Somewhere in My Heart ~ Katsumi's Monthly
Essay ~
(2007〜2009年 掲載分 バックナンバーのページ)
にっきの木(日記の己)
庭に古びた一本のにっき(肉桂)がある。秋が終わるころ陽光を入れるために枝を下ろす。すると庭いっぱいに
あの香りがただよう。葉をかめば、幼いころ巡り歩いたあちこちのお祭りの夜店の光景が浮かんでくる。
このページ「にっきの木」には,いつの日にか懐かしく読み返すことができたらいいと思うことを記そう。
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2009年12月5日更新
1億2千万分の1の遭遇 マサコさんとサトシさん 小田急線の車中で
前夜駒込に宿をとった私たち4人は、Nさんと小田急線新宿駅西口改札口で8時20分に落ち合った。その日は日曜だが小田急線のホームは人波であふれている。4人を秦野に案内するということで、次発の8時41分発の小田原行き急行の乗車口に私が先頭で立った。私たちの列の隣には、8時31分発の急行の到着を待つ列ができていた。
東京の通勤ラッシュにもまれているNさんが、「こっちに挑戦してみようよ。人数からみると坐れるかもしれないよ」。その言葉で31分を待つ列の最後尾に5人は付いた。そして幸運にも4人分の席が隣り合わせで取れた。
愛媛から来たKさんは小田急線に乗るのは50年ぶり。高架を走る車窓の景色に昔の光景を重ねてしきりに言葉を発していた。
経堂から乗車してきた乗客の女性が私たちの前を通り、右手の山側のドアのところに立った。ドアから外を見ていたふうのその女性が、Kさんに近づき話しかけた。「間違っていたらごめんなさい。今治のサトシさんじゃないですか」。そして「甥の○○の嫁のマサコです」。
Kさんの声がひときわ高く、大きく響く。「マサコさん、マサコさんじゃないですか!」「どうしてここに、どうして私がわかったのですか」と聞く。(車内の視線、耳はすべて私たちの席に集中していたはず)
四国弁、大きな声、そして話し方、それを耳にしたとき「もしかして」と思った。それで思い切って声をかけた、とマサコさん。豪徳寺に住んでいるマサコさん、この日箱根に遊びに来る京都の大学で学んだ友人たちを小田原駅で迎えるために、この列車に乗ったのだった。
もし予定通り8時41分発に乗ったら、もし私が案内して立った乗車口が一つずれていたら、乗車口が同じでも取った席があそこでなかったら、私たち5人が出会う日を11月15日に決めなかったら、旅先を箱根にしなかったら、もしも…と、全ての条件がサトシさんとマサコちゃんが出遭えるように、神の力で完璧に整理されたのだ。1億2千万人いる日本人の中の二人が全くの偶然で出遭えた、しかも小田急の車両の中で…。付け加えれば、私たち5人も大学の同級生でこの日箱根に遊ぶ。サトシさんの心の高ぶりは、「奇跡!奇跡!」という言葉になっていた。
Kさんの隣りの人が席を詰めてくれ、二人は並んで坐った。秦野までずっと四国弁で親族や家族の近況報告をし合っていた二人。秦野駅での別れ際、「きょう、大涌谷あたりで会えたら嬉しいですね」と挨拶した私たちに、マサコさんは笑顔で「芦ノ湖辺りかもしれませんね」と応えてくれた。
2009年11月1日更新
顔見て 言葉で伝えよう
若江 雅子様
突然のおたより お許しください。9月12日朝刊の『NEWなおにぎり』を拝読いたしました。《共感》いたしました。「我が意を得たり」でした(こんな表現で申し訳ありません)。
私は1960年に中学校の教師になりました。それ以来37年間、学校での新聞づくり(PTA新聞も)に関わってきました。退職後は「エコー教育広報相談室」を設立し、現在もPTA新聞を中心に、学校・学級新聞づくりの指導に出かけています。先週はPTAを対象の講座を3回、小学校5年生2クラスで学級新聞づくりの授業をしてきました。年間おおよそ50回ほどの講座数ですが、とりわけPTA広報委員のための講座が多く、たくさんの紙面を読ませてもらっています。
ここ数年、数多くのPTA新聞の企画として、「携帯・メール」が取り上げられています。しかし、その内容はどれも画一的、例えば「フィルタリングをかけよう」「親子で使い方の話し合いを」「困ったらここに相談を」というような記事で紙面が作られています。
そんな中に、お届けした『たが』(日立市立多賀中学校PTA)がありました。「こんなお母さんたちがいる」と心が引き締まりました。それ以来、PTAの講座では必ずこの紙面を紹介し、「親子の間での会話」の大切さ、必要性を説いています。そんな私が、幸せなことに若江様のコラム「顔見て言葉で伝えよう」に出会えたのです。これからも、『たが』、そして『NEWなおにぎり・顔見て言葉で伝えよう』の力を得て、私の思いを、大人、とりわけお母さんたちに話していこうと思います。同封いたしました『ECHO』は私の個人紙です。偶然ですが、上記の『たが』の編集に携わられた藤原さんの投稿を9月号に載せました。ご一読いただければ幸いです。 武 勝美
読売新聞 (09/9/12)
『たが』 日立市立多賀中学校PTA広報 (07/7/12)
2009年10月1日更新
「ずっと言っていました。『とにかく替えなければ』」
1974,75年の二年間、私は中地区教職員組合の執行部にいました。神奈川の《主任制闘争》がピークの二年間でした。その執行部の中に伊勢原地区から出てきたUさんがいました。Uさんは私と同じ秦野の東地区の住人でしたが、出身が長野ということもあって“初対面”の人でした。
「馴れ合い!」などと罵声を浴びる中で、教委と「神奈川方式」を締結し、私は学校に戻りました。その後、Uさんの二人のお子さんを授業で教えたというご縁もあって、退職後、Uさんを菊作りの会(秦野ゆとりの会)に誘いました。会は、いつも穏やかな笑顔のUさんに幹事をお願いしたのでした。年1回の研修旅行、季節ごとの懇親会の折に、Uさんの気配り・心配りを目の当たりにし、私たち会員のすべてが感謝していました。
9月19日、Uさんの急逝を知らされました。体調不良ということで入院して、5カ月での訃報でした。21日、通夜の儀のまえ、ご家族からUさんの最期にまつわる話を聞かせていただきました。
病状が悪化し、手足の力が萎えてしまったUさんは、8月30日の第45回衆議院議員選挙の不在者投票をしたいと申し出をし、病室で投票を済ませました。自力でえんぴつは持てなかったそうです。
「ずっと言っていました。『とにかく替えなければ』」、奥さんはそう私に話されました。二人のお子さんも大きくうなずかれたのでした。この話の間の三人の表情は、少しだけですが晴れやかのように思えました。
9月21日、その日の『朝日歌壇』に次のような短歌が掲載されました。Uさんの心が作らせた歌です。
・投票所の壁際に亀立ち上りひっくり返ってまた立ち上がる 白石 瑞紀
・五十四年少数派に票入れて来て此度やうやく意趣を晴らしつ 押 勇次
・恐らくはこれが最後の一票を迷わず決めて投票に行く 岩下 竹由
・一票がこんなに力があるんだとつくづく思うまたしも思う 黒沼 智
・八月は史実が一つ加わりぬ暴力の無き平成維新 木村 久子
・決めたのはわたしたちです覚悟して四年の間観ていきましょう 一ノ渡 啓
正覚智範居士 享年71歳
武 勝美 合掌
2009年8月3日更新
きのう、きょう、そして明日 ―新聞づくりは仲間づくり― NO4
私の新聞づくりの原点 「子供たちの生の声を学校・学級新聞に」
私が初めて子どもたちと作った活版新聞の発行日は、昭和37年3月10日。昭和35年に教師になり、翌36年にガリ版による『玉中新聞』を創刊しました。そして一年経ってできた新聞がこれです。第6号ですから、年間6回発行したことになります。裏面に広告が載っています。生徒の数が300くらいの学校です。生徒会のお金はありません。ですから地元の商店や、学校の出入りの業者さんにお願いして、広告をとりました。そして活版の新聞の第一号を創りました。こうして私の新聞教育はスタートしました。
3年とちょっと玉川中学にお世話になり、秦野市立東中学校・私の母校・に転勤しました。秦野東中学は、当時学校新聞づくり盛んでした。そして現在も学校新聞はしっかり発行されています。その学校新聞『東中新聞』は、だぶん870くらいの発行号数を数えているはずです。全クラスで学級新聞活動も行なわれています。
校内で新聞活動を続けながら、昭和43年に秦野市に中学校の新聞研究会を作りました。私の一存でできたわけではありません。東中学の佐藤校長先生が、「武さん新聞部会を作ったらどうだ。市内の中学校はどこでも新聞作っているんだから、それをまとめる新聞部会が必要じゃないか」と言われました。私はまだ30歳ちょっと。当時、市内で新聞指導をしていらっしゃったのは40代から50歳代の方々です。恐る恐る声をお掛けしました。昭和43年、1968年でした。私が言い出したのだから「武さんが部長」ということになりました。この新聞部会が生まれなかったら、今の秦野の新聞教育はなかったと思っています。
お手元の『新聞教育の研究と実践』という私の著書にそのころの新聞を収めおきました。見ていただければ分りますが、私が指導して作った『東中新聞』は、コンクールの入賞を目指す新聞でした。コンクール目当ての新聞でした。
昭和44(1969)年の2月ころだったでしょうか、初めて教壇にたった玉川中学校の教え子・Tさんから電話が掛かってきました。「先生、就職が決まりました。日本経済新聞です」という報告でした。しばらく話しました。その中で「今だから言うけど」と、『玉中新聞』を作っていたとき、私が彼の原稿をめちゃめちゃに手を入れたことが《絶対イヤだった》と言ったのです。
新聞社に就職した彼が私に言ったのです。学校で新聞づくりを指導している私への忠告でした。話の筋から少し離れますが、「教師は誰にも叱られない。なぜなら子供のために良いと思うことを一生懸命やっているから。だから武先生は、自分の失敗を生徒から指摘されると逆上した。」と、私を諭してくれた教え子に出会ったのはそれから20年後でした。
それ以来、子供の書いた記事に手を入れることはあるかもしれないけれど、私が書き直したものを、それをそのまま、子供が書いた記事にすることは絶対にしていません。この会場には、秦野市P連情報委員や単Pの広報委員として広報づくり活動をしているお母さんたちの顔も見えます。ときには広報づくりの相談に見えています。原稿を読んでほしいと言われることもある。読ませてもらった私は、たいてい「これでいいですよ」と言います。すると、本当に読んでいないのではないかないかと疑われてしまう。私は、「この記事はこういう視点で書いたほうが良い」とか、「こういう押さえも書かないと」ということは指摘します。私の指示を聞いて、それが納得できたらその視点、思いで書いたら良い。私の言葉をそのまま原稿にしたら、それは口述筆記に過ぎない。私が赤ペンで書いた部分をそのまま記事の中に埋め込んだら、それはもう、その人の文(考え・主張)ではない。ですから、私は書かれた原稿には手を入れない主義です。特に、学校新聞や学級新聞はそうでありたい。そうであるべきです。「子供たちの生の声を学校・学級新聞に」は、私の新聞づくりの原点であり、願いなのです。
2009年7月1日更新
きのう、きょう、そして明日 ―新聞づくりは仲間づくり― NO3
ある日、大山を越えて訪ねてみえた校長先生に、「先生にならないか」と言われ
辞めた後、何をしていたかと言えば、家で部屋に閉じこもっていました。今でいう《引きこもり》に近い状態だったのです。家族はいろいろ気を遣ったようです。私にはそれがあまり伝わってきませんでしたが…。
父の知り合い合いの方から、産休補助教員としての仕事があるから行かないかと言われました。それで小田原のJ中学校で9月から三カ月。続きの1月から小田原のH中学校で働かせてもらいました。半年間の産休補助教員を終えて4月になりました。すると、平塚市のO中学校から、「PTAで一年間雇ってやるから、英語の講師を」という話がきたんです。給料は、たぶん1万円くらいだったろうと思います。
その年は1960年、《60年安保》の年でした。組合の動員で、先生たちが東京に行くわけです。国会に行くのです。授業の合間に、残っている先生たちが、「俺たちここに残っていていいんだろうか」と、そういう話が職員室でありました。先生たちは、教室で理想を語りました。みんな若かった、情熱的でした。私は、組合には入れません、PTA講師ですから。それを遠くから眺めていましたが、「こういう時にこそ教師の力って必要なんだ」と思いました。そして、羨ましく、まぶしく見ていました。
8月、夏休み中のある日、山を越えておじいさんが突然私を訪ねてみえました。今日ここには先生方もたくさんいらっしゃいますし、経験された方もいらっしゃるでしょうが、、「なぜ先生になったの?」と聞かれた経験はお持ちだとおもいます。PTA新聞の先生紹介欄などで、その回答を読むと、「良い先生に出会ったから」とか「小学校の時に素晴らしい先生に会ったから」「中学校の時の先生が素敵だったから」「高校の時の先生に感化されたから」、「だから私は教師になった」というのが、おそらく9割以上、そう先生方は答えていらっしゃいます。私は訊かれるとこう答えます。「ある日、大山を越えておじいさんが訪ねてきて、先生にならないかと言ってくれたので、それで先生になった」。すると、すごく憤慨する子もいます。先生になったわけがその程度なの? と落胆する保護者もいます。でも私の場合はこれが事実なのです。確かに、産休補助教員はやっていました。でも、教師になろうというような意識はあまりなかったのです。教師にならないかと誘われて、「それではお願いします」と、ほんとうに単純な動機で先生になりました。
私を訪ねてみえた校長先生は川上英一先生でした。川上先生は私の仲人でもあります。妻とは川上先生に進められた見合いで出会いました。私の人生は川上先生によって切り開かれたといえます。一学期の終わりに、川上先生は理科の先生と猛烈な喧嘩をしてしまったのだそうです。そうしたら、その先生は、異動の申請を出して県教委に出ていってしまったんです。そんなことが可能だったおおらかな時代でした。その先生は理科の教師でした。
「誰かいないか探したら、名簿にお前の名前が残っていたから、だから採ってやる」が川上先生の言葉。「私は英語科ですけど」と言いましたら、「英語でもなんでもいい。来ないと子供たちが困る」と言われ、私は採用されました。昭和35(1960)年8月20日の採用です。校長先生の困りぶりが分る日付です。
9月1日から、厚木市立玉川中学校で一年の理科を教え始めました。英語ではなく、理科の教師なのです。実際、理科の授業をどのように進めることができたのか今でもわかりません。理科の得意な生徒を中心にグループ学習をさせ、調べたことを発表させる、そんな授業だったような気がします。私はそばにいるだけという感じです。今考えると、なんとも危険で恐ろしい実験―火山の爆発―を教室で行ないました。
当時の玉川中学校は各学年2学級で6学級でした。新年度、二年の学級担任になりました。教科は英語と国語、それに体育。部活はソフトボール、そして生徒会を担当することになりました。生徒会の担当が決まったとき、「子供たちと新聞を作ろう」と思いました。学校新聞がなかったので創刊しようと思ったのです。
私の大学の仲間、いつもいつも、新宿あたりで、飯を食べて、安い映画を観ていた仲間が6人いました。Nさんは読売新聞、Tさんは高松のNHK、Kさんは東京新聞、いずれも記者になりました。もう一人のKさんは愛媛県で教師に、Sさんは故郷の教育委員会で社会教育主事になりました。雑誌記者になったときは、「とりあえずは落ちこぼれなかった」とホッとしていたのですが、一番先に挫折したのが私でした。
東京新聞のKさんとはよく飲みました。一緒に飲んでいると「武、ちょっと待ってて、今ちょっと回るから」と言って、飲み屋の電話で所轄の警察署に電話を入れ、「もしもし、東京新聞のKだけど、何かない? ない? ああそう、ありがとう」って、取材をしている…。そんな姿を見ると、羨ましかった。「ああ、生きてるな、仕事している、こいつ」と思いました。私はそういうKの姿に自分を重ねようとをして、学校新聞を作ろうとしたのです。もちろん、新聞教育などという言葉など知りませんでした。じぶんを慰めるために学校で新聞を作ることを始めたのです。横須賀支局長だったKは、58歳のとき肝臓ガンで亡くなりました。
2009年6月1日更新
きのう、きょう、そして明日 ―新聞づくりは仲間づくり― NO2
『新しい青年』の記者6カ月が今の私の出発点
『新しい青年』の創刊の仕事はなかなかはかどらない、もう一方の『若鳩』も手がかかる雑誌です。全国各地にある自衛隊の駐屯地に取材に行かなければならないからです。あの伊勢湾台風が吹いた後です。急遽『若鳩』の仕事で、取材に行ってこいと言われたのです。行先は愛知県守山市(今は名古屋市守山区)ある第十混成団です。第十混成団衛隊は災害救助・復興で目覚しい働きをしたのです。その活動ぶりを取材するということで、一人で行くことになりました。
新幹線は当時ありません。ですから、覚えています。「東海4号」という準急がありました。東京を夜出て、翌朝名古屋に着くのです。会社を10時ごろ出たと記憶しています。それこそ出征兵士が送り出されるように、私はカメラを肩から斜めにかけて、「さあ行ってこい」と背中を押されて、夜行列車で名古屋に向かいました。
名古屋駅まで自衛隊の方が迎えに来て下さったんだろうと思います。何度も申し上げますが、この名刺一枚で師団長やあらゆる人たちにお話を聞くことができますし、それこそ食事を一緒にしましょうといって、隊の食堂で食べるという、そんな形で仕事を終えて、ある程度取材をして帰ってきました。
帰って記事を書いていたら、社長から「救助活動の写真はどうした」と聞かれました。「よい写真を借りて来いと」と命じれていました。「隊の方にお願いしたら『絶対使った欲しい写真がある。それは今、中日新聞に貸している。戻ってきたら、お宅の会社に送る』と言われたので…。隊長の写真は撮ってきました」と答えました。
社長は言いました。「お前は名古屋に行ったんだろう。中日新聞は名古屋にある。どうして中日新聞に寄ってその写真を借りてこなかったんだ。お前はダメなんだ。記者失格だ」。仕事をする、働くということは、与えられたことではなく、出来ることを自分で考えてやらなくてはダメなんだ、と言われたのです。
他人に叱られるということは経験がなかった、親にもそれほど叱られることはありませんでした。仕事をする、お金をもらうということは、そんな簡単なことではないことを身に染みて感じました。動かなかったら、待っていたら何も手に入らないことを学びました。
「会社に送りますから、それを使ってください。それが良い写真ですから」と言われて、そうですかと帰ってくるような仕事振りなら、雑誌記者はおろか他の職業でも「お前はダメだ」と叱られるのです。自信をなくしたことは事実です。入ってから半年で辞めました。今言ったような、何か積極的に食い込んでいくとか、何かをもぎとってこようとか、そういう意志の強さみたいなものが私にはないということ。だとしたら、いわゆるジャーナリズムの世界は、私にはまったく合わないと思ったのです。
辞めたもう一つの理由、これも哀しい言い訳ですが、私は秦野から東京の神田まで通ったんです。雑誌記者としての仕事が本格的に始まるのは10時ごろからです。そして退社時間は制限がない、皆さん夜の10時が普通です。「遠いから帰っていいよ」と、言ってくれる。それで「お先に失礼します」と帰るのですが、新米が一番早く帰ってしまうという後ろめたさがものすごくありました。当時の秦野は、終バスが夜7時でした。私はその時間は神田・松住町にいるのです。約2時間かけて大秦野駅に着いていて、そこから大山に向かって歩くのです。登りは1時間、朝は下りですから40分という距離に私の家はありました。
今もそうですが、私はその家を捨てようなんて毛頭思っていなかったんです。長男だし、多少畑もあるし、ということもあって。本来なら、そこを捨ててこそ、ということもあるんだけれども、そこの家とができなかったんです。東京に住んでいる大学の同級生、中学の同級生の下宿、母の妹さんが千駄ヶ谷にいました、そんなところにたびたび泊めてもらうような生活でした。写真のこともあり、精神的にも肉体的にもかなりキツイ状況に入っていました。
私が記者になったのは1959年、「60年安保」の前の年でした。さまざまな動きがある日本でした。会社の数人が組合を作ろうという動きをしたのです。私もそれに加わりました。その動きも中途で挫折。こういういくつかの条件が揃って、私は雑誌記者の仕事を辞めたのです。でも、この間作ったこの一冊の雑誌『新しい青年』、が、今ある私のスタートになったのではないかなと思います。
2009年5月1日更新
今回から「武勝美 特別講演会」 (2008/11/1・新宿「ルノアール」)の要旨を連載します。
きょうは武勝美さんの特別講演会です。特別という意味は、武さんはもうすでに新聞・広報作りについて五百数十回におよぶ講演会をなさっていらっしゃいます。きょうは、武先生の新聞教育との出会い、つまり「昨日、そして現在」、さらに「これからをどうのように生きるか」という《夢》をも語っていただこうとお願いしてあります。この会場の周りはちょっと空気が違っています。秦野から参加された皆さんには、お帰りの折、夜の歌舞伎町なども少し歩いていただき、社会勉強もしてもらえたらと思っています。途中コーヒーブレイクを入れますが、3時間という長丁場になります。ビデオで、大変若い頃の武先生のビデオも見られるようです。楽しみになさってください。(主催者・新聞教育支援センター代表理事 吉成勝好さんの挨拶)
きのう、きょう、そして明日 ―新聞づくりは仲間づくり― NO1
間もなくアメリカの大統領選挙が行われます。どちらが勝つのか分かりませが、とにかく変わるわけです。そのアメリカ大統領選挙の最中ですので、最初に第二十八代のウィルソン大統領のエピソードを紹介いたします。
大統領は大変忙しい身です。ある集りに顔をだしたとき、主催者から、忙しいだろうが10分だけでも講演してくれないかと頼まれたのです。そうしたらウィルソンこう答えたのです。「2時間もらえるなら、すぐに今からでも始められる。1時間の講演なら、2時間の準備が欲しい。15分のスピーチを、
と言われたら半日の準備が必要」と。短い話は難しい、文を短く・端的に書くことは難業です。
今日3時間もらいました。ウィルソン大統領でも、3時間となると「すぐに話し出すことはできないだろうな」と思いながら、3時間分を準備してきました。準備は、それこそ2ヶ月くらい前からずっと毎日毎日、頭の中で進めてきました。今朝、家内が「とうとう今日がきちゃったね」と、言いまして、「そうだよね」って。「ま、頑張っていらっしゃいよ」と言葉に送られて出てきたわけです。
私の新聞教育は今年で49年になりました。この間『新聞づくり』で出会った人たちの中で印象に残る人たちのお話をしたいと思っています。
最初の人は「ある日突然 山を越えて」というテーマの人です。私は昭和34年に大学を出ました。就職が厳しい時代でした。何はともあれ、就職はできたんですけれども、その就職先が、この雑誌『新しい青年』(雑誌を例示)を発行した雑誌社です。私と同じくらいの年代の方を含めて、ほとんどの人が手にしたことが無い、名前も知らない雑誌だろうと思います。神田松住町、今は町名が変わってしまっているので、その場所ははっきりしませんが、そこにある文化堂という出版社に採用されました。
大手の新聞社を受けたのですが、落ちました。大学から「文化堂が欲しいと言っているから、行かないか」ということで、採用してもらいました。
文化堂は自衛隊員向けの専門誌を発行していました。自衛隊員は、幹部などに昇進するためには、昇進試験を受けなければなりません。大学受験用の高校生向け雑誌に『蛍雪時代』がありましたが、そういう種類の性格・内容の雑誌です。『若鳩』という雑誌でした。
ところが、この雑誌は自衛隊という組織の中で、昇進するための受験勉強の雑誌だから、発行部数の伸びは期待できない。いわゆる《頭打ち》、経営としての発展性はない。それで『新しい青年』という雑誌の創刊に社運を賭けることにしたのです。その編集者として私は採用されたのです。
『新しい成年』の読者層は、公民館を拠点に活動する若者、当時は青年会の活動も盛んでした、そうした若者たちの心を雑誌で捉え、結婚や就職などの若者の生活問題を解決する全国組織を作りたい、という壮大な構想がありました。
『新しい成年』の編集室は、編集長・女性、そして編集員は私ともう一人。3人です。もちろん、編集の最終責任は社長です。この方は大変なワンマンでした。もう一方の『若鳩』も編集部は3人だったように記憶しています。営業や経理の人たちを含め総勢十数名の出版社でした。そのような規模、しかも雑誌記者という仕事ですから《慣らし運転》などはありません。即仕事、実戦です。何ページかを担当させられました。
『新しい青年』は6月創刊ということになっていました。ところが、そんなに簡単に創刊号はできるものではありません。社長の意気込みはたいへんなもので、企画は日ごとに広がっていく、そんな感じでした。出稿の最後のGOサインは簡単には出ません。今、改めて目次に目をやると、とても多彩な方の名前が載っている、原稿料、取材費がかかっている、そういう感じかするのです。
これが当時の私の名刺です。『新しい青年』記者武勝美。きょうはマスコミの方、過去にそういうお仕事をなさっていた方も来ていらっしゃいますが、22歳の私がこの名刺で、会えた人がたくさんいました。例えば、私はスポーツ欄も担当しておりましたので、当時早稲田大学に山中毅という水泳の選手がいました。私はこの一枚の名刺で彼に取材が出来たので。今から思えば、会社の実力から見たら不釣合いな取材用の車があった、ヒルマンでした。運転手さん付きです。22歳の私が、運転手さん付きで神田から東伏見の早稲田の合宿所まで行けた、そして名刺を出すと、世界記録保持者の山中毅選手がインタビューに応じてくれる。「顔写真を借りて来い」と命じられたこともたくさんありました。もちろん編集長が電話入れておいてくれるわけですが、この名刺一枚で、全く疑われもせずに、その方の直接会って写真を借りる、古谷綱武、木俣修、阿部静枝、竹中信常などのみなさんにお会いできたのです。すごく偉くなったような気がしました。
最初の取材の仕事は、社長と一緒に中曽根康弘代議士にインタビューする仕事でした。ここにありますけれども、「新しい青年のあり方」という特集ページの取材でした。その頃、彼は「総理大臣公選」と提案したり、憲法改正の歌をつくったりして、マスコミから「青年将校」と言われるように、異彩を放っていました。
「武さん、きみは写真撮れるか」と入ったとき聞かれ、「はい」って言ってしまったんです。私のうちにはカメラがなかったんです。叔父がカメラを持っていました。たまに借りて写真を撮る、という程度ですから実は「写真が撮れる」などと言うようは範疇には居なかったのです。そのカメラも二眼レフという、上から覗いて撮る、66判のカメラです。そのカメラしかいじったことがなかったんです。
ところが写真を撮れると言ったら、社長が「カメラを担いで一緒に来い」ということになりました。議員宿舎の中曽根さんの部屋でインタビューです。私は三脚を立て、カメラを据付けたりして、いかにも「カメラマンです」と言うような立ち振る舞いをしていました。当時のカメラはフラッシュではなく、ストロボを使っていました。上座の中曽根さんに向かい合って社長がインタビューを始めました。私はまだカメラの準備をしていました。すると、全くどこをどうさわったのか分からないのですが、いきなりストロボが発光してしまったんです。驚いたのは、私もですが、中曽根さんの驚きは大変なものだったようで、「君、何をやってるんだ」。叱られました。「私、何にもしていません」が私の答え。説明になどなっていない説明をしたことを、今も覚えています。それでも、ここに掲載できたように写真を撮らせてもらいました。
こんな失敗が最初の仕事、でも《意気揚々》でした。就きたかった仕事、やりたかったことだから「仕事が始まったし、よかったな」と、そういう思いで一日を過していました。(続く)
2009年4月1日更新
桜咲く
空一面が淡い桜色に染まり、落花を浴びて人の心も薄く色づく。人はみな、花に魅せられて時を忘れる。
三月から五月にかけて、日本列島を「桜前線」が北上する。『エコー』の読者の一人、中学校の校長先生だったHさんの新しい生活が、きょうから始まった。先日会ったら「桜前線を追いかけてみようと思います」とにっこり。4月15日の高山祭りに出かけると言った。今年の気候だと荘川桜も間に合うかもしれない。高遠の桜にも見て来るらしい。
わが家の桜は今週末が見ごろ。3日に案内する『大山道を歩く』コースにわが家の桜も入れた。
世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし
在原 業平
桜・サクラの語源
1 木花之佐久夜毘売・コノハナノサクヤビメ
の「サクヤ」
次は古事記の一節である。
高天原から日向に天降ったニニギノミコト(天孫降臨です)は、笠沙の岬で美しい乙女・コノハナノサクヤビメに出会い求婚する。乙女は「私からはお返事できません。父のオオヤマツミ・大山津見がお答えするでしょう」と言う。ニニギは使者をオオヤマツミに送る。オオヤマツミはたいそう喜び、姉のイハナガヒメ・石長比売も添えて送り出す。ところがニニギは、イワナガヒメの醜さに畏れをなして送り返してしまった。それを知ったオオヤマツミは「もし二人の娘と結婚していたら、あなたの命は石のように不動であり、花のような繁栄を手にすることができた。しかし、サクヤヒメだけを娶った。あなたの寿命は花のように短くなるだろう」と言う。古事記は「木花」という花の名を明示しないが、サクヤヒメという名がサクラを強く感じさせる。「サク」は「咲く」、「ヤ」は感動を表す。
2 サクラは「サク」「ラ」
「咲く」は「栄え」「盛り」「酒」などと同根で、内に蓄えられた生命力が外に向かっ一挙に現れる意を表す。「裂く」にさえ繋がる。その力を鮮明に感じさせるのが桜の開花なのだ。「ラ」は、君ら 僕らの「ら」で複数を表す。
3 サクラは「サ」「クラ」
「サクラ」の「サ」は田の神を意味する「田神・さがみ」の「サ」。「早乙女」「早苗」「皐月」などサのつくこれ等の言葉は、いずれも田・稲に関係する特別な言葉である。「クラ」は神の座の意味だから、桜は田の神のお出ましになるところ。田の神が美しい花となって姿をあらわす。それが桜。満開の桜は豊作の稲穂のイメージでもある。春の日和の一日、人々はその田の神を客に迎え豊年を予見し宴をした。これが花見の起こり。
2009年3月1日更新
砂かぶりからご機嫌な横綱を見ました NHK福祉大相撲観戦記
2009/2/11 国技館
制限時間一杯、塩を手に静かに赤房下に立つ白鵬。その白鵬をほとんど意識していないかのような朝青龍。塩を手にそんきょの姿勢で白房下を動かない。表情はにこやか、そして左手の親指を立てカメラにポーズ。「砂かぶり」の最前列でカメラを構えているのは女子大生? 彼女の斜め後ろがわたしの席。ようやく立ち上がった朝青龍は、握った塩の一部をなんと後手のまま砂かぶりの席の膝に投げた。そして、土俵に入ると今度は正面に坐る審判の目の前に塩を大きく撒いた。
こう書けば、「横綱の品格」に話がいかなければならない。だが、この日わたしが目にした彼の表情や立ち振る舞いは、「品格がない」という常套語では言い表せない何かがあるように感じた。決して「唯我独尊」ではない。“自由闊達”、有り体に言えば“ガキ大将”“ヤンチャ坊主”。そして何より“ショウマンシップ”が旺盛なのだ。
2月11日、両国国技館でNHK福祉大相撲。この日西の花道から入った関取は、朝青龍、千代大海、魁皇、高見盛、出島、山本山等々。女性の演歌歌手川中みゆき、坂本冬美、藤あや子、神野美伽、石原洵子がのど自慢の豊の島なとの関取とデュエット。
高見盛の気合の入れ方を目の前で見た。掛け声、そして胸を両の拳で叩くさまを。ところが、目下売り出し中の豪栄道にあっさり寄り切られた。そして、肩を落とし花道を引き上げるさまは本場所とは違っていた。稽古場では力を出さない、と言われている由縁はこんなところにあるのかもしれない。出島の両足首(ふくらはぎ辺まで)が、青紫に腫れ上がっているのを見た。常人では動けないように思えた。相撲を職業としていることの厳しさを知った。
この日の席は向正面の「砂かぶり」。座布団と土俵との間は1bもない。土俵の激闘が砂の嵐になって襲ってくるから「砂かぶり」だと思っていた。だが、呼び出しが土俵上の砂を均すときに舞い上がる砂ぼこりが舞い散ってくるのが「砂かぶり」のほんとうの意味かもしれない。本場所は当然だが、この日のような「花相撲」でも、砂かぶり席では居ずまいを正さなければいけない。だが、朝青龍の立ち振る舞いに勇気付けられカメラを構えた。それが下のような収穫となった。
ご機嫌な横綱 |
静・そして清の横綱 | 力水の受け方もこの横綱らしい |
勝負審判と談笑も | 大関 千代大海 |
大関 日馬富士に 「こっち向いてー」の声が | この日も気合十分の高見盛だったが… |
巨漢山本山 248sは幕内最重量 | 高見盛に勝って勝ち名乗りを受ける豪栄道 |
2009年2月1日更新
女は『存在』 それなら男は?
わたしから聞いた「目一つ小僧」の話に魅かれたAさん。すぐに実家のお父さんにその話の内容を確かめた。彼女は、わたしの日記『寺山だより』で「へらへらダンゴ」ことを読んだときもすぐに反応してくれた。今月のHPの「返ってきたエコー」の欄、そして「秦野のおはなし」のページの写真は、Aさんの提供である。
秦野地方の道祖神祭りは1月14日に一斉に行なわれるので、他所での祭りのようすは見ることができない。それだけに、今回いただいた写真はとても貴重で、わたし自身がいっそう道祖神祭りへの興味をかきたてられた。「動かなければ出会えない」のAさんである。
Uさんは『まほら秦野みちしるべの会』の会員。「書くことに興味がある」というのではなく、「興味のあることを深めたい」、その思いで講師の話に耳を傾け、ていねいにメモをとる。そして、その話につながる人たちの生活に思いを馳せる。だからUさんの綴る文は、往時の人々の生活を生き生きとよみがえらせる。「聴かなければ深まらない」の実践者。会の活動を高め、深めてくれる存在である。
『まほら秦野みちしるべの会』を率いるのはYさん。生まれは京都、とにかくYさんは行動派。しかも徹底主義。「動かなければ出会えない」のトップランナーの一人だ。誤解のないように言うが、会の運営については慎重派、会員の声をよく受け入れる。行動派というのは、フィールドワークに関して。会が実地踏査に入る地点が決まると、事前にそのコースの下見を納得するまで行なう。
今月歩くコースについても一人で数回下見に入っている。前回歩いた中で発見できなかった碑をどうしても見つけたいと、気の合った三人の会員に「ガードマンとして一緒に行って」と声をかけて出かけた。
紹介した三人の女性は、いずれもPTAの広報紙づくりのエキスパートであったことを付け加えておく。この文を書いていたら、次の文に出会った。
「人体が発生してゆく途上で、何事もなければ、人間はすべて女になってしまう。ある時点で、貧弱なY染色体が、たったひとつのTdf(精巣決定因子)という遺伝子を働かせることで、無理矢理男の方に軌道修正して男という体を作り出す。その上、脳の一部を加工することによって、もともとは女になるべき脳の原形から男の脳を作り出す。/人間の自然体というのは、したがって女であるということができる。男は女を加工することによって、ようやくのことに作り出された作品である。男らしいというさまざまな特徴は、したがって女からの単なる逸脱に過ぎないのである。身体的な自己を規定する免疫系からみても、男は女にとって異物であり、排除の対象なのである。男の中には、必ず原形としての女が残っているので、女を排除することはできない。/こうした生物学的にハードな事実が、社会的にみた男女の差に強く反映されていることを否定することはできない。そればかりか男女という存在自体が、こうした生物学的基礎に支えられているのではないだろうか。/私には、女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎないように思われる」 (『生命の意味論』多田富雄著・多田先生は免疫学の世界的権威である)
2009年1月1日更新
迎 春
秦野ゆとりの会 信州・中野で〈心のうた〉を歌う
昨秋11月27日、「秦野ゆとりの会」の19人で、「秦野煙草音頭」の作曲者である中山晋平記念館(長野県中野市)を訪れた。
「ゆとりの会」のこの旅行のテーマは「古き良き時代を訪ねて」だった。一日目は渋温泉に午後二時半ごろ入り、外湯を楽しみながら町を散策する計画を立てた。だが、昼食から渋温泉に入るまでの時間の過ごし方を思案しているとき、朝日新聞の『be
on Suterday』が『うたの旅人』(5月3日付け)で「中山晋平のゴンドラの唄」を取り上げた。旅先は信州・中野、「ここだ!」と喜んだわたしだった。
中野市は作曲家・中山晋平と作詞家・高野辰之の生地。晋平は昭和を代表する作曲家で、「カチューシャの唄」「東京音頭」「あの町この町」「証城寺のたぬきばやし」「波浮の港」などで知られている。高野は文部省唱歌の「故郷」「春が来た」「朧月夜」「もみじ」などの詞を書いた。
中山記念館は晋平の生誕100年を記念し、彼の生地の隣りに昭和62年に建てられた。駐車場からエントランスに向うとカリヨンのアーチが立っている。そのアーチをくぐると、カリヨンが歓迎の演奏をしてくれる。わたしたちは ♪
海は荒海、向こうは佐渡よ ♪ 『砂山』で迎えられた。
第一展示室に、晋平の作った歌の一覧が掲げられていて、「秦野煙草音頭」も見ることができた。この部屋には晋平が教員時代に使ったオルガンも置かれている。「希望すればこのオルガンで職員が伴奏してくれ、晋平の歌を歌うことができる」ことを『be
on Suterday』で読んでいたので、お願いした。そして何の躊躇もなくステージに立った5人が選んだ曲は、「ゴンドラの唄」。それもそのはず、中央道を走るバスの中で、♪
命短し恋せよ乙女 ♪、と全員で練習してきたからだ。
会員の最年少は昭和22年生まれである。この歌がはやった頃の年代ではないが、映画『生きる』で、雪の降る公園でブランコに乗り志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うシーンは、ほとんどの会員の記憶の中にあった。客席からも歌うわたしたちだった。
伴奏の女性に、「皆さんでどうぞ」と勧められ、わたしもステージに。10数名で「船頭小唄」と「故郷」を歌った。「船頭小唄」の哀愁とはかけ離れた大合唱になった。
「先生、♪ 雨降りお月さん ♪と『雨降り』とは違うんだね、知らなかった。『雨降り』の楽譜、買ってきちゃった」と、Tさんがにこにこ顔でバスに乗り込んできた。Tさんはこの4月から幼稚園の園長さんになった。
「雨降りお月さん 雲の陰」が『雨降りお月』で、「雨 雨 降れ 降れ 母さんが」が『雨降り』なのだ。
渋温泉の金具屋での夜の宴にカラオケが入る。司会を務める園長さんのTさんが、アカペラで、♪
雨降りお月さん 雲の陰 ♪ と歌い出し、わたしをステージに招く。わたしの妻が、♪
雨降りお月さん 雲の陰 ♪ が好きだということを知っているからである。
Tさんとわたしが出会ったのは、新採用でTさんがわたしの勤務校に来たから。いつ、どこで話したのか記憶は定かではないが、Tさんの奥さんも『雨降りお月』が好きであることをわたしは知っている。
中山晋平が教室で使っていたオルガンの伴奏で「ゆとりの会」合唱隊は歌う
2008年12月2日更新
11月16日 山梨行
Yさんに連れられ、山梨の三つお寺、清白寺、大善寺、放光寺と山梨県立博物館を訪ねた。Yさんは仕事がら寺院の建築様式に詳しい。同道したのはかかりつけの歯医者さんのSさん。Sさんは「みちしるべの会」の会員。二人とも教え子。
車一台がやっと通れるほどのあぜ道を曲がると、ブドウ畑に挟まれた細い参道の先に紅・黄葉に包まれた清白寺の山門があった。この寺の仏殿は国宝で禅宗様建築の代表的遺構なのだそうだが、私はその軒は曲線の美しさに引かれた。庫裏もまた茅葺の堂々な屋根で、重・文。見学料を入らないのでパンフレットなどない。私たち以外には見学者もいない。墓参用の手桶などが供えてある水場があるから普通のお寺なのだろう。「維持が大変だろうな」と思った。
ぶどう畑の勝沼を走る国道20号線に面しているのが大善寺。石段の参道に散った紅葉が敷き詰められていた。風情ある数十段(数えなかった、残念)の石の階を登り詰めると、国宝の薬師堂が色づいた山を背景の現れる。桧皮葺の屋根の軒の両翼が伸びやかに反り返っている美しい建物。ここでも参詣者に会ったのは数人。
武田信玄公の恵林寺の奥に位置する放光寺は、重文・愛染明王坐像が間近に見られる寺。この寺の仁王門にある金剛力士像像も重・文。先ごろ、秦野の大日堂の金剛力士像が市の文化財に指定されたこともあって、見比べるために訪ねた。
山梨県立博物館で木喰五行の木喰仏に会えた。円空仏と対照される仏像で、デフォルメされたものだがゆったり感がある。蓑毛・才戸のお堂前に「木喰晋性」という名号塔がある。この木喰晋性と木喰五行とのかかわりを知りたいと思った。
私の問いに学芸員は「『木喰』を名乗る人は木喰五行しかいないようだ。弟子を持ったという形跡もない」と答えた。
展示された資料で「道祖神祭り」が神奈川で行なわれるものと違うことを知り、資料を求めたが「閲覧」しかなかった。
雨模様の一日だったが傘を広げることはなかった。日曜日なのでツアー客にもほとんど会わない。山梨の道を知り尽くしているYさんのお陰で17時には帰秦。昼は「小作」でほうとう。土産は「月の雫」。
清白寺仏殿 | 大善寺の参道 | 大善寺薬師堂 |
2008年11月5日更新
卒業40周年記念の同窓会のエピソード
校庭でキャッチボールをして会場へ
10月25日、中学校を出て40年を経た今回の同窓会で別掲のような記念の冊子が配られた。その中の1ページに「昭和43年当時の大山、校舎、体育館、そして銀杏の木」とキャプションが付けられたモノクロの写真が収められていた。
同窓会が始まる前、その校庭の銀杏の木の下に井上、窪島、関、野田の四人がグローブを持って集った。そして1時間、キャッチボールを楽しんだ。
閉会の後、会場の玄関で記念の写真を撮る。真ん中に収まった私に、井上が使い古した小さなグローブを持たせた。私の隣に坐った松下が、「あの頃の野球は強かったよね、先生」と何度も口にする。県大会出場まであと一歩というところで敗退したのだったが、強かった。何より元気な子の集りの野球部だった。「バットで尻をなぐられた」思い出などを聞かされ、汗顔の至り。だが、きょう校庭でキャッチボールをしてきた、ということは、私を許してくれていることだろうと都合よく解釈をしたのだった。
父は野良人歌人・桐生雄
桐生が「一周忌を期して父親の作品をまとめました。読んでください」と、パソコンでの手づくりの短歌作品集をくれた。第1ページに記された歌は、
ねもごろに新聞を切り抜き綴りをり確かにわれの生くるあかしか
桐生 雄
この歌に子・正彦は次のような言葉を添えている。「一貫して家族、農業、短歌を愛し続けた父を偲び、哀悼の意を捧げます。」
桐生雄さんは、昭和45年に創設された「神奈川歌壇年間賞第一席」を次の歌で受賞された。
等外麦いかにするかといふことに触れず検査官乗用車にて去る
そして平成9年の「第28回年間賞」でも、
供出薪かつて伐りたる弘法山の桜トンネル御輿練りゆく で第一席を受けた。
作品集の中で見つけた一首
稚くして汝が嫁ぎ来し日のごとく輝きやまぬ峡のもみじ葉
郷土・秦野の歌人前田夕暮の「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」と相対するものと思った。
花便りしきりに伝ふる新聞を広げて妻と野昼餉を取る
地価上がる見込みなけれど ひもすがら鋤きに鋤く土 足裏に温し
米要らぬと休耕田にあやめの花 ここだ咲かせて愛づる平和か
さかしまに朝の阿夫利嶺映し澄む わが十アールの早苗田巡る
行政は火の車といふにビルを建て わが欲る農道工事進まず
蕎麦の花実となるころを嫁ぎ来し汝と蕎麦咲く畦に憩へり
老農われまだ現役と朝より草刈るエンジン唸りに唸る
桐生雄さんは野良人歌人だった。
上猶さん、日置さん
珍しい姓の持ち主、上猶(カミナオ)さん、日置(ヘキ)さんも出席。日置さんは金蔵院の住職。お坊さんには珍しい姓、難しい読み方を持つ者も多いと言われている。現在の秦野市内の寺院の住職さんの姓では日置さんのほか、安居院(アグイ)、一(ハジメ)、秀(ヒデ)、賜(ヒノデ)さんなどがある。
あちこちの講座で名刺交換などをさせてもらっていると、希少姓、読み方の難しい苗字の方に出会う。東京でお会いしたのは薬袋(ミナイ)さん。纐纈(コウケツ)さんとは真鶴町で、小鳥遊(タカナシ)さんは横須賀市。教え子に、鯨さんがいた。「鯨」姓には大変興味深い話が付いている。
薬袋さんは、武田信玄とのかかわりから生まれた姓。信玄が失くした薬袋を拾った村人に、役人が「袋の中を見たか」と問いただした。村人は「見ない、中なんか見ていない」と答えた。それから「薬袋」を「ミナイ」と読むようになったとか。山梨・早川町に薬袋という地名がある。10月28日の「生中継ふるさと一番」は、なんと早川町からの中継だった。薬袋さんは登場しなかったが…。
日置さんは「暦を作る役職」から生まれた姓。纐纈さんは「絞」「結」に頁をつけている。「絞」・「結」は絞り染めの仕事をする人。「頁」は人の頭を表す文字。
空(ソラ)さんはかつての同僚。だが「空」を「木下・キノシタ」と読ませる家もあるという。「空」がなぜ「キノシタ」なのか。「空」は「クウ」とも読む。「ク」と「キの下」これがヒント。考えてみてください。
2008年10月1日更新
「かんべんしてくださいよ」
2008年09月08日
9月の第一土曜に集る会がある。中学校の同級生の有志が一晩語り明かす《飲み明かす》会だ。私はその会の特別会員で、今年で4回目の参加になる。今年は9月6日で箱根・強羅に11名が集った。
彼らは53歳、まさに今の社会をリードし、支えている年代だ。新幹線通勤で帰宅が平常で午後11時というC、部下の起こした個人情報の漏洩で、顧客170人の自宅を謝罪に回ったE、酪農家を顧客にしている獣医のHから聞かされた神奈川の酪農の現実、アネハの事件から、建築確認が厳しくなり着工件数が極端に減ってきているという建築業界は、「2,3年のうちに個人の工務店・大工さん・はほとんど消えていく」と心配するのは材木店主のY。Mは52歳にしてトラバーユした。
そんな今だからこそ、幼馴染とのこうした交流でそれぞれが元気付けられるのだ。私もまた、彼らの輪の中に身を置かせてもらうことで少し若返る、いや老化が少し抑えられる、と思っている。お開きになったのは午前3時とか。私は12時少し前に自分の部屋に戻った。
翌朝、ロビーでの解散の前に「来年は9月5日、ここで」と幹事のOの挨拶があった。私に限って言えば「来年のことはわからない…」。
上の文を日記をアップした翌日、Yさんが訪ねて来た。日記の最後の一文が気になったと言う。そして「先生、どこか悪いの。箱根のときは元気だったけど、この前来たときはすごくガメでいたから…」。
そしてその次の日の夕方、勤めの帰りだがと、Oさんが顔を見せた。「Yさんの事務所に寄ったら、『先生が変なことをホームページに書いている』と日記を読ませてくれた。それで、来てみた。どこか悪いの?」と私の顔を覗き込む。年齢を考えると私の一年先は保障されていないと説明する私に、「かんべんしてくださいよ」とOさんは言うのだった。この春、父を亡くしたOさんのその言葉には万感がこもっていた。
2008年9月1日更新
全新研・秦野大会の速報部OG会
8月29日 午後になり夏の日が戻ってきた。6:00P.Mから全新研・秦野大会の速報を作ったお母さんたちの集りに出かけた。今年で2回目のこの会、大会実行委員長の地崎先生、全新研事務局長の田村先生など11名が集る。
A3判2ページ版を大会期間中4回発行した秦野大会の速報は、51回を数える大会の中でも特筆されてよいこと。私が持って行ったその4号の速報を手にして、「私かこんな文を書いたなんて 今だったらぜったい書けない」。「山形の先生に電話インタビューをすることになったのだけど、初対面の先生に電話で、ということで凄く緊張して、しどろもどろ。でもいい経験ができた」。「みんなの勢いで作れた、そんな思いが今だからいっそう感じられる」。「4号の編集は修羅場だった。それなのに渋沢中の小野君、冷静に、淡々と文字を打ってくれた。ほんとうに凄い子、小野君の力が無ければ4号は危なかった」。「もう一度、あの緊張感味わってみたい」など、二日間の活動の思い出やエピーソードに、あらためて自分たちの成し遂げたことへの喜びが笑顔でよみがえってくるのだった。
子供たちの夏休みの宿題に壁新聞を作らせている2人のお母さん、今年も現役でPTA広報にかかわっている3人もいる。そんなお母さんたちの中で、飛び切りの元気印ははルマンまで松井大輔の試合を見に行ったGさん。元気そのもののお母さんたちだから、次回の幹事と開催日もあっさり決まった。
北京オリンピックのソフトボールと野球
タレント・『羞恥心』の上地雄輔さんは、横浜高校で松坂大輔投手のボールを受けていた先輩キャッチャー。その彼がこの夏の甲子園が始まる前に、新聞にこんなことを話していた。「努力すれば誰でも甲子園に行ける、とは言えないが、努力しなければ甲子園には絶対行けない」。
北京オリンピックの野球のこと。ソフトボールがあのような感動的なシーンをたくさん作り出しただけに、野球の戦いがまた特別印象に残った。
球場の広さ、男性と女性、プロとアマチュア、テレビカメラのアングルなど様々な条件の違いがあるのだから単純な比較はできない。だが、優勝したソフトボールとメダルに届かなかった野球との違いを、私の視野で捉えるなら《声を出すベンチ》の差が結果にったと思った。
こんな話をソフトの選手がしていた。アメリカとの決勝戦、先発投手がライズボールを投げる時のクセを見抜き、ライズボールを投げるときは、ベンチの全員で「上!」、そうでないときは「下!」と叫んだという。
プロだから、生活を、いや生涯をかけた戦いに臨んだのが野球だったはず。 だから、「これが実力、これが現実」と何人かの選手は言った。そのとおりかも知れない。ダルビッシュやマーちゃんは“バット引き”をしたということも報じられた。グランド上のがんばりはともかく、私の目に入った日本のベンチの雰囲気はソフトのベンチのそれとは違って見えた。
「努力しなければ絶対に甲子園には行けない」は、「チームワーク・人の和」にも当てはまると思った。
2008年8月1日更新
盛 夏
7月28日
今年も菊の栽培が始まった。午後、16本の苗を植える。頂いた苗はどれも健康そのもの。昨年より良い花を咲かせたいという今日の意気込みは褒められるだろうが…。こうしてスタートしても、月に一度の研究会に持ち寄る他の人たちの苗と比べ、私のものは「なんと貧相なこと」と。「武さんのはかわいいね」という評価は手入れがされていないということ。「出かけるのを減らしてもっと面倒見たら」との助言も。“二兎を追う”ならまだしも、現状は“三兎”の私だから。菊も野菜も手をかけなければ、結果はそのとおりに表れる。畑の作物にもっとも良い肥料は「足音をきかせること」だと言われている。
昨年まではコンクリートのタタキの上で育てたが、今年は台を設けた。鉢も買い足した。定植する前、Kさんから十分に指導を受けた。あとは努力。『羞恥心』の上地雄輔さんが言った。「努力すれば甲子園に行けるとは言えないが、努力しなければ甲子園には行けない」。
7月30日
右の耳の中に、一年中セミを飼っている私。(目の中にまだ蚊は飛んでいないが…。)
そのセミの異変。
関東地方の今年の梅雨明けは7月19日だった。その前日の夕暮れ、向林あたりからヒグラシの鳴く声が聞こえてきた。空耳かと思った。だか確かに「カナ、カナ カナ、カナ」。ヒグラシの透きとおる鳴き声はどこか哀切で寂しい。
「蜩の声して夏の終りかな」という中学生の一句を覚えている。蜩の季語は「秋」。それなのにニイニイセミのアブラセミもまだ鳴かない。庭のサクラにニイニイとアブラが現れたのは27日。そしてミンミンの鳴き声が聞こえたのは29日のに朝だった。
日本の各地で突風やら川の急な増水やら何かおかしな自然現象異常気象。寺山もここ4日連続で夕立。
25日の『下部灯籠立て』を一緒に見に行った「みちしるべの会」のIさんが、メールで写真を送ってきてくれた。それにこんな文が「市が立つ賑やかな光明寺や『かなひ観音』方面からの旅人が灯明堂をみつけ、ほっとしてゆるやかな下り坂をゆっくりと歩いて来たのでしょう。今晩の宿はどこにするのでしょうか、ここからは大山はまだまだ遠く高くそびえています。」
鮎のNさんからもメール。
「当地は雨が降らず暑い日が続いております。昨日はメールをいただきありがとうございました。アユを喜んでいただき大変うれしく思います。毛鉤で釣るドブ釣りも最盛期を過ぎたようで、昨日は2時間弱で1尾でした。あまり釣れないと、疲ればかり残るものです。アユも私も疲れたので、今日は休漁とすることにしました。」
2008年7月1日更新
小さな旅
玉川中学校 そして地名「玉川」に深い縁を感じた一日
世田谷区の中学校教育研究会新聞教育研究部に招かれた。それで6月18日初めて田園都市線に乗った。この路線は神奈川県の中央部と渋谷を結んでいるので《山岳地帯》に住む私にはあまり縁のない線だ。
秦野駅を12時56分で発つ。相模大野経由、中央林間駅で下車。小田急の改札口を出てから、東急の田園都市線のホームへ。初めて見る車窓からの風景を楽しんだが、ドアの窓が小田急に比べ小さかったのが残念だった。
おおよそ20分で二子玉川駅。ここで大井町線に乗り換えるのだが、ホームから多摩川の流れが見えた。乗換という雑踏のイメージは全く感じられない開放的なホームからの眺め。ホームの端は河川敷の上にせり出しているらしい。一列車やり過ごし、初夏の川風に吹かれた。
等々力駅からタクシーで会場の玉川中学校に着いたのは14時40分。部会長の越田校長先生が玄関でにこやかに迎えてくださった。玉川中学校は地上4階地下1階、温水プールを持っている。校地を共有する中町小学校、さらに「中町ふれあいホール」という地域開放施設も校地内にあるのだが、この三者をつなぎ、分けている広場にはせせらぎが流れ
ていて、いくつもの子供の姿が見えた。この学校改築にかかった費用は74億円と学校案内に記されていた。
この日の部会の参加者は30名ほど。「学級経営に生かす新聞づくり」というテーマで2時間をいただいた。
講演のレジュメ
1 60年安保闘争の年、教員になった。新任校は厚木市立玉川中学校。今日の会場校と同じ校名。めぐり合わせの妙を強く感じている。その年から学校新聞づくりを始めることができた。
2 秦野東中学校の新聞づくり(@「東中新聞」の卒業記念号の記事、A昨年度の卒業式で、在校生代表からの送る言葉に「新聞づくり」が出てきた。B「東中新聞」を作った子が、学級新聞を作りたいのでと、この春教員になった。)
3 学校に三つの言葉を響かせたい。(学校・学級新聞に子供の声が、PTA新聞に保護者の願いを、学校・学級だよりで教職員の思いを)
4 新聞づくりは仲間づくり 生徒向けの「新聞づくり講座」のテキストの解説
企画会議の資料
新聞にのせる記事をきめるアンケート
※仲間(個人)の悪口は書かない
@ 最近の校内(クラス)の明るい話題や楽しいニュースは
A 『コラム』に書きたいこと(この号で私が主張したいこと、述べたい意見)
B 最近、おどろいたり、感動したり、ハッとしたことは
C 校内(クラス)のようすを見て、変だな、オヤと思うことは
D 校内(クラス・班の中)で、今がんばっている人はだれ? どんなこと?
E みんなは知らないけど、私は知っていること
F 最近の校内・クラスの話題は
G となりのクラスのニュースは
H テレビや新聞などで見たり聞いたりしたことの中で、考えたことは
I 今の季節のこと、このごろ目にした動物・植物について
新聞は《人・人間》を報じる・書くこと。だからインタビューは欠かせない。
5 六花亭の社内報・日刊『六輪』の紹介。組織にとってもっとも大切なものはコミュニケーション。
6 質 疑
Q新聞づくりの経験が無い学校での新聞づくりの取り組み方(スタートの仕方)。
A:他校で作られている新聞の展示会を開き、関心を呼び起こす。新聞講座を開くが、技術論に深入りはしない。なぜ新聞が必要なのか、新聞を通して学校や学級がどう変わったのか、新聞の力、新聞の機能について具体例を挙げ、意識づけをする。
Q新聞づくりを長続きさせる手立ては。
A:教師をはじめ周りが発行された新聞を認める。全校朝会や朝夕の学活で、教師が発行された新聞を話題にする。一斉にその新聞を読む。極端に言えば誤字の指摘だけでも良い。
Q写真の扱い方(子供の安全・プライバシーの観点から)。
A:人物が第三者に特定できてしまう写真は使わない。掲載する場合は、本人と保護者に許可を求める。体育祭などの集合写真には「プライバシーは無い」のではないか。
Q学習新聞の作り方のポイント
A:報告で終わらない。「まとめ」を必ず書く。まとめには意見、考えを入れる。編集後記欄も設ける。新聞だから「一覧性」が欲しい。何が書いてあるのか一目で分るもように、見出しなどを工夫する。
7 まとめ
「読み・書き・ケータイが学校教育の基礎」などと言われている今だからこそ、新聞づくりで生きた言葉を身につけさせよう。
5時の閉会後に駆けつけた新採用の先生が、校長室で休んでいた私を訪ねて来た。その初々しさと情熱に圧倒され、40分ほど「新聞づくりは仲間づくり」の話をする。講座に使った見本の新聞をプレゼントした。
6時過ぎ、学校の旧正門の前にある「神田きくかわ」という鰻の老舗で越田先生と二人だけの反省会。鮎の塩焼き、きも焼き、一の膳はわさび醤油で食べる白焼き、そして二の膳はうな丼。いずれもボリューム十分。それで、うな丼は「お持ち帰り」にしてもらった。
職員室前の掲示板に、玉川中学校の立つ場所は「かつては『野良田』と呼ばれていた」とあった。「野良」は野良仕事の野良。それに「田」が付けられたのだ。多摩川の近くの田んぼや畑が広がっていたのがこの地域だったのだ。
「きくかわ」を出て、静かな住宅街を最寄の駅「上野毛」まで歩いた。上野毛の「野毛・ノゲ」は、地形語の「グエ・崖」から生まれた語。私が住む寺山の隣りの地区は「蓑毛・ミノゲ」と呼ばれている。ミノゲは「ミズ(水)のグエ(崖)」。「野毛」は多摩川の淵の崖を表す地形語なのだ。越田先生によれば、玉川中学校の学区の自慢の一つは「富士山がよく見えること」とか。
往路タクシーを拾った等々力駅の「等々力」は「トドロク」と読む。滝や川の水が流れ落ちて響くから「トドロク」いう。「等々力」は多摩川の轟々と流れ落ちる音が聞こえる処。秦野の東田原(ここも寺山の隣りの地区だが)に、「轟坂」という地名がある。かつて金目川に流れ落ちる滝があったところから生じたと言われる地名である。
帰宅ラッシュに身を任せながら、きょうの『小さな旅』を振り返り、《現役》感に浸った。午後10時少し前、最終のバスで帰着。
2008年6月1日更新
5月27日の日記 バライチゴ
詩人田村隆一が言った。「われわれの文明が、この地上でもっとも破壊したものはなんでしょうか。無数の人間、おびただしい物量、多くの都市と寺院。それにも拘らずあなたが詩人なら、それは言葉と想像力だったと答えてくれるでしょう」。
竹の子の季節が近づいた。それで、今朝は竹薮に入る道の草刈りに出かけた。「久しぶりの出番!」と刈り払い機は機嫌よくうなる。今、刈り倒そうとする草むらに赤く輝く実がいくつも。バライチゴ、クサイチゴだ。一瞬ためらったが、そのまま刃を押し込む。子供の頃、茂みの中に見つけたバライチゴ、クサイチゴ、キイチゴは、まるで宝石のように輝いていた。それを、今日は口にすることはおろか、指で触れることさえしない私に気づいた。寂しかった。
帰ったら栃木ヤスエさんから俳誌『日矢』が届いていた、こんなたよりも添えられて…。
今日夕顔の芽がひとつ出てきました。先生から一本いただいてから十年になります。三月三十日、清水基吉先生が亡くなられました。武先生の影響を受けで始めた俳句も、もう九年が過ぎようとしています。月日だけが過ぎてしまいましたが、武先生に見ていただきたくて始めた俳句によって、清水先生との出会いがありました。さらに清水先生との出会いから広がったいろいろな人との出会い、こうした出会いに感謝しています。
清水先生の『日矢』に、思い出をこのような形で残させていただきました。これで一段落というわけではないのですが、この後俳句に身が入らず困っています。
花へんろ
栃木ヤスエ
旅はじめ瀬戸大橋は朝霞
降り立ちて伊予路は花の盛りなり
石鎚の峰の続きや遍路道
辛夷咲く人里遠くなりにけり
歩を止めて春の音聞く山路かな
空海の修行の跡や花の冷え
トンネルを抜けて讃岐の四月かな
徒遍路紋白蝶に越されけり
亀鳴くや般若心経そらんじる
春の山猿に聞かれてゐる弱音
春昼や瀬戸の小島に日矢射して
冷しうどんすする善通寺通りかな
朝駈けの屋島詣や風光る
門前の蓬団子を買ひにけり
竹林のざわめき春の風立ちぬ
鐘撞いて志度寺の桜散らしけり
嫁ぐ子の幸せ願ふ遍路かな
それぞれの人に道あり花へんろ
旅果てし高野参りに春惜しむ
遍路杖納めて旅の終りなり
「あとはお母さんと歩くことにするわ」
自転車での八十八ケ所巡りから帰ってきた娘は事もなげにそう言うと、六十番札所からは空白の納経帳を開げて見せるのです。残りの二十九ケ寺、二五〇キロもある道のりを一緒に歩こうという思いがけない申し出に私は二つ返事で答え、密かに体力を養い春を待ち望んでおりました。それから半年、結婚式を三ケ月後に控えた娘と二人、夜桜で賑わう品川からの夜行バスに揺られ、愛媛県東予市に降り立ったのは三月も終りの朝のことでした。
一日に二十五キロ。万歩計はゆうに四万を越え、肩に重い荷物と棒のような足に出来たマメは治る暇もなく、ひとつ越えればまた次の札所へとひたすら歩き続ける日。そんな繰り返しの日も、しだいに山門を潜る時の胸の高まりや、大人になつた娘の励ましに歩くことの喜びを感じられるようになりました。見知らぬ人との出会いの楽しさや、自然の美しさを心に刻みながら、巣立ってゆく子と過ごした貴重な十二日間でありました。
それから二年後、二度にわたる主人とのレンタカーでの札所巡りで無事結願を果たし、足かけ三年がかりの私の八十人ケ所巡りは終りました。
昨年の今ごろ、彼女の作品に感想を書くことになった。生きることに馴れてしまい、感動に鈍くなった私には難しいことだった。それで付句(七七を付けて)を真似て感想に代えさせてもらった。
ぼうたんのくれなゐ深き夕べかな 長き一日短き一生
平凡といふ倖せや時計草 秋はいつものごとく来るらし
枇杷熟れて鴉きてゐる留守長し 今日一日は人語を聞かず
灯台はすでに点りて走り梅雨 長考の友棋士の顔して
麦秋や電車ごっこの客となり 古里が見ゆ幼どち浮かぶ
新茶汲む子はそれぞれに家もちて 声太く母となりてをりたり
自転車を止めて見ている投網かな 光引きつつ蜻蛉流るる
2008年5月1日更新
昨日の秦野・東中の講座で500回
「新聞づくりは仲間づくり」を信じ もうしばらく行脚を続けます
北は尾花沢、南は別府。様々な広報、新聞の作り方講座を開かせてもらった。何より幸せなことは、大勢の人と出会えたこと。きのうの東中の新聞講習会がちょうど500回目。校長先生や新聞担当の先生が、東中の講座が500回であることをたいへん喜んでくれた。そんなこともあって、少しボルテージの上がった話をしてしまった。帰ってきて「今日もまた失敗だったな」と反省するのはいつものこと。毎日の早川記者の取材を受けたとき「500と言う数字に特に意味はないのでしょう?」と聞かれた。とにかく「新聞作りは仲間づくり」を実感しながら、もう少しこの歩みは続けたいと思う。
新聞づくり講座のエピソード
◆尾花沢市の宮澤中学校へ学校新聞づくりの指導で出向いた。8月の末の尾花沢まつりの日だった。校長室で校長先生としをしていたとき、どうぞと勧められたのが、尾花沢名産の西瓜だった。なんと二分の一個なのだ。驚く私に、「これがこちらの食べ方ですので」と校長先生はにっこり。二分の一個をスプーンで懸命に掬って食べた。西瓜の尾花沢は『花笠踊り』の発祥の地である。その踊りが披露されるのが尾花沢まつりだ。その夜、祭りを楽しんでいた私を見つけ「あっ、武先生だ」と宮澤中の生徒たちが集ってきた。
◆講座の後、たいていの会場で質問の時間が設けられる。ある会場で「先生は君が代について、どう思われますが」と問われた。「想定外!」と思ったが、考えてみれば、学校教育の問題だから、一生懸命答えた。別の会場ではこんな質問も。「PTA広報に広告を載せたいのだが、お考えを」。
◆教育評論家のM女史がPTA論を述べ、その後が私のPTA広報講座だった。会場から去り際、Mさんが「武さんの話を聞きながら、どんなふうにまとめるのかって、とても気になっていた」とにっこり。かなり、乱暴なことを話していた30年くらい前の私の講座。
◆3年前から始まった柏市での年2回のPTA広報づくり講座、この2月で6回を終えたが、Aさんは全6回参加された。Aさんは平塚市にある大学の先生で、講義のある日は柏市から秦野市に通う。私は、講座の日は秦野から柏へ。そんな親近感もあって、毎回控え室に顔を見せてくれた。2月に会ったとき「子どもが義務教育を終わるので、これでPTA広報も終りです」と挨拶をしに来てくれた。少し寂しかった。
◆神戸での学級新聞づくりの講座。講座の終わった私に近づいてくる女性がいた。初めて担任したときの生徒Rさんだった。和歌山に嫁いでいたのだが、新聞で私が来ることを知り、会場に来てくれたのだ。県内のある会場では、花束を持って来てくれた教え子もいた。私か「Mちゃん、Mちゃん」と可愛がっていた隣りの家の女の子が、広報委員長として参加してくれた会場もあった。数年前は、隣組のSさん、向こう隣のYさんが、私の目の前で講座を受けてくれた。
◆遠い会場は宿泊が必要になる。柏市もその一つだが、柏市に住む新聞教育に携わる先生たちが前夜集って歓迎会をしてくれる。「明日を控えて英気を養う」ということ。9時になると「先生は、もう『おやすみなさい』です」と追い出される。後ろ髪を引かれる思い!
◆82名の青年を集めた2泊3日のロータリークラブの丹沢での野外研修会。その研修のまとめを手書きの新聞で、と提案した私。一日目の夜、新聞づくりの講座を開いた。実際の活動で班の編集長を決めるのにかなりの時間を要した。二日目の研修が終わったとき、「計画は甘かった」と後悔した。そして恐怖感にさいなまれた。計画の失敗を補うため、私は徹夜で新聞を作った。私の作った一枚でお詫びをするつもりだった。だが、三日目の締め切り9時半までに2紙、9時55分までに5紙、そして10時55分に1紙ができた。「新聞づくりは仲間づくり」を実感しただろう彼ら、そして私。私の作った新聞『札掛』は幻となった。
◆ある会社の社内報の創刊にかかわったときの話。会議の後、夜の街に繰り出し“ごきげん”になり過ぎ、翌日車を取りに行く破目になったこともある。
2008年4月1日更新
『東中新聞』の卒業記念号は6ページ
3月28日 今年の広報委員長の阿南さんが来年度の委員長の千秋さんを案内してきた。今年の『東中新聞』の卒業記念号は手書きB4判6ページ。阿南さんが中心で作った。その紙面に「りえこ先生へ 頼りない委員長だったけど、この一年は一生忘れない最高の思い出です。これからも東中の新聞のために走り続けてください。 あなん」とある。
今、阿南さんと千秋さん入学式に配る「新入生歓迎号」をで作成中とか。千秋さんはもうかなりの意欲。「『発行が多いからイイ新聞』とは言い切れない。発行することばかり気にして、記事が流れてしまう。じっくり新聞を作りたい」。
『東中新聞』の第855号の1面
新たな夢を求めて ボン・ボャージュ!
7年前の春、東中学校を卒業した鎮西真裕美さんから手紙をもらった。
武先生お元気ですか。私は今充実した春休みを送っています。そしてもうすぐ高校生になります。この春休みに中学校生活の日々を思い出してみました。短い三年間なのに多くの出会いと経験をしました。たくさんの出会いのお陰で、私は大きく成長できたと思います。その中でもっとも大きな出会いと経験は新聞づくりです。
東中新聞に出会ったのは三年前の入学式の日でした。初めての中学校生活に不安を抱いていたその日、私は東中新聞の「入学おめでとう号」を手にしました。その新聞を見て驚きました。私に中学校生活を期待させる内容、そしてきれいで読みやすい新聞。小学校とは違う! 私は迷わず広報委員に立候補しました。そして新聞講習会で武先生と出会いました。先生は私たちに「知らせられないことの恐ろしさ」を話し、だから「知らせることが大切」と新聞の使命を鋭明されました。新聞づくりの具体的な技術を教わるものとばかり考えてた私は、新聞の持つ意味、果たす役目を知りました。
広報委員会では先輩たちを見ながら新聞づくりの流れを学びました。それを学級に活かそうと学級新聞をつくりました。今見ると全くひどいものです。マス目を無視したレイアウト、下手な文字、小学生っぼい内容と記事。しかし、これが私の新聞づくりの出発点でした。
あれから三年、私はたくさんの新聞をつくりました。ファイルされたものを見ると、上達しているのがわかります。私がライターを担当したのは33部。こうして新聞をつくっていく過程でいろいろなことを学びました。東中新聞では、必要とする情報を多く、すばやく報じました。私のクラスの学級新聞は、クラスの団結力を高める役目をしました。新聞を班でつくると仲良くなれるんです。「新聞づくりは仲間づくり」ですよね、先生。「良い学校は良いクラスから。良いクラスは良い班から。良い班は良い新聞から」。これが私が新聞づくりから学んだことです。考えたことです。新聞づくりってすごいと思います。
三年間続けた広報委員会では、夏休みにも登校し、何度も何度も記事を書き直したりレイアウトをやり直したり、とても苦労しました。でも、いつも一緒にがんばってくれる仲間がいました。「新聞って一人ではつくれないんだ」と思いました。
三年生の時、その努力が実り、『東中新聞』は全国コンクールで50回記念賞を受賞しました。クラスの学級新聞『圭吾でGO』も入賞しました。東中の伝統を受け継ぐことができて、とてもうれしく思いました。「努力は人を裏切らない」ですよね、先生。東中にはこれからもずっと新聞をつくり続けてほしいと思います。新聞づくりを通してもっと良い学校にしてもらいたいです。新聞をつくることは、学校を変えるほど大きな力を持っていると信じています。
私のモットーは「夢と生きがいを持つこと」です。この三年間でたくさんの夢を見つけました。三年間の生きがいは新聞づくりでした。協力してくれない班員に手を焼いたり、締め切りに追われて夜明けまで必死だったことなどたくさん苦しい経験をしました。でも新聞づくりをやめたいとは思いませんでした。それは、そんなに苦労した新聞がみんなに読んでもらえるからです。新聞づくりに出会えてよかったです。
明日から新しい生活が始まります。これからもたくさんの出会いがあると思いますが、新聞づくりはやりたいと思っています。またお話を聞かせてください。いつかおじゃまします。それではお元気で。
2001年3月31日
鎮西真裕美
鎮西さんが書いた大学の卒論は『学級新聞作りの可能性―秦野市の新聞教育の現状とこれから』だった。その「はじめに」と「おわりに」を紹介する。
はじめに
学校生活が楽しく、豊かに有意義であるということは、教師や子どもみんなが願うことである。学校生活には学校行事や部活動、学級活動などのさまざまな活動がある。学校生活における基本的な集団は「学級」であり、学級を中心として子どもたちは学校生活を送っている。楽しい学校生活を送るためには、いかに学級が楽しいものかにかかっているのである。
そのためによい学級をつくるための手段として、学級新聞活動を盛んに行っている学校がある。子どもは新聞をつくる過程で、話し合うこと、協力することの大切さを学び、書く力を身に付けることができる。さらに、つくられた新聞を読むことによって、一つの社会の中で自分の意見を言えるという民主主義のルールを学び、子ども自身が問題を見つめ、解決しようと取り組むなど、集団が高まっていく。子どもと教師の理解が深まり、家庭との連絡が密になるという効果もある。集団が育ち、子ども個人も育つのが新聞づくりなのである。
自分自身も中学生の時に経験したこの新聞づくりによって学校生活を充実させることができたと考えている。私は中学3年間の中で最も大きな出会いと経験を「新聞づくり」だと当時の先生に宛てた手紙の中の文章に残している。「良い学校は良いクラスから。良いクラスは良い班から。良い班は良い新聞から。」という言葉を掲げ、新聞づくりに専念していた。この活動を通して、クラスの団結を高める役割を果たしていた ということも感じていた。また広報委員として学校新聞づくりにも積極的に取り組み、全国コンクールにも入賞することができた。自分の母校にはこれからもずっと新聞をつくり続けてほしいということ、新聞づくりを通してもっとよい学校にしてもらいたいといこと、新聞をつくることは、学校を変えるほど大きな力を持っていると信じているということ、これらのことを私は強く思っていた。
しかし、時間の確保が困難なことや、教師の指導力不足などの問題から年々発行数や各学校の新聞づくりにかける予算が減少している。コンクールの時だけに新聞をつくるという学級も少なくない。新聞づくりの伝統校である母校でも負担が大きすぎることから新聞づくりを辞めようという声まで上がっているという。こうした現状について調査し、新聞づくりの価値を改めて認識し、多くの先生たちに認めてもらえるよう主張しようと思い、この論文を書くことを決意した。
おわりに
私はこうして学級新聞づくりが学級づくりにどういい影響を及ぼすかについて調べてきたが、実際に中学生のときに感じていた効果だけでなく、なにげなくつくっていた中で、気づかなかった影響や担任の意図を知ることができた。ただ単にクラスをよくしようといぅ気持ちを持つだけでなく、新聞をつくることがクラスを見つめるきっかけになっていたということは今になって気づいた効果である。そして残されていなかった新聞は残しておくべきだったと強く感じた。残されていた新聞を一つひとつ読み返していきながら、私が有意義な学校生活を送ることができたのも、新聞をつくる過程で自然に学級や学校のいろいろなことに目を向けることができたからだろうと改めて感じることができた。
ここまで卒業論文を書く過程で、多くの先生と話す機会を得た。様々な人の考えを聞くことで今まで自分が考えていたことがさらに深まり、論文の方向性も見えてきた。時には、期待を裏切られるような意見を聞くこともあったが、現実としてしっかりと受け止めることができた。自分が考えているようにうまくはいかないということを様々な場所に足を運び、様々な人と話すことによって感じた。それでも、頑張って活動している人の話を聞くとやっぱり価値のあるものであり、続けていくべきものであると思う。そして、私がこのような環境で育つことができたことに感謝したいと思った。秦野の教育の特色である新聞づくりを経験させてもらえる学校の環境、それを整えてくださった先生に感謝している。今、中学校で新聞づくりに熱中している生徒もこの中学校でよかったと言っていた。私もこの中学校でよかったと思っている。秦野市で、この中学校で新聞づくりができてよかった。そのことを今度は私が子どもたちに教えてあげたい。
私は、4月から教師として自分の学級づくりの手段として学級新聞づくりを取り入れたいと考える。それは私自身が秦野の新聞教育に誇りを持っているからであり、そのことを子どもと共有したいと考えるからである。こうした意識を秦野の教師に持ってもらうことで秦野の新聞教育は生きていくと考える。
最後に、この論文を書くにあたって資料収集から調査まで、武勝美先生を始め多くの先生方の協力があったことに深く感謝します。調査を通して様々な人と出会えたことに、自分を支えてくださる人々のありがたさを強く感じました。
そして2008年3月7日、彼女からメールが届いた。
こんばんは。昨日の校長面接で配属先の小学校がわかりました。K小学校になりました! 近くてよかったなぁとほっとしています。校舎もきれいで、校長先生も女の方でとてもいい人でした。児童数は500名。2年生の2クラス以外はみんな3クラスあります。子どもも比較的落ち着いていて、地域の方たちとの連携も強いようです。同期の先生も一人います。心強いです。何年生の担任になるか楽しみです!
待ちに待った車も昨日納車でした。練習で学校まで行ったら、夜だったこともあって15分くらいで着いちゃいました。朝はもっとゆとりをもたなくてはいけません。新しいスーツやジャージ、腕時計など、新生活グッズを揃え始めています。大変だとは思いますが、今は楽しみな気持ちでいっぱいです。あと2週間ほど学生を楽しみます。
今日は4月1日、鎮西真裕美さんは新たな夢を追う生活を始める。ボン・ボャージュ!
2008年3月1日更新
教育は百年の大計
柔らかな雨が淡い若緑の芽を濡らす4月。6月、緑が濃くなり始めた梢から聞こえるアオバズクの鳴き声。晩秋、晴れ渡った空にそびえる大山を背に、輝く金色の尖塔。やがて与謝野晶子の歌うように、その金色は「ちひさき鳥の形して」散る初冬。そして、巨躯がそのたくましい素肌を見せる厳冬。
寺山に生まれ育ち、幸せにも東中学校で仕事をさせてもらった私には、東中学校の校庭に立つイチョウの木は、今もいつも視界の中にあります。東中学が開校して62年、ここに学んだ7000を超える生徒が朝夕眺めてきた樹齢300有余年のイチョウは、東地区民の心のよりどころとなっています。そして、市制50周年記念事業の『ふるさと秦野 景観一〇〇選』に登録された「東中学校の大イチョウ」は、今や秦野市民が大切にしている景観、護っていかなければならない文化的資源です。
そのイチョウが、新体育館の建設により、子供たちの教育活動に支障をきたすということで伐採されるかもしれないようです。漏れ聞くところによれば「邪魔な木、駄木」との声が一部関係者の中にあり、「伐採ありき」で論議されているとのことです。「大きいから、樹齢300年だから価値があるのか」、と聞かれれば、「300年を生きた命だから価値がある」と私は言います。「文化的・歴史的な意味をもった木ではない」という声には、「開校以来子供たちを見守り、また、いつも子供たちの視界の中に在ったというだけで価値がある」と応えます。イチョウの現況維持が困難であることは理解できます。しかし「移植にかかる経費、加えて移植が成功するかどうかも分からない、だから伐採」いう論にはどうしても組みせません。
平成22年に秦野市を会場として全国植樹祭が行なわれます。秦野市民のエコロジー、地球温暖化への具体的行動としても、東中学校の大イチョウの生存を考えたい私です。「教育は百年の大計」と言われます。イチョウを伐採するのも、学校建設という中での「百年の大計」でしょう。でも、可能な限りイチョウを生きさせる努力をするのも「教育の百年の大計」と思っています。学校は命の大切さを学ぶところ、そして命を育むところです。樹齢300年のイチョウの命を永らえさせることは、その大いなる実践です。 武 勝美
2008年2月1日更新
先憂後楽
このご時世に6万5千円のベースアップを申し出た人たちがいる。歳費月額43万円の議員さんたちである。新聞などの報道によれば、7会派のうちの6会派による共同での要望とのこと。その要望書に書かれている歳費引き上げの主な根拠は、@11年間据え置きだったから A若手、中堅議員が増え、報酬が生活給的意味を強めているから B議員定数を過去4人減らしたから、だとのこと。
ここ10年間の我が国の経済情勢から見れば、給与が据え置かれているのは恵まれていると言えるのではないか。 Aのようなことを若い議員が言ったとしたら悲しい。「霞を食って生きているのではない」とおっしゃるかもしれない。もしかしたら「衣食足りて礼節を知る」とおっしゃりたいのかもしれない。だが、あなたたちは高邁な志を抱いて政に参画した。選挙中に示した約束を思い出して欲しい。選挙が終わってまだ1年も経っていない。報酬とは働きに応じたもの。あなたたちが、私たちにしてくれたことを見せて欲しい。聞かせて欲しい。Bの「4人議員が減ったから」という理由は、市の財政がどうであろうと議員の歳費という大枠は減らせないという既得権を確保したいということ。それに、うがった見方をすれは、減った4人分の歳費の山分けではないのか。
過日のY紙に「国民年金 40年完納して月額6万9千円」とあった。6万5千円を稼ぎ出す主婦の労働の実態はご存知だろう。ネットカフェで生活せざるを得ないような派遣社員の雇用と賃金の現実>。ある人が言った「あと10年で今の給料が6万5千円増える? 無理!20年経っても無理。減らないように懸命にがんばるだけ」。この言葉を裏付けるかのように、「昨年の給与年収は減った」と今朝の新聞は報じている。
今日からまた食料品が値上げになった。この歳費値上げの要求は、“便乗賃上げ”ではないか。「先憂後楽」は為政者のもっとも心がけなければいけないことと言われている。諮問を受けた審議会が継続審議としたのは当然であろう。首都圏のある自治体の話である。
2008年1月1日更新
2007年のおおつもごりの夜に
今日は2007年のおおつもごり。掃除機をかけていた妻がつぶやいた。「ばあちゃんが、また遠くなった…」。和室の畳の上に、母が過ごしたベッドの脚の4つの丸い凹みがあった。その凹みが消えかかっている。
母が逝って間もなく1年になる。「父がいなくなってから10数年間、87歳まで一人で共働きの家を守っていてくれた。これからは母の残った時間を共に過ごしたい」、そう言って再就職の話を断った。かっこいい言葉だが、実は自分のやりたいことをするというのが本心だった。母を口実に自分の好きなことを始めただけ。その一つが『エコー教育広報相談室』の開設だった。
この10年間、確かに私は母の傍にいた。家にいる日の三度の食事は必ず一緒にしたのだが…。「本当に母のことを思ってそうしていたのか」と、今自分自身に問い直せば、“否”が近い答えになる。
母はソバが好きだったから、時々乾麺を茹で食卓に乗せた。チラッと私を見て箸を取り、すすり始める。だが、盛った半分も食べないうちに箸を置き合掌する。「もうご馳走様なの」と私。その声はたぶんとがめだてだったろう。母はうつむいたまま小さくうなずく。声は発しなかった。母の体力が限界に近づいた頃、私はようやく気がついた。ソバをすすりこむ力が肺にない、ということが。
96歳だった暖かい冬のある日、庭に向っている縁側の辺りで異様な音がした。車椅子で、しかも家族の誰かが抱えなければ絶対乗らないほど、一人で歩くことに恐怖感があるのに、母はベッドを抜け出し、障子、ガラス戸を開け、犬走りに降りた。そして戸袋、壁、ガラス戸を伝って8メートルほど歩き、縁側に倒れこんだのだ。
「どうしたの。何してるの」
「草むしりをしないと。兄ちゃん一人じゃ大変だから」
「転んじゃうじゃないか。また痛い目に遭いたいのか」。
怒りを込めた私の言葉に、「私 どうしたのかしら。ごめんなさい。もう…しないから‥」と泣き出した母。
「老いた親への息子による家庭内暴力が多い」という類の話を聞くと、母への想いと共に心がさいなまれる。実の親子ということでの互いの甘え、そしてそれまでしてきた生活とのあまりの違いに、母も家族も悩み、苦しんだ。更に、そしてときに心の中に生じる「自分の時間が無くなる」という焦燥感と葛藤もあった。これが家庭での介護の現実のなのだ。
『エコー』205号(2003/6/1)で、私は「傷つきやすい老人たち
〜もし私が痴呆性老人になった時〜」(Jessy
Hjort Hansen 訳・千葉忠夫)という詩を紹介した。それなのに、私してきたことは…。「親孝行したい時には親は無し」という月並みな言葉が身に染み入る。
傷つきやすい老人たち 〜もし私が痴呆性(認知症)老人になった時〜(抄)
私が痴呆性(認知症・以下同じ)老人になった時、あなたは私に静かに話しかけてください。さもないと、あなたが私を叱りつけているように感じ、恐くなってしまいます。あなたは何のために何をしようとしているのか私に話してください。そして私に簡単な選択をさせてください。私が何を選択しても受け入れてください。
私が痴呆性老人になった時、私がパニック状態に陥ることがあります。それは同時に二つ以上の事を考えなければならない時なのです。その時は私の手をしっかりと握って、私が一つのことに集中できるよう仕向けてください。
私が痴呆性老人になった時、私を落ちつかせるのは簡単です。言葉ではなく私の手をとって少し揺り動かすか、あるいは私のそばに静かに座っていてください。
私が痴呆性老人になった時、私は不明瞭な抽象的なことは分かりません。あなたが言っていることを自分の目で見、手で触り、感じたいのです。
私が痴呆性老人になった時、私はいろんな事が分からなくなり、他人を理解することが難しくなります.声を和らげて私を見つめて言ってくれると、私は耳を傾けやすくなります。言葉は長くしないで短く簡単にしてください。私が理解しているかどうか確かめるため、ときどき止めてください。私にたずねる時は一つずつにしてください。長い解鋭をされても私はそれを憶えることができません。あなたが私に話しかけるまえに、私を見つめて、私に触れて、私に徹笑みかけてください。
私が痴呆症になって知識が退化していっても私の感覚は衰えていません。多分あなたが想像するよりも私の感覚は鋭いかもしれません。私は美しい物、絵、夕焼け、そして美味しい食べ物が大好きです。私はあなたよりも強い刺激を求めます。私はビロードの布、動物の毛、絹衣、滑らかな木に触ることや、水の音を聞くのが大好きです。私はこういった感覚が味わえることを沢山したいのです。
母の喪中のための葉書を出しら、何人かの方から改めてお悔やみと励ましの言葉をいただいた。それらの中に「介護は実際に携わった人でなければその大変さは分からない」という趣旨のことが書かれているものがあった。励まし言葉としてお受けしてはいるのだが、「よく介護されました」などと言われると臍を噛む思いになり、居た堪れない思いに駆られる。
88歳で白内障の両眼の手術を受けた。左目の眼帯がはずれたとき、「もったいないから、そーっと眼を開けよう」と言った。そして右目の手術が終り、いよいよ眼帯をはずしたときのこと。「厚子さん、あの字がはっきり見えるよー。読めるよ!」と、病院の駐車場の奥にある看板を指差して歓喜の声を上げた。あのときの母の声が今も耳に響いている。
2007年12月1日更新
秦野園芸愛好会の研修旅行
晩秋の秩父から甲州へ 長瀞・秩父札所巡り・昇仙峡・風林火山博・武田神社
園芸愛好会ならぬ《演芸愛好会》の旅
菊づくりを楽しむ教員OBが集って作った会が「秦野園芸愛好会」。「先生だけで群れて、」と言われそうだが、昔話はやはり学校のことが多いし、何より同じ地区で仕事をしたという仲間意識が働いているので、会員の誰もがこの会は大事にしている。そして、研修旅行は会員の最大の楽しみである。
今年が数えて8回目の研修旅行は『秩父札所巡りと風林火山博』。11月15日、バスカードの不具合で出発の7時30分に間に合わなかったのは私だけ。山北町や平塚から参加された皆さんに申し訳なかった。
東名高速道に入ると、直ちにビールで乾杯は例年どおりのこと。一日目は先ず長瀞の舟下り。岩畳から眺める静かな流れが、秋の陽光で一層その碧を増し、対岸の黄葉を濃く映していた。
続いて秩父札所巡り。一番の四萬部寺は山門からの眺めに風情がある。裏山の紅葉は真っ盛り。第三十四番の水潜寺は深い山中にあるので、午後2時なのに日陰っている。参道に祀られている百観音にそれぞれ名があることを知った。この寺は秩父札所巡りの結願寺、また日本百観音の結願所でもある。私たちの参拝は途中の32カ寺は省略、一番と三十四番だけ。これではあまりご利益はいただけないのではないかと思うのだが、僧籍を持つ会員もいることなので、なんとかご慈悲をいただけるようにと祈った。
秩父から雁坂トンネルを抜け、西沢渓谷の紅葉を車窓に見ながら今宵の宿・石和温泉へ向う。甲州は今、紅葉とワイン、そして火山博なので、平日なのにホテルは満室。皇居に奉仕作業に行ったという300名ほどの女性の団体と同宿。この団体の名称は、某参議院議員の名が冠となっていた。夜の宴は、園芸愛好会ではなく《演芸愛好会》。19名中マイクを握らなかったのは4名だけという盛会ぶり。
第二日は8時前からワインの試飲。ボジョレ・ヌーボーが昨日解禁ということで、この工場も自社のヌーボーの宣伝に抜かりは無かった。つられて4本を買う。40ほどバスに揺られ昇仙峡へ。落葉樹の黄葉が鮮やかだった。1時間の見学予定なのに、40分で歩いてしまったので、初めて参加したKさんが、「なぜもっとゆっくり見ないの。初めて参加だから一緒に歩かなきゃ悪いと思ったけど」と言う。「年寄りは転んだらお終い。下を向いて一生懸命歩いていたんだよ」とYさん。
甲府の街中で開かれている「風林火山博」を見学。大河ドラマのお陰でにぎわっている。熱心に見学し過ぎた数名が集合時間にバスに戻らないので、幹事が「秦野園芸愛好会の皆様、出発のお時間ですから…」と呼び出し放送をかけた。「この会は有名になったよ」と、バスで笑いながらビールの缶を開けるTさん。
お昼はホウトウ料理。出された鍋を見て「二人で一鍋でいいのだけど」と、冗談に言ったらマトモに断られた。《もったいない》世代だから、ビールのコップを左手に、がんばって完食。美味しかった。この店に、「季節限定」と銘打って『月の雫』が並んでいた。生のぶどうの粒を砂糖で包んだ菓子が『月の雫』。高校の遠足で昇仙峡にきたとき初めて口にした。甲府駅前の旅館に泊まり、その夜火事に遭遇したことを思い出した。最後に武田神社に参拝。境内のいろはもみじが紅葉していた。なぜか、島崎藤村記念館が境内あった。
帰りの車中もまた、漫談、放談、身延山の寺院の出であるHさんの法話も拝聴。二日間で口にした飲み物は、ビール、ワイン、日本酒、焼酎。“その量は量り知れず”であった。旅の終わりにMさんから、「いい企画の旅でした」と言ってもらい少し安堵。(写真をギャラリーに掲載)
2007年11月1日更新
四国 食い道楽の旅
10月8日
瀬戸内海に映える夕日をバスは、しまなみ海道を走る。この日の宿は今治。世界初の三連吊り橋・来島海峡大橋のライトアップを、正面に大きく切り取って見せてくれる『伊豫水軍』の座敷で夕食。
「水軍料理」と名付けられた海の幸がところ狭しと並ぶ。舟盛りのメインは鯛の活き作り。鯛、ちぬ、サザエ、ハマグリ、マツタケなどを塩焼きする法楽焼。鯛の兜焼き出た。東予(今治・松山地方)の鯛飯で〆。鯛の炊き込みご飯だった。
10月9日
朝食はバイキング、生タコ、ジャコ天の揚げたて、大根おろしで生ジャコ(かたくちいわし)。小さいが甘いミカンも。木原家の庭の柿をかじる。松山城で坊ちゃん団子。黄身の団子が喉に絡んであわてた。
昼食は道後温泉ハイカラ通りの『味倉』で南予(宇和島地方)風「鯛飯」。ご飯の上に鯛の刺身を乗せ、とろろ(なま卵が定番とか)と特製のだし汁をかけ、まぶして食べる。並んで待った甲斐があった。
高知に向う途中、「道の駅みかわ」でリンゴ、山葵のソフトクリーム。ここは久万高原町と言うらしいが、杉の深山。だがリンゴが栽培されるのだから高原。道の駅の脇を流れる清流は仁淀川。
太平洋に注ぐ仁淀川に沿い、車も高知を目指す。深いV字形の谷底を覆う大小の石がみごとな景観をなしている。「庭石にしたいねえ」と言ったら、谷から引き上げ、町に運び出す経費を計算したら無理とのこと。峡谷から一挙に立ち上がる尾根に見える家々に、この地での生活の厳しさを想像した。
今夜は高知・城西館に泊まる。夕食は鰹のタタキと皿鉢料理。この夜も魚尽くし。あまり好きでなかった鰹のタタキを「お代わり」をした。だが、鰹の酒盗は一箸だけで…。土佐鶴と司牡丹を飲み比べた。酔った。
10月10日
三日目、桂浜で朝からユズのカキ氷を食べる。高知、愛媛、香川と走り、瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道)を渡り岡山へ向う。与島SAで昼食。イイダコのから揚げ、炭火のあぶりたてのジャコ天、鯛のチクワをテーブルが並ぶ。香川だから、さぬきうどんとタコ飯を注文。
この四国行きは大学の同期の三人・尾花沢の笹原氏、東村山の西澤氏、秦野の武。今治の木原氏の招待。2日間運転をしてくれたのは木原氏の教え子の井関さん。
2007年10月1日更新
「千厩小のベティさん」余話 菊池徳夫先生のこと
今月号の『秦野のおはなし』は岩手・千厩小学校の「青い目の平和の使者ベティさん」。
千厩という地名は、1969(昭和44)年8月8、9日に八戸一中が会場で開かれた第12回全国新聞教育研究大会で初めて知った。千厩小学校が大会で実践発表をしたからだ。八戸大会には、東中の同僚井澤尭司先生と参加した。たしか、井澤先生は恐山を回から当日に会場入り。前日に八戸に入った私はウミネコの蕪島を訪ねた。
当時、八戸には秦野に本社がある蓄電池の工場があった。その工場長Tさんは、私のクラスにいた女生徒の父親だった。大会一日目の夜、Tさんは当時高校一年生だった娘さん(私が八戸に行くというので、彼女も八戸に来ていた)と私をクラブに連れて行ってくれた。三人の中で、一番もてたのはなぜか高一の娘さんだった。第1日の昼休みに演じられた「えんぶり」もこの大会の思い出だ。
その年の全国学校新聞コンクールで、私のクラスの『エコー』は中学校の部で「特選」、千厩小の学級新聞は「特選」と「入選」、その指導をされたのが、前述『青い目の…』という資料を下さった菊池徳夫先生である。翌年の同コンクールでも、菊池先生と私のクラスが「特選」だった。菊池先生とこれほどご縁があるのに、言葉を交わした記憶がないのは残念なことだ。
2007年9月1日更新
今年の夏 ダブルピース
車窓に流れていた緑濃い公園の一角を曲がると、突然目の前に色鮮やかな大相撲の幟が現れた。まわし姿の力士が行き来している。
「きょうは新潟場所がここで行なわれるらしいよ」と長男。「ヘー、あの地方巡業なんだ」と私。「そう、きょうはこれから相撲を観る」。「えー?」、妻と私。チケットは事前に求めておき、「チチに、旅先で『大相撲を観る』などと言ったら拒否されそうなので、黙って連れてきた」と笑っている長男だった。
8月17日、午前11時ごろ、私たち三人は新潟市体育館での大相撲新潟場所の正面・枡席に陣取った。力士を間近に見たのは初めてだった。テレビの画面から得ている力士像とはまったく違った。背丈に威圧されることはあまり感じなかったが、肌のつややかさ、張りに驚きを感じた。「鍛えている」と思った。《八海山》を焼き鳥で味わいながら、幕下の土俵を楽しんでいる私に、「北桜があそこにいるから、二人で会いに行ってきたら」と、戻ってきた長男が勧める。
東の花道の奥にフアンに囲まれている北桜関がいた。額の広いのが特徴の関取は、その土俵上での仕草は高見盛と共に人気がある。立会い前の仕切りに大量の塩を撒き、腰を落としてまわしを強く叩き土俵に入る様(朝青龍の土俵が土俵に入る型に似ている)が、観客の大歓声を呼ぶ。
写真を撮らせて欲しいと頼み、「神奈川から来ました」と私。すると「えぇ、神奈川から? ありがとうございます」そして、脇にいたテレビのクルーに「神奈川から来たんだって。シャッター押してやって」と私のデジカメを女性レポーターに手渡す。「誕生日の記念旅行の途中で」と余計な説明をする私。「71歳! おめでとうございます。奥さんも、ダブルピース、ダブルピース!」と私たちを両手のピースで抱えこんでくれた。
北桜関とは2005年12月1日、袋田温泉の想い出浪漫館で一緒になっている。その年の11月場所で勝ち越し、来場所は幕内に戻ることが決まっていた彼は、温泉に連れてきた父親の背中を流していたという。私は、直接は会えなかったのだが、仲間のKさんMさんは湯船で言葉を交わしたことを聞かされた。
北桜関のファンや私たちへの対応を見たとき、彼の誠実さを感じ、土俵上のパフォーマンスだけの人気者ではないことを知った。
母の新盆を済ませた日、長男が「旅行に行こう」と誘ってくれた。行き先は私の希望で、新潟・出雲崎になった。だが、計画し始めた直後に中越沖地震が発生。それでもとにかく、彼の運転で新潟に来たのだった。
北陸道の路面の凸凹が体に激しく伝わってきた。はるかに広がる緑の田んぼの先に、青いビニールシートに覆われた家々が点在していた。
8月18日 テレビ朝日系の「サタデースクランブル」でこのシーンが放映されたそうだ(女性レポーターは川田亜子さん)。知人のMさんから電話で教えてもらった。
2007年8月1日更新
夏の思い出
調べることがあり、40年ほど前の『東中新聞』(1964年10月10日発行)を引っ張り出した。
活版4ページのその号は、第3面で『夏のスペクトル』と見出しを付け、その夏の諸行事の報告がされている。「成果上がった丹沢キャンプ」「富士登頂記」という見出しにあるように、「丹沢キャンプ」と「富士登山」、この二つは当時の東中の生徒たちがもっとも期待していた夏休みの二大行事だった。この面のリードは次のように書かれている。
丹沢キャンプ
緑の山の影に 清らかな歌声の流れる中に 赤々と燃える炎の中に 深いこころのつながりと 生きることのよろこびを見出した日
富士登山
一歩一歩確実に歩み続けることが より高い位置に 一つの目標により近づく唯一無二の手段であり そこでは最後に信頼できるのは 自分だけだった
キャンプといえば飯盒炊爨(カレーライス)、そしてキャンプファイャー、フォークダンス。キャンプファイャーで歌った歌は、「遠き山に日は落ちて」で始まり、「燃えろよ燃えろ」と続き、「鬼のパンツ」「かえるの夜回り」「山賊の唄」「アルプス一万尺」「西瓜の名産地」「雪山讃歌」「静かな湖畔」「カチューシャ」「山への祈り」「いつかある日」「原爆許すまじ」「母さんの歌」「モズが枯れ木で」「浜千鳥」、最後は「今日の日はさようなら」まで。これ等の歌を、五月ごろから週1回、昼休み使い生徒会本部主催で「歌う会」を開き、練習した。キャンプでは、歌詞は暗誦していなければ歌えない。毎年、エールマスターを務めたから、今でもこれらの歌は歌える。
I先生と二人で、青少年会館が夜間開いていた『フォークダンス講習会』に参加し、踊りをおぼえた。札掛のキャンプ場で、子供たちと踊った曲は「コロプチカ」「オクラホマ・ミキサー」「レッドリバー・バレー」「マイムマイム」。(ここに挙げたキャンプソング、フォークダンスのタイトルを懐かしく思ってくれる人が大勢いるだろう)
富士登山は、2、3年生の希望者で実施した。その年は生徒48名、教師10名が富士山頂を目指した。東中の職員の半数近くが付き添った。
この年の二つの行事に参加した私が詠んだ短歌が、この号に掲載されている。今読んでみると、なんとも“消化不良”の歌で恥ずかしい。
石楠花
だけかんば繁れる下に石楠花のうす紅の花陽に透けてみゆ
霧雨の中登り行く道筋にオンダテの花きよく黄に咲く
踏みしめて登り続ける砂礫道背のリュックを幾たびもゆすり
襟伝い流れる汗をぬぐいつつ頂の空の青きを望む
雲海に黄金の波が広がりぬ 昇りくる陽を息つめて待つ
炎
燃え盛るファイアーしばし見つめいる君の瞳に映ゆる炎よ
麦わら帽深く被りて踊りいる汝の手の組みまことぎこちなし
陽の光にブラウスの白きらめきてフォークダンスの円進み行く
流行く飯盒の煙を目で追えばアキアカネ舞う丹沢の空
灯を消してまぶた閉じれば燃え盛る炎の色のよみがえりくる
学校行事の中で、最初に“精選”されてしまったのは登山、そして海や山でのキャンプ。フォークダンスも今は体育祭から姿を消してしまった。今の子供たちには全くなじみのない歌、「ソーラン」の華やかな演舞は大好きな私だが、異性の手に触れるとまどい、はにかみ、そしても心の昂ぶり、そんな中学生の姿をまぶしく眺めていた私だもあった。
7月28日、円通寺で執り行われたMさんの七七回忌の法事に招かれた。帰りがけに本堂をのぞいたら10名ほどの若者の姿があった。山門に「Y先生の合宿の関係者は本堂へ」という貼り紙。学生たちの夏は、キャンプや合宿の夏であることを改めて思った。山門の前の田んぼの緑が濃くなっていた。梅雨明け間近かだ。
2007年7月1日更新
PTA広報づくりに取り組むお母さんたちはステキだ
―しなやかなお母さんたち
「今年は先生紹介号は止めましょう」という担当の先生の突然の言葉に、A小学校PTA広報委員のお母さんたちは動揺した。
多くのPTA広報は、年度の第1号で写真付きで先生紹介をする。A小P広報の先生紹介号も、毎年保護者や子供たちに好評で定番化してきている。新しい年度の委員会は、この号を作ることによって少し自信を持てるのだ。
“ダメ”な訳を聞いてみると、先生の顔写真はプライバシーであり、掲載は個人情報法にも触れるから、とのこと。
お母さんたちの懸命なお願いに、学校側から条件付でゴウ・サインが出た。その条件とは、@学年別の集合写真で、A先生の写真と先生の氏名が一致しないように工夫する、という内容だった。この条件では、広報の役目である『伝える』が果たせない、「どうしよう…」、とお母さんたちは困惑した。
だが、この条件で『年度始め総会』の前日に発行された先生紹介号は、保護者や子供たちに静かな反響を呼んだ。先生を紹介しているページの欄外に、太文字でこんな一文が書かれていたからだ。
「先生の写真と名前が何人一致したでしょうか? 線で結んでみましょう。答え合わせは総会で。」
―軽やかなお母さんたち
PTA活動は年を越すと新年度の役員・委員の選出に向って動き出す。選ぶほうも選ばれる側も、“ゆううつな春”が始まる。この“ゆううつ感”を少しでも取り除こうとしたB小学校のP広報は、12月号の1面に次のような特集を組んだ。
『年の瀬お楽しみ企画・タイプ別診断』(従見出し)、『あなたにぴったりの委員会はコレ!
』(主見出し) 。そして、1ページ全面を使い、自作のイエス・ノー形式のフローチャートを載せている。このチャートは、「PTA活動に日頃から関心があり、除草作業などに積極的に参加している」からスタートし、会員に「あなたは〇〇委員に適しています」、と診断をさせる仕組みになっている。
この特集のまとめは「結果に納得できない方は、もう一度初めからやり直しするか、笑ってお許し下さい。目指すところは『全員参加のPTA』。子供たちのためにも前向きに関わっていきたいですね」とある。
―ひたむきなお母さんたち
都内で行なったPTA広報作り講座の中で、「PTA広報に広告を載せたいが」と質問された。公立中学校のPTA広報に広告はなじまないこと、広告主の選定が難いことなどを答えた。「それにしても、なぜ広告まで取って広報を発行したいのか」と思い、その理由を聞かせてもらった。
その区は学校選択制がとられている。質問をしたC中広報委員会のDさんの言葉によれば“あらぬ風評“から、その年度の新1年生の学級数が予定より1減になってしまった、とのこと。
「わが子の通う学校は、風評のような学校ではない。C中についての正しい情報を区内の全家庭に伝えたい」と広報委員会は燃えた。そして「用紙代がかさむから広告をとろう」ということになった。
豪華絢爛なアルバム型の広報紙は止める。発行回数を増やそう。PTA活動の記事を多くする。取材をして歩くこと。この4つをアドバイスした。
この講座から2年経った4月、Dさんから手紙が届いた。2年間の広報委員を終えた挨拶の中に次のようなことが書かれていた。
旧学区の全6年生の家庭にP広報を配布できたこと。新1年生は3クラス確保できたこと。「PTA活動を取材する広報」に変えて3年目の新年度は予算も4万円アップされた。一緒に活動した副委員長さんが委員長を受けてくれたことなど。そして「広報紙は説得力
があるということを知った。この2年で得たものを、これからは地域で活かしたい」と結んであった。
―現場主義のお母さんたち
PTA広報は子供たちにしばしばアンケート調査をお願いする。
E小学校のPTA広報委員会が行なった調査の中から、「もっと優しくしてほしい」「怒らないで」という声がたくさん聞こえてきた。
子供たちのこの願いをそのまま書いても「月並みな記事で終わる」と、委員15人が《1週間、わが子を怒らない》実験をすることにした。実験の結果報告は“説得力“がある、と思ったからだ。
実験を完遂できた委員は5人だけだったが、その5人のお母さんはわが子に確かな変化を見ることができた。《現場主義》に裏打ちされた記事は、読者の共感を得た。
PTA活動に積極的なお母さんはすてきだ。子育てに一生懸命だから。子育てに頑張るお母さんは、生き方が、しなやかで、軽やかで、ひたむきで、行動的だ。
2007年6月1日更新
きょうという一日に感謝
5月30日 曇りのち雨
午後2時10分から東中学校1年生(120名ほど)の「総合の時間」の授業。今年度の調べ学習のテーマは「東地区の歴史・文化
」ということで講話をたのまれた。『続寺山ものがたり』のイラストマップを資料に、東地区の地名について話した。
導入に東小学校と東中学校の校歌を歌った。かなり驚いたようすの生徒たち。それでも大合唱にはならなかったが、一緒に歌ってくれた。地名の「清水」「上宿」「下宿」、そして「大山道」の話をする。前日(5/29)の朝日新聞の夕刊の広告のページ(見開き2ページ)が、偶然にも「大山」をテーマにしたものだったので、それも使った。こういうのもNIEだと思っている。どれだけ興味・関心を喚起できたのかは分からないが、準備したものは話した。校長室での先生方からの反応はまずまずだったが…。
3時半ころ、大学生のCさんが来る。先週東中学校で教育実習をした彼女は、指導を受けた校長先生から、実習のまとめの一つとして「新聞を発行したら」と助言され、一人新聞を作った。その新聞を届けに来たのだ。
中学時代に発行した学級新聞の題字を使い「復活版」(下参照)と書いている。「こうしてまた大好きな新聞を作れてとても嬉しいです」という一文が、私を嬉しくさせた。
6時半からフランス料理店で、『続寺山ものがたり』上梓と『エコー250号』発行のお祝いの会を開いてもらった。私を含め6人の会。
平成元年に私が市P連の事務局をしたときの役員さんたちが計画してくれた会。1年間の活動を通して心が通い合ったメンバーは、それ以降年2回集りお酒を飲み、オシャベリを続けてきている。いつもは居酒屋だが、「今夜は文化的な会だからフランス料理店で」と幹事役の女性のKさんが、知り合いのお店を会場にしてくれた。ワインで乾杯。「たまにはこういう雰囲気もいい」などと話す3名のお父さんの言葉を耳にしながら、「生ビール、下さい」と私。だが、無かった。
私以外はみな50代後半。議員さん、社長さん、支店長さんなど働き盛りだから、話題は多岐にわたる。話は途切れないので場を移し、結局帰宅は11時半だった。この人たちに出会えたことに感謝。きょうという一日に感謝。
2007年5月1日更新
一期一会
母が入浴のお世話になった訪問介護の会社のSさんが突然訪ねてきた。
「仕事の途中ですが、どうしても八重子さんにお線香を上げたくて、来ました。ずっと思っていました。葬儀に来られなくてごめんなさい」「私が初めてこの仕事をした日に、最初に会ったのが武さんでした。帰るとき、『ありがとう』と言って、手を振ってくれて…」と、しばだたく。
使命感と緊張感を持たなければできない介護の仕事に就いたSさんが、初めて出会ったのが母。その母の死、しかも出会ってわずか数カ月での別れ。
今年になってから、「ありがとう」も、さよならの“両手振り”もあまりしなくなった母が、ある日、両手で精一杯バイバイした。その姿を見たSさんは「武さん、きょうはバイバイしてくれた!」と、心から喜んでくれた。
母の部屋に飾ってある森の石松の人形を見て、「八重子さんは静岡の出身ですか」と尋ねたことがあったSさん。帰り際に、4月いっぱいで退社すると告げた。郷里の伊豆で祖母の介護をしながら、仕事をするとのこと。母との出会いが、郷里に帰ることを決断させたとも言った。
「お線香を上げさせていただいて、ありがとうございました」と挨拶をして帰って行った。
あどけなささえ感じさせる21歳のSさんの小さな微笑に、突然「一期一会」という言葉が浮かんできた私だった。
2007年4月1日更新
詩集『おやと子』 山田 繁代
読者の田中くみ子さんから詩集をお借りしました。ガリ版刷りの28ペーシの『おやと子』というこの詩集は、田中さんのお母さん・山田繁代さんが昭和40年に発行したものです。
昭和4年生まれの繁代さんは、長男が小学校6年の年(昭和39〜40年)に出会った担任から、親子で詩を書くように命じられた(?)ようで、年間52編の詩を書き、ガリを切り、卒業時にこの詩集として完成させました。(当時、山田家は清水市で自転車屋さんを営んでいらっしゃいました。ついでながら、田中くみ子さんは、この3月まで高校のPTA広報委員として3年間活動しました。)
この詩集から、親子、家庭、そして学校教育(先生の力)について、たくさんのことを学ぶことができました。今、私たちの世界は何かが足りないように思えてなりません。四月、出発のときです。山田繁代さんの詞に耳を傾け、新しい詞を紡ぎましょう。
コーラス
先生が「もっと口をあけて」と言うけれど なかなか出でない声…
頭数だけでもと思って練習に出たけど
いつも子ども達をどなっているのどなのに
なかなかいうことをきいてくれない
「先生のからだは細いけど どこから声が出るのかね」と友が言う
ほんとうにこの太いからだからは出てくれない
でもいい気になって声をはりあげている時は
おやじの怒る顔も 子どものけんかもみんな忘れさせてくれる
帰ってきたら くみ子に「お母さん どんな声出すの」と聞かれ くすぐったかった
面 接
今日は面接日 一年 三年 四年 六年
主人に「一人くらい お父さんもらってよ」と言うと「おれは いやだよ」
しかたない みんな私か と思って出かけた
「こことここを 注意してください」
「もう少しがんばらせてください」」
「うんと遊ばせてやってください」
こんな言葉を次々に詰め込まれ ぼんやりした頭で運動場を見下ろしたら
子ども達はソフトボールの練習に夢中だった
川の字
川の字で 親子がねることがある
親と子と 親と子と というものだ
うちの川は、幅の広い大川だ ダブルってとこかな
両岸をはさんで 四つの流れ
その中の流れのひとつが時々大水を流す
その寝顔は 昼間のけんかのようすもなく どの顔ものどか
元気のいい流れは となりの流れとぶつかりあって それでも やすらかに流れている
定休日の夜
水曜日の夜は しずかだ
がやがや言って 女の子三人は二階に上がって行った 寝たらしい
主人はいつもながらの映画だ
私はこたつで子どものオーバーの裾をのばしている
そばで まさるが漢字の練習
国道を走るトラックの音がときどきひびいてくる
「しずかだね」 「うん」
えんぴつの音だけがする
このしずけさの中
私はふと いなかの母をしのぶ
姑の背中をもみながら 昼の疲れで居眠りをしていた母を
詩
机の上にのっている詩帳をペラペラとめくってみた
言いたいことを よくもまあ言っていると思ったが…
そこに 子どもの成長を感じて
いつも だめだ だめだと思っている中に
ちょっと遠くから眺めた一人の六年生を感じた
いちばん初めに書いた先生のこと…
太っていて ちょっと若い という言葉を
鈴木先生を見るたびに思う
ここまで書き続けられたのもみんな、太っていて「ちょっと」先生のおかげだ
ありがとう、と心から思う
制 服
まさると 中学の制服を買いに行った
七号を着せてみた ちょうどよい
しかし 後に男の子はいない
じきに大きくなるから と八号を着せてみた
大きな鏡の中に かわいい中学生が立っている
ホホーと 親のうれしそうな顔も映った
てれくさそうなまさると うれしそうな私の視線が合って
二人は なんとなく 鏡の中で笑ってしまった
2007年3月1日更新
塩ジャケの弁当
二十数年前の話である。
お歳暮に塩鮭をいただいた。わが家にとっては十年ぶりぐらいの珍客″である。なにしろ「お歳暮のシャケは仲人っ子が仲人にとどけるもの」だからである。
七草がゆを食べたところで、鮭をおろすことになったが、大物なのでそれこそ刃が立たない。仕方なく魚屋さんに頼んだ。文字どおりのサーモンピンクに輝く切身の山を眺めて、明治生まれの母がつぶやいた。
「もったいないねぇ、こんなにたくさん」
そして、子どもの頃のシャケの思い出を話し始めた。
「貧乏だったからねぇ、仲人なんか頼みに来る人なんかあるはずないよ。でも、シャケはどうしても冬には必需品だった。おじいちゃんの冬の仕事は、薪山でね。マキヤマっていうのは、よそ様の山の雑木林を立木のまま買って、それを薪に切り出して売るんだけど、買える山は奥の方ばかり、仕事は全部手仕事、大変な重労働でね。だから、せいぜい昼の弁当だけは力のつくものと塩ジャケの弁当と、おばあちゃんが、米のご飯とシャケを焼いて持たせてやってね。うちには、シャケはお歳暮になんて来るはずなかったから、切り身で買ってさ。でもあたしたち子どもの食べる分はなかった」
大きな鮭の頭を手にしながら、母の思い出はさらに言葉となって出てくる。
「毎日おじいちゃんが山から帰ってくるのを、私は楽しみに待っていてね。おじいちゃんは大きな弁当箱をあたしたちに渡す。弁当箱の中にはほんのひと口のお米のご飯と、ちいさい赤いシャケが残されててね、それを食べられることがうれしくてさあ、おじいちゃんは私のために、毎日弁当を残してきてくれたんだってわかったのは、ずっと大きくなってからでねえ」
話し終わった母は恥かしそうにもう一度つぶやいた。「貧乏だったんだよ、ほんとに…」
1月31日午前3時20分、母・武八重子97歳7カ月で永眠。これまでのご厚情に心からお礼を申し上げます。
1月25日
7時少し前から朝食。食べ物がうまく飲み込めない。補水用のゼリーは吸い込んでくれる。亀崎医師の往診を受け、救急車を要請する。
1月31日
午前3時、枕もとの電話が鳴る。「心臓停止状態、すぐ来院を」。きのうの医師の言葉は「一カ月ほど入院して心臓の様子を観ましょう」だった。いつもの穏やかな寝顔。額に手を当てた。温かい。
2月1日
六曜のめぐり合わせで、一日多くこの家にいることができた母。今夜が母がこの家で眠る最後の夜。
夕食の食卓に着く前、長男がいつものように奥の間に眠る母を呼びに行った。「バアちゃん、ご飯、できたって」。大きな声だった。彼は、この家に帰ってきた日は必ず母と夕食を共にしてくれた。夕食前に「バアちゃん、ご飯、できたって」と呼びに行き、ベッドの母を車椅子で食堂に連れて来るのが常だった。
2月3日
旅立っていく母に私が持たせたもの。父への土産として、『追悼武姫百合句集「春惜しむ」』。そして『寺山ものがたり』。二人で読んで欲しいと、5月刊行予定の『続寺山ものがたり』の原稿のコピー。母個人のものとして、本の『笑点』。三橋美智也の「哀愁列車」の歌詞。今、振り返ってみると、日記に頻繁に母の様子が記録されるようになったのは昨年の12月に入ってからだ。
12月23日は「ここ2、3日はハイ、完全に昼夜逆転。夕食はまるで眠っている状態、手足に力が入っていない。口にご飯が残ってしまう。誤飲になりそうだ」とあった。
ちょうど10年前、白内障の手術をした。88歳だった。手術後、初めて眼帯をはずしたとき「厚子さ〜ん、あの看板の字が読めるよー」という歓喜の声が今も耳の中に残っている。
91歳の年にトイレで転んだ。骨折していたはずなのに、それを言わなかった。そして、92歳、再度の転倒で入院。右大腿部の二カ所の骨折で手術を受けた。以降この日まで車椅子の生活でがんばった。骨上げ式で母の足に埋め込まれていた人工関節を見た。そしてその重さを知った。「これが、あの体の中に入っていた!」と、ただ驚嘆するだけだった。「よいしょ、よいしょ」とリハビリに励んでいた。気力、精神力だけでここまで生きてきた、と思った。
2月10日
東公民館と市まちづくり課共催の、3回シリーズ「ふるさと秦野再発見・大山道を歩く」の第1回「坂本道を歩く・路傍の神仏を訪ねて」をきのう実施。定員の3倍にちかい申し込みがあったので、38人という大部隊で歩くことになった。最年少は父親と一緒の小学2年生、夫婦での参加も5組、主流は熟年の男性で、半数は東地区外からの参加者だった。
9時から45分間のオリエンテーション、ここではその日訪ねて歩くコースのポイントとなる石碑などをパワーポイントで紹介した。曇り空の下でのウオークだったが、それほど寒さは感じられなかった。3時に無事解散。6時間をもらったので説明の時間も十分取れたこのウオークは、私としては納得できるものだった。
この日訪れた場所、地名『ちょう塚』について、次のようなことを話した。
大山道・坂本道と蓑毛道の合流地点付近、このあたりを『ちょう塚・京塚』と呼んでいる。母がこの「ちょう塚にはお婆が出る」と話したことがある。『ちょう塚のお婆』とは「葬頭河の奪衣婆・ソウヅカの婆」のことのようだ。「葬頭河」とは「三途の川」のこと。
私たちは、この世から去って七日目に秦広王庁に着き、そこで最初の裁きを受ける。ここで、極楽行き、地獄行きと振り分けられる人もでるが、ほとんどの人はそれが確定せず、次の裁きを受けることになる。
ふた七日(死後14日目)に次の裁判所・初江王庁に着くのだが、その手前に三途の川がある。川のほとりに「葬頭河(寺山ではちょう塚)の婆」がいて、死者は着物を脱がされる。(だから奪衣婆)脱がされた着物は川原に立っている衣領樹という木が懸けられる。懸けられた着物の重さで枝はしなうのだが、そのしなり具合により川の渡り方が決められる。
川の渡り方は三通りあるから三途の川で、もっとも罪深い者が渡らなければいけないのが「強深瀬」という深い急流。罪の軽い人は「山水瀬」、最も軽い人は橋で渡れる「橋渡」となる。
1月31日に亡くなった私の母は、今、初七日の裁きを終え、今頃三途の川のほとり来て、ちょう塚のババアに出会っているかもしれない。少なくとも私の知る範囲では、母は「橋渡」になるはず。いや、最初の裁きで極楽浄土に行っている可能性のほうが大。
こうして「ちょう塚」から眺めると、下に小さな川が流れている。あれが「三途の川」になる。川からずっと視線を上げるとゴルフ場のクラブハウスが見える。あの辺りは「地獄ケ入り」という小字名を持っている。左手のゴルフコースの端の辺りは「一徳坊」、その下の田んぼの辺りの地名は「日尻田(聖田)」。こう並べてみると、ここから見える風景・ここに広がる世界(地名から想像できる世界)は、紛れもない十王経の世界だ。
2007年2月1日更新
寺山の冬
菊焚くやまだ火にならぬ煙立つ 勝美
枯菊の整理をし、畑の隅で焚く。冬休みに入った。今日も校庭は少年野球の練習の声が大きく響く。その声を聞き、子供の頃の冬休みのことを思った。
その頃の清水ニワの子供は、冬休みに入ると《モシキ(燃し木)トリ(薪取り)》をするのが習慣になっていた。 朝8時、近所の子供(7,8人くらいだったと思う)は、高等科の人たちに連れられ、小一時間くらい歩いてタコーチ山に行く。「フナヤマ」「シンナシ」と呼ばれるところまで入るのが普通だった。高等科の人が都合で行けないときは「オオイリ」の竹やぶで枯れ竹を集めた。
誰の持ち山なのか知らない山に勝手に入り、クヌギやコナラ、カギッコの木と言っていたミズキなどの雑木を切り倒し《モシキ》を作る。5、6年生にとって、ナタで切り倒し、薪を作るのは大変な仕事。誰も手伝ってはくれない。それぞれが勝手な方向に散り、背負いハシゴで背負えるだけの薪の束を作る。
高等科の一郎さんや一夫さんは、道々刈り取った女竹を割いて作った《ヘゴ》で、薪の束を締める。この人のたちが作るモシキは、小枝を全部切り払った太い枝だけのもの―それを《ナグリ》と呼んでいた―。ヘゴはよく締まるので出来上がったナグリは美しくさえ見えた。まだ竹が割けない私は、持っていった荒縄で縛った。私のモシキは《ソダ》と呼ぶ小枝ばかりのもの。早くあんなナグリを作りたいと思った。
山を出るのは11時過ぎ、途中で二、三回休むが、その場所は決まっていた。「滝の沢」の田んぼの畦、そして「おぼの坂」。清水ニワの家々が見下ろせるおぼの坂はまで来ると、ホッとする。家に着くと、その《モシキ》を、誰かに見てもらいたくて通りから見えるところに積んでおく。 雨が降らない限り30日まで毎朝でかけた。今、思えば、それほど価値のある燃料だったとは思えないのだが、家計を助けていると思っていた。年が明け、4日からまた山に行ったのだが、暮ほど仲間は集らなかったように思う。今、女竹を割けるのは、あのころのモシキ取りのおかげ。
一郎さんがモシキ取りの最中詠んだ一句(なぜか憶えている)
「山に行き モシキ取り キジを撃ち」
正月明け、「オオイリ」と呼ばれる武さん宅に用事で行った。「オオイリ」を訪ねたのはたぶん40年くらい前が最後だったろう。「前入り」「中入り」と呼ばれる二軒の武さんちから100bほど山に入ったところが「オオイリ」。(「オオイリ」は「大入り」ではなく、「奥入り」の転化か)
用事を済まし、帰りに「オオイリの田」を見に行った。寺山の田んぼはこれ以上奥にはもう無い。小さな棚田だが、休耕田を超え湿地になっていた。60年くらい昔、わが家はこの棚田の一番奥の小さな田んぼを作っていた。祖父の代は小作農だったので、こんなところでも借りて作っていた。「どぶっ田」と呼ばれていて、太腿くらいまで足がめり込んでしまう田だった。稲を家まで背負って帰るのに30分くらいはかかったはず。この棚田の水路でオオヒキゲール(蟇蛙)を獲り、焼いて食った。お花見のとき、上級生の命令で水を汲みに来たのがオオイリの沢だった。
あの頃の山の雑木林は、マキヤマ(炊事用の薪の切り出し)やクズカキ(タバコやサツマイモの苗床に使う落ち葉掻き)が毎冬おこなわれていたので、明るく生き生きとしていた。今は、その里山の林は生い茂り伸びるにまかせたまま。滝の沢の我が家の杉山は完全に竹薮に変じている。里に近い数枚の小さな畑も、鹿除けの黄色の網が張り巡らされ、採りいれられない野菜がホウケていた。
前入り、中入り、オオイリのそれぞれの家が、変わらずすっきりとした姿を見せてくれている。懐かしく、うれしいはずの風景が、なぜか心に痛かった。これも年齢が醸し出すノスタルジアか。
2007年1月1日更新
12月31日 快晴
今年の締めくくりもまた新聞 しあわせなこと
いつものように6時に起床。6時半から朝食だが、バアちゃんに付き合うのでおよそ1時間はかかる。その後、バアちゃんの着替えとベッドメーク。9時から電灯をきれいにする。妻は御節料理の仕度に入る。
11時半に昼食、そして12時から続きの作業。(なにしろすることは一杯あるのだ) 終わって畑の甕からお雑煮に使う里芋を掘り出し“芋こじ”で洗う。2時ちかくに「買出し」から妻が帰ってきたので、連れ立って墓参りと円通寺に一年の挨拶。途中「清水湧水池跡」の碑にも正月飾りをする。その後バアちゃんの部屋の掃除。そして最後が自分の部屋。
4時過ぎから年越しそばを茹でる。これは乾麺。漬け汁はもちろん私の特製。
5時半に家内の神仏五カ所の年越しの行事。年神さん、大神宮さん、恵比寿・大黒さん、荒神さん、そして仏さんに灯明を点け、御神酒と年越しそばをあげる。
6時から年越しそばの夕食。それからコタツでテレビ。7時から第九、紅白は“覗き見”程度。今年は格闘技。
例年通り午前零時に鹿島神社と円通寺に初詣に出かける。40年ちかくこの時間に行くのだが年毎に人影が減っていく。出会った人は10数人。宮世話人は手持ち無沙汰。円通寺にもお参りした。帰って入浴。テレビは初詣ににぎわう有名な神社やお寺の風景を映している。そこに参る前に産土神にムラの幸せを祈って欲しいと思った。就寝は1時過ぎ。今日の歩行数4056。
11月に卒論に『学校新聞』をとり上げたいと訪ねてきたYさんから手紙が届いた。卒論の後書きのページのコピーが同封されていた。7行にわたって私のことが記されていた。許可が出たらその論文をもらえるらしい。早く全文を読みたい。返事を書いた。1年の締めくくりが『新聞』でてきた。しあわせなこと。