Somewhere in My Heart  ~ Katsumi's Monthly Essay ~  
(2004年〜2006年掲載分 バックナンバーのページ)
にっきの木(日記の己)

庭に古びた一本のにっき(肉桂)がある。秋が終わるころ陽光を入れるために枝を下ろす。すると庭いっぱいに
あの香りがただよう。葉をかめば、幼いころ巡り歩いたあちこちのお祭りの夜店の光景が浮かんでくる。
このページ「にっきの木」には,いつの日にか懐かしく読み返すことができたらいいと思うことを記そう。

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2006年12月1日更新

手 紙 その一

 今年の8月17日、いわき市にある草野心平記念文学館を訪ねた。道すがら、本宮町にあるAビール福島工場も見学した。見学予約は午後2時半だったので、観光バスの姿は無く、私たち20名ほどの見学者はいずれも家族ずれ。工場はまだお盆休みとかで、動いているラインは1本だけ。それで見学は20分ほどで終わり、お目当ての試飲に。《生》を3杯いただいた。夏の喉に、ひときわ染み入る甘いビールだった。
 8月22日、このビール工場から「見学お礼」のハガキが届いた。活字でのあいさつ文に、その日私達を案内してくれたWさんが、直筆で次のような言葉を添えていた。
 「できたてのスーパードライはいかがでしたか。ぜひまた遊びにいらして下さい。神奈川工場へも!」
 直筆で書くこと、文案も、見学者に対応するマニュアルどおりなのかもしれない。しかし、「神奈川工場へも」の一文は、わが家族には好印象だった。神奈川県、と宛名を書き出したWさんは、南足柄にも自社の工場があることを思い出し、「神奈川工場へも」と付け加えたのだろう。見学者を、観光客としてもてなすのではなく、大切な顧客と受け止めている姿勢がWさんにはあると思った。仕事への使命感、ほこり、なにより心の豊かさがあることを強く感じた。
 不用意な一言がすべてを壊してしまうこともある。いっぽう、一行の添え文で相手を《虜》にしてしまうこともできる。どちらにしても、それらの言葉はその人の感性の発露。言葉を生み出すのは心、その人の生き方。


手 紙
 その二

 ある教育法人のトップの方に、十年来『エコー』を読んでもらっていた。 
 発送した143号が数日後、付箋付きで返ってきた。郵便局の付箋とは違うポストイットが貼られていて、それには「該当者なし」が直筆で、そしてその法人名がゴム印で押されていた。その付箋に驚きと寂しさを感じた私は、思い切って電話をしてみた。私の素性、その法人との関係(今も行事の《ご案内》をいただいていることなども)を説明した。
電話口の人の対応は冷静だった。「宛名の方は退職された」「転送はできない」「住所はプライバシーもあるので、今は教えられない」。
すべて「その通り」だと思った。しかし、ついこの間までトップとして戴いていた人を「該当者なし」で表現する神経は私には理解できなかった。
 電話を切ってからの《独り言》
『エコー』は少なくとも100回は、受付を通して届いていたはず。返事も度々もらっている。「あの差出人からの問い合わせか」くらい電話の人は思い出してくれないのかなあ。過去はこうして切り捨てていくのが組織なのだ。でも教育に関わる組織としては…。

 もしかしたら、折り返し電話が来るかもしれないと思った。だが、人はさまざま、私の想いは私だけにしか通じないと知った。






2006年11月1日更新

 言葉のシャワー

 ヨーロッパにはたくさんの民族が生きています。そして、悲しいことに今でもその民族間で戦争がおこなわれています。
 今から二百年ほど前、現在のドイツに当たるところにプロシヤという国がありました。その国の王・フリードリッヒ二世は、武力で国土を広げ、ドイツとオランダにまたがる大きな国をつくりました。
 このフリードリッヒ二世は、兵士に命じ戟場に置き去りにされている赤ちゃんを城に集めました。拾われてきた赤ちゃんは、彼の城の中で育てられることになりました。部屋は暖かく、快適でした。もちろん食べ物も十分に与えられました。衣服などの清潔さも保たれました。赤ちゃんが育つには最高の環境でした。
 しかし、この子たちを育てる中でしてはいけないことを一つだけ、王は命じていました。それは、この赤ちゃんたちにいっさい言葉掛けをしてはいけないということでした。王は一つの実験をしようとしていました。それは、言葉を教えなかったら、どんな言葉がこの赤ちゃんたちの口から出るのか、それを調べたかったのです。でもこの実験は、間もなく失敗に終わりました。大切に育てているはずの赤ちゃんが、一年も経たないうちに次々と死んでいってしまったのです。「赤ちゃんには、お母さんの言葉のシャワーが必要」と言われています。
 人間は、周りから言葉を掛けられないと生きていけない動物のようです。快適な環境より言葉のシャワーの方が、わたしたちの生命の保持には必要なのです。 


 ばあやのお話  
                   金子みすゞ

 ばあやはあれきり話さない、
 あのおはなしは、好きのに、

 「もうきいたよ」といったとき、
 ずゐぶんさびしい顔してた。

 ばあやの瞳(め)には、草山の、
 野茨のはなが映ってた。

 あのおはなしがなつかしい、
 もしも話してくれるなら、

 五度も、十度も、おとなしく、
 だまって聞いてゐようもの。



 言葉の力

 言葉で人は癒される、言葉で人は生かされる、言葉で人は力を得る。だけど、言葉は人を傷つける、言葉は人の力を奪う。それでも、言葉の力を信じたい。






2006年10月1日更新


                           ――全新研国秦野大会速報『湧水』第2号の『この人』欄――
 秦野での大会開催を喜ぶ

  武  勝美さん


 声が大きければ返るこだまも大きい

 武勝美さんの教育個人紙『ECHO』が7月現在で241号を数えた。教職に就いていた22年前から、たゆむことなく発行し続けてきた。武さんが継続の人と称されるゆえんである。全国の読者が、武さんから発信されるメッセージにこだまを返し、ともに教育について考えてきた、22年間も。
 武さんの新聞づくりの原点はジャーナリスト志望だったこと。新米記者であるにもかかわらず、名刺一枚で、故松野頼三氏や中曽根康弘氏に取材したことがある。「記者ってスゴイ。そして怖い」と実感した。やがてジャーナリストとして生きていく実力の無さを痛感し、中学の教師に転身。


 新聞教育を追いかけ半世紀

 新任の中学で学校新聞を創刊して以来、一貫して新聞づくりを指導してきた。放課後の教室を利用した学校新聞づくりをはじめ、週刊学級新聞を取り入れた班活動で、生徒一人ひとりが生き生きと輝いた。
 昭和43年、秦野市中学校教育研究会に新聞部会を創設。さらに、神奈川新聞社の後援を得て秦野市中学校学級新聞コンクールを企画した武さん。その後、武さんの指導した学校・学級新聞や、PTA新聞が全国コンクールで7回の日本一を受賞、それに刺激され秦野の各新聞は毎年数校が入賞を続けるなど、約50年にわたり秦野の新聞教育を引っ張ってきた。

 
 新聞づくりで仲間づくりを広めたい

 「あなたは自由を守れ 新聞はあなたを守る」いう標語が好きで、活動のよりどころとして歩んできた。
 「新聞づくりは仲間づくり」。この言葉を最初に唱えたのも武さんだ。「仲間」には作るときの仲間だけでなく、できた新聞を読むことから始まる仲間という意味もある。新聞をもとに話し合って、一つの方向に向かわせる。新聞を通じて集団の意識を高めることこそ「新聞づくり」の真の意義があると語る。
 今までで一番嬉しかったことは、「秦野でこの全国新聞教育研究大会を開催できたこと」だとにっこり。武さんのDNAを受け継いだ秦野の先生方が活躍する場だからだ。
 教職を退いた9年前に開設したエコー教育広報相談室。新聞づくりの仲間が相談に訪れる。これからも「仲間づくり」の言葉の持つ意味を、子どもたち、保護者、先生方にさらに広め、深めていきたいと語る。相談室の秘書を兼ねる現代版「山内一豊の妻」のような素敵な夫人との、二人三脚の新聞人生はまた終わらない。(後藤・沼崎)





2006年9月1日更新



 庄助人形

 たこ焼き、ヨーヨーなど、どこのお祭りでも見かけるような夜店が数店出ている広場を通り抜け、右に下るとそこは盆踊りの会場。温泉街を流れる湯川の川中に立つやぐらから「会津磐梯山」の笛にあわせ、和太鼓が響いていた。その日・8月18日は東山盆踊りの最終日だった。
 盆踊りに入る前に芸妓による剣舞入りの踊りが披露された。
 「戦雲くらく陽は落ちて 孤城に月の影悲し 誰が吹く笛ぞ音も悲し 今宵名残の白虎隊」そして詩吟が続く「南に鶴ケ城を望めば砲煙上がる…」、その声は霧島昇だった。
 東山芸妓が歌う正調「会津磐梯山」が流れると、下手の橋の上に踊り子が100名ほど現れた。先頭が持つ標識から市内の病院の《連》ということが分かった。民生委員のグループも踊っていた。宿の女将らしき人が二人、そして町の人らしい姿はちらほら、あとは浴衣の観光客。
 両岸の道とそれをつなぐ2本の橋がやぐらを囲む踊りのステージになっていて、人出は多く見て1000人ほど。

 ♪東山から日にちのたより 行かざなるまい エー顔見せに♪ そして囃し言葉は「小原庄助さん なぜ身上つぶした 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上つぶした モットモダ モットモダ」 本場で聞く「会津磐梯山」は、その踊りの単調さもあり、いいさか哀調を帯びたものだった。

 会津に入ってから気になることがあった。「小原庄助」さんが見当たらないのだ。泊まったホテルのみやげ物売り場で「庄助人形(そう呼ぶのかどうかは知らないが)」を探した。「いない」。何人かの地元の人に聞いてみたら「見ないね。ないと思うよ。地元の人も『会津磐梯山』なんて歌わないし、だから《庄助さん》など知らないよ」

 カラオケなどない時代の宴会の余興はアカペラだった。
 ♪イーヤー 会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金がエー生り下がる♪ そんな時代はとうに消えている。
 「朝寝朝酒朝湯が大好きで」「それで身上つぶした」庄助さんは会津の気風には合わない。庄助さんが観光土産でいることは、確かに《時代錯誤》なのだろう。だが、私には、会津は「磐梯山、野口英世、白虎隊、そして東山温泉と小原庄助さん」なのだ。
 帰ってから、庄助さんに会いたいと思い、人形ケースの中を探した。居た。居た。三態の庄助人形が後ろの方に隠れていた。それにしても、どれも“いい顔”している。
 


中央のこけしふうの人形には作者の銘が入っている いずれも昭和30年代後半に求めたもの







2006年7月1日更新



 学級懇談会はPTA活動の原点

 B小学校のPTA広報は、年度第1号からがんばって「学級懇談会を盛り上げよう」という特集を組んだ。そのがんばりに応えて、子どもを二人持つ保護者がどちらの懇談会に出席できるような配慮も学校がしてくれた。PとTの努力が実り、参加者は60l超、かつてない盛況のうちに終わった懇談会だった。
 そんな良い結果を得た懇談会だったが、B校のP広報委はもう懇談会のことを取り上げることはできなくなりそうだ。その理由は、司会を務めた学級委員たちが「懇談会は必要ないのでは」と尻込みをし始めているからだ。その背景には一人の先生の懇談会に対する姿勢があった。彼は「クラスの現状報告」と称して、出席した保護者の子ども一人ひとりの学校生活を細かく話をした。しかし、その内容のほとんどが保護者の子育てを批判(非難に近い)しているものだった。
 広報委員長のAさんもそのクラスだった。Aさんの子どもに対する分析は、PTA活動をしていることが子どもの生活に良い影響となっていない、という内容だった。おおよそ10分、Aさんは耐えに耐えた。「学童保育」という子育てのシステムにも批判的なこの先生の厳しい言葉に、涙を流す母親も出た。会が終り、校長室に出向いた母親も出るなどの混乱も生じた。
  この事態を受け、PTA実行委員会は懇談会の意味を問い直しをしているが、さまざまな状況から「懇談会は廃止」という流れができつつあるようだ。秋の懇談会に向け「『懇談会を問う』紙面を作りたい」と委員たちは思うのだが、《孤立無援》になりそうで決断しかねている。
 PTAは、保護者と先生が子どもの幸せのために話し合い、活動する会である。学級懇談会はその原点と言ってよい。先生と保護者が話し合うことは必要なのだが…。先生方に聞きたい。「学校(先生)にとって、PTAとは何であるのか」と。





2006年6月5日更新

 PTA広報づくり 二つの実例


 2年前、都内X区で行なったPTA広報研修会で、B中の広報委員から「PTA広報に広告を載せたいが」という質問を受けた。「発行費を広告から得たいから」というのだ。それほどまでに広報の費用が欲しいのは「学区が無くなり、自由選択になったので、ウチの学校に来るはずの生徒が一クラス分他校に行ってしまった。ウチの学校の良さをPTA広報を通して全区の人たちに知ってもらおうと思うので」とのことだった。
 その質問をしたIさんから手紙が届いた。「あれから2年間、広報委員長としてがんばりました。子どもと共に卒業ですが、新年度の広報委員会の予算は4万円アップされました。新入生も3クラスを確保することができました。広報誌を説得材料にし、『PTAを変える』ということを教えていただいたことに感謝しています。これからも地域や市民活動で広報誌を作っていこうと思います。PTAでは高校でも広報委員を受けましので、もう少し楽しむつもりです」。

 Y区の今年の講座で聞かされた信じられないような話。
 閉講後、人影もまばらになった頃、C小学校の広報委員長さんがPTA広報づくりの現状を話してくれた。5人の委員も一緒だった。「PTA広報には児童の正面からの写真はすべて掲載禁止。先生方の写真も顔のぼやけたもの」との管理職からの《お達し》があったそうだ。他校の広報誌も見てもらい、また広報誌には写真が必要だと説いても「本校ではダメ」。そして「もしその写真が元で事件が起きたら、あなたたちは責任が取れますか」と言う言葉も聴かされた。何人かの先生方は、この方針に首はかしげるのだが、バックアップはしてもらえなかったらしい。再度、先生方と話し合うと言っていたがかなり悲観的だった。
 写真の掲載については事前に本人と保護者の許可をもらう。個人が特定できるような写真は使用しない。発行された広報誌の管理を会員に呼びかけている。などの手立てを取っている委員会である。
 
 新聞の川柳欄の一句   物言わぬ教師物言わぬ民つくる    北坂 英一








2006年5月1日更新



4月4日 今日生きるよろこび
 
 東京カントリークラブの取り付け道路は、タコーチ山をジグザクに駆け上がっている。その街路樹は桜。ウチから眺めると、山すそからクラブハウスのある頂まで、桜で彩られているように見える。今、山すそが満開の白、中腹辺りは少し赤みを帯びた白、山頂近くは蕾の赤に白が混じっているという色合い。日毎に、桜前線がジグザクに登っていくのが分かる。
 桜の季節が巡ってくると思うことがある。「来年もこの季節に出会えるだろうか」と。
 昨夜、母にライトアップした庭の桜を見せた。強い雨に打たれなかった今年の桜は、まだしっかりと大きな房状をつくり、なまめかしくさえ思える。爛漫たる桜花を車椅子から見上げている母は無言。心を動かされたというようには見えなかった。(このごろ、頓に無感動になっているように思える。この現実は、私たちにとっては寂しいことなのだが、母には“良いこと”と思えるようになった。) 私たちも言葉を掛けることはしない。
 「桜の木の下には死体が埋まっている」は、梶井基次郎の言葉。西行の一首もある。桜花は、太平洋戦争では紛れもなく『死』の象徴だった。
 光りの届かない梢あたりから、突然一片、またひとひらと舞い落ちる花びらを見送りながら、「あと二日もってくれればいいのにねえ」と言う妻。五日は入学式。その日わが家にも来客が二組ある。「散るさくら 残るさくらも散るさくら」
 31日に訪ねてきたAさんが、修善寺のお土産に竹のしおりをくれた。そのしおりには「今日生きるよろこび武勝美」と刻み込まれていた。
 今生の今日の花とぞ仰ぐなる  石塚友二


4月6日 「広報づくり」始動

 4月17日の文京区を皮切りに、私の今年度のPTA広報講座が始まる。それぞれの担当者から「参考に」と昨年度発行の広報が送られてくる。それらを読ませてもらって思うことは、見事にその地域性が表れているということ。広報作りでも他区・市町との交流、情報交換が必要だと思う。
 そんな中、お隣りの伊勢原市P連は「伊勢原市の各学校PTA広報紙の一層の充実を目的とする」という主旨の継続事業を持つことになり、講師として私を招聘してくれた。事業の内容は、1、広報紙作りの指導(講習会等) 2、グループによる面接指導(3〜4校で1グループを構成。各校15分で自校の広報紙の添削を受ける。他校の添削もー緒に聞く。時期は夏休み中) 3、添削指導(単Pは広報紙発行毎に一部を講師に送付し添削指
導を受ける)というもの。PTAそのものが問われている今、このような試みに取り組む伊勢原市P連に敬意を表したい。
 昼少し前、A小PTAの正・副広報委員長さんが訪ねてくる。「アミダくじで当たっちゃって」とやや悲しげ。お手伝いを約束した。午後、B高校P広報委員4名の来訪。年度第1号の企画の相談。3時間ほどの実のあるオシャベリ? 「高校生の食生活」というテーマが決まった。前年にとらわれない活動(内容も)をしようとする意気込みを感じた。来てもらってよかった。


4月8日 花祭り

 明日は寺山のお祭り。その準備に8時半から鹿嶋神社に行く。氏子の中で神輿に触ることができるのは清水自治会の氏子だけ、というしきたりが今も守られている。それで、毎年神輿の飾りつけを受け持っているのが清水自治会。それこそ《地付きの人》から、昨夏、この清水に居を構えた人まで加わってにぎやかに神輿を飾る。この神輿飾りで顔見知りになり、交流が始まる。そして地域の一体感も生まれる。
 あちこちの神輿を担いで回るMさんが「名古木ではお神輿の休み所を『神酒場』と言っている。寺山が言っている『行在所』は間違いだって名古木が言っているけど」と私に尋ねた。言われてみれば確かに『行在所』は天皇に関する言葉だ。
 今日は『花祭り』。今年も円通寺からバアちゃんに『お福分け』の筍ご飯が届き、こんな手紙が添えられていた。
 「今年の桜は風雨に負けず、私たちをいつまでも楽しませてくれていますね。お変わりなく元気にお過ごしですか。4月8日、今日はお釈迦様の誕生日です。今年も世話人さん、和讃の方々とご供養できましたので、祝い膳のお福分けをお届けいたします。どうぞご笑味ください。また、水戸黄門の主題歌を印刷しました。和讃講では行事の度にこの歌を歌ってお開きにしております。大きな声で歌ってみてくださいね。では、又来年お届けしいたしますので、元気でお過ごし下さい。 円通寺」
 水戸黄門の主題歌が登場したのは、テレビで格さん役を演じている合田雅吏さんが寺山出身だから。

 水戸黄門の主題歌「ああ人生に涙あり」
 人生楽ありゃ苦もあるさ/涙のあとには虹もでる/あるいてゆくんだしっかりと/自分の道を踏みしめて


4月9日 今年は神輿の接待役

 神輿の『お旅所』で接待役今年は9日が寺山のお祭り。わが家は今年は『行在所』の接待係りの番。(今年は私の《太巻き寿司》の出番はなくなる) 自治会の役員や近所の人など10数人で出迎えの準備。そのとき聞いた話。 
 10時半頃、『行在所』の前のバスの折り返し場に土浦ナンバーの観光バスが一台入ってきたそうだ。この一行はハイキングで、高取山(地元ではタコーチ山と呼ぶ)から鶴巻温泉に下りるコースを歩くと言っていたそうだ。そういえば、今朝10時ちょっと過ぎ「米の作付け面積」を調べる用紙を配って回ったとき、清水のバス停に10数人のハイカーが降り立ったのを見た。この人たちも、タコーチ山に向かっていった。中・高年が大好きな「ハイキング&立ち寄り湯」コースの一つが寺山・清水からスタートしていることを知り「へー」と思った。彼らは、途中で寺山の神輿に会える。山腹の桜並木はまだ十分その花を見られる。いい思い出になっただろう。
 11時に『お発ち』のはずの神輿、『お着き』が11時をはるかに過ぎていた。神主さんの祝詞を聴いていたら、『行在所』ではなく『お旅所』だった。今年の『宮入』は8時半だった。タコーチ山から跳ね返る「宮昇殿」の太鼓を風呂の中で聞いていた。







2006年4月1日更新



 言葉は力 言葉を増やそう

 「運動会の感想を児童に書かせた。たった1行『楽しかった』と書いた子、原稿用紙2枚書いた子、私はどちらも同じようにほめてあげる。一行の中にから、800字の作文に負けないくらいの運動会の楽しさが私には伝わってくる。そういう読み取りをするのが教師」。
 小学校4年生の子を持つ母親は、学級懇談会での担任のこの言葉に「とても心を打たれた」と私に話した。「そうかなー」と私は思う。
 《喜怒哀楽》を心のままに表現することの大切さ。それを人間だけが使う言葉を用いて表す術・力を身につけさせるのが学校の役目。言葉で自分の心を他に伝える努力をさせたい。
 
 学習指導要領のキイワードが『ゆとり』から『言葉の力』に変わるという。文部科学省がこんなことを言っている。「学校のすべての教育内容に必要な基本的考えとして『言葉の力』を据える」。「(言葉の力は)確かな学力を形成するための基盤。他者を理解し、自分を表現し、社会と対話するための手段で、知的活動や完成・情緒の基盤となる」(2月9日・朝日新聞)   
 「学校での新聞づくり」が目指すものは「情報を読み解き、発信能力を身に着け、他と交流する」こと。「『言葉の力』は欠かせない」と合い通じる。

 ある会で俳人の黛まどかさんから聞いた話。
 「小学校で俳句の授業をしたとき、『紅葉あかり』という言葉を知った子どもたちが、紅葉がスリガラス越しに明るく映える光景を校内で見つけ、私をそこに連れて行ってくれた」
 子どもたちは、その言葉を知ることで自然の中に新しいものを発見し、感動することができたのである。言葉は「知的活動や感性・情緒の基盤」になる。言葉の力を取り戻そう。言葉を増やそう。

秦野・東中の三年生の願い 後輩へ「新聞を《復興》させて」
 3月11日、東中学校の広報委員長の本間さんが訪ねてきた。そして「私たち三年生が作った最後の新聞です」と手書きの『東中新聞』を差し出した。
3月7日発行の第798号のトップは「後輩に守ってほしいこと」。そこには次のような記事が載っている。

 『伝統を』
 東中にはさまざまな伝統があります。その伝統には「新聞」「あいさつ」「ボランティア」が挙げられます。しかしこれらは、今ほんとうに伝統といえるのでしょうか。今、これらは伝統として少し弱い気がします。  
「新聞」は活版印刷こそよい結果を残しましたが、各学級の学級新聞はほとんど出ていないといっても過言ではありません。毎月2号出ている『東中新聞』も雑になっています。このように、伝統は薄れてきているようです。本来なら伝統を守ってほしいといいたいのですが、「守る」は現状維持の言葉です。「守る」のではなく「復興」させてほしいです。
3月10日・卒業式の日に発行された『東中新聞』は、第800号だった。たぶん、全国でもっとも発行号数の多い中学校新聞がこの『東中新聞』だろう。その号には「この伝統を受け継いで」と、卒業していく三年生が願いを書いている。
 私は東中学校を母校とする。私の時代も新聞づくりは行なわれていた。それから50有余年、途切れることなく東中学校の新聞づくりは進められ、こうしてまた来年に引き継がれた。私は思う「新聞の復興は言葉の復興でもある」と。







2006年3月1日更新




 2月3日 「無性に教室が恋しくなった」

 神奈川県教育研究所連盟の教育資料・調査部会が秦野市本町公民館で開かれた。2年かけて秦野市教育研究所がまとめた『秦野の教育と新聞』の報告・研究会で、谷津裕先生が研究の概要を説明し、小澤みつ江先生から、5年生の教室で発行された学級新聞の効用について実践報告があった。
 2先生の後を受け、私は『新聞づくりは仲間づくり―声が大きければこだまも大きい』という題で1時間20分の話をさせてもらった。参加された指導主事の一人が「無性に教室が恋しくなった」と感想を述べた。



 2月4日 新聞の役割と現実のギャップ

 毎日新聞社で「全国新聞コンクール」の最終審査会。学校新聞の果たす役割(理念・理想)と、新聞づくりが置かれている現実(学校の現状)とのギャップが審査員を惑わせている。教師審査員とその他の審査員との新聞の読み方の違いも感じた。
◇PTA広報の審査で感じたこと
 @「子どもの安全」を取り上げた広報が多い。A年3回という発行回数のため「特集」を組んでいるが、内容が「特集のための特集」になっている。B全ページカラー印刷のアルバムのような広報も見られた。Cパソコンを使っての手作り広報(A4・雑誌形式)が圧倒的に多い。D紙面整理は上達している。(印刷所の力?)EPTA広報が校報、学校新聞の代替をしている。
 


 2月6日 PTA広報各論を書いたつもり

 全国コンクールのPTA入賞紙の講評を毎日新聞社にメールで送る。1紙おおよそ780字で9校分。二次審査の終わった段階で上位候補が決まるので、そこから各紙の読みに入った。だが、4日の最終審査会のような議論が展開されると、それも踏まえ書かなくてはいけないので、ハードスケジュール。入賞各紙が示す最も特長的な企画を取り上げ、そこを中心に書いた。9紙の講評を通して「PTA広報各論」を書いたつもり。



 2月10日 人の結びつき摩訶不思議 

 今年8月3、4日に秦野市で全国新聞教育研究大会が開催される。その第1回実行委員会が本町中学校で開かれた。主催者の全国新聞教育研究協議会(略称・全新研)から事務局長のT先生も来秦、16名での初顔合わせ。秦野の実行委員の半数は40歳以下の先生たち。
 第1回ではあったが日程を決定。研究分科会の数や提案者などの提示もされた。秦野の中学校研究会には新聞研究部会という組織はあるが、小学校にはそれは存在しない。それだけに、新聞教育に対する意識に違いを心配した。だが、会議ではそれが逆に小学校からの委員の積極的な姿勢をつくりだしているように感じられた。「秦野らしい大会に」という思いは全員がもてたと思う。
 会の後、T先生を囲んで懇親会を居酒屋で開いた。このT先生、今は東京都の教員だが、新採用は秦野西中学校で、私と同じ学年の所属だった。杯を重ねているうちに思いがけない事実が浮かんできた。T先生が今勤務している学校の校長先生と、秦野大会の実行委員長・地崎校長先生が大学の同級生で、一緒にアルバイトをした間柄だったということ。地崎校長先生はその奇縁を大いに喜んだ。教員の世界って狭い、人の結びつきは摩訶不思議。



 2月15日 一紙3分の紙面クリニック

 6時15分のバスで寺山を出発、9時半に柏市中央公民館に到着。昨年5月、年度当初の講座を持ち、今日は年度のまとめを兼ねて『広報クリニック』をすることになった。
 事前に届いた広報紙は30校分。持ち時間から、代表紙数紙のクリニックにしようと思った。だが、事前に広報紙を提出したのに《一瞥もされない》のでは落胆が大き過ぎる。そのような礼を失する言葉できない。それで、プロジェクターを使い、「1校3分ずつ・全校に触れる」ことにした。しかし、この方法は《綱渡り》。それで、地元のK先生とSさんにお手伝いを頼んだ。K先生には、3分の間に3回も紙面を差し替えるというような無理な作業をしてもらった。Sさんにはタイムキーパー。話を広げ過ぎてしまう私に、「終わり」と指示してもらう役。実際、Sさんが用意してくれた赤い団扇が、最前列の席でサッと上がることが何度もあった。
 会場でさらに4校分が手渡され、最終的には34校になった。正直なところ、用意したメモを読み上げるのが精一杯という内容だった。それで、急遽そのメモを各校にさし上げることにした。終わってから4校の質問と相談を受けた。2校の委員から「もう一年広報に挑戦したい」という頼もしい言葉を聞くことができた。
 帰り着いたのは5時少し前だった。妻が、2時過ぎに柏の中学校のPTA広報委員から電話があったと言う。内容は、広報に本や雑誌から文を引用するときの対処法についてらしかった。エコー教育広報相談室の一員(?)である妻の回答で理解をしてくれたようだ。



 2月16日 圧倒された三百余人の旅行

 宴会の席は舞台から最も遠い一隅。和太鼓の響きもカラオケの熱唱もはるか彼方の世界のことのよう。杯を空けることに専念しようと頼む熱燗も手元に来たときは…。同室の皆さんの話題の豊富さ・おもしろさ。7時からの朝食に30分前から並び、ドライブインでお土産を買う時の爆発的なエネルギー。
三百余人のJA組合員に圧倒された旅行だった。 







2006年1月1日更新

  年いよよ水のごとくに迎うかな   大野 林火

 この句のような心境で今年は過ごしたい、と思った。だが、今朝の新聞のコラム欄で、ある人が「私から野球を取ったら、土木の現場で働くしかない」と自分の人生を語っているのを読み、すごく引っかかってしまった。歳に似つかわしい「水のごとく」の生き方は、今年もできないかもしれない。






2005年12月3日更新



奥久慈に秋を求めて     
05.12.1,2 秦野園芸愛好会


西山荘

竜神大吊橋から

竜神大吊橋から

西山荘

袋田の滝

          益子 →袋田の滝 →袋田温泉(泊) →竜神大橋 →西山荘 →偕楽園 →笠間稲荷、と17人で回りました。 

                             全山のもみじ双手で抱きけり
                    冬晴れの力を借りて滝落ちる
                    先客は紅葉一片露天風呂      勝美





2005年11月1日更新




 拝啓  大竹御夫妻様

 きのう6日のことでした。スーパーに一週間分の食料の買出しに出かけました。そのお店は郊外にあるので、田んぼの中の道も通ります。この辺でも少し稲の刈り入れが始まっていました。店に入ると新米が売られていました。新潟産『コシヒカリ』、福島産『コシヒカリ』もありました。
 「新米、食べたいね」と私。だけどわが家の米びつには、9月3日に買った10キロのお米が、まだ食べ終わっていません。 年寄り3人の家族では10キロのお米はそう簡単に食べ切れません。
 「次に買うときは『コシヒカリ』の新米」と私。
 「でも今月の末にならないと、今のが食べきれないのよ。思い切って買っていったら」と妻。
 積まれている新米の袋に手をかけたのですが、あきらめたのでした。
 午後4時ごろです。宅配便でした。それが魚沼産『コシヒカリ』の新米なのでした。妻と顔を見合わせて、驚き、喜びました。「買わなくてよかった。通じたのかな、大竹さんに、新米が食べたいということが」。
 早速、米びつの中身を白く光る『コシヒカリ』に入れ替えました。
 今朝、新米をいただきました。あまく、シッカリとした歯ごたえでした。耳のとても遠い母に、「新潟の大竹さんが届けてくれた『コシヒカリ』だよ」と大声で伝えました。多分、隣りの家にも聞こえたでしょう。母は、一口ほおばり「ほー」と言い、「ありがたいね」と私の顔を見つめました。
 お手紙にもありましたが、まもなく雪の季節をお迎えになるのです。どうぞ、ご夫妻とも御自愛くださいますように。とりわけ、奥様のご健康をお祈り申し上げます。奥様が元気でいらっしゃることが、大竹兄が元気でいられることですから。
 ありがとうございました。

  10月7日
                                 武 勝美

 




 10月12日の日記から  齢 五十

 エコーの読者二人の来訪。改まった相談ではないが、二人とも家族に対しての思いや仕事のことをたくさん話し、帰っていった。
 Iさんは一年をかけて大病を克服。来年4月から保育の仕事に就くことが決まっているとのこと。
 「齢五十、12月から本格的に職探しをする。自分の限界をしりたい」「与えられたことをするだけの今の仕事。初めは『楽でイイや、バンザーイ』と思ったけど、働くってこんなことではないと感じて」とNさん。
 二人とも五十歳になったばかり。そんな話を聞かせてくる二人がまぶしい。
 菊のつぼみに色が色付き始めた。昨年よりいい花が咲きそうだ。
 この部屋に座布団を出した。






2005年10月1日更


 9月の終わりに


 妻の入院という事態で、自宅で看ている母を病院に預けるのに一苦労。母は、妻の今までの健康ぶりから、手術など信じられない。私がウソをついて、病院に追いやろうとしているのだ、と思ってしまっている。「もうウチに帰えれない」とショートステイ先のベッドで泣き叫んだ。
 妻も帰ってきたので、迎えに行ったら「帰れるの」と一言、そして嗚咽。

 一人での夕食、ある夜はビールでおしまい。「夕飯は外食にしたら」は長男の進言。だが、夕食にはビールがなければいけない。バスに乗って夕飯を食いに出かけるまでの元気はない。23日の朝は「小豆飯」を炊き、仏壇に供えた。わが家は『彼岸の中日』は小豆飯なのだから。一人だからこそこれはしなければいけないと思った。

 「手術に不安はなかったのか」と聞いたら「全然。とにかく早く手術をしたかった」と言う。前日の夕食から後は絶食。翌朝、同室の人たちが朝食を食べるのを眺めて、無性にお腹かが空いたのだそうだ。「手術後の初めて朝食に出たレタスと生ハム、今まであんなにおいしいく食べられたことはなかった」と笑う。食べることについては“淡白”で、しかも少量しか摂らない妻にしては異常なこと。病気とはそういうものかもしれない。

 28日、退院後一週間ということで、妻を検診に送っていった。待ち時間もあるので私は帰宅。「迎え」の電話がくるまで菊の手入れをしていた。ところが予想より早く一時間ほどで「迎え」の連絡。急いで車を出そうとしたら財布が見当たらない。送っていったときダッシュボードに置いたのは記憶にある。病院では車から降りていないから、外に落とすことはない。帰ってからの行動を思い越し、そのコースを三周りたどった。だがどこにもない。
 財布には退院の費用、カード類などが入っている。妻は携帯は持っていないし、それほど待たせることもできない。お金をかき集め、とにかく出かけた。
 妻を連れ帰り再び家の中の足取りをたどる。あせっている心を抑え、ゆっくり時間をかけ、周囲の状況も確かめながら捜す。あった。二階への階段に置いてあった。「だいじょうぶなの?」は妻の言葉。認知症の始まりと疑っている。そう疑われても仕方がないほど、近頃の私の置き忘れはひどい。必要な資料・文書類がどこにあるのかわからなくなり、家中引っ掻き回している自分を心底情けないと思う。

 今回の総選挙で、マスコミは「刺客」「小泉劇場」などという言葉を使い、その種の報道にかなり力が入った。その効果からか投票率は上がり、思いがけぬ結果が出た。するとマスコミは、今度は学者や評論家に「この結果から生じるだろうさまざまなことに覚悟せよ」みたいなお説教をさせている。もちろんマスコミ自身の自戒を込めたものも語られているのではあるのだが…。
 今年の新聞週間の標語は「『なぜ』『どうして』もっと知りたい新聞で」である。今度の選挙の投票率を上げたという、マスコミの功績は大である。しかし、マスコミはこれから始まるあの結果がもたらすだろうさまざまなことを、『なぜ』『どうして』と追求し、選挙中よりもっと多くを国民に知らせなければならない。マスコミは単なるアジテイションではない。「料亭に…」など軽口を叩いた新議員について、「若いのだから」というような報道は無責任だ。
  
 『エコー』の先月号、誤植が普段にも増して多かった。新聞・広報作りの講師をしている者として恥入るばかり。「ご寄稿の方や読者を軽んじている」といわれた。「多忙」のため「集中力が欠如」など言い訳にならない。






2005年9月1日更



 わが家の一番大切な物は

 アメリカの写真家のピーター・メンツェルさんが『地球家族』という写真集をつくりました。世界30か国を訪ね、統計上その国の平均的な一家族を選び、その家のすべての持ち物を家の前に並べて撮った写真集です。
 写真の真ん中には、その一家の一番大切な物を置いてもらいました。モンゴルの家族はテレビと仏壇とどちらにしようかと悩み、両方を並べています。グアテマラの一家は宗教画とラジカセ。ハイチでは「一番大事な物なんか持ってない」というのが答えでした。
 この写真集のことを知人のSさんに話しました]。Sさんはしばらく考えて言いました。「わが家はたぶん一枚の写実を選ぶだろうな」。
 Sさんはある建設会社の作業所長でした。昨年の11月のある朝、Sさんの単身赴任先の作業所に「会社は倒産した」と電話が入ったのです。 Sさんは年齢50歳、家には奥さんと大学生と高校生がいます。突然のことに4人は混乱しました。すべて一からのスタートになってしまったのです。でも、架けていた構の仕事は続けられました。そして12月に全長100メートルの橋は完成しました。Sさんはその橋の写真を撮り、家族に見せて言いました。「お父さんの最後の仕事はこの橋。しつかりできているだろう。この橋をみんなで渡って、新しい生活を始めよう」。
 日本の小学三年生の作文です。
 「ぼくの家の中心は、食料、テレビ、こたつだと思う。ご飯前まではみんなばらばらだけど、ご飯になるとみんな寄ってくる。テレビの場合はご飯の後、テレビがついているとみんなそのままで、テレビをつけてないと自分の部屋に行ったり、またばらばらになってしまうからだ。だから、ぼくの家はまともなものではつながっていないのだとぼくはしみじみ思う」(ニッセイ基礎研究所)
 もしわが家をピーター・メンツェルさんが撮ると言ったら、写真の真ん中には何が写るのだろうか。







2005年8月1日更新


 高校の同窓会報に載せる原稿を頼まれた。タイトルは「広畑が丘 空晴れて」。出会った先生方はどなたも個性的で実力派。「これが高校の先生!」と畏敬の念を強く抱いた。教職に就いた私は、広畑が丘で出会っ恩師群をはるかな目標にしてきた。既に鬼籍に入られた先生も数名いらっしゃる永遠の恩師群を、次のような稿で改めて懐かしんだ。


 綺羅星のごと 永遠の恩師群
                                  武 勝美(高7回)

 入学式、それとも入学説明会だったろうか、キリュウさん(体育・桐生先生)の「諸君はぁー」という言葉とその声に、心の高ぶりを感じた。「中学校みたいに、先生から『お前たち』とか、「武」などと《呼び捨て》されるのではない。『諸君』なのだ」と、大人として認められたような喜び、高校生になった実感のようなものが体の中を走った。だから、私たちは高校生であるという自らの証を先生たちを「さん」づけで呼ぶことで表した。そんな、背伸びした高校時代に出会った先生たちは、私たちにさまざまなものを与えてくれた。だから敬称の「さん」を外すことはしなかった。

 イサヤマさん (幾何・伊佐山先生) 「そんなこっちゃ、ダメだ」といつも言われていた。証明問題の答えを丸暗記して試験に臨んだが、赤点!
 イッちゃん (地理・飯田一郎先生) 黒板に描く一筆書きの世界地図に憧れ、家に帰って練習した。その成果で10をもらったっけ?
 イモさん (英語・今井先生) 校内模試の採点で模範解答以外は全て×。英語の不得意な生徒は「イモ、この野郎」と恨んだ。だがその徹底ぶりが後に役にたった。「イモダンゴ」が今分かる人は何人いるだろうか。お顔の色が黒かった。
 オオダテさん (数学・大舘先生) 数学クラブの顧問。なぜか私もクラブ員だった。放課後《補修》のような活動をし、数学と英語の面倒をみてもらった。昨夏、先生を囲んでクラブ員が集まった。髭が濃いので「山賊」!(大舘先生 お許しください)
 シノさん (英語・宮本先生) 博学! 平安時代の便所の話は忘れられない。「遅く来たから早く帰る」と、古びたコートを翻させて帰る個性的で、実はシャイな先生。授業を南平橋の河原でしたことが記憶にあるが、これは私の記憶違い?
 チョーフー (古文・杉山先生)ご機嫌なときは「ロングウインド」などと笑わせた。郷土の歌人前田夕暮の存在を、私たちに印象づけた「長風大先生」。眼鏡の奥の瞳はいつも優しかった。
 テンコちゃん (現文・小野典子先生) 美形の横綱・吉葉山のファンで、その手形の色紙を見せてもらった。今、私が「小諸なる古城のほとり」を諳んじられるのは、典子先生の「職員室呼び出し暗誦」のお陰。
 ラジオ(英語・貴田先生) 「口角泡を飛ばして」文法の説明をするため、教卓の真下の加兵ちゃん(同級生)は、飛沫を避けようと教科書で屋根を葺いていた。

 キューさん、ウーちゃん、ハブさん、ウマさん、ポンちゃん、ウダガワさん、一正さん、シライさん、(地学の大滝先生だけは《センセイ》だった)等々、多士済々の面々もこの星団を作っていた。まさに「綺羅星のごと」、永遠の恩師星団である。







2005年7月1日更


 越後湯沢「雪国の宿」

 6月6日   晴れ
 「はい、お土産」とSさんがサクランボとスイカの漬物を三人に配った。「へー、サクランボ。嬉しい! 稲取のときも持ってきてくれたよね。Oさんが『八海山』を一本背負ってきてさ。風呂に入る前に、サクランボをつまみに、ヒヤで一升空けちゃったっけ」「あのときはOとYも健在だった…」「お酒 好きだったからねえ、二人は」「十四、五年前かねえ、城ケ崎公園でバラバラになっちゃって、そのまま解散しちゃったよね。Oの顔を見るのはあの時以来だよね」。六人で、それぞれの古里を訪ねるようになってから今回で六回目。午後二時半過ぎ、越後湯沢の「高半」の一室で交わした私たちの会話。
 大学時代の仲間、K、S、Nそして私の四人は、八年前(?)の尾花沢祭りでの再会以来の再会。Kさんは今治、Sさんは尾花沢、Nさんは東京(出身・小千谷市)が住まい。
 脳梗塞で倒れたOさんのベッドでの闘病生活は十年以上も続く。それで、昨年十月二十八日にOさんを見舞うことになっていた。ところが二十三日に発生したあの中越大震災。延び延びになり、ようやく今日を迎えることができた。今夜は湯沢に泊まり、翌日浦佐のOさん宅を訪れることにしたのだった。
 「高半」は川端康成の名作『雪国』の宿。館内の「かすみの間」はその執筆の部屋だそうで、当時のままに保存されていた。この部屋の隣りに「雪国文学資料室」があり、そのロビーで岸恵子の「駒子」、池部良の「島村」の『雪国』が観られる。モノクロの、雨が降っているスクリーンから岸恵子の少しかすれた鼻声―そういえは淡島千景、花柳小菊も鼻声だった―そんな五十年も昔の学生生活を思い出させてくれた。
 「四人で痛飲」といいたいが、Kさんはアルコール類は全くダメ。貸切り同然の館内のクラブで熱唱、十数曲歌う。これでアルコールはすっかり発散。翌朝の目覚めはスッキリだろう。



 駒ケ岳、中ノ岳、八海山を越後三山と呼ぶ

 6
月7日   うす曇り
 宿からOさん宅に「これからお伺いします」と電話をれた。すると「お待ちしています。今日はとても体調が良いようです」という奥さんの明るい声。 Nさんの車で湯沢から40分、浦佐駅の南側毘沙門堂りにOさんの住まいはある。O家に曲がる通りに、前けの生活、「あの時は、この部屋でお父さんとじっとしていたんです。この部屋が一番安全だと思ったから。それにお父さん、重いし」と屈託ない笑顔の奥さん。二階は足の踏み場も無いくらい家具が倒れたらしい。二人のその瞬間の恐怖感は想像に余りある。Oさんの体重はどうやら70キロオバーのようだった。そんなこともあり、今年になって未だ二度しか外出しいないとのこと。
 「お父さんに山を見せたい」という奥さんの言葉で、Oさんと外を歩くことにした。介護タクシーとNさんの車で八色の森公園に行った。公園内のワイナリーからは柔らかな新緑のブドウ棚が見え、駒ケ岳、中ノ岳、八海山を望む広がりは田植えが済んだ田んぼ。
「中ノ岳はもう少し小出寄りに行かないと見えません」。そして「お父さん、山が見られて良かったね、お父さん」と奥さん。
 試飲の白ワインをもらい六人で乾杯。「お父さん、飲んじゃおうか。飲んじゃお、飲んじゃお」とOさんにグラスを渡す奥さん。冷たくて、甘くて、おいしかった。Oさんも同じように味わっていたのだろう、にっこり。
 八色の森公園の遊歩道を六人で歩いた。公園の中ほどにある池は、はるかな八海山を水面に写すように設計されているという。梅雨もよいの今日は、その姿は見えなかった。冬晴れの清冽な空の下、池面に写る雪の八海山を夫妻と見たい。



 山菜 ドッサリ 尾花沢から

 6月15日   雨
 昼のニュースを見ていたら、尾花沢の笹原さんから宅配便。表書きは「山菜」。
 先週、浦佐で昼食をとったとき山菜のてんぷらを頼んだ。揚げたてのタラノメで生ビール。「うまい」を連発した私。それで笹原さんがこのプレゼントをしてくれたのだ。
 それぞれの包に名前が記され、調理法も書かれていた。クワダイ、タラノメ、フキノトウ、アカコゴミ、ワラビ、ミズ、スドケ、タケノコ(根曲がり竹)、カタクリ、ニリンソウ。秦野の住人の私が判るのはタラノメ、フキノトウ、ワラビくらい。
 山菜は新鮮さが勝負。早速タケノコを焼いていただく。これは初めての味。クワダイ、アカコゴミ、スドケ、ニリンソウも茹で食べた。少しアクのある味がイイ。カタクリは花を見るものだと思っていた。そのカタクリがてで食べられる! 赤紫の花びらが二、三片添えられていた。ニリンソウは、川中美幸が「ふたりは二輪草」と歌っているのでその名は知ってはいた。だが実存し、まして食べられる花であるとは…。
 Aさん,嬉々としてタラノメ、フキノトウ、タケノコ、カタクリをてんぷらに揚げる。《嬉々》としているのは私より先に試食できるからだ。
 雨の一日だが、心は晴れやかで豊か。人間(とリわけ私)は、食べていればご機嫌になれる。

 





2005年6月1日更新



 元気付けられたのは私 「広報づくり講座」2か月が終わって

 きょう31日、本町中学校での新聞作り講習会は午後4時スタート。参加者は1年生が主体。それに生徒会の広報委員とに希望者で70名超。
 今年は4.5月に13会場で新聞作りの話をしてきた。6月以降も講座は続くが、とりあえずはシーズンの山場は越えた。とにかく体調を崩すことなくきょうまでこれたことでホッとしている。それは講座に参加してくれた人たちが私にくれた力のおかげだ。このごろしきりに思うことは「私は皆さんにの支えられて生きている」ということ。留守番をしてくれる妻にも感謝。

 たいへんそうだけど 楽しそう
 5月9日湯河原町、10日は伊勢原市で、そして11日は大井町と、連日PTA広報づくり講座を持った。委員は誰も「大変そうだけど、委員になったからにはイイモノをつくりたい」という思いを抱いて集まってきているのだ。そのことは会場での質問や感想で読み取れた。
 A会場でのワンシーン。最前列の真ん中の席のお母さんが「園児のお迎えなので」とわざわざ声を掛けて退席していった。講座が終わったのは4時過ぎ。しばらく会場に残り質問を受けていた。そこに、先ほどのお迎えのお母さんが子どもを連れて現れた。「もう終わっていると思ったけど。今日のようなPTA広報作りの話が聞けるのだったら、お迎えは上の子に頼んでおけばよかったと思いました。2年目の広報委員ですが、何を書いたらいいのか、少し分かったような気がします。がんばります」と、わざわざ私に告げに戻って来たのだった。
 B会場で飛び出した質問。「私たちの出した企画が学校側に却下された。理由を聞いても、ただ『これは止めてくれ』と言われるだけ。こういう場合どうしたらいいのか」。
 C会場の主催者はP連の母親委員さんたち。その中の一人が「来年は広報委員に立候補します」と私を喜ばせてくれた。A会場で講座を主催した教育委員会の職員Sさんも言った。「高校のPTAの広報委員を頼まれたのですが、仕事との兼ね合いがあるので断ってしまいました。でも、今日の話を聞いて広報をやってみたくなりました」
 「広報づくりをがんばる人は子育てに一生懸命だということ。そして自分のことにも一生懸命になっている人」だと、会場を元気づけるのが私の役目。だが、湯河原会場の参加者から次のような感想をもらって、私の方が元気付けられた。


 参加者の声 一年間 がんばってみよう
 
◇あの時ジャンケンで負けて広報委員になったことを今は感謝しています。36才の一年間、子どものため学校のためではなく、私自身のために時間を費やし3月に涙を流せるくらいに思いきり楽しみたいと考えを変えました。ありがとうございました。
◇2時間半あっという間に終わった講座、とても来て良かったとおもいます。広報への思いが変わりました。この一年間楽しくできそうです。すべて初めての事でとても楽しく学び勉強できました。新聞づくりが楽しくなりそうです。
◇成り行きでなってしまった広報委員ですが、いろいろな学校のすばらしい広報を知ることができ、型にはめられている今までの新聞ではなく、楽しい新聞を皆で作れたらいいなと思いました。
◇はじめに紹介された広報にとても感動しました。一年間がんばってみようと思います。
◇すべて初めてのことでとても楽しく学び勉強できました。新聞づくりが楽しくなりそうです。

 伊勢原市の講座のまとめ
   (主催者のひとり伊勢原市PTA連絡協議会母親委員長の占部祥子さんが整理し、届けてくれた。)

 「広報紙づくりは仲間づくり」を皆に伝えたい  ―実技・実習があればもっとよかった―
 広報紙づくり講習会のまとめ 平成17年5月10日午後1:30〜4:30
◇参加者のアンケート結果
 @・とてもためになった ・有意義だった ・わかりやすかった          …50名
 A・講習会の開催時期を早めて欲しい 
 ・広報委員がまった時点で ・第1号を発行する前に ・2月か3月中に      …29名
 B・広報誌の意義を改めて考えさせられた ・読んでもらえる広報紙をめざしたい   … 8名
  とても有意義な内容だったので、開催時期を早くして欲しいという意見が圧倒的でした。多くの広報委員が、初心者なので、どうしても前年度踏襲の記事になってしまいます。もっと早い時期に聴いていれば、違った広報紙が出来たかもしれないという意見もありました。
 以下は少数ですが、貴重な意見です。
 ・これぞ広報紙作り講習会、という内容でした。
 ・何だか元気が出てきた 意欲が出てきた 楽しくなってきた(3)
 ・広報紙づくりは仲間作りの言葉を皆に伝えます。
 ・動員ではなく、広報委員全員が参加すべき(3)。
 ・もっと詳しい内容を聴きたい。
 ・各学校の新聞をもっとゆっくり見る時間が欲しかった。
 ・PTA活動にがんばれる人は、自分自身にがんばれる人というお話はとても良かった。
 ・実技、実習があればもっとよかった。
 ・お金をかけ、きれいな広報紙よりも旬な情報、写真の大切さを知りました。
 ・各学校(伊勢原市)の広報紙を厳しく評価して欲しかった。
 ・自分のやりたい事、子どもに作文の書き方を教えることができそう。
 ・他校の広報紙を説明される際、スライドなどで皆に見えるようにすればもっとよかった。
 ・講習の時間が午前中の方がいいのでは?(子どもが帰って来る時間を気にしていました。)
 ・広報委員が全員参加できるように、夜の講習会もあればよい。                 以上
                        
 PTA広報の新年度第1号がポツポツ届き始めている。どの広報も、紙面には初々しさがみなぎっている。大井町会場に参加された府川の「ふるさと歳時記新聞」(最新号のページにアップしてあります)という地域づくりを目指した月刊紙もいただいた。
 

 今シーズンのピーク・ 5/23〜5/27の日記
                     
5月23日
 午後、柏市での広報講座、途中小田急の事故に遭う。昼食の時間を入れて1時間半の余裕をみて出かけてのだが、会場に着いたのは25分前。参加者は220名とか。柏市は小学校の新聞作りが盛ん。PTAもそれに負けていない。質問が5つ。控え室で一人のお父さんが私を待っていらっしゃった。「週1日、秦野まで通っています。先生が秦野からいらっしゃるということでご挨拶に来ました」とのこと。神奈川大学で講座を持っているので、柏―秦野―学校が出勤のコース。この先生もPTA広報委員さんだった。接待係りのお母さんは二宮町生まれ。秦野と聞いてとても嬉しかった、楽しみにしていました、と話してくれた。 
 5時から、私が柏に来るということで、柏、市川、松戸に住んでいる4人の知人が「来訪歓迎会」を開いてくれた。3時間ほど『新聞』を肴に歓談。11時過ぎ帰秦。

5月24日 
 S小の6年生4クラスで学習新聞づくりの授業。4コマ連続という授業を毎日こなしている小学校の先生のご苦労を体感した。それぞれのクラスに子どもたちの特長(担任の教育観)が表れていた。私が“客人”であるということだなのだろう、どの教室でも、担任が驚き、喜ぶくらい話をよく聞いてくれた。子どもたちが事前に書いておいた記事を読んだ。インタビュー記事を取り入れることを勧めた。
 終わって校長室で給食をいただいた。お付き合いしてくれたのはY教頭先生と専科のI先生。二人とは東中で一緒に仕事をした。もちろん学級新聞作りの指導も。事務室では教え子のOさんが、保健室ではかつての同僚だったFさんが働いていた。

5月25日
 K小の5年4組で国語の授業を2時間担当。と言っても「新聞作りの指導」。生活班を中心にした学級新聞が既に2号発行されているクラス。トイレ休憩の時間に男の子が近づいて「先生、U.Nって知っている?」と女性の名前を口にする。するともう一人が「A.Jは?」と聞く。こちらも女性の名前。二人とも西中時代に担任をした女生徒の名だった。顔もちろん浮かんだ。「お母さん、今でもフックラかな」(これはセクハラ! ごめんなさい)。「20キロやせたって言っているよ」。私を相手にインタビューの練習をさせた。クラスの保護者と広報委員も授業を見てくれた。
 教室を去る前に子どもたちから花束をもらった。担任のO先生が言った。「子どもたちのお家の庭に咲いている花です。お家の人に訳を言ってもらってきた花です」。「どの花見ても…」そんな童謡があったっけ。
 夜7時から市役所で第1回「秦野の景観」選定委員会。なぜか、その委員を頼まれてしまった。「広報はだの」と「寺山ものがたり」が委員委嘱の根拠になったのだろう。「景観」という言葉の理解・受け止め方が多様なことを知る。景観の選定は難しいと思った。 
 柏市の講座に参加された菅原さんからメール。私の話をまとめてくれた(「秦野の新聞教育」のページ参照)。「他の勉強会で使いたいので、趣意の確認・加除訂正をして欲しい」とのこと。学ぼうとする姿勢に心打たれた。なにより感激。

5月26日
 18日に行った荒川区のPTA広報講座に出席された市村さんからファックスがとどいた。私の話のポイントをまとめたもので、(「秦野の新聞教育」のページ参照)「参加できなかった委員に報告する」と添え書きがあった。 「PTA広報を作る人はもっとも素敵な人」と元気付けている私だが、きょう市村さん、そしてきのうの菅原さんはまさにその好例。

5月27日
 3:35のバスで寺山の「藤棚」を出発。千代田線町屋駅に6:00に着く。駅前の杵屋で「五目うどん」の夕食、780円。隣りのテーブルでは私と同年齢くらいのご夫婦が生ビール。“これから”仕事と言うこともあるので…「サンパール荒川」までタクシー、ワンメーターで着く。今夜の参加者は50名ほどか。仕事帰りと思われる服装のお母さんが多かった。ビジネススーツのお父さんも2名。「校長先生から、子どもの顔が判る写真は掲載しないように、と申し入れがあった。どうしたらいいのか」という戸惑いの質問が出た。お母さんたちは“出鼻を挫かれた”感ありありだろう。私なりのアドバイス・対策を話した。感想を書いていた最後の二人が「ガンバリまーす」と明るい笑顔で帰っていった。夏休み中に、荒川で「親子新聞作り講座」を開くことになった。






2005年5月1日更新


 畏敬の念のみ


4月27日   陽春
 
 秦野市PTA連絡協議会主催の「PTA広報技術講習会」。参加者130人ほど。いつものように「広報委員になったいきさつ」を尋ねることからスタート。「立候補した人」に20人余の手が挙がる。南が丘小は全員立候補(別ページ「秦野の新聞教育」参照)らしい。嬉しいことだ。
 この会場では、記事の書き方や見出しの付け方などの技術論には深入りせず、「先生紹介」「運動会」「PTA」「子どもの安全」など、特集の企画について時間をかけた。講習の後、「興奮冷めやらず」の雰囲気からか、会場内やロビーで臨時の編集会議がいくつも開かれていた。
 そんな光景を眺めていたら、参加者の一人が声をかけてきた。鶴巻中時代に、新聞づくりに関心を持ってくれたUさんのお母さんだった。「今日、先生の講座に出るといったら、娘がこれを届けてくれと言いましたので」と茶封筒を手渡された。入っていたのは週刊経済誌。そのあるページに付箋の付いている。そのページには「取材・文」として二人の名前があったが、その一人がUさんだった。24ページの特集「投資商品ガイド」の記事を書いている。24歳のUさんが、私とは全く無縁で不案内な投資商品の解説をしている。そのことだけで、もう畏敬の念しかない私だった。
 「武先生お元気でいらっしゃいますか。私は今、編集者・ライターとして経済誌や子ども向けの読み物を作っております。言葉を通して社会、人の心、自分を知る毎日は、とても楽しく充実しています。書くことのすばらしさを感じております。」という、直筆のたよりも一緒にもらった。

  

 大入り満員

4月28日   初夏、いや夏日
  

 今回が3回目になる文京区での講座。6時35分のバスで出かける。文京シビックセンターに着いたのは9時半過ぎ。連絡では参加予定者は100名。
 係りの人が、私を会場に案内しながら「大入り満員です」と笑いながら告げる。「そうだろう、やっぱりそんなに集まらない」と思った。そんなつもりでドアを開け、場内に目がいったとき「アッ」という驚きの感。机付きの席は満杯で、後部、両サイドに椅子が急遽並べられているのだ。おそらく40名ほどのオーバーだったろう。正真正銘「大入り満員」だった。この人数でも、今回はOHPを準備してもらったのでよかった。1時間40分の話にも、おのずから力が入った。
 終わってから質問を受けた。その質問は、
1 広報を発行していないPTAはあるのか(なぜ広報が必要なのか)。
2 広報は活動の報告だけでよい(委員会は個性をだしてはいけない)と言われたが。
3 6人中4人が仕事を持っているので「出来るでけ簡略な広報にする」と決めた。今日の話で考え方が変わった。他の委員をどのように説得したらいいのか。
4 手作り広報の手法。
5 前年度の広報の実績(コンクール入賞)をどう受け止めたらいいのか。
6 年一回(卒園時)の会報(文集スタイル)の内容を変えたいが。
 今日の参加者の中で立候補は30名ほど。







2005年4月1日更新

堀江貴文社長のメディア観

 新聞が情報を取捨選択することが必要なのか

 3月5日の毎日新聞(朝刊)の1面に、ライブドアの堀江貴文社長のインタビューの記事が出ていました。その記事の見出しは、「既存ジャーナリズムは不要」「情報価値はユーザーが判断」でした。(もう一本、見出しがありましたが、ここでの話には関係ないので省きます。)
 これら二本の見出しは、「(調査報道や不正の追求など)皆さんの考えるジャーナリズムはもう必要ない」と「新聞が情報を取捨選択をすることが必要なのか。読者が判断する時代だ。今は判断できる時代だ」という発言から作られたものです。今、私たちはインターネットを使ってたくさんの情報を得ることができます。だからその情報は個人が選別・判断すればよいし、そういう判断ができる力が私たちにはある、と言いたいようです。こうした信念に立っているからでしょう。
 堀江氏はこれからのメディアのあるべき姿について、次のような発言もしています。「メディアをもったらコントロールはしない。純粋な媒介者であるべきだ」。「残虐な映像を発信して、50パーセントの人が悪いと言ったら『ごめんなさい』とあやまればいい」。受け手である私たちの情報処理能力を信頼している発言です。彼の願いのようにも思えます。でも、メディアを持ち、情報を発信する側の人としては、この言葉は少し乱暴のように感じます。「情報をたくさん流した者が勝ち」みたいに私は思ってしまいました。堀江氏の言う「今は情報は判断する時代、そして判断できる」私たちでありたいと思います。でも、現実に私たちはテレビや新聞らの情報を鵜呑みにせず、批判的に理解しているでしょうか。メディアを通して、自分の考えを発信・表現できる能力がどれほど身についているのでしょう。
 ときには誤りや逸脱もありますが、私の生活の中では今の新聞(既存ジャーナリズム)は不可欠なものとなっています。その理由を尋ねられたら、大上段に振りかぶり「あなたは自由を守れ 新聞はあなたを守る」(第1回新聞週間の標語)を例示して語ります。ですから「学校には、@子どもが作る新聞 A保護者が作る新聞 B教師が書く新聞が存在しなければいけない」と訴えてきています。「新聞づくりは仲間づくり」だからです。「新聞は一人ではできない。仲間の協力が必要」ということは、子どもたちはすぐ理解してくれます。でも、私が望む「仲間づくり」は、新聞をつくるときの協力性はもちろんですが、情報を発信する・送り手(集団)として、問題を見つける力や情報を組立てる力、効果的に伝達する力を、仲間として共有して欲しいのです。
 新聞が生み出す「仲間づくり」のもう一面―こちらがより重要なのですが―は自分たちの作った新聞を読み、より楽しい学校生活が出来るように行動する仲間づくりです。新聞がオピニオンリーダー性を発揮することにより、集団が向上するのです。堀江氏のこのたびの「株戦争」は「ジェネレーション・ギャップ」という言葉に象徴されるように、既存の社会にいる者にとって限りなく過激なものでした。彼の「これらのジャーナリズム」論もまた、新聞教育やNIEに対して大きな問題提起となっています。

  


2005年3月1日更新

  

 60歳からパリ在住10年 絵の修行

 菅原尚さんから3冊目の画集『パリ発 スケッチの旅』が送られてきた。
 大船渡線の摺沢駅の近くの丘から、黒い煙を吐いて突き進んでくる機関車を飽かず眺めていた菅原少年は、「大きくなったら機関士になって、見知らぬ遠い所に旅をしたい」と心から思った。そして、その願いを現実のものとした。その喜びが画集になったのだ。あとがきに「(機関車の)勇ましい姿に見とれ、感動したことが今でも脳裏に焼きついている。この原風景は私にとって不死である。2001年パリに移り住んで10年間に、スペイン、ギリシア、北欧など13ケ国を1人で、列車で旅してまわり、車窓から刻々と流れる景色を、スケッチ帳に描き続けた。旅行中は色々な方々と出会い、簡単な会話を交えて、楽しむこれたことに感謝している」とある。
 60歳の定年を契機(3月に退職し、8月にはもうパリ在住)に、単身パリに絵の勉強に出かけた尚さんの生き方のひたむきさ、そして豪胆さ。その尚さんの生き方を支えた澄子夫人と家族のみなさんもまた、豪胆であり、しなやかだった。そんなことを、温かな色合いと柔らかな筆使いのスケッチを見ながら思う。



「パリ発 スケッチの旅・菅原尚」の中より



 借り物の言葉は一つもない

 23日のテレビ「クローズアップ現代」は『老いて華やぐ』というタイトルで水上勉さんを取り上げた。
 平成14年、水上さんは『虚竹の笛』で第2回「親鸞賞」を受賞した。重い病状から授賞式の出席は無理と思われたが、水上さんはその日、車椅子で列席した。テレビはその式での水上さんの受賞の挨拶を映した。
 多くを語ることが不可能な水上さんは、たどだとしい言葉で「借り物の言葉は一つもない」と言った。受賞作についての言葉なのだろう。その言葉を、私は水上さんの生き方の象徴として聞いた。70歳を過ぎてから、いくつもの病いと戦いながら探し当てた「而今」と言う言葉。「而今」とは「ただ今を生きる」という禅の言葉と説明された。「借り物」だらけの私の来し方、そして今である。







2005年2月1日更新



  1月8日『広報はだの』はグランドフィナーレ

 1月8日、「市民が作る『広報はだの』」の最後の編集会議を開いた。10回目のこの会議で編集委員会は事実上解散になる。それで反省会を兼ねての食事会にした。会場でこの日刷り上ったばかりの広報が配られた。食い入るように紙面に目をやる委員の表情には、成就感と安堵感とがあった。しばらく時を置き、一人ひとりが五カ月の活動の思い出を発表した。私は次のように話した。

 100周年記念紙もこのメンバーで
「元日にいただいた年賀状に、『広報はだの』を楽しみにしている、という内容のものが二十数通あった。うれしさと、その期待に応えられるかどうかという不安が入り混じった心境だった。今こうして手にした広報を見て、私たちが願っていたものができたと、喜びがこみ上げてきた。多分、15日の朝、市民の皆さんも一生懸命読んでくれるだろう。
「新聞づくり」は「仲間づくり」だと私は思っている。皆さんは、それぞれの思いや願いを持ってこの「広報はだの」を作りたいと立候補してきた。その思い・願いが、一つにまとまり形になったのがこの広報。広報づくりを通して、まちづくりへの共通理解に立ってこの紙面が出来た。この広報は私たちの仲間意識の結晶だと自負する。そして取材に協力してくれた100名もの人たちもまた、新聞づくりの仲間に加わってくれた。
 私たちは、まさに人生の思い出に残る1ページを作らせてもらった。この企画をされた広報広聴室と市の関係者の皆さんに感謝したい。二宮市長が年頭の挨拶で「50周年を100年に向けての第一歩にしたい」と話された。私たちは100年に向けて「まちづくり」に一層積極的に参加しよう。そして『好きですはだの』をテーマに、50年後の市制100周年記念の『広報はだの』をこの17人で作ることを約束したい。
 各面の責任者だった相原さん、横山さん、鎮西さんのがんばりに拍手を送りたい。加えて、今日まで私たちを支えてくださった広報広聴室の磯崎さんに心からお礼を申し上げる」。

 「また逢う日まで」
「市制100周年記念の『広報はだの』を作ります」と中学生たちが言ってくれた。30代の委員も「市制100周年までがんばって編集顧問で参加したい」と笑いながら話した。二次会はカラオケ。中学生たちがうまかった。彼女たちが歌った曲は、
“Forever memories” “No way to say” “sign” “Moments” “VALENTI” “雪の華” “真夏の夜の夢” “真夏の果実” これ以外にもまだあったはず。
大人の委員の歌は「あこがれの郵便馬車」「釜ケ崎人情」「瀬戸の花嫁」「見上げてごらん夜の星を」「味噌汁の詩」「越冬つばめ」「もう一度、クライマックス」などなど。この会の構成メンバーの特長が見事に表れたこの選曲の妙。「新聞づくり、もうよせばいいのに」と周りの人に言われているのに、まだ新聞にしがみついている。そんな私のテーマソング「よせばいいのに」を歌った。
そして私の「また逢う日まで」でグランドフィナーレ。






2005年1月1日更新

鶏声招福


 
謹啓
 地震水害と思いがけない災害が続き被災された方々の御心労如何ばかりと心痛む日々でございますが本年も余日少なくなってまいりました。 皆様には如何お過ごしでしょうか御伺い申し上げます。私共はおかげさまで無事年末を迎えられますこと有難く感謝の日々でございます。
 本年春には郷里氷上町にて鴨波・栗郷・虚心の親子三代展を開催していただき、六月には母の郷里綾部市に於いて、又八月には東京銀座の鳩居堂画廊で、又先日は京都東山に新築成った崇泉寺に襖絵を納入し、やっと落ち着いて年末を迎える運びとなりました。これ等皆々何かと御支援いただきます皆々様のお陰と厚く御礼申し上げます。
 本日例年の拙筆 干支色紙「鶏声招福」をお送り申し上げます。御笑納下さいませ。
 年末御多端の折十分御自愛下さりご一同様お揃いで良い春をお迎えくださいます様祈り申し上げます。  敬具
    平成十六年十二月吉日                                       
                                  安田 虚心

  安田虚心  大正12年兵庫県生れ  現在・日本南画院理事・京都書画院名誉理事長



 座右の銘
 
◆今月のトップページを飾っている干支は信楽にお住まいの倉田さんからいただいたもの。「エコー」を創刊号から読んでもらっているので、20年間もいただいている。今年96歳になる母の干支は「鶏」だから、信楽焼きも色紙も自分のために送られてきたものと思っている。それで少し元気を取り戻している。
◆ タウン紙が「人物風土記」に私を取り上げるということで、取材を受けた。1時間ほどの取材の最後に「武さんの『夢』はなんですか」と尋ねられ答えに窮した。「夢って聞かれてもネエ、年齢が年齢だから…」と笑ってごまかした。1月6日号に載るらしいが、どのようにまとめられているのか不安である。
◆「座右の銘は」と問われて、ガッツ石松氏は「1.5」と答えたという。新しい年を迎えて今年はこんな言葉を愛したいと思っている「明日できる事は今日するな」。私が好んで使った言葉。学級通信を日刊で書いていたころは「継続は力」という言葉を信じていた。しかし「長く続ければいい」というものでもないだろう」と忠告された。やがて「一期一会」に惹かれるようになった。そして「春はやってくるのではない 自分から春になるのです」というデパートのキャッチコピーに感激した。「一期一会」は大切。だけど「動かなければ出会えない」のも確かなこと。「夢」を語るほどの時間が無い私にとって、動くことが夢であるのかもしれない。






2004年12月5日更新


                        2004年12月2・3日

秦野園芸愛好会の研修旅行    


鹿島神宮の杜


鹿島神宮拝殿

鹿島神宮楼門

養老渓谷の紅葉

粟又の滝


参加者 望月治男 稲毛喜久三 久保寺和一 山田喜一 矢野恒雄 亀山金造 森下政司 
  矢野直吉 高橋庄造 植木正美 古木文一 安藤清 栗田佳史 及川宣治 中川孝男 武勝美



2004年12月1日更新




「広報はだの」 12月1日号




 私たちの「広報はだの」 出稿できました

 11月29日、午後6時から『広報はだの』のレイアウトの最終整理を広報広聴室でおこなった。集まったのは1面の相原さん、2、3面見開きページの横山さん、4面は中学生による「手書き新聞」になるのだが、そのリーダーの鎮西さん。それに市の担当の磯崎さんと私の5人。
 写真は全ページを通して1枚だけ足りない。担当のYさんに電話で連絡すると「12月18日に良い行事があるので、その写真を使いたいから」とのこと。既にその日までに二校が終わってしまうのだが、その日まで待つことにした。リードを仕上げ、色指定もある程度してみることにした。相原・横山さんとも色彩にはこだわっている。初校が楽しみ。4面の鎮西さんも「見出しはカラー」と言っている。こちらは怖い感じがするが、若者の感覚を信じることにした。
 6カ月かけて出稿の日を迎えることができた。取材のし直し、写真のボツなどかなりいやな思いをさせてしまったが、それでも全員が私の注文に答えてくれた。特に相原、横山さんのがんばりでここまでこれたという思いが強い。この二人の存在が私を楽にしてくれた。
 広報広聴室に12月1日に発行される『広報はだの』が届いていたのを見せてもらった(上の写真)。この号では1面が『市民が作る広報はだの』の特集になっている。1月15日に発行されるわたしたちの号の“さきぶれ”になっている。その記事を読み、プレッシャーを感じたが、ここまで来ては…。それよりも期待されているという喜びを感じだ。
 ここまで活動を振り返ると、今は「広報作りを楽しんだ」という思いが強い。編集委員はみんなそう思っているに違いない。
 11月30日の夜、東京に転居したIさんから電話があった。「武さん、がんばっているね。広報を読んで嬉しくなって電話したよ」。転居後もIさんは秦野市の広報を郵送してもらっているらしい。届いた12月1日号を見て電話をくれたのだった。「1月15日号を期待してください」と応えた私の声はたしかに弾んでいた。






2004年11月1日更新


 あるPTA広報の特集を読んで

 お弁当といえば

 秦野市内の4つの中学校で、この四月から注文弁当システムが取り入れられた。そんなこともあって、ある中学校のPTA広報が、先生たちに「お弁当といえば」という題で書いてもらっている。それぞれ思いいれがある話で興味深い。そのいくつかを紹介すると
 「母はいつも朝早くから畑仕事に出ていましたので、祖母がお弁当を作ってくれました。母に『たまにはお母さんのお弁当がたべたい』と無理を言ったことを思い出します」
 「今のように食生活が豊かでなかった時代のお弁当。鯨カツ、魚肉ソーセージが思いでのおかず」
 「お弁当と言えば、私は揚げ玉子。中学生のとき、一度好きといって以来、毎日続いた一品。『もう勘弁!』と思っていたのに、今は食べると涙が」
 「週に一度、部活の仲間とお弁当のおかずを取替えて食べた。友達の好きなおかずをわざわざ作ってもらった」
 「お弁当一面にノリがあるとうれしかった。それに煮カツがおかず、最高でした」
 「腐ったもの以外残したことはありませんでした。大好物は玉子焼きでした」
 「テニスの大会のために朝5時に起きて作ったお弁当。それなのに試合場で会った娘は『おかあさん、お弁当落とした!』」
 「子どものお弁当作りを14年間も続けなければいけないと気づいたとき、ため息がでちゃいました」
 「私にとってのお弁当は、結婚以来欠かせない毎朝のお仕事。2個から6個、そして3個、我が家の歴史を語る数です。心を込めて『愛の宅急便』を…、でもあと何年続くのでしょう」
 「できるかぎり手作り弁当を心がけています。お弁当を開いたとき、作った私を思い出すように心をこめて。でも子どもたちはたまにあげるお弁当代の方がうれしいようです。悲しい」


 今日が最後の弁当の日だったよ
 妻に弁当の思い出は、長男の高校生活の最後の弁当のこと。
 高校の教師をしていたので、明日が最後の弁当になるということはわかっていた。「だから普段は冷凍ものだったけど、ナマの海老を買ってきて、好きだった海老フライを揚げて多めにお弁当につめてあげたのよ」。
 その夜の夕食時、「母ちゃん、ありがとう、今日が最後の弁当の日だったよ」。そして、にっこりと「言っておけばよかったね」と長男は言ったのだった。
 

 今年95歳の母・八重子の「塩ジャケ弁当」の思い出
 お歳暮に塩鮭をいただいた。わが家にとっては十年ぶりぐらいの″珍客〃である。なにしろ「お歳暮のシャケは仲人っ子が仲人にとどけるもの」だからである。七草がゆを食べたところで、鮭をおろすことになったが、大物なのでそれこそ刃が立たない。仕方なく魚屋さんに頼んだ。文字どおりのサーモンピンクに輝く切身の山を眺めて、明治生まれの母がつぶやいた。
 「もったいないねぇ、こんなにたくさん」。そして、子どもの頃のシャケの思い出を話し始めた。
 「貧乏だったからねぇ、仲人なんか頼みに来る人なんかあるはずないよ。でも、シャケはどうしても冬には必要だった。おじいちゃんの冬の仕事は、薪山でね。マキヤマっていうのは、よそ様の山の雑木林を立木のまま買って、それを薪に切り出して売るんだけど、買える山は奥の方ばかり、仕事は全部手仕事、大変な重労働でね。だから、せいぜい昼の弁当だけは力のつくものと、おばあちゃんが、米のご飯とシャケを焼いて持たせてやってね。うちには、シャケはお歳暮になんて来るはずなかったから、切り身で買ってさ。でも、あたしたち子どもの食べる分はなかった」
 大きな鮭の頭を手にしながら、母の思い出はさらに言葉となってくる。
 「毎日おじいちゃんが山から帰ってくるのを、わたしたち子どもは楽しみに待っていてね……。おじいちゃんは大きな弁当箱をあたしたちに渡す。弁当箱の中にはほんのひと口のお米のご飯と、ちいさい赤いシャケが残されててね、それを食べられることがうれしくてさあ。おじいちゃんは子どものために、毎日弁当を残してきてくれたんだってわかったのは、ずっと大きくなってからでねえ」
 話し終わった母は恥かしそうにもう一度つぶやいた。「貧乏だったんだよ、ほんとに」。

 さて私の「お弁当といえば」は…。
 小学校の校庭の通用口まで10メートルだった我が家。だから弁当は作ってもらえなかった。お昼の時間になると「弁当食べに行ってきます」と先生に断って家に帰った。正月明けの昼ご飯は、温め直した朝の雑煮の残りを食べた。焼きざましの餅と煮崩れたサトイモだけのこの雑煮。私はこれがけっこう好きだった。我が家では水餅を二月中ごろまで食べていた。そんな食生活を思い出す。




 
小千谷 浦佐

 10年ぶりになるのだが、10月の27・28日に、大学時代の仲間の4人でOさんを新潟の浦佐に訪ねることになっていた。今治のKさん、尾花沢のSさん、東京のNさん、そして私の4人が、体を不自由にしているOさんを見舞うことにしたのだった。
 大学の近くの「おきな」という小さな食堂があった。注文したラーメンに、自宅から弁当を持って通学していた2人のご飯を分け合って、ラーメンライスを食べていた7人だった。
 国文、社会学科、英文と、専攻は違った7人の仲間だったが、今度集まるのは5人。放送記者だったTさん、新聞記者のYさんは現役のうちに他界してしまった。Oさんは私と同じ中学教師、Sさんは市役所勤務、Kさんは酸素販売会社の役員だった。Nさんだけが未だ現役、校閲記者として読売で働いている。
 27日は4人で湯沢温泉の「雪国」の高半ホテルに泊まり、旧交を温めることになっていた。紅葉も見ごろかもしれない、と楽しみにしていた。ところが小千谷を中心にして起こった新潟中越地方の大震災。
 Nさんはその小千谷で育ったのだ。学生のころNさんの家に泊まり初めてスキーをした。浦佐のスキー場はOさんに連れて行ってもらった。その小千谷と浦佐に行けることになっていたのに。Nさんと話して今回は中止、「来春に」ということにした。
22日の消印のはがきが尾花沢から来た。「27日に逢えるのを楽しみにしています」とあった。
 浦佐にようやく電話が通じ奥さんと話ができた。Oさんは22日に退院したところだとのこと。「二人がいる部屋だけは何とか動けるように整理が出来た。他の部屋は今は手をつけない。当分ほっときます」と比較的明るい声。「二人だけの生活だが、余震が続く中でも、看護師さんが見回ってくれる。みんなに助けられていますから安心です」とも。Oさんは3度目の脳梗塞を起こし、言葉を口に出せない。私の声だけは聞いてもらえたようだ。がんばって欲しい。






2004年10月1日更新



 江森陽弘のエッセイ「あの世に旅立つ前に 夫と妻の一言」を読んで

 雑誌『人権のひろば』2004年5月号(発行・財団法人人権擁護協力会)に掲載された、江森陽弘さんの随筆「―あの世に旅立つ前に―夫と妻の一言」を読んだ。はじめはニヤリとしたりしたが、読み終わって身につまされた。
 ある斎場が「死ぬ前に、夫、あるいは妻に、これだけは言っておきたい、ということがありましたら、その思いを手紙に書いてください」ということで、夫への、妻への、家族への「手紙」を公募した。手紙は匿名で発表、ということもあって、こんなことを書いてもいいのかなあ、と心配してしまうものなど300通ほど集まったらしい。「『夫を愛して四十年、幸せでした』『妻一筋、わき目も振らず…』などといったウソっぽいのはごく少数」と江森さんは書いているが、この世には正真正銘、純愛の夫婦はたくさん存在する、と私は信じる。「応募してきた手紙は、妻が書いたものが圧倒的に多く、なんの遠慮もなく書いている」と審査員の江森さん。「夫婦の真髄に触れられて楽しかったし、深く考えさせられた」ともその感想を述べている。
 そのエッセイの中で紹介されたいくつかの手紙の要旨を紹介すると、

 元気な言葉の妻 夫の手紙は切ない
▽恨みつらみの手紙
 「実はこの三十年間、一度も心の底から貴方と結婚してよかったと思ったことはありませんでした。貴方の、酔いにまかせての暴力、暴言の数々、忘れることは出来ませんでした」。似たようなのをもう一つ。「今日まで楽しい人生をありがとう。振り返ると、ひどい目にたくさん遭わされました。でも恨んではいませんよ」
▽生きがいを家の外で求めているうちに、どんどん変化していった妻は、「『あなたって、家の中で味方なの、敵なの?』これが私があなたと結婚して一週間目に感じたことでした。それはプライドなの、テレなの。ウソでもいいから私に感謝の言葉を贈ってくださったら、私は貴方のためにもっともっと踊りました。貴方は損をしています。おかげで、私は家の外で沢山の楽しみを持ちました。友達との旅行、ボランティア…。その結果、妻として、ちっともかわいくない女になってしまいました。こんど生まれてくるとしたら、わがままで、自己中心的で、自分に正直で、そんな『可愛いい女』になりたい。とりあえず、こんな私をつくってくださって、ありがとう」。手紙の中身とは大きく異なるが、PTA広報づくりを通して大きく変身した妻たちが、私の周りにもたくさんいる。知的好奇心の旺盛なのは、まちがいなく妻のほうだ思う。
▽夫をこの世に残していくのを心配する妻たち。
 「ぬるま湯につかっているあなた。今から少しずつ、私が熱い湯を浴びせ刺激を与えておきましょう。愛のムチだと思ってくださいね」「息子へ。あの世から迎えがきたら、心残りは自分勝手なお父さんを連れて行けないことです。あなたたちの生活を、お父さんにかきまわされことないこと。いいですか、お父さんのオムツ替えを○△子さん(嫁)にさせてはいけない。老人ホームに入居させてください。ホームに入れることは親不孝なんかではありません。“情けは人の為にならず!”ですよ」
▽夫へのお詫びの手紙も…
 「あなた(夫)には登山、パソコン、テニス、囲碁など、いろいろ教えてもらい幸せでした。最後にあなたの敬愛するお母さまのこと、最後まで好きになれず、あなたが不在のとき、少々意地悪したこともあり、深くお詫び申し上げます」
▽亡くなった夫への手紙
 「私はまだ84歳。調理師の資格をとり、家を建て、お墓を立てました。あなたのことを思い出す暇もなかった。まだ、やりたいことがあるから迎えにこないでね、ほんとよ。間違っても来ないで」。

 「また貴女と結婚したい」とすがる夫
 とにかく妻たちはは元気なのだ。それに対して妻に書く夫の最後の手紙はなんと純情可憐なものであることよ。
 「苦労のかけ通しだった。私が先に逝ったらホッとするかな? 生まれ変われるものなら、また君と一緒になりたい。私のところに来てくれるという自信はないが、気長に三途の川向こうで待っているよ。無駄だとは思うがね」
 「世の中にはもっと貴女を幸せにしてくれる男がいたかもしれないのに、なぜ、この私と結婚してくれたのか。嫌かもしれないが、来世、貴女を見付け出して、また一緒になりたい、お願い」
 「今まで泣き泣き、よくついてきてくれました。本当にごめん。天国で再び出逢っても、振り向かなくてもいいです。好きな道を行ってください。私は幸せでした」
 「ほとんど『また貴女と結婚したい』と夫たちは涙ながらに訴えている。元気のない、なんとも切ない話」は江森さんのまとめの感想。
 さて、あなたが書くとしたら「書けない?」。「書かない!」が正解だと思いますが。




 10月の予定
  10月3・4日  関東パピルス・さいたま総会   さいたま市
   12日     広報づくり講座         秦野市民生児童委員協議会
   20日     「広報はだの」編集会議NO6
    






2004年9月1日更新

  『清水湧水池跡』碑 建立ものがたり

            8月22日に碑のお披露目  

  高さ約1b・重さ約1d・四国産青石の碑  

 
7月19日「石のカワサキ」の庭先で、夏の朝日を浴びて『清水湧水池跡』の碑が私を待っていた。高さおよそ1メートル、重さ1トンほどの四国産の青石(緑泥片岩)の碑である。その姿は、さながら清水が盛り上がりながら湧いているかのように見える。真っ先に碑文の正確さを確かめ、ホッとした。そして、やがてじわじわと喜びが体中に広がっていくのだった。

 
きっかけは『寺山ものがたり』
『寺山ものがたり』の中で、新編相模国風土記稿にも記されている「清水」が消えることを書いた。県道の改修工事で埋もれてしまった湧水池は、地名「清水」の発祥地であり、東小・中学校の校歌にうたわれているものだった。歌を歌うとき、私たちは自ずとその歌詞の情景を思い浮かべる。「清水ケ丘は夢湧くところ(東小学校)」、そして「いつも湧き立つ希望の泉(東中学校)」と校歌を歌う子どもたちに「泉」の情景を与えたいと思った。だから、せめて文として「清水」があったことを残したいと思った。その思いが『寺山ものがたり』の上梓につながっているとも言える。
私のその感慨が、清水庭の人たちに伝わったのかもしれない。二月に自治会で阿武隈洞に出かけた折、自治会長の武敏明さんから「勝美さんが書いたことをなんとかしなきゃあ」と言葉にしてくれた。小泉俊さんから「湧水の保存のことを考えてみましょうよ」との後押しの発言もあった。
 こうして、今年6月の清水自治会の総会で記念碑の建立が決まった。建立実行委員会が発足した。県道改修工事との関係もあるので「7月中の落成」を目指すという、きつい条件がつけられた委員会だった。碑文の作成、石材の決定、さらには式典の内容の検討など、早いペースで仕事は進められた。忙しいが、心が弾む委員たちだった。碑文は私が担当することになった。

 平成16年8月22日、午前9時から「清水湧水池跡」記念碑の除幕式が行われた。清水自治会の会員26名、小・中学校の校長先生など来賓4名、それに「東中新聞」の取材を兼ね、先生と中学生の4人も参列してくれた。近所の小学生ものぞきに来てくれた。
 自治会長、各組長、小・中学校の代表の手で記念碑が除幕され、神事として碑の鎮座と道祖神の御霊移しの祝詞の奏上があった。「碑文の紹介」を担当した私は、東小学校・東中学校の校歌を歌い、碑文の補助説明をした。30数名の小さな式だったが、みなさんの顔は晴れやかだった。

 
お祝いにいただいた『高清水』
 今度の記念碑の建立について、かなり前からHPで紹介していた私に、前日、千葉のSさんから除幕式を祝うメールをもらった。「私の勝手な想像ですが、清水、湧水、命の泉、清水ヶ丘、希望の泉、風土記、等々の言葉から、神主さんが高天が原の八百万の神に祝詞を献じ、お神酒、玉串奉奠を目に浮かべています。先生と清水自治会の皆さんの厳粛で神聖な式典と祝賀会がいよいよ明日ですね。おめでとうございます。」そして、別便で銘酒『高清水』が送られてきた。思いがけないことだった。メッセージだけでも十分感激しているのに、『高清水』を献酒してくださるとは…。
 10時からの祝賀会の席上、Sさんからの『高清水』を披露した。ホウという驚きの声。そして、やがて拍手。Sさんによって、私たちはこの地・清水に住んでいることのすばらしさを教えられたような気がした。
私たちの自治会は、今度の記念碑の建立を通して、この地の風土を知り、考えることを始めた。昭和30年ころまで、清水庭で行われていたさまざまな『講』の掛け軸や幟が、私のところに持ち込まれた。秦野市の記録には掲載されていない庚申塔や巳待塔など3基の存在も、明らかになった。それらのことについてもこの祝賀会の席上で披露できた。

 
ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる
「まちづくり」とか「地域の活性化」などという言葉の下に、このごろ「〇〇祭り」とか「フェスタ△△」などという人集めが行われている。だが、先ずやらなければいけないことは、地域を知ることだろう。「ふるさとを知る」ことで「ふるさとが好き」になり、だから「ふるさとを育てよう」という心になる。この地に移り住んで十数年になるNさんが「何も知らずにここに家を建てたけど、ここはすごいところなんだ。うれしいですよ」と、今日の感想を述べてくれた。私もまた、ふるさとを愛する心と高い志向を抱く清水自治会の一員であることを心から幸せに思う。

碑 文

(表) 清水湧水池跡
  

(裏) 此所清水湧出す 田間の用水とし  叉民家の用水ともなす
                        新編相模國風土記稿

  先人たちの命の泉であった湧水「清水」は、この地に埋もれたが、
  東小学校・東中学校の校歌として「清水ヶ丘」の「希望の泉」と、
  子どもたちに歌い継がれる。
   平成十六年七月吉日
                       清水自治会建立

  





9月の予定
 9月3日  生涯学習講座・広報づくり講座  松田町教育委員会
   8日  PTA広報クリニック      秦野市PTA連絡協議会
  10日  新聞づくり講座         大井町教育委員会
  22日 「広報はだの」編集会議NO5







2004年8月5日更新


「清水湧水池跡」記念碑建立の覚え書き


 「清水湧水池跡」記念碑建立の経過

                       
(平成15年度より主要県道秦野清川線、清水地区の拡張改修工事始まる)
平成16年1月15日  『寺山ものがたり』を武勝美氏が上梓
平成16年3月20日  清水自治会総会で会長より「記念碑建立」について提案
平成16年1月15日  防災倉庫、道祖神の移転作業
平成16年6月12日  清水自治会集会で記念碑建立を決定
            自治会内に「記念碑建立実行委員会」を設置
            第1回実行委員会(全体計画)
平成16年6月18日  防火水槽の撤去により「清水湧水池」が消滅
平成16年6月20日   記念碑設置場所の整備 道祖神を元の地に移転 
平成16年6月26日   第2回実行委員会(碑文の決定、石の選定と発注「石のカワサキ」)
平成16年7月17日  清水自治会集会 除幕式・祝賀会の実施を決定
             第3回実行委員会(式典の期日・記念品の検討)
平成16年7月19日  記念碑を受領・運搬・仮設置 第4回実行委会
            (除幕式・祝賀会にかかわる内容の検討)
平成16年7月25日  第5回実行委員会(案内状発送)
平成16年7月30日  第6回実行委員会(記念品の発注)
平成16年8月21日  第7回実行委員会(前日準備)
平成16年8月22日  「清水湧水池跡」記念碑除幕式と披露・祝賀会
                  記念碑建立実行委員  武敏明 武正之 小泉俊 原清 武完 遠藤洋造 武勝美



 清水自治会会員への除幕式・祝賀の会の案内状

謹啓  
 盛夏の候、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
 さて、皆様のご賛同を得て準備してまいりました「清水湧水池跡」の記念碑がこのほど完成いたし、
建立のはこびとなりました。この地に生活している私たちは、次代の人たちに一つのことを
引き継ぐことができたことを喜び合いたいと思います。
 つきましては、ささやかですが下記のように記念碑の除幕・披露と祝賀の会を開催いたします。
ご多忙とは存じますが、ご出席くださいますようご案内申し上げます。

                                      謹白                                    
 平成16年7月吉日
                           清水自治会会長  武  敏明                 
                           清水自治会記念碑建立実行委員会

          
           記

1 「清水湧水池跡」記念碑除幕式
  日 時    平成16年8月22日(日)9:00より
  場 所    記念碑建立地(バス停・東中学校前)
                    
2 記念碑建立祝賀の会
  日 時    平成16年8月22日(日)10:00より
  会 場    寺山 あずま荘



 「清水湧水池跡」記念碑除幕式・祝賀の会の次第

 秦野市寺山・清水自治会主催
  「清水湧水池跡」記念碑除幕式次第 
            平成16年8月20日(日)9:00開式

               進行  小泉 俊
1 開式のことば           武  完        
2 建立者代表のあいさつ  自治会長 武 敏明   
3 除幕          自治会長 組長           
4 神事
5 碑文紹介             武 勝美         
6 記念写真           
7 閉式のことば           遠藤洋造               

 (あずま荘へ移動)
 
  記念碑建立祝賀の会次第 
            平成16年8月20日(日)10:00開会

              進行   小泉 俊
            
1 開会のことば           原  清       
2 経過報告             武 勝美          
3 建立者代表のあいさつ       武 敏明    
5 記念品の披露           武 敏明        
5 祝辞                   
6 乾杯               武  完        
7 懇談
8 万歳三唱             遠藤洋造
9 閉会のことば           小泉  俊         




8月の予定
8月2・3日 全国新聞教育研究大会           水戸市
   4日  川崎市小学校社会科研究部会の「秦野市臨研」の講話
  11  「広報はだの」編集会議NO4
  22日  「清水湧水池跡」記念碑除幕式


『寺山ものがたり』2刷
 「7月15日第2刷」の奥付で、『寺山ものがたり』を再発行しました。予約が8冊あったので、決心したのですが、ストックを大量に抱え込むのではないかと思っています。それでも、思いがけない方から注文も入ります。それを頼りに、私なりの「ロングセラー」を狙うことにしました。

7月の報告 これだけのことをしました
7月 1日 秦野市臨研打ち合わせ          川崎市小学校社会科研究部会
   2日 歴史探求講座講演「寺山ものがたり」  秦野市立東公民館
   3日 「夢広場・まつだ」講演会       松田町教育委員会
   6日 市民が作る「広報はだの」編集会議   秦野市
      学校訪問               秦野市内
  15日 『寺山ものがたり』2刷発行
  16日 大秦野高校同窓会80周年記念誌企画会議
  21日 「広報はだの」編集会議NO2         
  24日 秦野市臨研打ち合わせ          川崎市小学校社会科研究部会
   27日 座談会「秦野の新聞教育」       秦野市教育研究所
   28日 「広報はだの」編集会議NO3
  30日 「秦野の新聞教育」編集打ち合わせ   秦野市教育研究所
        






2004年7月5日更新


 
  水無月 そして文月


6月26日  
 東公民館で「親子で楽しく新聞づくり」講座の2回目。きょうは2人の小学生を含め9名の参加。お母さんの書く記事だけが埋まっていないだけの紙面を作って持ってきた家庭があった。その新聞は清書を5年生の子が担当していた。他の家庭の刺激になったようだ。家族新聞がいくつ誕生するのか楽しみ。
 午後、清水自治会の三役と一緒に『清水湧水池跡』に建てる記念碑の石を見に行った。趣旨に合いそうな自然石を中井町で見つけた。予定価格まで交渉し、その石に決めた。碑文は私の書いたものをお願いした。7月中に建立という予定で仕事を進めてもらうことにする。『寺山ものがたり』がこんなふうに清水庭の人たちを動かすとは思ってもみなかった。帰りに5人で生ビールでの乾杯。そして3時間近く『寺山ものがたり』を語り合った。ふるさとを思う心は誰にでもあるのだ、と強く感じた。うれしかった。

6月27日
 大磯プリンスホテルで内藤美彦先生の叙勲のお祝いの会。120名ほどの出席者で盛会。現役の中学校の先生たちから、神奈川教育の今の課題である「絶対評価と高校選抜」について、現場のご苦労ぶりを聞かせてもらった。

6月28日
 鶴巻の陣屋で大館茂先生を囲む会。15名の会。大館先生は高校の担任の先生だったが、今日の会は「数学クラブ」に所属していた生徒の集まり。なぜか今でも分からないのだが、私は「数学クラブ」に入っていたのだ。ひげの濃さと眼光の鋭さから「山賊」というあだ名の持ち主だった先生は、数学クラブの活動の中で大学入試のための補講を開いた。そして英語まで教えてくださった。きょう改めて先生と私たちとの年齢差を知った。10歳と違っていない。大学受験の数学と英語を教えてくれる先生として、とてつもなく大きな存在感のある先生だった。当時の高校の先生たちは、個性的、一匹狼的で、なにより教養人だった。大館先生もその一人だった。
 お
住まいが松田町なので、7月3日に私が講演をすることを知っていらっしゃった。「家内が、町の広報を見て『これあなたの教え子のあの武さんじゃないの』と武君を見つけたよ。がんばってるね」と先生。参加者の9人が元教員でその中の6人が数学の教師だった。「武君は英語だったの。ずっと数学だと思っていたよ」との先生の言葉に「私は数学は赤点もらいました」と答えた。
 隣りに座ったのは金目に住むN君。それで金目川のことを少し聞いてみた。N君は「親戚の年寄りは、ウチのことを『カネエ』と言ってるよ」と、とても価値のある資料をくれた。金目川はやはり「カナイカワ」と呼ばれていたのだ。

6月29
 東中学校の一年生の「総合学習」の授業。「東地区の歴史・文化」がテーマ。話したこと。@地名「秦野」の由来 A7村の名称の意味 B校庭の中の道 C大山道 D校歌に歌われる清水。
 生徒の反応は上々。130名ほどの生徒達が、要望に応えて私と一緒に小学校と中学校の校歌を合唱してくれた。消える「湧水・清水」の跡地に碑を建てる、と話したら「ありがとうございます」という言葉が返ってきた。「ふるさとを知ることは ふるさとを愛すること・育てることだ」と確信した。
 きょう『寺山ものがたり』5部出る。これで完売。

6月30日
 『市P連だより』の編集会議をここで。7人が集まる。市内全22校の児童・生徒・保護者を対象にアンケート調査を行った特集の紙面。ページ数が少ないため、どのような構成、まとめをするかが大変のようだ。集計に苦労したこともあって、会議はけっこう熱かった。うらやましかった。そしてほほえましかった。ホントは今日出稿するはずだったらしいが、先送りになった。


7月1日
 松田町での話のレジュメを完成させた。間もなく7年になる神戸の事件。そのことについて少し触れるつもり。
 午後2時半から川崎の二人の先生と8月の巡検(「巡研」と書くのだろうか)の最終打ち合わせ。真夏ということで、急きょ東公民館を借りようということになった。それですぐに公民館に行った。幸運にもその日だけ開いていたホールを確保できた。当日、「八幡・清水」の横掘り井戸を見学し、その水をお土産に持ち帰りたいという希望なので、大津さん宅へ同道。大津4軒組に協力をしてもらうことになった。大津宅の庭で先生たちと別れ、金山の古谷家を訪ねる。今もこの家の裏山から水量豊かに小川が流れ出ていることを確認。8月に先生たちをここにも案内するつもり。

7月2日
 「まほら東・寺山ものがたり」の話を聞きに来てくださった人は80名弱。(定員は50だったので会場変更)東地区外の方が半分。清水庭から5人、東婦人会や東自治会の役員さんたちで30人ほど。教え子のTさんが申し込み第1号だったこともうれしかった。古事記を読む会でご一緒したMさんの顔もあった。エコーの読者も数名参加してくださった。東婦人会が演台に花、そしてテーブルに観葉植物を飾ってくださった。(この二つは私へのプレゼントになっていた。)
 話は「寺山の地名」と「ちょう塚のお婆」に絞った。終わってKさんが感想を述べに来てくれた。「善波峠の南側に寺畑という地名があります。そこにウチの畑があるのだけれど、なぜ『寺』という名の畑があるのか分からなかった。今日の話で『寺山』の寺は“テーラ”が元。テーラは『平・タイラ』の秦野弁、ということで『寺畑』という地名が納得できました。」
 講座の中で「『寺山ものがたり』は売り切れ」と説明したのだが、それでも数冊の申し込み。帰って妻に相談。再版することにした。





e-mail from New Zealand 第7信

 こんにちは長谷朋子です。冬の到来とともに、澄んだ空で何千個という星が見れる季節になりました。2年目と言う事もあり、今まで、あまり気にかけなかった小さな事で感動する事が多々あります。夜に散歩をすると、日本では見る事のできなかった小さな星が、くっきりと肉眼で見る事ができます。日本のように2階建てや高層ビルのないニュージーランドではあたりまえの光景だそうです。自然って美しいなと思わず感激してしまいました。それから、環境のクラスでニュージーランドの生態学について学ぶため森を探検してきました。今までみたことのない風景にただ口がぽかんとあいてしまいました。授業も生活も自分らしいものになってきました。学校新聞の記者に挑戦したり、学校のアルバム作成委員会に入ったり、少しずつですが、何か自分自身かわろうとしています。今月で10代も最後になります。もっともっとたくさんのことを吸収してまた一つ大きく前進したいものです。







2004年6月1日更新

 5月は私の「新聞月間」

 5月は私にとって「新聞週間」ならぬ新聞月間。10会場で1000人ほどの人に新聞の話を聞いてもらった。「あなたは自由を守れ新聞はあなたを守る」「新聞づくりは仲間づくり」を根底に「一期一会」の心で話した。


5月6日   
 秦野市P連主催の広報技術講習会、参加者は130名ほどとか。参加者は9時から会場に並べてある全国のPTA広報紙を読み、9時30分から私の講義を聴く。今回から使う資料を長テーブルに話の順番に並べて置き、それにしたがって話を進めた。昨年よりはスムーズに講義はできたと思っている。ただ、2時間という持ち時間では、参加者が不安がっている広報作りの基本的なノウハウを知ってもらうことは十分ではなかったと思う。どうしてもPTA広報の意義を説くことに力が入ってしまう。
 講座の後、1時間ほど「市P連だより」の企画会議に参加した。「二学期制の試行」と「外注弁当の試行」を特集のテーマにするとのこと。7月発行の予定では「試行期間」が短すぎて記事を書くことが難しいのではないかと助言。
 

5月7日   
 大失態 会場に忘れ物とは 
 大井町の広報技術講習会、こちらは9〜12時までの3時間研修。幼・小・中PTAをはじめ、地域団体の広報委員が50名ほど集まって来た。昨日よりゆったりと話すことができた。教え子の湯川さんが激励に来てくれた。うれしいことだった。
 帰って一休みしていたら、大井町教育委員会から「忘れ物」の電話。忘れ物のなかに火曜の講座に必要な資料がかなりあるので、すぐに大井町を再訪。それにしても、恥ずかしい、情けない、なにより寂しい。今朝の神奈川新聞が、昨日の秦野での講習会を三段見出し・写真付きで紹介してくれた。ありがたいこと。

 
5月11日  
 
PTA広報に広告を載せたいが
 荒川区でのPTA広報研修会。10時から120名強の参加者。どこの会場でも「《泣きの涙》で広報委員になった人」と聞いている。今日の荒川の挙手はゼロ。思わす拍手した私。こちらもそれに応えなければ、と思った。
 質問が一つ「PTA広報に広告を載せたいが…」発行費を広告から得たい、と言う。それほどまでに広報の費用が欲しいのは「学区が無くなり、自由選択になった。あらぬ風評から、ウチの中学校に来るはずの生徒が一クラス分が他校に行ってしまった。ウチの学校の良さを、PTA広報を通して荒川全区の人たちに知ってもらおうと思うので」とのこと。「意気込みや良し」。コピー印刷で回数を増やすことを勧めた。


5月12日  
 本町中学校での広報講習会。参加者は広報委員と学級代表と希望者。椅子が足りず隣りの部屋から運び込んでの120数名。一生懸命に聞いてくれた。講座が終わってのW君の感想「新聞の話はおもしろかった。新聞をつくってみたい」。この思いがクラスに伝わって欲しい。担当のH先生から「三年間、出席している生徒もいました。今年も新しい話が聞けて、私もよかったです」と言ってもらえた。 
 
 
5月17日 
 新聞っておもしろい
 2時10分から南が丘中で「新聞の読み方」の講演。この学校は「総合学習」を個人テーマで進めているとのこと。環境、福祉、国際理解、地域、そして情報の5分野が設定され、今日は情報の領域の「新聞」について学ぶことになっていた。生徒と先生方全員の390名ほどが体育館に集まってくれた。私がつけた今日の演題は『新聞っておもしろい』。持ってきた一般紙のどこに新聞の値段が書いてあるかを探すことから始めた。小泉首相の年金未加入を各紙がどのように扱っているのかも紹介した。
 中学生が新聞を読むポイントを次のように示した。
1 先ずテレビ欄に目を通そう。特に「ワイドショウ」の項目を読もう。 
2 次は1面、見出しだけでもいいから。
3 2・3年生は1面のコラム、1年生は社会面のコラムを読もう。
4 「人欄」で生きることの意味を学ぼう。
 正味1時間、かなり汗をかいた。終わって質問が3つ。2年生から「朝日新聞の題字の『新』の字が違うが」と「版と締切時間」のこと。三年生からは「なぜ朝刊が12版から始まるのか」。その瞬間だけでも新聞に関心をもってくれたようだ。よかった。


5月19日  
 
難しい「学校に新聞を」の意義を伝えること
 大根中学校の「ふれあい講座」に講師として出かけた。受け持った講座は「新聞づくり」。保護者も参加できるシステムらしいが「新聞づくり」では保護者の参加はない。受講者は生徒22名。実際に記事を書くこともしてもらった。「5W・1H」を基本に、この講座の報告記事を25分で400字程度の記事にするという実習。全員が真剣に原稿用紙に向かっていた。
 提出してくれた記事を読み「学校生活には新聞が必要」という私の思いが十分に伝わっていないことが分かった。私の話が難しかった、イヤ堅苦しかったのだ。完成した記事の中に「バクスイ(爆睡)」とか(笑い)というような、メールで使われる遊び感覚の表現が使われているのが目に止まった。子どもたちのこの感覚を新聞づくりも受け止め、とにかく新聞が発行されることを目指すべきなのだろう。終わってから二人の1年生が今日使った他校の新聞を見せて欲しいと来た。それで、しばらく新聞を一緒に読んだ。
 ことしの大根中の学校新聞とPTA広報の委員長さんは親子だそうな。去年、わが子の新聞づくりを見て、お母さんは「おもしろそうだから」と立候補されたという。
 夜、今日の講座に参加したUさんからメールがきた。「ネットで検索してみると、武さんはすごい人なんだなぁと思いました。本とかだしてるんですね。私もホームページやってるので良かったら来てみて下さい。(武さんからみたら、文章等めちゃくちゃだとおもいますが)それではまたきます。さようなら。」
 

5月21日  
 東中学校の新聞講習会。50分の講義のあと、20分を使ってこの講習会のことを「東中新聞」に載せる記事を書く実習。次はAさん書いた記事(原文のまま)。私の講義の評価にもなっている。
 「五月二十一日の放課後、被服室で新聞講習会が行われた。これは、武勝美先生をお招きして毎年行っていることで、今年は広報委員と一年生の新聞係り計四十四名が参加した。では、なぜこの講習会が行われているのでしょうか。東中学校では新聞作りが伝統です。発行号数も七百号を超えいろいろな賞も取っています。しかし、問題点が全くないわけではありません。情報が遅かったり、記事が表面的な内容になってしまっています。また、シリーズ『東の光』も毎回同じような内容になってしまっています。だから、東中新聞の問題点を改善し、また、楽しい学校づくりに役立つような新聞をつくるためにこの講習会を行っています。 講習会で学んだことを生かし、また今までの伝統も残して、新しい新聞作りを行っていきたいと思います。少でも新聞づくりに興味のある人は、次回の講習会に参加してみてください。」


5月25日
 夜のPTA広報講座
 荒川区の夜の部の広報講習会。夜7時から開かれる広報講座は私には初めてのこと。参加者は90名弱とか。11日と合わせると参加者は200名を超えている。荒川区の小・中学校は33校だから1校平均にすれば6名の参加。ちいさな広報委員会は全員参加かもしれない。男性の姿もちらほら。仕事を終えて駆けつけた、というようすの人も多かった。
 一生懸命うなずいて聞いてくださる姿を見て、身が引き締まる思い。責任を感じる。「PTA広報づくりに取り組むお母さんたちはステキな女性の代表」と、今夜も話したが、こうして夜の広報づくりの研修に参加する姿勢を眺めると、私の言葉に偽りはない。9時に終わったが質問のために会場に残った人も何人か。 
 前回の参加者の感想メモをくださった。チラッと目を通した。過去に二度・三度と広報講座に出席されている人がかなりいる。その体験と私の話との対比がしてある。私の通信簿だ。来年もここ「サンパール荒川」で話をさせてもらうことになった。11時半過ぎに帰着。体は疲れたが、心はかなり上気した今日だった。


5月27日
 7時14分の秦野始発で座って行った。代々木上原で千代田線に。多分ラッシュの真っ只中、と思っていたら拍子抜け。国会議事堂前で乗り換えた南北線。なんと、乗った電車には4人掛けのシートがあった。「地下鉄」じゃなくて「東京メトロ」と最近名前が変わったが、なんとなく「レトロ」。空いていたので座った。黒のスーツのビジネスマンと同席、なぜか楽しい心。
 会場の文京区民センターには9時半ちょっと過ぎに入ることができた。参加者は100名くらいか。今日は手書き用の新聞罫用紙をテーブルごとに2枚渡した。この用紙で、今日の講習会の内容を記事としてまとめ、参加できなかった委員に読んでもらうように『広報委員会だより』を発行する実習をした。
 質疑の時間「広報の意義など考えたこともなかった。ただ、もしかしたら何か得られるかもしれない、と漠然とした期待感で委員になった。今日の話で確かな期待感を持てた」とこの講座の感想を述べてくれた人がいた。「もっと早い時期に開催を」と主催者へのお願いも出た。散会後、3校が質問・相談で残った。そのうちの一つは幼稚園のお母さん達。その中の一人の外人さんが積極的に質問。
 帰りは代々木上原駅で下車。生ビールとトンカツで昼食。なぜ昼間からビールなのかって。そう、今朝の朝日新聞で「写真入り・6段の囲み」で『教育見つめ20年 三つの声響く紙面願い』と『エコー』の20年が紹介されたからだ。


5月28日
 8時10分に出発。神川橋を渡るのが心配だったが、1時間10分で寒川町役場に着いてしまった。それで車内で20分休憩、去年もそうだったような気がする。今日の参加は40名弱でその内が父親一人。見出しつくりの実習を取り入れた。
 以前にも私の話を聞いているという、広報委員3回目という委員さんもいた。寒川小学校PTAは、4月の半ばにパソコンでカラー印刷の見事な第1号を発行している。
 終わっての個人的な質問。本部の願う広報と、実際に広報委員会が作り上げる広報に違いがあり過ぎる。その調和をさせたいのだが委員会へ言葉掛けができないという悩み。これは会場でできる質問ではない。「中学か高校のときのように、久しぶりに楽しい授業を受けることができました。今日聞いた『文の書き方』を、広報委員だったときに学んでいれば楽しく活動ができたのにと、思いました」はある本部役員さんの言葉。会場を出たところで「『個人情報』という言葉で、お願いするアンケートに先生の何人かが答えてくれない」という困惑の相談。アンケートの項目は「今年の先生の目標」とのこと。こういう相談の答えは難しい。それにしても学校側のこの態度は悲しい。
 今日はビールは飲まず、昼食も食べず、『大山道・田村通り』を真っ直ぐ帰宅。晴れていれば大山が正面に端整な姿を見せてくれる道なのだが。運転は好きではない。すぐに肩が凝る。




6月の予定
6月19日 親子で楽しく新聞づくり    秦野市立東公民館
      第2回教育を考える会    教育を考える会(湯河原町)
  23日 広報づくり指導       秦野市民生児童委員協議会
  26日 親子で楽しく新聞づくり   秦野市立東公民館
   29日 総合的な学習「まほら東」  秦野市立東中学校
    





2004年5月1日更新






ウチの桜  (画面中央の住宅地の中にそびえている−東京カントリークラブから)

4月10日 きょうはバスで遠足でした

 中学校の同窓会に招かれた。今年57歳になる彼らは、私が初めて担任した生徒たちだ。参加したのは小学校時代の先生3名を含め、総勢48名。3年に1度のペースでこの会は開かれているから、もう10回は超えている。今までは地元の玉川温泉で開いていたが今回はバス旅行。今回もよく集まった。
 8時40分に厚木を出発、沼津港で魚を買うツアーでもあったが、行程を考えれば鮮魚は無理。それで桜えびのパックだけにした。柿田川の湧水公園で昼食。花蘂がときどき降り散る大きな枝(桜ではなかった)の下に青いグランドシートを広げ、幹事お手製のオニギリが並ぶ。なんと50人分のオニギリを握ってきたという。「ひもじい時代に生きた私たちだから、遠足のお弁当をつくるのは当然」なのだと言う。そう、遠足なのでした、きょうは。
 バスの中ではアルコール類は一切出なかった。「“薬”がないと元気になれないよー」後部座席で悲鳴が上がる。幹事は涼しい顔で「きょうはバスで遠足です。昔引率してもらった先生方を、きょう一日間違いなく私たちが案内するんです。遠足ですからアルコール類は我慢してもらいます。それでは歌集で合唱しましょう」。そうして配られた歌集も手書きのお手製。集められていた歌は「高校三年生 青春時代 先生 学生時代」などなど。
 オニギリと一緒にようやく缶ビールが一本ずつ配られた。二枚のシートに大の大人が膝突合せてオムスビをほおばり、薄くなった髪に乗る花蘂を笑いあう。たった一缶のビールの喉越しのさわやかさ。それは、その日の天候のせいだけではなかった。通りかかった若者のグループが「いいですね、こういうのって」と私たちに言ってくれた。警視庁勤務のT君が「これがホントの差し入れ」と幹事に内緒でカップ酒を一個私にくれた。 食事の後湧水の観察ポイントに行った。他団体のガイドが説明を始めると、57歳の遠足の一団は一番前に陣取ってしまう。三島大社では盛んに散る桜の参道を通り抜け「二拝二拍手一拝」。  
 きょうのメイン会場の御殿場ビール園に3時に到着。夕食会まで1時間あったので園内を歩く。満開の桜並木のベンチで和歌山から参加してきたRさんと歓談。22年前、神戸で開かれた全国新聞教育研究大会に私は助言者で出席した。そのときRさんは会場に来てくれ応援してくれた。研究会の後で3時間ほど彼女が話したのは、子育ての悩みだった。その子が今年東京の大学に合格、それでRさんは入学式の出席をかねて同窓会に参加してきたのだった。
 40年ぶりで出席されたS先生の挨拶「きょうやっぱり来なければ良かった! 昨夜も当時のアルバムを開いてみんなの顔を確認してきたのに…会わなければ良かった!」と大げさに、あるいは心から詠嘆。会場から声「お互い様でーす」で大爆笑。バイキング形式・飲み放題なので「オレこんなにもてるぜ」とNさんが両手で6個のジョッキを持ってきて差し出す。私のテーブルはジョッキが林立! 季節限定の桜ビールで「乾杯」。 3年後、還暦の年に開くこの会の幹事に私も推薦された。










2004年4月1日更新

  子どもに語る例話■中学校向け  月刊Principal  2004年4月号

養花一年 看花三日            武 勝美

 四月は、チューリップが開き、サクラの花が咲き、そしてすべての木々が若芽を開くときです。四月は英語でAPRILと言いますが、その語源はラテン語の「開く」だそうです。学校も入学、進級と、この月から新しい年を開きました。私たちが胸に抱いた「希望」という花が、この四月という月から少しずつ開き始めています。きょうは四月の花で、日本人が特に好きなサクラの話をします。
 サクラはバラ科に属していて、ヤマザクラ、ヒガンザクラ、ソメイヨシノ・サバザクラなど三十種類以上数えられるそうです。サクラは日本書紀にも見え、万葉集にはサクラを詠ったものが四十三首載っています。でもサクラの語源ははつきりしていません。牧野富太郎博土は「サクラの語源は不明」と言っています。
 「サクラ」の語源には次のような説があります。
@「開映え、サキハエ(栄える)」→「サクヤ」→「サクラ」。これは古事記に登場する木花開耶姫(このはなさくやひめ)の名との関連から考えられている説。
Aうららかに咲くから「咲麗・サキウララ」→「サクラ」。
B「咲く」十「ら」→「サクラ」。「ら」は、「群らがること」を表す。
C「さ」は穀物の霊で「くら」は神様が来るところ、穀物の神様が集まる花・サクラ。豊作の神様の花であるという説。
 花に関する言葉で「養花一年 看花三日」という言葉があります。一年間の丹精によって育てた花も、見るのはわずか三日だけ、ということを表しています。サクラはすぐに散ってしまう代表的な花です。でもサクラの木は、たった三日間の花を咲かせるために、寒さや暑さ、強風や雪に耐え、一年間の努力を惜しみません。そして、三日間にその美しさを集めます。そんな花だから、私たちに愛されるのです。私たちも、サクラのように―どの花もそうです―ひとつの花を咲かせるために、よい結果を得るために、一年の努力を惜しまないようにしたいと思います。考えてみれば、私たちの生活はすべて「養花一年 看花三日」の一語に尽きるのではないでしょうか。
 満開のサクラの美しさは言うまでもありません。二分咲きのころも、また散るときもサクラは美しいと思います。朝の澄んだ空気の中に咲くサクラ、夕暮れの静かな光の中のサクラが私は特に好きです。




 全国学校新聞コンクールの余話

 
「三年連続の佳作」は誇っていい

 2月27日の毎日新聞で全国学校新聞コンクールの結果が発表になった。今年度の秦野は8紙が入賞。昨年秦野で初めて小学校が入賞したが、今年も北小が入った。
 その日の午後、東中3年生のはるかさんから電話がかかってきた。
「先生、佳作でした。くやしい! 3年連続佳作。今年はどうしても上に行きたかった」彼女は学級新聞をつくるのが好きで得意。1年のときからこのコンクールに応募してきて3回連続の入賞。
「佳作といっても全国コンクールだから。3年連続はすごいことだよ」と言って次のようなことを付け加えた。

 昨年四月のある日、はるかさんは「学級新聞を今年もつくりたいのだが」と相談に来た。私は先ず担任に相談すること、そして学級会に自分から提案することを勧めた。
 クラスのメンバー・担任が変わっても、彼女のリードで学級新聞は3年間つくり続けられた。このコンクールの入賞紙のなかで、指導する教師のクラスが三年連続で入賞している例はいくつかある。しかし、Wさんのように「学級新聞を発行したい」と言い出した子どもの新聞が三年連続で入賞を果たすということは珍しい。そのことだけでも最優秀を得た新聞に匹敵すると思う。
「でも佳作から抜け出せなかった。なぜかなあ」とくやしがったはるかさんだった。


 
新聞づくりがもたらした劇的な出会い

 3月6日、毎日新聞社で行われた全国学校新聞コンクールの表彰式でのこと。
 来賓が祝辞を述べているとき、表彰校の一つである秦野大根中の石田崇男先生がそっと私のところに寄ってきて「今話しをしている大杉は中学校の同級生です」とささやく。大杉とは文部省視学官の大杉昭英先生のこと。「エエ?同級生?」と私。「そう、こんなところで会えるなんて思いもしなかった」と石田さん。新聞づくりを指導している先生を応援・激励している先生、その二人の先生が中学校の同級生で、全国コンクールの表彰式の会場で出会うなんて。式のあと語り合っている二人を眺め、なんとなくうらやましかった。手前味噌だが「これだから新聞づくりはイイ」と思った。
 石田さんは新採用のとき私と一緒に学校新聞づくりを指導した。それ以来ずっと新聞教育にかかわっている彼。きょうの表彰式は石田さんにとって特別なものになったに違いない。


 
親・子・孫 三代にわたって新聞づくり

 表彰式のあとの懇親パーティーは大人も子どもも一緒。表彰された子ども達は主催者が準備した名刺をもって他校との交歓をしている。その子ども達の中に小学6年生の増子彩音さんもいた。菅原さん、井上さん、大内先生のそれぞれから、彩音さんが大澤和子先生のお孫さんだと紹介された。
 大澤先生とは1971年以来のお付き合い。その年の毎日新聞の全国学校新聞コンクールで、秦野東中と大澤先生の指導する市川市の宮久保小学校が「特選」に選ばれ、両校の新聞委員長は札幌オリンピックの開会式に招待された。そして大澤先生と私も同行できた。彩音さんにそんな話もした。
 彩音さんの傍らにいた快活な青年?が「遅れて申し訳ありません。母がお世話になっています」と名刺を差し出す。「大澤明洋」とあった。和子先生のお子さんで小学校の先生。今は大学院で勉強中とか。明洋さんも教室で子ども達と新聞づくりに励んでいらっしゃった先生だ。親・子・孫の三代にわたって新聞づくりをしている大澤家。その皆さんと知り合えた日だった。
 







2004年3月1日更新



 大山道 横畑のワサビ田

 「寺山ものがたり」を読んでくれた知人のYさんから湧水を見たいと連絡があった。それで2月11日に、東田原八幡、寺山西ノ久保、寺山清水、そして蓑毛横畑の湧き水を見て回った。
 庭にワサビ田を持っている横畑の松下家は運良くご夫婦が在宅だった。自家製の漬物で湧水のお茶をいただきながら、ご主人の雅雄さんから水や大山道の話を聞かせてもらった。
 「ウチのおじいさんのころは、モノ日の時の魚は大山の町に買に行っていたようだ。大山までは《いより(地名)越え》で45分だから。15分も登れば後は横道だから楽だしね」「子どもの小さいころは、ウチの初詣はいつも山越えで阿夫利神社に行っていました」と奥さんの設子さん。言われてみれば、横畑から秦野駅まで歩けば1時間半はかかるだろう。そして帰りはすべて登り坂。それなら魚など大山に買いに出かけるほうが利便性て優っている。
 「勝美さん、小学校の時の校長先生で岡田先生って知ってるよね」雅雄さんは私より一歳年長。「知ってます。岡田稲雄先生、名前が珍しいので憶えてます。一、二年のころの校長先生だったと思うけど」「そう、あの岡田先生は大山の人で、毎日いより越えで東に通勤していられたんだよ」「エエッ、山越えの大山道で! 知らなかった!」「ときどきウチでお茶を飲んでいかれたらしいよ」
 そういえば、私を教員として中途採用してくださった川上英一校長先生も大山に住んでいらっしゃった。どうして教員になったのか、とPTA広報などで取材を受けることがある。そんな時の私の答は決まっている。「夏のある日、大山を越えて一人のおじいさん(川上先生お許しください。でもお会いしたときそう見えたのです。だって、麦わら帽、開襟シャツ、首にてぬぐい、ズボンの裾をゴムひもで止めて、白ズック靴)が訪ねてみえて、先生にならないかと勧めてくださった。それで先生になりました」
 松下家のワサビ田は三坪くらいの小さなものだが、竹やぶからしみだす湧水で黄緑色の葉が生き生きと茂っていた。同行したYさんは「ワサビの花の咲くころまた来ます。ワサビの植え替えも手伝いに来ます」と湧水での生活にすっかり魅せられたようだった。設子さんがワサビを数本引き抜き、私たちのお土産にしてくれた。ごつごつとした、いかにも自家用という姿のワサビを手にさようならをした私たちに「お刺身は自分で買ってください」と、雅雄さんが笑いなが見送ってくれた。
  




e-mail from New Zealand 第6信

日本の暗いニュースばかりに不安がつのります

日本はそろそろ暖かくなってきたのでしょうか?お元気ですか?ニュージーランドでは100年の1度の大洪水になりました。橋が壊れ学校までもが休みにな る大パプニングでした。今もまだ雨は降り続け、川の水位はいっこうに減りません。夏は過ぎ去ってしまったように思えます。毎日10度くらいで夏は1か月しかありませんでした。異常気象ですね。
 今日は洪水で家やものをなくした人を助けるために町のボランティア活動に参加してきました。全国から集められた みなさんの私物を1つ1つ手作業で仕分けし1万個以上の段ボウルを困った人に送り届けました。
 今日ボランティアに参加してこの国のいいところをまた1つ見つけました。私はボランティアと聞くと日本ではボーイスカウトなどのボランティア団体や学生さんを思い出します。しかしここにボランティア団体はあまりありませでした。みなさん朝9時から、お父さんをはじめ、お母さん、子供たちと家族で参加しているのです。もちろんおじいちゃんやおばあちゃんも参加していました。日本でこんな姿あまり見れませんよね?こんな姿が残っている国だからこそ、犯罪も少ないのかと思ったりもします。困った時には助け合う日本人にも子供の頃からそんな教育が親から伝えられればもっといい国になるのでしょう。
 毎日ここニュージーランドからでもNHKだけは見ることができます。日本の暗いニュースばかりに私は毎日不安がつのります。それと同時に日本への愛国心も薄れてきてしまったように思えます。日本にもいいところはまだまだたくさんあります。そこを私自身が理解する日がきたら留学大成功だと思います。それではまた。         2004年 2月29日   朋子        








2004年2月1日更新


 1月25日は天神さん、2月は初午祭り。秦野の白笹稲荷は関東の三大稲荷といわれ、その祭りはにぎわう。「図書」(岩波書店)に、その白笹稲荷の祭りのエッセイが載っていた。
 狐につままれて    蜂飼 耳
         
 今年の初午は、最寄り駅から電車にゆられて二十分ほどの町にある稲荷神社へ行った。毎年、梅の花が咲きはじめるころになると、沿線各駅のホームに、このおいなりさんの初午の祭礼を知らせるポスターがはりだされる。それは赤と白だけのいかにも簡素なつくりなので、デパートや旅行代理店のカラフルなポスターのなかにあってむしろ斬新、かえって目立つ。自狐がいっぴきくるりとしっぽを巻いている。記憶によればもう何年も同じデザインである。ひょっとすると、この先もずっとそれでいくのかもしれない。あのポスター、いいなと毎年思いながら、思うだけで、足を運んだことはなかった。毎年繰り返されることというのはたいてい、ひとの心に安心と安定感をもたらすものだ。しかし、そうでない場合もある。来たよ来たよ、今年も来たよ。ああまたか。と、なんとなく気が重くなることもある。なぜ私は毎年あのポスターをただ見ているだけなのだろう。なぜだろうと思い、理由もないので電車にのった。
 そのおいなりさんは、白笹稲荷神社といぅ。神奈川県の真ん中あたり、落花生と煙草の町にある。しずかなところだが、初午のときは駅と神社のあいだに臨時バスが出る。日に何度も往復する。わあい、臨時バスだ。と贅沢な気分で座席につしたが、振り返るとお年寄りばかり五、六人、窓のそとは曇り空で、すこし心ぼそくなった。
 だがおいなりさんの参道はにぎやかだった。海からはまるで遠い土地なのに、なぜか海のものを商う露店が多かった。山盛りの塩わかめ、山盛りのしらす干し、するめや目刺しやたたみいわしが売られていた。一軒だけ金魚すくいの店が出ていたが、まだまだコートをはおる季節、近づくひとはだれもいない。金魚のほうも、生きていることを忘れたように水の底でじっと動かないものばかりだった。無理があるよね、と思いながら、混雑した参道を進む。やきそば、たこやき、おこのみやき、と来て、ふたたびなぜか、めざし、いわし、するめ、わかめ、となっていく。
 社の手前まで行くと、地面に敷いたむしろの上でひとりの老人がなにかしていた。まわりには三角形のものがいくつもちらばつている。老人の手許を見ると、三角形のものに細長い草の葉を通して結び、提げられるようにしている。二五〇円。手書きの札が風に吹かれて裏、表、裏、表とひるがえる。たくさんの三角形、それはみんな油あげだった。おいなりさんは、油あげを好むという。それで、おそなえ用の油あげが売られているのだった。
 老人は不機嫌そうな顔つきでつぎつぎと油あげに葉っぱを通していく。ときどき、買うひとがあらわれる。売るほうも買うほうも、ほとんどロをきかない。私は買わない。目で追うと、社の前におそなえのための場所があり、買ったひとはそこに油あげを引っ掛けて、ちょっと手を合わせる。見てはいけないものを見たような気がした。
 私は狐をまともに見たことがない。一度冬の北海道で雪原に消えていくところを目にしたがあまりにも遠くだったので黒い点が移動するようにしか見えなかった。近くにいたひとが、あ、あれ狐ですよ、といって双眼鏡を取り出そうとしたけれどおそかつた。黒い点はまたたく間に小さくなり、雪にすいこまれて消えた。雪原を行く狐は油あげとはあまり関係なさそうだった。
 その後しばらくして、蔵原伸二郎の狐の詩を知ったとき、私は雪原で見失った狐がひょっこり出てきたような気がした。詩集『定本岩魚』におさめられた狐の詩は全部で六編、なかでも私はこの詩がすきだ。


 めぎつね

野狐の背中に
雪がふると
狐は青いかげになるのだ
吹雪の夜を
山から一直線に
走ってくる その影
凍る村々の垣根をめぐり
みかん色した人々の夢のまわりを廻って
青いかげは いつの間にか
鶏小屋の前に坐っている

二月の夜あけ前
とき色にひかる雪あかりの中を
山に帰ってゆく雌狐
狐は みごもっている


 「鶏小屋の前に坐っている」と「二月の夜あけ前」とのあいだに置かれた空白、これはたった一行の空白だがブラックホールのような重力が強くて、なにもかも飲みこんでしまう。音さえも飲みこむような空白だ。狐は鶏を補ったのだろうか。捕ったのだろう、たぶん。「みごもっている」というのだから、栄養が必要だ。「山に帰ってゆく雌狐」のロには、おとなしくなった鶏がくわえられているのだろう。
 この詩から聞こえてくるのはときおり木の枝からおちる雪の音ばかりだ。鶏の鳴き声も羽ばたきすらも聞こえない。雪の上にしたたる血もそこらにちらばる羽も見えない。無音の狩りはおそろしい。この一編の詩を隅々までおぼえることはなくても、すつかり忘れてしまっても、一行の空白がもつ重みはいつまでも心にとどまる。この詩について思い出そうとするとき、ひとつひとつのことばの運びよりも先に静寂が押しょせる。無音の狩りはおそろしい。だが、だまって捕られるままなんて、そんな鶏がいるものか。私は焦って鶏の動きをしつこく追跡する。けれどもしずまりかえった銀世界には、羽の一枚も落ちてはいない。
 おいなりさんの拝殿の前には行列ができていた。賽銭箱の上の鈴はぜんぷで四つ、つまり一度に四人ずつお詣りできるようにつなっているのだった。願い事などなにもないが、ふらりと列の最後についた。郵便局の窓口にならぷときとたいして変わらない気分だったので、あまり縁がないのだろうと思いながらも、押されて前へ前へとつめるうちに、進んでいく。つめれば進むのがひとの列だが、一度ならぷとなかなか抜けられないのもひとの列である。
 そのうちにひとりの男性が脇のほうからすっと近づいてきて、私の三人ほど前のところに合流した。割り込みというわけではなかった。「民俗学の調査をしているものですが、アンケートをお願いできませんでしょうか」と、眼鏡をかけた初老の男性にたずねるのが聞こえた。「今日はどちらから」という質問までは聞こえたが、そこから先はわからなかった。
 私も聞かれるのかな。それにしてもどんなことを、と隠れたいような気もちでどきどきしながら待っていたら、聞かれなかった。そのひとはせわしなく列を離れてどこかへ行ってしまった。あれ、いいの、と拍子抜け、けれど戻って来なかった。そうなると今度は聞かれてみたくなる。
 民俗学の調査の対象になるくらいだからここの初午にはなにか特徴があるのかもしれない。もしかしたら、草の葉を通した三角形の油あげがそうなのかもしれない。わからない。ふたたび参道を、わかめ、するめ、いわし、目刺し、とたどって臨時バスにのりこむと帰りはずいぶん混んでいた。雨降り寸前だった。窓のそとには雨雪が垂れこめ、空は往きよりも一段と低くなっていた。 (はちかいみみ・詩人)





 e-mail from New Zealand 第5信 

  「やり遂げた」という満足感が得られる一年に

 お久しぶりです。新年が始まりいかがお過ごしでしょうか? 
 ニュージーランドは、真夏の天気が10日間ほど続いたと思っていたら、今日は13℃まで下がりコー トなしでは過ごせない寒さとなりました。日本はもっと寒いことでしょう。こちらはまだまだこれから暑くなるようです。
 来週はまたまたテストです。上達しない英語力にめげずに頑張っていますが、それを断念して帰る友達がざっと20人ほどいます。3月までに帰国してしまうようで、一緒に勉強した仲間が減るのはとても寂しいです。まぁ4月から8月にかけてはまた新しい出会いもあるでしょうけど、さよならは言わなくてすむなら、誰にもいいたくないです。
 先月ダイビングのライセンスをとったので、今月は車の免許をとろうと練習にはげんでいます。クラスも新しくなり、新たな気持ちで英語の勉強をしています。何かやり遂げたと自分で満足できる1年に今年はしたいなと、思っています。日本はとっても寒いでしょうから、くれぐれも風邪にはお気をつけて、お過ごしください。      1月20日    朋子







2004年1月1日更新
 



郷土玩具「猿」 私のコレクション


2003年のまとめ


5人の大学生のことば

 Uさん 「興味があったから」「知りたいから」研究する

 Uさんは我が家の菩提寺の娘さんです。外語大を出てロンドン大学に留学、そこで中国文学を学びました。そしてこの秋博士号を取得。その博士課程の論文を指導の先生と共著で出版しました。『「気」の思想から見る道教の房中術』という本です。先日、彼女になぜこのテーマを選んだのかを尋ねました。彼女は「興味があったから、どうしてなのか知りたいから研究した、としか答えられないのです」と言いました。私は、研究とか勉強とかはこれが本道だと思いました。「仏教じゃなくて道教なのが家族に申し訳ないと思います。その道教もほとんど勉強していません」と笑っていました。
 彼女が中学生のとき、私は授業中に「今日は12月8日だけど何の日かな」と尋ねました。太平洋戦争の開戦日を意識させたいと思いました。でもその答えは出てきませんでした。それで宿題にしたのです。翌朝、彼女は職員室に来て「12月8日はお釈迦様が悟りを得た日です」と私に言ったのです。私は彼女から成道会ということを教えてもらいました。 (彼女の本をお読みになりたい方はご連絡ください。)


 Iさん 「『足元のことが分からないで なんの国際理解か』という言葉に共感」
 
 Iさんは鶴巻中学校の卒業生で、国際学部に席を置いている4年生です。卒論の資料として私の話を聞きたいと、先月の半ば私を訪ねてきました。取り組んでいるテーマは「学校と地域の連携」です。「国際学部と全然関係のないテーマになってしまって」とIさん。ゼミの先生の「自分の足元のことが分からないで、なんの国際理解か」という言葉に共感し、その先生に卒論をみてもらうことにしたのだそうです。一番身近な国際理解として、西表島の学校と彼女が学んだ学校の比較を取り上げたのです。そして、その研究は「地域と学校の連携」に行き着いたようです。私のところに来たときには結論の部分だけが残っているようでした。2時間ほど意見交換をしました。帰り際に「論文ができましたら必ずお届けします」といいました。その夜メールでお礼の言葉が来ました。「教育学を専攻している訳ではないので、本当に少しかじっているだけですが、とても参考になりました。今日、お伺いしたお話を含め、うまくまとめ上げられるか分かりませんが、無事に卒論が完成したらお送りしたいと思います。」
 中3の時、彼女は私の本『春の朝』を「切り絵」で飾ってくれました。(関連記事「エコー教育広報相談室」のページ)

  
 Mさん 「故郷のことを何もしらない恥ずかしさと悲しさ」

 Mさんは大学1年生です。私のホームページをみてこんなメールをくれました。
 「出身が秦野なのですが現在東京の大学に通っている者です。大学の文化人類学の授業で秦野のことが出てきて大変嬉しかったのと同時に、(故郷に帰りたくなりました)何もしらないのだなと恥ずかしさと悲しさでいっぱいになりました。それは正月の「鳥追い」の話だったのですが、聞いたこともありませんでした。故郷にもし昔から伝わる文化があったら、若者も役割があたえられて居場所が出来、それを教えてもらう大人に尊敬の念を抱きます。文化があるって、その人を土地に縛ることじゃなくて、受け入れてくれることなんだなと思いました。帰ったときに何か文化があったら、「私はここに帰ってきていいんだな。」という安心感と、暖かさがあります。それは必ずしも大きなものではなくていいと思いますが。そこでともかくまず私はレポートも兼ねて地元の文化について少しでも調べようと思いました。(以下略)」
 早速私は「鶴巻」と「落幡」の地名の由来をメールで送りました。その折「私はMという姓の生徒に二人出会いました。一人は東中、もう一人は鶴巻中でです」と余計なことを書き添えました。
 Mさんからお礼のメールがすぐに入りました。「質問に丁寧に答えて下さってありがとうございました。お返事もすぐくださってとっても助かりました。住んでいながら知らないのは恥ずかしいものですね。ところで鶴巻中学校のMという女生徒は3つ上の姉だと思います。Wというのですが、武校長先生になってから鶴中がとっても雰囲気がよくなって中学校がとっても楽しかったと言っていました。その武先生だったのですね。こんなところで武先生のお話が聞けるなんて嬉しいです。私も鶴巻中学校に行きたかったなあと悔やまれます。本当にありがとうございました」
 メールの主は、想像していた通りMWさんの妹さんでした。姉のWさんは学校新聞づくりで活躍したことが印象に残っています。


 Kさん 「長い間お返事を差し上げられず申し訳ございませんでした」

 4年生のKさんから手紙がとどきました。そのたよりは「心せわしい年の暮れ、たいへんご無沙汰しております。長い間お返事を差し上げられず申し訳ございませんでした」で始まっています。そして、高校一年の夏、私から暑中見舞いをもらったときは「手根骨の骨折で骨移植の手術をしたときだった」と書いています。
 高校野球に夢を掛けて進学した彼にとって、この骨折は厳しいハンデになってしまったようです。「三年間何とか高校野球を続けることができました。最後の夏はベンチ入りできなかったのですが、秋と春の大会は出場できました。」しかし、それをプラスにできたK君です。「一年間のリハビリを通して人のやさしさや努力することの価値を知ることができたました。私の高校三年間は充実したものでした」と書いています。
 大学では歴史を学んだのですが、自分がスポーツで怪我をしたことから、同じように苦しんでいる人の力になりたいと、アスレティックトレーナーを目指し、これから三年間まったく別の世界の勉強を始めるという決意を書いてきたのです。
 結びにまた返事の遅れたお詫びをするKさんでした。


 Tさん 「サングラスで表情を隠し、眼鏡をはずせばしかめ面をしていた私」

 23日の朝9時ごろ電話が入ました。電話の主は教え子でした。NHKの「青春メッセージ」の関東甲信越地区大会に子どもが出るから見て欲しい、というお願いでした。彼の息子・Tさんとは秦野教育懇談会の委員としていろいろ意見を交わしてきた間柄です。庭で働いている植木屋さんに少し気兼ねしながらテレビの前に座りました。
 彼はアフガンの難民キャンプを訪問した時の体験を話した。
 「あなたの国には難民はいませんか、と聞かれて答えが出なかった」「難民キャンプの子どもたちの笑顔を目の当たりにして思ったことがある。サングラスで表情を隠し、眼鏡をはずせばしかめ面をしている私。厳しい生活の中でも明るい笑顔を絶やさない彼ら。彼らは、私と何と違うこだろう」。
 放送が終わって自宅に電話をしたら本人が電話に出てくれました。就職も決まったようです。これから今日の発言を実践するとになるのでしょう。彼の行動力を信じたいと思います。

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