集委員は4名いるが、住んでいるところは伊勢原、秦野、大磯、平塚と離ればなれ。タブロイド版2ページのこの会報は発行費はゼロ。全て広告でまかなうという“恐ろしい”事業。したがって原版を全て手作りで行い、印刷所に持ち込む。だから「この仕事は一人でやるのが一番いいでしょう」ということで、私のところに回ってきた。断れない私を見抜いている仲間たちの結束の見事さ!
悪戦苦闘とはこういうことをいうのだろう、部屋は紙くずだらけ。何しろ大貼りで一文字でも間違いが見つかれば、打ち直して貼りなおさなければいけないのだ。6月28日に入稿したが、もう校正はできない。発行され、手にするときが怖い。
6月30日は、8月2、3日に箱根で行われる全国新聞教育研究大会の要綱の原稿締め切り日だった。これも結局三日遅れになってしまった。
一学期に発行された22校のPTA広報のクリニックを個別面接で行ったのが6月27日だった。9:30から16:45までのロングラン。
そう、福岡のKさんから、担当している町の広報誌が送られてきました。これも6月の後半でした。若い女性二人で作っている広報。取材ガ精力的であるのに驚きました。たぶん休日もほとんど出勤でしょう
電話で話をしました。比較的自由に作らせてもらっているようです。編集後記にそれを感じました。この4月からの配属なので“無我夢中”のようですが、それが逆に紙面に若さを感じさせているのだと思いました。
「今月は…」 もう、今から暑いですねえ…。遅れないように今から準備に入ります。
2001年6月8日更新
「新聞っておもしろい!講座」の紹介記事(『タウンニュース』2001年6月7日号)
参加者の感想は次の更新時に紹介します。
2001年6月2日更新
Forever love ドラゴンズ
前田と岩瀬は教え子とそっくり
初めてプロ野球を見たのは後楽園球場だった。父の会社の上司と一緒だったような気がする。その日のことで覚えているのは、試合開始前巨人軍がハワイからつれてきた選手の紹介があったこと。そして、その日の試合はその外人助っ人で巨人が勝ったということ。日時はわからないが、その外人選手の名前だけはなぜか記憶に残っている。名前はエンディ宮本・宮本敏雄で登録された日系アメリカ人だ。(彼の来日は1955年になっている。)栄光の巨人軍の4番を打った強打者、打点王にもなっている。その試合の相手チームは中日ドラゴンズだった。
「オカネのある球団が良い選手を集めてなにが悪い。企業努力の結果だろう」と言ってはばからないのが巨人の応援団。昔も今も変わらない“栄光の巨人軍”の体質。
私が中学野球の監督をしていた20年も昔のこと、望月というピッチャーに出会った。サウスポーだった。細身の体、むこうっきが強くて、コントロールはあまい。顔は中日ドラゴンズの前田幸長投手にそっくり。4年前、平塚にベイスターズの主催試合できたドラゴンズは、前田が投げた。四面楚歌の中でドラゴンズを応援した。波留にホームランを打たれて負けた。2年前、ナゴヤドームまで見に行った。広島との対戦、このときも先発は前田だった。この試合も負けた。テレビで彼の登板の試合を見るが、そのときはよく負ける。はじめは「しっかりしろ」とどなりたい心境だった。だがこのごろは「よく投げてるよ、望月」と応援している。これは“達観”というより“諦観”の心理状態。そうすると、彼は好投する、勝つのだ。
ドラゴンズに岩瀬仁紀というピッチャーもいる。10数年前のこと、転勤していったH中学校に“チンキー”というあだなの子がいた。“チンキー”の意味がわからなかった。小学生のとき、彼は黒板に落書きをして「モンキー」と書いた(つもりだった)。ところが《モ》の字の最後が右に曲がらず、左に曲がってしまった。だから〈モ〉字が《チ》になってしまった。それで彼は“チンキー”と呼ばれるようになった。主義主張の強い子だった。このチンキー君と岩瀬投手の顔がなんとよく似ていることか。3年前、彼が初めてテレビに映ったとき、思わず「チンキーじゃないか」と口走った私。
前田も岩瀬も、生意気な顔をしている、何より似ている…。
“教え子”が二人もいるドラゴンズは、私には“永遠”‐これは長島監督の言葉だ…。
そうだ X Japanでいこう―“Forever love”
Dragons!
武 勝美のこれからの情報
その1 2001年6月 6日 新聞講習会講師 秦野市立本町中学校
その2 2001年6月16日 家庭教育学級 講演会講師
大井町立大井小学校
その3 2001年6月18日 学校新聞指導者講習会講師 秦野市中学校教育研究会
その4 2001年6月23日 PTA広報講座講師 西東京市PTA連絡協議会
その5 2001年6月27日 PTA広報クリニック講師 秦野市PTA連絡協議会
その6 2001年6月29日 教育講演会講師
秦野市立北小・中学校
その他 6月9日 朝顔の行灯仕立て講習会に参加 6月16日 古事記を読む会
2001年5月1日更新
ジイチャンの十三回忌
「13年も経つと忘れられてしまうのかな。きょうの席でジイチャンのこと、一つも話題にならなかったね」 4月29日に父の13回忌の法要をおこなった夜、長男が言った言葉である。我が家と妹二夫婦だけの、八人の内輪の集まりだったので、昼食会もいつものとおりのおしゃべりの会になってしまった。ゼネコンで働く義弟Sのリストラへの危機感、そして65歳から給付の年金の話と、熟年にふさわしい話題が続いた。
「人は二度死ぬ」と言われている。一度目は肉体がこの世から消えたとき、二度目は、その人のことを知る人が地球上に誰もいなくなったとき。法要に集まる人がいる限り、墓参する人がある限り、さらに言えば菩提寺が存在する限り、人は永遠に生きている。
こんなことを会食会の初めに話すつもりだった。だが住持さんは次の予定があり、席に着くことができなかった。席にいるのはまったく身近な、内輪の七人。その七人を前にこの話はできなかった。実際、この八人は、お年始、お祭り、お盆、春秋の彼岸と年5回顔を合わせている。今まで、こんな改まった話を聞いてもらったことは一度もない。冠婚葬祭を大切にするのは、そのことを通して関係する人が集まることだと思っている。
三回忌の日に父の句集を上梓した。それ以来、ときどき俳句を作っている。
品書きの冷麦を指す太い指 勝美
今年また父の忌の夜は青嵐
お遍路の光背となる雲の峰
2001年4月1日更新
4月1日のわが家の桜 まだ7分咲き うしろがタコーチ山
桜の花 ちりぢりにしも わかれ行く 遠きひとりと 君もなりなむ 釈 超空
われ入院おらが桜は三分咲き
病して花の便りに親しめず
満開の桜病床の窓に見る
辞世 再会を誓ひて春を惜しみけり 姫百合
父の十三回忌の年になった。四月二日に入院して五月二日に他界。今年は、四月二日はほぼ満開のおらが(家)の桜だ。
学校には桜は付き物だったが、戦後立てられた校舎の改築期や生徒増、さらには運動場の広さなども問題になって、校地から桜の木が消えていった。国立神奈川病院の裏手に立つと、東小学校の二本と並んで我が家の桜が遠望できる。
桜とはなんと魅惑的な花か。古事記の「木花之佐久夜毘売」は桜をイメージさせる。 「サク」とは「咲く」、「ヤ」は感動の「ヤ」。一気に咲き、咲き誇り、そしてたちまち散っていく。まさに「養花一年 観花五日」。「さくら染め」という染物のことをテレビで観た。桜の咲く前の枝をから作った染料を使うと、桜色に染まる。
一昨日は桜にはうらめしい雨、いや人に恨めしい雨なのだ。ところがこんな歌が『折々のうた』に出ていた。
ちひさきもの喜びあひて手を振ると思ふ桜の花の上の雨 与謝野晶子
一昨日は運動公園を通り、平沢から東名インターにつながる産業道路を走った。そこから南が丘をぐるっと回った。どこもそれぞれの顔をもった桜通りである。桜の季節は心を浮き立たせ、そぞろにする。花に魅せられて時を忘れる。
ここよりは桜吹雪よ車降り 勝美
そしてさくら吹雪を浴びるとき、桜色に染まった心に愁いが深まる。
今朝、退職記念に買ったしだれ桜に、薄紅色の花が三つついているのを見つけた。
そして昨日は一日中桜に小雪が舞った。
酒飲みのモノローグ…宴に招いてくださった人へのお礼状
『酔って候』という石川さゆりの歌ごぞんじでしょうか。家にたどり着いたら「すぐに寝なさい」と命令されたのです。「酔っぱらってなんかいない!」という言葉も、まともではなかったのだそうです。体は絶えずぐらぐらしていて…。だが、名誉にかけて、いや、威信にかけて断言する「そんなことない、絶対無い!」 なんの威信?なんの名誉?
酒には強い、校長会の酒席では“東の横綱”だったのです。東の横綱は、強い、乱れない、正しい、明るい酒飲みでなければいけないのです。(でも、「だった」は過去の表現)
タクシーに乗り、寺山までちゃんと案内して、料金も払って(いくら払ったか覚えていない)ご機嫌で帰ったのです。東の横綱ですから、帰って風呂に入り、そこで小声で歌う「江差 追分 風の町(渥美二郎)。‘―江差追分 流れる町は 風も尺八 ひゅるひゅるひゅる 吹いている―’ほんとは朗々と歌いたいのです。上がってビールを飲み、軽い食事、これが東の横綱の威信と名誉。
細川たかしが歌う『心のこり』 これは私のテーマソングです。「まだ新聞なんかやってんの」と言われ、わたしは歌ったのでした。‘わたし馬鹿よね お馬鹿さんよね 後ろ指 後ろ指 差されても…’。
このごろは酔ってマイクを握ると‘わたし馬鹿よね…’。そして‘駄目な駄目な ほんとに駄目な いつまでたっても駄目な私ね’ これはトシ伊藤とハッピー&ブルーの『よせばいいの』も歌うのです。
お話をあまりしなかったのが残念でした。まして、歌声を聞けなかったのは悔やまれます。
退職してからは、『また逢う日まで』・尾崎紀世彦の歌で二次会を終わるのがわたしのパターンです。また歌える・逢える・お酒にも会える、という密かな願いこめて歌うのです。今回は歌い損ねました。
以上「演歌が好きです 歌います」(モノローグ50)の続編でした。
十分なお礼の言葉にはなっていません。お許しください。皆さんによろしくお伝えください。ありがとうございました。
武 勝美
2001年3月3日更新
3月3日 9:30a.m (土) うす曇
今日は三月三日、ひな祭りの日だ。“桃の節句”とも言われている。“灯りを点けましょぼんぼりに お花をあげましょ桃の花”今日一日、ラジオやテレビからこの歌がながれる。なぜひな祭りに桃なのだろうか。
この日、桃の花をひたしたお酒を飲むと、病気をしないのだそうだ。中国の伝説上の仙女・西王母は仙果・桃を食べ三千年も生きたという。わが国の神話イザナギ、イザナミの話の中にも桃が登場している。死んで黄泉の国にいったイザナミに追いかけられたイザナギが、桃の種を投げつけてイザナミから逃れた。これは死霊から逃れるのに桃を使ったのだ。 おとぎばなし「桃太郎」の鬼が島遠征も、桃が邪気に勝つということを表している。桃は邪気を払う魔除けであり、延命長寿の果実だ。家の桃のつぼみはまだほとんど形になってない。だが三月 春の息吹。
春の息吹
隣の時ちゃんが畑うないを始めた。「朝顔の会」が三カ月ぶりに動き出す。家の横の道路の舗装工事が最終段階に入った。今日は高校の卒業式、昨日は公立高校の合格発表。PTA広報の年度最終号が届きはじめた。そして、次年度の講座の話も…。「古事記」の勉強会も17日で今年度は終り。二月は「婚ふ=よばふ」の話!そうだ、ジャガイモの種を買わなきゃあ。
12月のモノローグ
箱根八里と半次郎と…
「箱根の山は天下の険…」 このホームページの表紙から流れる曲は『箱根八里』(鳥居忱作詞 瀧廉太郎
作曲)です。
私の全国新聞教育研究大会の出席は今年の横須賀で25回を数えました。この大会は初日の夜、全国交流会が開かれます。年に一度、北は北海道から南は沖縄まで、全国各地から新聞の鬼が集まる夜の会。この交流会の呼び物が各県ごとのメッセージの発信です。さまざまなスタイルで新聞自慢・お国自慢をするからです。山形の花笠踊りはすっかり交流会のメインになっていて、毎年浴衣・花笠持参で乗り込んで来ます。東京は今年“ドンと鳴った花火だ、きれいだな”とフリを付けて歌いました。
1983年の山形・酒田大会で、神奈川の参加者は私の発案で初めて『箱根八里』を歌いました。翌年は神奈川が箱根で大会を持つことを決定したからでした。以来、神奈川の参加者はこの歌を県のテーマソングにしています。そして今年の横須賀大会、その夜神奈川の参加者が歌ったのは、山口百恵の『いい日旅立ち(詞・谷村新司)』でした。彼女は横須賀出身です。この選曲は大会を開催した横須賀の先生たちです。「21世紀への新聞教育の“いい日旅立ち”を、近代日本幕開けの地・横須賀からしよう」という心意気を示したのです。(この後のエピソードは「エコー」178号を読んでください)
ところで、11月26日の夜、今年の日本作詩大賞の審査会の様子が放映されました。大賞に選ばれたのは『箱根八里の半次郎』。氷川きよしの歌う「やだねったらやだね」という歌詞は今年の流行語の一つなのだそうです。受賞した作詞家の松井由利夫―たぶん私より年上でしょうーには、こみ上げてくるものがあったようでした。「遊び心でつくった」と言っていましたが、がんばったのだ、と思いました。
来年の新聞大会は箱根、『箱根八里』も『半次郎』も、私にとって元気のでる歌です。
2000年11月1日更新
11月のモノローグ
朝の九時から床屋に行った。「時間をもてあましているでしょう」と聞かれる。あいまいな返答をしていると、今度は「どちらかお出かけですか」。
職を退いたことがわかると、こんな質問が多い。身の置き所がない、と思われている。そう、暇と言えば暇である。しかし、心のどこかで「残りわずか」と言う声が響いている。もちろん、今のところは悲観的な響きではない。
今年は、Y先生からもらった『紅金時』という美味しいサツマイモが見事に出来た。何人かに配ってとても喜ばれた。それで「来年も…」と思うのだか、そんなときふっと頭をよぎる言葉、「来年?」。死の意識など特に無い。だが、たしかに持ち時間は限られている。
毎朝新聞二紙を読み そう、10月から毎夕食事を作り、 晩酌はサッポロとアサヒビール。 週一回昼食会に出かけ、月に数冊の本・雑誌を買う。 時に講演などに出かけ、 まれには原稿を頼まれ、 20アールほどの畑を管理し、中日ドラゴンズを応援し、園芸愛好会と古事記を読む会にも加わっている。学校・PTA新聞づくりにも参加させてもらって… 「エコー」を発行する。
細切れ感は否めないが、そう細切れだから絶えられるのだが、 けっこう時間は大事に使っていると思っている。
こんな俳句に出会った。 いつまでの命よ挿し木なんかして 山本紅園
2000年10月1日 初めて記入
10月のモノローグ
九月の末、教職を退いた者たちだけで信州にでかけた。目的は、そう、このツアーのために私が創りだした名称「ミレニアム修学旅行の会」−われながらいい名前だと思っている−に表れている。参加したのは16名、私が“最年少という男性だけの旅だった。今世紀の半分以上を学校で生活した者たちが、その歩んできた道を振り返り、21世紀の教育に提言をしようという、大きなねらいを持って出発したのだった。自分たちで仕立てたバスだったため、アルコールが回りすぎ「教育」は語らずじまい。幹事は二日間,ひたすら酒の調達に走り回るという,豪快な修学旅行だった。 天竜下りの船頭さんが、われわれを戦争で修学旅行が出来なかった昔の中学生たちと思ってくれた。世間知らずで,あまり社交的ではないのか教員と言われている。だが,そう言われても,染み込んだ教員のその匂いはそう簡単に拭い去ることはできない。だから教員同士の付き合いを大切にしたい者もいていいと思う。帰りの車中で,すでに来年の再会を楽しみにする声があがったのも、また良いことだと思う。旅は非現実の世界を現実ものもとすることができる。年齢を重ねた者にとってこそ旅は大切なものだ。
ミレニアム修学旅行「天竜船下りと木曾御岳高原の旅」 2000年9月28・29日
参加者 安居院恵順 安藤清 石川健之助 稲毛喜久三 亀山金造 久保寺和一 栗田佳史 高橋保夫
成瀬秀光 望月治男 森下政司 矢野恒雄 矢野直吉 山田喜一 横尾達雄 武勝美
マンスリーエッセイ 最新版 2014年以降 はこちらへ
マンスリーエッセイ 2010〜2013年 掲載分はこちらへ
マンスリーエッセイ 2007〜2009年 掲載分はこちらへ
マンスリーエッセイ 2004〜2006年 掲載分はこちらへ