-ECHO- 教育コラム『エコー』 -ECHO-
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2009年12月5日更新
還暦の迎えた教え子のひとり高橋英男さんは、地元(秦野市東田原)で「米作り体験教室」の活動を続けてきました。彼は、千代田区の「米作り体験教室」を終わるにあたって、次のようなお別れの言葉を子供たちに贈りました。
体全体を動かして感じ、学びとることが大事
社会人になった頃から、スポーツ少年団の手伝い、子供会活動、ボランティアなど人々と関わりを大切にしてきました。それらの活動の中の一つに、地域の子供たちに農作業体験をさせる「米作り教室」がありました。その教室へ千代田区の子供たちが参加・交流しはたいという話が飛び込んできました。私たちは「ぜひ一緒にお手伝いしましょう。」とお返事をしました。こうして、昭和61年より東公民館が中心となり「米づくり体験」を千代田区の子どもたちと秦野の子どもたちと、交流しながら進めることとなりました。
最初の作業の種まきは、秦野の子供が担当しました。全員が裸足で種まきをしたのです。生育を観察するために名前を書いたプレートを立てました。作業を終えて子供たちに話を聞くと「麦わらは種が寝冷えしないように敷くんだね」とか、「裸足で土に触れるのは気持ちいい」といった声が聞かれました。10周年では「黒米、赤米、緑米」といった珍しい種類のお米にも挑戦しました。真っ黒やあずき色のお米、覚えてますか。
田植えは、千代田の子供たちと秦野の子供たちとで一緒に行いました。「肩が痛い」「ぬるぬるしてイヤ」「足がとられる」などとと、悲鳴や笑い声が山あいの田んぼに響きわたりました。そんな中、桜井さんが「体全体をどろんこにしてから田植えを行おう」と呼びかけたのです。それ以降、田植えは「どろんこ遊び」がになったように思います。どろんこ人形のような子供たちを見て、とてもたのもしく思えたのでした。でも、そのとき確信しました。子供は土と戯れるのが好きなのだ、と。
収穫は昔ながらの農具を使う体験ということで、鎌で刈り取り、たばね、掛け干しで乾燥させ、脱穀しました。新米おにぎりがおいしいと喜んでもらえ、私どもも「よかつた」と来年への夢をえがいていました。
人間は、とりわけ子供は、からだ全体を動かして感じ、学びとつてゆくのが大事なことです。この体験学習の成り立ちのように、人に支えられ、自分はその中で生かされているということも感じてもらいたいことの一つです。私たちの活動もだれひとり欠いても成り立たない程、一人ひとりの役割は大きかったのです。
自然とふれあうとき、農作業するとき、本当にこの大地、川、山、もろもろの自然が、私たちをやさしくとりまいているのがわかると思います。まさに共存です。
初回に参加された方々は、すでに20歳を超えていらっしゃいます。私の願いを、からだのどこかに留めておいていただけていると嬉しいのですが…。きっと社会の中で力強く生きておられることでしょう、秦野で作ったお米のように!
長かったようで、あつという間の20数年とも感じています。皆さんに学ぶ場を与えていただいたのが私です。幸せ者だと思います。足りないことばかりでしたのに、快く活動していただきました。皆さんとはお別れですが、数限りない思い出をありがとうございました。皆さんのますますのご発展を期待しております。私も新しい一歩を踏み出したいと思います。 高橋 英男
2009年11月1日更新
学級新聞『チームワーク』を読んでの感想 5年4組のみなさんへ
皆さんならできます 前回の新聞を超える新聞が
NO1 学級新聞の見本になるすばらしい新聞ができました。第1号に必要なことが全部書かれています。まず題字・新聞の名前のことを書きました。学級新聞はクラスの顔です。そしてクラスみんなの心です。『チームワーク』という、みんなの心が名前になったことをとても嬉しく思います。第1号に班の紹介をしたこともとても良い企画でした。文字もていねいに書いてあります。
NO2 陸上記録会の記事、とてもよく書けています。参加した人の声をのせたことがよかったです。新聞は大勢の人の声を集めてつくるものです。お茶の会の記事にも三人の声がのっています。この班の人たちは全員新聞記者のセンスの持ち主です。
NO3 「今週のがんばった人」の山本真仁くんの《真仁》にふり仮名ふったのはスゴイです。誰もが親からもらった名前を大切にしています。その名前を間違えられたらイヤです。正しく紹介したこの班の人たちは、きっと自分の名前を大切にしている人たちだと思います。
NO4 第4号は《見出し》がとてもじょうずです。「でも、おいしかったカレー」の《でも》という言葉が、「何か事件があったのだな」と感じさせます。だから、記事を読む気になります。見出しとは、新聞を手にした人を読む気にさせるために《考えて、考えて》作るものです。だから、見出しつくりは楽しい作業です。
NO5 「新聞づくりは仲間づくり」と言われています。担当した班の人は協力しなければ学級新聞はできません。でも、忘れてはいけないことは、新聞を作っている班の人たちに学級のみんなが協力しなければ新聞はできないということです。この5号はアンケートを取りました。そのアンケートに、みんながいねいに答えています。新聞をつくっていないときにも、作っている班に協力することをこれからもしてください。
NO6 工場見学の記事を読むと、みんなが真剣に案内の人の話を聴いたことが分ります。特に、この班の人たちは、新聞に記事をのせるので、いっしょうけんめいメモをとったことでしょう。取材をする(だれかの話を聞く)ときは必ずメモ帳を持っていきましょう。それが習慣になると、新聞づくりだけでなく、いろいろな勉強にも役立ちます。
すでに2回目の発行になりました。前回の新聞を超えるものにしてください。だいじょうぶ 皆さんならできます。
2009年10月1日更新
秦野市P連主催 広報クリニックに146名が参加 広報紙を通じて教育・子育てを考える
「40分という短い時間だったが、とても意義がある講座だった。技術的なことはもちろん、他校の紙面を深く読んだことがなによりの収穫。次号に向けて企画会議をしっかりやりたい」と言って帰って行った委員長さん。
9月24・25日の2日間、秦野市P連主催の「広報クリニック」が東公民館で開かれた。市内22校のPTAから146名の広報委員の参加。この広報クリニックは、この日までに発行された広報紙について面談形式で私が感想を述べる形をとっている。3校ずつが私と対面する。持ち時間は1校平均10分、3校で40分。自校を含め3校の広報紙を客観的に読むことになる。
この紙面クリニックは、次号へのアドバイスをすることが全てと思って対応している。参加者の真剣な表情を目にし、嬉しかった。なにより頼もしさを感じた。
紙面クリニックの後は、同席した3校が別室で交流会を開く。ここでは、仕事と広報作りの時間の調整など、広報発行に関わるさまざまな悩みや苦しみなどについて語り合い、考えることになる。「広報活動を含め、PTA活動が学校によってホントに違うのだな、ということが分った」と感想を述べた委員がいた。
今年のクリニックは、新聞づくりのソフトを使っての「パソコンを使っての広報づくり講座」を同時開催した。初心者コース、経験者コースに分けての講座に22名の参加があった。市外からも3名の受講者。この講座で特筆すべきは、助手をしてくれた5名がいずれも“広報委員OG”ということ。秦野のPTA広報づくりの実力がここにも表れていると思った。
広報クリニック 参加者の声 武先生 待ってて下さいね
第一回の研修を参考にして皆で協力して作った工法を評価して頂き、ありがとうございました。広報づくりには、かかわる人達の意見や気持ちを取り入れることにより、心に残る広報、広報に深みがでるということがよくわかった。本日、ご指導いただいたことを参考に今度の広報づくりに役立てて頑張っていきたい。
先生の話を聞いて、とっても勉強になりました。広報発行することで、長い日数がかかり、頭もふる回転にし、ぐったり疲れてしまいます。しかし、先生に色々なポイントを教えてもらい、これだったら、次回の広報はスムーズにいけるのではないか…と思います。私が広報委員にならなければ、広報を発行するのが、どんなにたいへんなことか分からなかったと思います。これから町の広報など、ちゃんと目を通そう!と思いました。今日は ありがとうございました。
自分たちの広報をほめて項いて嬉しかったです。頑張ったかいがありました。これからの活動に励みなります。これから広報作りに役立てていきたいと思うのはもちろん次年度の役員へも引き継いでいけたらと思いました。ありがとうございました。
武先生にお会いして5年。3年連続で参加していますが、今までキャプションの字体(ゴシック体)について指摘されたことがありませんでした。これだけ参加していてはじめてのことが2つ(「!」「?」マーク件)もあり、ちょっとショックでした。クリニックで、研修会で厳しいことをちょっと言われテンションも気持ちも下がりましたが、次号では「良い」と言われる、先生だけでなく、広報を読んでくれた人に「良い」 と言われる、読まれる広報をめざしてがんばります。武先生 待ってて下さいね。
3年間出席し、武先生に当PTAの広報紙を見ていただけるこの講習会は、常に勉強になるなと感じています。今回も多くのヒントをいただきました。また、やる気になりました。ありがとうございました。
他校や自校の講評がとても参考になりました。近くの学校が同じような行事をどんな記事にしているのか、興味深かったです。初めて広報委員になり、何もわからずにいましたが、今日参加して写真の使い方、文字の使い方、見出しの注意点等、広報紙づくりの基本が少しわかりました。あと半年広報活動に頑張ります。
広報づくりへの視点を学ぶことがでた講座
過日開催いたしました「第2回広報づくり研修会」では、いろいろ御指導いただきありがとうございました。研修会に参加したPTAや各団体の広報委員さんは他の団体の広報を見る機会ができ、広報づくりをする視点や改善点を学ぶことができました。今後の広報活動に大変参考になったのではないかと思います。研修会終了後にも、各団体の参加者へ丁寧な指導をしていただきましてありがとうございました。
「人の声を集めて載せるのが広報づくりの基本」「人とのかかわりを大事にすること」「小さな声、少数の意見にも耳を傾けよう」などの武先生の言葉は、参加者にとって明確な指針になったようでした。
参加者の感想に「具体例をたくさん話していただき参考になった」「今度は武先生に『良い』といわれるまで頑張りたい」といった今後の活動の意欲につながる感想が多く寄せられていました。時節柄お体を御自愛され、ますます御活躍くださいますよう祈念し、お礼の言葉にかえさせていただきます。ありがとうございました。 O町教育委員会
2009年9月1日更新
新聞はコミュニケーションツールとしてとても有効
昨年の早稲田大学政経学部AO入試で、「議論のウソ(副題:情報に騙されない)」(講談社現代新書・小笠原喜康著)の中の文章が引用され、メディアリテラシーに関する問題が出されました。本書では、朝日新聞が2003年8月に報道した「少年犯罪10年前の倍」や、同紙2005年2月「ゆとり教育全面見直し」等々の多くの記事を取り上げ、大手新聞社が掲載した見出しや記事とデータから、読者が誤って内容を読み取る可能性があることを示唆し、さらにメディアリテラシーのあり方について言及しています。すなわち早大受験生たちは、掲載された記事から新聞社の論調や誘導に惑わされず、その裏に隠された真実を洞察するための読解力と、論理的に述べる表現力が求められたのです。
高校・大学入試では、新聞記事や論説・社説を引用する出題が年々増加しています。受験を余儀なくされる児童・生徒や学生にとって、NIE(新聞を活用する学習)はすでに必修であり、現実を正確にとらえる力や批判的な視点で文章を読み取る能力が求められているのです。
全国にある約8割の小・中学校で、学級新聞づくりや学習新聞づくり等の新聞学習が行われ、大きな効果をあげています。また、小・中学生には新聞は読めないという主張がある中で、教育現場では、NIEが流行(はやり)のように取り入れられているのも現実です。日々発行される新聞は身近な情報源です。新聞記事を必要に応じてリアルタイムに活用し、子どもたちに興味のある話題を提供する授業は、読み解く力が向上するだけでなく、円滑なコミュニケーションツールとしてとても有効な補助教材です。社会を知ることにより自分自身を見つめ、大人になった時に何をしなければならないのか、模索するための優れた道具であることに違いありません。
教室では、読解力の向上を図るために朝読、読み聞かせ等の、さまざまな取り組みが進められています。教師が、子どもたちに古典小説や社会派小説を推薦することは、一見望ましく好ましいことのように思われがちです。然しながら、難解な文学小説や歴史小説を読み終えただけで、知識や学力が向上したと言い切ることに無理があります。新聞を教材として取り入れることは時代に即しており、さらに子供たちの成長に役立つことに間違いはないのです。
さまざまな場面で教師の力量が問われている今、新聞教育のあり方とメディアリテラシーについて考察し、子どもたちに教えなければならないこと、伝えなければならないことを研究する必要があります。これからの時代を担う子どもたちが、学ばなければならないものを授業に取り入れること。さらに、小・中学校と高等学校が一層連携を強化し、一貫した教育を行うための取り組みを進めること。これが真の教育であり、現在、教育界と社会が求められている姿なのではないでしょうか。 新聞教育アドバイザー
野田 広明
2009年8月1日更新
再び戦争は起こさない
小泉みどり
私は東京の荏原区で生まれました。いまから六十数年も昔のこと、国民学校六年だった私たちは、東京が空襲で被害を大きく受けはじめたので、学校じゅうが富山県へ先生と集団疎開をしました。でも、私は父の知人をたよって、ひとりでこの秦野に釆ました。
生まれてはじめて父母姉妹との別居生活。何と心紳く、寂しかったことか。その上、食べ物は朝から晩までサツマイモ。身の回りは、いままでは母がやってくれたのに、すべて自分でやらなければならないのです。夜になると、ふとんをかぶっては泣いていたのです。
母恋しさに、だまって東京に帰って行き、母にさとされ、父にしかられすごすごと疎開先きに帰ってくる時の心の中は、ことばでは表しきれません。
ある土曜日の晩、許されてようやく東京にたどりついたとたん、ブウーブウーと空襲のサイレン。間もなくドカーン、ズシーン、ドドドド、ゴゴー、ドドーンと、この世の終りかと思うような激しい爆撃にあいました。
父は国防軍人として暗い街にとび出して行きました。母と私と妹二人は床下の防空宴に入りました。この宴の中で母は「もし家が焼けたら、妹をつれて逃げ出しなさい。おたがいに、いつも名前を呼びあって。火事がおさまって、無事だったらこの家のところに来るんですよ」といいました。
「もし、ケガをして苦しくなったら南無妙法蓮華経と静かにいいながら眠りなさい」ともいいました。いま考えてみれば、ひそかに死の覚悟も教えていたのでした。
この空襲のあと、私たち家族は秦野に疎開したのでしたが、私たちが荏原を離れた数日後、私の家のあった町内は空襲で全滅し、ある人は焼死、ある人は爆風にたたきつけられ、防空蒙の中でもなくなられた人が多かったと聞きました。
戦争の実態は、もっともっとひどいものなのです。戦争はだれのため、何のためにと考えてみるとき、たとえ小さな力でも、その力を大きなものにまとめ、戦争は防がなくてはならないと思います。かわいい子どもたちのため、愛する夫や親兄妹のため、戦争は再び起してはならないのです。
2009年8月1日更新
オンナダテラニ
ペンネーム・今は大和撫子
40年前の日本は未だ戦後の色濃く、いろいろな価値観が交錯している時代でした。戦時中に空襲の目標物にならないようにと黒く塗られた鉄筋コンクリート3階建ての校舎は、予算難で塗り替えることもできず、色が剥げた白黒まだらのみつともない姿をしたままでした。
そんな中学に入学したばかりの国語の授業のとき、足元に落とした消しゴムを拾って、頭を上げた瞬間、「ゴツン」。隣の席の男の子が、ふざけて振り下ろした教科書の角が頭に命中したのです。あまりの痛さに逆上した私。その教科書をひったくるなり、腕白坊主の頭を思いっきり「バシッ」。
板書していた先生が振り返って目にしたのは、真っ赤な顔をして教科書を握り締めている私と、べそをかいている男の子。級友たちが、先に手を出したのは男の子であることを説明してくれましたが、先生は怖い顔で「なんですか、女だてらに!」。
その日のうちに担任にも報告されてしまい、しかも運の悪いことに、その数日後に保護者会があつて、「ゴツン・バシッ」事件はさらに親の知るところとなつてしまいました。
母は、「女だてらに、マア勇ましいこと」と国語の先生があきれていたと担任に言われて、恥ずかしかつたとのこと。褒められたことでないのは十分承知していたし、それなりに反省もしていたのに、またも叱られるかと思いきや、母は「うちの子が、やられっばなしでいられるものですか」。
まだまだ、『女らしく』『女のくせに』『そんなことではお嫁の貰い手がない』などと毎日のようにいわれていた時代です。母はどんな気持ちだったのだろう。
40年たつた今、娘にこの話をしたら「ダテラ?なにそれ?」とあつさり言われてしまった…。
池上彰の新聞ななめ読み 朝日新聞・2009年(平成21年)3月30日
新聞配達 苦労に報いる文章を
小学生の頃から新聞が大好きだった私は、夕刊が届くのをよく楽しみに待っていました。学校から帰って近所で友だちと遊んでいると、夕刊を配達するお兄さんが、自転車でやって来ます。自宅から離れた場所で遊んでいたとき、私がよぼど新聞を欲しそうな顔をしていたのでしょう。そのお兄さんが、「新聞を読みたいなら1部やるぞ」と言って渡してくれました。その嬉しかったこと。
そんなことを思い出したのは、3月7日の読売新聞朝刊の「編集手帳」を読んだからです。朝日新聞なら「天声人語」に当たるのが、このコラムです。
「きのうの朝、奈良県香芝市の踏切で読売新聞の配達員、芦高書代子さん(65)が電車にはねられて亡くなった」という文章で始まる一節。思わず姿勢を正しました。
「配達のバイクで転倒し、落ちた新聞を拾い集めていた時の事故という。読者に早く届けねば、その一心であったのだろう」
「線路上に散乱した新聞には『編集手帳』も載っていた。命をかけて拾ってくれた芦高さんの霊前で恥じることのない、心のこもった記事であったかどうか」
コラムの筆者は、こう自問しています。それは、日々のコラムを書いていて、後ろめたさを覚えるときがあるからだそうです。
「たとえば警察の捜査ミスに追及の筆を走らせつつ、『お前さんは机の前で偉そうなに批判ばかりしているね』と、もう一人の白分の声を聞く」
この文章は、私に鋭い刃として向かってきました。たとえば朝日新聞の記事の欠陥をあげつらいながら、「そういうお前さんは、現役の記者時代、ご立派な原稿を書いていたのですか」という、もう一人の自分の声をいつも聞いていたからです。
偉そうに朝日新聞の記事を批判する私のコラム。そのコラムが載った新聞を読者に届ける朝日新聞の配達員の人たちがいるのです。その人たちの苦労に恥じることのない、心のこもった文章を、私は書けているのだろうか。私もまた、自問してしまいました。
このところ新聞はインターネットに押されて苦戦しています。でも、紙の形で戸別配達されるからこそ、パソコンが苦手な人も、パソコンの電源を入れる時間のない人も、さまざまなニュースを瞬時に一覧できるのです。
自宅で新聞が読めるのも、芦高さんのような人たちの苦労があってこそ。苦労が報われるような文章を、自分は書いているのだろうか。
2009年7月1日更新
PTAを考える
年3回の発行予定です。2回目は9月に発行しようかと考えております。そこで特集を組もうかと思っていましたが、9月は載せたい記事が多く、特集まで組むとなると紙面が足りない…。年度の終わりに「特集」は、遅いでしょうか? 1年を振り返りながらその時にでた問題点等を掘り返してみる。先日行なわれた運動会で、飲酒する光景が見られたと運営委員会で報告がありました。そのような問題を提起しながら、次年度に繋げていけたらと個人的に考えています。H小でも、言われている「PTAの学校離れ」が進んでいます。児童数が少ないため親が学年が違っても顔見知り率が高いのに出席率は悪い。来ればほとんど顔見知りで楽しく話すのに。もっと学校に来たいと思えるようにしたいです。それらも踏まえて、PTAで考えていただけたら、と思っています。 Suzuki
来週月曜日に最終校正を出すきょうの土曜日になって、本部役員から縦組みを横組みに変更するように、本部のどなたかが勝手に依頼した原稿を持ち込んで「これを載せなさい」などと注文が出されました。広報発行の最終責任者は会長だから、本部の望むように作って欲しいと、強硬です。ただし、この校正を持ち込んだのは副会長さんです。この号の内容については運営委員会でも報告してきました。学校側の最終校正は誤字の訂正だけで届きました。時間的にも経費の面からも不可能です。どうしたらいいのでしょう、委員会は混乱しています。
Field
2009年5月1日更新
新しい一年が始まりました がんばります
昨年度は11年ぶりの一年生の担任。「小一プロブレムなんでどこのこと」と思っていた私でしたが、驚くような事々に振り回された一年間でした。着座できず、思い立つと歩き回り、静止させようとしたり、促したりするとパニックになる子。誰もとがめてなどいないのに自分で落ち込んで教室を出て行ってしまう子。思い通りにならないと教卓のところに来てしまったり、友達に手を出してしまう子。一日中うなっている子。
一対一なら何とかできるけれど40人近い教室では十分対応できないのが現実です。こうした子たちに接していると、教育の課題の多さに悲観的にさえなります。でも、こうした子たちに同調せず、その子たちをじっと待っているクラスの多くの子たちがいることも発見できました。新しい一年が始まりました。昨年の一年間が今は懐かしくさえ思えるのが不思議です。今年も、がんばります。 淑子
2009年4月1日更新
この一年をステップに、自分を耕し、成長していきたい
平成20年度情報委員長 石田 真美
昭和47年創刊の「はだのP連だより」は今年で創刊35周年。5月23日には、これにかかわってこられた諸先輩8名、今年度市P連役員2名と司会の私の11名で座談会を聞かせていただいた。
創刊当時は広告を取り、手書きだった。編集は当時の母親委員(現・情報委員)で行われたという。その創刊号から武先生の協力を得ていたことを知る。そして平成18年に情報委員会だよりの第1号発行。平成17年、母親委員会から情報委員会へ改称など、今年でなければきっとお会いすることもなかっただろう先輩方より、歴史や苦労話、意気込みなどを聞くことができた。「35年の重みを感じ、子供の幸せを願い、引き継がれたバトンをつないでいきたいと思います」と、今年度の市P連会長はまとめて下さったが、その場の誰もが同感だったと思う。
今年度の情報委員会のスローカンは「行きたい学校 帰りたい家庭」。情報委員会だよりNo10は、行きたい学校を意識し内容に。3カ月たった1年生の様子、また、市内13の小学校のシンボルを写真で紹介した。校長先生やPTA役員、子供たちも協力してくれての写真撮影。その一枚の写真に学校への限りない愛情を感じた。
No11は「帰りたい家庭」。どんなときにお家に帰りたくなるか、を子供たちから取材した後の編集会議に参加。「今の子供たちは、疲れてるんだなぁって感じた」「塾やら部活やらで本当に忙しそうだからね」「親はどうしてあげたらいいんだろう」と話が深まっていた。そのことを会員にも考えてもらえるような紙面になるようにと編集チームは頑張ってくれた。「広報は耕報 広報作りを通して白分自身を耕すことができる」という武先生の話が思い出される。広報活動の経験のない私は、出来上がった紙面を見ると、「これが、PTAのお母さん方の手で作り上げちれたものか」と驚くばかり。編集に関わった委員の皆さんは“雲の上の人”だった。
武先生の本に、『誰にでもできる新聞だけど』という生徒の作文が載っている。その生徒はこう書いてある。「学級新聞というのは、字のうまい人を選んで、書くものだと思っていた。しかし武先生はちがっていた。学級新聞コンクールだからといって、文のうまい人、字をうまく書ける人、デザインの得意な人などを選びはしなかった。クラスで決まっいる順番で当たった班が、学級新聞コンクールに出す新聞を作った。武先生は、新開は誰にでもできると、考えているからだ。みんなが協力すれば新聞はできる。協力してできた新聞はみんなが読んでくれる」。
次年度情報委員との引継ぎ会でお話することになり、改めてPTA広報の役割こついて考えた。それがこの文である。この一年で得たものをステップにして、もっと自分を耕し、成長していきたい。
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エコー教育広報相談室の活動 2008年4月1日から2009年3月31日まで
教育広報相談室は、学校新聞、学級新聞、PTA広報作りの『何でも相談室』です。企画、編集などのアドバイスとお手伝いをしています。 編集上でのトラブルなどの解決策も一緒に考えています。
@新聞新聞づくりの相談 ・学校・学級新聞 13件 ・PTA広報(クリニックを含む) 301
件 ・その他の広報・新聞(家族新聞など) 6
件
A教育相談「一人で抱え込まないで、一人で悩まないで」 ・進路変更・不登校・教師不適応・学級経営など 8件
Bその他の活動 ・新聞・広報づくり講座講師
31回
・子育てなどの講演 2回
・「ふるさと」講座・案内 21
回
・全国新聞教育研究協議会関係 8 回
C当相談室来訪者 264組 (541 人)
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2009年3月1日更新
教育現場での検証を行う時期を迎えたNIE
新聞教育アドバイザー 野田 広明(松戸市)
インド洋に浮かぶ「光り輝く島」スリランカを訪問した。紅茶通にはセイロン茶で馴染みの深い国だ。見学した大都市コロンボにある中・高一貫校では、50名ほどの生徒が日本語を学んでいた。黒板には五十音表と数枚の単語票が掲示されているが教科書は見あたらない。取り寄せた日本の新聞をテキストに、記事の中から知っているひらがなや漢字を発表し合い知識を深めている。コミュニケーション活動を中心とした授業により、いつの間にか日本人よりも正しい会話を覚えていく。日々発行される新聞は、なくてはならない教科書であり、コミュニケーションツールとしても効果がある。コロンボでの授業風景に、生徒が言語や文字を学ぶための教育の原点を見ることができる。
昨夏、NIE全国大会が高知市で、翌週には、新聞教育研究会の全国大会が京都市で開催された。どちらの大会も、校種別・テーマ別の発表や報告をもとに、集まった大勢の教師による熱心な意見交換が行われている。これは、学級や学校で実践された新聞学習が、子どもたちの読解力や表現力の向上に効果をあげている証であり、研究大会が今後の授業に活かすための意見交換の場になっているのである。
高等学校の授業で、NIEが流行のように取り入れられている。大学入試に、新聞記事や論説・社説を引用する設問が年々増加している影響だ。昨年度の出題傾向は、論調や誘導に惑わされず、今まで以上に文章から真実を読み取る力や、論理的に表現する力が求められている。マスメディアの良識やリテラシーが提唱されて久しいが、大学が受験生に何を求めているのか、教育現場で検証を行う時期を迎えている。
近年、学校種間での連携した研究が深まる中で、小・中学校と高等学校では新聞学習の取り組み方に相違が生じてきている。受験対策として新聞を活用することは世の趨勢であるが、NIEの基本に則り小・中学校での実践例を発掘し、再び教室に還元していくことも教育関係者の責務である。
携帯電話 Yes? No?
携帯メールって便利で、用事がすぐ済んでしまう、スグレモノです。だけど、その一方で、「ふりまわされてしまう」コマリモノです。電話なら、その場で答えが返ってきて、会話が成立するのに、メールは一方通行です。顔も見えないので、孤独感が募ります。もっとも、メールは、相手の都合の良いときに、見ていただければ良いわけですし、必ずしも、その時すぐに返ってくるというものでもありません。
ある調査によると、携帯電話を持っている小学生は31%、中学生は58%、高校生は96%が持っているそうです。「メールの受信時、3分以内の返信」を心がけている中学1年生は、17.1%、小6でも16.8%もいて、高1女子の8.0%が1日に101回以上メールを送信するそうです。
自分がその世代だった時のことを振り返ると、3時間も電話をして、父に「いつまで電話をしているんだ!会って話せば良いだろう」と言われたのを思い出します。好きな人がいるとか、友達と仲たがいしているとか、自然とバレていたように、思います。電話は、居間にありましたし、父はテレビでジャイアンツの試合を見ながら、娘のことが気になって仕方がなかったのですね。携帯だと、「自然に」子どもの交友関係がわからなくなっているようです。便利になりましたが、「幸せ」が見えなくなってしまうのではないか、と危惧するのは私だけでしょうか。
「セキュリティのために持たせている」という話をよく耳にしますが、昔は「知らない人にはついていかない」、「〇〇時には帰宅します」と、親とあたりまえのように約束事がありました。「チャイムがなったら帰らないと…、親に叱られるから、心配するから」、お家に帰りたいと思うのです。
携帯電話は、あれば便利だけれど、GPS機能があるからと言って、本当に安全なのかな? 便利だからこそ、もう一度、見直したいなぁと思いました。 箕輪佐和子
2009年2月1日更新
PTA活性化のためにいま必要なこと
年度末の今、ほとんどの小・中学校でPTAの活動の点検が進められているはずです。
委員のなりてがない、会員数の減少という現実から、有名無実の委員会もあり、その活動を見直すわけです。たとえば、教養委員会、図書委員会、校外生活委員会などは、その活動の目的があいまいであったり、限定され過ぎているからです。そして広報委員会も、その点検の対象になっています。PTAの委員の中で最も敬遠され、なりてのないのは広報のようです。ですから、発行回数を減らすことで、その場を切り抜けようとする安易な発想が出てきます。
ある小学校のPTAの懇親会で、「あんな内容の広報ならいらない」と放言された会長さんがいらっしやいました。発行回数を減らしたのはご自分だったのに、です。さすがに、翌日陳謝して回られたそうですが。
『委員になりてがない』→『活動の内容を減らす』→『活動の質が落ちる』→『活動の意味が薄れる』→『無用・いらない論』という悪循環を、この会長さんは理解できていなかったのでした。加えて、広報の持つ重要性にも気づいていらっしやらなかったのです。このような感覚や発想の中で進められるPTA活動の見直しは危険です。
活動のスタートは人集め
PTA活動の評価は、『人集め』でされてしまいます。その大変な人集めについての提案です。
PTA総会
人集めが最も難しいのが総会です。さまざまな人集めの方法が試みられてきました。例えば、授業参観を総会の前に組むということをしたPTAがありました。でも授業が終わったら親子で仲良く帰っていく姿が増えただけでした。教師も出席して、教育について語り合える企画など立てられないのでしょうか。総会不要が一般会員の中にくすぶっているのは『PTAの在り方』が問われているからです。そこに視点がいっていないのが根本にあるような気がします。
地区憩鼓会
「問題のある地区(『意味不明≠ネ、そしてだれがそう決めたのか』と怖さを感じた私でした)だけ開催をする」としたA小学校とそのPTA。「夏休みは子どもを家庭にお返しするのだから、登校日はない」も、この学校の主張ででした。『登校日がない』ことだけでも、学校・家庭・子ども、そして地域の課題(あえて『問題』とは書かない)になるだろうと思のですが。夏休みのことを、学校と家庭とで話し合うことは必要だと思うのですが…。
「先生方が、地区の会館まで出て来てくださることば、それだけでも、私たちに近づこうとされる姿勢が感じられます。だから私たちも、できるだけ大勢集まるように努力するのです。先生と雑談できるのはとても楽しいことです」これは、地区懇談会に出席された、あるお母さんの声です。
学級懇談会
「学級懇談会の成功の鍵は、父母が握っている。父母が魅力ある親になっているかどうか、にある」という先生の言葉、何となく分かるような気がします。でも、私は「学級懇談会の成功は、教師の頑張りに尽きる」と、あえて言います。端的に言えば、教師が魅力的であることこそ、懇談会成功の絶対条件なのです。「同じ顔ぶれで、内容もないのが現実の懇談会。だから懇談会を廃止してに個々面談を多くした」という中学校があります。わが子にしか目が行かない、今の親にとって、「懇談会は『建前論』ばかり。出席しても意味がない」と映るようです。教師にとっては、学習成績という切り札を初めから出して、こちらのペースで話が進められる個々面談の方が楽です。
でも、建前論を聞くこと、語ることは決して無駄なことではないと思います。とくに教師が、教育にかける夢(これこそ、まさに『建前論』なのですが……)を熱っぽく語れる機会はこの時しかない、と私は思っています。
懇談会に活動の原点を求めたい
総会はもちろん大事、成人教育の講演会も必要、資源回収も環境問題とからめてやっていってほしい。でも、「PTAの活動の原点であり到達点は学級懇談会」です。この会こそ、子どもたちの幸せについて考えるのにもっともふさわしい話し合いができるからです。
10月におこなわれたある中学校の学級懇談会の出席者は、55パーセントを超えていました。学年懇談会ではありません。学級委員と担任との努力
―それは、会の成功を願ってテーマを決め、資料を作り、会の進行についても打ち合わせ、人集め、会場作りなど―
がおこなわれた結果です。そして、バック・アップした広報の力も、目には見えないが大きかったのです。呼びかけのチラシ、そして速報の発行。加えて15学級の懇談の様子をB5判30ページの冊子にまとめ、学級ごとに回覧形式で読んでもらってたのです。
2009年1月1日更新
遠藤実作曲の『高校三年生』を歌うとき
2008年12月8日の朝日新聞の『天声人語』は、作曲家遠藤実さんの死を悼むものだった。
貧しい家に生まれた遠藤さんは、「高校三年生」というヒット曲を生んだのだが、あの歌に歌われているような学園生活の思い出はなかったという。「だからだろうか。明るさの中にひそむ淡い哀調を、わが身は感じてきた」と人語氏は綴っている。
ちょうど10年前、1998年11月1日発行の『エコー』に「『高校三年生』を歌うとき」という文(下)を書いた。
『高校三年生』を歌うとき
気がついたら十時を回っていた。「さようなら」をする前に、「みんなで合唱しようよ」と、私は『高校三年生』を歌った。午後三時から延々七時間、私に付き合ってくれた十数人と大合唱になった。♪赤い夕日が校舎を染めて…♪
二週間ほどたって、Tさんから手紙が届いた。彼女は新聞委員だった。そしてソフトボールも一緒にやった。
拝啓
さわやかな秋風にコスモスが鮮やかな色で咲き競っています。同窓会での思いがけない再会、とても楽しいひとときをありがとうございました。あの騒ぎの同窓会でしたから、あまりお話できずとても残念でした。
確か七、八年も前のことでしょうか、NHKの番組で「心に残る歌」というリクエストで『高校三年生』が第一位になったことがありました。あの歌がヒットしたころ、私は高校一年生でした。明るくさわやかに歌われたこの歌は、当時だれもが楽しそうに口ずさんでいたと思います。でも、そのころの玉川中学の高校進学率はまだ低く、女子は半分にも満たないような状態だったと思います。地方から集団で都会に働きにきていた十七歳も、汗にまみれて働きながら『高校三年生』を聞いていた…昭和三十年代の終わりはそんな時代でした。
同窓会の夜、先生が歌う『高校三年生』を聞きながら、とても幸せに暮らしている友人の「今でも履歴書を書くのは嫌」と言っていた寂しそうな顔を思い出してしまいました。あの歌をせつなく聞く五十代は多いのかも知れません。時に思い出は残酷な顔をもちらつかせたりするものですね。
余白に、井上陽水の『結語』が書いてあった。
迷い雲/白き夏/ひとり旅/長き冬/春をおもいだすも/忘れるも/遠きとおき道の/途中でのこと
それ以来、『高校三年生』を聞くとき、そして歌うとき、Tさんが書いてきた手紙を思い浮かべる。人語子が感じた『高校三年生』に潜む哀歓を、私も教師としてずっと感じてきた。
2008年12月2日更新
武 勝美特別講演会 「きのう、きょう、そして明日」 に参加して
今日もまた素敵な人に出会えました
笠井 麗子
先生の「新聞づくり49年」、私の年表と重ね合わせながら聞きました。「まだ生まれていない。両親が東京で生活していた頃か」「私は小学校で壁新聞を作らされていたっけ」「私も中学、同じ時代だ」。
この日の話の中でメモを取った箇所
@高橋一郎君「原稿を直されたのがイヤだった」→「原稿の手直しは一切しないと心に決めた」(広報紙クリニックで文章に対する指摘がない理由を納得。しかし、分かりやすく伝えることを第一に考えると、素直には頷けないなぁ)
A文字に書いて相手に伝える=(イコール)→「責任」が発生(記事の内容に対する責任・正確さはもちろん、そのことを記事として取り上げた責任、あるいはその記事がおよぼす影響に対する責任と認識。そういえば最近頻繁に耳にする閣僚の「不適切な発言」。スピーチで「受ける」ことを大事と思うためでしょうか。そういえば政治家には弁論部出身者が多いと聞きますが、彼らが新聞部出身だったとしたら・・。)
B学校に三つの声「子供の声」「保護者の願い」「先生方の思い」(武先生の講習では定番の内容。今日は、「子供の声」に「生の声」「本当の声」を強調。)
楽しい会でした。広報紙づくりに携わったお陰で先生と出会え、今日また素敵な方たちとご一緒させていただきました。『エコー』上で名前をお見かけしていた方に直接お会いし、仲間(と言うのはおこがましいけれど)づくりが広がったと感じています。
これからも、教え子として
野上真由美
「生前葬だよ」と言われた特別講演。そのとおり、知らなかった社会に初めて出た頃のお話から始まり今まで教えて頂いた新聞づくりの大切さをさらに聞くことができ、たくさんの先生の思いを知ることができました。なかでも一番興味深かったのが、教職時代の若い頃の先生にビデオで出逢えその頃のお話が聞けたことです。
私はビデオの中のN中に同じ時期に在学していた生徒の一人です。残念ながら当時生徒が二千人近くいたマンモス校で直接教えて頂くことはなかったのですが、広報委員となりまためぐり逢えたのです。なんと奥様も私の高校時代の恩師であり、こんな素敵な縁があるなんてと思っていたのです。
学級新聞づくりは「いつも子どもたちと一緒にという思いから」と語られたとうり、ビデオの中で子どもたちに語る口調、「うん、そうだね」と見守るあたたかい眼差しに、今自分も新聞づくりだけでなく、生き方や親としてのありかたなどたくさんのことを教えて頂いている時の先生の姿と重なり「そうそう、これが武先生なんだ」、みんなが慕う先生はずっと変わらず待っていてくれたんだ、今まさに私は本当の教え子になっているんだという思いで見ていました。教え子の一人から「先生に記事を勝手に書き直されて、本当はすごく嫌だった」と言われ、それからは「出来上がった記事には手を加えない」というお話には、人との関わり方から子育てまでを考えさせられました。
「動かなければ何もおこらない」「春はやって来るのではない。自分から春になるのです」と先生がおっしゃったとおり、家の中に居ただけでは知ることができなかった事をたくさん教わり、その中で自分もいろいろなことを学び、また挑戦してみようと思うようになり、少しずつですが前向きに充実した時間を過ごせていることに感謝しています。
偶然、広報委員になったことで武先生にまためぐり逢え、一緒に参加したお母さんたちや懇親会で先生を慕っている方々とも出会えた、まさに「広報は人との出会い」「新聞づくりは仲間づくり」ですね。まだまだ教え子として時には厳しくも温かく見守って下さい。これからもよろしくお願いします。
ほんとに先生はすごい
相原 明美
武先生は、すごい方だとはわかっていましたが、東京での特別講演会で改めてそのすごさを実感しました。
3時間もの長講演に、疲れも見せない、先生はすごい。ただただ、尊敬してしまいます。先生の講演を聴きに行きたかったが、都合がつかなかった情報委員の人たちに、ビデオを撮ってあげようと思い持って行きました。でもビデオが先生について行けず、最後の方でテープの残りがなくなってしまいました。その間、バッテリーもなくなり、途中で交換もしました。先生は、途中ジュースを少し補充しただけで、3時間という長講演をされるってやっぱりすごい。
講演の中で、新聞作りへの思いを3つ話されました。そのことを広報委員さんにぜひ伝えたいと思います。そうすれば、もっともっと、よい広報が出来るのでは。
西中学校のビデオを見せていただき、そのころから新聞作りが盛んだったから、今も秦野市の中学校の新聞作りが続いているのだと思いました。
「新聞作りは仲間つくり」ほんとうにそのとおりです。PTAの広報委員になっていなければ、懇親会であのような素晴らしい皆さんとお話をすることはなかったのです。普通のおばさん、普通のPTA会員の私が、三年間も広報をやってこれたのは、武先生に出会えたからです。
「与えられた仕事をするのではなく、出来る仕事を自分で考え仕事をする」「自分で取材、自分で発信」。この言葉が私の心の中に刻み込まれた今回の講演会は、いつも以上に充実したものでした。ありがとうございました。
先生はすごいので、お体に気を付けてもっともっとたくさんの人に新聞作りの大切さ、そして楽しさを伝えてください。
長生きして、まだまだ頼らせてください
名波 奈々
ECHOの日記「今日は生前葬だった」という言葉に、先生自身がそう捉えてくれた事を嬉しく思います。生前葬儀は長生きに繋がる縁起のいいことだと言われ、江戸時代から行われているそうです。
「きのう、きょう、そして明日」というテーマ通り、今までの人生を振り返りつつ区切りをつけて、これから人生を楽しもうとしている先生の決意が感じられました。まさしく特別講演会(生前葬儀)でした。
先生とのお付き合いはまだ1年6ヶ月ですが、まるで中学時代の恩師に再会したような懐かしさを時折感じます。時には厳しくも暖かい励ましや本心なのかと思うほどの褒め言葉、全新研の京都大会や講演会などでの新たな縁結びなど、いろいろな事をいただいています。
今回も教えていただいた事を補足するお話を聞かせていただきました。社会に出て失敗した経験談は自分の経験と重なり恥ずかしかったですし、教師生活のターニングポイントとなった人たちとの出会いは初めて聞いたお話でした。
何より貴重だったのは、NHKの番組内での若い先生を見る事が出来た事。誰もが「わか〜い!!」と感嘆の声をあげていました。そんなみんなの反応を苦笑しつつ嬉しそうに見守ってくださる姿が、みんなの大好きな武先生です。
場所を移して行われた懇親会も大盛況!先生を慕っている方々と先生の繋がりに「新聞は仲間づくり」だと改めて感じました。私にとっては同じ秦野のお母さんでも初対面だったのですが、すぐに打ち解け旧知の仲のように接する事ができました。武先生という共通の縁と広報という土台があるためでしょうか。そんなお母さん方や新聞に携わりがんばっている方々の輪の中にいるだけで、自分の歩んでいる道もこの方たちに続いているのだと思えてきます。自分を耕すという意味では開拓中ですが、いろいろな体験や縁を肥料とし実り多い自分を目指したいと思います。これからもよろしくお願いします。
子供の心を大切にする新聞づくり
石田 真美
PTAの役員をさせていただいて「役得だ!!」と思えるうれしいことにたくさんある。武先生と出会えたことは、まさにそうだと思う。この日の講演会に出席させていただいたこと。そして、武先生に繋がるいろいろな方と出会えたことも。
それにしても、3時間の先生の講演はすごい。どれだけの準備をされてこの日を迎えられたのだろう。話された中味から、ていねいに積み上げことの大切さ実感した。こんな生き方が出来ればいい、と思った。
《生き方》と言えば、「動かなければ出会えない 語らなければ広がらない 聴かなければ深まらない」という先生のモットーにも出会った。新聞づくりの中だけでなく、後ろ向きの心になったとき、つまづいたとき、この言葉に背中を押され、励まされている私である。
新聞づくりは無縁だと思っていた。でも、情報委員という役のお陰で、全く新しい新聞づくりという世界に、少しだけ足を踏み入れた。今年度の情報委員会は一ページの紙面をつくり上げるまでに「子育てについて」「食育にいて」「自転車の乗り方について」など、いろいろ考えるきっかけをいただいた。
講演から、先生が常に子供の心を大切にする新聞づくりを進めてこられたことを知り、あらためて「新聞づくりは仲間づくり」の意味をかみ締めました。ありがとうございました。
指導の根底にある 作る人、読む人への愛情
石井 美穂
私が武先生に初めてお会いしたのは、昨年の情報委員会主催の「広報クリニック」のときでした。新聞作りのこと、広報の役割などほとんど知識のない私でした。武先生については、「広報紙のチェックが厳しい」「プロ意識が高く理想を押し付けてくる」など、さまざまなことを耳にしていました。でも、先生の広報作りの話を何回か聴いているうちに、噂とは全く違うと感じました。
今年度情報副委員長になり、先生と直接お話する機会いが増え、新聞の大切さや作り方の基本をていねいに教えてくださり、作る人、読む人への愛情が、先生の指導の根底にあると思うようになりました。
先日参加させていただいた特別講演会でも得たものがたくさんありました。今までの講座ではお聞きすることのなかった教員時代のエピソードは興味深く、感動しました。そのエピソードにも、新聞教育の意義―新聞が生徒にもたらすもの、新聞作りを通して生まれる生徒たちの一体感、文字で伝えることの大切さ―が込められていました。
夏に行なわれた「誰にでも出来る新聞づくり」の講座に小5の娘と参加しました。先生の指導で、娘は壁新聞にトライしました。そして、その完成に大満足でした。来年も「挑戦する」と言っています。児童会の動物委員会で新聞を作りたいと考えているからです。
特別講演会に参加された先生のお仲間の皆さんは前向きな生活をしていらっしゃるすてきな方ばかりでした。懇親会で新聞教育への熱い思いを聞くことができました。「動かなければ出会えない」「語らなければ広がらない」「聴かなければ深まらない」、まさにその通りだと、この日強く思いました。
2008年11月5日更新
2008年10月1日更新
わが家は親子で変わり始めました
高一になった長男のことです。わが家では入学式、卒業式は夫婦で交互に行っています。他の学校の行事やPTAの集りは私がほとんど出ています。授業参観だけは二人で行くようにしてきました。
高校の入学式は主人の番でした。入学して6日目、駅のコンコースのところで中学時代の部活の仲間、今は別の高校に行った子に出会い、その子ががタバコを吸っていて補導されました。長男は一緒にいたということで「謹慎5日間」になりました。所持品を調べられたのですが、長男はタバコもライターも持っていませんでした。親子でショックを受けました。
今までは、長男への対応は全て母親の私がしてきました。でもこのことがあってから、主人に子供と話しをしてもらうことにしました。タバコのこと、友達のこと、そして謹慎中の生活など、私が話すと感情的になってしまいそうなので、男同士で話し合ってもらうことにしました。そしてこのとき思いました。父親と子供の関係が一段階強まるチャンスだと。父親の威厳もあるのだから少しの口論は当たり前です。男の子にとって父親は高く厚い壁です。それを乗り越える時の成長がある、その機会が今だと思いました。
5日間、かなり睡眠時間を削って勉強をしている長男の姿を見ました。今、長男は変わりつつあります。わが家は親子で変わり始めました。 S.T
2008年9月1日更新
第51回全国新聞教育研究大会・京都大会に参加して
△東京新聞 NIEのページ(2008/8/13)
「広報は耕報」です 武 勝美 |
2008年8月1日更新
日刊学級通信『やまびこ』の山田暁生さん 逝く
―哀悼の意を込めて―
死者の魂は、生き残された者が如何に、彼らのことを思い出すかによって、輝くのではないか。死者を忘れないということは、自分の原点を忘れないということである。 瀬戸内寂聴
7月28日19時19分、『エコー』の読者でもある、やまびこ会代表の中野敏治さんからメールが届いた。
本日(7月28日)、仕事から帰ってきましたら、山田暁生様の奥様から1通の手紙が届いていました。7月17日に永眠されたとのこと。7月24日に家族のみで葬儀を行ったことの連絡です。私はこの17日に山田先生を病院に訪ねていました。ナースの方の話では、山田先生は、こちらからの話しかけは分かるものの、自分の意志を伝えられる状態ではない、と言われました。残念ながら面会はできずに帰ってきたのですが、その日に山田先生が亡くなるとは…。
山田先生のおかげで多くの方が同士としてのご縁をいただくことができました。私もその一人です。残された私たちは、山田先生から頂いたこのご縁を大切にしていかなければと思っております。やまびこ会をはじめ、多くの方々とのご縁をこれからもよろしくお願いいたします。そこには、山田先生が作られた温かな関係があります。山田先生が残されたものを、ご縁を通じて引き継いでいきたいと思います。
日刊学級通信『やまびこ』を25年間書き続け、今年3月まで「父母と教師のコミュニケーションと相互理解を実践する仲間の会・やまびこ会」を主宰された山田暁生さんが逝去された。享年71歳。
山田さんとのご縁は、1980年の神奈川県中学校新聞教育指導者講習会で私の話を聴いてもらったことから始まる。この講座の後、山田さんから次のようなたよりをいただいた。
常に担任でありたいと願い、充実した学級活動の中心に学級新聞をおき、ものをとらえる目を子供たちに教えていく。新聞づくりの技術ばかりに目が行っている今の新聞活動に対し、武先生の指導する新聞には、教育があり、心がある。私の教育活動の原点は学級通信。頑張る子供たちの姿を追いかけ、励ましていきたい。
1982年、勤務していた秦野西中学校の職員研修に山田さんをお招きした。PTA広報委員会を町田市立成瀬台中学校に山田さんを訪ねさせた。その取材の中身は『西中PTAだより』98号に次のようにレポートされている。
年8回の学級懇談会、読書会が月1回行なわれていることに驚く。PTA活動の基盤は学級懇談会。学級懇談会の内容が学年委員会で討議され、そこからPTA活動の研修会や講演会のテーマや内容、予算が決まる。子供たちのためにいくつもの話し合いの場を持っていることを知り、山田先生から私たちは大きな宿題をもらったような気がした。
眼差しが優しいように、心はいつも温かく、しかも情熱的な山田さんだった。『エコー』が創刊20年を迎えたとき、次のような大きな励ましをいただいた。
オー 二十年か!
山田 暁生
いつもECHOを読ませていただきながら、全くのご無沙汰で申し訳ありません。自分の主宰している「やまびこ会」では「エコーをください。それが発信者にとって何よりの励みになります」などと、度々言っているくせに、有言不実行の見本のようなことをしていて、恥じ入るばかりです。
ECHO第215号(2004・5・1発行)を読み進めているうちに、「ECHOは創刊20年目にはいりました」に目が止まりました。「そうか。そうだな。20年か…」と、しばらくこの控えめに記された見出しを眺め、創刊当時のことなどを私なりにいろいろ思い出していました。
武さんはずっと新聞教育の実践をしておられ、その実践では既に全国に知られた実践の第一人者でした。「新聞教育のことなら武さんに聞けば何でも分る」と、新聞作りを教育に取り入れようとしていた先生方はそう思っていました。
「コミュニケーションを重視した教育」という点では私も学級通信活動や保護者との対話活動に熱を入れていたものですから、東京と神奈川という別の地での実践ではあっても、自然とお互いに引き合うものがありました。
武さんに学校の研修会に呼んでいただいた時は先生の多さにびっくりしました。確か80人を超えていて、研修会場(図書室?)に入った時はあまりにも多いので、「あれ?ほかの学校の先生方も一緒ですか」と聞いたのを覚えています。超マンモス校でしたね。
武さんも私も、「ECHO」の題字下に書かれている「・動かなければ出会えない・語らなければ広がらない・聴かなければ深まらない」と思っていましたし、お互いの実践にはこの思いが共通していましたので、「お、武さんやってるな」と武さんのたゆまぬ実践にずっと関心を持ち続けていました。その武さんが「自分の思いを自分の言葉で、誰の制約も受けず、広く伝えていきたい」と、1985年5月に「ECHO」の発行をスタート。それを手にした私は猛烈に「自分もこのようなことをやりたい!」と思ったものです。
しかし、現場は、全国的にも私の勤務校も荒れまくっていましたので、朝は7時前に出勤、帰りは夜11時過ぎといった状況でしたので、何とか日刊通信は出せていたものの、外に向けて、月刊で何かを出すという作業は、とても出来そうな状態ではありませんでした。それを武さんは軽く(?)できている。困難を乗り越えてでも、自分の思いを外に向けて発信したい、というその執念ともいえる意欲が実行まで具現されている事が私にとって、とても魅力でした。
ある出版社の社長さんの励ましもあって、武さんに遅れること1年後に、「やまびこ会」を立ち上げ、毎月8ページ立ての通信を作り、全国に発信しはじめました。1時は650人ほどの会員が全国から会への参加があり、その頃は私も死に物狂いの対応生活でした。家族はみんなあきれ返って、最初は協力的な姿勢があったのですが、そのうち「こんなお父さんの趣味にはついて行けない」と女房や子どもたちからも「好きにやれば」と突き放され、孤軍奮闘の日々を続けることになってしまいました。武さんのご家族はどうだったのでしょう。わが家と比べると格段の違いがあり、みなさんよき理解者だったのではないでしょうか。
わずか9行の文章でしたが、「ECHOは創刊20年目にはいりました」の文章を読みつつ、あんなこと、こんな事が思い出されてきたのです。書けばいろいろありますね。
意志力の弱い私は、1か月入院した時は、「自分に負けるようでちょっと口惜しいけれど、この辺が止め時か」と思ったこともあり、郵便料金が値上げされ、かといって会費を上げるとごそっと退会者が出てさらに立ち行かなくなる。子育て真っ盛りの当時、家計からやまびこ会に補填と言うわけにも行かず、いろいろ気苦労も勉強させてもらいました。
武さんは「自分の思いを自主的に出していくのだから当然」ということでしょうか、随分長い間、無料で送り、郵送料も武さん負担という、とても考えられない形で、実践しておられました。
インターネット時代の今日も、武さんはホームページを持ち、さらに、紙でも皆さんに伝えるという、誰も真似の出来ないことをやってのけています。本当に凄い人ですよ。先発の武さんが続けて走ってくれているので、私もフーフー言いながらも続けられていると言えます。武さんのECHOがストップしたら、私の教師になって始めた1960年からの「やまびこ実践」も、あの世往きになるかもしれません。
学級通信『やまびこ』を引き継いだ、やまびこ会の会報『やまびこ』は、2007年11月のNO260号で終刊となった。次がその終刊のご挨拶だった。
断腸の思い 「やまびこ」の幕
始点があれば必ず終点がある。やまびこだっていつかは終点を迎えざるを得ない時が必ず来る。とは言え、47年も続けてきたこのささやかな実践。せめて区切りのいい50年は続けたいなあと思い「後ひと踏ん張り!」と自分の心にハッパをかけ、その後を過ごしてきたのですがいかんせん体調の悪化(中略) 「50年続けたかったなあ」という思いが強いだけに、ここで「来年3月閉会」と宣言するのは断腸の思いです。
死者の魂は、生き残された者が如何に、彼らのことを思い出すかによって、輝くのではないか。死者を忘れないということは、自分の原点を忘れないということである。 瀬戸内寂聴
山田暁生さんが旅立ったのはお盆が明けた7月17日。「葬式無用、戒名不要、弔問供物一切固辞、故郷の地に散骨せよ」が遺言だった。これ等の言葉は、安息を次の世に求めようとしていないかのようだ。山田さんの限りない《無念さ》を感じる。
2008年7月1日更新
武 勝美の教育講演会から
私が出会った言葉 NO5 ― 言葉に救われた 言葉に背中を押された 言葉は力
―
《言》は 話したり、語り合ったりすること それに《葉》が付いて《言葉》
小さな命を育むところが学校です。でも今、子供たちが置かれている状況、社会の状況を見るとき、学校は命を育むところになっているのでしょうか。
この本(拙著『朝会の話・春の朝』)は、私が鶴巻中での朝会の話をまとめたものです。その結びに、私はこう書きました。「大人は子供に心を寄せましょう。“子供に心を寄せる”とは、子供を理解してやる、受け止めてやるとは違います。サンテグジュベリは著書『星の王子様』の前書きで次のように言っています。『大人は誰でも初めは子供だった。しかしそのことを忘れずにいる大人はいくらもいない』。子供の心と同じようような感情というのでしょうか、感性というのを私たち大人は持たなくてはならないのだと思います。
動物がおしゃべりをするとか、動物だって言葉を持っているという人がいます。植物にだって言葉があると信じている人もいます。動物がもし言葉を持っているなら、話しているなら、何を、どんなことを話しているのでしょう。
チンバンジー、猿、猫や犬などの動物には記憶する力があるようです。確かにそれが動物にはあります。何かを記憶する能力、たとえば犬に「お座り」言ったら、座る。それはたぶん記憶する力だと思います。だからもし動物が言葉を持っているならば、記憶したものを伝えあうというような会話は犬同士、猫同士、しているのかもしれません。
動物に記憶力があるなら、判断することも出来る。例えば、叱られたらやってはいけないんだ、と判断する。そういう判断する力が動物にはあると思えます。動物には、“記憶する力”と“判断する力”がある。でもそれは言葉を持っているということではない、記憶したことを伝え合ってる、判断したこと確認し合ってる。「敵が来たぞ」とか…。
人間の言葉は、正しい使い方で正しく表現をすれば、その言葉を通して、次のものを作り出す力があるのです。人間の言葉は、言葉を通じて、媒体にして次のものを創造することが出来るのです。動物は、彼らの持つ言葉で記憶し、判断し生きている。人間は、言葉で記憶し、判断し、その上に新しいものを創り出している。だから私たちは犬や猫とは違う生活をしてるわけです。新しいものを生み出す、より豊かなものを生み出す、そういう会話を私たちは創り出さなくてはいけないのです。
『言葉』を語源辞典を調べました。言葉の《言》についてこう書いてありました。「《言》とは話したり、語り合ったりすること」。さらにもう一つは「口でしゃべったり、文字で表す内容のこと」。その「話したり語ったり、文字で表したりする」《言》に、《葉》という文字が付いています。音の「ことば」に漢字で当てはめてこうなったのです。さて、コト(言)にハ(葉)を付けたということはどういうことなのでしょうか、どういう意味で“葉”という字を当てはめたのでしょう。
木の葉や草の葉は何のためにあるのでしょう? それは幹を太らせるため、枝を茂らせるため、根を太くするため。私たちが使う言葉もそれを使うことによって、もっと大きな意味を持つことが生まれたり、次のステップに進むような、そういう力あるのが言葉であると信じたいのです。葉が木を茂らせるように、私たちが発する言葉から次の世界が生まれる、私たちが使う言葉は、新しいものを生み出す力があるのです。
もう一つ、葉っぱというのは、木でも草でも全て違う、イチョウの葉と桜の葉は違う。私たち一人ひとりが話すことは全て違う、違わないといけない。「あなたの言うこととまったく同じです」ではなく、私はこう思うから、あなたと同じなのです。と自分の思いを表すのが言葉です。口に出し、文字で書き表し、伝える。その伝えることによってさらに大きなものが出来る。もっと豊かな世界が広がるために言葉がある。言葉は、他の人と私は違うのだということを表すためにある。それが言葉という漢字の日本語の持っている意味ではないかと思っています。
そういう「言葉」の力を、高めるとか強めるにはどうしたらよいのでしょうか。家庭で、学校で、或いは地域で、どのようにしたら言葉の力が高められるのでしょう。鶴巻中での離任式の日、私は子供たちにこんな話をしてお別れしました。本当に単純な話でした。「挨拶をしよう。でも、おはよう、さよなら、こんにちは、だけじゃなく、その挨拶の後にもうひとこと自分の思いを付け加えよう。」。そう離任式で話ました。数日後、保護者から手紙を頂きました。「武先生のお別れの言葉の中に挨拶の後にひとこと、私も早速実行してみることにしました。でも簡単なようで、構えて考えるとなかなか出来ないことです。私がすることにしたのは、まず笑顔で挨拶して季節の話をしようかなって、そこから始めよう」と書いてありました。
挨拶の後にもうひとこと。「おはよう」の後にもうひとこと、そこから会話が始まる、広がる、その会話によって豊かな感情・世界が出来るのではないかなって思っています。「じゃあ武さん、あなたは今朝どんなひとことを付け加えたのですか」と尋ねられれば、今朝の私のひとことは「今日も生きていたよ」でした。 終り
2008年6月1日更新
子どもたちがまねたくなるカッコイイ年長者に 石橋 節子
言葉は時代によりその意味合いが少しずつ変化していくようですね。最近感じたのは、保育雑誌を見て作ってみたい物があると「いいのは直ぐパクッちゃおう!」などと話すことがあります。まねをする、参考にする、という意味で使っていますが、私くらいの年齢ですと「パクられる」と使い、「捕まる」という意味で、良いイメージの言葉ではありませんでした。
日々の生活の中では「パクッちゃおう(まねをする)」ことが沢山ありますね。先日も子ども達に新しいダンスを教える時に「先生をよく見て、まねっこしてね」と伝えて始めました。次第に担任そっくりに踊るようになるでしょう。
また、4月一緒に過ごした4歳の新入児が、友だちの遊びを見ながら歩いているときに、腕組をしていました。私のよくする腕の組み方でした。(思い過ごしかもしれませんが…よく見ているなとおもいました。) 保護者の方からも「担任の先生に似た口調で話します」などと報告されることもあります。『似る』というのも、それだけ一緒にいる時間が長く影響力があるということで、嬉しいことでもありますが、こわいとも思っています。
子どもたちの生活の中では、時にはまねるというより生活の中で刷り込まれるということもあるでしょう。それだけ周囲にいる年長者の影響・責任があるということでしょう。
子どもたちを見ていると、して良い・悪いことより、自分に注目して欲しいという思いや、以前それをしたとき周囲の人が喜んでくれたから、と思わずしてしまう言動があるようです。望ましい言動は大いに認め、褒めてゆきます。良くないことは、注意をしたりたしなめたり。そして、子どもの近くにいる者として、子どもたちがまねをしたくなるカツコイイ年長者でありたい思います。
保護者のみなさまに、子どもたちの望ましい成長を促すためにお願いしたいことがあります。
(1)お子さんに、ご夫婦仲の良いところを見せましょう。(仲良くのお手本になります。)
(2)家族で、おはよう・ありがとう等の挨拶はしっかり交わしましょう。(挨拶は、人とコミュニケーションをとる窓口となります。)
(3)幼稚園に来たときには、お子さんのしている遊びを一緒に楽しみましょう。(一緒にすることで何を楽しいのかが分かり、いっもと違うお子さんの一面に出会うことでしょう。)
今年も、子どもたちも保護者も先生もキラヰラ、ドキドキ楽しい幼稚園になるよう、いろいろな行事を計画しています。子どもたちの経験や楽しい思い出につながりますよう重ねてご協力をお願いいたします。(O町幼稚園PTA広報より)
2008年5月1日更新
子供たちの感性の豊かさ、それを実感する文集を読ませていただきました。
「つぶやき」
えんびつ 大沼祐美加
えんぴつさんは、命をかけた仕事人。 仕事をすれば、体をけずる。 体がけずれても仕事をがんばるえんぴつさん。
鏡
田代みなみ
鏡は、何でもまねするまねっこさん。 でも、文字をうつすと反対になる。 鏡は勉強が、大きらい。
オオクワガタ 青木遼太郎
冬、オオクワガタは、おちば。
お年玉 井上けいた
今年はいくらかな お年玉 いっぱいくれるかな お年玉 みんなくれるかな お年玉 たくさんもらって すっごくうれしい
ごみ箱 植田 涼介
いらないものは、ぼくにくれる。 だけどぼくも、いらないよ。
さてつとじしゃく 太田 侑雅
さてつはじしゃくと仲良し。 遊ぶときはいつもアフロになる。
カーテン 草野 翔太
日がでてきたら 高音のザサァー 日がくれたら 低音のザザァー カーテンの高音と低音で 音楽になった。
電 線 久保寺鮎香
電線は電気の血管
サッカーボール 佐藤孝太郎
けられても ぶっかられても がまん、がまん。 シュートされると 風を切って楽しそう。
春がくる 中村友理奈
あっ、春が来る。 入学式の春 卒業式の春 私はピアノの発表会が春にあるんだ。 ちょっと不安だけど、早く、早く、こないかな。
机 森谷 浩平
机はとてもなまけている。 ずっと立っていて動こうともしない。 でもいろいろな物を入れたり、乗せても ぜんぜん平気だ。 つかれて動けなくなったのかな。
(松田町立松田小学校4年1組・瀬戸級)
2008年4月1日更新
3月6日の日記で紹介した「秋田・羽後町の出身のAさん」から届いたたよりです。
ありがとう 明治小学校
相原 幸子
一月中旬、一通の案内状が届いた。故郷秋田の、羽後町立明治小学校が今春三月末で閉校し、記念事業を行う旨の知らせだった。創立明治十七年五月、百二十三年という長い歴史に幕を下ろす。三月現在の児童数は全校で五十七名、教職員十四名。少子化の波は予想をはるかに超えて押し寄せていた。思わず明治小のホームページを開いて校歌を聴いたら、寂しさと懐かしさかでじわりと涙が滲んだ。実家の両親にも一年半会っていないこともあり、家族の協力を得て、式典の出席を決めた。
三月一日(土)、前日の春雨で、軒下まである雪も、道路の雪もかなり融けた。今春から高校生になる甥と式典に向かう。校門をくぐると、校歌が流れていた。懐かしい面々と挨拶を交わしながら校舎に入った。理科室と保健室へ続く壁は、たくさんの表彰状で飾られている。廊下には、校舎模型や創立以来の年表が子供たちの手作りで披露されていた。歴代の文集、資料や写真も所狭しと並んでいる。
その中に、秋田県にも数体しか残っていないという『青い目の人形』も展示されていた。本来、日米友好が目的で贈られてきた人形だ。戦争の影響下で、処分するよう命令が出たそうだが、人形を焼いたり捨てたりするのをかわいそうに思い、こっそりかくまってくれた優しい先生がおられたようだ。
式典会場の体育館には、椅子が追加で運ばれるほど、多くの来校者があった。式が始まり、黙祷の後、教育委員会の式辞、来賓の挨拶を聞きながら、ぼんやりと小学生時代を思い出す。在校児童による“別れの言葉”が始まると、遊びまわっていた自分の姿を重ね合わせながら、純真無垢な子供に一瞬戻れた気がした。最後は「ふるさと」と校歌斉唱。卒業してから半世紀過ぎた大先輩たちは、会場のあちこちで涙を拭っておられた。
四月から子供たちは、統合された小学校へスクールバスでの通学になる。親御さんたちの統合に対する意見は、むしろ町教委以上にしなやかで前向きだった。先を見据え、しっかり思想が底上げされているPTAにも感服した。厳かで温かな雰囲気の式だった。地域の中の学校がどれほど大きな存在なのか、思い知る式でもあった。
偲ぶ会での船越準蔵先生のお話 職業に貴賤なし
午後からは、会場を移して偲ぶ会が催された。こちらも二百名近い参加があった。「あら〜!鵜の巣のゆきこちゃんだぎゃ、あや〜、いぐ来てぇけだごどぉ」と、声を掛けてくれた女性がいた。父が行きつけの理容店、私も小学生の頃行った理容店のお姉さんだ。三十年ほど会っていなかったのに覚えていてくれて、驚きと嬉しさでいっぱいになった。同級生はもちろん、同級生の親御さん、姉や弟の同級生、その兄弟姉妹とは、特に話が弾む。お世話になった先生の多くがお亡くなりになり、残念だった。
校歌を作曲された菊池潤朗先生の指揮で再度校歌を歌った。歴史を物語るさまざまなエピソードが披露された。その中で、『教師になった可奈子への手紙』の著者船越準蔵先生のお話は、胸襟秀麗な先生らしいものだった。
船越準蔵先生のお話
学校の校訓は五カ条でした。1、人のためになりましょう 2、よく働きましょう 3、すばやくしましょう 4、きれいずきになりましょう 5、礼儀を正しくしましょう。どれもわかりやすく、格調高く、人間として大切な事ばかりです。「教育」という仕事をわかりやすく言うならば、まだ人間として未熟な人を人間性豊かに育つよう導くことです。人間性は言うまでもなく、誰にでもできるだけの親切の手を伸べて、仲良く助けあって生きる心と力です。遠い先祖から伝えられたこの「人間性」を明治小の校訓のもと、よく学び、よく遊び、よく働いて、心と体に刻みつけていただきました。どんな仕事であっても『職業に貴賤なし』人のために尽くす仕事はみなよい仕事。『働くことこそ世の力』と教えられました。(中略)「手伝いもしないで勉強をしても、ろくな者にならぬ」と先生も親も言いました。自分の利益のためだけを考える人や、働かないでお金を儲ける人を悪い人だと教えられました。明治小の教えこそ、真の教育。時代を超え、国を越えた人間性の教育です。大臣や博士、大金持ちにならなくても、仲良く助け合あって生きることこそ人間として最も高き志。明治小の卒業生であることを心から誇りに思い、これからも生きていきます。明治小で受けた教育は校舎が無くなろうとも、永久に不滅です。むしろ、今のさまよえる教育事情の中で『一を以って貫く』思想として後の世まで伝えるべきものと思います。(以下略)
閉校式、偲ぶ会のことを実家の家族に話をした。式に参加しなかった父も、明治小五カ条の校訓を暗唱していたことにも驚いた。
この会に参加したことで、また学ぶことができた。時代や制度が変わっても、人間性の礎は変わっていない。誰かの何らかの役に立ち、喜んでもらえれば、ほんの些細なことでも幸せな気持ちになれる。それが無償であっても自然にできることが本当の愛なのだから。誰しも本来、その気持ちを持っているし、それこそが人間の本性だと信じたい。私は子供たちに、しっかり伝えることができているだろうか。
人間は最終的には孤独なのかもしれない。自分の存在を見失った事件や犯罪を見聞きするたび、殺伐とした心の内を垣間見て悲しくなる。家族、出会ったすべての人たち、地域、学校、ふるさと、私の回りの万物。その中で、自分が今できる働きに魂をこめて紡いでいけば、後悔の少ない人生になるのだ…とあらためて感じた。感慨無量の帰郷、思い切って出かけてよかった。
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エコー教育広報相談室の活動 2007年4月1日から2008年3月31日まで
教育広報相談室は、学校新聞、学級新聞、PTA広報作りの『何でも相談室』です。企画、編集などのアドバイスとお手伝いをしています。編集上でのトラブルなどの解決策も一緒に考えています。
@新聞新聞づくりの相談 学校・学級新聞 23件 PTA広報 178件
その他の広報・新聞(家族新聞など) 15件
A教育相談「一人で抱え込まないで、一人で悩まないで」 進路変更・不登校・教師不適応・学級経営など 3件
Bその他の活動 新聞・広報づくり講座講師 33回 全新研関係 6回
子育てなどの講演 1回
「ふるさと」講座・案内 19回
C当相談室来訪者 261組 (417人)
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2008年3月1日更新
エンゼルクイーン
田中くみ子
「もしもし、私。あっマツコちゃん?」母は薄らいでいく意識の中で、私の友人の名を呼び続けた。入院中の未明にトイレで倒れ、自分のベッドまでは何とかたどり着いたらしいが、頭を強く打ち、そのときの状況を説明できない母。その夜、母は突然「マツコちゃんに会いたい」と言い出した。消灯時間になっているし、忙しい人だから「今日は無理よ」と言ったが、とにかく彼女に連絡をしてみた。幸いなことに彼女は自宅にいた。それて事情を話したら急いで病院に来てくれた。心配そうに、でもにこやかに「おばさん、私会いに来たからね。大丈夫だから」という彼女の言葉に、母はたちまち眠りに入っていった。
マツコちゃんは小学五年生からの友達で、主婦であり、看護士であり、ダンサーである。彼女には人を癒す何かがある。初めての出産のとき、母に「マツコちゃんを呼んで」と頼んだ私。誰よりも彼女に「大丈夫だよ」と言ってもらいたかったからだ。
彼女の職場である老人介護施設ではいろいろなイベントがもたれる。ラテンダンスのレッスンをずっと続けている彼女は、ホームの人たちの前で人一倍楽しく踊る。だから「先生からいただく薬より、あんたのダンスのほうが元気になるよ」などと大勢のお年寄りに言われる。そんな言葉が彼女にはことのほか嬉しい。だから、一層明るく元気に踊る。
お年寄りの施設だから、亡くなる人も出る。その亡くなった人の最期のお世話をしてあげることをエンゼルケアと呼ぶのだそうだ。休み明け、彼女の出勤を待っていたかのように息を引き取る人に出遭う彼女。いつも明るく、元気。一人で南米までダンスを踊りに行くような度胸もあるマツコちゃんだから、マツコちゃんの「大丈夫だよ」の一言で誰もがほっとする。そんな彼女に「大丈夫だよ」と声をかけてもらてあの世に旅立って行った人たち。彼女は職場でエンゼルクイーンと呼ばれている。
2008年2月1日更新
2008年1月1日更新
武 勝美の教育講演会(平成18年10月20日)から
私が出会った言葉 NO4 ― 言葉に救われた 言葉に背中を押された 言葉は力
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「我が家と家族付き合いをしている先生です」
一九九七年の三月に退職しました。二年たった九九年三月五日に一通の手紙が届きました。お別れに作文を書いてくれた生徒の一人・Nさんからです。偶然ですがNさんの姉さんはから、数日前に「幼稚園の先生になれます」と就職が決まった喜び一杯の手紙をもらっていました。Nさんは中学3年生になっていました。その手紙を読んでみます。
武校長先生元気ですか? 私は毎日元気にしてます。でも私は学校の皆の前では、元気よくしてるけれど、私なりに心の中ではすごい不安で一杯です。私は皆にいじめられています。ばか者人間、弱いもの人間に思われてるらしく、誰かと目が合うと、うぁー眼が腐る、などと言われて、家で一人で大泣きしてしまうこともあって、毎日学校に行く時今日はどういうふうに言われるんだろうって心配があります。結局自分で決めたことは、私は去年の二学期にクラス全員にいじめのことを言ったのだけれど、みんな心の狭い人間なのか何もわかってもらえませんでした。家の中も嫌なことばかりで精神的に弱りました。自分はこんなんじゃないのに、って思ってるけど、私はもう生きるのが疲れました。私はみんなにいじ
められるために生まれてきたんじゃないんだ、とみんなに知って欲しい。みんなにいじめられて、私なんて生きていたって、と思う。卒業まで少し、でも卒業までの毎日がこわい。武校長先生、強く生きるってどういうことですか? 私に教えてください。何の悩みの無い鳥のように空高く飛びたい。
これがこの手紙です。そして、この封筒を見てください。空が晴れわたって、ブランコに乗ってスイングすると幸せの世界に行けるよ、そういう内容が英語で封筒に書かれています。便箋も同じ絵柄のものです。お姉さんは就職内定でうきうきです。ところが、妹は死んでしまいたい、いじめられて…。すぐに鶴巻中学校の生徒指導担当に「気を付けてあげてください」と電話しました。そしてNさんの家に電話しました。まずお姉さんと話しました。そして妹のことを良く見てね、気を付けて見てねって頼みました。
そして二年前の十二月、Nさんは横浜で結婚式を挙げました。私を呼んでくれました。たぶん鶴巻中の関係者は私一人だったと思います。主賓でしたので、私はどのように紹介されるのだろうかと気になっていました。司会者はこう紹介したのです。「我が家と家族付き合いをしている先生です。」この言葉、とっても嬉しかったです。
良き伴侶を得て、子どもにも恵まれた若いお母さんは今、新しい家庭を築き上げています。彼女には、もう私の言葉など必要ないのです。
数年前に亡くなりましたが、千葉の袖ヶ浦市に叔父がいました。二十年前ぐらい法事があり、父の代わりに出かけました。法事ですから、食事会はにぎやかになります。私は、自分と違う仕事をしている人にお会いすると、その人からいろいろな話を聞くことが好きなのです。その席で叔父からこんな話を聞きました。
「民間会社から兵隊、そして復員。終戦直後のドサクサにまぎれて中学校の教員になった。良い授業ができる教師ではなかった。そんな教師だったから、自分が生徒たちに教えたただひとつのことは『戦争をしてはダメだ』ということ。戦争がもたらした事実を話すことだけは一生懸命した」と。
同じ席に、叔父の奥さん方の親戚の漁師さんが来ていました。その漁師さんがこんな話をしてくれました。この頃の漁業は、通信衛星を使って魚のいる場所をキャッチして、もし儲かりそうだったら高速艇で猛スピードで走って行って、巻網で根こそぎ魚を捕ってしまうのだそうです。
「それが今の漁業。そうしないと漁師としての生活はできない。でも俺は巻網はしない。延縄。延縄とは縄に針をつけて流す漁法。でも、オレの延縄のやり方には信念がある。他の船では縄に百本針を付けても、俺の縄は五十本しか付いていない。百本の針だと小さい魚でも餌にありつける。五十本だと小さい魚は、大きな魚に追い払われて餌に近づけない。五十本にすることで小さな魚を大きく育てることをしている、と俺は思っている」
タコ漁の話も聞きました。今のタコ漁は、ネズミ捕りのカゴのようなものを使うのが主流だそうです。タコがカゴの中の餌に触れると入り口がガチャっと閉まり、もう出られない―小さいタコも入ってしまうのでたくさん捕れる、採算のよい漁法のようです。「でも俺はそのカゴは使わないでタコツボ。タコツボだと、どのツボにもタコが入るとは限らない。でも入っているタコは必ず大きい。小さいタコはツボに入っていても、あとから来た大きいタコに追い出されてしまうから。海の中の小さいものを大きく育てなければ、漁師の生活ができなくなる。
俺は漁師という仕事が好きだし、海が好きだ。小さい魚やタコを大きく育てるのも漁師の仕事・人間の役目。だって人間は海が育てているその命をもらって生きているのだから」。
「小さな命を大きく育てるために針の数を減らす、タコツボを使う」というこの漁師さんの心。そして「小さな命は大きく育てなくてはいけない」という言葉。二人の話は、子供を育てるという仕事をしている私に忘れていたことを思い出させてくれました。
2007年12月1日更新
武 勝美の教育講演会(平成18年10月20日)から
私が出会った言葉 NO3 ― 言葉に救われた 言葉に背中を押された 言葉は力
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教えた生徒がこの世に生きている限り先生なのだから
七百一人から様々な文をもらいました。三年生の一人鈴木修平君は鶴巻中の野球部のキャッチャーでした。彼は私への作文の中で、横浜高校へ行って野球をやると書いてきました。二年後、鈴木君は、春の選抜に横浜高校のレギュラーとして出場を果たしました。一回戦にライトとして先発出場したのです。「横浜高校で野球をやって甲子園へ」と約束し、それを実現してくれたのです。
七百一人から貰った手紙ですから、全員に返事を書きまし。退職をしたのが九十七年の三月三十一日、そして九十八年の二月十三日に七百一人全員に返事が書き終わりました。二百八十日程かかりました。直筆で書きました。三年生は卒業してしまっていますが、二年生と一年生は、私からの手紙が届くとそれを学校に持って行き「武校長先生から手紙が来た」と見せるのです。だから、同じような内容、形式的なことは絶対書けないのです。
当時は幸せなことに生徒名簿がありました。その生徒の誕生日を見て、誕生日に届くことを目安に手紙を書くようにしました。先ほどの堀井さんは、高等学校に入り、吹奏楽部の部長になりました。彼女は卒業前の最後の演奏会に私を招いてくれました。行ってきました。ご両親をはじめ、おばあちゃんもいらっしゃいました。「きんぴらゴボウのおばあちゃんですか」と尋ねました。すると「そうです」と笑ってご挨拶してくださいました。
学校を辞める一年前、昇降口に立ち始めたその頃のことです。ある朝、担任の一人が朝の学活の後私の部屋に来て、「Wが『この頃校長のお迎えがない』と言っています」と言うんです。毎朝、昇降口でW君に「おはよう」って声を掛けてきました。すると彼は「おうす」って応えてくれる。その彼が、この頃校長は俺をお迎えに来ないじゃないか、って担任に言った。翌朝、昇降口に立ちました。そしたら登校してきたW君が「おうっす」って、先に挨拶をしてくれました。学活の後、例の担任が報告に来ました。「今日は迎えがあった。良かったとWは言ってます」と。このW君が卒業した一年後、彼は私が退職するとことを知り、私に手紙をくれました。小さいメモですけれど…。これがそうです。こう書いてあります。
『お疲れ様でした。退職してもう校長ではないと、浮かれないで下さいよ。先生が教えた生徒がこの世に生きている限り校長先生なんだからさ。お体に気を付けて。W』卒業して一年経った子が、私の退職時にこう書いてくれました。退職後の教員の生活はどのようになるのか、というと次の二つのタイプに峻別できます。一つは「もう教育は卒業」と区切りをつけるタイプの人。もう一つは「やっぱり学校が好きだ」というタイプです。
W君の、俺たちが死ぬまであんたは俺たちの校長だよ、という言葉を、もったいなくて、私は捨てることができません。だから出来る限り教育に関わりたい、そう思っています。W君が「浮かれるんじゃないぞ、俺たちが死ぬまで頑張れよ」って言ってくれた言葉を、私は生涯ずっと持って生きていきたい、持って生きなければいけないと思っています。私は三十七年間教師として、ご飯を食べさせてもらった、子供たちに命を繋いでもったのです。そうだとしたら、その連続として私は出来る限り子供たちのことを考え続けたい、子供たちのために何か私の出来ることはないか、と思いながら終わりたい、そう願っています。
返事を書いたことで、子供たちと新たな交流も始まりました。そして、今も私との結び付きが続いている子もいます。その中のひとり、Kさんから年賀状をもらいました。自分の写真入りの年賀状で、言葉が付いています。「悲しい、苦しい、さびしい、心が痛い」これがKさんからの年賀状です。二年生の夏休み前に学校に来られなくなってしまったのです。先生の一言がきっかけでそうなってしまったのです。一生懸命立ち直ろうと頑張りました。でも三年生になっても、学校には来られなかったのです。
そんなKさんが、退職1年目の夏のある日私に電話をくれました。「自分を変えなきゃと思う、だから少し家を離れる。その手立ての一つとして、秦野市でタイ国に中学生を派遣するという事業に応募する」という内容の電話でした。出発の前日「先生、秦野駅を10時に出発します」と電話してきました。秦野駅に見送りに行きました。そんながんばりを見せた子でした。
学力は優れていましたので、高校には進学できたのですが、今も状況は好転していません。今も時々メールの交換をします。積極的に私からアプローチすることはありません。たよりが来たらそれに答えるといという感じです。九月中旬に届いた彼女のたよりを紹介します。この子には『エコー』を読んでもらっています。その『エコー』の感想を、初めてファックスで送ってくれました。初めてです。嬉しかったです。
「こんにちは。感想のファックスが無事に届いたみたいでよかったです。何でか判らないのですがむしょうに送りたくて、いつもの号より自分の食いつきがよかったのが自分で不思議です。嬉しいたと思ってもえたのもなんだか不思議。見えない繋がりがあるみたいのが不思議です。感想は一つだけれども書いた人私と、読む人先生とがいることが嬉しい。自分の中で本当の言葉と感じられ受け取ってもらえることは、私にとってすごいことなのです。何気なく発した自分の言葉が、誰かの心に残るということもすごくいいと思いますが、届けたいものがちゃんと届くことが私の望みなのです」。繊細な感情が表れている文です。「感想を書きたくなった、それを私に送りたいと思った、そして、送れたことがよかった、受け取ってくれる人がいて良よかった」と、最初に書いてあります。手紙はこう続きます。「飽きっぽい浮気性の私には武先生の続けていくという部分が羨ましいです。エコーを読みながら生意気にもこうだったらとか、漢字の打ち間違えをたまに見つけたりしています。本当に性格悪いですよね。でも小学生の頃から漢字が大好きで、テストでも国語の漢字のテストが一番好きだった名残か、新聞の言葉の使い方の間違えとかニュースを聞いていておかしいなぁと思うことが意識しなくても引っかかる様になっているんです。話が反れてしまいました。これが私の一つだと自覚しているんですけど、話がどんどん飛んでいって困ります。私の頭の中では繋がっているんですけれどね」。この後、『エコー』の記事について―八月に秦野で全国新聞教育研究大会が開かれました。そのことを『エコー』に次のように書きました。
「大会の開会式の時、あるいは夜の交流会の時、大会が終り文化会館から参加者が全部消えた時、そんな光景を想像し、たぶん自分はその時泣くのだろうなぁって思っていました。ところが不思議なことに涙が流れませんでした。この大会も私の生活の流れの中の必然のことだったからかもしれません。私にもう少し時間がありそうなので、周りが私を必要とするならばそれに応えていきたいと思う」。これを読んだ彼女は「この文好きなんです。私は過大評価も過小評価もされるのが嫌いなんです。嬉しくっても、戸惑ったり悲しくなったりしてしまうから。自分が信念を持ち続けること、それが流れの一つだという態度、感覚。それがいいなあ」と私をほめてくれます。「『もう少し時間がありそう』という部分は、どう感想を述べようか、と考えました。私にとって“自分が消えるまでの時間”というのはすごく身近なんです。老いていくとか、命はいつか消えるということ、そういうことをいつも頭のどこかで考えていた、よく考えていました。そうそう、私が武先生について感じることは尊敬ではないんです。恐怖という言葉が一番近いかな。何かに一生懸命になる人は魅力も感じるけれど、怖い。心の中に大人不信というのがこびり付いてるせいかもしれないんです。武先生は私にとって校長先生という期間が短かったし、その後の交流の方が長いので、武先生ではあるんですれど。おうちにお邪魔させて頂いた時もきつくなかった。私が教師に恐怖心を抱いたりするという印象が判る文章ですよね。大人の前で明るい私を演じているのが私だったんです。大人が欲しがるのは《明るい子供、健全な子供》だとずっと思っていた。そして今もそう思っています。「のびのびと」と、大人は言っても、そこには許容範囲はあるんです。そうと違いますか?風邪ぎみです。早くも。家の中からなかなか出られないという状況ではなくなってきたので、体調が壊れます。とにかく家に居ると肌が白すぎ、体温の機能が鈍るんです。いつも冷めた自分がどこかに居て、でもその存在を消すことは出来ないし、消す気はないですけれど、毎日考えています。」
Kさんに「厚木で講演会をするから聴きにに来ないか」って、誘いのメールを送りました。彼女への私の返事はそんなものなのです。「桜が咲いたよ、ふらっと観においでよ」とか。彼女が書いてくることに、私は答えきれない。私が言えるのは、「遊びにおいで」、「顔を見せてよ」くらいなのです。
九月二十二日に厚木のコミュニティーセンターで私の講演会がありました。それで彼女を誘ったのです。「場所はどこかなぁって思いましたが検索に掛けてみます。本厚木には買い物でよく出掛けてますので。体調が良ければのぞいてみます」という返事がきました。
三百名程集った厚木の講演会は正午過ぎに終わりました。終わってから幾組からの相談を受けていました。最後に残ったのは若い女性でした。その女性がKさんでした。厚木に来てくれました。本当によかった、と思いました。お互いに歳を取ったねなんで話をして、彼女はそのまま帰えりました。食事をしようと私は言えなかった。でも食事をしなくてよかった、今、そう思っています。何かあったとき、何か思ったとき、誰かと話したい、そんな時にもしかして話し相手の一人に私がいるとしたら、その一人でありたい、そう思っています。
私が「私の持ち時間は少ない。人間の為すことは、一つの流れのある部分しか過ぎない」―そう感じたことに、Kさんは共感してくれたのです。
2007年11月1日更新
武 勝美の教育講演会(平成18年10月20日)から
私が出会った言葉 NO2 ― 言葉に救われた 言葉に背中を押された 言葉は力
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生徒が作る学校なので、次は生徒の意見も取り入れて欲しい
そんなことがあった翌年、校長という職を与えられ東中から鶴巻中に転勤しました。ました。その鶴巻中2年目の春のことです。一年間掛けて職員で論議をし、生徒の名札を外すこと決めました。
三月二十四日の修了式の中で、「今日から鶴巻中は名札をなくす」と話をしました。「わー」でも、「うっ」とも表せない、ざわめきがありました。すぐにその場で名札を外す子もいました。式の後、各教室で担任から名札をなくすわけを説明してもらいました。
新しい年度の四月を迎えました。鶴巻中学校は創立十周年を迎える年、子供たちの胸から名札が消え、新たなスタートを切った四月でした。当時は六日制ですから、月に二回というペースで「鶴中新聞」という学校新聞が発行されていました。その五月八日号に、名札のことについて特集が組まれていました。名札をなくしたことについて、PTA会長さんの声や地域の方の声なども載っていました。
それらの声の中に「名札のことは話し合いも持たずに、先生方で決めてしまったのですが、生徒が作る学校なので、次は生徒の意見も取り入れて欲しい」という、生徒会長の声があったのです。
「学校は生徒がいることで学校なのだ、だから学校の主人公はあなたたちだ。あなたたちが学校を動かす、学校をつくるのです」、だから主役たち、生徒よ、がんばれ、がんばれ、と私は言ってきました。でも生徒会長は言ったのです。「校長よ、あなたは『生徒が主人公』といているけど、口先だけじゃないですか。名札を着けている私たちに、名札を外すことを相談したか」と。子供たちを代表して生徒会長が言ったのです。恥ずかしかったです。
名札を無くすというわけを私は生徒にこう説明しました。「名札は心の中に着けよう。先生や友達に、名札を見てもらって誰であるのかを分かってもらうのではなく、言葉で、行動で『私は○○です』と知ってもらう、分かってもらうようになって欲しい。それが『名札は心の中にある』ということなのだ」と。
生徒会長は私たち教師の思いをたちまち実行に移してくれたのです。彼の言葉に私たちはどう応えるべきなのかを話し合いました。子供たちの声が響く学校にしたい、自分をアピールできる場を多く作ることにしました。同時に子供たちの顔を覚える努力を一層しようと確認したのです。
記憶の範囲でいえば、当時の鶴巻中学校は八時半が職員の打ち合わせだったと思います。五分間が全体の打ち合わせ、残りの十分間が学年の打ち合わせということになっていたと思います。生徒の最終登校時間は八時四十五分。ですから八時半から三十五分まで打ち合わせをしている頃に昇降口に生徒がいっぱい入ってきます。先生方は学年の打ち合わせをしてる時間、私は昇降口に立つことにしました。
鶴巻中の昇降口は一箇所です。朝、学校にいる日はかならず昇降口に立ちました。「先生なんで立ってるの」と聞く生徒に、「みんなと話をしながら顔と名前を覚えようと思って」と答えました。また、学校にいる日の昼飯は必ず教室で食べることにしました。一、二年生の全クラスの班で、一緒にお弁当を食べました。三年生には十月頃から校長室に班ごとに来てもらい食事をしました。食べながらの会話で、私にはは子供達の印象が強く残りました。
名札を外した二年後、鶴巻中学校を退職しました。退職記念に全校生徒が私に作文を書いてくれました。ここにその作文集があります。七百一名です。一年生は一年しか私と会っていませんが、一年生も書いてくれました。これを書いてくれる、書かせたというのは生徒会の担当の先生を含めた先生方の心遣いでした。大事に大事に読ませて貰ってます。一年生は、それこそお弁当のときに、私と言葉を交わしただけ、そういう子たちもいます。その中の一人がこういう作文を書いてくれました。『おばあちゃんのお弁当』というタイトルです。堀井さんという女の子です。
『おばあちゃんのお弁当』
私は校長先生とあまり話しをしたことがないので、何を書こうかなぁ、書くことがないなぁと思いましたが、一つだけ書きたいことがあるのでぜひ読んで下さい。
私たちが入学して来て、すぐに校長先生とお弁当を食べました。先生を校長室に向かえに行く時、私は入学式の時に見れなかった先生の顔をいろいろ想像していました。校長室の前に行き、友達がドアをノックするとドアを開けようとした時に先生が出て来て、初めて先生の顔を知りました。先生を見た時の第一印象は野球のオリックスの監督に似ているなぁ、と思いました。校長室から一年一組の教室に行く時に先生が私たち二人にお弁当誰が作ってくれるの? と聞かれたのを覚えています。その時、私はおばあちゃんがと答えました。すると先生はニコニコ笑って私の後ろの席に座りました。号令を掛けて
お弁当のふたを開けようとしたら、先生が私の方を見て、それがおばあちゃんが作ってくれたお弁当?と聞かれたので、私がハイと答えたました。
珍しく冷凍チキンのナゲットが入ってました。でも私のいつものおばあちゃんが作ったお弁当を見て欲しかったです。おばあちゃんのお弁当の味は、よくわらないけれど優しい味がします。私はきんぴらゴボウが大好きなので夕食に出たら全部食べてしまいます。
私は作文があまり上手ではないのでうまくまとめられませんが、あの時私は先生におばあちゃんのきんぴらゴボウを見て欲しかったということを書き
たかったのです。おばあちゃんのお弁当が食べられて私は幸せです。
堀井さんのこの作文は、私が教室でお弁当を食べることにした一つの答えではないかなぁと思っています。
2007年10月1日更新
武 勝美の教育講演会(平成18年10月20日)から(リライト・高橋由紀)
私が出会った言葉 NO1 ― 言葉に救われた 言葉に背中を押された 言葉は力
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ご自分の悪い足に感謝していらっしゃいますか
今年の8月17日、福島県のいわき市にあります草野心平記念文学館に行って来ました。草野心平は、たぶんみなさんご存知だと思いますけど、蛙の鳴き声のユニークな詩を書いている詩人です。高校の教科書で、『冬眠』という詩に出会われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。手を挙げてみてください。お一人いらっしゃいますね。はい、ありがとうございます。
教科書に登場している詩は、教科書の一ページの真ん中に黒い丸が一つ置かれているだけなんです。丸の大きさはこのぐらいでしょうか。タイトルは『冬眠』草野心平、丸が一つポッンと。何の言葉・文字もなく、ただ黒い丸が一つ。周りはすっかり冬なのでしょう。音も無く、そんなことを感じ取ることができる詩です。その詩の原本、本物を見てみたい、そう思いいわき市の山の上にある草野心平記念文学館に行きました。
行く途中、福島県の元宮町にあるビール工場に寄りました。着いたのが午後2時過ぎでした。見学者は20名程で、全部家族連れ。小さいお子さんを連れた家族が多かった。お盆休みがまだ終わっていなかったので工場は動いてはいませんでした。20分で見学は終わり、「どうぞ自由にお飲みください」、となりました。生ビールを2杯、そしてこれから売り出すという缶ビールの飲み方も教えてもらいました。良い気分で記念館に向かったのでした。
8月17日にこのビール工場を訪ねたのですが、5日経ってそのビール工場からお礼のハガキが届きました。文面は印刷されたものですが、余白に直筆でこう書かれています。「出来たてのアサヒスーパードライはいかがでしたか? ぜひまた遊びにいらして下さい。神奈川工場へも」。そして案内をされた方の名前もありました。案内してくれた女性は、私が神奈川の秦野であることを知り、事務的なお礼状で終わらせず、「神奈川工場へもどうぞ」と書いてくれたのです。最後の一文にとても嬉しくなりました。こういう心くばりができる人が私は大好きです。「さすが一流会社、しっかり仕事をしている」とも思いました。
私は『エコー』という新聞を月刊で発行しています。9月に223号を読者に発送したのですが、中の一通が戻ってきました。ある教育関係の組織の代表に宛てたものでした。その方には10年前ぐらいから読んでいただいておりますので、かれこれ100回はお送りしているはずです。その方に9月号を送ったのです。ところが付箋が付いて送り返されたのです。付箋には『該当者無し』、そして担当者と思われる人の印が押されていました。どうやらその方はお辞めになられたようでした。だから担当者は、『該当者無し』と郵便局に返送されたのです。
その事務室に電話を掛けましたら、押印された男性が対応されました。「○○様はどうされたのですか」「先月末で退職されました」「それで該当者無しですね」「そうです」「転送していただけなかったのですか」「それはできません」。住所もプライバシーですから教えられない、とのことでした。組織としての対応はこれでよいのでしょう。でも、数日前まで上司だった人へ心づかい・対応が、これほど“事務的(無感情とも言える)”なのは、教育関係者としてどうなのだろうと首を傾げざるを得ませんでした。人の心は言葉に表れる、ということを感じた二つの例を紹介いたしました。
今日の話に入ります。お手元の『エコー』60号、発行日が書いてあります。1990年4月20日ですから、ずっと昔の話です。後半の手書きの『囲み』を読んでください。私の下手な文字です。これは東中学校時代の「手書きの卒業文集」に書いたもののコピーです。当時は手書き文集が流行っていました。その文集に教師も書くことになり、この文を書きました。54歳の年に書いたものです。読んでみます。
言 葉 武 勝美
私の右足は左と比べて少し短い。それでも教師になりたての頃は、子供達と富士山の頂上に二度も立った。足が悪いことは全く気にならなかったし、ハンディを感じたこともなかった。しかし、私が足を引きながら歩いていることは、誰にでも分かっていたはずである。ただ、そのことに触れる人に出会わなかっただけである。
十数年前のある日 その日は教師を対象とする健康診断の日、いろいろな検査を受けた私は、最後に医師の問診を受ける部屋に入った。私を診る医師は、私が彼の前に歩いていく姿を見て「ビッコだね」と言った。他の言葉もあったのだろうが、私には「ビッコ」という言葉しか聞こえなかった。三十数年の人生の中で、身体的欠陥を正面切って聞かされたのは初めてだった。
彼は何気なく、全く他意はなく、たぶん私がケガでもしていると思って、むしろ親しみを込めて、そう声をかけてくれたのだろう。しかし、その言葉が私に与えたものは鮮烈だった。このことがあってから、私は身体的欠陥を表す言葉にピリピリするようになった。
今、教師という立場にあって、子供達に向って発している言葉の重さを意識せざるを得ない。
地球上で言葉を使えるのは人間だけである。もっとも弱い動物の一種であるホモサピエンスは、言葉を持つことによって、今や全宇宙を自分のものにしようとしている。しかし、その人類の『生殺与奪権』は、もしかしたら人間が使う何気ない言葉に握られているのかもしれない。
その頃の『エコー』の読者は、全国に500人くらいでした。その中の読者の一人からこの号を読んで手紙が届きました。まさに《エコー》です。その読者は、私が初めて卒業生として送り出した生徒の一人です。私の教え子である読者からの手紙です。私が54歳で彼女が43歳です。
手紙は、私が文集に書いた「言葉」についての感想でした。その手紙を読んでみます。
「どっちの足か知らないけれど、片足を引いて歩く武先生が、私の大好きな武先生です。不思議ですね。初めからそうでした。なぜとも思わず先生と出逢ってからずっと普通ではない歩き方の武先生が私の武先生だったんです。先生はどうなんですか? びっこを引くご自分が嫌なのですか? そんなご自分の姿を認めていらっしゃらないんですか? 先生の頑張ってしまう心で引き擦り回して足を痛めつけていらっしゃるんでしょ。その足に感謝していますか? 先生の心のままに動いてくれる足に」。
手紙を読んだ瞬間、私は「何を言ってるんだい。俺じゃなきゃ分からないよ」と、憤りました。でも43歳の教え子が私を諭してくれた。私の心のままに一生懸命動こうとしている、患っている足に感謝していますか? そう諭してくれた。丸山浩路先生が言っています、「誰もがやがて障害者になるのだ」と。
先生、今の自分、ありのままの自分、その姿を認めなさい。そのままの先生が、生徒の私は好きだったんです。そう彼女は言っているんです。彼女はこうも書いてきました。「先生という職業はかわいそうですね。周囲の人たちから『それは違うよ、先生 間違っている、先生、そんなことしたら駄目だよ』って言って貰うことはは皆無に近い、だからいつも『自分は立派だ』と思っている。だから武先生、先生はビッコだねって言われた時に、教師の、いや自分の尊厳を傷つけられたと思った。先生ってかわいそうな職業ですね」。彼女は私に、ありのままの私でなくてはならない、そのままでいいのだ、と言ったのです。五十四歳にして、また教え子に教えられました。初めて担任した子から教えられました。
「先生は悪い足に感謝してますか? 先生の気持ちになって一生懸命動こうとしている足のことを思ったことがありますか?」 私が出会った、大切にしなければいけない言葉です。
2007年9月1日更新
第50回全国新聞教育研究大会・東京大会(2007/8/3・4)
記念講演『いきで素敵な江戸しぐさ』 江戸しぐさ語り部の会 越川 禮子氏
江戸っ子は三代続いて、はじめて江戸っ子とよく言われる。そもそも、江戸の町の成立経過からして、土着の江戸っ子などはいないのであって、江戸の人々はもとはといえば各地から集まった人たちなのだ。そこで、三代かけて磨き上げなければならない江っ戸の気質こそが、「江戸しぐさ」と呼ばれるものなのである。(越川穫子『江戸しぐさ』(講談社)より)
1 「忙しい忙しい」と言うな
忙しいとは心を亡くすこと、決して自慢できることではない。
2 「そんなに偉い方とは知らずに」などと言うな
偉くないひとには無礼をしてもよいのか
3 人の話を真剣にきくときにメモをとるな
メモを取ると話す人の気が散る、聞く人の真剣みが減る
4 自分と違う意見をないがしろにするな
意見が違うから参考になる
5 人の意見を無視する言葉を使うな
話している人は真剣だ
6 人の行き先をむやみに聞くな
プライバシーを尊重せよ
7 三説の教え。初対面の人に年齢、職業、地位を聞くな
聞いて付き合い方を変えるのか
8 紹介者を飛び越えて親密になるな
紹介していただいたことに感謝せよ
9 打てば響く心意気を持て
説明しなければわからない輩とは付き合うな
10 三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で未決まる
三歳までに人間の心の糸をしっかり張らせる。六歳までに躾を手取り足取りまねさせる、九歳までに人前でお世辞のひとつもいえるくらいの挨拶ができるようにする。十二歳には一家の主の代書ができるようにする。十五歳で森羅万象が実感として理解できるようにする。
11 突然の訪問、遅刻で人の時間泥棒をするな
時間は大切なもの、自分の時間だけでなく相手の時間も奪っていることに気づけ
12 常に人を思いやれ。傘かしげ、肩引き、こぶし腰浮かせ
傘かしげ…雨のしずくがかからないように、傘をかしげあって気配りして往来するしぐさ。
肩引き…狭い道ですれ違うとき、肩を引き合って胸と胸を合わせる格好で通り過ぎるしぐさ。
こぶし腰浮かせ…乗合船で腰の両側にこぶしをついて軽く腰を浮かせ、少しずつ幅を詰めながら1人分の空間を作るしぐさ。
2007年8月1日更新
送られてきた2つの中学校新聞。どちらも「学校生活を充実させよう、楽しい学校にしよう」という思いがいっぱいの紙面だった。そんな新聞を作る子供たちに私は応援のエールを送る。
これからも新聞づくりで仲間づくりを
山形・H中学校新聞部の皆さんへ
今年度の第1号、2号をいただきました。まず皆さんのがんばりに拍手を送り、読後感をお届けいたします。
「新聞づくりは仲間づくり」という言葉があります。この《新聞づくり》には二つの仲間づくりがあると思っています。一つは、新聞を作るときの協力性から生まれる仲間づくりです。当然のことですが新聞部のみなさんが協力しなければ新聞は発行できません。加えて、新聞部に協力するH中の生徒や先生方の力がなければ新聞はできません。(新聞は文集ではないのでから)だから新聞づくりを通して仲間づくりができるのです。
そして、もう一つ、こちらがより重要なのですが、刷り上った新聞を学校中で読んで、もつと良いH中にするために話し合い、考えあい、そして行動することにより、さらに良い学校になることは仲間づくりがいっそう進んだということです。新聞は、読者に読まれたとき、ほんとうに完成するのです。『H中タイムス』は、私が考えている『新聞づくりは仲間づくり』を実践している学校新聞です。
その例をいくつか挙げてみます。一つは、紙面に個人名がたくさん登場しています。個人の名前が出るということは、取材をたくさんしている証拠です。それは大勢の人が取材に協力しているということでもあります。『H中タイムス』は、実は全校で作っているということです。
学校を良くするために新聞をつくる、それは生徒総会のようすをていねいに記事にしていることで分かります。生徒会長へのインタビューが大きなスペースで採り入れられています。(新聞とは少し離れますが、スローガンを二つ提案して論議するという今年の生徒会事務局の企画・意欲にとても感心しました。)1票差という劇的な表決も、いろいろな意味でよい学習体験だったと思います。77票を生徒会事務局がどのように受け止めるのか、これから新聞部は注視するのでしょうか。
第1号の2面の役員の皆さんの言葉が月並みでないことは、取材する新聞部に実力の表れです。レイアウトも見出しも努力していると思いました。
楽しい、読み応えのある『H中タイムス』、ありがとうございました。これからも『新聞づくりは仲間づくり』を進めてください。
「K中での問題点」は、勇気ある特集
秦野・K中タイムスを作っている皆さんへ
335〜337号まで読ませていただきました。そのお礼に感想を少し述べさせてください。
先ず感じたことは新聞が新鮮だということです。記事が「初々しい」のです。慣れない新聞づくりに一生懸命取り組んでいる、そんなことを記事から感じるのです。335号の校長先生へのインタビューがその代表的なものと言えます。とてもていねい(食い下がっている!)に取材しています。納得するまで聞く・聞き出すことは、新聞を作る側(記者)としてとても大切なことです。これからもこの姿勢を続けて欲しいです。
336号の教育実習生への取材もよく出来ています。同じような答えが載っていないことがとても良いとおもいました。
337号の「K中での問題点」は、勇気ある特集です。この号だけで終わらず、いつも校内に目を向ける新聞でいてください。この特集に合わせて業務員さんを『輝いている人』に取り上げたのもよかったです。広報委員の目がどこに向いているかがよく表れています。記者として校内外に目を向ける、人に関心を持つことを続けてください。そのことで、学校は今よりもつと良い学校になります。K中生全員の学校生活がいっそう楽しくなります。『K中タイムス』が発行される意義がそこにあるのです。
パソコンを使っての新聞発行で、発行が少し楽になったのではないかと思います。もちろん、挑戦を始めたばかりのようですから、その苦労は大変でしょう。でも、新生『K中タイムス』です。頑張ってください。
「こうしたらどうか」という点をいくつか書いて見ます。参考にしてくれれば嬉しいです。
1 講習会でも話しましたが、トップ記事に《縦見出し》を付けましょう。その後にリードを置きます。そうすることで、ドップ記事の重要性を読者に印象付けることができます。335号を例にすれば
・横見出し「ようこそのK中学校へ」、その下は「I校長先生にインタビュー」、そして縦見出しに「気合の一文字は“夢”」。 これでどうでしょう?
2 見出しの研究をしましょう。「中間テスト」で終わらないで、「一年生へ、中間テストのコツ 教えちゃいます」というように、読者を引きつける言葉を作ってください。
3 レイアウト
・各段の一行の文字数は同じにしましょう。
・トップ記事の腹切りは避けましょう。336号で言えば、「GO遠足」と「中間テスト」の囲みを入れ替えれば腹切りは解消されます。
もし分からないことがあったら電話を下さい。
また「K中タイムス」を読ませてください。ありがとうございました。
2007年7月1日更新
そったくの機
真佐美
まだ教師生活、日浅い頃、『エコー』と出会いました。当時は、武先生と同じ学校だったということで、毎月決まったように職員の机の上に配られていました。最初は、見るともなく、流し読みして、特にこれといった感想を持つことなく目にしていました。同じ学校の
先生から通信をいただくことがこそばゆく感じるところもありました。
学校がかわってからも武先生からの『エコー』は、市教委のポストを通して届けられました。その頃からようやくじっくりと内容を読むようになりました。何の機会からか、武先生に返事を出すようになりました。
最初は武先生に同調するような文章で、一緒にがんばりたいですというような返事だったと思います。ところが途中から、私の直面する事態と『エコー』の内容のギャップに対して、半分“怒り’の気持ちをこめながら、そんなふうにうまくいったら、自分の苦労なんて簡単にふっ飛んでしまいます、というような論調の返事になっていきました。自分の若さがゆえの苦労談を武先生は真正面から受け止め、これはこういうことではないのかと諭されていた号がありました。当時の私は「聞く耳持たず」の状況だったと思いますが。
次第に私自身の考えがまとまり始めたのか、手紙全体を掲載してもらえるようになりました。「継続は力なり」。手紙を出し続けているうちに、変に力を入れることなく、見たまま聞いたまま感じたままを返書の中に書き込めるようになりました。今読み返してみても、書いた当時の気持ちがよみがえってきます。武先生にそこをうまく救ってもらえているなと思います。
通信のありがたさは、最新情報を伝えてもらえるのと同時に、時間を超えて情報を残すことができることです。ふり返って読み直してみると、懐かしくもあり、またその時には見えなかった視点が見えたりして、ああそうだったんだと改めて知らされることがあります。
何号記念というたびに、文章を寄せさせてもらっていますが、やはり『エコー』は私にとっての道標。一里塚のように歩んできた道を示してくれてきました。それは雛鳥が卵の中で外に出たいよと言っているのに対して、外から親鳥が殻をつついてくれるようなものです。
2007年6月1日更新
《伝える》技術を学ぶ前にすること PTA広報講座のねらい
4月18日の中井町からスタートしたPTA広報講座は、7月3日の相模原・旭ブロックでの講座で一休みとなる。この間18の会場を回っている。ほとんどの会場が私に与えてくれる持ち時間は2時間程度。だから休憩は取らない。途中に休みを入れると、「そこで帰ってしまう人があるので」と、ある会場で主催者から聞かされた。「そうかもしれない」と思った。一方では「そんなことはさせない」という自負もちょっぴりだがある。
理論編から実務編へと話を進めるのだが、実際には、「なぜPTAに広報は必要なのか」「PTA広報に何を書くのか」、そして「PTAとは何なのか」と話は広がってしまい、ここまでで8割くらいの時間を使ってしまう。そんな講座が、参加者にどう受け止められているのだろうか。どの主催者からも「参加者の感想」という形で私の講座(話)の評価が送られてくる。以下は私の話を聴いてくれた参加者の声(今年度)である。
・幼稚園の広報委員です。改めて広報の意義・目的を再認識することができました。広報委員という立場を超え、自分の人生にも役立てることができそうです。
・今までは広報を読むだけの人でしたが、この一年は『知らせる』人になってがんばろうと思いました。(この数時間で、そういう気持ちになりました)
・本当にとてもいいお話が聞けてとてもよかったです。『やる気』が出ました。広報の重要性を感じるとともに作るのが楽しみになりました・また、広報委員になれたことを嬉しく思いました。
・技術的なお話はもちろんですが、広報を作る心構えが、私の中で変化したように思います。
・広報紙をつくりたい、広報委員になりたいと思う方を増やしたい。そういう広報紙をつくることが大切だと思いました。
・広報委員だけでなく、モット多くの会員に聞いてもらいたい話でした。
・いつもエネルギーをもらいます。ありがとうございます。
・先生方にも聞いていただきたいと思う内容でした。
・初めは講座と聞くだけで肩苦しく感じて参加させていただきましたが、とても楽しくずーっと聞いていたいお話ばかりでした。広報作りを楽しめそうです。
こんな声も聞こえてくる。
・PTA広報紙の説明時間が少し長かったように感じます。後半1時間ぐらいを使って、広報づくりのテクニックを教えていただきたかったです。最後の30分にぎゅっと詰まっていたように感じました。
・とても参考になりました。30文字で○をつける歯切れの良い文章を書いていきたいです。
・基本的なこと、記事の書き方など知らないことばかりだったので役立ちます。駆け足釣な説明になっていたので、もう一度資料をよく読もうと思います。
実務編の講義が少ないという不満である。記事の書き方や見出しの付け方、レイアウトの仕方などについて教えて欲しい、という願いはわかる。特に、初めて広報作りに携わる人たちは不安だらけから。だが、2時間という限られた時間だから、あえて「なぜPTAに広報は必要なのか」を語る。そこに時間をかける。
“伝える”という技術(実務編)を身につける前に、“伝えたい”という気持ち(理論編)を高めることが必要だと思っている。
いつも片手に本を持っていたい
今さら人に聞くのもはばかられる、と済ませてしまうことがある。その中の「ブルータス、おまえもか」は、心にひっかかっているひとつで「も」と言うからには、他になにかがあったわけだから、それは何だろうと。
塩野七生さんは、好きな作家のひとりで、著書は何冊か読んでいるし、読み返しもある。しかし、『ローマ人の物語』はどうも手強い。第一巻「ローマは一日にして成らず」は、読み始めても続かない。間を置いて再挑戦するが、またもや頓挫をしてしまう。昨年、全編完結という報を得て、なんだか置いてけぼりになった気がして淋しかった。 「賽は投げられた」で有名なユリウス・カエサルあたりから読めば世界史で習ったアウグストゥスやネロに続く。興味のある部分から取りかかろうと心にゆとりを持たせた。
ユリウス・カエサル「ルビコン以前から」始めた。著者が彼を敬愛しているのが伝わってくる。世に出るのが遅いカエサル。元老院との関係、戦いの布陣のみごとさ。属州の扱い、女性とのつき合い方、トーガが良く似合い、彼の《寛容》が人を引きつける。キケロも出てきて、おもしろくて本を閉じるのが惜しくなるほどのめり込む。出先でその巻が終わると、次巻が家に買い置きされているにもかかわらず、本屋を探して求め、帰りの電車の中で読めるように準備した。
いよいよルビコン河を渡る段になる。ワクワクを通りこして緊張に変わる。早く読み進みたいが、内容をしっかり留めたいと思うと気づかずに声が出て音読をしている。カエサルが手腕を見込み全幅の信頼を置いていたラビエヌスが離反する。この武人の荷物を送り返すだけで黙するカエサルの胸中は。あっ、これが、カエサルが暗殺された時にもらす「ブルータス、おまえもか」の「も」の元なのだとひとり合点する。胸がつまるほど心がはやる。誰かに伝えたい、確認をとりたい、共感を得たい、でもこれはひとりの喜び。笑いがこみ上げる。至福の時だ。
疑問をすぐに解決するのも善し。わからないというアンテナを小さく立てておくのもおもしろい。本を手当たり次第読んでいると、思わぬところで受信する。その都度、アンテナは高く太くなりキャッチする力が育つ。いつも片手に本を持っていたい。 仁子
2007年5月1日更新
250号のご挨拶
生存証明書を受け取ってもらえますか
あなたのまわりの出来事は あなたの心が呼ぶのです。
あなたは、今、何を呼んでいますか。 川村 直子
鈴木伸男さんからいただいた「『エコー』250号に寄せて」の中に、「初期の頃に比べると、内容が控え目に…」とあります。“図星”です。「控え目」ではなく、紙面に緊張感がなくなっています。そんなふうに変わってきたのは、加齢にもよりますが、最も大きな理由は「日に日に教育現場から遠ざかっていく私」だからです。(教育への関心や意識は変わっていないと思っています。)教育個人紙を標榜する『エコー』も、そろそろ“潮時”と思うようになっていました。
『エコー』250号ということで、十数通のメッセージをいただきました。それらから、私の言葉を心に留めくださっている方や、ファイルされている読者の存在を知りました。また、月初めに届く『エコー』で私の元気を確認し、「私の活力の源」と便りをくれた教え子もいました。
情報化社会と言われるように、私たちはあふれる情報の中で生活しています。ところが、それらの情報には、「情=心」が無いものも少なくありません。情報は言葉を媒体にして伝えられます。言葉とは、本来顔と顔を向かい合わせて交わすものです。だから言葉は生きているのです。生きているものには体温があります。言葉の体温とは、話す人の心です。
251号からの『エコー』が、私の生存証明書になるように、私の言葉で《日常》を綴ります。もうしばらく、『エコー』にお付き合いください。 武 勝美
2007年4月1日更新
指導の原点
暖かく柔らかな風が快い春、新しい出会いの時です。私は、わくわく心弾む思いで新入会の子ども達を迎えますが、それぞれの初日、子ども達の胸の内の緊張と不安が、その表情に表れています。スムーズに学習を進められるように、教室の雰囲気に慣れるまで、私の横で勉強開始となります。目にかけ、声をかけることで、緊張と不安が和らぐことを願っています。
入学の時期になると思い出すことがあります。私ごとで恐縮ですが、今春、社会人となる末っ子の長男が、小学校での入学を迎えたのはロンドン在住の時でした。現地校での入学式はどのようなものかと、期待していました。しかし、入学登録時に入学式はなく、入学初日の日も一人ひとり違うことを知らされました。教師が、新しい環境に入ってくる子ども一人ひとりに、余裕をもって対応するためということで、全ての一年生が揃うまでは一ケ月近くかかりました。日本のように厳粛で、かつ晴れやかな式典がないのは、物足りなさを感じましたが、コミュニュケーションのまだ不十分だった息子を預ける身としては、細やかな配慮が期待でき、とても安心したことを覚えています。
集団でありながらも、最初から一人ひとりを大切にする指導の原点を、イギリスで三人の子どもと私の学生生活を通じて体験することができました。 私は大学の中にあるアダルトスクールで英語を学びました。試験の後、割り振られたクラスはヨーロッパ、中東の人がほとんどで、会話にはなんら問題のない人たちでした。授業にはなんとかついていけたのですが、ディスカッションになるとお手上げで、会話力もなく、それ以前に自分の考えを論理的に伝えることができません。最初から落ちこぼれの心境でした。授業後は毎回、宿題でエッセイの提出が求められ、私は授業で話せない分、宿題だけは必ずやりました。宿題をやってくることしか褒めることがなかった先生は、皆の前で私のエッセイを何度も読んでくれ、単純な私は褒められるとうれしく、私の取り得はこれだと、益々力を入れて宿題をやりました。会話はできなくてもエッセイは書けると励まし、そのままを認めてくれた先生のお陰で、教室で小さくなっていた私も、徐々に学ぶことが楽しくなっていきました。
どの子も良いところがあり、得意なことがあります。親が、教師がそれを見極め、褒めてあげることで自信につながり、力が伸びるのではないかと思っています。 神谷 典子
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エコー教育広報相談室の活動 2006年4月1日から2007年3月31日まで教育広報相談室は、学校新聞、学級新聞、PTA広報作りの『何でも相談室』です。企画、編集などのアドバイスとお手伝いをしています。編集上でのトラブルなどの解決策も一緒に考えています。
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新聞新聞づくりの相談 学校・学級新聞 22件 PTA広報 193件
その他の広報・新聞(家族新聞など) 18件
A教育相談「一人で抱え込まないで、一人で悩まないで」 進路変更・不登校・教師不適応・学級経営など 5件
Bその他の活動 新聞・広報づくり講座講師 30回 全新研関係(大会) 26回
子育てなどの講演 1回
「ふるさと」講座・案内 8回
C当相談室来訪者 209人・組 (267人)
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2007年3月1日更新
秦野のPTAはこんな活動もしています。読んでください。
『はだの市P連だより』 第67号(2007年2月21日発行)より
心が言葉を生み 言葉が心を育てる
伝えよう あなたの心をあなたの言葉で
人間が他の動物と違うこととして、火が使えること、着物を着ること、笑うことなどが挙げられます。でも、そのもっとも大きな違いは、言葉が使えるということです。肉体的には弱い人類が、今こうして生きているのは《聞く》《話す》ことによるのです。言葉を使いましょう。言葉を大切にしましょう。
昨年来児童虐待やいじめなど悲惨は事件がたくさん報じられてきました。とくに、いじめによって小・中学生が命を自ら絶つという事件は大人に大きな悲しみと混乱の衝撃を与えました。
昨年12月に報じられた都留文化大学・河村茂雄先生の調査によると「なれあい学級は他の学級に比べていじめの発生率が高くなる」そうです。先生と子供の「友だち感覚」は良い関係を築くように思えます。でも、そこに言葉の正しい使い方がされていないと、いじめが生じやすいようです。学習やいろいろの活動がしっかりできているクラスはいじめの発生率が低いようです。教室で話し合いがしっかり出来ているからです。このことは家庭内でも同じだと思います。
前号の『市P連だより』で、私たちは、「言葉育ては心育て」を考えてきました。言葉は、ときに人を傷つけます。生きる力を奪ってしまうこともあります。しかし、その痛みや苦しみを乗り越えられるのも、他の人から掛けられた言葉です。傷つけられた心が言葉で癒され、救われ、やがて背中を押されて一歩踏み出すのです。そんな実例を紹介してみます。
言葉に救われた・背中を押された
最近、PTA・ボランティア活動をしている私を否定するような言葉を耳にし、複雑な気持ちに。そんな時、ある人から「おもいやりはブーメラン」という言葉を聞き、いつかそのブーメランが返って来ると信じ、これからも活動していこうと思っている。(S)
小5の時のクラスは、共同制作や対抗球技会などに懸命さに欠けていた。頻繁に起こる喧嘩やモメゴトに先生が「人は失敗を繰り返し成長する。振り返るからこそ大きくなるんだ」と。その言葉に後押しされ、どんな事にも一生懸命のクラスになった。(W)
子供が言葉が遅い等で発達検査を受けた。厳しい結果に涙でくれていた私。その時、担任が「私にできることは何でもするよから、安心して」と。体中が温かくなった。前向きに踏み出せる元気をもらった。(O)
仕事で疲れて帰ってきた私を見て小学生の長男が「今日は僕が全部やってあげるよ」とフライパンを持ち出した。いつもは私が励ます立場なのに…。その日からわが家の食卓のおかずの品数が増えた。(T)
長い間、不自由な足にコンプレックスをもっていた。あるとき、友人から「あなたの心に従い、がんばってくれているその不自由な足に感謝していますか」と問われた。これまでの自分を深く内省した。(E)
子供は大人たちの生活をみながら学びます。ある講演を大人と一緒に聞いた中学生がこんなことを言いました。「感動したお話だった。だから私は感想を言った。それなのに大人は一人も感想を述べなかった。大人はなぜ素直に心を表せないのか」。
サン・テグジュベリの『星の王子さま』の序文に「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」と書いてあります。
言葉の《言》とは、「話したり、語ったりすること」「口頭や文字で表された内容」という意味だそうです。木の幹は葉によって太くなります。言葉は、自分の思いを伝えるだけでなく、伝えることで相手をいろいろ豊かにするのです。それが言葉の《葉》です。
また、葉が木によって違うように、人はそれぞれ生き方も考え方も違います。だから、楽しい、うれしい、悲しいと感じる感じ方も違います。その違いを表す意味が、言葉の《葉》です。あなたが子供のころ、周りの人からもらった励ましの言葉や、うれしかった言葉、そして無責任な一言にひどく心を痛めたことなどをわが子に話しましょう。子供は親と話すこと、親の話を聞くことを待ち望んでいます。あなたの心があなたらしい言葉を生みます。その言葉でわが子は育つのです。
2007年2月1日更新
柏市の学校新聞展
柏市の新聞展は市内の全小・中学校の新聞を展示しています。出来映えはそれそれですが、どの作品も子ども達が楽しんで作っている様子が見られました。基本的なことをちょっと伝えれば、よくなるものも多々あります。特に中学校においての新聞はそれを感じますが、アドバイスの手段がなく残念です。以前(自分が担当していた頃まで)のように、教職員対象の「新聞づくり講習会」があればいいのですが。
昨年、『特別展示』という要請があり、協力したところ、「好評だったので今年も」と言われ、拙い実践ですが、新聞教育の啓発になればと、別枠で展示させて頂いておりす。今年は、新聞学習(スクラップ,活用学習,新聞づくり)の効果を強調しました。学力低下現象とか、学習時間を増やすとか、ゆとりの時間を削減とか、いろいろと言われている中なので、ちょうどいい時と捉え、新聞に取り組んできた子どもの変容を提示しました。市教委の担当者から、
・特別展示コーナーに関心を示す保護者が多い
・子どももスクラップ綴りなどをじっくり読んでいる
・「あなたもやってみたら」とわが子に言いながら見ている
・掲示してある新聞は、子どもに関係する学校を見て、他はざっと見るだけだけれど、特別展示コーナーでは足を止め、作品を手にとって、広げて、という様子が見られる
などなどを聞きました。来場・見学者は2.5日間で800人を越えたとか。今日的課題と合わせ,新聞教育・新聞づくり・表現活動などを広げられる方法などを考えています。 Kei
見学者の声
「柏市小・中学校新聞展」。全体がよく見渡せ、レイアウト感覚もよく明るくて、受付も感じよく親切でいい雰囲気に感心しました。これはじっくり一日見させてもらうと、よい勉強ができる展示になっています。
感想メモ
A 各学校ごとの新聞への取り組み、活動の様子がよくわかり、今後の発展が期待できる。
学校、学級新聞だけでなく、学習新聞、修学旅行、校外学習、その他の数々の活動等々の作品を、いろいろ幅広く温かい心で受け入れ展示している素晴らしさを感じた。新聞作りの時間が取れない現状で、児童・生徒・教師にこういうのもいいのかと安心させ、もっとこういう風にしたらいい、こんな新聞を作ってみたいと、だんだん新聞本来のあり方を考えてくれる学校も増えていくことだろう。
PTA新聞を掲示板の前の机上に並べてあるのもなかなか。柏市はこんなに沢山あるのかと、PTA新聞の発展ぶりが伺える。毎年ご指導いただいている武先生のことが浮かんでくる。
B 指導過程、指導方法が明瞭で奥深く、優れた作品の展示がある
特に大津ヶ丘第一小と富勢西小のスクラップづくりとNIE実践事例の展示に吸い込まれた。スクラップづくりの「夢は実現する」「発見 興味深い生き物」、それぞれがテーマに基づいて簡潔にしっかり纏まり児童の動きと目覚しい進歩が伺え指導過程が目に見えるようである。
次に「見出しの書き方!!」“見出しは目立つ!”“見出しの文字数”“見出し1つで表現が変わる”のグループ研究をそれぞれしっかり大見出しをつけて纏めてある掲示物も驚く。これは国語だけでなくいろいろな学習へ発展して行く。
グリーンの紙に“Newspaper in Education
新聞を教育に、「読んで、集めて、活用して、自分の考えを力強く表現する力をつけよう」”と明確に書いてあるのが一段と活気づいてくる。そして「朝の会のスピーチから」の下の方に貼ってある「発表の回を重ねるごとに内容が詳しくなってきました。・文章の書き方・文字のていねいさ・自分の考え・文(記事)の読み取り」も、しっかりねらいが纏まっている。
数々のスクラップ集の見事さにも感心する。特に佐藤詩織さまの学年を追っての作品が展示してあり、その成長ぶりに驚き、またとない貴重な資料となっている。他の皆さんのも進歩の様子や面白さが伝わってきて、こちらも元気が湧いてくる。学級づくりの基本も見えてきていい展示になっている。
C 子ども広報『まなざし』のコーナーに感動
第35回全国新聞教育研究大会が柏で開催され、その時も『まなざし』が輝いていたが、それ以来今日まで15年間(発行されたのは17年間でしょうか)ずっと続いていたなんて素晴らしいし感慨深いものがある。ご指導なさる先生のご苦労は多大だろうが、柏市内の小・中学校の児童生徒が、自分たちで企画、取材し、原稿作成した新聞だから貴重なものである。
色彩豊かで楽しいレイアウトの最新号、「第33号」の掲示に引き付けられ暫し見入った。手前の机上に「自由にお持ち下さい」と33号が置いてあったので、嬉しくなり遠慮しながらも一部いただいた。「まなざし」のバックナンバーも並べてあり、これも大変ありがたい。15年前の柏大会が昨日のことのように漲って元気が湧いてくる。現在の学校生活がありありと見えてくるこの新聞展は、あの15年前の参加者にぜひ見ていただきたいと思った。
◎ いろいろなことを考えて勉強できる展示場になっていた。願わくは1ヶ月位はこのままにして、いろんな学校の学年やクラスが見に来て、学び合えるようになると集団も向上する。 市川市 菅原 澄子
2007年1月1日更新
夢を実現させる年です
教育実習も終わりました。大学では学ぶことのできない大切なことをたくさん学びました。
にぎやかな三年生は静かに話しを聞かせることすら大変です。何度も授業をしましたが毎時間苦戦でした。実習が終わるまでに一回でいいから全員に静かに話を聞いてもらうことを目標にしたのでした。それを最終日のお別れ会に賭けていました。プログラムの最後の「F先生の話」の時間です。帰り仕度をしてもらい、子どもたちを話が聞こえるように前に集めました。
この日に話すことは一週間前から決めていて、毎晩寝る前に頭の中で何度も繰り返しました。ときには、別れの場面まで想像してしまい涙した夜もありました。それだけ子どもたちに伝えたいこと、絶対に全員に聞いてもらいたかったのです。その話を武先生にも聞いていただきたいと思い、次に書いてみます。
「みんなの前で先生がお話するのは、今日が最後になります。それで、みんなに最後のお願いがあります。お話を聞く約束をしてください。みんなはときどき静かに話を聞くことができないときがあります。でも、今日は静かにお話を聞く約束をしてください。聞いているときおしゃべりしたくなっちゃう気持ちも分かります。でもそこをグッとがまんしておしゃべりしないようにしましょう。どうしても話したいことがあったら、先生のお話が終わった後で先生のところに来て一緒にお話しましょう。いいですか、約束守れる人、手を挙げて。」
ここまでは子どもたちはとても真剣に聞いてくれました。そして、全員が静かに手を挙げてくれました。「ありがとう、みんな守れるね。じゃあ約束したことを忘れないように、自分の手をグッと握ってください。
今日が最後だから、先生の『夢』について話します。先生の夢は学校の先生になることです。今はまだ本当の先生ではなくで先生になるためお勉強中なのです。学校の先生っていいなあと何となく思ったのは小学校6年生のときでした。よし!先生になるぞと思ったのは中学2年生のときです。でも、この夢はいつ叶うのかも分からない、遠い未来のように感じました。でもここまでやってきて、来年先生になるテストを受けで合格すれば先生になれるんです。大人になったら何をしたいか、もう決めている人もいるでしょう。その人は、絶対そうなるぞと思い続けてください。まだ何になるのか分からない人は、やりたいことを遠慮せずにやりましょう。きっと、とても好きなことが見つかります。
先生は、これからいっしょうけんめい勉強して、本当の先生になってみんなのところに帰ってきたいです。それまで友達と仲良くして、元気でいてください。楽しい学校生活を送ってください。」
ここで話を聞いてくれたことのお礼を言い、「写真立てになるお手紙」を一人一人に渡しました。もう最後は泣きそうで、話す声が震えていました。「先生、泣かないで」と励まされました。「先生、大好き」「さようなら、また来てね」子どもたちのこんな言葉に、この子たちに出会えた意味の大きさを感じずにはいられませんでした。
実習中、ずっと応援してくださった東小学校の先生方、支えてくれた子どもたち、そして私自身のためにも先生になる夢を実現しなければいけないと改めで思いました。
中学生のとき、武先生の『春の朝』の中にあった「三段階の目標をもとう」を読んで、実際に三つ書き出し、机に貼りました。いつの間にか、その紙はなくなっていましたがしっかりと心に刻んであります。
第一段階「かならずやり遂げなくてはいけない目標」
毎日勉強する
第二段階「困難だが、努力すれば到達できる目標」
学校の先生になる
第三段階「人としての生き方を鼓舞する目標」
夢と生きがいを持ち続ける
と書いたのです。「今年の目標」というふうに期間のない、漠然とした目標ですが、先生になる夢が叶ったら書き換えなくては、と思っています。
子どもたちに、夢は現実になるということを教えるためにもがんばらなくちゃなと思っています。 Mayu
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